FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 青い楽園フィジー

マサよ、君は南太平洋に浮かぶ楽園のゆったりとした時の流れに身をまかせ、非日常的感覚から社会復帰出来なくなりそうな脅威を覚えたことがあるか!

というわけで、昨年の年末年始はキリマンジャロ登山サバイバルツアーを敢行し、空気の薄い環境の中で天国という楽園との境界を彷徨ったわけであるが、今回は文字通りの楽園というものがいかなるものかを体験するために赤道を越えて南太平洋の十字路に繰り出すこととなった。

12月28日(月)

コンチネンタル航空がスターアライアンスの会員になったおかげで出発までのひと時をおなじみのANAのFIRST LOUNGEで快適に過ごすことに成功すると午後5時15分発のCO07便グアム行き、B737-800機に乗り込み、約3時間半のフライトで太平洋のハブ空港となっているグアム国際空港に1時間の時差を越えて午後10時頃到着した。乗り継ぎのためグアムには上陸しないことになっているのだが、入国審査を受けさせられて無理やり入国の憂き目に遭った腹いせに普天間基地の全面移転を鳩山総理に成り代わって話しをつけようと思ったのだが、元自民党総裁と同じ名前を持つ私の出る幕ではないと考え、差し控えることにした。

2009年12月18日に開設したばかりのグアムとフィジーのナンディ国際空港を結ぶ新路線をひょんなことから発見していたので午後10時55分発CO948便、B737-800機に搭乗するとガラすきの3列席を占拠しながら快適な空へと旅立ったのだ。

12月29日(火)

離陸後約6時間のフライトでフィジー沖に差し掛かり、窓のシェードを開けると眼下には青い楽園にふさわしい珊瑚礁の海が朝日に照らされていた。

午前8時30分にフィジーだけでなく、南太平洋のハブ空港として君臨しているナンディ国際空港に到着し、軽い入国審査を経て到着ターミナルへ入場するといきなり生バンドのトリオの南国演奏で歓迎され、いやがおうでもリゾート気分が高まってくるのであった。

空港を出た大通りにバス停があったのでローカルバスに乗り込みフィジアンスマイルを湛えた原住民と共にナンディのダウンタウンに向かった。尚、フィジー諸島共和国は330もの島々から成り、陸地面積は四国とほぼ同じ小さな国である。今回はその島々の中から最大のビチレブ島に的を絞り調査を決行することになったのだが、町を歩いているとあちこちで「ブラ!」という声を浴びせかけられ、思わずワコール、トリンプはたまたピーチジョンの世界に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えさせられた。

フィジーはかつて英国領であったため、英語が公用語のひとつになっているのだが、「BULA !」という挨拶は現地語として使い続けられており、町をブラブラ歩いているとひっきりなしに「BULA」のシャワーを浴びることになり、その度に脇や背中の肉が胸に集められ、ワイヤーで寄せて上げられるような脅迫感に苛まれてしまうのだ。

ビチレブ島西部のナンディは文字通りフィジーの玄関口になっているのだが、ダウンタウン自体は以外に小さく約1kmのメインストリートに各ショップがひしめき合っているのだ。とはいうもののフィジーの国花であるタンギモウジアは至る所で真っ赤に咲き乱れ、市民の台所となっているマーケットでは収穫されたばかりの野菜やイモ類が山積みになっている有様はマサに南国模様そのものである。

手作り民芸品を売っているハンディクラフトマーケットに軽く足を踏み入れたのだが、ブラと言わせたからには手ブラで帰すわけにはいかねえぜといった燃える商魂が漂っている気配もなく、観光客は落ち着いて物品の物色が出来る体制になっていることが確認出来た。

フィジーくんだりまで来てセレブなリゾートホテルに宿泊しなければフィジーに来た意味が無いと言われているので世界的にも有数の大規模リゾート開発地区であり、ビチレブ島西側ナンディタウン郊外に位置するデナラウ・アイランドに徒歩で上陸することにした。デナラウは小さな島で本島とは狭い水路で隔てられているだけで通常は車に乗ったまま橋を渡って行き来することが出来るのだが、島の入り口には24時間警備員が守るゲートがあり、完全に外界とは隔離された桃源郷となっている。

デナラウ地区にはビーチ沿いに7つのホテルが仲良く軒を連ねており、初日はその中でも最高峰であるはずのフィジー・ビーチ・リゾート&スパ・マネージド・バイ・ヒルトンに意気揚々と乗り込んだ。チェックインするには少し時間が早く、日本人スタッフのYukoも中々捕まらなかったのでとりあえずホテルの散策を先にこなすことにした。青く輝くプール脇のビーチに面して建つ「ヌク・レストラン」でフィジーの地ビールである「Fiji Gold」とシーザーサラダを飲み食いしてさわやかな海風にあたり、胃腸の調子を整えていた。

ビーチのパラソルの下のクッションで寝不足を補った後、Yukoの案内でビーチフロントの部屋へと向かった。パティオから太陽の光が燦燦と差し込む広々とした部屋は吹き抜けのバスルームからベッド越しに海を眺められる構造になっていると同時に外を歩いている人からもバスルームを覗かれるスリルも提供されているのだ。

夕暮れ時に意識を取り戻すとビーチ沿いの散歩と洒落込んだ。いつの間にか隣のソフィテルの縄張りを通り越してウエスティンのビーチに迷い込んでいる内にサンセットを迎えてしまった。オレンジ色に染まる西の空とぽっかり浮かぶ船、そよ風に揺れるヤシの木のコントラストはマサにこの世の楽園にふさわしい幻想的な風景であった。

12月30日(水)

早朝より日課となっているビーチの散策がスタートした。そもそもデナラウはマングローブが生い茂る湿地帯を埋め立てて形成され、またナンディ川が土砂を運ぶ河口に位置するため海の透明度はそんなに高くないのだが、砂浜はよく手入れが行き届いており、またビーチでスパのトリートメントを受けるためのファシリティもセットされている。海に入って静かに打ち寄せる波と戯れていると足の裏に執拗に攻撃を仕掛けてくる未確認生物のハサミのような感触を覚えたのだが、海水が濁っているのでその実態を解明するには至らなかった。

ヒルトンをチェックアウトするとデナラウ地区を巡回するデナラウ・シャトルで天井に草が生えている通称ブラバス(F$6/day)に乗り込み数多くのリゾート・フェリーが発着するポートデナラウに向かった。マリーナには数多くのクルーザーが停泊しており、ここから珊瑚礁に囲まれた白砂の離島に行って満足して帰ってくることが出来る体制が整っているのだ。

ブラバスでデナラウの中心部を形成するデナラウ・ゴルフ&ラケットクラブをスルーして、今日の宿泊先であるザ・ウエスティン・デナラウアイランド・リゾート&スパ、フィジーにしけ込んだ。このリゾートは全体的にフィジーの伝統建築の流れを組み込み、重厚かつ南国ムードあふれる雰囲気を醸しだしている。

さらにスターウッド・ホテル&リゾーツというグループを形成する他の2つのシェラトン系のホテルとは隣接する立地条件になっており、シェラトン所有の無料のブラバスで各ホテルの玄関も結ばれ、いちどの滞在で3倍のリゾートを体験出来るマサにリゾートのコンビナート状態が提供されているのだ。

夕飯時に再びポートデナラウに繰り出すことにした。ここはマリーナだけでなく、いくつかのショップやハードロック・カフェをはじめとするレストランの出店も見られ、リゾートホテルのレストランよりもお得な価格帯で食事を楽しむことが出来るために連泊のリゾーターは少なくとも1回はここで飯を食っているのではないかと思われた。

日没後のシェラトンのショッピングアーケードは相変わらず多くの人出で賑わっており、予約が必須なはずの高級レストランfeastは赤を基調とした異様なまでの存在感で観光客の散財スピリットに火を付けているかのようであった。

12月31日(木)

ビチレブ島の中でも隔離された感のあるデナラウ地区を後にすると本場のフィジーを求めて炎天下の中、徒歩で1時間かけてナンディバスターミナルまでやってきた。正午発のバスに乗ると幹線道路であるクイーンズロードを南下して行った。ビチレブ島の南の海岸線はコーラル・コーストと呼ばれ、文字通り珊瑚の海が広がっており、フィジーでも早い時期からリゾート開発が行われてきた地域である。

コーラル・コーストを代表し、フィジーらしさを全面に打ち出したアウトリガー・オン・ザ・ラグーン・フィジーは高台のロビーからリゾートの全景と透明な海を見下ろすことが出来る構造になっており、緑豊かなガーデンの中にはフィジーの伝統的家屋を模したブレが点在し、しかも各ブレには2種類のハンモックがインストールされている実態が確認された。

ビーチ沿いを歩いているとリゾートの敷地外に出てしまったのだが、馬がうまそうに草を食っていたのでそのまましばらくあたりをさまようことにした。リゾートに戻ると原住従業員が伝統的打楽器とホラ貝でゆく年くる年の雰囲気を高めようと躍起になっていた。

すっかりおなじみとなったフィジーの息を呑むほど美しい黄昏の光景をバックに戯れていた少女AとBが♪じれぇた~い じれったい♪と言わんばかりに新しい年を待ちわびているかのようであった。またプール脇ではフィジーの伝統的儀式であるカバの儀式がおごそかに執り行なわれていた。カバとは南太平洋一帯に生える胡椒化の木のことで、カバの儀式ではこの木の根を乾燥させ、パウダーになるまで付き砕き、それを水で濡らして絞り出した汁を回し飲みして親交を図ることが目的であるのだが、同じブラ繋がりであってもタニマチとして押尾被告にドラッグ部屋を貸し与えていたピーチジョンの野口美佳社長のような胡散臭さのない神聖な儀式であることは疑いようもなかった。

午後11時45分にプールサイドの芝生の近くに人だかりが出来ると「BULA!」の掛け声も高らかに片側に火の付いたバトンを手にしたポリネシアン・ダンサー群がガソリンの残り香とともに登場した。彼らは驚いたことに素手で炎に触り、バトンの片側にも点火するとお約束の火の玉バトントワリングの開始となった。ダンサーはものすごいスピードでバトンを回したり、バトンを回転させながら高く放り上げてキャッチに成功したり、失敗したりしながら観光客に「BULA!」の声援を強要させていた。

ポリネシアンダンシングの興奮も覚めやらぬまま、観光客は芝生広場に参集し、ついにカウントダウンを迎える時間の到来となった。

1月1日(金)

ハッピー ニュー マサよ! ブラ!!

ということで、間延びするほど長かった1分前からのカウントダウンもついに5秒前になり、ついに2010年の新年が時と告げると「BULA」の新年ボードに明かりが灯され、皆一様にブラと叫びながら、あたりに散らばらせた風船を踏み割って破裂音を発生させていた。30分ほどの新年を祝う喧騒を経た後、会場スタッフが機材の撤収作業を始めやがったので新年の饗宴は流れ解散的にお開きとなったのだ。

昨年はキリマンジャロ山頂で初日の出を拝み、それはむこう30年くらいの効力があると信じて疑っていないので今年は太陽の昇りきった時間に余裕をこいて起きだすことにした。アウトリガーの近辺にもいくつかのリゾート施設が展開されているので海岸沿いをブラブラしながらそれらを遠巻きに眺めていた。昨日出会った馬は今朝は鞍を付けられて乗馬観光客を迎えるべく待機させられていた。

記念すべき2010年のスタートを切ったアウトリガーをチェックアウトするとローカルバスに乗り込みビチレブ島南岸を東に向かってひた走った。3時間以上かけてバスはついにフィジーの首都であるスバのバスターミナルに滑り込んだ。

スバは南太平洋随一の大都市と呼ばれるフィジーの首都でリゾーターはほとんどこの町を訪れることはないのだが、フィジーの実態を知る上でFTBの旅程に組み込んでおいたのだ。町の雰囲気は南の島にしては大都市の様相で多くの船が停泊している埠頭や近代的な行政府のビル、カトリック・カテドラル、ショッピング・センターのビル群等が林立しているのだ。

このような都会的光景を目にするとスバはスバらしい所だと思えるかも知れないが実態は外務省も「十分注意して下さい」の警告を出しているほど強盗等の犯罪が多発している地域だそうだ。スバではブラという挨拶の割合が少なくなったものの、町をブラブラ歩いていると、とある煙草を1本手にした謎の男が近藤真彦でもない私に対して「マッチ、マッチ」と近寄って来た。♪そいつが お~れの やりかた♪である♪ギンギラギンにさりげなくぅ♪やり過ごすとそいつは♪愚か者♪に変貌することなく私の前を過ぎさって行ったのだった。

1月2日(土)

熱帯地方特有の降水量の多さで部屋にカビのフレグランスが漂っているHoliday Inn SUVAをチェックアウトするとフィジーの歴史を学習するために熱帯地方の植物が生い茂るサーストン・ガーデンを抜けフィジー博物館(F$7)を訪問させていただくことにした。

館内には各種古典ボート類やフィジアンの文化・習慣などを伝える生活用品や武器等が展示されているのだが、中でも私の関心を引いたのはフィジー人とインド人の関係の歴史であった。フィジーの民族構成はフィジー系が57%、インド系が38%となっている通り、この国にはおびただしい数のインド人が暮らしている。フィジーに最初にインド人が来島したのは1879年で当時はフィジーもインドもイギリスの植民地下にあった。イギリスはフィジーにサトウキビプランテーションを開き、その労働力として勤勉なインド人を移住させたのだが、その後移住者は増え、プランテーションの契約が切れた後もフィジーの環境を気に入ったインド人が居座り続け、今日に至っているのだ。のんびり屋でマイペースなフィジー人とは水と油のような関係であったインド人に引導を渡そうとした時期もあったそうだが、独立後インド人による産業基盤の確立が大きな役割を果たしたという実績から今ではすっかり市民権を得たインド人もフィジーに根付いてしまっているのだ。

フィジー博物館を後にし、日本から払い下げられているタクシーを横目に埠頭沖の鮮魚マーケットにおびき寄せられた。そこには水揚げされたばかりの大小さまざまなカラフルな魚やマングローブを棲家とする蟹が拉致されており、一山いくらの感覚で原住民同士の取引が展開されていた。

大都市スバの胃袋となっているマーケットは2階建てになっており、生鮮食品売り場の1階と比較して2階ではカバの儀式に使う植物の根やインド人のために色とりどりのスパイスが袋詰めで販売されていた。マーケットの外で鼓笛隊の演奏サウンドが響いていたので様子を見にいってみると何らかの新年系のパレードが展開されており、スバの年始の光景を彩っていた。また埠頭沿いではピクニックをしている家族連れも多く、何故かスカートを穿いている男性を数多く目にしたのだった。

思いがけずスバのすばらしさを実感することが出来たのでローカルバスでナンディに帰る道すがら、途中立ち寄るバスターミナルでトレイに盛り付けられラップにくるまれた軽食を購入し、車内で食った後にそのパックを窓から投げ捨てているフィジー原住民のファジーな感覚に慣れてきた頃、空港に到着した。

今日で最後となるフィジーの夕焼けを空港で眺めながら、社会復帰にいったいどれくらいの月日が必要となるのか不安に駆られながら次は離島に行かなければならないという決意を固めていた。

1月3日(日)

深夜1時40分発CO949便にてグアムに戻ってきた。早朝のグアム国際空港は年末年始をお手軽な海外で過ごしてきたエコノミー観光客で大変混雑していたのでその間隙を縫うようにしてCO961便に乗り込み午前10時前には成田空港に到着し、そのまま流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー

総飛行機代 \142,710

総宿泊費 F$1,560.46 (F$1 = \50)

総バス代 F$41.10

協力

コンチネンタル航空、HILTONHHONORS、STARWOOD、INTERCONTINENTAL HOTELS GROUP

第4回カンガルーと一緒に地球環境問題をカンガェル~ツアー in オーストラリア(ゴールドコースト)

グッダイ マサよ!

というわけで、親方日の丸経営が祟り、破綻の危機に瀕している日本航空と手堅い経営の全日空との大きな差はマサに私が上級会員になっているかどうかの違いに他ならないのであるが、今回義侠心にかられたFTBは沈まぬ太陽と称されるJALの復活に貢献してやるため、わざわざ高い金を払ってオーストラリアに弾丸で繰り出すことになったのだ。

2009年11月20日(金)

午後9時45分発JL761便、B767機はほぼ満席の乗客を乗せて定刻どおりに出発となった。シートテレビで放映されている邦画「蟹工船」を見ながらプロレタリアートの気分を満喫し、かつて居酒屋の調理場で揚場を受け持ち、めったに注文の来ない蟹の甲羅揚げを揚げていた古き良き時代に思いを馳せているうちに浅い眠りに落ちてしまっていた。

11月21日(土)

午前7時15分にブリズベン国際空港に到着すると入国審査をクリアし、意気揚々と税関審査に向かった。X線スキャンにSYMANTECのロゴの入ったバックパックを通過させると思いもよらず、厳しい取締りを受けるはめになってしまった。SYMANTECバックパックはウイルスは検出されなかったものの何らかのドラッグの反応があったとイチャモンを付けられ、バックの中身をすべて取り出して持ち物の一点一点を隅々まで検査されることとなった。屈強な検査官はいつの間にかドラッグ談義に私を引き込もうとしたものの、私は「オシオ」「タカソウ」「ノリピー」「白いうさぎ」くらいしかドラッグ用語を理解しなかったので検査官の方から「スピード」というドラッグの説明がなされたのだ。その後ボディチェックをパスしなければお前をオーストラリアに入国させられね~ぜ状況になったので上原多香子のようなソフトタッチの代わりに♪Body&Soul♪のリズムと強い握力のオージー若人により体を絞り込まれるような精査の屈辱を味わった。

30分以上とも思われる長い検査を経て、何とか入国審査に合格した記念にマツモトキヨシでドラッグでも買おうかと思ったのだが、出店していなかったのでバスでゴールドコーストに向かうことにした。ブリズベン国際空港から約1時間のドライブでゴールドコーストの中心地に到着し、楽天トラベルに予約させておいたマリオットリゾートホテルにアーリーチェックインを決め込むと早速オーストラリアを代表するリゾート地であるゴールドコーストの散策に繰り出すことにした。

ブリズベンの南約75kmのところに30kmにもわたって続く黄金の砂浜ゴールドコーストは年間300日以上が晴天と言われ、観光客はやわらかな日差しの下でのんびりと日光浴を満喫していた。南太平洋の荒波には多くのサーファーが立ち向かい、華麗なライディングを決めようと躍起になっていた。

マサよ、君はサーファーズ・パラダイスでパラダイス気分を味わったことがあるか!?

