FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 対馬

♪ポルトガル人がっ、ながさきへ~~~ カステラ (カステラ) カステラ (カステラ) めいげつど~の カステラ~~♪

というわけで、長崎県玄界灘の沖合、韓国との国境に浮かんでいる対馬はポルトガルではなく韓国がその領有権を主張していると言われており、高速フェリーの運航により実際に多くの韓国人が対馬に観光に来ているニダ。今回は実際に対馬で日韓の友好関係が機能しているのか、はたまた敵対関係のために緊張感が島を支配し、ヤマネコを絶滅の危機に追いやっていないか、その実態を確認するために上陸しなければならなくなったのだニダ。

2010年9月18日(土)

対馬へのアクセスは福岡または長崎からの空路、もしくは博多港からフェリーとジェットフォイルが運航されとるんやけど、今回は午前10時発ANA4933便で福岡からわずか30分で飛んでくることにしたんよ。

ヤマネコが島を支配しちょるごとある交通の要衝の対馬やまねこ空港に到着すると対馬交通が転がしとる島内バスに乗り、島で最も栄えちょる厳原に向こうたんよ。交流センターと呼ばれとるスーパーや飲食店、ショップの複合施設でちょっとくつろいだ後、島の歴史を予習せんといけんと思ったけ、県立対馬歴史民俗資料館に行くことにしたっちゃ。

島内の文化財、考古歴史資料、民族資料とかヘチマとかを収録展示しとる対馬歴史民俗資料館には対馬固有の動物の剥製もおいてあったんやけど、天然記念物に指定ばされとるツシマテンを見よったら、目がテンになったけん、ここから撤収することにしたんよ。

江戸時代の対馬藩主であった宗家の墓所になっとる万松院(¥300)が厳原の代表的観光地の割にはひっそりと佇んどるごとあったけんその幻想的な雰囲気ば感じるために見物することにしたっちゃ。万松院は宗家20代義成が、父義智の冥福を祈って1615年に建立された由緒正しい菩提寺なんよ。ここにはなんか知らんけど徳川歴代将軍の位牌が祀られるとるんやけど、裏手には百雁木と呼ばれちょる100段以上の石段が幽玄な雰囲気を醸し出しちょるごとあり、樹齢1000年の大杉まで立ちはだかっとったんよ。

対馬の海の交通の要衝となっとる厳原港に停泊しとるフェリーを遠巻きに眺めながら歴史情緒あるれる厳原地区を軽く散策した。今日の宿が空港の近くやったけ、バスで空港まで戻り、その辺をぶらぶらしよったら、ネコ科の動物が寛ぎよったけん、「君はヤマネコか!?」と聞いたところ、「いえ、猫です!!」と答えよったごとあったけん、そいつば適当に転がしてお茶ば濁しとった。

長距離ば歩いてくたくたになったけん、楽天トラベルに釣られて予約しとった民宿つりの家にしけこんだ。この民宿はつりの家の名に恥じんごと食堂には魚拓がようけ飾られており、宿泊料¥7,000の割にはアワビ、サザエ、鯛等の豪華料理が食卓を賑わしよるごとあった。

9月19日(日)

つりの家ば引き払い、空港のジャパレンでホンダのフィットをレンタルすると今日は島の北部ば散策してみることにした。島内を車で流しとったらいたるところにヤマネコ注意の看板が掲げられとるごとあり、ここでは学童よりもヤマネコの飛び出しに注意せんといけんごとあった。

対馬北部の上県町、棹崎公園の一角に対馬野生生物保護センターが、ツシマヤマネコ等の絶滅のおそれのある野生生物の生態や現状について解説し、野生生物保護への理解や関心を深めていただくための普及啓発活動や、希少な野生生物の保護増殖事業、調査研究を総合的に実施するための拠点施設として1997年にオープンしているので見学ばさせていただくことにしたんよ。

ここでの最大の見どころは言うまでもなく一般公開ばされちょる生きたヤマネコである。保護センターの一角には三代目となる福馬と命名されやがったヤマネコが慎ましく暮らしており、お気に入りであるはずの止り木にちょこんと正座して見物客の好奇の目に晒されとったんや。しかし、見物客はフラッシュを焚いたりガラスを叩いてヤマネコを刺激すると係員にクラされるけ、おとなしく見守らんといけんのよ。

今日は運ばよかったことにヤマネコの餌付けの日になっとったと。飼育員がネコ小屋に近付くとヤマネコも心得たものでドアに向かってまっしぐらに突進して行きよった。白ネズミの遺体を飼育員が見物客の見やすい位置に放り投げよったら、ヤマネコは一気に食らいつき2週間ぶりの食事をおいしそうに堪能しよるごとあった。

対馬の食物連鎖の頂点に立つはずの肉食系のヤマネコの恐ろしさを十分に思い知ったところで年々生息数が減少し、今では80~110頭と推定されとるヤマネコを危機に至らしめちょる脅威について学習もしとかんといけんと思いよったんよ。ツシマヤマネコの減少原因は交通事故、生息地の減少、犬による咬傷、とらばさみ等多々あるんやけど、♪ぼくには~ ゆめ~がある、希望がある、そして~ 持病がある~♪と歌っとる家猫からの感染症も多いみたいやった。ばってん、アフラックの保険はどうもきかんごとあったけ、泣く泣く撤収するしかなかったんよ。

マサよ、君は日本の国土におるのにNTTドコモを出し抜いて韓国の携帯基地の電波に接続支配されてしまったという屈辱ば味わったことがあるんかニカ!?

ということで、保護センターからほど近い「異国の見える丘展望台」で49.5km離れた対岸の釜山港を見ようとしよったら、いきなりブラックベリーが反応し、韓国の携帯電話のキャリアであるKTFに繋がり、私は携帯電話上では海外におることにされてしまいよったとや。ちなみに展望台からの景色は何の変哲もなか、曇った水平線の光景やったとよ。

対馬の北岸が電波上で韓国の植民地になっとる実態ば思い知らされたけ、もうひとつの展望台の韓国展望所に移動したニダ。ここでは観光バスで訪れとるごとある韓国人観光客がビールで酒盛りばしとっただけで電波はNTTドコモに戻りよったけ、Jinroで祝杯でもあげようかと思いよったんやけど酔って拉致されたらいけんけ、とっとと撤収することにことにしたんよ。

電波ジャックの問題が自然消滅せんかったら、大砲でもぶちかまさんと納得せんやろうと思いよったけ、豊砲台跡を見物することにしたんよ。豊砲台は昭和9年3月に完成し、戦艦の主砲をこの砲台にすえたんやけど、結局実戦に参加することなく「まぼろしの砲台」として朽ち果てて行きよったそうや。

豊砲台跡の見物が不発で、飲み屋で加藤あいを指名したはずなのに出てきたのは阿藤快だったときのような屈辱を覚えたけ、対馬北部の主要港である比田勝港で伊藤英明も乗船したことがあるはずの海上保安庁の船に海猿野郎!と暴言を吐いた後、日本の渚・百選に認定されている三宇田海水浴場に向かったんよ。

さすがに日本の渚・百選のビーチだけあり、天然白浜とエメラルドグリーンの遠浅の海のコントラストはマサに沖縄の海をほうふつさせるごと見事なもんやった。また、ビーチには上対馬温泉 渚の湯(¥500)が隣接しており紺碧の海に広がる水平線を眺めながらゆったりとくつろがせてもらったんよ。

9月20日(月)

厳原の繁華街に位置するビジネスホテルである柳屋ホテルをチェックアウトすると近辺で移動の足を確保出来んかったけ、バスで空港まで行って、トヨタレンタリースでダイハツのムーブばレンタルした。その名のとおりの移動手段を使こうて今日は島の南部の散策に乗り出すことにしたと。

厳原町のほぼ中心に位置する鮎もどし自然公園に鮎も泳いどるはずの清流と瀬川にかかる清流橋が♪いのち くれ~ない♪というような瀬川瑛子のリズムを刻んどるごとあったけん軽く見物し、さらに島南西部に突き出ている豆酘崎で海に浮かぶ白亜の灯台を遠目に眺めながら、朝鮮海峡と対馬海峡の境界の水路の厳しさを思い知りよった。

標高がそげん高くない割には険しか山道を運転しとったら内山峠ちゅうアカハラダ言う渡り鳥を観察出来るごとある展望所に到着した。内山峠には内山田洋とクール・ファイブとほぼ同年齢に見える律儀な渡り鳥観察老人達がたむろしており、今年は例年に比べて渡りの数が少ないごとあると嘆いちょった。

山間でしいたけを栽培しとるファシリティをちら見しながら車ば転がしとると、思わず「これなんやね?」と口走ってしまうごとある奇妙な屋根を持っとる古か倉庫群に行きあたりよった。これらは厳原町西海岸にわずかに残っちょる石屋根で、対馬で産出される板状の石で屋根を葺いとる高床式の建物で風に強い倉庫として慣らしとるゆうことやった。

対馬の中部は日本の代表的なリアス式海岸・浅茅湾が広がっとるごとあり、箱庭のような絶景ば提供しとるんやけど、あまり見て回る時間が残っとらんかったけん、軽く車で流した後、空港に戻り、福岡経由で東京に帰って行ったとやった。

役に立つごとあるワンポイント九州語講座

・ヘチマ

これがホントに九州語かどうか確信は持てんのやけど、27年前に北九州予備校で英語の教師をしよった馬淵先生が好んで使いよったことばやったとよ。意味としては・・・など、等々、etc.で多少ネガティブなトーンを持った状況で使われよるごとあった。財務省にも財務大臣とか、事務次官とかマサとかヘチマとかようけ偉い人がおるごとあるが、景気がいっちょんよくならんのはどういうこっちゃ、一回クラされんとわからんのやろ!という具合に使われるんよ。

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥7,000(2食付き)、¥6,000(朝食付き)

総レンタカー代 ¥10,500

総ガソリン代 ¥3,508

総バス代 ¥1,840

協力 ANA、楽天トラベル、対馬交通、ジャパレン、トヨタレンタリース

FTBアメリカ先住民の足跡を追うグランドサークルツアー in 2010

ちょっちゅね~ マサよ!

ということで、夏の高校野球の決勝戦を制したのは沖縄県勢では夏初優勝で、しかも具志堅用高をOBに要する興南高校であったのだが、その相手である東海大相模は巨人軍の原辰徳監督の影を色濃く残している。かつて東海大学という存在を知らなかった私は東海にある大魔神のような大相模高校のイメージしか持ち合わせていなかったのだが、その当時の純粋な心を取り戻すためにアメリカ大陸原住民が今も生き続けるグランドサークルを回らなければならなくなったのだ。尚、このツアーが開催されるきっかけは裏の仕事の日本代表として参加を要請されているミーティングに他ならないのだった。

2010年8月21日(土)

NH008便で恒例のビジネスクラスへのアップグレードを勝ち得ると快適な空の旅で午前10時過ぎにサンフランシスコに到着した。引き続きUA753便に乗り込み、午後4時過ぎにデンバーに到着するとそそくさとHilton Garden Inn Denver Airport Hotelに引き籠って時差ボケの解消に努めていた。

8月22日(日)

デンバー空港より午前8時11分発のUA6940便に乗り込み、約1時間程飛行してコロラド州の南西部であり、コロラド、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ各州の州境が一点に交わるフォー・コーナーズに程近いDurangoという町に降り立った。早速ハーツでフォルクスワーゲン・ジェッタをレンタルするとアメリカ先住民の足跡を追うツアーの幕があいた。

アメリカの国立公園の中にはいくつかユネスコの世界自然遺産に指定されているものもあるのだが、今回訪れるメサベルデは唯一の自然遺産以外の国立公園であり、1978年にすでに世界遺産に登録されている由緒正しい遺跡なのである。まずはゲートで入園料($15/car)を支払い、急な登り坂を上ると緑のテーブルと呼ばれる独特の地形を見渡せるビューポイントからロッキー山脈の一部を形成する広大な眺望を楽しませていただいた。

メサベルデの最大の見どころはアナサジと呼ばれるアメリカ先住民のコミュニティが形成されていた遺跡群であり、その中の代表的なものはガイドを伴ったツアーでしか行くことが出来ないので、公園の中心にあるFar Viewビジターセンターで最大の遺跡であるクリフ・パレス・ツアー($5)に参加することにした。

Far Viewビジターセンターから南に向かって20分程車を転がし、クリフ・パレス・ツアーでレンジャーと待ち合わせをすることになっているポイントに到着した。崖の上からはすでにクリフ・パレスの眺望が開けており、前の組のツアー客が車座になってレンジャーの話に耳を傾けている様子が確認された。

切り立った崖がオーバーハングしている窪地に217室の部屋、4階建てに相当する高い壁を擁しているクリフ・パレスは当時の豪華マンションといった風情がある遺跡であるが、キバ(Kiva)という儀式が行われていたはずの部屋の痕跡も数多く残されており、自然の脅威に対してなすすべのなかったアナサジはここで雨乞いや豊作の祈願をしていたものと考えられている。

クリフ・パレスから同じくレンジャーの引率でしか行くことの出来ないバルコニー・ハウスを過ぎ、メサベルデで発掘された数々の品が展示されている博物館に到着した。ここではアナサジの人々の生活、文化、習慣などを学習することが出来るジオラマが印象的でアナサジが穴をサジで掘っているかのような生活の様子が生き生きと伝わってくるのであった。

レンジャーの引率ではなく、Self Guided Tourと言って自分勝手に見て回ることの出来る見所の中ではスプルースツリー・ハウスがもっとも保存状態のよい遺跡であった。ここには8つのキバと114の部屋があり、西暦1200年の現役当時には100人以上の大所帯を誇っていたそうだ。

緑の生い茂るキャニオンの眺望と遺跡のコントラストを眺めながら、ゆっくりと車を転がしているとサンテンプルという台地の上に造られている大きめのファシリティに到着した。ここでは何がしかの儀式が行われていたことは間違いないのであろうが、対岸にはクリフ・パレスのすばらしい眺望が広がっているのだった。尚、高度な文明を持ち繁栄していたアナサジであったのだが、約700年後にはサジを投げるように忽然と姿を消してしまったそうだ。しかも白人がアメリカ大陸に到着するはるか以前の出来事であったという。

アナサジが活躍していた時代から大急ぎでページをめくるようにメサベルデを後にして、西に向かって3時間程車を転がすとペイジというレイク・パウエルのゲートシティに到着した。Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであれば$150くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Expressホテルにチェックインすると翌日のウォーターアクティビティに思いを巡らせながら長い夜を過ごしていた。

8月23日(月)

グランドキャニオンの上流に94もの峡谷が複雑に入り組んだ場所があり、そこはグレンキャニオン国立レクリエーションエリア($15)に指定されている。その乾いた風景の中でコロラド川をせき止めてダムが造られ、世界で2番目に大きな人造湖レイク・パウエルが誕生しているので見物をぶちかますことにした。

