聖地エルサレムとインディFTBツアー

杓子定規の目盛に埋没しているマサが所属する官僚組織の聖地は霞がかって正体が見えない霞ヶ関と言われているが、そもそも聖地とはエルサレムを指すものであり、ここに巡礼に行かなければ聖地を語るに片手落ちになってしまうので、その片手を落とさないためにもエルサレムとその周辺のツアーを敢行しておかなければならなくなったのだ。

2011年12月26日(月)

年末年始の繁忙期にもかかわらずお得な価格で中東へ飛ぶためにわざわざ関西空港に移動して、トルコ航空が運航する23:30発TK47便、A330-200機に颯爽と乗り込んだ。

12月27日(火)

♪飛んで イスタ~ン♪ マサよ!

ということで、11時間余りの時間を機内でつつがなく過ごすとトルコ航空機の巣窟となっているイスタンブールに到着し、そのまま7:40発TK784便に乗り換えてヒットラーにひっとらえられることのなかったユダヤ人によって建国されたイスラエルを目指した。飛行機は雪に覆われたトルコの大地を抜け、青い地中海を横切ると2時間程度のフライトで10時前にテルアビブ郊外のベン・グリオン空港第3ターミナルに到着した。

入国審査官の鋭い突っ込み質問が気になったものの、つつがなくイスラエルへの入国を果たすと空港に付属している鉄道でテルアビブ中央駅に向かった。さらに市バスに乗り換えてテルアビブ北部で下車すると海外格安ホテル予約のAgodaに手配させておいたDizengoff Beach apartmentsに荷物を置き去るとイスラエルで最も洗練されたテルアビブの散策に繰り出すことにした。

地中海に面したテルアビブ港からビーチ沿いに立ち並ぶリゾートホテル群に見下ろされながら南下していると常に情勢が不安定な中東の地にいることを忘れさせてくれるような近代的都市型リゾートの景観が次々に姿を現してきた。

去る2003年に「白い街」と呼ばれるテルアビブの現代建築群が世界遺産に登録されたのだが、街中を歩いてみてもどれが世界遺産に相当する建物なのか中々見分けが付かなかった。しかし実際にはユニークな形をしたビルや存在意義を図り知ることが難しいオブジェも数多く、散策が楽しい場所であるのは確かであった。

近代ビル群を抜けてさらに南下するとテルアビブ市民の台所として生活用品や食料品を明朗会計で提供しているカルメル市場に辿り着いた。今日の宿のDizengoff Beach apartmentsの部屋にはきちんとしたキッチンと調理用具がそろっていたので市場で安価なパン、チーズ、イワシの酢漬けや名物のザクロを買って夕食とし、頭をザクロ状にカチ割られたような時差ぼけ頭痛を感じることなく休ませていただいた。

12月28日(水)

管理人が常駐していないDizengoff Beach apartmentsをチェックアウトするとシェルートと呼ばれる10人乗りのミニバスでセントラルバスステーションに向かった。簡単な荷物検査が実施されているゲートを通って4階のエゲットバス乗り場まで這い上がると窓口でチケットを購入して9:30発エイラット行き394番バスに乗り込んだ。

テルアビブを脱出すると車窓を流れる景色は一気に砂漠と化し、バスは乾きを押さえるように何回かの休憩を経て340kmもの道のりを5時間以上かけてイスラエル最南端の国境の町兼紅海リゾート地であるエイラットのセントラルバスステーションに到着した。

今日の宿はバスステーションから程近いRimonim Central Hotelだったのでサクッとチェックインを決め込んでイスラエル唯一の紅海リゾートの有様を目に焼き付けておくことにした。エジプトとの国境であるターバー国境へ行って珊瑚礁を堪能する時間が無かったので近場のノースビーチ近辺を散策するに留まったのだが、海の透明度は紛れもなくダイバーの憧れの地にふさわしいものであったのだ。

12月29日(木)

早朝ノースビーチを散策してさわやかなエイラットの朝を堪能するとタクシーでヨルダンとの国境であるイツハク・ラビン・ボーダーに向かった。国境越えは思ったより簡単でイスラエル出国税101シェケル(日本円で¥2000程度)をむしり取られただけですんなりとヨルダン側のアカバの町へ侵入することに成功した。

国境から町の中心まではタクシーが唯一の交通手段となっているので車両を物色しようとしていると当然のように客引きとの熾烈な交渉合戦に巻き込まれる運びとなった。元々のプランではアカバから安いバスでペトラに向かうことを目論んでいたのだが、客引きはバスは数時間来ないだのといったヨルダン初心者を錯誤に陥らせる情報を駆使して旅行者を長距離タクシー移動の魔の手に誘い込もうと躍起になっていた。それでもペトラまでの100km以上の移動が50ヨルダンディナール(日本円で\6000程度)と随分割安に思われたのであえて客引きの術中にはまり、黄色のヒュンダイ車で一路ペトラを目指すことと成った。

完璧な英語を操るエイブラハムと名乗るおやじ運転手が駆るタクシーは砂漠を縦断する舗装路を時速110km以上で北上しながらしきりにペトラエリアでのタクシー観光の営業を繰り返し、途中の高台のビューポイントで砂漠の奥に広がる死海の紹介や岩山に隠されたペトラへ続く道等の紹介を織り交ぜながら1時間ちょっとでペトラ観光の拠点となる町であるワディ・ムーサに到着した。

早速今日の宿でお湯が出るのに長時間かかることが判明するHidab Hotelにチェックインすると入場料の高いペトラには向かわずにワディ・ムーサの散策に出ることにした。起伏の激しい町並みには数多くの商店やレストラン、格安スイーツを提供するケーキ屋等で賑わっており、ヨルダン人のほのぼのとした日常生活を垣間見ることが出来たのだった。

12月30日(金)

マサよ、君はペトラ遺跡は1812年にスイス人探検家ブルクハルトにより発見されたものでインディ・ジョーンズやハリソン・フォードによるロケハンの賜物ではないことを知っているか!?

というわけで、Hidab Hotelを出て歩いているとTOYOTAのピックアップトラックが声をかけてきてペトラの入口まで相場の3ディナールで連れて行くというので乗っかることにした。世界遺産であり、中東を代表する遺跡のひとつとして君臨しているペトラの入口は多くの団体観光客と単体観光客でひしめき合っており、彼らの間を縫うようにしてチケット売り場に辿り着くと高値の55ディナールを支払ってTwo Days Visit Ticketを購入した。尚、1日券でも値段は50ディナールとなっている。

ゲートを抜け、遺跡を目指して歩く道すがらでチケットに代金が含まれているから馬に乗って行けという勧誘の声を耳にしているとおせっかいな日本人観光客が「嘘ですよ~、後でお金取られますよ~」と捨て台詞を吐いて去っていったのでうまい話には裏があると思った次第であった。

4本のオベリスクが磨耗しているオベリスクの墓を左手に見ながら進んでいると断崖の間を縫うように路地が形成されているスイーク(Siq)で圧迫感に苛まれることになる。崖の下方には律儀にも岩の水路が続いており、壁面にはいくつかの残像も繁栄当時の面影を残している。

永遠に続くかと思われたスイークの先で岩の裂け目から徐々に姿を現したものはマサにジョージ・ルーカス監督も「あるはずね~!」と叫んでしまいそうな巨大な神殿風の建物であった。アル・ハズネ(Al Khazneh)と名づけられたこの彫り物式建造物は「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」のクライマックスを飾る舞台としてその後のヨルダン政府の観光収入の激増に一役買っている代物である。

宝物庫を意味するアル・ハズネの前に広がる広場には記念撮影用のラクダやロバのタクシーが待機しており、アンティークを取り揃えた土産物屋では招き猫としての本分をわきまえている店番が食べ物を持った観光客の動向を隙無く見守っていた。

広大なペトラ遺跡においてアル・ハズネと双璧をなす見所がはるかかなたの丘の頂上に君臨しているので次々と迫り来るロバや馬の背中乗りツアーの勧誘をかわしながら粛々と急な階段を登って行った。途中ライオン・トリクリニウムという鍵穴状の遺跡をちら見した後、1時間以上の時間をかけて何とか頂上に這い上がることに成功した。

丘の上の岩山に掘り込まれたアッデイルは修道院を意味し、その規模はアル・ハズネを凌ぐほどの巨大さを誇っている。周辺にはTOP OF THE WORLDを標榜するトレイルやビューポイントも開けており、寒風吹きすさぶ中、荒涼とした景色を眺めながらざわめく心の声に耳を傾けることが出来るのだ。

今日は朝から曇り空で午後になるといよいよ雲行きが怪しくなり、昼でも夜ダンのような暗さに包まれてしまうことを恐れて羊の放牧おばさんの奇声を合図に丘の上から撤収することにした。

象の形の岩を過ぎて下界に到着すると小さな博物館の展示物に軽く目をやった後、そぼ降る雨に打たれながら初日のペトラ探訪を強制終了させることにした。

12月31日(土)

昨日の曇天とは打って変わって今日は朝から青空が広がっていたので、早朝より新たな気分でペトラへ乗り込んだ。スイークの前では武装した兵士に扮した2人組みが観光客を出迎え、さらに2匹組の猫もおねだりのハーモニーを奏でていた。

ペトラはバラ色に輝く古代都市との異名を取るが、今日は青空の下でピンク色の岩々が一際輝いて見えるので主に遺跡の中心部を探検することにした。

アル・ハズネからしばらく歩を進めると左手にローマ円形劇場が風化している光景を目にすることが出来る。2~3世紀頃に建てられたこの劇場の収容能力は5000人以上を誇っていたのだが、最盛期のペトラには1~3万人の人口がいたと推定されている。

ローマ劇場を退場して柱廊通りの最後を飾る凱旋門を抜けると左手にアル・ビント城が見えてくる。ファラオの娘の城を意味するこの建物はナバティア人の主神、ズゥ・シャラー神を祭っていた神殿で外壁は幾何学的な模様で装飾されている。

アル・ビント城から高台に登り、乾いた景色を眺めながら歩いていると数多くの横穴状の洞窟に遭遇する。洞窟の中には現役の駐車場として使われている物もあるが、削られた岩の模様はピンクと白をあしらったマーブル状の芸術作品であった。

高台からはペトラの中心部で繁盛している土産物屋や巨大墳墓が連なる王家の墓を見下ろすことが出来たので、風化が進んでいるものの全盛時の威容を十分に維持している多くの墓を前にして人生のはかなさを感じながら下界におり、茶店で茶でもしばいた後、一番立派なアーンの墓に上ってみることにした。

アーンの墓の入口の前ではコンパニオン風の原住民が記念撮影のモデルとして立ちはだかっており、「何か文句でもあんのか? ア~ン!」というような風貌でいちびっていやがった。尚、この墓の名前の由来は上部の壺(アーン)のような飾りから来ており、5世紀のビザンチン時代には教会として使用されていた実績もあるのだ。

2日にわたるペトラ遺跡の調査を終えると送迎車で一時Hidab Hotelに戻り、昨日のうちに予約していたタクシーの到着を待っていた。次の目的地に関してはヨルダンでは首都であるが日本では井村屋の主力饅頭のひとつでしかないアンマンも選択肢の一つとして考えたのだが、35ディナールの支払いでアカバに引き返すことにした。

アカバの中心地に位置するCaptain’s Tourist Hotel Aqabaにチェックインした頃には日も西に傾いていたので夕焼け小焼けを見るために急いでビーチに繰り出すことにした。アカバ湾上空の茜色が徐々に漆黒に変わって行くと対岸のエイラットの町の明かりが鮮やかになり激動の2011年は静かに暮れて行ったのだった。

2012年1月1日(日)

ハッピー ニュー マサよ!

ということで、近所のモスクから鳴り響くアザーンの調べで強制起床させられると正月気分の感じられないアカバの透明なビーチで心を清めることにした。原住民はすでにビーチに繰り出しており、海底を覗けるグラスボートもあちこちでマイルドな営業客引きを始めていた。

ホテルの前で客待ちをしているタクシーを捕まえ、軽い料金交渉の結果、10ディナールでアカバ国境まで移動し、順調にイスラエルへの再入国を果たした。イスラエル側の国境で銃を携えたセキュリティ嬢にタクシーを呼んでいただくと10数分でエイラットの中央バスステーションに到着した。

2011年8月18日に満員のバスに大量の銃弾が打ち込まれ、7人が死亡するほどのテロが起きたことがうそであるかのようにエイラットは日常のリゾート風景を取り戻していた。イスラエル軍に守られながら14:15発のバスに乗り込むと2時間半程でイスラエル最大の死海のほとりのリゾート地であるエン・ボケックに到着した。

スパを併設するOasis Dead SeaホテルのReceptionで長時間待機の憂き目にあいながらもチェックインを果たすと宿泊代に含まれているビュッフェの夕食を馬食して溜飲を下げておいた。すでに夜の帳がおりていたのだが、死海にまつわるエステグッズをたたき売りしているショッピングセンターが多くの美魔女候補で賑わっていたので買う気もないのにひやかしに行くことにした。主なエステグッズを大別すると塩と泥とクリームに分類されるのだが、これらの開発と乱売により死海の水位は年々下がってきているのだ。

1月2日(月)

肌寒い早朝よりバスローブを羽織ってホテルから死海ビーチに足を運んでいる観光客が部屋の窓越しに見受けられたので私もビーチに下りてみることにした。死海というとマイナス400mの世界最低の塩水湖でヘドロのようなドロドロしたものが溜まったマサに死の海の様相を想像していたのだが、目の前にはサファイアブルーの美しい水が静かに湛えられていた。死海に浸した指をしゃぶってみると通常の海水の10倍という塩分濃度33%の洗礼が私の味覚にもたらされた。

真冬の時期にもかかわらず死海くんだりまで来て憧れの浮遊体験をしなければ死海に来た意味がないと言わんばかりに水面に仰向けになっている強者もいたのだが、その浮遊が水質の特徴である塩分含有量によるものなのか個人の脂肪蓄積量の成果であるのか見極めることが困難であった。やはり私の筋肉質の肉体で実証するしかないと思ったものの目の中に塩が入って視界不良になるのを恐れて今回は見合わせることにした。

死海沿岸にある世界遺産としてマサダ国立公園がユダヤ民族結束の象徴として君臨している。ローマ軍に追い詰められ、最後に残ったユダヤ人が籠城した遺跡を是非調査したいと考えていたのだが、やはりマサダに行くべきなのはマサだと思ったのでエン・ボケックからバスに乗って一路エルサレムへ直行することにした。

空気の冷たさを感じるエルサレムのセントラルバスステーションに到着したのは午後2時くらいの時間帯でそこから徒歩でとぼとぼとPark Hotel Jerusalemに移動したもののチェックインは3時からということだったのでバスステーションに内蔵されているショッピングセンターでしばし時間を潰さなければならなかった。

チェックインを果たした頃には冷たい雨が降り始めたので夕刻まで待機を強いられ、街中に出ようと思った時には聖地は闇に包まれていた。米国を凌駕する科学技術を持つイスラエルはその先端技術を宇宙人との交信により仕入れているとの噂を裏づけるいくつかの痕跡を目にしながらエルサレムの中心地に向かった。

堅固な城壁に守られたエルサレム旧市街の内部は迷路のようでスークなど屋根のある細い道が多く、さらに階段を上り下りしなければならないため方向感覚が掴みづらい構造となっている。尚、華やかなスークでは土産物だけでなく食品や日用品も売られているのだが、スパイスのピラミッドや鮮やかなピクルスが道行く人の興味を引き付けていた。

1月3日(火)

宿泊しているホテルからエルサレムの旧市街までは2011年に完成したLRTという路面電車が便利なので今回の巡礼には何度もこの路線を使用させていただいたのだが、停留所に設置されている自動販売機でチケットを購入する際に高確率で機械がトラブる現象が発生している。反応の悪いボタンを何度も押してチケット購入画面に辿り着いたものの紙幣やコインを投入しても認識せずに返ってきたり、機械に十分な釣銭余力を与えるために多くの小額コインを投入すると10枚以上のコインは受け付けないとダダをこねて初期画面に戻ったりすることはザラであった。それでも1回の乗車につき6.6シェケル(日本円で約\140)の支払いでDamascus Gateという停留所まで来るとそこからエルサレム旧市街の8つの城門の中で最も美しいとされるダマスカス門をくぐって巡礼の火蓋が切って落とされた。

イスラエル兵による手荷物検査を切り抜けるとユダヤ人にとって最も大切な祈りの場となっている嘆きの壁(世界遺産)に到着した。壁に生えているのはヒソブの草で夜になると石の間にたまった夜霧が草を伝って落ちてくるのだが、それが涙を流すユダヤ人の姿を映しているようで、いつの頃からか嘆きの壁と呼ばれるようになったという。男性は向かって左側、女性は右側と祈りの場所が分けられており、壁の石の隙間には人々の悲願を記した紙切れが詰められている。

嘆きの壁を前にして財務省主導の増税による財政再建案を嘆いてばかりではいられないので壁の向こうにある神殿の丘(世界遺産)に向かうことにした。神殿の丘は、古くはソロモンの神殿があった場所とされ、ダビデが神の契約の箱を置いた所とも言われているのだが、今ではメッカ、メディナに続くイスラーム第3の聖地となっている。ムスリム以外の人は嘆きの壁の南側からモロッコ門を通って神殿の丘へ上らなければならないのだが、午前9時現在で長蛇の列が出来ていたので最後尾に回りこんだ。ところが、1時間並んで入場門が視界に入ったところで午前10時のタイムリミットとなり、神の後押しによる入場を果たすことは出来なかったのだ。

気を取り直してキリスト教最大の巡礼地である聖墳墓教会(世界遺産)に礼拝に行くことにした。イエスが十字架にかけられ、磔刑に処せられたのはゴルゴタの丘でマサにその丘と考えられている所に建つのが聖墳墓教会である。教会内には多くの巡礼者で溢れているイエスの墓を始め、十字架に釘付けにされた場所や息を引き取った場所、その後に香油を塗られた場所等多くのイエス最後にまつわるゆかりの場所があるのだ。

男色系の人々の心にさざ波を立てるかも知れないエッケ・ホモ教会(NIS9、世界遺産)は新約聖書に登場するイエスの裁判が行われた場所である。「エッケ・ホモ」とは、ラテン語で「視よ、この人なり」の意味でイエスがローマ総督ピラトの裁判を受けたとき、ピラトがイエスを指して言った言葉からきている。教会内部にはローマ時代の遺跡も残されており、エッケ・ホモ・アーチは、135年にローマのハドリヌス帝により、エルサレム征服を記念し建造された3重の凱旋門の一部が残ったものである。

イエスが十字架を背負って歩くゴルゴタへの道はヴィア・ドロローサ(世界遺産)と言われている。全長約1kmにわたるこの道は当時も今も繁華街で巡礼者は十字架を抱えながらイエスの歩いた悲しみの道を辿っているのである。ヴィア・ドロローサは第1留のピラトの官邸からゴルゴタにある聖墳墓教会まで14留あり、それぞれの留(ステーション)でイエスの身に起こった事柄が伝えられているのだ。

エルサレム旧市街の西端に歴史を重ねてきたエルサレムを物語るダビデの塔(NIS30、世界遺産)が歴史博物館として豊富な資料や模型を展示しているので学習させていただくことにした。早速入口を入ってすぐのところのファサエルの塔展望台に登り、間近で見ることが出来なかった神殿の丘に君臨する岩のドームの勇姿を拝むことにした。ムハマンドが昇天したという伝説を持つ岩のドームはエルサレムの象徴的存在であり、ダビデの塔博物館にもその内部の模型が律儀に展示されていたのであった。

緑青をまとったラブリーなダビデ像が見守るダビデの塔は紀元前20年にヘロデ王がエルサレムを防御するために建てられた要塞であるのだが、その名の由来はビザンツ時代に誤って呼ばれたのが始まりという間の抜けた噂が残っている。但し、伝説によると、この塔を建てたのはダビデ王ということになっており、この塔から彼の忠臣ウリヤの妻バテシバの沐浴を盗み見たという現代人も共感出来る彼の性癖も伝えられているのだ。

1月4日(水)

♪あらふぁ~と(あなたと)わたしが 夢の国♪

というわけで、進め!電波少年のアポなし企画で松本明子がイスラエルの紛争地帯であるパレスチナ自治区のガザ地区まで出向いてアラファト議長とてんとう虫のサンバをダジャレた実績は芸能界の金字塔のひとつに数えられている。昨今の情勢によりガザ地区に入るわけにはいかないので同じパレスチナ自治区であり、エルサレムの南10kmに位置するベツレヘムを訪問することにした。

エルサレム旧市街のダマスカス門に程近いスルタン・スライマーン・バスターミナルから21番バスに乗り、出発して程なくするといきなりバスが停止してイスラエル軍による乗客の身分照会が行われた。日本代表の私はパスポートを提示することで事なきを得たのだが、原住民の中には時間をかけてみっちり取り調べられている輩も見受けられた。

バスはイスラエル軍が見守るパレスチナ自治区との境界のチェックポイント(検問所)を抜け、アラブ人の町であるベツレヘムの中心に到着した。厳しいタクシー運転手の勧誘のマークをかわし、明らかにエルサレムとは雰囲気の違う町並みを見ながら歩いていると巨大なクリスマスツリーが飾られているメンジャー広場に到着した。広場に面するビルにはアラファト議長の垂れ幕が掲げられており、その辺にたむろして油を売っているアラブ人に笑みを湛えながらもにらみをきかせていた。

エルサレムではイエスの終焉の歴史を辿ったのだが、ベツレヘムはイエス生誕の地であり、生誕教会が聖地とされているので礼拝させていただくことにした。メンジャー広場に面した謙虚のドアといわれる小さな扉からかがんで教会内に入ると身廊からつり下がっている数多くのランプや床に空けられた穴から覗き見えるコンスタンティヌス帝時代の古いモザイクが目に飛び込んできた。

