FTBコスタリカの緑の魔境に幻の火の鳥は実在した!

オールスターとは程遠いMLB選抜チームを招待して行われた日米野球はサムライジャパンの勝利で幕を閉じたのであるが、未だにMLB公式球と日本の統一球の仕様の違いは解消されないという点で十分な国際化には至っていない現状である。ところで、米国の一流スポーツメーカーのローリングス社が独占提供するMLB公式球は中米のコスタリカで製造されている事実を知っている輩は少ないはずである。

中米の中でも情勢が安定しているコスタリカには多くの海外企業が進出している一方で、自然という観光資源を活かしたエコツーリズムなる手法で多くの観光客を集めている。今回はそのエコツーリズムの象徴とも言える幻の火の鳥を探しに緑深い湿ったジャングルに足を取られながらも練り歩くツアーが開催されることとなったのだ。

2014年11月26日(水)
羽田空港国際線のANA SUITEラウンジで豪華ディナーを楽しみ、そのまま深夜便で寝ながら海外に飛び立つ旅のスタイルを確立させた24:05発NH1006便に乗り込むと10時間程度のフライトでロサンゼルスに到着したのは夕暮れ迫る午後5時くらいであったろう。そのまま空港のシャトルバスでHoliday Inn LOS ANGELS-INTL AIRPORTに移動すると明日の早朝フライトに備えてとっとと休ませていただくことにした。

11月27日(木)
中米の優等国であり、世界の架け橋として君臨するパナマの航空会社であるCopa Airlinesが運行する5:20発CM361便に搭乗し、約6時間半でパナマの首都パナマシティに午後3時前に到着すると、引き続き午後4時発のCM164便に乗り換えて1時間程でコスタリカの首都サン・ホセのホアン・サンタマリア国際空港に4時20分頃到着した。

無事に入国審査、、税関をクリアして入国を果たし、手持ちのメキシコペソをいくばくかの現地通貨コスタリカ・コロンに両替するとタクシーの客引きをスルーして安い路線バスに乗り込んだ。バスがサン・ホセの中心部に入った頃にはラッシュアワーの渋滞に巻き込まれ、満員の乗客と一緒に終点のAvendia2という大通りのバスターミナルで吐き出された。サン・ホセ市街地は碁盤の目のような街づくりがされているものの一方通行の道は多くの市民と車で溢れており、狭い歩道をスーツケースを転がしてホテルに辿り着くまでにはかなりの時間を要してしまった。

当地では☆☆☆☆☆ホテルとしての地位を確立しているHoliday Inn SAN JOSE AUROLARAにチェックイン出来たのは午後7時近くになっていたのだが、観光情報を入手するためにあえて喧騒の街中に繰り出すことにした。地方への長距離バスが発着するバスターミナルがコカコーラ地区にあると聞いていたので向かってみたのだが、そのあたりはスカッとさわやかとは程遠い怪しい雰囲気が漂っていた。さらに明日の目的地であるマヌエル・アントニオ行きのバスがここではなく、他のバスターミナルだという貴重な情報を地域を警備するPoliceから入手出来たので,その足でホテルまで戻り、Thanks Giving Dinnerのターキーに舌鼓を打ちながら明日からのアドベンチャーに思いを馳せていた。

11月28日(金)
早朝ホテルをチェックアウトし、タクシーを調達してくれたベルボーイからバスターミナルでの荷物の管理の仕方を習うとTORACOPA社のバスが発着するバスターミナルに向かった。特にこれと言った不安もなく窓口でチケットを購入し、午前9時発のバスに乗り込むと車窓からまぶしい光を浴びながら、4時間弱でコスタリカで最も人気のある国立公園のひとつであるマヌエル・アントニオに到着した。

agodaに予約させておいた☆☆☆リゾートホテルのHOTEL VILLABOSQUEは公共ビーチや国立公園の入り口にも近い抜群のロケーションを誇っていたので、チェックイン後に早速ビーチを散策することにした。海岸を歩いているイグアナを追い越して波打ち際に向かうと、そこにはスペイン語でコスタリカを表すマサに「豊かな(Rica)海岸(Costa)」が広がっていたのだ。

昼飯時も過ぎていたのでビーチ沿いのカフェで牛肉入りNachosを地元のビール「Imperial」で流し込むと再び周囲を散策し、ノドジロオマキザルの観察に精を出していた。また、近辺では至る所で円球石が目につくのだが、コスタリカの石球は考古学上その成立や製造法などが不明とされたり、当時の文明の加工技術や知見では製造が困難あるいは不可能と考えられたりするオーパーツに数えられている。その真球度は誤差数ミリと言われており、現代における野球ボールの生産大国にふさわしい技術を古代から持っていたことがうかがい知れるのである。

夕暮れ時に雨模様になったにもかかわらず、帰りのバスチケットと物品の購入のためにローカルバスに乗って近隣の町ケポスまで足を伸ばすことにした。さすがにコスタリカ有数のリゾート地ということもあり、バスの乗客の上半身裸率が非常に高いという現実がまぶたに刻まれたのだった。

ホテルに仁義を切るために夕食はホテルのレストランでいただくことにしたのだが、シーフードのスープにはかにみそを撤去された蟹が浮かんでおり、肉、魚等をマイルドに焼き上げたメインディッシュも見事な装飾が施されており、非常にコストパフォーマンスの高いディナーを楽しむことが出来たのだ。

11月29日(土)
マヌエル・アントニオ国立公園は朝7時に開園して午後4時には閉まるので、ホテルでの朝食をそそくさと済ませるとガイドなしでは動物を見るのもままならないとうそぶくネイチャーガイドの勧誘を振り切り、入り口で入園料$16を支払って突入することにした。公園内はトレイルが整備されているので鬱蒼とした熱帯雨林のジャングルであっても気軽に森林浴を楽しむことが出来るのだが、早速大きなねずみのようなアグーチという哺乳類が動物観察の扉をこじ開けてくれた。

熱帯雨林を抜けると美しいビーチが出現し、公共ビーチとは打って変わった静かな環境下ですでに多くの観光客が海水浴や日光浴に勤しんでいた。人間が集まるビーチとは反対側の海辺は水鳥の楽園となっており、ペリカンやサギ系の鳥達が集団で漁に精を出し、樹上のサンショクキムネオオハシがその様子を静かに見守っていた。

ビーチのそばの半島を一周するトレイルはセンデロ・プンタ・カテドラルという起伏のあるジャングルトレイルとなっており、時折ジャングルの隙間から顔を出す青い海の光景は絶景以外の何物でもないのである。

再びビーチに戻る頃には人影も増えると同時にその周辺で多くのキュートな縞模様のしっぽがうごめいていた。恐れも遠慮も知らぬアライグマの集団は海水浴客が置いているバッグを漁り、首尾よくバナナやスナックを引き出すことに成功すると戦利品を囲んでファミリーでにわか宴会に興じていたのだった。

ビーチの休憩所の大木はナマケモノのテリトリーだと聞いていたのだが、今日は出張に出ている様子だったので、違うトレイルの散策をしながらさらなる動物探しに励んでいた。樹上のざわめきとともにノドジロオマキザルの集団も活動を開始しており、多くの観光客がサルと一緒に写真に納まろうと躍起になっていた。

ビーチリゾートと国立公園のハイブリッドの実力を十分に堪能できたので午後2時半発のバスでサン・ホセへの帰路に着いた。昨日と今日のアクティビティで自然豊かなコスタリカのオリエンテーションも終了したので明日からは現地ツアーを利用した本格的なエコツーリズムへの参戦が待っているのである。

11月30日(日)
コスタリカで1997年に開業し、多くの日本人観光客をおびき寄せている「さくらツーリスト」にモンテベルデ・アレナル火山の2泊3日ツアーを発注しておいたのだが、午前8時の出発まで時間に余裕があったのでしばしサン・ホセ市内を散策することにした。コーヒー農園や火山などの山々に囲まれた標高1,150mの高原都市サン・ホセの中心部では多くのコロニアル調の建物やユニークな銅像が目に付いた。

