第二回FTBSEAべトコンツアー in ハノイ

2004年9月下旬にホーチミンを歴訪した実績


があるFTBであるが、当時はベトナム戦争でアメリカに黒星をつけ、戦後ドイモイ政策により急激な経済発展を遂げたベトナムの一面を垣間見ることが出来たのだが、今回は首都ハノイに繰り出し、古き良き時代のベトナムと数多くの奇岩を形成した自然の驚異を満喫することにした。

2008年9月12日(金)
JALのマイレージが余っていたので、マサであれば14~15万くらいかかるところを私は燃油代と税金の支払いのみで搭乗出来るJL751便に乗り込むと午後6時15分に出発したB767-300機は5時間程度のフライトで2時間の時差を越えて午後10時前にハノイのノイバイ国際空港に到着した。

入国後手持ちの$40を両替所でベトナムドンへの両替を試みるとVND656,000もの大金になってド~ンと返ってきたので欽ちゃんのど~んとやってみようで言うところの「ばかうけ」の気分を味わうことに成功した。大金を手にして空港タクシーに乗り込み30km程離れた市街地にあるニッコーホテルに移動すると定額料金のVND250,000に対してつり銭がないためにVND300,000を支払ってあげたため、「どっちらけ」の感覚に成り下がってホテルへのチェックインを余儀なくされたのだった。

9月13日(土)
早朝ニッコーホテルをチェックアウトし、もやにより日光が遮られているにもかかわらず30℃を越す猛暑の様相を呈したハノイ市街に繰り出すことになった。ハノイには単線の鉄道が通っており、線路沿いに進めば目的地に到着出来ると思っていたのだが、いつの間にか線路を見失ってしまい原チャリのクラクションでめまいがしそうな旧市街を2時間余り彷徨うこととなってしまった。

今日の予定はベトナムきっての景勝地であるハロン湾までバスで移動することであったのだが、世界最強レベルの旅行ガイドブックである「地球の歩き方 ベトナム’04~’05」の掲載情報が古かったせいかハロン湾行きのバスが出るターミナルに到着するまでいくつかのバスターミナルをはしごするはめになってしまった。とあるバスターミナルの案内所で原住民から目的地を確認すると市内バスとタクシーを乗り継いで何とか目的のミニバスに搭乗することに成功した。

バスターミナルを出発した韓国製払い下げミニバスは乗車率150%くらいになるまで道行く途中で乗客を勧誘しながら走ったため、4時間くらいかかってハロン湾の観光の拠点であるバイチャイ・バスターミナルに午後6時頃到着したのだった。そこから本日の宿泊予定地である楽天トラベルに予約させておいたハロン・プラザホテルへの道筋がわからなかったため、適当に湾沿いを目指してバイチャイ市街を歩いていると市バスが運行していることが確認出来たのでバスに乗り込み、言葉の通じない切符売りのおね~ちゃんとバス代がいくらであるかという仁義無きやりとりを繰り広げ、しかも野次馬風情のおっさん乗客が笑い転げているという状況の中で何とかホテルに到着することが出来たのであった。

9月14日(日)
マサよ、君は世界遺産として君臨しているハロン湾に比べてローカルな日本三景に甘んじている松島の現実に地団駄を踏んで悔しがっている松嶋菜々子を想像したことがあるか!?

ということで、昨晩のビュッフェで生ガキをはじめとする地元の海の幸を満喫することが出来たハロン・プラザホテルをチェックアウトするとハロン湾クルーズの船が出港しているクルーズ船乗り場を目指して海沿いを2km以上練り歩いた。

船乗り場のチケット売り場でハロン湾入域料(VND40,000)を支払い客引き風情の原住民に訳もわからずとある木造クルーズ船に連行されると午前8時過ぎにハロン湾クルーズ4時間コース($30)がスタートしてしまった。おびただしいほどの数の停泊しているクルーズ船を横目に私と何人かのベトナム人家族を乗せた船はエメラルドグリーンの海をすべるように航行していった。

船から海面を見渡すとそこには大小2,000もの奇岩がニョキニョキと生えておりマサに幻想的な光景を演出しているのだった。船は30分ほどでダウゴー島という大き目の島に到着し、そこで観光客は下船すると皆一様に島の散策に乗り出した。ティエンクン洞という高さ20m、幅数十mの鍾乳洞は内部がブルーやグリーンでライトアップされており、整備された遊歩道を歩いていると幻想的な気分と湿気によるだくだくの汗でやさしく包まれることになる。

ダウゴー洞はさらに大きな鍾乳洞であるが、観光時間の制限により通常は見学を省略されてしまうのだが、コウモリには格好の居住地となっていることが確認出来た。船に戻り、ダウゴー島を後にするとクルーズ船は島々の間を抜け、船上生活者の生活模様を垣間見ながらいくつかの特徴的な岩に遭遇した。

闘鶏島という2羽の鶏が闘っているように見える島がいわゆるひとつのハイライトのような様相を呈しており、どのクルーズ船も島の目の前に停泊して観光客に記念写真を撮らせながらご機嫌取りをしていたのだ。

4時間の予定のクルーズが2時間半程で終わってしまったのでそそくさとバスでハノイに戻り、数多くのシクロが客待ちをしているハノイ大教会を見上げ、パリのオペラ座を模して建築された市劇場の隣に位置するマサであれば$160くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るヒルトン・ハノイ・オペラに日中の暑さを避けるために早々とチェックインし、そのまま夜を迎えることとなった。

9月15日(月)
文廟(VND2,000)という1070年に孔子を祭るために建立された廟を訪問した。この敷地内にはさまざまな時代の建物が混在しており、中でも大学施設として使用されていた奎文閣はハノイの象徴となっている。また、ファシリティ内で民族音楽の演奏が行われており、観光客はチップを強要され、VND2,000程度でお茶を濁そうとしても$1以上を強奪されるシステムになっていることが確認された。

ベトナム独立の祖として崇められているホー・チ・ミンの遺体がガラスケースに入れられて安置されているホー・チ・ミン廟を遠巻きにチラ見し、月曜日が休館となっているホー・チ・ミン博物館の建物の立派さを思い知った後、一柱寺というハノイのシンボル的仏教寺院を見学した。一柱寺は李朝の太宗が1049年に創建した延祐寺の楼閣で、一本の柱の上に仏堂を乗せたユニークな形からこの名で呼び親しまれているのだ。

一柱寺で不安定感を満喫出来たのでその勢いを買ってロンビエン橋というパリのエッフェル塔を設計したギュスターブ・エッフェルによって設計され、1902年に完成した1700mの鉄橋で錆びた雰囲気を味わい、ドンスアン市場とハンザ市場というハノイの代表的な市場をはしごしてベトナム人の生活感と活気を感じながらハノイ駅に紛れ込んだ。駅ではルンペン風の若者にここで買う必要も無い靴の中敷の押し売り攻撃に遭ったものの何とかかわすことが出来たのだった。

マサよ、君は捕虜収容所として常に満室だった裏のハノイ・ヒルトンが市内のど真ん中に取り残されているおぞましい事実を知っているか!?

というわけで、ホアロー収容所(VND5,000)という19世紀末にフランスによって造られた監獄に収容されに行ってきた。1953年の満室時には2000人以上を収容した実績のあるホアロー収容所の内部には拷問の道具やその様子を描いたレリーフ、処刑に使われたギロチン台等が残されており、ベトナム戦争時に収容された鬼畜米兵から皮肉を込めて「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれていたそうだ。

ハノイ市街の中心に位置し、市民の憩いの場となっているホアンキエム湖上のゴッソン島に玉山祠(VND2,000)が夕涼みの観光客を集めていたので郷ひろみ系の眉をした虎に挨拶をして参拝させていただくことにした。尚、ホアンキエム湖には大亀の伝説があり、実際祠内には1968年に捕獲された体長2mの大亀の剥製が鎮座しているのだ。

ハノイを代表するエンターテイメントとして水上人形劇が有名であり、近くの劇場が夕方から公演を行っていたのでセカンドクラス(VND40,000)のチケットを買って見物することにした。水面を舞台にして繰り広げられる人形劇はベトナム伝統楽器の音色に沿って人形が繊細でコミカルな動きで観客を魅了し、民話や民族的な話が繰り広げられていくのだが、最後の舞台挨拶では操り人形師まで出て来やがるのである。

ハノイ市内の観光を十分すぎるほど満喫出来たのでミニバス(VND35,000)でノイバイ国際空港に戻り、乗客よりも圧倒的に数が多い見送り客の間をすり抜けてチェックインを果たすと午後11時55分発のJL752便に乗り込み機上の人となる。

9月16日(火)
機内で相武紗季とはタイプの違うものの相武紗季に匹敵するほどの美人スチュワーデスに思わずもっていかれそうになったところを何とか踏みとどまり、午前6時45分に小雨で涼しい成田に到着し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥25,200 (燃油代、税金のみ)
総宿泊費 $173.25、¥9,529
総タクシー代 VND340,000 ($1 = VND16,400)
総バス代 VND136,000

協力 JAL、HiltonHHonors、楽天トラベル

アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ初日の出ツアー

アメリカの金融危機に端を発した不景気の影響で白金~ゼ以外は金がね~ゼ状態である今日この頃だが、日本国民が寝正月にいそしまざるを得ないような閉塞感を打破するために高い金を払ってまでアフリカの頂点を極めるツアーが強行されることとなったのだった。

12月27日(土)

ANAの営業努力によりエコノミークラスが満席となり、必然的にはじき出された私がビジネスクラスにアップグレードされるという成り上がりの方程式の確立により1Fという最前列の席に陣取るとNH911便香港行きは定刻より30分以上遅れたものの午後11時過ぎには香港国際空港に到着した。

香港空港での乗り継ぎの時間が押してしまったため、係員の先導により南アフリカ航空SA287便の出発ゲートまで案内され、無事に機内の通路側席に身を沈めるとヨハネスブルグまでのさらに長い旅の開始となった。

12月28日(日)

SA287便は午前7時前におなじみとなったヨハネスブルグ、O.R.タンボ国際空港に到着した。空港のラウンジで7時間ほどやり過ごした後、午後2時30分発SA182便に乗り込みナイロビを目指した。3時間40分程機内で過ごし、ナイロビのジョモ・ケニヤッタ国際空港に到着したのは午後7時30分であった。さらにケニア航空とPrecision航空のコードシェア便であるPW728便は午後9時半に出発し、タンザニアのキリマンジャロ国際空港に到着したのは午後10時を過ぎた時間であり、東アフリカへの長旅には体力が必要であることをあらためて痛感させられた。

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空港にてタンザニアへの入国ビザのスタンプを押していただき、侵入を果たすとSPRINGSLANDS HOTELのスタッフがピックアップに来ていたので同行のカナダ人のカップルとスイス人のアベックと一緒にバンに乗り込み50分程でキリマンジャロ登山のゲートシティとなっているモシのホテルに到着した。チェックインの際にキリマンジャロ登頂の簡単なオリエンテーションがあり、その後旅人の何人かはホテルの中庭にて酒をかっくらっていたのだが、私はキッチンに程近い73号室に立て篭もり、暑さとキッチンからの朝食準備サウンドでほとんど眠れない夜を過ごすこととなってしまった。

12月29日(月)

ジャンボー マサよ!

ということで、念願のキリマンジャロ登頂ツアーに出発する朝を時差ボケと寝不足のまま迎えてしまった。ホテルの2階からはこれから立ち向かうキリマンジャロの勇姿がくっきりととらえられ、朝食と一緒に供されるキリマンジャロブレンドであるはずのコーヒーを召し上がっていると嫌がおうにも闘魂が湧き上がってくるのであった。

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SPRINGSLANDS HOTELからはおびただしい数のキリマンジャロ登頂ツアーがスタートするのだが、午前8時半にツアーガイドと送迎車が迎えに来ることになっている。昨晩私が到着した時間が遅かったため、今朝になって初めて私と旅の道連れになるツアー客の紹介がガイドのウイルソンによって行われた。必然的に私が隊長として仕切ることになるツアーは日本人客3名から構成され、1名は登山経験者の佐賀のサラリーマンでもう1名は登山素人のエチオピアの外交官ということだった。

登山の装備を確認し、かろうじて1本のストックをレンタルさせていただき、迎えのマイクロバスに乗り込むと後から数多くのドイツ人旅行者が便乗してきやがったので、バスの中はマサにどいつもこいつもドイツ人状態に陥ってしまっていた。

バスはモシの市街を抜け50分程でキリマンジャロ登山の代表的な登攀ルートであるマラング・ルートを取り仕切るマラング・ゲートに午前11時頃到着し、キリマンジャロ国立公園(世界自然遺産)の管理事務所でレジストレーションを済ますと待望のキリマンジャロ登山がついに火蓋を切ることとなったのだ。

標高1970mに位置するマラング・ゲートは観光客用の登山道とポーターが荷物を運ぶ輸送路に分けられおり、登山道はあたかも熱帯雨林のジャングルのように鬱蒼と樹木が生い茂っていた。山中では薪にするための木を刈るための鋭利な刃物を持った原住民少年達が「One Dollar、ワンダラー」と言ってまとわりつき、思わずここはワンダーランドかと感じさせられた。

スタートから3時間程で今日の目的地である標高2700mのマンダラ・ハットに到着した。早速4人が寝泊り出来る小屋にチェックインし、ポーターが汗をポーターポタ流しながら運んできてくれた荷物を受け取った後、食堂で午後の紅茶の時間を向かえた。しかし、夕食までにまだ時間があったので近くのMAUDI CRATERを軽く散策してみることにした。

クレーターまで歩く道すがら大きな木々の上からシロクロコロブスという東アフリカにに生息する猿の出迎えを受け、キリマンジャロの自然の豊かさをあらためて思い知らされた。午後6時に同行のコックが作る夕食が供されたのだが、スープから始まるメニューはフルコースの様相を呈しており、マンダラ・ハットで満更でもない美食感覚を味わい、日も暮れるとやることがなくなるので小屋に篭城し、持参した寝袋の中でサナギのような一夜を過ごすこととなった。

12月30日(火)

早朝6時ごろ目が覚めたのでサナギから成虫に出世して抜け殻をたたんだ後、爽快な朝日を眺め、朝食をとっととすませて次の目的地に向けてスタートした。マンダラ・ハットには山頂から流れる水を利用した水洗トイレがあるのだが、もしハットを出て登山の途中で催してしまったらどうするのかガイドに聞いたところ、小か大にもよるのだが、とりあえず植物や岩の陰に隠れて済ますのが一般的であるということではからずも数時間後に私自身が実践することになってしまったのだ。

老廃物を排出して身軽になったところで登山のペースも上がってきたのだが、途中見慣れぬ寝台一輪車が登山道に放置されているのを発見した。その数時間後に寝袋に梱包された状態でマサに同モデルの一輪車で配送されている日本人とレスキュー隊に遭遇してしまった。その光景を目にして背中が凍りつくような恐怖を覚え、高山病を甘く見てはいけないと肝に銘じたのであった。

今日踏破すべく11.7kmの登山道はいつしか展望が開けており、数多くの美しい高山植物と険しい岩峰であるマウエンジ峰を眺めながら歩を進めていると雪を抱いたギボ峰がその山容を見せ始めた。そう、今回の究極の目的は世界最大のコニーデ型火山を形成するシラ峰、ギボ峰、マウエンジ峰の3つの峰の中で最高峰のギボ峰のウフルピークを目指すことに他ならないのだ。