ということで、自称プロサーファーの高相被告もノリピーを伴って来たことがあるかも知れないゴールドコーストで最も賑わいを見せるサーファーズ・パラダイスに侵入した。ビーチではSURF RESCUEの監視の下、波に無邪気に戯れている素人ボディーボーダーを初め、サーフィン教室への入門者や自称プロサーファーがひしめきあっており、彼らを見下ろすように巨大な高層ビル群がビーチに迫るように林立されている様子はマサにパラダイスにふさわしい観光地の様相を呈していた。

サーファーズ・パラダイスの中心街であるカビル・モールではリゾート気分を満喫している観光客が気軽に水着で闊歩しており、カフェやレストランに立ち寄って空腹を満たした後、再びビーチにしけこむことが出来るような体制が整備されていた。また、おびただしい数の素人日本人観光客が路頭に迷わないように至る所で日本語の看板が設置されているのだ。

水陸両用バスでゴールド・コーストを一回りすることが出来るアクアダック(A$35)が観光客の人気を集めていたので乗車(船)させていただくことにした。午後1時45分にセントロ・サーファーズ・パラダイスを出航すると水陸両用のための強力なサスペンションを持つバスは大きな上下動を繰り返しながら海岸通りを北上し、ザ・スピットという砂州に向かった。そこからついに内海のブロードウォーターに突っ込み、内海からネラング川へのクルーズに突入する運びとなった。

アクアダックの中では♪バスとアヒルがちからをあわせて みんなのしあわせを~~♪と歌う代わりに宮崎あおいとはタイプの違うガイドのキューティギャルがオージーイングリッシュで車窓を流れる景色の説明にいそしんでいた。波の荒い外洋と比較して穏やかな内海ではクルーズ船が優雅に巡回し、その脇を水上バイクがうなりを上げて疾走していやがった。

土曜の夜のサーファーズ・パラダイスは昼間以上の賑わいを見せ、おびただしい数の若者が奇声を発しながら町中を闊歩し、容易にドラッグの誘惑に駆られてしまうような危険な香りをプンプンと漂わせていた。また、町行く男子は押尾被告や高相被告のようなイケ面も多いのだが、中には合法ドラッグスピードですでに最高速度に達していると思われる輩さえ散見されたのだった。

このような環境で気が大きくなっている観光客から暴利を貪るために開店されているはずのOKギフトショップに恒例の買う気もないのに入ってみることにした。当店のオーナーの大橋巨泉は不在だったのだが、等身大の看板が代わりに店番を務めているかのように装われていやがった。

11月22日(日)

早朝より裸足でビーチを散策し、足裏できめ細かい砂の感覚を味わい、押尾被告のように高飛車に押し寄せる波で砂を洗い流した後、マリオットホテルをチェックアウトし、海岸通りを南下して今日の宿泊地であるコンラッド・ジュピターホテルを目指した。当ホテルはジュピター・カジノで名を馳せているのだが、今回はギャンブル運を感じなかったのでカジノには見向きもせずに市バスでフレイズ・ワイルドライフ・パーク(A$17.10)に足を運ぶことにした。

入園するとほどなくして園内のシアターで蛇に関するプレゼンテーションが開始されたので少ない聴衆の中、義理で参加してやることにした。プレゼンの最後でお約束となっているはずの蛇と触れ合う時間が取られたのだが、プレゼンターのおばちゃんはヘビー級であるにもかかわらず主役のヘビは小ぶりのおとなしい奴だった。

フレイズ・ワイルドライフ・パークはユーカリ林、湿地帯、熱帯雨林、マングローブ林の4つの代表的なオーストラリアの自然環境が再現されており、その中でワラビー、クロコダイル、木登りカンガルー、各種鳥類等が細々と暮らしているのだ。その中でひときわ目を引いた珍獣は日本航空のように絶滅の危機に瀕している世界で3番目に大きな飛べない鳥であるカンワリであった。奴は金網ごしではあるが私に対してストーカー行為を行い、くちばしの一撃を食らわすべき常に隙を窺っているかのようだった。

市バスでゴールドコースト最大の巨大ショッピング・コンプレックスであるPacific Fairを経由してコンラッドホテルに戻り、ホテルに付属しているモノレール(A$2)に乗り、高級ショッピングセンターのThe Oasisで下車した。日曜日で多くの店が閉店しているThe Oasisを抜けるとビーチに出たのでしばし潮風に吹かれながらすっかり涼しくなったビーチサイドに佇みながら優雅な時を過ごしたのだった。

11月23日(月)

コンラッドホテルをチェックアウトし、ゴールドコーストを後にすると市バスと列車を乗り継いでブリズベンに戻ってきた。リゾート地であるゴールドコーストの趣とは異なり、ブリズベンはマサにオーストラリアを代表する大都市の様相を呈していた。ブリズベンのランドマークとして君臨しているシティ・ホールの近くの公共交通インフォメーション・センターで乗るべきバスとバス停の位置を確認し、ローン・パインに向かうことにした。

ブリズベン市内から南西に11km離れたフィグ・ツリー・ポケットにあるローン・パイン・コアラ・サンクチュアリー(A$28)は1927年開園という、世界最大・最古のコアラ園である。入園すると早速野生のレインボーロリキートというカラフルなインコの餌付けが始まったのでしばし鳥のさえずりの喧騒の中にピーチク・パーチクと佇むことにした。

このサンクチュアリの最大の見所であるコアラに関しては、こぁら~すごいと思わず唸ってしまうほどのおびただしい数のコアラが年齢や性別などによって飼育場所が分けられて居住している。ユーカリが発するミントの香りとコアラの糞尿によるアンモニア臭の入り混じった数多くのコアラ舎では木にひっしとしがみついて惰眠を貪っているものやアクティブに葉っぱを貪り食っているもの等さまざまなコアラの生態を間近で観察することが出来るのだが、お決まりのコアラを抱いての記念写真コーナーでは高値にもかかららず多くの観光客が列をなしていた。

3時半より牧羊犬のショーが始まったので軽く見学することにした。アンソニー・ホプキンスのように容易に羊たちを沈黙させ、決められた場所に誘導させることが出来る賢い犬は非常に訓練が行き届いており、ショーの最後には観光客の記念写真にも応じるというサービスの徹底ぶりであった。

キオスクでA$1を支払って餌を購入すると今回のツアーのハイライトであるカンガルーとの交流を図ることにした。思い思いの格好でくつろいでいるカンガルーと一緒にバラク・オバマ大統領の推進するグリーン・ニューディール政策への貢献方法を考えていると怪鳥エミューが餌のおこぼれに預かりに来やがったので、日本企業も何とかアメリカの政策のおこぼれをすくうべく、財務省主導での準備をしなければならないのではないかと思われた。

サンクチュアリにはコアラやカンガルー以外にもウォンバットや普通のバット(こうもり)、タスマニアン・デビルやワライカワセミ等も拉致されており、また午前10時~午後3時半まで30分おきのアクティビティの開催により、一日中いても観光客を飽きさせないようなすばらしい配慮がなされていることが確認された。

黄昏時にブリズベンのダウンタウンに戻ってくると蛇行して流れるブリズベン河畔を緑に彩るボタニック・ガーデンを散策し、日もとっぷり暮れてしまうと川にかかる歩道橋が見事にライトアップされている様子を見てこの電力も何とか太陽電池でまかなうことが出来ないものかと考えていた。尚、日本で始めて太陽電池が実用活用されたのはキカイダー01(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC01)であることは疑う余地のないところであろう。また、当時はイチローといえばキカイダー01であり、誰もその後のシアトル・マリナーズでの活躍は予期出来なかったであろう。

11月24日(火)

午前8時50分発JL762便にて午後5時前に成田に到着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \88,450

総宿泊費 A$585

総バス代 A$52.6

総鉄道代 A$24.3

協力 JAL、楽天トラベル、HILTONHHONORS、Priority One

FTBJ清流四万十能天気ツアー

マサよ、君は日々の激務で濁った心を日本一の清流で洗われたことがあるか!?

ということで、私がかつて仕切っていたシマンテックという会社との関連性が指摘されることもある高知県に流れる四万十川はウイルスの流れていない清らかな川だと言われている。今回はその清流度がいかがなものかを調査するためにわざわざ高知南西部までやって来なければならなかったのだ。

2009年10月24日(土)

数年前には何の変哲もない高知空港であったのだが、今では高知龍馬空港に変貌を遂げ、「日本の夜明けは近いぜよ!」という認識も新たに午前10時過ぎに高知に到着した。早速ニッポンレンタカーでホンダのフィットをレンタルすると一路高知県西部に向かって車を飛ばすことにした。四国の底辺に位置する高知県は東西に異常に長く広がっており、120km以上もの道のりを3時間程かけてはるばる四万十市までやってきた。

♪う~~う~う~う~う~う~~う、う、う、う、う~~♪

というわけで、四万十市のとある場所で長淵剛のうめき声のような歌声が聞こえてくる感覚を覚えたのだが、ふと気がつくとトンボ王国に迷い込んでしまっていた。トンボ王国の入り口にあきついお四万十川学遊館(\840)が会館していたので入ってみることにした。この学遊館はとんぼ館とさかな館に分かれているのでまず手始めにとんぼ館を見学することにした。ここでは獰猛な肉食昆虫であるとんぼの生態や世界中のとんぼの標本が展示されており、さらには豪華絢爛な蝶や巨大なカブトムシやコガネムシの標本も充実しており、かなり学術的価値の高い展示体系が確認された。

続いて見学したさかな館で最初に目についた水槽の中では「か・ど・の・たくぞ~ じゃ ねぇよ!!」としきりに自分が角野卓造ではないことをアピールしているハリセンボンが四万十川に生息するフグの一種として異様な存在感を示していた。ここさかな館では四万十水系に生息する魚のみならずamazon.comでは購入出来ないはずのアマゾンに棲む巨大魚アロワナ等の熱帯魚が過保護な環境で飼育されていた。

とんぼ自然公園の奥地には高森山遊歩道ハイキングコースが広がっていたので今にも降り出しそうな曇り空にもかかわらず散策に乗り出すことにした。遊歩道でいきなり目についた看板にはウルトラマンの足を引っ張る科学特捜隊の嵐隊員を彷彿とさせる毒マムシがその辺にうろうろしているのでスペシウム光線で攻撃してはならないということだった。何とか1400m地点である第2展望所にたどり着き、そこから山間を流れる四万十川の景色を軽く眺めた後、♪死にたいくらいにあこがれた花の都だ~い東京♪にとんぼ帰りで戻ることも出来たのだが、♪俺は俺でありつづけたい そ~願ったぁ♪ので観光を継続することにした。

四万十市からさらに南を目指し、お遍路様一行がヘンロヘロになりながら歩いているのを横目に40km程車を転がすと四国最南端の岬である足摺岬に到着した。岬の入り口で地元土佐清水市中浜出身であるジョン万次郎の銅像に出迎えられ、漂流から留学を経てアメリカナイズされた感覚を覚えながら岬の展望台を目指した。

足摺岬展望台からは視界270度で断崖絶壁にそびえる白亜の灯台と黒潮の流れを見ることが出来るのだが、さらに離れた天狗の鼻からの景色も捨てがたいものである。かつてツービートの漫才で靴が入用なビートきよしが相棒のたけしに足摺岬に行くように進められ、断崖に行けば靴がそろえて置いてあるという毒ガスジョークがかまされていたのだが、結局靴を見つけることは出来なかったのだった。

10月25日(日)

昨晩お世話になったあしずり温泉郷を代表する国民宿舎足摺テルメをチェックアウトすると四国霊場第38番札所金剛福寺を軽く見学させていただき、弘法大師からのインスピレーションを受けると今回のツアーのハイライトである四万十川遊覧船に乗船する運びとなった。

アカメ館という四万十川遊覧船・土産・レストランのファシリティで¥2,500もの大金を払って、甦る伝統の帆掛け舟である「舟母浪漫」のチケットを入手すると車で川沿いを5分ほど遡り、舟母乗場へ向かった。10時15分発の舟には決して自分のパソコンにはノートンをインストールしているはずもない能天気そうな老壮年観光客達がすでにベストポジションを押さえており、弾丸トラベラー兼シマンテック広報最高顧問であらせられる中川翔子も思わず船上でしょこたんぶろぐを更新してしまいそうな悠久の雰囲気が感じられた。

船尾にモーターがインストールされているのはご愛嬌として、舟は日本最後の清流へとゆっくり流されていった。案内を務める自らを後期高齢者と名乗る能天気な爺さんの口上によるとこのあたりは離島を除いて日本列島で最も東京からのアクセス時間がかかるど田舎なので草彅剛のように裸で乱痴気騒ぎを起こしても誰も咎める者はいないので安心して羽目をはずしてくれとのことだった。さらにこの辺には泥棒はいないので民家は鍵を閉める等のセキュリティ対策は一切していないのだが、夜這いには注意しなければならない。但し、若い頃の爺さんが夜這いに失敗して「やばい!」になったことがあるかどうかはついに爺さんの口から語られることは無かったのだ!

四万十川の主要産業は当然のことながら漁業であり、今でも伝統の漁師が生きているのだが、偽装ウエブサイトにユーザを誘導して詐欺行為を行うPhishingのような最新技術は導入されてないのである。その代わりに川底にはハニーポットを彷彿とさせる筒型の罠が仕掛けられており、数多くの無防備なテナガエビがトラップされているのである。

舟は透明で鏡のような水面を上流に向かって進み、折り返し地点で一旦下船して帆を出す運びとなった。そこからは佐田沈下橋が遠巻きに眺められ、あたかも四万十ゲートウエイセキュリティ(SGS)のように堅牢な雰囲気を漂わせているのだが、実際のところは沈下橋というのは台風等の増水時に沈むという前提で設計されているとのことであった。また、沈下橋は流されないようにと欄干のような余計な物はインストールされていないので車で渡る時には自己責任で落ちないように注意しなければならないのだ。

約50分の遊覧が終了し、増水時には水深が9m近くにもなるという水深計の存在に脅威を感じた後、車に乗り込み川沿いを上流に向かって流すことにした。透明な川の流れと数多くの沈下橋(SGS!)のコントラストを見ていると古い技術であっても決してEOLにされずにさらにバージョンアップも考えていないのは単に県の予算が無いという噂も否めないが、これもひとつのポリシーのあり方ととらえ、旧製品のサポートをすぐに打ち切る傾向にあるシマンテックも見習うべきではないのかと考えながら四万十を後にした(http://www.computerworld.jp/news/sec/42781.html)。

FTBサマリー

総飛行機代 \24,200.-

総宿泊費 \12,600.-

総レンタカー代 \10,000.-

総ガソリン代 \3,182.-

総高速代 \1,050.-

協力

ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、四万十川観光開発、株式会社シマンテック(http://www.symantec.com/ja/jp/index.jsp

FTBJ秋の乗鞍のらりくらりツアー

ゴールデンウィークよりも強力な9月のシルバーウィークの出現により、日本列島の行楽地はどこもかしこも混雑の様相を呈してしまい、もともとシルバーウィークの中日に予定していた乗鞍ツアーものらりくらりとしか進まない車の流れにしびれを切らし、中止に追い込まれてしまっていた。

何とか9月20日(日)の夕刻に諏訪湖畔に辿りつき、湖に佇む愁いを帯びたスワンボートをボ~と眺めながら、このツアーを一度はお蔵入りにするしかないとも考えたのだが、気を取り直し10月の連休にリベンジすることと相成ったのだ。

10月9日(金)

夕刻八王子インターから中央高速に乗り、午後9時前に諏訪湖インターに到着し、今回のツアーが成功に終わるものかどうかそわそわしながら午前0時前まで時間をつぶしていた。

10月10日(土)

日付の変わった午前0時5分に松本インターを通過し、高速料金を週末料金の1000円に値切った後、今日の宿泊地である松本ウエルトンホテルに引き篭もり、のらりくらりと長い夜を過ごしていた。

午前9時頃にホテルを抜け出し、国道158号線を一路乗鞍、上高地方面に向かって車を走らせた。3連休の初日ではあるが、車の流れはスムーズで午前10時前には乗鞍高原観光センターに到着することに成功した。中部山岳国立公園を代表する雄大な自然を誇る乗鞍岳はマイカー規制がしかれており自家用車で来やがった観光客は指定の場所で代替バスに乗り換えなければならないことになっている。

乗鞍高原鈴蘭地区で日野自動車が開発したディーゼルエンジンと電気の両方を動力とするハイブリッドシャトルバスに往復¥2,400の高値を支払って乗り込むと1時間弱のドライブでバスが登っていける日本最高地点である標高2,702mの畳平に到着した。畳平と言えば去る9月19日に放浪のツキノワグマが登場し、観光客や土産物屋の従業員合計9名に重軽傷を負わせた事件が記憶に新しい。このオスのクマは数千畳はあろうかと思われる畳平を縦横無尽に走り回り、たたみかけるように次々に人間に襲い掛かり、ついには猟友会の銃弾に倒れる結果となってしまった。サラリーマン金太郎魂を持つ私が現場にいれば何とか生け捕りにすることも可能であったろうが、今回は月に向かって不幸なクマの冥福を祈っておいた。

乗鞍岳は、北アルプスの南端に位置し、剣ヶ峰(3,026m)を最高峰に、23の峰と7つの湖と8つの平原があり、四季を通じて美しい景観を楽しむことが出来、その姿が馬の鞍に似ていることから「乗鞍」と呼ばれているのだ。畳平から剣ヶ峰まではのらりくらりとした快適な登山環境が提供されているので早速散策に乗り出すことにした。

ハイマツという森林限界を超えた高地に生い茂っている低木の松を横目に、撮影日には体を絞ってくるほとのプロ意識を持つ熊田曜子のようなグラビア系クマの襲撃を期待しながら登山をスタートさせた。折からの寒気の影響で周辺温度は氷点下を切っていると思われ、山肌にはうっすらと雪化粧が施されていた。

乗鞍山頂周辺にはコロナ観測所や宇宙線研究所といった地球外環境を観測、研究するファシリティが重要な役目を果たしていると同時に宿泊設備も兼ねている肩の小屋という重い荷物で肩の凝った登山者を癒すはずの山小屋が登山道のかたわらに佇んでいるのだ。