生誕の場所は教会の地下洞窟とされており、イエスが生まれたとされる場所には銀で☆の形がはめこまれた祭壇がある。☆には「ここにてイエス・キリストは生まれたまえり」とラテン語で刻まれている。

生誕教会の北隣にはフランシスコ派修道院聖カテリーナ教会があり、教会の前には聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳する作業に生涯を捧げたヒエロニムスの像が建てられている。尚、この翻訳の偉業によりキリスト教が世界中に広まったといわれているのだ。

メンジャー広場からアラブ人で賑わうスークを抜け、バス停に帰り着くと丁度客待ちしていたバスに乗り込みベツレヘムを後にした。エルサレムのセントラルバスステーションからベン・グリオン空港行きのバスに乗ったものの、空港近辺でローカルバスに乗り換えなければならなかったので、とあるバス停でバス待ちをしているとS価学会を脱会して夫の信仰するユダヤ教に改宗した米国婦人のSの金満体質に対する愚痴を聞いてやらなければならなかった。

空港からイスラエルを出国する際には細かい質疑応答が繰り返されるため、人によっては5時間もかかり飛行機に乗り遅れるという憂き目にあったという噂を聞いていたので早めに空港に着いたのだが、FTBご一行様のツアーに関しては短時間で切り抜けることが出来、20:00発TK789便イスタンブール行きの出発時間を遅らせることはなかったのだ。一方、23:55出発予定のイスタンブール発関西空港行きTK46便は濃霧で機材の到着が遅れたため、1時間以上の遅れを出しやがったのだ。

1月5日(木)

TK46便は遅れを取り戻すことなく、午後7時頃に関西空港に到着した。さらに関西空港から羽田に向かう飛行機も札幌からの到着予定便が大雪のために欠航になり、その機材を使う予定であった次便の関西→羽田の最終便の乗客を救済するという名目で50分も遅れてしまった。そのアナウンスがこだましたのが搭乗予定時間の直前で、地上係員に詰め寄る乗客に悟りを開くことなく流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥130,450

総宿泊費 US$301、¥24,161、JD85 (JD1 = 約¥108)

総鉄道代 NIS14.5 (NIS1 = 約¥21)

総バス代 NIS214.5

総LRT代 NIS66

総イスラエルタクシー代 NIS66

総ヨルダンタクシー代 JD112

総イスラエル出国料 NIS101

総ヨルダン出国料 JD8

協力 トルコ航空、Agoda

地中海の要衝マルタ・シチリア島ツアー

山椒は小粒でも ピリりと辛いと言うが、「地中海のヘソ」と言われても「へ~そ~」という印象しか持たれないであろうマルタ共和国はミニ国家ながらも地中海の要衝として歴史上重要な役割を担ってきた。今回は「地中海文明のゆりかご」とも称されるマルタの歴史を解明するために、マルタ島まで足を運んだわけだが、その目と鼻の先にイタリアのシチリア島が控えていたのでついでに寄ってみることにしたのだ。

2011年11月21日(月)

12時20分発NH209便成田発フランクフルト行きは定刻どおりに出発し、B777-300ER新型機のエコノミークラスでありながら10型シートスクリーンから繰り出される機内エンターテイメントプログラムで邦画「ロック わんこの島」を見ていると三宅島はマサにわんこの島であるという現実を脳内に刷り込まれた。午後16時30分頃フランクフルト国際空港に到着すると空港内にこれ見よがしに展示されているベンツを横目にAIR MALTAのチェックインカウンターに向かった。

WEBで有利な価格で購入した19時15分発KM329便は多少の遅れを生じさせたものの午後10時頃にはマルタ国際空港に到着することが出来たので早速市バスに乗り込み、マルタ共和国の首都ヴァレッタに向かった。ヴァレッタのバスターミナルには銅像を抱えた円形の噴水オブジェが不気味に輝いていたのだが、あたりにはほとんど人が歩いていなかった。

楽天トラベルに予約させておいたホテル・オズボーンはヴァレッタの中心街に位置しているのですぐに見つかると高をくくっていたのだが、現地に入るとシティ・ゲートの国家的大規模なリニューアル工事による通行制限等のためにマルタにいながらにして丸太で頭を勝ち割られて脳内GPSを破壊されたかのように方向感覚を失ってしまっていた。ヴァレッタの街は隆起した半島の丘の上に形成された堅固な要塞のようになっており、坂や路地が多いので感覚を立て直すのにかなりの時間を要してしまった。

何とか道行く人にホテルの位置を聞いておずおずとホテル・オズボーンへの道を辿り、チェックインを果たした頃にはすでに日付が変わってしまっていたのだった。

11月22日(火)

世界遺産に登録されているヴァレッタ旧市街をくまなく見て回るために朝食もそこそこにホテルを飛び出すとまずは高台からの眺望がすばらしいアッパー・パラッカ・ガーデンに向かった。ここは堡塁の上に海に突き出るような地形のためグランド・ハーバーや対岸の聖アンジェロ砦等の城塞を一望することが出来、団体観光客の絶好の記念撮影ポイントになっているのだ。

高台から下りて岬沿いを歩いていると海岸からせり上がった城壁の堅牢さに圧倒され、これぞマサに難攻不落のお手本ともいうべき造りであると思い知らされることになる。

狭い路地を通って再び高台に這い上がり、ヴァレッタの中央部に君臨し、現在は大統領府と議会が置かれている為に衛兵に警護されている騎士団長の宮殿(EUR10)を見学することにした。

ところで、騎士団とはキリスト教を尊び、勇気、礼儀、名誉を重んじた騎士達の集団でかの有名な十字軍の遠征を支えていたエリート軍団である。聖ヨハネ騎士団は聖地エルサレムに1113年に創立され、その後ヨーロッパ各地を転戦し、1530年神聖ローマ皇帝カール5世により、ここマルタに本拠地が設置される運びとなった。そのため聖ヨハネ騎士団はマルタ騎士団とも呼ばれているのである。その騎士団長の居住地であった宮殿の中は色大理石が床を覆い、その脇には重厚な甲冑が配置されていた。

数々の騎士たちの戦争グッズを展示してある兵器庫には人間の自由な動きを阻害するはずの重々しい甲冑や様々な銃剣類、大砲等が並べられており、騎士の装備には金がかかるため、富裕層の子弟にのみ騎士としての鍛錬が果たされることが容易に想像出来るのである。

マルタ騎士団の守護聖人ヨハネに捧げられた聖ヨハネ大聖堂(EUR6)が騎士たちの心のよりどころとして遠く祖国を離れた騎士たちを癒していたはずなので豪華絢爛な内部を覗いて見ることにした。色大理石の床の絵のデザインは9頭身のキュートなガイコツから聖ヨハネの生涯まで様々で天井画の油絵と併せて実に個性豊かであった。また、一見簡素に見える外観だが、中央のバルコニーは新たな騎士団長が選出された際に騎士たちに挨拶をかましていた由緒正しい場所となっているのだ。

マルタを語る上で騎士団のはるか昔の有史以前に幅を利かせていた巨石神殿をないがしろにするわけにはいかないので、その歴史理解の一助とするために国立考古学博物館(EUR5)を見物することにした。ここには先史時代の巨石神殿をはじめとする遺跡からの発掘品が展示されているのだが、最大の見所は「マルタのヴィーナス」や「眠れる美女」といった小さな石像である。いずれの像の体型もふくよかなことからマルタの女としての価値はマルサの女を演じた宮本信子よりも森三中の方が高かったという伊丹十三監督も痛み入る事実を突きつけられたのだった。

マルタの首都ヴァレッタの見所をひととおりカバーすることが出来たので、市バスでマルタ本島のほぼ中央部に平野を見下ろすようにたたずむ静かな町を訪れることにした。「静寂の町」との異名を取るイムディーナは、16世紀にはヴァレッタに先立って首都が置かれていた町で「オールドシティ」と称され、今でも往時の威光をここかしこに見ることが出来る。

町への入口である堂々たるメインゲートを抜けると城壁に囲まれた町はまるで時間が止まったかのような静けさを湛えていた。町中のあちこちに見られる細く狭い路地は人通りが少ないながらもきれいに整備され、日が暮れると町の赴きが一層濃くなってくる感覚を覚えた。セントポール広場の一角に建つ大聖堂は見事にライトアップされ、暗闇に浮かぶバロック様式のファサードはサイレントシティにほのかな彩を添えていたのだった。

11月23日(水)

マサよ、君はマフィアの語源はシチリア島に存在する犯罪者による秘密結社の通称であることを知っているか!?

ということで、早朝ホテル・オズボーンをチェックアウトするとマルタ⇔イタリアの船便を運行するVIRTU FERRIESのターミナルに徒歩で向かった。あらかじめWEBで購入していたチケットをプリントアウトしていたのでそれと引き換えに搭乗券を入手して巨大なカーフェリーに乗り込むと定刻6時45分に蛍の光を奏でることなく静かに出港となった。

別名シシリーとも言われるシチリア島はイタリア半島の長靴のつま先で蹴り上げられているように浮かんでいる地中海最大の三角形の島でそのシンボルマークは3本の足(3つの岬)を持つメドゥーサである。

マフィアの財源にはなっていないと信じる船内のスロットマシンで散財することなく1時間半ほどの地中海のクルーズを満喫すると8時半前にはシチリア島最南部のポッツァーロ港に着岸した。フェリーから次々に吐き出される大きなトラックやトレーラーを見ているとマルタ島とシチリア島は物流面で密接な繋がりを持っていることを窺い知ることが出来る。

フェリー乗り場からポッツァーロのセントロまで徒歩で1時間程度かけて移動し、長距離バスを捕まえてかつて大ギリシアの首都であった美しき古代都市に向かった。「シラクーサとパンタリカのネクロポリ」として世界文化遺産に登録されているシラクーサは至る所に古代遺跡が息づいている町である。早速ギリシア、ローマ時代の発掘地域であるネアポリ考古学公園(EUR10)に侵入し、古代文明に思いを馳せて見ることにした。

ネアポリ考古学公園の入口近くに天国の石切り場があり、その中で細長い耳の形をした「ディオニュシオスの耳」がぽっかりと聞き耳を立てていたので中に入ることにした。高さ36m、奥行きの深い洞窟の内部は真っ暗ではあるが音響効果がすばらしく、「こだまでしょうか?」と言うと「いいえ、誰でも」と響いてきそうな神秘性さえ漂っていた。

石切り場で耳の穴をかっぽじいた後、ゆるやかな坂を登るとテメニテの丘にたたずむシチリアで一番大きなギリシア劇場が目に飛び込んできた。これは紀元前3世紀、ヒエロン2世時代に着工された劇場で1万5千人の収容能力を誇っている。今でも古代劇の上演が2年に一度のペースで行われており、観客は隣の石切り場で切り出したはずの固い石のシートに腰掛けさせられて意志の強さを問われることになるのである。さらに考古学公園の敷地内には古代ローマの円形闘技場が廃れているのだが、これは3~4世紀帝政時代の物で剣闘士たちの登場口となった通路もかろうじて残っているのである。

シラクーサから再び長距離バスに乗ると1時間程度でシチリア州第2の都市であるカターニアに到着した。バスはセントロから離れた中央駅近くに停車したのでそこから海沿いに沿って歩いているとあらぬ場所に紛れ込んでしまっていた。とりあえずそこ行くおじさんにランドマークであるはずのドゥオーモの位置を訪ねると親切な彼はドゥオーモのドームが目視出来る場所までわざわざ案内してくれたのだが、「グラッツェ」と謝意を述べることが出来なかったので「ど~も」とのたまってお茶を濁しておいた。

「ノート渓谷の後期バロック都市」の一部として世界文化遺産に登録されているカターニアの中心はドゥオーモ広場であるが、着いた頃には日没を迎えていたので近くのInformationにおじゃまして本日宿泊予定で楽天トラベルに予約させておいた安ホテルヴィラメーターの場所を確認させていただくことにした。ホテルはカターニアのシティマップがカバーするエリアの範囲外だったので936番のバスを紹介されたのだが、待てど暮らせど来なかったので仕方なくはるばる中央駅まで移動して、かろうじて1台のタクシーが客待ちしているところを捕まえて言い値のEUR25を支払い、メーターを稼動せずにホテルヴィラメーターまで引き上げていった。

11月24日(木)

高台にあるホテルヴィラメーターをチェックアウトし、カターニアの目抜き通りであるエトネア通りを延々1時間かけて南に下り、ようやくドゥオーモ広場の象の噴水まで辿り着いた。象の上にはオベリスクが乗っかっており、そいつはわざわざエジプトから運ばれてきた代物なのである。

ドゥオーモ広場の裏手のバスターミナルから長距離バスに乗り、車窓から標高3323mを誇るヨーロッパ最大の活火山エトナ山の勇姿をうっすらと眺めながらカターニアを後にすると2時間半以上の時間をかけてシチリア州最大の都市パレルモに到着したのは正午前の時間帯であった。

パレルモの見所の多くはは旧市街に集中しているので、早速バスの到着したパレルモ中央駅から北北西に伸びるローマ通りを北上し、パレルモのへそと言われるクアットロ・カンティに向かった。四つ辻(十字路)の意を持つクアットロ・カンティは広場に面した4つの建物の角を均等に弧を描くように丸く切り取り、それら壁面に3段づつの装飾が施されている代物である。一番上の装飾は町の守護聖女、2番目は歴代スペイン総督、一番下は四季を表現した噴水になっているのだが、その噴水に付属している人面像はいささか苦悶の表情を浮かべているのが興味深かった。

クアットロ・カンティのすぐそばにあるプレトーリア広場の噴水を取り巻いている裸体彫刻で気分を高揚させるとイスラム人支配を今に伝えるサン・カタルド教会(EUR2)に参拝することにした。この教会は小ぶりではあるが、ノルマン時代(1160年頃)に建設された3つの赤い丸屋根がキュートで内部は非常にシンプルな分、好感が持てるものだった。

パレルモの代表的建造物としてカテドラーレが様々な建築様式を融合してかたどられているので拝見させていただくことにした。この大聖堂は1184年の創建当時はシチリア・ノルマン様式であったのだが、14、15世紀を中心とした度重なる増改築の果てにイスラム様式の濃い折衷様式に生まれ変わったのた。内部には皇帝と王の霊廟(EUR1.5)となっているエリアがあり、天蓋の下には重厚な石棺が並べられていた。

1583年に建造されたヌオーヴァ門を見上げて今ではシチリア州議会堂になっているノルマン王宮を取り巻いている民衆の多さに圧倒されながらもパレルモ観光のハイライトと称されるパラティーナ礼拝堂(EUR7)に辿り着いた。

ノルマン王宮の2階に設けられたアラブ・ノルマン様式のパラティーナ礼拝堂の入口は艶やかなモザイク画で彩られ、中に入るとさらなるモザイク画の宇宙空間が展開されていた。内部は大理石のアーチに無数のモザイク画がちりばめられ、これらはコンスタンティノープル、ラヴェンナと並びキリスト教美術の最高傑作に称されているのだ。

黄金のモザイク画に圧倒されながらパラティーナ礼拝堂から退堂すると赤い丸屋根が印象的な12世紀アラブ・ノルマン様式のサン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会を遠巻きに眺めた後、イエズス会がパレルモで最初に建立したジェズ教会を訪問した。1564年の創建で比較的地味な外観ながら、内部は豪華絢爛で華麗に広がっている天井のフラスコ画が目を引いた。

今日宿泊している☆☆☆☆ホテルのクリスタル・パレスの近くにシチリア料理の店があったのでそこで夕食をとることにした。ビールを頼んだつもりなのに何故かダイエットコーラが出てきたのでついでに痩身効果がありそうなタコのサラダと名物カジキの焼き物を発注した。タコのサラダは蛸足の先っちょの方を切り集めてオリーブオイルと香草をなすりつけただけなのにEUR12もしやがり、カジキはサイコロ状の切り身にされ、変な衣で覆われながら玉ねぎと香草とともに串刺しになった変わり果てた姿をさらしていたのだ。

11月25日(金)

パレルモ中央駅から列車に乗り、シチリア島の最大の見所であるアグリジェントに向かった。途中の駅でバスへの振替輸送になったものの午前11時前には「アグリジェントの考古学地域」として世界文化遺産に登録されている壮大な神殿群の残る町に到着した。

中央駅から市バスに乗り、神殿の谷と呼ばれる地域で下車し、入口で各種神殿に入るコンボチケット(EUR13.5)を購入すると壮大なギリシア神殿遺跡のアドベンチャーをスタートさせた。

最初にギリシア神殿建築の最高傑作と持ち上げられているコンコルディア神殿を見学させていただいた。この神殿は紀元前450~440年頃のものなのだが、6世紀末の初期キリスト教時代に聖ペテロ・パウロ教会として転用されていたため比較的高い保存状態がキープされてきたのだ。

神殿の谷の東端、標高120mの丘の頂点で、上半身のない翼の折れたエンジェルの奥に位置するのはジュノーネ・ラチニア神殿である。コンコルディア神殿と同時代の物であるが、紀元前406年にカルタゴの進攻にあって炎上し、中世の地震で全壊した暗い過去を持っているのだが、♪も~し、お~れが ヒ~ロ~ だぁ~たら♪というような気概を持つ輩の活躍でここまでの復興を果たした様子が見て取れる。

さらにエルコレ(ヘラクレス)神殿、ディオスクロイ神殿を立て続けに見学したのだが、何故か神殿の谷で一番印象に残った物は局部をダイナミックに表現した銅像群と股間を占拠した人面局部そのものであったのだった。

神殿の谷から一時的に撤収し、紀元前4世紀にさかのぼる町の遺構であるヘレニズム期・ローマ期地区で区画整理された古代都市の様相を確認した後、州立考古学博物館を覗いてみることにした。

約20室もの部屋に展示された発掘品の中で最も目を引く代物は地下と1階を貫いた中央展示室に立て掛けられている高さ7.75mの人像柱テラモーネである。こいつはジョーヴェ・オリンピコ神殿の柱として組み込まれていた実績があり、その様子は神殿の模型により再現されている。さらに古代の人物や神様が描かれた壺が数多く展示されているのだが、その図柄から神殿の谷に放置されている銅像の役割が多少なりとも理解出来たように思えたのだった。

夕暮れ時に神殿の谷に戻り、ジョーヴェ・オリンピコ神殿を見学した。神殿には人像柱テラモーネがあたかも腹筋運動を始めるかのように横たわっているのだが、博物館の展示品が本物でこちらは体幹が弱いはずのレプリカになっているので立ち上がることが出来ないのもうなずけるのだ。

神殿の谷が闇に包まれると壮大な遺跡群の建造物が守護神の銅像とともに不気味に浮かび上がってきた。神秘的な光景を目の前にしてしばし息を呑んだ後、ホラー映画の殿堂「サスペリア」がイタリアで製作されたことを不意に思い出し、「決してひとりでは見ないでください」との啓示を受けたような感覚を覚えたので市バスに乗ってホテル・デッラ・ヴァーレにエスケープしなければならなかった。

11月26日(土)

阪急交通社が提供する「南イタリア、シチリア島の旅 10日間」のツアー客に包囲されながらもそそくさと朝食とチェックアウトを済ませると長距離バスターミナルからバスに乗り、カターニアに向かうことにした。カターニアに到着して埠頭を見物していると巨大なカーフェリーが停泊していたのだが、これはナポリを夜に出て翌朝カターニアに到着するお得な宿泊施設兼移動手段であると思われた。

相変わらずエトナ火山には雲がかかっていて眺望が悪かったので、ドゥオーモ広場に移動し、大聖堂内部を除いてお茶を濁しておいた。ドゥオーモ広場の脇から活気のある大きな声が聞こえてきたので近づいてみるとそこには新鮮な魚が直売されている青空市場が開かれていた。

今日の重要なミッションは無事にポッツァーロの港に辿り着き、夜のフェリーでマルタに帰り着くことだったので中央駅でイタリア鉄道のチケットを購入し、午後12時45分発の列車で肩の荷を下ろすかのようにカターニアを後にした。

1時間程で到着したシラクーサで途中下車すると考古学地区とは反対方向にあるオルティージャ島に向かった。シチリア本島から橋を渡り、小さなオルティージャ島に上陸を果たすと紀元前7世紀末に一世を風靡したはずのシチリア最古のアポロ神殿が廃墟のいでたちで出迎えてくれた。

やわらかな日差しが降り注ぐ中、狭い島内を散策しているとパピルスが生い茂る小ぶりのアレトゥーザの泉に辿り着いた。泉の周辺は住民と観光客と住猫の憩いの場所になっており、人々は海沿いの洒落たカフェで遅いランチを召し上がっていた。

抜けるような青い海が広がる沿岸部では釣りで生活の足しを得ようとする者や何らかのメディアのイケメンモデルとそのイケメンぶりをファインダーから覗いている写真家との爽快な駆け引きの模様を眺めることに成功した。

アルキメデスを輩出したシラクーサに敬意を表して歩きで島内巡りをしているとアルキメデス広場の奥にシラクーサのシンボルとされるドゥオーモが構えていたので臆せずに中に入って見た。かつてこの場所には紀元前5世紀にアテネ神殿が建てられていたということだが、その証として神殿の円柱がドゥオーモの身廊にどっしりと組み込まれていた。

日暮れ時を迎えたドゥオーモ広場に妖精のように金色に着飾ったハイカラな物乞いが佇んでいたので思わず手持ちの小銭を提供してその有様をフラッシュメモリーに刻み付けると眩しい夕日に照らされたシラクーサを後にして、列車でポッツァーロに移動した。

今回のマフィアの起源シチリア島ツアーではジローラモのようなチョイ悪おやじにはちょいちょい出くわしたのだが、マーロン・ブランドのような極悪のコルリオーネには出会うことが出来なかったので、日本ではゴッド・ファーザーのテーマが暴走バイクのクラクションに採用されている事実を伝えることが出来なかった。いずれにしても午後9時発のフェリーに乗り込むと10時半には平和であるはずのマルタ島に帰着することが出来た。ところで、フェリーで思い出したのだが、ギリシアショックが飛び火して不景気真っ盛りのイタリアではフェラーリどころか乱暴な運転をするランボルギーニさえ目にすることが出来なかったのだ。