出発から5時間程で今日の目的地である標高3780mのホロンボ・ハットに到着した。おなじみの4人用の小屋にチェックインするとポーターが洗面器にお湯を汲んで来てくれたので顔を荒い、近くを流れる川べりに繁茂するセネシオというサボテン状の植物に見入っていた。

ホロンボ・ハットは決してオンボロハットではなく、マンダラ・ハットと同様に太陽電池で電源を賄っており、雪解け水を利用したシャワーや水洗トイレも備えているのだが、何といってもそこから眺める太陽に照らされたギボ峰の姿は堂々とした威容を放っていた。また、ここは登りだけでなく下りの登山客も宿泊する設備であるため、いやがおうでも登頂の成否に関する情報が入ってくる。しかも日本人の登山客も数多いため、日本語でより生々しい話が聞けるのだ。

登頂の成否はすでに富士山の標高を越えているホロンボ・ハットでの高度順応に依存する場合もあるようでここで2日間を過ごすと成功率がかなり上がると聞いていたのだが、プロである私は自分にそのような甘えを許すことは出来なかったので、この日も薄い空気と時差ボケのせいでサナギの中で十数時間眠れない夜を過ごしながら迫りくる恐怖と闘っていた。

12月31日(水)

東の空が白みはじめた頃、成虫になれる程成熟していない状態でサナギを抜け出し、朝日に向かって体を慣らしていた。標高3776mの富士山は2回程軽く制覇しているが、今日からは全くの未体験ゾーンに足を踏み入れることになる。

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午前8時前にホロンボ・ハットを後にすると、セネシオの茂る川沿いを抜け、高山植物の美しい花が群生している湿地帯に到着した。ここで先行するポーター達が水を汲んでいるのだが、次の地点のギボ・ハットには水道がないため、あらかじめ食事や飲料用の水を確保しておかなければならないのだ。この水場からさらに進むとLast Waterという文字通り最後の水場が存在するのだが、ここは現在水量不足のため機能していない様子であった。

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やがて、植物限界を超えた登山道は砂漠のようなガレ地に様変わりしたものの、真っ青の空の下、迫りくるギボ峰を眺めながらさわやかなトレッキングはさらに続くのであった。私が仕切っているパーティの他の2人よりもかなり先行して歩いていると途中でアシスタントガイドと名乗る若者がどこからともなく姿を現し、最後は一緒にギボ・ハットまで同行することとなった。

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標高4700mのギボ・ハットに到着するとさすがに酒を飲むと人の3倍くらい赤くなるほどの赤血球を持つ私であってもマイルドな頭痛に悩まされることとなった。血液中の酸素を運ぶヘモグロビンがまだ足りていないことが要因であるとも考えられるのだが、キリマンジャロ登山では毎月2~3人程がお亡くなりになられているため、ギボ・ハットを訪問した霊能力者の宜母愛子には見えるはずの霊の仕業ではないかと思われもした。また、4700mのキリマンジャロ山中での思考能力の低下により、誇大広告を取り締まるのはジャロ、大晦日に歌っている演歌歌手はジェロだという見分けもつかなくなっているし、ましてや桑田佳祐のように一人紅白を行う余裕もなかったのだ。

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ギボ・ハットの小屋は一部屋12人体制となっており、基本的には早い者勝ちで場所を取る事が出来るのだが、同じ部屋にいる哀れな日本人は先に場所を確保しておいたにもかかわらず米人女性にここは我々グループの場所だとイチャモンをつけられて他の場所に追いやられてしまっていた。

頂上で日の出を見るため、今晩中に出発しなければならないので夕食は午後4時半に供された。高山病のため食欲が出ない登山客を見越してかメニューはスープスパゲッティと非常にあっさりしたものであった。夕食後はとにかくサナギに入って意識を無くすことに集中したため、何とか1時間くらいは熟睡出来たのではないかと思われた。

午後10時15分にガイドが起こしに来ると言われていたものの10時には勝手に目が覚めたので早速出発の準備をすることにした。食堂には暖かい飲み物とビスケットが準備してあったので紅茶を飲み、食いたくもないビスケットを数切れ流し込んだ後、午後11時過ぎに出発となった。

今にも降ってきそうな星空を眺めながら、ヘッドライトの明かりを灯してガイドのウイルソンに続き頂上への一歩を踏み出した。尚、頂上へのアタックに関してはどの登山客も防寒対策を施し、2本のストックを頼りに登っていくのだが、私の装備はジャンパーの下にフリース、ジャージにタイツとかなり軽装かつシングルストックであったものの、ガイドは手袋を付ける代わりにポケットに手を突っ込み、しかもストックなしというマサに原住民にしか出来ないようなスタイルだった。

1月1日(木)

ハッピー ニュー マサよ!

ということで、カウントダウンは無かったものの道中登山客が鳴らしたクラッカーにより2009年の新年を迎えたことを思い知らされ、皆それぞれに「Happy New Year」と挨拶を交わしていた。登山道は火山礫や砂地で形成されており、ジグザグの登り道であるものの非常に歩きにくく猛烈な寒さの中ゆっくりとしか進めないため、いくらフリースを着込んでいても自分の肉体にバグがあるかのように何度もフリーズしてしまい、そのたびに再起動が必要となった。

人類の高度限界を超えている5500mくらいから急な岩場が出現し、ガイドの経路選択により何とか岩場を登りきり、午前4時50分にギボ峰のクレーターのへりにある標高5681mのギルマンズ・ポイントに命からがら到着したころには意識が朦朧とした状態であった。ウイルソンに体を抱えられ、とりあえずのギルマンズ・ポイント制覇の祝福を受けると休む間もなく、アフリカ大陸最高地点であるウフル・ピークへ向かって歩を進めた。

ウフル・ピークへの道のりは今まで登って来た登山道に比べて非常に緩やかだったものの暗がりからウルフの遠吠えのように吹いてくる強風により体感温度は著しく低下し、大阪漫才で言うところの「鼻の穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろ~かい」状態が終始続くこととなった。ところで先導するウイルソンはと言うと従来の堅調な足取りから多少欽ちゃん走りの兆候が見られるようになり、明らかに高山病の症状を発症していやがった。心の優しい私は通常であればウイルソンをおんぶしてでもいち早く頂上に這い上がっていたところであったが、それでは私が逆にチップをもらう立場になり、彼の山岳ガイドスピリッツに傷が付くのを恐れてその申し出は控えておくことにした。

マサよ、君はアフリカ最高峰で初日の出を拝んだものの酸素不足でお願い事をする余裕さえなく、普通に呼吸出来ることが最高の贅沢であることを思い知らされたことがあるか!?

ということで、午前6時15分を過ぎると東の空がオレンジレンジに染まり始め、ウイルソンのペースダウンにより、ウフル・ピーク到着を目前にして初日の出を迎えることとなった。とりあえず写真は1枚撮ったものの官僚の天下り制度が廃止になる前にマサに高額給与が給付される天下り先が見つかるように願をかける時間はなかったのだった!

午前6時40分、ついに標高5895mのアフリカ大陸最高峰に虫の息で辿りつくとウイルソンがハグを求めてきたのでバグのある肉体にもかかわらず軽くサバ折りで返したのだが、そのままバックドロップに持ち込む体力はもはや残されていなかった。頂上での唯一無二のアクティビティは当然のように記念写真を撮ることであるのだが、気温が氷点下に達しており、デジカメの使用温度を著しく下回っているため常温時下のようにバチバチシャッターを押すことが出来なくなっていた。

地球温暖化現象のためキリマンジャロ山頂の雪は減少していると言われているが、目の前には分厚い氷河が立ちふさがっており、眼下には弱肉強食と酒池肉林の営みが日々繰り返されているであろう広大なサバンナが広がっていた。頂上での滞在が我慢の限界を超えた頃、ウイルソンが堰を切ったように登山道を下り始め、思わず5000m級マラソンに参加させられた気分になった。すると暗がりでは見えなかったギボ峰のクレーターが太陽光線により白日の下にさらされ、ここに落下すると神様が準備してくれ~た~霊界の片道切符を手に出来ることが確信された。

高山病からいち早く回復したいウイルソンは下りのルートとしてスキーのゲレンデを彷彿とさせる急斜面を滑り降りる方法を選択しやがった。砂場のモーグル地帯と化している急斜面にはところどころ巨大な火山岩があたかもジャンプ台のように露出しており、通常であれば上村愛子のようにバックフリップを決めるべく第一エアーに差し掛かったところで着地に失敗し、左ケツを強打した際、マサであればケツが二つに割れるほどの衝撃まで覚えてしまった。

満身創痍になりながらも何とか午前9時半頃にはギボ・ハットに帰還することに成功し、疲労で食欲の無い状態でかろうじて朝食のスープをすすり、帰着が遅れているエチオピア大使館員を置き去りにして10時過ぎには9km以上先のホロンボ・ハットへ向かって歩を進めていた。尚、同行した佐賀人は極度の高山病に襲われ、ギルマンズ・ポイントには達したものの頂上への登頂を断念し、その後症状を引きずったままホロンボ・ハットまで帰ってきた。

数時間後に生きながらえて帰ってきたエチオピア大使館員も合流し、疲労のため部屋でもだえ苦しんでいるとウイルソンが登頂成功を祝して乾杯するための赤ワインを持ってきたのでもはやヘモグロビンも必要ないと思いながらも付き合ってやることにした。さすがに今日は寝不足と困憊した疲労のため、午後5時過ぎに夕食を取った後、一生羽化出来ないのではないかと思われる程、泥のように眠り込んでしまった。

1月2日(金)

朝起きるとキリマンジャロから注入された霊力のおかげで体力が120%回復していることに気づかされた。多くの登山客の後塵を拝しながらも貧困国スピリッツを発揮し、昨日の登山では辛くもウフルピークに到達したエチオピア大使館員と共に眼下に広がる雲海を眺めていると、登頂が成功するもしないも所詮は運かい?と考えていた。

午前8時前には登山ゲートに戻るべく18kmにもおよぶ道を歩き始めたのだが、グロッキー状態の佐賀人の回復が思わしくなかったのでポーターがポータルラジオから流れる軽快な音楽に乗って行き来しているのを横目にゆっくりと下山するしかなかった。昼過ぎにゲートに到着すると国立公園事務所でシリアルナンバーで管理されている登頂証明書が授与される運びとなった。尚、賞状の縁取りはウフル・ピークが金でギルマンズ・ポイントは緑としっかりと差別化がなされていたのだ。

昨晩の山小屋でガイドをはじめとする各隊員の勤務評定を行っていたので、浦島太郎がキビ団子を配る要領でチップの支払いを完了し、マイクロバスでホテルに戻ってきた。ホテルではタンザニア国内のツアーを取り仕切っている大手ZARA tours(http://www.zaratours.com/)からもキリマンジャロ登山ツアーの参加賞的な賞状がウイルソンの手から授与された。通常であれば記念写真でも撮るところであるのだが、ウイルソンが共にHappy New Yearを過ごした喜びを分かちあうためにさらなるお年玉を要求してきたので賽銭のつもりで10,000タンザニアシリングを奉納させていただいた。

部屋に戻り、シャワーで5日分の汚れをそぎ落とし、中庭でエチオピア大使館員とキリマンジャロ・ビールで祝杯をあげながら登山の余韻に浸っていた。夕食時に見も知らぬ外人達と登山の成果を報告しあっている頃、初日に出会った時はアルプスの少女ハイジが大人になったような雰囲気をたたえていたスイス人ギャルが高山病のため4700m地点で登山を断念したことをクララのようなクラーい表情で報告しにやってきた。一方、連れのペーター(仮称)はこちらに手を振りながら何事もなかったかのように飯をかっ食らっていやがった。ということで、いかに物知りな♪おしえておじいさん♪というブレインを持っていても高山病は実際に体験しなければ克服出来ないということが教訓として刻まれたのだ。

1月3日(土)

早朝ホテルをチェックアウトし、キリマンジャロ空港発PW721便プロペラ機に乗り込むとあらためてその偉大さを感じさせるキリマンジャロ山を横目にナイロビまで飛行していった。ジョモ・ケニヤッタ空港でDODOWORLDが手配した送迎車に乗り込むと今日の宿泊先であるCOMFORTホテルに早々と引き篭もった。

何とかキリマンジャロから生きながらえて帰ってきたばかりなので治安の悪いナイロビで危険を冒すことのないよう今日はホテルのバーやレストランでウダウダしながら有り余る時間をやり過ごした。

1月4日(日)

早朝4時半に迎えにきたDODOWORLDの職員は治安を考慮してか2名体制を取っていた。5時過ぎには空港に着いたのでしばらくラウンジでインターネットに接続し現世への回帰を図らせていただいた。SA183便ヨハネスブルグ行きは定刻7時30分に離陸し、快晴の空の下、機長の貴重な計らいでキリマンジャロ近辺を飛行していただくこととなった。私の座っている窓側からはクレーターの様子がくっきりと見えるのだが、ブラインドサイドから乱入してきたピントの合わせにくいデジカメギャルにしばらく狭い窓を占領されるはめに陥ってしまった。

午前11時頃O.R.タンボ国際空港に到着し、高利回りにつられて購入した南アフリカランド建て債券が南アフリカランドの暴落により大損害を被っている腹いせに免税品を買い占めようかと思ったが、ランドセル程度しか買えない現金しか持ち合わせていなかったため断念した。

1月5日(月)

SA286便にて13時間の空の旅を経て香港に到着。アップグレードされたNH910便のシートテレビで映画「鉄道員」(ぽっぽや)を鑑賞しながら鼠先輩の事を考えているうちに成田に到着。そのまま六本木に繰り出すことなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \63,210、南アフリカ航空 = HK$13,321

総キリマンジャロ登山ツアー旅行代 $1,995

総タンザニアビザ代 US$50

総ケニアビザ代 US$50

総チップ US$128、Tsh10,000

総登山装備レンタル代 US$5

総歩行距離 64km

協力 ANA、南アフリカ航空、DODOWORLD、ZARA Tours

FTB天然資源ブル行きツアー in ブルネイ

マサよ、君はD和証券が肉弾接待の切り札として当時の人気AV女優であったムニュ夢乳系の村上麗奈(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%BA%97%E5%A5%88)をブル行きさんとして天然資源豊富なブルネイに送り込んでいたという驚愕の事実を知っているか!?

しかもD和証券の新卒入社で早くもトップセールスかつ幹部候補として活躍していた総統が将来その任務に当たっていたかも知れないという甘くせつないおまけまでついているのだった!!!

