FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in セブ島、マクタン島

♪おっかのうえ、ひぃなげぇしぃの♪マサよ!

ということで、とりたてて「アグネス・チャン杯争奪 香港飲茶ツアー」を開催する意向もないまま、香港まで足を運ばなければならないのは世界有数の海の美しさを誇るフィリピンセブ島の移動拠点として香港国際空港が単に交通の便がいいからに他ならないのだが、年末のあわただしい中何とかセブ島までたどり着くべく長い足をさらに伸ばすことにしたのだ。

12月27日(水)

年末恒例の空港の混雑をものともせず、さらにビジネスクラスへの無条件アップグレードを勝ち得た私は颯爽とNH909便B747-400機に乗り込み、機内映画のUDONを見ながらワインを飲んで伸びてしまったものの午後2時過ぎには香港国際空港に到着した。空港からバスで九龍に向かい、何故か東海観光の株主優待券を利用して半額で宿泊することの出来るドーセットシービューホテルにチェックインした後、香港一のメインストリートであるネイサンロードを南下してハーバーの方へ向かった。

たそがれ時の香港ハーバーは徐々に明かりが灯り始め、町中がいまだにクリスマスの余韻のイルミネーションに満たされている光景が浮かび上がってきた。対岸の香港島の高層ビルが醸し出す100万香港ドルの夜景を目の前にしてハーバーウォークを満喫しているとふとドラゴンへの道が切り開かれた感覚を覚えてしまった。すると目の前に香港最強のムービースターであるブルース・リーが「アチョー!」のポーズを決めている銅像が死亡遊戯を楽しむがごとく、道行く観光客の行く手を阻んでいたのであった!

12月28日(木)

世界有数の優良エアーラインであるキャセイパシフィクが誇るB777-300機、セブ行きは定刻より30分程遅れたものの、午前9時半には離陸し、正午過ぎにマクタン・セブ国際空港に到着した。入国後すぐに今回の宿泊地であるHilton Cebu Resort & Spaの看板を掲げた若者をとっ捕まえると車を手配させて早速ホテルに向かった。

12月中旬に予定されていたASEAN SUMMITが台風という口実で中止になり、その余韻の横断幕がむなしくあちこちに掲げられていたのだが、本当はテロの脅威が迫っていたため、ホテルの入り口では警察犬を駆使した慎重な安全管理がなされていた。ヒルトンホテルはマクタン島東海岸のリゾートホテルの中で最も新しく、3つのタワーがビーチを見下ろすようにそびえている。レセプションで提供されるグアバジュースを一気に飲み干すと11階の部屋にチェックインし、そのままビーチに向かった。

岩礁地帯に白砂を移植したであろう人工っぽいビーチの遊泳地帯はブイで仕切られており、餌付けされている熱帯魚がゆらゆらスイミングしている姿を間近で見ることが出来、また波がおだやかなのでシュノーケルにもってこいのコンディションであることが確認された。ホテルを出て半島の最端を目指して歩いているとそこはもはやリゾート地ではなく、単なる田舎の明るい漁村の様相を呈しており、屈託のない笑顔をたたえた原住民青少年少女が容赦なく、「アンニョンハセヨ!」と声をかけてくれるのであった。

12月29日(金)

早朝より、ビーチでシュノーケリングをしながら熱帯魚と戯れた後、徒歩で町に繰り出すことにした。

マサよ、君はセブ島へのツアー客の多くがマクタン島にとどまりセブ島に上陸しないまま去っていく事実を把握しているか!?

ということで、マクタン島北東に突き出た半島の付け根にマゼラン記念碑とラプラプ像が君臨している。世界的探検家であるマゼランは1521年にセブに上陸して以来、キリスト教の布教に精力を傾けていたのだが、マクタン島の酋長であるラプラプだけはこの侵略に戦いを挑んでいたそうだ。その結果マゼランはラプラプとはラブラブにならないまま殺害されてしまい、彼の野望は海の藻屑と消え、ラプラプは英雄としてその名を残しているのである。

マクタン島とセブ島は2本の橋で繋がっており、セブ本島に上陸しないとセブ島に来たことにはならないのでまずは第2マンダウエ・マクタン大橋を徒歩で渡りきることにした。橋の最高部にはこの橋が日本のODAにより建設された看板が誇らしげに掲げられており、また橋の上からはセブ本島とマクタン島の間の海峡を一望することが出来、そこにはリゾートエリアとは正反対のバラック系の居住地や廃船家屋がならんでおり、セブエリア原住民の本来の生活様式を垣間見ることが出来るのだった。

炎天下の中すでに10km以上も歩いて何とかセブ本島に上陸することに成功した訳だが、さすがにフィリピン第3の都市であるセブシティを持つ本島だけあり、広い道路と大きな船が行き来する港湾ファシリティが印象的であった。脱水症状を免れるために第1マンダウエ・マクタン大橋を渡り、マクタン島へと撤収する道すがら、橋の欄干が非常に低くマリンブルーの海に転落する恐怖を覚えながら何とかマクタン島へとたどり着いたのであった。マクタン島のとあるインターネットカフェ(P25/hr)でアンチウイルスソフトがインストールされていないPCでサーフィンの練習をした後、そそくさとホテルへの帰路を急いだ。

再び10数kmの道を歩きホテルに戻ったころには身も心もボロボロになっていたのでヒルトンリゾートの売りのひとつであるスパで人間性を取り戻すことにした。数多くのメニューの中から、スタンダードなマクタン・マッサージ(P2,400)を選択すると待合室にてジンジャーティーで一息入れた後、セラピストの案内で施術室へと案内された。まずはトイレ兼更衣室でスッポンポンになり、ガウンをまとったのはいいのだが、ベッドですぐにガウンを脱がされてうつ伏せにされ、フィリピンマダムからアロマ系のオイルを全身になすりつけられながら1時間もの恍惚の時を過ごすことになったのであった。

12月30日(土)

昨夜のスパでスパッと英気を取り戻すことに成功したので朝から海でひと暴れをと考えていたのだが、あいにくの嵐まがいの荒天だったため、11階の部屋からビーチとプールを恨めしげに眺めてこの島の上客はもはや日本人ではなく韓国人であることを思い知った後、ホテルをチェックアウトし、タクシーの運ちゃんに高額チップをたくして日本人の実力を思い知らせながら空港へ到着した。

CX920便にて晴天の香港に到着したのは午後4時近くになっていたため、そのまま空港バスに乗り込み香港島に向かった。楽天トラベルに予約させておいた港島太平洋ホテルは空港で入手した都市地図の圏外に位置していたため、場所を特定するのに街中を3時間程歩き回ったものの疲れを感じなかったのはスパのスバらしさであることを認識しながら香港での夜を過ごしていた。

12月31日(日)

NH912便、B767-300機にて午後2時半頃には帰国、その後引き続き次回FTBのアクティビティのために奔走。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥46,980(ANA)、HK$3,834.- (キャセイパシフィック)

総宿泊費 HK$1,548.1(HKD1 = \15.3)、P19,504.94(P1 = \2.4)

総香港バス代 HK$117.2

総香港トラム代 HK$2.0

総マクタン島車代 P770

総マクタン・セブ空港使用料 P550

協力 ANA、キャセイパシフィック航空、HiltonHHonors、東海観光、楽天トラベル

FTBSEAインド洋の真珠スリランカツアー

マサよ、君は外務省の海外安全情報(http://www.pubanzen.mofa.go.jp/)でスリランカに「十分注意して下さい」という警告が出されているにもかかわらずスリルを味わうために強行渡航し、刑事コロンボの活躍により、思いがけず現地が安全であることに気づかされた経験をしたことがあるか!?

2006年11月23日(木)

午前10時45分発ANA111便シンガポール行きB767-300ER機は定刻通り成田空港を離陸すると午後5時過ぎにはシンガポールチャンギ国際空港に到着した。空港からMRTに乗り込み、ハーバーフロント駅で下車するとシャトルバスにてセントーサ島を目指した。シンガポール最強のリゾートアイランドであるセントーサ島にS$2の入場料の支払いで侵入すると島内巡回バスに乗り、マーライオンタワー前で下車した。日もとっぷり暮れた闇の中で不気味な目を光らせているマーライオンタワーは本家のチャチなマーライオンよりもワイルドな作りとなっているのだが、それでも安っぽい印象をぬぐいさることは出来なかった。

チャンギ空港へと戻り、午後10時45分発SQ468便、シンガポール航空が誇るB777-200機に乗り込むと2時間半の時差を超えて深夜12時前にコロンボのバンダーラナーヤカ国際空港に到着した。空港のArrivalを出るとHilton Colomboの看板を掲げたおっさんが客待ち兼客引きのアクティビティを行っていたのでシャトルバスはないか聞いたところ、勝手に車を手配しやがったのでRs2000の支払いで午前1時過ぎには安全にホテルに到着することに成功した。

11月24日(金)

HiltonHHonorsゴールド会員の身分制度により17階のExecutive floorにアップグレードされていたので起き抜けに窓から外を見渡すとスリランカ随一の大都会であるコロンボの喧騒と目の前に広がるインド洋の洋々たる景色が広がっていた。ホテルはフォートという昔は島を防衛する砦があったのだが、今は行政と経済の中心になっている要衝地区に位置しているので街中では至るところに軍隊と刑事コロンボによる厳戒な警備体制が敷かれていた。

インドの喧騒を彷彿とさせるぺター地区では至るところがバザールでござ~るになっており、人ごみをかきわけて何とかセントラルバスターミナルにたどり着いた。排ガス規制のなされていない赤色の国営バスに乗り込み、エアコンなし窓全開状態で112kmの距離を3時間半もの時間をかけ、顔中すすだらけ状態になりながら古都キャンディに到着した。

世界遺産に認定されているキャンディはシンハラ王朝最後の都であり、遷都を繰り返したシンハラ王朝が16世紀末にたどり着いたのがこの地であり、それからイギリスの植民地となる1815年まで300年間の間、首都として繁栄したそうだ。キャンディの中心に19世紀初めに造られたキャンディ湖が佇んでいたのでまずは湖岸を一周してみることにした。

マサよ、君は陸の王者もびっくりするインドリクオオトカゲが水陸両用である事実に直面したことがあるか!?

