カリブ海の宝石グレート・ブルーホール魅惑のベリーズツアー

日本人のリゾートの定番は沖縄や八重山諸島であるが、アメリカ人やカナダ人にとっての沖縄的リゾートとして美しい海と珊瑚礁に恵まれ、「カリブ海の宝石」との異名を取るベリーズという中南米の小国が君臨している。四国ほどしかない英連邦王国は美しい海と世界屈指の珊瑚礁資源に恵まれているものの、日本人にとってはマイナーなリゾート地くらいの感覚であろうが、カリブ海にぽっかりと空いた魅惑のブルーホールは世界中から観光客を吸い寄せているのである。

2016年12月29日(木)
10時50分発NH174便は定刻通りに成田を出発し、約12時間のフライトでヒューストン・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に午前7時頃到着した。United Clubのラウンジで数時間をやり過ごすと11時35分発UA1569に乗り換え、約2時間半のフライトで午後2時頃にベリーズシティに到着する運びとなった。

早速空港で客待ちしているタクシーに乗り、ベリーズ・シティに向かったのだが、市内自体は大した見どころもないのでリゾート地へのフェリーが発着するWater Taxi Terminalで下車することにした。何とか3時発サンペドロ行きの便にぎりぎり間に合ったので慌ただしく荷物を預け、チケット売り場で往復チケット(US$35)を購入するとBeliez Expressが運行する小型のボートに乗り込んだ。

さすがにホリデーシーズンだけあって、Water Taxi内は満席で皆方を寄せ合うようにして猛スピードで疾走するボートの振動に耐えていた。約1時間程で最初の寄港地であるキーカーカーに到着し、そこで多くのバックパッカーを降ろすとサンペドロへ向かう乗客は何故か別のボートに乗り換えさせられ、さらに30分疾走して午後4時半頃に今回のツアーの拠点となるサンペドロに到着した。

ベリーズ・シティで慌ただしく乗船したのが祟ったのか、チェックインしたスーツケースが到着していないというトラブルに見舞われたため、港近くのビーチバーでナッチョスと美しい海を肴に地元のBELIKINビールを飲みながら1時間程時間潰しをさせていただいた。

次の便が到着した5時半には日が西に傾きかけており、荷物を受け取るとそそくさとタクシーを探して今回の宿泊先であるRoyal Caribbean Resortへと急いだ。道中饒舌なタクシーの運ちゃんがサンペドロの町に関する様々なことをしゃべり倒してくれたので約20分かそこらでここで生活するのに困らない情報を手にしていたのであった。

Royal Caribbean Resortはさほど高級ではないもののしっかりとハイシーズン価格が設定されており、Reception棟に到着するとマヤ人の風貌を持つ受付ギャルにビーチに程近いコテージに案内していただいた。日もとっぷり暮れ、ウエルカムドリンクであるラム酒のカクテルのチケットをもらっていたのでビーチサイドのバーで南国の風に吹かれ、小エビをつまみに長旅の疲れを癒していた。

12月30日(金)
朝食を取るためにしばし隣のリゾートの広大な敷地をさまよい、コーヒーショップのお姉ちゃんと雑談に興じた後、Royal Caribean Resortに戻るとプールではダイビングの講習が執り行なわれていた。敷地内のやしの木にたわわに実っているココナッツは手の届く範囲にあり、海に突き出ている桟橋を歩くと透明度の高いカリブ海の眺望がどこまでも続いていた。

ベリーズの中では高級リゾート地としての地位を確立しているサンペドロの主要交通手段は島内に4,000台以上は登録されているというガソリンで動くゴルフカート($60/日)ということなので早速Resortでレンタルするとドライバーでティーショットを打つ勢いで颯爽とサンペドロの散策に繰り出すことにした。

ベリーズにはキーと呼ばれる砂とサンゴ礁の小島がたくさんあり、キーのなかで最も大きなアンバーグリス・キーの中心となっている町がサン・ペドロである。町の中心部の道路は狭く、舗装されているのだが、ゴルフカートのアクセルをべた踏みしても速度は15km/時くらいしか出ないようなので、いかに多くのカートがひしめいていても交通事故は起こりえないような交通事情だと思われた。

Water Taxiが発着する桟橋が町の中心になっており、そこから北へ続くビーチは散策するには格好の景色とさわやかさを提供している。やしの木の陰では家族がピクニックを楽しんでおり、子供たちは透明度の高い浅瀬ではしゃぎまわっていた。

ボートが行き来する浅瀬に架かる橋を超え、北部のリゾート地帯に侵入すると木造4階建ての建物が目についた。ハリケーン直撃地帯での建造物なので高い強度とエコな概観がうまく両立されているように思われた。ホテル等でレンタルするカートは性能が制限されている様子で町外れに来ると地元民が転がす高性能カートに次々と抜かれることになる。舗装していないぬかるみ道路に突入すると私のカートはスタックし、後輪はむなしく空回りを繰り返すだけであった。そこに現れた屈強なリゾート従業員がその人並みはずれた腕力でカートの後方を抱え上げ、アクセルを全開させると何とかぬかるみから脱出することがかなったのだった。

たそがれ時に町中に戻ると浮遊するニコニコマークのふもとに海上に浮かぶレストランがにぎわっていたので夕食はここで取ることにした。キンキンに冷えたBELKINビールとナッチョスで乾杯し、シーフードを食らっていると海辺の景色は夕暮れから夕闇へとしっとりと変貌していった。

宿泊地に帰る道すがらに飲料水を仕入れるべく、サンペドロでは最大手だと思われるスーパーに立ち寄った。ここで売られているスナック類はせいぜいポテチかナッチョスの類のみだと高をくくっていたのだが、お菓子の陳列棚を賑わしていたのはおびただしい種類の日本製駄菓子の集団だったのだ。

12月31日(土)
ベリーズに来てブルーホールを見なければ帰国した後にブルーな気分に苛まれることは必至だと考えたので昨日ブルーホール・スノーケリングツアー($259.38、入園料込み)への申し込みを済ませておいた。Royal Caribbean Resortの桟橋に午前5時半に迎えに来る手はずになっていたので暗がりの中で待っていると20分ほど遅れてやってきたボートに乗り込んだ。いくつかのResortで何組かをピックアップし、マリンアクティビティのメニューが豊富であるはずのRamons Villageという高級Resortで下船し、そそくさと手続きを行った。少し大きめのクルーザーに乗り込むとスコールの洗礼を浴びたおかげで夜が明ける頃には見事な虹がカリブ海をまたいでいた。

6時前に出港となったクルーザーは外洋に出ると荒波の中、船体をバウンドさせ、参加者の臀部にダメージを与えながら2時間半程の航海で念願のブルーホールに到着した。世界遺産に指定されているベリーズ珊瑚礁保護区はオーストラリアのグレートバリアリーフに次ぐ2番目の規模を誇る環礁地帯で、その中心となるブルーホールは深さ125m、直径300mを誇り、空から見ると海の中に開いた青い穴がすべてを吸い込んでいくように見えるという。

あわただしく準備を始めた参加者たちはダイビング組とスノーケリング組に別れ、船上でのオリエンテーションの後、それぞれ海へと吸い込まれていった。

海中の透明度は非常に高く、ガイドの誘導に従ってサンゴ礁への接触を避けながら環礁地帯を揺ら揺ら漂っているとカラフルなサンゴとその周辺を遊泳する白身魚系の魚がマサに手の届きそうな範囲でうごめいていたのだった。

30分ほどで船に引き上げられ、上部のデッキからあらためてブルーホールを見るとその海の色の違いははっきりと確認出来たのだが、全体像を見るにはやはり高値の遊覧飛行か、さらに高値のブルーホールへのスカイダイビングに参加すべきではなかったかと思われた。

ブルーホールを後にしたクルーザーは同じく珊瑚礁保護区で世界遺産のハーフムーン島へと舵を切った。天国に何番目かに近い島であるはずのハーフムーン島周辺の海はこれまた抜群の透明度を誇っており、島に上陸するや否やいきなりスノーケリングスポットへの移動と相成った。

海の中はサンゴと魚の博物館の様相を呈しており、魚群がひしめいている方向へ向かってFinを蹴ると魚の隊列は日体大が誇る「集団行動」を凌駕する規則正しさで一斉に方向転換し、人類の接近をたくみにかわしていたのだった。

スノーケリングを終え、ダイビングチームが合流するとお待ちかねのランチタイムとなった。ナッチョスはなかったものの赤飯系のライスやカリブ海風の味付けで煮込まれたチキンは美味であり、昼食後は海亀産卵のために保護された白砂のビーチの上でしばしくつろぎの時間を過ごさせていただいた。

青と白のコントラストがまぶしいハーフムーン島を後にするとクルーザーは最後のアクティビティスポットであるロングキーに停泊した。ここでは潜水しているダイビングチームのほぼ真上でスノーケリングが行われ、船上から餌付けされた魚と戯れながらダイバーの奮闘を高みから見下ろすことが出来たのであった。

ということで、すべてのアクティビティが終了すると参加者は猛スピードで疾走するクルーザーの上で疲れ果てて寝込んでしまっていた。午後5時過ぎにRamons Villageに帰還し、支払いを済ませると送迎ボートでRoyal Caribbean Resortへの帰路についたのだった。

