杓子定規の目盛に埋没しているマサが所属する官僚組織の聖地は霞がかって正体が見えない霞ヶ関と言われているが、そもそも聖地とはエルサレムを指すものであり、ここに巡礼に行かなければ聖地を語るに片手落ちになってしまうので、その片手を落とさないためにもエルサレムとその周辺のツアーを敢行しておかなければならなくなったのだ。
2011年12月26日(月)
年末年始の繁忙期にもかかわらずお得な価格で中東へ飛ぶためにわざわざ関西空港に移動して、トルコ航空が運航する23:30発TK47便、A330-200機に颯爽と乗り込んだ。
12月27日(火)
♪飛んで イスタ~ン♪ マサよ!
ということで、11時間余りの時間を機内でつつがなく過ごすとトルコ航空機の巣窟となっているイスタンブールに到着し、そのまま7:40発TK784便に乗り換えてヒットラーにひっとらえられることのなかったユダヤ人によって建国されたイスラエルを目指した。飛行機は雪に覆われたトルコの大地を抜け、青い地中海を横切ると2時間程度のフライトで10時前にテルアビブ郊外のベン・グリオン空港第3ターミナルに到着した。
入国審査官の鋭い突っ込み質問が気になったものの、つつがなくイスラエルへの入国を果たすと空港に付属している鉄道でテルアビブ中央駅に向かった。さらに市バスに乗り換えてテルアビブ北部で下車すると海外格安ホテル予約のAgodaに手配させておいたDizengoff Beach apartmentsに荷物を置き去るとイスラエルで最も洗練されたテルアビブの散策に繰り出すことにした。
地中海に面したテルアビブ港からビーチ沿いに立ち並ぶリゾートホテル群に見下ろされながら南下していると常に情勢が不安定な中東の地にいることを忘れさせてくれるような近代的都市型リゾートの景観が次々に姿を現してきた。
去る2003年に「白い街」と呼ばれるテルアビブの現代建築群が世界遺産に登録されたのだが、街中を歩いてみてもどれが世界遺産に相当する建物なのか中々見分けが付かなかった。しかし実際にはユニークな形をしたビルや存在意義を図り知ることが難しいオブジェも数多く、散策が楽しい場所であるのは確かであった。
近代ビル群を抜けてさらに南下するとテルアビブ市民の台所として生活用品や食料品を明朗会計で提供しているカルメル市場に辿り着いた。今日の宿のDizengoff Beach apartmentsの部屋にはきちんとしたキッチンと調理用具がそろっていたので市場で安価なパン、チーズ、イワシの酢漬けや名物のザクロを買って夕食とし、頭をザクロ状にカチ割られたような時差ぼけ頭痛を感じることなく休ませていただいた。
12月28日(水)
管理人が常駐していないDizengoff Beach apartmentsをチェックアウトするとシェルートと呼ばれる10人乗りのミニバスでセントラルバスステーションに向かった。簡単な荷物検査が実施されているゲートを通って4階のエゲットバス乗り場まで這い上がると窓口でチケットを購入して9:30発エイラット行き394番バスに乗り込んだ。
テルアビブを脱出すると車窓を流れる景色は一気に砂漠と化し、バスは乾きを押さえるように何回かの休憩を経て340kmもの道のりを5時間以上かけてイスラエル最南端の国境の町兼紅海リゾート地であるエイラットのセントラルバスステーションに到着した。
今日の宿はバスステーションから程近いRimonim Central Hotelだったのでサクッとチェックインを決め込んでイスラエル唯一の紅海リゾートの有様を目に焼き付けておくことにした。エジプトとの国境であるターバー国境へ行って珊瑚礁を堪能する時間が無かったので近場のノースビーチ近辺を散策するに留まったのだが、海の透明度は紛れもなくダイバーの憧れの地にふさわしいものであったのだ。
12月29日(木)