ペイジからUS89号線を進み、コロラド川をまたいでいるグレンキャニオンブリッジを渡ると右手にグレンキャニオン・ダムのビジターセンターであるCarl Hayden Visitor Centerが開業していたのでダム建造の背景を学習するために入ってみることにした。巨大なレイク・パウエルを出現させたダムは高さ216m、幅475mで1956~64年にかけて建設された。コロラド川の下流にあるフーバー・ダムより多少サイズは小さいもののグレンキャニオンという特異な景観に見事にマッチしており、レイク・パウエルを満水にするのに17年もの歳月をかけやがったそうだ。

ビジターセンターでは30分毎にダムの設備を見学するツアー($5)が催行されているので参加させていただくことにした。エレベーターでダムの内部に下りると摂氏15℃程度の冷たい空気が流れている。これはダムに満たされている水の表面温度は高いのだが、水深が深くなるほど水温が下がるため、自然のエアーコンディショナーが効いているためである。水力発電のファシリティは8基のGE製のジェネレーターが稼動しており、近隣の州に十分な電力を供給している実態を確認することが出来た。

レイク・パウエル観光の中心地ワーウィーブ・マリーナにLake Powel Resortが展開されており、そこでレインボー・ブリッジまで行って帰ってくるRainbow Bridge Cruise ($121.25)が開催されているので参加することにした。尚、レイク・パウエルはアメリカ西部におけるウォーターアクティビティのメッカであり、ここでの足は船しかないのでCruiseの価格は比較的高めに設定されやがっているのだ。

Cruiesは午後12時30分にスタートし、観光客はリゾート裏手のドックからCANYON ODYSSEYと名乗る船に乗り込むと「水をたたえたグランドキャニオン」との異名を取る迫力の景観が次々に出現し、皆思い思いにデジカメのシャッターを切りまくっていた。

レイク・パウエルの水位は全盛時よりも多少落ちている様子で満水時の水位は岩の変色部により容易に確認出来るようになっていた。尚、この湖の長さは約300km(東京-名古屋間に相当)もあり、その不思議な景観は「猿の惑星」等数々のSF映画の舞台となっているのだ。

マサよ、君は織田裕二率いる「踊る大捜査線」さえ封鎖することが出来ない巨大なレインボー・ブリッジがレイク・パウエルの奥地にひっそりと佇んでいる実態を確認したことがあるか!?

ということで、ユタ州にはアーチやブリッジと呼ばれる「穴のあいた巨岩」がたくさんあるのだが、レインボー・ブリッジはその完璧な形状や大きさからナンバーワンに位置づけされている。船はいつのまにか狭い入り江を縫うように航行しており、左右には巨大な岩が目前に迫ってきていた。

巨岩の間にレインボー・ブリッジと観光客との橋渡しの役目を担う桟橋が設置されているので船はそこに横付けされた。観光客は「事件は会議室で起こっているのではない!」という勢いで下船すると先を急ぐように現場へと向かっていった。ついに、「織田裕二が来た~~~!」という心の絶叫とともに山本高広の凋落とは対象的な巨大な虹が目の前に現れたのだ。

レインボー・ブリッジは世界最大のナチュラル・ブリッジでその高さは88m、差し渡し84mでお台場にかかっているまがい物と比べても決してひけをとることのない代物である。また、この地の先住民ナバホの言い伝えによると「虹が固まって石になってしまったものだ」と言われ、非常に神聖視されているので高い金を払ってここまで来た観光客でさえ、橋のたもとに近づくことは許されないのだ。

レインボー・ブリッジが湾岸署ではなく、ナバホに封鎖されている実態が確認出来たので船に戻り、いかりや長介の怒りはいかにと考えながらさらに2時間程の航海を経て午後6時頃に船はLake Powel Resortにいかりを降ろしたのであった。

レイク・パウエルのゲートシティであるペイジを後にしてナバホの居留地を疾走し、午後8時過ぎにKayentaの町に到着した。Priority Clubのポイントがまだ余っていたのでマサであれば$150くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Monument Valleyにチェックインするとナバホ居留地ではアルコールの販売が禁止されているという衝撃の事実に直面して不貞寝を決め込むことにした。

8月24日(火)

日の出前にホテルを抜け出し、月明かりの残る暗い道をひたすら疾走した。月が西に落ち、東の空が徐々に明るくなってくると遠くに幻想的なシルエットが浮かび上がってきた。車は「アメリカの原風景」とも言われる西部劇の舞台にいつの間にか吸い込まれて行ってしまっていた。

午前6時過ぎにモニュメントバレー($5)のゲートをくぐり、10年ぶり(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2000gc.html)にこの地を訪れたのだが、今ではリゾートホテルやビジターセンターが充実した一流観光地に成り上がっており、宿泊客が思い思いにサンライズの景色を楽しんでいた。

真夏の太陽が上り、幻想から現実に引き戻されたので一旦ホテルに戻り、チェックアウト後にナバホの歴史を思い知るためにNavajo National Monumentに向かった。ビジターセンターの内部では原住おばちゃんが手工芸品の機織にいそしんでいたのだが、写真を撮るためには$5払いやがれという看板があり、現実の厳しさを思い知らされたので裏手のキャニオンのトレイルにエスケープすることにした。0.62マイルのSandal Trailの終点はベタテキン(BETATAKIN)展望台となっており、そこからナバホが建築した岩棚の家を見下ろすことが出来たのだった。

再びモニュメントバレーに戻る道すがら、真直ぐな一本道の向こうに立ちはだかるビュート(残丘)やメサ(テーブル上台地)を目指しているとアリゾナ州とユタ州の州境に差し掛かった。モニュメントバレーはマサにユタとアリゾナをまたいでおり、ゆったりと時間が流れているユタと夏時間を採用していないアリゾナとは1時間の時差があるはずなのにアリゾナであってもナバホ居留地だけは夏時間を採用して帳尻を合わせているのだ。

午前11時前に再びモニュメントバレー、正式名称”Monument Valley Navajo Tribal Park”のゲートを通過し、園内に戻ってくると駐車場にはおびただしい数の車やバスが満ち溢れていた。またバレーツアーを催行するためのバンもたくさん待機しており、増加する観光客需要に十分応えているようであった。

バレーツアーは1.5時間ツアーと2.5時間ツアーの2種類があるのだが、今回は園内の奥地まで侵入する2.5時間のツアー($70.-)に参加させていただくことにした。ガイドのベニーが運転する4WDのバンはWest Mitten、East Mittenに見送られるように急な坂道のオフロードを転がるように荒野へと下り、ツアーの火蓋が切って落とされた。

「荒野の決闘」の第一弾は名匠ジョン・フォードがしばしばカメラをセットした彼のお気に入りの地点であるJohn Ford’s Pointであった。この場所にはジョン・ウェインに扮したえせカウボーイが常駐しており、観光客からチップを巻き上げながら自ら絶好の被写体となっていた。また、スリー・シスターズを見上げるこのポイントには数件の土産物屋が出店しており、手作りアクセサリーの販売によるナバホの貴重な収入源となっていた。

バレーは奥地に進むにつれて荒野から緑の台地に変貌を遂げ、ところどころには豪雨によるものであろう水溜りも形成されていた。陽気に手を振る乗馬ツアーの集団とすれ違ったかと思うと騎手のいない半野生化した馬の集団にも遭遇し、あたかも映画のワンシーンが提供されているかのようでもあったのだ。

厳しい自然環境の中で生き抜いてきたアナサジが描いた下手な絵をチラ見して長年の風雨によってくり抜かれたEAR-OF-THE-WINDで猛烈な暑さの中で風の音に耳を傾けた後、BIG HOGANに向かった。ホーガンはナバホの人々が居住する粘土で作ったお椀型の住居であるが、自然の産物であるBIG HOGANを下から見上げるとコンドルの横顔に見え、不思議な感覚を覚えるのだった。

バレーツアーもクライマックスを迎え、モニュメントバレーのシンボルとも言えるトーテムポールのビューポイントにたどり着き、中指を天に突き上げるように人間として一本筋を通していただいた。締めはThe Thumbを見上げながら親指でOKサインをいただくとモニュメントバレーに別れを告げ、コロラド州への帰路に着いたのだった。

8月25日(水)

久しぶりにお金を払って宿泊したHoliday Inn DurangoをチェックアウトするとUA6837便にてDenverに戻り、裏の仕事へ・・・

8月27日(金)

Hilton Fort Collinsホテルで実施された裏の仕事のミーティングもつつがなく終了し、今夜はコロラド・ロッキーズの試合を見に行くというイベントに参加することと相成った。通常であれば私の先導の下での野球観戦となるのだが、今回は会社が手配した観光バスに乗ってCoors Fieldへと向かった。Corporateや団体のPartyのために手配されるはずのSummit Party Suiteに陣取ったのだが、そこにはフルコース系のディナーが用意されており、ステーキの肉はホテルで供給されるものよりもさらに柔らかく高級感があったのだった。

8月28日(土)

ミーティングのオプションとしてTeam Buildingのアクティビティに参加しなければならなかったのでロッキー山脈の山麓に位置するSylvan Dale Ranchという牧場まで繰り出すこととなった。参加メンバーは乗馬とフライフィッシングの組に分かれることになるのだが、武豊なみの才能を持つはずの私であったが、今回はG1ではなかったのでフライフィッシングをやることにした。

釣り場は近くの川から水を引き込んだ狭い池で最初にインストラクターによるフライフィッシングのレクチャーが行われた。そのおかげで100回程シャドー・キャスティングをやる羽目になり、参加者は皆肩の痛みをこらえながら釣りを楽しむことと成った。しかし、あいにく水温が高すぎてコンディションが悪く、通常であれば松方弘樹のマグロなみの大物を釣り上げるところであったのだが、本日の釣果は中国人が引っ掛けた死亡したマス1尾のみであったのだった。

FTBサマリー

総飛行機代 $387.40

総宿泊費 $266.32

総レンタカー代 $128.11

総ガソリン代 $68.5

総Glen Canyon Damツアー代 $5.00

総Lake Powell Boat Tours代 $109.00

総Monument Valley 2.5時間ツアー代 $70.00

協力

ANA、United航空、ハーツレンタカー、Priority Club、HiltonHHonors

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in パラオ

元気ですかぁ~ マサよ! 元気があればっ、なんでもできる!!

というわけで、586の島々からなるパラオにアントニオ猪木がオーナーになっている島があり、新日本プロレスのトレーニングをその島で行った際に猪木が押し寄せる波に向かって延髄斬りをかましている光景が今も心に焼き付いている。このパフォーマンスに触発され、いつかはパラオに上陸しなければならないと考えていたのだが、今回ついにボンバイエの魂と燃える闘魂を注入するためにその計画が実行に移されることとなったのだ。

2010年7月17日(土)

上野・成田空港間をわずか30分で結ぶ新スカイライナーが本日開通とあって、同じ路線上の単なる空港行き特急である成田スカイアクセス特急でさえ、その勇姿をカメラに収めようと先頭車両でベストポジション争いをしている鉄っちゃんで大変混雑していた。

午前11時5分発コンチネンタル航空CO962便グアム行きに乗り込むと1時間の時差を超えて午後3時半過ぎにグアムに到着し、ラウンジで回線品質の悪いComplimentary WiFiと格闘しながら時間をやり過ごしていた。乗り継ぎ便となる午後7時35分発パラオ行きCO953便は定刻通りに出発し、途中Yap島を経由して午後10時過ぎにパラオ国際空港に到着した頃には日本との時差は解消されてしまっていた。

空港では本日宿泊するホテルの有料送迎サービスのバンが迎えに来ていたので早速乗り込むと25分程度でパラオの中心地であるコロール・ダウンタウンにあるパレイシア・ホテルに到着した。ホテルに常駐する日本人スタッフによりつつがなくチェックインを果たし、最上階である6階の部屋に入ると湿気の多い南国リゾート特有のほのかなカビの香りに包まれて一夜を過ごすこととなったのだった。

7月18日(日)

パラオを代表するモダンな大型リゾートホテルであるパレイシア・ホテルのレストランで中国人団体客の圧力と闘いながら朝食をすますと照りつける太陽の下、コロール・ダウンタウンの散策に繰り出すことにした。コロール島は小さな村々から構成されていて、パラオの総人口約2万人のうち約7割が居住している共和国の中心であり、メインストリートには学校、ホテル、デパート、土産物屋やレストランが軒を並べている。

早速パラオの歴史を学習するためにミクロネシアで最も古い博物館であるベラウ・ナショナル・ミュージアムに向かった。しかし、日曜日は休館日となっているらしく、侵入を拒否されたので外部に展示されている古来より伝わるパラオの集会所のバイと野ざらしになっている日本統治時代の遺物を見物するにとどまってしまった。三角屋根が尖っているバイの内部を見学しようとしていると気の弱そうな犬が遠吠えで仲間を呼び寄せて不法侵入の嫌疑をかけられた私に対してプレッシャーを与えて来やがったので奴らの番犬としての働きに敬意を表して撤退してやることにした。

パラオ水族館として慣らしているパラオ国際サンゴ礁センター($8)が日本、アメリカ、パラオ各政府の協力によりサンゴと海洋生物を研究するファシリティとして君臨しているという話を聞いていたので実際に海に出る前の予習として見学させていただくことにした。ここは美ら海水族館のような大手ではないものの、多くの展示水槽が屋外に設置されており、マサにパラオの海の環境が凝縮されている様子が見て取れた。特に世界でも例の少ない生きているサンゴの飼育に成功したり、通常150m~200mという水深に生息しているため、なかなか目にすることが出来ないオウムガイ等のレア物も間近でマジマジと観察することが出来るのだ。

パラオの中心コロール島と日本のODAで造られた橋で繋がっているアラカベサン島は、かつて日本軍の軍事基盤であった激動の島なのだが、今ではすっかりリゾート・アイランドとしての地位を確立している。その中でパラオの誇る最高級ホテルであるパラオ・パシフィック・リゾートが多くのリゾーターで繁盛している実態を目の当たりにするために徒歩で4km程の道のりをトボトボとやって来た。プライベートビーチが広がる砂浜の美しさもさることながら、ホテルの遊歩道の南に位置する、太平洋戦争中の日本軍の水上飛行機用だったランプの先のサンセット・ビュー・ハットと名付けられた小高い丘の上の展望台からの眺めは時間の経過も忘れさせてしまうほど美しいものであった。

公共交通機関のないパラオで観光客の足になっているBBIというシャトルバス($7/7日間有効)が夕暮れ時から運行を開始し、各主要ホテルやレストラン、土産物屋を回っているので早速チケットを買って乗車し、DFSギャラリアも併設しているパレイシア・ホテルで下車し、本日の宿泊先となっているウエスト・プラザ・ホテル・バイ・ザ・シーに向かった。ホテルのすぐ北側にTドックというTの字に海に突き出た埠頭があり、そこで原住少年団が釣りをしたり、原住母子がナマコを採ったりしている様子を眺めながらゆったりとした黄昏時を過ごしていたのだった。