ということで、キャンディ湖周辺を歩いていると♪そばかすなんて気にしない♪ほど色黒の少女に数多く遭遇することは想定の範囲内であったのだが、体調1mを超える巨大な爬虫類が水辺をノシノシ歩いたり、湖水浴をしている光景を目撃したことはマサに予想外であり、熱帯野生の王国スリランカの実力をマザマザと見せつけられた気がした。

キャンディ湖畔に佇んでいるスリランカを代表する仏教寺院として仏歯寺が君臨しており、ここに来なければスリランカに来たことにはならないと言われているので参拝させていただくことにした。土足厳禁の宗教ファシリティのため、靴を物じちにとられる必要があるのだが、靴を預けていると誠実そうに見える青年が仏歯寺の方ではなく、別のヒンドゥー寺院の方へ行けという合図をしたので黙って従うと彼が後からついてきやがった。観光地区恒例の頼んでもいないのにガイドを始めるという古典的観光商売の手法に乗せられていると気づきながらも心の優しい私は邪険には出来ないと思ったので奴のガイドに乗ってやることにした。

さすがに昔セイロンと言われていた島だけあり、彼の説明はすべて正論だと思われたので、とある寺院で日本人旅行者がRs2,000の寄付をしたというわざとらしいノートを見せつけられてそれがサクラ系だとうすうす感づいていたものの私もつられてRs1,000のお布施をしてしまった。その後シンハラ王朝の王宮系のファシリティ等を見学した後、ついに仏歯寺の境内(Rs500、写真撮影Rs150)に侵入することと相成った。

仏歯寺は肌色の壁に茶色の屋根で、シンハラ建築様式の八角形の堂が美しいバランスを保って建っており、お堂の中にはタイ、インド、日本等、世界各国の仏教国から拉致された仏像が奉納されているのだ。尚、仏歯の由来であるが、紀元前543年にインドでブッダを火葬した際、その中からやっとの思いで入手したブッダの歯を歯科技工士の加工を施すことなく奉納されているからであるが、この歯はセイロンで都が転々とするたびに一緒に運ばれてきたそうだ。

また、仏歯寺の見所のひとつとして故プレマダサ大統領に愛された象の剥製があり、そいつはキャンディを賑わす夏の風物詩であるペラヘラ祭では仏歯を背に街中を練り歩くという大役を長年務めてきたそうだ。今にも動き出しそうな巨象の剥製を見てゾ~としたせいかお布施を要求する象番の攻撃を自動的にかわすことに成功し、そのまま仏歯寺の境内に突入することと相成った。境内は至るところが鮮やかな装飾で彩られているのだが、最も印象的なのはブッダの一生が描かれている10数枚の仏教パネルであった。ところで仏歯寺観光を終える段階で押しかけガイドにUS$20もの大金をくれてやったので、お布施とあわせて間違いなく徳を積むことに成功したのは疑いようのない事実であったろう。

マサよ、君は日本でお払い箱になった払い下げバスがどこで余生を送っているか知っているか!?

ということで、キャンディからコロンボへの帰路にはインターシティという民営のバスを使ったのだが、エアコン完備のそのバスは昔日本で活躍していた仕様、外観そのものであった。尚、スリランカにはXXXXスイミングスクール、XXXX自動車学校、XXXX工務店という装飾が施されたマイクロバス等がそこかしこで活躍しているのだが、スリランカ人の日本語理解には一役も買ってないのではないかと懸念しながら冷房の微調整が効かない寒い車内でコロンボへ帰っていった。

11月25日(土)

早朝Hilton Colomboをチェックアウトするとインターシティバスターミナルでゴール(GALLE)行き(Rs150)日本製マイクロバスに乗り込み、インド洋沿岸南下ドライブと洒落込むことにした。バスに揺られて3時間程度経過した頃、オフサイドなしに相手チームのネットを揺さぶった時の快感を味わった感覚を覚えるとゴールに到着したことに気づかされた

世界遺産に登録されているゴール旧市街と要塞はもともとはアラブ商人たちの中継貿易港として栄えていた港町であったのだが、16世紀末にポルトガル人が入植し砦が築かれ、17世紀になると今度はオランダ人がその砦を拡張し、砦の中に町を造り、それが要塞都市ゴールの原型となっている。ゴールの町は半島を囲む砦の中の旧市街と、その北側の新市街に分けられるのだが、見所は旧市街に固まっているので赤茶色の石造りの時計塔をたよりに歩を進めることにした。ゴールには特にキーパーの姿も見あたらないので勝手に侵入することが可能であったので、まずは砦の上に沿って一周してみることにした。

土曜日の昼下がりということもあり、透明なインド洋に面する石砦にはゴールイン直前だと思われるカップルやアベックが溜まっており、フリーキックで壁を越えてネットを揺さぶりそうな熱気を充満させていた。一方、ビーチでは家族連れがのんきに海水浴やマリンスポーツを楽しんでおり、マサに沿岸部のワールドカップ状態と化していた。

ゴールには雨でのロスタイムも含めて90分ほど滞在し、決着が付かなかったが、延長戦を戦う気力も残されていなかったのでバスでコロンボに帰ってきた。Hilton Colomboで晩飯を食った後、ホテルに手配させた車に乗り込み、刑事コロンボの治安維持に感謝しつつ、そのままコロンボ空港まで引き上げることとなった。

11月26日(日)

午前1時10分発のSQ469便に搭乗し、深夜の機内食に目もくれることなく意識を失うと早朝シンガポール空港に到着し、午前8時45分発のANA112便にて帰国し、日本では刑事コロンボが着用しているトレンチコートが必要なほど冷え込んでいる現実に直面し、そのまま流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥9,220, シンガポール航空 = S$951.-

総シンガポールMRT代 S$3.8

総スリランカタクシー代 Rs4,000(Rs1=約¥1.1)

総スリランカバス代 Rs546

総宿泊費 Rs20,488

総仏歯寺ガイド料 US$20

総仏歯寺お布施 Rs1,300

協力 ANA、シンガポール航空、HiltonHHonors

FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in ビンタン島

マサよ、君はシンガポールの沖合いにお手軽リゾートが軽く浮かんでいることを知っているか!?

ということで、これまで飛行機の乗り継ぎ地点としてしか見なしていなかった中継貿易都市シンガポールであったが、高速フェリーを漕いでわずか45分程度で到着する夢の楽園の存在が確認されたため、急遽飛行機を飛ばしてその島の実態を確認するミッションが発生してしまったのだ。

11月2日(木)

高速フェリーをしのぐ早さで仕事をこなすことが出来る私は、軽く午前中で仕事を強制終了させるとその足で成田空港に向かい、午後5時25分発のANA901便シンガポール行きB767-300ER機に搭乗した。深夜12時過ぎにシンガポールチャンギ国際空港に到着するとここでの常宿に指定されたTransit Hotelが午前2時過ぎに予約していない不貞の輩に対する空き部屋を提供するのを待って、何とかひと部屋に潜り込むことに成功し、そのまま朝を迎えることとなった。

11月3日(金)

約6年ぶりのシンガポールへの入国を果たすと早速MRTでタラメラ駅まで移動し、そこから冷房なしバスに乗り換えてタラメラフェリーターミナルを目指した。インドネシアのビンタン島やバタム島へのフェリーを運航させているタラメラフェリーターミナルのチケットカウンターにて早速手の平と甲で連続して頬を打たれる感覚で往復ビンタンチケットを入手すると午前11時発のビンタンリゾートフェリーに乗り込みわずか45分の航海でインドネシアのビンタン島への到着を果たした。

フェリーターミナルのイミグレーションでつつがなくインドネシアへの入国を果たすと予約していたビンタンラグーンリゾートのシャトルバスが待っていたのでそそくさと乗り込むと10分程度で目的地に到着した。ホテルの正面玄関にバスが停車するのを待ちかねていたかのように数人の踊り子がウエルカム南国ダンスをかましているその間隙を縫ってロビーに到着し、チェックインを果たしたものの午後2時まで部屋の準備が出来ないということだったのでロビーで脳みそを溶かしながらボケ~と過ごしていた。無事部屋への侵入を許されるとそこで待っていたものは多湿地帯特有のほんのりとカビの香りを含んだオーシャンビューサンデッキテラス付きのラグジャリーリゾートルームであったのだ!

海パン、Tシャツ、ビーサンから構成される基本的リゾートの身なりを整えると巨大プールサイド地帯を抜け、海辺のマッサージギャルや野郎を横目に透明ビーチに繰り出すことにした。思ったより波が高いビーチは遊泳には不向きであるが、バナナボートやジェットスキー等のマリンリゾートには適しているようで打ち寄せる波に対して延髄切り等をかましていると丁度良い具合のトレーニングになることが実感されたのだった。

日もとっぷり暮れるとリゾートディナータイムを告げるかのようにシーサイドに灯火が灯り始めた。NELAYAN GRILLというシーフードレストランがビーチにテーブルを展開して指名料なしに新鮮な魚介を指名出来るので300gの現役ロブスターを発注し、波の音を聞きながら待っていると火傷したロブスターに変貌を遂げて私の前に現れた。ビンタンリゾートでの飲食代は通常のアジアンリゾートの相場を上回っているのだが、この優雅な雰囲気を少しでも味わえばすぐに元が取れ、しかもお得感が上回ることはすぐに実感出来るのであった。

11月4日(土)

早朝よりビーチのデッキチェアにごろ寝して波の音を聞いたり、プールにドボンしたりして時間をやり過ごし、各国バイキング料理の朝食で腹を満たした後、カビ臭いビンタンリゾートの部屋には備長炭で対策すべきだと考えながら午後1時過ぎにシャトルバスにてリゾートを後にした。ところでビンタン島のリゾート地区は北部の狭いエリアに限定されており、そこではシンガポールドルでの取引が行われているのだが、一歩島の奥に足を踏み入れると普通のインドネシアの田舎町が出現し、現地通貨であるインドネシアルピアでの安価な商売がなされているそうだ。

満席の午後2時発のフェリーにキャンセル待ちで潜り込むと1時間の時差を超えて4時くらいにシンガポールに戻ってきた。その足でバスとMRTを乗り継いでラッフルズブルバード近くにそびえる最高級レベルのホテルであるConrad Cetennial Singaporeにしけこんだ。高層階の部屋の窓からはメトロポリス特有の夜景がきらきらと展開され、図らずも優雅な夜を満喫することと相成った。

11月5日(日)

午前8時45分発NH112便にてシンガポールを後にすると着陸時に往復ビンタを打たれたような衝撃を受けながらも午後4時過ぎには成田空港に到着し、そのまま流れ解散となる。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥62,230

総宿泊費 S$518.85

総フェリー代 S$52.20

総MRT代 S$4.5

総バス代 S$1.6

協力 ANA、HiltonHHonors、ビンタンラグーンリゾート(http://web.bintanlagoon.com/

FTBJみちのくひとり旅2006 第2弾

♪たとえ~ どんなにぃ♪

ということで、秋も深まった今日この頃であるが、誰しも紅葉を見にいこうようという気持ちにさいなまれる瞬間があると思うが、どうせ見に行くなら日本の紅葉ランキングの1位に位置する奥入瀬渓谷に侵入し、正統派女優高木美保を那須高原に移り住むことを決意させ、その後農業派女優に変貌を遂げさせたその影響力が何であるのかの解明に乗り出すことにしたのだ。

10月28日(土)

ANA873便にて午前10時半過ぎに秋田空港に到着し、ニッポンレンタカーでスズキのワゴンRをレンタルすると早速秋田北部十和田湖方面にワゴンを引きずることにした。4時間弱のドライブでマウンテントラッド(http://www.mountaintrad.co.jp/)に予約させておいた日本秘湯を守る会の会員である日景温泉に到着したのは午後2時半を過ぎた時間であった。

