FTB情熱のアンダルシアツアー第2弾コルドバ、セビーリャ withジブラルタル

除夜の鐘がゴーンとなる頃、日産をしゃぶりつくしたカルロスが風と共に去り、日本の司法制度に軽いロスを与えている今日この頃であるが、FTBでは招き猫としての職務を忠実に果たし、唯一供与されるべき利益がカンヅメであるはずのボンに見送られ2年越しのアンダルシアツアーに繰り出すため、合法的に日本を出国することとなったのだ。

2019年12月26日(木)
午前中に収入源となっている裏の仕事の業務を放り出し、一躍羽田空港に向かうと表の仕事であるFTBツアーに着手するためにANAの国際線カウンターに向かった。年末繁忙期の飛行機代を半額に抑えるために羽田から北京を経てトルコ航空のイスタンブール経由でスペインのマラガに移動する旅程を開発していたので、荷物を羽田で預けてマラガで受け取る段取りを付けていただいていたのだった。17:25発NH963便に乗り込み、約4時間のフライトで北京首都空港に到着するとペキンダックの誘惑に屈することなく、Air Chinaのラウンジで牛肉麺をすすりながら時間をやり過ごしていた。

12月27日(金)
日付の変わった00:50発TK21便に乗り込むと約10時間のフライトで♪飛んでイスタンブール♪に早朝6時過ぎに到着した。2018年10月29日に開港した新イスタンブール空港はアジアとヨーロッパの架け橋にふさわしく、庄野真代でも迷ってしまいそうな巨大なターミナルの一角でチョコレートをふんだんにあしらったよくわからない架空動物像に出迎えられた。スターアライアンスのラウンジは吹き抜けの上階に設えられており、エスニックなトルコ料理やチャイ等の飲食物が無制限に提供されている。

09:25発TK1305に搭乗する際に羽田のANAのチェックインカウンターで指示されたとおりに荷物がちゃんと搭載されているか確認した際に係員から「オンボード」という回答をもらっていたので安心して機上の人となった。

スペインアンダルシア第二の都市マラガ国際空港に定刻12:10に到着し、早速Baggage Claimに向かったのだが、いくら待てども預けた荷物が出てこなかった。複数の被害者とともにイベリア航空のLost Baggageに駆け込むと何かの手違いでこれから出てくるはずだとターンテーブルへの帰還を促されたのだが、やはり荷物は現れることはなかった。

再びLost Baggageの担当者と対峙することになり、今日はもう荷物なしで過ごさなければならないと腹をくくり連絡先を交換した後、被害者用のキット(パジャマ用のTシャツ、短パン、洗面用具入り)を受け取り空港からの撤退を決め込んだのだ。

Lost Baggageの精神的ダメージを引きずりながらマラガ空港駅から近郊列車に乗り、マラガの中央駅であるマリア・サンブラーノ駅に移動し、スペイン国鉄Renfeの高速列車で1時間かけてコルドバ駅に到着した時間はすでに午後5時近くになっていただろうか?

Hotels.comに予約させておいた駅近の☆☆☆トリップコルドバホテルにチェックインすると今回のツアー中に荷物と再会出来ない可能性を考慮し、スペイン最大のデパートチェーンであるエル・コルテ・イングレスに駆け込み、物品と晩餐用の食材を買いあさりながらアンダルシアの1日目はあわただしく過ぎていった。

12月28日(土)
セビーリャ、マラガに次ぐ、アンダルシア第3の都市コルドバ(世界遺産)は、ローマ時代には属州ヒスパニア・パエティカの首都として、かの有名な皇帝ネロの家庭教師を務めた哲学者セネガをはじめ、多くの学者や詩人を輩出し、ローマ文化の中心地として栄えた。その後アル・アンダルスと呼ばれたイスラム教徒に占領された土地の首都になり、ウマイヤ朝の首都になった756年には♪甘いな いやいや♪、♪ウマイヤ イヤイヤ♪と歌ったはずの髭男爵も存在したことであろう。

1236年になるとキリスト教徒はイスラム教徒に♪グッバイ♪と言ってコルドバを奪回したのだが、♪でも離れがたいのさ♪と言わんばかりにイスラム文化をすべて拭い去ることは出来ずに現在に至っている。

駅前のトリップコルドバホテルをチェックアウトすると抜けるような青空の元でたわわに実っているオレンジの木々を横目に白壁の家々が続く旧ユダヤ人街に向かった。キリスト教徒がイスラム教徒を排除する運動であるレコンキスタ終了後の1492年に布告されたユダヤ人追放令によってこの町から姿を消したユダヤ人であるが、♪もっと違う設定で もっと違う関係で♪出会えていればよかったのだが、たったひとつ確かなことがあるのならば、この場所は♪とても綺麗だ♪と言えよう。

ユダヤ人街を抜け、グアダルキビル川に架かるローマ橋を渡り、ローマ橋を守るために築かれた要塞であるカラオーラの塔の近辺からしばし旧市街を見渡した。橋の上では、NHKのど自慢大会の伴奏でも通用しそうな腕前のアコーディオン弾きが、ローカルなメロディを奏で、小銭の収集に勤しんでいた。

