FTB Last Hay Say魅惑のスペイン・アンダルシア・ツアー

「平成最後の」という枕詞に踊らされること無く、努めて平静を装っている今日この頃であるが、情熱の国スペインへの憧憬はいかんとも抑えがたく、かつて近藤真彦も憧れたアンダルシアに足跡を残すツアーが開催される運びとなったのだ。



2018年12月25日(火)
クリスマスたけなわの雰囲気とは程遠い羽田空港に前日のイブにチェックインし、ANAスイートラウンジで通常メニューのディナーを召し上がると深夜0時55分発フランクフルト行きNH203便に颯爽と乗り込んだ。深夜フライトの特性を最大限に活かすために機内で意識を無くすことに集中したのだが、早めに目が覚めたので機内プログラムの邦画で「万引き家族」を鑑賞しながら万引きから「まんぷく」への見事な転身を果たした安藤さくらの豹変ぶりに舌を巻きつつ、スペイン語に必要となるはずの巻き舌の練習に勤しんでいた。

12時間以上のフライトで夜明けは遠いフランクフルト空港に到着したのは午前5時半を回った時間であった。入国後ルフトハンザのセネターラウンジでだらだらと朝飯を食っていると8時過ぎに待望の日の出を迎えたのだった。

10時15分発LH1112便は定刻通りに出発となり、約2時間半のフライトで午後1時前にマドリッド空港に到着した。空港から市内へ行くには複数の交通手段があるのだが、手っ取り早い地下鉄でいくつかのラインを乗り継ぎながら何とか宿泊先のHoliday Inn Madrid Piramidesに到着することに成功した。

ホテルでしばらく休憩し、日の暮れないうちにマドリッドの旧市街の中心であるプエルタ・デル・ソルに近郊列車に乗って繰り出して見ることにした。「太陽の門」という名の広場であるプエルタ・デル・ソルはマサにマドリッドの中心であり、多くのマドリッド子や観光客で大変な賑わいを見せている。

クリスマス・シーズンということもあるのかも知れないが、かつての新春スターかくし芸大会のハナ肇が扮した銅像よりも洗練されたオブジェに扮した大道芸人たちが記念写真用のチップをもらうまではてこでも動かないというプロ意識を醸し出しながら道行く人々の興味を引き付けていた。

フェリペ3世が1619年に完成させた四方を建物に囲まれた広場であるマヨール広場に迷~うことなく到着出来たのでその風格を堪能しながら見て回ることにした。中央にはフェリペ3世の騎馬像が設えられ、スペイン王家の紋章が刻まれた北面中央にある建物は威厳に満ちており、かつてその下のバルコニーは王家が儀式や闘牛、種々の祭といった催し物を見学するための観覧席だったそうである。

日もとっぷり暮れてしまうとお約束のライトアップとなり、広場にはさらに多くセニョールやセニョリータが詰め掛けてきた。スペインの本格的なディナータイムが始まる前に適当なレストランに駆け込み定番のパエリアを賞味させていただくと初日の今日は早々と撤収して体力を温存しておくことにした。

12月26日(水)
午前中の程よい時間にマドリッドのターミナル駅であるアトーチャ駅まで出向き、切符売り場を探し回って近郊の世界遺産都市であるトレド行きのチケットの購入を試みたのだが、近年のオーバーツーリズムの影響か、本数が多いにもかかわらず直近発車の列車のチケットの入手はかなわなかったので2時間程の待ち時間が発生してしまった。駅構内の待合室は熱帯植物園になっているのでここで森林浴をするという選択肢も考えられたのだが、寒風の下の青空が眩しかったので近隣のレディーロ公園を軽く散策し、カラフルな野鳥の観察等で気を紛らわせていた。

結局入手に成功した列車の発車時間は12時20分だったものの、高速列車Avantに乗り込むともののわずか30分で古都トレドに到着と相成った。歴史と伝統を感じさせるトレドは駅に降りた瞬間から数百年前にタイムスリップした感覚を呼び起こさせ、セントロへと続く長い坂道を登っていくとさらに時計が巻き戻されるようで、期待感が高まっていくのであった。

13世紀に造られたアンカンタラ橋を渡り、ショッカーの首領のような紋章を冠した門をくぐり長い階段を駆け上ると見晴らしの良い展望台に到着し、番猫に挨拶するとtaco-awayで軽食をテイクアウトすることなく町の中心であるソコドベール広場に到着した。

1561年に首都がマドリッドに移るまで政治・経済の重要な拠点として繁栄し、「16世紀で歩みを止めた町」といわれるトレドの旧市街はまるで迷路のように路地が張り巡らされている。長くイスラム教徒の支配下におかれ、その後ユダヤ、キリスト教の文化を融合したトレドの町並みは古いものと新しいもののトレードではなく、共存しながら歴史を構築していった様子がここかしこに見て取れるのだった。

人口の圧倒的多数がカトリックであるスペインにはどんな小さな村にも教会は必ずあり、そのスペイン・カトリックの総本山のカテドラル(EURO 10)がトレドに君臨しているのでこの機を捉えて恒例の♪何となくクリスチャン♪気分で礼拝させていただくことにした。

トレドのカテドラルはフェルナンド3世の命によって1226年に建設が始まり、1493年に竣工したスペイン・ゴシック様式の大聖堂であるが、その後、時代に応じて増改築が繰り返され、竣工時当初のオリジナルの部分は少なくなったのだが、その芸術性の高さは時代ごとのアーティストによって維持されてきたという。

豪華絢爛な聖堂内部はマサに見所が満載で、どこを切り取って写真を取ってもインスタ映えは必至で、FBにアップしようものなら♪カ~モン ベービー アメリカ♪のリズムとともに親指が乱舞する光景が目に浮かぶほどすばらしいものである。

建物は大きく分けると本堂とアネックスから構成されているようであるが、それぞれの雰囲気はガラッと異なっており、本堂にはコロンブスがDA PUMPにいざなわれたかも知れないアメリカから持ち帰った金がふんだんに使われている一方で、アネックスの内部はまるでベルサイユの薔薇が咲き誇っているような豪華さを醸し出しているのであった。

カテドラルの正面にはみやげ物屋やスナック屋の出店が数多く見られ、2ユーロで購入した揚げたてのポテトチップスを片手に油にまみれた手で人口水面に反射するカテドラルのファサードにピントを合わせていた。

12月27日(木)
長年♪アンダルシアに憧れて♪いた思いを行動に移す日がついにやってきた。マドリッドからグラナダへの移動はオーバーツーリズムの影響を考慮して事前にミキツーリストみゅうに手配させておいたプレミアムバスのチケット(EURO 50.85 + みゅうへの手数料)を握り締めて南バスターミナルに向かった。定刻9時に出発となったプレミアムバスは飛行機のプレミアムエコノミーよりも待遇がよく、添乗員の女性が飲み物や朝食等なにくれとないサービスを施してくれながら約4時間半の快適なドライブで午後1時半にグラナダ郊外のバスターミナルに到着した。バスターミナルからセントロへは多少距離があったので路面電車等の公共交通機関を使うことも考えたのだが、観光客に優しくない自動券売機の攻略に失敗したため、タクシーでグラナダでの宿泊先に向かった。

今回のツアーのハイライトであるグラナダでFTBが選定したホテルは☆☆☆☆☆のアルハンブラパレスで宮殿へのアクセスも至便なアラビック調のスタイリッシュな宿である。高台にあるので眺望もよかったので、早速ホテルへと続く狭い坂道を駆け下りてグラナダの中心部の下見をさせていただくことにした。

とりあえず近くのバルで1杯のビールに付いてくるタパス等で軽く腹ごしらえを決めて歩き始めるといつのまにかセントロの中心にあるイサベラ・ラ・カトリカ広場に到着していた。ここに君臨するモニュメントはイザベル女王がコロンブスに新大陸への出張を許可する場面を再現したものらしいのだが、実際にはグラナダ近郊のサンタフェで勅許が与えられたそうである。クリスマスの余韻を残す繁華街を抜け、川べりを歩いていると雪を被ったシエラ・ネバダ山脈の雄姿が遠巻きに眺められ、グラナダの征服者イザベル女王の援助を受けたコロンブスが♪カ~モン ベービー アメリカ♪に到着した1492年とスペインが世界制覇の夢に燃えて大航海時代の盟主となった時代に思いを馳せていた。

12月28日(金)
朝シャンプーならぬ、朝シャンペン飲み放題のホテルのブッフェ朝食でエネルギーを充填すると腹ごなしがてらに広大なアルハンブラ宮殿周辺を散策し、午後のツアーに備えた予習と観光客の動向の観察にしばし勤しんだ。

さらに、アルハンブラ宮殿から続いているゴメレス坂を下り、観光の中心であるヌエバ広場に出てセグウエイ観光集団を見送るとカテドラルを中心とした下町の密集地帯に向かった。

ぎっしりと軒を連ねる土産物屋の誘惑を振り切ってカテドラル(Euro 5)の内見へと舵を切ることにした。グラナダ陥落後、モスク跡に1518年より建設開始となったこの箱物は当初は当時のトレンドであったはずのトレドのカテドラルが採用しているゴシック様式を範として基礎工事が進められたのだが、1528年以降に担当者が変更となり、プラテレスコ様式最大の建物となって完成をみた。

構造的にはゴシックで装飾にはアラブ的なムデハル様式を用いた折衷的なものであったが、その後「髭男爵・山田ルイ53世」も推奨したはずのルネッサンス風へと移行したそうである。

「レコンキスタ」、スペインの歴史を語る上で最大と言っても過言ではないこのキーワードはイベリア半島でのキリスト教勢力がイスラム勢力を排除する動きでアンダルシアの主要都市であるコルドバやセビーリャが続々と陥落する中でグラナダは最後の抵抗勢力として繁栄を維持し、イスラム文明の輝かしいモニュメント、アルハンブラ宮殿(世界遺産)を花開かせたのであった!

スペインを代表する観光地であるアルハンブラ宮殿は入場制限があり、ネットで事前購入するというパターンが効率的なので約1ヶ月前にウエブサイトを訪問したのだが、すでに12月分のチケットは完売状態であったので思わず行き先をアンダルシアからサンタルチアに変更しようという欲望に駆られてしまった。ページをスクロールしてみると英語もしくはスペイン語のパッケージガイドツアーが高値(Euro 69)ではあるが、予約可能だったのでマウスのボタンの上に置いた人差し指に思わず力を込めてしまっていたのだった。

ツアー催行会社であるGRANAVISIONのミニバスが午後1時50分ごろにホテルに迎えに来たので乗り込むと、ものの数分で集合場所のGranaVision Welcome
Visitor Centreに到着し、番号札とツアー用のイヤホンセットを渡されて待っているとスペインの優男風のカルロスというガイドが軽快に姿を現した。先行するツアーのグループを見送るためのしばしの待機時間があったものの午後2時過ぎに待望のツアーの火蓋が切って落とされた。ちなみに申し込んだのは英語ツアーだったのだが、実際の運用は英語とスペイン語の説明が交互に繰り返されるのでスペイン語を勉強したい英語が分かる輩にとっては格好の生きた教材ともなるのである。

バーコードチェックの後、宮殿の敷地への侵入を許されると本物には絶対に手を触れることの出来ない精巧なレリーフのサンプルを撫で回し、最高の技術を持っているはずの庭師により整えられた角刈り並木を抜けてカルロス5世宮殿の前で個体管理されている猫と一緒にカルロスの説明に聞き入った。

カルロスが途中で行方の分からなくなった車椅子参加のツアー客の救済に成功した後、ツアーのハイライトであり、訪れる者を千夜一夜の世界に誘う、幻想的な王宮であるナスル宮殿への入場と相成った。内部は精巧なモザイクやレリーフで装飾されているため、バッグ類(特にバックパック)は常に体の前面に保持する指示が徹底され、バッグのエキスがナスル宮殿の壁に決してなすりつかないように配慮しなければならなかったのだ。


「王は魔法を使って宮殿を完成させた」といわれるように宮殿内部はマサにイスラム芸術の結晶でどのタイルやレリーフを取って見ても絵になるのだが、特に気になったのはまるで生き物に見えるアラビア語の習字のレリーフであった。

内部構造は精巧な仕掛けが施されており、宮殿の中心部であるコマレス宮のアラヤネス(天人花)の中庭いっぱいに造られた青い池は水鏡となってコマレスの塔を写しだしている。

また、神秘的な音響効果が得られるように天井や壁の形状を最適な形に作りこんでいるのも非常に印象的であった。

コマレス宮を過ぎると12頭のライオンの噴水があるライオンの中庭に到着した。ここは王族のプライベート空間で装飾はより繊細に施されていた。

東側は謁見の間になっており、天井の中央にはナスル朝歴代10人の王の肖像画が描かれている。

アルハンブラ宮殿の心臓部であるナスル宮殿を出て一休みした後、軍事要塞であるアルカサバに移動した。アルカサバはアルハンブラで最も古い部分でローマ時代の砦の跡にモーロ人が9世紀に築いたもので、キリスト教国の攻撃から都を守るため、アラブ世界の軍事技術を結集した難攻不落の要塞である。

見張り塔に上ると360度の眺望は圧巻であり、グラナダ最古の町並みが残る歴史地区アルバイシンや遠く青空に溶け込むシエラ・ネバダ山脈の美しい遠景が瞼の裏に焼き付けられたのだった。

アルハンブラの幻想世界は宮殿だけでなく、いろいろな目的で造られた庭園も重要な構成要素となっている。パルタル庭園は、イスラム時代には、貴族の宮殿や住宅、モスクなどが立ち並ぶ緑地だったのだが、アルバイシンを見下ろす展望台には貴婦人の塔が、前面に池を従えた優美な姿を見せている。

実験農園から糸杉の植えられた遊歩道をさらに進むと、ヘネラリフェの入り口へと到着した。

ヘネラリフェはアルハンブラ宮殿の北、チノス坂をはさんだ北側の太陽の丘に位置する14世紀に建設されたナスル朝の夏の別荘である。いたるところにシエラ・ネバダ山脈の雪解け水を利用した水路や噴水が設けられ、「水の宮殿」との異名を持っているのだが、やはり一番印象に残るのは重い水がめを背負わされてゲロのように水を吐く人面噴水であったろう。