吹きすさぶ強風に耐えながら、畳平出発後約1時間10分で剣ヶ峰に這い上がることに成功した。頂上には凍えた鳥居を擁する神社が祀られており、各種お守りやおみくじの販売により3,000m級の高地であっても観光客の財布の紐を緩ませることに余念がないようであった。

雲の流れが激しい剣ヶ峰で岩の上に座ってチョコレートを食っている私に無理やりシャッターを押させたオバタリアンの恐怖に耐え切れずに下山を余儀なくされると私の凍った心を溶かすかのように権現池が雲間に現れた。畳平まで下山し、流れる雲の切れ間から周囲の山々の眺望を堪能出来たのでバスセンター建物の地下に潜り、乗鞍自然センターで剥製に加工されている天然記念物のニホンカモシカをチラ見した後、バスで乗鞍高原観光センターに帰っていった。

本日の宿泊地である乗鞍高原温泉ロッジグリーンウッドの硫黄泉で登山で冷えた肉体を常温に戻した後、待ちに待った夕食の時間と相成った。馬刺し、イワナのから揚げ、きりたんぽ鍋などをおいしくいただいているとふいにロッジのおかみがこの宿の常連客であるおっさんが三味線を披露するので夕食時のすばらしい余興の時間として過ごしてほしい(訳:別に聴きたくもないだろうが宿の常連客なので目立ちたがり屋のオヤジの要求は断れへんので軽くつきあってくれや)とのたまったので拝聴させていただくことにした。

おっさんは小学校の音楽でこきりこの竹が七寸五分であることを肝に銘じさせられたこきりこ節をはじめとして2曲を披露し、満足な表情を浮かべて家族の待つテーブルへと引き上げていったのだった。

10月11日(日)

早朝かすかな硫黄の風味を漂わせながらロッジを後にすると快晴の乗鞍岳を見上げて乗鞍高原の見所のひとつである善五郎の滝へ向かった。乗鞍火山の火山活動により形成された善五郎の滝の所以は昔、大野川の里に住んでいた善五郎というきこりがこの滝で釣りをしていたところ、釣針にかかった大きなイワナに滝壺に引き込まれ命からがら逃げ帰り、里人から「イワナいこっちゃない!」と言われたことから善五郎の滝と命名されやがったのだ。

さらに長野県名勝であり、日本の滝百選のひとつに数えられる三本滝に打たれに行くことにした。三本滝は水源も趣も異なる3つの滝が一ヶ所に合流していることが特徴となっている。確かにこの滝は日本の滝百選に選ばれたことも納得するほどの景観を誇っているのだが、善五郎のようなまぬけがいなかったため、平凡な名前に成り下がっていることが唯一残念な点であると思われた。

マサよ、君は新穂高ロープウエイに揺られて間近に迫る北アルプスの眺望に圧倒されたことがあるか!?

というわけで、乗鞍高原から竜鉄也の推薦する奥飛騨慕情を抜け、連休中日でロープウエイへの道のりが超渋滞している新穂高までのらりくらりとやってきた。奥飛観光開発が仕切っているロープウエイは穂高岳への岐阜県側からのアクセスを狙い往復¥2,800もの大金を徴収して第1ロープウエイと第2ロープウエイによる満員空中散歩の機会を提供してくれるのだ。

新穂高温泉駅を出発する45人乗り第1ロープウエイはわずか4分で鍋平高原駅へと到着した。そこから、しらかば平駅まで徒歩で移動し、いよいよクライマックスである第2ロープウエイへと乗り込んだ。東京製綱(株)が開発した極太ロープは日本初の2階建て120人乗りゴンドラを吊り上げ、たまに道半ばで故障により宙吊りになるという過去の苦いパフォーマンスをものともせず、約7分で西穂高口へと観光客をピストン輸送している。途中第1号~第3号鉄塔を通過する際にはゴンドラが前後に揺れるので観光客は絶対に吐いてはならないように気を引き締めておく必要があるのだ。

ゴンドラの車窓から見る景色は高度を上げるにつれ、紅葉の色も濃くなり、中部山岳国立公園が誇る北アルプスを代表する3,000m級の槍・穂高の山々を眺めているとあっという間に終点の西穂高口に到着した。西穂高口展望台は標高2,156mにあり、北アルプスの山々がほぼ360度の視界で見渡すことが出来るという特典からミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009によって☆☆の評価さえ与えられているのだ。また、やまびこポストという通年集配型としては国内最高所のポストが設置されているのでマサに着払いで絵葉書でも送りつけてやろうかと思ったが、住所がわからないので断念した。

ところで、展望台はおびただしい数の観光客で溢れかえっており、喫茶軽食「マウントビュー」のメニューはほぼ売り切れ状態で帰りのロープウエイは長蛇の列をなしていた。途中整理券の配布で迫り来る観光客をさばき始めたのだが、改札時の整理券番号の場内アナウンスで自分の番号がなかなか呼ばれない素人観光客がいらだちの様相を呈していた。また、不幸にも高山病の症状を発症した観光客には特別に酸素スプレーが与えられ、素人であっても何とか無事に観光を成し遂げることが出来るバックアップ体制さえ確認することが出来たのだ。

新穂高ロープウエイではほとんどの時間を列に並ぶ観光客の後姿を見て過ごした後、車に乗り込み長野県安曇野市方面に向かっていたのだが、案の定上高地渋滞にひっかかってしまった。午後7時過ぎに何とか今日の宿泊地である穂高温泉郷リゾートホテルビラあずみ野に到着し、地元の素材を生かした自慢の信州料理に舌鼓を打ち、源泉かけ流しの露天風呂で行列の出来る渋滞観光の疲れを洗い流していた。

10月12日(月)

早朝ビラあずみ野を後にし、のらりくらりとしか進まない帰りの渋滞にはひっかかりたくなかったのでとっとと撤収させていただくことにした。

FTBサマリー

総ガソリン代 ¥5,582

総高速代 ¥3,500

総宿泊費 ¥32,800

総シャトルバス代 ¥2,400

総ロープウエイ代 ¥2,800

協力 

楽天トラベル、松本電鉄、奥飛開発観光K.K.

FTB最も北の国から フィヨルド

あ”~あ”~あ” あ” あ” あ” あ”~ (song by ざだマサ!し)

マサよぉ、君はフィヨルドがノルウェー語で「内陸部へ深く入り込んだ湾」という意味をもつことを知っていたか!?

というわけで、世界経済も昨年のリーマンショック以来の氷河期からの立ち直りを模索している今日この頃であるが、フィヨルドは氷河による侵食で作られたU字、V字型の谷(氷食谷)に海水が侵入して形成された入り江のことである。今回のミッションは財務官僚では決して発想出来るはずもないフィヨルドの調査による日本経済のV字回復への方策を導き出し、グリーンニューディール政策の促進とともに何とか消費税の増税に歯止めをかけさせることである。

2009年8月8日(土)

午前11時30分発のNH209便は繁忙期ならではのエコノミークラス満席によるビジネスクラスへのアップグレードにより、12時間弱の快適なフライトで午後4時半頃にはフランクフルト国際空港に到着した。ルフトハンザ・ラウンジで適当に時間を持て余した後、午後9時45分発のルフトハンザ便に乗り換え、2時間のフライトでストックホルム・アーランダ国際空港に到着したのは午後11時45分を過ぎた深夜であった。早速空港バスで40分かけてストックホルム中心部に位置するシティ・ターミナルに移動するとそこで目にした光景はその日の業務を終えた空港バス群がプラグ・インによる充電で二酸化炭素の排出を極力抑えようとする陰ながらの努力であったのだ。

8月9日(日)

日付も変った深夜に楽天トラベルに予約させておいたFreys HotelにチェックインするとReceptionで部屋のキーとともにスリに対するワーニングの紙切れをいただいたので、スウェーデンのスリはいい仕事をするので注意しなければならないと肝に銘じながら床に就いた。

早朝スリに貴重品を盗られることの無いよう、摺り足でホテルをチェックアウトするとストックホルム中央駅に程近い船着場に向かった。カウンターでドロットニングホルム宮殿行きの往復チケットを入手すると、午前10時発のフェリーに乗り込み、約1時間のメーラレン湖のクルーズがスタートした。湖の沿岸部では至る所でビーチが展開されており、原住民たちは短い夏を謳歌するかの如く、湖水浴と日光浴にいそしんでいた。

フェリーは11時前にはドロットニングホルム宮殿前の船着場に到着したのでそのまま世界文化遺産に登録されている宮殿の見学になだれ込むことにした。チケット売場で宮殿と中国の城との共通入場券(SEK120)を購入すると北欧のヴェルサイユとも言われるドロットニングホルム宮殿の調査が実行に移された。通常古い宮殿では血なまぐさいドロッとした感覚を覚えるものであるのだが、ここドロットニングホルム宮殿に関してはそのバロック様式風の建築とバロック庭園が決してヴェルサイユをモデルにしたものではないことから北欧のおとぎ話に出てくる宮殿そのものでしかなかったのだ。

宮殿はお約束の衛兵で護衛されており、ドロッとした怪しい輩が侵入しないように常に厳しい目が光っているのだ。さらに広大な庭園の奥には中国の城という東洋をモチーフにしたこじんまりだが豪華な外装の建物も存在感を示しており、観光客はスウェーデン王朝と中国の関係も理解することなく、内部の中国風調度品の見学を余儀なくさせられるのだ。

フェリーで市の中心部に戻ると水の都ストックホルムにふさわしい優雅で厳粛な気品を漂わせている市庁舎のガイドツアー(SEK70)に参加させていただくことにした。尚、この市庁舎はコンサートや式典等様々な目的で使われているのだが、最も有名なのは毎年12月10日に開かれるノーベル賞授賞祝賀晩餐会である。私も将来財務省の支援によりノーベル文学賞を授賞してここへ来なければならないので予め下見をしておく必要があったのだった。

ツアーはまず晩餐会の会場となるブルーホールの大広間からスタートした。ブルーホールとは言うものの壁面は赤レンガで覆われており、柔らかい音響効果を醸し出すために、「敲仕上げ」という石の面を突いてこまかい痕を残す小細工まで施されているため、参加者は皆ブルーな気分に浸れるのではないかと思われた。

市庁舎見学のハイライトは金一色の黄金の間で、1900枚の金箔モザイクで飾られた壁面は豪華絢爛以外の何物でもない。ここはノーベル賞授賞パーティーの舞踏広間として使用されるとのことで、私が授賞した暁には中年になった少年隊に仮面を被せてバックダンサーとして派遣し、東山紀之にすでに打点の低くなったバク転を決めさせて参加者に♪いぃっそエクスタシ~♪を感じさせるパフォーマンスを演じる必要があると思われた。

初出場した紅白歌合戦の曲目紹介で司会の加山雄三から「仮面ライダー!」と言われ、思わず変身しそうになった少年隊の無念を胸に市庁舎を後にすると中世の香り漂うストックホルム旧市街であるガムラ・スタンに♪時を超えた楽園♪を探しに行くことにした。ガムラ・スタンでは1280年~1310年に建立されたリッダーホルム教会や13世紀に建てられたストックホルム最古の教会である大聖堂がランドマークとなっているのだが、石畳を踏みしめて歩いているとそこはマサに♪迷い込んだイルージョン♪となって観光客を迎えてくれるのだ。

ノーベル賞100周年を記念して2001年にオープンしたノーベル博物館(SEK60)に侵入し、歴代授章者から♪Wake up De・sire ! ♪のインスピレーションを受けるとガムラ・スタンの北に建つ堂々たるイタリア・バロック、フランス・ロココ様式の建築物である王宮へとなだれ込み、警備している衛兵に♪捨てな!捨てな!マジな プライドを今は~♪と歌いかけて観光客の記念写真に笑顔で応じさせようとしたが、無理だったので仕方なくガムラ・スタンから撤退することにした。 

午後10時30分発、移動手段兼宿泊施設であるSWEBUS EXPRESSの長距離バスに乗り込むと♪溶~けて魔法のリズム♪によりなんとかスリの脅威から身を守ることに成功したストックホルムを後にした。

8月10日(月)

SWEBUSは早朝6時にオスロ長距離バスターミナルにおそるおすろ滑り込んだ。バスを下車すると乗客は皆、とある方面に足を向けていたので私も夢遊病者のようにその後に付いていくとオスロ中央駅にたどり着いた。街が目を覚ますまでしばらく駅で時間を潰した後、市内交通に関する情報を提供するトラフィカンテンでオスロ・パスという市内の公共交通機関の運賃やおもな博物館、美術館の入場料が無料になるお得なカードを購入すると早速オスロ市内の観光に乗り出すことにした。

市庁舎広場からフェリーに乗り込み博物館が林立するビィグドイ地区に流れ着き、上陸すると早速フラム号博物館を訪問させていただき、ノルウェー出身の探検家であるアムンゼンの足跡を辿ることにした。フラム号は北極海流の研究のために造られた、全長39m、満載時で800トンの船で樽のような船底により氷に押しつぶされることなく、氷の上に浮き上がることが出来るように設計されている。そのおかげで北極の氷原に3年間も閉じ込められたにも関わらず無事オスロに帰還したという輝かしい実績を誇っているのだ。

北極研究によりノーベル平和賞を授賞したナンセンから譲渡されたフラム号を駆ってアムンゼンは北極点一番乗りを逃した屈辱を胸に急遽南極に向かい、イギリスのスコット隊を出し抜いて見事南極点一番乗りを果たすという快挙を成し遂げた様子をフラム号博物館の展示物で確認出来た勢いをかって、立て続けにノルウェー海洋博物館とコンチキ号博物館の見物をぶちかました。

コンチキ号博物館ではバルサ材で造られたいかだ船コンチキ号でペルーからイースター島まで8000kmを101日間かけて漂流した文化人類学者トール・ヘイエルダールの冒険魂により南米からポリネシアへの文化の移動説が実証された現実を目の当たりにさせられた。また、一見すると日の丸に見間違えられる帆を持つパピルス船ラー2世号では古代エジプトから南米への文化の移動説さえ実証されてしまっているのだ。

フェリーでオスロ中心部に戻り、オスロの目抜き通りであるカール・ヨハン通りで銅像の真似をする大道芸人に納得がいかず叫びたい衝動に駆られたので地下鉄でムンク美術館に向かうことにした。エドヴァルド・ムンクは言わずと知れたノルウェーが生んだ北欧唯一と言っても過言ではない世界的な画家である。1963年にムンクの生誕100年を記念して開館したムンク美術館には、ムンクがオスロ市に寄贈した膨大な作品が収められている。美術館内にあるカフェではNOK38の支払いで”叫び”ケーキ通称Scream Cakeを発注することが出来るのでチョコレート味に舌鼓を打ちながら溜飲を下げておいた。

オスロフィヨルドを見守るように建っているアーケシュフース城をちら見した後、空港バスでオスロ・ガーデモエン国際空港に移動し、スカンジナビア航空SK4055便にてスタヴァンゲルに向かった。JTBに予約させておいたベストウエスタンホテルの予約が入っていないという危機に直面したもののFTBの類稀なる交渉術により、近くの上級ホテルに緊急避難すると明日から本格化するフィヨルドツアーに備えて白夜の中、英気を養っていた。

8月11日(火)

早朝上級ホテルをチェックアウトし、スタヴァンゲルのフェリーターミナルからカーフェリーに乗り込むと30分程でタウという町に到着した。タウから乗継のバスに乗り込みさらに30分程のドライブでプレーケストール・ヒュッテに辿り着いた。バスを降りると小雨降る中、早速約2時間のリーセフィヨルドへのトレッキングが開始されたのだった。

足もとの悪い岩場の急坂を上ると傾斜は次第に緩やかになり、小さな湖が現れだんだんと視界が開けてきた。果てしなく続く巨大な岩肌と視界を遮る霧がこれから遭遇するであろう恐怖の絶景への期待感を否が応でも抱かせてくれるのだった。

さらに歩を進めるとどうやらフィヨルド淵の断崖に出た様子で立ち込める霧の中であってもここがとんでもなく危険な場所であることが体感された。霧の晴れ間に視界が確保されると、目の前に海面からほぼ垂直に切り立つ一枚岩がついにその全貌を現したのだった。

ノルウェー語で「教会の説教壇」という意味を持つプレーケストーレンは、海面からほぼ垂直に切り立つ一枚岩であり、ここから見下ろすリーセフィヨルドは圧巻のひと言である。当然柵のような野暮なものは設置されていないので観光客は自己責任で絶壁の淵に辿り着き、600m下の海面を恐る恐る覗き込むのがここでの主なアクティビティである。私も崖際で平井堅よろしく♪瞳をとじて♪1分間の片足立ちをかました後、クリフハンガーのように絶壁で懸垂を30回くらいするべきであったろうが、降りしきる霧雨で滑りやすくなっているため、今回はやむなく断念せざるを得なかったのだ。

プレーケストーンを見下ろすさらなる高台に這い上がり、マサにナイフで切り取ったような垂直の壁のエッジにへばり付いて眼下のフィヨルドを眺めている観光客の高みの見物をさせていただいた。プレーケストーンを上から眺めるとは表面にクラックが入っている状況が確認出来、今にも崩れ落ちそうな危うささえ漂わせていたのだが、近くでその割れ目の中を覗くと残念なことに非道観光客によるゴミ捨て場になっている現実の厳しさを思い知らされたのだった。

8月12日(水)

午前9時35分発のSK4156にてスタヴァンゲルからノルウェー第二の都市兼フィヨルド観光の拠点となるベルゲンに10時過ぎに到着した。空港からバスで市内に入り、ベルゲン駅の目の前のグランド・ホテル・テルミニスに荷物を預けるとベルゲンの見所の見物に乗り出すことにした。

ベルゲン港の入り江の一番奥まったところに漁業大国ノルウェーを体感することが出来る魚市場が開かれていたので腹ごしらえも兼ねて立ち寄ってみることにした。年齢を「成魚」であると思い切った詐称をしているさかなクンも思わず「ギョ」とするほどの品揃えを誇る魚市場で何故か「ノルウェーの物価は高くて大変でしょう」と気安く話しかけてきやがった日本人の店員がいたのでそこで思わずエビのサンドイッチを買って昼食とさせていただいた。さらに薄切りサーモンを貼り付けた小さいパンとビールで乾杯した勢いを駆ってハンザ博物館に侵入することにした。

