中国最強リゾート 東洋のハワイ三亜with三国志

欧米各地でのイスラム国による度重なるテロ行為により、年末年始の海外旅行を控えるべきではないかと考えもしたのだが、テロとは縁遠い旅行先を探しているうちに中国が土俵に上がってきた。しかし、中国でも大気汚染やガス爆発、土砂崩れ等、問題のある地域は多いのだが、南シナ海に面する海南島の最南端にハワイに匹敵するリゾート地が君臨しているというではないか。今回は中国最強のリゾートである三亜に進出し、爆買人民がどのようなバカンスを過ごしているのかを確かめるツアーを催行することになったのだが、決してハワイまで行く資金が不足していたのではないことをあらかじめ申し伝えておかなければならないだろう。

12月29日(火)
成田空港のANA SUITE LOUNGEで優雅に朝シャンペンを楽しんでいるとスタッフが私の乗る飛行機の搭乗が開始された旨を律儀に伝えに来たので、炭酸のゲップを抑えながらそそくさと搭乗ゲートに向かった。中国国際航空公司(Air China)の運行するCA460便に乗り込むと、座席上の物入れの中はすでにインバウンド観光客が持ち込んだ爆買戦利品で埋め尽くされており、段ボールに入った炊飯器等を動かすことが出来なかったので、仕方なく座席の下のスペースに自分の手荷物を放り込んだのだった。

当機は定刻8時50分に出発すると約5時間のフライトで内陸部の大都市である四川省成都に到着した。パンダの繁殖で繁栄を謳歌しているはずの成都双流国際空港内は大量のパンダのオブジェで賑わっており、この地では何事も白黒はっきりつけることが重要だと思い知らされたのだ。

空港からバスに乗ると30分ほどで成都の中心部に到着したので、そこから徒歩でとぼとぼと成都最強の観光地へと向かった。尚、詩人の杜甫もこの地の出身らしく、成都では杜甫草堂博物館も名所の一つとなっているのだが、今回は時間の関係で割愛させていただいた。

中国の歴史好きの輩は例外なく三国志をフォローしているはずであるが、蜀の都である成都には武侯祠というマサに三国志の聖地が君臨しているので謹んで訪問させていただくことにした。武候祠博物館(60元)は、蜀の王、劉備玄徳と丞相諸葛孔明を祀る廟で、1961年に国務院により全国重要文化財に指定されている由緒ある場所である。

勝手がわからなかったので、恐らく正面ではない入口から入ったためか、最初に三義廟というおなじみの劉備、張飛、関羽の三兄弟を祀ったファシリティに行き当たり、三国志DVDに登場する主役達そのもののいで立ちに恐れおののいてしまった。

内部をさまよっていると千秋凛然という博物館に行き当たったので入ってみることにした。展示物はマサに三国志の資料の宝庫であり、小説家の吉川英治(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_(%E5%90%89%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E6%B2%BB))や漫画家の横山光輝(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_(%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D))がここに来れば狂喜乱舞するであろうことが容易に想像されよう。

劉備、関羽、張飛の像を祀った漢照烈廟(劉備殿)には三義廟のものとは表情の異なる3氏が鎮座していたのだが、その奥にあるはずの諸葛孔明とその子、孫の像があるはずの武候祠(諸葛亮殿)には工事中の影響でたどり着けなかったので優しい表情の孔明像を拝むことはかなわなかったのだった。

武侯祠内は赤壁の戦いをほうふつとさせる長い壁が張り巡らされているのだが、迫りくるフライト時間の関係で劉備の墓と言われている恵陵を見逃し、緑多き庭園の孔明苑が修繕中のために立ち入り禁止の憂き目にあったので、再度の訪問を検討しなければならないのだが、劉備が孔明に会う時も三顧の礼を尽くしたので私も三回来なければ謁見は許されないのかも知れない。ならば、土産物屋にて孔明仕様の扇子を爆買いしてジュリアナOG達が踏み倒したお立ち台にお供えすることも考えたのだが、センスの悪さを気にしてか、店頭では見ることが出来なかったのだ。

余裕があれば麻婆豆腐発祥の地である陳麻婆豆腐店にも立ち寄ろうと思ったのだが、今回は空港の食堂で元祖であるはずの麻婆豆腐と担々麺等を賞味させていただいた。山椒の効いた豆腐をひと口含むとそこには中華の鉄人、陳健一の世界が広がっていた。

CA4375便は定刻20時に出発し、中国大陸を南下して約2時間半で三亜鳳凰国際空港に到着した。ローマ法王は来たことはないと思うが、寒いところから熱帯地方に来た観光客が熱中症にならないように鳳凰空港の到着エリアには着替えのための更衣室が設けられており、思わずほ~お~と感心させられたのだ。

タクシー乗り場にはリゾート待ちの観光客で長蛇の列が形成されており、乗り込んだタクシーの運転手が間違ったホテルに連れて行ってとんずらこいてしまったので新たに手配したタクシーで何とか市中心のクラウンプラザホテルにしけこんだものの、町の喧騒で眠れない夜を過ごすこととなったのだ。

12月30日(水)
朝の散歩がてら立ち寄ったホテルのプールでリゾート気分を高めると、Tシャツと半ズボンで軽く周辺を散策することにした。海に近い川沿いには中国独特の毒々しげな高層ビルが目につくものの係留してあるクルーザーを見ると他のリゾートと同様にお金が流れている様子が想像できる。

中国大陸の南に浮かぶ海南島の最南端に位置する三亜は国際的なビーチリゾートの整備が今なお進んでおり、リッツカールトン、マリオット、ヒル / シェラトンといった名だたる外資系ホテルがこぞって進出している。爆買いにより回復基調にある日本経済の原動力となっている中国インバウンド観光客に報いるために、中国での散財を目的としてインターコンチネンタルホテルを予約していたのでタクシーで向かうことにした。尚、三亜には2軒のインターコンチがあり、案の定タクシーの運転手が最初に間違ったインターコンチに連れて行ってくれたので図らずも両ホテルの比較をすることが出来たのだった。

今回宿泊するインターコンチネンタル海栄湾リゾートは市中心や観光地から離れた東部のビーチにあり、周囲は開発真っ只中という様相を呈していた。木のぬくもりをふんだんにあしらったホテルの9階の部屋にチェックインするとバスタブがインストールされたテラスから眼下のプールや透明な南シナ海のビーチが眺められた。

地上に降りてウエルカムドリンクのビールを流し込むと、広大な敷地の芝生道を超えてビーチへと向かった。あいにくの曇り空と波の高さのため、遊泳禁止となっていたが、海はそこそこきれいで無理すれば泳げるくらいの海水温であった。

当ホテルの大きな特徴は水族館が内蔵されていることで、ウミガメやエイや掃除中のダイバーの雄姿をライブで眺めることが出来るのだ。

夕飯時になったので、館内の3軒のレストランを物色していたのだが、大人気の水族館レストランに予約なしで侵入することが出来たので目の前を泳ぐ魚たちを肴にシーフードビュッフェを堪能させていただくことにした。

メインコースはロブスターか大海老のチョイスとなっており、食事中にダイバーが頻繁にウミガメや六輔と命名されているかどうかわからないエイを引き連れて被写体になろうと躍起になっているので、落ち着いて飯を食うこともままならなかった。一人当たり約¥15,000の食事代(ドリンク付)がお得かどうかは実際にここに来ないと判断が出来ないであろう。

食後にビーチサイドを歩いて腹ごなしをしていると虹色に光るホテルのライトアップが眩しかった。魚を養っている水槽前のテラスではお洒落なバンドがサカナクションではないムーディーなミュージックを奏でていたのだった。

12月31日(木)
ホテル代の元を取るために今日は意地でもホテル内で過ごさなければならなかったのだが、隣に巨大免税ショッピングモールが営業していたので買う気もないのに足をのばしてみることにした。

中国人買い物客はここでは必ずしも爆買いをするわけでもなく、淡々とショッピングに勤しんでいたのだが、尿意をもよおした子供のパンツを下げて店の前で放尿させるというマナーはマサに一人っ子政策で子供を甘やかせる中国独自の荒業であったのだ。

山に沈む夕日を見送ると今夜はホテルのチャイニーズレストランにアポなしで突撃した。海南ビールで喉の通りを良くしたまでは良かったのだが、頼んだ料理の出てくる順番がスープ、メイン、前菜、デザート、あわびご飯と無法地帯の様相を呈していたのが多少気にかかったのだった。

1月1日(金)
ハッピー ニュー マサよ!