11月27日(日)

昨日深夜に到着した☆☆ホテルであるカスティーユの朝食会場は屋上のレストランだったので、そこからヴァレッタの遠景を眺めると早朝に行われていたMALTA CHALLENGE MARATHONのゴールテープを切った勢いで町に飛び出していった。

市バスの一日乗車券を購入するとマルタ本島最南部の青の洞門に向かった。この場所は陸続きの高い岩礁が年月をかけて波と風でえぐられて自然の大きなアーチを描き、真っ青な海の色とコラボレーションした名勝である。

洞門巡りの小型遊覧船(EUR7)が観光客を満載して行き来していたので乗船してみることにした。波はそんなに高くないのであろうが、船体が小さいために大きな揺れを体感し、長時間乗っていると船酔いは免れないと思いながらも洞門の美しい光景に引き付けられていった。浅瀬で海底に白砂が体積しているエリアは太陽光に照らされてマサにエメラルド化しており、岩礁の波に洗われている箇所は何故か紫式部状に変色していたのだ。

20分程度の短い航海を終え、遊泳おやじに見送られながら下船し、マルタ島に残る注目の神殿群を見学すべく高台に向かって歩いていると船着場の入り江が遠巻きに心細く眺められた。

マルタには先史時代に築かれた巨石神殿が数多く存在し、数十トンに及ぶ巨石がいかにして運ばれ、組み上げられたのかは今もって大きな謎となっている。「謎解きはディナーのあとで」と悠長に構えていると入場できなくなってしまうので取り急ぎ世界文化遺産に登録されているハジャー・イム神殿とイムナイドラ神殿(EUR9)の歴史をなぞってみることにした。神殿自体を直視する前に切符売り場の近くのミニ展示室にある模型を見たり、説明を読み込んだりしたのだが、どうやら春秋分の日に海から昇る太陽の光が神殿の入口から差し込んでくる構造になっているようだ。ちなみに森三中のような下半身の石像は実は性別の判別がついてなく、力士説さえ取り沙汰されている様子であった。

まず最初にハジャー・イム神殿の調査から始めることにした。遠目からは東京ドームに見える遺跡の有様は歴史的価値の高い神殿を酸性雨等から守るためにドーム型の白布傘で覆いながら古代の無防備と現代の知恵を融合させているという調査結果が得られた。この神殿には重さ20トンもの巨石が組み込まれており、人海戦術で巨石を運んで立ち上げた様子が紹介されているのだが、「クレーンを貸してくれ~ん」と暴言を吐く者は一人もいなかったことであろう。

ハジャー・イム神殿を退殿して海に向かって続くかのような一本道を進むと番犬を養っているイムナイドラ神殿に辿り着いた。紀元前3000年~2400年に建てられたこの神殿の一部の石積みはオリジナルであるが、その他のものは後世に再現されたものとなっている。しかし、世界中の巨石ファンにとって胸が躍るような魅力的な遺跡であることは間違いないであろう。

市バスで一旦ヴァレッタのバスターミナルに戻って体勢を立て直すと別経路の市バスでマルタ本島最大の漁村であるマルサシュロックに向かった。ちなみに、マルサというと東京国税局査察部を思い浮かべる輩が多いと思うが、マルタ語では「港」になっているのだ。マルサシュロックを一躍歴史上の表舞台に引き上げた出来事は1989年のマルタ会談で、マルサシュロック沖のソ連客船マクシム・ゴーリキー内でアメリカのパパ・ブッシュ大統領とソ連のゴルビー書記長の間で米ソ冷戦の終結が宣言されたことである。

マルサシュロックを散策していると極彩色の船を多く見かけるのだが、大小にかかわらずどの船にも前面に一対の目が描かれている。これは悪天候や不漁から漁師を守る魔よけと海のお守りを意味しているとのことだ。

海に面した通りには魚料理を売り物にするレストランが所狭しと立ち並び、多くの観光客の憩いの場所となっていた。とりあえず私も一軒のレストランのオープンテラスに腰掛けて適当な魚介類の入ったスパゲッティを発注するとムール貝、カキ、エビ、イカ、ハマグリ等を満載した豪華な物が出てきたので、このような状況で必ず出没する物欲猫に見守られながら完食させていただいた。

マルサシュロックでは海沿いの市場も大きな見所で大量の魚介類の迫力に圧倒されながら歩いていると漁師の銅像に遭遇したのだが、魚のおこぼれに預かろうとする猫も漁村生活には欠かせない風物詩として堂々と銅像化されているのだ。

市バスの一日乗車券をフル活用すべく、ヴァレッタに戻ってさらに別のバスでヴァレッタの対岸に位置するマルタ最大のリゾート地であるセント・ジュリアンに移動した。高級リゾートホテルが並び立つ中で楽天トラベルに予約させておいた☆☆☆☆☆ホテルでありながらシーズンオフ価格の\6,100で宿泊することが出来るル・メリディアンにチェックインするとしばし沿岸部を散策した後、ホテル近辺のレストランで夕食をいただくことにした。

シチリア島の痛メシ屋ではコペルトという席料の名目で付属のパンにも金を取るシステムが横行しているのだが、マルタのこのレストランではパンは無料で提供され、濃厚なバターとともにサケのほぐし身をオリーブオイルで練りまわしたサーモンディップもパンのお供としてテーブルを賑わしてくれたのだ。発注品はマルタ名物であるはずの魚介汁とエビのソースが濃厚なスパゲッティだったのだが、完食後はディナーのあとで謎解きをする気力をなくすほど骨抜きにされていたのだった。

11月28日(月)

早朝からそぞろ歩きの楽しいセント・ジュリアンの沿岸部を犬の糞を避けながら散策しているとCAT VILLAGEという猫の下宿のようなファシリティで寝起きを共にし、いい気になっている猫の集団に遭遇した。さらにこの漁港の生活を表現する銅像にも猫の出演が確認された。三宅島はロックの活躍によりわんこの島としての名声を築き上げたのだが、マルタはにゃんこの島としての地位をマサに不動のものとしているかのようであった。

開放的雰囲気の溢れるセント・ジュリアンを後にすると、バスでヴァレッタを経由してマルタ最大のタルシーン神殿(EUR6)を目指した。ヴァレッタの北東に位置するこの神殿は紀元前3000~2500年に建設されたもので20世紀前半に発掘されるまで地中に埋まっていたため保存状態が良く、らせん模様や動物の行進、羊飼いなどのレリーフなどが鮮明に残っている。神殿内には各種の発掘品が見られるのだが、いずれもコピーでオリジナルは先に訪れたヴァレッタの考古学博物館で手厚く保管されているのだ。

タルシーン神殿から北に進むとヴァレッタの対岸に3つの岬が突き出て格好の天然要塞となっている地域に到着した。この地域にある3つの町が総称されてスリー・シティーズと呼ばれているのだが、ここからマリーナ越しにヴァレッタ要塞を眺めながら騎士団に別れを告げ、マルタ国際空港への帰路に着いた。

午後3時20分発KM328便は遅れて出発し、さらに濃霧のためフランクフルトへの到着が遅くなってしまったが、乗り継ぎの午後8時45分発NH210便には余裕で間に合う時間だったのでラウンジでソーセージを食べずにシャンパンだけを飲ませていただいた。

11月29日(火)

午後4時過ぎに成田空港に到着すると、このフライトで10年連続ダイヤモンド会員の地位を防衛することになる上客の私をマークしていたチーフパーサーから来年は新型機B787ドリームライナーで羽田-フランクフルト便が就航することになるのでどうしても乗ってくれと懇願されたのでその愛社精神に免じて検討しておくことにした。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥61,840、AIR MALTA = EUR208.62

総宿泊費 ¥36,900(すべて朝食付き)

総フェリー代 EUR58

総バス代 EUR49.9

総イタリア鉄道代 EUR16.8

総タクシー代 EUR25

協力 ANA、AIR MALTA、VIRTU FERRIES LTD、楽天トラベル

EU諸国でい~湯だなツアー in ブダペスト

♪バ バンバ バン バン バン♪ 番場蛮を輩出した侍ジャイアンツがあっさりとクライマックスシリーズで敗退し、秋の夜長をむなしく過ごさなければならなくなった今日この頃であるが、冷え込みが厳しくなるにつれて湯煙が恋しくなるのが人情というものである。温泉は日本人の専売特許と思われがちであるが、遠くヨーロッパにも世界に冠たる温泉国が存在しているので今回はその実力を実感するために中欧まで羽を伸ばすことと相成ったのだ。

2011年10月29日(土)

♪いつか 忘れていぃったぁ~♪

ということで、正午発トルコ航空TK0051便、B777-300ER機で11時間以上かけて成田から♪飛んで イスタ~ンブ~ル~♪に到着したのは午後6時を過ぎた時間で、あたりの様相は徐々に♪夜だけぇ~のぉ~ パラダイスぅ♪状態を醸し出し始めていた頃であった。乗り継ぎ便の出発時刻が翌日の午前中だったため、トルコ航空がトランジットホテルとしてアレンジした☆☆☆☆☆ホテルであるWOW Istanbulにチェックインすると♪ど~せ フェアリ~テール♪と思いながらも外出せずにゆっくり休ませていただいた。

10月30日(日)

庄野真代が夢に出てくることも無く平和な朝を迎えたので、朝食後シャトルバスでイスタンブール空港に向かった。イスタンブール空港のスターアライアンスのラウンジは専任シェフ達も躍動するほど豪華絢爛でその雰囲気に押されるように朝からシャンパンを軽飲してしまった。

午前10時35分発TK1035便は定刻どおり出発し、1時間40分程度のフライトでハンガリーの首都ブダペストのフェリヘジ国際空港に到着したのは午前11時半を回った頃であった。空港のターミナル2から市バスが出ていたので乗り込むと終点のKobanya-Kispestという地下鉄駅で下車した。そこから青白いしなびた地下鉄に乗り換えて国際列車の発着が多い東駅に辿り着いた。とりあえず整理券で管理されている整然とした切符売り場で隣国スロヴァキアの首都であるブラチスラヴァ行きの2等チケットを購入し、列車の出発まで時間があったので軽く周囲を散策することにした。

東駅の構内には怪しい輩をチェックしている警察官やチェスで雌雄を決しようとしている勝負師、旅支度を整えている紳士等が息づいていたのだが、路面電車が走る駅の外を歩くと何となく旧東欧の物寂しい雰囲気が感じられた。

15時25分発車予定であったEuro Cityの列車は30分程度の遅れを出して16時前に出発となった。車窓から流れる葉っぱの色づいた秋の寒村地帯の景色を眺めているといつしか日も暮れてブラチスラヴァ中央駅に到着したのは18時半を過ぎた時間帯であった。今日宿泊予定のDoubleTree by Hilton Hotel Bratislavaは駅から2km程離れていたので街の様子を眺めながら歩いていると地下道には芸術性のある落書きもいくつか見受けられたのだった。

10月31日(月)

1993年にちょこざいなチェコとの連邦制を解消してひとつの主権国家となったスロヴァキアの首都はここブラチスラヴァであり、その見所は狭い旧市街に固まっているので早速徒歩で向かうことにした。

旧市街はもともと城壁に囲まれていたのだが、それらはとっとと取り払われ、今ではミハエル門だけがその片鱗を残す建造物として旧市街随一の存在感を示している。この門は14世紀にゴシック様式で建てられたもので、16世紀には現在見られるようなルネッサンス様式に改築されている。

ハロウィンの余韻を残す店舗群を過ぎると旧市街の中心フラヴネー広場が開けてきた。広場はゴシックとバロックの両様式が見られる旧市庁舎等の歴史的建造物に囲まれており、こぢんまりとしているものの独特な美しさを醸し出している。

日本大使館や日本料理屋も進出しているフラヴネー広場の警備は公務員ではなく主に銅像が担当していると見受けられ、小国でありながらもユーロに参加し、ギリシャの支援に対して物申す姿勢を示しているのはこのような経費削減が徹底されているからではないかと思われた。

ドナウ川を跨ぐ近代的な橋のたもとに聖マルティン教会(EUR2)がその高さ85mの尖塔をそびえさせながら自己主張していたので思わず入ってしまった。その主張の根拠は、1536年当時のハンガリー帝国の首都であったブダがオスマン朝に攻め落とされた際に、ここブラチスラヴァに首都が移転され、1563年~1830年もの長きにわたって聖マルティン教会で戴冠式が行われており、かのハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアも照れもせずにここで即位した実績を持っているからだ。

聖マルティン教会を脱会して廃墟のような建物を横目に坂を登っていくと四隅に突き出た塔がユニークで「ひっくり返したテーブル」とも揶揄されているブラチスラヴァ城に辿り着いた。そもそもこの城は12世紀にロマネスク様式で建てられた石造りの城であったのだが、何度かの改築の果てに1811年には火災で荒廃し、第2次大戦後に復旧された代物である。尚、18世紀には女帝マリア・テレジアの居住地にもなっていたのである。

ブラスチラヴァ城の丘から下りる頃には街は賑わいを見せており、観光用のレトロなミニバスが主な見所を練り走り、オープンテラスのテーブルでは観光客がランチを召し上がっていた。

旧市街のはずれにある大統領官邸が律儀な衛兵に警護されている様子を確認すると中央駅まで舞い戻り、13時54分発の列車でハンガリーへの帰路に着いた。17時頃にブダペストに到着すると楽天トラベルに予約させておいたMercure Budapest Koronaに速やかにチェックインして、とりあえずタオルと海水パンツを引っ掴んで美しくライトアップされた夜の街に繰り出していった。

緑色に輝く自由橋を渡り、ドナウ川の西海岸に渡るとアールヌーヴォー様式の重厚な建物が暗闇に浮かんでいた。早速そのホテル・ゲッレールト内部に侵入し、温泉カウンターで17時以降は割引となるチケットをHUF3000で購入するとICチップ入りのリストバンドを握り締めて男性用の浴場に向かった。

浴場の入口ゲートにICチップをかざすと赤色のランプが緑色に変わり、腰位置のバーを押回転させると晴れて脱衣所への入所が果たされた。脱衣所は2フロアから成るキャビン式になっていたのだが、どのキャビン使えばよいのかわからなかったのでしばらく1階と2階をうろうろしながら使用法を模索していた。それでもらちが明かなかったのでゲート入口近くに陣取っている関係者らしいおっさんに尋ねたのだが、奴は私が出場したいと勘違いしたのか、出場口の改札機に私のリストバンドをかざし、さらにそのリストバンドを回収箱に放り込んでしまった。「おっさん、まだ温泉に入ってもないのに何すんねん!?」とクレームを付けたところ奴は新しいチケットを買えばええやんと言いやがった。このおっさんには仁義というものが通じないと思ったのでInformationデスクのおばちゃんに駄々をこねてマスターIDカードで再入場を果たすと何とかブダペストの顔とも言うべきゲッレールト温泉にありつくことが出来たのだ。

ゲッレールト温泉のお湯は無色無臭で36℃と38℃のふたつの浴槽で構成されていた。尚、当地の温泉はゲイの社交場的な側面もあり、浴場の中央にひとりでいることはパートナー募集を意味すると物の本に書かれてあったので、端っこのポジションを死守しながらゲイのマークをかわしていたのだった。

11月1日(火)

美しく青きドナウ川が流れるブダペストは川を挟んで西側をブダ、東側をペストと呼び、それぞれ街の景観が異なっている。今日はペスト地区を中心に観光予定が組まれたため、Mercureホテルをチェックアウトすると昨日の温泉でのえ~湯の気分そのままに英雄広場を目指した。

ハンガリー建国1000年祭の事業の一環として1896年に造られた英雄広場は緑青をまとった英雄達の銅像に取り囲まれ、その中心の墓石のような物体の左右には衛兵がにらみを利かせ、11時になると律儀に衛兵交代の儀式さえ行われたのだ。

英雄広場の裏手には広大な市民公園が広がり、各種博物館の重厚な建造物群の前では人々が写真撮影に興じていた。さらにその近辺には1913年に造られた大温泉センターであるセーチェニ温泉や動物園、サーカス場等もあり大規模な市民の憩いの場になっているのだ。

ブダペストの目抜き通りであるアンドラーシ通りで最も存在感のある建造物は1884年に完成した国立オペラ劇場である。今回は劇場見学ツアーに参加する機会を逸したため、劇場の両脇にシーサーのようにひっそりと佇むスフィンクス系の巨乳石像を凝視して立ち去ることとなった。

アンドラーシ通りから高さ96m、直径22mの巨大なドームが目に飛び込んでくるブダペスト最大の聖堂は1851年の着工から半世紀をかけて1905年に完成した聖イシュトヴァーン大聖堂である。尚、イシュトヴァーンは初代ハンガリーの国王でキリスト教を積極的に推進し、死後聖人に列せられた程の大人物として崇められているのだ。

聖イシュトヴァーン大聖堂の参道からドナウ河岸に出てしばらく歩いていると川べりに金属で固められた多くの靴が並んでいる光景に遭遇した。これは第2次大戦中に撃たれてドナウ川に落ちて亡くなってしまった犠牲者を偲ぶメモリアルとなっているのだった。

ドナウ川の東河岸に建つネオゴシック様式の巨大な建造物は1885年~1902年の間に建立されたブダペストのシンボルとも言うべき国会議事堂である。ルネッサンス風のドームの高さは聖イシュトヴァーン大聖堂と同じ96mだが、その豪華絢爛さにおいては他の箱物を圧倒するほどの存在感を示している。

ドナウ川の中洲の島であるマルギット島に繋がるマルギット橋を歩いて対岸に渡り、西日に輝く国会議事堂の勇姿を眺めているとマサにここはブタに真珠ではなく、ドナウの真珠と形容するに値するブダペストの光景であると思われた。

早朝からかなりの距離を歩き回り、疲労もピークに達していたのだが、夕暮れ時に最後の力を振り絞って標高60mの王宮の丘に這い登って行った。中世からの城壁に囲まれた王宮の丘は長さ1.5kmの平坦な岩山で発掘途中の遺跡や中世の雰囲気漂う建造物で溢れている。「ドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト」という登録名で世界遺産として君臨しているこの丘の上にHiltonBudapestが陣取っているのでここに投宿し、今夜は夜景見物に出かける余力もなくダウンしてしまった。

11月2日(水)

早朝より王宮の丘の南半分を散策し、ドナウ川の対岸から朝もやの中を朝日が上がっていくのを眺めていた。王宮のファシリティ自体は第2次大戦後に修復され、完成したのは1950年代となっており、建物自体はそれほど古くないのだが、朝日を浴びるとその荘厳さがいっそう際立っていたのだった。

王宮の丘からマイルドな紅葉を眺めながら下界に下りると目の前にライオンのコンビに守られたくさり橋が姿を現した。くさり橋は1849年にブダ側とペスト側を初めて結んだ橋で現在のブダペストを創った礎とも言えるのだが、発酵したチーズのように腐り始めていないか慎重にチェックしながら対岸まで渡らせていただいた。

街はすでに活気づき始めておりトラムや多くの車が行き交っているのだが、船の運航していない早朝のドナウ川の水面は鏡のようになめらかに周囲の景色を映し出しており、朝もやと併せて神秘的な光景を現出させていた。

ハングリーなハンガリー人が集まるはずの中央市場にはペストにかかっていないブタ肉、ソーセージ、野菜、パンといったあらゆる食材が売られているのだが、売り手サイドのハングリー精神が乏しいせいか、いささか活気を欠いた淡々とした商売が展開されていた。

ドナウ河岸に標高235mの岩山がゲッレールトの丘として多くの観光客を集めているので登ってみることにした。ゲッレールトはハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世によってイタリアから招かれた伝道師でハンガリーのキリスト教化に一役買った人物なのだが、1046年の異教の暴徒によって手押し車にはりつけられ、この丘のてっぺんから突き落とされて殉教したという。

ゲッレールトの丘の頂上にはツィタデッラと呼ばれる要塞があり、さらにドナウ川に向かってシュロの葉を天に掲げ持つ女神像はナチス・ドイツからの解放を記念して旧ソ連軍が建てたものだ。また、中世にはゲッレールトの丘でワインを醸造していたが、丘に住む魔女が夜な夜な人家を襲ってワインを巻き上げていたという言い伝えがあり、その魔女は今ではほうきにまたがったチャチな人形に成り下がっている。

ツィタデッラの要塞の中にはBunkerと呼ばれる博物館(HUF1200)があり、ナチス・ドイツやソ連軍等に関する思い出したくも無いはずの歴史が不気味な蝋人形で再現され、この国の複雑な背景を雄弁に物語っていた。

ブダペストには地下鉄やトラム、バス、ヘーブと言われる近郊列車といった便利な乗り物が多いのだが、今朝それらの乗り物が乗り放題の24時間券(HUF1550)を購入していたのでトラムとヘーブを乗り継いでドナウ川西岸北部のローマ時代の遺跡が点在するオーブダ(旧ブダの意)まで足を伸ばすことにした。早速ローマ帝国の植民地時代に造られたローマ軍の円形劇場跡を見物したのだが、現役当時は1万6000人の観客を収容した大劇場も今では地元住民の憩いのドッグランに成り下がっているようだった。引き続きバラの丘の中腹にあるグル・ババの霊廟というオスマン朝の参謀グル・ババの墓にお参りさせていただいた。年老いた墓守に八角形の霊廟の扉の鍵を開けてもらい、しばし棺に敬意を表した後、墓守が写真撮影がすんだことを確認すると礼拝はあえなく終了となった。

オーブダを後にして3本の地下鉄が交差するペスト側のデアーク広場駅に移動した。一流ホテルであるKempinskiが見下ろすおしゃれな通りにファーストフードやバー、土産物といったいくつかの出店があり、薪を燃やした釜焼きのピザがうまそうだったので1つ買って昼食とした。

今日は体力を温存するためにデアーク広場から16番バスに乗り、くさり橋を渡って王宮の丘へと上って行った。眺めの良い城門が見えたところでバスを降り、階段を上るとそこはマサに中世の世界であった。

白い石灰岩でできたとんがり屋根を持つ丸塔とその回廊は漁夫の砦と言われており、かつてこのあたりに魚の市がたっていたことや、城塞のこの場所はドナウの漁業組合が守っていた伝統からこの名をいただいている。すでにうろこが落ちてしまったはずのこの場所はドナウ川やペスト地区を見下ろす最高のビューポイントに成り上がっているのだ。

カラフルな建造物が多い丘の上のメイン通りを北西に進んでいると一際背の高い塔に遭遇した。これは13世紀に建てられたフランシスコ派の教会の一部でマーリア・マグドルナ塔という代物である。教会の本堂は第2次大戦で壊れてしまい、しなびたこの塔だけが残されてしまったのだ。

Hilton Budapestの隣に位置し、ブダペストのランドマークのひとつとして君臨しているマーチャーシュ教会(HUF990)はブタを焼いてチャーシューにしたことがないはずのマーチャーシュ王の命で高さ88mの尖塔が増築されたことに由来すると言われている。尚、現在の塔の高さは80mになっているのだが、これは数々の増改築の賜物であると思われる。

マーチャーシュ教会の前に広がる三位一体広場にはバロック様式の三位一体像があるのだが、これは中世ヨーロッパで猛威をふるったペストの終焉を記念して18世紀に建てられたものでブダペストにも例外なくペストが蔓延したことを物語っている。

王宮の丘の南半分を占めているのが文字通りの王宮であるのだが、13世紀の最初の建設以来、戦争や大火災で何度も大改築を繰り返し、現在のものは1950年代に完成した最新バージョンとなっている。

最新版の王宮はセーチェニ図書館と国立美術館、ブダペスト歴史博物館になっており、今回はブダペストの栄枯盛衰の歴史を探るためにブダペスト歴史博物館に入館することにした。マサであれば入館料HUF1400を支払わなければならないところを私は閉館30分前の特別価格のHUF700で入館し、広い館内を駆け足で回って見ることにした。展示室は中世の竣工時から現在まで残されている地下室や洞窟をうまく利用しており、その中に昔の王宮を飾っていた柱や壁、武器や図面等が所狭しと並べられているのだ。

王宮の丘に最短距離でアクセス出来るケーブルカー乗り場をスルーして16番バスに乗車し、デアーク広場からロンドンに次いで世界で2番目に古い地下鉄M1線でセーチェニ温泉を目指した。

マサよ、君は日本の健康ランドを凌駕するローマ帝国時代の公衆浴場を彷彿とさせる大温泉センターでチェックメートをかけられたように固まったことがあるか!?

