第二回FTB野生の王国 in ケニア

ジャンボ~ マサよ!

ということで、2007年の1月に南アフリカ共和国の誇るクルーガー国立公園にてFTB史上初のサファリツアーを敢行したことは記憶に新しい快挙であるのだが、当時はベジタリアン系の動物にしか遭遇出来ず、ライオンと一緒にライオンハートを合唱することさえままならなかった。今回はそのリベンジを果たすべくサファリの殿堂ケニアに乗り込み、勇猛果敢なマサイ族の狩猟技術を参考にし、財務省のマサを盾に取りながら国民からの非難の矢をかわす技術を習得するために立ち上がったのだ。

2007年12月27日(木)

午後5時25分発のNH901便シンガポール行きに搭乗すべくANAのカウンターを訪れるとお約束通りにエコノミークラスが満席のため、ビジネスクラスへのアップグレードの権利を得ると7時間の快適なフライトで深夜12時前にはシンガポール、チャンギ国際空港に到着した。

12月28日(金)

草木も眠る丑三つ時である午前2時半にシンガポール航空SQ478便ヨハネスブルグ行きに搭乗すると9時間程の長時間フライトでヨハネスブルグ、ORタンボ国際空港に到着した。ここからさらに南アフリカ航空SA182便ナイロビ行きに午前9時50分に乗り込むと4時間のフライトでナイロビ、ジョモ・ケニヤッタ国際空港に午後3時過ぎに到着した。

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マサよ、君は「地球の歩き方」でさえ、決して歩いてはいけないという危険地帯に果敢にも足を踏み入れたことがあるか!?

というわけで、ケニアの首都ナイロビは昨今治安の悪化が著しく、ジャンボ~!と言いながら乱暴なことをする不貞の輩が多いと聞いていたので今回のツアーではあらかじめすべての旅程をDoDoWorldという日本人経営の旅行会社にまかせていた。空港に迎えに来ていたDoDoWorldの送迎車に乗り込むと自分で予約しておいたHilton Nairobiまで送っていただき、日本を発ってから30数時間後にとうとうベッドに体を横たえることと相成った。

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12月29日(土)

午前8時にダニエルと名乗るDoDoWorldのドライバーがワンボックスサファリカーで迎えに来てくれたので早速実車するとケニアの代表的な国立公園の1つであるアンボセリ国立公園へ向かった。長時間のドライブのため、途中休憩所兼土産物屋に寄ったのだが、そこの店員であろう若人は物品を押し売りする気配もなかったのでしばらく雑談に花を咲かせていた。彼はケニアに来てもう動物は見たのかい?と聞いてきたので、ここに来る道すがらすでに牛、ヤギ、ロバは見てきたぜ!と答えておいた。

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サファリカーがナマンガという町のタンザニアとの国境ゲート近くに差し掛かるとそこから道はオフロードになり、4WDのポテンシャルがいかんなく発揮されることとなった。アンボセリ国立公園のゲートに到着すると数台のサファリカーが入場のための列をなしていた。その間土産物売りの原住民が車の窓にへばりついてきて盛んに実はMade in Chinaかも知れないハンドクラフト品を彼らの言い値で売りつけようと躍起になっていた。公園のゲートを抜けるとそこから先は砂嵐舞い上がる不毛な世界が広がっており、わずか数頭の草食動物がたそがれながら歩いていた。やがて車は広大なサバンナに突入し、見渡す限り平坦な台地に芝生に毛が生えたような草が生い茂っている景色となった。

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午後1時前にアンボセリの宿泊先であるソパ・ロッジにチェックインするとビュッフェタイプの昼食で空腹を満たした後、3時半より念願のゲームドライブがスタートした。ワンボックスタイプのサファリカーは屋根を上に押し上げてサイドをオープンにすることが出来るので立ち姿で動物観察に励むことが出来るような構造になっている。とある高い木が繁茂している地域に差し掛かるとふと「ホームレス中学生」を著してベストセラー作家となった漫才師の感覚を覚えさせられた。すると目の前にはギザギザ模様を持つマサイキリンが葉っぱを引きちぎりながら咀嚼している姿が飛び込んできた。

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今日は3時間ほどゲームドライブを楽しませていただいたのだが、今日の収穫はサバンナをマサに我が物顔で集団行動しているおびただしい数のアフリカ象であった。また、アンボセリの展望台としてオブザーベーション・ヒルが盛り上がっており、公園内で唯一徒歩で外に出られる場所となっているのでそこから園内の遠景を見渡すことが出来たのであった。本日のサファリが終了し、夕食を終えた頃にはあたりは漆黒の闇夜となっていた。空にはこれでもかと言うほどの満天の星が今にも降ってくるかのように輝いていた。

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12月30日(日)

アンボセリはキリマンジャロの山麓の北に広がる原野であり、アーネスト・へミングウエイがハンティングを楽しみ、「キリマンジャロの雪」を執筆した場所として名を馳せている。尚、キリマンジャロがその勇姿を現すのは雲のない早朝の時間に限られているため、午前6時にはいそいそと起き出してロッジの敷地内のビューポイントに向かった。そこには万年雪を抱いた標高5,895mのキリマンジャロが朝日に輝いており、キリマンジャロブレンドであるはずのコーヒーを飲みながら、その霊験あらたかな姿に思わず合掌してしまったのだった。

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午前8時より2日目のサファリの開始となった。本日の最大のハイライトは昨日見つけることが出来なかった百獣の王をこの目にしかと焼き付けることに他ならない。通常であればアンボセリでは水場近辺で容易にライオンを見つけることは可能であるとのことであったが何故か今回はなかなか姿を現そうとはしないのだ。サバンナを遠巻きに眺めていると何とか仰向けでだらしなく片足を上げた不貞寝雄ライオンを辛うじて発見出来たにとどまった。それ以外は相変わらずのバッファローや象の集団に遭遇するのが関の山であった。

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マサよ、君はサファリパークではお目にかかることは出来ない野生のライオンを至近距離で目撃したことがあるか!?

ということで、ドライバーのダニエルが5.0以上であるはずの脅威の視力でついにブッシュに隠れているライオンを見つけ出した。早速接近遭遇を試みるべく車をライオンの目と鼻の先に横付けにしていただいたのだが、ライオンは全く動じることなくその場で車の挙動を見やっているだけであった。この好機を捕らえてライオンハートを大合唱しようとしたのだが、メンバーがメス2頭とオス1頭だけであったので5人組のSMAPを形成することが出来ずに断念したのだった。

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公園内の1等地に君臨しているアンボセナ・セレナロッジで昼飯を食った後、マサと何らかの血縁関係があってほしいマサイ族の集落を見学するプランも考えられたのだが、マサイ族と堅気のケニア人の見分けがつかないためにプライドの高いマサイ族から槍を投げられるのを恐れて断念した。その代わりに早々とロッジに戻り、プールサイドのデッキチェアに横たわりながらいかりや長介とアダモステの幻影でお茶を濁しておいた。

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12月31日(月)

今日は朝からどんよりと曇っており、時折小雨が落ちてくるような天候だったので早朝のキリマンジャロに向かって拍手を打つことは出来なかった。午前7時半にソパロッジを後にするとアンボセリ国立公園内を軽くミニゲームドライブをしながら抜けていった。途中タンザニアとの国境近くのガソリンスタンドで給油待ちをしているとお約束のマサイのいでたちをした原住民の土産押し売り攻撃にあってしまった。その中で1人民族衣装をまとっていない女性がマネージャーよろしくお金のぼったくりを取り仕切っており、土産を買わないと見ると異なる戦略を展開してきたのだ。まず写真を撮っていいというので1枚取るとここに9人そろっているから1人あたり50シリングとして合計450シリングをよこせと言ってきやがった。写真のレイアウトの関係で9人全員が入らなかったことも手伝って財布の中の小額紙幣と小銭をかき集めて200シリング程度でお茶を濁そうとしている間に給油も終了したので原住民とのコミュニケーションもあえなく強制終了となったのであった。

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昼頃に一旦ナイロビを経由してナクル湖に向かう道すがら地球の溝と言われるグレート・リフト・バレーの大景観を見渡すことに成功した。この溝はモザンビークからレバノンまで6,500kmにもわたっており、バレーの底には無数の動植物たちがひしめいているのだ。

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午後3時過ぎにナクル湖国立公園に到着し、早速ゲームドライブを始めることとなった。この場所は湖を抱える公園とあって草原が広がるサバンナとは異なる生態系を有している。数多くの草食動物がたわむれているさんま系の樹木であるはずのアカシアの林を抜けるとふと♪背番号1のすごい奴が相手♪のような感覚に見舞われた。気がつくと目の前にはピンク色に染まった湖が広がっており、何とそのピンク色の正体は♪わ~たしピンクのサウスポ~♪ではなく無数の1本足打法のフラミンゴであった。

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ソーダ性の湖であるナクル湖には体は白く、くちばしは黒い先端以外はピンクのオオフラミンゴとピンクがかった羽と赤黒いくちばしを持つナガシマフラミンゴではなく、コフラミンゴが生息している。また、宅急便を配達出来そうなほど大きなくちばしを持つ日通系のペリカンやリーブ21が必要だと思われるアフリカハゲコウというみすぼらし系のコウノトリも存在感を示している。

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さらにゲームを続けるとゴルフ場のグリーンのように短く刈り込まれた芝生のような草原に到着し、何かしら巨大な物に遭遇しそうな不安感にサイなまれた。するとそこには色白で鋭い一角を尖らせている巨大なシロサイがその偏平足で草地を踏み慣らしながら、食事と排泄を同時に行っていた。

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再びから騒ぎを期待してアカシアの林をドライブしていると遠めにさんま好みであるはずの柄をまとった獣の気配を感じた。そこにはヒョウが飄々と木の枝に寝そべっている姿があったのだった。さらにその近くのブッシュには体はシロサイよりも小さいがよりアグレッシブに攻撃をしかけてくるクロサイの親子が散歩している姿があった。

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夕方6時過ぎに今日の宿泊基地であるサロバ・ライオン・ヒル・ロッジにチェックインした。高級感溢れるロッジはクリスマスから新年の雰囲気で盛り上がっており、バーの野外ステージでは紅白歌合戦に匹敵するであろう白組対青組のケニア人ダンス大会が繰り広げられており、観光客の喝采を浴びていたのだが、ダンスが終わりダンサーがCDを売ろうとすると何故か拍手が小さくなっていったのだった。また、当然のことながら夕食後の宴は深夜まで続き、宿泊客を巻き込んだケニア人従業員の狂乱ダンスは新年のカウントダウンでクライマックスを迎えたのだった。

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2008年1月1日(火)

ハッピーニュー マサよ!

というわけで、昨夜の喧騒にもかかわらず、今朝は6時半から早朝のゲームドライブを開始した。バブーン・クリフというナクル湖を一望出来る高台にはその名の通りさかりのついたバブーンの楽園となっており、その隙間をイワハイラックスという岩場で群生しているウサギに似た小動物が駆け足で蠢いているのだ。

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めくるべく快感を与えてくれたナクル湖を後にすると、昼過ぎにナイロビに戻り、ウイルソン国内空港で4日間のドライバーを務めてくれたダニエルに別れを告げるとAIRKENIAのDash 7というプロペラ小型機に乗り込みマサイ・マラへと飛び立った。機上から果てしなく広がる大草原を見渡していると飛行機は徐々に高度を下げ土色の滑走路の小さな空港へ着陸した。そこで乗客の入れ替えを行った後、再び離陸し3分後に他の草原空港に到着した。さらに3番目の空港で飛行機を降りると迎えのジープに乗り込み、すぐにイブニング・ゲーム・ドライブのスタートとなった。マサイ・マラ国立保護区はタンザニアのセレンゲティ国立公園と繋がっており、パスポートの提示の必要ない動物たちは自由に国境間を行き来することが出来、ヌーの大移動は一大イベントとなっているのだ。ジープのドライバーによると通称アフリカンマッサージと呼ばれる揺れを発生させながら、車は草原の中の轍や川さえも渡りながらサファリはサンセットまで続いた。

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夕暮れ時にダチョウ倶楽部に遭遇したせいか、送迎されたロッジに「聞いてないよ!」と言われ、間違ったロッジに到着したことが発覚したものの、無事宿泊すべきキャンプからの使いのジープで旅程にはないナイトサファリを楽しみながら午後7時半過ぎにはマサイ・マラのキャンプ地であるフィグ・ツリー・キャンプに到着した。今日は新年のスペシャルイベントとしてブッシュ・ディナーが催行されるというので早速送迎大型四駆車に乗り込みブッシュに向かった。尚、ブッシュ・ディナーと言うものの決してジョージ・ブッシュ大統領の失政を糾弾するためのディナーではないことは明らかで星空の下シェフがその場で調理する高級そうなディナーに宿泊客は皆舌鼓を打っていた。やがて舌鼓が本当の鼓のリズムに変わるとお抱えの契約ダンサーであるはずのマサイ族が「鍛えれば全身バネになる!」系のダンスを始めてしまった。当然のことながら千葉ロッテ・マリーンズのファンが球場で見せるジャンプよりも確実に高く跳んでいたのだ。

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1月2日(水)