早朝ノースビーチを散策してさわやかなエイラットの朝を堪能するとタクシーでヨルダンとの国境であるイツハク・ラビン・ボーダーに向かった。国境越えは思ったより簡単でイスラエル出国税101シェケル(日本円で¥2000程度)をむしり取られただけですんなりとヨルダン側のアカバの町へ侵入することに成功した。
国境から町の中心まではタクシーが唯一の交通手段となっているので車両を物色しようとしていると当然のように客引きとの熾烈な交渉合戦に巻き込まれる運びとなった。元々のプランではアカバから安いバスでペトラに向かうことを目論んでいたのだが、客引きはバスは数時間来ないだのといったヨルダン初心者を錯誤に陥らせる情報を駆使して旅行者を長距離タクシー移動の魔の手に誘い込もうと躍起になっていた。それでもペトラまでの100km以上の移動が50ヨルダンディナール(日本円で\6000程度)と随分割安に思われたのであえて客引きの術中にはまり、黄色のヒュンダイ車で一路ペトラを目指すことと成った。
完璧な英語を操るエイブラハムと名乗るおやじ運転手が駆るタクシーは砂漠を縦断する舗装路を時速110km以上で北上しながらしきりにペトラエリアでのタクシー観光の営業を繰り返し、途中の高台のビューポイントで砂漠の奥に広がる死海の紹介や岩山に隠されたペトラへ続く道等の紹介を織り交ぜながら1時間ちょっとでペトラ観光の拠点となる町であるワディ・ムーサに到着した。
早速今日の宿でお湯が出るのに長時間かかることが判明するHidab Hotelにチェックインすると入場料の高いペトラには向かわずにワディ・ムーサの散策に出ることにした。起伏の激しい町並みには数多くの商店やレストラン、格安スイーツを提供するケーキ屋等で賑わっており、ヨルダン人のほのぼのとした日常生活を垣間見ることが出来たのだった。
12月30日(金)
マサよ、君はペトラ遺跡は1812年にスイス人探検家ブルクハルトにより発見されたものでインディ・ジョーンズやハリソン・フォードによるロケハンの賜物ではないことを知っているか!?
というわけで、Hidab Hotelを出て歩いているとTOYOTAのピックアップトラックが声をかけてきてペトラの入口まで相場の3ディナールで連れて行くというので乗っかることにした。世界遺産であり、中東を代表する遺跡のひとつとして君臨しているペトラの入口は多くの団体観光客と単体観光客でひしめき合っており、彼らの間を縫うようにしてチケット売り場に辿り着くと高値の55ディナールを支払ってTwo Days Visit Ticketを購入した。尚、1日券でも値段は50ディナールとなっている。
ゲートを抜け、遺跡を目指して歩く道すがらでチケットに代金が含まれているから馬に乗って行けという勧誘の声を耳にしているとおせっかいな日本人観光客が「嘘ですよ~、後でお金取られますよ~」と捨て台詞を吐いて去っていったのでうまい話には裏があると思った次第であった。
4本のオベリスクが磨耗しているオベリスクの墓を左手に見ながら進んでいると断崖の間を縫うように路地が形成されているスイーク(Siq)で圧迫感に苛まれることになる。崖の下方には律儀にも岩の水路が続いており、壁面にはいくつかの残像も繁栄当時の面影を残している。
永遠に続くかと思われたスイークの先で岩の裂け目から徐々に姿を現したものはマサにジョージ・ルーカス監督も「あるはずね~!」と叫んでしまいそうな巨大な神殿風の建物であった。アル・ハズネ(Al Khazneh)と名づけられたこの彫り物式建造物は「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」のクライマックスを飾る舞台としてその後のヨルダン政府の観光収入の激増に一役買っている代物である。
宝物庫を意味するアル・ハズネの前に広がる広場には記念撮影用のラクダやロバのタクシーが待機しており、アンティークを取り揃えた土産物屋では招き猫としての本分をわきまえている店番が食べ物を持った観光客の動向を隙無く見守っていた。