ということで、ブダとペストの統合を願う貴族政治家セーチェニ公の尽力でくさり橋が架橋され、その本名はセーチェニ公のくさり橋と呼ばれる程高名なセーチェニの名を冠した温泉に満を持して入浴させていただく機会を得ることとなった。

チケット売り場で夕方料金のHUF2900を支払い、リストバンドを受け取った後、回転バーを回して入場すると脱衣所番のおね~ちゃんの仕切りでスムーズにロッカーが割り当てられたので海水パンツに着替えて嬉々として浴場に突入していった。硫黄臭が漂う浴場には温水プールをはじめ多くの温度別浴槽があったので36℃の温泉に長時間浸かっているとおびただしい数のハンガリー水着ギャルやおばちゃんが行き来する姿が眺められ、図らずも混浴のチャンスさえ与えられたのであった。外には巨大な温泉プールが沸いており、寒風吹きすさぶ中を果敢に泳いでいる者や寒さで38℃高温プールの中で固まっている輩もいた。名物のチェス盤にも何人か集まっていたのだが、閉館時間も迫っていたため、プレーは打ち切られている様子だった。

セーチェニ温泉からドナウ河岸に戻ってみるとそこで待っていた光景は息を呑むほど洗練された夜景であった。

ライトアップされたくさり橋を徒歩で渡り、丘までの階段を登り切り、Hilton Budapestへの帰路を急いでいるとマーチャーシュ教会が闇の中で妖しく輝いていたので思わず足を止めて見入ってしまった。中からはコンサートのゴスペル曲が荘厳なトーンで聞こえてきたのだった。

11月3日(木)

中世へのタイムスリップを終了させるべくHilton Budapestをチェックアウトすると朝の冷たい空気を裂いて王宮の丘を駆け下りてデアーク広場の地下鉄乗り場に向かった。地下鉄、バスを乗り継いでフェリヘジ国際空港に戻り、12時35分発TK1036便で再び♪飛んで イスタ~ンブ~ル~♪の機上の人となった。

成田行き18時40分発TK0050便は多くの日本人ツアー客で満席となっていたものの、ヨーロッパのベストエアラインに選ばれているトルコ航空の機内で10インチの巨大画面から映し出されるオンデマンドの映画を鑑賞しながら苦痛なく過ごさせていただいた。

11月4日(金)

定刻の午後1時前に成田空港に到着後、温泉に流されるように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥109,450

総宿泊費 EUR317.81、¥7,200

総鉄道代 EUR16

総スロヴァキアトラム代 EUR0.35

総ブダペスト市営交通代 HUF2,910 (HUF1 = 約¥0.4)

協力 トルコ航空、HiltonHHonors、楽天トラベル

FTBキラー菅送別モンゴルツアー

大相撲7月場所で大関魁皇が胃潰瘍を患うことなく引退し、日本の国技にして八百長のはびこる相撲界はますますモンゴル人力士が幅を利かせることになる。ところで、格闘技界でモンゴリアンが一躍脚光を浴びたのは今から遡ること20数年前の新日本プロレスのリングであったろう。当時国際プロレスから乱入してきた維新軍団は、今では消臭力の台頭により影が薄くなってしまった長州力を筆頭にラッシャー板前のモデルとなったラッシャー木村、アントキノ猪木に似ているストロング小林、京子のプロデュースを始める前のアニマル浜口、マサ!斎藤と蒼々たるメンバーが揃っていたのだが、中でも日本人でありながらモンゴリアンを語るキラー・カーンがひときわ異彩を放っていた。

相撲界出身のキラー・カーンから繰り出されるモンゴリアン・チョップは主流のアントニオ猪木、ドラゴン藤波辰巳、坂口憲二パパである坂口征二を筋書き上苦しめていたのだが、今では小澤正志と書いてキラー・カーンと読ませ、ちゃんこ居酒屋http://www.kan-chan.jp/のおやじに出世を果たしている。

ということで、今回はキラー・カーンがあこがれてやまなかったであろうモンゴルに代わりに行ってやることにしたのだ。

2011年8月26日(金)

午後5時20分発NH955便にて成田から北京に移動し、北京首都空港から列車で市内に入り、さらに地下鉄10号線に乗り換えて北土城に到着した。PRIORITY CLUBのポイントが余っていたのでマサであれば400元くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Express Beijing Minzuyuanにチェックインを果たすと北京ダックを食らうことなく、暗がりの中で寝静まった。

8月27日(土)

早朝5時半にホテルをチェックアウトすると北京首都空港に直行し、AIR CHINAが運行するCA901便に搭乗し、定刻午前8時35分に飛び立った。B737-800機の窓から眼下を見ると荒涼とした土色の大地が果てしなく広がっていた。飛行機が高度を落としていくにつれて、徐々に川の流れと緑も見え始め、11時前にモンゴルの首都ウランバートルのチンギス・ハーン国際空港に到着した。

空港の銀行で一万円札を差し出すと152,000トゥグリク(Tg)という大金になって返ってきたので札束を握り締めて空港外のバス停まで歩いて行った。ところで、ウランバートルの公共バスではスリ被害が多発し、その手口はナイフを使ってズボンやバックを切り裂く強引なものなので、モンゴル人でもバスの利用を避けていると物の本に書かれていたので、バスには運転手と切符売りの車掌しか乗っていないのかと思っていたが、意外にも乗客でごったがえしたバスがやってきたので意を決して乗り込むことにした。

ポケットの中の財布と手持ちのバックパックに最大限の注意を払いながら、埃の舞い上がるでこぼこ道をバスに揺られていると交通量の多いウランバートルの市街地に入ってきた。そして適当に乗客がたくさん降りるところで下車してあたりを軽く歩いてみることにした。目の前に旧国営デパートを大手電気店が買収したモンゴル最大のノミンデパートが多くのモンゴリアンで賑わっていたのでトイレを借りに入って行った。尚、ウランバートルの繁華街には有料のCITY TOILETも各所に設置されているのでおなかピーピー状態を恐れずに自信を持って町を闊歩することが出来るのだ。

躍動感のある信号機や新しい高層ビルを横目にエンフタイヴァン(平和)大通りを東に進み、今日の宿であり、モンゴルと日本の合弁会社が運営するテムジンホテルに到着した。ホテルの受付ギャルは朝青龍顔ながらも日本語を話すことが出来るので、首尾よくチェックインを果たすと部屋でビールを飲みながら少し休憩させていただいた。尚、ウランバートル入りしてからこれまで出会ったモンゴル人の10%くらいは老若男女問わず朝青龍似のしょうゆ顔であったので、ここは朝青龍ファンにとってはパラダイスだと思われたのも確かであった。

ビールの酔いも醒めた頃、あらためてウランバートルの町に繰り出すことにした。格式高いウランバートルホテルの前にご当地レニングラード(現サンクトペテルブルグ)でもすでに撤去されてしまっているレーニンの銅像が浪人のように立ちはだかっており、モンゴルが旧ソ連の影響を受けている名残が今も残っているようだ。また、モンゴルの言語はモンゴル語なのだが、表記はキリル文字(ロシアンアルファベット)になっているのだ。

市内で最も広いスフバートル広場の脇には日本人抑留者が建設した国立ドラマ劇場がピンク色に輝いており、1921年のモンゴル革命の指導者のひとりであるスフバートル像は馬に乗って天を目指しているかのようであった。その奥には蒼き狼チンギス・ハーンの像が鎮座しており、政府宮殿の前で睨みを効かせていた。

町中にはビートルズのオブジェやオレンジ色の屋根が眩しいサーカス場がさびれかかっており、朝青龍顔を持つ安田大サーカスのヒロにはもってこいの舞台だと思われたのだが、むしろここで大相撲モンゴル場所を開くのがふさわしいのであろう。この件は八百長問題に適当な落とし所を見つけた元大関魁傑である放駒理事長が解決してくれることを期待しよう。

テムジンホテルに帰ってテレビをつけるとNHKの衛星放送を見ることが出来るのだが、これはモンゴル力士のオールスター戦である大相撲場所を見るのにかかせないものだと思い知らされた。

8月28日(日)

ウランバートルの西のはずれにソンギノハイルハン長距離バスターミナルがあり、そこからモンゴルの古都ハラホリンに行こうと思っていたのだが、本日分のバスチケットは売り切れていたので仕方なく明日出発のチケットを購入した。

バスでウランバートル中心部に戻り、1838年に建立されたチベット仏教寺院であるガンダン寺にお参りすることにした。この寺は活仏と言われるこの世に姿を現した仏の化身とされるチベット仏教の高僧により建てられたもので、モンゴルが仏教国であったことを思い起こさせてくれるものだ。

ガンダン寺の観音堂には高さ25mの観音像が起立しているのだが、これは盲目となった第8代活仏ボグドハーンがその治癒を祈願して建立した開眼観音である。実は初代観音はスターリンによって1938年に破壊され、ソ連に収奪されており、今の観音は2代目のものとなっているのだ。

ガンダン寺で起動戦士ガンダムのように崇拝されている観音がスターリンに観念させられたという事実に憤りを覚えたので心を鎮めるために自然史博物館(Tg2,500)で目の保養をすることにした。1924年に開館したこの博物館にはモンゴルの自然や考古学に関する豊富な資料が取り揃えられている。

自然科学のコーナーでは現地の動物の剥製が生き生きと展示されており、木と相撲をとるヒグマや尻尾の長いユキヒョウ、耳がキュートなネコ科の動物が目を引いた。

恐竜王国モンゴルではたくさんの恐竜の化石が発見されているのだが、ここではタルボザウルスの骨格標本が目玉となっている。その周辺には巨大なマンモスの牙や古代のサイ等の骨格も彩を添えているのだ。

人口100万人を誇るウランバートルの中心部に都市部の川の割には清らかなセルベ川が流れている。その川原にはおびただしい数のヤギやヒツジさえ進出しており、放牧大国モンゴルの実力をまざまざと見せつけているかのようであった。

8月29日(月)

マサよ、君は大草原の小さな少女が隠そうともせず、あっけらかんと放尿している光景に衝撃を覚えたことがあるか!?

というわけで、今朝はソンギノハイルハン長距離バスターミナルに速やかに移動し、午前11時発のハラホリン行きのバスに乗り込んだ。ウランバートルから西に向かう365kmの長旅は草原に挟まれた管理状態の良くない舗装道を延々と走ることになる。

バスが出発して1時間程経つと何の前触れも無く路肩に停車し、数人の少女が開かれた草原に駆けて行った。すると彼女らはいきなりパンツを下ろして草原にしゃがみこみ微笑みさえ湛えながら尿を大地に放っていた。するとバスに同乗していた妙齢の女性もおばちゃんも釣られるように草原に飛び出し、草花に肥やしを提供していたのだった。

慎ましさを美徳とする倭人には理解出来ない生態であるが、島田紳助というプロデューサーを失った羞恥心さえコントロール出来ればなでしこジャパンであっても問題なく対応可能な行為のはずである。

ところが、バスが昼食休憩のために寄ったドライブインには掘建て系のトイレがあり、草原に馴染まない人々のプライドを頼りなく紙一重で支えていたのだった。

車窓を流れる遊牧民の日常生活を遠巻きに眺めていると長い移動時間も苦にならなかったせいか、5時間以上のバスの旅はあっさりと終了し、寒村地帯の雰囲気を漂わせるハラホリンのバスターミナルに到着と相成った。早速宿を探さなければならなかったので村の中心を通り過ぎて草原にポツンと立つ宿泊所らしい建物を目指して歩いていた。

HOTELという看板を掲げた建物に窓越しに来意を告げると多少英語の出来る若者が出てきて宿泊システムの説明が始まった。宿泊者はホテルの快適な部屋に泊まるか値段の安いゲルにしけこむかを選択することが出来るのだが、私は馬乳酒を牛飲して泥酔し、ゲルをゲロだらけにするリスクを避けるために1泊US$45のホテルを選択し、前払いで支払いを済ませて部屋に引き篭もり静かな一夜を過ごさせていただくことにしたのだった。

8月30日(火)

ハラホリンはかつてモンゴル帝国の首都が置かれており、カラコルムと呼ばれていた。現在では往時の栄華を偲ばせるファシリティはほとんど残っていないのだが、エルデニ・ゾーという巨大な仏教寺院群が世界遺産であるオルホン渓谷の文化的景観の中で最も規模が大きく有名な建造物として君臨しているのでじっくり見させていただくためにここまで足を伸ばしたのだ。

エルデニ・ゾーに侵入する前に小雨そぼ降る町中を歩きながら悠久の時の流れを感じることにした。集団で通りを闊歩する野犬の群れをなだめながら歩いているといつしか牛のドクロが転がる草原に迷い込んでいた。広大な草原はなだらかな山や丘に囲まれており、丘陵部には集落とゲルのキャンプが固まっていた。

天候も回復の兆しを示してきたところで108個の卒塔婆(ストゥーパ)の塔と外壁に囲まれた約400mx400mの正方形を目指して歩を進めた。城壁の東のはずれに亀石という石碑を載せる台座として彫られた亀型の花崗岩が祀られているので亀井静香には静かにしてほしいとの祈りを込めた後、城壁の回りのビーフを愛でながらエルデニー・ゾーの西門に向かって行った。

城壁の内部は草原と仏教大寺院群のコントラストが美しく、さらに青空の下で中国式木造寺院が一際輝いていた。早速17世紀初頭から18世紀初頭に建立されたダライラマ寺を通り過ぎて3つの寺の意味を持つゴルバン・ゾー(Tg3,500)にお参りすることにした。

ゴルバン・ゾーは中央寺を挟んで西寺と東寺から構成され、内部にはユニークな仏像が祀られているのみならず天井の仏画や修復された壁画も非常に印象的なものがあった。

インド仏教伝来の仏舎利塔(ストゥーパ)ソボルガン塔の装飾にモンゴル風味が加えられているのを確認し、さらにチベット式建築のラプラン寺で勤行している僧侶たちに敬意を表した。

エルデニ・ゾーの広い敷地内にかつてチンギス・ハーンが陣営で煮炊きに使用したものといわれている鉄鍋が無造作に置かれていた。チンギス・ハーンも将来自分の名前がジンギスカンというくせのある料理名に使われるとは思ってもみなかったであろう。

エルデニ・ゾーの目の前には土産物やモンゴル料理を提供するテントが積極的に客引きするでもなく、控えめな営業体制を取っていた。同様に観光客の腕に止まって有料被写体となる巨大な鷹も爪を隠しながら止まり木の上でおとなしく出番を待っていた。とりあえず、一軒のテントに入り、モンゴル語で書かれたメニューを見てとある料理を指差し発注すると強烈なマトン臭を発する羊肉入りの麺が出てきやがった。はしではなくスプーンだけで食べるその麺を何とか完食し、観光を続けていると数十分はお腹のグルグル感が残ったものの体内に驚くべき活力がみなぎり始め、その後の草原の丘登りが非常に楽になったのだ。

エルデニ・ゾーから数百m離れた所に日本の協力によって設立されたカラコルム博物館(Tg3,500)が開館していたので見学することにした。お約束の蒙古帝国の歴史の資料によるとエビフライが好きであってほしいフビライ・ハーンは1274年と1281年の2度にも及ぶ日本への侵略未遂を行っているのだが、時の執権北条時宗が胸をときめかせながら元寇に対応した日本サイドの観点は示されていないのだ。

ハラホリン一帯を見下ろす小高い丘の頂上へ行く途中に殿方の性的シンボルをかたちどった男根岩が誰の手にも触れさせぬように柵で覆われながら手厚く祀られていた。男根岩の触感を味わうことが出来なかった腹いせに頂上に鎮座している亀石の頭を撫で回しておいた。

丘の上からはエルデニー・ゾーの遠景や伝統的なゲルの集落が眺められ、草花から漂ってくるハーブやミントの香りでリラックス効果を高めながら、ゆっくりと流れるぜいたくな時間を思う存分堪能させていただいた。

丘の上の草原には保護色に彩られている茶色や緑のバッタが羽音を響かせて飛び回っており、どこからやってきたのかカエルまでが帰る道を探そうと歩き回っていた。

8月31日(水)

早朝窓から差し込んできた柔らかな光で目を覚まし、ホテルの外に出てみると東の空がオレンジ色に輝いていた。ホテルの敷地内で休んでいた牛達も徐々に目を覚まし、ゲル周辺の短い草を牛タンでからめとるように食みはじめた。

サンライズの幻想を十分に堪能するとホテルを出て晴れ渡った草原を眺めながらバスターミナルに向かった。ウランバートルへは午前10時発の大型定期バスで帰ろうと思っていたのだが、いきなりミニバンで運行するミニバスの関係者に腕を取られ、それでも私が大型バスの方へ向かおうとすると彼は地団駄を踏んで悔しがる姿勢を示した。その熱意に敬意を表してミニバスに乗ってやることにしたのだが、乗客が中々集まらなかったため、大型バスよりも1時間遅い出発となってしまった。

ミニバスには学生系の少女や青年、母親に連れられたまだ蒙古斑も消えていないであろう幼女の姉妹等が乗っていた。出発して1時間も経たない頃にいきなり社内で「ボン!」という激しい破裂音がこだまし、ミニバスは路肩に停車した。スライドドアを開けるとカルピスソーダの爽やかさとはかけ離れた酸っぱい白色液体が後部のシートから社外に流れ出てきた。この現象は恐らくポリタンクに詰めてあった馬乳酒が振動により膨張し、ついに圧力に耐え切れなくなった栓を吹き飛ばして暴発したものであろう。ちなみにハラホリンはよほど高品質の馬乳酒を生産するためか、多くのモンゴリアンはウランバートルから空のポリタンクを多数持ち込み、帰りはその中に液体を満たしてバスやバンに積み込んでいる光景が印象に残っていた。

馬乳酒が醸し出す酸臭がようやく薄まってきた午後5時前にウランバートルのソンギノハイルハン長距離バスターミナルに到着し、近くのバス停から市バスに乗り換え、町の中心部に戻ると予約をしていないが空室があるはずだと信じていたテムジンホテルに帰還し、バックパックにしみ込んでいる馬乳臭を気にすることなく休ませていただいた。

9月1日(木)

スリの被害に遭わなかったのでキラー・カーンには申し訳ないが、モンゴリアンチョップで防戦することなくモンゴルツアーの最終日を迎えることとなった。ところで日本では国民を見殺しにするキラー菅がついに退陣するとのことで海外との対人関係も大いに改善されることが期待できよう。

ウランバートルを南北に走るチンギス通りからバスに乗ってしばらくすると黄金色に輝く大仏からここで降りよとの啓示を受けたので素直に従うとその大仏の背後の丘に記念碑のようなオブジェが天空を指していたので登ってみることにした。

行き場を失った旧ソ連製の戦車を尻目に階段を登りきると幅3m、周囲60mの鉄筋コンクリート製の輪に囲まれた伝統的なモンゴルの灯「トルガ」に到着した。トルガは、生命を具現すると同時に、ソ連兵士がモンゴル兵士と共同で侵略者から防衛したモンゴル人民共和国独立を象徴している。

なるほど、輪の内側のモザイクの壁画にはモンゴルとソ連人民の友好が描かれており、一方で大日本帝国とナチスドイツの旗は無残に踏みにじられているのだった。

ザイサン・トルゴイと呼ばれるこの展望台は360度の視界が開けており、密集した都会の周辺に広がる草原までウランバートル市を一望することが出来るのだ。

丘の麓に建つおとぎの国系の住宅街を過ぎると荘厳な造りの寺院が目に飛び込んできた。寺院付属の土産物屋の前に狼の剥製があったので谷村新司よろしく♪オ~かみよ、彼を救いた~まえ~♪と海江田を海に沈めてチャンピオンの座に着いた野田首相の活躍を祈っておいた。

ボグドハーン宮殿博物館(Tg2,500)は第8代活仏ボグドハーンの冬の宮殿であった。現在の建物は1919年に建立されたもので、その建築様式は釘を一本も使わない木組み方式の最新テクノロジーが駆使されているそうだ。

引き続き第8代活仏の弟の寺として建立されたチョイジンラマ寺院博物館(Tg2,500)を見学したのだが、今では高層ビルとの対比が美しい景観を醸し出している寺院の内部には土俵入りのような格好の仏像が躍動している姿が印象的であった。

通常であればモンゴル入りして一番最初に訪問しなければならなかったはずの民族歴史博物館(Tg5,500)に遅ればせながらモンゴルに関する基礎知識を身に付けるために入館することにした。展示物は民族衣装や生活様式に関する物が主であるが、フエルト生地で覆われた本物のゲルも展示されており、内部の構造やインテリアも覗き見ることが出来るようになっていた。

ウランバートル市内を歩いていると蓋が開いているマンホールを見かけることがあるが、ここには社会問題化しているマンホールチルドレンが住んでいるという。様々な理由からホームレスになった彼らは冬の厳しい寒さに耐えるために地下に潜行し、物乞い等をしながら生計を立てていると言われている。

今回のツアーで似非モンゴリアンのキラー・カーンがモンゴルの知識を身に付ける一助となったことを確信したのでバスでチンギス・ハーン国際空港に戻り、午後6時20分発のCA956便にて北京へ飛び立っていった。

9月2日(金)

再びただで宿泊させていただいたHoliday Inn Express Beijing Minzuyuanを早朝チェックアウトすると午前6時半前には北京首都空港に到着した。空港第3ターミナルのファシリティを軽く見学させていただいた後、午前8時30分発NH956便で成田に飛び、フビライ・ハーン似の朝青龍がモンゴルの大統領に就任した暁には、神風の吹かない財団法人日本相撲協会はモンゴルに買収されるだろうと考えながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥31,660、AIR CHINA = ¥49,130

総宿泊費 = US$270

総北京鉄道代 = RMB100

総北京地下鉄代 = RMB8

総モンゴルバス代 = Tg32,800 (¥100 = 約Tg1,500)

協力 ANA、AIR CHINA、PRIORITY CLUB

FTBJがんばっているぞみちのくツアー(八甲田山・ねぶた)

マサよ、天は我々を見放した~~!!!