秘湯ということで通常であればしなびたジジイ、ババアが老体に鞭打って受付作業を行っている旅館が圧倒的に多いことが予想されるのであるが、ここ日景温泉では秋田を代表する美人である桜田淳子とはタイプの違う桜田淳子に匹敵するアイドル若娘が♪よ~こそここへ♪といういでたちで迎えてくれてマサに野口五郎も度肝を抜かすほどの予想外の経験をすることが出来たのであった。http://www.mountaintrad.co.jp/akita/hkg/hikage/data.html

多少カビの香りがする広めの部屋にチェックインし、テレビがないという多少の不安感を楽しんだ後、早速総秋田杉造りの風呂場に参上し、アトピー等の皮膚病に良いとされる硫化水素を含む白濁したお湯に体を沈めることにした。明治26年に日景弁吉が開湯したと伝えられている日景温泉は「東北の草津」とも呼ばれ、三日の入湯で治癒する三日一廻りの霊泉として温泉の効果が広く知れ渡っていた。総ヒバ造りの大浴場は有害な硫化水素を十分拡散するために天井は高くとられており、一歩露天風呂に出ると森林に囲まれた山岳地帯により湯治と森林浴を同時に楽しむことが出来るように取り図られているのであった。

温泉で硫化水素というエネルギーが体内に満ち満ちてしまったのでそれを排出すべく矢立峠まで続く矢立遊歩道を散策することにした。樹齢400年前後の秋田杉が生い茂る日本三大美林である秋田杉林で十分すぎる森林浴を堪能すると丁度夕食の時間となった。秋田名物きりたんぽ鍋を食いながら郷愁に耽っていると温泉フリークおじさん二人組みが果敢にも話かけてきやがったので軽くいなしながら夜の9時前には床に着くという久々の健康的スタイルの生活を満喫することに成功した。

10月29日(日)

お約束の朝風呂アクティビティの後、田舎旅館の伝統的日本朝食を軽く平らげるとワゴンを転がす勢いでワゴンRに乗り込み十和田湖方面を目指した。古いソフトであるはずのカーナビ情報をうのみにしていると軽い獣道に紛れ込んでしまったが、何とか脱出に成功し、山岳地帯に広がるリンゴ畑を抜けると午前10時過ぎには奥入瀬渓流館に到着することが出来た。

十和田湖を源流とし、渓谷を14kmほど流れるその間に四季折々のすばらしい景色を現出させる奥入瀬渓流は日本最強レベルの紅葉の名所となっており、なるほどその渓流の景色ひとつひとつをスチール写真に切り取って見ると非常に幻想的な絵画となるのであるが、実際には渓流の脇を国道が通っており、ひっきりなしに流れる観光客の自家用車や観光バスのため、真の山岳地帯の渓谷美に比べると多少ありがたみが損なわれているのではないかと思われた。いずれにしても色とりどりの紅葉を見せる渓流や勢いよく水しぶきを上げる数々の滝を見ていると多忙な女優活動により自律神経失調症を引き起こした高木美保もそれなりに癒されたことは納得出来るのだった。

渓流の源流となる十和田湖は一大観光地帯の様相を呈しており、おびただしいほどの土産物屋の軒先にはイワナやホタテ、きりたんぽがジリジリと焼かれており、また、各種青森リンゴの見本市ともなっていた。十和田湖畔に高村光太郎の晩年の傑作である乙女の像が寒風吹きすさぶ気候にもかかわらず2体の裸像として絶好の記念写真スポットを提供していたのであるが像自体は何の変哲もない銅像だと思われた。

最後になりましたが、マサよ、内閣も変わったということでソフトバンク同様の予想外の消費税の引き上げを実行すると野口ゴロンボ刑事を笑殺するカマキリ男のカマキリ拳法が炸裂するぜ!!

FTBサマリー

総飛行機代 ¥20,200

総レンタカー代 ¥10,500

総ガソリン代 ¥2,945

総宿泊費 ¥9,500(2食付き)

協力 ANA、ニッポンレンタカー、マウンテントラッド

FTBJみちのくひとり旅2006 第1弾

♪たとえ~どんなにうらんでい~ても~ たとえ~どんなに明かりがほしくても~ 俺にはお前が最後のマサよ~♪

ということで、残暑厳しい今日この頃、凡人を代表するマサであれば夏の終わりのハーモニーを味わうまでもなく暑い夏をうらんで明かりを欲しがっていることが予想されるが、FTBJでは秋を先取りし、なおかつ夏の疲れをいやすためにみちのくを渡り歩き、秘湯を求めるツアーを敢行することにした。

9月2日(土)

午前9時15分発ANA873便秋田行きは定刻通り10時過ぎに秋田空港に到着すると早速ニッポンレンタカーでダイハツブーンというマイナーな小型車をレンタルすると一路田沢湖方面に向かってさわやかな晴天の中、ブーンブン車を飛ばしていた。約1時間半ほどの快適なドライブで田沢湖町近辺に到着し、さらに田沢湖を一望する田沢湖高原を抜け、乳頭温泉郷を目指した。

日本を代表する秘湯として名高い乳頭温泉という名前を聞くだけで思わず乳首を抑えてしまうような衝動に駆られてしまうのであるが、まずは温泉郷でもっとも古く江戸時代初めにはすでに名湯とされてた鶴の湯(¥500)に浸かることにした。歴史を感じさせる門構えを抜け、茅葺屋根に彩られた宿泊ファシリティの奥に牛乳のように白い湯をたたえた露天風呂が得も言えぬ雰囲気を醸し出しているので早速すっぽんぽんになって白い液体に身を委ねると日ごろの疲れも一気に吹っ飛んでしまうような癒しを堪能することに成功した。

鶴が飛び立つ勢いで鶴の湯を後にすると山道を下って田沢湖白浜のボート乗り場でしばしボ~としながらソフトクリームを食った後、再び田沢湖高原への山道を駆け上がり、秋田で最も高い山である秋田駒ヶ岳の情報提供と火山防災ステーションをセットで提供しているアルパこまくさというファシリティに寄り、最終的に乳頭温泉郷にある休暇村田沢湖高原にチェックインし、ぶな自然林に囲まれた露天風呂に浸かったり、秋田名物を含むバイキング料理に舌鼓を打ちながら去り行く夏を惜しんでいた。

9月3日(日)

早朝休暇村をチェックアウトするとブーンをブン回して十和田八幡平国立公園の八幡平に向かった。手始めに八幡平ビジターセンターにてウォーミングアップ程度の情報収集を行い、秋田県と岩手県の境に位置する八幡平の頂上を目指した。頂上近辺のレストハウスの駐車場に車を止めるとそこから2kmほどの道のりを1613mの八幡平山頂に向かって足を運んだ。高山植物の宝庫である八幡平の山道で可憐な花々が咲き誇っている光景を楽しみながら緩やかな散策をこなした後、このあたりの温泉・火山地帯を代表する後生掛温泉に隣接する後生掛自然研究路に向かった。

後生掛自然研究路は原始的な火山の見本地帯で、強烈な熱湯の噴出と、湯沼がみられ、軽めの坊主地獄や泥火山等、賽の河原系の景観を醸し出している天然系ファシリティである。自然研究路の途中に売店があり、そこで黒玉子という火山で茹でられカラが黒く変色したゆで卵(3個 = \180)を食って硫黄に負けない体力を蓄えて散策にいそしむことに成功した。

田沢湖町に秋田を代表する湯治温泉である玉川温泉が君臨している。この温泉は玉川温泉ビジターセンターを併設するほどの気合を見せているため、まずはその気合に応えるためにビジターセンターを訪問させていただくことにした。ここでの展示内容は焼山を中心とした火山活動や自然環境等この地域の地形や温泉がいかに形成されたかがひとめでわかる模型やパネル等であり、人も住めないような過酷な環境がいかにして温泉街へと発達していったのかをダイジェストで学習することが出来るのだ。

マサよ、君は理科の実験でビーカーの中の塩酸に浸された一円玉の気持ちになったことがあるか!?

ということで、満を持して八幡平の焼山山麓にある日本屈指の名湯地域に足を踏み入れることになったのだが、温泉地域はもうもうと硫黄が噴出す究極の賽の河原地域となっており、大噴という唯一の湯が湧き出す穴からは98℃の熱湯が毎分8600リットルも供給されている。また、岩盤浴といって火山で暖められた岩の上にゴザを敷いて天然オンドル状態で汗を搾り出すというアクティビティも盛んで、皆自らのひ弱な体を横たえられる場所探しに余念がない様子であった。

ところで、玉川温泉(¥600)のお湯のほうであるが、いくつかある浴槽は源泉100%のストレート、源泉50%のお湯割り等に分かれており、また箱蒸しや蒸気サウナ等のファシリティも完備されている。強酸湯で有名な草津温泉の数倍の酸度を持つ源泉100%に身を委ねると数分で溶解しそうな感覚を覚えたのでケロイド状態になる前に50%お湯割で肉体を正常ペーハーに戻して玉川温泉を後にすることにした。

ワイルドな温泉エリアに圧倒された八幡平や田沢湖町を去る前に再び田沢湖に戻り、深さ423.4mと水深日本一が醸し出す神秘な雰囲気と伝説の姫たつこ像の金色に輝く妖艶さを見て♪うしろ~がみひく かなしいこ~えを~ せなでたちきる みちし~るべ~♪という未練をアイルトンのようにせなで断ち切り秋田地区を後にしたのであった。

9月9日(土)

♪つきの~まつしま しぐれのしら~かわ~ きのうとあしたはちが~うけど~♪

というわけで、午前11:30発成田発仙台行きANA3131に搭乗し、仙台空港から空港バス、JRと乗り継いで午後2時過ぎに松島海岸駅に到着した。日本三景および奥の細道を代表する景勝地はおびただしいほどの観光客で混雑しており、行き交う車や松島湾内クルーズ船から排出される排気ガスの匂いが漂っていた。

観光の手始めとして中央観光桟橋に隣接する松島観光協会に程近く、赤い橋でつながる一番近い島に建立されている五大堂を見物した。坂上田村麻呂が東征の折りに建てたと伝えられているお堂は優雅な外形を誇っており、松島を代表する建造物として君臨している。

松島や ああ 松島や まつしマサよ !