広大なペトラ遺跡においてアル・ハズネと双璧をなす見所がはるかかなたの丘の頂上に君臨しているので次々と迫り来るロバや馬の背中乗りツアーの勧誘をかわしながら粛々と急な階段を登って行った。途中ライオン・トリクリニウムという鍵穴状の遺跡をちら見した後、1時間以上の時間をかけて何とか頂上に這い上がることに成功した。
丘の上の岩山に掘り込まれたアッデイルは修道院を意味し、その規模はアル・ハズネを凌ぐほどの巨大さを誇っている。周辺にはTOP OF THE WORLDを標榜するトレイルやビューポイントも開けており、寒風吹きすさぶ中、荒涼とした景色を眺めながらざわめく心の声に耳を傾けることが出来るのだ。
今日は朝から曇り空で午後になるといよいよ雲行きが怪しくなり、昼でも夜ダンのような暗さに包まれてしまうことを恐れて羊の放牧おばさんの奇声を合図に丘の上から撤収することにした。
象の形の岩を過ぎて下界に到着すると小さな博物館の展示物に軽く目をやった後、そぼ降る雨に打たれながら初日のペトラ探訪を強制終了させることにした。
12月31日(土)
昨日の曇天とは打って変わって今日は朝から青空が広がっていたので、早朝より新たな気分でペトラへ乗り込んだ。スイークの前では武装した兵士に扮した2人組みが観光客を出迎え、さらに2匹組の猫もおねだりのハーモニーを奏でていた。
ペトラはバラ色に輝く古代都市との異名を取るが、今日は青空の下でピンク色の岩々が一際輝いて見えるので主に遺跡の中心部を探検することにした。
アル・ハズネからしばらく歩を進めると左手にローマ円形劇場が風化している光景を目にすることが出来る。2~3世紀頃に建てられたこの劇場の収容能力は5000人以上を誇っていたのだが、最盛期のペトラには1~3万人の人口がいたと推定されている。
ローマ劇場を退場して柱廊通りの最後を飾る凱旋門を抜けると左手にアル・ビント城が見えてくる。ファラオの娘の城を意味するこの建物はナバティア人の主神、ズゥ・シャラー神を祭っていた神殿で外壁は幾何学的な模様で装飾されている。
アル・ビント城から高台に登り、乾いた景色を眺めながら歩いていると数多くの横穴状の洞窟に遭遇する。洞窟の中には現役の駐車場として使われている物もあるが、削られた岩の模様はピンクと白をあしらったマーブル状の芸術作品であった。
高台からはペトラの中心部で繁盛している土産物屋や巨大墳墓が連なる王家の墓を見下ろすことが出来たので、風化が進んでいるものの全盛時の威容を十分に維持している多くの墓を前にして人生のはかなさを感じながら下界におり、茶店で茶でもしばいた後、一番立派なアーンの墓に上ってみることにした。
アーンの墓の入口の前ではコンパニオン風の原住民が記念撮影のモデルとして立ちはだかっており、「何か文句でもあんのか? ア~ン!」というような風貌でいちびっていやがった。尚、この墓の名前の由来は上部の壺(アーン)のような飾りから来ており、5世紀のビザンチン時代には教会として使用されていた実績もあるのだ。
2日にわたるペトラ遺跡の調査を終えると送迎車で一時Hidab Hotelに戻り、昨日のうちに予約していたタクシーの到着を待っていた。次の目的地に関してはヨルダンでは首都であるが日本では井村屋の主力饅頭のひとつでしかないアンマンも選択肢の一つとして考えたのだが、35ディナールの支払いでアカバに引き返すことにした。
アカバの中心地に位置するCaptain’s Tourist Hotel Aqabaにチェックインした頃には日も西に傾いていたので夕焼け小焼けを見るために急いでビーチに繰り出すことにした。アカバ湾上空の茜色が徐々に漆黒に変わって行くと対岸のエイラットの町の明かりが鮮やかになり激動の2011年は静かに暮れて行ったのだった。
2012年1月1日(日)
ハッピー ニュー マサよ!