コルドバのシンボルであるメスキータ(EURO10)はマサにイスラム教とキリスト教が共存するファシリティで、一歩中に入ると約850本からなる「円柱の森」に圧倒されることになる。

後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラフマーン1世により、新首都にふさわしいモスクを造ろうと、785年に着工したメスキータはコルドバの発展と歩調を合わせるように3回にわたって増築され、最終的には2万5000人を収容する大モスクへと発展していったのだ。

内部は、大理石とくさび形の赤レンガを交互に組み合わせたアーチが限りなく広がっているのだが、年代的に古いアーチと新しいアーチが混在しているように見受けられた。

848年にアブド・アッラフマーン2世によって拡張された部分は、レコンキスタの後ゴーンではないはずのカルロス5世によってカテドラルにコンバージョンされてしまったところが多く、今となっては元の姿を知る由はないのである。

メスキータを見学中にi-Phoneのけたたましい呼び出し音で現実世界に引き戻されたのだが、紛失した荷物がついに見つかったという連絡だったので今日中にマラガ空港に荷物を迎えに行くと言い残して電話を切った。

イスラム勢力であるはずのトルコ航空により、メスキータ見学の切り上げを余儀なくされ、近世スペインの作家セルバンテス(ドン・キホーテの著者として有名)ゆかりのポトロ(コルドバ市の紋章である子馬)広場に軽く立ち寄って駅に戻り、コルドバを後にして一路マラガ空港へと引き返した。

マラガ空港到着ロビー近辺のイベリア航空Lost Baggageカウンターで荷物との再会を果たしたのはよかったのだが、イスタンブール空港のトルコ航空搭乗カウンターで確かに耳にした「オンボード」とは裏腹にオンボロになったスーツケースを目にして言葉を失ってしまった。荷物を引き渡す際に♪感情のないアイムソーリー♪さえもなかったので、イスタンブールの印象が♪飛んでイスタンブール♪から「とんでもないイスタンブール」に変わってしまったのは♪辛いけど否めない♪と思われたのだった。

結局往復で3時間以上も荷物の一件で無駄にすることとなり、次の目的地であるセビーリャに着くのが午後10時過ぎになることが見込まれたため、マラガ・マリア・サンブラーノ駅のフードコートで小腹を満たすことにした。これと言って入りたいと思うレストランもなかったので消去法で選んだSUSHI ARTISTで名前負けしている握り寿司セットを食ってお茶を濁していた。

マラガからRenfeで2時間かけてセビーリャまで足を延ばし、Hotels.comに予約させていた☆☆☆☆アイルホテルに到着したのは予想通りの10時過ぎだったのだが、荷物があるという安心感に抱かれて今夜はゆっくりと休むことが出来たのだった。

12月29日(日)
セビーリャ駅前という好立地のアイルホテルの目の前は市バスのバス停になっていたので32番の市バスに乗って終点のドゥケ・デ・ラ・ビクトリア広場で下車した。途中ハチの巣をつついたような奇抜な建造物が気になったので近寄って見たのだが、それはスペイン最大級の近代木造モニュメントであるメトロポリタン・パラソルという複合施設となっている。


EURO3を支払い、28mの高さの展望台に上るとセビーリャ市街地の全体像が見渡せたので、最初に訪れる観光スポットとしてはもってこいの場所である。

近隣のカフェでカフェインを吸収する名目でトイレを借り、大腸の流出物を下水に流し込むと軽くなった足取りで旧市街の中心部に向かった。道は細く、多少迷路のようになっているのだが、カテドラルに隣接したヒラルダの塔を目印に進むと容易にセビーリャの心臓部にたどり着いた。


ビゼーのオペラ「カルメン」や「セビリアの理髪師」の舞台として知られるセビーリャは、ローマ時代には属州ヒスパニア・パエティカの主要都市として栄え、西ゴート王国の首都がおかれたこともあるのだが、ジブラルタル海峡を渡ってきたモーロ人に712年に征服され、以降500年以上にわたり、イスラム文化が繁栄したようで市街にはその当時のおもかげが色濃く反映されているようである。

巨大なカテドラルの隣に貴重な公文書を所蔵するインディアス古文書館(世界遺産)がつつましく建っていたので長い入場待ち行列の最後尾に並んだのだが、目の前で入場制限が敷かれてしまい、コロンブス、マゼラン等の自筆文書を見ることはかなわなかった。


どうやら観光地としてのセビーリャの実力を甘く見ていたようで、この地の最強の観光コンテンツであるアルカサル(世界遺産)の前には数100mもの入場待ちの行列が出来ていた。何時間かかるか想像もつかなったが、とりあえず行列の最後尾に陣取り、しばらく成り行きを見守ることにした。

予約している個人や団体客を優先させるため、フリーの客が並んでいる列は遅々として進まず、それでも3時間程待ったかいがあって黄昏時についにアルカサル(EURO10)への入場が許されることとなった。