ということで、ホテルの地下水族館で最後のサカナアクションを堪能し、散財に勤しんだインターコンチを後にしてタクシーで空港にほど近い三亜湾のホリデーイン・リゾートに移動した。帰国を翌日に控え、豪華リゾートから通常のリゾートに格を落として現実に近づくためのリハビリも兼ねて今日は少し観光もかましてみることにした。

ホテル前のバス停から市バスに乗り、数kmの道のりを西に進んだのち、道路工事通行止め対策のシャトルバスを乗り継いで天涯海角風景区(100元)という景勝地にたどり着いた。海南島は長らく罪人の流刑地とされてきたが、特に三亜は、この世の果てを意味する「天涯海角」と呼ばれる土地だった。その実績を今に残すべく、この天涯海角は三亜最強の観光地として多くの人民を集めているのである。

さすがに風景区というだけあって青い海のビーチは美しく、1km程歩いていると様々な形をした岩々が忽然と姿を現し、観光客の目を楽しませてくれる。

中でも「南天一柱」、「天涯」、「海角」といった文字が彫られている岩は絶好の記念撮影スポットになっており、常に人だかりが絶えることがなかったのだ。

三亜湾に戻ると日もほとんど沈んでしまっていたのだが、ビーチの果物売りのおばちゃんは砂の上で閉店前のおしゃべりに余念がないようであった。

1月2日(土)
ホテルをチェックアウトする際に、昨日現金で支払ったはずの夕飯代を二重請求されそうになったのでフロント係を軽くどやしつけて溜飲を下げるとタクシーで三亜鳳凰空港に帰って行った。CA4250便成都行きは定刻10時35分出発にも関わらず、2時間弱も出発が遅れたため、成田行きへの乗り継ぎをあきらめかけたのだが、Air Chinaと成都双流国際空港スタッフの神対応のおかげで、CA459便15時30分発成田行きは1時間半程度遅らせて出発したものの危機感を共有した10名弱の乗り継ぎ客はかろうじて救われたのであった。

1時間程度の遅れで成田空港に到着したのは午後10時くらいであったろう。多少トラブルに見舞われたものの三亜はハワイの代替リゾート地として十分機能することが確認されたツアーであった。

FTBサマリー
総飛行機代 \65,890
総宿泊費 4,789.39元
総タクシー代 642元
総バス代 12元

協力 Air China、成都双流国際空港、IHG(Intercontinental Hotels Group)

FTBJ 合掌造りの郷 世界遺産五箇山デデレコデン ツアー

マサよ、君はこきりこの竹は七寸五分であることを小学校の音楽の時間に習ったことがあるか!?

というわけで、年端もいかない頃に身に付いたリズムやメロディーは一生かかっても抜けることがないらしく、今や世界遺産として君臨しているその民謡を生んだ僻地へのツアーがデデレコデンの囃子とともに開催されることとなったのだ。

2015年10月11日(日)
午前9時45分発ANA313便は羽田空港の混雑により、遅れての離陸となったのだが、11時ごろには富山きときと空港に到着した。北陸新幹線の開通により、この空港の利用者が激減したため、対策の一環としてレンタカー各社が呉越同舟となり「富山きときと空港レンタカーキャンペーン」で優良ドライバーを勧誘していたので、ニッポンレンタカーでお得価格のトヨタのヴィッツをレンタルすると早速ギトギトした商魂を振り払うべく越中路へと繰り出した。

目的地を越中・飛騨観光園五箇山総合案内所にセットし、あわよくば正午に開園となる「四季に舞う こきりこ踊り」というイベントに間に合わせようとヴィッツを飛ばしたのだが、思いもかけぬ渋滞に引っかかってしまったため、案内所に着くと即座に昼飯屋探しに切り替えたのだった。

地元の五平餅、五箇山豆腐、そば等で腹を膨らませると降りしきる雨を物ともせず、五箇山の見どころのひとつである世界遺産菅沼合掌造り集落へ向かった。協力金\500を支払って車を駐車すると山あいを流れる庄川のわずかな河岸段丘にある9戸の合掌造り家屋が待つ集落へと足を踏み入れた。

現存する家屋は100?~200年前のもので江戸時代に建立され、日本有数の豪雪地帯の中で長年の風雪に耐えてきた威厳を湛えている。

集落内には土産物屋はもちろんのこと、五箇山の歴史と伝統を体験できる五箇山民俗館や塩硝の館(共通券\300)があり、当時の生活様式や合理的な農機具、主要産業などを垣間見ることが出来るのだ。尚、塩硝とは火縄銃で使われていた火薬のことで原料を囲炉裏端の地下に埋めて5年間熟成させねばならぬという非常に根気のいる産物なのである。

すがすがしい気分で菅沼集落を後にすると五箇山総合案内所を起点としたいくつかの見どころを巡ってみることにした。庄川を取り巻くブナ林を横目に加賀藩流刑小屋の看板を頼りに橋を渡ると小じんまりした掘っ建て系の小屋が見えてきた。五箇山地方の東岸は、庄川の断崖絶壁に隔離され、加賀藩では流刑の好適地として多くの流刑人が送り込まれたという。真っ暗な小屋の中をフラッシュ撮影すると流刑人形がうやうやしく正座して反省している様子が写りこんだのだった。

総合案内所の国道沿いの並びにひときわ大きな合掌造りの住居が君臨している。国指定重要文化財の村上家(\300)は約400年前の建築当時の様式を伝える貴重な家屋で、内部には江戸時代に五箇山の主産業といわれた塩硝製造や和紙製造等の民族資料数千点を陳列しており、五箇山の生活史を垣間見ることが出来る。さらに、当主が囲炉裏を囲みながらこの家やこの地域にまつわるお話をしてくれて、最後にはこきりこ節を歌ってその美声まで披露してくれたのだ。

今回の宿泊先である新大牧温泉民宿ながさき家に投宿し、部屋にエアコンがなかったので温泉に入って寒さ対策を施した後、夕食の時間と相成った。食卓を賑わしたものは都心部では決して食すことがかなわない岩魚の刺身や五箇山豆腐等、心と体に優しいはずの地元料理であった。

10月12日(月)
朝起きると昨日の雨とは打って変わって青空が広がっていたので、五箇山のもうひとつの世界遺産である相倉合掌造り集落への観光へと打って出た。この集落には23棟の合掌造り家屋が現存し、田畑、石垣、雪持林とともに懐かしい景観を見せている。

この季節は特に♪うすべにのコスモスが秋の日の何気ない陽だまりに揺れている♪光景が美しく、周囲の里山と合わせてマサに日本の農村の原風景が展開されているのであった。

家屋のいくつかは物干し竿に浴衣たなびく民宿として営業されており、また、旧高桑家と旧水口家では世界遺産登録20周年記念として美術展が開催中で、地元の作家が囲炉裏炭ブラック壁の背景に近代的な絵画等をうまくマッチさせていた。

相倉民俗館・相倉伝統産業館(共通券\350)に立て続けに入館してこの集落の歴史を学習させていただいたのだが、映像のスイッチを入れるとお約束のこきりこ節が流れ、リズムを取る七寸五分の竹や和紙細工で彩られており、やはりこの地はこきりこで成り立っていることをあらためて思い知るに至るのである。

合掌造り集落では火気厳禁の看板とともに熊にも厳重な注意が払われている。五箇山に入った当初から熊料理の看板に目を付けていたので、満を持して入店し、くまつけそば(\1,200)を発注させていただいた。付けダレに入っている肉は熊の味かどうかは定かではなかったが、店主を信頼して美味なそばを浸して完食したのだが、熊顔の店主曰く、最近はくま鍋の人気が拡大し、熊肉の入荷が間に合わないため、自分で仕留める分だけでなく狩人仲間からも仕入れなければならないとのことであった。また、昨年自分で栽培した蕎麦がカモシカに食い荒らされて収穫出来ないという苦い経験を持ち、天然記念物という肩書で守られているカモシカを毛嫌いしているのだ。