ということで、近所のモスクから鳴り響くアザーンの調べで強制起床させられると正月気分の感じられないアカバの透明なビーチで心を清めることにした。原住民はすでにビーチに繰り出しており、海底を覗けるグラスボートもあちこちでマイルドな営業客引きを始めていた。
ホテルの前で客待ちをしているタクシーを捕まえ、軽い料金交渉の結果、10ディナールでアカバ国境まで移動し、順調にイスラエルへの再入国を果たした。イスラエル側の国境で銃を携えたセキュリティ嬢にタクシーを呼んでいただくと10数分でエイラットの中央バスステーションに到着した。
2011年8月18日に満員のバスに大量の銃弾が打ち込まれ、7人が死亡するほどのテロが起きたことがうそであるかのようにエイラットは日常のリゾート風景を取り戻していた。イスラエル軍に守られながら14:15発のバスに乗り込むと2時間半程でイスラエル最大の死海のほとりのリゾート地であるエン・ボケックに到着した。
スパを併設するOasis Dead SeaホテルのReceptionで長時間待機の憂き目にあいながらもチェックインを果たすと宿泊代に含まれているビュッフェの夕食を馬食して溜飲を下げておいた。すでに夜の帳がおりていたのだが、死海にまつわるエステグッズをたたき売りしているショッピングセンターが多くの美魔女候補で賑わっていたので買う気もないのにひやかしに行くことにした。主なエステグッズを大別すると塩と泥とクリームに分類されるのだが、これらの開発と乱売により死海の水位は年々下がってきているのだ。
1月2日(月)
肌寒い早朝よりバスローブを羽織ってホテルから死海ビーチに足を運んでいる観光客が部屋の窓越しに見受けられたので私もビーチに下りてみることにした。死海というとマイナス400mの世界最低の塩水湖でヘドロのようなドロドロしたものが溜まったマサに死の海の様相を想像していたのだが、目の前にはサファイアブルーの美しい水が静かに湛えられていた。死海に浸した指をしゃぶってみると通常の海水の10倍という塩分濃度33%の洗礼が私の味覚にもたらされた。
真冬の時期にもかかわらず死海くんだりまで来て憧れの浮遊体験をしなければ死海に来た意味がないと言わんばかりに水面に仰向けになっている強者もいたのだが、その浮遊が水質の特徴である塩分含有量によるものなのか個人の脂肪蓄積量の成果であるのか見極めることが困難であった。やはり私の筋肉質の肉体で実証するしかないと思ったものの目の中に塩が入って視界不良になるのを恐れて今回は見合わせることにした。
死海沿岸にある世界遺産としてマサダ国立公園がユダヤ民族結束の象徴として君臨している。ローマ軍に追い詰められ、最後に残ったユダヤ人が籠城した遺跡を是非調査したいと考えていたのだが、やはりマサダに行くべきなのはマサだと思ったのでエン・ボケックからバスに乗って一路エルサレムへ直行することにした。
空気の冷たさを感じるエルサレムのセントラルバスステーションに到着したのは午後2時くらいの時間帯でそこから徒歩でとぼとぼとPark Hotel Jerusalemに移動したもののチェックインは3時からということだったのでバスステーションに内蔵されているショッピングセンターでしばし時間を潰さなければならなかった。
チェックインを果たした頃には冷たい雨が降り始めたので夕刻まで待機を強いられ、街中に出ようと思った時には聖地は闇に包まれていた。米国を凌駕する科学技術を持つイスラエルはその先端技術を宇宙人との交信により仕入れているとの噂を裏づけるいくつかの痕跡を目にしながらエルサレムの中心地に向かった。
堅固な城壁に守られたエルサレム旧市街の内部は迷路のようでスークなど屋根のある細い道が多く、さらに階段を上り下りしなければならないため方向感覚が掴みづらい構造となっている。尚、華やかなスークでは土産物だけでなく食品や日用品も売られているのだが、スパイスのピラミッドや鮮やかなピクルスが道行く人の興味を引き付けていた。
1月3日(火)