荘厳なイスラム風の宮殿アルカサルは例えて言うならセビーリャに存在するグラナダのアルハンブラ宮殿である。

9世紀から11世紀にかけて使われていたイスラム時代の城を、レコンキスタ後にキリスト教徒の王たちが改装した建築物だが、なかでも1350年に即位したペドロ1世は、スペイン各地からイスラム建築の職人を呼び寄せ、アルハンブラ宮殿を彷彿させるような建物を建造した。


何故かイスラム文化に心酔していたペドロ1世は、イスラムの服装をまとい、宮廷内ではアラビア語を使えという無茶ぶりまでしていたそうである。

アルカサル最大の見どころはペドロ1世宮殿の内部装飾であるが、豪華なムデハル様式の装飾や、彩色タイルの内壁、ヒマラヤ杉の格子細工による円柱天井等は見るものを虜にし、3時間以上並ばされた肉体のダメージが一瞬にして消え去っていくようであった。

さらにこの宮殿中央部に君臨する「乙女の中庭」には泉があり、漆喰細工の美しいムデハル様式の列柱に囲まれているのだが、ここが最も記念撮影渋滞が起こるスポットであった。

アルカサル裏側の庭園まで足を運ぶと庭師によって整然と整えられた樹木はあたかもジパンシーの宣伝に一役買っているのではないかと錯覚させられた。

アルカサルを後にして、翌日乗るバスのチケット買うためにバスターミナルに寄ったりしているといつのまにか日もとっぷりと暮れ、ライトアップされたカテドラルが漆黒の闇に浮き上がった。

年末の日曜日の目抜き通りは何故か立錐の余地がないほど人があふれ、いつの間にか海洋生物を模したちょうちん行列の波に巻き込まれてしまい、その流れに逆流しながらも、地元民が集まる食堂で飯を食い、タクシーでホテルに帰って行った。

12月30日(月)
アイルホテルをチェックアウトし、昨日と同様に32番バスでセビーリャの市街地に向かった。旧市街地の中心であるヌエバ広場の市庁舎前の街路樹が角刈りにされているのに軽い動揺を覚えたが、気を取り直してカテドラル方面に向かった。

インディアス古文書館は残念ながら休館ということだったので、前足で巧みにボールをキープしているライオン像を尻目にセビーリャを象徴する建造物であるカテドラル(世界遺産、EURO10)の入場待ちの列に陣取ることにした。

スペイン最大、またヨーロッパの聖堂としてはローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模を誇る、奥行き116m、幅76mの箱物の内部に開門時間の午前11時過ぎに入場を果たすと、「後世の人々がわれわれを正気の沙汰ではないと思うほどの巨大な聖堂を建てよう」という1401年に開かれた教会参事会の決定当時の意気込みがひしひしと伝わってきた。

聖堂内部は数えきれないほどの見どころがあるのだが、観光客が最も足を止めるポイントは4人の国王に棺を担がれたコロンブスの墓である。さすがにスペイン随一の有名人の墓は内部で一番人目に触れやすい入口近くの一等地に設置されており、果たした役割の大きさが自ずと参拝者に伝わってくるような仕掛けになっている。

カテドラル内部の北東の角部屋を占める高さ97mのヒラルダの塔が観光客に開放されているので遠慮なく登らせていただくことにした。狭い階段を何度も何度も折り返して登ったその先には巨大な鐘楼が君臨し、展望台からはセビーリャの町中を360度の角度で見渡すことが出来たのだった。

数あるセビーリャの観光地の中で、世界遺産に指定されてはいないものの、その威厳ある独特の景観から観光案内の一面を飾るスペイン広場が市民の憩いの場を提供しているので癒されに行ってきた。

半円形状に建物が囲むスペイン広場は、、1929年にイベロ・アメリカ博覧会の会場として造られたもので、日本で言えば大阪の万博記念公園に相当するファシリティだと言えなくもないが、太陽の塔のような芸術の爆発物の代わりにスペイン各県の特徴や歴史的場面をタイルで描いた58のベンチが置かれている。

情熱的なギターの音色に釣られて人だかりに近づいてみると真っ赤なドレスに身を包んだフラメンコダンサーが切れ味鋭いステップを踏んでおり、そのリズムの余韻を胸にセビーリャに別れを告げることとなった。

タクシーでアイルホテルに戻り、荷物をピックアップして同じ車でプラド・デ。サン・セバスティアン・バスターミナルに移動した。アンダルシア最南端のアルへシラス行きのバスは定刻通りの15:30に出発し、2時間以上かけてアフリカ大陸モロッコへの船が出航する港に到着した。下車したところが次の町へ行くべきバスターミナルではないことに気づかされたので徒歩でしばらく歩いていると道端にいるおじさんが頼んでもないのでジェスチャーで行くべき方向を示してくれた。