部屋のシャワーで海水を洗い流し、ブルーな気分で余韻に浸っていると思いのほか腹が減っていることに気づいたので飯を食うために外に出ることにした。町中に向かうメインストリート沿いにはResortが軒を連ねているのだが、その中でも一際豪華そうな看板のレストランに引き寄せられていった。グラスシャンパン付きのディナーコースがおすすめということでメニューの説明を聞くのもほどほどにまずは発注することにした。豪華ディナーは前菜のロブスターと野菜のクレープ風トルティーヤ巻きからはじまり、メインのビフテキは軽く1ポンドを超えているかのような重量感を誇り、デザートは日本のレストランで供される物の数倍のボリュームに感じられ、スイミングですり減らせた脂肪分が見事にオフセットされたのであった。

2017年1月1日(日)
真っ赤に日焼けした柔肌のヒリヒリ感を土産に定刻午前11時にRoyal Carribean Resortをチェックアウトすると自動車のタクシーでWater Taxi乗り場に移動し、11時30分発のキーカーカー経由ベリーズシティ便に乗り込んだ。今日も船内は満席で最後尾のオープンスペースに席を取ったカナダ人のおね~ちゃんは水着姿で激しい波しぶきを浴びながら1時間半の航海に耐えていた。

Water Taxiがベリーズシティの桟橋に到着するとリゾート仕様の大荷物を待っている観光客は船からの荷物降ろしと移動、さらに観光客が手出し出来ない囲いの中に荷物の台車が放置されている間は指を加えて待たされる仕組みになっている。何とか半券と引き換えに荷物を取り戻すと速攻でタクシーを捕まえ空港への帰路についた。

ベリーズシティ空港のターミナルは発着便数が少ないせいか非常に狭く飯を食うのもままならなかったのでとりあえずBELKINビールを2本ほど空けて出発までの時間潰しに興じていた。17時発UA1406便は定刻どおりに出発し、定刻19時半過ぎにヒューストンに到着した。空港からホテルのシャトルバスでHoliday Inn Houston InternationalAirportに移動すると隣のレストランは正月時間のため午後9時で閉まってしまったため、道路向こうの24時間レストランで夕食を取る運びとなった。中米旅行の余韻を引きずるようにTacoサラダとシーフードプレートを発注した。シーフードは新鮮な魚介類の盛り合わせを期待していたのだが、出てきた料理は白身魚のフライ、魚のすり身団子のフライ、エビフライ等油物のてんこ盛りだったので、♪カナブンboonでもエビinビン♪と唱えて萎えた気持ちに応えるしかなかったのだ。

1月2日(月)
早朝蒸し暑さを感じながら空港へのシャトルバスに乗り込み、搭乗手続き後United Clubラウンジの窓から雷の閃光を眺めていた。搭乗ゲートに移動すると雷を伴った荒天のため、搭乗時間が1時間ほど遅れるというアナウンスがむなしく流れていた。10時15分発予定だったNH173便は1時間ほど遅れてヒューストンを出発し、ホイットニーの怒りが静まった頃、安定飛行へと移行したのであった。

1月3日(火)
定刻より1時間遅れの午後4時過ぎに成田に到着し、ブルーな気分を引きずらないように職場復帰しなければならないと肝に銘じながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥238,690
総宿泊費 ¥79,575、$98.99
総タクシー代 $75
総Water Taxi代 $35
総ゴルフカート代 $60
総ブルーホールスノーケリングツアー代 $259.38

協力 ANA、ユナイテッド航空、Booking.com、IHG、Ramons Village

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 軍艦島

♪ポルトガル人がっ、ながさきへ~~~ カステラ (カステラ) カステラ (カステラ) めいげつど~の カ・ス・テ・ラ~~♪
♪おおきく切って おおきく食べよう カステラは めいげつど~~~♪

ちゅうこって長崎へ行かないけん理由はカステラだけやのうて最近世界遺産になりよった長崎の産業革命遺産もよかごとあるけん気候もようなった10月に見物ばかますことにしたんよ。

2016年10月15日(土)
9:55発ANA3733便はソラシドエアとの共同運航便でソラシドいいよるわりには機内のオーディオ設備は整っとらんごとあった。仕方ないけ不貞寝ばしちょったら昼過ぎには長崎空港に着いっちょったんよ。早速ニッポンレンタカーでいっちゃん安いスズキのワゴンRをレンタルすると、とりあえず腹がへっちょたけ長崎市内へ乗り込むことにしたんよ。

新地中華街の宝来軒いう中華料理屋の店構えがよかごとあるけん特製ちゃんぽん(¥1600)ば食してみることにした。さすがに特製いうだけのことはあってちゃんぽんと言えどもちゃらんぽらんには作っとらんごとあった。

腹もそこそこ膨らんだごとあったけ、長崎市を出て「ねんりんピック」いう老齢者にむちば打たせるイベントが行われちょる諫早市を抜けて雲仙に向かうことにしたんよ。狭い山道をぐるぐる登りよったら卵の腐った臭いが段々きつくなりよるごとあった。雲仙温泉街をスルーして今晩のお宿になっちょる「ゆやど雲仙新湯」にチェックインすると、とるものもとりあえず周辺の調査に出ることにしたんよ。

雲仙温泉のメインスポットとして雲仙地獄が君臨しよるごとあるけ、それがどれほどの苦しみを与えちょるんかいっちょ見てやることにした。雲仙の古湯と新湯の間の白い土(温泉余土)におおわれた一帯が雲仙地獄なんやけど地獄の名にふさわしくキリシタンを弾圧した痕跡が残っちょるごとあった。

壮絶な運命に翻弄されたキリシタンの♪現在過去未来♪に思いを馳せながら地獄の迷い道をくねくね歩きよったら「真知子岩」いう石碑系のオブジェがあったんやけど渡辺真知子とは特に関係は持っちょらんごとあったけ、♪ブルー♪な気持ちでここを後にせんといけんかった。

湯煙舞い上がる木歩道を歩きよったら温泉神社に出くわしてしもたけん、パワースポットの夫婦柿で厄ば落としてホテルに帰り、地獄から天国モードに切り替えて温泉ば堪能させてもらったんよ。

夕食の御前にはビールは付けてもらったんやけど、メニュー表に書いちょった日本酒や焼酎の値段がやけに高かったけん、必然的に夜のちゃんぽんは避けられよったんよ。

10月16日(日)
雲仙温泉を後にして長崎市内に戻る道すがらに長崎カステラというのぼりに引き付けられるように旅の駅千々石展望台に寄らないけんごとなった。雲仙普賢岳を見上げる展望台からは龍馬も見たはずの絶景ば目にすることが出来たんよ。

土産物屋に入るとムツゴロウ水槽のその奥のカステラ工場が甘い匂いを漂わせ、試食でつまんだ蜂蜜カステラが美味やったんで思わず一番安いやつを買うことにしたんよ。さらにびっくりぽんやったんはTOKIOを中心とした鉄腕ダッシュのロケ隊がソーラーカー団吉の撮影でこのカステラ工場の仕事の邪魔をしに来とる様子が誇らしげに紹介されちょったことやった。

長崎の歴史を語るうえで避けて通れんのは戦争と平和の話になるんやけど、長崎市内に戻ると早速平和公園で祈りば捧げさせてもろたんよ。園内でまず目に付いたんはまるで♪憂鬱など吹き飛ばして♪と言うちょるかのようにYMCAの「C」のポーズを決めようとしちょるごとある平和記念像やった。

さらに長崎原爆資料館(¥200)に入館し、洋式便所の正しい使い方ば学習した後、長崎型原爆ファットマン等の展示物を直視しながら次回はもっと時間をかけて見学ばさせていかんと肝に銘じよったんよ。

石炭が”黒いダイヤ”と呼ばれていた頃、炭鉱はマサに命綱のごと日本の文明開化と高度経済成長を支えちょった。その歴史的遺産を「ブラックダイヤモンド」というクルーズ船で巡る軍艦島上陸クルーズにあらかじめ予約を入れちょったんで満を持して乗船させていただく運びとなった。

多くのねんりんピック流れの参加者を乗せたブラックダイヤモンドは定刻午後2時に元船桟橋を出航すると三菱重工の現役造船遺産が居並ぶ長崎港内を疾走した。世界遺産に登録されているジャイアント・カンチレバークレーン等のファシリティを横目に船は最初の寄港地である高島に向かって行った。

高島に上陸し、早速鬼瓦ヅラの三菱創業者である岩崎弥太郎に挨拶すると高島石炭資料館の前に設置されている軍艦島模型を使ってオリエンテーションが行われたんや。資料館自体にも貴重な品々が展示されちょるんやけど、特に純度の高い黒いダイヤや炭鉱夫が描いた炭鉱夫像の目が鋭い輝きを放ちよるごとあった。

30分程の滞在で高島を出航し、火葬場のなかった軍艦島の死者の魂を弔うための島を過ぎると目の前に「いかにも廃墟ばい」と主張しちょるごとある建物が迫ってきた。

軍艦島は長崎県長崎市高島町端島の俗称で戦艦「土佐」に似ちょることからそう呼ばれるようになったそうなんよ。クルーズ船はご丁寧にも島が戦艦の形に見える場所まで移動してじっくりと撮影するチャンスば与えてくれよった。

島をぐるっと一周しよる間に他のツアーグループの船が桟橋から離れるとブラックダイヤモンドが着岸する順番になりよった。かつて栄華を誇った帝国のような軍艦島に一歩足を踏み入れるとガイドの説明とともにこの島の現在過去未来の光景が早回しで流れていくごとあった。