というわけで、映画「八甲田山」では主演の北大路欣也連隊長が日露戦争対策の雪中行軍の演習中に遭難し、断末魔の捨て台詞を残して凍ってしまったのだが、政府が日本を見放しても我々は生活をあきらめるわけにはいかないので、「がんばろう東北」を合言葉に懸命に復興に向かって進んでいる東北に訪れた夏本番の祭りの熱気を体感するためにみちのくの奥深くに戻ることにした。

2011年8月4日(木)

福島県出身の知人は多々いるが、不思議と悪い人に出会ったことがなく、宝くじの帝王西田敏行、絶好調のお調子者男中畑清が旗を振ってがんばっている姿を見守っている今日この頃であるが、福島最大の偉人であるはずの野口英世千円札は自ら義援金となって奮闘しているものの未だに被災者の手元に届かずにどこぞに滞留していると言う。

埼玉県の春日部から国道4号線に乗り、ひたすら北に向かって車を走らせ、那須塩原、白川の関を越えて福島市内に程近い二本松市のあだたら高原に入って行った。周囲には緑豊かに育っている田んぼが広がっており、この美しい日本の原風景を決して損なってはならないと思いながら今日の宿泊地である岳温泉 くぬぎ平ホテルにチェックインを果たした。

ホテルには少ない観光客だけでなく、原発から30km圏内の浪江町から避難している被災者も宿泊しており、掲示板には浪江町の最新情報がタイムリーにアップデートされているようであった。

ホテルの目の前には鏡池がひっそりとたたずんでおり、地元の老人の憩いの場所となっていた。館内には今は亡き藤田まことが八丁堀から出張してここに来た足跡を示す看板が誇らしげに掲げられており、ホテルの知名度の向上に一役買っていた。

福島テレビからは原発に関するニュースが流れ、夏休みに外に遊びに行けない子供たちに対するバックアップのイベントなどが紹介されていた。二浴目の温泉から上がるとマッサージ師がけなげに「お疲れ様でございました」と各宿泊客に対して声を掛けていたので、釣られるように足のマッサージを受けながら、福島を盛り上げる方法を無意識に考えていたのだった。

8月5日(金)

福島、宮城、岩手の3県はアナログ放送の終了時期が来年の3月迄延期になっていたので、地デジ対応していない車内のテレビを見つつ、「見たか!地デジ大使草彅!!」と思いながら北に走っていた。

福島から宮城、岩手、秋田を走りぬけ、日も暮れかかった7時過ぎに今日の目的地である青森県弘前市に到着した。さすがに大きな祭りのシーズンだけに弘前市内のホテルはどこも満室で何とかカプセルイン弘前を押さえることが出来たので付属の駐車場に車を止めて賑わう町に繰り出すこととなった。

午後7時頃から開始となったねぷた運行は大変な熱気のため、ついつい弘前アイス組合の屋台で100円アイスを買って次から次に出陣する巨大な扇形ねぷたに見入ってしまった。

各ねぷたの行列には笛吹き童子による囃子や若ギャルによる太鼓も続き、特に日頃はツッパッているはずの若ギャルはサラシを撒いて肩を露にし、ある種さらしものになっているようでもあった。芸能人水泳大会ではお約束のポロリがあるのだが、さらしはきつく巻かれている様子で決してそのような粗相がないように厳重管理されているのだ。

弘前駅前の通りには数十万人もの人が有料観覧席と持参した場所取り用のビニールシートの上に陣取り、屋台で購入した酒類やつまみで程良く出来上がった様相で目の前を通り過ぎるねぷたに歓声をおくっていた。

ねぷたの運行は3時間以上続き、本日終了のサインが出たのは午後10時を回った頃だった。徐々に撤収する祭り人や観客を尻目に近隣の居酒屋で軽飯を食った後、カプセルイン弘前にチェックインして天然温泉で一息入れるとカプセルに封じ込まれてねぷたを数えながら眠りについたのだった。

8月6日(土)

早朝カプセルから離脱すると喧騒の夢の跡が生々しい弘前市街を後にして酸ヶ湯温泉に向かった。日本百名山に数えられる八甲田山に登頂するモデルコースとして酸ヶ湯温泉からの登山ルートが最もメジャーなので早速酸ヶ湯公共駐車場に車を止めて北大路欣也の足跡を追ってみることにした。

酸ヶ湯温泉から八甲田山最高峰の大岳頂上へは約4.2kmの道のりとなっている。黄色スズメバチが発する重低音のブーン音をバックグランドミュージックに軽い硫黄臭の漂うブナとアオモリトドマツの生い茂る森の中を汗をしたたらせながらひたむきに登山道を登っていた。

しばらくすると緑のジャングルから視界が開け、瓦礫が崩落した名残や大岳の稜線が姿を現した。日露戦争時には整備されてなかったであろう木道を通り、爆裂火口に水がたまった鏡沼で一息入れると最後の急坂を一気に登って行った。

標高1,584.6mの八甲田大岳山頂はすでに数多くの登山者で賑わっており、ラブリーな山ガールを含む長崎や広島の高校の山岳部員や山ガールから年を重ねて山姥になってまで登山に挑んでいるけなげな中高年の女性達もお約束の食い物を食いながら周囲の絶景に見入っていた。

あまりの景色の良さとさわやかさに「北大路よ、夏に来い!」と思いながら下山の時間を迎えてしまった。下山道は登りのコースとは異なり、八甲田大岳、井戸岳、赤倉岳から構成される北八甲田連峰の絶景を眺めながら終始下りの道をのんびりと終点の酸ヶ湯温泉まで下って行った。

過酷な八甲田の登山により、体内から溶出した汗がアルカリ化し、酸による中和が必要だったので国民保養温泉酸ヶ湯に浸かることにした。風光明媚な山の一軒宿として、昔ながらの清純、素朴な風情を残している酸ヶ湯温泉は総ヒバ造りの混浴「千人風呂」が楽しめるとのことなので「混浴を守る会」三ヶ条を胸に刻みながら入浴させていただくことにした。ちなみにその三ヶ条とは次の通りである。

第一条 男性入浴者は女性入浴者を好奇の目で見るべからず、第二条 女性入浴者は男性入浴者を好奇の目で見るべからず、第三条 混浴は老若男女を問わず和を尊び大らかで豊かな入浴の姿を最高と為すべし。

ということで、何秒までなら異性の入浴者を見てよいのかわからないまま¥600を支払って「千人風呂」に突入することとなった。混浴と言えども脱衣所は男女別々になっており、しかも酸性の硫黄湯を満々と湛えた広い湯船は立て札により、男のエリアと女のエリアに分かれており、入浴者の多い男のエリアのみが芋を洗う状態となっていた。このような環境であっても心もとない小さいタオルを巻いて果敢に混浴に入ってくるけなげなギャルも実在し、芸能人水泳大会よりもポロリの危険性が高いことを物ともせず、大らかで豊かな入浴の姿を最高と為していたのだった。

シャンプーや石鹸を使うことが出来ないにもかかわらず、酸で汚れた体を溶かし清めることが出来たので、風呂上りに周囲の地獄沼や「まんじゅうふかし」なる温泉系の環境をちら見して酸ヶ湯から撤収し、十和田湖畔の民宿まで引き上げることにした。

8月7日(日)

早朝十和田湖畔の民宿を後にすると、十和田湖畔子ノ口から焼山までの約14kmの奥入瀬川の渓流であり、その自然美から高木美保を正統派から農業女優に転じさせた奥入瀬渓流を軽く散策することにした。

十和田湖から水が流れ出す子ノ口は東北電力八戸技術センターが仕切っている制水門により水量が管理されているため、ある種人工的な印象を受けなくもないが、渓谷沿いの遊歩道は「瀑布街道」と呼ばれているように点在するいくつもの滝により絶え間なくマイナスイオンが供給されている。魚止めの滝と言われる高さ7m、幅20mの銚子大滝はほぼ垂直に切り立っているため、たとえ田中邦衛を顎で使う自然派老人俳優の大滝秀治の後押しがあっても魚が遡上出来ないため、十和田湖にはかつて魚がまったく住んでなかったと言われているのだ。

休憩所のある石ヶ戸の駐車場に車を停め、渓流を遡っていると次から次に絵画のような風景が姿を現し、今では那須塩原の農場管理のために放射線量計が手放せなくなっているはずの高木美保の人生観が変わったのもうなずける気がするのだ。

国道102号線、渓流沿いに爆音を轟かせて25mの落差を流れ落ちる雲井の滝の滝壺に近づくとひんやりした冷気を浴びせかけられるので、気温30℃以上の猛暑の中で散策を続けて火照った体を冷やし、奥入瀬を後にした。

奥入瀬から青森市内に向かう道すがら、ねぶた祭の体験施設であり、青森大型ねぶた10台が躍動する青森自然公園ねぶたの里が通常¥630の入館料をねぶた開催期間中は無料開放されていたので入ってみることにした。

ねぶたの里で何故か映画八甲田山のポスターと当時ロケで使われていたはずの雪上車が展示されていたので、この映画の重要性をあらためて認識させられ、マサであればすぐにTカードを握り締めて最寄のTSUTAYAへ急行し、DVDをポイントでレンタルしなければなるまいなと思われた。

とりあえずねぶた観音にお参りし、展示されている10台の名作ねぶたに敬意を表し、さらにねぶたを1台作成する費用は¥500~600万で祭りでの運行費用を含めると毎年1台あたりのねぶたに¥1500万くらいの大金がつぎ込まれる実態に東北の底力を感じた。

ねぶた会館内では青森ねぶた運行体験ショーが行われており、参加者は大型ねぶたを曳いたり、跳人(ハネト)体験でいい汗を流していた。尚、昨今の少子化により日本最大級のねぶた祭りであってもハネトの数が不足しており、助っ人が必要となるのだが、通常であれば祭りの主催者がバイト料を払って助っ人ハネトを雇うところを青森ねぶたでは参加者から¥5,000を徴収してハネトという重労働をさせるという恐るべきビジネスモデルが確立されていることに戦慄を覚えた。

ねぶたの里でねぶた祭りの疑似体験と予行演習をすることが出来たのでラセラー ラセラーとラセりながら決戦の地青森市内に満を持して乗り込んでいった。ねぶたシーズンの青森市内のホテルはどこも満室で何とか最終日の日曜日にしけこむことが出来た東横イン青森駅前にチェックインするとねぶた運行のための交通規制が敷かれている繁華街に繰り出すことにした。

時刻は午後3時を過ぎた頃で最終日の昼間運行が丁度終わった頃で出陣したねぶたはパトカーに見守られながら撤収しているところだった。今夜は花火大会とねぶた海上運行を控えているのでとりあえず広大な会場の下見だけはしておくことにした。各所に設けられた有料観覧席のエリアには警備員が立ち塞がり、チケットを持たない者は何人たりとも入れないという厳格な警備体制が敷かれていた。青森港には相棒のチャゲを足蹴にしているはずの豪華客船「飛鳥II」がねぶたへの大量観客動員を誇っているかのように繋留されていた。

ホテルの窓から夕日が沈むのを確認するとねぶたの千秋楽が花火で彩られる光景を復興への祈りを込めて見に行くことにした。会場となっている青森港は数十万人の観客で溢れており、ねぶたを収納するドックには様々な種類の大型人形ねぶたに灯りが入っていた。さすがに莫大な費用がかかる東北最大の祭典だけに参加している団体は日立連合、パナソニック、自衛隊等、蒼々たる法人格であった。中でも東北電力ねぶた愛好会は、内蔵した発電機をフル回転させて東北に大規模停電が起ころうともねぶたの灯は消せね~ぜという気迫を漲らせていた。

7時15分から始まった約8,000発の花火は祭りのフィナーレを飾り、青森の空を明るく盛大に照らしていた。海上運行を許されるねぶたは2011受賞ねぶたの秀逸な作品ばかりでラセラーの掛け声と囃子の音を響かせながら港内の決められたコースをボートに引かれ、メガホンからは何気でJR東日本やヤマト運輸の宣伝が繰り返されていたのだった。

8月8日(月)

ねぶたの残留熱気でよく眠れなかったせいかねぶたい目をこすりながら青森市内を後にした。弘前市に程近い南津軽郡田舎館村に驚くべき田んぼが見頃を迎えているということだったので見学させていただくことにした。

日本が世界に誇る稲作を芸術の域にまで高めた田んぼアートは平成5年に始まり、今年は竹取物語が描かれているということなので田舎館村役場に隣接する文化会館の展望台(天守閣)に開門の9時前に到着したのだが、すでにねぶたから流れてきたであろう中高年の輩が長蛇の列を作っていた。

かぐや姫を立ち上げて解散させた南こうせつとはゆかりのないはずの役所のおやじが律儀に開門時間を守っていたので炎天下の中数十分待たされることとなった。開門後、稲作振興のためにいくばくかの小銭を寄付してエレベーターの順番待ちの老人を尻目に階段で6階の展望台まで一気に駆け上がって行った。天守閣から見下ろす田んぼは色の違う稲により見事に配色されたかぐや姫と南こうせつの将来を暗示するじいさんががんばろう日本とともに相手の気持ちを考えようとしていた。

次から次に押し寄せる観客のためにそそくさと天守閣から下ろされると720km先の自宅への帰路についた。途中盛岡の焼肉屋で名物の冷麺を食ったのだが、何故かスイカが麺の上にセットされていた。今回は災害支援の車両に配慮して高速を使わずに往復したのだが、帰路はわずか16時間しかかからなかったのだ。

FTBサマリー

総宿泊費 ¥18,900(2食付)、¥9,760

総ガソリン代 ¥17,260

協力 楽天トラベル

FTBJ上高地トレーニング

前略 マサよ、電力不足の中、酷暑が続いておりますが、君はいかがおすごしだ!?

ということで、WEB検索でFukuda Travelと入力すると100万以上の検索結果の中でFTBがトップに表示されるほどメジャーになった今日この頃だが、この状況に慢心することなく厳しい夏を乗り越える体力を身に付けるために日本有数の厳格管理された名門避暑観光地として有名な上高地で極秘トレーニングが実施されることとなった。

2011年7月23日(土)

諏訪湖の湖畔に上諏訪温泉RAKO華乃井ホテルという大手リゾートホテルが楽天トラベルを通じてお得なプランを売り出していたのでここに前泊すると諏訪湖に大量発生するユスリカの来襲に脅えながら、上高地散策のイメージトレーニングに勤しんでいた。

7月24日(日)

早朝より当地の名門諏訪大社に旅の安全の祈願に行ってきたのだが、さすがに温泉が懇々と沸く地域の神社だけあり、手水を排出する龍の口から源泉かけ流しであるはずの御神湯がとめどなくあふれ出していた。

諏訪大社を退社すると甲州街道との異名をとる国道20号線の終点から19号線に移行して松本に向かった。松本から国道158号線を西に30km程走ると大雨でがけ崩れを起こし、片側通行の工事が続いている山岳地帯に突入した。上高地と高山方面の分かれ道に差し掛かると「上高地マイカー前面通行止め」のサインを目にすることになるのだが、ま~いっかと言いながら交通規制に逆らって侵入することは決して許されないのだ。通常マイカーで上高地を訪れる観光客は沢渡温泉の駐車場に車を預けてシャトルバスで上高地に入るのだが、私は明日宿泊予定の中の湯温泉旅館に先取り駐車して中の湯温泉バス停からアルピコ交通が運行するハイブリッド低公害バスに乗り込んだ。

バスは上高地への入口となっている釜トンネルを抜けると、途中多くの観光バスの路方駐車により行く手を阻まれながらも何とか終点の上高地バスターミナルに到着を果たした。マイカーを規制しているとは言え、バスターミナル地区の駐車場はおびただしい数のバスやタクシーで溢れかえっており、名門観光地としての上高地の集客力をマザマザと見せ付けられたような気がした。

特別名勝 特別天然記念物の上高地は標高1500mの高地であるが、穂高連峰、焼岳、六百山、長塀山などの高山に取り囲まれた盆地で、その中心を明神池、田代池、大正池をつらねて梓みちよより清らかな梓川が流れている。

とりあえず、上高地ビジターセンターで上高地の何たるかを学習した後、かっぱにチップを払わなければ用を足せないかっぱトイレをスルーして上高地の心臓部とも言うべき河童橋から雲に覆われた穂高連峰を見上げて梓みちよと♪二人ででお酒を♪飲みたい衝動に駆られることにした。当然飲むべきお酒は♪黄~桜ぁ~♪でなければならない。

上高地にはニホンザル、ニホンカモシカ、ニホンオコジョ等の猛獣が生息しているのだが、散策中にツキノワグマに遭遇した際には解散した狩人にあずさ2号に乗ってレスキューに馳せ参じさせ、猟友会を従えて文字通りの狩人をやらせようと考えながら梓川沿いを奥地に向かって歩き出した。

上高地国有林にはところどころ珍しい形をした木も生えており、それらを愛でながら3km程歩くと明神地区に到着した。さらに3km以上歩いて到達した奥上高地の徳沢地区は北アルプスの登山基地として賑わっており、高級そうなロッジやキャンプ場に集う登山客が咲き誇る高山植物に囲まれて疲れた肉体を癒していた。

高地トレーニングの効果を上げるために早足で明神地区に戻り、日本アルプスの総鎮守である穂高神社奥宮に参拝し、引き続き明神池(¥300)を見物することにした。針葉樹林に囲まれ、荘厳な雰囲気を漂わせる明神池は穂高神社の神域であり、一之池と二之池から形成される景観はマサに神が降臨する神降地の異名にふさわしいものであった。

明神池から河童橋への復路は往路とは逆のコースの梓川対岸の森林地帯を歩いて見ることにした。湿地帯の遊歩道には木道が敷設されており、鳥のさえずりや川の流れる音を聞きながら快適な森林浴が出来る環境となっている。

上高地の銀座とも言える河童橋周辺には多くの宿泊施設が軒を連ねており、今回は比較的高級そうなホテル白樺荘に投宿することとなった。今日一日で15km程歩き、程良いトレーニングになったので、大浴場で筋肉をほぐした後、梓川に生息する岩魚に舌鼓を打ちながら今日の疲れをさらりと水にすべて流すことが出来たのだった。

7月25日(月)

ホテル白樺荘をチェックアウトし、20℃そこそこの涼しい気候の中、河童橋近辺のペンチに佇んで1時間程読書に勤しんで教養を養っていた。目の前の売店の上高地ソフトの看板に目を取られてしまったのでついつい¥350支払って買い食いし、エネルギーを注入すると上高地の残りの地区を散策することにした。

梓川の測量を行っている作業員や岩盤浴効果が得られない川沿いで横たわっている老人群を横目に歩いているとウエストン碑に辿り着いた。英人教師ウォルター・ウエストンは明治21年から28年までの日本滞在中に槍ヶ岳や穂高の山々を練り歩き、日本に近代的な登山意識をもたらし、日本山岳会結成のきっかけを作ったばかりか、上高地を世界に紹介し、エコトラベル界のスターダムに押し上げたという輝かしい実績を持つ偉人である。

上高地を世界に冠たる上流観光地に押し上げている要因として帝国ホテルの存在がある。早速その帝国の内部がどのように統治されているのかを確認するために侵入したのだが、帝国の逆襲を恐れてそそくさと退散した。