アルへシラスからラ・リネア行きの市バスに乗り込むとすっかり暗くなった海岸線沿いをバスは走り、約30分でラ・リネアに到着した。早速国境へと足を運び、スペイン出国のスタンプはもらったものの、イギリス領ジブラルタルへの入国の証はパスポートに刻まれないまま、国境沿いのジブラルタル空港を抜け、予約していたHoliday Inn Express Gibraltarへたどり着いたのだった。

12月31日(火)
昨晩の暗がりの中では分からなかったが、ホテルは岩山の麓に位置しており、得もいえぬ威圧感を感じながらアメリカ流のブレックファストで腹を満たすと大英帝国繁栄の余韻が残っているはずであろう街中を散策することにした。

大西洋と地中海をつなくジブラルタル海峡に突き出た岩の塊からなる岬がジブラルタルであるが、ここはスペインの王位継承戦争の間イギリス軍に占領され、1713年のユトレヒト条約によって晴れてイギリスに統治権が与えられたそうだ。

500mにもわたるメインストリートを抜け、ひたすらロープウエイ乗り場を目指してひた歩いた。ジブラルタルを象徴する岩山であるターリクの山「The Rock」に上らなければ、この地を訪れた意味をなくしてしまうので高い運賃を払って標高426mの山頂にある展望台に到着した。

雲が多く、アフリカ大陸までは見渡すことが出来なかったが、岩山のエッジの効いた先端部の形状はすばらしく、これからも丸くなり過ぎず、尖った部分を残して今後の人生を歩んで行くべきだと励まされているようだった。

展望台からの眺望にしばし気を取られていると毛深い生き物が、観光客の背中にあるが視線の届かないリュックサックを目指して一直線に突進して行った。敵もサルもので、やつは巧みにファスナーを開けると一瞬にして食べ物を取り出し、立ちサルでもなく、ふてぶてしくその場に座り込んで完食してしまったのだ。

猿は9世紀にアラブ人が持ち込んで野生化し、観光客を楽しませるとともに脅威となっている。「岩山に猿がいるかぎりイギリスの統治が続く」という古い言い伝えがあるそうだが、ここはイギリス領というよりは単なる猿の惑星にしか見えなかったのだ。

猿山から下山し、イタリアンカフェで免税ではあるが、物価の高いパスタを食した後、再びスペインに帰国すべく、国境へ向かって歩いていた。赤信号の遮断機で立ち止まったその先はジブラルタル空港の滑走路となっており、小型の飛行機がイギリスの本土目指して離陸して行った。私の入っている生命保険も満期と更新の時期を迎えており、ここで得た体験次第ではジブラルタ生命に乗り換える可能性も検討したのだが、そこまでする必要はないであろうと思いとどまったのだった。

スペイン国旗を仰ぎ見ながらラ・リネアに戻り、市バスでアルへシラスに移動、その後長距離バスでマラガに向かい、着いた時間は夜だったので地下鉄のとある駅で下車して予約していたHilton Garden Inn Malagaに投宿した。

Hiltonhhonorsのポイントが余っていたので宿泊代が無料であったのが忍びなくホテルのレストランでシーフードを奮発して帳尻を合わせておいた。

2020年1月1日(水)
ハッピーニュー ボンよ、

ということで、国際的なリゾート地として有名なコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の玄関口として賑わうマラガでアンダルシアの最終日を迎えたわけだが、かの有名な変画家であるピカソが1881年にマラガでおぎゃ~と生まれてから10歳までの幼少期をこの地で過ごした生家があるということなので立ち寄ってみたのだが、元日のため休館となっていた。

近隣のピカソ美術館も門戸を開いてくれなかったのだが、唯一歓迎してくれたのはピカソの遊び場だったメルセー広場に佇むピカソのベンチだけだったのだ。

髪のないピカソの生涯の解明がかなわず、後ろ髪を引かれるように乾燥したマラガを後にすると17:25発TK1304便でとんでもないイスタンブールへ飛んで行った。

1月2日(木)
イスタンブール空港で荷物が迷子になった憂さ晴らしをすることも考えたのだが、ここでは♪恨まないのがルール♪となっているので1:45発TK26便に乗り、おとなしく上海へと旅立った。約10時間半のフライトで上海浦東国際空港に17:15に到着したのだが、今回はきっちり入国後に荷物をピックアップして再発防止策を実践することにしたのだった。

1月3日(金)
約6~7時間もの時間をラウンジでやり過ごし、1:45発NH968便に搭乗し、羽田に着いたのは夜もまだ明けぬ5時半くらいであった。いくつか問題はあったものの♪Yesterday♪から始まる♪Traveler♪魂を胸に、次回は「ルネッサ~ンス!」の音頭とともにワイングラスをカチンと鳴らすイタリアツアーが発生するだろうかと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥75,710 (ANA)、¥101,918(トルコ航空)
総宿泊費 EURO405.65、GBP108.3
総Renfe代 EURO111.8
総バス代 EURO39.74
総メトロ代 EURO4.4
総タクシー代 EURO14
総ロープウエイ代 GBP14
協力 ANA、トルコ航空、IHG、Hiltonhhonors、Hotels.com