ハンザ博物館(NOK50)は1704年に建立された趣のある木造の商館で内部ではハンザ商人の暮らしの様子が見事に再現されている。ベルゲン繁栄の元となった干しダラは当時のままの様子で展示されているのだが、館内を歩くとタラちゃんが歩く時に発する不思議な足音の代わりに木造家屋が軋むような音がハンザ同盟時代を偲ばせるような趣を醸しだすのに一役買っている。

ベルゲンの観光地区の先にローセンクランツの塔とホーコン王の館の堅牢な石造りの建物群を遠めに眺めた後、ブリッゲン博物館(NOK50)になだれ込み、歴史を伝える世界遺産の木造家屋群であるブリッゲン見学の予習をさせていただいた。この博物館では模型や実際の発掘物でブリッゲンを中心としたベルゲンの歴史を学ぶことに成功した。

ベルゲンの中心地、港に面して壁のように木造家屋が並ぶ一帯は、ブリッゲン地区と呼ばれている。これらの木造家屋は元々13世紀~16世紀に建てられ、ドイツのハンザ商人の家屋や事務所として利用されていた。密集した木造家屋のせいで過去幾度もの火災で焼け落ちたのだが、そのたびに元通りに復元され今では土産物やレストラン、手工芸の工房として観光客の財布の紐を緩めさせるのに多大な貢献をしているのだ。

以外に奥行きのある家屋が並ぶその隙間を入っていくと迷路のようになっており、ペイントされていない剥き出しになっている木材はシロアリの絶好のご馳走になるのではないかと懸念されもした。また、正面から建物の並びをよく見ると地盤沈下のせいか傾いている家屋もあるのだが、2階部分の建築構造によりうまくバランスが保たれていたのだった。

魚市場で目にこびりついてしまった筈のうろこを落とすためにために魚市場から150mほどのところにあるケーブルカー乗り場(往復NOK70)から標高320mのフロイエン山に登頂することにした。ケーブルカーが最大傾斜26度、全長844mを約6分かけて登りきると眼下に広がる光景はベルゲン湾の周辺に密集した建物群や停泊している大小の船舶といった海洋国ノルウェーの特徴を目に焼き付けるのにまたとないものであったのだ。

午後9時半をすでに回った夕暮れ時にベルゲン湾沿いをぶらぶら歩いていると港の光景が徐々に幻想的な茜色に染まり始めていた。雲の切れ間から差す西日に照らされたブリッゲンの光景もまた格別なものであり、近辺のカフェのテラスではさわやかな北欧の一日の余韻を楽しむかのように人々が語らっていた。

8月13日(木)

ベルゲン駅隣の長距離バスターミナルからベルゲンを後にすると、午前9時前に豊かな自然に囲まれたノールハイスムンという小さな村に到着した。そのままバスの到着を待っていたかのように停泊しているフェリーになだれ込むと全長179km、ノルウェーで2番目に長いハダンゲルフィヨルドのクルーズがスタートした。尚、フェリーのチケットは内部のキオスクで気安く買える仕組みになっているのだ。

フェリーは「女性的なフィヨルド」と形容される緩やかな景観の中をフィヨフィヨと進んで行くと山肌を明らかに氷河が流れた後や夏真っ盛りのこの時期に真っ白な雪をたたえている現役の氷河に次々に遭遇した。フェリーはいくつかの船着場を経由して正午前にアイフィヨルドに到着し、そこで下船する運びとなった。

あらかじめフェリーの中でアイフィヨルドの3時間観光ツアーのチケットを高値で購入していたので下船後に待っていたバスに乗り込み、ツアーガイドのネイちゃんの案内でネイチャーセンターに連れて行かれた。ハダンゲルヴィッダ高原のネイチャーセンターではいきなり建物の屋根の上で草を食っているヤギに出迎えられた。尚、こいつらは決して自分の意思で上って来たのではないことは明らかであるのだが、落下の危険もものともせずに果敢に屋根に植えられている草を食い尽くそうと躍起になっているようであった。

ネイチャーセンターでこのあたりの地形の成り立ちを学習した後、このツアーのハイライトである182mの大瀑布、ヴォーリングフォセンに向かった。滝を見下ろすように木造建築が風情を醸しだすFOSSLI HOTELが存在感を示しており、展望台からは思わず吸い込まれそうになる清らかな滝と緩やかに蛇行して流れる川の情景に時間の経つのを忘れるくらいに見入ってしまうのである。

フェリーは午後2時40分にアイフィヨルドを後にすると30分程で到着したウルヴィクで下船し、路線バスに乗ってフィヨルド観光の中継地となっているヴォスに向かった。バスがヴォス駅に到着するとその目の前には美しいヴァングス湖が薄日に照らされていたのが印象的だった。湖畔には1277年に建立されたゴシック教会であるヴォス教会が町の歴史を見守ってきたかのような威厳を湛えていた。

8月14日(金)

早朝ヴォス駅よりバスに乗り1時間程の山道ドライブで午前9時半頃にソグネフィヨルド観光のフェリーが発着するグドヴァンゲンに到着した。ここで目にした光景は急峻な岩肌を幾筋にもなって流れ落ちる滝であり、否が応でも世界一長く、深いソグネフィヨルドで遭遇するはずのこの世の物とは思えない絶景への期待が大きくなっていくのである。

長さ204km、最深部は1308mの深さを誇るソグネフィヨルドは最奥部で枝分かれしており、細い先端部分のネーロイフィヨルドはユネスコの世界自然遺産に登録されている。グドヴァンゲン~フロムを結ぶ観光フェリーはネーロイフィヨルドに沿って航行し、途中で方向を変えアウルランフィヨルドに切り込む航路となっている。

ノルウェーのフィヨルド観光を取り仕切るwww.fjord1.noが運行させているフェリーに午前10時半に乗船すると観光客は足早に船の最上階の屋外デッキを目指していた。何故なら2時間のクルーズで次から次に出くわす幻想的な景色はどれひとつとして見逃すことが出来ない程すばらしいものであるということがグドヴァンゲンで遭遇した光景のインパクトにより確約されているからだ。

Fjord1フェリーの操舵室ではWindows OSで動作しているはずのナビが進路を指し示していたのだが、フェリーがバイキングに乗っ取られるよりもこのナビゲーションソフトの脆弱性を付くサイバー海賊によりソマリア沖まで誘導されるリスクの方が高いのではないかと懸念された。通り過ぎる景色はどこを切り取っても世界自然遺産にふさわしいもので急峻な山肌や数え切れない程の滝、点在する村々を眺めていると気温の低い船外で風邪や新型インフルエンザのウイルスに対する耐性が低下しそうになっていることにも気づかずに時間が過ぎ去ってゆくのであった。

マサに幻想的であったFjord1フェリーでの航海も終焉を迎え、船は午後12時半にフロムに到着した。「山間の小さな平地」という意味を持つフロムは、アウルランフィヨルドとフロム渓谷の山々という豊かな自然に囲まれた住民わずか500人ほどの小さな町に過ぎないのだが、夏になるとフィヨルド目当てのおびただしい数の観光客が押し寄せてくるのである。

世界中の旅行者の憧れの的である登山列車フロム鉄道の歴史を学習することが出来るフロム鉄道博物館でほとんどの工事を手作業に頼りながら何とか開通にこぎつけた山岳鉄道開拓の苦難を疑似体験することが出来たので、それを忘れないうちにフロム峡谷のトレッキングに繰り出すことにした。

フロム峡谷には10種類のトレッキングコースが設けられており、難易度により初級のカテゴリー1から上級のカテゴリー3までに区分されている。その中から私が選択したコースは当然のことながら上級向けのブレッケの滝へのツアーであった。フロム駅を出発し、見事なまでに透明な川にかかる橋を越え、羊を放牧している牧場を眺めながら歩いていると山間に滝が流れている姿を遠めに眺めることが出来る。単純にあの滝を目指せばよいと考え、急な山道を登っていったのだがいつまでたっても目的地にたどり着けず、ついに列車の時刻に間に合わなくなるのではないかという焦燥感にも駆られてしまった。

汗だくになりながら1時間以上歩いたのであろうか?ついに水が流れる音とともにブレッケの滝が目の前に姿を現した。何とか目的地にたどり着き、苦労した割には大したことはない滝を軽く見物した後、速攻で下山している際に見下ろした峡谷とフィヨルドのコントラストはマサに氷河が刻んだ芸術作品以外の何者でもないと思われた。また、川沿いには集落が点在しており、北欧の田中邦衛のような不器用な人間が住んでいるはずの家々に生えている木々には見事なサクランボやリンゴが実っていた。

午後4時10分、海抜3mから標高865mまで登る全長20kmの距離をわざわざ1時間かけて走る念願のフロム鉄道(NOK230)に乗り込んだ。車内は異常な程の混雑状態となっており、心無い日本人若者観光客はこれは山岳鉄道ではなく、最悪鉄道だと苦し紛れの駄洒落を飛ばして行き場の無い感情の捌け口を求めようとしていた。しばらくすると車掌のはからいで団体客用の車両に空席が残っているので駄洒落野郎も含めて何とか座席が確保出来る救済措置が取られたのであった。走り始めた列車の車窓には当然のごとく峡谷の絶景が写し出され、疲れて眠っている観光客以外は皆外の景色に釘付けになっていた。

フロム鉄道での最大のアクティビティと言っても過言ではないイベントは落差93mのショース滝で途中停車し、乗客は列車から降りておのおの記念写真が撮影出来ることである。さらに滝の爆音をかき消すかのように民族音楽が流れ始め、いきなり青い服を身にまとったブロンドガールがサプライズのように山肌の小屋の中から姿を現しやがった。そのブロンドガールがフェードアウトするとあたかも瞬間移動したかのように同じ装いをしたブロンドガールが今度は滝の近くに現れたのだ。その後交互に姿を消したり、現したりしながら乗客をあざけているうちに車掌の笛によって乗客は列車に戻らなければならなくなったのだった。

終点のミュールダール駅は標高866.8mの山岳地帯で周囲の山々には美しい高山植物とともに白い雪が残っている。軽く周囲を散策させていただき、午後6時28分発のオスロ行きの列車に乗り換えて5時間以上かけて到着するとそこには白い雪の代わりに眩しいネオンが光輝いていた。

8月15日(土)

早朝ホテルをチェックアウトし、駅前の虎の銅像の大きさに脅威を覚えた後、工事中のオスロ大聖堂を通り過ぎ、王宮周辺を散策することにした。すると昨日フロム鉄道で対面に座り、英語で話しかけてきた若者が近づいて来て「昨日列車で一緒でしたよね?」と一言捨て台詞を残し、こちらの回答を待たずに過ぎ去って行ってしまった。

マサよ、君はムンク美術館に展示されている「叫び」ではなく国立美術館に所蔵されている「叫び」の方を見なければムンクに文句を言う資格が与えられないことを知っているか!?

ということで、物価の高い北欧の中にあって入場料が破格の無料となっているのだが、月曜日が閉館となっており、土曜日は午前11時からの開館のため、入口で入場を待つ観光客で混雑している国立美術館に侵入することにした。時間がなかったのでゴーギャン、ピカソ、モネ、セザンヌなどの画伯の作品はブッチして一目散にムンクの展示室に突進した。尚、「叫び」は耳を覆いたくなるようなタッチで描かれているのだが、ムンクも本気を出せばうまい絵も描けることが現地の調査で確認出来た。

オスロ中央駅からエアポート・エクスプレス・トレイン(NOK170)でわずか20分でオスロ・ガーデモエン国際空港に到着すると午後1時45分発のルフトハンザ便でフランクフルトに戻り、発券カウンターではプレミアムエコノミーにしか昇格出来なかったのだが、搭乗口で逆転ビジネスクラスアップグレードを勝ち得たNH210便に乗り込み、これもムンクに文句を言わなかったご利益であると感謝しながらノイズキャンセリングヘッドホンで耳を押さえながら乾燥した機内でカーディガンも着ないで過ごしていた。

8月16日(日)

午後2時半頃成田空港に到着し、新型インフルエンザに対応しなければならないという心の叫びを感じながら流れ解散。

身の毛もよだつ北欧情報

1.揺り篭から墓場までと例えられる社会福祉制度を誇る北欧の物価は日用品や食費においては体感的に日本の2倍~3倍であると思われ、観光客の財布やクレジットカードを容赦なく痛めつけるので北欧通貨のクローナを使うときは常に「苦労するな~」と思うのである。土産物屋ではTAX FREEの看板が掲げられ、空港で税金が還付される仕組みになっており、観光客がトナカイの毛皮を買う時等の購買意欲がそがれないような努力がなされている。かといって福祉を充実させるために日本で消費税を上げることに関しては慎重に議論されなければならないであろう。

2.北欧は真夏でも気温が20℃くらいしか上がらず、またノルウェーの西岸ではメキシコ海流のおかげで天候が変わりやすく雨が降ったり止んだりしている日々を過ごさなければならなかった。そのせいで帰国後風邪なのかインフルエンザなのか区別が付かない体調となり、2007年7月に賞味期限が切れた葛根湯で対応しなければならない屈辱の今日この頃である。

3.北欧と言うとバイキングを思い浮かべる輩が多いと思われるのだが、スウェーデンやノルウェーでバイキングのキャラクターになっているのはむしろバイキンを彷彿とさせる物ばかりである。たまにハイキングウォーキングのQ太郎のような長髪イケ面バイキングにも遭遇したが、観光客は「おねが お願いします おねが」と言ってチップを払えば記念撮影させていただける実態が確認された。

FTBサマリー

総飛行機代  ANA = ¥278,170.-、スカンジナビア航空 = NOK 2,420.- (NOK1 = ¥16)

総宿泊費 ¥58,500、NOK1,590.-

総鉄道代 NOK695.-

総バス代、SEK526.- (SEK1 = ¥13) 、NOK766.-

総フェリー代 SEK150.-、NOK700.-

協力 ANA、ルフトハンザ・ドイツ航空、スカンジナビア航空、楽天トラベル、Fjord1、SWEBUS、ノルウェー鉄道

非協力 JTB

FTB世界三大瀑布完結編世界遺産ヴィクトリアの滝ツアー

マサよ、君は世界三大瀑布というものを知っているか?

またそれらをすべて制覇した実績を誇りに刻んだことがあるか!?

ということで、日本三大幕府と言えば鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府にすぎないのであるが、世界三大瀑布とは北米のナイアガラの滝、南米のイグアスの滝、アフリカのヴィクトリアの滝を指し、いずれ劣らぬ大規模なマイナスイオン供給源となっているので源頼朝もその存在に気づいていれば心の拠り所にしていたはずである。

次の総選挙で自民党の大敗が予想され、与党を支えてきた官僚も滝に打たれて初心に戻ることが必要とされる中、FTBは先行してヴィクトリアの滝の猛しぶきの洗礼を受けにはるばるアフリカ南部に足を伸ばすことになったのだ。

2009年7月16日(木)

午後7時発NH911便香港行きは定刻通り出発し、機内エンターテイメントにより提供される邦画「おっぱいバレー」に主演して胸がいっぱいになったはずの綾瀬はるかとともにはるか彼方で流れ落ちる大滝に思いを馳せていた。午後11時50分に南アフリカ航空SA287便ヨハネスブルグ行きに乗り継ぐと12時間以上もの時間を滝に打たれるのと同等の試練が与えられたように狭い機内で過ごしていた。

7月17日(金)

午前7時前におなじみのヨハネスブルグO.R.タンボ国際空港に到着すると2時間半後には再びSA040便VICTORIA FALLS行きのの機上の人となっていた。合計20時間以上のフライトを経て念願のジンバブエにあるVICTORIA FALLS国際空港に到着したのは午前11時15分であり、早速ホテルが送迎用に手配したDingani Toursのバンに乗り込み今回のツアーの宿泊地となっているその名もずばりTHE VICTORIA FALLS HOTELにしけこんだ。

創業1904年のTHE VICTORIA FALLS HOTELは伝統と格式のあるホテルでかつてはエリザベス女王をはじめ、英国王室からの来賓も多数滞在した実績を誇っているのだ。ホテルの内装は非常にクラシカルで数多くの動物の剥製胸像が壁にインストールされており、リビングには腰が痛い人にはたまらないフカフカのソファや王や女王の巨大な絵も宿泊客の目を引くのに一役買っている。

ホテルのガーデンからはヴィクトリア大橋が遠巻きに眺められ、その奥には轟音とともに滝から流れ落ちた水が水煙となって立ち昇っていた。ガーデンを抜けると滝への近道となっているのだが、ホテルの敷地を一歩出るとそこは国立公園の管理地域であり、いつ何時野生動物の襲撃を受けても不思議ではない環境なので自己責任で行動しなければならないのだ。目の前に転がっているおびただしい数の生の象の糞を避けながら歩いていると野生動物に遭遇する代わりに原住民が立ちふさがり、100兆ジンバブエドル札を5USドルに交換してほしいとしきりにまとわりついてきた。赤字国債の乱発で返済の目途が立っていない日本の借金をいち早く返済したいはずの財務官僚であれば100兆という単位に思わず目が眩むところであろうが、ジンバブエは急激なインフレが進んでおり、すでにジンバブエドルは通貨としての機能を失ってしまい、100兆が無価値になるという悲しい現実を思い知らされた。

数え切れないほどの「0」を見て丸くなってしまった目を修復するために、「GORGE VIEW BRIDGE VIEW LOOK OUT」というザンベジ川による侵食によって形成された蛇行した峡谷を眺めて目の保養に努めることにした。固い岩盤が削られて出来たこれらの峡谷はかつては滝であったと伝えられており、滝の位置は気の遠くなるような年月をかけて今も上流方向に移動し続けているのだ。

滝を管理するゲートに近づくにつれ、轟音が大きくなるとともに体がマイナスイオンを帯びてくる感覚を覚えた。ゲートで入場料$20を支払うと念願のヴィクトリアの滝ジンバブエサイドの探索をスタートさせた。ちなみにこの滝は1855年にイギリス人探検家デビッド・リビングストンによって発見されたのだが、その偉大なるまぐれの功績により滝の入り口近くにはリビングストンの銅像がリビングルームでくつろいでいるかのように気軽に立ちはだかっているのである。