離宮中央に位置するアセキアの中庭は、イスラム=スペイン様式を代表する庭園でアンダルシアのイスラム建築で最も保存状態の良いものである。

2時過ぎから夕暮れ時までたっぷりとガイドのカルロスによってアルハンブラの神髄をたたきこまれ、良い具合に腹も減ったのでホテルでグラナダの夜景を見ながらディナーと洒落込んだ。ホテルは高級の部類ではあるが、レストランのメニューは比較的リーゾナブルなので前菜、メイン、デザートまで安心して発注をかけることができ、新鮮や野菜や魚をまんぷくになるまで堪能させていただいたのだ。

12月29日(土)
名曲「アルハンブラの思い出」の旋律を胸に朝の散歩を楽しんでいると19世紀の米国人作家ワシントン・アービングの銅像が朝日に輝いている姿に遭遇した。レコンキスタの完成後、アルハンブラは凋落の一途を辿っていったのだが、荒廃した宮殿を「アルハンブラ物語」というペンの力で立て直した偉人の目は誇らしげにアルハンブラを見上げていた。

ヌエバ広場から続くダーロ川沿いを歩いていると、丘の上に続く数多くの路地の美しさに圧倒され、アルカサバを見上げる展望台を支配する有名であるはずのフラメンコダンサーの銅像が観光客のハートを射抜いていた。

起伏の激しいグラナダ市街を迷路のように張り巡らす一方通行道を機動力良く走り回るアルハンブラバスに乗り、11世紀頃にイスラム教徒によって築かれたグラナダ最古の町並みが残る世界遺産地区アルバイシンのサン・ニコラス展望台に到着した。ここから見るシエラ・ネバダ山脈を背景にしたアルハンブラ宮殿は非常に有名だということで多くの観光客が肩を寄せ合って写真撮影に興じているのだが、もやと逆光によりもやもやしたプロファイルの写真で我慢せざるを得なかったのだ。

展望台の裏手に広がるラルガ広場は16世紀に市場として栄えたアルバイシンの中心で多くの商店が軒を連ね、原住民と観光客が織り成す混沌とした熱気で非常に活気に満ちていた。

アルハンブラの最後の王ムハマンド11世が、城を落ちシエラ・ネバダの険路にさしかかる丘の上で宮殿を視界に収めて惜別の涙を流したと伝えられているが、それと同じ気持ちでグラナダを後にしてバスでマラガに向かった。約1時間半のバスの旅で温暖なマラガのバスターミナルに到着すると近年完成したはずのきれいなMetroに乗車すると10分程度で目的駅に到着し、マラガでの宿泊先であるHilton Garden Inn Malagaに投宿し、近隣のスーパー、カルフールで食材を買って晩餐を楽しんだ。

12月30日(日)
スペイン南部アンダルシア州のマラガ県の海岸地域をコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)と呼んでいる。強烈な日差しを跳ね返すために多くの村では建物を漆喰で真っ白に塗り、マサにマラガの海の贈り物と言っても過言ではない「白い村」がアンダルシアに点在するようになった。最も有名な「白い村」のひとつであるミハスがマラガからのアクセスも良かったので話の種に行ってみることにした。

マラガ・マリア・サンブラーノ駅からRenfe近郊線に乗り、30分程で終点のフエンヒローラ駅に到着し、さらにバスに乗り、地中海を見晴らす山の中腹に位置するミハスのビルヘン・デ・ラ・ペーニャ広場で下車すると色白の労働者像に出迎えられ、多少の白々しさは否定出来ないと思われたものの念願の「白い村」への入村となった。

なるほど、山の中腹には白塗りの建物が密集し、アンダルシアの青空とのマッチングは見事であるのだが、家畜系の香りが漂う方向に目を移すとそこは馬車とロバ・タクシーのターミナルで多くの頑固そうなドンキーが寒空の下で出番を待っていた。

地中海を見下ろす展望台の一角で尖っているのはラ・ペーニャ聖母礼拝堂で16世紀に修道士が岩を掘り抜いて造ったと言われており、完成当時はピノキオのように鼻高々であったことが容易に想像される。

サン・セバスティアン教会を基点にして丘の上へと続く坂道はサン・セバスティアン通りで、アンダルシアで一番美しいと言われている通りである。通りの左右が商店街になっている一方で坂を上りきると一転して住宅街になるのだが、各民家もミハスの景観をさらに見栄えのよいものにすべく努力をしているようだった。

今日は風が強く、雲の流れが速かったので地中海のかなた、遠くアフリカ大陸までの眺望は拝めず、寒さでトイレを探しているうちに1900年に造られた世界最小といわれる闘牛場近辺のコンスティトゥシオン広場に紛れ込んでいた。この時期はオフシーズンのためか闘牛場内への入場はかなわなかったのだが、ここでのアクティビティは闘牛と観光客の生死をかけた一騎打ちではなくマタドールに扮した観光客が温厚そうな牛君と一緒に記念写真を撮ることであるようだったのだ。

12月31日(月)
昨日地中海の風に吹かれすぎた影響か、スペイン風邪の前兆のような症状が出始めたので午前中はホテルで療養し、12時のチェックアウトの時間を待ってタクシーでマラガ=コスタ・デル・ソル国際空港に向かった。この空港は別名パブロ・ルイス・ピカソ国際空港と呼ばれているのだが、マラガはピカソの出身地でピカソの生家、ピカソ美術館も人気を博しており、マラガの海の贈り物はマサにピカソ自身であるとの思いをあらたにした。

ルフトハンザ航空LH1149便は定刻15時40分に出発し、3時間のフライトで18時40分にフランクフルト国際空港に到着、IHGのポイントが余っていたのでただで宿泊できるHoliday Inn Frankfurt Airportにエミレーツ航空の乗務員と一緒にチェックインし、2018年最後の夜を地味に過ごした。

2019年1月1日(火)
平成最後の年が幕開けとなった日本の新年の喧騒とは裏腹に静かな2019年の初日をフランクフルトで迎えると午前11時30分発NH204便に乗り込み、スペイン風邪を日本に輸入しないように細心の注意を払いながら約11時間30分の元旦フライトを楽しんだのだが、残念ながら機内食で雑煮とおとそは出なかった。

1月2日(水)
夜明け間近の午前7時前に羽田空港に到着、世界まるごとHOWマッチの中でも尽きることの無いアンダルシアへの憧れを胸に流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥131,650、EURO370.77
総宿泊費 EURO871.87
総バス代 ¥9,408、EURO17.47
総地下鉄、鉄道代 EURO37.8

協力 ANA、ルフトハンザ航空、IHG、Hotels.com、ミキツーリストみゅう、CITY TOUR ALHAMBRA VIAJES, S.L. (GRANAVISION)

発進FTB2.2 南紀勝浦温泉周辺、世界遺産三冠王ツアー

前略 ボンよ、FTBも20年目に差し掛かり、新装オープンのためのテスト運用を数ヶ月前から行っていたのだが、このたび正式にFTB2.2のリリースとなりました。その第一弾として厳選された行き先は南海トラフ地震の脅威にさらされながら、地味に観光客を集めている南紀勝浦温泉周辺とあいなった次第である。

2018年10月13日(土)
午前10時羽田発ANA019便は定刻より早く伊丹空港に到着し、毎週のようにお世話になっているニッポンレンタカーでダイハツの軽自動車をレンタルすると大阪空港に直結しているインターから高速に乗り、阪神高速、阪和自動車道を疾走し、南紀田辺インターで降りると道の駅すさみで休憩を取ることにした。陽光が燦燦と降り注ぐ南紀の海を背景にしてブタかイノシシかどっちなん?と思いながら記念写真を撮っている旅行者を横目にソフトクリームを舐めまわしていた。

大阪を出発して4時間近くが経過した頃、やっとの思いで南紀勝浦の地に到着し、本日宿泊予定のホテル浦島の駐車場に車を停めるとホテルのシャトルバスに乗って勝浦港へと向かった。観光桟橋からさらに送迎ボートに乗り込み、運転疲れのためにぼ~としていると暴徒と化したチコちゃんから「ボーっと生きてんじゃねえよ!」という声援を送られるのではないかと恐怖に打ち震えているうちにホテル浦島の桟橋に到着した。

勝浦湾と熊野灘に挟まれた半島の地形を巧みに利用して建て増していったホテル浦島はマサに竜宮城のようであり、日本でも最高レベルの温泉リゾートとして君臨し、大阪から4時間かけても来る価値があるということがホテルの敷地に一歩足を踏み入れた瞬間から感じられた。

収容人員1528名を誇る巨大ホテルの温泉浴場は7ヵ所に及びスタンプラリー形式で3つ以上の浴場に入浴すると粗品が進呈されるのだが、まず手始めに浦島を代表する大洞窟温泉「忘帰洞」に身を委ねることにした。洗い場のカランを腐食させるほどの白濁硫黄泉をたたえた巨大な浴槽の向こうに洞窟の出口がぽっかりと空いており、熊野灘から押し寄せる白波が絶えず目の前の岩礁に打ちつけられ、国内外から訪れている入浴客は野趣と癒しのハーモニーに包まれ、「忘帰洞」の名に違わぬほど帰るのを忘れてしまっているのだった。

首尾よく「帰る」のを思い出すことが出来たので、ウォーターフロントの本館から高台の山上館を結ぶ連絡エスカレーターである「スペースウォーカー」で天上界を目指すことにした。全長154m、高低差77m、傾斜角度30度、階段数428段、所要時間5分45秒(30m/分)を誇るスペースウォーカーは高所恐怖症の輩にはウォッカを浴びるほどの恐怖感を与えるものかもしれないが、行き着く先の山上館はホテル浦島随一の高級宿泊施設となっている。その少し下に狼煙山半島につながる遊歩道への入り口があったので軽く風呂上りの散策と洒落込んだ。展望台からはたそがれ時の勝浦港の全景が眺められるのだが、狼煙山の由来は昔、漁師の見張り番が鯨を見つけたときや、幕末に熊野灘を航行する黒船を発見したときにのろしを上げて急を告げたことが由来になっているそうだ。

ホテル浦島のもうひとつの売りはマグロの解体ライブであり、バイキングレストラン会場となっている「龍宮」で日夜マグロの生贄が捧げられている。予約した7時半の30分前に会場入りし、豊富な海の幸を中心とした地元料理で腹を膨らませると待望の解体ショーの幕が切って落とされた。

重さ26kgを誇る新鮮なキハダマグロは豊洲市場に持っていけば高値で落札されることは間違いないはずであるが、今夜はしゃべりの切れはよくないが切れ味鋭い出刃包丁を巧みにさばく目付きの鋭い大将の手にかかることになったのだった。日ごろ冷凍マグロしか食ったことのない宿泊客は一様に生マグロの新鮮さと柔らかな口当たりに驚きを隠せない様子で、やはり魚は水揚げされた産地で食することが一番だという認識を新たにしたのであった。

10月14日(日)
すばらしいホテルで南紀勝浦温泉をじっくり堪能し、玉手箱を空けてしまった浦島太郎のように腑抜けになった感覚を覚えながら現実社会への帰路についた。勝浦港に戻り、気がつくと目の前に世界遺産が迫っていたので、この機会に熊野詣の一端を垣間見ることにした。

熊野詣とは熊野信仰に基づき、熊野三山に参詣することであるが、後白河上皇にいたっては34回もの御行を数えている。熊野三山とは本宮、新宮、那智のことであるが、今回は時間の都合もあり、熊野那智大社にゴールを決めることにした。大門坂入口の無料駐車場に車を停めると黄金のサッカーボールをトラップした黒い鳥のモニュメントに出迎えられた。この鳥は「八咫烏(ヤタガラス)」という熊野の神の使いで神武天皇が九州の日向の国よりこの地に上陸して三本足の烏に案内されて奈良まで行き、大和の国を建設したと伝えられている。八咫烏はサッカー日本代表チームのシンボルマークになっており、サムライブルーのジャージにもその黒いシルエットが刻まれているのである。

熊野古道は日本三大古道のひとつで、大門坂は熊野詣で栄えた当時の面影を特に美しく残している。熊野那智大社へと続く全長約640m、高低差100mの石畳の両脇は情緒あふれる杉並木となっており、参道の入り口には樹齢800年と言われている夫婦杉がある。

入り口近くの大門坂茶屋で平安衣装の貸し出しを高値で行っており、自らの記念写真のみならず、道行く観光客の絶好の生贄的被写体になることさえ出来るのであるが、大門未知子のように「いたしません!」とはもはや言えない状況を背負わなければならないのだ。

大門坂を上りきり、那智山のバスターミナル兼休憩所で一息入れた後、さらに400段以上の階段を登って那智大社を目指す道すがら植村花菜のおばあちゃんが信仰しているはずのトイレの神様に遭遇し、芳根京子のようなべっぴんさんになるためにはトイレをぴかぴかに磨かなくてはならないという思いを新たにした。

念願の熊野那智大社の鳥居をくぐったのはよかったのだが、礼殿は創建1700年の改修工事中で来年の3月迄その雄姿を拝むことが出来ないという残念な状況であった。しかしその脇にはサッカー日本代表の西野監督や澤穂希選手のサインが奉納されている様子が垣間見え、FTBもいち早く熊野三山である本宮、新宮、那智のハットトリックを達成しなければならないというプレッシャーにさらされることとなった。

那智大社に隣接する那智山青岸渡寺は西国三十三所第一番札所になっている太閤・秀吉も愛した壮麗なる寺院である。本堂後方には、那智の滝との調和が美しい朱色の三重塔がそびえており、絶好の記念写真ポイントになってはいるのだが、有料写真撮影サービスが営業しているベストポイントには記念写真撮影用のスタンドが設置されているので何となく近づくことが憚られてしまうのだ。

那智山から下山し、迷いカマキリを安全な場所に避難させた後、古式捕鯨発祥の地である太地町に向かった。道の駅「たいじ」で昨今では貴重なものとなった鯨肉を貪り食った後、鯨よりも大物が君臨している穴場スポットに向かった。

熊野灘の雄大な自然に抱かれた南紀太地町に「落合博満野球記念館」が1993年にオープンしており、いつかはいかなければならないと思い続けていたのだが、満を持して今回のツアーのついでに立ち寄ることにした。記念館への参拝客はFTBご一行のみであったためか、館内を短時間で見て回ることが出来たのだが、少ない入場者数でも採算が合うように入場料は¥2000と高値に設定されている。

館長の落合博満氏が滞在するのは正月等の限られた時期のみだそうだが、館内展示物撮影禁止の中にあって、唯一落合博満裸像と一緒に記念写真を撮ることがこの記念館の最大の売りになっているので、落合氏の現役時代のユニフォームとミズノプロのバットを借用して¥2000分の元を取らせていただいたのだった。

かつては鯨の肉も魚屋で売られており、「魚屋のおっさんに今何時」と聞くと「9時ら」と答えてくれたのだが、なつかしい思いを胸にこの町のシンボルである空飛ぶ鯨像を拝んで太地町に別れを告げた。

本州の最南端、南紀串本に橋杭岩という景勝地が君臨し、約850mの列を成す大小40余りの岩柱がそそり立つ様を拝むことが出来る。海の浸食により岩の硬い部分だけが残り、あたかも橋の杭だけが立っているように見えるこの奇岩群には、その昔、弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭をして、一夜にして立てたという伝説も伝わっている。

橋杭岩を後にすると、一目散に伊丹空港に戻り、8時20分発ANA040便に飛び乗って東京へと帰って行った。次回南紀ツアーの開催時には復活した関空を使う方が時間的に有利であると反省しながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥25,280
総宿泊費 ¥23,760(2食付、2名分)
総レンタカー代 ¥9,976
総ガソリン代 ¥3,585
総高速代 ¥6,110

協力 ANA、楽天トラベル、ニッポンレンタカー

祝FTB20執念!記念南海の楽園タヒチツアー

NHK、BSプレミアムのドキュメンタリー番組である「世界ネコ歩き」が始まるとテレビ画面に釘付けになるボンよ!