というわけで、天然ガスや石油の豊富なブルネイがその資金運用先の選定条件として国王の接待を重視していたという事実を解明するためにわざわざブルネイまで足を伸ばさなければならなくなったのだ。

11月20日(木)

♪Love is the mistery~ 私を呼~ぶのォ~♪   ♪愛はミステリー~ 不思議なち~からで~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~♪

ということで、中森明菜がスポンサーになっているはずの成田空港第一ターミナルの北ウイングに登場し、自動チェックイン機を導入したことが仇となり、行列の出来るチェックイン相談所を作ってしまったノースウエストカウンターで30分以上かけて搭乗券を入手すると、ノースウエスト航空のマイレージが余っていたのでマサであれば6~7万くらいかかるところを私は燃油代の支払いだけで搭乗出来るNW0011便に乗り込んだ。早速機内の飲み物サービスでビールでも飲もうかと思っていたのだが、何とアルコール飲料は$5もの大金を徴収されるという驚愕の事実に直面したため、円高のご時勢にもかかわらず断念せざるを得なくなってしまったのだ。

しかたなく不貞寝をしながら機内で5時間程やり過ごすと飛行機は午後10時前に香港国際空港に到着した。空港からバスで今日の宿泊先である楽天トラベルに予約させておいたIbis Hotelが位置する北角に移動し、近くのセブンイレブンで購入した機内よりも安いビールでようやく溜飲を下げることが出来たのだった。

11月21日(金)

香港国際空港に早めに到着し、空港で裏の仕事を軽くこなしながら時間潰しを行った。午後12時過ぎにチェックインしようと思って香港ドラゴン航空のカウンターに行ったのだが、この便はロイヤル・ブルネイ航空とのコードシェア便なのでここではチェック・イン出来ね~ぜと言われたのでロイヤル・ブルネイ航空のカウンターに移動した。そこで目にした文字はブルネイに麻薬を持ち込んだ輩は最高で死刑に処せられるというプレッシャー警告であった。

午後3時20分発のKA1636便は定刻通りに出発し、3時間ほどで雨のバンダル・スリ・ブガワン国際空港に到着した。空港からタクシー(B$25)で今日の宿泊先であるシェラトン・ウタマホテルに移動し、イスラム教国のため酒が飲めないという絶好のアル中更正ファシリティのような雰囲気で裏の仕事の残務をこなしながら松山千春を彷彿とさせる♪長い夜♪を過ごすこととなったのだった。

11月22日(土)

昨晩の雨模様とはうって変わって朝から晴天に恵まれたので早朝よりブルネイ・ダルサラームの首都バンダル・スリ・ブガワンの散策に乗り出すことにした。ホテルを出て運河沿いを歩いていると魚や野菜を売っているオープンマーケットが開かれており、原住民は水上タクシーで乗り付けて生活必需品を買い込んでいた。また、水上タクシーのドライバーはしきりに観光客を水上観光に勧誘すべく余念がない様子であった。

バンダル・スリ・ブガワンは総人口の約5分の1の7万人が暮らすブルネイ最大の都市であるのだが、ダウンタウンといえども高層ビルはなく、日本製や韓国製の車はそれなりに走っているのだが、バイクや自転車は見られず人の数もそれほど多くないのでブルネイ国内を恐怖でブルブル震えながら歩き回る必要はないのである。

街の中心には通称オールド・モスクと言われるオマール・アリ・サイフディン・モスクが異様な存在感を示しており、その周辺に2つのショッピングセンター、国会議事堂、緑の芝生が敷き詰められたサッカー場が配置されており、とてもここがボルネオ島であるとは思えないほど整然とした街づくりとなっているのだ。

豪華絢爛な王室宝物・資料館としてロイヤル・レガリアが白いドーム型の屋根を尖らせているので観光バスで乗り付けた欧米観光客に紛れて入ってみることにした。内部の床にはぶ厚い絨毯が敷き詰められており、式典などで使用されるはずの豪華な装飾が施された大八車系の引き回し車や国王の即位行列を再現した一行が今にも行進をはじめそうな勢いで立ちはだかっていた。また、国王の生い立ちやブルネイ・ダルサラーム独立の歴史や国事遂行の様子などが写真やパネルで紹介されているのだが、その中に村上麗奈の亡霊が写りこんでいないか血眼になって探したが、とうとう見つけることは出来なかった。

酷暑のボルネオ島の強い日差しを避けるためにいったんホテルにエスケープし、気温がピークとなった午後の時間に徒歩で40分かけて王宮を目指すことにした。イスタナ・ヌルル・イマンという正式名称を持つこの王宮は金満ブルネイの象徴的な箱物であるのだが、一般公開されていないため村上嬢以外の日本人は決して招かれることはないであろうことは容易に想像出来るのだった。

夕暮れ時を迎えたバンダル・スリ・ブガワンはモスクから礼拝を呼びかけるアザーンにより幻想的な雰囲気に包まれることになる。西の空が夕暮れから夕闇、さらに暗闇に移行するにつれて見事にライトアップされたオールド・モスクが徐々にその輝きを増していき、イスラム世界の神秘を醸しだして行くのであった。

11月23日(日)

マサよ、君はカンポン・アイールという言葉を聞きなれていないだろう!!

それはアンポンタンでも志村けんのアイ~ンでもないということは当然だぜ!!!

ということで、ブルネイには約150年もの歴史を持つという世界最大の水上集落がカンポン・アイールという名称で3万人以上の居住者を抱えながら、一大水上都市としてブルネイ川を潤しているのだ。

というわけで、ブルネイ川沿いの堤防を歩いているといくつかの階段状の水上タクシー乗り場があり、原住民を対岸から渡してきた運転手は一様に観光客を高値で水上集落観光へ導こうと躍起になっているのだ。しかし、一部の運転手は陸上で積極的に客引きを行っていたので、私もついつい30分の水上集落観光コースにB$20を支払って参加せざるを得ない状況に陥ってしまった。

交渉が成立すると早速日本製のモーターボートエンジンを背面に配備した木製のボートに乗り込むと肥満気味の少年が見習いガイドをする水上ツアーがスタートした。暴走族並の猛スピードで行き交うボートを交わしながら、少年はブルネイ川に浮かんでいる集落のファシリティの紹介をモーター音にかき消されながらも果敢に行っていた。

集落にはいくつかの学校、消防署、モスク、病院、レストランをはじめ、給油を行うShellのスタンドまで浮かんでいやがった。ところでブルネイ政府は安全性の問題から水上住民に陸地への移住を奨励し、好条件で公団住宅への上陸を促し、その隙にブルネイ川を埋めちまおうとしているらしいが、水上住民のミズスマシ魂がそれを潔しとせず、頑として移住を拒絶していると言われている。

ガドンというダウンタウンと空港の間に君臨する新しめのショッピングセンターに紫色のバスにって、恒例の買う気もないのに行ってみることにした。敷地にはホテルとショッピングモールの複合施設が2つあり、そのうちの新しいほうでは隣国マレーシアへの旅行を誘致する民族歌謡のショーが行われていた。

ショッピングセンターの近くにニューモスクと言われる国王の個人資産で建立されたジャミヤシル・ハサニル・ボルキア・モスクがその巨大なミナレットを天高く突き上げていたので近くまで寄って見たのだが、中に入れそうもなかったので断念した。そのかわりにダウンタウンに戻り、特定時間のみ観光客にも開放されているオールド・モスクに入って見たのだが、入り口を管理する太っちょのおっさんに黒ずくめのガウンを着せられ、決められた絨毯の上だけを歩くように高慢に指示されてしまった。しかも私が経路を若干はずれた事実を発見すると見る見る不機嫌になり、レッドカードをもらうような勢いで退出せざるを得ないような状況になってしまったのだった。

11月24日(月)

昨日オールド・モスクでレッドカードをいただいたので今日はブルネイから退場しなければならないということで、ダウンタウンからバスで空港に移動し、午前11時30分発のKA1635便に乗り、そそくさとブルネイを後にした。

午後2時過ぎに香港に到着し、ホテルチェックイン後、イスラム教戒律の厳しいブルネイで飲めなかったビールをやけ酒の如くあおり、レッドカードの出場停止期間があけるのを待って香港の繁華街に繰り出すことにした。スターフェリーで香港島から九龍に渡ったときにはとっぷりと日も暮れており、アチョー!のポーズを決めたブルース・リーもクリスマス・イルミネーションの光を怒りの鉄拳に反射させていたのだった。

11月25日(火)

午前8時30分発のNW0012便に乗り、午後1時過ぎに成田に到着、村上麗奈も村上ファンドももはや過去の物だという郷愁にかられながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ノースウエスト航空 =\12,310, ドラゴン航空 = HK$3,622.-

総宿泊費 香港 = HK$1,166, ブルネイ = B$496.73 (B$1 = \66)

総香港バス代 HK$160

総香港フェリー代 HK$3.2

総香港地下鉄代 HK$6.0

総ブルネイタクシー代 B$25

総ブルネイ空港税 B$12.0

総ブルネイバス代 B$2.0

協力 ノースウエスト航空、ドラゴン航空(ロイヤル・ブルネイ航空)、スターウッド、楽天トラベル

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 佐渡

ここに来て急に秋の気配も深まってきた10月の3連休をさ~ど~やって過ごそうかと考えていたところアメリカが北朝鮮のテロ支援国家指定の解除をしやがったので佐渡ヶ島の人々も気が気でないだろうと思いながら佐渡に渡り、曽我ひとみ、ジェンキンス夫妻を中心にした佐渡の島民の暮らしぶりを観察しに行くことにした。

10月11日(土)

地震に対する脆弱性をすでに露呈しているJR東日本が誇る上越新幹線Maxトキで日暮れ時の燕三条駅に到着し、楽天トラベルに予約させておいたワシントンホテル燕三条に引きこもり、ワシントンまでわざわざ直訴に行ったにもかかわらず拉致家族の奪還の成果が上がっていない拉致被害者の会の無念を思いながら夜を過ごしたのだった。

10月12日(日)

早朝ワシントンを発ち、さ~ど~やって佐渡に行こうかと思案しながら新潟駅を降りて佐渡汽船のターミナルに向かった。新潟から佐渡の両津港へは高くて早いジェットフォイルか安くて遅いカーフェリーの選択肢があるのだが、資金力が豊富なFTBではあるがここは手堅くカーフェリーを選択し、午前9時20分発のおおさど丸に乗り込んだ。

けたたましいドラの音(録音)が出航の合図となり全長132mの巨船おおさど丸は日本海の荒海への航海へと乗り出した。出航後しばらくすると船内イベントとして無料のヨガ教室が開催されているとのアナウンスが入ったが、体の固い私にはヨ~ガないと思われたのでそのままやり過ごした。

2等客室雑魚寝スペースで体を横たえているとフェリーの大きな揺れを感じながら2時間半の航海で両津港の埠頭が見えてきた。おけさで有名な佐渡はおけさ灯台、おけさ橋等いたる所におけさの名を冠したファシリティが存在し、観光客も思わず拉致の恐怖を忘れ「OKさ」と思いながら佐渡への上陸を果たしている様子が見て取れるのである。

12時半に島内交通の路線バスの本線に乗り、40分程で佐和田バスターミナルに到着し、そこから徒歩で南に歩いていると佐渡博物館(¥700)に行き当たったのでいち早く佐渡の全容を解明するために入ってみることにした。ここには佐渡の自然、風土、芸術の貴重な資料、作品が所蔵されており、総合博物館として充実した内容を完備しているのだが、特に目を引いたのは企画展「金と銀の島佐渡」で紹介されている鉱山の発掘や鉱石の粉砕、金銀の精錬等の往時の最先端のテクノロジーであった。

佐渡博物館前から再びバスに乗り、小木港を目指している途中に西三川ゴールドパークという砂金取り体験が出来る砂金山跡があるのだが、ちまちました砂金より一攫千金を狙う私には関係ないと感じたのでそのままスルーさせていただいた。

マサよ、君は佐渡名物たらい舟でたらい回しにされている観光客を見下したことがあるか!?

ということで、小木地区のシンボルたらい舟はワカメ、アワビ、サザエなどの漁に実際に使われていたたらいの舟でここ小木港では観光用のたらい舟が人気を博している。1人¥450の支払いで狭い港内を一周し、観光客自身で舟を漕ぐ体験も出来るようになっているのだが、たらい回しで目が回るのを恐れて遠巻きに眺めるだけにとどめておいた。

10月13日(月)

早朝バスで両津港に戻り、ニッポンレンタカーでホンダのフィットをレンタルすると佐渡観光のハイライトであり、ここに来なければサ~ド長嶋を欠くV9巨人のような物足りなさを感じるであろう佐渡金山へ向かった。

世界遺産暫定リスト登録された佐渡金山は言わずと知れた徳川幕府300年の財政を支えた金銀山跡であり、観光コースとして江戸時代のトンネルの「宗太夫坑」と明治時代のトンネルである「道遊坑」が公開されている。早速両方のトンネルの入坑許可証、共通券(\1,200)を購入するとまずは「宗太夫坑」に潜り込むことにした。

「宗太夫坑」の内部は採掘、保坑、測量などの坑内労働の様子が実物大の動く人形で再現されており、とあるおっさん人形の「早くここから出て、酒飲みて~、なじみの女に会いて~よ~」という台詞を聞くとあたかも江戸時代にタイムスリップした感覚を覚えるのだ。坑道が終了すると展示室に抜けるコースになっており、ここでは選鉱、製錬から小判鋳造までの過程を学習することが出来、その成果物として金の延べ棒や大判、小判のレプリカも光り輝いているのだ。

売店にて佐渡金山特性の純金ソフトクリーム(\300)で金を体内吸収した後、明治32年、佐渡鉱山の主要鉱脈「道遊脈」の開発を目的に開削された主要運搬坑道である「道遊坑」に侵入した。近代的なトンネルの内部はトロッコが通れる線路も形成されており、金鉱を載せてトロトロ走っている往時の様子が偲ばれるのだ。さらに佐渡金山の象徴となっている「道遊の割戸」は「道遊脈」が地表に露呈した部分を採掘した江戸時代の露頭堀跡で異様な程の存在感を示していた。

佐渡金山で徳川埋蔵金のルーツが確認出来たので海岸線沿いにフィットを走らせ、尖閣湾へと向かった。佐渡の海は透明度が高く、海中透視船シャーク(\1,000)が尖閣湾内の海底を映し出すことが出来るとの情報を得ていたので早速乗船することにした。沖縄のグラスボートのテクノロジーを採用したシャークは棒読み台詞のおばちゃんガイドの説明とともに湾内への航海をスタートさせた。なるほど海の透明度は高く十数メートル下の海底までガラス越しに見下ろすことが出来るのだが、沖縄で見慣れた珊瑚礁の彩りはなく、砂色とワカメブラウンの単調な風景が続き、魚も黒鯛の群れが軽く行き来するだけであった。

大佐渡スカイラインという佐渡金山を通る全長30kmの山岳観光コースを軽くフィットで流しながら、紅葉の始まりを実感した後、日本の国鳥である朱鷺にときめくためにトキの森公園(\200)を訪問することにした。1871年に学名ニッポニア・ニッポンと名づけられたトキの絶滅の危機を免れるため、この場所ではトキの保護、繁殖を行っており、先月は試験放鳥を行ったばかりである。尚、トキが生息する自然環境を守るために佐渡の田んぼは無農薬の有機農法が行われており、トキの餌となるタニシやドジョウや昆虫も元気に生息しているのだ。

午後4時30分発のフェリーに乗り込み、展望デッキで佐渡の島影に沈む夕日を眺めながら感傷に浸っていた。新潟からMaxトキに乗り込み、時々トキの繁殖状況を確認するためにマサを佐渡に送り込まなければならないと思いながら帰京する。

FTBサマリー

総宿泊費 \15,650

総JR代 \18,930

総フェリー代 \4,880

総バス代 \3,140

総レンタカー代 \5,460

総ガソリン代 \1,084

協力 JR東日本、佐渡汽船、楽天トラベル

ウガンダ追悼霊長類ツアー

マサよ、君はかつて「俺たちひょうきん族」で幅を効かせていたお笑い芸人であるウガンダ(http://yakitoriugachan05.hp.infoseek.co.jp/)が先日病で永遠の眠りにつき、その追悼のためにわざわざウガンダまで足を運ばなければならないという義侠心に駆られたことがあるか!?