すでにサン・ホセでの定宿となっているHoliday Inn SAN JOSE AUROLARAに戻ると各種ツアー客を混載するバンが迎えに来ていたので早速乗り込み、エコツアーの火蓋が切って落とされた。バンはサン・ホセの市街を抜けるといつしか道は山間を縫うように走る悪路になっていた。途中休憩を取った展望台から周囲を見渡すと様々な緑が交錯する深いジャングルの遠景が長距離ドライブの疲れを癒してくれた。

出発から約4時間後にモンテベルデのゲートタウンとなっているサンタ・エレーナという小さな町に差し掛かった。バンはいくつかのホテルを回って乗客を降ろし、最後に私が投宿するHotel EL Bosqueに到着する頃には午後1時前になっていた。そそくさとチェックインをすませて隣接する本格的なイタリアンレストランでスパゲッティをすすった後、定刻午後1時45分に迎えに来たマイクロバスに乗り込み、サンタ・エレーナ自然保護区に向かった。

ツアーのメニューの一環としてこの地域で最も人気のあるアトラクションであるスカイウォークもしくはスカイトレックというキャノピーツアーを選択出来るのだが、遊園地のアトラクション系のキャノピーよりも今回はじっくりと生態系の観察を行うためあらかじめスカイウォークをオーダーしておいた。スペイン語なまりの英語を操るエドワルドと名乗るガイドが待ち構えていたので彼を従えて深いジャングルへと誘われて行った。

エドワルド曰く、ここでの期待値は動物観察というよりも植物園のような感覚でこの森特有の植生に注目するようにとの指示があったので、そのことを念頭に置いてトレッキングをスタートさせた。最初に「Epiphy」というキーワードが提示されたのだが、これは着生植物のことで他の植物の地上部の表面に生育して独立栄養を営む植物(ヤドリギのように他の植物の組織の内部にまで侵入してそれから養分を摂取するものは寄生植物であり着生植物とは呼ばない)のことである。鬱蒼とした森では太陽光線を求める競争が激しく、必然的に高く成長する木に着生した方がより効率的に太陽光の恩恵を受けることが出来るのである。

ところで、スカイウォークは森の中に掛けられた8つの吊り橋からなっており、高いものは地上50mの高さを誇っている。樹上や樹幹の植生を観察するのに最適なファシリティで高所恐怖症さえ克服すれば、遠く頭上を見上げる必要がないのでムチ打ちを患っている人でも安心して植物観察に励むことが出来るのだ。

森の中では動物はめったに姿を見せないものの時折モンキーが通り過ぎるというので頭上を見るとワイヤーに宙吊りになった人類が手を振りながらすべって行ったのだった。地上に目を転じると枯れ木に擬態したキリギリスやキュートなムカデが見受けられたのだが、タランチュラの巣穴に木の枝を突っ込んでこねくり回してもそのおぞましい姿を目にすることは出来なかったのである。

12月1日(月)
マサよ、君は幻の火の鳥ケツァールに遭遇してケツを蹴り上げられたような衝撃を覚えたことがあるか!?

ということで、すでにどこぞのホテルで日本人女性観光客2人をピックアップしたバンが定刻7時15分に迎えに来たので乗り込むと15分程のドライブでモンテベルデ自然保護区の入り口に到着した。コスタリカに来た観光客は必ず訪れるというモンテベルデ自然保護区は、ガイドの説明によると標高1,500~1,600mの高地に広がる熱帯雲霧林という独特の生態系を持ったジャングルである。大陸分嶺といわれる太平洋と大西洋両側からの上昇気流に乗った湿った空気がぶつかり、年中濃い霧や雲に覆われているため、平均気温は15~17℃程度、湿度はほぼ100%という特異な環境を形成しているのだ。

エコツアーでガイドを雇う最大のメリットは彼らが抱えている高性能望遠鏡で遠く離れた動物や昆虫の詳細まで見極めることが出来ることであるのだが、早速その望遠鏡がが穴の奥深くにたてこもっているオレンジ足のタランチュラを捕らえた。尚、当地にいるタランチュラの毒はそんなに強くないとのことで、めったに噛まないが、たとえ噛まれたとしても少々痺れる程度だということであった。

モンテベルデの植生は昨日学習したEpiphy(着生植物)が主体となっており、着生植物の重みに耐え切れず倒壊した大木が何本も見受けられた。倒壊したスペースに太陽光が差し込むとそこに新たな命の芽が生まれるため、自然のエコサイクルが永遠と続いていくのである。

定員10名の赤い吊り橋を渡ったりしながら観察を続けたにもかかわらず、なかなか幻の火の鳥の姿を捉えることは出来なかったのだが、緑の魔境に溶け込むように佇んでいるキバシミドリチュウハシがその美しいフォルムとともに絶好の被写体になってくれた。

ツアーも終盤に差し掛かった頃、にわかに森中のパパラッチがざわめき始め、多くの望遠鏡がある一点の樹上を目がけてセットされた。ロックオンされたその先に写ったものは光を反射してキラキラと輝く青と赤のコントラストがまぶしい幻のケツァールだったのだ。手塚治虫の「火の鳥」のモデルとなったと言われているケツァールは熱帯雲霧林の野生のアボガドを主食としており、丸ごと飲み込むと消化に15分程かかるため、その間は樹上にとどまってくれるのだ。ちなみにアボガドの種はケツから排出するのではなく、口から戻すということであった。尚、モンテベルデには300~500羽のケツァールが生息しているそうで繁殖期の3月くらいに訪れると高確率でその雄姿を拝むことが出来るのだ。

ケツァールの出現によりガイドに支払うチップの金額が跳ね上がった感覚を抱きながら、自然保護区のカフェに併設されている野鳥ギャラリーに向かった。宙吊りにされた甘い蜜の容器の周りではハチドリや小型の野鳥が華やかな舞を繰り広げており、日本野鳥の会員垂涎の至近距離撮影環境を提供していたのだった。

ホテルに戻り、餌付けされたノドジロオマキザルと一緒にバナナを食べながら時間をやり過ごすと定刻午後1時45分に迎えに来たマイクロバスに乗り込み、次の目的地に向かった。いかにもエコしてますとアピールしている風力発電のファシリティを横目に風光明媚な農村地帯を抜け、とある水辺に到着すると渡し舟系のボートに乗り込んだ。コスタリカで最も大きな人造湖であるアレナル湖を縦断しながら標高1,633mのアレナル火山を仰ぎ見るというアクティビティは厚い雲に遮られて実現出来なかったのだが、船は無事に対岸へと到着した。迎えのバンで今日の宿泊先であるラバス・タコタル・ロッジに移動後、ほどなくして次の迎えのバンに乗り込むと次の行き先は驚きの温泉リゾートだったのだ。

雄大なアレナル火山を源泉とする高級温泉タバコン・リゾートは源泉掛け流しでしか実現出来ないようなふんだんな湯を広大な敷地に惜しげもなく流している。段差を利用した滝や打たせ湯は独特の風情さえ醸し出しており、温泉好きの日本人も十分満足する癒し効果を与えてくれるのだ。また、温水プールにはバーもあり、食事はリゾート内のビュッフェで提供されるので一日がかりで楽しむことが可能で、天気の良い日には湯煙の向こうにタバコのようにモクモクと噴煙を上げるアレナル火山の雄姿が拝めるのだ。