宿泊しているホテルからエルサレムの旧市街までは2011年に完成したLRTという路面電車が便利なので今回の巡礼には何度もこの路線を使用させていただいたのだが、停留所に設置されている自動販売機でチケットを購入する際に高確率で機械がトラブる現象が発生している。反応の悪いボタンを何度も押してチケット購入画面に辿り着いたものの紙幣やコインを投入しても認識せずに返ってきたり、機械に十分な釣銭余力を与えるために多くの小額コインを投入すると10枚以上のコインは受け付けないとダダをこねて初期画面に戻ったりすることはザラであった。それでも1回の乗車につき6.6シェケル(日本円で約\140)の支払いでDamascus Gateという停留所まで来るとそこからエルサレム旧市街の8つの城門の中で最も美しいとされるダマスカス門をくぐって巡礼の火蓋が切って落とされた。
イスラエル兵による手荷物検査を切り抜けるとユダヤ人にとって最も大切な祈りの場となっている嘆きの壁(世界遺産)に到着した。壁に生えているのはヒソブの草で夜になると石の間にたまった夜霧が草を伝って落ちてくるのだが、それが涙を流すユダヤ人の姿を映しているようで、いつの頃からか嘆きの壁と呼ばれるようになったという。男性は向かって左側、女性は右側と祈りの場所が分けられており、壁の石の隙間には人々の悲願を記した紙切れが詰められている。
嘆きの壁を前にして財務省主導の増税による財政再建案を嘆いてばかりではいられないので壁の向こうにある神殿の丘(世界遺産)に向かうことにした。神殿の丘は、古くはソロモンの神殿があった場所とされ、ダビデが神の契約の箱を置いた所とも言われているのだが、今ではメッカ、メディナに続くイスラーム第3の聖地となっている。ムスリム以外の人は嘆きの壁の南側からモロッコ門を通って神殿の丘へ上らなければならないのだが、午前9時現在で長蛇の列が出来ていたので最後尾に回りこんだ。ところが、1時間並んで入場門が視界に入ったところで午前10時のタイムリミットとなり、神の後押しによる入場を果たすことは出来なかったのだ。
気を取り直してキリスト教最大の巡礼地である聖墳墓教会(世界遺産)に礼拝に行くことにした。イエスが十字架にかけられ、磔刑に処せられたのはゴルゴタの丘でマサにその丘と考えられている所に建つのが聖墳墓教会である。教会内には多くの巡礼者で溢れているイエスの墓を始め、十字架に釘付けにされた場所や息を引き取った場所、その後に香油を塗られた場所等多くのイエス最後にまつわるゆかりの場所があるのだ。
男色系の人々の心にさざ波を立てるかも知れないエッケ・ホモ教会(NIS9、世界遺産)は新約聖書に登場するイエスの裁判が行われた場所である。「エッケ・ホモ」とは、ラテン語で「視よ、この人なり」の意味でイエスがローマ総督ピラトの裁判を受けたとき、ピラトがイエスを指して言った言葉からきている。教会内部にはローマ時代の遺跡も残されており、エッケ・ホモ・アーチは、135年にローマのハドリヌス帝により、エルサレム征服を記念し建造された3重の凱旋門の一部が残ったものである。
イエスが十字架を背負って歩くゴルゴタへの道はヴィア・ドロローサ(世界遺産)と言われている。全長約1kmにわたるこの道は当時も今も繁華街で巡礼者は十字架を抱えながらイエスの歩いた悲しみの道を辿っているのである。ヴィア・ドロローサは第1留のピラトの官邸からゴルゴタにある聖墳墓教会まで14留あり、それぞれの留(ステーション)でイエスの身に起こった事柄が伝えられているのだ。
エルサレム旧市街の西端に歴史を重ねてきたエルサレムを物語るダビデの塔(NIS30、世界遺産)が歴史博物館として豊富な資料や模型を展示しているので学習させていただくことにした。早速入口を入ってすぐのところのファサエルの塔展望台に登り、間近で見ることが出来なかった神殿の丘に君臨する岩のドームの勇姿を拝むことにした。ムハマンドが昇天したという伝説を持つ岩のドームはエルサレムの象徴的存在であり、ダビデの塔博物館にもその内部の模型が律儀に展示されていたのであった。
緑青をまとったラブリーなダビデ像が見守るダビデの塔は紀元前20年にヘロデ王がエルサレムを防御するために建てられた要塞であるのだが、その名の由来はビザンツ時代に誤って呼ばれたのが始まりという間の抜けた噂が残っている。但し、伝説によると、この塔を建てたのはダビデ王ということになっており、この塔から彼の忠臣ウリヤの妻バテシバの沐浴を盗み見たという現代人も共感出来る彼の性癖も伝えられているのだ。
1月4日(水)
♪あらふぁ~と(あなたと)わたしが 夢の国♪