というわけで、伊丹幸雄(http://supercools.fc2web.com/itami.html)のホラ貝の音色に引き寄せられるかのようにタケチャンマンははるか東アフリカの台地まで飛行機を飛ばして行かなければならなくなってしまったのだが、そこにはブラックデビルのような数多くの霊長類の恐怖が待ち受けているのであった。

2008年8月9日(土)

18時40分発のNH911便にて香港に22時20分に到着し、南アフリカ航空SA287便に乗り換えて13時間にも及ぶ深夜の長旅が始まった。

8月10日(日)

早朝6時30分頃ヨハネスブルグのO.R.タンボ国際空港に到着し、6時間もの長時間を空港でやり過ごした後、午後2時発のSA160便に乗り換え、さらに4時間のフライトでウガンダのエンテベ空港に到着したのは午後7時を過ぎた時間であった。空港で$50を支払ってウガンダ入国のビザを取得し、タクシーでウガンダの首都カンパラの中心地にさらに40分程かけてやってきた。スターウッドのポイントが余っていたのでマサであれば$200くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るシェラトンホテルにチェックインするとビュッフェディナーで空腹を満たした後、念願のベッドでの睡眠となった。

8月11日(月)

早朝7時に今回の現地ツアーのアレンジを任せておいたGreenleafツアーが日程の説明兼ピックアップにやってきたので適当に説明を聞いてガイドのクレアが運転するサファリカーに乗り込みカンパラを後にすることになった。大都会カンパラを一歩出ると道路の舗装状態が極端に悪化し、あちこちにあいている陥没をかわしながら車はウガンダ西部のコンゴとの国境付近に向かった。

6時間程のドライブでウガンダでチンバンジーの生息密度が最も高いと言われているキバレ国立公園に到着した。園内のヘッドクオーターの食堂で多少ぼったくり系のランチセットを食った後、ガイドの先導でチンパンジートラッキングがスタートした。日本の森林公園と見間違えるようなスタンダード系の森に入り、草木を分け入っているとわずか20分くらいで木の上でフィールドアスレチックをやっているチンパンジーに遭遇した。その後地面でくつろいでいるチンパンジーの群れを見つけ、ガイドの指示により絶妙の距離感を保ちながら野生のチンバンジーをじっくり観察することに成功した。

1時間程チンパンジーの生態を研究していると激しい雨が降ってきたのでやむなく撤収し、公園を後にすると今日の宿泊先であるクレーター・バレー・キバレへと非難した。CVKで名の通ったこのロッジの目の前には昔の火山活動によって形成されたクレーター湖が広がっており、レッドテールモンキーをはじめとする野生動物も元気に飛び跳ねていた。夜になるとロッジの女主人が手塩にかけたビーフシチューに舌鼓を打ち、夕食後は即席キャンプファイヤーの前でガイドとウガンダの歴史を語り、かつ冥福を祈りながら静かに過ごしていた。

8月12日(火)

早朝CVKを後にすると、かつてこの地を牛耳り、強大な王国を作ったトロ王国の首都が置かれていたフォート・ポータルに向かった。高台に君臨する建物に向かって車を走らせていると次第に脂の乗ったマグロの最高級の鮨ねたの感覚を覚えた。すると目の前に最近新築されたトロ王国の新宮殿が姿を現したのだが、あいにく武装した警備員に今日はガイドがいないので見学出来ないと言われ、セリが終わった後に築地に魚を仕入れに来たような屈辱感を味わされたのだった。

最高級の鮨ねたは逃したものの、気を取り直して東アフリカで最も多様性のある環境保護を誇っているクイーン・エリザベス国立公園に向かった。途中の道のりで♪ドキッ、ドキッ、♪という鼓動と♪思考回路はショート、燃え尽きそうなヒューズ♪の状態に陥った時、目の前にEQUATORという文字をあしらったまあるいオブジェが姿を現した。そ~か、マサにここが地球を南北に二分する赤道であるにもかかわらず、赤い線が引かれていないということは、♪恋はあつあつ亜熱帯♪と歌いながら布袋寅泰との結婚生活に短期間でピリオドを打った山下久美子(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E4%B9%85%E7%BE%8E%E5%AD%90)も赤い糸で結ばれてなかったのだと納得しながら、EQUATORにぶら下がっている日焼けした赤道小町を眺めていた。

午後のゲームドライブでは主にベジタリアン系の動物をウオッチしながらビタミンCを仮想的に吸収し、目の前で草を食んでいる角の長い牛の肉の消化吸収の一助になればと思いながら、4時前には宿泊先のヒッポ・ヒル・キャンプ・カトゥエに到着した。ここはヒッポ・ヒルの名の通りクレーター湖を見下ろす小高い丘の上を根城をしており、時折カバも訪れるということであったが、夕食にはカバの蒲焼が供されることはなかったのだ。

8月13日(水)

夜明け前の午前6時半よりゲームドライブをスタートさせるとあいかわらずイボイノシシ、アンテロープ、ウォーターバックといった単調なヘルシー系の動物のウォッチングで時間が過ぎて行った。ふとサファリ・カーが集結しているポイントに目を奪われ、脱兎のごとくそこに参加するとブッシュの奥でシャイなライオンがこちらを伺うように佇んでいる姿が発見されたのだった。また別の場所ではジャイアントモリイノシシが鋭い牙とブタ鼻で威嚇するようにすごんでいた。

クイーン・エリザベス国立公園にはエドワード湖とジョージ湖という二つの大きな湖があり、それらがカジンガ運河という細めの水路で結ばれており、そこをボートで往復しながら動物見物をするというボートサファリがこの公園のハイライトになっている。午後4時発のボートに乗り込むとここでボ~とした2時間を過ごさなければならないのかと思っていたが、そこには想像を絶する動物模様が繰り広げられていたのだった。

救命胴衣を身にまとった観光客を満載したボートが出航し、岸べりを航行しているとおびただしい数の動物が水浴びをしている姿を垣間見ることが出来る。ここで確認された生態はカバとバッファローは混浴仲間であり鳥を背中に乗せながら仲良く♪ババンバ バン バン バン♪状態を共有して平和に過ごしていることだった。

マサよ、君は象が目の前で泳いでいる姿を見てゾ~として目が泳いでしまったことがあるか!?

ということで、ここでは日中の暑さを避けるためにおびただしい数のアフリカ象が水浴びおよび象かきで泳いでいる姿を瞼とデジカメのメモリーに焼き付けることが出来るのである。

ボートは運河を往復し、漁民の集落が点在する地域を航行すると近くにダンディーなクロコダイルが潜んでいるリスクを省みず、少年たちは湖ではしゃぎ泳いでいた。また、漁民は各自の船で漁に繰り出し、それを日通系のペリカンやアフリカハゲコウが興味ないふりで見守っていた。

8月14日(木)

夜中の3時過ぎにキャンプの敷地内やテントの周辺を練り歩くようなミシミシという謎の足音で悩まされ熟睡することが出来なかった。宿泊責任者にその足音の実態を尋ねると案の定15頭ほどのカバがおいしい草をたべにわざわざここまで遠征に来られたということであった。尚、カバは夜行性で夜中に草を食べるため数キロもの道のりを歩き、走れば以外に早いという生態がすでにこの目で確認されていたのだった。

眠い目をこすりながら早朝ゲームドライブを開始するとキャンプから地元の湖に戻るカバの集団に遭遇した。サバンナ地帯に入り、昨日ライオンを発見したブッシュ近くで同じメスライオンを発見した。さらに2頭のカブを連れたメスライオンがサファリカーから子供を守るようなしぐさでカメラに向かってポーズを取ってくれた。

マサよ、君は象のパレードに道をふさがれ、その迫力にたじろぎ固まったことがあるか!?

早朝ゲームドライブを終えてキャンプに戻る途中で道端から1頭の象が姿を現した。今となっては象も珍しくなくなったので軽く記念写真を撮ってあげてやりすごそうと思っていたところ、草葉の陰から次から次に老若男女の象が大挙して出現し一気に道路を埋め尽くしてしまった。アンカーの象が道を通り過ぎ集団が湖に去って行ったのを確認した後、正気を取り戻して再びキャンプへの帰路を急ぐことにした。

キャンプの手前の原住民の居住地では子供が旅行者に手を振ってくれるシステムになっていたので軽く記念写真を撮り、その出来栄えを見せ付けた後チェックアウトし、次の旅程へと移動することにした。その道すがら道端で巨大なヘビとトカゲの死体を弄んでいる学童達がいた。聞くところによるとウガンダの人は毒を持つ爬虫類が嫌いでそれらが繁栄しないように死んだ後も徹底的に痛めつける行動形態があるとのことであった。

大いなる驚異と感動とやすらぎを与えてくれたクイーン・エリザベス国立公園を後にすると、グレート・リフト・バレーという大地溝帯を見下ろす山間に向かって車を走らせた。午後3時過ぎに今日の宿泊先であるキチュワンバのカタラ・ロッジに到着し、部屋に電気を通していないためランプの灯火で自然の音に耳を傾けながら蚊帳を吊ったベッドの中ですでに蚊に食われた手足を掻き毟り、マラリアの恐怖におびえながら夜を明かした。

8月15日(金)

カリンズ森林という世界でも類まれなアクセス環境の良いチンパンジーの観察に適した森林保護区を訪問させていただいた。ここはエコツーリズムを実践するために日本の援助も受けており、日本人の研究者も長期滞在してチンパンジーの生態解明に一役買っているのだ。

午前8時より早速チンパンジー・トラッキングを開始し、鬱蒼とした森に入って行った。キバレ国立公園内の森よりも起伏が激しいためか歩き始めて40分経っても動物の姿さえ発見することが出来なかったのでこの森で目にする霊長類は先導するガイドだけではないかという不安に苛まれたものの、先に森に入ってチンパンジーの居所を見つけてくれている先行隊からの携帯電話による誘導により9時ごろにはチンパンジーの鳴き声がけたたましいスポットに到着することが出来たのだった。

川口と名乗る青年海外協力隊によりウガンダのエコツーリズムのミッションで派遣されている横浜の動物園のインド象飼育担当係の説明に耳を傾けながら、チンパンジーの生態に関して詳細に理解することに成功したのだが、彼が私にウガンダを旅行先に選んだ理由を尋ねたとき、決してお笑い芸人のウガンダの追悼のため、お盆のこの時期を選んだやって来たのだという事実を告げることが出来なかったため、無邪気な動物好きを演じながらトラッキングは正午まで続けられた。

森の中ではチンパンジーが草木や枝を使ってこしらえたシングルベッドや高い木の上で細い枝を伝い起用に移動しながら木の実を探している行動形態を十分に観察することが出来た。また、森の中には他に6種類の霊長類も生息しており、そのなかでシロクロコロブスというロンゲの美しい猿は集団で姿を現し、チンパンジーに捕食される恐怖に怯えながらもその神々しい姿をさらけ出してくれたのだった。

川口氏に来年の3月迄の任期をまっとうするように励ました後、カリンズ森林を後にし、400km以上離れたカンパラへの帰路に着いた。道路のアスファルトはあいかわらず所々に陥没が見られるもののガイドのクレアは構わずにサファリカーをハイスピードで転がしていた。すると途中でけたたましい警告音とともに右前輪部から白煙が上がってきた。丁度町中にいたため、どこからか探してきた自動車整備工の若者に症状を確認させたところ、ブレーキパッドが破損し、ブレーキオイルが漏れるという重大な故障が確認された。

何とかブレーキの故障箇所を交換し、ブレーキオイルを充填すると車は何事もなかったように走り始めた。しかし、そこから200kmくらい走ったところであったろうか、突然車からパンクのような大きな破裂音が聞こえたため足回りをチェックしたのだが異常が見られなかったため再び走り出すと突然車はパワーを失い路肩への停車を余儀なくされてしまった。車内に充満する異臭の元を特定するために助手席の座席の下のエンジンを確認するとそこから黒い煙がもくもくと湧き上がってきやがった。

狼狽したクレアは本社に携帯で連絡を取り、道行く子供を小銭で買収して水を汲みに行かせるなど緊急対応を取っていたのだが、最終的に車を放棄して5km離れた最寄の町まで移動して、本社からの助けを待つという決断が下された。この5kmを移動する手段としてヒッチハイクが試みられたのだが、首尾よく荷台に小ぶりのスイカを満載したトラックが止まってくれたので♪ドナドナドナ ド~ナ~♪状態でスイカを一玉たりとも潰さないようにケアーしながら町に到着したのであった。

結局カンパラへの到着が予定より3時間以上遅れて午後10時過ぎになり、ツアー会社の和田氏に夜食をご馳走になりながら、今回の旅行の感想を語ることとなった。確かに何度かのトラブルに見舞われたのだが、ウガンダという国は困っている人がいると必ず誰かが助けてくれるという国民性を十分に理解出来たので不思議と不安に陥ることはなかったぜとリップサービスをしておいてやった。

8月16日(土)

再びただで宿泊したシェラトンホテルを5時間程度の滞在でチェックアウトすると早朝4時半にエンテペ空港に向かった。午前7時30分発のSA161便でヨハネスブルグに戻り、さらに6時間後に香港への機上の人となる。

8月17日(日)

午後12時過ぎに香港に到着し、引き続き午後3時10分発のNH910便にてビジネスクラスのアップグレードを受け、ウガンダに感謝しながら帰国し、そのまま川の流れのように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥44,250 南アフリカ航空 = ¥198,700

総シェラトンホテル宿泊費 ただ

総ウガンダ旅行代 $1,950

総ウガンダビザ代 $50

総タクシー代、空港シャトル代 Ush 90,600 ($1 = Ush 1,530)

協力 ANA、南アフリカ航空、STARWOOD、Greenleaf Tourist(http://www.green.co.ug/index.jp.html

FTBもっとも北の国からフィンランド、ロシア(サンクト・ペテルブルグ)

あ”~あ”~あ”あ”あ”あ”あ”~

マサよぉ、君は見知らぬ北の大地で2人組のスリの集団にあやうく身ぐるみはがされそうになるところを何とかデジカメ1台の被害で食い止めたことがあるか!?

私は・・・・・あ”る!!!

ということで、今回は満を持してFTBに導入されたペンタックスの最新デジカメOptio W60がスリの被害に遭ってしまった(詳細は後述)ため、FTBオリジナル画像なしでのレポート作成を余議なくされてしまったわけで。

2008年7月19日(土)

ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!