フィグ・ツリーキャンプは周囲をタレク・リバーに囲まれており、深夜にカバがやってきた様子でブフォー、ブフォーと水を吐き出す騒音のため熟睡することが出来なかった。早朝6時前に従業員にたたき起こされた頃にはカバはすでにチェックアウトしていたのでその姿を見て苦情を言うにはサファリでの出会いまで待たなければならなかった。

6時半より念願のケニア最大の野生動物の宝庫となっているマサイ・マラ国立保護区でのサファリがスタートした。数多くの種類の草食動物はすでに他の公園で見ているのでマサイ・マラでは肉食獣が至近距離で見物出来ることを期待した。ところで、ケニアのサファリの目玉としてバルーン・サファリという熱気球で低空飛行しながら動物達を見下し、おまけにバブーンにさえ邪魔されない草原にバルーンを不時着させ、シャンペン付き朝食をご馳走になるという催し物のためか空にはいくつかのバルーンが浮かんでいた。

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ライオンはすぐに私の目の前に姿を現した。草原に伏せている単独の雌ライオンは遠吠えで群れの仲間を呼び寄せており、ブッシュでくつろいでいる2頭の雄ライオンはさわやかな朝の空気の中リラックスした雰囲気でくつろいでいた。

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朝食後10時より2回目のサファリがスタートとなったのだが、♪いちねんさんびゃくろくじゅうごにち♪のスタート早々、幸先良くチーターに遭遇することに成功した。数台のサファリカーがチーターを取り囲んでいる中、あたりを見渡しているチーターは365歩のマーチがバカ売れしたわけでもないのに何でこんなに人気があるのだろうといぶかっている様子であった。

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マサイ・マラを流れるマラ川にはいくつかのヒッポプールと呼ばれるカバの入浴ポイントがあり、そこでは車から降りて川を見下ろすことが出来るのだ。川にはダンディーなクロコダイルも暮らしているがシャイなためか見つけてもすぐに川の中に姿を消してしまった。昨夜にキャンプで安眠妨害したブフォー者のカバを罰として蒲焼にでもしてやろうかと思ったが、個体が特定出来ないので断念するしかなかった。

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午後4時よりイブニング・サファリのスタートとなった。早速茂みの中に10数頭のライオンが眠っているスポットを発見し、そこはマサに青空ライオンホテルの様相を呈していたのだ。

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というわけで、今日はおはようからお休みまで暮らしを見つめるライオンの提供でサバンナの脅威を実感することに成功した。

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さらに川沿いを走っていると巨木の枝でヒョウが昼寝している姿を真近で目撃してしまった。熟睡しているとはいえ、いつ何時猛獣に豹変するかも知れないので注意しながら観察を行わせていただいた。

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1月3日(木)

午前6時半より今回のツアーでの最後となるモーニング・サファリが敢行された。日の出とともに1頭のメスライオンが草原に佇んでいる姿を発見したのだが、そのライオンは獲物からの返り討ちのためか足に傷を負っているため車の接近に非常にナーバスになっていた。手負いの獅子は非常に危険なのでサファリカーは足を引きずりながら遠ざかるライオンをこれ以上追うことはなかった。

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ここ2日間何事もなくサファリは遂行されたのだが、ここに来て突然トヨタ・ランドクルーザーサファリカーの右後輪が前触れもなくパンクしてしまった。原住民ガイドは持っていた短剣で近くに生えている木から枝を切り落として即興のタイヤ止めを作ると運転手は手際よく大型ジャッキで車を持ち上げて短時間でスペアタイヤに交換してしまった。

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パンク修理でのタイムロスを補うかのように朝のさわやかな空気の中を♪ワンツー、ワンツー♪と元気よく歩いているチーターとの近距離接近遭遇に成功した。

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今回のサファリツアーの締めくくりとして狩りに向かうライオンの群れが現れた。サバンナを悠々と練り歩くライオンの姿はマサに百獣の王と呼ぶにふさわしい荘厳な雰囲気を醸し出し、途中子どもをブッシュに残して親ライオン達は獲物に向かって突進していったのだった!

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サファリでの全旅程を終了すると再び草原空港からプロペラ機に乗り、ナイロビへと帰って行ったのだが、ナイロビ市内は数多くの警官により厳戒態勢が敷かれていた。年末に行われた大統領選挙で与党の現職大統領が再選されたのだが、選挙結果の開票遅れをいぶかった野党が不服を申し立てたことが発端となり、大きな暴動が引き起こされ数百人の原住民が命を落としてしまったのだ。ウイルソン国内空港に迎えに来てくれたDoDoWorldのドライバーの顔にも緊張感がみなぎっており、何とかHilton Hotelまで送っていただいた後、ホテルの部屋から官庁街を見下ろすと人も車もほとんど通ってない状況だったので今日はホテルのテレビニュースで行く末を見守るしかなかったのだ。

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1月4日(金)

昨日の喧騒から一夜明けると街は多少落ち着きを取り戻し、人も車も官庁街に戻ってきていた。午前10時にホテルをチェックアウトし、DoDoWorldの迎えで一旦DoDoWorldオフィスに寄った後、空港へ帰る道すがらウタマドゥーニという土産物屋で物品を購入した。

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マサよ、君は旅の途中の空港でイエローカードをもらったことがあるか!?

私は・・・・・ある!!!

ということで、無事ジョモ・ケニヤッタ国際空港に到着し、南アフリカ航空のチェックイン・カウンターで搭乗券をもらっているといきなりケニアに7日以上滞在した輩が南アフリカに行く際には黄熱病予防接種のイエローカードが必要だと言われ、カウンターの後ろで乗客の荷物をベルトコンベヤーにぶん投げていた原住民に空港内のクリニックまで強制連行されてしまった。事務所らしき所には同じ目に遭っているいる乗客が数人待機しており、手数料KSH450を支払い、パスポートを提示すると別室に連れて行かれ野口英世の業績さえ知らなさそうなおよそ看護婦らしくない女性から左肩にブスリと注射をかまされてしまった。しばらくして首尾よくイエローカードの入手に成功したのだが、本来はケニア入国の12月28日には接種していなければならなかったため、イエローカードの発行の日付が28日に調整されていた。しかも、事務所のおばちゃんに領収書の日付は1月4日になっているのでその領収書は人目にさらすことのないように注意された。

何とか午後3時45分発のSA183便の搭乗に成功し、午後7時前にヨハネスブルグに到着した。入国審査では案の定イエローカードの提示を要求されたので「この紋所が目に入らぬか!?」という勢いでカードを提示すると何事もなかったように南アフリカ共和国への入国を果たしたのだ。

1月5日(土)

The Airport Grand Hotelの中庭のプールで上空を轟音とともに着陸態勢に入っている飛行機を眺めた後、送迎バンで空港まで移動し、午後1時30分発のSQ479便にてシンガポール行きの機上の人となる。

1月6日(日)

夜も明けきらぬ午前6時前にシンガポールに到着し、午前8時35分発のNH112便に乗り込むとチーターに教えられた♪じ~んせいは ワンツー パンチ、汗かき、べそかき、あるこ~よ♪を胸に成田に帰国、そのまま流れ解散。

総飛行機代 ANA = ¥78,070、シンガポール航空 = S$2,116.-、南アフリカ航空 = ¥73,140

総宿泊費  KSH18,956.7、ZAR924.15

総ロッジサファリツアー代  $2,650

総ケニアビザ代 ¥6,000

総黄熱病予防接種代 KSH450 (KSH1 = ¥1.9)

協力 ANA、シンガポール航空、南アフリカ航空、HILTONHHONORS、DoDoWORLD(http://www.dodoworld.com/)、PORT PUBLIC HEALTH OFFICE JOMO KENYATTA AIRPORT

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 黒島

マサよ、君は人より牛の数が多いモ~モ~ランドに上陸し、♪い~ま何時?♪ ♪ビーフあじ(時)♪というようなゆったりした時の流れを実感したことがあるか!?

12月15日(土)

午前6時35分発ANA993便にて沖縄入りし、さらにANA1763便に乗り継ぎ午前11時前に石垣島に到着した。早速予約しておいたスカイレンタカーでスズキのワゴンRをレンタルすると石垣島を代表する観光地である川平湾に向かった。日本で唯一の黒真珠の養殖で名を馳せている川平湾の駐車場には観光シーズンオフにもかかわらず多くの観光バスが停泊していた。

展望台から青く透き通る海と緑の島々の織り成す絶景に見とれた後、川平湾くんだりまで来てグラスボートに乗らなければ川平湾に来たことにはならないと言われているグラスボートに乗り込むことにした。尚、ボート会社は3社程競合しているため、一番活気のありそうな「まりんはうす ぐるくん」を選択し、¥1,000の乗船料を支払って浜に向かった。浜にはすでに宮里顔をしたおに~さんと色黒のおね~さんが待機しており、出航するとおね~さんが「いってらっしゃ~い!」という高い声で送り出すシステムになっていた。

船がポイントに到着すると船底に張られたガラス越しに百花繚乱のサンゴ礁群が姿を現した。恒例の枝サンゴやテーブルサンゴのみならずここにはブヨブヨ系のものやポテト状のものまでありとあらゆるサンゴの実態を観察出来るのだ。イソギンチャクにはオレンジ色の熱帯魚であるクマノミがしきりに出入りしており、ウミヘビはその縞々ボディをくねらせていた。さらに船は進むと財務官僚の2枚舌をほうふつとさせる二枚貝が生息するポイントに到着した。ここでは船のエンジン音を聞きつけておびただしい数の熱帯魚が集まって来ており、宮里顔のおに~さんはここの魚はうちの社員だとのたまっていた。給料は餌付け用の餌で船底に集散するようにトレーニングが施されているのだった。

川平湾を後にすると島の北部に向かってワゴンRを走らせた。日本一のヤエヤマヤシの群落を見上げて船底を見過ぎて下に曲がっていた首を正常な状態に戻すことに成功すると玉取崎展望台にて大阪からの修学旅行生が写真を取っただけで満足している実態を垣間見た後、島の最北端かつ突端部にある平久保崎灯台にてしばし風に吹かれていた。

ANAマイレージクラブダイヤモンド会員のみに与えられるホテルの無料宿泊券が余っていたのでマサであれば¥30,000以上かかるところを私はただで泊まることが出来る石垣全日空ホテル&リゾートにチェックインすると12月の遅れてきたリゾートを十分に堪能させていただいた。

12月16日(日)

石垣港離島ターミナルよりフェリーに乗り、30分程の航海で黒島に到着した。黒島港で能天気そうなおばちゃんがレンタサイクルの勧誘をやっていたので早速シートの硬いママチャリにまたがると島の散策を実行することにした。島随一のリゾートホテルである黒島マリンビレッジの敷地内に黒島研究所(http://www.umigame.net/ymprs.htm)なるファシリティが君臨していたので早速¥300の入場料を支払って研究させていただくことにした。ここでの研究成果はサンゴ礁やウミガメの生態に他ならないのだが、ミニミニ水族館には猛毒を持つサキシマハブが三角形の頭をもたげていたり、デリケートなので触ってはいけないウミガメの子どもがいけすで泳いでいる様子を見て和むことが出来るのだ。

好々爺の集団の井戸端会議場も兼務している黒島ビジターセンターを訪問し、隆起サンゴ礁で形成された黒島の実態と文化をインプットした後、直径3km、周囲13kmの島のメインロードを転がしているといたるところでハシブトガラスと黒毛和牛が島を牛耳っている様子を垣間見ることが出来るのだが、マサにこれこそが黒島の名前の由来ではないかと思われた。尚、この島では人類の数220人に対して牛は2800頭も暮らしており、島一帯がモ~モ~とした雰囲気を醸し出しているのだ。

島の北西部に西の浜というウミガメの産卵で有名な砂浜がある。ここからは遠く小浜島や西表島を見渡すことが出来ると同時に青く透き通った海と白砂のコントラストにより牛の残像を消し去ることが出来る絶好の癒しスポットとなっているのだった。

総飛行機代 \7,300

総宿泊費 \0

総レンタカー代 \3,360

総ガソリン代 \771

総バス代 \400

総フェリー代 \2,150

総レンタサイクル代 \1,000

総グラスボート代 \1,000

協力 ANA、ANAホテルズ、スカイレンタカー、(有)まりんはうすぐるくん

FTBSEA秘境ボルネオ島北部沿岸部にマレーシア近代都市は実在した!