12月2日(火)
早朝から降り始めた雨音で目が覚め、テラス越しに雨宿りする紅白の牛を眺めていた。残念ながら今日もアレナル火山は厚い雲の向こう側に鎮座していたので、イメージだけを思い浮かべながら定刻7時30分に迎えに来たバンに乗り込み最終日のツアーをスタートさせた。通常通り、いくつかのホテルを回って観光客をピックアップすると程なくしてイグアナ・レストランに到着した。イグアナ・レストランとは言え、イグアナ料理を提供しているわけではなく、隣接する橋から見下ろす樹木に多くのイグアナが住み着いていること自体が売りとなっているのである。

午前9時頃に隣国ニカラグアとの国境の町ロス・チレスに差し掛かった。フリオ川の沿岸に到着するとツアーボートに乗り換え、ウォーター・ホースと呼ばれる水馬に見送られながら水鳥の楽園であるカーニョ・ネグロ国立野生保護区のクルーズが静かに始まった。

ボートがカーニョ・ネグロ湖の方向に進んで行くとぼ~としている暇もなく、多くの動物が次から次へと姿を現した。シラサギやヘビウといった大型の水鳥はここかしこで漁を行い、世界で最も美しいトカゲといわれているグリーンバシリスクは木の上で静かに固まっていた。尚、このグリーンバシリスクはリスクを感じると木の上から水へとジャンプし、上体を起こして秒速約1mの速さで水面を走るそうだ。

獰猛なワニであるはずのケイマンは木の上で剥製のようなポーズを決めて油断させ、別の個体は水面から目を光らせて獲物が来るのを待ち構えていた。木の幹に隊列を組んでへばりついているのは夜中に蚊を捕食するこうもりで一見すると単なる模様にしか見えないのである。

カーニョ・ネグロの最大のスター動物はやはりナマケモノということでフリオ川を航行するどのツアーボートのガイドも勤勉にナマケモノを探し回っていた。大木の高い枝で怠けているナマケモノをかろうじて見つけることが出来たものの、双眼鏡で捕らえることが出来たのはふさふさの毛皮のみでついに写真撮影には応じていただけなかったのだ。

3時間にもおよぶクルーズが終了し、陸に上がってデザートを召し上がっている鳥を見ながら昼食をいただき、今しがた全旅程終了となったエコツアーの余韻に浸っていた。国を挙げて観光業に力を入れているコスタリカのツアーは非常に効率的でツアー会社間の連携も良く取れており、スケジュールの遅れもなく進行したことにこの国の本気度を見て取ることが出来たのだ。

夕方6時にサン・ホセのHoliday Inn SAN JOSE AUROLARAへ帰着すると見張り台で警備している警察に見守られ、100年以上営業している老舗レストランであるチェジェスでコスタリカ料理を堪能しながらコスタリカーツアーの締めくくりとさせていただいた。

12月3日(水)
早朝ホテルからタクシーで空港まで移動し、Copa Airlinesの乗り継ぎで夕方5時過ぎにロサンゼルスに到着。空港近くのクラウンプラザホテルの高い和食屋で軽夕食を取りながらフライトのチェックインまで時間を潰していた。

12月4日(木)
寝台フライトであるはずの0:05発NH1005便のエコノミー席で意識を失うように努力しながら約12時間のフライトをやり過ごす。

12月5日(金)
機材到着遅れの影響で定刻より1時間遅れた午前6時過ぎに羽田空港に到着し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥124,910, Copa Airlines = $623.43
総宿泊費 $507.2
総バス代 10,937コロン(1コロン = ¥0.22)
総タクシー代 7,000コロン、$30
総コスタリカ出国税 $29
総さくらツーリスト旅行代 $650

協力 ANA、Copa Airlines、Priority Club、adoda、さくらツーリスト(http://www.sakuracostarica.com/)

FTBモン・サン・ミッシェルツアー with モンテカルロで乾杯

ボンジュール マサよ! 鯖(サバ!?)

ということで、アベノミクスの失速と消費増税による物価高で日々悶々とした生活をおくっている今日この頃であるが、この閉塞感を打破するために屈指の世界遺産であるモン・サン・ミッシェルと金持ちが集結するモンテカルロを巡るモンモンツアーが開催される運びとなったのだ。

10月22日(水)
羽田空港の国際線ANA SUITEラウンジでカレー朝食を召し上がり、10:25羽田発NH215便に搭乗すると機内エンターテイメントプログラムで放映されている映画「イブ・サンローラン」、「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」、「万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-」を立て続けに見ながら今回のフランス生活の予習を行っていた。

飛行機は定刻の午後3時半過ぎにパリのシャルル・ド・ゴール空港に到着すると列車と地下鉄を乗り継いでパリ18区に移動し、Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればEUR250くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Paris – Porte De Clichyに引きこもって英気を養わせていただくことにした。

10月23日(木)
夏時間と日の出の時間の関係で午前8時過ぎにあたりがようやく明るくなったので、ホテルを後にしてPorte De Clichy駅から通勤客に揉まれながら満員の地下鉄に乗り込んだ。車内でいい仕事をしているスリの気配を感じてディフェンスを固めているうちにモンパルナス駅に到着すると早速TGVのチケットを求めて自動販売機を操作したのだが、午前中発の列車は1stクラスしか空いていなかったのでより良いチケットを求めて窓口に向かった。首尾よく英語が通じる窓口が空いたので、そこで何とか午後2時発のレンヌ行きTGVと乗り継ぎバスによるモン・サン・ミッシェル行きの往復チケットを入手することに成功した。尚、モン・サン・ミッシェルまで通しで行けるルートの便は非常に限られているのでチケットは早めに購入しておくことが重要だとの教訓が刻まれたのだった。

予期せず手にした午前中の空き時間を利用してフランスが誇る世界遺産であるセーヌ河岸の散策と洒落込むことにした。凱旋門で地下鉄を降りてシャンゼリゼ通りを闊歩しているとグラン・パレ国立ギャラリーの重厚な建物が見えてきた。そこでは親日国であるフランスのお国柄を反映するようにユニクロをスポンサーとした北斎展の看板が誇らしく掲げられ、入場を待ちきれないムッシュやマダムたちが長蛇の列を作っていたのだ。

エッフェル塔に見送られ、コンコルド広場を駆け抜けてチュイルリー公園で一休みすることにした。園内はパリ見物で疲れた観光客が小休止出来るよう多くの椅子と彫刻やオブジェが配置され、野外美術館の様相さえ呈しているのである。

ルーブル美術館への入場を待つ長蛇の列を見てモナ・リザの瞳を鑑定する気分が萎えてしまったので、ピラミッドを遠巻きに眺めつつ、パリ発祥の地であるシテ島まで流れることにした。豪華絢爛たるノートルダム大聖堂の雄姿を一目見てシテやったりと満足すると地下鉄でモンパルナスに戻って来た。

14:08発TGV8623号は定刻どおりモンパルナス駅を出発すると16:16にフランス最西端ブルターニュ地方の中心都市であるレンヌに到着した。そこからさらにバスに乗り継ぎ、モン・サン・ミッシェルのバス停に着いたのは午後6時であった。バス停とモン・サン・ミッシェルの間には無料のシャトルバスが頻繁に往復しているので満員の乗客に押し込まれるようにシャトルに乗り込んだ。

モン・サン・ミッシェルへとつづく干潟は再生プロジェクトの最中で19世紀に築かれた従来の堤防道路を撤去して近々開通となるであろう海水を通すことの出来る橋のような道路を伴っていた。シャトルバスを降り、海に浮かんでいるような幻想的な要塞に向かって歩を進めていくと、中世に一歩ずつタイムスリップしていくような感覚を覚えた。

周囲約900m、高さ約80mの島内に足を踏み入れ、砦の守りを固めるため15世紀に建てられた王の門をくぐるとグランド・リュというメインストリートに差し掛かった。通りの両側にはおびただしい数の土産物屋が並んでいたのでタイムトラベルの時計が中世から現代に逆戻りしてしまった。島内にはいくつかの☆☆☆ホテルが高値で営業しており、そのうちの一つのオーベルジュ・サン・ピエールをagodaに予約させていたので早速チェックインすると黄昏時のモン・サン・ミッシェルを散策することにした。