ということで、燃料サーチャージの高騰の影響もあってか成田空港は連休の初日にもかかわらず閑散とした雰囲気で特に欧米行きの旅行客は少ない様子であった。その恩恵を受けたのかどうかわからないが、恒例のビジネスクラスへの無条件アップグレードを受けることが出来たので早速午前11時25分発のANA205便に乗り込みパリのシャルル・ド・ゴール空港に向かった。

パリからフィンランド航空に乗り換えて♪森と~泉に~か~こ~まれた~♪ヘルシンキに到着したのは夜の11時前であったのだが、西の空に残っている夕日を背にしながら空港に隣接しているヒルトンホテルにチェックインし、深夜に日が沈んだことを確認した後、ベッドに沈み込んだわけで。

7月20日(日)

空港のヒルトンホテルをチェックアウトすると空港バス(EURO5.9)でヘルシンキ市内に向かった。ヘルシンキ中央駅でバスを下車すると早速ヘルシンキの観光と洒落こんだ。ところで、NOKIAを要するモバイル王国フィンランドでNTTドコモの携帯を持っていると「のき~やぁ~」と締め出される恐怖感を覚えるかと思ったが以外と町中で携帯で話をしている市民は少なかったのだ。

フィンランドの最も有名な建物として白亜のヘルシンキ大聖堂がそびえており、その前の広場には数多くの観光バスが一時停車していた。ヘルシンキの中心街は波止場に面しており、マーケット広場というヘルシンキで最も国際色豊かでかつ有名な市場では数多くの露店が立ち、食料品や手工芸品が高値で取引されていた。

マーケット広場からフェリーに乗り、世界遺産に登録されているスオメンリンナ要塞に侵入した。スオメンリンナは、世界でも大きく、歴史ある要塞のひとつで1700年代、6つの島に建てられた駐屯地の街はフィンランドでも人気の高い名所のひとつとなっている。ここはスウェーデン・ロシア戦争、クリミア戦争などで重要だった要塞で、その名残として潜水艦や大砲が展示されている。

また、かつて戦艦を建造したドックやビジターセンター内にある博物館も見ごたえがあり、850人の居住民の生活さえおびやかさなければ子供からお年寄りまでみなで楽しむことが出来るのだが、宴会後のビールの缶やワインのボトル等のゴミは各自持ち帰るべきだと思われた。

2時過ぎにフェリーでマーケット広場に戻り、小腹がすいたので露店で鉄板焼きにされているWhite Fish(EURO6)を食うことにした。イワシ系のWhite Fishは頭からしっぼまで骨ごと食える魚で物価が高すぎることさえ頭をよぎらなければ非常に満足のいく食い物となるのである。

テンペリアウキオ教会という自然の床岩を切りだして作られた別名ロックチャーチと言われる教会に日曜日のミサが終了した3時半ごろにお邪魔させていただいた。ここはヘルシンキで最も人気のある名所のひとつで、教会の内部の壁は自然石で出来ており、その抜群の音響効果と雰囲気を利用したコンサートの会場としても利用されているわけで。

7月21日(月)

ヘルシンキ中央駅を7時23分に発車するシベリウス号に乗り込み一路ロシアのサンクト・ペテルブルグを目指した。フィンランドの出国、ロシアへの入国手続きはすべて車内で行われたため車外には一歩も出ずに6時間もの時間をかけて午後2時半前に念願のサンクト・ペテルグブルグ、フィンランド駅に到着した。

フィンランド駅から今回の宿泊先である☆☆☆ホテルのサンクト・ペテルブルグホテルまで徒歩で移動し、チェックインをすませ、部屋のショボさに軽く愕然とした後、街に繰り出すことにした。ホテルは観光スポットの少ないネヴァ川の右岸に建っているため、ネヴァ川クルーズを楽しんでいる観光客を見下ろしながらいくつかの橋を渡り、ネヴァ川左岸の観光地帯に侵入した。

サンクト・ペテルブルグの創設者が圧倒的な存在感で君臨するデカブリスト広場(元老院広場)にはピョートル大帝像である「青銅の騎士」がそびえており、婚礼の記念写真を撮っているウエディング軍団やワイングラスを持っていないひげ男爵の扮装をした有料記念写真サービス等で大変な賑わいを見せていた。ピョートル大帝像の南に金色の丸屋根が一際輝いているイサク聖堂が北島三郎の与作と同等の存在感で天を貫くかのようにそびえていたので外観のみ拝観させていただき、その勢いでネフスキー大通りになだれこんだ。

ネフスキー大通りはトルストイやドストエフスキーの作品にも登場するのでロシア文学のファンにはおなじみであるのだが、この通りは19世紀半ばの姿をそのまま残す大通りで非常に見どころが多いのである。また、ネフスキー大通りは3本の運河と交差しており、各運河からは遊覧船が出ており、サンクト・ペテルブルグが北のヴェニスと呼ばれるのも納得するくらいの高値で観光客を乗船させているのである。

ネフスキー大通りに交差する第二の運河であるグリバエードフ運河の近くにかつてナポレオン軍の軍旗が置かれたカザン聖堂が今にも噴火しそうな出で立ちで君臨しており、市民の格好の夕涼みの憩いの場所となっていた。さらに運河沿いを北上すると17世紀ロシア建築様式独特のねぎ坊主屋根が姿を現した。スパス・ナ・クラヴィー聖堂は血の上の教会の異名を持ち、1881年にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された際にロシア全土から募った寄付金によって建てられたわけで。

7月22日(火)

マサよ、君はサンクト・ペテルブルグに来てエルミタージュ国立美術館に来なければサンクト・ペテルブルグに来たことにはならないという不文律を知っているか!?

ということで、世界遺産に指定されているサンクト・ペテルブルグ歴史地区と関連建造物群の中心的存在であるエルミタージュ美術館(P350)に早朝より繰り出したのだが、チケット売り場には10時半開門の1時間前の9時半にはすでに長蛇の列が出来ていた。尚、その長蛇の列は閉館の数時間前まで途切れることはなかったのだ。

長時間の立ち仕事のためにすでに腰のあたりに重さを感じつつ、11時前に何とかチケット(P350)を入手するとバックバックをクロークに預け、エルミタージュの散策をスタートさせた。世界三大美術館のひとつであるエルミタージュのコレクションは、ピョートル大帝の娘エリザヴェータ・ペトロヴナ女帝によって始められ、その後、エカテリーナII世に引き継がれ、収蔵されている絵画、彫像、発掘品などは300万点にも上っている。

エルミタージュ=隠れ家という名前通りに内部は非常に複雑な構造になっており、3階建ての建物の中の展示室は400室にも及んでいる。また、元々は宮殿であったため、帝政ロシアの財力をつぎこみ、全世界から最高級の材料を取り寄せ、一流の職人を投入して作らせた内装と装飾品の数々が展示品と見事なハーモニーを織り成している。エルミタージュで一番の見ものは西欧美術のコレクションであり、マネやモネ、マチス、ゴッホ等の絵画が所せましと並べられている。とある一室ではふとスターバックスに押され気味であるものの新宿や渋谷等で根強く営業している老舗の喫茶店の感覚を覚えた。するとそこには印象派を代表するルノアールの絵画がキャンバス内の美女の笑顔と同等の眩さで観光客を虜にしていたのだった。

入口近くの女子トイレの待ち時間が1時間半であるというとあるツアーコンダクターの戯言を耳にしながら午後3時半過ぎにエルミタージュを後にするとネヴァ川に架かる橋を2つ渡り、遊覧船や戦艦を見降ろしながらペトロパヴロフスク要塞に向かった。チケット売り場で6つのファシリティが見学出来るコンボチケット(P250)を入手すると早速要塞の中心にそびえ立つペトロパヴロフスク聖堂に侵入した。高さ121.8mとサンクト・ペテルブルグで最も高い建築物の中にはピョートル大帝からアレクサンドルIII世までの歴代ツァーリ(ロシア皇帝)が埋葬されているのだ。

1703年5月16日にペトロパヴロフスク要塞の建築が始まったのであるが、くしくもこの日はサンクト・ペテルブルグ誕生の日となっている。湿地帯の島に要塞を築くことは容易ではなかったのだが、迫るスウェーデン軍からロシアを守るために突貫工事で建造されているのだ。尚、函館の五稜郭の見本となったといわれるこの要塞には建物の屋根に遊歩道が設置されており、そこから見下ろすネヴァ川の景色はマサにこれぞ世界遺産と言える代物なのであるわけで。

7月23日(水)

大江戸線の数倍の深さの大深度地下を縦横無尽に走っている地下鉄(P17)のプラットフォームを目指し、果てしなく続くエスカレーターを下り、古い車両のメトロに乗ってヴィチェプスク駅を目指した。そこからローカルの鉄道に乗り換えてサンクト・ペテルブルグの中心から27km程離れたエカテリーナ宮殿に向かった。エカテリーナ女帝の命により、ロシアバロック様式を代表する建築家の設計により1756年に完成した宮殿はおびただしい数の観光客が押し寄せるため、団体客と個人客に分かれて厳格な入場制限が敷かれていたのであった。

宮殿内の内装はそれはそれは見事だと言うことであり、特に2003年に修復なった琥珀の間は世界の奇蹟と賞讃されている代物だそうだが、今回は入場チケットを入手することが出来なかったので琥珀の間でコ~ハク歌合戦を実行し、徳永英明直伝の社会主義が崩壊し、レニングラードからサンクト・ペテルブルグへの変貌を遂げた自由主義の悲哀を綴った「レーニン・ブルー」を熱唱することもままならなかったのだ。しかしながら、宮殿内部への侵入の野望はついえたもののエカテリーナ宮殿の庭園(R180)には何とか潜り込むことが出来たので光り輝く宮殿を背にしながら♪輝きながら♪を口ずさみそれを最後の言い訳として英明には仁義を切っておいた。

午後再びサンクト・ペテルブルグに戻ってくると人類学・民族学博物館(P200)に入場すべく長蛇の列の最後尾にスタンバることにした。1時間待ちでロシア人の倍の外国人料金で何とか入場を果たし、疲れた足腰を引き摺って見学をスタートさせた。ここはエスキモーや正露丸を呑んで日露戦争に打ち勝った日本等のロシアにゆかりの人類学・民族学的展示物が多いのであるが、何故か奇形新生児のホルマリン漬けの展示品が数多く、観光客を好奇と恐怖のどん底に陥れていたわけで。

7月24日(木)

3日間お世話になったホテルサンクト・ペテルブルグをチェックアウトすると今ではすっかりおなじみとなったスパス・ナ・クラヴィー聖堂(P300、カメラP50)の内部を内見させていただくことにした。1881年にロシア皇帝アレクサンドルII世が暗殺された際にロシア全土から募った寄付金によって建立された通称血の上の教会の内部はそれは見事なモザイク画で飾られており、床の大理石の模様も見事に修復されていた。

サンクト・ペテルブルグ到着の初日に外観のみ拝観させていただいたイサク聖堂(P300、カメラP50)の内部に満を持してお邪魔させていただくことにした。高さ100mを超え、収容人数は1万4千人とも言われるロシア正教の聖堂は世界で3番目の大きさを誇り、内部を飾る壁画の数々は聖書の名場面や聖人を描いており、非常に見ごたえのある芸術作品となっている。

イサク聖堂の調査を終えた後、宮殿広場に建つ半円形の凱旋アーチを抜け、ネフスキー大通りに向かっていたときに何者かにつけられているような脅迫感を覚えたので100mくらい注意しながら歩いていた。また、私の斜め前方には携帯電話でしきりにしゃべっている男が私との距離を保ちながら歩いていた。違和感を感じた私がふいに方向転換すると二人はいきなり絵葉書やガイドブックを手に私に襲い掛かり、「ワンダラー、One Dollar」と叫びながら超強引な押し売りに変貌を遂げやがった。何とか身をこなしながら彼らの攻撃を数10秒間にわたって耐え、大通りにエスケープしてしばらくほっとしているとジーパンの左ポケットに収納しているはずのデジカメがなくなっていることに気付いてしまった。通常であれば再び彼らの元に戻り、力づくで盗品を奪い返すところであったのだが、言葉の通じない異国では逆に被害を拡大させてしまう恐れがあるので今回伝家の宝刀「泣き寝入り」を余儀なくされ、涙で濡れた枕もとで藁人形に五寸釘でも打って欝憤をはらすことにした。尚、当然のことながら、旅行先では命と同じくらい大切なパスポートや財布、現金等は何とか防衛することに成功したのだった。

というわけで、旅の記録が詰まったデジカメとSDメモリーを強奪されてしまったたという傷心を抱えて♪あの頃のぉ~ 優しさにぃ 包まれてたぁ お~もいでがぁ 流れてく この町♪をレーニンブルーのメロディーと「もやもや病」を発症した時の徳永英明の感覚を引き摺りながらヘルシンキへの帰途についたわけで。

7月25日(金)

早朝ヘルシンキ中央駅からフィンランド鉄道に乗り、1時間半の時間をかけて湖水地方のタンペレという町にやってきた。午前10時前に予約していたホリデーインに首尾よくチェックインすることが出来たので荷物を置くと早速観光をスタートさせた。

マサよ、君はカルピス子供劇場でおなじみのムーミンがここタンペレで誕生したというトレビアによりわざわざタンペレまで足を延ばさざるを得なかったことがあるか!?

ということで、サンクト・ペテルブルグで発症した「もやもや病」を完治させるためにタンペレ市立美術館ムーミン谷(EURO4)に癒されに行った。ここにはムーミンの声を担当した岸田今日子のナレーションは無いものの原作者のトーべ・ヤンソンによる原画のイラストやムーミンの話に描かれた出来事を表現する立体模型が数多く展示され、おさびし山での寂しさを紛らわすことが出来るにょろにょろしたファシリティとなっている。

♪レーニンブルー も~おぉ~ 終わった は~ずなのにぃ~ レーニンブルー いつまで おいかけるのぉ♪

というわけで、フィンランドの独立に貢献し、ロシア革命の時期に何度もフィンランドに匿われていたレーニンにゆかりのレーニン博物館(EURO5)に♪あなたの まぼろしぃ 消す♪目的で入って見ることにした。受付で日本語の説明ガイドブックを借り、レーニンの生い立ちや社会主義活動を綴ったパネルや展示物を見学していると再び「もやもや病」の症状が再発してしまったために、世界初のスパイ専門の博物館であるスパイ博物館(EURO7)でスパイスを効かせた逆療法を試みることにした。ここでは表の政府よりも世界の歴史に大いなる影響をおよぼしたスパイ達の諜報活動を支えた秘密の道具等が展示されており、よく人質の命と引き換えに要求されるマイクロフィルム等の実物を間近に観察することが出来るのだ。しかしながら、冷戦時代の主流であった盗聴器は今ではホームセンターで購入出来る代物に成り下がってしまっているのが残念である。

タンペレ市内には200湖を超える湖があり、ランチやディナークルーズ等の遊覧船も数多く出ている。しかし、ここでの特筆すべき事実は携帯電話で世界の通信市場を制覇したノキア市が隣接していることであり、実際にタンペレにも数多くのノキアの従業員が高い通信料を払いながら暮らしているという。また、ノキア社やその営業所をめぐるツアーも存在しているとのことで、携帯マニアにはたまらない地域であることは間違いないわけで。。。

7月26日(土)

タンペレからヘルシンキに戻り、ヘルシンキ大聖堂の内部がサンクト・ペテルブルグのイサク聖堂に比べて随分地味であることを確認した後、マーケット市場に乱入し、サーモンスープ(EURO5)を食ってブランチとした。その後、観光客や地元の原住民で賑わうヘルシンキ市街の喧噪を見ながら空港バスでヘルシンキを後にした。

午後4時発のフィンランド航空873便にてパリに戻り、ANA206便に乗り換えて帰国の途についたわけで。。。。

7月27日(日)

午後2時半に成田空港に到着し、そのまま流れ解散。

♪人影も見えない午前零時♪に眠りにつこうとしたが、時差ボケの関係で♪寝たふりが~ こ~んなにつらいことだと~は♪思いもしなかった時、レーニンブルーが実は♪レイニーブルー♪であったことを知り愕然としながら徳永英明への最後の言い訳を考えていたわけで。。。。。。。。。。。。。。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA ¥214,880 フィンランド航空 EURO263.13

総宿泊費 フィンランド EURO 358、ロシア ¥34,200

総空港バス代 EURO 5.9

総フィンランド鉄道代 ¥32,700

総ロシア地下鉄代 P17 (P1 = ¥4.6)

総ロシア鉄道代 P72

総ロシアビザ代 ¥5,000

総ビザ取得代行手数料 ¥5,250

協力 ANA、フィンランド航空、フィンランド鉄道、ジェーアイシー旅行センター

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 利尻島

♪僕の先生は~、フィ~バ~♪

ということで、現在巷で嵐を巻き起こしている水谷豊扮する熱中時代の北野広大は礼文島出身であるのだが、今回はその隣に浮かぶ利尻島に「あららららら~」と引き込まれることになってしまったのだ。