建国50周年を記念したVisit Malaysia 2007というキャンペーンにより、観光客集めに躍起になっているマレーシアの国土はマレー半島だけでなく、ボルネオ島の北東部にも広がっている。高温多湿の熱帯雨林を育むボルネオ島は野生動植物の宝庫となっているのは言うまでもないのだが、豊富な天然資源にも恵まれ、それを発掘するための起点となる都市も発達しているのである。

2007年11月21日(水)

午後1時30分発のNH5851便、全日空とマレーシア航空のコードシェア便は満席の乗客を乗せ、午後8時過ぎには世界のベストエアーポートに選ばれたクアラルンプール国際空港(KLIA)に到着した。明日の早朝便に対応するため、今夜はホテルにしけこまずに空港内のベンチにごろんと横になり、意識朦朧のうたた寝状態で時間をやり過ごすことにした。

11月22日(木)

まだ意識が十分に回復していない午前4時にMH2638便に搭乗すると2時間半のフライトでボルネオ島の北東部に差し掛かったのだが、ふいにみそ煮や塩焼き、酢でしめられる青魚の感情がこみ上げてきた。飛行機から降りるとそこには「ようこそサバ!州」の横断幕がかけられており、観光熱のエネルギーとなるはずの油が乗ってきた感覚を覚えたのだ。

曇天の空模様の下、空港からコタキナバル市街地までの8kmの道のりを徒歩で移動し、汗とともに油を飛ばした後、スターバックスでカフェインを補給し正常な意識を取り戻した。早速サバ州の歴史をレビューするためにサバ州立博物館(RM15)に進軍することにした。原住民であるルングス族とムルト族のロングハウスを模した4階建ての本館にはサバ州の自然、動物、昆虫、サバ州がたどった歴史に関するものが展示されているのだが、第二次世界大戦中には日本の大東亜共栄圏の一部として天然資源を供給していた様子も垣間見ることが出来るのだ。また、隣接する伝統村には実際に使われていたロングハウスや伝統家屋を移築し、それらが周囲の池の水周りの環境にマッチするように屋外にモデルハウスよろしく展示されていた。

マレーシア国内で多数の信仰者を誇るイスラム教徒の心の拠り所になっている州立モスクに靴を脱いでお邪魔させていただき、信者の邪魔にならないように気をつかいながら内装の見学を実施した後、今回のツアーの宿泊地となっているル・メリディアン・コタキナバルにチェックインすると長旅と寝不足による疲れを取るためにダラダラと過ごさせていただいた。

11月23日(金)

コタキナバルから88km北東に東南アジアの最高峰として有名なキナバル山が頭を雲の上に出していると聞いていたのでミニバス(RM15)で2時間程かけてキナバル公園(世界自然遺産)まで足をのばすことにした。午前10時半頃に現地入りするとまず国立歴史ギャラリー(RM3)にてキナバル山の地形、植生、地質などを学習することにした。ここでは火山でないにもかかわらず、毎年数ミリづつ隆起しているキナバル山の色つき模型やムシキングに登場するであろう巨大色鮮やかカブト・クワガタムシの標本等を凝視することに成功した。

続いて山岳植物園(MR5)にて熱帯雨林に繁茂する木や草花を愛でた後、登山ゲートまでの4kmの道のりを歩くことにした。数多くのバス、タクシー、自家用車に抜かれながらも1時間程度で何とか標高1,890mの登山ゲートに到着した。キナバル山の登山道はよく整備されており、標高4,095mの頂上まで気軽に登ることが出来るのだが、登山のためには登録やガイドを雇ったりする必要があるので今回は固く閉ざされたゲートの前に立ち尽くして我慢するしかなかったのだ。尚、ゲートの近くに展望台があり、登山が出来ない輩はリュックを抱えて登山道を行き来する山男、山女を壁女の面持ちで指を加えて眺めることが出来るのだ。

登山ゲートからぬかるんだ川沿いのトレッキング道を経由してビジターセンターに戻り、そこでキナバル山のスライドショーや資料館を見物した。ボルネオ島にはここでしか見られない固有の植物があるのだが、食虫植物であるウツボカヅラや花びらが1mにもなるラフレシアが代表的なものである。尚、本物のラフレシアを見るためにはジャングルの奥深くにヒルに血を吸われながら侵入する必要があるので今回は近くに野ざらしにしてあるオブジェで我慢しておいた。

夕刻にコタキナバルに戻ってくると、シグナル・ヒルというダウンタウンと海や近隣の島を見渡せる高台からヒルに血を吸われる心配なく景色を堪能させていただいた。下界に戻り、沿岸部埋立地に広がるセントラルマーケットに焼鳥の煙に吸い寄せられるように舞い込んだ。夕方のマーケットには数多くの屋台が出店しており、地元で水揚げされた数多くの種類の魚や海老が炭火の上で焼かれたり、焦がされたりしており、椅子に座って格安ディナーを満喫することが出来るようなシステムになっていた。

尚、今夜は屋台ではなく、バナナ・リーフ・レストランというバナナの葉が皿代わりのインド料理屋に入店し、名物フィッシュヘッドカレー(時価)をRM18で発注した。この食い物は普通のカレーに地元で獲れたそれなりの大きさの魚の頭部と上半身が浸されており、小骨のハンドリングさえ苦にならなければ魚の頭部の髄から出たエキスとインドカレーの絶妙なコラボレーションを十分堪能することが出来るのだ。

11月24日(土)

コタキナバルの市街地は南シナ海に面しているものの埋立地が多く、海水浴を楽しむためには近郊の島々までボートで行くことが一般的になっている。トゥンク・アブドゥル・ラーマン公園という大小5つの島から成る海洋公園があり、その中のサピ島に最もきれいなビーチがあると聞いていたのでボート乗り場から高速ボート(往復RM17)を泳がせて上陸を試みることにした。ボートは高速モーターが付いているものの6人程度しか乗れない小型船なので波の影響をもろに受け、木の葉のように翻弄されながらも波の上をジャンプし、そのたびにケツに大きな衝撃を受けることとなった。

荒波でずぶ濡れになり、ボートのジャンプとケツを浮かせるリズムがかみ合ってきた頃、サピ島の船着場に到着した。ボートのパイロットからシュノーケルを受け取り、サービスかと思っていたがRM10を要求されたので支払いに応じながらサピ島への上陸を果たすことと成った。島の入り口で上陸許可料(RM10)を巻き上げられた後、ベンチの場所取りをして早速波に揉まれることにした。尚、レンタルしたシュノーケルは管を加える部分が噛み切られていたため、通常の水中めがねに成り下がっていた。

土曜日の島内には多くの地元イスラム教徒女性もにわかバカンスに来ており、彼女らは頭にスカーフを巻いたまま泳ぐ実態が確認出来た。ビーチとサンゴ礁が美しいサピ島とのふれ込みであったが、今回はサンゴ礁の死骸が足に食い込んできただけで生きたサンゴ礁に水中でお目にかかることは出来なかった。また、海の透明度はそんなに高くなく、魚も白身魚系のものを数尾目撃しただけであった。

マサよ、君は官僚組織内でトカゲのしっぽ切りに興じる輩に成り下がってないか!?

ということで、サピ島のビーチ自体は目を見張るほどのものでもないのだが、島の深部にはおなじみの熱帯雨林が広がっており、そこからバーベキューの残飯を求めて奴らがやって来るのだ!面長の顔にうろこに守られた流線型のボディ、腕立て伏せの出来ない短い手足をゆっくりと動かしながら体長1mにも達するほどのオオトカゲが数匹バーベキュー場を我が物顔で歩き回り、観光客に愛嬌と脅威を与えているのだった。

再びコタキナバルへの帰路へ着くためにボートに乗りこんだのだが、乗客はボ~として海に落ちても差し支えないようにライフジャケットが着せられているのだ。何とかトカゲやサメの餌にならずに生きながらえて帰って来れたので、今日はセントラルマーケットの屋台でディナーを満喫することにした。とりあえず名も知れぬ白身魚を指名し、車海老系の海老を2尾とパサパサのライスをプラスティックの器に盛っていただき夕飯としたのだが、トータルでRM18程度の支払いであった。尚、屋台の焼鳥系の串物の相場は1本でRM1(¥30)、3本でMR2なのだ。

11月25日(日)

早朝6時35分のMH2637便でKLIAに戻り、NH5852便にて午後7時くらいに成田に到着。切り取ったトカゲのしっぽをマサへの手土産にすることもかなわずそのまま潮が引くように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \2,180、マレーシア航空 = RM778.- (RM1 = \30)

総宿泊費 RM870.-

総バス代 RM30.-

総ボート代 RM17.-

総タクシー代 RM30.-

協力 ANA、マレーシア航空、STARWOODS

FTBSEAメコンの恵みラオス首都ビエンチャンツアー

ミャンマーの首都ヤンゴンのデモで長井映像ジャーナリストが殉職した。やんごとなきお方であったため、非常に悔やまれる出来事であったのだが、長いものに巻かれるマサの意思を汲んでFTBが満を持してミャンマーに乗り込むことも考えられたのだが、今回は隣国のラオスで勘弁していただくことにしたのだった。

10月5日(金)

午後6時10分発NH915便バンコク行きに搭乗し、機内映画のダイハードに主演するブルース・ウイルスの頭が眩しかったため、十分な睡眠が取れないまま午後11時頃にバンコクのスワンナブーム国際空港に到着した。空港からシャトルバス(THB150)に乗り込むと1時間程で繁華街のシーロム通りに君臨するホリデーインにチェックインし、そのまま今日のアクティビティを強制終了させることにした。

10月6日(土)

早朝5時半にホテルをチェックアウトすると通常であればTHB500程度しかかからないタクシー代をTHB800のお支払いで再びスワンナブーム国際空港に舞い戻ってきた。午前7時35分発のTG690便、B737-400機に搭乗すると1時間ちょっとでラオスの首都であるビエンチャン国際空港に到着した。

空港に到着するとラオスに入国するためには事前もしくは空港にてビザを取得するため、写真が必要だという衝撃の事実に直面してしまった。コピー用紙に印刷したしょぼい写真しか持ってなかった私はその写真でビザが取得出来るのか戦々恐々とした面持ちで1時間ほど列に並んでいたのだが、ビザの窓口のおばちゃんに日本人で3日間しか滞在しない輩にはビザは必要ね~ぜと言われたのでほっとすると同時にこの1時間の不安と焦燥は何だったのだろうと思わされた。

何とか入国を果たすと予約しておいたNovotel Vientianeホテルは空港からそんなに離れていないため徒歩で向かっていると雨が激しくなってきたので午前11時前にホテルにしけこみ、Early Check inにもかかわらず部屋を提供していただけたので社会主義国にもかかわらず放映されているESPNの大リーグ放送を見ながら雨が止むまで時間潰しをしていた。

午後になって天候も小康状態を取り戻したので雨上がり決死隊を結成して町に繰り出すことにした。ビエンチャンは首都とはいうもののバンコクのような毒々しい高層ビル群はなく、通常のアジアの田舎町の様相を呈していた。また人口も少なく、人民の性格も控えめなのでトクトク等の乗り物に対する勧誘もマイルドに抑えられているのである。仏教国であるラオスには数多くのワット(寺院)があるのだが、タートダムという苔むした黒色の塔が町の中心で異様な存在感を示していた。

ビエンチャンの中心をほぼ南北に貫く大通りであるラーンサーン通り沿いにタラートサオというラオス最大のマーケットがある。ここにはさおやサオ竹だけでなく、食料品から衣服、電化製品等あらゆるものが販売されているのである。ラーンサーン通りの終点にパトゥーサイというパリの凱旋門を彷彿とさせる塔が町のランドマークのいでたちで立ちはだかっている。これは戦死した兵士の霊を慰めるために建てられた戦没者慰霊塔であり、ビエンチャンのシンボルとして堂々とした威容を示しているのだ。

ラーンサーン通りを南下し、ホワイトハウスと呼ばれる迎賓館を横目にタイとの国境を形成するメコン川の河畔に到着した。河岸には夕暮れ時から屋台が並ぶとのことで原住民は設営や仕込みに余念がない様子であった。ここでも観光客に対する押しの弱い呼び込みが展開されていたのだが、もう一雨きそうだったので今晩は撤収し、ホテルのレストランで魚の揚げ物を食いながらお茶を濁すことにした。

10月7日(日)

今日もすっきりしない天候ながらも何とか曇り空を維持していたので、ホテルでUS$を現地通貨であるキープに両替していただき、本格的に町に繰り出すことにした。町の北東部に45mの黄金の塔がビエンチャンのみならずラオスのシンボルとして光り輝いているので見物を決め込むことにした。タートルアン(Kip500)の起源は紀元前3世紀までさかのぼるといわれ、当時はクメール様式の仏塔が建てられたらしいが、現在は何年かおきに黄金に塗り直されている眩しい建造物になっている。

ラオスの考古学的な遺品、内戦時代の武器と現在の社会や経済を展示したラオス国立博物館(Kip10,000)にて遅まきながらラオスの歴史を学習させていただくことにした。ここではフランス植民地時代から社会主義革命にかけて、ラオス人民が圧政とどのように戦ってきたかが時系列でわかるようになっているのだ。

昨日ちら見した凱旋門もどきのパトゥーサイは展望台(Kip3,000)も兼ねているのでらせん状の階段を登り、内蔵されたみやげ物売り場を抜けて頂上からビエンチャンの景色を一望した後、オアシスというラオス伝統マッサージ屋でフットマッサージ(Kip40,000)を受けながら足に溜まった乳酸を拡散させることに成功した。

オアシスで一服の清涼剤のような爽快感を得ると丁度夕暮れ時になってきたのでメコン河岸を散歩がてらぶらぶら歩いているとメニュー片手に私の前に立ちふさがる青空食堂の客引きに捕まってしまったのでしょうがなく川べりの特等席につかせていただくことにした。とりあえず地ビールであるビア・ラーオとトムヤム系のスープと焼き魚と白ご飯を発注すると、出てきた瓶ビールはこの青空環境では信じられないほどキンキンに冷却されていた。川を眺めていると長尺のボートを駆る2人組みの漁師が川に網を投げ込んでしきりに魚を引っ掛けようと躍起になっていたのだが、私に供された焼き魚は明らかに目の前の川で水揚げされたものであった。私の口にしたものは普通の魚の塩焼きには違いないのだが、その白身魚は驚くほど美味であった。尚、その食堂とは関係のないおばちゃんやおね~ちゃんが常にあたりをうろついておりスルメとスルメあぶりキットをぶら下げて虎視眈々とイカの売り上げ増を狙っていたのだった。

10月8日(月)

タラートサオのバスターミナルからおんぼろバスに乗り、45分程でタイとの国境を形成するメコン川に架かる友好橋に到着した。その後、道は未舗装の凸凹道になり、合計1時間程かけてブッダパークに到着した。ここは正式にはワットシェンクワンという寺院だが、多くの仏体が無造作に置かれているところからいつの間にかブッダパークと呼ばれるようになったという。なるほど巨大な寝仏をはじめ数多くの仏体にお目にかかることが出来たのだが、所詮は出来損ないの箱根芸術の森美術館だとブッタ切られても仕方のない代物であると思われたのだ。

バスでビエンチャンに戻り、ワットホーパケオ(Kip5,000)、ワットシーサケート(Kip5,000)といった正統派の寺院を見学し、何とかブッダパークの残像を消し去ることに成功した。これらの寺院は博物館になっており、本堂は歴史的価値も高く、寺を守る仏像たちも細い目を開けながら侵入者が入ってくれば「ぶつぞ~」というような雰囲気を醸し出していた。

マサよ、君はぬるまビールを片手にメコン河畔に沈みゆく太陽を見ながら郷愁に耽ったことがあるか!?