FTB Last Ichiro in Seattle

2019年3月21日、46,451人の大観衆を呑み込んだ東京ドームは途中から異様な雰囲気に変わった。日本が誇るサムライメジャーリーガーのイチローが今日の試合をもって引退するという記事がネットで流れると球場内はにわかにざわつき始め、92,902個の目はイチローの一挙手一投足に釘付けとなった。やがて試合が終わり、選手たちがベンチ裏に引き上げた後も多くの観客が場内に残り、誰もがイチローが再びファンの前に姿を見せるであろうことを疑っていなかった。

感動の東京ドームセレモニーから6ヶ月の月日が流れ、マリナーズはアメリカン・リーグ西地区の最下位を独走し、イチローの思い描くマリナーズの復活とはならなかったが、Ichiroの長年の貢献に敬意を示すためにシアトルでIchiro Celebration Nightなるイベントが開催されることとなった。

FTBではIchiroがメジャーデビューした2001年以来その活躍を現地で見守ってきたのだが、今回最後のお披露目ということで急遽飛行機を飛ばしてシアトルまで弾丸ライナーツアーを敢行することとなった。

2019年9月13日(金)
今回のツアーでは東京ドームホテルでのイチロー会見から一夜明けた3月22日にイチローと弓子夫人を乗せたANA運行の成田→シアトル直行便(搭乗ゲートはANAの粋な計らいで51とされた)は使わずに21:55発NH116便羽田発バンクーバー行きに乗り込むと約8時間のフライトでバンクーバーに到着後、ワンバウンドではあるが、Air Canada運行のAC8093便プロペラ機に乗り換えてイチロ、シアトルに向かった。中秋のように肌寒いシアトルに20時前に到着すると空港に隣接されているCrowne Plaza Seattle Airportホテルにチェックインし、今晩の試合でマリナーズの投手陣を背負って立つはずの菊池雄星がノックアウトされた事実に愕然としながら床につくこととなってしまった。

9月14日(土)
正午前にホテルを出て目の前を走るT-LinkというLight Railでシアトルのダウンタウンに向かった。思えばFTBが初めてシアトルを訪れたのは1998年の7月で当時ニューヨーク・ヤンキースのエースであった故伊良部秀輝氏の快投を目の当たりにするために留学先のサンフランシスコからわざわざやって来たのだった。当時の球場The King Domeは密閉式ドーム球場で傾斜の急なアッパーデッキにへばり付いて伊良部が三振を取るたびに大きな声援を送っていたのが昨日のことのように思い出される。

ダウンタウン到着後、お約束のPike Place Marketで生鮮魚を見て気持ちを落ち着かせ、その足で長躯ダウンタウン南のT-MOBILE PARKに向かった。球場前のカフェで遅い昼食を取りながら、開門前のゲートに集まるファンの群れ具合を観察し、いい具合を見計らってHome Plate側のGateに回り込み、Ken Griffy JR.の銅像に拍手を打ち、行列の一部となった。

午後4時過ぎに待望の開門となり、先着2万名に配られるIchiro首振り人形を手にしたファンは宝物を抱えるようにして球場内に入っていった。首振り人形は今春の東京ドームでのイチローのファンへの別れをモチーフにしているのだが、白髪が目立つ本人の写真とは異なり、人形の方の短髪は黒く染められていたのであった。

5時45分開始のセレモニーまで時間を持て余していたので球場内スタンドの裏側をじっくりと見て回ることにした。チームの歴史を伝えるコーナーでは数多くのIchiroのBaseball Gearが展示され、ミズノやアシックスの宣伝に一役買っている。

自分の席に戻り、ライトスタンド方面に目を向けると筋金入りIchiroファンであるエイミーさん手作りのICHI-METERが最後のお勤めを果たすようにフルラインアップで展示されていた。

国歌斉唱が終わるとマウンドの前に重役用の椅子が並べられ、スーツ姿のマリナーズの役員の面々とScott Servais監督を先頭にユニフォーム組が続々と姿を現し整列した。バックスクリーン後方の巨大モニターにはIchiroのマリナーズ入団以来の活躍がダイジェスト版となって映し出されていた。2001年にIchiroがMLBという未知の世界に足を踏み入れた時にはメジャーで成績を残すことに関しては疑いを持たなかったが、それ以上にメジャーのスーパースター達をギャフンと言わせるほどのセンセーションが見たかった。それが現実となり、期待以上のパフォーマンスで引退までひた走った姿はちっぽけな国の国民栄誉賞程度では到底報いきれないものであろう。

シーズン終盤の消化試合ということもあり、全席Sold outというわけにはいかなかったが、Last Ichiroの勇姿を目に焼き付けておきたい日米の熱狂的ファンがIchiroフロントのLower Levelの内野席をすし詰め状態にしていた。ちなみにこの日の観客数は26,063であった。