島が難攻不落の砦だった頃の面影を今に伝える城壁に沿って歩いていると見張り台に到着した。ここからはモン・サン・ミッシェル湾が一望され、時間帯によっては潮のダイナミックな満ち引きを目の当たりにすることが出来るのだ。

日帰り観光客も帰路につき、島内に閑古鳥が鳴き始めるとモン・サン・ミッシェルが一日で最も神秘的な時間を迎えることとなる。ライトアップされた修道院は周囲が暗くなるにつれて輝きを増し、その幻想的な光景はモン・サン・ミッシェル地区に宿泊したもののみが得られる特権となっているのである。

10月24日(金)
朝起きるとあいにく雨模様となっていたのだが、これも中世の風情を高めるための一興だと割り切って、今日は島内を隈なく見て回ることにした。まずは、昨晩神秘を演出した夜景スポットに戻ってみるとかろうじて水溜りが残っており、修道院の姿を写し取る鏡のようになっていた。

モン・サン・ミッシェルとその湾はフランスを代表する世界遺産となっており、中世から脈々と歴史を積み重ねてきたのだが、その一端を垣間見るためのいくつかのミュージアムのセット券(EUR9)を購入してまずは歴史博物館に入ってみることにした。館内は中世の暮らしぶりを今に伝える家具調度品や武器のコレクション、牢獄だった頃の凄惨さを伝える蝋人形や拷問器具、鋼鉄のTバックなど、思わず背筋が寒くなるような展示品でにぎわっていた。

歴史博物館を抜けると島と一体化してそびえたつ修道院(EUR9)の入り口にたどり着いたのでそのまま入ってみることにした。修道院は966年に建築が始まり、数世紀にわたって繰り返されてきた増改築の様子が模型として展示されている。

モン・サン・ミッシェル修道院は、他の修道院とは似ても似つかない独特の様式を持つ建造物である。このモン(岩山)のピラミッドの形を念頭に置きながら、中世の建築家の巨匠たちは、花崗岩の岩山の周囲に建物を巻き込むような形で作りこんでいったのだ。

修道院の尖塔上には黄金の聖ミカエル(仏語でミッシェル)像が鎮座しているのだが、8世紀のはじめにアヴランシュの司教であった聖オベールが夢の中で大天使ミカエル(サン・ミッシェル)の「この地に修道院を建てよ」というお告げを聞いて建設が始まったという。

正午を回った時間帯に修道院の鐘の音が鳴り響き、上層階の付属教会で礼拝が始まったので悶々としながらも見届けることにした。修道僧と尼による賛美歌の合唱により教会は厳粛な雰囲気に包まれ、約1時間後の礼拝終了までその場を動くことが出来なかったのだ。

西のテラスから湾を展望すると干潮になった湾を歩く人々の姿が見受けられるのだが、ひざまで砂洲につかりながら干潟を歩くツアーが人気を博しているという。尚、この付近一帯は潮の干満の差が激しいことで知られており、満潮時には驚くべき速さで潮が満ち、島全体が水に囲まれてしまうため、多くの巡礼者が命を落としてしまったのだ。

修道院の上層、中層、下層を隈なく見て回るとちょうど昼飯時になったので、有名なレストラン「ラ・メール・プラール」でオムレツを召し上がることにした。もともと巡礼者が気軽に食べられるようにと考案されたオムレツだが、今では高級料理に成り上がっており、デザート付のランチセットを楽しむためにはEUR30の出費を強いられてしまうのだ。ただし、EUR30は節約したいが、気分を味わいたい輩のためにキッチンの前ではふわふわオムレツ作りの実演まで行われ、観光客の食欲増進に一役買っているのである。

モン・サン・ミッシェルのツアーガイドの写真は通常見栄えの良いA面が使われているのだが、裏に回りこんでB面を見てみるとそこは自然の岩とうっそうと茂る木立で覆われている事実が確認できたので、中世の幻影とラ・メール・プラールのクッキーを手土産に17:20発のバスとTGVを乗り継いでそそくさとパリに帰って行った。

10月25日(土)
♪ふ~ゆのリビエラ、おことってやつは 港を出てゆく ふ~ねのよ~だね 悲しけ~れば 悲しいほど 黙りこむもんだね~♪

というわけで、TGVの1stクラスチケットをあらかじめ安値で購入していたのでパリのリヨン駅から8:41発TGV26403号に乗り、7時間近くかけて森進一も推奨するはずのリビエラ地方までやってきた。フランス最大のリゾート地であるコート・ダジュールのニース駅で下車してagodaに予約させておいた駅前のHotel Ibisにチェックインすると「リビエラの女王」との異名を持つニースの町並みの見物に繰り出すことにした。

旧市街を抜け、高台にある展望台から海岸線を見下ろすとそこには陽光降り注ぐ「天使の湾」が広がっていた。海岸に下りてみるとそこは砂浜ではなく、丸石で覆われたビーチになっており、遅れてきたリゾートを堪能している海水浴客が数多く見受けられた。

サンセットを見送るとディナーセットが恋しい時間帯になったので、プロムナード・デサングレという海岸沿いの目抜き通りの中心にある気軽なレストランでシーフードを堪能し、優雅な雰囲気の中で自らの誕生祝いを満喫させていただいたのだった。

10月26日(日)
♪飛んでイスタンブール♪のヒットにより、一発屋としての地位を確立した庄野真代であるが、次作の「モンテカルロで乾杯」もそれなりに売れたことを覚えている輩は少ないかも知れない。中学時代にこの曲を聴いて以来、いつかはモンテカルロに行かなければならないと思い続けていたのだが、ついにその悶々とした気分を払拭する日を迎えたのだ。

ニースからローカル列車に乗るといつしか国境を越えて30分ほどでバチカン市国に次ぐ世界第2の小国であるモナコ公国のモンテカルロ駅に到着した。わずか2平方キロメートルの面積しかないモナコであるが、6つの地区を要している。まずはカジノで有名なモンテカルロ地区に足を踏み入れることにした。パリのオペラ座パレ・ガルニエを設計したシャルル・ガルニエの作であるカジノ・ド・モンテカルロで勝負するほど現金を用意してこなかったので、カフェ・ド・パリで茶をしばいているセレブを遠巻きに眺めながらモナコ湾の方へ下っていった。

ちょっとしたクルーズ気分を味わうためにEUR2を支払ってBateau Busという水上バスで300m程のモナコ湾を横断するとモナコの歴史が集約されている高台のモナコヴィル地区を見学することにした。

モナコ最大のイベントといえば、5月のF1グランプリで市街道路がサーキットへと変貌を遂げる。F1のコースをクラシックカーで駆け抜けるツアーもあるのだが、今回はプチトラン(EUR9)に乗って日本語解説を聞きながら「リビエラの真珠」との異名をとるモナコの観光名所を30分かけて巡って行った。

プチトラン観光でモナコの歴史を学習することが出来たので、大聖堂に入って歴代のモナコ公の墓参りをさせていただいた。多くの墓の中でひときわ美しいバラで装飾されたものがあるのだが、これはヒッチコック監督を従えてハリウッドに君臨した女優グレース・ケリーのものである。グレースは1956年に前モナコ公レニエ3世の妃になったのだが、ド・ゴール大統領のプレッシャーをものともせずフランスの手先になることを拒んで独立を守り、モナコの名を世界的に知らしめたヒロインなのである。

「公妃の切り札」を見せ付けられて喉の渇きを覚えたのでビールで乾杯し、さらに大公宮殿(EUR8)を見学させていただくことにした。衛兵に守られた宮殿内部は写真撮影禁止となっているのだが、日本語解説のヘッドセットを無償で貸し出してくれたので、1215年にジェノバ人が築いた要塞の跡地に建てられた宮殿の各部屋や装飾仕様を細かく見て回ることが出来たのだ。