滝の名前は当時のイギリス女王の名前を取り、ヴィクトリアの滝と許可無く命名されたのであるが、現地では「モシ・オア・トゥンヤ」と呼ばれ、その意味は「雷鳴のとどろく水煙」という直感的なものであり、なるほど、郷ひろみがお約束で♪君たち女の子♪と歌っても♪僕たち男の子♪と音程をはずしても追っかけギャルのように滝の底から♪ゴーゴー♪という爆音しか返ってこないのである。

公園内の遊歩道は非常に整備されており、滝はデビルズ・キャタラクト、メイン・フォールズ、ホースシュー・フォールズ、レインボー・キャタラクト、アームチェア・フォールズ、イースタン・キャタラクトの6つのパートに分かれており、それぞれのパートでレインコートを持参していない観光客は濡れねずみとなって這い回ることを余儀なくされるのだ。

たまたま公園内に迷い込んだイボイノシシが濡れイノシシになりながらも果敢に草を食っていたので、財務官僚の悪行の濡れ衣を着せるべく対決しようと思ったのだが、伝家の宝刀イボころりを持参していなかったので断念した。滝は国境のザンベジ川を越えてザンビアサイドまで続いており、母国は違えどイボ兄弟がその迫力を競うように流れ落ちているのだ。

激しい水しぶきは太陽光線によりいたるところで美しい虹を形成している。ヴィクトリアの滝では満月の前後3日間の夜に公園を開放し、月の明かりで虹がかかる絶景も楽しむことが出来るため、滝廉太郎でなくても「荒城の月」程度の楽曲は作曲出来るのではないかと思われた。

7月18日(土)

早朝7時前に水煙の彼方から立ち登る真っ赤な朝日を眺めながら朝食をいただいた後、ザンビアへ向かうべくホテル敷地外の国立公園けもの道もどきに繰り出すとすぐさま地元のPoliceがエスコートしに飛んできたので今朝は原住民にジンバブエドルをUSドルに両替してあげる機会を逸してしまっていた。

国境の架け橋となっているヴィクトリア大橋からは滝だけでなく深く刻まれた峡谷も見下ろすことが出来るのだが、何と言っても降下距離111mを誇る世界一の高さのバンジージャンプまでもが高値で営業されているのだ。通常であれば、私も朝一のモーニングバンジーを披露して通行人の胸中に大和魂を刻みつけるところであるのだが、長旅の疲労が抜けきれていなかったため、勧誘に来た原住民を睨みつけるにとどまってしまった。

橋を超えると国境のイミグレーションにたどり着き、そこで$20を支払ってOne day tripビザを入手した。建物の外では多くのパスポートを持っていないバブーンが道端の駐車車両を我が物顔ではしごしている光景が目に飛び込んできた。何故かジンバブエサイドの入場料の半額である$10を支払ってヴィクトリアの滝ザンビアサイドに侵入するといきなり敬礼したリビングストンのお出迎えを受けてしまった。昨日の濡れねずみの教訓により今日は$2を支払って2枚重ね式レインコートをレンタルするとヴィクトリアの滝の総幅1.7kmのうち、1.2kmを支配するザンビア側の滝の観測を始めることにした。

ナイフエッジ・ブリッジと命名されている足元から舞い上がる水しぶきにより、遠めから見ると虹を渡っているようなトリック映像が撮影出来る橋を鋭く渡りきり、ナイフエッジポイントというジンバブエサイドとの対岸で「こちら側の景色の方が絶景ぜ!」といった優越感に浸ることが出来る終着点に到着した。そこに掲げられている汚い字で書かれた看板には「どうせ短い人生だったら清水の舞台から飛び降りるつもりで思い切って勝負して見ろや!」と解釈すべき文言が踊っていた。それを見て若手芸人が満を持して放った鉄板ギャグが全く受けないような滑りやすい環境であることをあらためて思い知らされるのだ。

ザンビアサイドでは水煙を巻き上げる滝そのものだけでなく、まさかこの明るい虹のすぐ先にストンと奈落の底に突き落とされる地獄が待ち受けているとは夢にも思えないおだやかな流れのザンベジ川も見学コースに含まれている。この場所は晴れているのに土砂降り状態に辟易した観光客の絶好の乾燥スポットになっているのであった。

3時間程度の滞在でザンビアから出国するとバンジージャンプの勧誘の魔の手を避けながらジンバブエに戻って来た。一旦ホテルを経由してザンベジ川の上流方面の散策に繰り出すことにした。ヴィクトリアフォールズの町の中心部から北へ5km程歩くと「ザンベジ自然保護区」という看板を出しながらワニを保護するどころかワニ皮クラフトセンターの原料とするためにワニを繁殖させている通称「ワニ園」に乗り込んだ。ここでは大小多数のワニの他に数匹のナイルオオトカゲや独身で人恋しいダチョウが拉致されている実態が確認された。

「Big Tree」と呼ばれる樹齢200年以上のバオバブの木をあたりの野生動物の気配に気をつけながら観察させていただいた。乾季のために落葉し、枯れきった印象を受ける巨木はもうこれ以上観光客が幹に意味のない落書きを刻まないためにチープな柵でしっかり保護されていた。

7月19日(日)

マサよ、君は山上たつひこ原作の「がきデカ」のこまわり君のように「アフリカ象が好っき!!」と叫びたくなる衝動に何度も駆られたことがあるか!?

というわけで、ダイヤモンドの生産地として経済力を蓄え、南部アフリカのなかで最も豊かな国といわれえているボツワナの北東部に、7万頭の象が暮らし、象の生息密度が世界一といわれるチョベ国立公園がある。ヴィクトリアの滝からチョベ国立公園まではわずか70kmの距離でヴィクトリアの滝から日帰りツアーが催行されているので$200をはたいてFORCHE TOURS & TRAVELのChobe Full Day Tripに参加することにした。

おなじみのヴィクトリアの滝の水煙の背後から昇っていく朝日を拝むと午前7時半にツアーのドライバーがホテルにピックアップにやってきたのでバンに乗り込み一路ボツワナとの国境を目指した。道路の両側には野生動物が生息しているブッシュが広がっており、鋭いくちばしと赤のワンポイントが眩しいグラウンドホーンビルという怪鳥がこれから起こるはずの不思議発見を暗示しているかのようだった。

ボツワナとの国境を越える際にジンバブエサイドのドライバーと一旦お別れし、ボツワナからサファリカーを駆ってやってきたガイドの口車にも乗せられてモワナ・サファリ・ロッジという高級ロッジで黒人宿泊家族をピックアップするとついにチョベ国立公園のゲーム・ドライブの開幕となった。屋根付きサイドオープンのサファリーカーで舗装されていない道を数キロ走るといきなり喉を鳴らしながら歩いている杉本彩のような美しいフォルムの豹に遭遇し、思わず度肝を抜かれてしまった。通常日中のゲームドライブでは木の枝の模様の一部となっている睡眠豹しか見つけられないのが関の山なのであるが、今朝のように飄々と地上を歩いている豹を見かけることは非常に稀なのである。

車でチョベ川沿いの砂浜を転がしながらジンバブエの国獣セーブルアンテロープの群れや各種鳥類を観察していたのだが、ガイドのコメントでツアー客のつぼにはまった言葉はインパラの群れをマクドナルドと表現したことであった。チョベ国立公園ではライオンや豹等の捕食者も多いのだが、インパラは比較的捕まえやすいのでファーストフードに例えられ、その気になったインパラもつぶらな瞳で「いらっしゃいませ、こんにちわ」と答えているかのようであった。

ゲームドライブ開始後、2時間程経過してもアフリカのサバンナで感じるあのいつもの感覚に遭遇出来なかった。大鷲が樹上で経過を見守る中、さらにドライブを続けると遂に背筋がゾ~とするような感覚と共に1頭の象が姿を現したのであった!この象は先行するサファリカーを鼻であしらった後、悠然と立ち去っていったのだった。尚、園内には立ち枯れやなぎ倒されて枯れてしまったおびただしい数の木々を見かけるのだが、これは象の所業だということで、国立公園のエコサイクルとして欠かすことの出来ないアクティビティであると説明された。

午前中のゲーム・ドライブが終了するとモワナ・サファリ・ロッジに戻りビュッフェ形式で供される肉やサラダをビールと共に流し込んで午後からのボートクルーズのために体力を蓄えていた。午後2時から待望のクルーズのスタートとなったのだが、チョベリバーでのボートツアーは一昔前のコギャルに言わせると「チョ~ ベリー バッド!」かと思われたのだが、すぐにその予想は覆されることとなった。

チョベ川は下流でザンベジ川と交わるのだが、この地域では川を挟んで4つの国(ボツワナ、ジンバブエ、ザンビア、ナミビア)が隣接している。川には新鮮な草が生い茂っている多くの中洲があり、それらはバッファローやカバ等の絶好のリゾート地となっている。尚、カバはその印象とは裏腹に非常に獰猛な草食獣でライオンに殺害されるよりもむしろカバに殺されている人間の方が多いそうで決してバカにしてはいけないと注意された。

しばらくクルーズを続けていると川面から潜望鏡のようなものが中州に向かって近づいて行く光景が目に飛び込んできた。しばらく観察を続けていると、これは長い鼻をシュノーケリング活用してチョベチョベとチョベ川を渡っている象であることが確認され、ごれぞチョベ国立公園ならではの珍百景の代表だと思われた。

中州の低い岸壁は鳥類の営巣地帯となっている様子で鳥のつがいが交互に卵を暖めあっていた。また、それを虎視眈々と狙っているかのように数多くの野生のクロコダイルが擬似剥製状態で横たわっていやがった。

無事にボートクルーズも終了し、Chobe Full Day Tripの満足度の白黒を付けようと考えていた矢先にゼブラの群れが道路を横断してきたのだが、持参していたデジカメをしまうまえだったので何とか写真に収めることが出来た。

7月20日(月)

恒例の東の空をオレンジに染める朝日を見納めた後、午前10時前に迎えに来たバンに乗り込みヴィクトリアフォールズ国際空港への帰路に着いた。午後12時15分発のSA041便にてヨハネスブルグ、O.R.タンボ国際空港に戻り、高利回りにつられて購入した南アフリカランド建て債券が南アフリカランドの日本円に対する暴落により被った損害分に値する心の隙間を埋めるために南アフリカ航空関係者にいちゃもんをつけようと思ったが、ワールドカップご祝儀の為替レートのゆり戻しを期待して我慢しておいた。

7月21日(火)

SA286便にて午後12時過ぎに香港に到着。引き続き、午後3時10分発NH910便にて成田に飛行中、映画レッドクリフ(赤壁)を見ながら、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃の時代背景にも拘わらず、ロボットや潜水艦等の最新テクノロジーを時代劇にうまくマッチさせていた仮面の忍者「赤影」の方がむしろ迫力があったはずだと考えていた。

午後8時30分本物の雨の成田空港に到着し、そのまま滝が流れるように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥13,680、南アフリカ航空 = HK$11,085

総宿泊費 $789

総空港⇔ホテル送迎代 $60

総ジンバブエビザ代 $30

総ザンビアビザ代 $20

総Chobe Full Day Trip代 $200

協力 ANA、南アフリカ航空、FORCHE TOURS & TRAVEL

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 南北大東島

マサよ、君は沖縄本島の東、約340kmの太平洋上に存在する珊瑚礁の数回にわたる隆起によって形成された海洋島に上陸した実績があるか!?

私は遂に這い上がってしまった!!

というわけで、沖縄県は離島も含めてほとんど制覇してしまった感のあるFTBであるが、沖縄県の中でも最強の僻地である大東諸島へは交通の便の悪さからなかなかアクセス出来ないという屈辱を長らく味わってきたのも事実である。ところが、定額給付金のおかげで今回ついに南北大東島を一気通貫でアイランドホッピングする機会を得ることとなったのだ。

7月3日(金)

定額給付金という小金を手にした善良な国民に首尾よく散財させるため、定額給付金超割を設定したANAの戦略にまんまと乗ってしまったFTBはANA993便にて午前6時40分に羽田を出発し、午前10時前には梅雨明け間もない那覇空港に到着した。空港内で軽く裏の仕事をこなした後、定額給付金バーゲンフェアにより通常の半額以下の運賃で搭乗出来る琉球エアーコミューターRAC847便に午後2時45分に搭乗すると約1時間のフライトで絶海の孤島もしくは「うふあがりじま」と言われる北大東島に上陸することに成功した。尚、那覇と大東諸島を結ぶ350kmにも及ぶ飛行距離は、コミューター路線としては世界最長となっているのだ。

空港出口で本日の宿泊先となっている民宿二六荘の若頭が出迎えに来ていたので早速バンに乗り込むと10分程で宿に着き、そそくさとチェックインをすますと軽く島の散策に乗り出すことにした。周囲13.52kmの北大東島の北西部に西港という港があり、地元のおばさんが岸壁の母よろしく瞑想に耽っているのを横目に高い波と今まで見たこともないような海の青さにおののいてしまった。

西港を見下ろすように石積みの燐鉱石貯蔵庫跡が廃墟のような存在感を示していたので孤島の雰囲気との妙なマッチングを満喫した後、国標というはるか昔の明治18年にこの島が日本の領土であることを明確にした標柱にお参りしながら、北方領土や尖閣諸島等で揺れている領土問題に関して深く考え込んでいた。

7月4日(土)

早朝二六荘で原チャリをレンタルすると北大東島の本格的な調査が開始されることとなった。島内を流しているとさすがにここが隆起珊瑚礁で形成された地形だと納得させられるような荒々しい岩礁の景色が次から次に目に飛び込んできた。また、島内ではあちこちで何らかの農業施設やファシリティの建設ラッシュとなっているようで北大東島では一流企業であるはずのISO9001を取得した(株)与儀組の重機がいたるところでうなりをあげていた。

島の西部に「上陸」と呼ばれる北大東島開拓百年記念碑がおっ立てられている島の文明の起源のシンボルが青い海に映えている光景を目に焼き付けた後、空港の海側の脇にひっそりとおいやられている「沖縄最東端之碑」を見物してここはおそらく沖縄県人にしかその価値がわからないのではないだろうかという不安に苛まれることにした。尚、「うふ(遥か)あがり(東)島」の語源は古来、琉球王朝の人々がこの島がはるか東方にあることから名付けられているのである。

マサよ、君は人間UFOキャッチャーを彷彿とさせるクレーン上陸の瞬間を目の当たりにしたことがあるか!?

ということで、週に一度しか寄港しない大東フェリーの勇姿を見るために北港まで原チャリを飛ばして大東島の名物と言っても過言ではないクレーン上陸のテクノロジーを見学させていただくことにした。そもそも波の荒い大東島ではフェリーが着岸出来ないという理由から乗下船の際には乗客は囚われた動物のようにカゴの中に封じ込められ、クレーンでカゴごと釣り上げられるという東京ディズニーランドや豊島園でも体験することが出来ないアトラクションが日常的に展開されているのである。

クレーンがフリーフォールにならなかった状況を確認して安心した後、昭和50年3月18日に指定された国指定天然記念物である「長幕岸壁及び岸錘の特殊植物群落」、通称「屏風岩」を見に行った。北大東島の内陸部を環状に取り囲む隆起珊瑚礁地帯のうち、南部の約1.5kmは内側が切り立った石灰岩の崖で、まるで屏風を立てたような絶壁と崖の下に崩れ落ちた石がゴロゴロしている場所(岸錘)は、その地形の特性のため与儀組にさえも開発されずに北大東島本来の自然植生に近いものが残っている貴重な地域となっているのである。

屏風岩でISO9001取得優良企業である与儀組の限界を感じ取ることが出来たので二六荘の若頭にバンで空港まで送ってもらい、午後4時30分発RAC836便にて約3分の飛行時間を経て南大東島に着陸した。尚、北大東島と南大東島間の飛行はわずか20kmであり、滑走も含めて所要時間は10分たらずである。こちらは世界でも最短クラスの航空路線となっているのである。

空港を出ると島唯一のホテルであるホテルよしざとの番頭が迎えに来ていたのでバンに乗り込み、10分程で文明の開けた町に君臨する5階建て高層ビルのホテルに到着した。チェックイン後、周囲を軽く歩きながらこの島の暮らしぶりを吸収し、腹が減ったのでホテルよしざとと契約して夕食サービスを提供している居酒屋ちゃんぷる~亭にしけこんだ。店内には過去南大東島の様子を旅番組やバラエティで伝えた実績を証明するために永六輔、チュートリアル、クリーム・シチュー等のB級有名人のサイン色紙が壁紙と同化していたのだった。

7月5日(日)

ホテルよしざとでママチャリをレンタルすると北大東島よりも一回り大きい南大東島の実態の解明に乗り出すことにした。隆起珊瑚礁で形成された島は洞窟の宝庫となっており、そのためダイトウオオコウモリというフルーツ好きのベジタリアンコウモリの生息地となっているのだが、まず最初に島最大の鍾乳洞である星野洞(¥800)を探検することにした。

(有)大東観光商事の厳格な管理下におかれた星野洞の名前の由来を管理人の若づくり海人風のおばさんに尋ねると何と星野さんの所有物だという驚愕の事実が告げられた。早速管理事務所で充電式電池を搭載した巨大懐中電灯とセルフガイド用のミニカセットデッキを借りると美しくライトアップされた異空間の幻想的な世界に這い降りることとなった。温度15℃、湿度100%の洞内は数億年の時を経て成長を遂げてきた鍾乳石の巨大柱や上からのツララと下からの剣の接近によりマサに柱になろうとしている鍾乳石が林立しており、真夏の南の島での一服の清涼剤となっているのである。

島の北部では第4種南大東漁港の整備がライブで進んでおり、従来のクレーンによる漁船の出漁・寄港から沿岸の内部を掘り込んで堤防を作り、高波の影響を受けずに漁船が着岸出来る港構造への変化の様子を見て取ることが出来るのだ。漁港から少し内陸に入ると一面サトウキビ畑が広がっており、給水塔には小学校低学年生が描いたわりには完成度の高いダイトウオオコウモリがめんそ~れと羽ばたいていた。

マサよ、君は「どうだ、まいったか、太平洋一体型くりぬきプール」に恐れ入ったことがあるか!?