ということで、景勝地松島エリアの中で松島発祥の地として名高い雄島に朱塗りの渡月橋を渡って上陸した。島内には多くの小窟があり、諸国の僧侶・巡礼が修行した後が生々しく残っている。また、島には芭蕉の句碑なども残っており、特に印象的なのは芭蕉が松島のすばらしい光景を見て絶句し、句を読めなくなったときに、私にとってのマサのような存在であったろう芭蕉の弟子である曽良がバックアップで句を読みやがったという事実である。

松島には当然のごとくおびただしい数の旅館やホテル等の宿泊施設が君臨しているのだが、東北本線松島駅前に旅館光が経済的な宿泊料で観光客の憩いを提供しているので麦飯石温泉で疲れを取り、新鮮な海の幸に舌鼓を打ちながら一句ひねる間もなくダウンさせられてしまった。

9月10日(日)

宮城県は独眼流政宗こと伊達政(マサ!)宗で有名であるが、松島観光エリアに伊達政宗歴史館(¥1,000)が数多くの渡辺謙ファンを集めているという実態を把握するために入場してみることにした。蝋人形で東北地区出身の偉人や伊達政宗の生涯を表現しているこの歴史館で政宗が豊臣秀吉に対峙した決死の覚悟の身の振り方を学び、財務省での出世競争に明け暮れることになるであろうマサに伝授するつもりはなく、白血病を発症する前の若き渡辺謙の眼帯姿にその後のハリウッド進出の野望を見取ることに成功した。

名勝松島とあいまって名高い東北随一の禅寺である国宝瑞厳寺(¥700)が伊達家の菩提寺としての歴史的風情をたたえているのでイタチの出てきそうな伽藍に詣でることにした。壮大な松並木の奥に佇む本堂や伊達政宗甲冑像等の貴重品を収蔵した宝物館を見物させていただいたのだが、特に印象的だったのは禅宗寺院の台所である庫裡の内部に鎮座している菩薩の隣で微笑む釈由美子の防犯ポスターであったのだ!

瑞厳寺の隣に政宗の孫光宗の菩提寺である円通院(¥300)が竜安寺の石庭を思わせる七福神庭園とともにスギ林、支倉常長が欧州遠征から持ち帰ったと伝えられるバラの庭を配しながら17世紀に誘ってくれるのでロマンを求めて入院させていただき、わび、さびと豪華絢爛を同時に堪能することに成功した。

マサよ、君は松島湾観光船「仁王丸」のデッキで仁王立ちで島巡りをしたことがあるか!?

というわけで、松島観光のハイライトは何といっても日本三景松島湾クルーズであるのだが、所要時間50分、航路17kmの松島湾内を巡る仁王丸(¥1,400)が午前9時から1時間毎に出航しているので午後12時の便に乗船することにした。すでに座席は満席状態になっていたため、仕方なく後方部のデッキに立ち尽くしたまま出航時間を迎えた。船内に流れる解説放送によると松島には八百八島あると言われているが実際には260の島しかなく、また航路上に現われる有名な島々に対して細かな説明がなされていた。さすがに松島と言われるだけあって大小各島々には松が生えており、それぞれが盆栽のような風情を醸し出していた。数ある島々の中で松の生えていないユニークな形をした岩島があり、それが松島のシンボル仁王島として君臨しているのだ。

仁王丸に乗船し、デッキに仁王立ちの状態で仁王島を見物するアクティビティを堪能し、船を下船すると全長252m、幅2.6mの出会い橋(¥200)を渡って福浦島に上陸した。この島には250余りの植物が自生し、その緑の茂みは幽境の小径を織り成し、絶好の散策路を提供しているのだった。

総飛行機代 ¥200

総宿泊費 ¥12,390(2食付) + ¥7,875(2食付)

総レンタカー代 ¥12,600

総ガソリン代 ¥2,760

協力 ANA、ニッポンレンタカー、日本三景交通、楽天トラベル

第3回カンガルーと一緒に地球環境問題をカンガェルーツアー in オーストラリア

グッダイ! マサよ!!

ということで、台風一過がもたらした猛暑のため意識が朦朧となっている勤労者が盆休み前のラストスパートの残業をこなしている頃、この台風が昨今の地球温暖化により加速されている現状を肌で感じ取っている私は、とりあえずこのモ~モ~とした暑さから抜け出すべく赤道を越えて北半球とは反対の季節感を堪能すべく、3回目のオーストラリア大陸への上陸を試みることにした。

8月11日(金)

ロンドンヒースロー空港での航空機爆破のテロ未遂事件が大々的に報道されているにもかかわらず成田空港第一ターミナル南ウイングの手荷物検査場は以外に少ない旅行客のせいもあってか通常通り無愛想に淡々と業務がこなされていた。

午後7時10分発予定のシンガポール航空SQ11便シンガポール行きは手荷物検査が厳しかったであろうロサンゼルスから到着する機材の遅れにより定刻より20分程度遅れて出発したものの、深夜の1時にシンガポールチャンギ国際空港に滞りなく到着することが出来た。

8月12日(土)

シンガポールに入国することなく、一夜を明かすことが出来るファシリティである空港ターミナル内のTransit Hotelを午前7時半にチェックアウトし、そのまま午前9時35分発のSQ223便でオーストラリア西海岸の最大都市であるパースを目指した。パースはオーストラリア全土の約3分の1を占める広大な西オーストラリア州の州都であり、世界で最も住みやすい都市としての地位を確立しているのだ。

定刻午後2時45分頃パース国際空港に到着すると空港バス(A$15)に乗りパースの都心部に侵入し、予約しておいたホテルイビスにそそくさとチェックインすると早速パース市内の散策に乗り出すことにした。パースの中心をぶち抜くように流れているスワン川のほとりには見たこともないような広さの芝生の広場が広がり川べりにはジョギングで汗を流すランナーやサイクリングロードを駆け抜けるチャリンコ野郎やローラーブレーダーが気温20℃以下のさわやかな気候に身を委ねていた。

高層ビルの林立する都心部に足を運んでみるとバーの軒先でビールを飲みながら週末のトワイライトを楽しんでいる陽気なオージーの面々に遭遇し、ふと地球に迫っている環境問題をカンガェル~ことを忘れさせてくれるのんきな雰囲気を漂わせている。また、街中には日本語の案内や看板も見られ、通常の日本食屋どころか回転寿司さえ君臨し、しかも客の回転も良さそうな様子が見て取れた。

8月13日(日)

早朝より雨のそぼ降る中、ダウンタウンのエイビスレンタカーで5速マニュアルのトヨタカローラをレンタルするとパースの約250km北にあるナンバン国立公園を目指した。一気に都心部を抜けると道は片側一車線対面交通でありながら110kmのスピードが出せる1号線へと移り変わった。カンガルーやワラビー等の野生動物の棲んでいるブッシュを駆け抜けていると路肩には車にはねられたカンガルーの遺体が痛々しく転がっている光景が目に飛び込んでくる。不幸にも事故死してしまったカンガルーのはかない人生をカンガェル~暇もなく、西オーストラリアを代表する景勝地であるザ・ピナクルスへ到着した。

日本のCMやドラマの撮影で有名になった「石化した原生林」ザ・ピナクルス(A$10)は太古の昔、海辺だった一角に貝が堆積し石灰岩質の土台を作り上げた。そこに深く根を張った原生林が枯れた後、大地が風化されていき、根の間に残った石灰岩層が塔のように残って出来た奇景である。「荒野の墓標」という異名がぴったりなほどあちこちに人間の背丈ほどもある化石が林立する様はマサにこの世の終わりを感じさせる諸行無常系の観光ポイントである。

マサよ、君は35億年前から存在している世界最古の生物の存在を知っているか!?

ということで、ナンバン国立公園の塩湖にストロマトライトという先カンブリア代にすでに地球上に棲息していたといわれる生物の観察を実行することにした。ストロマトライトとは藍藻類という繊維状の微生物の間に海水中の石灰砂や細かな沈殿物が入り込んだり、堆積したりしながら成長したものであるが一見すると何の変哲もない岩にしか見えないので塩湖の近くには説明用の看板が欠かせないのである。

マサよ、君はオーストラリアくんだりまでのこのこやって来てツチノコに遭遇したことがあるか!?

というわけで、ナンバン国立公園内の黄砂の大地で車を転がしていると太い胴体をノコノコと揺らしながら道路を横切っていくツチノコ系の爬虫類をあやうく轢き殺しそうになり動揺してしまった。車から降りてその生物をマジマジと観察させていただくと外見はツチノコ状であるものの胴体には短い足がインストールされており、また、接近して脅かすと口を開けて反撃をするポーズを取るほどの闘争心を持ちながら逃げ足が遅いという生態が観察された。その生物はbobtail skinkというトカゲの一種でこの地に広く分布していることがナンバン国立公園のパンフレットで確認されたのだ!

8月14日(月)

パースの東100kmほどのところにヨークという英国風田園風景を演出する魅力的な小さな町があったのでよ~く観察するために古い建物が数多く残るダウンタウンに侵入し、ヨーク自動車博物館(A$8)を見学した。ここにはビンテージからレーシングカーまで数多くの珍しい車が展示されており、日本が誇るポンコツ豆ぐるまであるスバル360やホンダS800の勇士も見られたのだ。

ザ・ピナクルスと並ぶ西オーストラリアの自然が造り出したオブジェであるウエーブ・ロックを見物するためにヨークから赤茶けた大地の上をさらに4時間程度カローラを転がすことと相成った。ウエーブ・ロックを要するマイルドなリゾート地の様相を呈したキャンプサイトに午後2時過ぎに到着すると先着の中国人観光客グループの後を追う形でウエーブ・ロックの見物に向かった。稲村ジェーンを髣髴とさせる高さ15mもの巨大な波があたかも一瞬にして固まってしまったかのように見えるこの奇岩は花崗岩から出来ており、長年の侵食によって波のような模様が形成されたのであるが、観光客はお決まりの波乗りのポーズで不安定な足場の上で記念写真を撮っていた。また、ウエーブロックの上に登るとそこは岩場状の大きな広場が形成されており、ごろごろと転がっている丸い岩をはじめ広大な景色を見渡して壮大な気分を満喫することが出来るのだった。

ウエーブロックを後にしてパースへの帰路を急いでいるとあたりは既に暗くなっていた。いたるところにカンガルーマークの動物飛び出し注意の看板が掲げられているのだが、案の定路肩のブッシュからワラビーがビヨンビヨンと飛び出してきやがり、あやうく轢きそうになるところだった。ところでカンガルーのような有袋類を車ではねた時の対処法であるが、犯人は決してひき逃げをすることなく、まずは有袋類の袋の中を調べなければならない。これは金品や優待券のような貴重品を奪うのではなく袋の中に子供が入っていればすみやかに当局に通報してレスキューを要請する義務をまっとうするための当然の行為なのである。

8月15日(火)

早朝より降りしきる冬の雨の中、パースから1時間ほど海沿いを南下してマンジュラというリゾート地に到着した。ここにはマンジュラ河口というイルカたちが生息している内海があり、夏場にはドルフィンスイミングが可能で誰でも気軽に元祖♪イルカに乗った少年♪である城みちるの気分を味わうことが出来るのであるが、今日は風も強く天候の移り変わりが激しかったため、おびただしい量のポテトが付属しているフィッシュアンドチップスを食して退散するしかなかった。

パースに戻る道すがらスワン川がインド洋に注ぐその河口に存在する古風な町であるフリーマントルに立ち寄った。残念ながら開館時間の都合でフリーマントルの見所である、昔アボリジニを拉致していた旧フリーマントル刑務所や博物館に侵入することが出来なかったので海沿いの灯台の下でポテトを投げてカモメに餌付けをしてお茶を濁すしかなかった。

日もとっぷり暮れてしまったのでパース随一の夜景スポットであるキングス・パークの展望地、州議事堂の噴水前からきらめく高層ビル群のライトアップを眺めてロマンチックな雰囲気に浸った後、夜の繁華街ノースブリッジで最後の晩餐をこなした後、パース国際空港に帰って行った。

8月16日(水)

シンガポール航空が間借りしているカンタス航空のラウンジでビールとワインで酔いをまわした後、午前1時5分発のSQ216便でシンガポールまでひとっ飛びし、さらに9時45分発SQ12便東京行きに乗り換えて夕方6時前には成田に到着し、そのまま流れ解散となる。

FTBサマリー

総飛行機代 \185,006

総宿泊費 S$57.75, A$281.85(A$1 = \90)

総空港バス代  A$15

総レンタカー代  A$321.99

総ガソリン代 A$178.57

総走行距離 1,875km

総目撃した車にはねられたカンガルー数 5頭

FTBもっと北の国から from デンマーク、ロシア with 狩人

ア~ア~、ア ア ア ア ア~(song by さだ マサ!し)

プーチン、じゃなかったマサよ~、君は北方領土返還のための身代官僚になる覚悟があるか!?