高台にあるモナコヴィル地区には多くの展望台があり、高級クルーザーが整然と停泊しているハーバーや地中海に面した崖や高台を埋め尽くす高層ビルの様子が眺められる。また、3万人の人口が60数人に1人の割合で配備している警察官で守られているいるセキュリティ体制は圧巻で野良猫さえ自由に街を闊歩出来ないのだ。

10月27日(月)
早朝より太陽が燦々と降り注ぐ中、コート・ダジュールの景色を目に焼き付けるために再びプロムナード・デサングレを歩いていた。すでに海岸ではビーチパラソルの花が咲き、多くのリゾーターが海水浴と日光浴に興じていた。

ニース市街地から5km程離れたニース・コート・ダジュール空港まで市バスで移動するとエール・フランス航空が運航する13:00発AF7703便に乗り込みパリのシャルル・ド・ゴール空港まで帰って行った。引き続き、17:05発NH206便に搭乗する際にビジネスクラスへのアップグレードを果たすことが出来たので成田まで快適なフライトが約束された。さらに飛行機が北極圏に差し掛かった頃、キャビンアテンダントがオーロラが出ているので見てくれと迫ってきたので半沢直樹の最終回を一時停止してうっすらと見えるオーロラの確認に勤しまなければならなかったのだ。

10月28日(火)
飛行機は定刻前の午後12時半頃成田に到着。高飛車だが、高級ワインのように文化が熟成しているフランスに敬意を表しながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 \143,850
総宿泊費 \40,011、EUR218
総鉄道代 EUR246.35
総バス代 EUR31.4
総地下鉄代 EUR8.5

協力 ANA、エールフランス、Priority Club、agoda、sncf

FTB中欧復興世界遺産ツアー in ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、モンテネグロ

旧ユーゴスラビアから分離、独立した国々には美しい自然と歴史的建造物の景観が織り成す独特の風景が数多く存在するのだが、独立にまつわる紛争や自然災害により数多くの世界遺産が壊滅的な打撃を受けている。今回はそのような危機的状況から見事に復興を成し遂げた地域を歴訪し、二度と愚行を繰り返さないことを肝に銘じるべくツアーが敢行されることとなったのだ。

9月23日(火)
ヨーロッパとアジアの架け橋になっている地理的利点を活かし、中東や中欧地域に圧倒的なネットワークを持つトルコ航空が安値で欧州行きチケットを提供しているので、今回は関西空港発22:30発TK47便に乗って久しぶりに庄野真代よろしく飛んでイスタンブールまで行くこととなった。

9月24日(水)
午前6時前にイスタンブールのアタチュルク国際空港に到着すると、しばしスターアライアンスの大ラウンジで英気を養い、7:05発TK1021便で一路サラエボを目指した。飛行機がサラエボ上空に差し掛かると眼下にはこれまで見たこともないような雲海が広がり、分厚い雲を突き破って降下するとそこには素朴な町の光景と質素な空港が待ち構えていた。

早速空港で手持ちの米ドルを現地通貨であるマルカ(KM)に両替するとタクシーに乗車して今日の宿泊地であるHotel Colors Inn Sarajevoに向かった。ホテルでは早朝到着で部屋の準備にあと数10分を要するとのことだったのだが、美味な朝食を無料サービスしてくれるというホスピタリティを発揮してくれたのだった。空腹を満たすと首尾よく部屋にしけこむことが出来たので、荷物をおいて20年前には紛争地帯であったボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボの散策に繰り出すこととなった。

町の目抜き通りはスナイパー通りと呼ばれ、紛争時には、この通りで動くものは高層ビルに潜んだセルビア人狙撃兵の餌食となり、子供や老人、女性さえも狙い撃ちされたという暗い過去を引きずっている。また、通りのビルにはおびただしい数の弾痕が残っており、当時の銃撃戦の凄惨さを物語っている。尚、スナイパー通りに高級ホテルとして君臨するホリデー・インは紛争時にも営業を続けて利益を独占するという気概を見せ、当時は世界中のジャーナリストのたまり場と化していたそうだ。

サラエボの暗黒時代をさらに調査するためにトラムに乗って空港近くのイリジャという町で下車し、徒歩でトンネル博物館(KM100)に向かうことにした。目的地への道中では金を無心する青少年から尾行されるという一幕があったものの、少年の執拗なマークを振り切ると銃弾の痕が生々しいとある建物に到着した。

この博物館は1993年の紛争時に造られたトンネルの一部を公開しているもので、当時のサラエボは旧ユーゴスラビア連邦軍に包囲され、孤立していたが、このトンネルのおかげで他のボスニア軍占領地域と結ばれ、物資輸送を行うことが出来たのである。サラエボで冬季オリンピックが開催されたのは1984年であるが、そのわずか8年後の1992年からは敵陣に包囲された紛争地帯として輝かしいはずの歴史に暗い影を落とすことになるのである。

とんねるから脱出すると世界でもっとも有名な石橋のひとつを見るためにトラムで市の中心地に引き返すことにしたのだが、すれ違うトラム後部の連結器には青少年が危険を顧みずにしがみついて無賃乗車に精を出しており、この国の問題がまだ十分に解決されているわけではないことを思い知らされた。

有名な石橋であるが、何のきなしに歩いていると通り過ぎてしまうかも知れないが、1914年6月28日にボスニアを統治していたオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア青年に狙撃され、第一次世界大戦のきっかけとなったラテン橋なのだ。このようにサラエボは当時から狙撃には縁のある地域であるが、紛争後は国際開発協会の援護射撃的な援助により、今では見事に復興を果たしているのだ。

サラエボでもっとも観光客が集まる旧市街にバシチャルシアという職人街がある。中近東の雰囲気が漂うこの地域にはトルコ風の銀や銅製品の工房兼売り場が軒を連ね、あちこちで金属をとんかちで打ち付ける音が響いており、人々はやっとの思いで手に入れた平和を存分に謳歌しているようであった。

9月25日(木)
列車の運行が少ないサラエボ中央駅に隣接しているバスターミナルからバスに乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の観光地を目指すことにした。風光明媚な山道を3時間以上バスに揺られて到着した町はモスタルと呼ばれ、その旧市街は世界遺産となっているのである。

とりあえずagodaで予約しておいたHotel Old Townにしけこんだ後、早速周囲の散策に繰り出すことにした。石灰岩の山に囲まれた大地を切り裂くように流れているエメラルドグリーンのネトレヴァ川の両岸を美しいアーチを描いた橋がまたいでいる。スターリ・モストと名付けられた橋はこの地の象徴で、ボスニア語でモスタルとは「橋の守り人」を意味しているのである。

スターリ・モストの周辺がにわかに賑わってきたのでその喧騒に近づいてみると橋の欄干の上を集金しながら歩いている上半身裸のナイスバディ男の姿が目に飛び込んできた。橋の下の川べりでは何故かサムライもどきが決定的瞬間をとらえようとカメラの設定に余念がないようであった。ひととおりの集金活動が終了すると集金係ではない別のおじさんがしゃしゃり出て、高さ10m以上の橋の上からいきなり川に落下しやがったのだ。

7~8中世に建てられたいくつかのイスラム寺院を遠めに眺めた後、橋を構成する東岸の塔で開業しているスターリ・モスト博物館(EUR5)で橋の構造を学習させていただくことにした。スターリ・モストは1566年にオスマン朝支配下の時代に建てられたもので橋台を用いず、両岸からアーチ状に構成されており、当時の建築技術の高さを示している。塔の上からは違った角度のスターリ・モストが眺められ、橋を行きかう人を真上から見下すことが出来るのである。

旧市街は日中はクロアチアからの日帰りツアーで賑わっているのだが、夕方になると人も少なくなり、徐々に落ち着いた雰囲気を醸し出していった。さらに夜のライトアップの光景はこの地に宿泊したものが得られる特権となっているのであった。