内弁慶な君たちは動物病院に搬送される以外は大半の時間を家でゴロゴロして過ごすのが日課であるが、FTBを率いているボス猫の私は「世界ネコ歩き」を体現しなければならないという使命を帯びているので今回は忙しい合間を縫って南海の楽園タヒチに肉球跡を残すツアーを開催することとなったのだ。

2018年8月13日(月)
ニュージーランド航空運行の午後10時5分発NZ92便は定刻に羽田空港を離陸した。すでにANAのSuite Loungeにてたらふく飲み食いして睡眠体制を整えていたので機内ではひたすら覚醒レベルが上昇しないように注意を払って過ごしていた。

8月14日(火)
約10時間半のフライトでニュージーランドの玄関であるオークランド国際空港に到着したのは正午前であり、日本よりすでに時計の針が3時間進んでいたのであった。入国、税関をつつがなく通過したものの1歩外へ踏み出すと真冬のニュージーランドの外気温13℃の南風がみるみる活動する気力を失わせたために路線バスで空港近辺のHoliday INNに移動し、IHGポイントを使ってただで泊ったにもかかわらずアップグレードしていただいたスイートルームに引き篭もって悠々自適なホテルライフをエンジョイさせていただいた。

8月15日(水)
南太平洋の優等国で南太平洋路線が充実しているニュージーランド航空が運航する午前9時10分発NZ40便オークランド発パペーテ行きは定刻に出発した。約5時間弱もの時間を機内で過ごして意識が朦朧としてついつい「ふぁ~~」とあくびが出た頃合にフランス領ポリネシアタヒチ島のファアア国際空港に到着したのだが、まるでタイムマシンでやって来たかのように日付は前日の8月14日に舞い戻っていたのであった。

8月14日(火)
午後4時過ぎに疲れ果てたようにたらたらとタラップを降り、空港の建物に入った瞬間にタヒチアン・ミュージックとダンスの歓迎を受け、みるみる体中に生気が蘇って来る感覚を覚えた。

簡単な入国審査を経てフランス領ポリネシアへの入国を果たし、手持ちの米ドルをいくらかのフレンチ・パシフィック・フランに両替するとタクシーを捕まえて今日の宿泊先へと急いだ。尚、タヒチでの金銭感覚だが、フレンチ・パシフィック・フラン (CFP)と日本円の換算がおよそ1対1なので¥1,000を使う感覚でCFP1,000を浪費することが出来るのだ。IHGポイントが余っていたので、私はただで宿泊出来るタヒチ島随一の高級ホテルであるインターコンチネンタル・タヒチ・リゾート&スパに颯爽とチェックインすると上半身裸の屈強なタヒチアン優男が部屋まで荷物を運んでくるシステムになっていたのだが、FTBが通常提供している高額チップを渡そうとしても優男のパンツにポケットがないことを考慮して断念せざるを得なかったのだった。

部屋に入って程なくするとあたりも暗くなってきたので、浮かせたチップ代をホテルに還元するために高級ディナーと洒落込むことにした。アポなしでホテルの水上レストランであるフランス料理の「ル・ロータス」にアタックすると首尾よく30分後にテーブルを確保することが出来たので今夜はここで散財してIHGポイントを稼ぐことにした。

フロントでウエルカムドリンクのチケットをいただいており、ビール、カクテル、スパークリングワイン等を発注出来ると書いていたので、テーブルに着いた矢先にスパークリングワインを頼んだのだが、高級フレンチのプライドを覗かせたウエイターからシャンパンならあると言われたのでまがいもののスパークリングを口に出したことを後悔しながら最初のドリンクに口を付けた。料理はアラカルトで魚系とデザートを発注したのだが、世界の渡部ほどの食通でない私でも十分アンジャッシュな気分を満喫することが出来たのであった。

8月15日(水)
IHGインターコンチネンタルホテルズグループと深いつながりを持つANAの策略により、IHGの最上位ステータスであるスパイアエリートに出世させられていたFTBはLateチェックアウトの特典を利用して昼ごろまでの滞在を決め込んでいたので早朝からじっくりとリゾート内のファシリティの調査に時間を費やすことが出来た。

レガッタ系のボートを力強く漕いでいる原住民の背景には近隣の島であるモーレア島のシルエットが浮かんでおり、青い南国の海をじっと見て佇んでいるだけで十分リゾート気分が盛り上がってくるのだが、、リゾート内にはご丁寧に亀を飼育するにごり池や外海と隔絶された巨大プール型いけすが設えられており、サンゴ礁の回りでカラフルな熱帯魚がWINKする観光客を尻目に♪ゆらゆらSwiming♪とマイペースで泳いでいた。

リッチなリゾーター向けには海の上の立地のよい場所にタヒチ名物水上バンガローが数多く用意されているのだが、スパイアエリートと言えどもそこまでのアップグレードはなし得なかったので水上部屋内の便所やバスタブの排水系とサンゴ礁きらめく海の環境とのバランスがどうなっているのかの解明には至らなかったのだ。

アイスクリームや菓子類、香水等に欠かせないバニラはフレンチポリネシアンの名産品となっているのだが、インターコンチネンタルの敷地内にもプロモーション用のバニラの木が囲いの中に数本植えられている。バニラはラン科の植物で湿気の多い場所に添え木となる軸木を植え、その湿った根元にバニラの若枝を挿し木にして栽培している。尚、ポリネシアにはハチがいないので受粉の役割は人力に頼っているそうである。

正午過ぎにホテルをチェックアウトするとチャーターしていたタクシーに乗り込み、パペーテ中心部のモーレア島行きフェリー乗り場に向かった。重厚な門構えのフェリー乗り場で下車し、チケット売り場を探していたのだが、何故か人影が少ないようであった。ようやく見つけた係りのおばちゃんから状況を聞いたところ、この日は「聖母被昇天祭」という祭日でフェリーの運行本数が少なくなっており、市内の商店街もほとんどシャットダウンしているとのことだったので思わずショックで昇天しそうになってしまった。

首尾よくフェリー乗り場近辺のうらぶれたバーが店を開けているようだったので熱中症で昇天する前に水分補給することにした。吉川と名乗る日本人がオーナーかどうかは定かではないのだが、タヒチのローカルビールはHINANOビールが定番になっているのでタヒチ語で「かわいい女の子」を意味する黄金の液体を味わいつくして時間を稼いでいた。

午後2時を過ぎたあたりからフェリー乗り場周辺が観光客でざわつき始め、テレパウというフェリー会社のチケット売り場で首尾よくチケットを入手すると高速船はようやく3時過ぎに出港となったのだった。モーレア島へはわずか30分の船旅でデッキで潮風に吹かれているとモーレア島の荒々しい島影がみるみる近づいてきたのであった。モーレア島には公共交通機関がないのでホテルまでの遠い道のりをタクシーに揺られていくことになるのだが、タクシー乗り場で出会った推定85歳以上のエリザベスと名乗る運転手は果敢にも重いスーツケースをトランクに抱え上げ、道中はモーレア島のガイドまでかましてくれたのだ。モーレアしまんちゅのプライドを会話のここかしこに織り交ぜるエリザベスによるとモーレア島では週5回ゴミの収集が行われ、島は至って清潔に保たれているとのことで、タヒチで一番人気のボラボラ島ではぼられるとは言っていなかったが、ボラボラ島よりモーレア島の方がすばらしいことは十分に脳内に刷り込まれていったのだった。

待望のインターコンチネンタル・モーレアリゾート&スパにチェックインを果たすとスパイアエリートのFTBにアップグレードしてあてがわれた部屋は藁の屋根をかぶったガーデン・バンガローであった。驚いたことに部屋のデッキには源水?垂れ流しのプライベートプールが装備されており、これからビーチで付着するであろう塩分をこんこんと流れ出る真水で清める体制が整えられていた。

たそがれ時に広大なリゾートの敷地を散策していると離れの水上バンガロー地区で沈み行く太陽を背景に手招きしている猫科のシルエットが視界に入ってきた。思いもよらぬ場所での「世界ネコ歩き」となってしまったのだが、南国の離島にひっそりと暮らすネコに対して「マサにネコ歩きに国境などないのだよ」と語りかけていた。

8月16日(木)
リゾート滞在での最大の贅沢は何もしないことなので、今回は特に島内を散策することもなく、ひたすらリゾート内で静かに過ごすことにした。かつて画家ゴーギャンはこの島を「古城のようだ」と評しており、海底火山の大噴火で生まれた大自然の起伏ある景観をくまなく見て回るのは予定のされていない次回滞在時に譲ることにした。

レストランで朝食のビュッフェを高値の支払いで食しているときに足元に放し飼いのヒヨコがまとわり着いてきた。このホテルではシーフードだけでなく、卵料理や鶏肉料理のメニューも充実しているのだが、ヒヨコたちも近い将来スクランブルエッグやチキンソテーとして貢献することが約束されているはずだと思いながら朝食を値段負けしないように無理して胃に詰め込んでいた。

リゾート内の船着場から鳥の目線で青い海を眺めていると丁度パラセイリングのボートが出航するところであった。マリンアクティビティはひととおりそろっており、スノーケリングセットは無償で貸与していただけるのでマスクとフィンを小脇に抱えてビーチ沿いをうろうろしていた。

ラグーンではビートの利いた音楽に乗って水中ビクスに興じているリゾーターがいる一方で、ドルフィン・エクスカーションなるイルカと人との触れ合いが出来るプログラムも高値で用意されており、トレーナーの指示で魚目当てで従順になったふりをしているイルカを手篭めにすることも出来るのである。

スノーケリングは基本的にどこでやっても自己責任でOKなのだが、水上バンガローの宿泊客は部屋から出れば即海中世界となっている。海の中を覗いてみると魚が密集しているエリアはあるものの環礁地帯になっていない所を泳ぐと普通の海水浴に成り下がってしまうのであった。

敷地内には海亀保護センターもあり、生まれたばかりの小亀から干からびた甲羅で命からがら生きながらえているような老海亀も平和に暮らしているのだが、果たして小亀たちはいつ大海原への航海に繰り出すことが出来るのであろうか?

定番の「世界ネコ歩き」の時間になったので昨日出会った場所を訪れると今日はよりフレンドリーになっていたので涙なしに別れの時を迎えることが出来るのか心配になってきたのであった。

8月17日(金)
リゾートでやり残したことを数えればきりがないのだが、滞在中に運動不足に陥っていることを鑑みてカヌーを漕いで海に出ることにした。カヌーは2人乗りのタンデム仕様のものと立ち漕ぎで「レレレのおじさん」のポーズで前進するタイプのものがあるのだが、ギタリストのようなポーズが決められなかったのでちまちまと2人乗りを漕ぎながら浅瀬での座礁を繰り返していた。

ドルフィン・エクスカーションは相変わらず活況を呈しているのだが、施設の近辺には珊瑚の養殖だなも見られ、豊かな南国の海でも珊瑚の白化現象は刻々と進んでいる状況に脅威を覚えていた。

2泊させていただき、社会復帰が心配になるほどのくつろぎを堪能したインターコンチネンタル・モーレアリゾート&スパを後にするとタクシーでフェリー乗り場に帰っていった。フェリーの到着時間が近づいた頃、ふとタクシー乗り場に目をやると島を愛する勤勉なエリザベスは今日も客待ちに余念がないようであった。

タヒチ島に戻るとタクシーでインターコンチネンタル・タヒチリゾート&スパへと急ぎ、チェックインすると何故か前回宿泊した部屋の隣の部屋があてがわれていた。どうしても居心地最高だったモーレア島のインターコンチとの比較になってしまうのだが、ホテル代はタヒチ島の方が高いとはいえ、室内にはプライベートプールどころかバスタブさえなかったので太平洋フロントのプールで夕暮れまでのひと時を楽しむことにした。

プール型巨大いけすに場所を移して見るとすね毛を餌と間違えた熱帯魚が早速群がってきやがった。人口ものの設備とは言え、間近で感じる熱帯魚の感触は格別であり、カラオケで♪淋しい熱帯魚♪しか歌えないような仕事で疲れた病んだ心もここに入れば一気に晴れ上がっていくのである。

モーレア島をオレンジに染める夕日を見送るとリゾートにつかの間の静寂が訪れる。

週末のこの日に静寂を打ち破るのはティアレ・レストランで行われる島内随一の本格的タヒチアン・ダンス・ショーである。あらかじめ7時半に予約しておいたので舞台近くのかぶりつき席に陣取るとまずは地元料理のビュッフェで腹ごしらえをして、タヒチでNo.1の実力を誇るダンスグループ「ヘイタヒチ」のメンバーが登場するのを今か今かと待ちかまえていた。