というわけで、進め!電波少年のアポなし企画で松本明子がイスラエルの紛争地帯であるパレスチナ自治区のガザ地区まで出向いてアラファト議長とてんとう虫のサンバをダジャレた実績は芸能界の金字塔のひとつに数えられている。昨今の情勢によりガザ地区に入るわけにはいかないので同じパレスチナ自治区であり、エルサレムの南10kmに位置するベツレヘムを訪問することにした。
エルサレム旧市街のダマスカス門に程近いスルタン・スライマーン・バスターミナルから21番バスに乗り、出発して程なくするといきなりバスが停止してイスラエル軍による乗客の身分照会が行われた。日本代表の私はパスポートを提示することで事なきを得たのだが、原住民の中には時間をかけてみっちり取り調べられている輩も見受けられた。
バスはイスラエル軍が見守るパレスチナ自治区との境界のチェックポイント(検問所)を抜け、アラブ人の町であるベツレヘムの中心に到着した。厳しいタクシー運転手の勧誘のマークをかわし、明らかにエルサレムとは雰囲気の違う町並みを見ながら歩いていると巨大なクリスマスツリーが飾られているメンジャー広場に到着した。広場に面するビルにはアラファト議長の垂れ幕が掲げられており、その辺にたむろして油を売っているアラブ人に笑みを湛えながらもにらみをきかせていた。
エルサレムではイエスの終焉の歴史を辿ったのだが、ベツレヘムはイエス生誕の地であり、生誕教会が聖地とされているので礼拝させていただくことにした。メンジャー広場に面した謙虚のドアといわれる小さな扉からかがんで教会内に入ると身廊からつり下がっている数多くのランプや床に空けられた穴から覗き見えるコンスタンティヌス帝時代の古いモザイクが目に飛び込んできた。
生誕の場所は教会の地下洞窟とされており、イエスが生まれたとされる場所には銀で☆の形がはめこまれた祭壇がある。☆には「ここにてイエス・キリストは生まれたまえり」とラテン語で刻まれている。
生誕教会の北隣にはフランシスコ派修道院聖カテリーナ教会があり、教会の前には聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳する作業に生涯を捧げたヒエロニムスの像が建てられている。尚、この翻訳の偉業によりキリスト教が世界中に広まったといわれているのだ。
メンジャー広場からアラブ人で賑わうスークを抜け、バス停に帰り着くと丁度客待ちしていたバスに乗り込みベツレヘムを後にした。エルサレムのセントラルバスステーションからベン・グリオン空港行きのバスに乗ったものの、空港近辺でローカルバスに乗り換えなければならなかったので、とあるバス停でバス待ちをしているとS価学会を脱会して夫の信仰するユダヤ教に改宗した米国婦人のSの金満体質に対する愚痴を聞いてやらなければならなかった。
空港からイスラエルを出国する際には細かい質疑応答が繰り返されるため、人によっては5時間もかかり飛行機に乗り遅れるという憂き目にあったという噂を聞いていたので早めに空港に着いたのだが、FTBご一行様のツアーに関しては短時間で切り抜けることが出来、20:00発TK789便イスタンブール行きの出発時間を遅らせることはなかったのだ。一方、23:55出発予定のイスタンブール発関西空港行きTK46便は濃霧で機材の到着が遅れたため、1時間以上の遅れを出しやがったのだ。
1月5日(木)
TK46便は遅れを取り戻すことなく、午後7時頃に関西空港に到着した。さらに関西空港から羽田に向かう飛行機も札幌からの到着予定便が大雪のために欠航になり、その機材を使う予定であった次便の関西→羽田の最終便の乗客を救済するという名目で50分も遅れてしまった。そのアナウンスがこだましたのが搭乗予定時間の直前で、地上係員に詰め寄る乗客に悟りを開くことなく流れ解散となった。
FTBサマリー
総飛行機代 ¥130,450
総宿泊費 US$301、¥24,161、JD85 (JD1 = 約¥108)
総鉄道代 NIS14.5 (NIS1 = 約¥21)
総バス代 NIS214.5
総LRT代 NIS66
総イスラエルタクシー代 NIS66
総ヨルダンタクシー代 JD112
総イスラエル出国料 NIS101
総ヨルダン出国料 JD8
協力 トルコ航空、Agoda