9月26日(金)
モスタルはスターリ・モストを中心に発展してきた町であるが、この橋でさえも紛争中の1993年11月に破壊されてしまったという暗い過去を引きずっている。その出来事を決して忘れないようにと、旧市街では至る所で「Don’t Forget」を刻んだ看板が見られるのだが、橋の西岸の塔に紛争時の写真を集めた写真館(EUR3)が早朝より営業していたので入ってみることにした。

プロカメラマンにより激写された紛争時の状況を生々しく伝える写真の中には武器を携えた少年兵やスターリ・モスト倒壊後に架けられた仮のつり橋をわたる人々等の姿が映し出されており、復興成った今のモスタルの姿が奇跡としか思えないような感覚さえ沸いてくるのであった。

紛争から得られるものはむなしさ以外の何ものでもないことを思い知らされ、あらためて旧市街を歩いているとスターリ・モストより小ぶりな石橋が視界に入ってきた。Crooked Bridgeというこの橋は1558年に建造されたのだが、1999年の大晦日の洪水で破壊され、2002年に再建されたもので、戦火と災害をかいくぐってきたモスタル旧市街を裏で仕切っているような存在感さえ示していたのであった。

スターリ・モストが異民族や他宗教をつなぐ架け橋となることを祈りながらモスタルを後にすべくバスターミナルからバスに乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナから撤退すると3時間程時間をかけてクロアチア随一の観光地と言っても過言ではないドブロヴニクに移動する運びとなった。バスはいつしか光り輝くアドリア海沿岸を走りぬけ、吊り橋を渡ると高層マンションのような豪華客船が停泊するフェリーターミナルに隣接するバスターミナルにすべりこんだ。

ターミナルに程近いホテル・ぺトカという規模は大型だが、部屋は小型であることを思い知らされた観光ホテルにチェックインすると徒歩で2km程離れた旧市街に向かった。城壁に囲まれた旧市街の入口のひとつであるピレ門はあたかも中世への扉を開いているようで、足を踏み入れるとこの町に忠誠を尽くさなければならないかのように財布の紐を緩ませる土産物屋や飲食店が軒を連ねて待ち構えているのだ。

日も西に傾いてきたのでとりあえず一通り旧市街を回ってみていると波止場の人だかりが目に付いた。船上では何がしかのウエディング系のセレモニーが行われており、一流の観光地のサンセットに花を添えていたのだった。

9月27日(土)
マサよ、君はミキモトでも仕入れることが出来ないアドリア海の真珠と心中しそうになるほどの感動を覚えたことがあるか!?

というわけで、クロアチア最南端に位置するアドリア海沿岸の小さな町ドブロヴニクは「アドリア海の真珠」との異名を持つ風光明媚な観光地である。その旧市街はオレンジ色の瓦屋根を頂いた家屋がぎっしりと並び、8~16世紀に増改築を繰り返して建造された城壁で囲まれている。

旧市街を取り囲む城壁は1940mもの長さがあり、周囲をぐるりと歩いて回ることが出来るので早速Kn100を支払って城壁への急な階段を上ってみることにした。1438年に造られたオノリフの大噴水で汲んできた天然の湧き水を片手に一方通行の歩道を進んでいくとほどなくしてシーカヤックツアーの一団がアドリア海の景色の一部となっていた。

城壁から見下ろす旧市街の奥地は原住民の生活感が息づいており、多くの洗濯物がさわやかな風にたなびいている。一方、アドリア海を行き交うクルーズ船はさまざまなタイプがあり、太陽電池を使ったものやグラスボート、半潜水艦等、観光客の好みに応じて乗り分けることが出来るのである。

世界の一流観光地は名所・旧跡、博物館の入場料、飲食店の割引、乗り物代等がパッケージとなっているお得な期日限定のカードを発行している。観光立国としての道を歩んでいるクロアチアも例外ではなく、1日、3日、7日有効のドブロヴニクカードなるものを発行しており、すでにKn100を支払った城壁巡りも含まれているにもかかわらず、今後の観光プランを考慮してあえてKn150を支払って1日カードを購入することにした。

早速1516年に建立されたスポンザ宮殿への侵入を試みたのだが、カードでは入場出来ないとけんもほろろだったので気を取り直して総督邸に入ることにした。15~16世紀に栄えたラグーサ共和国の最高権力者である総督の住居兼共和国の行政機関であった総督邸は今では文化歴史博物館へと変貌を遂げており、武器、硬貨、絵画など当時の反映を偲ばせる代物が取り揃えられている。

聖イヴァン要塞を利用した海洋博物館でドブロヴニクの貿易都市としての実力を垣間見た後、1699年~1725年に建てられたバロック様式の聖イグナチオ教会でフレスコ画を見ながら聖母像に祈りを捧げさせていただいた。

夕暮れ時が迫ってきた頃合を見計らって旧市街の背後に控えるスルジ山に登頂して高みの見物を決め込むことにした。標高412mを誇るスルジ山へはKn100を支払ってロープウエイで上るのが一般的で、頂上からは堅固な城壁に囲まれたオレンジ色のパズルと紺碧の海、ロクルム島の緑のコントラストを楽しむことが出来る。

水平線に沈み行く夕陽を見送ると旧市街に灯がともり、マイルドな夜景が現出された。西の空は旧市街の屋根よりもオレンジ色に染まり、その残像はいつまでも消え去ることがないのではと思えるほど鮮やかであったのだ。

下界に戻ると旧市街のライトアップを眺めつつ、ディナーと洒落込むことにした。とある雰囲気のいいレストランでシーフードの盛り合わせを発注したのはよいが、ドブロヴニクにはどぶろくのような濁り地酒がなかったのでビールで肴を流し込むしかなかったのだった。

9月28日(日)
ドブロヴニク旧市街は1979年に世界遺産に登録されたのだが、1991年からのクロアチア独立戦争時には旧ユーゴスラビア連邦軍の攻撃により、かなりの被害を受け、一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に挙げられていたものの、終戦後に急ピッチで修復が進み、1994年に再度世界遺産にカムバックした不屈の闘志を誇っている。その復興成った雄姿を海上から眺めるために50分のクルーズ船(Kn75)に乗船してみることにした。

船長としての威厳を感じさせない船の運転手が携帯でしゃべり倒しているのが気にならないほど美しい光景が次から次に出現するアドリア海の色は海底の地形により猫の目のように色を変え、高級ホテルのプライベートビーチでは過ぎ行く夏を惜しむかのようにセレブ達が日光浴に勤しんでいた。

クルーズの余韻を崖っぷちカフェでのコールドドリンクで抑えると、旧市街の喧騒に戻ることにした。何故か大聖堂の周辺が立ち入り禁止エリアに成り上がっていたのだが、どうやら何かのロケをやっているらしく、中世の兵士の衣装に身を包んだ多くのエキストラがテーブルでくつろぎながら出番が来るのを今か今かと待ち構えていたのだった。

ドブロヴニクカード使用のパフォーマンスを上げるために今日も城壁巡りで足腰を鍛え、さらに民俗学博物館でシュールなおとぎ話に登場しそうな怪人物や民族衣装を見学させていただき、土産物屋の店番猫に別れを告げるとドブロヴニクを後にする時間となった。

バスに乗って国境を越え、モンテネグロに入るとアドリア海の入り江の奥に向かうくねくね道を進んでいった。イタリア語のヴェネツィア方言で「黒い山」を意味するモンテネグロはアドリア海沿いにそびえる山々に木が生い茂り、黒く見えたからだと言われているのだが、福島県と同じくらいの面積の国土の中に4つの国立公園を持つ風光明媚な国なのである。