ということで、ラオスの最後の晩餐を飾るべく、メコン河岸をさまよっていると座敷を供えた青空食堂のおに~ちゃんが控えめに客引きしてきたので誘いに乗ってやることにした。座敷童子になった気分で特等席に陣取り、正三角形背もたれ座布団に体を預けようとすると汗臭いすえた香りが漂ってきたので前かがみの体勢で接触を避けることにした。早速ビア・ラーオとポテトフライと鶏肉のしょうが焼きを発注したのだが、出てきたビールは昨日の他の食堂のものとは打って変わって生ぬるいものであった。しかしながら、それは郷愁を誘うような生ぬるさであり、大河の暮れなずむ風景と相まって再びラオスへ来なければならないのではないかと思わせるようなセッティングとなってしまった。

午後9時30分発TG693便にてバンコクへ戻り、成田へと帰るANAのNH916便はお約束のビジネスクラスへのアップグレードとなった。同便は早朝に成田に到着するため、スチュワーデスからたたき起こされて朝飯を食わされるのがよいのか、そのまま寝過ごす方がよいのか選択を迫られたのだが、とりあえず飯は食うぜと注文しておいた。

10月9日(火)

午前8時過ぎに成田に到着、そのまま流れるような勢いで会社に出社。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \7,540  タイ国際航空 = THB8,340

総宿泊費  THB3,204.97  $151.8

総空港バス代 THB150

総タクシー代 THB800

総ラオスバス代 Kip4,000

ラオス国際空港使用料 $10

協力 ANA、タイ国際航空、PriorityClub(http://www.ichotelsgroup.com/h/d/6c/490/ja/home

FTB発掘あるあるインカ帝国調査イインカイツアー(捏造なし!)

FTBではこれまでマヤ文明、アステカ文明、エジプト文明等数々の古代文明の謎を解明してきたが、今回はインカ帝国調査委員会を立ち上げ、捏造ではない本物の謎の究明に立ち向かうため、ペルーへと旅立つことにしたのである。

2007年8月11日(土)

盆、暮れの繁忙期にはエコノミークラスが満席となるため必ずビジネスクラスにアップグレードしていただけるNH8便サンフランシスコ行きに乗り込むと追い風にうまく乗り切れないため1時間の遅れを出しながら午前11時にやっとのことで地元サンフランシスコに到着した。早速BARTでバ~とダウンタウンに滑り込むとその足でサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であるAT&Tパークに向かった。

今回のMLB観戦のハイライトはスーパースター、バリー・ボンズの756号ホームランボールの争奪戦に勝利し、そのボールを福岡に持ち帰り王監督のサインをもらってe-Bayに出品し、高値で売り抜ける予定であったが、すでに兵どもが夢のあと状態だったため、何の変哲もない野球観戦に成り下がってしまっていた。桑田が桑わっ田ピッツバーグ・パイレーツとの試合は午後12時50分にプレーボールとなったのだが、私が見たかった出来事であるボンズのホームラン(758号)と桑田の登板はすでに昨日の出来事となってしまっており、今日はボンズは休養日で大量リードで勝利したパイレーツは桑田を出す機会がなく、唯一の見所は過去の遺物となった投手が捕手のサインを覗き込む時の「パイレーツだっちゅ~の」のポーズだけであった。

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野球観戦終了後、次のフライトまでの空き時間を潰すべく、$5に値上されているケーブルカーには乗らずにその横を歩きながらダウンタウンの観光を実行することにした。夏休みの観光スポットはどこも家族連れで賑わっており、ケーブルカー乗り場には長蛇の列が出来ており、観光客は箱乗り状態でアップ・ダウンを楽しんでいた。

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8月12日(日)

思わず相方のトシに「欧米か?」と突っ込まれそうになるタカ・ペルー航空が運航する午前1時20分発TA561便にチェックインする際に目的地は「南米か?」と聞かれたのでペルーのリマだと答えておいた。4時間以上のフライトで中米エル・サルバドルの首都サン・サルバドルに到着し、この空港で5時間近くを座り心地の悪い椅子の上で不貞寝をしてやり過ごし、さらに5時間以上のフライトでリマのホルへ・チャべス国際空港に到着したのは夕方の6時半過ぎであった。何故か手元にあったユーロを現地通貨であるソルに両替した後、本日の宿泊地であり、セントロに位置するシェラトンホテルまでの交通機関を探していると日本の三井物産が経営しているMITSU TAXIに捕まってしまったので仕方なく、相場より高いUS$27を支払って実車することにした。ホテルまでの道すがら、私を上客だと判定した運転手から巧みな営業を仕掛けられ、今後空港までの行き来に関してはすべてMITSU TAXIをチャーターすることになってしまった。

8月13日(月)

STAR WOODSのポイントが余っていたため、マサであればUS$100以上かかるところを私はただで宿泊することが出来たシェラトンホテルをチェックアウトすると、早朝7時に迎えに来たMITSU TAXIに乗り込み、昨日着いたばかりの空港に舞い戻った。リマ ⇔ クスコ間のフライトは多くの航空会社が参入し、競争が激しくなっているのだが、その中の代表的なエアーラインであるアエロ・コンドルを選択しようとしたところ「混ンドル!」と拒否されるのを恐れてWEBから容易に予約の出来たSTAR PERUの1117便に搭乗し、午前9時15分にリマをコンドルのように飛び立った。上空から下界を見下ろすと茶色い不毛の大地が果てしなく広がっており、起伏に富んだアンデスの遠景を鳥瞰することに成功した。

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午前11時前に標高3,399mのクスコ空港に着陸し、空港外でラジオタクシーを捕まえると翌日に控えたマチュピチュ行きの列車のチケットを現地手配すべく、ワンチャック駅へ向かった。南米独特のスローサービスにより、何人もの旅行者がチケット購入待ち状態になっていたのだが、皆文句も言わずに待合室でインカ帝国探訪に思いを馳せており、怒りの火花が導線に引火することもなかったのだ。

駅到着1時間後に何とかチケットの購入に成功すると念願の古都クスコ(世界文化遺産)の散策に乗り出すこととなった。クスコはかつて北はコロンビアから南はチリ北部まで、南北4,000kmもの地域を支配していた南米最大の王国、インカ帝国の首都であった。1534年にスペイン軍の侵攻を受けると町は崩壊したのだが、新たに精巧なインカの石組みを基盤としたスペイン風の街並みが建造されたのだ。その代表的な建造物としてサント・ドミンゴ教会(S/.6)がインカの石組みに支えられた状態で今なお堅牢さを誇っているので手始めに見学させていただくことにした。ここはインカ時代にはコリンカチャ=太陽の神殿として君臨し、内部は眩いばかりの金で装飾が施されていたのだが、黄金に目がくらんだスペイン人がすべて略奪し、延べ棒に変換して本国に送信してしまったのだ。しかし、黄金がなくなった今もその美しい石組みは健在でインカの建材加工の精密さを長きにわたって伝承しているのだ。

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200mも続く石組みが残るロレト通りを歩いていると高地での酸素不足からろれつが回ってないのを感じながらも何とかクスコの中心であるアルマス広場に到着した。スペイン式町造りは中心にアルマス広場をおくことから始まるのであるが、偶然にもインカ帝国の町造りも広場が中心だった。ここは広場を見下ろすカテドラルをはじめ、レストラン、旅行会社、土産物屋に囲まれた最大の観光拠点となっている。

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髭剃りメーカーのジレットがじれったく感じる「カミソリの刃1枚すら通さない」と言われるインカの石材建築を象徴する物件として宗教芸術博物館があり、その建物を支える礎石として12角の石が有名である。通常の石組みであれば4角形で十分なのだが、あえて難度が高い多角形に挑戦し、ピッタリと寸分の隙間もなく、しかも接合剤も使わずに組み上げ、数度の地震を乗り越えながら何百年もの間ビクともしていない様子は日本の城郭を支える石垣とは趣の異なる美意識を感じさせる代物である。尚、12角の石よりも小ぶりであるが、近辺に14角の石もひっそりと佇んでいるのだ。

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夕暮れ時にアルマス広場に立ちふさがるカテドラル(S/.16)に侵入した。この物件はインカ時代のピラコチャ神殿の跡に建造されたもので、1550年に建築が始まって完成したのは100年後と言われている。内部にはトポシの銀300トンを使ったメインの祭壇が鎮座しており、約400ある宗教画の中ではクスコ名物のクイ(テンジクネズミ)が盛られてある「最後の晩餐」が目を引いた。

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マサよ、君は空気が薄くて寝苦しい夜を過ごしたことがあるか!?

楽天トラベルに予約させておいたSan Agustin Plazaホテルの予約が通っていないという危機に直面したため、系列のSan Agustin Internationalと交渉し、新たにディールを成立させて宿泊したその夜は高地に位置するクスコの空気が薄いため、呼吸困難を経て意識不明状態に陥り、見事睡眠状態を達成するという荒業が完成されたのだった。

8月14日(火)

午前5時前に何とか蘇生し、5時より供されている朝飯を食ってホテルをチェックアウトし、マチュピチュ行きの列車が発着するサン・ペドロ駅に向かった。クスコからマチュピチュへは鉄道でアクセスするのが一般的になっており、通常早朝に数本の列車が出るのみである。午前6時15分に発車したビスタドームと呼ばれるパノラマ列車内ではペルーの旅行会社であるミッキーツアーの日本語をしゃべるペルー人のツアーガイドに席が進行方向ではないと文句を言っている日本人観光客の愚痴と隙間風のように入り込んでくるディーゼルの排気ガス以外は快適な環境が提供されていた。4,000m超の山を越えるため、3回のスイッチバックを繰り返しながら列車はゆっくりとクスコの街並みを見下ろすように進み、その後車窓は次々にとうもろこし畑、アンデスの雪山、マチュピチュ近辺のジャングルといったものを映し出していった。

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わずか114kmの距離を4時間以上かけてマチュピチュ村にあるアグアス・カリエンテス駅に10時半頃到着し、観光案内所でマチュピチュの入場券(S/.120.50)を購入するとシャトルバス(US$6)に乗り込みつづら折の未舗装道路を30分くらいかけてマチュピチュの入り口に登りついた。インカ帝国を語る上で数々のテレビ番組で「空中都市」、あるいは「失われた都市」として取り上げられているマチュピチュ(世界文化自然複合遺産)は15世紀前半、スペイン軍によるインカの都市の破壊を免れるために標高2400mに造られており、無傷のままインカ帝国滅亡から400年近くを経過した1911年にハイラム・ビンガムに発見されたのだ。

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午前11時過ぎより早速マチュピチュの謎の解明に取り掛かることにしたのだが、手始めにマチュピチュの背後にそびえる峰であるワイナピチュに登頂することにした。ワイナピチュへの入山は一日400人に限定されており、何とか400番目の入山権利を首尾よく入手すると断崖絶壁で急勾配の道をピチュピチュと汗を滴らせながら進むトレッキングをスタートさせた。眩い太陽の下、過酷な坂道を40分ほど登ると、頭上にインカの遺跡が見えてきた。さらに岩の下に空いた洞窟を抜けると頂上に到達し、巨大な岩の上で多くの観光客がマチュピチュの遠景や周囲の山々を覆うジャングルの景色に見入っていた。頂上からマチュピチュを見下ろすと遺跡が尾根にあるのがよくわかり、そこに到達するためのシャトルバスの路線がつづら折状に山間に美しくつづられているかのようだった。