7月19日(月)

昨日はパラオの実態の解明と予習に時間を費やしてしまったのだが、今日は満を持してパラオが誇る観光資源に踏み込むことにした。パラオの色々な遊び方を満載した豊富なツアーメニューを持っているインパック・ツアーズのパンフレットをホテルでたまたま入手していたのでまずはカヤック&ジェリーフィッシュレイクツアー($100 + ジェリーフィッシュレイク許可証$35)に参加することにした。

午前8時40分にホテルにピックアップに来たバンに乗り込み、ツアー会社のオフィスで料金を払った後、スノーケリングセットやライフジャケット等のレンタル品を受け取ると桟橋からモーターボートに乗り込み、いよいよ全行程7.5時間にもわたるツアーがスタートとなった。このツアー会社は日本人スタッフが多く、今回担当するガイドもチエと名乗るジャリンコ系の小麦色のマーメイドであった。

ボートはツアー客がボ~とする間もなく、パラオが世界に誇る観光資源であるロック・アイランドの島々を抜け、刻々と色の変わる海上を疾走し、30分程で最初のアクティビティ・ポイントであるミルキー・ウェイに到着した。通称「ミルキー・ウェイ」と呼ばれるロック・アイランドのなかにあるマリン・レイクの色は入浴剤を溶かしたような独特の色をしており、その色の正体は海底に沈殿している石灰の泥である。ここで取れる泥は「パラオホワイトクレイ」として各種の化粧品に加工されており、絶大な美白・保湿効果があると言われているのだが、毎日来ているはずのガイドのジャリンコ・チエはその効果の恩恵に与かっていないようだった。

しかし、ジャリンコはその潜水技術を如何なく発揮し、見通しの利かない3mの海底を数往復して泥を集めてくるという離れ業を演じ、ツアー客を泥だらけにするのに大きな役割を果たしてくれたのだ。また、イッコーがパラオを訪れた際にもツアーに参加したのだが、奴は1日中ミルキーウェイにいて泥パックに明け暮れるという無駄な努力を繰り返していたそうだ。泥が乾くと皆海に飛び込み体中と髪の毛になすりつけた白い物体を洗い流したのだが、ミルキーはママの味というよりはむしろ塩の味とほのかな硫黄臭が支配的であることが体感された。

十分に肌のお手入れも出来たところでボートはマングローブの入り口で停泊し、そこからシー・カヤックに乗り換えて約1時間半もの過酷なボート漕ぎが始まった。ツアーの一行はそれぞれにチャーターされたカヤックで欝蒼と茂るマングローブへ突き進んで行った。流れがほとんどないので思ったよりも体力を消耗しないのだが、途中マングローブの根っこに乗り上げて座礁するという危機を乗り越えながら、のんびりと鳥のさえずりを聞き、食虫植物のウツボカズラ等の熱帯植物を見上げながらオールを漕いでいるといつの間にか出発地点に戻って来てしまっていた。

マサよ、君は猪木の名を冠した無人島が三本ロープの四角いジャングルではなく、本当のジャングルになっていることを知っているか!?

ということで、適度の運動で腹も減ったのでボートは近くの無人島へと移動する段取りになった。ボートが島に近づくにつれ、ボンバイエのリズムと延髄に衝撃が走ったような感覚が強くなってきた。なるほど、ここはアントニオ猪木を名誉オーナーとする無人島で日本人観光客が珍しかった時代からパラオに侵略しに来ていた猪木に敬意を表し、パラオ人所有者が友好の印としてプライベート使用を許可しているという形になっているそうだ。

このイノキ・アイランドにはアントニオ猪木をはじめ、坂口征二やアントキの猪木くらいしか上陸を許可されないのかと思っていたのだが、意外にもほとんどのツアーの昼食休憩所としていくつかのベンチやバーベキュー施設が設置されており、猪木も「なんだこのやろう!ダ~!!」と言いながら気張っていたはずの汚いトイレで用をたすことも出来るのだ。

イノキ・アイランドでの闘魂注入で満足したので泳いで帰ろうかと思ったのだが、ついでに続きの見どころも押さえておくことにした。ロック・アイランドのひとつ、広大なマカラカル島の内陸に世界的に有名なジェリーフィッシュ・レイクが佇んでおり、パラオの一大観光名所として連日おびただしい数のツアー客がクラゲと一緒に浮かんでいるという実態が報告されていたので実際に体験させていただくことにした。ボートが船着場に着くと、そこから山道を上下するトレッキングを15分程こなすとついに緑に囲まれた広大な湖が目の前に姿を現した。

早速スノーケリングの準備をして湖に飛び込むといきなりおびただしい数のクラゲに囲まれてしまった。この湖には水面下に海と繋がっている箇所があるため、隔絶されていながら海水と淡水が混ざった汽水湖となっており、タコクラゲ、ミズクラゲなど無数のクラゲが生息する軟体動物ワールドになっているのだ。

クラゲは光合成を行うため、太陽の位置に合わせて団体で湖内を移動し、太陽が雲に隠れると一斉に水面近くに上がってきやがった。尚、クラゲの毒性は強くないので水着で湖に入っても、触って足の数を数えても何の危害も加えないので観光客は安心して直にクラゲの感触を楽しむことが出来るのだ。

ジェリーフィッシュ・レイクでこの世のものとは思えない異空間での水中遊泳を堪能した後、ツアーの最後のアクティビティとなるパラダイスというスノーケルポイントに向かった。サンゴの海が最大の遊び場であるパラオには無数のスノーケリングポイントが存在するのだが、1998年のエルニーニョ現象による水温の異常上昇でパラオのサンゴも壊滅的な打撃を受けた痕跡として白化したサンゴが今なお残っている。

しかしながら、透明な海水に育まれた多様な生態系は目を見張るものがあり、色とりどりのサンゴの間を回遊するカラフルな熱帯魚を見るとマサにパラダイスに紛れ込んだような夢心地を味わえるのである。

30分程のスノーケリングを終え、体もいい具合にふやけてきたのでツアー客はボートに回収されると桟橋への帰路に着いた。途中ナチュラル・アーチという隆起サンゴ礁の中心が波の浸食によりくり抜かれた造形美を軽く堪能し、さらに日本軍が残した銃砲に脅威を覚えていたのだが、パラオでは戦争の遺物を動かしてはいけないという法律があるため、このように戦跡が生々しく残されているのだ。

ツアー終了後、ペットのカニクイザルに別れを告げ、本日の宿泊先になっている♪思い出のっ クリフサイド ホテルぅ♪に引き払い、中村雅(マサ!)俊のメロディーとともに高台からの景色を堪能しながらツアーの余韻に浸っていた。

7月20日(火)

昨日参加したカヤック&ジェリーフィッシュレイクツアーに大きな感銘を覚えたので今日はさらなるパラオの魅力を探るためにガラツマオの滝トレッキングツアー($90)に参加させていただくことにした。このツアーはグァム島に次いでミクロネシアでは2番目に大きいバベルダオブ島ガラツマオ州にあるパラオ最大の滝を訪れるネイチャー・アドベンチャーである。

ツアー会社のオフィスを出発したバンは、コロール島からパラオ最大の橋であるニューKBブリッジを渡り、最初の目的地である熱帯果樹園を目指した。台湾資本により経営される果樹園にはグアバ、パパイア、ドラゴン・フルーツ等が試験栽培されており、フルーツの試食コーナーでは苦いノニジュースで乾杯させられるという貴重な体験までついてくるのである。

ノニジュースで健康に対する自信を深めたところでバンは近年舗装された道路をさらに北上し、ガラツマオの滝の入り口兼休憩所に到着した。滝へのトレッキング道は往路は下りになっており、途中アルミの原料であるボーキサイトを運ぶトロッコのレールに遭遇し、切り立った尾根や草原を通り抜けて清らかな川が流れる水郷地帯まで到達した。

ところどころに存在する水溜りの中には多くの岩魚が泳ぎ、脱皮したばかりの川エビも颯爽と水の中をバックで進んでいた。いつしかトレッキング道は川の流れに飲み込まれ、腰まで冷たい水に浸かりながらもついにマイナスイオン弾ける滝壺に到着し、巨大な水のカーテンが目の前に迫る光景に圧倒されてしまった。

ガイドが防水バックパックで運んできた弁当を食っていると野生化したはずのチャボの親子が弁当のおこぼれを虎視眈々と狙いながら周囲を徘徊していた。また、林の中には毒のない切れ長のヘビがしなやかに蠢いており、パラオの自然の多様性を誇示していた。腹も膨らんだところで滝壺に降りてお約束の滝に打たれ、心身を清めると共に煩悩を振り払い、とりあえず坂口征二相談役を中心とした新日本プロレスの復権を祈っておいた。

急に振り出した激しいスコールと滝による真水で適当に全身を清められた勢いを駆って復路の上り坂を難なく登りきると休憩所で用意していただいたココナッツの実にストロー突き刺しジュースを一気飲みし、バンでコロール島に帰って行った。とりあえず、コロール島と橋で繋がっているマラカル島に君臨するニッコー・ホテルズ・インターナショナルグループが経営するパラオ・ロイヤル・リゾートまで送ってもらったので恒例のファシリティチェックを行うことにした。敷地内に海水を引き入れたラグーンがあり、午後5時から拉致している生物に対する餌付けが開始された。マグロの切り身やパン粉に引き寄せられるようにウミガメや熱帯魚が集まって来たのだが、海底を這うように泳いでいるエイは永遠に浮上してくることはなかったのだ。

夕飯時になったのでインパック・ツアーズのオフィスに隣接するJIVEというシーサイドレストランで眼下の透明な海とサンゴを見下ろしながら取れたての魚の刺身とバナナの皮に包まれて蒸し焼きにされた巨大白身系魚をカクテルと共に流し込んでさわやかな宵の時を過ごしていた。

ダウンタウンまで歩いて戻っているとアサヒ・フィールドで野球のナイターが行われていたので思わず引き寄せられてしまった。硬球、木製バットという本格的な野球のために打低投低の感は免れず、私も代打に出る準備をしていたのだが、ついに声がかかることがなかったのでタクシーでパラオ国際空港に撤収することにした。空港では通常徴収される出国税$20に加えて2009年の後半から設定されたGREEN FEEを$15巻き上げられたのだが、パラオが猪木とともに自然環境を守ろうとする強い姿勢が見て取れたのだった。

7月21日(水)

午前1時10分のCO954便に乗り込むと乗客は何故か行きのメンバーと似たような顔ぶれだったのでこれがパラオツアーの典型的な旅行日程であることが確認された。しかし、行きの飛行機では色白だったヤングギャルたちは周囲の物体との接触を拒むかのように真っ赤に着色されて帰って来たので強い日差しに対する油断の恐ろしさを再認識させられたのだった。

飛行機は帰りもYap島を経由しやがり午前5時過ぎにグァム国際空港に到着した。空港のラウンジで回線品質の改善されたComplimentary WiFiで7時から裏の仕事のWebEXミーティングをこなした後、買う気もないのに免税品店で時間を潰し、11時55分発のCO6便の機内では出来るだけ意識をなくすように努めていた。午後2時45分に成田に到着し、機外に出るとパラオより強烈な酷暑に辟易しながら流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥119,260

総宿泊費 $353.3

総現地ツアー代 $190

総空港送迎代 $15

総シャトルバス代 $7

総タクシー代 $25

総出国税 $20

総Green Fee $15

協力

コンチネンタル航空、楽天トラベル、インパック・ツアーズ(http://www.palau-impac.com/

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 礼文島

♪僕の先生は~、フィ~バ~♪

というわけで、小学校学園物の先駆けとなった熱中時代の水谷豊扮する北野広大は礼文島出身であるという設定であったのだが、2年前はその礼文島の隣に浮かぶ利尻島へは何とか上陸を果たし(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2008rishiri.html)、しかも利尻富士の頂上まで制して来たにもかかわらず、礼文島に行く時間が取れなかったために北野広大への仁義を欠いてしまったことが大きな心残りとなってしまっていた。今回私の心の中の忘れ物を取りに行くために忙しいこの時期を選んでわざわざ礼文島を目指すこととなったのだ。

2010年7月3日(土)

将来はマサの財力を利用してANAの筆頭株主に成り上がるという野望を持っている私はANAの株主優待券を利用してマサであれば\43,000かかるところを¥21,550の支払いで羽田発稚内行きのチケットを入手し、しかもプレミアムクラスへのアップグレードまで果たし、B767機の1-Kという筆頭席に陣取り、意気揚揚と日本最北端を目指した。ANA573便は午後2時過ぎに稚内空港に到着すると早速空港バスでフェリーターミナルへ向かった。

北海道の離島航海を取り仕切るハートランドフェリーが運航する午後3時25分発礼文島行きのフェリーの2等席に乗り込むと甲板で潮風にあたりながら約2時間の航海がスタートした。あいにくの曇り空で利尻島にそびえる利尻富士の雄姿は拝めなったものの穏やかな海上の快適な航海で午後5時20分に香深港に着岸した。

「お帰りなさい礼文島へ」の看板に迎えられるとおびただしい数の老老男女で構成されるエースJTBの団体旅行客やFTB御一行様はついに海抜ゼロメートルから高山植物が咲き誇る花の島への上陸を果たしたのだった。多数の観光バスをチャーターしやがっているエースJTBを尻目にFTBは宗谷バスが運航する路線バスで島の北部の船泊に向かった。

楽天トラベルに予約させておいたホテル礼文荘が提供する「ドーンと大きなボタン海老 北春丸さんありがとう」プランにより早速宿に到着後に夕食の時間となった。北春丸が釣り上げてきたはずのボタン海老の優雅なフォルムに見とれてデジカメのボタンが押せなかったために豪華な夕食はマサの想像にまかせるしかないのだが、食卓はウニやホタテや毛ガニの半身等豪華な海の幸で彩られており、宿泊客は皆、毛ガニの毛が指先に刺さらないように注意しながら黙々と身をほじっていたのだった。

7月4日(日)

早朝より日本最北の湖である久種湖と久種湖畔キャンプ場を軽く散策しているとテントからアルファベットを喋っている声が聞こえてきた。なるほど日本のこんな僻地にも律儀にテントを担いでキャンプにいらっしゃるアメリカ人がいるのかと感心させられた。尚、アメリカ人がいるからといって13日の金曜日にジェイソンが斧を持って襲いに来るような雰囲気のあるキャンプ場ではないことは確かであった。

8時半過ぎの路線バスで利尻礼文サロベツ国立公園が誇る最北端のスコトン岬に向かった。最北限のトイレで用を足すこともなく、スコトン岬からストンと落ちている低地に佇んでいる民宿を尻目に最北端ではなく最北限の地点から目の前のトド島を見渡していた。