品のいい制服を着た従業員に征服されている帝国の逆襲を逃れて森林を彷徨っていると六百山や霞沢岳などから砂礫層を通って湧き出て来る伏流水に養われている田代池に流れ着いた。さらに梓川沿いに下っていると多くの人民が帝国に向かっているかのように押し寄せて来たので人ごみを避けながら歩いていた。

大正池という上高地最大の池まで逃れてきたのだが、これは正面の焼岳(やけだけ)が大正4年にヤケを起こしたかのように大噴火した際に梓川をせき止めて作った池であるが、その後東京電力という帝国のカモにされ、発電用の貯水池として都市部に電力を貢がされている様子が見て取れた。

午後から雨が降ってきたので徒歩で上高地を離脱し、歩くと以外に長い釜トンネルを抜け、さらに安房峠の急坂を3km程上り、7号カーブに位置する大自然の中の一軒宿である中の湯温泉旅館に投宿した。

日本秘湯を守る会会員となっている中の湯温泉旅館は山あいの湯の歴史を受け継ぎながら、身も心も大自然に溶け込む宿とのふれこみだったので露天風呂を占拠して冷えた体を温めながらのんびりと秘湯を味わうことにした。

7月26日(火)

上高地トレーニングの締めくくりとして、北アルプス唯一の活火山で、主に明治末期と大正初期に活発に活動した焼岳に登頂することとなった。標高2,455mを誇る焼岳は日本百名山のひとつに数えられており、中の湯温泉旅館から登山道が開けているので、午前8時過ぎに宿を引き払って緑のジャングルに突入することとなった。

雨を含んだ登山道は足場が悪く、急な斜面で滑って負傷しないように慎重に歩を進めていた。行く手には所々がけ崩れを起こした箇所や倒木が見受けられ、過酷な自然環境を思い知りながら標高差約800mの登山が続けられた。

標高2,300mの地点はすでに森林限界となっており、この辺りからゴツゴツした岩場を進むことになり、上を見上げると岩の斜面から硫黄臭を伴った煙がもくもくと沸き立っていた。

3時間弱で登頂可能な北峰頂上2,399mに辿り着き、ここから眼下に広がる上高地の全景を見渡して恍惚感に浸るつもりであったが、あいにくのモヤのため、頂上で確認出来た光景はむなしい一羽のカラスのみであった。

焼岳頂上でのモヤモヤした気分をカラスにぶつけてヤケを起こすことなく、速やかに下山の決断が下された。雨で滑りやすい登山路面状態になっているため、下山時には登りよりさらに気を使いながら歩を進めた。2時間以上かけて中の湯温泉旅館エリアに戻ってきたときに私を迎えてくれた代物は冬季の迎客さえも可能にする自家用除雪車のみであったので、むなしく高地トレーニングを打ち上げとさせていただき、撤収となったのだった。

FTBサマリー

総宿泊費 ¥4,980、¥28,000(2食付)

総ガソリン代 ¥6,067

総高速代 ¥900

総バス代 ¥750

協力 アルピコ交通、楽天トラベル

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 奥尻島

しかしマサよ、ひとつになろうニッポン!というキャッチフレーズがむなしく響く中、復興担当大臣は不幸を引き受けてしまったかのようにばっくれやがり、九州電力が不作為的に実施したストレステストにより我慢の限界を超えた玄海町長は原発の運転再開を白紙に戻してしまい、庶民は日々尻の奥が塞がってしまったような閉塞感に苛まれている。

このような状況では復興の早期実現は望むべくもないと思われがちであるが、北海道の離島奥尻島では巨大地震と津波で壊滅的な被害を被りながらも尻の穴を引き締めてより強固な災害対策を実現させているという。その不屈の闘志に敬意を示すと共に、今後の節電方針を模索するために北の離島までやって来たのであった。

2011年7月9日(土)

JALのマイレージが余っていたので、マサであれば¥3万くらいかかるところを私はただで搭乗することが出来るJAL1201便は定刻午前7:35に出発すると9時前に青森空港に到着した。早速空港バスで青森駅まで移動して駅の周辺を散策することにした。整備の行き届いた青森駅周辺で目に付いた代物は国鉄時代に栄華を誇ったはずの青函連絡船の遺物である八甲田丸である。青森駅から連絡線の桟橋までは直結しており、かつては本州と北海道を結ぶ唯一の交通手段であった連絡船が今では「津軽海峡冬景色歌謡碑」に慰められながら、記念館として細々と余生を送っている姿が見て取れた。

私もひとりローカル線に乗り、北のはずれを目指すことにした。青森駅から10:21発の津軽線に乗り、蟹田で乗り換えて終点の三厩に着いたのは正午過ぎであった。駅から列車の発着にあわせて運行する路線バスが一回¥100という破格の運賃で運行していたので乗車させていただくと14kmもの道のりを30分かけて終点の竜飛崎灯台バス停に到着した。

竜飛崎にもお約束の「津軽海峡冬景色歌謡碑」が設営されているのだが、さすがにご当地だけあり、ボタンを押せば石川さゆりの歌が2番から流れる本格的なセットとなっていた。私もこの歌を耳にして以来、♪ごらんあれが 竜飛岬ぃ 北のはずれとぉ~ 見知らぬぅ人がぁ 指をさすぅ♪の見知らぬ人を演じてみたいと念じており、ついにその時がやって来たと思ったのだが、よく考えてみると連絡船から岬を指差さなければならないシチュエーションだったため、敢なく断念せざるを得なかったのだ。

石川さゆりが青森県知事に立候補すれば、確実に当選することを思い知ったので、その勢いで岬の頂上に駆け上り、さけ茶漬けを主食とする北島三郎の聖地である函館を見渡そうとしたのだが、お茶漬けの湯気で曇っているかのように見通しが悪かった。そこで北の漁場で釣れるはずの竜飛まぐろのオブジェを一瞥し、♪さ~よな~ら マサよ~ 私はか~えりますぅ~♪と歌いながら撤収することとなった。

次から次にやってくる観光客の衝動により、絶え間なく流れる津軽海峡冬景色の歌謡碑の隣に日本唯一の国道339号階段国道の案内図があったのだが、それをスルーして青函トンネル記念館(\400)に向かった。

竜飛は青函トンネル本州方基地になっており、その基地の跡地が記念館に成り代わり、観光客と世界一の海底トンネル掘削の苦労をわかちあう形となっている。しかし、青函トンネルのリファレンスとしては英仏海峡トンネルを取り上げやがっており、日本初の海底トンネルであり、本州と九州を苦労して結んだ関門トンネルには一切触れられてなく、九州人を敵に回しているのではないかと懸念されもした。

ついつい語気が荒くなりそうになったけん、バスで三厩に戻り、蟹田駅でスーパー白鳥25号に乗り換えて実際に青函連絡トンネルを通過してみることにした。トンネルは深さ140mの津軽海峡のさらに100m下に掘られており、実際に最深部を通過するときに私の腕時計に内蔵されている高度計に目をやると-280mを指していた。

蟹田の次の駅の木古内は北の大地の始発駅となっており、函館を目指す特急白鳥に別れを告げてローカル線で江差に向かった。JTBに予約させておいたホテルニューえさしは天皇皇后両陛下も宿泊したことのある江差随一のホテルではあるが、他の宿泊施設はしなびた旅館しかない静かな町であった。

7月10日(日)

北海道の里 追分流れるロマンの町江差の代表的観光地である「かもめ島」を目指していると幕末のロマンが再現された開陽丸が座礁したかのように黒光りしている様が目に飛び込んできた。かもめ島の入口には頑固親父が鉢巻を締めているような瓶子岩が鎮座しており、それは必然的に江差町のシンボルとしての地位を不動のものとしている。

風光明媚なかもめ島には民謡の王様と言われる江差追分の記念碑も建てられており、民謡は江差追分に始まって江差追分に終わるという威光がつつましくも存分に示されているかのようだった。

かもめ島から程近いフェリーターミナルで午前9時半発ハートランドフェリーが運航するアブローラおくしり2等席に乗り込むと江差を後にして尻の穴を引き締めながら奥尻島に向かった。曇り空の下、アブローラはアブノーマルな挙動を示すことなく順調に航行し、定刻11時40分に奥尻フェリーターミナルに着岸した。

観光シーズンもたけなわとなっている奥尻島ではゆるキャラの「うにまる」が観光客を迎えているのだが、皆上陸すると条件反射でついつい写真を撮ってしまうのだった。

今日宿泊する浜旅館はフェリーターミナルから徒歩5分の近距離だったので、サクッとチェックインすると近隣地区を散策することにした。奥尻市街に程近い海岸に凱旋門のような奇岩が立ちはだかっているのだが、これは奥尻島のシンボルとして君臨している鍋釣岩で囲炉裏で使う鍋のツル(弓形の取っ手)が名前の由来になっている。

海岸線に沿って2km程南下し、少し山間に入るとうにまる公園に到着した。ここに奥尻島で最も重要な観光施設であるはずの佐藤義則野球展示室が無償で観光客を待ち構えていたので満を持して見学させていただくことにした。奥尻島出身の佐藤はその強靭な背筋力を背景に奥尻中学時代に頭角を現し、函館有斗高校では甲子園出場は逃したものの、日本大学で大学球界のエースとして君臨し、ドラフト1位で阪急ブレーブスに指名され、新人王を獲得したつわものである。通算165勝を挙げた佐藤投手の野球人生のハイライトは1995年に史上最年長の40歳で達成したノーヒットノーランで当時ライトを守っていたイチローも試合終了後に俊足を飛ばして一路マウンドまで駆けつけていたのだ。

うにまる公園をうにまる公園ならしめている代物は平成元年のふるさと創生資金の投入により建立されたうにまるモニュメントである。ウニによる町おこしが順調に進んでいるのは町を照らす街灯もうにまるモニュメントを模した形に作られていることからも窺い知ることが出来るのだ。

うにまる公園を後にして東海岸線を北上していると民家の庭から野生のミンクが姿を現した。奥尻島にはクマ、毒ヘビ、キツネといった動物はいないのだが、島の60%を占めるブナ林はタヌキの居住地となっており、冬季には天然記念物のオオワシやオジロワシも出張してくるという。

1831(天保2)年に島の漁師たちが大漁祈願に弁天様を奉納したことから始まっている宮津弁天宮に164段の階段を上り下りして辿り着いた。気が付くと浜旅館から6km程離れた場所まで北上してしまっていたので道沿いに咲いている奥尻の花々を愛でながら奥尻市街まで帰って行った。

7月11日(月)

瀬川商会奥尻観光レンタカーで4段変則機能付きママチャリをレンタルすると、今後対応しなけらばならなくなるかも知れない自家発電のトレーニングを兼ねて島内の一周にチャレンジすることにした。奥尻島の海岸周囲は84kmなのだが、道路一周はわずか66kmなので26インチのチャリのサドルを最大限に上げ、尻の奥に食い込ませるようにしてサイクリングをスタートさせた。

島の道路の至る所にウニの殻が落ちているので、それらを踏んでパンクしないように注意しながら北上していると程なくして最北端の稲穂岬に到着した。もの悲しい雰囲気をたたえる岬の周辺は賽の河原と呼ばれており、海難犠牲者や子供を慰霊する霊場となっている。

さらに近辺には佐藤義則投手もその才能を開花させた野球場や決して八百長が行われることが無いはずの相撲広場、生きた海産物をその場で地獄焼きにして提供する土産物屋が少ない観光客を心待ちにしていたのだ。

賽の河原にさいならすると道はいつしか深いブナ林に囲まれ、開けた草原に到着すると、そこには魚介類に飽きた島民に肉の味を提供する奥尻牛の放牧場が展開されていた。

山道でところどころ視界が開ける絶景ポイントに遭遇し、思わず息を呑むような自然美を堪能しながら峠を降りると島内唯一の温泉地である神威脇に到着した。

通常であれば離島の温泉に浸かって英気を養うところであるが、島内一周を制覇する志半ばであったため、近隣のホテル緑館の巨大な足湯に手を差し入れて温度を確認するだけに留まってしまった。

北追岬で謎のオブジェをちら見した後、ほほえましい少し大人向けの艶笑話を由来とするみかげ石の奇岩を拝みに行った。そのモッ立岩の由来とは「一人の未亡人が、この磯に岩ノリを採りに来てこの岩を発見。亡くなった自分の亭主のからだの一部にあまりに似ていたので、喜び懐かしみ、そのままの名を付けることに恥ずかしさを覚え、上の一文字を抜いて、モッ立岩と呼んだと言われている」

マサよ、君がもしモッ立岩との勝ち負けをどうしても判断しなければならないのなら、遠路はるばるここに来なければならないのだ!

ということで、モッ立岩をあっさり完封した私はママチャリに跨り、落石防止のために絶壁に張り付いて作業している労働者にエールを送りながらウイニングランを続けることにした。

保水性の高いブナ林の高台から豪快に流れ落ちるホヤ石の滝でマイナスイオンを浴び、離島最北端の田んぼの風景をのんびり眺めながらペダルを漕いでいるといつの間にか島の南端部の岬に到着していた。

青苗というこの地区は津波で最も大きな被害を受けた地域だが、その教訓を生かして漁港からすぐに高台に非難出来る望海橋と命名された人工地盤が海と人との幸せのかけ橋になることを望んでいるかのように浮かび上がっていた。

奥尻島最南端の青苗岬をヒットして、奥尻まで残り17kmの距離を東海岸沿いに一気に北上していると沖縄の海のように透明な北の海が永遠に続いているかのような鮮烈な印象が心に刻まれた。

予定通り4時過ぎに奥尻市街に帰着し、チャリを返却するとさらに5km程歩いて今日の宿泊地である御宿きくちに向かった。この宿は奥尻島で一番新しい民宿だが、2006年、2008年、2009年に北海道地区の楽天トラベルアワードを受賞した名門で、授賞式に列席した際に、三木谷会長から表彰された様子が誇らしげに飾られていた。この宿で地獄焼きにされるアワビは水揚げ後1時間以内の新鮮なもので、何もつけずに召し上がっても十分に磯の味が口内に広がるのだ。

7月12日(火)

御宿きくちをチェックアウトし、フェリーターミナルに付属するバスターミナルまで送っていただいた。乗客の少ない9:40発のバスに乗り込むと30分程で最南端の町である青苗に戻ってきた。ここで忘れてはならない観光地は震災から8年、災害の記憶を忘れないために2001年にオープンした奥尻島津波館(¥500)である。

1993年7月12日、午後10時17分、北海道南西沖の深さ34kmを震源とするM7.8の地震が日本海地域を襲った。震源地に近い奥尻島は地震発生後わずか3分で襲来した大津波により壊滅的な被害を受けたのだ。津波の速度はなんと佐藤義則投手の速球の4倍近い500kmにも達したと言われ、オリックスが誇るブルーウェーブも全く歯が立たない程の威力で島を呑み込み、船の燃料である重油やプロパンガスに引火した炎は青苗の町を焼き尽くしていた。津波襲来後すぐに先発を生業とする佐藤義則投手も救援に駆けつけ、今回の震災とは比べ物にならないほどの速さで復興が始まり、5年後には早くも復興宣言が出されているのだ。

今日7月12日は震災の発生日ということで、北海道南西沖地震慰霊碑である時空翔の前には地元のテレビクルーが陣取り、震災の恐怖と教訓を後世に伝えるべく入念な番組のリハーサルが繰り返されていた。

この震災による被害を乗り越え、最新の津波対策を確立し、実施した奥尻には海外からのメディアも数多く取材に訪れていたのだが、高台への避難路、高さ6mの空中広場、遠隔操作出来る水門等の技術を十分に学ぶことが出来たので、速やかに奥尻空港に移動し、午後3時5分北海道エアシステムが運行するHAC2894便で函館までひとっ飛びした。

函館空港には北島三郎の痕跡が残されていないことにある種の安心感を覚えたので、午後9時10分発JAL1170便で羽田空港に帰還し、すし太郎も買わずに流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥5,380

総宿泊費 ¥6,720(食事なし)、¥22,300(2食付)

総JR代 ¥4,260

総バス代 ¥1,500

総フェリー代 ¥2.300

総レンタサイクル代 ¥700

協力 JAL、北海道エアシステム、楽天トラベル、JTB、ハートランドフェリー、JR

モアイとの出会いを求めるイースター島ツアー

チリも積もれば山となるというが、最近チリで大爆発を起こした火山から吹き出た塵はアンデス山脈に降り積もり、さらなる大きな山を形成していくことであろうが、震災からの復興も一握の塵程度の努力の積み重ねが大切に思える今日この頃である。ところで、昨今の情勢を省みると政局は混迷し、神がかり的な活躍を期待されたスポーツチームや選手は低迷し、日本を勇気付けて一つにするどころか被災地にストレスだけを与えている低たらくである。このような閉塞感を打開すべく、ハチ公と並んで渋谷の待ち合わせの聖地となっているモヤイ像にモヤモヤをぶつけにいっている輩も多いと思うが、FTBはそのパクられ元のモアイ像との出会いを求めてはるか太平洋の孤島まで遠征に出ることを決意したのだ。

2011年6月10日(金)

内閣不信任案の否決を尻目にAKB48の総選挙も無事終了し、日本の伝統文化である「オタク」を復興の起爆剤にすべく秋元康に福島県双葉町でFTB48の立ち上げを嘆願しようと考えているのだが、フラガールを生み出した福島県という土地柄だけに、東京電力の婦子女を募集すればこの計画もなまじ実現性の薄いものではないものと思われる。

それはそれとして、午後5時10分成田発ロサンゼルス行きNH006便は久々にエコノミークラスが満席になったというこじ付けでビジネスクラスへのアップグレードを果たした私を乗せて定刻通りに出発し、約10時間のフライトで午前11時過ぎに現地に到着した。その後2時40分発のAA2450便に乗り換え、午後8時前にアメリカン航空の本拠地であるダラス・フォートワース空港に到着すると、さらにAA940便に乗り換えて10時間以上を空の上で過ごすことと成った。

6月11日(土)

初夏のアメリカから赤道を超えて初冬のチリの上空に来たせいか午前7時を過ぎても窓の外は暗いままだった。定刻より少し早い午前8時前にようやくチリの首都サンティアゴのアルトゥロ・メリノ・ベニテス国際空港に到着すると何故か手元に残っていたブラジルの通貨であるレアルをチリ・ペソに両替し、空港バスに乗ってセントロ方面に向かった。

旧市街へと差し掛かる大通り沿いがバスの終点となっていたので、そこで下車すると左右に立ち並ぶ高層ビルや広場を眺めながらホテルに向かって歩いていた。楽天トラベルに予約させておいたホテル・リベルタドールには午前10時半くらいに到着し、1泊\3,300という安値ながらすぐにチェックインさせていただけたので部屋に引き篭もって横になっているといつのまにか意識を失っていた。

気がつくと夕闇迫る午後5時になってしまっていたので疲れた肉体に鞭打って街に繰り出して見ることにした。セントロの東にこんもりとした緑濃い丘が膨らんでいたので門番の指示で名前を登録させられた後、高台に登ることとなった。サンタ・ルシアの丘と呼ばれるこの場所はサンティアゴの基礎を築いたスペイン人征服者バルディビアが、抵抗する先住民に備えるために要塞を設けたのが始まりであるが、トワイライトのこの時間はアンデスの恋人たちの格好のたまり場となっているのだ。

わずか80km程しか離れていない6000m級のアンデスの峰々が夕日に赤く染まるとほどなくしてサンティアゴの町にイルミネーションが輝き出した。しかし、サンタ・ルシアの丘は治安維持のため冬季は午後7時までに撤収しなければならないので夜景を満喫出来る時間はわずか30分程度に限られているのであった。

サンタ・ルシアの丘を駆け下り、旧市街の中心に舞い戻るとにぎやかな通りに囲まれながらも市民の憩いの場所となっているアルマス広場に週末の喧騒を味わいに立ち寄ることにした。広場のステージではバンドが演奏し、陽気なチリアンがリズムに合わせて歌い踊っていたのだが、広場に面したサンティアゴ大聖堂の内部では厳かなミサが行われており、神父の説教の声と整然とした聖歌のしらべが満ち溢れていた。

6月12日(日)

まだ闇も深い早朝5時過ぎにホテルをチェックアウトすると防寒着を来た暴漢に襲われないように辺りに注意を払いながら空港行きのバス乗り場に向かった。6時のバスに乗り込み、空港に到着すると8時近くになってやっと東の空から太陽が昇ってきた。

午前8時20分発LAN航空が運航するLA841便に乗り込み、サンティアゴを離陸するとアンデスの絶景を尻目に飛行機は太平洋の上空に差し掛かった。これより3700kmもの航路を5時間以上かけての長旅となるため乗客はそれぞれビールやチリワイン等を痛飲しながら狭い機内で英気を養うことと成る。

酔いも一回りして目が覚めた頃には眼下に真っ青な海に囲まれた緑の大地が広がっており、2時間時計の針を戻すと正午過ぎにイスラ・デ・パスクアのマタベリ空港に到着した。イスラ・デ・パスクアは、1888年にチリ領になったときに付けられたスペイン語の名前で、英語でイースター島と呼ばれる。1722年のイースター(復活祭)にこの島にたどり着いたオランダ人が付けやがった名前だそうだ。

空港のロビーに出ると花輪を手にした数多くの出迎え人が手ぐすねを引いて宿泊客を待っていたのだが、私はまだ宿を決めていなかったので人口4000人のハンガ・ロア村を目指して1kmの道を歩くことにした。空港の敷地を出るといきなり居酒屋甲太郎という日本食屋に直面し、ここは単なる日本の離島ではないのかという不安に駆られたものの、気を取り直して村の中心に踏みいった。

村内にはそれなりの数のホテルや民宿が営業しているのだが、秘境を髣髴とさせる造りが目に付いたホテル・マナバイに飛び込むとローシーズンで部屋がたくさん空いているようだったので首尾よくチェックインを果たすことに成功した。

まだ時間もお昼過ぎだったので、早速島の雰囲気に慣れるために軽く村内を練り歩いてみることにした。村にはお土産物屋だけでなく、スーパーマーケットやレストラン、教会、学校等の生活に必要なファシリティは揃っているのを確認出来たので、イースター島の代名詞となっているモアイを求めて沿岸部を散策することにした。