6月13日(金)

ジェイソンのメモリアルデーとなっている13日の金曜日に会社に行くと斧で首を切られるのを恐れて仕事場からエスケープすると7:00発ANA51便に乗り込みキャンプ場が多いはずの北海道を目指した。新千歳空港の2階は一大ショッピングセンターとなっており、北海道の名産品の見本市の様相を呈しているのだが、牧畜成金の田中義剛率いる花畑牧場(http://www.hanabatakebokujo.com/)がフル稼働で生産する生キャラメルはどこも入荷待ちの品薄状態であった。

空港内の花畑牧場の直営店が田中義剛が馬に乗って配達に来るはずの11時、14時、17時の時間限定で生キャラメル(¥850)の販売を行っているのだが、11時からの販売は既に長蛇の列となっていたので、近辺のANA FESTAの土産物屋に場所を移すと意外とあっさり購入出来たので早速試食してみることにした。口に入れた瞬間に溶け出すというのがキャッチフレーズなのだが、ギャグの切れ味の鋭い私の口の中が寒いせいか溶け出すのに多少のタイムラグが感じられた。肝心の味の方は当然のことながら森永ハイチューやアーモンドグリコが束になってかかってきても適わないものとなっている。

義剛のビジネスに貢献しながら空港で時間を潰した後、午後1時15分発のANA4929便利尻行きに乗り込むと1時間程度で夢の浮島である利尻島に到着した。早速島内を運行する宗谷バスに乗り込んだものの乗るべきバスの方向を間違えたため、沓形というこじんまりした港町に到着してしまった。沓形港で丁度礼文島から到着したフェリーが利尻山を背景に入港する光景を見て気を取り直すと周囲60kmあまりの島を南に向かって歩き出すことにした。

あいにく気温11℃の曇り空でしかも強い風が吹き抜ける中を利尻山を見上げながら歩いていると人面岩や寝熊の岩といった奇岩や北のいつくしま弁天宮といった海の守り神的なファシリティが相次いで姿を現した。とりあえず弁天宮に無事にホテルに到着出来るように祈りを捧げたのが功を奏したのか首尾よく自由乗り降り路線バスが追っかけてきてくれたので午後5時前には今回の宿泊先である旅館富士にしけこむことが出来たのであった。

旅館富士を擁する鬼脇は利尻島の沿岸漁業の基地であり、旅館のおかみが近くにある温泉を紹介してくれたので総合交流促進施設「北のしーま」内の温泉(¥500)に浸かりながら冷え切った体を常温に戻すことに成功した。旅館に戻るとそこには地元の海の幸をふんだんに用いたご馳走が待ち構えていた。利尻昆布で煮込んだカレイの煮付けやタラバガニ、ムラサキウニやバフンウニ、利尻昆布水に漬け込んだアワビ等を腹いっぱい召し上がると海にもぐる勢いで布団に潜り込んでしまった。

6月14日(土)

早朝7時14分の宗谷バスに乗り込み30分程で鴛泊フェリーターミナルに到着した。鴛泊は利尻島最大の港町でここから稚内や礼文島行きのフェリーに乗船することが出来るのだ。小雨のぱらつく中、鴛泊港からゆるやかな上り坂を3km程歩くと日本名水百選の「甘露泉水」が昏々と湧き出していたのでここでペットボトルに給水すると念願の日本名山百選の「利尻山」に立ち向かうこととなったのだ。

あいにくの天候の中、4合目付近の鴛泊登山道入り口を9時前にスタートするとぬかるんだ森の山道を慎重に踏みしめながら歩を進めた。道は次第に険しさを増し、足元にゴロゴロした岩の感触を感じながら濃霧の中を5合目、6合目、7合目と順調に登っていった。8合目を過ぎると山小屋があったのでここで冷え切った肉体を元に戻そうとしたのだが、汗の蒸発により気化熱を奪われ体がこわばってしまったので早めのゴールを目指し再スタートを切ることにした。

強風と濃霧の中9合目に到着するとそこには「ここからが正念場」という励ましにもならない無常な看板が掲げられていやがった。確かに火山礫が転がる急な斜面は一本尾根に沿って張られたロープを伝っていかないと登れない難所が続いており、強風にさらされながら凍える手でロープを握り締め滑落の恐怖と戦いつつ、何度も引き返そうと思いながらも何とか正午過ぎには標高1,721mの頂上に君臨することに成功した。

狭い頂上にはこじんまりとした神社が設えられており、天候の良い日であれば礼文島や遠くサハリンまで見渡せる景色を想像しながら、とりあえず無事に麓まで帰れるように切実に願をかけておいた。わずか数分間の頂上での滞在を堪能し、天候の更なる悪化による遭難を恐れてとっとと下山することにした。登りと同様に慎重にロープを使い、足場を確認しながら下山していると神社での5円の賽銭が功を奏したのか次第に霧が晴れていった。すると目の前には万年雪を湛えた山肌が姿を現し、遠く山麓には鴛泊の港町がうっすらと浮かんできた。

登りですれ違った前期高齢者で構成されているはずの山の会の登山者達をごぼう抜きしながら、何とか4時前には下山することが出来たのだった。尚、利尻山は利尻富士の名で親しまれており、雪の地すべりにより削られた山肌によってごつごつとした印象を受けるのだが、そこにはヒグマやヘビ等の危険な動物は生息していないのでまれに見かけるシマリスが食物連鎖の頂点に立っているのだ。

というわけで、一般的には登り6時間、下り4時間・全長8.4kmの鴛泊コースを短時間で制覇した私は麓の利尻富士温泉(¥500)で急速リハビリを実行し、バスで旅館へと帰っていった。旅館富士で再び毛ガニ、ホタテグラタン、サザエ、ウニ、アワビ、夕張メロン等のご馳走を堪能した後、部屋で一夜を明かしながら体力の回復を待たなければならなかった。

6月15日(日)

2日間にわたり、これでもかというほどの地元の海の幸を堪能させていただいた旅館富士を後にすると、バスに乗り込み野塚展望台に向かった。

マサよ、君はマクドナルドはハンバーガーの伝道師ではなく、日本で最初の英語教師であった事実を知っているか!?

ということで、野塚展望台には日本で最初の英語教師ラナルド・マクドナルドが捕鯨船からばっくれて漂着し、日本への密航を果たした地として上陸記念碑が建立されている。彼はその後長崎に護送され、牢獄生活中に多くの武士に英語を教え、日本初の和英辞典さえ作りやがったそうだ。

野塚から海岸線を歩き、さらに原生林の坂道を登ると姫沼という天気のいい日には湖面に逆さ富士を映し出す静かな人口沼に到着した。周囲には800mほどの木道が散策路として整備されており、お手軽な散歩道として利尻山に立ち向かうべく体力の無い老若男女に人気を博しているようだった。

姫沼からサイクリングロードを通り、フェリーターミナルから突き出した岬を見ながら鴛泊に向かった。利尻島の玄関口である鴛泊港に寄り添うように標高93mのペシ岬が異様な存在感を示しているので利尻富士登山で傷めた足を引きずりながら最後の力を振り絞って登頂することにした。頂上から見上げる利尻富士と眼下に広がるフェリーターミナルはマサに利尻島を象徴する光景であり、次回は北野広大を輩出した利尻島の相棒であるはずの礼文島を必ず制覇しなければならないと心に誓いながら利尻を後にしたのだった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥4,200

総宿泊費 ¥24,000

総利尻島バス代 ¥4,170

協力 ANA、楽天トラベル、宗谷バス

飛んでイスタンブールFTBバージョン in トルコ

♪いつか わすれていぃったぁ♪1978年のヒット曲である庄野真代の一発屋ソング(http://www.youtube.com/watch?v=PN2QKZcR3Os)を耳にして以来、必ずイスタンブールを訪れなければならないと考え続けてきた。ついに30年の時を経てその野望を果たす機会を手にすることになったのである!!!

5月3日(土)

ボンジュール マサよ! サバ!(鯖?)

ということで、ANA205便にておなじみのパリ、シャルル・ド・ゴール空港に到着するとそのままエールフランス航空AF2390便に乗り換え目的地であるイスタンブールに到着したのは深夜12時前であった。すでに♪夜だけ~の~パラダイス♪の様相を呈しているイスタンブールであったが、それだと曲のエンディングになってしまうので気を取り直して空港に乗り入れているハフィフ・メトロに乗り込み、何とか1時前には本日の宿泊先であるHoliday Inn Istanbul Cityに無事に到着した。

5月4日(日)

早朝ホテルをチェックアウトし、イスタンブール市内の主要部を走っている路面電車トランヴァイに乗り込みスルタンアフメットというイスタンブール旧市街(世界遺産)の観光の中心地に降り立った。早速撫でようとすると前足で攻撃をしかけてくる気位の高い三毛猫が門番を務めているアヤソフィア博物館(YTL10)を訪問させていただいた。

西暦360年にギリシア正教の大本山として竣工したアヤソフィアは幾たびかの焼失と時代の流れに翻弄されながら、後にイスラーム寺院へと変貌を遂げたイスタンブールを象徴する箱物である。内部には多数のビザンツ文化を象徴するモザイク画が残っており、また聖母マリアの手形といわれている柱にはくぼみがあり、そのくぼみに親指を入れてあとの4本の指を柱から離さずにぐるりと円を描ければ願いがかなうと言われているので観光客は一様にグリグリおよびグルグルに興じていたのである。

3大陸を制したスルタンの栄華を今に伝えるトプカプ宮殿(YTL10)がマルマラ海を眼前に、ボスポラス海峡を望む小高い丘に建てられており、オスマン朝の支配者の居城として400年もの間、政治や文化の中心として栄え、膨大な秘宝が今なお収容されているとのことであったので見物しない手はないと思い侵入することにした。宮殿内の調理場は現在はクリームシチューを盛り付け出来そうな有田焼まで収蔵する陶磁器の展示コーナーになっているものの16世紀末には1200人あまりの料理人がいたといわれている片鱗がうかがえる巨大な鍋釜等の調理器具も目を引いた。また、宝物館には86カラットの大きなダイヤを49個のダイヤで取り囲み、ティアドロップ型に仕上げたスプーン屋のダイヤモンドが永遠の輝きを放っていた。尚、このダイヤの伝説として原石を拾った漁師が市場で3本のスプーンと交換したため、この名が付いたと言われているのだ。

トプカプ宮殿の最大の見所としてハーレム(YTL10)が別の博物館として扱われているので将来マサの資金を横領してハーレムを作る野望を持っている私の後学のために見学しておくことにした。入口を入るとまず黒人のヌビア出身者が多い宦官の部屋があり、その奥には妖艶な装飾を施されたスルタンの母や妻たちの住まいが次々と全貌をあらわした。また、鮮やかなイズニックタイル装飾の美しいムラト3世の間等のいくつかの大広間も目を引くものがあった。いずれにしても恐妻家で慣らしている川崎麻世には想像もつかないような居住空間が実現されているのだ。

イスタンブールの旧市街では、地下の貯水池が数ヶ所発見されているのだが、4世紀から6世紀の間にコンスタンティヌス帝からユスティニアヌス帝の時代に造られた地下宮殿(YTL10)が数多くのコリント様式の柱と巨大魚さえ生息させる水をたたえながら観光客を集めていた。宮殿の一番奥にはメドゥーサの顔が2体横たわり絶好の記念写真スポットとなっている。

イスタンブールがヨーロッパとアジアの架け橋と言われているのはマルマラ海から黒海につながる長さ約30kmのボスポラス海峡で分断され、数多くのフェリーと2つの大橋で結ばれているからである。ボスポラス海峡をゆっくりクルーズするフェリーもイスタンブールの観光の目玉のひとつであるのだが、今回は時間の都合で旧市街とアジア側を結ぶ連絡船で往復することにした。旧市街のエミノニュという桟橋を出航したフェリーは高台のトプカプ宮殿を背にしながらわずか15分程度の航海でアジア側のハーレム桟橋に到着した。多くの車に引き続いて船を下船し、20分程度アジアの滞在を楽しんだ後、再びフェリーに乗りヨーロッパ側へと帰っていった。

イスタンブールは金角湾を境に旧市街と新市街に分かれており、多くの釣り人で賑わっているガラタ橋で結ばれている。出来損ないのイワシのような魚がバケツの中で瀕死状態になっている光景を横目にガラタ橋を渡りきると高台にあるガラタ塔の脇を抜け新市街の中枢であるイスティクラール通りをお散歩させていただいた。この通りにはノスタルジックトラムの別名もあるチンチン電車が走っており、新市街のシンボルのひとつとなっている。

新市街の散策を終えてガラタ橋を旧市街に向かって歩いていると靴磨きの若者が商売道具であるハケを落としたので親切に拾ってやるとお礼のつもりなのか奴はいきなり私に台の上に靴を載せろと言ったのでその通りにすると頼んでもないのに靴磨きを始めやがった。しょうがないのでいくらかの金をはらってやろうと思って5YTLを差し出すと彼は小銭でいいと言いつつも私の財布から日本円の千円札を抜き取りやがった。どこかに両替に行くと言って姿を消した彼を深追いしなかった私は図らずもイスタンブール発たとえ騙されても♪うらまないのがル~ル♪を実践することとなったのだった。

5月5日(月)

トルコ航空のTK266便にて深夜の1時過ぎにカッパドキア(世界遺産)の空の玄関口となっているカイセリ空港に到着し、タクシーで宿泊先であるヒルトンカイセリに移動した。翌朝トルコ語でオトガルというバスターミナルの場所を探すのに手惑い何とか正午のバスに乗り込むと1時間ちょっとのドライブでネヴシェヒルにたどり着いた。

ネヴシェヒルはカッパドキア地方の中心都市であるが、この町自体には見所がないので市内バスで観光地に移動しようと町はずれをさまよっていたときに巨大な亀が広い自動車道を無謀にも横断しようとしている光景が目に飛び込んできた。協栄ジムの金平会長であれば亀田兄弟の愚行を案じて見殺しにするところであるが、浦島スピリットを持つ私は竜宮城への入城券を手にするために体長30cmはあろうかと思われる亀を抱え上げたところ奴は手足をバタバタして抵抗し、しかも糞尿を撒き散らして威嚇するという亀田式のパフォーマンスを展開した。何とか安全な草地に着陸させたものの亀は私に命を助けられたことに対する感謝の意さえ表明することもなかった。ちなみにカッパドキアでは河童の代わりに亀が多いらしく「亀横断注意」の看板をいたるところで目にしたのだ。

亀の救済に思わぬ時間を費やしてしまったため、とりあえずタクシーを拾ってカッパドキアの観光の中心であるギョロメ村にあるギョロメ屋外博物館(YTL10)に向かった。ギョロメ谷には30以上の岩窟教会があり、その中の保存状態のよい多くのものが屋外博物館として公開されている。それぞれの教会には壁画やフレスコ画が見られ、特にDARK Churchの異名を持つカランルク・キリセ(YTL5)にはキリスト像や受胎告知等の鮮やかな色合いのフレスコ画が残っているのだが、迫害を受けた名残のためか人物画の顔や目の部分は無残にもかき消されているものが多かったのも事実である。

ちなみにカッパドキアの名前の由来に関するFTB考古学チームの独自調査の結果によればフランシスコ・ザビエルを彷彿とさせるカッパヘアーの修道士を追放するために洞窟にやってきた侵略者が「カッパどきや~ァ!」と言ったことが始まりだそうである。