トド島はその名の通りトドがとどまることが出来る無人島でゴマフアザラシも見られることもあるそうだ。また、とどめを刺されたトドはトド肉の缶詰として昆布ソフトとともに最北限の土産物屋のエースとして君臨しているのだ。

約300種の高山植物が咲き乱れ、「花の浮島」の異名をとる礼文島には数多くのトレッキングコースが整備されている。ねづっちのなぞかけが整う前に私のフィジカルを整える必要があったので礼文島で最も過酷な8時間コースに参戦することにした。最北のスコトン岬をスタートし、猫が寝込んでいる様子を横目に西海岸に沿って南に向かって歩いていた。

整備されたトレッキング道ではエースJTBの観光客を乗せた観光バスと何度もすれ違い排気ガスを出さないエコなFTBとの格差の違いを見せつけてやったのだが、トド島展望台という高台に到着した時には、トド島は手のとどかない遠くに逃げてしまっていた。

トド島の景色に別れを告げるとトレッキング道はバスの通るアスファルト道から野山を切り開いた土道に変わっていた。険しい崖に囲まれたゴロタ岬から見下ろす海はこれがホッケの泳ぐ海とは思えないほど透明度が高く、サンゴ礁が生えていれば沖縄の海に匹敵するほど美しいものであると思われた。

澄海岬から透明度の高い海で漁をしている小舟を見下ろし、いくつかの明るい漁村を通り過ぎると道はいつしか林に変化していた。ホッケの海とホッケキョのさえずりが響く林のコントラストの中でホテル礼文荘で用意していただいたおにぎり昼飯を食いながら体力の回復に努めたのだが、携帯していた500mlの飲料水をすでに飲みきってしまっていた。

林の中から水の流れる音がしたので川の上面をすくって喉の渇きを抑えたものの過酷なトレッキングはさらに続き、岩場にロープ伝いで降りなければならない難所にも遭遇した。薄曇りの空はいつしか晴れ上がり容赦なくトレッカーの体力を奪っていった。山をついに降りきるとそこに待っていたのはゴツゴツとした岩が転がる沿岸部の難所であった。

すでに5時間以上歩いているにもかかわらず、抜群のボディバランスで岩場を切り抜けると宇遠内というコンパクトな漁村に到着し、日陰と水分を求めて休憩所に転がり込んだ。早速アクエリアスで喉を潤そうとしたのだが、1000円札しか持っていなかったので休憩所を取り仕切るおばちゃんがぎりぎりでお釣りを用意する状況になってしまった。すでにビールとおつまみでいい気分になっていた先客の夫婦が土産物として売られている干しワカメや昆布を買う際に1000円札を出したのだが、こいつに釣銭を払ったので小銭がなくなったぜとプレッシャーをかけられ、罪の意識に駆られた私は図らずも300円の干し海苔を買わずにはいられなくなってしまっていたのだ。

北の離島の僻地で商売の真髄を目の当たりにした休憩所を後にすると残っている力を振り絞って最後の峠に立ち向かっていった。通常8時間設定の場合のコースであれば5時間程度でゴール出来るはずであるのだが、このコースはマサに山あり、谷あり、海あり、岩あり、商売ありだったのでまるまる7時間程度もかかってしまった。東海岸の香深井からフェリー港のある香深までさらに1時間かけて歩き、命からがら5時40分のフェリーに乗り込むとエースJTB観光客と一緒に雲に隠れて見えない利尻島の幻影を眺めながら稚内に帰って行った。

マサよ、君は日本最北端の地で松坂大輔が町興しのために担がれている実態を垣間見たことがあるか!?

ということで、稚内市内では何故かわからないが、おびただしい数の露天が出店し、浴衣を着たギャル等が闊歩しており、お祭り気分満載の様子であった。さらにおじいちゃんが稚内に住んでいるという理由だけで松坂大輔が稚内のヒーローに祭り上げられ、松坂大輔スタジアムに貴重品を献上させられている様子が確認された。同じ敷地内に港のゆ(¥700)という天然温泉が開店していたので寒冷地のためお湯がなかなか沸っかないはずの稚内では貴重なファシリティだと思われたので入って見ることにした。泉質は単純ナトリウム泉ということだったが、何故か昆布ローションのようなとろみが加えられているので美肌効果も期待出来るはずである。

温泉でトレッキングの疲労を癒すことに成功したので稚内駅前バスターミナルから運行している札幌行き都市間バスに午後11時に乗り込むとリクライニングの倒しすぎで後部座席の乗客からクレームをつけられながら、札幌駅を目指していた。

7月5日(月)

午前5時半に札幌駅前に到着し、そのままバスを乗り換えて新千歳空港へと向かった。午前7時30分発ANA050便にてプレミアムクラスへのアップグレードを果たし、1-Aという筆頭席で快適に過ごさせていただいた。午前9時半に羽田に到着し、筋肉痛が運動の翌日に発生したことに感謝しながら裏の仕事へ・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ¥21,550

総バス代 ¥8,920

総フェリー代 ¥4,600

総宿泊費 ¥11,000

協力 

ANA、楽天トラベル、宗谷バス、ハートランドフェリー

FTBJ比叡山 with しがない滋賀ツアー

真言密教の総本山である高野山での修行を終え(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2010koyasan.html)人間として一回り大きくなった私であるが、メジャーな空海と比較して最澄が地味な印象しか与えないのは比叡山延暦寺のブランドを打ち消してしまうほどの滋賀県民のしがない県民性のせいだという疑念を拭いさることが出来なかった。今回そのしがなさを体感するためにあえて滋賀に足を踏み入れることにしたのだ。

6月12日(土)

裏の仕事の関係で大阪城公園に付属するホテルニューオータニ大阪に宿泊していたので早朝より大阪城を散策して覚醒することにした。姫路城、熊本城と共に日本三名城のひとつに数えられている大阪城で豊臣秀吉の魂を吸収していると大阪城ラジオ体操会のメンバーがすでに撤収し、スタンプも押してもらえないため、仕方なくひとりで♪うでを~前から上にあげて、お~きく背伸びのうんど~~♪から始めるしかなかったのだ。

素人ギャル系B級タレントを起用しているはずの「おけいはん」をメインキャラクターに据えている京阪電鉄で京都の三条に参上すると見せかけて一気に終点の出町柳まで来てしまった。出町柳で出待ちをしている人ごみを掻き分けながら叡山電鉄の改札をくぐり、ワンマンカーに乗り込むと14分で八瀬比叡山口に到着した。

京都市内から出町柳・八瀬経由で比叡山に行く場合には叡山ケーブル・叡山口ロープウエイが通例となっているのでまずはケーブルカーに乗車することにした。総延長1.3km、標高差は日本一の561mを誇る叡山ケーブルは大正14年創業で乗客が思わず「ひぇ~!」と叫んでしまうほどの急こう配を9分かけてロープウエイ乗り場まで引っ張り上げてくれるのだ。

ロープウエイ比叡駅には開運厄除の大義名分の下、観光客が待ち時間を利用して「かわらけ」という円盤を投げて運試しが出来るアクティビティが設定されており、油断なく観光客から金を巻き上げるシステムが確立されていた。叡山ロープウエイで3分間宙づりにされた後、標高840mの比叡山頂に到着し、眼下に広がる琵琶湖の遠景を眺めた後、ついに比叡山の散策が開始されることとなった。

世界文化遺産比叡山延暦寺(¥550)は東塔、西塔、横川から形成されており、それらの拠点を結ぶ比叡山内シャトルバス(¥800)が運行されているので、早速バスに乗り、東塔に向かった。そもそも1200年前に伝教大師最澄が日本の国の安泰と国民の幸せを祈って開いた比叡山の教えとは「個々が思いやりの心をもって一隅を照らす人になる」すなわち、一人ひとりが相手の立場に立って考え、自分の出来ることを精一杯行うことが、周りが良くなっていくことにつながるという、すべての財務官僚が肝に銘じておかなければならないありがたいものである。

この教えに触発されるかのように東塔の境内には錚々たる企業の後援による祖師御行績絵看板という絵物語が数多く立ち並んでいる。ところで比叡山は織田信長と対立し、1571年に焼討ちにあっているのだが、織田信長の末裔である織田信成と自称織田信長の末裔兼生臭坊主である織田無道(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%84%A1%E9%81%93)は生まれながらにして比叡山出入禁止という特権を持っているはずであろう。

信長の焼討ちから400年ぶりに再建され、塔の朱と自然の緑が溶け合っている法華総持院東塔の隣に1937年に比叡山開創1150年大法要を記念して建立された阿弥陀堂に阿弥陀如来がまつられているのでソチ・オリンピックでは織田信成の靴ひもを切らないように祈った後、立て続けに戒壇院と大講堂を見学させていただいた。

総合案内所兼無料休憩所となっている一隅を照らす会館に比叡山宗教サミットの案内が掲げられ、キリスト教、イスラム教等の宗派を超えた催し物が大々的に喧伝されているのだが、高校野球ファンにとってはアルプススタンドに陣取った僧侶の読経を起点に得点を重ねた実績を持つ比叡山高校とPL学園、天理高校等との甲子園での宗教対決の方がより興味をそそるのではないかと思われた。また、延暦寺会館で開店している喫茶「れいほう」では宗教法人に対する優遇税制が事業仕分けの対象にならないように日夜議論が交わされているはずである。

延暦寺の総本堂であり国宝に指定されている根本中堂は内部の写真撮影厳禁であるものの、御本尊秘仏薬師如来をまつる宝前に1200年間守り継がれた「不滅の法灯」が光り輝いており、圧倒的に荘厳な雰囲気が醸しだされていた。さらに比叡山にまつわる宝物を管理・保管するために開設された国宝殿(¥450)には焼討ちの難を逃れた薬師如来坐像や不動明王像等が織田信成の4回転ジャンプにプレッシャーを与えるかのように睨みを利かせていた。

延暦寺の諸堂は16:30に閉堂になるため、西塔と横川への参拝は断念するかわりにシャトルバス運賃の元を取るために比叡山ドライブウエイを横川まで往復してお茶を濁しておいた。延暦寺バスセンターから京都方面に京阪バスが運行されているので路線バスに乗り込むと三条で下車して祇園方面に向かって歩いていた。八坂神社をチラ見して祇園で舞妓さんを探していると迷子になりそうになったので観光は外人に任せておいて撤収することにした。

6月13日(日)

私の大阪地区での定宿になっているANAクラウンプラザ大阪の近くに学門をすすめるかのように福澤諭吉生誕地の碑が陸の王者のごとく存在感を示していたので日本銀行が発行した福澤諭吉の肖像画が私の財布に大量発生すると同時にもしマサがここにお参りに来なければマサに振り込まれるはずの1万円が私の口座に自動振替されるように祈っておいた。

ところでマサよ、私が京セラという会社を仕切ってブイブイ言わせていたときに京都の伏見区に住んでいたのだが、その地区の水道水は琵琶湖の疎水(http://agua.jpn.org/biwacanal/top.html)から取水されており、非常にまずかったことがトラウマになっている。そこで今回の滋賀ツアーの機会を利用してそのまずさの謎を解明するために再び滋賀に向かうことにした。

京都と大津を結ぶ京阪京津線で大津港の最寄駅となっている浜大津駅で下車し、レイクサイドアミューズメント浜大津アーカスに向かった。しがない滋賀を活性化するためか、ここではコスプレイヤーが大集合するという催し物が行われており、ギャルに扮装した中年おじさんや道頓堀川から復活したはずのカーネルサンダースが幅を利かせていやがった。

缶ジュースも仮面サイダーのコスプレを施している大津駅を後にしてJR琵琶湖線で温泉街ではない草津で下車した。草津駅西口から近江鉄道バスに乗車すると25分程で烏丸半島に張り出している滋賀県立琵琶湖博物館(¥750)に到着した。館内のレストランでは口蹄疫に感染していないはずの近江牛にちなんだメニューが目白押しだったのでとりあえず近江牛コロッケバーガーを食してみることにした。コロッケはその90数パーセントはじゃがいもやパン粉から形成されているのだが、わずか数パーセントの含有量で近江牛の価値を認識させるところが近江牛たる所以であることを思い知らされたのだった。

琵琶湖博物館の最大の見所は広大な琵琶湖に生息する数多くの魚を拉致して繁殖させた水族館であり、大阪天保山の海遊館、沖縄の美ら海水族館に勝るとも劣らない水族企画展示によりコンスタントな集客力を誇っているのだ。展示室に入るとまず上空を魚たちが飛び泳ぐトンネル水槽で琵琶湖内部を魚瞰的に眺めることが出来、さらにVIP水槽で飼育されている琵琶湖の主、ビワコオオナマズに挨拶をするという段取りになっている。

さらに本チャンの琵琶湖では外来魚であるブラックバスの餌になっているであろう浜崎系のアユやビワマスもここでは我が物顔で泳いでおり、水生昆虫の王者タガメや特別天然記念物のオオサンショウウオもそのユニークな風貌で存在感を示したいた。

湖の環境と人びとのくらしという展示室では昭和30年代から始まった水利用の変化、またそれにともなう人びとの暮らし方、生活感の変化により琵琶湖が汚染され、さらには生態系が変化していった様子を学習し、琵琶湖水系の水のまずさの原因を思い知らされた。さらに水道が生活の中に入ってくる以前の農村の暮らしが移築された伝統家屋により再現されており、水の有効利用や排泄物が肥えだめに直結する古代和式便所等の効率的なエコシステムの重要性を再認識させられた。尚、家屋内には星一徹の力で簡単にひっくり返すことが出来るちゃぶ台もセットアップされているのだが、飛雄馬が父ちゃんに口ごたえしないので伝家の宝刀が抜けないというジレンマに陥ってしまっているようだった。

マサよ、君は恐竜のウンチの化石が語るうんちくにより、琵琶湖の歴史とおいたちが如実に語られているという事実に愕然としたことがあるか!?

というわけで、琵琶湖のおいたちという展示室でおよそ2億5千万年前からの自然環境の変遷をマンモスの骨とともに学習することにした。鼻で吸引する動物が好きなはずの酒井法子であれば、思わず「マンモス うれピー!」と叫んでしまう程、古代象の化石コレクションが充実しているこのエリアで特筆すべきことはマンモスも滋賀県で発掘されるとシガゾウというしがない象に成り下がってしまう衝撃的な事実だったのだった!!