上陸ツアールートは島の西側の一部に限られとるけん、迷い道をくねくねすることはないんやが、歩きスマホや歩き写真は禁止されとるごとあった。その理由は上陸客がようけ一斉に歩きよって写真撮りよる奴がつまづいて将棋倒しを起こした教訓からなんよ。

ところで、軍艦島は幅160m、長さ480m、周囲1.2kmで面積に至っては東京ドームのグラウンドおよそ5個分しかなく、最盛期にはその狭い空間に約5,200人もの人々がひしめきあい、当時世界一の人口密度を誇った東京の9倍の人口密度やったそうなんよ。しかしその中は当時の最先端の技術や流行で埋め尽くされており、鉄筋コンクリートの高層ビル、封切映画が上映される映画館、給料の高い炭鉱夫から金を巻き上げるためのパチンコ屋や娯楽場、さらに各家庭にはすでにテレビが導入されちょったんよ。

島の西側の見学地点からは大正5年に建立された日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅も確認出来、このビルは日本コンクリート工学会の垂涎の的にもなっちょるそうや。しかし軍艦島周辺の海は波も荒く、周囲のビルは防波堤の役割も兼ねているため、建造物は自然荒廃しており、このままの姿で保存するんは日本が誇る最新の技術をもってしても困難やと言われちょるわけたい。

見学ルートに赤レンガの廃墟があるんやが、これは三菱石炭鉱業の事務所棟でその隣に階段が見えるんやが、雨が降るとこの階段が黒光りするそうなんよ。この階段は第二竪工入坑桟橋と言って炭鉱夫達は日々この階段を登って四角いリングのようなリフトに乗り、東京スカイツリーの高さを超える660mの距離を2分くらいで一気に降りてさらに1km以上先の坑道へと進んで行ったそうや。坑道内の温度は40℃、湿度は90%を越えたため、坑道に着いてまずせなならんかったんは炭鉱夫の健康チェックやったそうや。

前日の作業で怖い目にあった炭鉱夫は次の日に膝が震えて階段を登れんくなったそうで、隣の小学校から聞こえる子供の声を聞いて勇気を振り絞って作業に向かったそうなんよ。マサに家族のために命がけで仕事をしよったちゅうこっちゃ。

端島炭鉱は1974年1月15日に閉山となり、この年の4月20日にすべての島民が島から離れ、軍艦島は無人島となって今に至るんやけど、上陸ツアーのほとんどには元島民も参加しよるということで繁栄時の面影は今も人々の心の奥に残されとるちゅうことや。

ツアーも無事終了し、そそくさと長崎空港に戻ると空港にインストールされちょる牡丹という中華料理屋で名物皿うどんの固麺を喉に突き立てることなく完食すると18:55発ANA670便へ東京へと帰って行ったんよ。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \44,180
総宿泊費 ¥31,320(2食付き)
総レンタカー代 ¥7,476
総高速代 ¥2,690
総ガソリン代 ¥1,275
総軍艦島上陸クルーズ代 ¥3,600

協力 ANA、ソラシドエア、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、軍艦島クルーズ株式会社

IchiRoad to 3000 in マイアミ with ドミニカ共和国

FTBはイチローの2001年のMLBデビュー以来、MLBの様々な球場でイチローの雄姿を見守ってきた。
http://www.geocities.jp/takeofukuda/2001mlb3.html
http://www.geocities.jp/takeofukuda/mlb.html

3000本安打という金字塔が達成間近になり、にわかにカウントダウンが熱を帯びてきたこの時期に飛行機を飛ばしてわざわざアメリカの端っこまで足を伸ばすことはMLB評論家を自任するFTBとしては当然の義務なのだが、果たしてイチメーターは進んだのであろうか!?

2016年7月8日(金)
17:10発ANA114便シカゴ行は定刻通りに出発し、機内で東芝日曜劇場「天皇の料理番」を見ながらエコノミークラスの機内食の不十分さを心理的に補っているうちにシカゴオヘア空港に午後3時前に到着した。ユナイテッド航空が運航する19:21発NH7800便に乗り換えると約3時間弱のフライトでマイアミ空港に着いたのは午後11時半を回った時間であった。Holiday Innホテルのシャトルバスが中々来ないことに苛立ちを隠せないどこぞの航空会社の乗務員のクレーム電話に耳を傾けながらバスを待っていると30分待ちでやってきたバスに乗りホテルに着いた頃には日付が変わってしまっていたのだった。

7月9日(土)
空港から1.6マイルしか離れていないHoliday Inn Miami International Airportからシャトルバスで再び空港に戻るとMetororailという公共交通機関でマイアミダウンタウンまで移動し、さらにダウンタウン内を無料で移動出来るMetromoverに乗り換えてBayfront Parkという駅で下車する運びとなった。今回は「I」のロゴを持つホテルに宿泊するこだわりを見せていたのでシーズンオフで安値で宿泊出来るIntercontinental Miamiにチェックインするとしばし窓辺からカリブ海クルーズの出航地となっているマイアミ港の景色を眺めていた。

アシックスをお払い箱にして2015年のシーズンよりイチローが採用したビモロシューズの紐を締めなおして再びMetromover、Metrorailを乗り継ぎ、Culmerという駅からMarlins Park行きのシャトルバスに乗ると午後3時前には全天候型スライド開閉式屋根付きエアコン完備球場であるマイアミ・マーリンズの本拠地に到着した。

手始めに球場の全容を解明すべくスタンド周りを一周して見たのだが、Team Shopではイチローユニフォームが日本語版、英語版共販売されており、イチローの3000本安打達成を前祝いするかのようにイチローグッズの専門店まで開業していたのだった。さらにライトスタンド後方には電光式Ichimeterが現在の通算安打数である2990を誇らしげに灯していた。

イチロー率いるマイアミ・マーリンズ対シンシナチ・レッズの試合は4時10分にプレーボールとなったのであるが、チーム事情から主役のイチローは序盤はベンチを温めて、3塁側スタンド前列に席を取ったFTB一行に対してその形の良い後頭部を披露するにとどまっていた。試合の方はレッズの左投手のLambが羊肉のように臭いコースを突いてマーリンズ打線も湿りがちだったためか、762本のMLB本塁打記録を持つバリー・ボンズ打撃コーチもその坊主頭を抱えていたのだった。

冬場のバカンスシーズンではないため、千葉ロッテ・マリーンズ程度の観客数しか入っていない球場が盛り上がりを見せ始めたのは、当然のことながら主役のイチローがネクストバッターズサークルに姿を現した8回の裏2死1,2塁の場面であった。

場内に「Ichiro Suzuki」の名前がコールされると観客は総立ちとなり、事前に配られていた「ROAD TO 3000」のパネルや多くのファンが手にしているイチローの人面ウチワをが打ち振られ、皆ライトスタンドのIchimeterが2991に代わることを疑っていなかったのだが、無念にもこの日のイチローはピッチャーゴロに倒れてしまったのだ。

結局試合の方は地元のマーリンズが4対2で勝利を収め、イチローも勝利のハイタッチに参加してその見事なチームワークスピリットを観客に示してくれていたのだった。

試合終了後、晩飯の頃合いになっていたのでシャトルバスと公共交通機関で一路ホテルに帰還し、ダウンタウンに「スシロー」等の高級日本食屋が開業していれば、一番高いネタの皿を天高く積み上げて溜飲を下げようと思ったのだが、和食探しが徒労に終わったため、ホテルの肉食レストランである「Toro Toro」でおすすめの「Nikkei」と名乗る宮崎ブランド牛を断ってToro Toroという南米肉セットを食らってIchiroのリベンジを祈願しておいた。

7月10日(日)
今日はMLBオールスター前の前半戦最終戦ということで、前日と同じカードのマーリンズ対レッズ戦は午後1時10分からの開始となったのだが、昨日と同様にイチローはスターティングメンバ―に名を連ねていなかった。試合の方はバリー・ボンズ打撃コーチの適切なアドバイスが功を奏したはずの主砲ジャンカルロ・スタントンのホームランがレフトスタンド上段に突き刺さり、マーリンズ有利の展開で進んでいった。

スタントンのホームランの喧騒を凌駕するイチローコールが場内にこだましたのは7回裏無死1塁のチャンスに代打イチローが起用された場面であった。

しかし、相手投手のスライダーがイチローの足を直撃するとイチローコールは一瞬にしてブーイングの嵐となり、手当に向かったトレーナーを制するようにイチローは軽やかな足取りで一塁に向かっていった。

試合の方は7対3でマーリンズが勝利を収め、プレーオフ進出を期待する地元ファンは喜んでいたものの、日本からはるばるイチローのヒットを期待して見に来たファンはイチローの出場機会が制限されていることにフラストレーションを抱えているようだった。しかし、イチローの調子自体は全盛期を彷彿とさせるほどのヒットメーカーに復活しており、7月中には3000本安打を打つことは確実視されているのだが、あとはマーリンズサイドのマーケティングとの兼ね合いになるかも知れない。

7月11日(月)
午前11時頃インターコンチネンタルホテルをチェックアウトしてホテルに内蔵されているAlamoレンタカーでヒュンダイ小型車をレンタルするとダウンタウンから少し離れたリゾートエリアであるマイアミビーチを軽く流していた。細長いビーチのパーキングメーター式駐車場はどこも満車状態で何とか見つけた駐車場に車を止めてビーチに足を踏み入れてみるとそこはマサに大西洋のセレブビーチの様相を呈していたのだった。