トカル・キリセというカッパドキア随一の広さを持ち、天井や壁のフラスコ画の青が美しい2階建ての教会を見物した後、奇岩群を見ながらギョロメ村に戻り、そこからバスに乗ってカイセリへの帰路についた。

夕暮れ時のカイセリではウル・ジャミィというモスクやシンボルとして君臨しているカイセリ城の存在感が目を引いた。尚、カイセリは中部アナトリアを代表する商業都市なのでトルコ人のビジネスマンが颯爽と闊歩している姿にもお目にかかることが出来るのだ。

5月6日(火)

昨日カッパドキアツアーの予行演習をすでに終えていたので今日はスムーズにギョロメまで辿り着くことに成功した。早速オトガルの近くのレンタ乗り物屋でYAMAHAのスクーターを調達するとカッパドキアでの運転には気をつけろという店主に「屁のカッパや!」と最後っ屁を残しながら、観光をスタートさせた。

ネヴシェヒルとギョロメの中間にウチヒサルという鳩の家が無数にある高い岩峰の前でスクーターを降り、奇岩沿いを登っていると散歩風情の原住民がいろいろな場所を自主的に案内してくれた。鳩の家と言われる由来は岩の表面に空いている無数の穴が鳩の巣で住民は昔から鳩の糞を集めて畑の肥料として活用していたからだそうだ。原住民の案内が一通り終わるとお約束どおり金を要求してきたのでとりあえずYTL10を奉納していい気にさせておいた。

ウチヒサルの頂点には「尖った砦」と言う意味の巨大な一枚岩の城塞(YTL3)がそびえているのでここに這い上がり、絶景を見渡した後、ギョロメ・パノラマ地区まで移動し悠久の時の中で刻まれたカッパドキアの岩肌や地層を眺めていると雨が降ってきたので合羽を持ってこなかったことを今更ながら後悔することとなった。

ゼルヴェ峡谷に聖堂や住居が無数にあり、多くの人々がここで生活していたことを偲ばせるゼルヴェ屋外博物館(YTL5)を訪問させていただいた。実際にほんの30年ほど前まで村人が住んでいたそうだが、岩が崩壊の危機にさらされたため移住を余儀なくされたと言われている。多くの峡谷の壁面には洞窟や、山と山を結ぶトンネルが細かく巡らされ往時の生活を偲ばせる名残が残されている。

ゼルヴェの近くのパシャバー地区はカッパドキアを象徴する奇岩であるキノコ岩で有名な場所で観光のハイライトになっているのでキノコ狩りでもするような軽い足取りで歩き回ってみることにした。なるほど、ここは一面キノコ林のような様相を呈しており、天を突き上げるようにいきり立ったものやカリ首の太いもの、先っちょの割れたもの等よりどりみどりの一物系の岩の博覧会場として賑わっているのだ。

夕暮れ時にギョロメに戻り周辺を散策していると岩をくり抜いて作った洞窟ホテルが目を引いた。もちろんすでに営業中のホテルも多数あるのだが、現在建設中の物件も多く見られ、新たなリゾートと癒しを求めて今後も多くの観光客がこの地にやってくることが約束されている。

次の観光地に向かうため7時15分にギョロメのオトガルから長距離バスに乗り込み、途中サービスエリアに寄りながら10時間を車内で過ごすこととなった。尚、トルコ国内はバス路線が非常に充実しており、バスによる安価で快適に観光地を巡ることが出来るのだ。

5月7日(水)

早朝5時前にデニズリという町に到着し、眠い目をこすりながら2時間程やり過ごすと7時過ぎにミニバスに乗り込みパムッカレ(世界遺産)を目指した。トルコ語で「綿の城」という意味を持つトルコ有数の温泉保養地であるパムッカレ(YTL10)の南門から入場すると紀元前190年に始まった都市の遺跡であるヒエラポリスに向かって足を進めた。

ペルガモン王エウメネス2世によって建造された古代都市の一番の見所はスケールの大きな円形劇場である。紀元前2世紀に建てられたこのローマ劇場は非常に保存状態もよく、15,000人を収容したという観客席上部からの眺めはマサに見事と言える代物である。

円形劇場脇の道をさらに進み、春に咲き誇る花から花粉を集めようとしている蜜蜂のブンブン音をバックグランドミュージックに廃墟を歩き回っているとマルティリウムという西暦80年にこの地で殉職した使徒フィリッポとその息子の墓となっている八角堂に到着した。さらに丘を下り参道のようなところを歩いているとドミティアン門という3つの連続アーチと円筒形の石積みが美しい門に遭遇した。これはローマ様式をよく表しているため、ローマン・ゲートとも言われているそうだ。

北大浴場は古代の温泉で3つの連続アーチと円筒形の石積みは大通りの北端の門で、84~85年にドミティアヌス帝を称えて建造されたそうだ。また、その周辺にネクロポリスと言われる多数の墓が並ぶ共同墓地があり、様々な様式の棺おけを見比べることが出来るようになっている。

パムッカレ温泉というローマ時代の古代遺跡が水中にゴロゴロしている珍しい温泉プールが絶好のヒーリングスポットになっているのだが、入湯料が高いので見学だけすることにした。プールの周辺で和んでいる猫に見守られながら観光客はローマ遺跡を足蹴にして優越感に浸ることが出来るという効能により皆癒されているように見受けられた。

2世紀に建造された南大浴場を改築したヒエラポリス博物館(YTL2)に侵入し、現地で出土した彫像や石棺を見張り番と監視カメラの目を盗みながら撫で回して感触を楽しみ、温泉でローマ遺跡を足蹴にすることが出来なかった憂さを晴らした。

パムッカレの最大の見所は気の遠くなるような時を経て結晶し、台地全体を真っ白い雪山のように覆っている石灰棚である。人間のおせっかいを嫌いそうな孤独な犬が石灰棚に横たわっている光景を目にしながら下流のパムッカレ村近くまで伸びている歩道に靴を脱いでおじゃまさせていただいた。観光客は足場が悪い中を天然足底マッサージの要領で記念写真を撮りながら白い照り返しの光を浴びていた。

午後過ぎにデニズリのオトガルに戻り、バスで4時間かけてイズミルに移動した。エーゲ海地方最大の工業貿易都市であるイズミルに到着し、2707と2708号室の2部屋をぶち抜きにしたスイートルームにアップグレードしていただいたヒルトンイズミルの窓から外を眺めていると♪Wind is coming from the Agean♪というジュディ・オングの歌が脳裏をよぎり、思わず♪レースのカーテン引きちぎり、体に巻きつけ、踊ってみたくなる♪ような衝動に駆られたのだが、そのアクティビティは来る日のギリシャ・エーゲ海ツアーに取っておくことにした。

5月8日(木)

イズミルのオトガルからミニバスに乗り、1時間程走ると古代都市エフェスへの起点となっているセルチュクに到着した。オトガルから3km程歩くと地中海沿岸で有数の規模を誇る古代都市遺跡であるエフェス遺跡(YTL10)にたどり着いた。多くの土産物屋が店を構え、おびただしいほどの数の観光バスが列をなしている遺跡の北側の入り口から入場すると最初にアルカディアン通りという幅11m、長さ500mの大理石の道路に出た。現役時代には商店が並び、当時煌々とともされていたであろう街灯も今なお残されている。

アルカディアン通りの先にあるのが、ビオン山に沿って造られた大劇場である。2万4000人を収容出来たという大観客席の上部から舞台を見下ろすとお約束の剣士対猛獣の伝統の一戦が行われていた名残でもある猛獣の控え室も垣間見ることが出来る。

現在は建物は残ってなく床にモザイクのみが残っている娼館は古代の売春宿で足形の広告が目印になっている。ケルケス図書館は見事な2階建てのファサードが美しく、今世紀初頭に発見されたときには相当破壊されていたらしいが、1970年に修復され現在の姿になったという。尚、正面の女性像のオリジナルはウィーン博物館に拉致されており、ここにあるのはコピーだということだ。

マサよ、君は古代の公衆トイレを前にしてウンチクを語っている観光ガイドの説明に耳を傾けたことがあるか!?

というわけで、エフェス遺跡の中でマニア垂涎のファシリティはTOTOがなかった時代に存在した古代の公衆トイレである。これは長いすに単に穴が開けられているもので仕切りがないためプライバシーもなく多くの人々が連れ立って排泄行為に励むことが出来るとあってこれまた多くの観光客が顔をしかめながらのウンチングスタイルを決めて写真撮影に興じていた。

その他の見ものとしてはヘラクレスの門や本来はこの門のアーチとして飾られていた勝利の女神ニケのレリーフ等があるが、スコラスティカの浴場やヴァリウスの浴場等いくつかの入浴設備が充実しているのが印象に残った。これはマサに浴場で温まり欲情してしまったらすぐに娼館に駆け込むことが出来るという非常に効率的なシステムが古い時代から構築されていたことを証明するものに他ならない。

エフェスを後にし、セルチュクからバスでイズミルに戻り、トルコ第三の都市イズミルからTK335便にてこのツアーで2回目の♪飛んでイスタンブール♪を実行した。再びHoliday Inn Istanbul Cityにチェックインしたのは夜も遅い時間だったので♪ひと踊り風の藻くず♪になる間もなく就寝させていただくこととなった。

5月9日(金)

早朝トランヴァイに乗り、ベヤズット・カパルチャルシュで下車し、イスタンブール大学門をちら見した後、恒例の買う気もないのにグランドバザールという屋内市場では中東最大の規模を誇る市場に侵入した。ここでは揃わないないものはないと言われるくらい様々な物品の宝庫になっており、買い物をする所というよりは存在そのものが見ものになっているのだ。

ブルーモスクの名称で親しまれているスルタンアフメット・ジャーミィがイスタンブールの象徴としてイスラム教信者が集う神聖な場所になっているので厳粛なムードを体感するために入ってみることにした。オスマン朝建築の傑作のひとつとして高い評価を受けているその建物の内部は独特の雰囲気の丸天井とステンドグラスから差し込む淡い光と2万枚以上のイズミックタイルが絶妙のハーモニーを醸しだしている。

トプカプ宮殿の第一庭園の北側に国立考古学博物館(YTL5)が♪光る砂漠でロール♪しながら発掘されたトルコの遺跡を集めているので心して見学させていただくことにした。広い館内では多くの地元の美大生と見られる若人がいたるところでデッサンに励んでおり、中には不意にかかってきた携帯電話の着信音のため仲間から彫刻と同じ白い目で見られている学生もいた。

世界的にも評価の高いギリシャ・ローマ時代のコレクションの中でも特に目を引いたのはアレキサンダー大王の立像と石棺である。石棺は紀元前305年頃に製作されたものと考えられ周囲の彫刻はアレキサンダーにまつわる題材となっている。尚、製作時には鮮やかな色が付いていたらしくその様子はレプリカで再現されていた。

ということで、庄野真代に♪おいでイスタンブール♪と誘われたツアーもついに終焉を迎える時となった。イスタンブールから英国航空で飛んでロンドンヒースロー空港に着陸し、そこから乗り換えたANA202便の機内の中で来るべき庄野真代ツアーの第二弾としてモンテカルロで乾杯(http://www.youtube.com/watch?v=zL6L5BrW2L0)の実現性まで検討することとなった。

5月10日(土)

午後3時半頃雨の成田空港に到着し、そのまま川の流れのように流れ解散。

真代も選択に迷うはずの得々トルコ情報

1.トルコ風呂というとスペシャルサービスが提供されるこの世の楽園というイメージがあるかも知れないが、実際はハマムと呼ばれる蒸し風呂である。堀之内で開発された「泡踊り」等の過剰サービスはないがアカスリとマッサージははオプション提供されているのだ。

2.トルコではあらゆる観光地や市街地で野良猫や野良犬が我が物顔で闊歩しており、生類憐みの令が発令されている江戸時代のように動物が愛護されているのでやつらは気軽に食い物を求めて人類に擦り寄ってくるのだ。

3.トルコ行進曲で有名なトルコは後進国だと思い込んでいる輩がいるかも知れないが、実際は文明が発達しており、治安も良く人々も親切なので観光には最適な国となっている。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \216,030、トルコ航空 = YTL258 (YTL1 = 約\80)

総宿泊費 YTL1,090.86

総バス代 YTL119.9

総メトロ、トランヴァイ代 YTL9.05

総フェリー代 YTL2.3

総タクシー代 YTL65.5

総レンタルスクーター代 YTL40

総ガソリン代 YTL8

協力 ANA、エールフランス、トルコ航空、英国航空、HILTONHHONORS、PriorityClub

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 西表島 vol.2

我輩はヤマネコである。名前はマサよ!

というわけで、東洋のガラパゴス、日本最後の秘境と言われる西表島に最初に上陸したのは今から遡ること6年前であった(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2002iriomote.html)。近年の離島ブームの影響で西表島の神秘性が失われてきたのではないかという不安にふと苛まれたため、その近況を調査すべくFTBツアーを敢行することにしたのだ。

4月18日(金)

午前7時55分発ANA121便、B747-400ポケモンジェットに乗り込むと11時前に那覇空港に到着し、そのままANA1765便石垣行きに乗り換えると正午過ぎに石垣島に到着した。早速空港バスでフェリーターミナルに移動し、安永観光の高速フェリーにて西表島に向かった。約40分程の航海で歯茎の眩しい巨人のエースを彷彿とさせる上原港に到着した。

上原は島の北東部に位置し、そこから今回の宿泊地である星立まで約9kmの道のりであったが、島の雰囲気を肌で感じるため歩いて宿舎まで向かうことにした。島内にはあいかわらずイリオモテヤマネコをだしにした交通標識が数多く見受けられ、この島の食物連鎖の頂点に立つヤマネコは人類の存在さえ凌駕している存在感を醸しだしていた。

鬱蒼とした浦内川のマングローブ林を過ぎ、ヤエヤマヤシの群落に支配された星立天然保護区域を横目に何とか海の家「南ぬ風」に到着することに成功した。チェックイン後、とりあえず目の前のビーチ沿いを散策し、夕飯時を迎えると食卓には海人が取ってきた魚が並んでいた。また、食堂の壁にはおびただしい数の有名人の色紙が張られており、にしおかすみこのブタ野郎サインやアルピニスト野口健のエベレスト清掃登山の一筆が目を引いた。

4月19日(土)

早朝より徒歩で白浜方面に進んでいると123°45′6、789”の子午線モニュメントがが6年前と変わらない勇姿を称えている光景が目に飛び込んできた。5km程歩くと舗装道路の終点である白浜港に到着し、ニッチもサッチも行かなくなったので西表島交通バスの3Day Free Passを¥1,500で購入して来た道を引き返すことにした。

浦内川でバスを降りるとアナコンダもいないくせに東洋のアマゾンの名をほしいままにしている浦内川ジャングルクルーズ(¥1,500)に参加することにした。午前11時30分に出発した遊覧船は外国人観光客、プチツッパリ系3人組若人、傷心系ギャル一人旅等を乗せてコーヒー牛乳色の浦内川をすべるように進んでいった。途中船長のマングローブに関する解説を交えながらオヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギ等を眺めながら30分ほどの航行で軍艦岩へ到着した。

軍艦マーチの代わりに水の流れる音を聞きながら山道を1.5km程歩くと展望台に到着し、そこから日本の滝百選に選ばれている豪快なマリユドゥの滝を見下ろした。そこからさらに進むと神々の座る場所を意味するカンビレーの滝に到着した。近年の事故の増加によりマリユドゥの滝壷へ下りる道は閉鎖になっていたため、落差の少ないカンビレーの滝の周辺で観光客は自然との対話を行っていた。

浦内川の入り口近くを独占するIriomote Cafeでコストパフォーマンスの悪い昼飯を食いながら離島の物流体制の厳しさを実感した後、路線バスで星砂の浜に向かった。ビーチには浅瀬でシュノーケリングを楽しんでいるギャルや星の砂を集めて気休めにしようとしている観光客で軽く賑わっていた。

4月20日(日)

海の家「南の風」を後にするとバスで島の西部に向かい、水牛車入り口で下車することにした。ここは言うまでもなく日本有数の♪ドナドナドォナ ド~ナァ♪スポットであり、亜熱帯植物園になっている由布島(¥1,300)まで水牛車に揺られながら離島の風情を満喫出来るように演出されているのだ。

早速7号車の水牛車に実車すると水牛のケツを見ながら西表から由布島までの400mの浅瀬渡りがスタートした。水牛は観光客を乗せている途中であっても遠慮なく糞便を垂れ流すので水牛車には糞便よけの板が標準装備され、ドライバーがその予兆を察知すると板を上げて観光客にしぶきがかからないように防御されているのである。

水牛の活躍で由布島への上陸を果たすと南国のパラダイス亜熱帯植物楽園を十分に満喫させていただくべく狭い島の散策をさくっと行った。蝶蝶園にはおびただしい数のオオゴマダラが飛び交い、その黄金のサナギが葉っぱにぶら下がっていた。また池の中には今日はオフになっている水牛が「生き返るぜ~」といった風情で水に浸かっており、近くには将来の由布島の金づるになることが保障されている水牛の子供たちがまだ角も生えていない幼い表情を覗かせていた。

マサよ、君は水中観光船うみえ~るに乗船し、海の底がきれいにみえ~るという体験をしたことがあるか!?