熊料理屋でのカモシカ長話で時間を食ってしまったので、帰路に就く傍らの新五箇山温泉ゆ~楽の眺望露天風呂で時間調整して、きっとまた帰ってこなければならないと思いながら富山きときと空港へと車を走らせた。

午後5時40分発のANA320便の搭乗までしばらく時間があったので、富山名物のホタルイカ、白エビ、鱒ずし、氷見うどんがセットになった氷見御前(\2,200)をかきこんで越中からの撤退となったのだった。

FTBサマリー
総飛行機代 \27,980
総レンタカー台 \6,940
総高速代 \1,680
総ガソリン代 \1,439
総宿泊費 \8,500(2食付き)

協力 ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル

FTB抗日戦争勝利70周年記念中国ツアー in 大同

昨今緊迫した日中関係、中国人観光客による爆買い、中国株式市場の暴落、人民元の切下げ等、中国に関する大きなニュースがちまたに溢れているのだが、今年は特に終戦70年、中国側からは抗日戦争勝利70周年という大きな節目の年を迎えている。

最近支持率の凋落が著しい安倍総理も起死回生を狙っているはずの日中首脳会談を行うべく、訪中する予定らしいが、それに先立ってFTBが中国人民の民意を探るために観光地を巡るツアーが敢行されることとなったのだ。

2015年8月12日(水)
今回はAir Chinaの利用にもかかわらず、同じスターアライアンスのよしみでANAマイレージクラブダイヤモンドメンバーの私にANA SUITEラウンジの使用が許可されたため、フライトまでの時間を優雅に過ごさせていただいた。

午後7時発CA168便は定刻通りに出発し、4時間弱のフライトで1時間の時差を超えて北京首都空港に午後10時前に到着した。入国審査、税関を順調に通過したものの、空港のタクシー関係者が今夜の宿泊先であるHoliday Inn Express:Beijing Airport Zoneを明記した英語の案内文や地図を理解しなかったため、ホテル到着までかなり手間取ってしまった。

IHG InterContinental Hotels Groupのポイントが余っていたのでマサであれば425元くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Expressの1室でくつろいでいるとNHK Worldのニュースで大爆発により火の海と化した天津市の様子が生々しく伝えられ、今回のツアーが前途多難であることを予感させられたのだった。

8月13日(木)
早朝4時のモーニングコールでたたき起こされ、5時にタクシーに飛び乗ると朝飯を食う間もなく6時半発CA1119便で大同市へと飛んだ。7時半過ぎに大同空港に到着し、価格交渉により60元のタクシー代で大同での宿泊先である花園大飯店まで送ってもらうと早速ビュッフェ式豪華朝食に舌鼓を打たせていただいた。

およそ中国国内とは思えない待遇の良さが売りのフロントスタッフの計らいで朝食後すぐに部屋へ入ることが出来たのだが、一息つくまもなくすぐに観光地へと足を延ばすことにした。山西省の北部に位置する大同は地方都市だが、世界遺産のある都市として毎年多くの観光客をおびき寄せている。1,000m以上の高地で砂漠性の気候のため、夏はカラッと暑く、冬は異様に冷え込み、強風にさらされるのでこの時期が観光のベストシーズンとなっている。

城壁に囲まれた町の中心の鼓楼でタクシーを拾い、数キロ離れた大同バスターミナルに移動するとそこから埃っぽい山道を1時間半ほど中距離バスに揺られ、さらにタクシーを捕まえて到着した場所はマサに崖っぷちの様相を呈していたのだった。

北魏の末期(6世紀)に建立された仏教寺院である懸空寺は空に懸かっているというより切り立った岩山の岸壁の中腹にしがみついており、見るからに壮観で珍しい景観を提供している。

チケット売り場で観覧券(120元)を入手し、峡谷を切り裂くように流れているミルクコーヒー色の川沿いを歩き、参観を待つ長蛇の列の最後尾に並んだ。階段を上り、寺院の門をくぐるとそこには極楽浄土と滑落の危険が背中合わせになった今までに経験したこともないような空間が広がっていた。

崖沿いを這うように連なる細い桟道は、これまた心細い数本の丸太で支えられており、その上におびただしい数の観光客が背筋に冷たいものを走らせながら行き来している。欄干の位置は腰よりも低いので体勢を崩すと容赦なく崖下に向かってまっしぐらになってしまうのだ。

建物は10棟ほどあるのだが、その中には全部で80体もの仏像が祀られており、どれも柔和な顔つきで崖っぷちにいる恐怖を軽減させようと努めているかのようだった。

懸空寺から下山し、観光客待ちのタクシーを探していると首尾よく相乗りで安く大同まで帰れることとなった。大同市区の中心部を散策していると華厳寺という華厳宗の寺院の前の広場がやけに賑わっているのが気になった。

寺の門前に掲げられている看板をよく見るとそこには「紀年抗日戦争勝利70周年」の文字が踊っており、大音響での歌や踊りで大いに盛り上がっていたので、私も敗戦国を代表して袋叩きにでもされて人民の溜飲を下げさせてやろうかと一瞬思ったのだが、その役割は後日訪中する安倍首相にまかせるべきだと考え直し、控えておいたのだった。

敗戦の鬱憤を晴らすにはやけ食いが最適だと考えたので花園大飯店が198元で提供するビュッフェレストランに駆け込んだ。前菜として美味なオードブルや海老、蟹、アワビで体内のプリン体を増加させるとメインとなっているブラジルスタイルのシュラスコという多くの種類の串刺し肉が次から次に回ってきて私のお皿に薄切りにされて供され、思わぬコストパフォーマンスの高いディナーを楽しむことが出来たのだ。

8月14日(金)
マサよ、君は敗戦の鬱屈をぶつけるべくは巨大な石窟であることを実践したことがあるか!?

ということで、ホテルを出て市バスに乗り、大同駅で軽く用を足すと首尾よく雲崗(うんこう)行きのバスが運行されているのが確認出来たので、大腸の下流、肛門の手前で邪悪な物体が蠢いている感覚を引きずりながら世界遺産である雲崗石窟に向かった。

世界に名だたる芸術宝庫のひとつである雲崗石窟(125元)は大同観光のハイライトであり、私も学生時代に社会の教科書で雲崗石窟像の存在を知って以来、この地を訪れることが宿命づけられていたのであるがついに実現を見ることとなった。

チケット売り場から石窟に辿り着くまでには数多くの前座的な寺院の門や仏像、仏画の鑑賞を余儀なくされたのだが、それを慈悲の心で乗り切った者のみが待望の石窟像たちとの謁見を許される仕組みとなっている。

武周山断崖の砂岩を切り開いて築かれた石窟は、東西1kmにも渡っており、主な洞窟は53窟あり、彫像は高さ数cmのものから17mのものまで5万1000体にもおよんでいると言われている。

石窟は460年(北魏の和平元年)から開削され、494年(北魏の太和18年)の洛陽遷都の前には大部分が完成したそうだ。その後も造営が続けられ、遼金時代に最大規模になったという。

律儀に第1窟から順番に見ていたのだが、第5窟には、雲崗石窟最大の高さ17mを誇る仏像が穏やかに鎮座していた。第5窟内は非常にカラフルに装飾されており、石仏も豪華に色づけされているためか、名目上写真撮影禁止となっているのだが、観光客は管理人の目の届かないところで平気で写真を撮り、見つかったものだけが怒号を浴びせられていたのだった。

保護が重要と思われるいくつかの石窟の全面には立派な門が増築されているのだが、第7窟~第13窟は脱落、汚染等を修復するためのメンテが行われているため入場出来なかったので芸術的レベルの高いと言われている多くの仏像を見ることはかなわなかったのだ。

雲崗石窟の中でも最も早く彫り始められたのが、第16窟~第20窟で曇曜五窟と呼ばれ、世界的に有名であるのだが、特に第20窟の巨大な仏像は雲崗石窟のシンボルとなっており、多くの観光用パンフレットや教科書の写真のモデルとなっている代物である。

石窟を一通り見終わると、石窟通りの外れに雲崗石窟博物館なるものが開業していたので入って見ることにした。巨大な箱物は広々としたスペースを誇っており、出土した展示物は端っこにひっそりと展示されている一方で、中央部は吹き抜けとなっており、数多くの背もたれなしソファーの上では石窟に圧倒されて疲れたはずの観光客が寝転びくつろいでいたのだった。