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥800

総ケーブルカー・ロープウエイ代 ¥840

総バス代 ¥2,200

総鉄道代 ¥3,320

協力 ANA、ANAホテルズ、京阪電鉄

FTBJ龍馬と行く脱藩ツアー in 高知

NHK大河ドラマ「龍馬伝」に便乗し、龍馬ゆかりの各地域では龍馬にちなんだ長期イベントが行われている。龍馬発祥の地高知県においても土佐・龍馬であい博が2010年1月16日から2011年1月10日まで開催されている。おびただしい数の観光客を集めたであろうゴールデン・ウィークも過ぎ、観光地が落ち着いた頃を見計らって脱藩のテクノロジーを伝授させていただくためにとっさに土佐を訪問しなければならなくなったのだ。

5月15日(土)

土佐藩主であるにもかかわらず、空港のネーミングライツを得られなかった山内容堂の動揺を反映させたかのようにANA1601便ボンバルディア機は激しく高知龍馬空港に午前8時前にタッチダウンした。早速ニッポンレンタカーでホンダのフィットをレンタルすると愛媛県との県境に近い山間部に向かってひた走った。

津野町の風車の駅で山頂に立ち並ぶ風車群にクリーンエネルギーの真髄を見た後、これぞ日本の典型的な田舎の風景を思わせる清らかな川と段々畑を見渡していくうちに段々と脱藩の機運が高まっていったぜよ。

龍馬脱藩ゆかりの地の津野山街道のとある道の駅で脱藩前の腹ごしらえをすることにしたのだが、食い物屋で一串百円の巨大こんにゃくを食っているとみょうがが入っちゅうスーパー味噌汁が無料で振る舞われたので何と気前がいいことかと思われたき。

近くに天狗のオブジェをあしらった巨大すべり台が設置されていたので大人気もなくすべることにしたのだが、摩擦係数ミューが高すぎたために私の下半身に風力発電に匹敵するはずの静電気を発生させてしまい、早くも脱藩の火花を散らすこととなってしまったぜよ。

5年前にシマンテックを脱藩した怨念のためか、最近期限切れ間近のノートン・インターネット・セキュリティを自動更新させ、更新料をクレジットカードから勝手に引き落とすぜ!という強迫メールを何度も受け取る羽目に陥ってしまっていた。その邪悪な怨念を清めるためにシマンテック発祥の地であってほしい四万十川の源流に行かなければならなくなっていた。

カリフォルニア州クパチーノを源とするSymantec Corporation本社を彷彿とさせる四万十川の源流までには山道に設置されているご丁寧な道案内の看板を辿って行けるのだが、源流点と定義されている地点のさらに上流からも水が昏々と流れ出ているため、ガンブラーさえ検出出来ない、いい加減な定義ではないかと懸念されもした。しかしながら、高知県知事であらせられた橋本大二郎氏により建立された四万十川源流の碑は改竄されることなく、その地に君臨していたのでとりあえず信じてやることにした。

いち早く土佐藩を抜け出し、坂本龍馬に脱藩を勧めた吉村虎太郎の銅像からどうぞ~脱藩して下さいとのインスピレーションを受けた後、土佐龍馬であい博のサテライト会場になっている梼原(ゆすはら)維新の道社中(¥200)に立ち寄ることにしたき。脱藩の道中では脱糞も付きものだと思われたのでまずは厠に行くことにした。腸内をすっきりさせた後、手抜うどんの看板に引き寄せらるようにうどんをすするとその勢いを駆って天守閣に攻め入ることにしたのだが、そこで待っていたものは維新の門であった。

津野山郷が輩出した六志士に龍馬、沢村惣之丞を加えた8人のダイナミックで躍動感あるれる銅像の製作費は8,500万と記されており、時代が時代であったなら、蓮舫による事業仕分けの餌食になっていたのではないかと懸念されもした。

いよいよ脱藩のクライマックスである土佐と伊予の国境に位置する韮ヶ峠に来てしまった。案内役の那須信吾はここで引き返したのだが、坂本龍馬と沢村惣之丞は「我ら再び生きて故国土洲の土を踏まず!!」という捨て台詞を吐いて土佐藩士から日本人へと変わっていったのだった。

脱藩のノウハウを身に付けることに成功したので山中から下界に降りて高知黒潮ホテルにチェックインし、地下1300mから汲み上げられている天然温泉龍馬の湯に浸かりながらちっくと販売本数ナンバー1のウイルスバスターに乗り換えられないかと画策していたのだった。

5月16日(日)

高知黒潮ホテルを出て、土佐湾沿岸を南東に走ると青い空と海に癒される室戸岬に到着した。ここに立ちはだかちゅうは龍馬と並ぶ幕末のヒーローで陸援隊隊長であらせられる中岡慎太郎像であった。慎太郎が見下ろす室戸岬は奇岩が立ち並ぶダイナミックな風景を展開しており、弘法大師が灌頂の会式をした浜で今なおその清さをたたえている灌頂ヶ浜にはタービダイト層によって形成された奇岩や珍しい地質の宝庫となっちゅうき。

あこうという木の根にからめとられそうな恐怖を覚えたので、高台にある四国霊場第24番札所である最御先寺をスルーして室戸岬灯台まで這い上がってきた。ここにおわす白亜の灯台は明治32年の建立以来、100年余り太平洋を航行する船の安全を見守り続けて来ちゅうろう。

室戸岬から土佐湾沿いの道を引き返し、阪神タイガースのキャンプ地としてテントを貸してやっているはずの安芸市に志を求めてやって来た。田舎道を車で転がしていると不意に「やったろう!」という気概に包まれた気がしたと思ったら三菱グループの創始者である岩崎弥太郎の生家に紛れ込んでいた。幼いころから志を胸に秘めていた弥太郎は庭石を日本列島の形に並べてその身分の低い劣等感を克服しようとしていた様子がこの実家には今もありありと残っているのだった。

土佐龍馬であい博のサテライト会場になっている安芸・岩崎弥太郎こころざし社中(¥200)を訪問し、私のメインバンクになっている三菱東京UFJ銀行の預金金利が上がることを祈念した後、とある公園に立ちふさがっている俳優香川照之にそっくりな大男の銅像に龍馬伝の視聴率の回復を約束し、川に向かって柏手を打っているとたむろしている鯉が勝手に集まってきたのでそそくさと退散することにした。

高知市内に戻り土佐龍馬であい博のメイン会場となっている高知・龍馬ろまん社中(¥500)に侵入した。これまで調査してきた各会場に展示されている龍馬伝出演者のサインの盗まれ状況から龍馬ブームの福山雅(マサ!)治に対する依存度を再確認し、雨上がり決死隊の宮迫が切腹して「アメトーーク」に専念しても視聴率には影響しないことを思い知らされたのだった。

マサよ、君は坂本龍馬生誕地が福山雅治の侵略を逃れている唯一の聖地になっている事実を知っているか!?

というわけで、これまで数多くの幕末および坂本龍馬ゆかりの地を見て回って来たわけであるが、どの観光地もNHKの受信料未払い分の損失を埋めるかのように龍馬伝の広報的な役割を果たすために福山雅治のポスターが起用されていた。今回のツアーのクライマックスに坂本龍馬誕生地に立ち寄り、ついに福山雅治の幻影を振り払うに至ったわけである。

龍馬生誕地のすぐ近くに高知市立龍馬の生まれたまち記念館が開館していた。チケット売り場にJAFのマークが見えたのでマサであれば¥300かかるところを私は¥270の支払で入館することに成功した。展示コーナーの入口で龍馬少年が「まっことよう来たねえ ゆっくり見とうせ」と迎えてくれたので龍馬を育んだ人と町、家族、坂本家の離れをイメージした空間等を心おきなくゆっくり見とうすことが出来、まっことここは癒し系の記念館である実態が確認されたので納得して帰路に着くことにしたぜよ。

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥7,000

総レンタカー代 ¥12,180

総ガソリン代 ¥3,044

協力 

ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、JAF

FTBサハラ入口ハラハラツアー in チュニジア

バンクーバーを根城とした真央の時代が終わりを告げると同時に上海では真夜の時代の幕開けとなった。♪涙の数だけ強くな♪ってきた岡本真夜は盗作されてしまった自らの楽曲を何の迷いもなく上海万博のテーマソングとして献上したという度量の広さを見せつけ、さらに一躍ダウンロード数を伸ばすという快挙さえ成し遂げている。FTBもそのままのFTBでいるべく♪も~と 自由に も~と素直♪なハングリー精神を取り戻すために乾いた大地を目指すことにしたのだ。

2010年4月29日(木)

ボンジュール マサよ!サバ(鯖)!!

というわけで、アイスランド火山の噴火の影響による欠航から見事な復活を果たしたNH205便で午後5時前に久しぶりのパリ・シャルルドゴール空港に到着すると引き続き午後9時5分発エアーフランスAF1784便にてバレーボールワールドカップ男子の1試合目で日本と対戦させられて弱い日本に勢いをつけさせるという重要な役目を担ってきたチュニジアに向かった。チュニス・カルタゴ国際空港に到着したのは午後11時前だったのでそそくさとタクシーに乗り込み、本日の宿泊先である中級ホテルDu Parcにしけ込んでダウンした。

4月30日(金)

立地条件のよくない町外れにあるホテルDu Parcから徒歩でチュニス中心部を目指した。長い間フランスの支配下におかれていた影響か、何となくヨーロッパを軽くとっちらかしたような印象を受けるチュニス市街にはメトロと呼ばれる路面電車が縦横無尽に走り、黄色いタクシーが♪ア~クセル 踏み込んで~ ろ~めんでんしゃ~ お~いこした~♪光景が展開され、また大聖堂から続く目抜き通りであるハビブ・ブルギバ通りにはおしゃれなカフェ等が軒を連ねていた。

TGMと呼ばれる郊外電車がハビブ・ブルギバ通りの東端のチュニス・マリン駅からカルタゴ方面に向かって走っているのでユネスコ世界文化遺産に指定されているカルタゴ遺跡を見学するために足を延ばすことにした。約30分程電車に揺られ、カルタゴ地区の中心駅であるカルタージュ・ハンニバル駅で下車するとビュルサの丘まで這い上がることにした。1890年にフランスによって建立された威圧感のあるサン・ルイ教会背後のチケット売り場でカルタゴ地区遺跡の共通券(TND8.000、撮影料=TND1.000)を購入すると古代カルタゴの中心だったビュルサの丘に侵入した。

ビュルサの丘はローマによって滅ぼされたフェニキア人によるカルタゴ市の中心があった丘であり、さらにその後のローマ人による支配下でも中心的な役割を果たした場所でもある。ちなみに「ビュルサ」という名の由来はフェニキアの王女エリッサが、この地に都市を建設しようとした際、底意地の悪い現地人が牛の皮(ビュルサ)1枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言いやがった。エリッサはそっちがその気なら、こっちにも考えがあるぜということで、その皮を切り裂き細長いひもを作り、そのひもで土地を囲い広い領土を獲得するという一休さんもたじたじのとんちを使って快挙を成し遂げたのだが、今となってはポエニ人住居の廃墟が痛々しく広がっているだけである。

ビュルサの丘の頂上に君臨するカルタゴ博物館にポエニ時代とローマ時代の出土品から当時の様子を偲ぶために入って見ることにした。ここには周辺地域から出土されたローマのモザイクや神々の像、ポエニ時代の地中海交易品、生活用品、墓の埋葬品等が展示されている。カルタゴは度重なるローマとの戦いでついには敗北し、陥落してしまうのだが、そのときのローマ軍による町の破壊ぶりは徹底したもので、廃墟に塩を撒いて人も住めず作物も出来ないようにしたというマサに傷口に塩を塗るような非人道的な仕打ちが行われたのだった。

ビュルサの丘を下り、15分ほど歩くとローマ時代の闘技場で当時は3万6000人もの観衆を収容出来たと言われている円形闘技場に到着した。かつては円柱で支えられたアーチの上にさらにアーチが重ねられ、様々な彫刻が施されていた素晴らしい円形闘技場であったそうだが、数世紀にわたって石材が持ち出された結果、今では円形脱毛症のような悲惨な姿をさらしているに過ぎないのだ。育毛剤の必要性を感じながら、円形闘技場を後にして辿り着いた場所はローマ劇場であった。最盛期には1万人を収容したというこの劇場は育毛が行き届いているかのようにしっかり修復され、毎年7~8月に開催されるカルタゴ国際フェスティバルの会場として演劇、映画やコンサートも行われているのだ。

ローマ時代当時の暮らしぶりが想像できるローマ人の住居に入居させていただいた。しっかりと区画整理がされた住宅地の一部は修復が行き届いており、「ヴォリエールの別荘」と呼ばれる屋敷の跡には列柱回廊と中庭、出土した彫刻、碁盤の目状に構成されている4世紀初頭の床モザイクが残っている。ダイワハウチュを仕切っている役所広司であれば、この場所に役所のように大きいダンスホールを建設し、バレリーナを引退した草刈民代と全裸でシャール ウィ ダンスを楽しんでいたことであったろう。

ローマ人の住居で全裸になった妄想に駆られた勢いでアントニヌスの共同浴場に入浴することとなってしまった。ここは海を背景に建てられた広大な公共浴場で、2世紀にローマ五賢帝のひとり、アントニヌス・ピウスにより建設された健康ランドである。当時、建物は2階建てで、更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、談話室、トイレ等、健康ランドに必要なファシリティは一通り揃っていたと言われている。さらに、壁にはフレスコ画、柱には彫刻、床には色鮮やかなモザイクが敷き詰められ、非常に贅沢な作りだった名残がかすかに残されているのだ。

灼熱の健康ランドでひと汗かいた後、火照った体を冷やすためにトフェというポエニ人の墓地にお参りした。当時カルタゴには幼児を殺害して神に捧げるといういけにえの習慣があったと伝えられており、敷地内には小さな墓が無造作に並び、実際にここからは炭化した幼児の骨が入った骨壺が発見されているのだ。

海洋博物館(TND2.000)という名のチープな水族館で狭い水槽でストレスのたまっているはずの魚に神経を逆なでされた感覚を癒すために今ではただの池のようにしか見えない古代カルタゴの港を遠巻きに眺めることにした。かつてここには古代カルタゴの繁栄を支えた商業港と軍港がインテグレーションされており、周囲には倉庫街と砂岩の岸壁が巡らされ、最先端のセキュリティ体制が取られていたそうである。

マサよ、君はチュニジアで最も美しいチュニジアンブルーと真っ白な壁が映える町を地中海からのさわやかな風を受けながら闊歩したことがあるか!?