というわけで、南の絶海の孤島くんだりまで来て水泳に興じなければ南の島に来た意味を失ってしまうのだが、南北大東島の地形ゆえ、ビーチというものは存在しない。そこでどうしても水泳をしたかったであろう島民は沿岸部をくり抜いて太平洋一体型プールを作るという快挙を成し遂げたのだ。海岸植物が群落を成す東海岸に海軍棒という人工海水プールがあり、島民や観光客が水泳やシュノーケリングに興じていたので参加させていただくことにした。さすがに太平洋と一体になっているプールだけあり、おびただしい数の熱帯魚が人間を恐れることなく悠然と泳いでいた。ちなみに海軍棒の名前の由来は昔々旧海軍がこの場所に国の指標を建てやがったからだそうだ。

海軍棒での遊泳を満喫すると腹が減ってきたので市内に戻り、「元祖大東そば」でうどんのような麺の太さを誇る大東そばを食すことにした。南大東島には元祖を含めて2件のそば屋があるのだが、特に元祖を名乗らなくても誰も真似するものはいないのではないかと思われた。

食後の運動を兼ねて日の丸山展望台までママチャリを転がし、展望台から遠景を見渡しながら、島にはサトウキビ畑以外は何もないことをあらためて実感した。島の南西部に塩屋海岸というもうひとつの海水プールがあったので日曜日にもかかわらず、そこに人が一人もいない事実を確認した後、ホテルの送迎バンで空港まで帰って行った。

南大東空港でうふあがり製菓が製造した大東島特産の黒糖を購入し、午後4時55分発のRAC868便にてシャワーの無かった海軍棒で流し去ることが出来なかった海水塩分を身にまとったまま那覇空港への帰路に着いた。

7月6日(月)

午前8時発ANA120便にて東京に帰還。次回定額給付金の支給を期待しつつ流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \2,500、JAL = \25,000

総宿泊費 \16,365

総レンタルバイク代 \2,500

総レンタサイクル代  \1,000

協力 ANA、JAL、琉球エアーコミューター、楽天トラベル

FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in 済州島

マサよ、君はサンドウィッチを韓国語で「パンにハム挟むニダ!」ということを知っているかニカ!?

そんなデマカセはいいかげんにセヨ!!

ということで、M1チャンピオンという栄冠にもかかわらず、フリートークがうけないため、今ではすっかりテレビ画面から姿を消してしまったサンドウィッチマンを尻目に前回ハワイツアーを強行したFTBであるが、今回は韓国のハワイという異名を持つ済州島を制覇する計画が実行に移されることになったのだニダ。

6月5日(金)

午前9時45分発大韓航空とのコードシェア便であるJAL5241便、A300-600機に乗り込むと程なくして機内食がふるまわれる時間となったニダ。大韓航空便ということで、当然のことながらキムチとビビンバが出てくることを期待したニダが、欧米観光客のきむち悪いというクレームにビビったせいなのか機内食は巻き寿司といなり寿司といったセオリー通りのものしか供されなかったニダ。

午後12時20分に済州国際空港に到着したニダが、入国審査では新型インフルエンザに対して厳格な検疫体制が敷かれており、すべての入国客に対して耳の穴に体温計を突っ込んで検温するという暴挙が展開されていたニダ。耳の穴をかっぽじかれた屈辱を味わいながらも何とか入国を果たすと空港リムジンバスで済州島最北部の空港から一気に島最南部の西帰浦へ向かうことにした。

1時間ちょっとバスに揺られ、今回のツアーの宿泊先であり楽天トラベルに予約させておいた☆☆☆☆☆ホテル兼大韓航空経営の西帰浦KALホテルにチェックインするとかつては新婚旅行のメッカであった西帰浦地区の散策に乗り出すことにした。港から直に水揚げされた海産物を供する海鮮食堂が競合する港町を抜け、南国ムードの植物が生い茂る天地淵瀑布に向かった。巨大な駐車場近くの入場券(W2,000)売り場から新緑の眩しい遊歩道を奥に進むと谷間に豪快に流れ落ちる滝が姿を現したニダ。神秘的な深みのある緑の水をたたえた滝壺の前は絶好の記念写真スポットになっており、多くの観光客が早よセヨ、早よセヨと急かしながら入れ替わり立ち替わり写真撮影に興じていたのだニダ。

ウエルドルグェという高さ20mの岩が海から生えているように見える奇峰を遠巻きに眺めさせていただくことにした。「たったひとつの塊」といった意味を持つウエルドルグェの周辺は韓国有名ドラマのロケ地であったようで断崖では顔をくり抜かれた主演女優が「記念写真でも撮らないかニカ?」といったいで立ちで観光客をおびき寄せていたニダ。

6月6日(土)

ユネスコ世界自然遺産に登録されている済州火山島と溶岩洞窟群を満喫するために早朝よりバスで済州島を巡ってみることにした。西帰浦のバスターミナルからバスに乗り、島中央を横断する5.16道路という風光明媚な山道を抜け、一旦北部の済州バスターミナルに到着するとそこからバスを乗り換えて島東部に位置する済州島一の洞窟である万丈窟に向かった。

万丈窟(W2,000)は漢拏山が爆発したときに出来た洞窟で、1.34kmと溶岩洞窟としては世界最長を誇っている。そのうち800mあまりが観光コースとして公開されており、最大幅18m、高さ23mの不気味な闇の世界を満喫することが出来るようになっているニダ。薄照明の中、明らかに溶岩流が通過したことを感じさせる洞窟文様を眺めながら観光コースの最奥部に到着するとそこには世界一の規模を誇る高さ7.6m、周囲8mの溶岩柱が天井に向かって伸びており、あたかもこれ以上の侵入を阻むように立ちふさがっていたニダ。

万丈窟の土産物屋に入り、何か買い物をしないと外に出られないような厳しいマークを受けたので仕方なく、飲み物、饅頭、茶色に変色した固ゆで卵を買って昼食とすると、再びバスに乗り、済州島を代表する風景と言われる城山日出峰(W2,000)に向かった。この日は何がしかのマラソンもしくはトライアスロン系の競技が行われている様子で城山日出峰の麓がそのゴール地兼表彰式会場になっていた。

何はともあれ、済州十二景の第一景に挙げられる済州島を代表する景勝地の頂上を目指してみることにしたニダ。周囲約1.5km、高さ約180mを誇る済州島の代表的な噴火口をいくつかの奇岩に遭遇しながら頂上を極めてみるとそこからの景色は険しい断崖絶壁、噴火口のような窪んだ草地、船が行き交う雄大な海等非常にバラエティに富んだものであるニダが、日出峰と言われるようにここの景色のハイライトはこの頂上に登って見る朝日のすばらしさだと言われているニダ。

城山日出峰を下山し、海女さんが漁を行い、モーターボートの観光船が発着する沿岸部まで足を伸ばしてみた。よゐこ濱口とは異なり、いちいち「とったどぉ~」という奇声を発せずに淡々と漁を行っている海女が取り仕切る生貝類のぶった切りを観光客に高値で食べさせる食堂が賑わっていたのでW20,000もの大金を支払って試食してみることにした。伊藤英明率いる海猿と同等の潜水能力を誇っているはずの海女はアマと言っても素人とは訳が違うぜというプライドをその表情に滲ませながら淡々とサザエやホッキ貝をブツ切りにしていたのだが、アワビや蛸は追加料金を取られそうだったので韓国語で価格交渉の出来ない私は断念せざるを得なかったニダ。

6月7日(日)

ここ2日間で甘鯛や太刀魚等、鱗が生えるほど海産物を味わうことが出来たので西帰浦KALホテルをチェックアウトするとその近辺で流れ落ちている正房瀑布(W2,000)のマイナスイオンで体を清めさせていただくことにした。正房瀑布は海が滝壺になっている珍しい滝で、大小2つの流れが23mの高さから落ちている姿は圧巻である。近くの海岸にはお約束の海女の拠点テントが設営されており、済州島ならではの光景と日常が展開されている場所であるニダ。

マサよ、君は潜水艦で海中40mの難破船探検に繰り出し、その船が半端なサイズで拍子抜けしたことがあるかニカ!?

というわけで、西帰浦に潜水艦遊覧船が済州島の海の生態系と難破船探検の旅に誘ってくれるという情報を入手していたので、W45,000の大金を支払って潜ってみることにした。10:05出発のチケットを入手すると接続用のボートに乗り込み潜水艦が停泊してある浮島ですでに海底から浮上してきた前の組の観光客との入れ替えで記念写真撮影後、潜水艦に乗り込んだ。乗船するとほどなくして潜水が開始された。水深20mではイシダイやクマノミ等の数多くの魚とともにダイバーも生息していることが確認された。

その後一気に水深40mに到達し、東洋唯一と言われる難破船がタイタニックの数百分の一程度の大きさであることを確認すると再び水深30mまで上昇し、ライトアップとともに大きな歓声が沸き上がった。窓の外には世界最大と言われるトサカ(サンゴ)の群落地がオレンジ色のライトで幻想的に浮かび上がっていたニダ。30分程度の海中探索が終了し、港に戻ると乗船時に撮影した記念写真が水深40mを探検しやがったという証明書に加工されて観光客に配布されていた。

西帰浦からバスに乗り、2002年日韓共同ワールドカップが行われた巨大サッカースタジアムを過ぎると韓流ドラマのロケ地にもなっている高級ホテルが建ち並ぶ中文観光団地に侵入した。中文川流域に伝説の7仙女が水浴びをしたという天帝淵瀑布(W2,500)という済州島最大の滝が大規模な観光地になっているので見学させていただくことにした。この地域は滝の峡谷を中心に常緑亜熱帯林が形成されており、約460種の植物が繁茂している。

神に仕える7人の仙女が夜ごと降り立ち、こっそり水浴びをして天に昇っていったという伝説を持つその仙女たちは天帝渓谷の上にかかるアーチ型の仙臨橋に描かれており、天帝楼というあずまやとともにこの場所の見事な景観に一役買っているのであるニダ。

天帝淵瀑布を後にし、一気に海まで出てみることにした。パシフィックランドでは数多くのマリンスポーツのサービスが提供されており、クルーザーやモーターボートが我先にと行き交っていた。中文海水浴場の海はマサに透明でこれぞ韓国のハワイと呼ぶにふさわしい海洋環境が提供されていることを思い知らされたニダ。

リゾート地として開発された中文観光団地には映画「シュリ」やドラマ「オールインワン」のロケ地にもなった世界的リゾートホテルである済州新羅やオランダ風の風車が一際目を引くロッテ済州等の高級ホテルがそのリゾート度を競うように建ち並んでいる。ロッテ済州では夜になると中庭でファイアーショーが開催されるらしいのだが、それに出演するはずのつぶらな瞳の竜が洞窟の中で出番を待っている姿が遠巻きに確認出来た。

中文観光団地から空港バスに乗り、一気に済州国際空港まで戻ると機体にJEJU文様をあしらったA300-600機に搭乗し、成田への帰路についた。大韓航空の機内食ではキムチは出なかったのだが、ハムを挟んだサンドウィッチが供されたのでこれを韓国語で「パンにハム挟むニダ」ということを機内放送で周知サセヨとスチュワーデスにお願いしようという欲望に駆られたのだが、何とか抑制することが出来たニダ。

総飛行機代 \44,840

総宿泊費 \24,470(朝食付き)

総バス代 KRW18,400

協力 JAL、大韓航空、楽天トラベル

FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in ラナイ島

アロハ マサよ! ハワイ湯!!

ということで、2004年8月にモロカイ島に上陸以来ハワイから遠ざかっていたのだが、ハワイ諸島にはまだFTBが足を踏み入れたことのない最後のパラダイスであるはずのラナイ島が残っていたので新型インフルエンザの脅威をものともせずに乗り込むことにした。

2009年5月21日(木)

午後8時50分発のNH1052便に乗り込むと機内エンターテイメントの映画で上映されている「感染列島」が厚生労働省の陰謀により上映中止に追い込まれていることを確認するまでもなく、酒をかっくらって不貞寝を決め込んでいると主演の妻夫木聡がつまはじきにされている感覚を気にすることなく午前9時過ぎホノルル空港に到着した。

空港で離島への飛行ルートと出発時間を確認した後、ハワイ唯一の公共交通機関であるThe Busに乗り込んだのだが、料金が前回来た時の$1.5から$2に値上げされている事実に愕然としてしまった。約40分程The Busに揺られてワイキキビーチに到着した。これぞハワイと思わせる抜けるような青空の下、観光客がバカンスに興じているビーチの砂浜に足を取られながらワイキキを仕切っているサーフィンの神様、デューク・カハナモク像にお参りをするとワイキキオンザビーチのシェラトン・プリンセス・カイラウニにしけ込んだ。

24歳という若さで早死にした薄幸のカイウラニ王女を偲んで建立されたシェラトン・プリンセス・カイウラニホテルを根城にしてワイキキエリアをさまよっているとお約束のハワイアンソングとフラダンスのショーに遭遇した。将来は優秀なアグネス・ラムになれる資質を持っているはずのダンサーの踊りは一曲ごとのスローソングの間の休憩を交えながら道行く観光客の目を釘付けにするほど優雅に展開されていた。

夕暮れ時のワイキキビーチは、沈みゆく太陽とサンセットサーファーやクルーズ船のシルエットで幻想的な雰囲気を醸し出し、ホノルルの夜の誘惑の前のひと時が華麗に彩られているのだった。

5月22日(金)

昨晩インターネットでラナイシティ行きのチケットを購入したIsland Airのプロペラ機は午前10時25分にホノルル空港を飛び立ち、30分後には切り立つ断崖絶壁を超えてラナイ空港に到着した。ホテルからの送迎を断り、3マイル程の道のりをラナイシティに向かって歩いていると5台程の車に逆ヒッチハイクの声をかけられ、この島のアロハスピリッツを十二分に感じることが出来た。

ラナイ島は別名「パイナップル・アイランド」と呼ばれているようにかつては広大なパイナップル畑が広がっていたのだが、その名残は随所に残っている。ノーフォーク松の並木が美しいラナイシティにドール・パークがあるのだが、これはパイナップル・プランテーションにより島を開発しやがったジム・ドールにちなんだものだ。

ハワイ最後のパラダイスの異名を持つ素朴な島であるラナイ島にはリゾートはいラナイと考えられてきたのだが、今ではFOUR SEASONS RESORTが沿岸部と内陸部に2軒のリゾートホテルを高値で展開している。そのうちのひとつであるFOUR SEASONS RESORT LANAI THE LODGE AT KOELEに12時過ぎにチェックインすると今日は島の探索には繰り出さずにホテルの敷地内でリゾート気分を満喫させていただくことにした。

ホテルのロビーには暖炉と高級家具調度品が並び、一歩庭園に踏み出すと眩いばかりの緑の芝と鯉が人恋しそうに寄ってくる池や東洋風のオブジェがバランスよく配されている。また、近くの森から鹿の群れが舞い込んできて1頭の小鹿が植物を保護している網の中に迷い込んでしまい、脱出しようとその抜群の跳躍力を駆使してもがいた挙句とうとう網の隙間から逃げ出す現場を目撃してしまった。

5月23日(土)

今日はホテルでマウンテンバイクをレンタルし、満を持して島の探索に乗り出すことにした。ホテルの近くの牧場を抜け、舗装されていない赤土道をケツの痛みをこらえながら10kmほど進むと次第に神々しい雰囲気に包まれることになる。神々の庭園と呼ばれる幻想的な場所はマサに静寂に支配された神が舞い降りる空間で赤土の台地に大小さまざまな巨石が転がっている。庭園はもはや水平線の見分けが付かないほどの青い海まで続き、その先にはマウイ島がぽっかりと浮かんでいる絶景に誰もが時間の感覚をすっかり無くして見入ってしまうのだ。

神々しいほどの静寂を打ち破るように鹿の群れが突然姿を現すと人間を避けるかのようにあっと言う間に遠ざかっていったのを見て現実に引き戻されるとそれがラナイシティへの帰還の合図となった。赤土道を引き返し、一端ラナイシティに立ち寄るとさらにマウンテンバイクを転がして島南部のマネレ・ベイを目指すことにした。

マネレ・ベイに向かう道はほぼ下りのため、5マイルもの長距離をカエルが干からびる程の炎天下にもかかわらず短時間でFOUR SEASONS RESORT MANELE BAYまでは到着することが出来たのだが、急勾配の帰路を考えると海辺のマリーナまで行くことは命取りになりかねないため、そこから渋々引き返すことにした。高台から真っ青な海を脳裏に焼き付けた後、ケツの痛みが限界を超えているためチャリを押して果てし無く続く登り坂を歩くことにした。体中の水分を全部出し切ったにもかかわらず脱水症状を回避出来る能力を持つ私は何台かの逆ヒッチハイクのオファーを受けることを潔しとしなかったのだ。

勾配がピークを過ぎ、ケツの痛みも和らいできたので再びチャリにまたがり、午後4時前には何とか生きながらえてラナイシティに帰還することが出来た。島内で唯一のガソリンスタンドのマーケットにてゲータレードでの水分とイオンの給油により人間性を取り戻すことに成功したのでホテルに帰り、空港行きのシャトルが来るまでホテルの従業猫と一緒にしばし風に吹かれてくつろいでいた。

午後7時30分発のIsland Airプロペラ機でラナイ島を後にし、30分後にはホノルルに到着した。The Busに乗ってワイキキに戻り、定宿のシェラトン・プリンセス・カイラウニにチェックイン出来たのは午後9時を回っていたため、カラカウア・アべニューのストリートパフォーマンスが午後10時に終了しなければならない現実を確認した後、ホテルの26階の部屋に引き上がり、しばしホノルルの夜景見物と洒落込みながらホノルルでのラストナイトを満喫した。

5月24日(日)

早朝窓から差し込んでくる朝日でさわやかな目覚めを迎えるとベランダからワイキキビーチの朝の営みを見下ろしていた。カラカウア・アべニューではジョギングする人々が行き交い、海上ではモーニングサーファーが渋滞していない波の上で存分に技術を磨いていたのだった。

The Busでホノルル空港まで戻り、免税店をスルーして午前10時35分発NH1051便の機上の人になる。機内で「ダーティー・ハリー」をはじめ洋画3本を見たのだが、最後に「感染列島」の行く末が気になってのでチャンネルを合わせてみると問題なく上映されている事実が確認出来たので新インフルエンザに対してはもはやナーバスになる必要はないと感じられた。

機内で配布された検疫質問票の「最近北米に行ったことがあるか」と言う質問に対して「No」と回答させられたことからハワイは北米ではないことに気づかされた。

5月25日(月)

午後2時過ぎに成田空港に到着。検疫で2秒くらい足止めを食らった後、流れ解散。

総飛行機代  ANA = ¥29,510, Island Air = $148.10

総宿泊費  $551.37

総The Bus代  $6.-

総タクシー代  $35.-

協力 ANA、Island Air、Starwood

FTBEUウィッシュ、アウシュヴィッツ、プラハの春 & ベルリンでヒットラーをひっ捕らえよツアー

ウィッシュ マサよ!