大歓声とともに姿を現したIchiroはお馴染みの背番号51番のユニフォームを身にまとっており、球団関係者および来賓であるマリナーズのレジェンド、Ken Griffy Jr., Edgar Martinezと握手を交わしていた。やがてIchiroの名も彼らと並び称されるべく、この球場に永久に刻みつけられることが約束されているのだ。

固唾を呑んで見守る大観衆の前でFranchise Achievement Awardを受賞したIchiroの挨拶の時間となった。異様な雰囲気の中で脳内が白化し、話の内容が飛ばないように配慮したIchiroは事前準備していた原稿を前にして流暢な英語でシアトルおよび日米のファンへの感謝の意を表してくれた。

Ichiroの挨拶終了後はバタバタと記念写真撮影に移行し、その後ファンに惜しまれつつグラウンドを後にした。

ほどなくしておまけの試合が始まったのだが、今日はマリナーズのKingであるFelix Hernandezの登板日ということで所定のエリアに席を取っている観客は無償で配布される黄色いTシャツを着てしきりに黄色い声を上げていた。私服に着替えたIchiroも弓子夫人と一緒にスタンドに陣取り試合の行く末を見守っていたのだが、Ichiroの面子を潰さないように奮起したマリナーズは延長戦でサヨナラ勝ちを収め、お別れのメッセージに変えていたようであった。

9月15日(日)
Ichiroイベント週末の最終日である今日の試合は午後1時15分開始であり、本日の催しはIchiro Replica Jersey T-Shirt Dayと称し、先着1万5千人にTシャツが配られるということなので開門直前に球場に駆けつけた。今日はIchiroのお披露目はなしということで昨日ほどの行列ではなかったのだが、最終的には17,091人の観客で客席の約35%が埋め尽くされた。

場内に入場し、Tシャツを受け取ると早速どんなものか確認すべく広げて見るとそれはマサにユンケルの野望が刻まれたシャツだったのだ!ICHIROの名前の上にはスポンサーのSATOのロゴが目立つように配置され、一見すると鈴木一朗が佐藤一朗に成り代わったような印象さえ与える代物となっていた。この状況に納得できない私はすぐにチームショップに駆け込み、IchiroのTシャツを買いあさって溜飲を下げることにしたのだが、この反応もすべてSATOとマリナーズがグルになって仕組んだ陰謀の結果なのであろうかとさえ思われた。

グラウンドでは試合前にラテン系の民族衣装を着た踊り子によるダンスが繰り広げられ、試合の方は昨日に引き続きマリナーズがサヨナラ勝ちを収め、その瞬間は最高の盛り上がりとなった。佐藤製薬との競演を果たし、永久欠番が約束されたマリナーズの51番はIchiroとともに208cmの長身左腕ビッグユニットであるRandy Johnsonとの連名になるはずであろうが、Randy SATO Johnsonに成り下がることは避けられるであろうかと考えながらT-MOBILE PARKを後にした。

Ichiro引退後はシアトルに来る機会はなくなるかも知れないという郷愁の思いから、今日もPike Place Marketに足が向かった。栄光のスターバックス1号店でパイクプレースローストでも買って帰ろうかと思ったが、やはり帰国してから買うことにした。International Districtやスタジアム周辺はSODO(South of Downtown)と呼ばれている地区で相変わらずホームレスが多く、怪しげな雰囲気が醸し出されている。シアトルがお膝元となっているMicrosoft, F5 Networks, amazon.com, T-MobileとITやAI化が進み、Downtown北部は近代化が加速している一方で増加する失業者はレトロな雰囲気のSODOに押しやられ、ストリートライフを余儀なくさせられているという光と影を感じながらLast Ichiroシリーズは幕を閉じたのだった。

9月16日(月)
11:25発AC8092便でシアトルからバンクーバーに向かう空路は概ね晴天でシアトルがエメラルドシティと言われている所以を噛み締めながら別れを告げた。NH115便は定刻16:25に出発となり、一路羽田空港へと向かっていった。

9月17日(火)
飛行機が着陸態勢に入ると折りからの曇り空は虹色に変わった。Ichiroが今後、元カタカナのイチローと呼ばれるようになっても日米の架け橋として日本人メジャーリーガーのレジェンドとなった功績は決して忘れ去られることはないと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥145,360
総宿泊費 $477.24
総T-Link代 $12

協力 ANA、Air Canada、IHG

♪教えておじいさん♪第二回スイスアルプスツアー with マッターホルン

♪くちぶえはなっぜ~♪
中略
♪おしぃえて おじいさん♪

ということで、前回2002年の1月に敢行されたスイスアルプスツアーではおじいさんならぬ過去の歴史から多くのことを学んだが、いかんせん真冬のツアーということで行動範囲が大きく制限されてしまっていた。スイス人の誇りとするアルプの森の真髄を極めるためには盛夏に山中を行幸しなければならないため、航空運賃が最高騰するお盆の時期に待ったなしでマッターホルン地域に足を踏み入れるツアーが開催されたのだ。