8時過ぎに念願の開演となると会場は一気に盛り上がり、BEGINを髣髴とさせるバックバンドが奏でる独特なリズムにより伝統的なポリネシアンの雰囲気に包まれていった。

演目は少年が火のついたバトンをグルグル回しにするお決まりのものや、伝統的打楽器に合わせて踊る「オテア」、手の動きで物語を表現する「アパリマ」、男女が輪になって踊る「ヒヴィナウ」等であるが、松雪泰子や蒼井優が「フラガール」で披露した膝折り仰向け寝の状態から徐々に上体を起き上がらせる技は実演されなかったのだ。

ダンス・ショーも佳境を迎えたところで観客参加型のプログラムに移行し、各ダンサーは舞台に上げるべきスターを物色するために客席中を目を血眼にして歩いていた。たまたま赤シャツを着ていた私はドラフト1位で指名されてしまったのだが、ここでダンスチームへの入団を拒否するわけにもいかない雰囲気になっていたので契約金なしで堂々とデビューを飾ることにした。

観客の大歓声を浴びて切れのあるステップを披露した後は記念写真撮影大会となった。顔の小さい私よりもさらに一回り顔の小さいセンターダンサーと無事にツーショットが決まるとほどなくしてダンスショーはお開きとなったのであった。

8月18日(土)
夢のようなひとときを過ごしたインターコンチを早朝チェックアウトするとタクシーに乗り、「ふぁぁ~」とあくびをしながらファアア国際空港に向かった。Air TahitiNuiが運行するTN101便は定刻9時5分に出発すると6時間弱もの時間を機内でやり過ごさなければならなかった。

8月19日(日)
日付変更線を越えるといつのまにか日にちが進み、オークランド国際空港に到着した時間は午後1時過ぎとなっていた。空港からSky Busに乗り込むと約40分でオークランドの市街地に到着し、Crown Plaza Aucklandにチェックインを果たすと窓越しにスカイツリー系のタワーのフォルムが目に突き刺さった。スカイタワーと名乗るこの建造物は高さ328mの南半球で最も高いタワーであり、オークランドの観光名所となっている。なるほど、安全ロープに身を委ねた観光客がアウトドア高所スカイタワーめぐりを楽しんでいる様子で遠めにもその緊張感がひしひしと伝わってきたのであった。

明るいうちにオークランドハーバー近辺をうろうろしていたのだが、一等地に店を構えているOK GIFT SHOPは日本人の店員を多数配置しているにもかかわらず適正価格で土産物を販売しているようであった。

夕食はカニをメインにふるまうカジュアルなレストランで取ることにしたのだが、あえて時価のカニの姿ものは発注せずにカニの身が少し入ったサラダやシーフードチャウダー等でコストを抑え、タヒチで緩んだ財布の紐の修復を図っていた。

8月20日(月)
ニュージーランドドル札が少し余っていたので昨夜OK GIFT SHOPで買わなかったマヌカハニーを空港の免税店で購入し、午前8時55分発NZ99便で成田への帰路に着いた。午後5時過ぎに成田に到着すると殺菌作用の強いマヌカハニーで今年の冬も喉を消毒し、インフルエンザワクチンを接種することなく冬を乗り越えようと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥159,780
総宿泊費 CFP114,711、NZ$176.4
総タクシー代 CFP16,900
総フェリー代 CFP2,320
総バス代 NZ$36

協力 ニュージーランド航空、Air TahitiNui、IHG

第5回カンガルーと一緒に地球環境問題をカンガェル~ツアー in オーストラリア(ケアンズ)

地球温暖化のあおりを受けたためか、今年の梅雨は露ほどの期間もなく、猛暑の訪れとともに西日本に甚大な豪雨の被害をもたらせてしまった。見事な大猫に成長したボンよ、君たちは家の中で涼しい寝場所を見つけることには長けているはずので、FTBツアー中の留守を守っている間は各自で暑さをしのぐことはたやすいことであろう。

ということで、酷暑の日本を脱出し、赤道を越えてオーストラリア北東部のクイーンズランド州ケアンズに飛んで雄大な自然環境の中でひとときの涼しさを求めるツアーが敢行されたのだった。

2018年7月14日(土)
ANAが多数所有するロールスロイス社製トレント1000エンジンを搭載したボーイング787ドリームライナーが航空当局の指導により、一斉整備、点検による欠航便多発のあおりを受け、FTB一行が搭乗するはずであった東京→大阪の便が欠航となったものの、今回のツアーはどうしても決行しなければならなかったので振り替え便の午後3時発ANA33便、ボーイング737-700機に搭乗し、4時過ぎに伊丹空港に到着した。空港バスで関西国際空港に移動し、「ぼてじゅう」でお好み焼きを詰め込んで腹をぼてっとさせた後、午後9時発Jetstar JQ16便、ボーイング787GE製エンジン搭載機に搭乗するとLCCの不便を感じないためにひたすら意識をなくすことに専念した。

7月15日(日)
約7時間のフライトを何の不便もなくやり過ごすと、夜明け前のケアンズ国際空港に到着したのは午前5時を少し回った時間であった。関空だけでなく、成田からケアンズに飛んでくるJetstar便も同じ時間帯でのフライトだったので入国エリアはおびただしい数の日本人でごった返していた。機械での自動入国処理、税関での甘い手荷物審査をパスするとATMでオーストラリアドルを引き出し、停車していたプリウスタクシーに乗車して予約しておいたホリディイン・ケアンズ・ハーバーサイドにようやく到着する運びとなった。

熱帯地方とはいえ、冬まっさかりのケアンズの早朝の気温は15℃を切っているように感じられ、部屋が準備出来るまでの時間に海沿いを歩いたりもしてみたが、バカンス風邪をひきたくなかったのでしばらくロビーのソファーで惰眠を貪りながら待機していた。朝日が昇ると一転して気温は夏日を目指し始めたので9時を回った頃に徒歩でダウンタウンに向かうことにした。

毒々しい高層ビルが見当たらないケアンズダウンタウンの主要道路であるLake Streetに沿って南下しているとなんかよくわからん木々の集合体のような植物に遭遇し、上方から鳥の鳴き声らしき喧騒が聞こえてきた。これは絞め殺しのイチジクという熱帯地方の代表的な着生植物で大きく成長したこの木はこうもりの棲家になっており、喧騒は夜のハンティングを終えて戻ってきた団体が枝にぶら下がって狩の成果を自慢しあっていたと思われた。

都会の一等地のこうもり団地を過ぎるとWoolworhsという巨大平屋スーパーマーケットが姿を現したので軽くマーケティングを行うことにした。乾季のこの時期はこうもり傘は売ってなかったが、強い日差し対策のスキンケア用品の品揃えは豊富で、ケアンズの誇るグレート・バリア・リーフの名に恥じない強力なバリアを肌に施してくれる商品で陳列棚が埋め尽くされていた。また、店内のフードコートは揚げ物づくしのSeafoodのみならずSUSHIもコーナーも充実しており、サッカーワールドカップで日本をすしにして食ってやるといったベルギー代表チームもすばやくカウンターで注文をしかけにくることは間違いないであろう。

意外に小さいケアンズのハーバー沿いの町並みをひととおり見て回ると迎えに来たホテルのシャトルバスに乗り込み、ホリディインに帰還すると部屋待ちの時間を利用して現地ツアーを物色することにした。ケアンズでの有意義な過ごし方はツアーの選択にかかっており、世界最大の珊瑚礁地帯グレート・バリア・リーフ、世界最古の熱帯雨林ウエット・トロピックスという世界遺産は必見項目なので各1日づつそれぞれのツアーに当て込む予定を急遽作成した。

ホテルのブルーマンゴーカフェでトロピカルテイストのビールをすすっていると部屋の準備が出来たとの知らせを受けたので4階のオーシャンビューのStandard Roomの風呂場で体を清めると再びダウンタウンに繰り出すことにした。到着初日に何のアクティビティもないという体たらくを打開するために5時半に出港するCairns Harbour & Sunset Cruises(AU$48)に参加することにした。

クルーズ自体はトム・クルーズのようなアクション性はなく、いたって静かに夕日に染まるケアンズのハーバー周辺を眺めるもので時間と金を持て余している輩に優雅なひとときを提供するツアーなのである。

燃えるサンセットを堪能した後、手ごろなタイレストランでそんなに辛くない麺類と揚げ魚の香草ソースかけを召し上がり、周辺をうろついているとOK GIFT SHOPに遭遇した。故大橋巨泉が経営していたこの店もすでに巨泉写真建て看板もなく、土産物屋としてのカリスマ性が失われている様子で盟友のビート・たけしや石坂浩二の援助が待ち望まれるところであろう。

7月16日(月)
ケアンズ人気ツアーランキングの第2位にキュランダ1日観光なるツアーが君臨している。端的に言うとケアンズの北西30kmに位置する世界遺産の熱帯雨林に囲まれた高原のキュランダという小さな町にロープウエイや観光列車を駆使して行って帰って来るという単純なツアーである。ホリディインでホテル片道送迎付きのツアーを申し込んでいたので9時55分に迎えに来たバスに乗り込むと15分ほどでスミスフィールドというスカイレールの搭乗駅に到着した。

スカイレールは1995年に完成した全長7.5kmの6人乗りゴンドラ式のロープウエイで世界最古の熱帯雨林と言われている太古の森を高所から見下ろして自然環境の大事さを再認識させてくれる最新式の乗り物である。スピーカーから流れる標準英語の解説によると、現存する世界最古の熱帯雨林はかつてはオーストラリア全土を覆っていたが、何百万年前以前に起きた気候と地殻変動により、現在はオーストラリア全土のわずか0.1%にも満たないものに成り下がってしまったということであるが、驚くほど多様な生態系は今もなお息づいているそうだ。

スカイレール全行程中に途中停車駅が2つあり、最初のレッドピーク駅で下車してトレイルを歩くと樹齢400年のカウリ・パインという巨木を見上げて首のストレッチをすることが出来る。また、バンヤンツリーやアレキサンドラ・パームも見ごたえがあり、このあたりは高温多湿な環境でよく発達した熱帯雨林の様相を呈している。

レッドピーク駅を過ぎるとスカイレールは徐々に降下を開始し、途中シーニックレールウエイという観光列車と熱帯雨林のコラボレーションが堪能できるポイントでシャッターチャンスを逃さないようにゴンドラの同乗者同士が気を使いあっていた。

次のバロンフォールズ駅で下車してバロン渓谷とバロン滝の絶景を短時間で堪能し、後方から流れてくるゴンドラに再搭乗し、バロン川を越えてしばらくすると終点のキュランダに到着した。全体で約1時間程度の空中散歩が終了し、地に足を付けるとキュランダの町の散策へと歩を進めることにした。

キュランダという名前はアボリジニの言葉で「熱帯雨林の村」という意味で、19世紀には鉱山の町として栄えたそうであるが、その名残はかつて町を席巻していたはずの髭もじゃヘルメットマン人形に色濃く残されていたのであった。

観光地化された町の標識を支えるカマキリの案内でショッピングストリートにたどり着くと、土産物屋では非売品のワニの剥製が鎮座し、孫の手の代替品のワニの手が観光客の痒い所を虎視眈々と狙っており、リアルがま口財布の目つきの悪さに一旦たじろいだものの総じて手ごろな価格設定になっていることが確認できた。

特に買う気がなかったのでカンガルーの毛皮の手触りだけ確認して近くのカフェでランチタイムを楽しむことにした。マンゴースムージーに刺さっている竹紋様のストローは紙で出来ており、地球環境に配慮した脱プラスティックの一刻も早い普及が世界レベルで必要になっていることを実感させられた。

キュランダには熱帯雨林トレイルをはじめ、いくつか見所があるのだが、時間の関係で今回はコアラガーデンズ(AU$19)のみに集中してお約束のオーストラリア特有の動物と触れ合うことにした。まずは観光客が来るのを首を長くして待っている亀を威嚇して首をすくめさせると、カラフルな爬虫類コーナーをスルーしてご本尊のコアラ舎に向かった。

通常であれば、観光客がコアラに触ろうとすると係りの人に「コァラ~!}と怒られるのであるが、大金さえ支払えばコアラを抱いて手篭めにしているところの証拠写真を撮らせる仕組みはオーストラリア国内のどこの動物ランドも同じであろう。

その希少価値の無さでオーストラリア国内の動物園ではたいてい放し飼いにされ、自由に餌付けされているカンガルーの語源は、キャプテン・クックがアボリジニの原住民に「この動物は何?」と尋ねたところ、原住民は特にカンガェル~こともなく「カンガルー」と答えたそうだ。尚、当時のアボリジニの言葉で「カンガルー」とは「何言ってるのかわからん」という意味だという説があり、マサにキャプテンと原住民のコント仕掛けにより命名された動物だと言えるであろう。

コアラの鎮座するユーカリの木の下には小型のワラビーのクオッカが佇んでいるのだが、その愛らしさゆえに取って食ぉっかとは決して思ってはいけないのだが、池にいるワニは自由にスッポンを追い回してよいシステムにはなっているようだった。

コアラに別れを告げ、園外のガーデンのカフェにたむろするイグアナとお近づきになった後、木陰を散策していると第二次大戦中に墜落したDouglas社製の飛行機の墜落現場が保存されている光景を目の当たりにし、ANAが書き入れ時に多数の欠航便を出してまでエンジンの整備・点検を行い、安全確保している姿勢に敬意を表さずにはいられなかったのだ。

ケアンズへの帰路はキュランダ鉄道駅から15:30発のシーニックレールウエイに乗車することになっていたのでレトロな雰囲気の客車12号車の指定席に腰掛けて出発の時間を心待ちにしていた。客車内のシート配列は峡谷が見える側4列のみだったが、あいにく峡谷フロントとは反対の法面ビューの席だったため、絶景が現れてもタイムリーにシャッターを切ることは難しいと思っていた。