ということで、元総理大臣と同じ名前を持つ私はそのアドバンテージにもかかわらず、決して売名行為に走ることはなかったのであるが、世の中には」「ウィッシュ!」と調子をこきながらおじいちゃんの威光を利用して訴求効果を高めているミュージシャンも生息している。定額給付金のバラマキも決まったところで将来の消費税率の上昇もセットにされ、竹下元総理も草葉の陰でほくそえんでいることであろうが、今回はふるさと創生について今一度考え直すべく社会主義から自由主義への開放が進んでいるダイゴ味を実感するために東欧を視察することとなった。

2009年5月1日(金)

先週奥州から帰ってきたばかりなのに今度は欧州に足をのばすために成田空港に向かった。昨今の豚インフルエンザの脅威により、空港ではマスクをした輩との遭遇の応酬が予想されたが、意外なことにマスクをした観光客や空港職員は全体の17%程度だと見受けられた。野村監督や城島と同等の野球人である私はキャッチャーマスク以外のマスクをかぶる事を潔しとしないのであるが、手荷物検査で押収される恐れがあるため、今回はスッピンで旅立つこととなったのだ。

GW期間の航空運賃の高騰の影響を避けるため、今回はかつて南周り航路と呼ばれたルートを使ってヨーロッパに旅立つべくANA111便シンガポール行きに午前11時に搭乗すると機内で邦画「感染列島」を見て伝染病蔓延の恐怖を刻み込むことにした。また、主演の檀れいが「淡麗」ではなく「金麦」のCMに出ている現実を直視して、キリンの営業力のなさを嘆きながらサントリー・プレミアムモルツを痛飲していたのだった。午後5時過ぎにはシンガポールに到着したものの、シンガポール航空SQ26便の出発まであと6時間以上あったので広いシンガポール・チャンギ空港内をジョギングしながら疫病に対する免疫力を高めようとしていた。

5月2日(土)

移動手段と宿泊設備を兼ねた機内で12時間以上過ごした後、午前6時過ぎにフランクフルト国際空港に到着した。早速ルフトハンザ航空LH3300便に乗り換え、1時間半程のフライトでポーランドの首都ワルシャワに午前9時半前に到着した。ワルシャワ・オケンチェ国際空港到着ビーには何人かの花を手に持った輩を見かけたのだが、ポーランドでは友人や家族と再会するときには花を贈るという文化があるためだ。

市バス(PLN2.8)で30分程かけてワルシャワ旧市街にやってきた。旧王宮の前で何らかのセレモニーが行われている様子で吹奏楽隊による演奏と大砲が高らかに打ち鳴らされ、あたかもFTBの東欧進出を祝っているかのようだった。ワルシャワ歴史地区は世界遺産に登録されており、その中心である旧市街市街広場に迷い込んだ。広場の中央には勇猛そうな人魚像Pomnik Syrenkiが剣を振り上げ、来る者を威嚇するかのように虚勢を張っていた。周囲には馬車の列や露天の画商やカフェが並び周囲を取り囲むカラフルな建物群とのコントラストによりマサに観光客を中世にタイムスリップさせてくれるのである。

旧市街を抜けてしばらく歩いているとふとイボイボを持つ緑の細長い野菜のことが頭に浮かんだので目の前の建物に目をやるとそこは現在博物館として公開されているキュリー婦人の生家であった。今日は何かの祝い事のために休館だったため、中に入ってラジウムの研究は出来なかったので帰国して糠床をかき混ぜて一夜漬けでキャッチアップしなければならないと思われた。キューリが萎んでしまった感覚を引きずったまま、ワルシャワ蜂起45周年を記念して1998年8月に建てられたワルシャワ蜂起記念碑にお参りすることにした。第二次世界大戦の末期にドイツ軍に対して一斉に蜂起したワルシャワ市民であったが、ソ連軍の援軍が得られなかったため、蜂起は水分の無くなったキューリと同様に次第に力を失い、20万人の死者を出した挙句にほとんどの市街を破壊され、10月2日に降伏を余儀なくされたその苦しみや無念さが兵士達の像から伝わってくるかのようだった。

旧市街の北にバルバカンという15~16世紀に造られたバロック様式の砦があるのだが、これは火薬庫や牢獄として使われていたファシリティで第二次大戦で破壊された後、1954年に見事に復元を果たしたそうだ。コンパクトな造りながらワルシャワの歴史をわかりやすく展示しているワルシャワ歴史博物館(PLN8.-)で破壊と再生について考えさせていただくことにした。第二次大戦時にドイツによって破壊の限りを尽くされたワルシャワの様子が写真と記録映画に残っているのだが、戦後首都の復興にかける市民の情熱が壁の割れ目1本にいたるまで忠実に再現して都市を見事に復元させてしまった様子にポーランド人の心意気を感じずにはいられなくなるのだった。

かつての王の住居であり、国会や大統領執務室として、また士官学校や国立劇場がおかれるなど、文化、政治、経済の中心であった旧王宮(PLZ22.-)を見学することにした。ここも第二次大戦により破壊されたのだが、「王の広間」にあった最も価値の高い調度品は美術史家、復元専門家等の手で国外に持ち出されていたために難を逃れていたのが幸いしてバロック様式の建物の内部は1596年にポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジムグント3世の時代そのままの様子を今も伝えているのだ。

王宮広場から南へ伸びるクラクフ郊外通りはかつて「王の道」と呼ばれた美しい建物群が林立する通りである。大統領官邸とワルシャワ大学を過ぎると今まで誰も異議を唱えることがなかった常識を疑ってみたくなるような感覚を覚えるのだが、そこには地動説を唱えたコペルニクスの像が地蔵のような頑固さで固まっているのだった。尚、コペルニクスはワルシャワ西北180kmにあるトルンの出身だそうだ。通りにビール、ハム・ソーセージやパンなどを売りつける屋台が展開されていたのでとりあえずビールと食パンにバターとキューリをなすりつけたものを買い食いして空腹を満たした後、今日の宿泊先であるシェラトン・ワルシャワ・ホテル&タワーズに荷物を置いてワジェンキ公園に向かった。

ヨーロッパで最も美しい公園のひとつに数えられ、ワルシャワ市民の自慢の種でもあるワジェンキ公園でまず観光客の目を引くのはアールヌーヴォー様式のしだれ柳の傍らに腰掛ける地元ポーランド出身のショパンの像である。また、17世紀末に当時のポーランド王ヤン3世ソビエスキが建てた夏の離宮であるヴィラヌフ宮殿の周りでは放し飼いにされている孔雀がジュディ・オングのようにその美しい羽を広げて観光客の目を引き付けるのに一役買っていた。

Centrumというワルシャワ中央駅周辺地域は近代建造物が林立しているのだが、中でも文化科学宮殿は高層建築の少ない調和の取れたワルシャワの町にはまるで似つかわしくない権威主義的な建物で「ソビエトの建てたワルシャワの墓石」などと呼ばれており、贈り主のスターリンも草葉の陰で余計な事をしたしまったと後悔の念に苛まれているはずである。

5月3日(日)

早朝文化科学宮殿前で客待ちをしているタクシーでぼったくられることなく空港に戻り、LOTポーランド航空LO3907便プロペラ機に乗り込むと1386年~1572年までポーランド王国の首都として栄えた古都であるクラクフまでひとっ飛びで移動し、ヨハネ・パウロ2世・クラクフ・バリツェ国際空港からシャトル列車に乗り換えてクラクフ本駅に到着すると午前10時35分発のオシフィエンチム行きのバスに乗り込んだ。

マサよ、君はホロコーストの現実を目の当たりにして、ホロホロと涙をこぼすほどの衝撃を受けたことがあるか!?

ということで、乗客を収容したバスは1時間半程の時間をかけてクラクフの西54kmのところにある町オシフィエンチムの郊外にあるドイツ名「アウシュヴィッツ」に到着してしまったのだ。人類の負の世界遺産として登録され、現在博物館(入場無料)として一般公開されているアウシュヴィッツ強制収容所は人類が犯した過ちを永遠に記憶にとどめなければならない重要な場所として位置づけられている。

早速インフォメーションセンターで日本語の資料を購入すると収容所跡の見学をさせていただくことにした。収容所の入り口であったゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という文字がむなしく掲げられており、収容所のシンボルとなっている。内部には28棟の「囚人棟」があり、そのうちの15棟が博物館として公開されているのだが、特に見学者の目を引くものはこの囚人棟で行われていたナチスによる戦争犯罪の動かぬ証拠である。

5号棟では、ナチスが連行した人々から没収した衣類、靴、トランク、さらには遺体から取り外された義足、義手やメガネ等が山積み展示されており、また、ガス室で「チクロンB」という明らかにアリナミンAやリポビタンDといった滋養強壮ドリンクとは異なる劇薬により大量殺戮された囚人たちから切り取られた膨大な量の髪の毛やそれらを使って織られたカーペットがホロコーストの壮絶さを無言で語っていた。尚、チクロンBは気化しやすいため、密閉していた空缶の多さからも当時の常軌を逸した愚行が伝わってくるかのようだった。

「死のブロック」と命名された11号棟は、内部までほぼ当時のままの姿をとどめており、臨時裁判所、監禁室、鞭打ち台、移動絞首台、飢餓室、立ったまま身動きが取れない立ち牢などが残されている。10号棟と11号棟の間にある壁は「死の壁」と呼ばれ、何千人もの人が銃殺に処された場所で多くの花束が手向けられていた。

囚人の数が増大すると同時に、収容所地域も拡大していった。そして、収容所というよりもむしろ巨大な殺人工場に変貌を遂げていったアウシュヴィッツは1942年にはオシフィエンチムから3km離れたブジェジンカ村にビルケナウと呼ばれるアウシュヴィッツ2号をオープンさせた。その収容所の面積は約175ヘクタール(約53万坪)で、300棟以上のバラックがあった。

ビルケナウの正門は囚人から「死の門」と呼ばれ、中央衛兵所の棟からは全体が見渡せるようになっており、その下には100万人以上の囚人を運んだ鉄道の引込み線が不気味な静けさで収容所の奥まで伸びているのだ。いくつか残っている木造バラックの中には3段ベッドが設えられており、囚人は衛生状態が悪い腐った藁の上で寝かされていたため、疫病が蔓延していたという。

鉄道の引込み線の終点にはナチス政権下犠牲者国際記念碑が建てられており、その両隣にナチスが撤退する際にホロコーストの証拠隠滅のために爆破解体したガス室・焼却炉がその不気味な残骸として観光客の恐怖を煽っているかのようであった。当時は汽車で到着したユダヤ人はシャワーを浴びさせると騙され、洋服を脱がされて、シャワー室に見せかけた地下の部屋まで歩かされた。210平方メートルの部屋に約2,000人が押し込まれ、扉を閉じてから、天井の穴からチクロンBが投入されると中の人間はものの15分で窒息死してしまうのだ。

アウシュヴィッツで戦時下における人間の狂気によって犯される愚行の結末を学んだ後、バスでクラクフに帰ることになったのだが、最終便のバスが満席だったため、立ち牢に収容された感覚を引きずりながら1時間半の擬似囚人体験を満喫することが出来た。

5月4日(月)

アウシュヴィッツ訪問のゲートウエイシティとなっているクラクフであるが、「ワルシャワが東京とすればクラクフは京都」とも例えられる歴史的な町並みは、1978年に世界遺産に登録されているのでついでにクラクフの観光もしておくことにした。

まず最初に1498年に建立された重厚な円形の砦であるバルバカンをちら見させていただいた後、中世から残っている広場としてはヨーロッパ最大を誇る中央市場広場に迷い込んだ。広場の中央には織物会館と呼ばれる14世紀に建立されたルネッサンス様式の堂々たる建物が君臨している。会館内には土産物屋が数多く並んでおり、織物だけでなく民芸品やアクセサリー屋もぎっしり並んでいる。中央市場広場に面する聖マリア教会は1222年に造られたゴシック様式の大きな建物で内部は恒例のステンドグラスや芸術品で美しく演出されているのだ。

クラクフ旧市街の南の外れ、ヴィスワ川のほとりの高台に歴代ポーランド王の居城として名高いヴァヴェル城がそびえている。その南の麓の川べりに近いところに龍に関する勧善懲悪の伝説が残されている「龍の洞窟」があり、人々を威嚇するようにチープな龍の銅像が定期的に火を噴きやがっていた。

登城道を登り、城門をくぐると3つの礼拝堂をもつヴァヴェル城大聖堂(PLZ10)の存在感に圧倒されることになる。1320年にゴシック様式で着工されてから、数世紀にわたってルネッサンス様式やバロック様式が加えられた大聖堂はクラクフからワルシャワへの遷都後の18世紀まで歴代ポーランド王の戴冠式が行われていたファシリティである。北側のジグムント塔には1520年に鋳造されたポーランド最大の鐘が吊るされており、宗教上および国の特別な行事の際にもったいぶって鳴らされるといわれている。尚、この鐘は釘を一切使わずに木だけを使って組み立てられた周囲8mの台にインストールされているのだ。

16世紀初頭にジグムント王が建てたゴシックとルネッサンスの複合様式のヴァヴェル城旧王宮の内部は博物館になっており、今日は宝物・武具博物館と古いヴァヴェル城遺構が特別に無料公開されていたので存分に満喫してから下城させていただいた。道行く途中で前ローマ法王のヨハネ・パウロ2世の記念碑を崇めた後、ヤギェウォ大学に入学した。1364年にポーランドで最初に創立されたこの大学はコペル・ニクスやヨハネ・パウロ2世といったそうそうたるOBを抱えており、成績優秀であったはずのヨハネ・パウロ2世は回りの学生から「ほ~お~」と常に感心されていたそうだ。

再び中央市場広場に戻り、旧市庁舎の塔の前で打ち首にされていた巨大な銅像の雁首の意味を理解できないままクラクフ本駅から列車に乗り、ヨハネ・パウロ2世・クラクフ・バリツェ国際空港に帰って行った。LOTポーランド航空でワルシャワを経由して春まだ浅い寒気を感じるチェコのプラハ・ルズィニェ空港に到着したのは午後7時半を過ぎた時間であったので空港に付属しているホリデーインホテルにマサであればEURO85くらいかかるところをIHG ANAホテルポイントを使ってただで宿泊し、しばしプラハの春を待つことにした。

5月5日(火)

1992年に世界遺産に登録されたプラハ歴史地区解明の第一弾としてそのシンボルとも言うべきプラハ城に登城する朝を迎えた。ヴルタヴァ川の西岸、小高い丘フラッチャニにそびえる聖ヴィート大聖堂の威風堂々とした外観に度肝を抜かれながらも気を取り直してチケットA(CZK350)を購入すると早速その内部をくまなく探索することにした。この大聖堂はもともと930年に建造されたロトンダ(円筒型のシンプルな教会)から端を発し、14世紀のカレル4世の時代に現在のような堂々たる建物に改築され始めたそうだ。建築は1420年まで続き、その後もバージョンアップが繰り返され、最終的な完成を見たのは20世紀に入ってからのことであった。

聖ヴィート大聖堂で胸のビートが高鳴り、目眩を感じたので旧王宮で応急処置をすることにした。ヴラディラフホールは完成当時はヨーロッパ最大のホールで梁が肋骨上の模様となっているアーチ型の天井が印象的である。またこのホールに付属しているバルコニーからはプラハ市街眺望が堪能でき、何とか胸の鼓動を正常に戻すことが出来た。

聖ヴィート大聖堂と旧王宮の間を通り抜けるとイジー広場に出た。その北面にはロマネスク様式の2本の白い尖塔を持つ聖イジー教会が920年に完成したのち、現在まで維持~されている現実を目の当たりにした。チケットAには「プラハ城についての展示」と国立博物館の入場券も含まれているのでそれらを軽くこなしてプラハ通に成り上がった後、色とりどりの小さな家が並んだおとぎ話のような世界である黄金小路に迷い込んだ。ここは元々1597年に出来たもので当時は城に仕える召使いなどが住んでいたという。黄金小路に建ち並ぶ家々の2階はすべてつながっており、中世の武器や甲冑が展示されているのだが、実写版「科学忍者隊ガッチャマン」のような仮面が来る人すべてに♪だれだ だれだ だれでゃぉ~♪と子門真人よろしく問いかけているかのようだった。

黄金小路を♪命ぅを~ かけてとびだせば~♪そこはダリボルカと呼ばれる塔であり、中世には牢獄として使われていたファシリティだった。さらに真反対の城の正門に回りこみ正午からの衛兵の交代式に参列させていただいた。建物の窓に陣取った音楽隊のファンファーレと共に衛兵の行進がスタートし、無表情のまま粛々と式は進行し、滞りなく業務の引継ぎが完了する瞬間を目の当たりにすることが出来た。

正門の前の広場ではにわか専門的クラシックパフォーマーがスメタナの交響詩「我が祖国」で有名なヴルタヴァ(モルダウ)の美しい旋律で観光客の足を止めさせていた。城の高台から下界に降りる道すがら、プラハの建物のオレンジ色の屋根が醸しだす小奇麗な景色を十分堪能させていただいた。HILTONHHONORSのポイントが余っていたのでマサであればCKZ2,500くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るヒルトン・プラーグホテルにチェックインするとガラス張りの天井まで吹き抜けになっている広々としたロビーを抜けてどんより曇ったプラハ旧市街に繰り出すことにした。

プラハでひときわ豪華な装飾が施された建造物があるのだが、これは市民会館で内部には音楽祭「プラハの春」の会場となるホールが内蔵されており、プラハ市民はこの会館で快感に浸れるようになっているのだ。旧市街に到着すると緑青グリーンでコーティングされたヤン・フスの銅像が目に飛び込んできた。「フ」に濁点がつくと女性からの指示が得られなかったであろうフスは15世紀における宗教改革の先駆者で腐敗したローマ教会を厳しく批判した結果、火あぶりの刑に処せられ、それが彼のカリスマ性にも火を付けフス派と呼ばれるフスの信奉者たちは以後カトリック教会と激しく戦うこととなったそうだ。