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ワイナピチュから滑落することなく来た道を逆方向にチュピチュピと下山することに成功したので遺跡の隅々を隈なく調査することにした。マチュピチュの食生活を支えるために重要な役割を果たしていた段々畑が大きなスケールで広がっており、遺跡の中心部には石を削って造られた水路が張り巡らされ、きれいな山水が流れていた。また、遺跡の中央には太陽の神殿が君臨しており、石で描かれた美しい曲線が目を引いた。神殿の下は陵墓になっており、ミイラの安置所だったと思われる。

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マチュピチュの最高点にインティワナと言われる高さ1.8mの日時計が時を刻んでいる。その眼下には糸のように細いウルバンバ川とめまいをおこしそうな絶壁が見下ろせる。高台に沿って神聖な広場と3つの窓の神殿を抜け、市街地を通り過ぎ、最も定番のマチュピチュの風景が撮影できるポイントである見張り小屋に登った。記念写真の順番待ちをする観光客の合間を縫って風景を撮影していると飼いならされているリャマの集団に遭遇し、砂浴びの砂嵐を見舞われてしまった。

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マチュピチュを発見したアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムの名を冠したバス道ではなく、下山道はジャングルを切り開いた階段道を選択し、1時間ほどで麓のマチュピチュ村に帰った来た。ミッキーツアーによる日本人観光客に占拠されているHOSTAL ELSANTURIOにチェックインした後、村の散策に乗り出すことにした。村長の多忙さを尊重して面会は申し込まなかったものの、村内にはインターネットカフェやトレッキングで疲れた肉体を癒すためのマッサージ屋、さらにはアンデアンスパという温泉まで沸いているのだ。

8月15日(水)

早朝よりバスに乗り、再びハイラムビンガムロードをくねくねとドライブし、マチュピチュの入り口に到着した。ここで直面した衝撃の事実は大金をはたいたにもかかわらず、入場チケットは有効期間は3日であるが、1回入場すると無効になるという事実が私の理解しないスペイン語で書かれているということであった! やむなく空中都市から地上に舞い戻ると列車の時間を変更してもらい、9時15分発のオリャンタイタンボ行きのバックパッカー列車に乗車した。

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6000m級の山々に囲まれたインカの聖なる谷のほぼ中心に位置するオリャンタイタンボ(S/.70=周遊チケット)はインカ帝国時代の宿とも要塞跡ともいわれており、300段の階段に沿ってタンボの代わりに段々畑が斜度45度の斜面に造られている。300段の階段を登りつめると広場に出た。広場の周辺には恒例のインカの石組みが続き、中央には6個の巨石を並べた不思議な建造物が残っている。一説によると太陽の神殿の作りかけではないかと言われているが、いずれにしてもこの急斜面をどうやって持ち上げたのか謎は残ったままである。

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オリャンタイタンボで乗り合いタクシーに乗りあって午後5時くらいにクスコに戻ってきた。街中では何らかのフェスティバル&カーニバル系の催し物に遭遇し、原住民ギャルが脚線美を見せ付けるように踊り狂っていた。夕暮れ時にクスコの市街を見下ろせる高台にあるサン・クリストバル教会に息を切らせて駆け上がり、たそがれる夕暮れの風景にインカ帝国への思いを馳せることにした。

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アルマス広場に戻り、民芸品を売りつけようとするアンデスの民の攻撃を避けながら、日本食堂であるKINTAROに非難し、マスの塩焼きを食っていると熊と相撲を取ったときのような振動を感じて思わず店員と顔を見合わせてしまった。これが何百人もの命を奪った大地震であることをその時点では知る由もなかったのだった。

8月16日(木)

早朝7時30分発のSTAR PERU航空でリマに戻り、待ち構えていたMITSU TAXIでダウンタウンに向かい、かつてフジモリが仕切っていたペルーの心臓部への侵入を果たした。1535年の建設以来、、南米におけるスペイン植民地の中心として栄えたリマは今では旧市街のセントロと新市街のミラフローレンス地区に分かれているのだが、まず手始めに世界文化遺産に登録されているセントロの中心であるアルマス広場を訪問した。

アルマス広場の正面に堂々とそびえているカテドラルはコンキスタドール(征服者)の総督フランシスコ・ピサロにより」礎石が置かれ、リマ建設と同時に建立されたものだ。その脇には1587年建造のペルー政庁が構えており、毎日正午を迎えると衛兵交代式が行われるので話の種に軽く見学させていただいた。

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旧市街で最も美しいと言われるサン・フランシスコ教会・修道院に宗教博物館(S/.5)が開館していたのでスペイン語のガイドツアーに便乗させていただくことにした。丁度現地在住であると思われる日本人のおじいちゃんを訪問した家族集団と一緒だったのでおじいちゃんの中途半端な解説を聞きながらのツアーとなった。ここでの最大の見所は地下にある墓地カタコンベである。天井の低い暗い地下室には長方形の囲いの中に人間の手足の骨が詰め込まれ、さらに奥にある大きな穴の中にはドクロが渦状にまるで芸術品のように並べられているのだ。

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セントロのアルマス広場とサン・マルティン広場を結ぶラ・ウニオン通りを通っているとどこぞの国のTV局の取材クルーが地震被害の取材を行っている様子でガラスが軽く割れているビルは立ち入り禁止の黄色いテープが施されていた。

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すでにリマでの定宿となった旧市街のはずれに位置するシェラトンホテルから新市街へのシャトルバンが出ているので便乗してミラフローレンス沿岸沿いにあるラルコ・マルというショッピングモール、ダイニング、エンタメ系の複合ファシリティにたどり着いた。ラルコ・マルの展望台からは太平洋が一望出来、そこから徒歩10分位のところに位置する恋人達の公園という海岸公園には日本柔道協会が公認しそうなケサ固めによる押さえ込みのモニュメントが置かれていた。

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8月17日(金)

早朝より再びアルマス広場を訪れ、2001年に破綻したフジモリ政権に別れを告げると、ホテルに迎えに来たMISTU TAXIに乗り込み、空港への帰途に着いた。尚、今回の地震で最大の被害を受けたイカ州はナスカの地上絵の観光拠点となっている場所で今回は予定していなかったのが幸いした。もしイカにいた時に地震に遭遇していたら崩壊したビルの下敷きとなり数日後にスルメの状態になって発見されていたかも知れない。

リマのホルへ・チャべス空港からTACA PERU航空に乗り、再びサン・サルバドルを経由してサン・フランシスコに帰る機内で黄色い液体であるインカコーラを痛飲しながら、ペルー人にイイン加減な奴だと思われることなく帰路に着いた。

8月18日(土)

サン・フランシスコよりNH7便に搭乗し、機上の人となる。正露丸を飲みながら乗務している気分の悪そうなスチュワーデスがいたが、救いの手を差し伸べることが出来なかった。

8月19日(日)

ペルーで地震が起こった時には無事帰国出来るかどうか自信がなかったが、何とか成田空港に到着し、そのまま流れ解散。しかし、むしろこの地震を理由に会社には帰国出来なくなった旨を伝え、ボランティア活動に移行すべきではなかったかとも思われた。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥207,290、TACA航空(UNITED) = ¥96,690、STAR PERU = US$209.44

総ペルー空港使用料 US$42.5

総宿泊費  S/.1,007.16、US$99.96、¥6,000

総BART代  US$10.3

総MITSU TAXI代  US$108

総ペルータクシー代  S/.20

総PERU RAIL代  US$96.5

総マチュピチュシャトルバス代  US$12

総サンフランシスコタクシー代 US$16

協力 ANA、TACA航空、STAR PERU航空、STAR WOODS、MITSU TAXI、PERU Rail

FTBふしぎ発見 魚が空を泳ぎ、鳥が水中を飛ぶ神秘!九寨溝ツアー

マサよ、君は♪右から来たものを左に受け流す♪ような安易な仕事を日々繰り返していないか!?

ということで、食料不足と見受けられる中国において肉まんの具としてダンボールが使用されていることが明らかになった。しかもテレビのインタビューで激怒していた3年以上もその肉まんを食わされていた北京市民がいかにも健康そうに見えたということもあり、今後は日本でもダンボールが新しい食材として注目されることは明らかである。これはマサに右から来たクレームを左に受け流す体質の中国当局の快挙とも言えることであろう。何はともあれ、今回のFTBでは中国食文化の中心地四川省に侵入し、中国の隠匿体質を体得するとともに農水省に絶対ばれない偽装の奥義を伝授するためのプロジェクトが実行に移されることになるのである。

2007年7月21日(土)

午前10時10分発ANA909便香港行きは定刻どおりに出発し、午後2時前には香港国際空港に到着した。次の便に乗るまでに4時間程度の時間を持て余すことになるのでとりあえず香港に入境し、空港バスで東涌に向かった。MRT東涌駅構内におびただしい数のアウトレットショッピングセンターが開業していたので買う気もないのにウインドウショッピングを決め込みながら時間をやり過ごした。

再び香港空港に戻ると、ブルース・リー系のエアーラインであるはずの香港ドラゴン航空のチェックインカウンターであらかじめ予約しておいた成都行きのチケットを受け取るとKA824便は定刻通り、18:55に出発することとなった。ちなみにA-320機の機内を彩るスチュワーデスは厳しいドラゴンへの道を勝ち抜いたきたであろういずれも精鋭ぞろいであることが確認された。何とか死亡遊戯のような危機的状態に陥ることなく、午後9時半には無事に成都双流国際空港に到着し、空港バス(10元)で成都の中心部を目指した。四川省の州都である成都はサタデーナイトの盛り上がりの余韻を残しているかのような賑わいで、マックやスタバ等の米系ファストフードはいずれも24時間営業でナイトフィーバーを演出していた。本日の宿泊先であるはずのダウンタウンのホリデーインに乗り込むと、実は私がネットで予約しておいたホテルは郊外だという衝撃の事実に直面してしまったため、タクシーを捕まえて、世紀城という国際展示場に付属しているホリデーインに到着し、明日からのFTBふしぎ発見に備えてとっとと不貞寝を決め込むことにした。

7月22日(日)

ホテルからタクシーで空港まで走り、四川航空のカウンターでネットで予約することが出来なかった九寨・黄龍空港行きのチケットを手配することと相成った。チケットカウンターのおね~ちゃんは中国語しかしゃべりやがらなかったのだが、言ってることはわからないが、相手の心を読むことが出来る私は首尾よく9時20分発のチケットを入手することに成功した。ところが、当便は中国語のヒアリング能力がない私には理解することが出来ない理由で3時間以上の遅れを発生させたために九寨・黄龍空港に到着したのは午後2時を過ぎた時間であったのだ。

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標高3,400mに位置する九寨・黄龍空港は九寨溝から90km離れているため、寝不足と空気の薄い中、意識を失いかけながらタクシーに乗って午後4時過ぎに九寨溝入り口に到着した。今日は目的地に着いた時間が中途半端だったので九寨溝遊客中心(ビジターセンター)をちら見した後、予約しておいた☆☆☆☆☆ホテルである九寨溝喜来登国際大酒店(シェラトン)に徒歩で向かうことにした。途中道路沿いを流れる川があり、水の色が異なる2つの流れが合流するポイントではそれらの色が混ざり合うことなく平行して流れており、否が応でも何かの不思議が発見出来る予兆を示しているかのようであった。

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7月23日(月)

マサよ、君は魚が空を泳ぎ、鳥が水中を飛ぶ光景を目の当たりにしたことがあるか!?

そんなシーンの演出はテレビの撮影クルーに任せておけ!!

ということで、数年前に一流クイズ番組である世界ふしぎ発見で当時はまだメジャーではなかった九寨溝が取り上げられ、その神秘的な美しさで黒柳徹子の玉葱から芽が出るほどの感動と驚きを覚えたFTBは必ずここに来なければならないと常々考えてきた。数年の時を経て今回は総統自らミステリーハンターとして名乗りを挙げ、満を持して約束の地に乗り込むこととなったのだ。

大酒店とは言え、大酒飲みとは縁遠いシェラトンホテルを出発し、午前8時過ぎには九寨溝の入り口にたどり着くと、そこはすでに割れんばかりの数の観光客で膨れ上がっていた。チケット売り場で入場料(220元)と観光車(90元)がセットになったチケットを購入すると1992年に世界自然遺産に登録された九寨溝国家級風景名勝区への第一歩を踏み出すこととなった。尚、環境保護のため、風景名勝区内を走るバスはすべて天然ガスを利用するものになっているため、まずは長蛇の列の最後尾に並びバスの順番待ちをしなければならないのだ。

何とかバスに乗り込み、車窓からあたりを見渡すと今まで見物してきた奥入瀬や尾瀬の景観が一瞬で消し飛んでしまうかのような絶景が次から次に目に飛び込んできた。途中原住民であるチベット族の居住地を横目にバスは観光客がアクセス出来る最深部である長海に到着した。この長海は標高3,100mの地点にある、長さ8km、幅4.4kmの海子でその規模は九寨溝最大を誇り、氷河の侵食によって形成された凛とした雰囲気を称えている。長海から1kmほど戻った地点に佇んでいるのは五彩池である。深さ6.6mの青透明のこの海子を目にしたとき、マサにこの景色がテレビで見た九寨溝であり、自分が今その場に立っている感動がこみ上げてきたのだった。

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再びバスに乗り、途中観光客センターで下車し、近くにあるチベット寺院を清掃している清楚な美女に見とれた後、別の景区行きのバスに乗り込み、最深部の原始森林景区に降り立った。杉系の樹木で覆われている太古からの原始林で森林に浴するとその足で森林からの堆積物により緑濃くなっている天鵝海にたどり着いた。敷物のように草花が茂っている浅瀬は白鳥の飛来地になっており、冬場にはチャイコフスキーもシュプールを描きたくなるほどの白鳥の湖が出現すると言われている。

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目まぐるしく動く雲の隙間から滴り落ちる雨が激しくなってきたのでバスで5kmほど戻りそこから整備された遊歩道を歩くことにした。かつて多くのパンダを目の当たりに出来たという熊猫海から流れ落ちる熊猫海瀑布では気分ランランで観光していた観光客が雨のためカンカンになっているのではないかと懸念されもした。

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マサよ、君はクリスタルひとし君よりも透明感のある海子でブルーな気分に存分に浸ったことがあるか!?