今回はマイアミビーチでのアクティビティは予定に入れていなかったので、速やかに車に戻ると世界遺産の湿地帯として君臨しているエバーグレーズ国立公園($20/車1台)に向かうことにした。同公園にはいくつかの観光ポイントやビジターセンターがあるのだが、一番簡単にアクセス出来る淡水地帯のシャークバレービジターセンターを訪問させていただいた。

通常ここでのアクティビティは24km先の展望台までトラムか貸自転車でアリゲーター等を見物しながら到達して戻ってくることであるのだが、今日は時間がなかったのでとりあえず午後3時からのパークレンジャーのプレゼンテーションを拝聴することにした。現在エバーグレーズで大きな問題の一つになっているのは外来種の脅威であり、元々ペットとして飼われていたビルマニシキヘビが公園に放流され、そいつらが繁殖し、ワニと仁義なき戦いと繰り広げているので駆除しなければならないと申していた。

公園には野生のボブキャットが生息しており、ボブキャット・トレイルを抜けてシャーク川に辿り着くそこにはアリゲーターが水面をなめらかに移動し、正直そうに見える白い鳥のサギが正攻法で魚を取っている光景を目にすることが出来た。

午後5時にはマイアミ国際空港でヒュンダイ車を返却し、アメリカン航空AA1337便が1時間の遅れを出したものの午後7時半にマイアミを飛び立ち、約2時間のフライトでドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴのラス・アメリカス国際空港に午後9時半頃到着した。早速空港のATMで現地通貨を2000ペソ程引き出すとタクシーで今回の宿泊先である☆☆☆☆☆ホテルのCatalonia Santo Domingoに移動し、2013年に行われた第3回ワールドベースボールクラシック(WBC)での同国の優勝を讃えながら眠りにつかせていただいた。

7月12日(火)
ドミニカ共和国は、カリブ海でキューバに次いで2番目に大きなイスパニョーラ島の東半分を占めており、国全体の面積は九州に高知県を足したくらいの大きさである。コロンブスが第1回航海の時に足を踏み入れたドミニカ共和国は、当初スペインによって新大陸で最初の町が造られ繁栄したのだが、その栄華を伝える歴史遺産が旧市街に残っているので早速訪問することにした。

ソーナ・コロニアル(旧市街)という一角は世界遺産にも指定されており、歴史的建造物が数多く残っている。まずは旧市街のランドマークになっているコロンブス広場でクラーク博士ばりに指をさしているコロンブスの像にイチローの3000本安打の早期達成を祈っておいた。

1492年~1821年まで、歴代の総督が住んでいた官邸がラス・カサス・レアル(王宮)博物館(RD$60、オーディオガイド付き)として開業していたので見学させていただくことにした。展示物は多岐にわたり、サンタ・マリア号など、航海に使われた帆船のミニチュア模型や、何故か桃山時代から江戸時代にかけての日本の甲冑や刀まであり、サムライ・ジャパン魂もここまで届いていたのかと驚かされもした。

博物館の目の前には石碑のような日時計が鎮座しているのだが、これは1753年に造られた新大陸で最も古い日時計で長きに渡ってこの町の波乱万丈を見守ってきた威厳を湛えていた。

ホテルが海に面していることもあり、レストランでシーフード三昧を楽しむことにした。ロブスターのサラダ、タコのソテー、プリプリ白身魚の焼き物やパエリア風シーフードライスを召し上がったのだが、どれも日本人の味覚にマッチしており、広島カープアカデミーオブベースボール(http://www.carp.co.jp/facilities16/dominica.html)の日本人スタッフもきっと満足したであろうと思われた。

7月13日(水)
ホテルの目の前はカリブ海の絶景とはいえ、バカンス用のビーチではなかったのだが、地元住民が何人か泳いでいたので軽く水浴びをすることにした。何気ない住民の憩いの場に見えるビーチだが、砂浜はウミガメの産卵地にもなっているようで海の生態系の重要な役割さえも担っていることが確認出来たのだ。

再び旧市街に繰り出し、マイケル・ジャクソンに扮装した大道芸人のチップ缶にコインで音を鳴らして景気づけをした後、昨日は見ることが出来なかった重要ファシリティのいくつかを見学することにした。昨日訪れたコロンブス公園の背後にどっしりとした大聖堂(RD$100、オーディオガイド付き)が多くの観光客を集めていたので入ってみることにした。1510年にスペイン王朝の依頼を受けて新大陸初の教会建設に着工したのが建築家のアロンソ・ロドリゲスというゲス野郎だったのだが、労働者たちが富を求めてさらに先へと航海に出たので工事は中断となり、建築再開は1519年で完成をみたのは1540年だということだが、何とか新大陸で一番最初の大聖堂の誕生という栄誉だけは守られたのだった。

サントドミンゴ大聖堂ともいわれるこの建築物は、ルネッサンス様式とゴシック様式の混合で、白い珊瑚礁の高い天井が印象的である。内部の祭壇のわきには14ものチャペルがあり、1506年にこの世を去ったコロンブスの遺体も遺言通りにスペインから運ばれてここに安置されていたという(現在はコロンブス記念灯台に移されている)。

サント・ドミンゴの旧市街は要塞に囲まれているが、その中心となる要塞がオサマ砦(RD$70)である。ここは1505年~1507年の間に造営されたサント・ドミンゴをカリブの海賊から守るための防衛の拠点となっている。高さは18.5mで、当時は市内で一番高い建物であり、新大陸時代最初の軍事建築物でもある。

昨日は押し売り観光ガイドの心理的ブロックにより入るのをためらったパンテオンにスペイン語、英語がわからないふりをして突入することにした。1714年にイエズス会の教会として建てられたパンテオンは、その後タバコ倉庫、国立劇場に変貌を遂げ、1955年にドミニカ共和国の歴代の総督や国民的英雄が眠る霊廟となり、常に衛兵に警護されているのだ。

ラス・カサス・レアル博物館からオサマ川沿いの防護壁沿いを練り歩き、中世ヨーロッパに匹敵する雰囲気を楽しんだ後、番猫により警護されているサンフランシスコ教会の廃墟を鉄格子越しに眺めた。勤勉な番猫は観光客に頭を擦り付けたり、膝に乗ったりと執拗なマークを緩めることはなかったのであった。

7月14日(木)
早朝ホテルをチェックアウトするとタクシーでラス・アメリカス空港に移動し、定刻9:00に出発したAA1026便でマイアミに帰って来たのは正午前であった。空港のAlamoレンタカーで再びヒュンダイ小型車をレンタルするとフロリダ半島の南端部に向かってひたすら車を走らせた。エバーグレーズ国立公園のゲートを抜け、フロリダ湾に面したFlamingo Visitor Centerに午後4時前に到着した。11月~4月が観光シーズンということもあり、真夏のこの時期は観光客も少なく閑散としているのだが、虫刺されに対する注意を促すFlamingo Mosquite MeterがIchimeter並みの存在感を示していた。

Flamingo Visitor Centerではフロリダ湾周遊コースもしくは湿地帯内部に分け入るコースの2種類のボートツアー(それぞれ$35/1.5HR)が定時開催されているのだが、丁度4時からBlack Waterという湿地帯ツアーがスタート目前となっていたので参加することにした。

ツアーガイド兼運転手のALEXの早口での説明によると今から通過する運河は人為的に作られたもので、この運河により湿地帯の環境に多大なる影響がおよぼされたという。淡水と海水が混じった汽水域であるこのあたりに生えているマングローブは4種類で、ワニは汽水域や海洋に住むクロコダイルと淡水域に住むアリゲーターの2種類が生息しているという。出航後早速岸辺で口を開けて休んでいるクロコダイルを発見したのだが、今回のツアーでワニをまともに見れたのはこの時だけで、期待していた多くのワニに囲まれてV6の♪ワニなって踊ろう♪を歌い踊るという状況には決してならなかったのだ。

エバーグレーズ一帯は哺乳綱海牛目に属するマナティーの生息地で、ツアー中にマナティーも姿を現し、観光客も思わず席を立って前のめりになったのだが、水の黒さに阻まれてその人魚のような雄姿を拝むことは叶わなかったのだ。いずれにしても動物がアクティブに行動するのは冬場ということで、ALEXの言う外来種の蛇との遭遇も不発に終わり、ツアーのほとんどの時間はマングローブを育てる黒い水面をむなしく眺めるにとどまってしまったのでALEXのチップの売り上げもほとんどゼロだったのだ。

アブのふくらはぎチクチク攻撃をかわしつつ、ボートツアーは5時半に終了となり、北米に生息するマウンテンライオンの亜種であるフロリダパンサーの幻影を追いながらエバーグレーズを後にして今日の宿泊先であるHoliday Inn Miami International Airportへとひた走った。

7月15日(金)
松田聖子よろしく♪マイアミの午前5時♪前に目を覚まし、5時半にホテルを出て空港のレンタカーセンターでヒュンダイ社を返却すると7:28発のUA便でシカゴまで飛んで行った。さらに11:00発ANA11便に乗り込むと12話を機内ビデオで一気に公開している「天皇の料理番」を完結して眠りにつくこととなった。