広場の東に2本の塔を天に突き刺している教会が1135年に建てられたティーン教会であるが、中に入ることが出来ないのでそれに対抗するかのような存在感を示している旧市庁舎に足を向けた。元々は塔の横にも建物があったそうだが、第2次大戦中ナチス・ドイツにより破壊されてしまったそうだ。午後3時近くになると旧市庁舎塔の側面の下におびただしい数の観光客が群れをなしてきた。何事かと思って目を上げると神秘的な造形の天文時計が壁にインストールされていることが確認され、しかも3時の時を告げるタイミングで仕掛けが動き出し、キュートなガイコツ君が鳴らす鐘の音と共に窓から12人の使徒が財務省の使途不明金を批判するかのように順番に現れ、最後は時計の一番上に現れる鶏が鳴いてあっけなく終了したのだった。

旧市街で白い壁がひときわ輝いている聖ミクラーシュ教会で午後5時からのコンサートの案内ビラが配られているのを確認した後、ヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の美しい石橋であるカレル橋に向かった。この橋は14世紀後半から15世紀の初めにかけて、カレル4世の時代にゴシック様式で建造されたもので、全長520m、幅は約10mもある。カレル橋の上では常に世界各国からの旅行者があふれ、、ストリートパフォーマーや土産物屋で枯れるどころか大変な賑わいを見せている。橋の欄干には左右15体づつ、合計30体の聖人像が配置されており、その中で聖ヤン・ネボムツキー像のレリーフに触れると幸運が訪れるということで触れられた部分は不自然な輝きを放っていた。

建築博物館とも称されるプラハであるが、新市街にもいくつか特徴的な建造物がある。プラハ随一の繁華街となっているヴァーツラフ広場は、大通りといったほうがむしろ似つかわしい感じでその頂点には国立博物館が堂々と立ちふさがっている。国民劇場は「チェコ語によるチェコ人のための舞台を」というスローガンの下に集められた国民の寄付などで1881年に完成したチェコ人が自らのアイデンティティをかけたチェコ文化復興の象徴たる劇場である。多くの国際列車が発着するプラハ本駅はアールヌーヴォー様式で装飾された華麗な丸天井が特徴的であるが、残念なことに地下の男子トイレが使用禁止になっていたのだった。

5月6日(水)

♪ボヘミア~ァァァン や~ぶれか~けの タ~ロット投~げて~ 今宵もぉぅぉぅぉぅ あなたの行方占ったひ~と~♪

というわけで、プラハから東へ65km、中部ボヘミアに位置する都市クトナー・ホラに葛城ユキ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E3%83%A6%E3%82%AD)の幻影を求めてバスで1時間半程の時間をかけて行って見ることにした。13世紀に銀鉱山の町として栄え、当時はボヘミア地方第2に都市だったクトナー・ホラは16世紀に銀が枯渇して衰退するまでの栄光が町の至る所に残っており、その歴史都市は世界遺産に登録されているのだ。

クトナー・ホラで圧倒的な存在感をもってそびえる聖バルバラ聖堂(CZK60)の名前になっているバルバラは坑夫の守護聖人であり、建設資金のほとんどがカトリック教会ではなく市民たち自身によって調達されたと言われている。この大聖堂は1338年に建設が開始され、1558年にひとまずの完成を見ている。その後も改修が続けられ、17から18世紀にはバロック様式の影響も加わっている。聖堂の内部をよく観察すると17世紀頃の民族衣装を着けランタンを掲げた坑夫の像、貨幣鋳造職人たちのフレスコ画などが見られ、坑夫たちの気休めのために建てられたという歴史を雄弁に物語っているのだ。

聖バルバラ聖堂を出て小ぶりながら造形美が特徴的な石の泉をちら見した後、ファサードの精巧なレリーフが印象的な石の家(CZK40)に立ち寄った。この石の家は田中邦衛が富良野に造ったものとはレベルが違い、内部は博物館にもなっており、クトナー・ホラの美術や工芸品が展示されているのだ。

昔の銀鉱山の跡をガイドツアーで見ることが出来るフラーデク鉱山博物館の14:30のツアー(CZK110)に首尾よく潜り込むことが出来たので財務省を凌駕する錬金術を身に付けるために参加させていただくことにした。尚、ガイドはチェコ語のみで行われるため、英語の説明資料を拝借してまずは試し堀り系の穴を軽く見学させていただき、その後大きな木製粉砕機がインストールしてある建屋でオリエンテーションを受けることになった。

雨と水滴が染み込んだ白い作業着とヘルメットを見に付けさせられ、1人1個の電池寿命が長そうな懐中電灯を手渡されていよいよ地下の坑道跡のツアーがスタートすることとなった。肥満人間にダイエットの必要性を実感させるような狭い坑道をあるときは身を屈めながら進み、ところどころでチェコ語ガイドの理解することの出来ない説明を加えながら銀の採掘がいかに大変な作業であったかを身を持って体験することに成功した。坑道を出ると銀の製錬や硬貨の鋳造現場を人相の悪い人形で再現した展示室での説明を持って1時間半にもおよぶツアーは幕を閉じたのであった。

5月7日(木)

昨晩宿泊した1952年~54年に建立されたアールデコ様式の建物を利用したクラウン・プラザ・プラーグをチェックアウトするとトラムと地下鉄を乗り継いで旧市街に舞い戻ってきた。「百塔の町」と称されるプラハの遠景を自分の目とデジカメのSDメモリーに焼き付けるためにCZK100を支払って旧市庁舎の塔に這い上がることにした。高みよりプラハの市街を見下ろしていると1968年に旧チェコスロヴァキアで始まった政治改革である「プラハの春」や1989年に共産党政権が無血革命で崩壊した「ビロード革命」の場面が走馬灯のように流れていくような妄想に駆られていた。

ユダヤ人と言えば苦難の歴史がつきものだが、ユダヤ教徒が住むことを許された一定の地区はゲットーと呼ばれ、他とは隔離された地域に密集して住んでいた。プラハでは旧市街広場のすぐ北にユダヤ人地区が歴史の重みを背負ったまま観光地化されているので少しでもその苦難を理解するために足を踏み入れることにした。早速ユダヤ博物館のセットチケット(CZK300)を購入するとまずはピンカスシナゴーグに侵入した。尚、シナゴーグとはユダヤ教徒の祈りの家や教会を指すファシリティでこの地区には多くのシナゴーグ(内部写真撮影禁止)が存在しているのだ。

ピンカスシナゴーグの内部の壁一面にナチスに殺害されたユダヤ人およそ8万人の姓名とその死亡場所および死亡年月日がびっしりと書き連ねられているのだが、この地区にはドイツ占領下の各国からユダヤ人が狩り集められ、ここからさらにアウシュヴィッツのような強制収容所へ転送されたという。ピンカスシナゴーグを出ると旧ユダヤ人墓地の入り口につながっている。1万2000墓もの石板状の墓石が無造作に放置されているように感じるこの墓地は一種異様な雰囲気を醸し出しているのだが、1787年にこの墓地はキャパ不足であると思われる理由で廃止され、以後新しく埋葬された者はいないそうだ。

旧ユダヤ人墓地の出口の近くに儀式の家がオープンしている。この建物はもともと儀式のためのホールであり、遺体置き場でもあったそうだが、現在はユダヤの伝統や生活習慣、なかでも病気や死生観、墓についての情報が満載されている。その後クラウスシナゴーグ、マイゼルシナゴーグの見学を立て続けに行い、スペインシナゴーグではユダヤ民族の歴史に関する展示も確認した。中でも第二次大戦中に「JUDE」のバッジをつけさせられたユダヤ人の写真が何か大切な物を語りかけているかのようであった。

旧新シナゴーグ(CZK200)がユダヤ人地区で別料金を徴収し、独立した存在感を漂わせているので現役シナゴーグとしての機能に敬意を表してお邪魔させていただくことにした。1270年頃に建てられたゴシック建築のシナゴーグはヨーロッパ最古の物でもともとは新シナゴーグと名乗っていたのだが、16世紀以降新しいシナゴーグが林立しやがったため、このような回りくどい名前になってしまったのだ。内部には16世紀のラビ(ユダヤ教の司祭)レウが使ったと言われるイスや、ダビデの星が中央に描かれたユダヤ紋章旗などが目を引いた。

これまでのツアーでポーランドやチェコにおけるユダヤ人の虐殺に対して言いようのない憤りを覚えたのでナチスのご本尊であるベルリンに乗り込むことが決断された。その前にくすんだ黒が独特の存在感をかもし出す火薬塔で火薬を入手すべく塔の頂上(CZK70)まで登ってくまなく探したのだが、見つかったのはプラハ市街の絶景だけであった。

プラハ・ホレショヴィツェ駅というベルリン、ワルシャワ、ブタペストなど旧東欧諸国の国々とを結ぶ列車が発着する駅から12時40分発のドイチェ・バーンの列車を転がして、4時間半もの時間をかけてドイツの首都ベルリンまでやって来た。思えばナチスのヒットラー、ガミラスのデスラーから総統の職務を引き継いだ私にとってベルリンは約束の地でもあったのだ。列車は定刻17:20にベルリン中央駅であるBerlin Hauptbahnhofにすべりこんだ。到着後は右も左もわからない状態であったため、とりあえずベルリンとその近郊の乗り物がすべてフリーパスになるBerlin Welcome Card72時間有効分をEURO25で購入し、Sバーン(近郊列車)とUバーン(地下鉄)を乗り継いで今日の宿泊地であるヒルトン・ベルリン近くの駅に降り立った。

ホテルにチェックイン後、Berlin Welcome Cardに支払った大金の元を取るために、夕暮れ時のベルリン市街を軽く散策することにした。ユダヤ人の虐殺に対して憤懣やるかたない気持ちを引きずって町を歩きはじめたのだが、市の中心部にHolocaust Mahnmalという虐殺されたユダヤ人を追悼するメモリアルを目の当たりにした瞬間にドイツ人がどいつもこいつも反省している気持ちが伝わってきたので許してやることにした。その近辺にはブランデンブルク門という東西ドイツ統一の象徴がそびえているのだが、かつてはここに近づくことさえ許されなかったという。事実ドイツ自身も戦争による被害を被っているので東西分断から統一への歴史も解明していく必要性があらためて認識された。

ドイツ連邦議会議事堂が午後10時まで屋上にあるガラス張りの中央ドーム内部の見学を無償で提供している事実が判明したので30分の入場待ち時間をやり過ごし、金属探知機を通過後エレベーターで屋上に向かった。中央ドームには螺旋階段が巡っており、頂上では吹き抜けになった天井から青空が覗いていた。多くの観光客は寝転がりながらどいつもこいつもボケ~と空を見上げていやがった。尚、頂上は当然のことながら360度の展望を提供しており、無償パンフレットによるOutlooksの説明のフォローアップ体制も出来ているのだ。

5月8日(金)

昨晩ドイツ人のユダヤ人虐殺の反省の気持ちが形になっている現実を確認出来たので、早く戦争を終結させるためにベルリンからSバーンに乗り30分程で到着するポツダムに向かった。ベルリン近郊にはいくつかの宮殿が残っており、ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群はユネスコの世界遺産に登録されている。まず手始めにフリードリヒ大王が愛したサンスーシ宮殿(EURO12)から攻めることにした。サンスーシとは憂いのないという意味で、各国の観光客が見学中に憂いを感じないようにチケット売り場で各国語に対応したオーディオガイドを貸与する仕組みになっている。ガイドから流れる回りくどい日本語の説明に耳を傾け、フリードリヒ大王の執務室や彼が敬愛したヴォルテールの部屋をふくらはぎを伸ばしながら見た後、宮殿まで段々になっている庭園を経由して大きな風車がゆっくり回っているファシリティまで到着するとお約束の正装したパフォーマーがフルートを吹いていた。

ポツダムくんだりまで来てポツダム宣言を受諾しなければ「耐えがたきを耐え」てきた日本国民に申し訳ないと思ったのでポツダム宣言が採択されたツェツィーリエンホーフ宮殿(EURO8)まで足を伸ばすことにした。20世紀の初めに建てられたこの宮殿はホーエンツォレルン家最後の王子、ヴィルヘルムが家族と住んでいたところであるが、スターリンがポツダム会議の会場としてこの場所を選んだという歴史的事実によりそんな王子のことはどうでもよくなったのである。お約束のオーディオガイドでセルフツアーを進行させていると宮殿の各部屋がソ連や各国の控室になっていたりした等の歴史的事実が臨場感のあるものとして伝わってきた。特にメイン会議室ではテーブルに各首脳国の国旗が立っており、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長をはじめ各国の外務大臣や通訳の席順が示されており、ドイツの民主化という大義名分のもと、交渉を有利に運ぼうとする緊張感も現場に残されていた。

ポツダム宣言の受諾により戦争を終結させ、心の平穏を取り戻すことに成功したのでベルリンに戻りMuseumsinselと呼ばれる博物館の島に向かった。ベルリン大聖堂に見守られたこの島にはボーデ美術館や旧博物館等、その外観だけでも見ごたえのある建造物も多いのであるが、その中で展示品のスケール感に圧倒されるペルガモン博物館(EURO10)に入場することにした。

博物館の名前となっているペルガモンは現在のトルコにあり、そこからはるばる運ばれた祭壇には外側に様々なレリーフが施されている。その中でもひときわ有名な物は伝統の一戦であるはずの「神々と巨人族のレリーフ」であろう。この状況は日本における阪神・巨人戦で巨人が11連勝しているように巨人族が神々を圧倒しているように見受けられた。伝統の一戦の他にもミレトス市場の門、バビロンのイシュタール門といった甲子園球場並みの非常に規模の大きな遺跡が所蔵されており、鐘やラッパやジェット風船に依存しなくても観客は十分に興奮のるつぼに陥ってしまうのだ。

ペルガモン博物館を完封した後、SバーンとUバーンを乗り継いでシャルロッテンブルク宮殿に到着したのだが、延長12回時間切れ引き分けのため、もはや中に入ることが出来なかったのでその外観だけを記録にとどめておくことにした。さらにUバーンを乗り継いでKaiser Wilhelm Memorial Churchに到着した。この教会は戦争の恐怖を記憶に焼き付けておくため、あえて爆撃された当時の状況そのままに放置されているように見受けられた。

マサよ、君は近代的なビルや歴史的建造物が林立するこのベルリンはかつて「壁」というもので東西に分断されていたという歴史的事実におののいたことがあるか!?

ということで、1989年も暮れかかり日本のバブルがピークを打った頃、大和証券の優秀な若手営業マンであった私は巨額のコメルツ銀行株やダイムラー・ベンツ株の注文をさばき、その功績により外国株式部よりドイツ製の名刺入れを授与された実績があるのだが、その時がマサにベルリンの壁崩壊のタイミングであったのだ!ベルリン市内には現在でも壁の残骸を各所に残しており、当時の壮絶な状況が今に伝えられている。中でも「チェック・ポイント・チャーリー」と呼ばれるポイントは東西両陣営の対立を象徴する検問所であり、幾度にもわたってデモの舞台となっているのだ。

「チェック・ポイント・チャーリー」の目の前に「壁」の博物館(EURO12)が立ちふさがっているので人生の壁を越えるための何かのヒントが得られることを期待して入ってみることにした。1961年8月13日、西ベルリンは旧東独武装部隊によって完全封鎖され、「壁」の敷設が始まり「西ベルリン包囲網」の全長は155kmにもおよんだ。館内の展示では地下を掘って西側へ脱出する人々のフィルムやフォルクス・ワーゲンのトランクの奥に隠れて検問を突破しようとして見つかってしまうテクニックやハング・グライダーやチープな飛行船を使って壁を越える等、失敗を恐れず命がけのチャレンジの歴史が所狭しと示されているのだ。また、破壊された壁の残骸はまだふんだんに在庫してある様子で博物館付属のショップでカプセルに入れられて販売されていた。

この歴史的事実を目の当たりにして、日本においても戦後東西両陣営に分割され、マサの居住する埼玉県浦和市を含む東日本は「ソ連邦ジャポニカ連合共和国」として統治されていたかも知れないと思うと消費税アップぐらいではおちおち文句を言うことは出来ないと思われたのも事実である。 

5月9日(土)

昨夜の宿泊先であったウエスティン・グランド・ベルリンの前に置いてあるベルリンの壁の残骸に別れを告げるとUバーンとバスでベルリン・テーゲル空港に向かった。空港に向かう道すがらBerlin Welcome Cardに支払ったEURO25の元を取ることが出来なかった後悔の念を飲み会で割り勘負けしたときの損失と比較検討していた自分に気づいていた。

旧東ドイツ陣営のせいかドイツの首都のわりにはチープなベルリン・テーゲル空港からルフトハンザLH179便にてフランクフルト国際空港に帰ってくると数時間後にはシンガポール航空SQ25便の機上の人になっていた。機内で「K-20怪人二十面相・伝」を見ながらグリコ・森永事件の犯人である怪人21面相こと、きつね目の男は実は着ぐるみに身を包んだ東山紀之でジャニーズ事務所の圧力によりもみ消されたのではないかという心配に駆られてしまい眠ることが出来なかった。

5月10日(日)

午前6時過ぎにシンガポール空港に到着し、その2時間後にANA112便に乗り換え、午後4時半過ぎに成田に到着。検疫で黄色い紙をもらった後、空気中に浮遊しているはずの豚インフルエンザ・ウイルスを避けながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥68,850、シンガポール航空 = S$1,899、ルフトハンザ・ドイツ航空 =  ロト・ポーランド航空 = PLN664.99

総宿泊費 PLZ693.12, CZK2,300.-, EURO269.-

総ポーランドバス代 PLN22.8 (PLN1 = 約¥29.-)

総ポーランド鉄道代 PLN15.-

総ポーランドタクシー代 PLN31.-

総チェコバス代 CZK162.- (CZK1 = 約¥5.-)

総チェコ地下鉄、トラム代 CZK78.-

総鉄道代 CZK1,133.-

協力 ANA、シンガポール航空、ルフトハンザ・ドイツ航空、ロト・ポーランド航空、HILTONHHONORS、SPG、IHG ANAホテルズ