というわけで、これまで松山千春とともに♪めぐる季節の中で♪何度も北海道東部の沿岸部を歴訪し、鈴木宗雄よろしく「北方領土かえせ~!」と叫んできたが、ラチがあかなかったので今回はついに日本から北方領土を奪い去った国に上陸し、逆方向の観点から何とかならないかとりあえず検討してみることにした。

2006年7月15日(土)

スカンジナビア航空が誇る成田発コペンハーゲン行きSK984便、エアバスA340-300機に搭乗するといつものヨーロッパ便が飛行する新潟航路ではなく、稚内航路を飛行している様子がフライトマップに映されていた。これもひとえに悪の北の国から発射されたジョン・イルのへたくそなミサイルの脅威回避のためであるのだが、飛行機は定刻通りの午後4過ぎにコペンハーゲン空港に到着した。

今回のツアーではデンマークで北方地方での生活のための体を慣らすためにコペンハーゲン空港から列車(DKK27)でコペンハーゲン中央駅に向い、駅前のツーリストインフォメーションで情報を入手した後、再び列車に乗り、グロストラップという町で下車した。Hilton HHnonorsグループでスカンジナビア半島を仕切っているScandicというホテルがあるのだが、実は払い戻し不可の事前予約を一週間前の7月8日泊で設定してしまっていたため、丸々DKK485を損してしまったリベンジを果たすためにマサであればDKK485くらいかかるところをHilton HHonorsのポイントを使って私はただで宿泊することが出来るScandic Glostrupにチェックインすると白夜にもかかわらず早々と意識を失わさせていただいた。

7月16日(日)

早朝ホテルをチェックアウトするとSトレインというコペンハーゲン近郊を走る列車に乗り、空港に向った。午前10時25分発SK734便、MD81型機に乗り込むと2時間の時差を超えて午後3時前にモスクワのシェレメチェヴォII国際空港に到着した。

ということで、ついに念願のロシアに足を踏み入れることになったわけであるが、ロシアの巨漢ボクサー、イワン・ドラゴになぶり殺しにされた親友のアポロ・クリードのリベンジに向かうロッキーのような緊張感で入国審査を迎えることとなった。イミグレーションでガイド本を見なければ決して書き込むことが出来ない入出国カードに必要事項を記入すると入国を待つ客人達の最後尾に並び、厳かに自分の順番の来るのを待っていた。すると「FUKUDA」という私の名前の入ったサインボードを透明な壁越しにせわしげに掲げながら私の姿をさがしているおばちゃんに遭遇した。旅行会社を通してあらかじめ空港からホテルまでの送迎サービスを予約しておいたので関係者がすでにスタンバイしている状況が即座に確認されたのであった。

約1時間経過後、何とかロシアの入国を果たすと待ちきれなかったというそぶりのおばちゃんに即座に拉致され、そのまま税関で何も申告することなく旅行会社のカウンターに連れて行かれて無愛想なロシア人おじさんの運転手を紹介された。おじさんの運転するおんぼろ系のロシア製セダンは120km以上の猛スピードで前を走る車を次々に抜かしながら、腰を抜かしそうになる私を尻目に高速道路か一般道か区別がつかない道路を疾走した。途中ガス欠系かと思われる車両トラブルで路肩に車を止めて対応したもののつつがなく予約していたウクライナホテルに到着した。

モスクワ川右岸に位置するスターリン・クラシック様式の29階建て☆☆☆☆ホテルであるウクライナはモスクワ最大級の大きさを誇っている。早速Receptionでバウチャーを渡してチェックインするとレギストラツィアという滞在登録を行うために1時間ほどパスポートをフロントに預けなければならなかった。

今日は到着した時間も夕刻になってしまっていたので、ホテル周辺の軽い散策とU.S.ドルからロシアの通貨であるルーブル(P)への両替とホテル内レストランであるウクライナでボルシチと骨抜きにされた虹鱒の焼き物系のディナーを食ってとっとと休ませていただいた。

7月17日(月)

曇り空から滴り落ちる小雨模様にもかかわらず、早朝9時過ぎから念願のモスクワの散策に乗り出すことにした。ホテルを出てモスクワ川にかかる橋を渡り、目抜き通りのひとつである新アルバート通りを東に向かって20分ほど歩くとメトロの地下道に行き当たったのでそこをくぐるといきなり目の前に巨大な赤の城壁が現れた。この城壁の内部はいわずと知れたクレムリンであり、入り口には10時の開門を待つおびただしいほどの観光客が群れをなしていた。

とりあえずクレムリンの周辺を一周してみることにしたのだが、次々と目の前に現れる赤を基調とした建造物群に初めて来た観光客は一様に度肝を抜かれている様子であった。無名戦士の墓という第二次世界大戦でナチスドイツと戦い命を落とした兵士を奉っている記念碑の前には直立不動の衛兵が陣取り、写真を撮る観光客に対してもしきりに無関心を装い、前方をまっすぐ見据えたままであった。

ヴァスクレセンスキー門というスターリンの命により1931年に破壊され、ソ連崩壊後の1995年に再建された門をくぐるとかの有名な赤の広場に足を踏み入れることが出来た。赤の広場はクレムリンの北東の城壁と赤レンガ造りの国立歴史博物館、グム百貨店、ねぎ坊主が眩しい聖ワシリー聖堂に囲まれた広さ7万3000平方メートルを誇るロシアを代表する世界遺産広場である。一気に赤の広場を突っ切るとロブノエ・メストというかつてここから皇帝が全国に布令を読み上げ、重罪人の処刑を実行した石柵で囲った小さな円形の台をちらっと見やった後、聖ワシリー教会の前でオープン時間の午前11時が来るのを待っていた。

聖ワシリー聖堂(P100)の前には1612年にポーランド軍を撃退したミーニンとバジャルスキー像が英雄のポーズを決めており、豪華絢爛なねぎ坊主たちに彩りを添えている。1561年に竣工したこの聖堂を設計した建築家の二人は出来上がったものがあまりに美しかったため、2度とこんな美しい建造物が出来ないようにイワン雷帝の命により目をくり抜かれてしまうというとばっちりまで食らってしまったのだが、イワンこっちゃないと言われたかどうかは定かではない。

赤の広場を囲む一角にグム百貨店という日本橋三越本店に匹敵するデパートが君臨しているのでひやかしに入って見ることにした。店舗のほとんどは外資系ブランド物屋で占められているが、3階建ての中の構造は吹き抜けになっており、おしゃれな雰囲気を醸し出しながら観光客から外貨を稼ごうとしているかのようだった。

あざやかなレンガレッドで建造された国立歴史博物館(P150)が赤の広場の北側に陣取っているのでロシアの歴史を学習するために入場させていただくことにした。ここには革命以前のロシアの全歴史に関する資料が展示されており、特に「はじめ人間ギャートルズ」が暮らしていた時代に大掛かりな罠をしかけてマンモスを捕まえていた様子等が印象的であった。

赤の広場とその周辺のファシリティを十分堪能することに成功したのでモスクワ川沿いを下って救世主キリスト聖堂まで移動してみることにした。1883年に完成したこの聖堂は革命後の宗教弾圧によりスターリンの命によって爆破され、ソ連崩壊後の1999年に再建された新築であり、今では異様な存在感で川べりに立ちふさがっているのだ。

モスクワを代表する楽しい通りとして歩行者天国のアルバート通りを素通りしてみることにした。この通りにはおしゃれなカフェやレストラン、土産物屋が軒を連ねており、またおびただしい数の似顔絵書きが見た目よりもいい感じで観光客の容貌の特徴をとらえようと精を出していた。

7月18日(火)

マサよ、君はロシアの心臓部に侵入し、心臓が止まるほどの感動に打ち震えたことがあるか!?

というわけで早朝より地下鉄(P15)を転がして昨日じっくり下見しておいたクレムリン周辺部に満を持して繰り出すことにした。午前10時開園の直前に何とかクレムリン(世界遺産、P300)の入場チケットを入手することに成功するとかつてアメリカのホワイトハウスと勢力を二分していたソ連邦の中枢に侵入することと相成った。クレムリンの内部には観光客用の歩道が整備されており、観光客が少しでも歩道を反れるとカラシニコフで銃殺される代わりに笛で警告される仕組みを目の当たりにしながら、中心部に進んで行った。

クレムリンには当然のことながらクレムリン大会宮殿や大クレムリン宮殿等の観光客には公開されていない政治の中枢的なファシリティがあるのだが、観光客が見物を決め込むのはサボールナヤ広場にある聖堂群である。広場はウスペンスキー大聖堂、ブラゴヴェッシェンスキー聖堂、アルハンゲンスキー聖堂、十二使途教会等に囲まれ、それらの教会は15世紀~17世紀に建造されたいずれもロシア正教に由来する代物である。

また、クレムリン内部には色とりどりの花々が美しい庭園や「大砲の大帝」という世界最大の口径を誇った大砲でありながら、実は一発も発砲したことがない無用の長物や「鐘の大帝」という高さ6m、重さ200トンの世界最大の鐘にもかかわらず、鋳造中の火災によりあわてものの輩が鐘に水をぶっかけて鐘にひびが入り、一部が欠け落ちていまだに誰もその音色を聞いたことが無いという不遇な鐘が観光客の好奇の目にさらされながら余生を送っているのである。

というわけで、北方領土はさておき、ロシアに来てここに来なければロシアに来たことにならない観光名所を十分堪能することが出来たので、その足でクレムリンを退場し、ロシアのバレエ、オペラの聖地であるボリショイ劇場に向かうことにしたのだが、あいにく改装中で見る影も無かったので、メトロポールホテルでロシア革命議会が開かれたレーニンの面影をたどるにとどまってしまった。

クレムリンの南西にノヴォデヴィッチ修道院が1524年に建立された中世のいでたちで君臨しているのだが、休館日だったので外壁と塔の先端のみ垣間見てボリショイ・モスクワ国立サーカスのアリーナに向かった。残念ながら、サーカスのシーズンは9月下旬から始まるらしく、アリーナの周辺は閑散としていたため、日本に帰って安田大サーカスで我慢するしかないものと思われた。

ロシアでは超能力の研究が盛んであり、超能力を使った病気の診療システム等も発達しているのだが、その中枢にロシア最高学府のモスクワ大学が君臨しているのでバビル二世に匹敵する超能力を見につけるために校内に侵入したのだが、放課後だったため、仕方なくヴァラビョーヴィの丘からモスクワを一望することにした。ここからの眺めはすばらしく、私の常宿である巨大なウクライナホテルや遥かかなたにクレムリン等を見渡すことができる。また、隣にラージヒル、ノーマルヒルのスキーのジャンプ台があり、熱心なジャンパーが雪の無いジャンプ台から大空に舞い下がっている様子を垣間見ることが出来た。

7月19日(水)

マサよ、君は生レーニンの姿をこの目で凝視したことがあるか!?