7月15日(土)
イチローの3000本安打達成を後押しするかのような追い風に乗ったおかげで定刻より1時間以上前の12時半過ぎに成田空港に到着し、イチロ自宅への帰路につく。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \144,000、AA = \44,180
総宿泊費 $867.76
総タクシー代 $80
総バス代 $9
総メトロ代 $11.25
総レンタカー代 $151.04
総ガソリン代 $35.29

協力 ANA、ユナイテッド航空、アメリカン航空、Priceline.com、Alamoレンタカー、楽天トラベル、Booking.com、IHG

旧ユーゴスラビア大自然の芸術ツアー in スロヴェニア、クロアチア、セルビア

かつて中央ヨーロッパに存在したユーゴスラビアという社会主義国家が紛争を伴って分裂し、古代からの歴史的都市や大自然が崩壊の危機に瀕したことがあった。しかし、そのいくつかは不死鳥のようによみがえり世界遺産としての輝きを取り戻しているのだった。

2016年6月2日(木)
午前11時発ANA231便は定刻11時に出発し、13時間弱のフライトで今なおテロに対して厳戒態勢が敷かれているはずのブリュッセル国際空港に午後4時前に到着した。次の便の乗り継ぎまで4時間程の時間潰しが必要だったので空港から15分程度でアクセス出来るブリュッセル市街に繰り出すことも考えたのだが、リスク管理の観点から安全であるはずのラウンジに立て籠もりベルギービールを痛飲して世界平和を祈願しておいた。

スロヴェニアの航空会社であるアドリア航空が運航するJP395便は定刻より少し遅れて21時頃の出発となったものの、2時間弱のフライトで定刻22時25分前にはスロヴェニアの首都リュブリャーナのブルニーク国際空港に到着した。首尾よくタクシーの勧誘に捕まると30分程度でBooking.comに予約させておいた☆☆☆☆☆ホテルであるHotel Lev Ljubljanaに無事到着の運びとなった。

6月3日(金)
1991年6月に旧ユーゴスラビアからの独立を果たしているスロヴェニアの首都リュブリャーナは人口27万と非常にこじんまりとしており、旧市街も徒歩で回れる範囲内にあるので起き抜けに軽く散策してみることにした。

ルネッサンス、バロック、アールヌーヴォーなど各様式の建築物が調和した街並みの中心はプレシェーレン広場となっており、19世紀の詩人フランツェ・プレシェーレンの銅像が観光客を迎えている。広場に面して建っているピンク色のフランシスコ教会は1646年~1660年の間に建てられたものでデザインは隣国イタリアの影響を受けている。

リュブリャーナ川をまたぎ、旧市街と新市街を結ぶ小さな三本の橋はトロモストウイエと呼ばれており、この地で最も有名な橋としての地位を確立しており、絶好の記念撮影スポットとなっている。旧市街のヴォードニク広場には市場が立っており、青果や生鮮食品からこの地の特産物であるハチミツ等が安値で取引されている。

リュブリャーナ駅から列車で1時間40分ほど南西に移動し、ディヴァチャという駅で下車すると停車していた送迎バスに乗り込んでスロヴェニア唯一の世界遺産であるシュコツィヤン鍾乳洞に到着した。

スロヴェニア南西部クラス(カルスト)地方にあるシュコツィヤン鍾乳洞は長さ5km、幅230mの規模があり、そのうち2kmをガイドツアー(EUR16)で見学出来るので早速12時のツアーに参加させていただくことにした。ツアー開始前の時間にビジターセンターで洞窟の遊歩道設置工事らしい歴史を軽く学習した後、数十人の集団に膨れ上がったツアーの幕が切って落とされた。

ツアーは洞窟の入り口で現地語ガイドと英語ガイドの2組に分かれ、まず英語集団が暗闇へと歩を進めた。年間を通して12℃に保たれた洞窟内はひんやりとしており、1㎜成長するのに100年くらいかかる鍾乳石が悠久の時を経て巨大な柱となっている自然の造形美に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

ツアールート上には「沈黙の洞窟」、「ドリーネ」と呼ばれる地底湖などの見どころがあるのだが、最大のハイライトは地底に眠る深さ250mの大峡谷である。鍾乳洞内部にはユリアン・アルプスの山から流れ出した雪解け水が川となって地底を削り、峡谷に近づくにつれ、その轟音は大きくなり、郷ひろみが♪君たちおんなのこ♪と歌っても、♪僕たちおとこのこ♪と音程を外しても♪ゴーゴー♪という音しか返ってこないのであった。尚、この大峡谷はヨーロッパのグランドキャニオンとの異名を取り、吊り橋の上から見るとマサに地底に吸い込まれる程の迫力を誇っている。

1時間半ほど暗闇を歩き回り、前方に光明が差し始めた所でツアーは解散となった。ガイド曰く、この先はエレベーターで地上に出るか、400段ほどの階段を風光明美な景色を楽しみながら這い上がるかは自分たちで決めやがれとのことだったので、ダイエットを兼ねて困難な道に立ち向かうことにした。

うっそうとした森の隙間には今なお洞窟を削っている川が白日の下にさらされており、あらためてその神秘と迫力が心に刻まれた。階段を登り切った先はこじんまりとした集落になっており、いくつかの見どころが点在していたのだが、体力の限界が迫っていたのでそそくさとビジターセンターへの帰路を急いだ。

世界遺産という看板につられてシュコツィヤン鍾乳洞観光の優先度を上げていたのだが、スロヴェニアにはその他にもヨーロッパ最大の鍾乳洞も君臨しているのでそちらの方にも足を伸ばしてみることにした。列車でリュブリャーナ方面に30数キロほど戻り、ポストイナという駅で下車して20分ほど歩くと巨大な観光地の看板が目の前に現れた。

ヨーロッパ最大の大きさを誇るポストイナ鍾乳洞は、1818年に初めて調査隊が入って以来、スロヴェニア有数の観光地に成長し、毎年100万人近い観光客を集めているという。何とか17時スタートの最終ガイド付きツアー(EUR23.9)に潜入することが出来たのだが、ツアーの参加者の多さはともかく、洞窟内での徒歩での散策開始地点まで列車を走らせていることに度肝を抜かれてしまったのだ。

マサにテーマパークと言っても過言ではないわくわく洞窟ランドの内部は写真撮影禁止のシュコツィヤン鍾乳洞と異なり、フラッシュを焚かなければ撮影可能なのでライトアーティストが絶妙に配置した照明を巧みに利用して自然の造形美を思う存分フラッシュメモリーにため込むことが出来るのである。

尚、ガイドによるとスロヴェニアは洞窟の宝庫ということで、国の全人口200万人の一人に一つづつMY洞窟をあてがうことが出来るとのたまっていた。日本にも福岡県北九州市の平尾台千仏鍾乳洞や山口県美祢市の秋芳洞等で洞窟体験は可能であるが、スロヴェニアの鍾乳洞はマサに日本のものとは比較にならないワールドクラスの規模であることが確認出来たのであった。

6月4日(土)
昨日は洞穴の探検に終始したので、今日は朝から地上の方を見物すべく朝からリュブリャーナの旧市街をぶらぶらしていた。三本橋トロモストウイエの東にもいくつか橋がかかっており、その近辺にシュールなオブジェや銅像が構えているのだが、「竜の橋」の欄干に佇む4頭の竜がリュブリャーナ市の象徴として崇められている。

旧市街を一望出来るリュブリャーナ城が高台にそびえているのでケーブルカーを使って入城(EUR10、ケーブル代込み)してみることにした。1144年に建設されたリュブリャーナ城は、中世のハプスブルグ家の支配等を経て1905年にリュブリャーナ市に買収されて現在に至っている。

城内には展望塔のほか、歴史博物館やハチミツ博物館、操り人形博物館等見どころも多く、観光客や市民も終日ここで楽しむことが出来るのだ。

ドイチェバーンが運行する2階建てバスがミュンヘンからリュブリャーナ経由でクロアチアのザグレブまで運行しているので12時40分発のバスに乗り、約2時間半の時間をかけて三浦知良もクロアチア・ザグレブのサッカーチームの一員として滞在した実績を持つザグレブに到着した。今回宿泊する☆☆☆☆ホテルであるDouble Tree Zagrebはバスターミナルから徒歩圏内だったので、速やかにチェックインを試みたのだが、部屋の準備が遅れているとのことでロビーでしばらく待たされたものの、部屋に荷物を置くとすぐにザグレブ市街地の散策に乗り出すことにした。

街を縦横無尽に行き来するトラムに乗ってイエラチッチ広場で下車すると小高い丘を登って旧市街へと突入した。ふと空を見上げると高さ100mあまりの尖塔が天を指す聖母被昇天大聖堂が目立っていたので入ることにした。13世紀~18世紀にかけて建てられた、ザグレブのシンボルであるこの大聖堂は1880年の大地震後に修復され、ネオゴシック様式を取り入れて現在の外観になっている。内部には、ルネッサンス様式の祭壇やバロック様式の説教壇等が厳かに配置され、信者たちが静かに祈りを捧げていた。

一旦丘から降りてイエラチッチ広場を西に移動するとケーブルカー乗り場を発見した。この路線は高低差わずか20m、片道30秒ほどの運行で坂が苦手な人にはうってつけの乗り物なのだが、なぜか運航停止になっていたので隣の階段で丘を駆け上がった。坂の上には2つの紋章をモザイクで表現した聖マルコ教会が鎮座しており、その前には中世のいでたちをした役者系の人物が立ちふさがり、観光客の被写体として賑わいを後押ししていたのだ。尚、聖マルコ教会は、13世紀に建てられたゴシック様式の教会で、屋根の紋章の向かって左側はクロアチア王国、ダルマチア地方、スラヴォニア地方を表し、右側はザグレブ市の紋章である。