というわけで、熊猫海瀑布の下流には魚裸鯉と言われる無数の原住魚がゆらゆらと泳ぎ、やつらを生息させるその海子は神秘的なブルーの様相を呈していた。ここは九寨溝の中で最も美しいといわれる五花海であり、浅い湖底には乳白色になった倒木が横たわり、青い湖水と相まって幻想的な雰囲気を醸し出している。

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五花海の美しい景色を背景にB級中国俳優を起用していると思われるウエディング系の写真撮影が行われていたので便乗見学させていただいた。尚、五花海の美は水底に堆積しているカルシウム、マグネシウム、銅といったミネラル系のイオンや藻類、コケ類が太陽光線の屈折と散射を受け、青、緑を主とする色とりどりな色彩から形成されていることが確認された。

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五花海のさらに下流に珍珠灘瀑布という幅約200m、最大落差40mの雄大かつ壮大な滝がマイナスイオンを提供している。ここでは板東英二をほうふつとさせるうっとおし系のおやじが記念写真のベストポジションを求めて仁義無き戦いを展開させていた。動的な滝を後にすると今度は対照的に静的な鏡海がさざ波ひとつない湖面に周囲の木々や山々の風景を鏡のように映し出しており、静と動の絶妙なコントラストに言いようの無い感動を覚えてしまった。

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すでに十数キロもの距離を歩いているので九寨溝を走るバスに救済を求めて次の景区へ向かった。九寨溝を形成する”Y”字の谷の中心に樹正溝景区が広がっている。この地域は樹海の中にいくつかのコバルトブルーの海子を擁し、周辺の広葉樹が赤黄に染まる秋の紅葉時には観光客の気分も高揚すると言われているのだ。

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7月24日(火)

九寨溝の観光にマックのポテトのように必ずセットとして着いてくる観光地である黄龍を目指すために九寨溝バスセンターに赴いたのだが、あいにく黄龍行きのバスが売り切れとなっていたため、即座にマスターズチョイスを行い、高いタクシーを使ってでも黄龍に乗り込むことが決断された。標高2,000mの九寨溝入り口から人里離れた山道をぐるぐる回り雲を見下ろしながら、2時間以上のドライブで9時過ぎに黄龍国家級風景名勝区(世界自然遺産)に到着した。

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早速チケット売り場で入場券(200元)を購入し、標高3,000mを超える過酷なトレッキングをスタートさせた。風景区内は九寨溝と異なり、バスが連なる喧騒は無く、橋板からなる桟道が非常に整備されているため、周囲の風景に非常にマッチしていた。また、黄龍の周囲をぐるりと取り囲んだ高峰の眺望はすばらしく、そこからの雪解け水と地下水の炭酸カルシウムが相まって乳白色の結晶体を作り、特異な景観を作り出しているのだ。

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ゆるやかに登る桟道には多くの休憩用のベンチが据え付けられ、いくつかのポイントには無料酸素吸入所が息苦しい観光客の呼吸の一助となっていた。龍が舞い昇るような黄色い棚田状の器には上流から透明な水が絶えず流れ込み、LIVE中国ANAのキャンペーンで現地を訪れた速見もこみちが興奮して股間をもっこりさせていたのも無理のないことだと思われた。

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入り口から4km以上先には黄龍寺が参拝者の供える線香の煙をもくもくと吐き出し、その先が終点の五彩池となっている。五彩池は黄龍区内最大の池グループで浅い池に流れ込む水と湖底の堆積物が相まって様々な色彩のページェントを演出し、観光客の目を楽しませているのだ。

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午後2時過ぎにはすでにおびただしい数の観光バスが駐車場から道路に溢れている黄龍から撤収し、高地トレーニングにより著しく増加させたヘモグロビンを土産に九寨・黄龍空港を後にした。成都の世紀城のホリデーインに戻ってきた頃には丁度夕飯時となっていた。四川省くんだりまで来て麻婆豆腐を食わないと陳健一にチンケな奴だと罵られることを恐れてホテルのレストランで名物坦坦麺とともに麻婆豆腐と白ご飯を発注した。さすがに本場の麻婆豆腐だけあり、口当たりの辛さはそんなに感じなったものの、額から滝のような汗が流れるとともに翌朝には肛門にまでヒリヒリ感を残す代物であった。尚、味自体は陳健一がプロデュースしている渋谷セルリアンタワー(http://www.ceruleantower-hotel.com/restaurant/chen.html?link_id=re_ch02)の中華レストランで暴利を貪っている麻婆豆腐と変わらないものの、ここホリデーインではわずか66元の支払いで青島ビールを含めたすべてのディナー代をまかなうことが出来たのであった。

7月25日(水)

午前8時20分発のKA825便で成都を後にし、香港経由で成田に戻り、これからは脱税の技術に優れた周富徳派をやめて陳健一をサポートすることを誓いながら、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥70,640、香港ドラゴン航空 = HK$2,817、四川航空 = 2,010元

総宿泊費 2,886元

総タクシー代 1,142元

総バス代 10元

協力 ANA、香港ドラゴン航空、四川航空、Starwood、Priority Club

ゲゲゲのFTB&大山

♪ゲ・ゲ・ゲゲゲのゲェ~ 夜は銀座でうんどうかぁい♪(by 財務官僚)

マサよ、君はマサか♪楽しいな たのしいなぁ♪と歌いながら夜な夜な公的資金を使って北の新地で飲んだくれていないだろうか?

6月16日(土)

というわけで、午前7時10分発ANA811便米子行きに搭乗すると1時間ちょっとで現地に到着し、ニッポンレンタカーでマーチをレンタルすると行進する勢いで町に繰り出すことにした。

マサよ、君は目玉おやじを観光の目玉にしているマイナー都市の存在を知っているか!?

ゲゲゲの鬼太郎の作者水木しげるを輩出した鳥取県の境港市に水木しげるロードが開設されている。その起点となる境港駅は鬼太郎の像を抱いたおばけのポストを設置し、妖怪列車まで走らせている力の入れようである。駅から水木しげる記念館まで続く約800mの道筋には120体もの妖怪ブロンズ像が鎮座し、妖怪神社は参拝客を「何かようかい?」と待ち構えており、周辺の店では例外なく妖怪グッズが高値で取引されているのだ。ロードの終点である水木しげる記念館(¥700)に満を持して入場させていただくことにした。展示品は水木しげるの生い立ちから始まり、しげるが世界中で収集した妖怪コレクション等がところ狭しと並べられており、鬼太郎、目玉おやじ、ネズミ男の秘密のすべてが解明出来るように取り図られているのである。

境港市から中海と日本海がつながる海峡にかかる橋を渡り、風光明媚な美保関に向かった。名物イカ焼きをしきりに売りつけようとする明るい漁村民おばさんの攻撃をかわしながら高台にある美保関灯台に到着し、遠く対岸にそびえる大山の勇姿をうっすらと確認することに成功した。

マーチで中海、宍道湖の沿岸を走りぬけ、島根県にある古代日本を形造った出雲大社に向かった。大国主大神で知られる出雲は神話の国として有名でその中心的存在である出雲大社は古事記、日本書紀に数々の逸話が記録されている。須佐之男神に退治された8頭の蛇である「やまたのおろち」は用意された8つの酒樽に入っている酒を飲み、へべれけになったところを討ち取られたそうであるが、これは現代における財務完了を酒で接待し、酩酊状態になったところで優遇を得るという策略に見事に引き継がれているのではないかと思われた。

神楽殿には巨大なしめ縄がぶら下がっており、観光客は下から硬貨を投げてしきりにしめ縄に食い込ませようと躍起になっていたのだが、硬貨が刺さっても何の効果ももたらさないではないかと懸念された。また、広い神社を歩いていると喉が渇いたのでジンジャエールでも飲もうと思ったが、売ってなかったのでコーラで我慢しておいた。出雲大社の隣に島根県立古代出雲歴史博物館(¥600)が観光客の流れを待ち受けるようにオープンしていたので覗いてみることにした。ここでの最大の見所は平成12年に発掘された壮大ないにしえの御本殿の御柱の遺物であり、このサイズをもとに巨大神殿を復元した天にも登るような縮尺模型もそびえているのである。

再び鳥取に戻り、米子市にほど近い皆生温泉の岩崎館に宿を取ることにした。この地帯の温泉宿は田舎の何の変哲もない温泉であるにもかかわらず全体的な相場が高いことだけが印象に残ってしまった。

6月17日(日)

大山隠岐国立公園のシンボルとして中国地方の最高峰の大山がそびえているので接近を試みることにした。まずは登山の起点となる大山自然科学館で簡単な情報収集を行った後、夏山登山道を制覇すべくスタートを切ることにした。登山道は急峻であるものの整備が行き届いており、火山系の岩石がすべり落ちてきて罪のない登山者を傷つけないように針金の網で覆われている部分もあり、8合目くらいからは木道が整備され、それが頂上まで続いていた。一般ピープルであれば4時間以上かかる山道をわずか2時間で弥山山頂(1709m)に到達し、通行禁止になっている剣が峰(1729m)への馬の背状の危険なルートに入り込んでいるルール無用の登山者をけしからんと思いながら、1時間ほど頂上からの景色を堪能させていただいた。

下山ルートは夏山登山道から途中で大神山神社方面に向かうルートに切り替え、静寂の中に佇んでいる奥宮本殿を見物しながら山岳仏教の修験道に思いを馳せることにした。さらに下ると天台宗別格本山角磐山大山寺(基本志納額¥300)に到着した。奈良時代に開山された大山寺は体力不足で大山山頂を目指すことが出来ない輩の格好の気休め観光スポットになっている様子で境内にある鐘を撞いて皆憂さを晴らしているかのようだった。

大山自然科学館まで戻ってくると地元のアルバイト学生と思われるギャルに鳥取県の観光に関するアンケートを頼まれたので仕方なく対応することにした。観光地としての鳥取県の魅力を高めるためにどうすればよいかを模索しているようだが、とりあえず財務省からの天下り資金に甘えることなく「がんばれ!」と言っておいた。

総飛行機代 ¥400

総レンタカー代 ¥10,500

総ガソリン代 ¥2,006

総宿泊費 ¥14,070

協力 ANA、ニッポンレンタカー

第二回夏が来れば思いだスペシャル尾瀬にもっとお~ぜ~の観光客を見た!(恐怖の水芭蕉編)

♪夏が来~れば思い出すぅ はるかなマサ~ 遠い出世♪

マサよ、君は雪まだ残る鬱蒼とした山中で遭難の危機に遭遇し、見事に生還を果たすというしぶとさを発揮したことがあるか!?