複雑に入り組んだ入り江ポカ・コトルスカの最奥部に位置し、背後を山に囲まれた海洋都市コトルに到着したのは夕暮れ迫る時間であった。古い城壁の正門をくぐり、旧市街へ入ると、日本人団体旅行客をかわしてagodaに予約させておいたホテル・ランデブーにチェックインすると併設されているレストランで山盛りのシーフードをいただきながら、明日のランデブーアクティビティに備えることにした。

9月29日(月)
ホテルで食した豪華ブレックファストにフルーツが入ってなかったので旧市街の外ではあるが、城壁沿いに営業している市場で新鮮であるはずのぶどうとりんごを安値で仕入れることにした。気がつくと目の前の港には豪華客船が停泊しており、こんな湾の奥地にまでクルーズ船がよく入ってきたものだと感心させられた。

世界遺産に登録されているコトルの旧市街の最大の特徴は、背後の山に沿って築かれた城壁でかつては堅固な要塞都市として栄えていた。そこで、早速EUR3を支払って全長4.5kmにおよぶ城壁沿いの山道を練り歩いてみることにした。

急な石段を登り、高度が増すに連れ、オレンジ屋根が密集した旧市街と迫りくる黒い山、コトル湾の地形がその全貌を現しはじめた。山の中腹には15世紀に建てられた小さな救世聖女教会が急峻な山道の城壁巡りをする観光客を救済するかのようにつかの間の休憩場所の役割を果たしていた。

城壁には要所要所に要塞が造られており、複雑な地形を有効活用した防衛体制が構築されているようであった。しかし、今となっては最上部の要塞はここまで登りつめて来た観光客の達成感を満たすためのお山の大将的記念撮影エリアに成り下がっているのだが、ここからの絶景は何物にも代えがたいほどすばらしいものであることは確かである。

下山してあらためて旧市街を歩いていると、ここが1979年の地震によって多大な被害を受けたことがうそであるかのような重厚な建物群が目を楽しませてくれた。狭い石畳の路地が走る旧市街は、貿易でもたらされた富で築かれた豪華な館や美しい教会が建ち並んでいるのだが、そのうちのいくつかに入ってみることにした。

小ぶりな聖ルカ教会は1195年の創建で、内部に当時のフレスコ画をかろうじて残している。1160年に建てられた聖トリプン大聖堂(EUR2)はロマネスク様式の教会で塔以外の部分は創建当時の姿をととめているのだが、内部は1667年と1979年の地震の後に改修が施されているそうだ。

日が落ちると旧市街はライトアップされ、光を放つ城壁の要塞によりその輪郭があらわとなる。旧市街の喧騒は深夜になっても鳴り止まず、ホテル・ランデブー近辺では音楽と話し声がついに途切れることはなかったのであった。

9月30日(火)
アドリア海の奥座敷とも言えるコトルを後にするとバスでモンテネグロの首都であるポドゴリツァに向かった。山間部を走り抜けるバスの車窓からは緑の山とオレンジ屋根の町並み、紺碧のアドリア海のコントラストが美しく、小国であるが、マサに観光資源の充実したすばらしい国であることが実感できた。

ポドゴリツァのバスターミナルに到着した瞬間にタクシー運転手の客引攻勢にさらされた。気のよさそうなおじさんが10ユーロという破格の値段を提示してくれたので乗ることにした。同時にメーターも倒したのだが、なるほどメーターの示す金額は13ユーロであり、おじさんは元々空港での集客を狙っていたためにあえてディスカウントを提示したのではないかと思われた。

トルコ航空のはからいでビジネスクラスへのアップグレードを果たした14:25発TK1086便は定刻どおりに出発し、1時間の時差越えで午後5時過ぎにイスタンブールに到着した。成田行きのフライトまでかなり時間があったのでトルコに入国を果たし、♪夜だけぇ~のぉ~パラダイス♪になっているイスタンブールを軽く見学し、今回のツアーを締めることにした。

10月1日(水)
深夜1:00発TK52便に搭乗し、約12時間のフライトで午後7時前に成田に到着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥126,770
総宿泊費 \31,321、Kn1,933.24 (Kn1 = \18.5)、EUR100(全朝食付)
総タクシー代 KM30 (KM1 = \72)、EUR10
総バス代 KM50、Kn100、EUR7.5
総トラム代 KM3.6、TRY16

協力 トルコ航空、agoda

究極のリゾート「セイシェルの夕陽」ツアー

1983年6月にリリースされた松田聖子のアルバム「ユートピア」に収録されている「セイシェルの夕陽」を聴いて以来、いつかはこの地で夕陽を拝まなければならないと考え続けてきたのだが、30年以上の歳月を経てついに念願のセイシェルツアーが敢行されることになったのだ。

9月1日(月)
10:05成田発NH909便香港行きに乗り込み、4時間超のフライト中ほとんどの時間を機内プログラムで放映されている半沢直樹に見入りながら倍返しのノウハウを身に着けようとしているうちに猛暑の香港に到着した。香港市内で数時間をやり過ごした後、air seychellesが運行する19:10発HM87便に搭乗すると7時間以上のフライトで深夜でも酷暑のアブダビに着陸した。

9月2日(火)
アブダビ空港でしばし免税品店のウインドウショッピングを楽しんだ後、午前2時に同じ飛行機に乗り、さらに4時間以上のフライトでセイシェルのマヘ空港に到着したのは夜も明けた午前7時過ぎであったろう。空港で客待ちをしているタクシーと交渉してEUR45の支払いで車に乗り込むと迫りくる花崗岩を樹木でコーティングした山々と透き通る海のコントラストを横目に今回のツアーの最初の宿泊地であるHilton Seychelles Northholme Resort & Spaに向かった。

インド洋に110以上の島を散りばめたセイシェル諸島で最大のマヘ島の北部に造成されたヒルトンリゾートの客室はすべて木造のヴィラになっており、金持ち観光客が遠慮なく札ビラを切れるように多くの諸施設が充実しているのだ。

早朝の到着にもかかわらず、景観のすばらしいレストランで朝食をご馳走になった後、すぐ部屋に案内されるほどのホスピタリティを発揮したヒルトン従業員がオーシャンビューのヴィラのドアを開け放つとそこに広がっていたのはマサにユートピアと言っても過言ではないほどのすばらしい居住空間であった。とりあえず備え付けのジャグジーで身を清めると「ゆーとぴあ」直伝のゴムパッチンに興じる暇もなく、ヒルトンを飛び出して町に繰り出してみることにした。

マヘ島随一と言われる北岸のボー・バロン・ビーチの眩いほどの白砂で目慣らしをすると島内をくまなく運行する路線バス(SCR5)に乗車してセイシェルの首都であるビクトリアを目指した。インドの財閥タタ・モーターズの青バスであふれかえったバスターミナルで下車すると人口9万人を誇るインド洋の島国の中枢を垣間見ることにした。日本人旅行客は少ないセイシェルであるが、そこには松下幸之助の精神が今も息づく明るいナショナルの看板も掲げられており、首都といっても素朴な雰囲気に包まれていたのだ。

イギリスの統治時代の1903年にビッグ・ベンを模倣して造られた町のシンボルである時計塔で時間を確認すると庶民の食生活の鏡であるサー・セルウィン・クラーク・マーケットを覗いてみることにした。さすがに昼下がりの市場はすでに活気を失っており、売れ残った淋しい熱帯魚がウインクする代わりにむなしく口を開けて横たわっているだけであった。

ヒルトンに戻り、西向きの部屋のバルコニーから夕陽が沈むのを待ち構えていたのだが、昼過ぎから西の空は雲に覆われ、絶景を目にするのは翌日以降に持ち越しになってしまったのだ。

9月3日(水)
マサよ、君は真っ赤なインクを海に流しているような美しい夕焼けを目に焼き付けたことがあるか!?