私は・・・凝視してしまった!!!

ということで、すっかり赤の他人とは思えなくなってしまった赤の広場に3日連続で登場するとおびただしく長い行列の最後部に並んで見ることにした。その行列は赤の広場のクレムリンの城壁の中央にある小ピラミッドのようなオブジェに続いていたのだが、即座にそれがレーニン廟(無料)への入場を待ちわびる観光客の群れであることに気づかされた。1時間半ほどの入場待ちで20数秒間レーニンとの謁見を許されたのであるが、正装姿の彼はハリウッドの特殊メークさながらの遺体保存技術で数多くの衛兵に見守られながら安置されていた。また、レーニン廟に入るためには帽子を脱いで静粛にしなければならず、徳永英明であっても♪レイニーブルー♪を口ずさむことさえも許されないのである。

レーニンとの謁見を果たしながらも♪壊れかけのラジオ♪の雰囲気を引きずりながらレーニンの指導したロシア革命の資料も展示されている近代史博物館(P150)に乗り込んだ。ここには日露戦争で活躍した偉い日本人だちの資料や第二次世界大戦時のナチスとの戦いの歴史を学習するのに最適な生きた教材がふんだんに取り揃えられているのだ。

世界ではじめて宇宙に人を送り出した技術を自慢するための宇宙飛行士記念博物館を訪問したのだが、閉館日のようだったのでとりあえず天高く伸びるオベリスクの先端のロケットを見て首のストレッチをした後、トレチャコフ美術館(P240)に移動し、12世紀以降のロシア美術の名作と美術品見物に来ている人々の見物に精を出すことにした。さすがにロシアを代表する美術館だけあって貴重な絵画や彫刻が展示されているのだが、それらを見に来ている輩も八頭身、色白足長美女で美術館に彩りを添えているのだ。

7月20日(木)

早朝より散歩ついでにロシアのクトゥーゾフ将軍がロシアに侵入したナポレオン軍に戦勝した記念に建てられた凱旋門で凱旋した後、ボロディの戦闘パノラマ館の見学に乗り出すことにした。ここはマサにナポレオンのロシア遠征でロシア軍がナポレオン軍に大打撃を与えたボロディノの戦闘に捧げられた博物館であり、円筒形のドームの内部には戦闘の様子を詳細に模写した3D系のパノラマを味わうことが出来るファシリティである。

というわけで、ついに第一次ロシア遠征も終焉を迎えることとなり、ウクライナホテルにチャーターした送迎車に乗り込むと一路シェレメチェヴォII国際空港を目指し、イワン・ドラゴをKOして見事アポロ・クリードのリベンジを果たし、「数百万人が殺し合いをするよりも2人で殴り合いをするほうがましだ!」という演説をぶった勢いでコペンハーゲンに帰っていった。

7月21日(金)

既にコペンハーゲンにおけるFTBの定宿となったScandic Copenhagen Glostrupの最寄駅からSトレインに乗り、コペンハーゲン中央駅に繰り出した。小雨そぼ降る午前中の雨宿りも兼ねてまずは国立博物館に侵入して北欧の歴史をたどってみることにした。館内の展示物はデンマークの古代、氷河期から19世紀に至るまでの歴史的なコレクションのみならず、エジプト、ギリシャ、ローマ時代の遺物もカバーしており、特にヴァイキング時代の展示は食いしん坊も万歳するほど食べ放題の様相を呈しているぐらい充実していたのだ。

雨も上がったところで本格的なコペンハーゲン中心部の散策に乗り出すことにしたわけだが、まず、女王の居城であるアメリエンボー宮殿に参上し、親のすねをかじっている多くの甘えん坊とともに衛兵交代式を見学させていただいた。さらに沿岸部を北上するとコペンハーゲンのシンボル、アンデルセン童話で有名な人魚姫の像を見物し、松田聖子よろしく♪わたし はぁだしぃのマーメイド こぉむぎ 色なのォ♪系の色目を使いながら人魚姫に寄り添って記念写真を撮っている観光客を見下していた。

クリスチャンボー城という現在は国会議事堂として使用されているファシリティの城内見学ツアー(DKK60)に参加し、女王謁見の間とそれを取り巻く豪華な間や会議室に入り、以前日本の天皇もお邪魔したことがあると聞いてしきりに感心した後、観光客や原住民で賑わう大通りでソフトアイス(DKK20)を買い食いしながらダウンタウンの散策をしているとミュージアムエロチカ(http://www.museumerotica.dk/uk/index.htm)という夜の生活には欠かせない博物館が賑わいを見せている様子を横目にチボリ公園に向かった。

1843年に開園したチボリ公園(DKK75)はコペンハーゲン中央駅の目の前に位置しているという好立地条件もあり、また、開園期間が春~秋とクリスマスに限定されているため現在は多くの来園客で大変な賑わいを見せている。最近絶叫型ハードウエアのバージョンアップを行ったということで乗客のセキュリティを保証する一方でスループットも早くなったと言われているのでもはやIBMに買収される心配はないものと思われる。大人も子供も楽しめる複合型エンターテイメント空間のチボリが最大の真価を発揮するのは午後9時以降である。園内の劇場では華やかなモダンバレエのショーが繰り広げられ、また特設ステージではロックコンサートが開催され、立錐の余地もないほどの観客がほろ酔い気分で乗り乗りになってしまうのだ。また、園内には数多くのレストランがあり、そのうちのアジアン麺フードを提供するWAGAMAMAで飯を食うためにWAGAMAMA Noodleを発注したのだが、ウエイトレスの愛想の良さにもかかわらず、味はマサにわがままそのものだった。

7月22日(土)

早朝ホテルをチェックアウトし、コペンハーゲン中心部に繰り出すと緑多き植物園とデンマーク王室の住居であるローゼンボー宮殿を散策し、ロイヤル気分を満喫するとそのままダウンタウンでソフトアイス(DKK16)を食った後、空港迄戻り、午後3時発SK983便で東京へと帰っていった。

7月23日(日)

マサよ、君は生狩人が歌う生♪あずさ2号♪を聞いて信濃路に思いを馳せたことがあるか!?

私にとって今もまぶしいひとつの青春であるはずの狩人が八王子くんだりまで来て健康ランドで営業をぶちかますという話を風の噂で聞いていたので帰国後速攻で繰り出すことにした。八王子健康ランドふろっぴぃに午後4時ごろ到着すると早速垢すり場で「赤の広場」で積層されたはずの垢をすりおろしていただいた後、宴会場に陣取り狩人のステージが始まるのを今か今かと待ち構えていた。

午後6時に素人ナレーターの「常に獲物を狙うハンターのようであれと作曲家都倉俊一が命名した」という狩人の名前の由来に続き、狩人がステージに登場すると♪コスモス街道♪でステージの幕が上がった。約1時間あまりのステージは狩人のヒット曲が少ないため、途中兄弟漫談や物まね等を差し挟み最大の山場の♪あずさ2号♪に差し掛かると場内は最大の盛り上がりを見せた。しかしラストは引きが悪いということで♪世界でひとつだけの花♪という捨て台詞的歌で狩人は次の獲物を狙うべくハンターのように去って行ったのだった。

天声入語

先週裏の仕事で一週間ほど滞在したドイツの女性は方眼紙の一角に正確にサービスエースを決めるシュティフィ・グラフのような厳し系のギャルが圧倒的に多かったのだが、ここモスクワではFTBの統計によると23%はマリア・シャラポア系の妖精ギャルであることが確認された。付け乳首はないものの数多くのシャラポアギャルを見ながらニヤニヤして歩いていると街中にはびこる不良警察官から職務質問され、あげくの果てには賄賂を要求されるので注意しなければならない。従ってロシアの町を歩くときは伊達公子も恐れるシュティフィ・グラフの顔つきが要求されることになるのだ。(総)

ロシア・モスクワ旅行情報

*ビザ・招待状 – 社会主義から自由主義に移行したものの未だにロシア国内の自由旅行は許されていないのでロシア旅行を所望する輩はロシアの旅行社から招待状を入手しなければならない。今回FTBの子会社になるであろうJIC旅行センターを通じ、ロシアのVAO INTOURISTより招待状を入手し、何とか観光ビザの入手に成功したわけである。

*モスクワの地下鉄 – モスクワの地下鉄網は路線の多さもその色使いも東京メトロや都営線に匹敵するものを持っているのだが、深さはほとんど大江戸線並みの深度を誇っている。何でも要人の核シェルターにも転用可能であるとも言われているのだ。

*パスポートコントロール – ロシアの町並みにはおびただしいほどの警察官が目を光らせている。彼らは道行く観光客のパスポートをチェックし、ビザやレギストラツィア等の書類が不備であれば即座に罰金をふんだくろうと虎視眈々とカモを狙っているのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥240,420

総宿泊費 ¥74,000 + DKK570(DKK1 = ¥20.1)

総無駄にした宿泊費 DKK485

総コペンハーゲンS鉄道代 DKK189

総モスクワ地下鉄代 P90(P1 = ¥4.4)

総送迎代 ¥13,400

総ロシアビザ取得手数料 ¥5,250

総ロシア旅行手配手数料 ¥4,200

協力 スカンジナビア航空、HiltonHHonors、ジェイアイシー旅行センター、VAO INTOURIST、八王子健康ランドふろっぴぃ、

狩人(http://www.karyudo.jp/

FTBJ北の国から2006ウトロ(知床旅情)

♪ア~ア~、ア ア ア ア ア~♪

じゅん、じゃなかったマサよ~ォ、君は最近世界遺産に認定された日本の北の秘境に足を踏み入れたことがあるか!?