6月2日(土)

東北自動車道の西那須野塩原インターを降りて国道400号線に入り、さらに121号線を走っているといまいち目的地に向かっていないような感覚に見舞われてふと看板を目にすると反対方向の今市という地名が目に飛び込んできたのであわてて軌道修正し、福島県の尾瀬檜枝岐温泉を目指した。この地域は尾瀬への福島県側の玄関口になっており、ちょうど水芭蕉が見ごろということでどの温泉旅館や民宿も活況を呈している様子であった。

檜枝岐の山間部にモーカケの滝という平安時代の女房の装束である裳を掛けたさまに見立てられた滝を軽く見学した後、今晩の宿を探すべくあたりをさまよっていると「かわせみ」と名乗るスキー民宿に空室ありますという看板を見つけたため、そこにしけこみ、部屋の窓からくもの巣に捕らえられ、もがき苦しんでいるセミを見た後、地元で採れた山菜料理に舌鼓を打ちながら長く暗い夜の時間をやり過ごした。

6月3日(日)

檜枝岐村から山道を登り、御池という尾瀬の玄関口に車を止め、北海道・東北の最高峰であり、日本百名山のひとつに数えられている標高2356mの燧ケ岳の山頂を目指すことにした。尚、事前に尾瀬のホームページで遭難にはお金がかかるという注意事項を読んでいたにもかかわらず、私の身にそのような事態がふりかかるとはこの時点では夢にも思ってなかったのである。

御池の燧ケ岳登山口からすでに勾配は急になり、水芭蕉が咲き乱れるぬかるんだ道を登っていくと登山用の木道は完全に雪に埋もれてしまっていたので登山者の足跡を頼りにゆっくりとした足取りで歩を進めるしかなかった。傾斜角45度くらいに達すると思われる雪道を何とか切り抜けた後、ぱっと雪が消えた木道が目の前に現れ、前方はるかかなたに雪を戴いた燧ケ岳の山頂が視線に入ってきた。

再び雪の急勾配が私の目の前に立ちふさがり、亀のような歩みで進まざるを得なくなった。ふと下を見下ろすと上村愛子や里谷多英がオリンピックのスタート前に見ているであろう急斜面の光景が広がっており、私の目はモ~グルぐる回りはじめている感覚を覚えた。最後の難関の雪道を無事制し、4.5kmの道のりを4時間かけて何とか岩肌があらわになった山頂に到着することに成功すると念願の「エイドリア~ン!」の嬌声をこだまさせようと思ったが、意外にも観客が多かったので断念せざるを得なかった。登頂者は皆登山靴等の山岳装備をしており、「登山靴じゃね~とこの雪道は登り切れね~ぜ」くらいの鷹のくくり方をしやがっていたのだが、私がリーボックの滑りやすいスニーカーでここまで這い上がって来たことには気づいてない様子であった。

山頂から眼下に佇む尾瀬沼を見下ろし、雪に覆われた周囲の山々を見渡しながら30分ほど頂点を極めた満足感に浸りつつ優雅な時を過ごした後、下山の時を迎えることとなった。下山ルートは来るときと比べて楽であるはずの尾瀬沼方面への下山道を選択したもののこれが地獄の一丁目になってしまうとは・・・

午後12時過ぎに下山を開始し、雪で完全に覆われた道を足跡を頼りに抜群のボディバランスと関節の曲げ耐性を駆使しながら、すべるように距離を稼いでいた。FTBが開発したサバイバル術として滑りやすいところはむしろ滑らないようにするのではなく、ふかわりょうのように自分からあえて滑り腰や頭を地面に強く打ち付けないようにするというテクノロジーがある。

森林と若竹の緑と白い雪のコントラストは時に下山者の目を眩ませる。足跡をたどって下りていてもどの方向に行くべきか判断がつかないポイントがいくつもあり、まるでアリ地獄に落ちるように私をあらぬ方向へと誘っていった。気がつくと私の随分前を歩いていた下山者の陰はなく、完全に方向感覚を失ってしまっていたので道なき道を草木をなぎ倒しながら滑り下りるしか選択肢が無くなっていたのだった。

これが遭難というものですか?と聞かれれば「そうなんですよ!」と答えるしかない状況の中で何とか冷静にサバイバル術を考えなければならない。まず、太陽が沈みきる前に完全に下山することを目標にやみくもに下に向かってなぎ倒された笹の上や雪道を滑っていた。すると雪解け水を集めた川に行き当たり、これを辿っていくと何とか文明にたどり着けるのではないかと期待しながらその近辺の雪道を滑っていた。雪の下には水が流れる音がしていたが、構わず滑っていると私の体重の重みで雪が崩壊し、ぼっこり空いた穴にはまりマサであればニッチもサッチもいかないような体勢になってしまった。その横では水芭蕉が私をあざ笑うかのように咲き誇っており、私に辞世の句をひねるようにうながしているのではないかという恐怖すら感じさせた。

強靭な上腕二頭筋のパワーを利用し、何とか穴から抜け出すことに成功すると遠くで獣が吼えるようなサウンドが耳に入ってきた。尾瀬一帯では近年ツキノワグマの生息数が増えており、人跡未踏のこの水辺で熊と遭遇することが懸念されたので熊よけとして「イィチ、二ィ、サン、ダ~!」や「ファイト~、イッッパ~ツ」というような奇声を発しながら前進することにした。さらに川の中をジャブジャブ進んでいるとこのまま尾瀬沼に埋もれてしまわないかというネガティブな考えも頭に浮かんだりしたのだが、ついに目の前に舗装道路が現れ、シャトルバスが行き来している文明との接点を持つことに成功した。

川から舗装道路に這い上がり、ついに念願の「エイドリア~ン!!」を発するとさらに数キロ沼山峠への坂道を徒歩で移動し、山の駅沼山峠に集散しているお~ぜ~の観光客とともにシャトルバスに乗り、御池へと帰った行った。雪解け水で冷え切った肉体を常温に戻すために尾瀬檜枝岐温泉の駒の湯(¥500)に入湯し、詳細にプログラムされた林間サバイバル過程を無事終了した栄誉を胸に尾瀬を後にしたのだった。

総高速代¥9,900

総ガソリン代 ¥6,295

総宿泊費 ¥7,400(2食、おにぎり弁当付き)

FTBJ讃岐シュラシュシュッツアー

♪こんぴらふねふね おいてに帆かけて シュラシュシュシュ♪

ということで、晩飯時にキンピラを食っているとふとこんぴらに行かなければならないという衝動に駆られたため、シュラシュシュシュと飛行機を飛ばしてうどんの聖地に繰り出すことになってしまった。

5月18日(土)

午前8時10分発ANA531便に乗り込むと9時半過ぎには高松空港に到着した。そこから空港バスを捕まえて香川県最強の観光地である琴平を目指しているとバスはうどん街道を抜けて11時過ぎには現地に到着した。昼飯時にはまだ早かったのだが、うどん屋の看板に引き寄せられるように入店し、ついついかき揚げうどんを発注してしまった。うどんの聖地香川県は手打ちうどんやさぬきうどんで有名であるが、大阪在住のマサであればそれらを融合した手ぬきうどんしか食ったことがないのではないかとの心配をよそに一気にうどんをすすりあげた。

こんぴらさんへの参道を歩いているとうどん屋たちが昼飯時の壮絶な客引き合戦を展開している光景を目にした。しかしながら、小西真奈美のような小動物系ギャルの手招きならまだしもどの店も菅井きん系による客引きだったので参拝客もどん引きしているのではないかと懸念された。ちなみに真奈美はユースケ・サンタマリアと一緒に邦画UDON(http://www.udon.vc/movie/)のポスターに収まっているだけだった。 

こんぴらさんは1,368段の石段からなっており、参拝客は通常土産物屋で杖をレンタルして上っていくのだが、讃岐うどんと同等の腰の強さを持つ私には当然杖は必要なく、そのかわりに上りきった後に達成感を表現するためにロッキーよろしく「エィドリア~~ン」と絶叫しようと考えていたのだが、意外に苦にならなかったので苦痛の表情を浮かべている一般客を尻目にシュラシュシュシュとすかしておいた。

御本宮では、本日はお日柄も良いせいか、かしこみかしこみ系の婚姻の儀が厳かに執り行なわれていた。また、金比羅宮は海の守護神として親しまれているので絵馬殿には数多くの航海の安全を祈願する各種船舶の写真やソーラーパワーで太平洋を横断する暴挙を達成しやがった堀江謙一のヨットが奉納されていた。こんぴらさんを十分堪能した後、階段を下りながら土産物屋に目を向けているとこの雰囲気に似つかわしくないアニメのフィギュアを扱っているショップに遭遇した。その店では階段の昇降に精力を使い果たした参拝客を象徴するかのように真っ白な灰になったあしたのジョーが静かにうなだれていたのだった。

こんぴら温泉郷に位置するこんぴら温泉湯元八千代に宿を取っていたのでチェックインしたのち、7階屋上の展望露天風呂を鳩の鳴き声をバックミュージックに堪能しながら、下半身に溜まっているであろう疲れをほぐすことにした。夕食には当然のことながら讃岐うどん海鮮が供されたのでそのままずるずると過ごすことになった。

5月19日(日)

マサよ、君は弘法大師の誕生した地として知られる真言宗最初の根本道場で弘法大師が空海になったことを後悔してないか確認してみたいと思ったことはないか!?

というわけで、JR琴平駅の次の駅の善通寺駅で下車するとそのまま10分ほど歩いて善通寺に到着した。境内には神木として奉られている巨大な楠木が生えており、お遍路ルックに身をまとったにわかお遍路達が我が物顔で闊歩しており、あまりにも人数が多いため、空海が飯でも食うかいと誘っても賽銭の予算内では収まり切れないのではないかと懸念された。

再び琴平駅に戻り、そこから「ことでん」の名で親しまれている琴平電鉄に乗り、四国平野の何の変哲もない景色を見ながら高松方面に向かった。栗林公園駅で下車すると特別名勝として名高い栗林公園(¥400)に侵入し、江戸時代初期の回遊式大名庭園のすぐれた地割り、石組み、木石の雅趣を堪能させていただくことにした。ここの景色は日本三大庭園として君臨している後楽園、兼六園、偕楽園に勝るとも劣らない趣と四季折々の草木の美しさで彩られていることが確認された。

高松駅に近接するサンポート高松というフェリー乗り場の待合室で瀬戸大橋開通のためにその役割を終えることになった宇高連絡船に関する展示コーナーを見学しながら、科学技術の進歩により古い伝統が廃れていく世の無常を軽く感じた後、玉藻公園(¥200)という史跡高松城跡を見物することにした。ここでのアクティビティは日本の三大水城の特性を生かし、外堀、中堀、内堀に海水を引き込んでいるため、その中で半ば飼い殺し状態にされている鯛に餌をやることである。さすがに城跡というだけのことはあり、天守閣は跡形も残ってなく、石垣だけが無常に取り残されている様子を見て観光客は我慢せざるを得ないのだ。

総飛行機代 ¥1,100

総宿泊費 ¥13,150(2食付)

総空港バス代 ¥2,240

協力 ANA、JTBトラベル、琴平電鉄

FTB GWスペシャル ゴジラ v.s. Havana Express

マサよ、君は表彰盾とともに自分の栄光の名前が掘り込まれた高級ボールペンを航空会社から受け取ったことがあるか!?

ということで、ANAマイレージクラブダイヤモンド会員を5年間防衛している私にその栄誉を讃えるため、記念の盾と贈答品が送られてきやがった。これもひとえに私の努力の賜物であるので遠慮せずに納めさせていただくことにするとともにGWの喧騒を引き裂くようにニューヨークに旅立つことにした。

2007年4月28日(土)

ANAのファーストラウンジにてヤンキースの強力打線に立ちふさがる松坂の勇姿を見物しながら時間をつぶし、午前11時発のANA10便に乗り込むと11時間程度のフライト時間で同日午前9時過ぎにニューヨークに到着した。早速エアートレインと地下鉄を乗り継いでマンハッタンに侵入し、その勢いで2年ぶりのヤンキーススタジアムに乗り込んだ。

MLB最大の伝統の一戦ヤンキースV.S.レッドソックスは午後3時55分にプレーボールとなった。ヤンキースの先発投手のカーステンスが投じた1球目を振り抜いた先頭打者フリオ・ルーゴの打球は弾丸ライナーで投手の膝下を直撃し、カーステンスはスッテンテンになったかのように転倒してしまった。何とか立ち上がって2番打者に立ち向かったもののヒットを打たれそのまま降板し、先発からリリーフに格下げになっていた井川が急遽マウンドに向かうこととなった。マサに胃が悪くなるほどの状況でマウンドに上がった井川であったが、次打者のレッドソックス最強打者であるデイビッド・オルティスを併殺に打ち取り、次のマニー・ラミレス四球後、J.D.ドリューも三振に斬って取り、見事にピンチを切り抜けるとそのまま6回0/3を無失点に押さえ、降板時には念願のスタンディングオベーション浴びることとなったのであった。

一方、ゴジラ松井であるが、2回に回ってきた第一打席で見事中前安打を放ち、電光掲示板に「HIT-DEKI」の文字を躍らせていた。試合の方は4回に四球で出塁した松井を1塁に置いて打席に立ったホルへ・ポサダがライトアッパーデッキに特大ホームランを打ち込み、打球を取ろうとしたファンのビールがアッパーデッキからロウアーデッキにしぶきとなって流れ落ちる状況の中で2点を先行したヤンキースが終始試合をリードし、3対1で逃げ切って連敗を7で止め、井川が見事に今季2勝目を手にしたのであった。

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4月29日(日)

マディソンスクエアガーデンの近くに位置するエレベーターの反応が遅いHampton Innをチェックアウトすると再びヤンキースタジアムの喧騒に身を委ねることにした。怪我から復帰したエース王建民を先発に立てたヤンキースであったが、初回いきなりレッドソックスの主砲ディビッド・オルティスに先制の2ランホームランを打ち込まれ、ヤンキースのミンケイビッチのつかの間の逆転3ランの後にレッドソックスの伏兵アレックス・コーラのスカッとさわやかな逆転ホームランでマサにシーソーゲームの様相を呈していた。

多くの日本人に見守られたこの試合の最大の見せ場は6回の裏のヤンキースのチャンスにリリーフに立ったレッドソックスの岡島v.s.松井という巨人の紅白戦を彷彿とさせるような対戦であった。すでに左打者二人を三振に切って取り、2アウト1,2塁という場面で松井と相対した岡島は速球と変化球を駆使し、見事松井を投ゴロに打ち取ったのであった。続く7回の裏も三者凡退でヤンキースの攻撃を退けた岡島の勢いを買ってレッドソックスはこの試合を7対4で物にし、アリーグ東地区首位の座を不動のものとしたのであった。