出口から退出するとそこは観光地化されたエリアとなっており、多くの土産物屋や食堂で賑わっていた。中でも当地の名物である刀削麺はチープなロボットが削っており、花園大飯店の朝食で供された熟練シェフの削り方とは一線を画していたのである。

バスを乗り継いで大同新南公路バスターミナルに移動し、明日の北京行きのチケットを入手した後ホテルに帰ると夕飯時の頃合いになったので、今日はホテル内の中華レストランで本格中華を賞味させていただくことにした。青島ビールで喉を潤すと、ふわふわ魚団子のスープ、あっさり味のプリプリ海老炒め、白身魚1匹丸ごと蒸し、デザートの紅芋クリームふわふわ丸めものを低価格で楽しむことが出来たのだった。

8月15日(土)
北京行のバスの時間が13時発のため、午前中の時間を有効活用すべく、大同中心部の見所を軽く巡ってみることにした。中国三九龍壁というもののひとつが大同にあるのだが、そもそも九龍壁とは中国で吉祥の数とされる九にちなんで九匹の龍を配した目隠しのための障壁である。入口で10元支払うと児童の集団と一緒に長さ45.5m、高さ8m、厚さ2mの中国に現存する九龍壁の中では最も大きい明代に建立された巨大な遺物としばし向き合わさせていただいた。

華厳寺広場は一昨日の抗日戦争勝利70周年パーティの喧騒は跡形もなく消え去っており、日常の観光地の様相と青空市場の賑わいをたたえていたので安心して闊歩することが出来たのだが、何故か大通りに面したとある商店の前では商売繁盛を願ってか、多くの小太鼓が打ち鳴らされていた。

長距離バスに乗るために時間の余裕を見て大同新南公路バスターミナルに到着したのだが、とある中国人民が大声で周囲の人に難癖を付けていてセキュリティ係りの集団にマークされていた。その光景を横目に北京行の自称「豪華バス」に乗り込むと定刻通りに大同を後にすることとなった。

5時間以上かけて北京の六里橋長距離バスターミナルに到着すると皆身分証明書を提示していたので私もパスポートを見せてターミナルから脱出すると地下鉄に乗り換えて北京中心部へ向かった。道に少し迷ったもののHoliday Inn Express: Beijing Temple of Heavenにチェックインを果たすと、フロントの女性の紹介で近辺の中華料理屋で最後の晩餐を楽しむことにした。

北京くんだりまで来て北京ダックを食わなければ、拗ねたアヒル唇で帰国しなければならなくなることを恐れて168元もの大金を支払って注文することにした。薄いクレープ皮に甘ダレを擦り付けてパリパリの皮と野菜を包んで口に放り込むとやはり北京に来る最大の目的はこれに尽きると痛感させられたのだった。

8月16日(日)
セキュリティの厳しい中国では飛行機の搭乗のみならず、長距離バスや地下鉄に乗るときさえもX線による荷物検査が行わるのでコインロッカーなどもっての外らしく、荷物を預けるのはホテルのフロントか大きな駅の手荷物預かり所になってしまうので、ホテルをチェックアウトすると地下鉄で北京駅まで移動し、そのまま駅で荷物を預かってもらうことにした。

北京駅は御多分に漏れず、おびただしい数の人民による人間模様が繰り広げられており、特別な用がなければここに来たことを後悔させられる場所である。出口はさほどではなかったものの狭い地下鉄への入り口には長蛇の列が出来ていたため、乗車を断念して繁華街の方へと歩いて行った。

中国の物価としては非常に高い30元を支払ってアイスコーヒーで体を冷却すると、北京駅から離れた地下鉄乗り場で乗車して天安門で下車するとここも人民で溢れかえっていたのであった。午前中にさくっと世界遺産の故宮と天安門の見学を済ませて帰国するという目論見があっさりはずれてしまったため、工事中らしき天安門と故宮に入場しようと躍起になっている観光客をチラ見して退散を決め込むことにした。尚、FTBでは両観光地とも2003年の訪中時に制覇済みとなっている(http://www.geocities.jp/takeofukuda/beijin.html)。

天安門の近くに王府井という北京一の繁華街があり、中国人はそこでも爆買いしているのかと思っていたのだが、土産物屋がことのほかすいていたのでありきたりの中国菓子を買って北京を後にしたのだった。

午後5時10分発CA183便は定刻通り出発し、9時半頃羽田空港に到着した。中国人は日本では爆買いするが、本場中国では天津が爆発するという恐怖を引きずったまま流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー
総飛行機代 \109,230
総宿泊費 RMB1,202.52(朝食付き)
総タクシー代 RMB315
総バス代 RMB188
総地下鉄代 RMB16

協力 Air China、IHG

FTBJ北の国から2015 ラベンダー

♪ア~ア~、ア ア ア ア ア~♪

じゅん、じゃなかったマサよ~ォ、君は道央の丘陵地が紫に染まる7月の数週間の間に北海道のへそで田中邦衛よろしくくちびるをすぼめたことがあるか!?

というわけで、今年も恒例の北の国から発祥の地ツアーが粛々と執り行われる季節が巡ってきたわけで・・・

7月11日(土)
どんよりした梅雨真っ只中の東京を離れるべく午前10時発ANA059便に乗り込むと1時間半程のフライトで新千歳空港に到着し、い~レンタカーを格安で提供するはずのeレンタカーでショッカーよろしく「イ~」と叫んでトヨタのパッソをレンタルすると道央の高速道路を旭川方面に向かって疾走した。

旭川を過ぎ、日本の国立公園で最大の面積を誇る大雪山国立公園に侵入するとその中で最も洗練された観光地の一つである層雲峡に午後3時過ぎに到着する運びとなった。そのままの勢いで黒岳ロープウエイ乗場の駐車場に車を放置すると\1,950もの大金を支払ってロープウエイの往復券を購入した。

(株)りんゆう観光が1967年に全精力をかけて開通させた黒岳ロープウエイはゴンドラ式の101人乗りで、1人のガイドを除くと100人の観光客を乗せることが出来る大型の宙吊り箱物となっている。標高670mの層雲峡駅から標高1,300mの黒岳駅までわずか7分で到着するとペアリフト(往復\600)で標高1,520mの黒岳7合目まで15分の空中散歩で到達することが出来るのだ。

今回は時間の関係上標高1,984mの黒岳山頂への登頂は控えておいたのだが、それでも美しく可憐な高山植物や展望台から見渡せる大雪山系の山々の眺望は大金を支払ってでも見に来る価値は十分にあることを思い知らされた。

黒岳から下山すると迫り来る層雲峡の柱状節理の岩山にせかされるように今回の宿泊先である湯本銀泉閣になだれ込んだ。層雲峡温泉の源泉かけ流しの湯で体の表面を温めるとさらに夕食の薬膳鍋で体の内部のデトックスに精を出していた。

7月12日(日)
桃太郎侍親子がPR大使を務めているBBHホテルグループの銀泉閣を後にすると、層雲峡ビジターセンターでもっと恐ろしい物を目にすることとなった。大雪山国立公園はヒグマの生息地であり、黒岳周辺でも数多くの目撃情報が報告されている。ヒグマの聖地ともいえる知床国立公園のウトロシリエトクビジターセンターでもヒグマの剥製の展示は見られなかったのだが、ここ層雲峡では生後1ヶ月の2頭を含む合計6頭ものヒグマの剥製が観光客の恐怖を煽っていたのであった。

ヒグマに追われるように層雲峡から撤収すると恐怖で充血しているはずの眼を保養するために美瑛町の丘陵地の花畑を巡ることにした。旭川から富良野方面に向かっているとひときわカラフルな花畑が目に飛び込んで来た。ぜるぶの丘はこじんまりとしてはいるものの旬のラベンダーを中心とした見事な花々の配色で観光客を癒していた。また、展望台からはカルロス・ゴーン率いる日産社員によって庇護されているはずのケンとメリーの木が往年のスカイラインファンの郷愁を誘うように一本立ちしていたのだ。

美瑛町最大手の丘陵花畑である四季彩の丘はあいかわらず観光バスで乗り付けた多くの中国人観光客で占拠されており、彼らは株の暴落の痛手を拭い去るかのように美しい花々の前で記念写真を撮りながら心の傷を洗い流しているのだった。

元祖北の国からの地域が最も華やかな時期を迎えるとあって、上富良野を抜け、中富良野に近づくにつれて車の列が長くなっていった。中富良野の町営ラベンダー園の駐車場になんとか車をねじ込むとスキー場ならではの傾斜地にスプールを描く代わりに紫の絨毯を敷き詰めたパープルタウンを見下ろすべく、しばしリフト(¥300)に揺られることにした。

紫に支配されたゲレンデの頂上の一角に秋田県美郷町より寄贈されたという美郷雪華なる白いラベンダーが慎ましく植えられており、紫帝国富良野に対するひとつの挑戦状のように思えもした。

ほたるぅ、じゃなかったマサよ、君は太宰治似の創業者が廃業という人間失格の危機を乗り越えて今や紫帝国の総本家として付加価値の高い香水やメロンを売りさばいている光景を見て希望を捨てずに走り続けることの尊さを学んだことがあるか!?