ということで、セイシェルの高級ホテルではその敷地内でリゾートを完結することができるので、今日はヒルトンでセレブ気分を擬似体験させていただくことにした。まずは日本円で5000円以上はするシャンペン付の高級朝食ビュッフェで養分を吸収したのだが、この料金の半分以上はレストランからの眺望代と言っても過言ではないほどのエメラルドグリーンの海とさわやかな風と鳥の声を聞きながら優雅な雰囲気を味わった。

食後にプライベートビーチに繰り出し、無料で貸し出しているスノーケリングセットで海中探索をした後、プールで体の表面の塩分を抜きながら午後からのセレブ体験に備えていた。尚、セイシェルは年間を通して気温が25℃くらいなので紫外線さえケアーすれば長時間外に滞在しても苦にならないのである。

パリス・ヒルトンのような高級セレブがリゾートに行くと必ず受けるはずのSPAのトリートメントをあらかじめ予約しておいたので昼下がりにDUNIYE SPAでヒーリング効果を高めることにした。肉体にどす緑色の海洋的泥物体をなすりつけられ、ビニールに出し巻き状にされると暖かさと清涼感が交互に現れるような不思議な感覚に包まれ、その後手のひらでプレッシャーをかけられると体の奥底に眠っていた精気がみるみるとよみがえってくる感覚を覚えたのだ。

昨日とは打って変わって雲の少ない西の空がみるみるうちにたそがれ色に染まっていった。松田聖子や作詞家の松本隆も見たことがあるはずの世界のどんな場所で見るよりも美しい夕焼けを実際に目の当たりにしながら30年来の郷愁を存分に味わうことに成功したのだった。

9月4日(木)
2泊の滞在で高級リゾートのお作法を身に着けるために散財したヒルトンをチェックアウトするとタクシーで空港に移動し、12:30発HM3124便でセイシェルで2番目に大きな島であるプララン島に向かった。リゾート観光客を乗せた19人乗りのプロペラ機がマヘ空港を飛び立つと15分ほどで美しいラグーンに面したのどかな空港に着陸した。空港でタクシー運転手に捕まったのでそのまま車に乗り込み、この島での宿泊地となっているVillage du Pecheurを目指した。

このホテルはヒルトンほどではないが、マヘ島よりものどかな雰囲気のプララン島にマッチしており、目の前のアンス・ヴォルベールのビーチは象牙色の砂とエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていたのであった。

プララン島もマヘ島と同様に路線バス網が発達しているので、坂道を登るパワー不足が露呈しているバスに乗ってあてもなく流れてみることにした。なぜか再び空港に戻ってきたので近辺のビーチと黒真珠を養殖しているファシリティを遠巻きに眺めた後、アンス・ヴォルベールのビーチに舞い戻ってきた。

近辺の砂地にはクリームコロッケの材料に最適なはずの赤蟹が無数の穴をこじ開けており、スーパーマーケットの前にはパンくず待ちのカラフルなすずめ系の鳥が餌の取り合いに勤しんでいたのだった。

9月5日(金)
早朝朝日を浴びながら、藁の屋根のバンガローを横目に長いビーチを裸足で走ってトレーニングをかました後、バスに乗って神秘的であやしいヤシの木が生い茂っている国立公園を訪問し、ジャングルに踏み込むことにした。

世界遺産に登録されているヴァレ・ド・メ国立公園(SCR360)は伝説の果実ココ・ド・メールで有名なヴァレ・ド・メの森で構成されている。ココ・ド・メールとは昔昔インド洋の国々に流れ着いていた双子ヤシの実のことである。ココ・ド・メールは殻が取れると女性の腰の形をした実が現れるのだが、この植物の木には雌株と雄株があり、臀部の形をした実がなっているほうが雌株で雄株の花房は細長い棒状になっている。そのため、昔から女性と男性のシンボルとしてさまざまな神話のネタになっていたのだが、なるほど臀部にはケツ毛までも生えているほどの念の入れようなのである。

国立公園内にはいくつかのトレイルが形成されており、一歩足を踏み入れると太古の昔にタイムスリップしたかのようにヤシの巨木と巨大な葉っぱに圧倒されるのだ。

ココ・ド・メールは成長過程が非常に遅く、発芽してから実をつけ始め、その実が大きくなるまでには15~40年かかり、寿命は200~400年程度と言われているが、長いものでは樹齢800年を越すものも確認されているのだ。

ココ・ド・メールがなる森に入り、ここでメールを打つことが難しいと考えたのでヴァレ・ド・メ国立公園から撤退してバスで島の北西に位置するアンス・ラジオという美しいビーチに向かった。浜辺でSeyBrewという地ビールを飲みながらクレオール料理に舌鼓を打っていたのだが、ラジオからのミュージックの変わりにハエが飛び交うブーン音が響いてきたので早めに食事を切り上げて周囲を散策しているとココ・ド・メールよりもふた周りほど大きい楕円形の物体が目に飛び込んできた。

近づいてよく見るとそれは浦島太郎を搬送できるほどの巨大なリクガメであり、やつらは自力で餌を食べることができるにもかかわらず、観光客が差し出す葉っぱをしきりに求めていたのであった。

9月6日(土)
リゾートホテルにもかかわらず午前10時にチェックアウトさせられたのでしばらくホテルやビーチ近辺を散策していると大型ホテルの広場で何がしかのフェスティバル系の催し物の準備が着々と進んでいるようだったので冷やかしに覗いてみることにした。会場には歌謡ショーが行われそうなステージやフラワーアレンジメント、ココナッツジュースのスタンド等があったのだが、とあるテントではココ・ド・メールの直売まで行われていたのだった。

プララン島を後にすべく空港からHM3131便で飛び立った。マヘ島の上空近辺ではエデン・アイランドと呼ばれる高級住宅島を埋め尽くす赤い屋根が見受けられ、ヨーロッパの金持ちがこぞってプライベートリゾートに訪れる様が目に浮かぶようだった。

マヘ空港に着くとタクシー往復よりも安上がりであるはずのSixTレンタカーでKIAの小型車をレンタルすると島の南部に位置する今日の宿泊地であるDoubleTree Resort & Spa by Hilton Hotel Seychelles – Allamandaに向かった。当ホテルはヒルトン本家ほどの規模感はないものの、ビーチに面した部屋のベランダにはお湯の出が良くないジャグジーが据え付けられており、階下のプールと相まって十分なリゾート気分を満喫するに足るファシリティを誇っているのである。

9月7日(日)
東向きの窓から差し込む朝日で目覚めると昨日よりも海の透明度が増していたので朝からビーチを散策することにした。

この近辺のビーチは砂地と岩礁がミックスされているので絶好のスノーケリングエリアになっており、原住民が魚を捕まえようと躍起になっている様子も見受けられるのだが、海底の石にはウニ系黒いとげ物体も付着
しているのだ。

セイシェルを出るまでにしばらく時間があったのでマヘ島の南部から西部を車で流してみることにした。マヘ島には900m以上の山もあり、高台からの眺望もすばらしく、さわやかに吹き抜ける風を利用した風力発電所やエデン・アイランドの様子も遠巻きに眺めることが出来るのだ。

6日間の滞在で十分にリゾートの極意を身につけることが出来たので、15:55発HM86便で行きと同じくアブダビ経由で香港への帰路へとつくことになった。

9月8日(月)
午前10時前に香港に到着すると香港観光にうつつを抜かす体力も残っていなかったので14:30発NH1172便にて羽田まで羽を伸ばし、半沢の倍返しが10倍返しにアップグレードされた回を見ながら流れ解散となった。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \80,850, air seychelles = EUR733.87
総宿泊費 SCR12,577.17 (SCR1 = \8.5), \51,796
総タクシー代 EUR45, SCR1,400
総バス代 SCR 45
総レンタカー代 EUR47.25
総ガソリン代 SCR441

協力 ANA, air seychelles, HiltonHhonors, agoda, SixT rent a car