キュランダからケアンズまでの34kmを1時間45分かけて遅走する列車の車窓には熱帯雨林の山の斜面に開けた絶景が次々と現れる。出発して程なくするとバロンフォールズ駅に停車し、観光客はここで一時下車して展望台風に造られたプラットフォームや見晴台から滝や列車の写真を撮ることが出来るのだが、地味な色合いの客車を引っ張るディーゼル機関車の車体には熱帯雨林に棲むカーペットスネークをモチーフにしたアボリジニの絵が緑の魔境と絶妙なコントラストを形成しているのが印象的だった。

ヘアピンカーブに差し掛かる前には社内アナウンスで写真撮影スポットが近いことが告知され、牛歩戦術で進行する列車の車窓から観光客は一斉にシャッターを切っていた。列車はケアンズ近郊のFreshwater駅でツアー送迎車に乗り換える多くの客を降ろし、定刻17時前には無事ケアンズ駅に到着し、流れ解散となったのだった。

7月17日(火)
G.B.R.、それは日産ファンが信奉するGTRではなく、オーストラリアの代表的な世界遺産、グレート・バリア・リーフのことである。全長2,600kmを超える世界最大の珊瑚礁地帯G.B.R.に最も手軽にアクセス出来るケアンズ沖合い27kmに浮かぶグリーン島への1日クルーズがツアーランキング不動の1位になっているので当然のことながら参加予約者に名を連ねていた。

8時5分にホテルに迎えに来た大型バスに乗り込むといくつかのホテルで予約者をピックアップしながらリーフ・フリート・ターミナルへと向かった。グリーン島へのツアーはGreat VenturesとBig Catの2社が催行しているのだが、ボンに敬意を表してBig Catを選択していたのでツアー窓口のカウンターでバウチャーを出して搭乗券を入手すると巨大な緑の船体のクルーズ船に乗り込んだ。

さわやかな晴天の下、定刻9時に出発となったBig Catは毎日目にしている大猫のすばやい動きとは裏腹にゆっくりとした速度で波を切っていた。船が進行している間にツアー客は船体後部のデッキでツアーメニューに含まれているスノーケルセットを調達するのだが、配布する側のクルーズのスタッフは客の様子を一瞥すると一瞬でサイズを割り出し、適切なサイズのマスクとフィンを次々に渡して行ったのであった。

約1時間15分の航海でG.B.R.の島としてはめずらしい純サンゴの島グリーン島に到着した。長い桟橋の最先端に横付けされたBig Catを下船するとあたりは一変して青い海のパラダイスとなり、果てしなく透明度の高い海に取り囲まれることになる。

強い風に吹かれながら、まずは島への上陸を急ぎ、ユネスコ世界自然遺産の表示でテンションを上げているとナンヨウクイナという飛ぶことよりも走ることが得意な鳥から歓迎を受けた。近くのビーチではすでにスノーケル教室の看板が掲げられ、多くの観光客はすでに波に身を任せていた。

今回予約したツアーに含まれるメニューとしてグラス・ボトム・ボートがあり、11時45分からの便に乗ることになっていたので島のカフェで軽くコーヒーを飲んだ後、急ぎBig Catに戻り、何故かFTBが乗るべき日本語解説付きの便よりも早い便に乗るはめになってしまったのだが、運転手兼ガイドは自分の英語はSecond Languageだと言い張る日本人女性であったのだ。

強化ガラスを通して見るG.B.R.の景色は目を見張るものがあり、様々な種類のサンゴがガラスのフレームに姿を現しては消えていった。。砂地に生えている水草を主食とする海亀も高確率で見られたのだが、運転手兼ガイドは海亀の姿をロックオンしたまま海上で船を停止させるという高等技術までは持ち合わせていなかったのだ。

約30分のグラス・ボトム・ボートツアーの最後を飾るのは、海上に餌を撒いて魚や鳥を集めてそのじたばたぶりを見物するというものであったのだが、巨大な魚が我先に餌にありつこうとする様はマサに弱肉強食の世界であった。

島に戻ると丁度昼飯時となったので島内随一のファイン・ダイニングであるエメラルド・レストランでスモークド・サーモン乗せベーグルとWagyuという名のオージービーフバーガーを高値で発注した。バーガーが出てくるのに長時間を要したものの、その味は決してWagyuの看板を汚すものではなかったのだ。

空腹も満たされたところでスノーケルギアを片手にビーチに移動し、軽く水中散歩と洒落込むべく海に身を投じたのだが、思ったより海水温が低くビーチの周辺は砂地で魚も泳いでいなかったので早々と撤収を決め込み、次のアクティビティに向けてBig Catへ戻ることにした。

Big Catの後部のデッキはグラス・ボトム・ボートとSemi-Submarineという半潜水艦を密着させて乗客の乗り降りがスムーズに行われるようになっている。スノーケリングで濡れた体を乾かす暇も無く、14時45分発のSemi-Submarineの狭い螺旋階段を下りて最前部のスクリューフロントの特等席に陣取ると早速窓の横に巨大な魚がお目見えとなった。

ツアーガイド気取りの巨大魚は出航から帰還まで休むことなく先頭の窓位置をキープしていたので目が合ったときに少し避けてくれと目配せをしたのだが、最後まで潜水艦の盲導魚の職務をまっとうしてくれたのであった。

G.B.R.の魚の勤勉さに胸を打たれた頃、ツアーは終了の時間となり、15時45分にグリーン島を後にすることになった。グリーン島周辺の珊瑚礁は種類は多彩だが、そんなにカラフルではなかったようだが、松田聖子が推奨するはずの♪青い珊瑚礁♪だけは♪素肌にきらきら♪かがやいているようだった。尚、ビーチの♪渚に白いパラソル♪を立ててリラックスしたり、高級リゾートホテルであるはずのグリーンアイランド・リゾートホテルに宿泊して♪渚のバルコニーで待ってて♪といった待ち合わせ状況を作り出すことも十分可能なので次回訪問の際には検討してみたいと思っている。

定刻17時にケアンズに帰港し、ツアーに大満足だった参加者は下船後ツアークルーとハイタッチを交わしてそれぞれの帰路に着いていた。ホテルに戻って体に付着した塩分を除去すると夕飯時になったのでホリディインのレストランで産地の食材を賞味することにした。特に印象的だったのはカラマリと言う名のイカのリングフライだったのだが、有名シーフードレストランでもカラマリの味はからまわりすることが多い中、ここのイカは味といい、やわらかい食感といいマサに絶品中の絶品と呼ぶにふさわしい代物だった。

7月18日(水)
短い期間であったが、まる3日間でケアンズのエッセンスを吸収出来たのでロビーで呼んでもらったプリウスタクシーで空港に戻り、免税品店で機内食や飲み物が有料のLCC対策の飲食物を仕入れた後、定刻13時発JQ15便は遅れを出すことなく、19時30分には関西国際空港に戻って来れたのであった。関空の551で豚饅をほおばりながら、頻繁に発生する懸念のあるスケジュールの大幅な変更や欠航さえなければコスパの高いLCCでオーストラリアを旅行するのは結構なことだと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 Jetstar = ¥65,220、ANA = ¥25,880
総宿泊費
総Cairns Reef Tour – Full day Green Island Pak3 Semi-Submarine代 AU$117.-

総タクシー代 AU$35.5
総オーストラリア電子ビザ代 US$9.95

協力 ANA、Jetstar、IHG、Big Cat

FTB MLBフォーカス レジェンドと二刀流世代交代ツアー in バンクーバー&シアトル

ボンよ、イチローが古巣マリナーズと契約したのは2018年3月7日のことであった。この契約発表がなされるや否やFTBは他の旅行代理店に先駆けてゴールデンウィークのシアトルMLBツアーを企画し、即日航空券の発行まで行うという電光石火の早業を見せたのであった。ついでにまだ行ったことがないカナダのバンクーバーにも立ち寄るオプション付きやった。

2018年5月2日(水)
午後9時50分発NH118便羽田発バンクーバー行きに乗るべく、7時過ぎに空港に着いたのはよかったのだが、ANAのカウンターでカナダ入国の電子ビザは取得していますかと聞かれ、自信を持ってしていないと答えたところご丁寧にとなりの椅子席に案内され、タブレットを渡されて無事にeTA (Electric Travel Authorization)をサクッと取得出来たのであった。

ANAのSUite Loungeで少しは高級なはずの和牛ステーキの小さいやつを食して夕食とすると機内では頭の中を3回転半くらい回してひたすら意識を失うことに集中し、同日午後2時過ぎには浅田真央やキム・ヨナも来たことがあるバンクーバー国際空港に到着した。空港からスカイトレインなる鉄道に乗り、わずか20分程度でダウンタウンの中心部に侵入するとグランビル・ストリートという南北を貫くメインストリートを南下して予約済みのHoliday Inn & Suite Vancouver Downtownに無事にチェックインと相成った。

初春のブリティッシュ・コロンビアの晴天につられるようにホテルから足を踏み出すとグランビル・ストリートをさらに南下してグランビル・アイランドを見下ろす大橋を渡り切り、ぐるっとUターンしてバンクーバー有数の観光地に成り上がっているグランビル・アイランドへと足を踏み入れた。

グランビル・アイランドはグランビル・ストリート(大橋)の真下にある小さな島で、昔は工場街として発展したそうだが、一旦さびれた後、観光スポットとしてV字回復を果たした楽しいことが満載の場所である。船着場には大小様々のクルーザーが繋留されており、釣ったばかりの魚を洗浄しているおっさんやレストランで自ら食材になろうとしているかのように振舞っているいいカモも見受けられた。

最大の見所は何といってもグランビル・アイランド・パブリック・マーケットで新鮮な魚介類、肉、野菜、果物、メープルシロップのような地元の特産品がそこそこの価格で売られており、地元の住民だけでなく、観光客も遠慮せずに財布の紐を緩めることが出来るのである。

夕飯時になったのでマーケット内のフードコートでファストフードを掻き込むか、洒落たレストランでスローフードを良く噛んで食べるべきか迷ったのだが、ツアー初日ということもあり、消化器官への負担も考えてスローを選択することにした。Fish Companyという新鮮な魚しか扱ってないはずの小洒落たレストランの窓辺に席を取り、地元のビールと今日のスープ、生牡蠣、魚の3点盛をじっくりと味わい、優雅なディナーを十分に堪能させていただいたのだった。

腹ごなしのために再びアイランド内をぶらぶら歩いていると現役の工場らしき場所に行き当たった。そこの設備には斬新なポップアートが施されており、多くの観光客がゲートの前で足を止めていた。便所を借りるために再びマーケットに戻ったのだが、午後7時が終了時間ということで、重たい膀胱を刺激しないようにさっき飯を食ったばかりのレストランに引き返し、担当してくれたウエイトレスにお願いして個室に駆け込んだのだった。

5月3日(木)
時差ボケの影響を受けずに朝まで生眠り出来たのでホテルで高値の朝食を取った後、近場の観光に繰り出すことにした。グランビル・ストリートを北上し、途中目抜き通りのロブソン・ストリートを闊歩し、ウォーターフロントへ向かった。

バンクーバー・ハーバー・フライト・センターで水上飛行機の離着陸を見物し、シーウォール・ウォーター・ウォークを「ウォ~!」と叫ばずに歩いてバンクーバー最強の観光地であるスタンレー・パークへ向かった。

スタンレー・パークはダウンタウンの北西に広がる広大な自然公園で、どの観光ポイントから手を付けて良いかわからなかったのでとりあえず公園入り口のInformation近くでアイドリングしている馬車で1時間の観光(CAD45)をかますことにした。装備してないはずのシートベルトを締めるようにとの洒落でスタートした馬車ツアーはガイドギャルの弾丸トークでバンクーバーの歴史や近辺の見所情報が語られた。園内の最大の見所である広場で5分間の猶予が与えられ、観光客は馬車を降りてトーテムポールとの記念撮影に躍起になっていた。

馬糞の香りに慣れた頃合に1時間のツアーも終焉を迎えたので、馬車を降りて今来た道を馬車馬のようにむやみに歩いて見ることにした。園内を流れる細い川にはSALMON CROSSINGというサケの繁殖地としての復活を期する黄色看板が掲げられ、サケとの衝突を避けるような注意が促されている。海沿いのビューポイントには一見コペンハーゲンにある世界三大がっかり世界遺産の人魚姫に見える人間姫(Girl in a Wet Suit Statueという)が岩の上にインストールされており、園内の自然に対するひとつのアクセントになっているようであった。

広い園内をすべて網羅出来たわけではないが、この時期は総じて花々が美しく咲き誇り、散策や休息には最適の観光地であることは疑いようもない事実であった。

スタンレー・パークからダウンタウンに戻る散策路には珍しい形をした立ち木や倒木が写真撮影スポットになっているのだが、私が一番印象に残ったのは用途不明の足長高床式小屋であったのだ。

散策も一段落したところで地元のビール醸造所系レストランでフルーティな地ビールと揚げ物をつまんだ後、Canada Placeという比較的新しげなくつろぎ広場をさまよった。野生のがちょうがCanadian Familyとして認定されているこの場所では卵をあたためているがちょうに「がっちょ~ん!」というような刺激を与えてはならないため、静かに退散させていただくしかなかったのだ。

休息を取るためにホテルに一旦戻り、何気なくYahoo Newsをチェックするとミズノプロの黒バットで後頭部をジャストミートされたような衝撃的なニュースがスポーツ欄を埋め尽くしていた。シアトル・マリナーズはイチローがジジロ~になるまで選手として使い続けると信じて疑わなかったのだが、今年は選手登録を外して会長付き特別補佐に就任するというではないか!このニュースが出た瞬間にGWイチローv.s大谷観戦ツアーを組んだ大手旅行会社である日本旅行、近ツリ、JTB、FTB等には抗議の電話が殺到し、「てるみくらぶ」の二の舞になるのではないかと懸念されたのだが、いずれにしても今季のレジェンドと二刀流の共存共栄は見られなくなってしまったのである。

失意のうちにホテルを飛び出し、チャイナタウンで暴飲暴食をして溜飲を下げようと思ったのだが、適当な場所が見つからなかったのでバンクーバー発祥の地であるガスタウンで蒸気時計を眺めながらガス抜きをするしか鬱屈する気持ちを静めるすべがなかったのだ。