周囲わずか58kmのイースター島は火山島で沿岸部は溶岩が流れて固まったゴツゴツした岩で覆われている。世界自然遺産に登録されているこの小さな島に年代も大きさもまちまちの900体以上のモアイが存在しているのだが、最初に私の前に姿を現したのはアフ・リアタ遺跡に鎮座するドカベン系のモアイであった。ちなみにアフとはモアイが立っている台座(祭壇)のことでモアイ以上に神聖なものとされているのだ。

さらに村に程近い沿岸部を歩いていると裸で釣りをしている原住民や東映の三角マークがドッ・ドッ・ドッと押し寄せてくるような荒波に挑戦するサーファーの姿を数多く見かけた。また、神聖なモアイの麓でバーベキューをしている不埒な輩も見受けられた。

点在するモアイの中で弱い者は倒されたままになっており、明らかに近年の技術によって作られた最新版が金属製の台座の上で目を剥いて立ちはだかっている姿も確認することが出来た。尚、最新版とはいえ、渋谷のモヤイ像のような端正な顔立ちではないのでモヤモヤする感覚は否めないのは確かであろう。

墓場を抜けるとイースター島の見所のひとつであるタハイ遺跡に到着した。ここは1968~1970年代にかけて、アメリカの考古学者ウイリアム・ムロイ博士によって復元された儀式村の跡であり、5対のモアイが並ぶアフ・バイウリ、独身のモアイが立つアフ・タハイ、唯一イミテーションの眼がインストールされたモアイの立つアフ・コテリクと3つの祭壇があるのだ。

タハイ遺跡はイースター島で最高の夕日の名所となっており、三々五々集まってきた観光客は沈み行く太陽に照らされるモアイ達を眺めながら遥かなる郷愁に想いを馳せているかのようであった。

6月13日(月)

冬のイースター島では午前8時を過ぎてようやく明るくなり、8時半からホテルで供される朝食を済ませた後、タハイ遺跡まで軽く散歩することにした。昨夕の逆光とは異なり、朝日を受けたモアイ像はその2頭身半の巨体の輪郭をくっきりと現していた。

イースター島2日目の今日は島の全容を解明するための足が必要だったのでマウンテンバイク、スクーター、レンタカー、四輪バギーの中からヤマハのスクーターをチョイスし、$32 / 8時間でレンタルすることにした。ハンガ・ロア村を出て内陸部に向かうと道は舗装されていない悪路になったのだが、荒涼とした大牧草地帯の真ん中に突如として海を見つめて立つモアイの集団が姿を現したのだった。

1960年、ウィリアム・ムロイ、ゴンザロ・フィゲロ両氏によって復元されたアフ・アキビに立つ7体のモアイはヒバの国の7つの部落の7人の像といわれている。また、モアイ像の後ろからは石組みと人骨も発見され、墓として利用されていたことを思わせる動かぬ証拠も抑えられているのだ。

ヤマハのスクーターでごろごろした石が転がる悪路の滑りやすい斜面を下っていると急にバランスを失い、転倒を避けるために右足で地面を支えた際に、肉離れを起こしたときに聞きなれている「ブチッ!」とした快音を発生させてしまった。このトラブルにより、モアイの謎の解明も志半ばで断念せざるを得ないのか!?という覚悟も一瞬よぎったが、歩く速度を4分の一に落とせば何とか右大腿部裏筋も機能するようだったので調査を強行することにした。

火山島であるイースター島には無数の洞窟や穴があるのだが、あるものは宗教的な儀式に使われ、あるものには穴にたまった土で食用になる植物を育てた痕跡が残っている。最大の規模を誇るアナ・デ・パフは長さ910mを誇っており、今でもアボガド、バナナ、タロイモなどの植物が茂っている。

1300年代からモアイの頭にはプカオという赤色凝灰岩で作られた帽子や髪飾りのようなものが盛られるようになったのだが、プカオはプナ・パウという遺跡で切り出されて運ばれたと言われている。ここの高台は島全体を見渡すビューポイントにもなっており、多くの観光客が牧歌的な風景を堪能していたのだが、切り出し中のプカオはその辺にも転がっており、それぞれシリアル番号で管理されていたのだった。

プナ・パウから下山すると島を縦断する状態の良い舗装道路に出たので一気に島の北岸のアナケナビーチまでやってきた。ビーチには1961年にタヒチから運ばれたココヤシが生い茂っており、温暖な気候から海水浴にも絶好のスポットとなっている。入り江を望む丘の上には先ほど現場を確認したばかりのプカオを載せた7体のモアイが立ふさがっていたのだが、足が痛かったのでとりあえず遠巻きに眺めておくにとどめてしまった。

舗装道路を全速力でハンガ・ロア村まで取って返し、空港近くの唯一のガソリンスタンドで満タンにしたスクーターを返却した後、傷めた足を引きずりながらもアフ・タハイまで引き寄せられて行った。サンセットの景色は昨日にも増して輝いており、愛想の良い野良犬たちも人類の気を引こうと寄り添いながらもモアイの背景に沈む夕日に見入っていた。

夕食時には島でも高級カフェ・レストランの部類に入るであろう店に入って意味のわからないスペイン語のメニューの中から手頃な価格の物を指差し発注すると高級そうなシーフードが目の前に現れた。皿の中央に鎮座する魚はミディアムレアに焼かれており、それを取り巻くソースはこの上なく美味だったのだ。

6月14日(火)

昨日傷めた足が5%程度の回復を示していたので再びスクーターに足をそろえて一気に島を縦断することにした。

アナケナビーチにはホツマツアの像といわれる顔の短いモアイが立っているのだが、これは島で最も早く1956年にヘイエルダールと原住民が立て直した者である。しかも、モアイをどのように立てたかを試したものということで、12人がかりで18日もかかったそうだ。

1978年に復元されたアフ・ナウナウに有るプカオを載せた7体のモアイは砂に埋もれていたため保存状態が良好で背中に彫られた模様やふんどしもほんのりと残っているのだ。

アナケナビーチを後にして海岸沿いを走っていると放牧された集団の馬がランダムに草を食んでいるので減速を余儀なくさせられるのだが、その向こうには今まで目にしたことがないようなモアイの集団が海風を背に受けて立ちはだかっていた。

島最大の15体のモアイが立つアフ・トンガリキの再建は1993年~1995年にかけて日本企業の援助によって行われており、その偉業を称えるクラックの入ったプレートが高性能クレーンの写真と共に誇らしげに掲げられていた。

ちなみに再建を請け負った会社は四国の高松に本社を構えるタダノという大手クレーン会社で再建に際して「特命係長 只野仁」に匹敵するプロジェクトが組まれ、その模様は同社のHPで詳細に紹介されているのだ。http://www.tadano.co.jp/tadanocafe/moai/about/moai/index.html

尚、タダノが負担した再建に関わる費用は1億8千万円と言われているが、タダノはただのボランティアという立場に甘んじていたため、彼らには一銭の見返りも与えられていないのだった。

アフ・トンガリキから離れた場所でポツンと独身で立っている1体のモアイはいったい何だろうと思っていたのだが、これは1982年に日本に出張し、東京と大阪で展示された由緒正しい像であった。また、アフ・トンガリキの敷地に転がっている石にはマケマケ神や魚等の岩絵が描かれているのだった。

マサよ、君はモアイの量産工場がISO9001の認証が受けられるはるか以前に稼動していたのだが、今では箱根彫刻の森美術館のようにモアイが山間に点在する廃墟に成り下がっている光景を目の当たりにしたことがあるか!?

ということで、イースター島ツアーのハイライトとも言えるモアイの切り出し場ラノ・ララクがアフ・トンガリキを見下ろす場所にそびえているので謹んでモアイの要塞に足を踏み入れさせていただくことにした。エントランスでラパ・ヌイ国立公園の入場料$60を支払う際に日本語を一生懸命学習しようとしているイースター原住ギャルから中途半端な日本語での注意事項と説明を受けた後、山に残る遺跡を散策することとなった。

ラノ・ララクのトレイルは火山の火口の周囲とモアイいっぱい地帯の二つに分かれているのでまずは火口の周囲を巡って見ることにした。水を湛えた火口を取り巻く斜面に、完成して斜面から切り離され、出荷直前の状態になっているモアイが工場の操業停止によりキャンセルの憂き目に遭い、むなしく前を見つめている姿はマサに哀愁を感じさせるものがあった。

モアイいっぱい地帯にはマサに凝灰石から切り出されようとしている製造途中のモアイが多数横たわっており、島最大のエル・ヒガンテと呼ばれるモアイは21.6m、160トンに達するとも言われている。

ここにあるモアイはモアイ製作時代の後期に作られていた代物なのでサイズが大きいのが特徴であるが、一体のみ正座した珍しいモアイ・トゥクトゥリがあごひげをたくわえて礼儀正しく大空を見上げていた。

ラノ・ララクの監査を無事終了すると島の西南まで一気に突っ走り、オロンゴと呼ばれる聖域に辿り着いた。モアイ倒しが始まった17世紀以降、モアイ信仰に代わって登場したのが「マケマケ信仰」「鳥人儀礼」であり、その鳥人儀礼がここオロンゴで行われていたのだ。

南太平洋の風が吹きすさぶラノ・カウという火山の目の前にモトゥ・ヌイというグンカン鳥が営巣する島があるのだが、そこまで泳いでグンカン鳥の卵を最初に持ち帰った上官が「鳥人」と呼ばれ、以後1年間全島を治める権利を有することになるのだが、あくまでも笑い飯の漫才のネタにある顔が鳥で体が人間になっている「とりじん」とは異なり、「人と鳥の境目をみせてあげよう!」という脅し文句は使えないのである。

オロンゴ岬の先端の岩には鳥人のレリーフが数多く刻まれ、鳥人儀礼の際に使われたとされる53の石室も復元されている。また、ラノ・カウ火山の火口湖は直径1600m、水深11mを誇り、島の貴重な水源にもなっているのである。

オロンゴ遺跡の麓の沿岸部にアナ・カイ・タンガタと呼ばれる海に面して口を開いた20畳ほどの広さの食人洞窟がある。天井には鳥の絵が描かれており、この場所で晴れて鳥人になった上官が戦って敗れた部族を儀式として食人したと伝えられているのだ。

マタベリ空港に程近い南海岸にアフ・タヒラという遺跡がある。ここには顔を下にして地面に倒れたモアイが数体あるのだが、アフをよく見るとその石組みはインカの石組みのように全く隙間がないのに驚かされる。そのため、イースター島文明とインカ文明との関連性さえ取り沙汰されているのだった。

スクーターのガソリンが余っていたので、アフ・タヒラから南海岸に沿って一気に東海岸に舞い戻り、15体のモアイでお馴染みと成ったアフ・トンガリキを通り過ぎてテ・ピト・クラというパワースポットに到着した。ここの海岸に、まるでやすりでもかけたようにツルツルの表面が眩しい丸い石が鎮座している。これがテ・ピト・クラと呼ばれる石で直径98cm、重さ82トンを誇っている。この石には磁場があり、不思議なパワーを秘めているので観光客がこぞってそのパワーにあやかるべく、しきりに石を撫で撫でしているのだ。

今日の夕食は空港近くのモアイに守られたカジュアルレストランで適当に指差し発注すると白身魚の輪切りをソテーにした焼き魚がフライドポテトと共に出てきたので、この島には豊富な魚料理のメニューがあり、決して侮ってはいけないと肝に銘じたのだった。

6月15日(水)

イースター島滞在最後のこの日は、通り雨のおかげで発生した虹をバックにしたタハイ遺跡のモアイ達を眺めながら、その近くのイースター島博物館に向かった。

たまたま社会見学に来ていた学童で賑わっているイースター島博物館(CLP1,000)ではモアイ像がどのように作られ、どのように運ばれたのかなどを学ぶことが出来る。特にモアイの運搬に関しては、これまで宇宙人説や自立歩行説といったモアイ自体がも~あいそをつかしてしまうほどの愚説を唱える輩が多かったが、ここでは科学的根拠に基づいた方法が詳しく説明されているのだ。

博物館での最大の目玉はそれをはめ込むことでマナ=霊力が宿ったとされるモアイの眼である。量産出荷された当時のモアイにはすべて眼が入っていたのだが、モアイを怖いと思った侵略者は、その霊力の影響を避けるためにモアイを倒したり、眼を取り去ってしまったと言われている。

ホテル・マナバイをチェックアウトする際にホテルのオーナーからモアイのちゃちなネックレスを記念にいただいた。午後1時発のLA842便は30分程遅れて到着し、そのまま折り返しでサンティアゴに向かって離陸となった。遠ざかるイースター島を眼下に、モアイにはも~会いに来ることはないだろうと思いながら、機内で紅白のチリ・ワインをいただいて顔色を変化させているとサンティアゴに着いた時間は午後9時前になっていた。バスと徒歩で楽天トラベルに予約させておいた機能的なCESAR BUSINESSホテルにチェックインすると2軍のイースタン・リーグに落とされたような一抹の寂しさを感じながら夜を過ごしていた。

6月16日(木)

サンティアゴ旧市街のはずれにあるCESAR BUSINESSをチェックアウトし、新市街を目指して東に向かって歩いているとおびただしい数の学生集団が何らかのデモで街中を練り歩いていた。

新市街にはこれといった見所がなかったので、セントロの北東にそびえる丘陵地帯を公園にしたメトロポリタノ自然公園に足を引き摺りながら這い上がっていくことにした。標高が上がり、時間が経つにつれてサンティアゴ盆地を覆っていたスモッグが晴れ、雄大なアンデス山脈が姿を見せ始めた。

メトロポリタノ自然公園の中心は、丘の上に立つマリア像なのでひたすらそれを目指して歩いていた。標高880m(市街地との標高差は288m)の頂点に「アンデスとは何ですか?」とでも言っているかのように両手を広げて立つマリア像は、高さ14m、総重量は36.6トンに及ぶ巨大なオブジェで1908年に完成している。

像のすぐ下には展望広場のみならず、何らかのコンサートも出来る会場や教会まであるので観光客や信者にとっての格好の憩いの場となっているのだ。

負傷したにもかかわらず酷使に耐えた足をいたわるためにケーブルカーで下界に下り、国立美術館の前に立ち塞がっている体の半分が足から成る馬に目を奪われながら旧市街に戻ってきた。

日本に匹敵する漁業大国チリの醍醐味を味わうために中央市場で魚介類の見学をさせていただくことにした。市場内には食堂も多く、魚を物色していると日本語で「ウニ、ウニ!」と言いながらメニューを持って擦り寄って来る客引きに対して最初はトゲのある対応しか出来なかったのだが、意を決して一軒の食堂に入ってみることにした。当然のことながら、何を発注していいのかわからないのでおっさんの薦めで豊富な魚介類が煮込まれていい出汁が出ているスープを食って溜飲を下げておいた。

チリから撤収しなければならない時間が迫ってきたので街中でダンスを楽しむチリアンを尻目に旧市街を抜け出してバスで空港に帰って行った。午後8時50分発AA940便は定刻通り出発し、三国志をハイペースで読みながら、10時間もの時間を機内で過ごすこととなる。

6月17日(金)

午前6時前にダラス・フォートワース空港に到着し、AA2407便に乗り換えて3時間のフライトで9時前にロサンゼルスに辿り着き、さらに午後12時55分発NH005便に乗り換えて帰国の途に着いた。機内でALI(アリ)というモハメド・アリの波乱万丈の人生を描いた157分の長編映画を見て時間を潰すことにした。当然アントニオ猪木との異種格闘技を中心としたストーリーになっていることを期待したのだが、この映画はハリー・フォアマンとザイールのキンサシャで対戦し、ヘビー級王座を奪回したところで終わってしまったので、思わず「そんなのアリえね~」と叫びそうになってしまった。尚、猪木のテーマソングであるボンバイエが元々はキンサシャで「アリ、ボマイエ!」と声援されていたことが起源になっていたことを思い知る羽目となったのだった。

6月18日(土)

午後4時半に成田空港に到着し、渋谷のモヤイ像前で待ち合わせて帰朝報告をするまでもなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥47,250, AA = ¥118,030, LAN = $882.04

総宿泊費 ¥10,900、CLP162,000(朝食付き)

総空港バス代 CLP5,600 (CLP1 = \0.17)

総タクシー代 CLP2,000

総ケーブルカー代 CLP1,000

協力 ANA、アメリカン航空、LAN航空、楽天トラベル

祝2000本安打&世界遺産内定記念 小笠原ツアー

マサよ、君はまもなく首都・東京に誕生する世界自然遺産に先取り上陸したことがあるか!?

ということで、2011年5月6日(日)、国際自然保護連合(IUCN)は、小笠原諸島を世界遺産リストに記載することが適当であると世界遺産委員会に勧告し、順調に進めば2011年6月末の同委員会で、小笠原諸島は日本で4番目の世界自然遺産となる。これは石原都知事が多額の税金をつぎ込んでゴリ押しした東京オリンピックの招致の失敗など足元にも及ばない快挙である。また、小笠原が世界遺産となれば観光客が殺到し、その重みで島々が沈んでしまうことも懸念される。いずれにしても、世界遺産登録後に様々な制限を設けられる前に小笠原まで航海しなければ後々後悔するのは必至であるはずなのでGW後の閑散期に太平洋の荒海に乗り出すことにしたのだ。

2011年5月24日(火)

JR浜松町から程近い東京港竹芝客船ターミナルに午前8時半頃到着し、東海汽船の窓口で乗船券と人名票を入手し、必要事項を記入すると世界自然遺産登録直前小笠原先取り体験キャンペーンのゆるキャラに就任しているメグロンにガンをつけた後、通称「おが丸」として慣らしている小笠原丸に乗り込んだ。

大きな銅鑼の音を鳴らして定刻午前10時に出港となった「おが丸」は小雨そぼ降る中、東京タワーやレインボーブリッジ等の都会の建造物を尻目に東京湾を南下して行った。

おが丸には何故か日テレ等のテレビクルーも乗船しており、しきりに周囲の風景を録画しまっくていた。羽田沖を通過しているおが丸のデッキからは数十秒毎に離着陸を繰り返すANAやJALの機体が遠巻きに眺められ、これから起こるアドベンチャーの期待が徐々に高まっていくのであった。

東京湾に別れを告げ、太平洋の外洋に出たおが丸は、その6700トン、全長131mの巨体を大きく揺らしながら酒さえ飲んでいない乗客をも酔わせ、船内レストランや売店の売り上げを著しく低下させると同時に各所に設置されていたエチケット袋の消費量を増やしていた。南極に至るドレーク海峡で三半規管を強化していた私でさえ、この日は飯も食わず、持参していた三国志4巻、5巻を読破することもなく、2等雑魚寝スペースで意識を無くそうと努力するのが関の山であったのだ。

5月25日(水)

夜が明けるとようやくシケも収まっていたようで、何とか船内レストランの売り上げに貢献し、デッキで果てしなく続く青い海を眺めていた。空を舞う海鳥やおが丸が立てる白波を眺めていると、ふとGIANTSの背番号2のユニフォームに身を包んだ侍が左打席でフルスイングしている感覚が強くなってきたのですでに小笠原諸島の海域に差し掛かっていることを確信した。

島影が次第に濃くなり、歓迎クルーザーも姿を現したところでおが丸は父島二見港に着岸し、乗客は約26時間ぶりに大地を踏みしめることとなった。

下船後ほどなくすると今回宿泊することになっているトロピカルインパパヤのスタッフがバンで迎えに来ていたので早速乗り込むと宿に着く2分程の間に簡単に父島市街のガイドが施された。ATMは農協と郵便局のものが使用可能なので金融機関に金を預けている限り金欠病に罹る懸念はなく、コンビニはないものの商店や食堂、居酒屋はいくつかあるので東京都民としての暮らし向きに何ら不便がないことが確認された。

宿に到着すると父島に入植して39年のパパヤのパパ兼オーナーの田中氏から新規宿泊客に対して数々の注意事項が与えられた。基本的に南国での自由気ままな生活を謳歌してよいのだが、過去には不幸にも海や山でお亡くなりになった方々が数多いので出かけるときは行き先を伝えるようにとのことであった。

近くの中華料理屋でタン麺を食った後、パパヤの目の前にある小笠原ビジターセンターに入ってみることにした。ここには実物のカヌーが帆走時代の姿に復元されて展示されているのだが、窓越しに広がる前浜と言われる大村海岸では気安く海水浴やウインドサーフィンを楽しむことが出来るのだ。

パパヤで原チャリをレンタルすると父島の見所を一通り回ってみることにした。大村地区の繁華街を抜け、東岸の舗装道路を南に進んでいるとギルバート諸島出身の先住民「コペペ」が利用していたというコペペ海岸に到着した。さらにその奥には真っ白い砂浜が広がる小港海岸がコバルトブルーの透き通った水を満々と湛えていた。

島内にはいくつもの森林生態系保護地域があり、そこに入るためには観光ガイドの同行が必要でさらにマットの上で泥や種子を落とさなければならない程の厳重管理がなされている。さらに大陸と陸続きになった実績のない小笠原には固有の動物や植物が生息しているのだが、中でもアカポッポとの異名を取るアカガシラカラスバトは十分にマークされ、野猫の脅威から防御されているのだ。

島の中央に標高319mの中央山がそびえているのでそこからの絶景を堪能した後、宇宙航空研究開発機構の何らかの機器をチラ見していくつかの展望台をはしごしながら大村地区に帰ってきた。

気象庁傘下の父島気象観測所が小笠原諸島一帯の天気予報を担っており、石原良純のへたくそな天気予想よりも高い信頼性を誇っているのだが、三日月山という小高い丘は何故かウエザーステーションと呼ばれており、夕日の絶景ポイントになっているのだ。クジラの繁殖シーズンともなればこのステーションからザトウクジラが座頭市のように海上でもだえている様子を遠巻きに眺めることが出来るという。