ということで、町営の施設よりも明らかに金をかけた花畑を造営し、世界中の観光客を虜にしているファーム富田に居並ぶ観光客をかき分けて進入することとなった。ファーム富田は切り花を産出するラベンダー畑から石鹸、香水工場、さらにそれらを高値で売りさばく土産物屋とレストランから成っている。

富良野地区に存在する数あるラベンダー畑の中でもファーム富田のトラディショナル・ラベンダー畑は群を抜く輝きを放っており、各方面からの車や観光バスがこぞってここに集結しようとするのも無理なからぬことと思われるわけで・・・

ツアー会社の観光バスが出発準備の排気ガスを排出し始めたころ、後ろ髪をひかれる思いで富良野に別れを告げ、2時間弱の時間をかけて新千歳空港へと帰って行った。18:30発ANA076便は定刻通りに出発し、日本海側に沈む夕日を眺めらがら紫帝国との再会を期していたわけで・・・

FTBサマリー
総飛行機代 \40,480
総宿泊費 \15,554
総レンタカー代 \8,928
総高速代 \4,810
総ガソリン代 \3,805

協力 ANA、eレンタカー、楽天トラベル

FTBJ北の国から2015 ニセコ

♪ア~ア~、ア ア ア ア ア~♪

じゅん、じゃなかったマサよ~ォ、君は世界有数のスキーリゾートに訪れる春の足音を聞いたことがあるか!?

ということで、ゴールデンウィークも中盤戦に差し掛かり、飛行機やホテルの空き状況も余裕が出た頃を見計らって、北の大地でプチリゾートアクティビティをかましてみることにしたわけで・・・

5月3日(日)
9:30発ANA57便は定刻どおりに出発し、11時過ぎには新千歳空港に到着した。早速トヨタレンタリースでハイブリッド車のアクアをレンタルすると国道を西に向かってひた走った。途中支笏湖近辺でゴールデンウィーク渋滞に遭遇したものの、午後2時過ぎにはニセコエリアのランドマークとして裾野を広げてそびえている羊蹄山が姿を現した。

奇しくもニセコエリアは桜の満開の時期を向かえ、真狩神社の参道から続く桜並木と白い恋人のような雪をまとった羊蹄山のコントラストマサに北海道に春を告げる景色であったわけで・・・

標高1898mの羊蹄山をぐるっと回る形のドライブルートを楽しんでいるといつしか白いゲレンデがいまだに眩しいニセコ町に入っていた。ニセコ駅を過ぎ、パノラマラインという風光明媚な山道を少し登ると本日の宿泊地であるニセコアンヌプリ温泉「湯心亭」に到着したので、早速天然美肌のかけ流し温泉をゆっくりと堪能させていただいた。

アンチエイジング・ミネラルと言われているシリカを多く含有している若返りの湯でドモホルン・リンクル並みの効果を実感した後、夕食時に供されたコラーゲン鍋でさらなる若作りに励みながら北の大地の恵みを体の内外から吸収させていただいたわけで・・・

5月4日(月)
北の湯心を存分に堪能させていただいた湯心亭を後にして、パノラマラインの坂道を登り、標高1308mのニセコアンヌプリを少しでも間近に見ようと躍起になっていた。五色温泉郷の展望台のところでむなしくも冬季通行止めの雪の壁に阻まれてしまったが、集団行動に勤しんでいるスノーボーダー共々ニセコアンヌプリの頂上の景色を目の当たりにすることに成功した。

世界有数のパウダースノーで有名なスキー王国ニセコから撤収すると演歌の心を求めて真狩村へと下って行った。ひつじ年の宴会の決め手は羊蹄山を背景にして♪わたしバカよね~♪と言わんばかりにカラオケのマイクを離さないことであろうが、真狩村出身の演歌の帝王である細川たかしが見事にその夢を実現しているわけで・・・

細川たかし記念像は、日本レコード大賞の権威はなやかなりし頃に、2年連続の大賞受賞を記念して地元の後援会が建てた代物である。尚、「欽ちゃんのどこまでやるの」の後ろ盾でヒットした「北酒場」や「矢切の渡し」等の名曲は台座の手形に触れることで流れる仕掛けになっているのだ。

いささかの心のこりを引きずって真狩村から立ち去り、京極町にあるふきだし公園に向かった。羊蹄山の伏流水が絶え間なく湧き出しているふきだし公園の水温は年間を通じて6.5℃と安定しており、一日の水量は30万人の生活用水に匹敵する約8万トンを誇っている。

マッサン、じゃなかった、マサよ、君はNHK連続テレビ小説の影響力が及ぼす北のウイスキーの里の賑わいに酔わされたことがあるか!?

というわけで、絶景を堪能させていただいたニセコエリアに別れを告げ、海に向かって走っているとにわかに見事な花を咲かせたりんごの木が目に付くフルーツ王国に舞い込んでいた。ニッカウヰスキーの城下町である余市ではいたるところにマッサンの看板が掲げられており、これ以上ない町おこしの成功例を示していた。

道の駅「余市」に車を止め、重厚なニッカウヰスキーの門をくぐるとガイドツアーによる蒸留所見学が3日前からの予約者に限定されている事実にサントリーとの違いを思い知らされたので、予約が不要なフリーの見学をかますことにした。とりあえずニッカ会館・レストラン「樽」で1時間待ちの昼食を召し上がり、売店で高級ウイスキーが軒並み売切れになっている事実を目の当たりにした後、混雑する試飲会場に駆け込んだ。運転者を示すシールを胸に貼っていたのでリンゴジュースの痛飲とシングルモルトの香りを吸い込むことしか出来なかったが、マッサンの残した足跡は十分に胸に染み渡っていったのだった。

ウイスキー博物館ではシャーロット・ケイト・フォックスに似た女性の肖像写真がにっこりと微笑みかけ、多くの観光客を虜にしていた。尚、工場の前の道は竹鶴リタ夫人にちなんでリタロードと命名され、マサに献身的な利他の精神を体現しているかのようであったわけで・・・・・


FTBサマリー
総飛行機代 \38,080
総宿泊費 \11,980
総レンタカー代 \17,820
総高速代 \1,480
総ガソリン代 \1,713

協力 ANA、トヨタレンタリース、楽天トラベル、ニッカウヰスキー

FTBJみちのく桜まつりシリーズ in 角館&弘前

日本列島を揺るがしている春の異常気象により、今年は満足に花見が出来ないと嘆いている輩の溜飲を下げるために、列島を一気に北上していった桜前線を春まだ浅いみちのくでとらえるツアーがタイムリーに計画、実行されるに至ったのである。

2015年4月25日(土)
9:55羽田発ANA403便は定刻どおりに出発し、わずか1時間のフライトで11時前に秋田空港に到着した。早速タイムズレンタカーでダイハツのムーブをレンタルすると、一路秋田の小京都との異名を持つ桜の名所を目指した。

みちのくの小京都と呼ばれる角館は、元和6年(1620)につくられ、秋田藩の中では最も大きな城下町として発展してきた歴史を持ち、武家町と町人町に分けられた町並みは、390年近く経った今でもほとんど変わらない風情を残している。角館を一躍一流観光地に押し上げたものは春に咲き誇る見事な桜であり、平成27年度の桜祭りは4月20日(月)~5月5日(火)の長期に渡って開催されている。