5月4日(金)
昨日の快晴とはうってかわり、今朝はイチローロスとともにどんよりとした空気に支配されていた。宿泊しているホテルはシアトル行きバスの発着地になっているので9時半発のバスに乗り、国境を超えて一路シアトルを目指した。シアトルダウンタウンにあるコンベンションセンターに1時半頃到着するとHoliday Inn Seattle Downtownにチェックインを果たし、早速シアトル最強の観光地であるパイクプレイスマーケットの様子を見に行くことにした。

屈強な男が魚番をしている脇を通り過ぎて早めの夕食をとるためにとあるシーフードレストランにしけこみ地元のIPAビールでCrab Biscuitやサーモンソテーを流し込んで空腹感を解消し、Pike Streetにある1号店ではないスターバックスでコーヒーを飲みながらしばしくつろぎ、球場へ行く時間を見計らっていた。

シアトル・マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに到着したのは試合開始1時間前の午後6時くらいであったろうか。球場を彩る外壁にはまだイチローの写真が残されていることに安心して入場すると三塁側内野席の前方に席を取った。永久欠番選手の名前をあしらったホームプレートが3枚遠巻きに眺められたのだが、4枚目の51番の掲示が遅くなればなるほどイチローのライフが伸びるはずであろう。

今夜はスターウォーズナイトということでスターウォーズの人気キャラクターが試合前のグラウンドを闊歩しており、選手紹介の大型ビジョンもスターウォーズバージョンが徹底されていた。

イチロー目当てで来場した日本人観光客の救いとなったのはエンゼルス大谷の天使のような活躍であった。5番指名打者大谷がコールされると場内にはこの日最大のブーイングが沸き起こり、エンゼルスと最後まで獲得を争ったマリナーズが逃した魚の大きさを思い知らされた。エンゼルス入団の決め手となったのはやはり二刀流をやりたいという大谷の申し出に対してエンゼルスのマイク・ソーシア監督が「そ~しや!」と気持ちよく承諾したことであったろう。

右打者の強打者がずらりと並ぶエンゼルスの打線の中で左打者の大谷が5番に座ることで打線のバランスが格段によくなっている様子で、この日の大谷はクラブハウスで見ているはずのイチローにいいところを見せようと発奮して4打数2安打の活躍でチームの勝利に見事に貢献したのであった。

大谷の活躍よりさらに大きな出来事が起こったのは試合中盤のエンゼルス4番打者のアルベルト・プホルスの打席であった。イチローと同じ2001年にメジャーデビューを果たし、同年のナショナルリーグの新人王を獲得した長距離打者のプホルスはこれまで2999安打を重ねており、シアトルで3000安打を打つことが確実視されていたので多くのエンゼルスファンが球場に駆けつけていた。

2打席目でライト前へ渋いヒットを落としたプホルスの元にエンゼルスの選手全員が駆けつけ、祝福のために試合は中断となったのだが、次打者の大谷はその喧騒をものともせず、レフト線にツーベースヒットを放ち見事に花を添えたのであった。

試合途中で球場内通路をうろつき、イチローグッズがもはやディスカウント価格で販売されているのではないかとひやひやしながら歩き回っていたのだが、それどころかイチローの栄光の歴史を彩るコーナーが開設され、そのレジェンドぶりに益々拍車がかかっている様子だったので安心して球場を後にした。

5月5日(土)
シアトルに遠征に来ている大谷率いるエンゼルスの選手達はまぎれもなく「ホテルニューオータニ」クラスの高級ホテルに宿泊しているはずであり、それらをしらみつぶしにあたれば大谷の出待ちをしてサインを入手することも可能かも知れなかったのだが、今朝もやはりパイクプレイスマーケットでまったり過ごすことにした。お決まりの観光コースとなっている1912年開店のスターバックス1号店はすでに長蛇の列をなしていたので入店を断念して海沿いの景色を眺めていた。

ブランチを取るために比較的すいてそうなシーフードレストランに入ってお約束のシーフードチャウダーやサーモンバーガー等を賞味させていただき、短い時間だがシアトルの休日を十分に満喫させていただいた。

今日の試合は午後6時10分開始ということで昨日より早めに球場に到着したのだが、翌日の先発投手としての準備のためにエンゼルスは大谷ロスの打順を組むことを余儀なくされていた。試合はシーソーゲームの展開であったが、延長戦の末マリナーズがサヨナラ勝ちを収めたので今夜はシアトルファンが溜飲を下げる番となった。

シアトル・マリナーズにはイチローだけでなく、過去数多くの日本人選手が在籍した実績がある。レフトセンター間の客席の下にブルペンがあり、その近辺のThe PENというコーナーで過去のリリーフ投手の栄光のパネルが展示されているのだが、、2000~2003年に在籍し、129セーブをあげた佐々木も一角に名を連ねており、その大魔神ぶりがシアトルファンの心に深く刻まれていることが確認出来たのだった。

5月6日(日)
会長付き特別補佐という要職を手にしたイチローは来年東京ドームで開催されるマリナーズの開幕戦出場を念頭に、それまでに劣化しないように冷凍保存されるようであるが、本来は今日この日に投手大谷とイチローの対決を期待して多くの日本人観光客がシアトルを訪れている。大谷も怪我の影響で登板日がずれたりしたのだが、何とか今日のデーゲームでマウンドでの勇姿を見せるということで舞台は整ったのである。

三塁側観覧席、前から6列目、マサに大谷フロントと言っても過言ではない良席に陣取ったFTBご一行は大谷がベンチから出てくるのを一日千秋の思いで待ち構えていた。試合開始30分前についにその193cmの巨体が姿を現すと三塁側のにわか日本人街は大歓声に包まれた。

レフトの芝生の上でウォーミングアップを開始した大谷はマサに貫禄十分でこれから始まるShotimeに向かって球場の雰囲気は徐々に高まっていった。

一方、マリナーズの先発投手も最大の強敵と言えるThe Kingの順番となっている。サイヤング賞をはじめ多くのタイトルを獲得しているマリナーズの絶対エース、フェリックス・ヘルナンデスの登板日には三塁側アルプススタンドはKING’S COURTに変貌を遂げ、ヘルナンデスが三振を取るたびに多くの歓声が上がる手順となっているのだ。

午後1時10分にヘルナンデスの一投で始まった試合であったが、ヘルナンデスの苦手な時間帯はヒルナンデス!とでも言い訳するかのように初回に2本のホームランを食らってエンゼルスが先行した。早速援護をもらった大谷はこれまでの登板とは投球パターンを変えてカーブやスライダーを増やし、強打マリナーズ打線を手玉に取っていた。

大谷の快投を援護したのは、すでに2回のMVPを獲得した実績のあるスーバースター、マイク・トラウトであった。守備ではセンター前に飛んできた打球に猛然とチャージし、イチローをしのぐレーザービームで三塁を陥れようとしたランナーを見事に刺し、打つほうではノックアウトされたヘルナンデスに代わったリリーフ投手の出鼻をくじく、虹鱒のような特大のアーチをレフトにかけて点差を5点に広げたのであった。

エンゼルスがワールドシリーズを制した2002年にはティム・サーモンという主軸打者がチームを牽引していたのだが、このチームは魚系の選手が活躍するとチーム状態が良くなる傾向にあるようなのでサーディーンやシャークと言った名前の選手ををトレードで釣ってくれば最強のチーム構成が約束されるはずであろう。

快投を続ける大谷は99マイルの速球と88マイルのフォークボールが冴え渡り、6回まで無得点に抑えたのだが、疲れの見え始めた7回に四球とホームランで2点を献上した後、リリーフ投手にゲームを託すこととなった。

8対2で勝利を飾ったエンゼルスの選手は三塁側ベンチに引き上げ、ベンチ前ではヒーローインタビューも始まった様子で大谷もこの場に呼ばれるはずだと期待する多くの日本人が詰め掛けていたのだが、大谷はすでにチェックアウトしたのか、再びグラウンドに姿を現すことはなかったのだ。

シアトルでのMLBツアーも一段落となったのであらためてダウンタウンに目を向けると以前から存在した不安定なビルはともかくとして新たな高層ビルやユニークな建造物が続々と誕生している様子が目についた。今ではこれなくしてショッピングは語れないほどの存在になったAmazon.comはブラジルのアマゾン奥地ではなく、シアトルに本社を構えており、レジがないAIコンビニと言われているamazon GOの一号店もダウンタウンで開業している。

早速店舗を訪ねて見ると入り口に立つサポート要員にスマホにアプリのインストールを促され、改札にバーコードをかざしての入店となった。適当に買い物をすると自身のamazonアカウントに買い物情報が表示され、金額が引き落とされる仕組みになっているのだった。レジがないということで万引きが懸念されるかも知れないが、アプリにより厳格な入場規制が敷かれているのでダウンタウンを寝ぐらにしているホームレスには門戸は開かれてないようであった。

シアトルのシンボルと言えば1962年の万国博覧会の時に建立されたスペースニードルである。米流通天閣と言っても過言ではないコテコテ系のタワーは今なお多くの観光客を集めており、上階の展望台にレストランでもあれば記念に飯でも食っていこうと思ったのだが、カフェしかないということだったので断念した。その代わりに近辺の人気がありそうなレストランに首尾よく入店し、味噌付き焼き牡蠣やビフテキ、チキン等でシアトルでの最後の晩餐を堪能させていただいた。

5月7日(月)
日本人ツアー客率の高かったHoliday Innをチェックアウトするとダウンタウンからリンク・ライト・レールに乗り、シアトル・タコマ空港に向かった。シアトルからバンクーバーに飛び、バンクーバー空港で名物メープルシロップを仕入れると午後4時15分発NH116便の機上の人となった。

5月8日(火)
機内エンターテイメントで日曜劇場「陸王」を見ながらイチローもあきらめずに走り続けるはずだとの思いを胸に流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥134,590
総宿泊費 CAD558.89、USD617.76
総バンクーバースカイトレイン代 CAD9.1
総バンクーバー・シアトルバス代 USD43
総Metro代 USD15.25
総リンク・ライト・レール代 USD3

協力 ANA、Air Canada、IHG

FTBJうましうるわし奈良ツアー@室生寺&長谷寺

ボンよ、君たちは奈良には世界遺産に登録されていないが、一生に一度は訪問する価値のある古刹が数多く存在することを知っているか!?

ということで、君たちがちょっかいを出している隙間をぬってちょっくらいにしえの奈良まで行ってくることにした。

4月21日(土)
午前10時発ANA019便は羽田空港の混雑により出発が遅れたものの11時半前には新装成った大阪国際空港に到着した。空港の中央に移設された到着ターミナルビルは飲食店の宝庫となっており、丁度昼飯時を迎えたので滑走路ビューのレストランに陣取り、きちんと料理されたチキン定食を食していた。

正午を過ぎて空港のInfomationカウンターに併設されているレンタカーカウンターからニッポンレンタカーの送迎を呼び出したのだが、中々電話が通じない様子で空港はリニューアルしたが、周辺サービスのレベルは落ちたのではないかと懸念しながら到着に時間を要した送迎車に乗り込んだ。軽自動車のダイハツムーブをレンタルすると大阪空港インターから高速に乗り、一気に天理方面まで走っていった。♪うだだ~うだだ~うだうだだ~♪というリズムが頭の中を駆け巡り始めた頃、先人たちが愛した桃源郷を引き継いでいる宇陀市に入ったことに気づかされ、ほどなくすると新緑がまぶしい室生寺の駐車場に到着となったので¥500の駐車場代を支払って参道へと歩を進めた。

この時期にしては気温の高いはずの室生寺周辺は湧き水で潤っているようだったので参拝の前に喫茶「むろう」に立ち寄り湧き水で抽出したアイスコーヒーで体温調整を行い、万全の体制で女人高野室生寺(¥600、JAF割引あり)の門をくぐった。

門番である赤鬼、青鬼が発する氷室京介のような眼光の洗礼を浴び、虚無僧が奏でる尺八から満開のシャクナゲに彩られた寺院内はこれから込むそうだという暗示を受けたので足早に階段を上って中腹の伽藍へ向かった。「威厳」「警戒」「危険」「荘厳」というシャクナゲの花言葉を体現している室生寺ではマムシの出現に注意しながら急な階段を上り下りしなければならないにもかかわらず、多くの老人たちが杖を片手に青息吐息を漏らしながらも信仰心に後押しされて歩を進めていた。

奈良時代末期に建立された室生寺の魅力は、独特の古い文化遺産だけでなく、自然と調和して四季おりおりにうつろう伽藍のたたずまいの美しさである。国宝に指定されている金堂や灌頂堂(本堂)の中には本尊如意輪観音菩薩像をはじめとする数多くの仏像が安置されており、その表情は室井滋のような細面のものからむろつよしの丸顔等さまざまであるが、残念なことに写真撮影は土門拳をはじめとする一流の写真家以外には許可されていないのだった。

シャクナゲに彩られた急な階段の上に東京スカイツリーとは対極をなすはずの総高16.1mのかわいい塔がそびえている。平安時代初期に建立されたこの五重塔(国宝)は屋外に建つ五重塔では最小のもので室生寺のシンボルとして圧倒的な存在感を放っていた。

一般人は通常五重塔を拝見すれば満足して帰って行くかもしれないのだが、さらに長くて急な階段を登った高台にある奥の院までたどり着かないと真言密教のご利益が得られないはずなのでパワースポットとはパワーを消費する場所だとの認識をあらたにして頂上決戦に挑むことにした。原生林に囲まれた奥の院 御影堂(重文)は鎌倉時代の建造物で方三間の単層宝形造、厚板段葺で頂上に石造りの露盤が置かれているめずらしいものであるのだが、拝観終了時間より随分前に堂の扉が閉められてしまったので最後の力を振り絞って登って来た観光客夫婦の円満でない空気を引きずりながらの下山となってしまった。

マイルドな太もものプルプル感と膝の微笑を土産に室生寺を後にすると室生寺・長谷寺春の臨時バスの運行を横目に車に戻り、今旅の次の目的地である長谷寺方面に向かった。長谷寺まで徒歩5分創業150年の天然湯宿である湯元井谷屋に投宿すると早速地下600mより噴出する奈良では珍しい天然温泉に身を委ね、湯上りの体のポカポカ感のはんぱなさにおそれおののきながら奈良の御所で特別に飼育された希少な奈良ブランド合鴨肉「倭かも」鍋を部屋食で堪能させていただいたのだ。