2019年8月10日(土)
FTBにおきましては時間はかかるがハイシーズンにヨーロッパに安値で到達可能な方法を開発したので早速実践に移すことにした。日本からの直行便は回避し、キャセイパシフィック航空が運行する14:45成田発香港行きCX527便に搭乗すると3時間強のフライトで19:00前には世界のハブとして名高い香港国際空港に到着した。つつがなく入国手続きを終え、税関を通過し、香港への門戸が開かれると眼前には毒蛇に出会ったような衝撃的な光景が広がっていた。

黒装束を身にまとった多数のデモ集団がライブで香港への入境客を歓迎し、観光客のSNS映えに貢献するようなプラカードを掲げながら様々な種類、言語のビラを配り歩いていた。

デモの喧騒を横目に耐え切れぬ空腹につられて飲茶レストランに入り、かろうじてワンタンメンをすすり上げた後、香港から出境し、タイ国際航空のラウンジでトムヤムスープのマイルドな辛さとともにデモ集団の要求する香港の自由が守られるよう、陰ながら祈っていた。

ルフトハンザ航空が運航する23:15発LH797便は定刻どおりに出発したものの、たくさんの巨体ドイツ人が搭乗する割にはエコノミークラスの前後のピッチが異様に狭いシート配置のため膝がピチピチになるのをこらえながら意識を飛ばすことに集中していた。

8月11日(日)
約11時間のフライトでフランクフルト国際空港に到着したのは夜明け前の5:30くらいで約1時間の乗り継ぎ時間を経てLH1182便にてチューリッヒへと転送させられた。定刻7:35にスイスの空の玄関チューリッヒ空港に到着すると空港駅のスイス鉄道(SBB)のカウンターで有効期間1ヶ月のスイスハーフフェアカードを120スイスフラン(CHF)で購入し、同時にツェルマットまでのチケットも定価の半額で入手することに成功した。

スイスウォッチのような正確な時間管理で運行するSBBの進行方向2階席を確保すると約1時間後には首都ベルンを過ぎ、さらに1時間後にフィスプという駅に到着した。ここでMGB (Matterhorn Gotthard Bahn)という登山鉄道に乗り換えると広々とした窓越しにアルプスの絶景が広がった。

合計約3時間半をかけて念願のツェルマットに到着したのは正午過ぎであった。晴れ渡ったツェルマットに一歩足を踏み出すとさわやかな空気に包まれた感覚を覚えたのだが、ここでは厳格な排ガス規制が敷かれ、町行くタクシーや送迎車はすべて四角い電気自動車であった。

標高1605m、狭いマッター谷のどんづまりにあるツェルマットのメインストリートであるバーンホフ通りを颯爽と通り抜け、Hotels.comに予約させておいた当地での宿泊先である☆☆☆☆ホテルのモンテ・ローザにチェックインする運びとなった。由緒あるこのホテルの壁にはマッターホルン初登頂を果たしたウィンバーのレリーフがはめ込まれており、彼の定宿として長い歴史を歩んできた伝統と格式が刻まれている。一見様のFTBには最上階である6階の上部屋ではあるもののマッターホルンビューではない部屋があてがわれたのだが、木の息吹を感じさせる上質な作りと季節の花をあしらったベランダからの絶景はツェルマットでの滞在をワンランク上げてくれるものとなっている。

チェックインの際にコンシェルジュ・レディーから今日はFolklore Festivalというお祭りの日でホテルの前がパレードの通り道になっているということだったので時差ぼけの眠気を押さえ込んでパレードフロントの道端に陣取った。

Festivalを彩る各パレードチームの扮装はマサにスイスアルプスの文化、歴史、暮らしそのものであり、幼い子供たちから草刈正男の雰囲気を持つおしえておじいさんまで一様に笑顔で目抜き通りを練り歩いていた。

パレードの終焉を見届け、狭いツェルマットの町を一通り歩き回っている際に黄色い表紙のガイドブックを携えた多くのアジア人に遭遇したのだが、その多くは日本語をしゃべっていた。夕食には地元で醸造されているツェルマットビールとお約束のチーズフォンデュを発注した。チーズの臭いにつられて飛び回るハエを振り払いながら中鍋になみなみと溶かされたホットチーズに一口大のパンを絡めてひたすら口に運ぶ作業を繰り返したのだが、単調さに耐え切れず完食には至らなかった。どの観光客もおそらくスイス滞在時の最初で最後のチーズフォンデュになるはずであろうが、食べ残されたチーズの行く末を案じながらスイス初日の夜は更けていった。

8月12日(月)
マッターホルンに憧れてツェルマットにやってきた観光客の大敵は天候である。今日は早朝から雨と霧の洗礼を受け、マッターホルンロスの中での観光のモデルケースの確立を迫られたのだが、座して天候の回復を待つのが常套手段であろう。

当地に日本人が多い理由のひとつにツェルマットと京都、富士河口湖、妙高高原との姉妹都市の締結があげられよう。町中には友好を示すレリーフが飾られており、妙高という日本食屋が通りの一等地に巨大な店を構えていた。