夕暮れ時になると雲行きが怪しくなってきたので繁華街にある人気のシーフードレストランでおすすめの柔らかいイカやタコの料理に舌鼓を打っていると雷雨が炸裂し始めたのでしばらく雨宿りをしながらザグレブの夜は更けていったのだった。

6月5日(日)
ザグレブから南へ約110kmのところに荒廃の危機を乗り越え、今なおひっそりと佇む森と泉に囲まれた楽園があると聞いていたので満を持して行ってみることにした。ザグレブのバスターミナルからモデルは古いがWiFiが使える長距離バスに乗り込み約2時間半で到着した場所はプリトヴィッツェ湖群国立公園である。

年間約80万人の観光客が訪れる世界的に有名な湖群公園は1949年に国立公園に指定され、1979年に世界遺産に登録されたのだが、1990年代の紛争による被害により、一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録されもしたが、現在は幻想的で美しい湖群の姿を取り戻し、リストからも除外されたのだった。

公園に到着してまず驚いたのは入園を待つ観光客の多さであった。公園には入口が2つあるのだが、FTB一行が到着した入口1の方は団体客でごった返しており、何とかチケット売り場への列を確認するとKn110の入園料を支払って森の国でのトレッキングが始まった。

200km2の広さを誇るプリトヴィッツェには大小16の湖と92カ所の滝が程よい高低差でちりばめられており、エメラルドグリーンの湖水を見ているとマサに心が洗われるような感覚さえ覚えるのだ。

広い園内を移動するために遊覧船系の渡し船とエコロジーバスが運行されているのだが、料金はいずれも入園料に含まれている。早速遊覧船で大きな湖を横断し、上陸して本格的なトレッキングをスタートさせた。

園内には木道が張り巡らされ、その上を渋滞した観光客が秩序正しく歩き、滝の前では一様にマイナスイオンを浴びながら記念撮影に明け暮れることとなる。公園内には、321種の蝶、161種類の鳥および21種類のコウモリがこれまでの研究により発見され、大きな捕食動物としてオオカミやヒグマも潜んでおり、特にクマは公園のシンボルマークとなっているのだ。

遠目からはエメラルドグリーンに見える水も近づくと透明度が高く、餌を求めて近づいてくる淡水魚の魚影もくっきり見えるのだ。

途中雨に降られたものの、夕刻までクマに遭遇することなく園内をクマなく散策出来たので、17時15分の路線バスで無事ザグレブへの帰路につくことが出来たのだった。

6月6日(月)
今では分裂してしまったユーゴスラビアであるが、首都としてユーゴスラビアを統括していたのがベオグラードである。ということで、午前9時にややオンボロ系のバスに乗り、車窓を流れる地平線を見ながら6時間かけてセルビアの首都ベオグラードまでやってきた。

ベオグラード本駅に隣接するバスターミナルに着いたは良いが、初めて来た場所では当然右も左もわからず、小さな駅のインフォメーションも係りが留守の様子だったので、ホテルまでの移動をタクシーに託すことにした。駅前に停泊しているタクシーのおやじに宿泊先であるHoliday Inn Expressを地図を見せながら説明すると10ユーロで連れて行ってやると言ったので乗車したのだが、案の定おやじは間違ったHoliday Innに連れていきやがった。ホテルの係員のサポートで運転手のおやじに正しい場所をインプットしてHoliday Inn Expressにたどり着いたのだが、何とおやじは自分のミスを棚に上げてさらなる20ユーロを要求しやがった。通常であれば当然却下となるのだが、このおやじは舛添知事なみの神経の持ち主に違いないと感心させられたのでチップ代わりに明細書付領収書なしで12ユーロを渡しておいた。

Holiday Inn Expressのフロントギャルは非常に親切で、当ホテルはまだ新しいのでタクシー運転手は場所を理解しないかも知れないとのたまっていた。地図をもらってホテルの場所と駅や繁華街の場所を照らし合わせるとどこでも徒歩で行けることが確認出来たのだった。

というわけで、ベオグラードの繁華街や見どころに繰り出すことにしたのだが、最初に私の目を引いたのは大学と思われる建物の前で読書をしている二コラ・テスラの銅像であった。

この地は日本との関係もそれなりにあるようで市内を走るバスのいくつかは日本から寄贈されたものらしく、ボディにセルビアと日の丸の交差がペイントされていた。さらに、「お寿司プレー」という名の日本食屋を発見したのだが、残念ながら空いていなかったのでイカ、タコ、マグロ等の着ぐるみを来たシェフが握るであろう寿司を賞味することはかなわなかった。

旧社会主義体制の威光を残す重厚な建物が立ち並ぶ大通りとSTARI GRADと呼ばれるカフェやショップが立ち並ぶ目抜き通りを抜けるとカレメグダン公園という憩いの場所に到着した。ベオグラードは美しき青きドナウ川とサヴァ川が交わる場所に位置するバルカン半島の交通の要衝で、紀元前4世紀にはすでにこの場所に要塞が造られていたという。現存する建造物は18世紀以降に造られたものであるが、城壁を守るように配置されている紛争時に使われた武器や戦車、恐竜をアセンブルしてジュラシックパークもどきを建設している様子が特に印象に残った。

カレメグダン公園内に2つの美しい教会がある。聖ルジツァ教会は甲子園球場のように蔦で覆われた外観が神秘的でその下にある聖ペトカ教会には息を飲むほど美しいモザイクの壁画が人々を引き付けていたのだった。

6月7日(火)
ベオグラードの中心部に君臨する国会議事堂の前面に紛争の空爆等で亡くなった人たちを忘れるなという横断幕が掲げられている。その国会議事堂から南西へと延びるクネズ・ミロシュ通りは官公庁の建物が多く、別名「空爆通り」と呼ばれており、1999年に起きたNATOの空爆の際には通り沿いの建物も標的となり、次々に破壊されていった。いくつかの建物は広島の原爆ドームのようにいまだに破壊されたままの姿で残っており、廃墟を見上げていると通りすがりのおっさんが、「ここにアメリカのゲス野郎が爆弾を落として行きやがったのさ!」と捨て台詞を吐いて去って行ったのだった。

空爆にも参加したそのアメリカのシリコンバレーにテスラモーターズという電気自動車の製造会社がある。日本の自動車メーカーは矢沢永吉に「やっちゃえ日産」と言わせて喜んでいるが、テスラはすでに自動運転を実用段階までやっちゃっている会社なのである。私も数年前にこの会社の面接を受けてからここに注目しているのだが、この社名はセルビア人の物理学者の二コラ・テスラにちなんでおり、その博物館がベオグラードにあるということで謹んで訪問することにした。

二コラ・テスラがセルビアの通貨100デナール(RSD)の肖像画に採用されている縁で入場料は100デナールであることを期待したのだが、500デナールの支払で彼の発明品が数多く展示されている館内に入場させていただいた。交流電流や無線トランスミッターなどの発明でエジソンに匹敵する科学者である二コラ・テスラのニコりともしない肖像画を見ながら、テスラ社のイーロン・マスクCEOがその仮面の下で考えている次なる戦略にも思いを馳せていた。

尚、この博物館はテスラ社の後援は受けていないようで、代わりにサムソンが協賛しているというパネルが誇らしげに展示されていた。また、定時が来るとテスラコイルを使った空中放電実験が行われており、コイルの放電とともに子供たちが手にした蛍光灯が怪しい光を放っていた。

実験のための電気代は使っているが、トイレのない二コラ・テスラ博物館を後にして、トイレ休憩を兼ねたコーヒーショップでハートマークのカプチーノを召し上がると東方正教系の教会としては世界最大の規模を誇り、セルビア正教の中心的教会である聖サヴァ教会へ向かった。噴水に彩られ、市民の憩いの場になっている正面広場から教会内に入ると内部は大規模な工事中であったが、信者達は恭しく十字を切り、体を半分に曲げるほど深いお辞儀をしてイコンに口づけを交わしていた。

オンボロ系のトラムでベオグラード本駅に移動し、そこからバロック風の塔が印象的なセルビア正教大聖堂をチラ見してリュピツァ妃の屋敷(RSD200)を見学した。屋敷自体は第2次セルビア蜂起の指導者として、オスマン朝からセルビアの自治を獲得したミロシュ・オブレヴィッチのものであるが、その夫人の名前を冠しており内部は1832年の建設当時のように装飾されているので、当時の生活様式を少なからず垣間見ることが出来るのだ。

夕飯時になったので、ホテルの人も推奨するスカルダリアという郷土料理店が密集しているエリアで地元の味を賞味させていただくことにした。伝統衣装を身にまとった客引きをかわしながらドゥヴァ・イェリナというレストランのテラス席を占拠し、セルビアの国民酒と呼ばれる蒸留酒であるラキアのプラム味とアプリコット味で喉の奥を焼きつかせながらムツカリツァという豚肉をトマトとパプリカで煮込んだ料理を向かいの店から流れるライブ演奏に耳を傾けながら堪能したのだった。