というわけで、TGMでさらに数駅北東に進出し、シディ・ブ・サイド駅で下車した。南地中海に面した岬の丘の上に敷かれた石畳の坂道を歩くと白い壁に青い窓枠や扉がインストールされた建物が次々と姿を現した。この色使いはシディ・ブ・サイドの基本カラーになっており、景観を損ねないように多くのペンキ職人により定期的なメンテナンスが行われている様子が見て取れた。

「街並み保存区域」に指定されているシディ・ブ・サイドの建物の窓際はジャスミンやハイビスカスの花で彩られ、多くの土産物屋やカフェに群がる観光客で大変な賑わいを見せていた。地中海を見下ろす高台を占拠するカフェ・レストランには青いパラソルが広がり、眼下のヨットハーバーやビーチが彩りを添えていた。

TGMでチュニス市街に戻り、ハビブ・ブルギバ通りのカフェでビールを流しこんだ後、チュニス鉄道駅から交通手段兼宿泊設備の列車の一等席に陣取り、指定席の番号が明確でないため、席の奪い合いに発展した車掌も解決することが出来ない立ち回りを見物しながら乾いた南部へと向かって行った。

5月1日(土)

列車はかつて「ローマン・アフリカの果て」と呼ばれていた、アルジェリアとの国境に近い大オアシスであるトズールに午前5時12分に到着する予定であった。時刻は5時半を回り、とある駅で大量の乗客が下車したので寝ぼけ眼で私も釣られるように列車を降りてしまった。駅のトイレに入っているタイミングで汽笛が鳴り、列車が走りすぎて行った後に駅名を確認するとそこにはMETLAOUI(メトラウイ)と書かれている驚愕の事実を目の当たりにし、一気に目が覚めてしまった。

メトラウイで朝日を浴び、ハラハラしながら道をさまよっているとさびれたバスターミナルに到着したのでそこで原住民の行動を観察していた。人はそこそこ集まっていたのだが、午前6時台にはバスはあまり来なかったので、乗合タクシー風のワゴン車であるルアージュの運転手にトズール行きかどうかを確認し、首尾よく乗車を果たすと1時間程度でチュニジア南部観光の玄関口であるトズールのバスステーションに到着することに成功した。

トズールで一番にぎわうエリアはハビブ・ブルギバ通りでそこには観光客目当ての土産物屋が軒を連ねているのだが、時間の経過とともに灼熱の太陽がその本領を発揮しはじめたので広大なナツメヤシのオアシスに身を隠すことにした。砂漠を目の前に控えた1000ヘクタールという広大なオアシスには20万本ものナツメヤシと果樹や野菜が植えられており、ナツメヤシの実であるデイツはトズールの特産品になっているのだ。

夏目漱石を思い出させるような「吾輩は猫である」ということをアピールする多数の野良猫が徘徊するナツメヤシのオアシスから「門」をくぐって脱出し、それからバスセンターに戻るとタメルザ行きのルアージュを探した。とある古びたバンの後部座席にイスラム服に身を包んだおばちゃんが佇んでおり、「ボンジュール」と挨拶を交してきたのでこの車はタメルザ行きか聞いたところ、そうだと答えたので乗り込んで出発を待つことにした。数十分経過後、ほどなく人が集まってきたので誰が運転するのだろうと様子を見ていたところ、いきなりそのおばちゃんが運転席を占拠しやがった。

保守的なイスラム世界では珍しくルアージュの女性ドライバーとして生計を立てているおばちゃんの運転するバンは荒涼とした景色が広がる山道を登り、途中どこかで道草を食いつつ、正午過ぎにはアルジェリアとの国境に近い山岳オアシスの村であるタメルザに到着した。北アフリカの先住民族であるベルベル人は紀元前から近世にいたるまで、海を渡ってくる侵略者から身を守るために地形の険しい内陸や南部などに住み着いてきたと言われている。タメルザ峡谷は、3つのベルベルの村がポイントとなっており、タメルザ村にはベルベル・テイストの最高級のホテルとして君臨するタメルザ・パラスが切り立つ山の上に建っているので宿泊する予定にしていたのだ。

タメルザのルアージュ乗り場からホテルまでの1kmを歩く道すがら、いくつかのベルベル系のオブジェを目にしながら酷暑の中、午後1時過ぎに命からがらタメルザパラスに辿り着いた。早速チェックインし、Standard roomが満室のため割高なContemporary Delux Double roomをTND495.000の大金で予約させられていた部屋にしけ込んだ。部屋のベランダからはごつごつの岩山とナツメヤシオアシスに囲まれたタメルザの旧村を見下ろすことが出来、またホテルの建物自体も周囲の景観に溶け込んだ作りと色合いになっているのだ。部屋のテーブルの上には「光の指」と呼ばれるナツメヤシの実であるデイツが皿に盛られていたので指を加えて見守る代わりに味見してみると甘い干し柿のようであった。

タメルザパラスの宿泊代に含まれるディナーはブッフェ方式で供され、宿泊客はそれぞれプール脇にセットされたテーブルでお腹に食い物をたらふくタメルゼという勢いで皆牛飲馬食に興じていたのだった。

5月2日(日)

軽く朝食を済ませた後、ホテルから続く階段を降りて旧ベルベル村の廃墟の探索と洒落込むことにした。すでに何人かの日本人ツアー客が入村し、写真を撮りまくっていたのだが、近くで見ると普通の荒れ果てたレンガの残骸地帯に過ぎないと思われたのも事実であった。

タメルザパラスをチェックアウトし、浮世離れした景観と豪華なホテルの内装に別れを告げ、タメルザの新村に向かって歩いていると羊飼いが多数の羊に急斜面を下らせながら放牧地帯に追いやろうとしている光景に遭遇し、山肌の茶色と白と黒の羊のボディのコントラストに思わず見入ってしまった。ルアージュ乗り場では昨日と同じおばちゃんドライバーが手ぐすねを引いているように待ち構えていた。おばちゃんは多くのベルベル友人たちと油を売りながら乗客が集まるのを待っていたのだが、一旦人数が揃い、出発するような素振りを見せたのはフェイントで近隣で荷物を下ろして元の場所に帰ってくるという小技を繰り広げながら時間だけが経過していった。何とかトズールへの帰路に就くことが出来たものの、おばちゃんの携帯電話は10分毎に呼び出し音を響かせていた。

トズールでは宿泊の手配をしていなかったため、ハラハラしながら高級ホテルの建ち並ぶツーリスティックゾーンを彷徨っていた。数あるホテルの中で一番高級そうな☆☆☆☆☆ホテルであるソフィテルパーム・ビーチ・トズールにアポなしで突入するとかろうじて空室があったので荷物を部屋に放り投げてトズールのメディナの散策に繰り出すことにした。

14世紀に造られたと言われているウルド・エル・ハデフ地区というメディナは砂と粘土を混ぜ合わせて造った日干しレンガの町なみが魅力的である。建物にはレンガを手前に引き出したり奥に引っ込めたりする伝統的な技術を使って、幾何学的な模様が壁に描かれているのが印象的で保守的な衣装を身にまとった原住民とすれ違うと数百年も昔にさかのぼったような不思議な感覚さえ覚えてしまうのだ。

炎天下のため、頭も適当にのぼせてきたのでカレーシュという馬車に乗ろうかとも考えたのだが、中年オヤジの加齢臭と馬の香りがマッチしないと思ったので、徒歩で撤収することにした。ホテルに帰る道すがらで数多くのツアー会社から夕暮れ四輪バギーツアーの勧誘を受けたのだが、トズールではフランス語でクアッドと呼ばれる四輪バギーで近隣の砂漠やオアシス、はたまた丸一日かけて、かのスターウォーズのロケ地を巡るツアーが人気を博しているのである。

5月3日(月)

早朝ホテルを出てツーリスティックゾーンからオアシスを抜け、ラクダ飼いがラクダに給水している様子を垣間見ながら15分程度歩くと巨大な南海キャンディーズのしずちゃんが腰掛けているシーンに遭遇した。近づいてよく見ると生身のしずちゃんが静かに佇んでいるのではなく、巨大な原住民女性のオブジェが睨みを利かせているだけであった。

ここはラス・エル・アイン展望公園で広場中央の小高い岩山に登ると緑豊かなオアシスや近隣のゴルフ場が一望出来ると同時に岩山自身にはトズール出身の偉大な詩人、アブール・カセム・シェビの顔が刻み込まれており、遠くから眺めるとまるでアメリカの歴代大統領の人面岩から構成されているマウント・ラシュモアと見紛えてしまうのだ。

砂漠ホスピタリティを提供するトズールの治安の良さを十分に堪能し、暑いのとハエがブンブンまとわり付いてくるのを我慢すればマサであっても十分暮らしていけることが確認出来、また、ナツメヤシのオアシスでも夏目雅子のような肌の露出は許されない事実を認識して納得したのでバスターミナルからトズールを後にした。

長距離バスで5時間程度走るとチュニスの南165km、周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部に位置する古都ケロアンに午後4時頃到着した。早速バスターミナルから南東に2km程歩くと高さ8m、厚さ2mを誇るメディナの城壁が姿を現した。グランド・モスクの尖塔をチラ見してメディナの周囲を一周しながら今日の寝床をハラハラしながら探していた。メディナから1km程離れた場所に☆☆☆であるオテル・コンチネンタルを発見し、何とか忍び込むことに成功したので荷物を置いて身軽になり、メディナに舞い戻ることにした。

ケロアンは7世紀にマグレブ征服(アラブ化)の目的でウマイア朝より派遣された、総督ウクバ・イブン・ナーフィにより建設された北アフリカにおけるイスラム発祥の地である。ここはイスラム世界ではメッカ、メディナ、エルサレムに次いで4番目に重要な聖都であり、ケロアンへの7回の巡礼は、メッカへの一度の巡礼に値するとまでいわれているのだ。

世界文化遺産に指定されているメディナの内部は白壁の家々が織り成す景観が美しく、人々の生活が息づいており、町を歩いているとジャパン、ジャポン、ジャパニ、がんばれニッポン、ジャッキー・シェン等、数多くの声援を浴びることになるのだが、ジャパネット高田は残念ながら浸透していない様子であった。メディナの家々には人間の手の形をした取っ手がインストールされており、その取っ手でドアをノック出来る仕組みになっているのだった。

5月4日(火)

フランス語でHを発音しないオテル・コンチネンタルをチェックアウトすると目の前にアグラブ朝の貯水池があったので軽く見学しておいた。中世世界で最高技術を用いて造られたこの貯水池は現在もケロアン市民の水源となっており、乾燥地帯の水不足解消に一役買っているのだ。

メディナに戻り、共通券(TND8.000、撮影料TND1.000)を購入し、いくつかの見所を回ってみることにした。640年、時の権力者ウクバ・イブン・ナーフィによって建立されたアフリカ最古のグランド・モスクは外観はいたってシンプルであるが、内部もそれなりにシンプルに見えた。しかし、中庭には大理石が敷き詰められており、ローマ・ビザンチンの遺跡から拝借した列柱が重々しい雰囲気で並び、中央には濾過設備を持つ雨水を貯めるための排水溝さえ装備しているのだ。

鳥を取り押さえていい気になっている猫にガンをつけて、ラクダが水をくみ上げる聖なる井戸であるビル・バルータに立ち寄った。ここはもともとは7世紀に掘られた井戸であるが、その周囲を囲むように、1676年にモハメッド・ベイが白いドーム状の屋根をもつ建物を建設した。一見モスクのような外観であるが、入り口から階段を上がった2階には、井戸と拉致されたラクダが待ち構えている。このラクダが井戸の周囲を歩くとロープで水がくみ上げられる仕組みになっているのだが、ラクダにとっては楽な仕事であるのではないかと思われた。

白黒縞模様が目に焼きついたガリアーニ霊廟をチラ見してメディナを後にすると市場をスルーして数多くの観光バスを集めているシディ・サハブ霊廟を見学することにした。ここはマグレブで最も美しい霊廟と言われ、壁、床、天井といたるところに見られる色鮮やかなアラベスク模様がそれを実感させてくれるのだ。

大規模なケロアンのルアージュステーションでチュニス行きのルアージュを捕まえて2時間程で首都チュニスに帰ってきた。チュニジアのルーブルとの異名をとるバルドー博物館は大規模な改修工事の真っ最中であったのだが、一部展示品を公開していたのでTND4.000を支払って突入した。ここでの見所は世界最大規模を誇るローマ時代のモザイクコレクションであるはずなのだが、あまりにも閉鎖中の展示室が多かったため、印象に残ったのはビートたけしが推奨するはずの「男には男の武器がある!」銅像のみであった。

世界文化遺産に指定されているチュニス旧市街はフランス門がメインゲートになっており、かつては門の両脇から城壁が延びてメディナを取り囲んでいたと言われている。門を通るとビクトワール広場に出てそこから先は夕方の買い物時の群集で押しくらまんじゅう状態になっているスークに繋がっている。スークは観光客用の土産物だけでなく、原住民が日用品を買うための重要な市場となっており、食肉や地中海で取れた新鮮な魚を売りつける生鮮食品屋も軒を連ねているのだ。

メディナの中央は巨大な広場となっており、チュニス最大で最高の聖地であるグランド・モスクや草サッカー少年を多数集めるほどの広大な敷地を持つ首相官邸等の箱物で占められている。午後5時前に何故かモスクからカラフルな鼓笛隊が出てきたと思ったら奴らは首相官邸の広場に掲げられている国旗を降納するためのセレモニーを行う要員であったのだ。

今夜はあらかじめ予約してあった街を見下ろす高台に位置するシェラトン・チュニスを予約していたのでハラハラすることなく過ごせると思ったのだが裏の仕事の電話会議に参加するためのブラックベリーが熟れすぎて腐ってしまい、電話が繋がらなかったのでもっとハラハラする羽目に陥ってしまった。

5月5日(水)

シェラトンからタクシーでチュニス・カルタゴ空港に移動し、午前11時30分発AF2185便の機上の人となった。エアーフランス機内で今風のマリー・アントワネット系のスチュワーデスに白ワインを注文したところ、赤ワインをいただいたのでそれを白ワインだと信じて飲み干したのだが、パリのシャルル・ドゴール空港のスター・アライアンスのラウンジで本物の白ワインを痛飲して溜飲を下げておいた。

午後8時発NH206便で成田に向かう機内ではサハラ砂漠に一人取り残され、真夜中に岡本真夜のAloneを熱唱するというアクティビティが出来なかったことを後悔し、真夜よろしく♪カードがぁ も~ないから~♪とうそついて電話会議への参加をキャンセルすべきではなかったかと悩んでいた。

5月6日(木)

NH206便は定刻通り午後2時40分に成田空港に到着。涙の数だけ強くなった自分を実感し、みずほ銀行の支援を受けているはずの井上真央の巻き返しに期待しながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥197,870

総宿泊費 TND1,235.000 (TND1.000 =¥67)

総鉄道代 TND25.450

総バス代 TND15.570

総タクシー代 TND10.000

総ルアージュ代 TND10.340

総TGM代 TND1.450

総メトロ代 TND0.800

協力

ANA、STARWOOD

FTBJ極楽浄土高野山ツアー

マサよ、君は空と海から聞こえてくるかのような「高野山に行こうや」という天の声に誘われて密教の聖地にお参りしなければならないという義務感を覚えたことがあるか!?