押し寄せる観光客に駐車スペースを提供している民家系の空き地に\500支払って車を停めると、約2kmに渡って約400本のソメイヨシノが林立している桧木内川のさくら並木遊歩道を蜂の巣に注意しながら散策することにした。満開を過ぎ、散りはじめの時期を迎えたソメイヨシノであるが、さすがに400本も並ぶとその景色は精悍で雪を抱いた山脈を背景にした桜色はマサにここでしか見ることの出来ない絶景であった。

昼飯時になったので川べりの茶店で名物稲庭うどんを\1,080の前払いで食したのだが、この金額には明らかに桜並木の眺望代が付加されているように思われた。腹も膨れたところで、角館最大の見所である武家屋敷通りを彩っている枝垂桜をぶらぶらと見物させていただくことにした。

あいにく今年の枝垂桜のピークは過ぎている様子で、ほとんど葉桜となった夢のあとを追いかけることになってしまった観光客はそのやるせなさをゆるキャラとの記念撮影で紛らわせているようであった。

武家屋敷通りでは江戸時代から続く旧家がいくつか有料・無料で公開されているのだが、その中で最も格式が高い石黒家(\300)にお世話になることにした。ボランティアの案内おばさんの話を聞きながら築200年の家の造りや5月人形を見学させていただき、さらに当家に保存されている解体新書の展示を見ながら人体の不思議発見に精を出していた。

葉桜になったゴールデンウイークの頃にはこの桜祭りも盛り上がりに欠けているであろうことを懸念しながら角館を後にして山道を北上すると田沢湖に差し掛かったので、ここの主である金色の辰子像への挨拶は欠かさずに行っておいた。

本日の宿泊地である八幡平の後生掛温泉にチェックインすると火山の恵みである源泉掛け流しの硫黄温泉で体の内外をコーティングし、きりたんぽ等の秋田の名物料理に舌鼓を打ちながら秘境の雰囲気を十分に堪能させていただくこととなった。

4月26日(日)
「馬で来て足駄で帰る後生掛」と言われるほどの湯治能力により、温泉で体の力がみなぎるのを感じたので宿を出て一気に八幡平での頂上決戦へと打って出ることにした。峠へと向かうアスピーテラインは雪の回廊と化しており、展望台からは雪化粧を拭い去ることのない山々の眺望が目を楽しませてくれた。

マサよ、君は日本一の桜祭りがみちのくの地で盛大に開催されている事実に恐れおののいたことがあるか!?

というわけで、八幡平から平地まで一気に下り、桜前線を追うように東北道を北上した。弘前市街地は思ったほどの交通混雑もなく、中心地のコイン駐車場に車を停めると徒歩10分ほどで「弘前さくらまつり」の会場となっている弘前公園の追手門に到着した。そこで目にしたものは花びらで埋め尽くされた桜色の外堀であったのだ。

追手門をくぐって園内に入るとそこは桜の天国のような様相を呈しており、これぞマサに「さくらまつり」にふさわしい光景が展開されていた。西濠の脇には見事な桜のトンネルが形成されており、その向こうに松村和子が♪きぃっと帰って来るんだぁとぉ♪と手を振ったお岩木山の雄姿がそびえていた。

入場料\310を支払って有料区域である北の郭・本丸に入城するとどこからか流れる♪べんべらベン♪の調べが耳に入ってきた。津軽三味線をかき鳴らす2人組が「吉田兄弟」と名乗っているかどうかは確認できなかったのだが、青森での桜祭りでは欠かすことの出来ない余興だと思われた。

慶長16年(1611)に築城された弘前城天守が100年に一度の大改修を迎えるということで、天守閣を背景にした桜の景色はしばらく拝めなくなるため、多くの花見客がこぞって押しかけていた。天守閣の最上階から見る岩木山の景色はさらに美しく、観光客は皆、天守閣が早く改修を終えて♪帰って来いよ♪と願っているはずであった。

秋田空港でのフライトの時間が迫ってきたので松村和子よろしく後ろ髪を引かれる思いで弘前公園を後にした。東北道を南下し、秋田北部の能代から続く自動車専用道路をひた走って午後6時には空港に戻ってきた。土産物屋を守っているなまはげに頭皮の末永い健康を祈願し、桜田淳子や佐々木希を押さえて秋田美人の代表に成り上がっている壇蜜に別れを告げ、19:30発ANA410便にて東京へと帰って行った。

FTBサマリー
総飛行機代 \28,180
総宿泊費 \12,500(2食付)
総レンタカー代 \11,010
総ガソリン代 \2,909
総高速代 \2,360

協力 ANA、楽天トラベル、タイムズレンタカー

第三回ガリンコ号で行くガチンコ流氷ながれ旅ツアー(やらせなし)

今冬、度重なる爆弾低気圧による暴風雪に見舞われた道東はホワイトアウトで目の前が真っ白になった陸地とは対照的にオホーツク海を埋め尽くす白い氷は例年より少なめだと言われている。日々更新される流氷情報を注視しながら、今年も流氷が着岸するタイミングを見計らってながれ旅ツアーが開催される運びとなったのだ。

3月7日(土)
ANAの株主優待券が余っていたのでマサであれば\50,290かかるところを私は半額の\25,290で購入した10:30発ANA375便に乗り込むと低気圧に乗って北へと向かって行った。流氷の街として名高いオホーツク紋別空港に定刻より早い正午過ぎに到着すると早速ニッポンレンタカーで雪国仕様のホンダのフィットをレンタルすると一路流氷砕氷船ガリンコ号ターミナルを目指した。

チケット売り場でガリンコ号の乗船券とオホーツクタワーの入場券がセットになったお得なチケットを\3,500で購入するとご当地昆布で出汁が取られているはずの海鮮ラーメンをすすって体をほぐしておいた。今日の紋別港は見事な流氷で埋め尽くされており、頼りなく停泊している船舶もその圧力にだまって耐えているようであった。

13:30発第4便の出港を迎える時間になるとロープで仕切られた乗船エリアには大挙して押し寄せてきた団体観光客により長蛇の列が出来ていた。乗船が開始されるや否や皆我先にとベストポジションを巡っての争奪戦が繰り広げられたのだが、FTBは何とかデッキ左舷最前部のベストポジションを確保することに成功した。

三井造船が総力を挙げて建造した砕氷船はすでに二代目となっており、ガリンコ号IIとして日々そのポテンシャルをいかんなく発揮しているのだが、その最大の特徴は、「ネジを廻すと前に進む」というアルキメデスのねじの原理を利用した「アルキメディアン・スクリュー」と呼ばれる螺旋型のドリルを船体前部に装備していて、それを回転させ氷に乗り上げ、船体重量を加えて氷を割ることで流氷域の航行ができることである。

ガリンコ号IIが氷で埋め尽くされた港内から脱出すると、外洋は白い流氷帯と青海とのコントラストが美しく、オホーツク海に見事な氷平線が形成されていた。船長はガリンコ号IIのポテンシャルを誇示するために巨大な流氷を見繕ってガリンコドリルと流氷とのガチンコ勝負を演出し、乗客の喝采を浴びていたのであった。

体が芯から冷え切った頃を見計らってキャビンにエスケープしたのだが、窓越しから間近に見る流氷群も迫力があり、1時間の乗船時間に寒暖のメリハリも付けて流氷見物に勤しむことが出来たのだった。

流氷とのガチンコ勝負を終え下船すると送迎の電気自動車が待ち構えていたので、しびれるような感動を胸にオホーツクタワーまで移動することにした。氷海展望塔オホーツクタワーは地上3階、地下1階から成るファシリティで、アクアゲイトホールとよばれる地下1階では窓越しに多くの魚介類を育む栄養満点のプランクトングリーンの海の様子を見ることが出来る。水槽には不細工系の魚も飼育されているのだが、最も印象的なのは暗闇に浮かぶ天使「クリオネ」の雄姿であろう。

地上レベルの展示スペースはオホーツクの不思議を解明する展示物が満載で、最上階のパノラマビューからは流氷を切り裂いて航行するガリンコ号の雄姿を遠巻きに眺めることが出来るのだ。