6月8日(水)
早朝3時半に目を覚まし、4時のモーニングコールをスルーして4時半に予約しておいたまじめなタクシーで二コラ・テスラ・ベオグラード空港に向かった。6時15分発ルフトハンザLH1411便は定刻通りに出発し、2時間のフライトでフランクフルトに到着した。ラウンジでドイツビールを軽飲しながら4時間余りをやり過ごし、12時10分発ANA204便に乗り継ぐと11時間以上の浪漫飛行が待っていた。

6月9日(木)
午前7時前に小雨の羽田空港に到着し、舛添狂想曲たけなわの雰囲気を感じながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 \137,440
総宿泊費 EUR222.04、HRK883.1(HRK1= \16.7)、RSD15,894.76(RSD1 = \1)
総タクシー代 EUR67、RSD2,200
総バス代 EUR18、HRK425
総鉄道代 EUR14.74
総トラム代 HRK40

協力 ANA、アドリア航空、ルフトハンザ航空、Booking.com、Hiltonhhnors、IHG

FTBJみちのく桜まつりシリーズ2016 in 秋田&岩手

東京の桜を堪能した後、桜前線を追ってみちのくを旅することが多くなった近年であるが、雪深い長い冬を越えて凛と咲くその姿は首都圏の桜の名所とは趣の異なる風情を感じさせる。今年のみちのく桜祭りの名所巡りは恒例の小京都のみならず、神々しい一本桜や大河の傍らに延びる桜並木まで足を伸ばすこととなったのだ。

2016年4月23日(土)
午前9時55分発ANA403便は定刻通りに出発し、1時間弱のフライトで秋田空港に到着した。ニッポンレンタカーで燃費のデータを改ざんしていないはずのダイハツ軽自動車ムーブをレンタルすると早速みちのく三大桜の名所のひとつである角館に向かった。

みちのく小京都の角館の平成28年度の桜祭りは4月20日から開催されており、土曜日の今日は大変な賑わいを見せていた。角館駅前の臨時駐車場に\1000を奉納してムーブを預け、名物稲庭うどんの喉越しで腹ごしらえを済ませると江戸時代の雰囲気を今に伝える武家屋敷通りに向かった。

1656年に京都から持ち込まれて植え継がれた枝垂桜は満開となっており、通りの両側に続く昔ながらの黒板塀と、屋敷から垂れ下がる薄紅色の花びらが見事な調和を成している。秋田犬の忠犬武家丸も上機嫌で観光客を迎えており、通りを巡る人力車とともに重要な観光大使の役割を見事に果たしているのだった。

武家屋敷通りにはいくつかの見学可能な家屋があるのだが、その中で最も代表的な青柳家に入場料¥500を支払ってお邪魔させていただくことにした。約三千坪の敷地内は植物園のように草木に覆われ、その中に「武器蔵」「青柳庵」「郷土館」「武器道具館」「幕末写真館」「ハイカラ館」の6つの資料館が歴史の遺物を展示しているのでくまなく見て回ることにした。

武器道具館ではSサイズの甲冑の展示とともに実際に太刀やなぎなたを手にしてその重みを感じることが出来、当時の武士は体の割には力があったことが伺い知れたのだった。また、ハイカラ館ではエジソンが発明し、ビクターが発展させた蓄音機がその進化の歴史をつづるようにモデルごとに展示されており、エジソンは偉い人であることをいつだって忘れないように配慮されてもいた。

武家屋敷通りの散策後、桧木内川に移動するとそこには満開のソメイヨシノが咲き誇っており、マサに圧巻の景観であった。花見の宴会や桜まつりもたけなわの様子で仮設の舞台では老若男女による民謡の演武が華やかに繰り広げられていた。

歴史と伝統による高い格式を感じさせられた角館を後にして仙北市を北上し、雪まだ残る八幡平温泉郷へとひた走った。もくもくと噴気を上げているその場所がFTBの定宿になっている山間の一軒宿の後生掛温泉である。この温泉はオナメ(妾)、モトメ(本妻)という約90℃の地獄から引く源泉を水で割ったものであるのだが、後生を掛けて地獄に身を投げた女の情念のようにどろどろした泥湯で湯治するのが有名であり、馬で来ても下駄で帰れるほど体が回復すると伝えられているのである。

4月24日(日)
NHK仙台支局が青森弘前公園の桜が満開を迎えていると伝えていたのだが、弘前には去年の桜祭りを堪能させていただいたので今日は八幡平の峠を越えて岩手県に侵入することにした。峠の展望所から周囲を見渡すとあたりは未だに雪景色であり、雪を被った岩手山を目の当たりにして東北の冬の過酷さをあらためて思い知らされた。

日頃より小岩井生乳100%ヨーグルトの売り上げに貢献させていただいている縁もあって、岩手郡雫石町でせっせと乳製品を作っている小岩井農場を訪問した。今回の目的は小岩井農場まきば園ではなく、知る人ぞ知る一本桜を見るために立ち寄った。岩手山を背景に緑の絨毯の上に佇む一本の桜の木は映画のワンシーンのように美しいのだが、このエドヒガンザクラは遅咲きのため、まだつぼみのままであったのだ。

盛岡地方裁判所の敷地内に周囲約21mの巨大花崗岩を裂くように幹を伸ばしている銘木がある。「石割桜」で知られるこのエドヒガンザクラは樹齢350~400年という老木でありながら、現在も年に数ミリメートル単位で岩を割り続けているという執念さえ見せている。これぞマサにどんな逆境にも果敢に立ち向かう東北の象徴のひとつと言えよう。

盛岡から東北道を下った北上川沿いにみちのく三大桜名所のひとつが君臨し、丁度桜祭りが行われている時期だったので会場への渋滞に巻き込まれてみることにした。北上川沿いの293ヘクタールほどの敷地に約150種類およそ1万本の桜が連なり、それは見事な桜のトンネルを形成している場所は「北上展勝地」である。

桜のトンネルはピークを過ぎて葉っぱが多くなっているものの、しだれ桜の一部が丁度見頃を迎えており、観光馬車「よしきり号」で♪ドナドナド~ナ ド~ナ~♪とのんびり高みの見物を決め込んでいる観光客の満足度も高いようであった。

今回みちのく桜ツアーを開催してそれぞれの桜の名所のピークをとらえることの難しさを肝に銘じて秋田空港への帰路についた。空港のレストランで秋田の名物料理を堪能し、午後7時55分発ANA410で初夏間近の東京へと帰って行った。

FTBサマリー
総飛行機代 \37,280
総宿泊費 \27,000(2食付き、2人分)
総レンタカー代 \10,476
総高速代 \3,020
総ガソリン代 \2,629

協力 ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル

日本一の桃源郷山梨花見ツアー

ここ10年近く週末は山梨にいることが多いのだが、山梨には富士山以外にも観光資源が多いことに気づかされていた。とりわけフルーツ王国との異名を取る笛吹市、勝沼、一宮町周辺は日本一の桃源郷の名にふさわしく、4月になると町中がピンクに染まってしまうほど桃の花で埋め尽くされる光景に圧倒されるのだ。日本の花見は桜という固定観念を打ち捨て、ここ数年は山梨で桃の花見と洒落込んでいるのだが、今年は桜の満開と時期が重なったため、一粒で二度おいしい思いをすることが出来たのだ。

4月9日(土)
見頃がすでに過ぎてしまった東京都心部の桜をしり目に中央高速道を西に向かって車を飛ばしていると気温の低い八王子あたりの桜はまだまだ満開の宴たけなわの様相を呈していた。スムーズな車の流れのおかげで勝沼インターまで2時間もかからなかったので、そこで高速を降りるとフルーツラインと呼ばれる果樹園を抜ける山間道を勝沼ぶどう郷駅を目指すことにした。

甚六桜と命名されたJR勝沼ぶどう郷駅周辺に植えらえた約千本の桜が満開を迎えていたので早速花見の宴に加わらせていただいた。旧勝沼駅はスイッチバック式であったため、駅構内の線路の延長が約2kmと長く、北側の塩山駅寄りに残る折り返し線の敷地にたくさんの桜が植えられ、みごとな桜の回廊を現出させている。さすがに駅周辺での桜の見どころとあって高級カメラを抱えた撮り鉄が多く参集しており、電車が来るたびに一斉にシャッター音を響かせていたのだった。

勝沼ぶどう郷駅周辺は桃源郷のテリトリーであり、すでに桃の花の鮮やかなピンクに心が躍っていたのだが、夕暮れが迫っていたので今日の宿泊地である甲州塩山温泉宏池荘に引きこもり、開湯約650年の由緒ある温泉と名物馬刺しを堪能しながらバトミントンの桃田選手に寛大な措置が下るよう桃太郎侍に扮する高橋英樹に祈っておいた。

4月10日(日)
塩山温泉を少し北上した丘陵地は髙橋真梨子よろしく桃色吐息に包まれており、農家の人々は夏場においしい桃が収穫出来るように桃の花の間引きに余念がないようであった。

さらに北上すると山梨県指定天然記念物の慈雲寺のイトザクラがそのしなやかな枝ぶりで手招きしていたので見物させていただくことにした。すだれのように垂れ下がった枝にはすでに葉っぱが多くみられるものの、ピンクのカーテンはいまだ健在で観光客も撮影用の脚立によじ登ってその雄姿をフラッシュメモリーに収めていた。

慈雲寺の周辺には農家の方々が出店を出しており、地域特産物が言い値で売られているのだが、この機をとらえて試食させていただいた桃のジャムと桃の木を焼いて作った大量の炭を安値で購入させていただいた。