というわけで、「晴れむ(806年)心の真言密教」というお経を唱えながら空海が中国から真言密教を伝えたと言われる年号を覚え、日本史の偏差値を常に80以上の高位置にキープしていた時から高野山に修行に来なければならないと考え続けてきた。今ではこの霊場は世界遺産に指定され、世界各国から仏教徒ではないはずの数多くの観光客で溢れかえっているのでその実態を清めるために参拝させていただくことになったのだ。

4月17日(土)

午前7時発ANA013便で8時過ぎに伊丹空港に到着し、空港バスでなんばに向かった。難波はかつて野村監督率いるホークスという球団を持っていた南海によって支配されているのだが、今では南海キャンディーズの傘下に成り下がっている。

早速南海高野線快急電車に乗り、1時間40分程度で極楽橋駅に到着した。しかし、極楽橋で極楽気分を味わう暇もなく、接続の高野山ケーブルカーに乗り込み下界から標高900mまで5分程度で昇天すると高野山駅に降り立った。高野山駅前は南海りんかんバスによって仕切られている様子で環境に配慮したプリウスタクシーもリコールを恐れず果敢に営業活動を行っていた。

とりあえず、どこへ向かえばいいのかわからなかったので、外人団体観光客が乗り込もうとしている奥之院行きのバスに乗り込んだ。バスは専用道路をゆっくりと走りぬけ、外人団体が下車した高野警察前で降りると出頭する代わりに桜咲く寺院の庭先に目を奪われながら高野山の入り口になっている女人堂まで引き返した。明治5年まで女人禁制であった高野山へは女性はここより山内に入ることが許されず、細く険しい女人道を通って大師御廟へお参りをしていたのだ。

徳川家霊台のチケット売り場で高野山参詣講待遇之証(奉納金1,500円)という主要なファシリティを参拝出来るお得なセットチケットを購入すると寛永20年(1643)に三代将軍家光が建立した徳川家霊台を見学させていただくことにした。ここは家康と秀忠の両霊屋で、白木造りの外観に金銀箔を押した極彩色の厨子は日光東照宮を彷彿とさせる豪華な造りであると見受けられた。

霊場高野山は弘法大師が嵯峨天皇の弘仁七年(816)真言密教の根本道場として定められ、国の平和を祈り国民に安らかな生活への道を伝え、併せて末徒の修禅観法のため、また自らの入定の地とする崇高な目的をもって開創せられたのだが、その総本山である金剛峯寺に謹んでお参り申し上げることにした。金剛峯寺の名称は元々高野山一山の総称として用いられていたのだが、この寺自身は文禄二年(1593)豊臣秀吉が亡母の菩提のために建立、更に文久三年(1863)再建されたのが現在の建物である。

金剛峯寺内部でまず私の目を引きつけたものは2015年の高野山開創1200年に向けて開発されたイメージキャラクター兼ゆるキャラの「こうやくん」であった。また、奥之院霊木の高野杉が輪切りにされてその長い樹齢を示す年輪をひけらかせていた。金剛峯寺内部の各間を彩っている襖絵は写真撮影および写生が禁止されているのだが、高野草創という題目の聖地高野を発見した際に先導していた白黒二匹の犬の絵は勝手に写ってしまっていた。

蟠龍庭という石庭としては我国最大の庭に目を奪われていると奥の新別殿でお茶のおもてなしがあるとのことだったのでお茶とお煎餅で軽くくつろがせていただいた。さらに寺内には修行僧の旺盛な食欲に対応するための台所も供えられており、一度に二千人分のご飯が炊ける「二石釜」が農林水産省のお墨付きでももらったかのように崇められているのだった。

弘法大師が受け継がれ展開された真言密教の思想を具現化した聖地である壇上伽藍に登壇させていただいた。ここには高野山のシンボルとして君臨している根本大塔を中心に金堂、東西の各塔、高野山に残る最古の建物である国宝不動堂が配置されており、一山の重要な法会のほとんどはここで行われることになっているのだ。

壇上伽藍を後にして東に向かって歩いていると西部警察でサングラスをかけた渡哲也がショットガンを撃ちまくっている感覚を覚えたのでふと上を見上げると高さ25.1mの大門がそびえていた。金剛力士像に守られた一山の総門である大門は威風堂々とした門構えで、現在のものは宝永二年(1705)に再建されたものである。

1200年の歴史を持つ高野山に残る国宝、重文、県文化財や貴重な資料を保管し、公開する霊宝館が高野の用心棒により警護されていない事実に衝撃を受けたので北条政子の発願により源頼朝菩提のために創建された金剛三昧院で野ざらしになっている国宝多宝塔を見て溜飲を下げておいた。

マサよ、君は高野山では寺が宿坊という宿泊施設になっており、坊主丸儲けの構図が延々と受け継がれていることを知っているか!?

ということで、本日の修行先である福智院に「たのも~」と言ってチェックインするとそこには高野山バス停で一緒になった外人達が集団で宿泊するというインターナショナルな事実に驚愕してしまった。福智院は高野山で唯一天然温泉を備えた宿坊で客室は美しい庭園を囲むように展開されており、内部には骨董鎧兜等がケースに入れられて展示されていた。

宿坊では通常写経体験や朝のお勤めの参加といった催し物が売りになっているのだが、写経体験はワープロがなかったので断念する代わりに部屋を訪れた坊主に朝6時からのお勤めには参加するとコミットさせられると同時に「身体健全」を祈願するお札を¥3,000で売りつけられた。何でも¥3,000分のお札の有効期限は1ヶ月とのことだったのだが、シマンテックのソフトのようにオンラインで更新出来るかどうかは別途サポートセンターに確認すべきだと考えた。

天然温泉露天風呂で体調を整えた後、空海の末弟子であるはずの見習い従業員が「飯でも食うかい」という面持ちで精進料理の膳を運んできた。何故か寺院内には禁酒令は敷かれていなかったのでビールを飲みながら身体健全になるはずの精進料理に舌鼓を打ちながら修行の夜は更けていった。

4月18日(日)

夜間の冷え込みと修行の緊張感で眠れない夜を過ごしたおかげで朝の5時半にはすでに覚醒状態を維持出来ていた。朝のお勤めでは座禅を組まされ、少しでも無駄な動きをすると「色即是空」と言われて板で殴られて痛い思いをするのかと恐れおののいていたのだが、意外にも本堂には椅子が用意され、ストーブには青白い炎が灯っていた。フランスから来ている外人団体客を含めて宿泊客が続々と本堂に集まってくると午前6時より読経が始まった。遅れてきた外人を地べたに座らせる一方で私は椅子に座って40分程度のお勤めを余裕でこなしていた。お勤め終了後に本堂の引き戸が明けられるとそこには福智院の本尊である愛染明王の名を冠した見事な愛染庭が姿を現したのだった。

福智院での修行を終え、無事に解脱を果たすと徒歩で奥之院を目指すことにした。道行く途中で摩尼塔というビルマで亡くなった戦没者のために建てられたお堂を見学することにした。そこでは水島上等兵も爪弾いたであろうビルマの竪琴や地獄図、極楽図といったものが私の目をひいた。

桜と盆栽のような松の木のコントラストが美しい寺院を通り過ぎると奥之院の入り口である一の橋に到着した。そこから先は見事な杉林の中に数多くの歴史上の人物の墓が次々に姿を現すこととなった。武田信玄、伊達政宗、明智光秀らの墓は例外なく苔むした年代物であるのだが、21世紀に建てられたであろうパナソニック墓所の墓石は輝きを放っていたのでとりあえずUSBメモリーを内蔵したお守りを早期にリリースするように祈っておいた。

弘法大師御入定の地奥之院は弘法大師信仰の中心聖地として、壇上伽藍に比す高野山のもう一つの聖域となっている。玉川の清流を背にした水向地蔵に水をかけ、奥之院御廟で線香を手向けながら空海が後悔することなくこの地に今でもおわしますような雰囲気を感じながら高野山から下山することとなったのだった。

このツアーで何回目かの南海急行電車で大阪市内に戻ると弘法大師よりも古い太子である聖徳太子が推古天皇元年(593)に建立した日本仏法最初の官寺である四天王寺に参拝することにした。四天王寺は度重なる災害のため、創建当初の姿はしのぶべきもないが、伽藍配置は飛鳥時代の姿を今に伝えているのだ。

中心伽藍のチケット売り場のおばちゃんが私の財布の中のJAFの会員証を目ざとく見つけたおかげでマサであれば¥300かかるところを私は¥200で拝観券を手に入れることに成功した。中心伽藍で一際目立つ五重宝塔は昭和34年8度目の再建であり、造りは鉄筋コンクリートであることが時代の流れを感じさせる。また、仁王門にはカラフルな金剛力士像が大きな目を見開いて睨みを利かせているのだった。

布袋寅泰よりも明らかに腹の出ている「福をよぶなで布袋尊」を撫で回した後、何故かここでも祀られている弘法大師修行像にお参りし、おびただしい数のそのミニチュアが一体3万円で奉納されるという実態に愕然としてしまった。

四天王寺ではるか昔の飛鳥時代への思いを馳せることが出来たので、寺を出て天王寺方面に向かっているといつの間にか時が経った様子で新世界に紛れ込んでいた。B級テレビ番組の取材を数多く受けていることを心の拠り所にしているたこ焼屋で8個入り¥300のたこ焼を食った勢いで激しい競争の中で一番すいている串揚げ屋に吸い込まれた。その串揚げ屋で「おまかせ10本セット」を¥1,250で発注したのだが、草食系を中心とした最初の5本が配送されてから30分以上経っても残りの5本が来なかったので時間がないから帰ると言ったところ、¥1,250がまるまる返金されることになり、結果的に草食系の5本がただになったのであった!

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥17,850(2食付)

総南海代 ¥3,020

総空港バス代 ¥1,110

総地下鉄代 ¥470

協力 ANA、楽天トラベル、南海電鉄、JAF

FTBソウルフル世界遺産ツアー

1987年7月、私の初めての海外旅行先はニューヨークだったのだが、大韓航空の格安チケットを購入していたため、ソウルにストップオーバーされる憂き目に遭ってしまい、韓国が私の世界進出の第一歩として刻まれてしまっていた。さらに1989年9月、当時面倒を見てやっていた大和証券青森支店の同期の山田君を従えて韓国に乗り込み、東京国際大学を優秀な成績で卒業したはずの奴の英語力を頼りにソウル市内を闊歩していた。

その後21年が過ぎ去った今、韓国は経済でもスポーツでも日本を凌駕する強国に成り上がって来たのでその実態を体感し、日本の未来に活力を取り戻すための魂を得るためにソウルに舞い戻ることに相成ったのだ。

4月3日(土)

午前8時20分発NH1291便は定刻どおり羽田空港を出発した。2時間程度を機上で過ごしながら、トリプルアクセルの基礎点を上げてもらえるようにスケート連盟に抗議したくなるような感覚が強くなってきた頃、キム・ヨナ中心に世の中が回り始めているソウルの上空に差し掛かった。するとほどなくしてハイジャックされたよど号もおどおどしながら着陸した実績のある金浦国際空港に午前11時前に到着したニダ。早速地下鉄に飛び乗り、1時間以上の時間をかけて美しい城郭が残る町である水原(スウォン)に向かった。水原駅前の観光案内所で地図を入手した後、世界遺産に登録されている華城に向かう途中で猪八戒よりも強そうな考える豚に睨まれてしまったニダ。

李朝22代国王の正祖が造営した城郭都市である華城(W1,000)は、正祖が政争の犠牲となって死んだ父の墓を水原に設営したついでに墓所の近くに都を移そうと血迷って建設された代物である。城は優美な姿に造られ、レンガの製法に西洋の手法を取り入れたりもしているのだが、結局遷都は中止されて城郭だけが残り、その後荒廃してしまった形で後輩に受け継がれているのだニダ。

出来上がった城郭は当時の漢城(ソウル)よりも立派で、外敵に対し効率的に攻撃出来る軍事施設を備えているのみならず各所に優雅な外観が取り入れられているニダ。華城は周囲5.7kmの城郭でぐるっと一周すると3時間程かかるのだが、都になり損ねた悲哀を魂に刻み付けるために最高地点の八達山(143m)から下界を見下ろしながらウォーキングをスタートさせた。

水原華城の見所は各所に設けられた門であり、華城四大門の北門で事実上華城の正門である長安門は朝鮮戦争時に門楼が焼失したが完全な形で復元されているニダ。門には鮮やかな装飾が施されており、ユニークな鬼たちが道行く観光客を見下すようにほくそ笑んでいるのだった。尚、歩くのがおっくうな輩のために華城内を周遊する乗り物が竜の先導で運行されているので後期高齢者であっても安心して観光に励むことが出来るのだニダ。

Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればW120,000くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Innホテルを探すために適当な駅で地下鉄を降りてソウル市内を彷徨っているといよいよ道がわからなくなってしまった。場所を特定するためにホテルに電話をかけたのだが今いる地点の場所を説明出来なかったので道行く人に電話を代われと言われてしまった。ということで、とあるローカルコンビニに飛び込み、休憩中のレジで麺をすすっているおばちゃんに麺をすするのを止めさせて電話で話セヨとお願いした。

何とかタクシーを捕まえ、さらにタクシーの運ちゃんにも電話対応セヨと脅迫する代わりにチップをはずんで遂にHoliday Inn Seongbukに辿り着く事に成功したのだが、道行く人のサポート体制がしっかりと整っているのが韓流であることを思い知らされたのだニダ。

4月4日(日)

Holiday Inn Seongbukが運行するシャトルバスで明洞に移動し、地下鉄で昔ながらのソウルの街並みが残る鐘路・仁寺洞(チョンノ・インサドン)に向かった。この地域はソウル中心部の北側に広がっているのだが、2つの世界遺産が君臨しているので満を持して見物させていただくことにした。

マサよ、君は吉本系のギャグを巧みに操る韓国人日本語ガイドの案内で「エンタの神様」が打ち切られた心のすきまを埋めたことがあるのは「私だけ」でしょうかニカ!?