ということで、梅雨入りした関東地方のじめじめ雰囲気から逃れるべく人知れずシレッと知床まで足をのばし、温泉でも足を伸ばしながら知床旅情を満喫する旅に出ることにしたわけで・・・

2006年6月10日(土)

午前8時55分発ANA741便B767-300機は国際線に使用されるAir Japanの機材だったため、私が座っていた5Cのシートはビジネスクラスのシートだったわけで、1時間半程度の快適な空の旅で10時半過ぎに雨降る釧路空港に到着したわけで・・・

空港のニッポンレンタカーでスズキの小型車をレンタルし、「動物は交通ルールを知りません」という衝撃的な標語を胸に刻んで一路北東に車を走らせたわけで・・・ 標津町のとある回転寿司屋で皿の色と値段のマッチングに注意しながら寿司を食い、吉岡秀隆に三行半をつけた内田有紀を漁港で発見出来るかも知れない羅臼に入り、さらに知床峠を越えて知床半島の一大温泉街であるウトロに着いたのは午後4時近くになっていたわけで・・・

予約していた民営国民宿舎桂田でオホーツク海を見下ろすことが出来るウトロ温泉の露天風呂でウトロウトロした後、午後6時過ぎに供出された夕食の量は大量の海の幸、帆立貝じりじりあぶりホタテバター焼き、鹿のすき焼風鍋等着火マンを三つも使い、しかも丸ごと毛蟹、鮭親子丼と夕張メロンで締めるという豪華絢爛なものであったため、食後は必然的にノックアウトさせられてしまったわけで・・・

6月11日(日)

早朝8時過ぎに桂田を引き払うと知床八景のひとつである知床五湖に向かった。ヒグマ出現アラートにより、一湖とニ湖しか散策出来なかったが、知床では1,2を競う人気スポットであるため、おびただしい数の観光客が熊よけの鈴を鳴らしながら整然と歩いていたわけで・・・

ウトロ港の近くに高さ60mのオロンコ岩がそびえているので登頂し、平坦な頂上からオホーツク海を見下ろしながら雨上がりのオロンコ岩の遊歩道をドロンコにならないように注意しながら一周したわけで・・・

ほたるぅ、じゃなかったマサよよ~ォ、君はゴジラ岩を知っているか!?

ということで、ウトロ漁港周辺には数多くの土産物屋とともに知床観光船のクルーズの客引きで賑わっているのだが、その状況を見下ろすようにゴジラ岩が君臨しており、ゴジラの手湯とともに知床の守護神として奉られているわけで・・・ http://www.gojiraiwa.com/nazo.htm

道東観光開発(株)が提供する知床観光船オーロラが知床岬航路(¥6,000)と硫黄山航路(¥2,700)をクルーズさせているので午前10時発の硫黄山航路のオーロラ2に乗船させていただくことにしたわけで・・・ウトロ港を出港したオーロラ2は知床半島の西岸に沿って航行し、流氷と荒波に削られた絶壁とオーバーハングの絶景を眺めながら1時間半の航海はあっという間に終わったわけで・・・航海の途中で崖の上で佇んでいるヒグマのシルエットや硫黄山から流れ落ちるカムイワッカの滝等をかもめと一緒に堪能することが出来、原始の秘境知床旅情を十分満喫することに成功したわけで・・・

ウトロ港を後にすると、知床横断道路を東に向かう途中でプユニ岬展望台からウトロを見下ろし、フレぺの滝で虹色に輝く幻想的な滝を見物し、霧の知床峠から北方領土が見れないジレンマを引きずりながら熊の湯という存続の危機に瀕している地元の秘湯に入湯し、ボランティアとして毎朝掃除をしているおやじの愚痴を聞いたりしたわけで・・・

最後に羅臼のとある北方領土を見晴らす展望台で鹿と一緒に国後島を眺めた後、釧路に戻り、そのまま機上の人になったわけで・・・

総飛行機代 ¥2,400

総宿泊費 ¥9,075(2食付き)

総レンタカー代 ¥10,000

総ガソリン代 ¥4,029

総走行距離 472km

総知床観光船代 ¥2,700

協力 ANA、ニッポンレンタカー、道東開発観光(株)

FTB緊急企画ゴジラ救済ツアー

♪まァたすこ~しだけ きみのォこと~ むだんでェ 好きになったけど~♪ song by Hitoto Yo

http://kashi.kyun.jp/cgi-bin/sng.cgi?sid=v70693

マサよ、君は家では「スローにん」か!?

ということで、ニューヨーク・ヤンキースを率いる松井秀喜が左手首を骨折したというニュースが日本いや世界を揺るがしたのは記憶に新しいところである。何とか早い回復を願って今回は松井の故郷である石川県まで急遽足を伸ばし、一日も早い「スローにん」からの脱却の一助となることにした。

5月20日(土)

先週の週末に開催されたひの新撰組まつりで有名な土方歳三を輩出した日野市の自宅からニュースタイルオデッセイを駆って関越道、上信越道、北陸道を経由して500km以上の道のりを5時間以上も車を転がしてゴジラを輩出した石川県の小松インターで高速を降りた。近辺にある小松政夫グループが経営しているであろう小松空港からのしらけ鳥が南の空に飛んでいくかのように飛行機が離陸している光景を横目にインターから5分程度のドライブで目的地に到着した。http://homepage2.nifty.com/nepper/gyagu125to130.html

小松グループの若頭であるはずのマサよ、君は石川県最強の観光地がどこにあるか知っているか!?

というわけで、2005年の暮れに満を持してオープンした松井秀喜ベースボールミュージアムの3ヵ所ある駐車場のうちのP1に車を滑り込ませ、ミュージアムの玄関前に構えている松井秀喜少年の「僕には夢がある」像に一礼した後、¥300の支払いで館内におじゃまさせていただくことと相成った。入口で等身大ヤンキースユニフォーム姿の松井蝋人形に一瞥をくれると館内奥深くに侵入することにした。http://www.hideki.co.jp/

貴重な展示物としてゴジラ生誕時から少年時代、星陵高校から巨人入団、ヤンキースへの移籍から現在の活躍にいたるまでの軌跡がパネルやゴジラ愛用の野球グッズとともにところ狭しと飾られており、団体観光客は等身大スーツ姿松井蝋人形や巨大スパイクを見て皆「でかい!」と驚嘆の声を上げてひれ伏していた。

ひっきりなしに訪れる観光客は皆ゴジラの作り方のノウハウを吸収しようと血眼になって展示物を凝視していた。館内から外に出て見るとベースボールミュージアムの前身である「松井秀喜野球の館」が廃館になった様相を呈しているもののその隣には松井の実家が豪邸の風貌で観光客の絶好の記念写真スポットになっていた。

富山県高岡市、富山湾の海岸線の奥地の山間部に太田の湯という潰瘍、皮膚病、結石に効く奇跡の温泉が湧き出ているのでしなびた風情の湯治宿に¥500の支払いで入湯させていただくことにした。シャンプー、石鹸の使用が禁じられている強引な狭い入浴場ではなるほど人目見ただけで皮膚病だとわかる若者がしきりにお湯を体中に浴びせていた。

太田の湯で体中のナチュラルキラー細胞を増やすことに成功したので予約しておいた富山全日空ホテルに引き篭もり、ホテルでの「スローにん」生活を満喫しながら夜を過ごしていた。

5月21日(日)

昨日の雨模様、霧模様の天候とは打って代わって今日は朝から晴れ上がっていたので妙高高原の景色もまぶしい妙高サービスエリアで高原バニラソフトを食いながら雪を被った山並みを眺めていた。

北八ヶ岳への登山者でにぎわう山の宿として有名な稲子湯に胃腸病によく効く天然サイダー温泉が湧き出ているという情報を入手していたので長野県奥地の標高1520mの高地の稲子湯(¥600)までわざわざ入湯しにやって来た。単純二酸化炭素、硫黄冷鉱泉、pH4.9の泉温7.6℃を沸かした温泉にゆっくり浸かった後、信州八ヶ岳松原湖高原の景色を眺めながら、松井がニューヨークで入浴出来ないであろう温泉三昧を実施して松井の一日も早い「スローにん」からの脱却を祈願して帰りの中央道の渋滞を楽しみながら帰路に着いたのだった。

総ガソリン代 ¥13,703

総高速代 ¥20,050

総宿泊費 ¥500

協力 ANAホテルズ、松井秀喜ベースボールミュージアム

カリビアンを虜にするプエルトリコツアー

アメリカ合衆国50州を制覇してすでに4年の歳月が流れてしまった今日この頃であるが、世の中にはアメリカ合衆国領!というFTB未開拓の地が残っていると言われている。マサ率いる財務省が暗躍する日本も言ってみればアメリカの植民地に分類されるのであろうが、今回は日米野球界に数多くのカリブの怪人を輩出し、スカウトを虜にしているプエルトリコの実情の調査に向かうことにした。

2006年4月29日(土)

テロ、SARS禍、中国での反日デモといった例年のマイナス要因もなく、今年のゴールデンウイークは過去最大の高飛び野郎を輩出するというニュースに偽りなく、成田空港第二ターミナルは立錐の余地がないほどの人手でごった返していた。つい一週間前に裏の仕事のデンバー出張から帰って来たばかりの肉体に鞭打って午前11時10分発のNH2便ワシントンDC行きB777-200機(http://www.ana.co.jp/int/inflight/seatmap/b777_200/index.html)の33C席に陣取ると11時間ちょっとのフライトでワシントンダラス空港に到着した。そこからさらにUA8023便に乗り換えると午後2時過ぎにセントルイス・ランバート国際空港へ上陸することと相成った。

空港のハーツで名も知れぬ白いGM箱型車をレンタルすると早速ハイウエイに飛び乗ったのだが、驚いたことにそのハイウエイは赤ひげのホームラン王Marc McGwireの名前が冠されていたのであった!McGwireと言えば1998年に年間70本のホームランを放ち全米を興奮のルツボに陥れたことは記憶に新しいのだが、なるほどセントルイスを横断するI-70高速道路はマサにBig MACの名前にふさわしい太い道路であった。

ミズーリ州のI-70、通称Marc McGwire Highwayから州境のミシシッピー川を超えイリノイ州のI-55に乗り継ぎそのまま北に向かって70マイルほど走るとLincoln Home National Histric Siteという自然公園系のファシリティに到着した。着いた時間が遅かったためビジターセンターが閉まっていたので仕方なく周囲の散策を軽くこなした後セントルイスへの帰路に着いた。今日は初日ということで、Hilton HHonorsのポイントが余っていたのでマサであれば$90くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHampton Inn Florissantに引きこもり、巨人の星を見上げながら床に着くことにした。

4月30日(日)

セントルイスの郊外にアメリカの古い大統領であるUlysses Grantの住居がNational Histric Siteとして保存されているので見物に行ってきた。とりあえず数人の野次馬アメリカ人とパークレンジャーが案内するサイトツアーに参加したのだが、歴代の大統領を重んじるアメリカらしく古い屋敷を取り繕って観光客をおびき寄せている実態を垣間見た気がした。

セントルイスのシンボルと言えばミシシッピー河岸に仁王立ちし、その圧倒的な存在感で観光客の首をななめ上方45度に固定してしまうGateway Archである。この近辺はJefferson National Expansion Memorialとして国立公園に制定されており、西部開拓はこの地から始まったということを記念してGateway Archの地下のミュージアムにはインディアンや開拓者に扮した等身大しゃべる蝋人形君達が解説する開拓物語が観光客の注目を集めていた。

マサよ、君は田口壮という日本人プレイヤーがセントルイスくんだりでいぶし銀的輝きを放っている事実をしっているか!?