4月22日(日)
長谷寺での最大のアクティビティは午前6時半から始まる朝の勤行である。奈良が誇るスーパースター「せんとくん」を輩出した平城遷都1300年祭を契機に1000年以上絶え間なく続く「祈り」に出会うことが出来る悠久の扉が開かれたはずであったのだが、今回は勤行に参加するチャンスを逸してしまっていたのである。

午前10時前に井谷屋をチェックアウトすると牡丹祭りで賑わいを見せている西国八番大和国長谷寺に馳せ参じた。早速案内所で入山料、特別拝観料および大観音大画軸大開帳拝観料金、合計¥1,800を奉納すると満開になった色とりどりの牡丹の花々を横目に三百九十九段の登廊に挑んだ。

登廊の中腹に月輪院という建物があり、喫茶店のような役割を果たしていたのでここでお茶とソフトクリームをいただいた。店員はすべて修行僧でまかなわれているのだが、発注ミスが発覚したときに何故か「オーマイゴッド!」とつぶやいていた様子で、これぞマサに神仏習合の真髄ではないかと感心させられたのだ。

栄養補給がすんだので体内のボタンを押してスイッチを入れ直すと一気に山の上に駆け上がった。国宝に指定されている本堂には清水寺に匹敵する見事な舞台が設えられており、美しい山寺の景色を眺めながらここで今朝行われたはずの長谷寺の勤行に思いを馳せていた。

長谷寺観音として有名なご本尊は国指定重要文化財に指定されている十一面観世音菩薩立像で室町時代の1538年に再造され、その像高は1018cmを誇っている。本堂の中に立っているご本尊の足元に膝まづき、足元に撫でしがみつくと願いがかなうといわれているのでご本尊の足の甲は常にピカピカに輝いているのだ。

多くの参拝客で賑わう長谷寺の秩序を守るために番犬に重要な任務が与えられているはずであるのだが、無心で横たわりながら修行しているようなので決して手を出してはならないと釘をさされてしまった。正午の時を告げる鐘の音とともに僧侶がその肺活量を誇示するかのように法螺貝を吹いていた。一般人が法螺を吹くのとは次元の違う音色にしばし耳を傾けながらいにしえの奈良時代から連綿と受け継がれる歴史と伝統に思いを馳せていた。

長谷寺の五重塔は室生寺のものと比べてやや大ぶりであるが、昭和29年、戦後日本に初めて建てられたことから昭和の名塔と呼ばれている。その近くには三重塔の石碑とともに桜の木が植えられており、元々の塔は三重県人が誇りとするはずの三重であったことが伺い知れるのである。

本坊大講堂において西国三十三所草創1300年長谷寺記念事業として大観音大画軸大開帳(¥500)が開催されているのでこの機会に拝ませていただくことにした。室町時代に製作されたこの御影は本尊十一面観音菩薩立像を原寸大に画いたもので、室町時代・明応四年(1495年)に羅災した本尊の復興の為に、興福寺の南都絵師法眼清賢が高野紙430枚を継いで設計図として画かれたことに由来するそうだ。その寸法は縦16m以上、横6m以上で重量は125kgにもおよんでおり、特定場所から写真撮影が許可されているのだが、到底全景をフレームに収めることが出来ず、神聖なお顔が写真に写らないように見事に配置されているのであった。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥24,580
総宿泊費 ¥30,240(二食付き)
総レンタカー代 ¥9,580
総高速代 ¥3,270
総ガソリン代 ¥1,019

協力 ANA、楽天トラベル、ニッポンレンタカー

FTBJ長野県地獄谷の奥地に温泉好きのスノーモンキーは実在したツアー

ボンよ、世の中では犬猿の仲と言われているが、猫猿の関係は犬猿ほど悪くないはずなのであえて地獄谷に生息するスノーモンキーの生態を観察するツアーに踏み切らせていただくことにするぜ!

2月3日(土)
ここ数週間にわたって今シーズン最強の寒波が更新され続けてきたようだが、寒い空気を切り裂くように関越道、上信越自動車道を疾走し、信州中野インターで高速を下りるとあたりは高原や山々を覆う雪景色となった。ゆるやかな坂道を登ると志賀高原の山裾にたたずむ上林温泉に到着し、近辺の駐車場に車を乗り捨てると地獄谷野猿公苑入り口の看板を掲げたゲートをくぐって行った。

ここから30分かけて雪道を歩くことになったのだが、冬のソナタを彷彿とさせるような景色を見ながら歩いていると寒さは特に気にならず、いつのまにか地獄谷のふところに抱かれていた。僻地の一軒宿の入り口には氷柱(つらら)の鋭い刃先が観光客に照準を合わせるかのようにぶら下がっており、串刺しにならないように注意しながら本日の宿泊先である「日本の秘湯を守る会」に名を連ねる地獄谷温泉後楽館に入館を果たした。

決して愛想が良いとは言えない宿の主人に宿泊設備と猿に対する注意事項の説明を受けるとガスファンヒーターが燃え盛る古びた部屋に案内された。共同トイレと洗面所の蛇口の水は凍結防止のために出しっぱなしにしなければならないことを肝に銘じると早速秘湯中の秘湯と称される源泉掛け流しの露天風呂に身を任せることにした。

夕方4時を過ぎたたそがれ時の景色は何とも言えない風情があり、露天風呂の目の前で噴気を上げる天然記念物渋の地獄谷噴泉はデビュー当時の郷ひろみが♪君たち女の子♪と歌ってもゴ~ゴ~という音しか返してくれなかったのだ。

地獄谷温泉後楽館の露天風呂は、世界で最初に猿が温泉に入った由緒正しいお風呂であるということで、早速冬毛に覆われた赤ら顔の集団に取り囲まれてしまった。世界で唯一猿と混浴が出来るということで湯船の中央で湯あたりの恐怖と戦っている私は猿が入ってくるのを今か今かと待ち構えていたのだが、「裸のサル」である人類の存在と猿の気持ちとの距離を縮めるには至らなかった。結局サルものは追わずという結論に達した頃には体もいい具合に茹で上がっていたのでツルすべになったお肌を土産に風呂から上がることにした。

夕食は質素だが、岩魚、野沢菜漬け、鴨鍋、地野菜のてんぷらとバランスの取れたメニューで、スノーモンキーを追いかけて後楽館の常連となっている外国人観光客も足のしびれをアルコールで紛らわしながら非日常空間を楽しんでいたのであった。

2月4日(日)
今朝は猿の出勤が遅いとぼやきながらご飯と味噌汁を配膳している宿の従業員を尻目にそそくさと朝食を掻き込むと重くなった腹をかかえながら露天風呂に向かった。のんびりと湯に浸かるつもりだったのだが、そこはインスタ映えを狙っているはずの欧米人カップルのパラダイスと化していた。混浴露天風呂は写真撮影も水着着用も特に規制されていなかったので水着を着た男女は全裸で堂々と入ってくる日本男児とは裏腹に湯船の内外をフットワーク良く動き回っていた。

猿たちは相変わらず温泉には入って来なかったのだが、暖かい温泉が通っているパイプにしがみつきながらぬかりなく暖を取っていた。地獄谷に位置する露天風呂は高台にある野猿公苑から丸見えになっているため、列をなして開苑を待っている観光客にお宝を見られないように注意しながら猿とのパイプを構築出来ないかと躍起になっていた。

後楽館をチェックアウトすると凍った道に足を取られないように最新の注意を払いながら地獄谷野猿公苑(¥800)の門をくぐった。10時前という早い時間にもかかわらず、高級そうなカメラを抱えた自然写真家たちが温泉周りのベストポジションを占拠しており、過酷な環境の中で訪れるかどうかも分からない一瞬のシャッターチャンスを逃すまいと緊張感を漂わせていた。1964年に開苑した野猿公苑は標高850mの高地で噴煙を上げる地獄谷で、餌付けされているとはいえ、自然に近い形でニホン猿を観察出来るファシリティで1998年の長野オリンピックを契機として世界中から多くの愛好家を集めている。苑内の温泉は猿専用として作られたものであるが、猿が温泉に入るのは単に地獄谷の厳しい冬の寒さをしのぐための手段に過ぎず、必ずしも写真家の思惑通りの入浴シーンが撮影出来るわけではないのである。

事実猿たちは温泉を取り囲む観光客の合間を縫って入浴するそぶりは見せるのだが、それはあくまでもフェイントで人類をあざ笑うかのように遠ざかるという挙動が何度も繰り返された。ここでの主なアクティビティはスノーモンキーの観察ではなく、猿の一挙手一投足に一喜一憂することしか出来ない人類の無力さを思い知ることではなかろうかと考えながら野猿公苑を後にした。

低体温症もどきの体を常温に戻すために後楽館のロビーのストーブ前に陣取っていると出会った時は愛想が良くないと思われた宿の主人が色々と話をしてくれた。海外から来る後楽館の宿泊客はほぼ常連であり、毎年ほぼ同じ時期に連泊していくという。旅館の周辺を寝ぐらにしている猿もいるそうだが、彼らの頂点に立っているボス猿は何と宿の主人であるという衝撃の告白まで披露してくれたのだった。さらに野猿公苑では猿の数より人間の数が多いので落ち着いて猿を観察したいのであれば、後楽館に宿泊するのがベストだという宣伝も忘れなかった。

自分の中に内在されていた猿好きの特性を思い起こさせてくれた地獄谷を後にすると高原からの坂道を下って長野市の中心にある善光寺で人間性を取り戻すことにした。信州くんだりまで来て名物のそばを食わない手はないので¥950もの大金を支払ってなめこそばを流し込むと若い頃の私の肉体をほうふつとさせる筋骨隆々の金剛力士像に挨拶をして善光寺詣でをさせていただくことにした。

約1400年の歴史を誇る古刹をひととおり見てまわったのだが、寒波の影響で池が凍りついており、水子観音まで氷子観音へと変貌をとげていたのであった。

FTBサマリー
総高速代 ¥5,820
総ガソリン代 ¥7,252
総宿泊費 ^¥27,136b(二食付き、二人分)

協力 Booking.com

♪ようこそここへ♪ サグラダ・バルセロナツアー

ボンよ、これまでの長いFTB史の中で意外にも世界の人気観光地ランキングで常に上位に位置しているバルセロナに行ったことがないという汚点をどうしても埋めておく必要性に駆られたため、正座をして留守番をお願いしている間に軽く行ってみることにした。

2018年1月1日(月)
午前11時成田発ブリュッセル行きNH231便は定刻どおりに出発し、機内エンターテイメントの連続ドラマ「小さな巨人」を見ながら言葉の通じない国で意思疎通を図るための表情作りの極意を香川照之等の過剰な演技から読み取ろうと躍起になっていた。到着したブリュッセル空港はまだクリスマス気分も抜け切れていない様子で国の名産品であるはずのチョコレートが巨大なツリー状の形に成型され、その香りで観光客を引き付けていた。

ブリュッセル航空とのコードシェア便NH5147便は午後6時半に出発し、2時間のフライトでバルセロナ・エル・プラット空港に到着した。早速空港バスに乗り込むと約30分でスペインからの独立を画策しているカタルーニャ州の州都バルセロナの中心地であるカタルーニャ広場に到着した。広場に近いホテルを予約したはずだったが、すでに方向感覚を失ってしまっていたのでGoogle mapのお世話でかろうじてHotel Indigo Barcelona – Plaza de Catalunyaに到着することに成功したのだった。

1月2日(火)
さすがに世界有数の観光地だけのことはあり、バルセロナの主要観光地を巡るためにはあらかじめWebでオンラインチケットを購入しなければならない。まずは一人当たり7ユーロの支払いで午前11時に入場予約をしておいたグエル公園(世界遺産)を訪問することにした。

ちなみにバルセロナを代表する建築家は地元カタルーニャ出身のアントニ・ガウディであるが、実業家のエウゼビ・グエルはガウディのパトロンとして大枚をはたいてガウディの才能を利用し、並外れた芸術的な建築作品を生み出して行ったのだった。

グエル公園は当初の計画ではバルセロナを見下ろす山の手に60戸の住宅を造成し、イギリス風の田園都市を造ろうと構想したのだが、資金難で計画が頓挫し、公園として生まれ変わった成果物が世界遺産に登録されて多くの観光客から入場料をせしめているというマサに「災い転じて福となす」お手本のような代物なのだ。

ここでの見所は「ヘンデルとグレーテル」に出てくるお菓子の家をイメージしたといわれる正門や途中で有名なトカゲの噴水で記念写真を撮ることの出来る大階段、ギリシア神殿をイメージしたドーリア建築の柱で上部の中央広場を支えている市場である。

息を切らせて山の手の高台に登るとバルセロナの市街地と地中海まで一望することが出来、巨大クレーンで飾られたサグラダ・ファミリアも遠巻きに眺めることが出来るのだ。

グエル公園から下山するとデビュー当時の桜田淳子を思い起こさせる♪ようこそここへ♪サウンドが右耳から左耳に流れていった感覚を覚え、ふと頭上の看板を見るとサグラダ・ファミリアへ向かう矢印が示してあったので♪クッククック♪と笑いを噛み殺してバルセロナ最強の観光地へ急ぐことにした。

♪私の青い鳥♪は飛んでいなかったものの抜けるような青空に向かって伸びている4本の塔を目の当たりにした時には言いようのない感動を覚えてしまった。建築スケジュールが短縮され、竣工がガウディ没後100年の2026年に前倒しになったとはいえ、建築中の建物には目障りなクレーンが仮インストールされているため、緊張感を維持しながら周囲を巡ってあらゆる角度からその雄姿を堪能させていただいたのだった。

サン・ホセ帰依者教会の本堂として1882年に着工、翌1883年には初代建築家ビリャールからガウディに引き継がれ、今なお建設が進められているサグラダ・ファミリアの定番の見学コースはまず何よりもウエブで時間指定のチケットを事前購入するところから始まるのだ。FTBが少量購入したチケットはTOP VIEWというタイプで日本語対応のオーディオにガイドされた聖堂内部の見学と鐘塔にも登れるコースで1人あたり29ユーロもの大金がクレジットカードから引き落とされることになる。