ガリンコ号での身を削るような体験を土産に紋別に別れを告げ、オホーツク沿岸を南東に向けてひた走り、今日の宿泊地である番外地に向かった。わかさぎ釣りの名所である網走湖畔に佇む網走観光ホテルに到着した頃には日もとっぷり暮れていたので、春節で大挙して押し寄せたはずの中国人観光客の残像がすっかり排除された温泉で疲れを取り、ご当地の発泡酒「流氷ドラフト」で喉をゴシゴシしながらブルーな気分に浸っていた。

3月8日(日)
食事にわかさぎが出なかったが、そのせいで評価を貶めることがないはずの網走観光ホテルを後にして、道の駅「流氷街道」に向かった。早速、網走流氷観光砕氷船おーろらの受付カウンターにかけつけたのだが、案内板には「流氷なし」という非情な通知が掲げられており、押し寄せる観光客はすべて鈍氷で後頭部をたたかれたような強いショックを受けている様子であった。

昨日のガリンコ号でのガチンコ体験で気をよくしている私は、すぐに気持ちを切り替えてしれっと知床方面まで足を伸ばす決断を下した。。気まぐれな流氷は知床半島からも撤退している様子でウトロの漁港にもひとかけらの氷も浮かんでなかったのでゴジラ岩を参拝して撤収を決め込んだ。帰りに知床八景のオシンコシンの滝に寄ったのだが、特にコチンコチンに凍っているわけでもなかったので軽く見過ごして次への目的地へと急いだ。

特別天然記念物のタンチョウを見るために釧路方面に車を走らせたのだが、あらかじめ白い鳥に慣れておくために屈斜路湖の砂湯に立ち寄った。凍結している屈斜路湖であるが、砂を掘ると温泉が湧き出る砂湯地帯だけは氷の支配下におかれていないため、多くの白鳥の楽園と化しているのである。

砂湯近辺のスキー場がチャイコフスキー場であるかどうかを確認する暇もなく、白鳥の湖を後にするとフィットのアクセルをさらに踏みしめて釧路市の鶴居村への道を急いだ。鶴居村中心部の鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリに到着すると決定的瞬間を待ち構えている写真家達の前で気ままに餌をついばんでいるタンチョウのグループが目に止まった。

今日は残念ながら、求愛ダンスや餌の取り合いといったアクティブな動きは見られず単調な光景だったが、それでも優雅なタンチョウの雄姿は見る者を十分に虜にする魅力をたたえていた。

さらに車を走らせて中国人観光バスも多く立ち寄る鶴見台でタンチョウの観察をさせていただいたのだが、ここではタンチョウと白鳥が仲良く餌を分け合っていたのだった。

霧も濃くなり、飛行機の発着が怪しくなった釧路空港で車を返却し、天候調査の動向に注意しながら海鮮三色丼を流し込んでいると何とか飛行機は運行可能になったのでANAとAIRDOのコードシェア便であるANA4774便の翼で東京に向けて飛び立っていった。

FTBサマリー
総飛行機代 \45,680
総宿泊費 \12,320
総レンタカー代 \14,904
総ガソリン代 \2,619

協力 ANA、AIR DO、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、第一管区海上保安本部海氷情報センター

FTB地中海に浮かぶ神話の国キプロスツアー

ハッピーニュー マサよ!

ということで、日本における淡路島のようないでたちでトルコの南の東地中海にぽっかりと浮かぶキプロスは、日本ではあまり馴染みがないかもしれないが、世界的なリゾートアイランドとしての地位を確立している。冬場はリゾートはオフシーズンとなるのだが、この国にまつわる神話を求めてやってくる観光客は後を絶たないのである。

1月6日(火)
トルコ航空チケットに含まれている羽田発関空行きのANA便で関空に移動し、551の豚まんをかじって時間を潰した後、23:20発TK47便に乗り込んだ。シートTVの故障発生率の高さを気にすることなく、フライト中は機内で意識をなくすことに専念しながら12時間あまりをやり過ごしたのだった。

1月7日(水)
強い寒波が到来していると見られるイスタンブールのアタチュルク空港に到着したのは夜明け前の午前5時半頃であったのだが、あたりが明るくなるにつれ、雪化粧した空港模様が鮮明になってきた。とりあえず、トルコへの一時入国を果たし、Baggage Claimで荷物が出てくるのが著しく遅かったことを大阪からの乗客とともに集団提訴して溜飲を下げると、エーゲ航空のカウンターで次の便のチェックイン手続きを行った。

9:30発A3991便は定刻どおりに出発し、11時前に底冷えのするアテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港に到着した。ラウンジで2時間ほど時間を潰すと14:00発A3904便に搭乗し、午後4時前にキプロスのラルナカ国際空港に到着した。早速priceline.comで最安値で手配しておいたレンタカーをピックアップしにAVISのバンに乗り込み事務所に向かうと私に与えられたのはシボレーの右ハンドル小型マニュアル車であった。

英国連邦加盟国であるキプロス共和国では車は日本と同じく右ハンドル左側通行なのだが、何故かシボレー車のウインカーとワイパーのレバーが日本車と逆であることに違和感を覚え、クラッチのつながり具合を左足にたたきこみつつ空港を後にした。ラルナカから高速道路に乗り、ギアを5速に叩き込んで1時間程北上するとキプロスの首都レフコシアに差し掛かった。市内でホテルの位置はすぐに特定出来たのだが、駐車場の位置を見極めることが出来なかったのでそのままやり過ごすと再びホテルに戻ってくるまでに1時間程の時間を要してしまった。

Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであれば1泊あたりEUR76くらいかかるところを私はただで2泊出来るHoliday Inn Nicosia City Centreに何とかチェックイン出来たのは午後7時前であった。オフシーズンのためか、ボンザイ・ジャパニーズ・レストランをはじめとするホテル内部のレストランが休業していたので街中のケバブ系のレストランで肉を食らい、今夜は早々と休ませていただくことにした。

1月8日(木)
キプロスの1万年の歴史を効率よく学習するために紀元前7000年の新石器時代からビザンチン前期までの貴重なコレクションを並べたキプロスで最大のキプロス考古学博物館(EUR4.5)を見学することにした。扉を引いて館内に踏み込むと、そこはカラフルな色彩で装飾された陶磁器類やユニークな容姿や容貌を持つフィギュアの宝庫であり、キプロスの古代からの文化レベルの高さを思い知らされたのだった。

神話の国キプロスにはいくつかの世界遺産があるのだが、ラルナカから南西に30km程進んだところにヒロキティア(EUR2.5)という紀元前7000年頃の住居跡が残っているとの情報を入手していたので早速見に行くことにした。当時の人々は、丘の斜面に近くの河原の石を土台にワラを混ぜた土レンガで円形の住居を造り、集落を形成して狩猟、農業、牧畜で生計を立てていた。その住居の残骸がかろうじて土台のみ残っており、寒々とした雰囲気の中でも当時の生活の名残を今に伝えているのである。

また、丘の麓には円形住宅のレプリカが設えられており、質素な住居内の様子や生活、死者の埋葬方法などを窺い知ることが出来るような構成となっているのだ。

ラルナカ空港に程近い場所に冬場に塩水をたたえるソルト湖がたたずんでおり、野鳥の楽園を形成しているとのことだったので足をのばしてみることにした。湖近辺に到着したところ、最初は雑草の生えた殺風景な水溜りにしか見えなかったのだが、湖は意外に広く、道路を挟んだ向かいの湿地に目を転じてみるとそこはももいろクローバーを思わせるようなピンクの羽で埋め尽くされていた。

夕暮れ時にレフコシアに戻り、城壁に囲まれた旧市街を改めて見て回ることにした。レフコシアは観光というよりもキプロスのビジネスの中心地であるのだが、観光用と思われる胴長タクシーがホテルの近くに何台か待機していた。

16世紀のヴェネツィア時代に建てられた城壁に沿って歩を進めているとファマグスタ門という全長45mの巨大な建物に到着した。扉を押して中に入ると内部はほとんど空洞状態なのだが、現在はカルチャーセンターとして人々のカルチャーショックの緩和に役立っているという。

1月9日(金)
キプロス島の地図を見ると、この島を東西に貫く1本の線が引かれていることがわかるのだが、これは1974年に起きたキプロス紛争の結果設けられた南北を分断するグリーンラインで、国連平和維持軍により今も監視されている。グリーンラインの北側はトルコ以外には独立国として承認されていない「北キプロス・トルコ共和国」となっているのだが、今では南北間の往来もかつてより柔軟になっているという。尚、グリーンラインの北側はトルコ系住民が住んでいるエリアであり、南側はギリシア系住民の居住地なのでキプロスを旅しているとキプロス自体の国旗よりもギリシアの国旗を多く目にするのである。