ということで、1999年8月以来(http://www.geocities.jp/takeofukuda/1999mlb.html)、約7年ぶりに野球の殿堂セントルイスのブッシュ・スタジアムを訪ずれなければならなかった。何故なら世界中の酔っ払いにバドワイザーを売りつけて暴利を貪っているアンハイザー・ブッシュがその財力を結集して新しいブッシュ・スタジアムをオープンさせやがったからだ。旧ブッシュ・スタジアムは円形闘技場を髣髴とさせるコロシアム風情の建築様式であったのだが、その廃墟の隣に築城された新ブッシュ・スタジアムはカージナルレッドを基調にした色使いは変わらないもののセンター後方にセントルイスのシンボルであるGateway Archの眺望を配した景観型スタジアムへと生まれ変わっていた。

カージナルスと言えばかつて星飛雄馬のライバルとして星一徹コーチの下で消える魔球に立ち向かったアームストロング・オズマを野球ロボットに仕立て上げた球団としてオールドファンの心の琴線を揺さぶった実績を持っている。しかし今やカージナルスの最大の目玉はオズマではなく、4月の月間本塁打記録を塗り替え、Big Macやバリー・ボンズを超える勢いの強打者であるアルベルト・プーホルズである。今日対戦したワシントン・ナショナルズの投手陣はいずれもプーホルズの強打に恐れをなし、敬遠を含む4四球でそのままホワイトハウスにお引取りを願いたいくらいなブーイングを浴びていた。

そ~そ~、田口壮の活躍も無視出来ないものであろう。今日はスタメンを外れていた田口は6回の裏3対2とカージナルスリードの2死2,3塁の場面で代打で登場し、見事センター前にクリーンヒットを放ち、2走者を迎え入れた。さらに次の打席でもライトに犠牲フライを打ち上げ、3打点を荒稼ぎし、見事にカージナルズの勝利に貢献したのであった。

オズマの聖地での日本人野手の活躍により溜飲を下げることが出来たので、その勢いでStarwoodのポイントが余っていたのでマサであれば$120くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るFour Points by Sheraton St. Louis Westに引きこもり、野球ロボットと野球人形のどちらになるべきかを考えながら感慨深い夜を過ごしていた。http://www.whv.jp/title/kyojin/about/story/index2.html

5月1日(月)

♪いますぐ~Kiss me, wow wow ゴ アゥェ~ I wish you、だ~い好きだ~よと笑ァ~てよ~♪

マサよ、君は日本を代表するロック・グループがリンドバーグにちなんでおり、Lindberghがセントルイスを根城にしていたことを知っているか!?(http://www.flight-lindberg.com/

ということで、セントルイス・ランバード空港のとあるゲートで目にした旧式飛行機のレプリカはかつてリンドバーグが大西洋無着陸単独飛行に成功した「Sprit of St. Louis」であることを確認し、♪ド~キィ、ド~キィすること、や~め~ら~れッ な~いィ~、オ~イェ~♪と操縦桿をマイク代わりに歌いながら大西洋上空を飛んでいたであろうリンドバーグを思い浮かべながらワシントンDCへの帰路に着いた。

午後を回ったころダラス国際空港に帰還出来たのでそのままシボレーキャバリエに飛び乗り、ワシントンのジョージタウンを散策した後、キャバ嬢を同伴した勢いでボルチモアまでひとっ走りした。私の推奨によりマサも行ったことがあるはずのオリオールパークアットカムデンヤードに午後6時半頃到着するとトロント・ブルージェイズに叩きのめされているオリオールズファンの断末魔の叫びを手土産にメリーランド州最西部のFrostburgのHampton Innに深夜チェックインし、メリージェーンを歌う暇もなく、ダウンさせられてしまった。

5月2日(火)

昨夜12時半過ぎのチェックインにもかかわらず、朝5時過ぎにHampton Innを引き払い、一路ワシントンダラス空港へと急いでいた。気が付くとボルチモアよりはるか140数マイル西方の山奥に引き篭もらされていたため、朝8時26分のフライトに間に合うかどうか微妙なタイミングであったのだ。案の定ワシントンに近づくにつれてラッシュアワーを迎えた高速道路は渋滞の様相を呈してきており、ダラス空港のUAのチェックインカウンターに到着したのは8時20分を回った時間であり、E-Ticketの自動チェックイン機の画面には無常にも飛行機は飛んじゃったよ~というアナウンスが表示されていた。仕方ないのでワシントンからプエルトリコへの直行フライトはあきらめて、UAの有人カウンターで他の便を探させることにした。結局午後2時50分発のシカゴ経由プエルトリコ行きのフライトを変更手数料$100の支払いで確保することが出来たのでラウンジで時間つぶしをしながらダラス空港でナマでダラダラ過ごすことと相成った。

ワシントンDCから元々行く気のなかったシカゴオヘア空港まで1時間45分、シカゴからプエルトリコの首都であるSan Juan(サンファン)まで4時間ちょっとのフライトでサンファンに到着したのは夜の11時前になっており、雨もしとしと降っていたのでとりあえずタクシーで予約しておいたハンプトン・イン&スイーツ・サンファンに引き上げ、Tシャツとパンツの洗濯をこなして寝ることにした。

5月3日(水)

プエルトリコは東西約180km、南北約60kmの島で北は大西洋に南はカリブ海に面している。つい100年前までは現代におけるヤンキースのように圧倒的な強さを誇っていたスペインの植民地だったため、アメリカの自治領にもかかわらず人々はスペイン語を話し、町の看板やサインもスペイン語が溢れているのだ。首都サンファンのメトロポリタン地区はアメリカのリゾート地らしく、近代的リゾートホテルが軒を連ね、高値で観光客をおびき寄せているのだが、オールドサンファンという地域に入るとアールデコ調のスペイン様式の建物が多く、16世紀に舞い戻ったような感覚を覚えさせられるのだ。

早朝ホテルをチェックアウトするとイスラベルデというメトロポリタン地区からバス($0.75)に乗り、オールドサンファンを目指した。サンファン市自体はプエルトリコ北部の大西洋に面した半島の一部に過ぎないのだが、オールドサンファンはさらにその先端の海に突き出した部分に過ぎずないにもかかわらず、この地は昔から海上防衛の要衝として君臨している。

サン・クリストバル要塞($3)という10万m2の敷地に建つ堅牢な砦が存在しているので見物させていただくことにした。ここは後述するエル・モロ要塞を強化するために1771年に建てられたもので観光客系のラテンギャルが林立する大砲群にまたがりながら記念写真用のポーズを決めている光景が印象的だった。

オールドサンファン観光の目玉として世界的にも貴重な遺跡でユネスコ世界遺産にも指定されているエル・モロ要塞($3)が半島の突端で尖っていたので訪問することにした。この要塞の建築が始まったのは1539年で、完成したのはなんと244年後の1783年である。カリブ海の要衝としてのプエルトリコは1493年にコロンブスが2回目の航海で到達して以来、カリブの海賊や他国軍の脅威にさらされていたため、この要塞は非常に重要な防衛拠点になっていたのだ。要塞内部は広大で古い石積みの跡や衣装、武器などが展示されている博物館やビデオの上映、さらに海上43mの高さから大西洋を見渡すことも出来るのだ。

エル・モロ要塞で海上防衛のもろもろのノウハウを習得することに成功したのでシェラトンオールドサンファンのハーツで車を調達することにした。時間にルーズなラテン系ギャルが運営しているハーツのカウンターで右頬の吹き出物から出ている血をティッシュでぬぐいながらも丁寧に道を教えてくれたギャルに感謝しながら、ぺ・ヨンジュ系の車であるヒュンダイ普通車のソナタをレンタルすると一路南部のカリブ海方面を目指した。

島中央に君臨する1000m級の山岳地帯をぶち抜く高速を抜け、2時間くらい走るとプエルトリコ第二の都市ポンセに到着した。スペインから総督として派遣され、本格的な植民を実施したポンセの子孫が建設した町のはずれにヒルトン・ポンセ・ゴルフ&カジノがポンセ最大のリゾートとして君臨しており、すでに大金をはたいて予約しておいたのでカリブ海ビーチのリクライニングチェアで潮風に吹かれながらギャルの吹き出物が早く直るように祈っておいた。

5月4日(木)

タイガーウッズの父の死を悼む必要があったので今回はあえてゴルフをせずにヒルトン・ポンセ・ゴルフ&カジノをチェックアウトするとポンセのダウンタウンの中を車で徘徊することにした。ダウンタウンにも多少スペイン風建造物の見所があると言われていたのだが、街中がかなりごちゃごちゃしており、道路の両サイドの駐車車両も多かったため、観光を断念し、コアモという温泉を持つ小さな町まで車を走らせることにした。しかし、ここでも複雑な街づくりかつ道路のでこぼこでヒュンダイ車のソナタがチェ・ジウのような涙を浮かべてしまうことを恐れて退散することにした。

ポンセとサンファンを結ぶ52号線の真中あたりにカグアスという何の変哲もない町があり、特に見所もなかったので予約しておいたFour Points by Sheraton Caguasに引きこもることにした。カジノ併設のために拡張工事を行っている騒々しいホテルの敷地内に潅木や芝生があり、何かの注意事項の看板が掲げられていた。そこに書かれていた内容はなんと「煙草の吸殻を地面に捨てるな!ヘビースモーカーのイグアナがのこのこやってきて一服しはじめると追っ払うのがやっかいなんや!」ということだった!!

5月5日(金)

結局ひと晩待ってもイグアナに出会うことが出来なかった傷心を引きずってホテルをチェックアウトすると島の東部のファハルドという港町に向かった。プエルトリコ東岸から約30km沖にアメリカのトラベル・チャンネルで世界のベストビーチに選ばれたクレブラ島があり、ファハルドから出航しているフェリーで到達出来るということだったのでフェリーに乗らずに乗船待ちのリゾート野朗どもの見物のみを行った。サンファン方面に戻り、大西洋沖の美しいビーチを遠巻きに眺めた後、ルイス・ムニョス・マリン国際空港でヨン様風の笑顔を浮かべてソナタに別れを告げ、UA1688便にてワシントンDCに帰っていった。

5月6日(土)~ 5月7日(日)

午後12時20分発NH1便B777-300機17K席(http://www.ana.co.jp/int/inflight/seatmap/b777_300er/index.html)に陣取り映画4本を立て続けに見ながら13時間のフライトを過ごし、翌日午後3時前に成田着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥167,900 + $632.10

総フライト変更手数料 $100.-

総宿泊費  $653.64

総レンタカー代 $209.01

総ガソリン代  $97.94

総タクシー代 $13.-

総バス代 $0.75

協力 ANA、ユナイテッド航空、HiltonHHonors、SPG、ハーツレンタカー