メールで送られてきたバーコード付きのチケットを握り締めて定刻午後3時に意気揚々と聖堂の内部に侵入したのだが、塔へ登るエレベーターの前にはロープが張られ係員のセニョールから今日は風が強いためエレベーターは運行停止になっているとむなしく告げられてしまった。何本ものクレーンが活躍する建築現場の光景を思い出し、万が一の事故を考慮して風に対しては敏感になっているので致し方ないと納得して引き上げようとすると、セニュールは塔に登れなかった分の代金は後日カードに払い戻しされるとのたまい、実際に数日後に7ユーロが返金となっていたのだった。

竣工成ったあかつきには必ず塔に登るという決意をして気を取り直し、あらためてオーディオによるガイドでツアーを開始することにした。ツアーの最初はサグラダ・ファミリアの3つあるファサードのうち唯一ガウディ自らの指揮で1930年に完成した「生誕のファサード」を見上げて恐れおののくことである。生命の始まりということもあり、生誕のファサードは太陽が昇る東側に面しており、イエス・キリストの生誕と幼少期の出来事が精緻な彫刻で表現されている。

聖堂の内部はガウディ建築のエッセンスが詰まった空間で、樹木のように枝分かれした柱は構造上の利点があるだけでなく、神との一体化を擬似体験できる森のようになっている。2010年の完成時にはローマ法王ベネディクト16世を迎え、正式にカトリックの教会として認定された儀式が催されたのだが、法王もガウディ最大の傑作を目の当たりにして「ほ~お~」と感心したのはまぎれもない事実であろう。

内部の構造を存分に堪能した後、西側から外に出てイエス・キリストの死がテーマとなっている「受難のファサード」を見上げていた。ガウディによる原画を元に1954年に建設が始まったのだが、ほぼ完成形に達しているようで磔にされたイエスが覆いかぶさってくるような威圧感でしばしその場に立ちすくんでしまったのだった。

見学の最後にガウディが残した聖堂のスケッチや模型、建築の経緯を追った写真等が展示されている地下博物館にもぐることにした。晩年のガウディが泊り込んでいた作業場は現在では♪しあわせ芝居♪の舞台裏のようなラボとなっており、建築の工期の短縮を可能にした3Dプリンターが彫刻のモデルを精巧に作りこんでいた。

今回は塔に登ることが出来なかったので日本人彫刻家の外尾氏が製作したフルーツの実の彫刻を見ながら桜田淳子よろしく♪去年のトマトは青くて固かったわ♪と♪気まぐれヴィーナス♪のメロディーを奏でることは叶わなかったが、某新興宗教に入信している桜田淳子が♪17の夏♪に♪リップスティック♪を塗って、この地を訪問した実績はないはずだと思いながらサグラダ・ファミリアを後にした。

世界中にファンを持つFCバルセロナの本拠地ということもあり、町のあちこちにサッカーのポスターが貼られているのだが、スーパースターのメッシの写真がメシ時を教えてくれたのでスペイン人の社交場Bar(バル)で小腹を満たすことにした。店主に飲み物を注文し、お皿を受け取るとピンチョス(薄切りパンの上に具をのせたバスク地方のタパス)を手当たり次第に召し上がったのだが、狭くて観光客で込み合っている店内を自在に動くことが出来なかったので多くの種類を食すことが出来なかったという不満が残った。会計はつまようじの数をカウントするのだが、いっそのこと回転寿司のようなコンベアを導入してくれれば来店客に均等にピンチョスが行き渡るはずであろう。

1月3日(水)
芸術の町バルセロナでは一般にアールヌーヴォーとして知られる19世紀末芸術も花開き、モデルニスモ建築を代表する建築家としてモンタネールがガウディとは異なる個性を発揮していたのでその代表作を見学させていただくことにした。地下鉄サグラダ・ファミリア駅で下車し生誕のファサードを仰ぎ見た後、斜めに延びる街路の向こうに荒鷲のような羽を広げた重厚な建物が立ちはだかっていた。

サン・パウ病院として知られるサン・パウモダニズム区域(10ユーロ、世界遺産)はモンタール最大のプロジェクトとして1902年に着工し、1930年に完成しており、1916年から2009年まで実際に病院として使われていた。

完成当時のこの区域の建築群は、病院建設において活気的な作品となっていた。オレンジの木が生い茂る患者に優しいはずの庭園に囲まれ、分離された個々の美しい建物が地下を巡るトンネル網によって相互に連結された内外の空間は、マサに患者への最大限の配慮と快適性を追求することを目的に設計されている。

見学可能な8棟の建物の中で中央に位置するものは手術室であるが、ファサードには、著名な医師らの姓が書かれているのだが、かろうじてドクターXの痕跡らしきものは目にすることが出来たのだった。

建造物の内部に目を移して見ると、あまり快適そうに見えないベッドが並んでいる入院設備とは裏腹に、いたるところにあしらわれているステンドグラスやタイルなどの装飾を見上げると、「芸術には人を癒す力がある」というモンタネールの信念が垣間見えるのだった。

バルセロナに到着してからというもの、スペイン料理の王道であるはずのパエリアの看板を掲げるおびただしい数のレストランをスルーしてきた。昼飯時になった頃を見計らい、大通りにあるカフェに突入し、イカ墨パエリアとサラダを食したのだが、普通にうまかったのだ。

地中海の恵みが胃腸の中で蠢いている感覚を引きずりながらガウディの代表作の一つである世界遺産マンションカサ・ミラの前に立っていた。マンションの中を見る価格としては破格であるはずの25ユーロを支払い、吹き抜けの天井からのぞく青空を見て、見学コースに設置されてあるエレベーターに乗り込んで屋上へと上がっていった。

カサ・ミラは石を積み上げたような独特の形状から、石切り場を意味する「ラ・ペドロラ」とも呼ばれている。山がテーマということでゆがんだ曲線を主張するこの建物は徹底的に直線を排除しているので私もまっすぐな気持ちで向き合わないように注意しながら特徴のある構造物を見て回った。

屋上の煙突は、山の尾根から突き出た峰峰を表しており、遠くの景色はサグラダ・ファミリアやモンジュイック城が借景となっており、いずれに絶好の記念写真スポットとして観光客渋滞に一役買っていたのであった。

屋上から螺旋階段を下ると幾何学文様の美しい屋根裏部屋に到着し、暗がりの中カサ・ミラのミニチュアが白く浮かび上がる等の嗜好がこらされていた。このフロアはガウディ作品に関する資料や模型などの展示スペースになっており、中でも観光客たちはガウディが考案した逆さづり模型を興味深く見入っていた。

螺旋階段でもう1フロア下に下りるとそこは内見可能なモデルルームになっており、カサ・ミラが建築された1910年当時の家具・調度品を配した機能的な作りとなっていた。尚、部屋は細かく分かれており、実業家のペレ・ミラとその妻および使用人のための邸宅として使われていた当時の様子がそのまま保存されている。

尚、カサ・ミラの賃料であるが、築100年とはいえ、駅近の一等地で300㎡、7部屋で月賃料わずか14万円程度ということで、すぐさま手付金を払うべく、財布に手を伸ばしたのだが、ペット飼育に関する規定がわからなかったのでやむなく断念したのだった。

ガウディ作の世界遺産マンションはカサ・ミラ以外にもいくつかあり、海をテーマにしたカサ・バトリョの前を通りかかったのだが、内見待ちの観光客が列をなしているのとマンション診断の達人「住優師(じゅうゆうし)」でもない私が、すべてを見て回る必要はないと判断したので財布をポケットの奥深くにしまって遠慮しておくことにした。

1881年にスペイン南部のマラガで生まれたピカソは美術教師だった父親の転勤にともない、14歳の時にバルセロナに移住し、多感な青春時代を過ごしていた。9歳の時から「青の時代」までの作品がおもに展示されているピカソ博物館の入場券をあらかじめwebで買っていた(11ユーロ)ので約束の5時に入館する運びとなった。展示されている絵を1枚1枚ながめていると彼の天才的な早熟ぶりを見て取ることが出来、子供にしてアカデミックな技法を完全にマスターしていたピカソの初期の作品を閉館まで堪能することが出来たのだった。

1月4日(木)
午前中に少し時間があったので、古くはローマ時代に起源を持つ、バルセロナの中心であるゴシック地区を散歩することにした。その中心に鎮座するカテドラルはバルセロナが隆盛を極めていた13~15世紀に150年の歳月をかけて建てられたものでサグラダ・ファミリアに匹敵する価値を有するものであるはずなのに入場料が無料のためか特に観光客は集まっていなかったのだ。

カタルーニャ音楽堂(世界遺産)はモデルニスモ建築の中で最も美しいといわれるモンタネールの最高傑作であり、現役のコンサートホールとして多くの音楽ファンを集めているのだが、中を見学するのは次回に持ち越しとさせていただくことにした。

バルセロナのあるカタルーニャ州はフランスとの国境に程近いこともあり、南仏への小旅行も旅程に組み入れることも出来るので、バルセロナ最大のターミナル駅であるサンツ駅から先が尖っている高速列車に乗り、ヨーロッパ最大規模の城壁が残る、フランス有数の人気観光地であるカルカッソンヌまで足を伸ばすことにした。バルセロナから遠くパリを目指す列車は満席でフランス国鉄のwebで事前にチケットを購入していなければ乗車不可能であったろう。4人掛けの席の対面に座っていたマドモアゼルがしきりに咳き込んでいたのだが、車内は特にマスクをした人もいなかったので甘んじてスペイン風邪のウイルスを浴びさせていただいた。

フランスの途中駅でTGVから先の尖りがゆるやかになった列車に乗り換え、合計3時間程度の列車の旅でカルカッソンヌに到着したのは日も傾きかけた午後4時過ぎであった。駅を出ると世界遺産ミディ運河のクルーズ船が発着する場所の近くは水門になっており、マサに水位調整の真っ最中であったのだが、ホテルへ到着するまでの時間調整の方が重要だと判断したのでひたすら城壁へ向かって歩を進めていた。

カルカッソンヌを世界的な観光地として君臨させているものは「シテ」という城塞都市であり、誰も株を買い占めて値を吊り上げ、高値で手じまい売りをする集団だとは思っていないのだが、近隣の丘がストップ高した高台に見える城塞が目に入ると「カルカッソンヌを見ずして死ぬな」と称えられている理由がよくわかるのだ。

シテの入り口ナルボンヌ門に程近い☆☆☆☆ホテルであるオテル・デュ・シャトーにチェックインすると受付に近い快適な1号室があてがわれた。夜になると城塞はイルミネーションに照らされて浮かび上がるというので時を待ち、周囲が漆黒に包まれてると満を持して絶景の買占めに向かうことにした。

ナルボンヌ門をくぐり、緩やかな石畳の坂を歩いているとお洒落な土産物屋は店じまいの最中であった。現場感覚を養うために闇雲に歩いていると多くのレストランが客が来るのを今か今かと待ち構えていたため、とりあえず広場の中で賑わいを見せている店に入り、長靴ビールを飲みながらフランス南西部の郷土料理として有名な「カスレ」を賞味することにした。

白インゲンや豚肉等を煮込んだ熱々のカスレは味はまあまあだが、風邪を引いて声がかすれた輩にはもってこいの滋養食になるはずであろう。

1月5日(金)
一人当たり15ユーロで発注していたコンチネンタルブレックファーストは犬のガン見が付いているのでプレッシャーに耐えながら完食させていただくと、マサに青天井の相場環境に気を良くした時と同様の気分で青空の下に広がるシテの全容を解明するために再びナルボンヌ門をくぐることとなった。

カルカッソンヌのシテは、全長3kmに及ぶ城壁と、52の塔で構成されている。二重になった城壁は古代ローマ時代の要塞跡に築かれたもので、3~4世紀に造られた内壁の下部には当時の石が今も残っている。

1082~1209年にはトランカヴェル家統治のもとで絶頂期を迎えるが、アルビジョワ十字軍に屈し、城壁はその後フランス国王に占拠され、世界遺産となった今に至っているのだ。

城壁や棟を見て回るとところどころに昔の名車ジャガーのエンブレムを彷彿とさせる動物の突き出た前半身が目に付いたのだが、11世紀からの歴史を持つサン・ナセール・バジリカ聖堂のものは人間が「何ですか~」ポーズを決めているようであった。

広大なシテ内の有料エリア(10ユーロ)は長い城壁を持つコンタル城であるのだが、残されているのは石造りの構造物だけであり、内装や当時の生活様式まではうかがい知ることは出来なかった。しかしながら、はじめ人間ギャートルズが使っていた石の貨幣のようなものは確かに存在していたのだ。

魅惑のスイーツを量り売りする土産物屋をいくつか回ったのだが、特に値ごろ感がなく、購買意欲がわかなったので、手仕舞い売りをするようにシテを後にすることにした。しかし、モンサンミッシェルと並び称されるフランスの人気観光地であるこの地を訪れた観光客はそのすばらしさに皆してやられたという強い印象を持って帰っていくことになるのであろう。

バルセロナのサンツ駅に戻ってきたのは午後9時前になっており、さらに空港線に乗り換え、空港からわずか2,3km程度のBarcelona Airport Hotelまでのタクシー代として28ユーロをむしりとられながら何とかツアー最終日の寝床にありついた。

1月6日(土)
午前7時発LH1137便は定刻に出発し、約2時間のフライトでフランクフルトに到着した。ルフトハンザ航空のラウンジのスナックエリアにフランクフルトソーセージはなかったのでスープやパンを肴にしてビールとワインを流し込んだ。

午前11時30分発NH204便は定刻に出発し、羽田着が日本の早朝であることを考慮しながら血中アルコール濃度を調整して体内時計の修復を図っていた。「小さな巨人」の最終回を見ながら香川照之らの顔芸はスペインではそんなに役に立たなかったという反省も忘れなかった。

1月7日(日)
午前7時前に羽田に到着、流れ解散。

アムロはともかくコムロの引退騒動はマーク・パンサーに言わせると♪道徳もな~い、規則もない、誰も止めることの出来ないサガ♪と切り捨てられてもおかしくないだろうと思いながら原稿執筆にいそしんでいた。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥158,590
総宿泊費 EURO345.33、¥27,886
総鉄道代 EURO114
総バス代 EURO5.9
総地下鉄代 EURO13
総近郊線代 EURO6.7
総タクシー代 EURO28.8

協力 ANA、ブリュッセル航空、ルフトハンザ航空、IHG、Hotels.com、SNCF