キプロスの首都レフコシアは城壁で囲まれた旧市街をグリーンラインで分断されているのだが、その周辺は特に危険地帯でもないので軽く見学させていただくことにした。レフコシアには南北を行き来できるクロスポイントが設けられているのだが、そこでは国連軍のおじさんが厳しく目を光らせており、多少重苦しい雰囲気が感じられたので写真を撮るのは遠慮しておいた。

新石器時代までさかのぼる歴史を持つレフコシアを後にして、キプロス島を横断すべくシボレー小型車のアクセルを踏みしめていた。キプロスは国土の4割近くが森で、中央には標高1951mのオリンポス山を頂点とした山岳地帯が広がっている。トロードスという避暑地として人気のあるエリアを目指して高度を上げていったのだが、折からの寒気のために山岳地帯には雪が積もっているため、ノーマルタイヤの小型車では峠を越えることが出来ないと判断したため、途中で山登りを断念せざるを得なかった。

山道を慎重に下り、南岸の海岸エリアに差し掛かり、さらに島の西部に向かって走っているとペトラ・トゥ・ロミウという看板が目に飛び込んできた。あまりにも海の色が澄んでいるので車を降りて見学すると、ここは美と愛欲の女神であるアフロディテ(ビーナス)が海の泡から生まれたとされる場所であると知り、思わず泡を食ってしまったような感覚を覚えたのだ。

アフロディテ生誕の地に程近い場所にはアフロディテ神殿(EUR4.5、世界遺産)が君臨しており、これはミケーネ文明時代のものと思われる神殿跡で、アフロディテ伝説の基になったものと伝えられている。

神殿にはパレパフォス博物館が隣接しており、そこに収められている高さ1mほどの黒いアフロディテの石は、子供に恵まれない女性が子宝が授かるようにとお願いにやってくるほどの実力を持つ聖なる石なのである。さらに館内には「見返りアフロディテ」を現した鮮明なモザイクが展示されており、風雨にさらされるはずの元々あった敷地にはレプリカが設置されていた。

ギリシア神話のヒロインであるアフロディテを要するキプロスの主要観光地をはしごしてその実力を思い知ることが出来たので、世界遺産の街であるパフォスの北部にあるHotels.comに安値で予約させておいたキャピタルコーストリゾート&スパに引き篭もり、オフシーズンのリゾート気分を堪能させていただいた。

1月10日(土)
早朝よりリゾート猫の先導で敷地の海岸を散策した後、ホテル近くの海岸沿いで掘り返されている王族の墓(EUR2.5、世界遺産)を見学させていただくことにした。。現在発掘されている墓は11ヶ所で、いずれも紀元前3世紀頃のものであるが、誰の墓であるのかはいまだに解明されていない。しかし、暴かれた墓の大きさや壮麗さから当時の支配者の権力の強大さをうかがい知ることは出来るのだ。いくつかの墓の中には石彫刻の柱もあり、死後の神殿のような様相さえ呈しているのだった。

町中が世界遺産で溢れているパフォスはキプロスの西岸に位置し、気候に恵まれているため、かつてはキプロスの首都として栄えていた。その繁栄の名残がパフォス考古学サイト(EUR4.5、世界遺産)で手厚く保存されている。パフォス港に面したこの場所はマサに紀元前2世紀~紀元前4世紀まで都だった町で野外劇場や集会場といったファシリティの面影がかろうじて残っている。

このサイトの最大の見所は色鮮やかに残っている美しいモザイク画の数々で、ディニオスの館、テセウスの館、エオンの館といった相当の部屋数を誇るかつての有力者の屋敷跡の床に当時の色彩そのままにへばりついているのである。

温暖な気候を誇るパフォスとはいえ、雨模様のこの日は異常な寒さで、手もちぶたさのシーフードレストランが立ち並ぶ港の突端のパフォス城(EUR2.5)にのぼり、寒風にさらされてみることにした。この城はビザンティン時代、港を守るための砦として造られ、13世紀に城として再建された歴史を持っている。その後、オスマン・トルコがキプロスを支配したときに再々建され、今に至っているのである。

オスマン・トルコの台頭のせいか、キプロスにはキリスト教が弾圧されていた時代があり、その当時にひっそりと礼拝、埋葬に使われていた小さな穴蔵が聖ソロモンのカタコンベとして奉られている。人々の祈りがしみ込んだ白い布きれが無数に結び付けられている木の横の石の階段を下りると暗がりにフレスコ画やイコンを目にすることが出来る。最深部の穴の中には水が湛えられており、その水は目に良いので水をつけた布を木に結びつけ、眼病完治の祈願をしたそうだが、暗がりの中で水の存在を見過ごしてしまった私はビシャっとズボンの裾を浸してしまったのだ。

寒風で濡れたズボンを乾かしがてらカタコンベの近くにある聖キリヤキ教会に移動した。ここには「聖パウロの柱」という使徒パウロが縛られムチで打たれたという話の伝わる円柱がある。この体罰の理由は、無知なパウロの使途不明金を追及するものではないのだが、最終的にはパウロはムチ打ちの刑を命令したローマ提督をキリスト教に改宗させたという実績をあげたのだった。

ムチ打ちの恐怖がズボンの乾きを早めたところでパフォスを後にしてキプロス第二の都市、南岸のレメソスに向かった。Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればEUR94.5くらいかかるところを私は1泊分のみただで泊まることが出来るクラウンプラザ・リマソルにチェックインすると美しいビーチを眺めながら軽くリゾート気分を味わった。日が暮れると海上には釣り船の灯りがともり、アフロディテのお膝元と相まってムードが高まっていったせいか、隣室から美と愛欲を実践するうめき声が夜通し聞こえてきたのであった。

1月11日(日)
ホテルの目の前のビーチは絶好の釣り場となっているようで、地元民や観光客が早朝から競うように釣り糸をたらしているのを横目に海岸を散策した。

昨日とは打って変わった好天に恵まれ、さらにシボレー小型車も体に馴染んできたこともあり、今日は再び山岳地帯を攻めてみることにした。ここ数日のキプロス滞在中に雪が解けていることを期待したのだが、トロードスへ向かう山道は積雪からアイスバーンに変貌を遂げようとしていた。このような路面状態にもかかわらず、高度が増すにつれ、山岳地帯に向かう車の列が長くなってきた。今日は日曜ということもあり、世界遺産に指定されている壁画教会群への巡礼渋滞かと思ったのだが、実際は多くの家族連れがオリンポス山周辺での単なる雪遊びに向かっていたのだった。

結局警察の交通規制に阻まれ、トロードス地方の世界遺産にはたどり着けなかったので、低速エンジンブレーキを駆使して慎重に下山することを余儀なくされた。無事にレメソス市内に帰還出来たので、その勢いをかってさらなる遺跡巡りに精を出すことにした。レメソス市内から東に11km程進んだ所にアマサスの古代遺跡(EUR2.5)が廃墟のいでたちで観光客を待ち構えている。高台にあるこの遺跡はキプロスの最も重要な古代遺跡のひとつと位置づけられており、現在も粛々と発掘作業が続けられているのだ。

1月12日(月)
昨夜も隣室からの愛欲のうめき声にうなされていたにもかかわらず、5時前には起床してそそくさとラルナカ空港へと向かった。8:30発A3991便の窓からはラルナカ市街地と青く澄んだ地中海のコントラストが見下ろされ、山岳地帯への再訪を誓いながら帰路に着いた。アテネで13:40発A3992便に乗り換え、さらにイスタンブールで17:15発TK50便に搭乗し、一路成田を目指していた。

1月13日(火)
定刻11:30前に無事成田に到着し、少子化問題対策としての美と愛欲の大切さを噛みしめながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 トルコ航空 = \71,130、エーゲ航空 = EUR262.41
総宿泊費 \7,891、EUR94.5
総レンタカー代 \6,167、EUR73.09
総ガソリン代 EUR36.01

協力 トルコ航空、エーゲ航空、Priority Club、Hotels.com、AVISレンタカー、priceline.com