4月30日(月)

Newark Liberty空港からAirCanadaの便でトロントに飛び、そこからキューバまで足を伸ばすことになっていたのだが、これはあくまでも急場しのぎの予定ではない。なぜなら、キューバに入国するためにはキューバ大使館で事前にツーリストカードを入手しておく必要があったからだ。

ANAのマイレージが余っていたのでマサであればCA$1,100.-くらいかかるところを私は税金のみの支払いで搭乗することが出来るAC964便に乗り込むと午後1時過ぎにはキューバの首都ハバナに到着した。ここハバナは私の最も敬愛するサングラス俳優である寺尾聡が歌唱するHAVANA EXPRESS(http://www.youtube.com/watch?v=cPli_1AaLSs)を耳にして以来必ず来なければならないと思っていたのだった。

ハバナ空港にてUS$を現地通貨であるキューバペソに両替し、客待ちしているOKタクシー(CUC25.-)に乗り込むと30分程度で首都ハバナの旧市街であるラ・アバーナ・ピエハ地区に位置するあらかじめ予約しておいたホテルイングラテーラに到着した。このホテルは1896年に建てられた由緒あるスパニッシュコロニアル様式を誇っているが、客室は建築年数相当のしなびかたをしていた。とりあえず3時間程度ホテルでダウンさせていただいて、夕暮れ時にユネスコの世界遺産にも指定されているラ・アバーナ・ピエハ地区こと旧市街の散策に繰り出すことにした。

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旧市街には19世紀後半のキューバ黄金時代に財力をつぎこんで建てられた見事な建造物が多く残され、町中が見所になっており、コロニアルな街並みのなかを1950年~60年代の米式クラシックカーが我が物顔で疾走している。社会主義国であるキューバは一般的に治安のよい国として知られているのであるが、私にとっては150kmの速球を投げる人材がごろごろしているので決して侮れない国だと思われた。その証拠に町中のあらゆる広場や道路上で子供が草野球に興じており、ここでは王・長嶋全盛時代の古き良き日本の原風景を垣間見ることが出来るのだ。早速私も松坂直伝のジャイロボールを伝授してやろうとストレッチを始めたのだったが、肘が痛いのでやめておくことにした。

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ハバナ港へ通じる運河を守るために造られたプンタ要塞近辺におびただしい数の観光客と夕涼み系の原住民がたむろしているので私もその仲間に加わることにした。プンタ要塞からは対岸のモロ要塞がモロ見えになっており、港から流出する油により汚染された海では原住民が釣り糸だけを垂らすという一糸釣り状態で小魚を釣り上げていくうちに日も暮れていったのだった。

5月1日(火)

私の宿泊地であるホテルイングラテーラの隣はガルシア・ロルカ劇場という1838年に建立されたキューバ・クラシックバレエの本部であり、その隣はカピトリオという旧国会議事堂で1929年に建築されたアメリカのホワイトハウスがモデルになっている旧市街のランドマークである。今日はメーデーのために中に入れなったため、近隣の華人街の門を見上げたりしながら、旧市街を散策することにした。

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昔ながらの面影を残すオビスポ通りには昔ながらのレストランやかつてアーネスト・へミングウエイの常宿となっていたピンク色がまぶしいホテル・アンボス・ムンドスが君臨している。「老人と海」の著作で有名なへミングウエイはこのホテルの511号室に引きこもって執筆活動を行っていたそうだが、確かにこの雰囲気は私にとって財務省に巣食う怪老人とそれに取り入ろうとするマサとの友情を描いた「老人とマサ」を執筆するためのノウハウを身に着けるにはもってこいの土地柄だと思われた。

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キューバの特産物としてハバナ・シガーという葉巻とともにハバナ・クラブというラム酒が有名であるのだが、その製造工程を学習出来るハバナ・クラブ博物館(CUC5.-)に酔ってもない勢いで立ち寄って見ることにした。とりあえず気つけのためのラム酒カクテルを飲んだ後、英語のツアーに参加し、サトウキビから作られるラム酒の製造過程を見学させていただいた。このファシリティには1930年のラム工場を再現したミニチュアがあり、沖縄からも輸入したというサトウキビを運ぶ蒸気機関車も走っているのだ。ツアーの最後はお決まりのバーでのラムのテイスティングとなっており、酔った勢いで物品を買わせるためのショップも待ち構えているのだ。

マサよ、君はキューバに最初に上陸した日本人の像が仙台育英学園の寄贈により、ハバナにおっ建てられている事実を知っているか!?

ということで、独眼竜政(マサ!)宗の命により1613年に欧州へのパシリ出張に駆り出された支倉常長はメキシコよりキューバに立ち寄ったという縁で今では銅像になるほどの有名人になっているのだが、そのいでたちは羽織、袴に扇子を持っているというおよそキューバ人のセンスとはかけ離れたものだと思われた。それにひきかえ、1704年に建立されたキューバ風バロックスタイルのカテドラルはその風貌、趣により、最大の信仰を集めるにふさわしい重厚な雰囲気で観光客を圧倒していたのだった。

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運河を挟んで旧市街の対岸に二つの重要な要塞が君臨しているのでタクシーで海底トンネルをくぐって見物に行くことにした。ハバナ旧市街を見下ろすようにたっているモロ要塞はそのモロさによりかつてはイギリスに襲撃され、占領されてしまったのだが、フロリダとの引き換えにより再びスペイン領となった後、牢獄等その他モロモロの役割を経て今では灯台の役目まで果たしている。

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モロ要塞と並ぶように建てられている規模の大きなカバーニャ要塞(CUC6.-)に侵入を果たした。ここでの見所のひとつとしてキューバのカストロ議長と並び称される革命の英雄であるチェ・ゲバラの博物館があるのだが、メーデーのため休館となっており、「チェ!」という捨て台詞を吐いて撤退するしかなかったのである。カバーニャ要塞の人気は、毎晩21:00から150年間続けられている大砲の儀式である。日もとっぷり暮れた20時45分ごろからスペイン時代の制服を着た軍人たちが太鼓をたたきながら出現し、一連の能書き的な儀式の後で大砲に発火しやがった!一瞬鼓膜に突き刺さるような重低振動音をを発した大砲は暗闇を引き裂くような光を放ちながら空中に消え、意識を取り戻した観光客の喝采を浴びていたのであった。

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5月2日(水)

キューバ最大のビーチリゾートであるバラデロに移動するために新市街のバスターミナルに徒歩で移動し、スペイン語が分からない輩にはなってないと感じさせる運営により、乗るべきバスを探すのに苦労したのだが、何とか12時発のバラデロ行きのバスに乗り込み、途中休憩を挟み3時間くらいでハバナから140km離れた目的地に到着した。バラデロのバスターミナルにてホテルへの道筋を検討していたところ、原住民が白タクを買って出たので相場よりも高いはずのCUC10を支払って予約しているスーバー・クラブス・プンタレーナにたどり着いた。

マサよ、君はオールインクルーシブというリゾートにおける制度を熟知しているか!?

オールインクルーシブとは宿泊料金に食事、バー、マリンアクティビティ等すべての料金が含まれている体系のことで、チェックインの際にリストバンドを巻かれてホテルの宿泊客であるという認識のもとでサービスが提供されるシステムなのだ。早速マリンブルーが眩しいカリブ海のビーチに繰り出すことにした。通常の砂場色の砂が永遠に広がるビーチは結構波が高いものの遊泳には持って来いであったが海中には魚の姿を目にすることは出来なかった。その後プールサイドを散策してビールを飲みながらラテン系の貢物がもらえる催し物を見物した。尚、当然のことであるが、キューバくんだりまで来てスキューバダイビングを手がける輩のためにダイビングセンターも併設されているのである。

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5月3日(木)

バラデロからバスでハバナの旧市街に戻るとかつて大統領官邸として使われていた革命博物館(CUC5.-)に立ち寄ることにした。スペイン・コロニアル様式の博物館内には革命に関する資料や武器がところ狭しと展示されているのだが、最も人気のあるコーナーはベレー帽のカリスマ、チェ・ゲバラに関連する展示である。美人女優のチェ・ジウに匹敵する程の美男子であるチェ・ゲバラの生涯はゼンソク持ちにもかかわらず全速力で革命に明け暮れ、アルゼンチン人にもかかわらずカストロに次ぐキューバ革命政権の重鎮となり、キューバでは圧倒的な人気を誇っているのである。

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急場しのぎのツアーにもかかわらず社会主義とラテンイズムを堪能することに成功したキューバを後にすると夕刻には肌寒いトロントにいた。HiltonHhonorsのポイントが余っていたのでマサであればCA$200くらいかかるところを私はただで宿泊することが出来るヒルトントロントにチェックインすると窓越しに世界一の高さを誇るCNタワーを眺めながらとろんとした夜を過ごすこととなった。

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5月4日(金)

トロントからニューアーク空港に飛び、鉄道にてマンハッタンに帰ってきた。グランドゼロの状況が気になっていたので見に行くとワールドトレードセンターの跡地は相変わらず工事車両が行き来しながら新しいビルの基礎固めが入念に行われていた。

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ロウアーマンハッタンからブロードウエイを歩いていると溝を切った平べったい円筒形の物体に糸を巻きつけて中指からスナップを効かせて下に向かって投げたり、上に上がってくるような感覚を覚えたんで・す・YO♪ そしたら~、あ、そ~♪ ヒップホップ系の若者黒人たちが「ヨー、YO !」と言いながら闊歩していたぞ~!とりあえず、ぶつかりそうになったので「あ~い、とぅいまてぇ~~ん!!」http://www.youtube.com/watch?v=FEWI8WkqlQ8と言っておいた。

今回のツアーにてニューヨーク最後の夜を飾るにふさわしい一戦がヤンキースタジアムで繰り広げられるので地下鉄を転がして三たびヤンキースタジアムに出撃することにした。球場ではすでに試合前の打撃練習が行われていたのだが、外野守備に付いているシアトル・マリナーズのイチローは相変わらず背面キャッチ等のアクロバティックな動きを披露してヤンキースファンの喝采を浴びていた。また、球場の大スクリーンではヤンキースの栄光を語るビデオが毎試合繰り返されているのだが、ゴジラ松井も歯の浮くような台詞で栄光の賞賛に一役買っているのだ。

前回の好投により先発ローテーションの座を取り戻した井川の前に最初に立ちふさがったイチローであったが、簡単にレフトフライに斬って取られた。初回を0点に抑えた井川の勢いをかって1回の裏のヤンキースは一挙大量5点をもぎ取った。しかし、今日の井川は変化球のコントロールがなく、2回には城島との初対決で松井の頭上を超える本塁打を喫し、3回には一塁ゴロを放ったイチローとのベースカバー競争に負け、内野安打とした後、次打者ベルトレーに本塁打を打たれた。

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マサよ、君はゴジラのホームランにより、ヤンキースタジアムにゴジラの雄叫びがこだました瞬間を体験したことがあるか!?

ということで、5対3と追い上げられた3回の裏の先頭打者として登場したゴジラは右中間スタンドにライナーで叩き込み、1,999本目の日米通産安打は見事な井川への援護射撃となったのであった。しかし、今日の井川はそれでも調子が上がらず、4回の表にもタイムリー2塁打と本塁打でとうとう同点に追いつかれてしまった。4回の裏に再びリードしてもらった井川であったが、5回の表に2本のシングルヒットを浴びた後、胃が悪くなったヤンキースファンの雰囲気を感じ取ったトーレ監督は井川を諦め、ビーンにスイッチした。このミスター・ビーンもコメディのようにストライクが入らず、四球を連発するわ、城島にはタイムリーを打たれるわの火に油を注いだ状態でヤンキースファンの最大限のブーイングを浴びて早々とマウンドを後にした。結局15対11の乱戦を制したのはマリナーズでイチローと城島の健在振りを印象付けられた一戦であった。

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5月5日(土)

42nd Streetに位置するポートオーソリティバスターミナルから空港バス($15)に乗り、JFK国際空港からANA9便に搭乗すると待ち構えていたのはANAのパンフレットに登場しそうなほどの美人スチュワーデスであった。おかげで窓側に閉じ込められていた窮屈感も何とか我慢することが出来たのではないかと思われた。

5月6日(日)

機内でロッキー・ザ・ファイナルをはじめとする映画6本を鑑賞し、午後3時半頃に成田に到着、そのまんま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代  ANA ¥189,010, Air Canada CA$375.26 + ¥12,520(税金のみ)

総宿泊費  $563.19, EU143.-

総ニューヨーク地下鉄代  $20.-

総ニューヨークバス、鉄道代  $42.-

総キューバタクシー代 CUC63.-

総キューババス代 CUC20.-

総トロント空港バス代 CA$33.90

総ハバナ空港出国料 CUC25

総キューバツーリストカード取得料 ¥2,100

協力 ANA, Air Canada, HiltonHHonors, Starwoods、キューバ大使館