さすがに日本一だけに桃源郷のエリアも広大で中央道を挟んで北と南の斜面がピンクに染まっているのだが、中央道の釈迦堂PA周辺が見どころの一つとなっているので駐車場の行列に並ぶことにした。釈迦堂PAは階段で外界とつながっており、釈迦堂遺跡博物館の周辺が色とりどりの桃の花の展示会場の様相を呈している。ここでは桃の枝\200程度で購入出来るので桃の花の虜になった観光客がこぞって良い枝を選んでいた。

満開になった桃の花も太刀打ちできないほどの威厳と格式のある名木が北杜市武川町で悠久の時を刻んでいるとの情報を入手していたので釈迦堂を出てシャカシャカと中央道を北に向かった。南アルプスを背景にしたその地に到着すると「神代桜」というのぼりを数多く目にするようになる。臨時的に設えられたはずの駐車場に車を止めると実相寺という寺の境内に恭しく立ち入ることにした。

数ある桜の木の中でひときわ異彩を放つ老木は何本もの杖で支えられ、肘にはサポーターを巻かれながらも生命力で溢れていた。山高神代桜は新日本名木百選・日本三大桜に選定されている国指定天然記念物のエドヒガンザクラである。その起源は日本武尊が東方遠征の際にこの地を訪れ、記念に植樹したと伝えられており、樹齢は2000年を誇っているとのことである。しかし、約10年前にこの木を見に来た時の樹齢も2000年で10年後に樹齢が2010年になっていないところを見ると植物の樹齢は大胆な四捨五入により計算されていることがうかがい知れるのである。

また、境内に神代桜の宇宙桜なるものが生えているのだが、これは地元の武川小学校の児童が採取した神代桜の種をスペースシャトルで宇宙遊泳させてほしいとせがまれた若田光一宇宙飛行士が「若っ田!」と言って宇宙ステーションに持ち込み、約8ヶ月間無重力状態で放置した後、地球に帰還して発芽したマサに宇宙木なのである。

実相寺近辺の杉林に天空を目指す桜の木を見上げて首のストレッチをした後、韮崎市のわに塚の桜を見て花見をしめることにした。この木は神代桜に及ばないものの300年の樹齢を誇るエドヒガンザクラであり、クロコダイルのような獰猛な枝ぶりが印象的であったのだった。

FTBサマリー
総宿泊費 \18,000(2食付き、2人分)
総高速代 \5,120
総ガソリン代 \3,919

FTB流氷体験フルコースツアー

今年も恒例の流氷ツアー開催の時期となったのだが、例年に比べ接岸が遅れており、気まぐれな天候のため海氷の流れを予測することが困難になっている。ややもすると流氷を見られずに鈍氷で後頭部を殴られたようなショックを受けるリスクをものともせずに道東に乗り出した結果、フルコースの流氷体験に成功したのであった。

3月5日(土)
北海道の空を仕切っているAir DOとのコードシェア便である11時15分発ANA4777便に乗り込むと翼を彩るゆるキャラと冬景色の対比を堪能しながら2時間弱のフライトで女満別空港に到着した。

早速ニッポンレンタカーで車内のタバコ臭が完全に消されていないホンダのフィットをレンタルするとオーロラ号が待つ道の駅「流氷街道」へと急いだ。14時発の便の出航直前にカウンターに駆け込み、1人\3,300の大金を払って網走流氷観測砕氷船オーロラ号に乗り込むと、早速アッパーデッキで道東の冬風に吹かれることとなった。

晴れ渡った青空とオホーツクブルーの海を切り裂いてオーロラ号は外洋に進むとほどなくして目の前の水平線に一筋の白い線が現れ、次第に流氷帯へと引き込まれていった。

オーロラ号はその巨体の自重で巨大な流氷を割りながら進行し、破砕した流氷が海上で回転すると大きな波が立ち、観光客を歓喜の渦に巻き込んでいた。

遠く南東の彼方には雪を被った知床連山の絶景が広がっており、天然記念物のオオワシやオジロワシが氷の上で羽を休めていた。

船内には流氷の下で捕獲されたクリオネが狭い瓶の中で展示されており、それでも気を悪くすることなく天使の羽を広げて上下運動を繰り返していた。

約1時間の航海で港に戻り、下船すると恒例の高倉健のポスターに挨拶をして気を引き締め、道の駅で軽く物品の物色などを行っていた。

今日は快晴で絶好のサンセットが期待出来るので、取り急ぎ16:30発のサンセットクルーズのチケットを確保し、ドライブをしながら時間潰しをすることにした。網走港から北上し、約9kmくらい車を転がすと能取岬近辺に到着した。白い雪と青い空、青い海と差し迫る流氷帯のコントラストはこの時期ならではの絶景を形作っていた。

日が西に傾きかけた頃、サンセットクルーズの便は静かに港を出航した。氷の上のオジロワシに見送られ、西日を浴びた知床連山を背景にした流氷群の表情が刻々と変化していった。

沈み行く夕日の方向をふと見やると時間とともにオレンジ色が濃くなって行き、乗客は運動会のように船内を移動し、各自のベストスポットを探すのに躍起になっていた。

モッズコートに身を包んで防寒対策を施している中国人観光客もここがまるでSEKAI NO OWARIではないかと間違いなく感じていることであろう。

日が沈み、ドラゴンナイトが近づくと船はライトを灯し、ピンポイントで流氷を薄緑に染めていたのだが、船の速度に負けて緑氷はデジカメで補足することは出来なかった。

幻想を胸に刻みつつ、このクルーズの満足度は100%天候に左右されると思いながら港を後にすると今日の宿泊地である川湯温泉に向かった。

夜7時前に川湯第一ホテル忍冬にチェックインを果たすと金属を溶かすほどの強酸性硫黄泉にどっぷりつかって贅肉をそぎ落とし、北の大地の恵みをふんだんに使っている豪華夕食を馬食して帳尻を合わせていた。

3月6日(日)
忍冬と書いて「すいかずら」と読ませるのだが、今朝はその冬を忍ぶ精神を実践するためにまずは川湯温泉の起源である硫黄山で硫化水素を浴びて、そのままシュ~と摩周湖を目指したのだが、川湯温泉から摩周湖に直結する山道は凍結して通行止めになっているので迂回を余儀なくされた。

幸い神秘の湖摩周湖には霧がかかってなく、その神秘的な姿を堪能することが出来たので土産物屋で用を足すと、しれっと知床方面まで足を延ばすことにした。

お昼くらいに道の駅うとろ・シリエトクに到着し、幻の鮭と言われる証明書付きの鮭児が、一尾¥49,500で取引されている現実に衝撃を覚えたので頭を冷やすために2月5日~3月12日までウトロ漁港で開催されている知床ファンタジアの会場に移動し、陸上自衛隊が設営した流氷神社に次のアクティビティの無事を祈願した。

知床のシンボルであるヒグマよりも数倍大きいゴジラ岩の麓で営業しているゴジラ岩観光が流氷夕遊ウォーク(\5,000)を1日3回開催しているので、13:30から始まるウォークに参加させていただいた。事務所で服の上から脂肪や筋肉を強力に圧迫するドライスーツを着込むとバンに乗って港内の流氷密集地に向かった。

堤防を超えて滑り台のように雪上をすべると足元は海を埋め尽くす流氷がひしめきあい、マサにごつごつした陸地のようになっていた。今日は午後から雨模様で気温も氷点下まで下がっていなかったので溶け始めた氷はいとも簡単に崩壊し、参加者は氷の海に落ちてしまうのである。

午前中に「世界ふしぎ発見」のミステリーハンターを案内したと自慢しているガイドについて歩いていると、先週のブリザードの影響で巨大な流氷がぶつかり合って砕けて集積している状態がそこかしこに見られ、積み重なった流氷をよく見ると青白く輝いてまるでクリスタルひとし君人形のように輝いていた。

海中への落下とドライスーツで自由の効かない体で腕と腹筋を使って氷の上に這い上がる運動を数回繰り返しながら沖合へと歩を進めた。沖合まで進まなければならないのは港内に滞留している氷は日に日に汚れてくるので、沖合に行けば行くほど新鮮できれいな氷を体験することが出来るからである。

1時間程のウォークを終えると軽い腹ごしらえのために道の駅に戻り、ファストフードのメニューで馬と鹿ミンチを合い挽きにしたバーガーを探したが、見つからなかったので鹿肉バーガーと熊肉バーガーをそれぞれ食してみることにした。知床のジビエが作っているはずのバーガーは特に癖はなく、何も知らされなければフレッシュネスバーガーと大差はないように思えたのだった。

熊肉を食った勢いでしれとこ村の熊の湯に乗り込み、冷えた体にナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉の成分を取り込むと瞬時に体が回復したので高台からの知床の海の光景を目に焼き付けて女満別空港への帰路についた。

Air DOとのコードシェア便18時30分発ANA4780便は、2人の乗客が運行安全規定に合意しなかったため約5分の遅れとなったが、定刻20時25分には羽田空港に到着、そのまま流氷のように気ままに流れていった。


FTBサマリー
総飛行機代 \49,080
総宿泊費 \21,600(2食付き、2名様)
総レンタカー代 \9,936
総ガソリン代 \2,012

協力 ANA、Air DO、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、道東開発観光(株)、ゴジラ岩観光、第一管区海上保安本部海氷情報センター