ということで、バスで島の南岸の大原港に到着し、午後2時15分発出航のうみえ~る(¥3,000)に乗船した。うみえ~るは港を出港すると15分程度でサンゴ礁ポイントに到着し、そこでうみえ~る状態を実現するために船の中央のキャビン部を徐々に下げると窓越しに龍宮城を出現させることに成功した。

ガイドの説明によるとこの海域のサンゴの種類の多さはグレートバリアリーフを凌駕し、海の透明度の理由はプランクトンの少なさによるものだということであった。海底の岩盤にはサンゴがびっしりと繁茂し、熱帯魚の格好の居住地帯を提供しているのだが、このあたりは潮の流れが速いためダイビングには向かないとのことでマサにうみえ~るでないと見ることの出来ない夢の世界となっているのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥17,200

総宿泊費 ¥19,000

総高速フェリー代 \3,540

総西表島バス代 ¥1,500

総空港バス代 \400

協力 ANA、楽天トラベル、西表島交通、浦内川観光、安永観光、八重山観光フェリー

アラビアン・ナイトFTBの冒険 in ドバイ

♪冒険の海だ~ 船出だぁ~ 風が呼ぶ 行く手に待つのは~ 怪獣? ギャング? 宇宙人? マジックベルト マジックベルト 締めて立つ 冒険 少年 シ~ンドバッド ♪ (アラビアンナイト・シンドバッドの冒険主題歌)

ということで、小林旭をも凌ぐ♪ある時 ニヒルな渡り鳥♪として世界中を股にかけ、ピンク・レディ系のダンシングギャルに♪盗んだ こころ 返せ♪とウォンテッドされている私は♪ある時 アラブの大富豪♪に成り上がり、将来本当にウォンテッドされるかも知れないマサの保釈金をオイルマネーで稼ぐノウハウを身につけるためにアラブ首長国連邦のドバイまで羽をのばすことにした。

3月19日(水)

午後6時40分発のNH911便で香港まで飛び、さらにキャセイパシフィック航空のCX745便、A330機に乗り換えると機上で長い夜を明かすことになったのだ。

3月20日(木)

9時間以上の長時間のフライトで夜もまだ明け切らない早朝5時過ぎにドバイ国際空港に到着した。24時間空港のドバイ国際空港ではフライトの合間にここで夜を明かしたであろう多くのトラベラーがホームレスのごとく床に体を横たえており、そんじょそこらのショッピングセンターでは太刀打ち出来ないほどの免税品店群が彼らをむげに見下ろしている光景が対照的だった。

ゲートから長い動く歩道を経てイミグレーションに到着するとそこにはおびただしい数の入国希望者が列をなしていた。1時間程並ぶとやっと私の番になったのでアラブ服の入国管理官にパスポートを提出すると彼は入国目的や滞在期間等の質問をする代わりにトヨタのアリストという車を知っているか?という質問をしてきやがった。また、俺はアリストの他にGT-Rを2台持っているぜ!等の金持ち自慢話さえ繰り広げられたのだった。そ~か?入国審査の列が遅々として進まないのは入国者がすべて成金のたわごとを聞かされるためだったのかと納得させられてしまった。

何とかアラブ首長国連邦への入国を果たすと空港バス(AED3.-)でドバイの市街地に向かった。ドバイ発展の礎となった入り江であるドバイ・クリークの入り口近くのゴールド・スークでバスを降りるとまだまだこの地域が恐るべき発展を控えていることを確信させるウォーターフロントの開発の様子が目に飛び込んできた。地下トンネルを使ってクリークの対岸に侵入し、そこから整備された遊歩道を歩いていると思ったよりきれいで透明な水面に向かって釣り糸を垂らしている原住民やクリークを行き来する数多くの船が徐々にアラブの旅情を掻き立ててくれた。

ドバイの中心であるバール・ドバイ地区のまだ空いていないお店の前に借りてきた風情の猫が佇んでいたのだが奴らはペルシャ猫ではなかった。対岸の高層ビルを見渡しながらさらにクリークの奥に向かって歩いていると緑のまぶしい芝生地帯が出現し、椰子の木陰で原住民がのんきに涼を取っていた。さらに道路のターンアラウンドには華麗な花時計まで咲き誇っていた。

とりあえず、ドバイの歴史を手っ取り早く学習するためにドバイ博物館(AED3.-)に入館させていただくことにした。18世紀~19世紀に建造された砦と伝統的なダウ船が目印になっているドバイ博物館の展示品は紀元前5000年~8世紀の発掘品や風通しのよいヤシの家や装飾品、真珠養殖のための小道具であるのだが、ドバイの歴史をまとめた映像を大型スクリーンで見ることが出来るエリアではわずか30年でいかにドバイが発展してきたかをダイジェストで思い知ることが出来るのだ。

アラブの強い日差しの中をすでに長時間歩いてきたので正午過ぎには予約しておいたダ・アル・ソンドスホテルアパートメント・バイ・ル・メリディアンにそそくさと引き込むことにした。ホテルの部屋で意識を取り戻すとすでに夜のとばりがおりており、これ以上日差しを浴びる危険性がないことが保障され、また夜中にドバイを歩いてもヤバイことにはならないと聞いていたのでクリークのオールド・スークまで足を運び衣類等の繊維製品を見ながら市場を散策した。ドバイの歴史的建造物を保護している遺産地区であるバスタキヤ地区はきれいにライトアップされており、ドバイの夜景を見事に彩っていた。通常であれば、夜もすっかり更けた時間にシンドバッドに扮してアラビアンナイトの冒険を満喫するところであるが、今晩は寝不足と時差ぼけのため、既にシンドイバッドになってしまっていたのでホテルに帰ってとっとと不貞寝を決め込まざるを得なかったのだった。

3月21日(金)

一般的にUAEとしてならしているアラブ首長国連邦の本名はUnited Arab Emiratesというのだが、7つの首長国を取り仕切り首都として君臨しているのはアブダビだということなので、バス(AED15)で2時間かけて行ってみることにした。バスターミナルから片道5車線の広大な道路を北東に向かって歩いていると近代的高層ビルの合間にモスクが控えめに佇んでいる様子が見て取れる。しかし、お祈りの時間になるとそこからコーランが大音響で流れてくるシステムになっているのだ。

4km程歩くと急に視界が開け、そこにこれでもかというぐらいの真っ青な海が現れた。アラビア湾というと石油採掘のイメージからよどんだ印象を受けるかも知れないが実態はこれまでFTBが目にしたどの海よりも強いマリンブルーを放っているのだった。ビーチ沿いには美しい遊歩道が何キロにもわたって整備されており、対岸の島の砂浜ではのんきにビーチでくつろいでいる観光客の姿も遠目に見て取れた。

遊歩道をさらに東に向かって歩き、パブリックビーチのオブジェやヒルトンのプライベートビーチの賑わいを横目に見ていると目の前に豪華な宮殿の姿が現れた。上品なピンクの外壁に包まれたエミレーツ・パレスは2005年にオープンした豪奢なリゾートホテルであり、アブダビのランドマークとしてその地位を確立しているのだった。警備の厳しいエミレーツ・パレスを迂回し、橋を渡ってマリーナ・モールというビーチ沿いの大型ショッピングセンターにたどり着き、そこで涼を取ることにした。広々としたマリーナ・モールの内部は数多くのブランド屋の出店とともに競技用ボートやF1カーさえ展示されており、石油成金アラブの国力の一端を垣間見ることも出来るのだった。

夕暮れ時にアブダビ交通バスでドバイに帰る途中でバスがガソリンスタンドに寄ったので何だろうと思っていたが、何とバスが故障し代わりのバスを待たなければならないという事態に陥ってしまったのだが、その一連のトラブルの中で何の説明もアナウンスも謝罪もなされなかった。しかし、大物アラブ居住者達は誰一人文句さえ言わなかったのだ!

3月22日(土)

♪朝も早よからせっせとせっせとヘアーの乱れを整え♪た後、ホテルをチェックアウトするとドバイ博物館の前で観光スポットやショッピングセンターを効率よく回るためにThe Big Bus Companyのダブルデッカー観光バス(AED175.-)に乗り込んだ。観光バスは2つのラインから成っており、レッドラインはドバイクリークの周辺を回るルートでブルーラインはジュメイラ地区という高級リゾート地帯を走っているのだ。まず手始めにレッドラインに乗り込み、テキスタイルロードと呼ばれる繊維の問屋街を抜け、クリークを横断するトンネルを通り、ゴールド・スークを横目にしながらシティ・センターというショッピングセンターに到着した。

マサよ、君は世界中のホテルのランクを凌駕した☆☆☆☆☆☆☆ホテルがドバイに君臨しているという驚愕の事実に直面したことがあるか!?

ということで、シティ・センターでブルーラインに乗り換えるとバスはジュメイラ・ビーチ沿いのさわやかな風を受けながら西に向かってスピードを増して行った。ジュメイラ・パブリック・ビーチでバスを降りると目の前に広がっている光景はまっ白い砂浜と真っ青なアラビア湾のコントラストであった。早速♪ビキニがとってもお似合いですと肩など抱いて♪いる渚のシンドバッドを探したのだが見つけることが出来なかったのでふと天を仰ぐとそこにはパリのエッフェル塔よりも高くホテルとしては世界一の高さを誇るバージュ・アル・アラブが奇抜なデザインでそびえていたのだった。

ジュメイラ・パブリック・ビーチから徒歩でスーク・マディナ・ジュメイラまで移動した。ここの見所は敷地内にある3つの高級ホテルが全長3.5kmのクリークで結ばれ何艘ものアブラ(渡し舟)が宿泊客を乗せて行き交い、しかもバージュ・アル・アラブを見上げることが出来る絶好の風景を提供していることである。スーク自体はアンティークを中心にした品揃えになっており、アラジン系の魔法のランプでも購入しようという衝動に駆られたのだが、♪完全無欠のロックンローラー♪(http://www.youtube.com/watch?v=_O4ligLq9ss)が出てくると取り返しのつかない一発屋で終わってしまうことを恐れて控えておいた。

マサよ、君は魔法のランプで出現させたものは砂漠のスキー場に他ならないという奇跡に遭遇したことがあるか!?

というわけで、再びブルーラインに乗り込むとワールドクラスショッピングを自認するドバイで最大級のショッピングセンターであるモール・オブ・ジ・エミレーツに向かった。バスを降りると上空に巨大な傾斜を持つ建造物が覆いかぶさるように観光客を圧倒しており、一歩中に入るとそこはブランド物の見本市と化していた。しかしながら、やはりここでの最大のハイライトはスキードバイであり、人口雪で覆われたリフト付きのゲレンデをガラス越しに覗いているとここが本当に砂漠地帯であることを忘れさせてくれるのだった。

ドバイのメインストリートはマサに高層ビルの見本市の様相を呈していた。現在のドバイは建設ラッシュで世界中の3分の1の建築用のクレーンがドバイに集まっていると言われている。その中の最高峰としてひときわ存在感があるのがバージュ・ドバイという完成後の高さが800mを越える世界一のビルである。また、ドバイは海を埋め立てた人工島の建設も佳境に入っており、完成するとドバイの海岸線が580kmも増えてしまうのだ。

古代エジプトをモチーフにしたショッピング・モールがワフィ・シティに君臨しているので見物することにした。ここには主に高級ブティックの出店が見られるのだが、見所はモール内部のステンド・グラスやピラミッド等の模擬古代建造物である。尚、ピラミッドの正体はラッフルズホテルであったのだ。

Big Busツアーにはダウ船クルーズもセットになっているので、夕方5時半からのクルーズに参加させていただくことにした。木造のダウ船は満員の乗客を乗せ、港を出るとクリーク内のゆっくりとした制限速度を守りながら進んでいった。アブラと言われる水上タクシーと何艘もすれ違い、クリーク両岸の建造物を眺めていると日も暮れかかり、アラブ最後の旅情を演出してくれたのだった。

クルーズも終了し、日も暮れてしまったのだが、スパイスの香りに引き寄せられるようにデイラ・オールド・スークに舞い込んだ。欧米人と一緒によりどりみどりのスパイスを物色した後、その勢いを買って買う気もないのにゴールド・スークまで足を伸ばした。ゴールドが眩いばかりの光を放っている店先にはフラッシュをオフにして記念撮影に興じたりする欧米人や真剣に金の価値を見極めようとする原住民で独特の人間模様を醸しだしていた。

真珠採取の歴史を今に伝えるダイビング・ビレッジとかつてのドバイの様子がわかるヘリテージ・ビレッジをちら見した後、インド料理屋で魚カレーを食い、空港に帰るべくローカルの空港バスに乗り込んだ。通常であれば30分程度で着くはずなのに1時間以上かかっても空港のきらびやかなファシリティが姿を現さないのでおかしいなぁと思っていたが、終点で降ろされとんでもない僻地に来てしまったことが発覚した。辺りはアリババと40人の盗賊が出てきそうな雰囲気の寂しさだったのでこのままここの砂に埋もれてしまう恐怖心に駆られてしまったが、アラビアンナイトが提供する最後の魔法でタクシーを止めて何とかチェックインがクローズするぎりぎりの時間で空港に到着することに成功した。

3月23日(日)

午前1時15分のCX738便で午後12時半頃香港に到着し、魔法の名残でビジネスクラスにアップグレードされたNH910 に午後3時半に乗り込むと8時過ぎに成田に到着し、盗賊の嫌疑をかけられることなく再入国を果たしそのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代  ANA = \41,280, キャセイパシフィック = HK$6,856

総宿泊費  AED1,560 (AED1 = \26)

総バス代 AED37.5

総タクシー代(チップ込み)AED50

協力

ANA、キャセイパシフィック航空、STARWOOD、bigbustours.com (http://www.bigbustours.com/eng/dubai/default.aspx