ということで、地下鉄3号線安國駅3番出口から徒歩5分のところに世界遺産に登録されている華麗な離宮である昌徳宮(チャンドックン)がおびただしい数の観光バスを停車させているのでW3,000を支払って10:30からの日本語ガイドツアーに参加することにした。入り口付近にはHISの旗を目印に参集してきた格安であるはずのガイドツアー参加者を中心に数多くの日本人がひしめきあっていた。

すると軽めの防寒ルックに身を包んだ普通のおばさんがマイクを使ったアナウンスで昌徳宮に入場するにあたり、あらかじめチケットを切り離しておくようにと依頼すると同時に「日本ではあり得ないことだと思いますが・・・」とつぶやきやがった。この一言で日本人観光客がこのガイドはただ者ではないという雰囲気を感じ取った後、ついにガイドツアーの火蓋が切って落とされたニダ。

昌徳宮の正門である敦化門をくぐり、20年後のだいたひかるを彷彿とさせる笑いの暴走自転車系ガイドは参加者が集合してくる間に「皆さんが集まるまでイライラしないで待ってください。イライラしてもわたしほどではないでしょうから・・・」と淡々とした口調で冗談を言いやがった。

昌徳宮は李朝3代国王の太宗が1405年に建てた宮殿で始めは離宮として創建されたのだが、後に王たちが居住しながら実質的な法宮の役割を果たした由緒正しい場所である。さらに昌徳宮は人為的な構造に従わず、周辺の地形と調和を成すように建築され、最も韓国的な宮廷という評価を受けているニダ。

だいたひかるの説明によると王の執務室として使われた宣政殿の高級青瓦は韓国の大統領府である青瓦台と同じ瓦が使用されており、マサに見事な光沢を放っていたのだった。また王の日常生活の場であった熙政堂の屋根のオブジェは西遊記を表しており、夏目雅子風の三蔵法師に先導された孫悟空、沙悟浄、猪八戒等が膝まづいている様子が遠巻きに確認出来た。

昌徳宮の観光を終え、エンタの神様が終わってもだいたひかるの将来が安泰であると思われたので、別のテレビ局に移動する勢いでその隣の昌慶宮(チャンギョングン)になだれ込むことにした。道行く途中で冬のソナタの撮影地を示す看板があったのだが、だいたひかるが代打で出演しているわけでもなかったので無視することにした。

昌徳宮の東にある王宮である昌慶宮(W1,000)は李朝4代国王世宗が父親の太宗のために建てた寿慶宮が前身となっており、一時荒廃の憂き目にあったのだが、第9代国王成宗が当時の3人の皇后のために宮殿を建て、以来昌慶宮と呼ばれるようになったのだニダ。

昌慶宮の正門の弘化門は東に面しており、続く正殿の明政殿も正面が東に面しているのが特徴になっているとのことである。何故なら普通王宮の正殿は南を正面に造られているからだ。何はともあれ、広い敷地内には多くの樹木が生い茂り、かつ大温室もそなえているのでのんびりと散歩を決め込むには絶好の場所だと思われた。

昌慶宮をくまなく探索し、道路を跨いでいる橋を渡るといつのまにか宗廟(世界遺産)に紛れ込んでいた。李氏朝鮮歴代国王とその妃の位牌を祀っている宗廟は毎年5月に行われる宗廟祭が有名で王の末裔にあたる全州李氏一族が集まり、雅楽が響く中、厳かな儀式が執り行なわれることになっているニダ。

4月5日(月)

昨晩の宿泊地で白蓮山の麓にあり、豊かな緑に囲まれたリゾートタイプのホテルであるグランドヒルトンからホテルのシャトルバスに乗り、明洞近辺で下車すると都市の緑を保ってきた歴史と文化の香り漂う森である南山公園へ這い上がることにした。南山はソウル中心部に位置したソウルの象徴で、本来の名前は引慶山であったが朝鮮太宗李成桂が1394年に都を開城からソウルに移して来てから南にある山だと言って南山と呼ぶようになったのだ。南山公園内に千円札の帝王である伊藤博文を暗殺し、韓国で英雄扱いされている安重根義士祈念館がリニューアルのため閉館になっているという驚愕の事実に直面してしまったため、安重根の銅像にどうぞ~よろしくという感じで財布に控えていた野口英世の肖像画を見せつけて溜飲を下げることにした。

標高265mの南山の頂上に高さ約230mのソウルタワーが天を突き刺すようにそびえている。ソウルタワーにはケーブルカーと言う名のロープウエイで登ってくることが出来るのだが、私は恒例の徒歩ですでに辿り着いていた。タワー展望デッキの欄干に願い事を書き込んだ無数の南京錠がかけられているのを発見したのだが、私もついでに子供手当の財源を消費税の増税なしに確保セヨと願をかけておいた。

南山公園から下界に降り、しばらく歩いていると21年前に山田君と共に練り歩いた梨泰院(イテウォン)に舞い戻っていた。この場所は米軍基地に近いため、外国人が集まるインターナショナルな町として毒々しい雰囲気を醸しだしていたのだが、今ではすっかり毒抜きされたおとなしい町に成り下がっているようだったので近くの飯屋で海鮮粥とチヂミを朝鮮人参茶で流し込んでとっとと撤収することにした。

南大門市場(ナムデムンシジャン)に行けば何でも揃うと聞いていたので買う気もないのに立ち寄ってみることにしたのだが、あまりの人の多さに買う気がそがれてしまったため、2008年の火事で燃え尽きてしまった南大門に非難することにした。正式名称を崇礼門(スンネムン)という南大門は漢城四大門のひとつであり、ソウルに現存する最古の木造建築で、国宝第一号にも指定されている。しかし今では再建のための覆いで隠されており、その雄姿が回復するのは数年待たなければならないものと思われるニダ。

ソウルを代表する繁華街である明洞(ミョンドン)を歩きながら一向に回復しない日本の景気を嘆いていると何故かIKKOがほめる化粧品の看板に遭遇してしまったのでこいつのせいだと割り切ってソウルの魂に身を浸して見ることにした。歩行者天国になっている明洞エリアは月曜日にもかかわらず若い男女で溢れかえっており、各ショップからは韓国語だけでなく、日本語の呼び込みもこだましていたのだった。

明洞の喧騒を避けるように地下鉄で金浦国際空港に戻り、午後7時30分発NH1294便羽田行きの機上でキム・ヨナはソチオリンピックはそっちのけでプロに転向するはずなので次回のオリンピックでは浅田真央の金メダルは確実だと安心しながら帰路に着いた。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥27,140

総宿泊費 W224,153

総地下鉄代  W6,600

総タクシー代 W10,000

協力

ANA、Priority Club、HiltonHHonors

FTBJホエールウォッチング v.s. 津波警報ツアー in 沖縄

マサよ、君は楽しみにしていたホエールウォッチングツアーがクジラより大きい大地震と津波警報のために中止に追い込まれ、結果的に命拾いした経験があるか!?

2月27日(土)

というわけで、マサに沖縄に向けて出発しようとしていた矢先の午前5時30分頃、沖縄本島近海を震源とする震度5弱の地震が発生しやがり、今回のツアーは中止の憂き目に遭うのもやむを得ないのかと心配していたのだが、何とか那覇へのフライトは通常通りに運行されていたので午前6時40分発のANA993便に乗り込み9時半頃に沖縄への上陸を果たすことに成功した。

空港のニッポンレンタカーで予約していた軽自動車をピックアップしようと待機していた時に係りの若者から軽自動車の返却が遅れているという理由で本当は余っていたプリウスを借りてほしいとの申し出があったので思わずリコールしようとしたのだが、米議会公聴会に切腹する覚悟で望んだはずの豊田章男社長の武士道に敬意を表して借りてやることにした。プリウスはブレーキをかけると充電する仕組みになっているせいか多少ブレーキの反応感覚に違和感を覚えたものの3踏目でコツを会得することに成功し、快適なドライブが開始されることとなった。

前面パネルに表示される充電状況を示すインジケーターを見飽きた頃、海洋博公園にある沖縄美ら海水族館(¥1,800)に到着した。3月も間近となり、美しく咲き乱れ始めた花々を愛でるために花まつりも開催されているため、花マンタや花カメ等の海洋生物をモチーフにしたオブジェが水族館の周辺を彩っていた。

7年前に来た時には魚の数より来館した人間の数の方が多く感じられたために見学した気になれなかったのだが、今回は美ら海水族館の全容をじっくり解明させていただくことにした。まず手始めにタッチプールでナマコやヒトデに触り、藤田まことのご冥福を祈りながらも裏の仕事の人手不足を嘆いた後、サンゴの海、熱帯魚の海を立て続けに観察した。尚、美ら海水族館は世界で初めてマンタの繁殖に成功したことで名を馳せているのだが、親マンタの産後の日だちが悪くて殉職したかどうかは定かではなかった。

美ら海シアターのハイビジョン映像を見ながらうつらうちゅらしていると終了後にスクリーンが開いて目玉となっている「黒潮の海」と命名された巨大水槽が姿を現し、目の前を巨大なジンベエザメが悠然と横切って行きやがったのでギネス認定されているその水槽内をじっくりと観察するために階段を下りて世界最大の水族館観賞用窓の前に立ちはだかることにした。7500立方メートルの水量にもかかわらず20分ですべての海水が入れ替わるという水槽内には3匹のジンベエザメをはじめ多数のマンタや本当はえいひれの原料ではない普通のエイや松方弘樹が吊り上げた物よりもかなり小さいはずのマグロが互いにぶつからないように気を使いながら泳いでいた。

サメ博士の部屋(危険ザメの海)を見ながら青い海の夢から覚めかっていたときに館内放送が流れ、3時からジンベエザメの餌付けを始めるので巨大水槽の前までわざわざ見に来いと言われたので観光客がベストポジションを占拠するために続々と集まってきた。

マサよ、君は水槽前の総立ちの観光客の目の前で立ち泳ぎをしているジンベエザメの迫力に立ち向かったことがあるか!?

ということで、その巨体に似合わずプランクトンやオキアミを主食とするジンベエザメがその巨大な口を開けて海水ごと大量のオキアミを吸い込む姿は圧巻であった。尚、吸収された海水はエラから排水され、水槽内の水としてリサイクルされているので水位が下がってしまう心配はないのである。

美ら海水族館から軽くプリウスを走らせ全長762mの瀬底大橋を渡って周囲約8kmの小さくて美しい島である瀬底島に上陸した。島の西側に白い砂浜が広がる静かな瀬底ビーチがあり、何人かの観光客がきめ細かい砂を持つビーチで戯れていた。海の透明度はきわめて高いのだが、海水浴シーズンにはおびただしい数の観光客が展開するマリンスポーツで汚染されてしまうことが思わず懸念されてしまうのだ。

県庁前のニッポンレンタカーでプリウスをリコールし、本日の宿泊先であり、ANA「ダイヤモンドサービス」クーポン券が余っていたのでマサであれば¥10,000くらいかかるところを私はただで泊まることが出来る沖縄ハーバービューホテルクラウンプラザにチェックインすることにした。するとフロントの係りの者からいきなりファックスを渡され、そこには予約していたホエールウォッチングツアーの中止証明書の文字が躍っており非常にちゅらい思いをさせられることになってしまったのだ!

2月28日(日)

余震に警戒が必要なため、ホエールウォッチングツアーが中止になり、クジラを生け捕りして沖縄海洋博公園に高値で売りつけようとして「イルカがいるのでクジラなんかいるか!」と拒否されるという野望が打ち砕かれてしまったため、仕方なくホテルでフィギュアスケートのエキジビジョンを見ていた。

安藤美姫や浅田真央といった♪みつめあ~うと すな~おに おしゃ~べり でき~な~い♪ような美女が次々と登場する画面に釘付けになっているといきなりチリ地震の影響で日本列島に津波警報が発令されるという衝撃の事実に直面し、浅田真央が大舞台で仮面舞踏会を踊り切ったのは少年隊以来の快挙であったことがすっかり脳裏から消え失せてしまった。

津波警報のおかげで沿岸部に避難勧告が発令されてしまったので仕方なくFTB社訓その1のFlexibilityにより内陸部の観光に戦略を切り替えることにした。ゆいレールに乗り首里駅で下車し、首里城公園を目指して15分程歩き、円覚寺を抜けるとおなじみの首里城の代表的記念写真スポットである守礼門に到着した。首里城周辺には多くの記念写真スポットがあるのだが、至る所で「ハイ シーサー!」、「ハイ ちゅらサン」等の掛け声が飛び交っていた。

首里城正殿に辿り着くまでには歓会門、瑞泉門、広福門、奉神門といったそれぞれ特徴のある数多くの門をくぐらなければならないのだが、ドラえもんのような四次元ポケットがインストールされた門がなかったことが衰退への原因ではなかったのではないかと思われた。

琉球王国の栄華を物語る世界遺産である首里城正殿(¥800)に10年ぶりにお邪魔することと相成った。しかし、沖縄の強い日差しにさらされた外装は定期的なメンテが必要な様子で現在漆の塗り直しが行われていた。正殿内部は相変わらず見事な朱色で彩られており、一部オリジナルの石積みの遺構も確認することが出来るのだ。

首里城北殿は展示、映像、売店、休憩コーナーから形成されているのだが、ここは2000年に開催された沖縄サミットの首脳晩餐会で当時の森喜朗総理がホストを務めたことで有名である。しかしながら、当時沖縄サミットのテーマ曲である「ネバーエンド」をプロデュースした小室哲也も近い将来自分がエンドになるとは思わなかったであろうし、安室奈美恵もTRFのサムとの結婚生活がエンドになるとは思っても見なかったことであろう。

首里城の見学をエンドにして世界遺産、国指定重要文化財である玉陵(たまうどぅん)を¥200の支払いで観覧させていただくことにした。ここは1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改装するために築かれ、第二尚氏王統の陵墓となった歴史的価値の高い場所である。

沖縄の強い日差しの下での観光で喉が渇いたので泡盛の香りに引き寄せられるように瑞泉酒造を訪問することにした。泡盛は、沖縄が東南アジア各国と貿易が盛んだった15世紀頃にタイ・中国福建から入って来たと言われている。泡盛造りはインディカ米(タイ産)を原料にした全麹仕込みで、その際用いる沖縄独特の黒麹で発酵させ蒸留した酒である。瑞泉酒造には居酒屋「ワタミ」を立ち上げた渡邉美樹氏の色紙をはじめ、各界著名人のサインが所狭しと飾られているのだが、試飲に供された古酒がすずめの涙ほどだったので3本入りのミニチュアボトル(¥1,055)を購入してお茶を濁しておいた。

ゆいレールで那覇空港に戻り、無料シャトルバスで沖縄アウトレットモールあしびなーに向かった。自分自身がブランドであるため、滅多にブランド品を買わない私であるが、今回はピンポイントで必要な物品があったのでとあるお店で買い物をしたのだが、そこでは一品購入してさらに二品目を購入すると一品目も二品目も20%OFFになるという荒業が展開されていた。つまり一品目に数万円の高価な物を購入し、二品目に数百円の安価な物を購入するとコストメリットは計り知れないものとなるのである。あしびなーでは買い物疲れの観光客を癒すために地元バンドによる生ライブやフードコートも展開されているのだが、今日は津波警報の影響により通常の22:00より3時間半も早い18:30に閉店となってしまったのだ。

その後のニュースにより沖縄沿岸に到着した大津波は数cmから20cmであったことが確認され、気象庁の警戒に感謝することとなったのだった。

FTBサマリー

総飛行機代 \8,200

総レンタカー代 \5,145

総高速代 \1,000

総ガソリン代 \870

総宿泊費 ただ

総ゆいレール代 ¥490

協力

ANA、ニッポンレンタカー、気象庁