夕食に島鮨をたらふく食った後、パパヤの相部屋の部屋に戻り、オーナーの田中氏の勧めで2009年7月に観測された皆既日食のDVDを鑑賞させていただいた。その年の日食のホットスポットは鹿児島沖のトカラ列島であったのだが、奄美大島に上陸した沢尻エリカ様の祟りのために暴風雨になり、鹿児島沖では見れなかったのだが、何と小笠原諸島南部で目撃された天体ショーがしっかりと記録されていたのだ。さらに田中氏の説明によれば東京都の石原軍団に仕切られている小笠原では毎月¥5,000をぼられながら東京都と同じチャンネル数のテレビが見れるとのことで、何故か地デジ対応後は¥1,500になると満足気に話していた。尚、小笠原好きでしかも海の男である石原都知事は自家用のヨットで小笠原まで来やがった実績もあるとのことであった。

5月26日(木)

今回宿泊しているトロピカルインパパヤはドルフィンスイムやホエールウォッチングを通年営業しているマリン系のツアーを生業としており、今日は父島周辺1日コースのツアーに空きがあり、しかもキャンペーンでツアー代金が10%割引になるとのことなのでマサであれば\8,000かかるところを私は\7,200の支払いで参加させていただくことにした。

午前9時過ぎに桟橋に到着し、そこに繋留してあるミス・パパヤという大型クルーザーに乗船すると小笠原で最もエキサイティングな海上ツアーの火蓋が切って落とされた。ミス・パパヤは二見湾を抜けると父島の東岸を南に進路を取り、父島南東にひっそりと佇むジニー・ビーチの近辺に浮かぶ南島に到着した。

大型クルーザーのミス・パパヤでは南島に着岸出来ないため、ツアー客はミス・パパヤに伴走してきたマンボウという小型船に乗り換えると石灰岩で出来ている沈水カルスト地形の小さな島に一歩を踏み出すこととなった。

南島では貴重な自然環境を保全するため、1日100人という入島規制が敷かれており、しかも最大15人までを管理出来る東京都認定ガイドの同行が必要となるため、どこぞのテレビクルーもガイドの指示に従いながら粛々と絶景をカメラに収めていた。

南島での最大の見所である扇池の砂浜には貴重な半化石状のヒロベソカタマイマイの貝殻が散乱しており、さらにアオウミガメが産卵した後には観光客が卵にダメージを与えないように目印として3本の小枝が白砂に突き刺されていた。

マサよ、君はかつての女王小谷実可子が野生のイルカとシンクロして泳いだ時に人生観が変わり、オリンピックで獲得した銅メダルなど、ど~でもよくなった程の衝撃を受けたという逸話を聞いたことがあるか!? http://spiritual.syuji.com/?eid=501699

というわけで、小笠原はドルフィンスイムの先駆けであり、聖地であるとも言えるのであるが、南島からミス・パパヤに戻り、辺りをクルーズしていると程なくミナミハンドウイルカの群れに遭遇し、すぐさまドルフィンスイムのスクランブル体制が取られた。海の水はまだ冷たいため、乗客はウェットスーツに身を包み、クルーザーの後方から次々にイルカ目指して青い海にエントリーして行った。

脳内から分泌された脳内モルヒネと言われるベータエンドルフィンのせいか、ドルフィンスイム中は皆リラックスした状態でイルカと戯れることが出来るのだが、イルカにもイルカの事情があり、餌取りで忙しいときもあるので必ずしも一緒に遊んでくれるとは限らないのである。また、♪イルカに乗った少年♪である城みちるが水平線の向こうから乗ってきたイルカは自家用イルカでないかとの疑いを持たれているのだが、その根拠はドルフィンスイムでは決してイルカに触れてはいけないという厳しい自主規制が敷かれているからだ。

複数の船からイルカの群れにエントリーする場合には一隻あたり5回のイルカアタックまでというルールがあるのだが、今日は複数のイルカの群れが出現したため、ドルフィンスイムはお昼過ぎまで続けられた。イルカを追いかけて腹も減ったので父島の北に位置する兄島南岸の兄島海域公園まで移動して海底に固定されている浮きにミス・パパヤを繋留して昼食を取ることとなった。船の上から餌を撒くとすぐに熱帯魚が群れを成して集まって来たので、ここで釣竿を垂らせば入れ食い状態になることは間違いないはずである。

昼食後もイルカやクジラ等を探して父島海域をクルージングしたのだが、これといった成果も上げられなかったので島の横穴の奥まで泳いで探検して帰ってくる等のスノーケリングアクティビティで時間をやり過した後、午後5時前にサンゴが茂っている二見港の桟橋に無事帰港し、ツアーの終了となったのだった。

5月27日(金)

離島の静かな夜も明けきった早朝からあわただしく相部屋の同宿人が道を隔てた目の前のビーチに走り去っていったので、何事かと思い、私も後を追いかけてみると夜中に安産を終えたはずの巨大なアオウミガメが砂の窪地に排卵の余韻を残しながら砂を掻いていた。この光景を目にすると、わずか数m先に人類が住んでいる喧騒のビーチにまでアオウミガメが産卵に来るほど、この地域は自然と密接に繋がっている事を思い知らされるのであった。

午前6時半には朝食を済ませてトロピカルインパパヤをチェックアウトするとフェリー乗り場まで徒歩5分の道のりにもかかわらずバンで送っていただいた。小笠原諸島くんだりまで来て父島だけで母島に上陸しないと両親に対する仁義を欠くことになりはしないかと思ったので片道\4,400の大金を支払って「ははじま丸」に乗り込み、親孝行のつもりで50kmもの距離を2時間かけて航行することにした。

航海途中の船上で「船の周辺にイルカを発見しました~!」とのアナウンスが鳴り響いたりしながら、午前9時半過ぎには母島の沖港に到着した。ところで小笠原の携帯電話情報なのだが、父島ではドコモとAUは使用可能だが、ソフトバンクには対応していないのでiPhoneユーザに対して優越感を持ちながら観光していた。ところが、母島に入るとAUもNGでドコモのみとなったので仕方なく「圏外」となったAU電話を引っさげて沖港船客待合所に付属している母島観光協会で今日の宿を探していただいた。

幸いにも石で作ったクジラのオブジェが反り返っているクラフトイン・ラ・メーフという宿にしけこむことが出来たので、チェックインするとすぐに母島の探検に繰り出すことにした。沖港内にバスタブ系ではあるが浄水設備が整ったははじま水族館に拉致されているアオウミガメの子供を見舞っているとその下の海には体長1m程度のネムリブカが眠そうに泳いでいた。

港の脇はその名の通りの脇浜なぎさ公園という人口砂浜になっており、その上には鮫ヶ崎展望台という見晴らしポイントが設置されているので季節がよければザトウクジラの絶好の観察ポイントになりうるのだ。

脇浜なぎさ公園の入口にアオウミガメの人工産卵場が整備されていたので覗いて見ることにした。産卵場内の海域は柵で外海と隔てられており、わざわざ産卵に来たであろう成人アオウミガメはしきりに柵外に出ようと無駄な努力を繰り返しているのがやるせなかった。さらにネムリブカも繁殖のシーズンを迎えているようで岩を中心とした添い寝がしやすいフォーメーションが形成されていた。

ロース記念館という母島特産のロース石で製作された生活用品を展示していると見せかけて実は母島の歴史を学ぶための郷土資料館として君臨しているファシリティでパンフレットに記念スタンプを押していただいた後、町を流していると行幸紀念碑に遭遇した。東京から1,000kmも離れた離島であっても昭和天皇も平成天皇もしっかりとこの地を訪れている様子から小笠原はいつの時代にも日本の重要拠点であることが確信されたのである。

母島の母性本能をくすぐるために父島、母島の最高峰である乳房山に登頂することにした。標高がわずか463mということで楽勝かと思いきや、地形上トップとアンダーの差が大きいので乳房山遊歩道一周には約4時間かかるのが標準となっているのだ。

集落近くの乳房山遊歩道入口から急な斜面を登り始めると程なくしてうっそうとした亜熱帯雨林のジャングルに紛れ込んでしまった。森の中は小笠原の固有植物の宝庫であり、母島にしか生息していない特別天然記念物の鳥「メグロ」等の野鳥が喉を潤すために観光客は小鳥の水場で給水に協力しなければならないのだ。また、山中の所々に第二次大戦中に掘られた塹壕の跡や米軍が置き土産として不要爆弾を落とした跡が今も生々しく残されているのだ。

登山遊歩道は各所で展望が開けており、高台から沿岸部を見下ろすことが出来るのだが、頂上から見る東側の景色はとりわけすばらしいものであった。

蒸し暑い中、体中に汗をしたたらせながら何とか2時間半で乳房山遊歩道を制覇し、集落に戻ると売店でビールを買って前浜でひっそりと登頂記念の祝杯をあげていると車の中からとある少女が私が食っていたスナックを見て「それ、かっぱえびせんですか?」と気軽に声をかけてきた。母島はわずか450人しか人が住んでなく、人とすれ違う時は必ず挨拶を交わす習慣が徹底されているのでそこいらの児童からも魔法の言葉が「ポポポ ポ~ン!」と出てくるのである。

1927年の行幸の折、天皇が生物採集にいそしまれたことから命名された御幸之浜に向かう途中で東京電力母島発電所に遭遇した。この発電所はLNGを燃焼させる火力式となっているので小笠原は放射線の脅威にさらされるリスクがなく、人々は紫外線のことしか気にかける必要がないのである。

5月28日(土)

クラフトイン・ラ・メーフをチェックアウトする際にオーナーのおばちゃんと雑談していると部屋の隅に無造作に置かれた色紙群から、この宿にはCWニコルやアルピニストの野口健といった自然派有名人が宿泊した実績があることが判明した。また、ルネサスソフトボール部所属で日本代表のエース上野は律儀にもサインボールまで提供していたのだった。

午前9時半過ぎに父島から到着したははじま丸は10時半に折り返し出港となった。港に見送りに来ていた面々を見ると圧倒的に母子連れが多く、母島は将来に渡って安泰であることが約束されているかのようであった。

午後12時半過ぎに父島に帰着し、ペリー提督来航記念碑に別れを告げた後、おが丸に乗り込み着岸側のデッキで出港の行く末を見守っていた。出港の10分前には航海安全と再会を祈念して勇壮な小笠原太鼓が打ち鳴らされ、船長とおぼしき人は船員らしき人々の一団と儀式的な握手を交わしていた。

おが丸が岸から離れると父島中のクルーザーが狂い咲きのように一斉に伴走を開始した。港外に出てもなお追っ手のスピードを緩めない見送り船団であったが、それまで大きく手を振っていた海人たちは頃合を見計らって皆コバルトブルーの海に飛び込んで藻屑と化していったのだった。おが丸を最後まで追いかけてきたのは最大級のクルーザーであるミス・パパヤでオーナーの田中氏も運転席から手を振っていたのだが、彼にはこれから藻屑を回収するという残務が残されているのであった。

5月29日(日)

台風2号の接近により復路の航海は大荒れを覚悟していたのだが、航路は概ね波静かで持参していた三国志も順調にページが進んでいった。小笠原での滞在により、乗客は顔見知りが多くなり、会話もはずんでいたのだが、誰も巨人のクリーンアップに君臨している小笠原道大の2000本安打達成キャンペーンが無かったことを議論している者はいなかった。小笠原親善大使に就任している小笠原道大にとっては立場のない状況だと思われたが、彼は今年の日本シリーズでMVPを取った後に凱旋来島することであろう。http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/sightseeing/ambassador.html

おが丸は定刻午後3時半に竹芝港に着岸し、台風2号が熱帯低気圧に変わってもなお雨が降っている浜松町にて流れ解散。

FTBサマリー

総フェリー代 ¥56,296

総宿泊費 ¥22,300 (2食付き)

総レンタルバイク代 ¥1,350

総ガソリン代 ¥319

協力 小笠原海運、伊豆諸島開発株式会社、(株)パパヤマリンスポーツ (http://papaya.ecgo.jp/)

FTBJがんばるぞ!みちのくツアー(岩手、宮城)

震災から2ヶ月が経過したにもかかわらず、みちのくから足が遠のいてしまっており、非常に心苦しい思いをしてきた今日この頃である。また、みちのく成金であるはずの山本讓二が救済の表舞台に出てこないことにも一抹の寂しさを覚えたため、ポストゴールデンウイークのこの時期にあらためてみちのくのすばらしさを伝えるためにひとりたびに出ることにした。

2011年5月8日(日)

高速料金の休日割引の恩恵をキープするためにTBS開局60周年記念 日曜劇場「JIN -仁-」が終了した午後10時過ぎに家を出ると日付が変わる前に東北自動車道に入り、とある埼玉県のサービスエリアに停泊したでありんした。今日は深夜の高速走行を避けるために車の中に常備してある寝袋に宿泊することとした。

5月9日(月)

早朝寝袋をチェックアウトすると東北道を北にひた走っていた。福島県に差し掛かった頃からだろうか、次々と出現した地震の影響で痛んだ道路を補修した跡が私の股間を刺激し、東北道は連続したチンサムロードと化しているようだった。要所要所で休憩を取ったサービスエリアでは災害派遣されている自衛隊の車両が停泊しており、迷彩服を着こなした隊員たちが束の間の休息を取られていた。前沢牛で有名な前沢SAでは前沢牛のコロッケ、ハンバーガー。串焼き、タン塩等が高値で売られており、私もユッケがあれば大金をつぎ込んで食してみようと思っていたのだが、ベロ毒素が人間を妖怪人間ベム、ベラ、ベロに貶めるのを恐れてか、販売されていなかったので断念した。

水沢インターで一般道に下り、のどかな田舎道を走っているとそこら中の桜が未だに満開の余韻を残している光景が目に飛び込んできた。いつの間にか昔話で有名な遠野に迷い込んでいたので道の駅遠野風の丘で風に吹かれながら休憩を取ることにした。あたりには復興支援でめざましい活躍を見せる自衛隊に対する感謝の意を表明する看板が数多く掲げられているのだが、幸いにも「菅直人このやろう!」というような政府への批判は慎まれているようだった。

道の駅で遠野の観光情報を入手すると最大の見所であるはずのカッパ淵に向かった。常堅寺という寺の裏を流れる小川の淵にこれ見よがしにきゅうりをインストールした釣竿がしかけられており、いかにもここにカッパがいるという装いがなされていた。とりあえず♪き~ざくら~♪と声をかけたが、反応がなかったので、この場所は「河童」というへたくそな映画を製作して大赤字に陥り、やむなく米米クラブを復活させざるを得なかったカールスモーキー石井竜也の怨念に汚染されていることが懸念されたのでやむなく撤収となった。

遠野地方の農家のかつての暮らしぶりを再現し、国の重要文化財である曲り家「菊池家」を展示している伝承園(\310)に入園してみることにした。まず最初に遠野物語の話者「佐々木喜善記念館」に入館し、民話の帝王柳田國男との交流の歴史を学習した後、旧菊池家の内見をさせていただいた。家内の調度品はカッパにかっぱらわれることなく現役当時そのままの様子で保存されており、みちのくの昔の暮らしぶりを思い描くことが出来るようになっていた。

遠野から遠のくにしたがって、今日の宿泊先である花巻南温泉峡に近づいていった。楽天トラベルに予約させておいた新鉛温泉の愛隣館にチェックインすると早速当館自慢の温泉に入ることにした。地階の温泉に向かう道すがら、このホテルが「火曜サスペンス劇場」のロケに使用され、サスペンスの女王片平なぎさも宿泊したことのある歴史的価値を見出してしまった。川の湯と命名された川沿いの眺望がすばらしい温泉で長いドライブの疲労を一掃すると岩手牛をメインにした夕食に舌鼓を打ちながら一日も早い東北の復興を祈っておいた。

5月10日(火)

GW直後にもかかわらず、片平なぎさ効果でそれなりの集客力を誇っている愛隣館を出立する際に地元の祭り和服に身を包んだめんこい系のギャルに車が見えなくなるまで手を振って見送られたので、片平に依存することなくリピーターが付くであろうことを確信し、新鉛温泉を後にした。

震災の影響が大きくない岩手の内陸部から南に向かい、昼過ぎに宮城県塩釜市に到着した。日本を代表する漁港である塩釜は壮絶な津波による被害からの復興を目指しているものの、被災した倉庫や打ち上げられた船等を目の当たりにすると道のりはまだまだ険しいものであると思われた。

復興への祈願のために塩釜市の高台にある塩釜神社にお参りに行くことにした。ここには日本各地から集められた桜の木々が見事な花を咲かせており、初穂料 金八百円を支払って「今年もうまくいく御守」を購入すれば復興の一助になるのではないかと思って謹んで購入させていただいた。

塩釜神社から下山し、GWから再開しているマリンゲート塩釜から16時30分発災害復興臨時船に乗り込んだ。尚、災害復興ということで船賃は無料となっているのだが、乗客はほとんど地元民か復興系の方々だったので観光客代表の私が乗船するのは憚られる気がした。

25分程の船旅で松島の絶景を形成する浦戸諸島を代表する桂島に上陸したのだが、港が70cm程陥没しており、満潮になると浸水の脅威にさらされることが軽のバンで迎えに来たペンション鬼ヶ浜の主人より告げられた。

港からペンションに向かう道のりはマサに戦争の跡のようで、なぎ倒された松林や基礎から引き剥がされて流された家が最後にはひっくり返って無残な瓦礫と化していた。

標高22mの高台に位置するペンション鬼ヶ浜はかろうじて被害を免れ、4月29日に営業を再開したものの、奥様はまだ喪に服している様子で黒系の服をお召しになっていた。離島の桂島は震災後に電気、水道等のライフラインが復旧するまでに1ヶ月程かかったとのことでその間の生活は大変な苦労をなされたものと推察されたので通常は飲まない宮城の地酒を痛飲し、再開に漕ぎ付けた努力に敬意を表しておいた。

5月11日(水)

楽天トラベルの松島、塩釜地区の宿泊検索で唯一ヒットしたペンション鬼ヶ浜をチェックアウトすると津波さえ来なければ風光明媚であるはずの島の散策をすることにした。

夏には海水浴客で賑わいを見せるはずの鬼ヶ浜の公衆便所は崩壊し、浜辺にはヨット、漁船やコンテナが打ち上げられていた。また、浜辺に座り込んでいたおじさんはただなすすべもなく遠くの海を眺めていたのだった。

9時50分発の塩釜港行き臨時船に乗り込み、松島湾の絶景と壊滅した沿岸部のコントラストを呆然と眺めていると港に到着した。気を取り直してマリンゲート塩釜で開催されている復興市場に乗り込み、磯じまん系のり佃煮を1つ購入しようとしたのだが、おばちゃんの営業がアグレッシブで3個買うと割引になるという甘いささやきに負け、ノリで3個も買い込んでしまった。

塩釜から松島までは10km程度の距離なので早速松島に向かったのだが、その先の奥松島の状況がどうなっているのか気になったので沿岸部を走り続けているといつの間にか壊滅的な被害を受けた東松島に入り込んでいた。震災から2ヶ月経過しているとはいえ、この地区では自衛隊による行方不明者の必死の捜索が続けられており、鉄道路線の復旧にもさらなる時間がかかるものと思われた。

一方、松島ではすでに観光船が復活しており、GW後ということでまばらであったが、観光客も戻ってきていたので私も¥1400を支払って松島湾内を一周する仁王丸に乗り込んだ。幸いにも松島湾は奇跡的に松尾芭蕉が句を詠んだ頃からの絶景を保っており、観光客さえ戻ればV字回復を達成するのも可能ではないかと思われた。

松島海岸沿いに林立する観光土産物屋は未だに回復途上の店も多く、地震・津波の警告看板も震災後に設置されたような不自然な新しさが目だったのも事実であるが、ここ松島が三陸地区復興の起爆剤としていち早く立ち上がっているので何とか外国人観光客をおびき寄せなければならないのだ。

マサよ、君は今秋巨人と日本シリーズを戦う予定の野球チームをいち早く偵察に行ったことがあるか!?・・・行ってくれ!!!

というわけで、観光客の受入れ態勢が復活している松島を後にして仙台市内に移動したのだが、激震地の仙台では道路の損傷がひどいようであらゆる場所で工事が行われていた。東北楽天イーグルスの本拠地であるKスタ宮城(日本製紙クリネックス・スタジアム宮城)は吹けば飛ぶようなティッシュペーパーのような脆弱なスタジアムではなく十分な震災対策がなされているので安心して野球見物をして日ごろの鬱憤を晴らすことが出来るのだ。

チケットの当日券売り場でお得な席を物色していると何の変哲も無い主婦に声をかけられ、家族4人分のチケットを購入したのだが、夫が仕事の都合で来れなくなったのでそのチケットを購入しないかというディールを持ちかけられた。東北人は見つめあうと素直におしゃべり出来ないシャイな人間が多いと思っていたのだが、ダフ屋でもないこの主婦の損失を抑えようとする懸命な姿勢に心を打たれたので定価でチケットを引き取ってあげることにした。

11,515人もの大観衆で膨れ上がったKスタ宮城で開催された東北楽天イーグルス対北海道日本ハムファイターズの熱戦は日ハムの5番DH稲葉が顔面すれすれの危険球をイナバウアーでよけるようなエキサイティングな場面もなく両チーム無得点のまま淡々と進んで行った。試合が動いたのはスポンサーの銀だこが楽天が点を取れば球場内のたこ焼きを¥100引きで提供し、さらに翌日の東北地方の銀だこのたこ焼きがすべて¥100引きになるとアナウンスされた7回裏の楽天の攻撃であった。たこ焼き好きであるはずの楽天キャプテンの鉄平が振りぬいた打球は東北のたこ焼きファンの夢を乗せてライトスタンドの最前列に飛び込み、これが決勝点となって見事に楽天が勝利を収めたのであった。

FTBサマリー

総ガソリン代 ¥10,867

総高速代 ¥6,000

総宿泊費 ¥15,500(2食付)

協力 楽天トラベル、楽天ゴールデンイーグルス、塩釜市営汽船