教会で雨宿りをしながらマッターホルン博物館(CHF10)がオープンする午前11時を猫と一緒に待っていた。マッターホルンの形状をかたどった透明な入り口から館内に入ると地下の展示場に続く階段をこの地方独特の家屋の表情を見ながら下って行った。展示物はマッターホルンが初登頂された時代の苦難と栄光、暮らしぶりを如実にあらわしており、ここに鎮座する人物が生き生きと当時の模様を物語ってくれた。

古き良きツェルマットの特徴がよく残っている路地にネズミ返しのある古い穀倉倉庫が並んでいる。いくつかの倉庫はいまだ現役らしく入り口は季節の花で彩られている。

行動が制限される雨の日は食事で気を紛らわすしかないのだが、昼食にはスイスのソウルフードであるはずのとろける熱々チーズのラクレット、夕食時には肉食獣に成り代わり、ソーセージと噛みごたえのある牛肉で来たるべくハイキングに備えて歯を食いしばっていた。

8月13日(火)
起き抜けにテラスに出て天候を確認すると雨は上がっているものの上空は微妙な曇り空であった。ツェルマットでは余裕のある滞在期間を取っていたのだが、これ以上足止めを食うわけにはいかないので天空の視界がどうなっていようと登山鉄道でスイス随一の展望台を目指すことにした。

ツェルマット駅の斜め前に位置するゴルナーグラート鉄道はアルプス登山ブーム全盛時の1898年に開通したアプト式登山鉄道である。トップシーズンのこの時期は約24分おきの運行となっているのだが、始発の7:00からほぼ満席状態で観光客を空気の薄い世界へと運んでいる。

いくつかの駅で停車しながら、約33分で標高3090mの終点ゴルナーグラートに到着した。雲の流れにさえぎられマッターホルンへの謁見は許されなかったが、展望台からはアルプス山脈第2の高峰モンテ・ローザ(4634m)や山脈を長い時間かけて切り裂いている氷河の迫力を存分に味わうことが出来た。

ゴルナーグラートには高級山岳ホテルであるクルムホテルが君臨し、展望台で冷え切った観光客は大挙してレストランに乱入し、ホットドリンクを口にして一様にほっとした表情を浮かべていた。

モンテ・ローザを源とするゴルナー氷河に別れを告げるとその足でスイスを代表するハイキングコースへ踏み出すこととなった。行程は当然のことながら全コース下りで雲に邪魔されているとはいえ、絶景を見ながらの進行となる。

逆さマッターホルンで有名なリッフェルゼーで足を止めたのだが、鏡の役割を果たす泉は無地のキャンバスに成り下がっていた。しばらく近辺に佇み、祈るように雲の流れを見つめていたのだが、マッターホルンはかろうじてその先端のマウスピース相当部を公開してくれたに過ぎなかったのだ。

標高が下がってくると大地はガレ場からアルプに変貌し、ウールで着膨れした羊が整然と草を食んでいる様子も風景の一部となった。リッフェルベルク駅(2583m)の隣のホテル・リッフェルベルクでビュッフェ形式の昼食を取ってパワーアップすると頻繁に行き来するゴンドラを横目に片側が崖になっている急な下り斜面を慎重に下って行った。

短角牛が草を食む牧場を過ぎると森林地帯に突入し、いくつかの山小屋食堂の奇抜な装飾に恐れおののきながらも長い道のりを淡々と下って行った。

さらに郷ひろみのデビュー曲の合いの手のように♪ゴーゴー♪とアルプスの雪解け水が流れる峡谷でマイナスイオンをチャージし、ひざがガクガクになりながらも何とか総延長約11kmのコースを完走した。

ツェルマットの町中に戻ってくるとアルプスの少年が先導するヤギの集団に遭遇したのだが、カランコロン系の鈴と一緒に首輪に管理用のシリアルナンバーが記されたタグが取り付けられていた。

ホテルに戻って一息ついた後、教会近くのベンチに佇み、緞帳のようにマッターホルンを覆い隠す雲の流れを見つめていた。日没も迫ってきたので一緒に空を見上げていたアジア人観光客は私に「Good luck」と言い残して撤収していったのだが、マッターホルン博物館前でアルプホルンの演奏が始まるとその音色に乗って雲の流れが速くなり、ついにこの地で見るべき景色とのご対面となったのだった。

8月14日(水)
ツェルマット滞在最終日の朝をむかえ、夜明けとともに目を覚ますとテラス越しに見上げた空が西条秀樹をほうふつとさせる最上のブルースカイブルーだったので取るものもとりあえず教会前のマッターホルンビューポイントへ走っていった。まぶしすぎた空を背景に朝日を浴びたマッターホルンは薄化粧の雪と岩肌の筋をあらわにして黄金色に輝いていたのだった。

散々じらされた挙句の真打登場により、感動もひとしおとなったのだが、4478mの巨体で村に覆いかぶさるその勇姿はマサにスイスの巨人そのものであった。

貴重な好天が約束された本日のアクティビティは非常に忙しく、午前中はロープウエイを乗り継いでヨーロッパ最高地点の展望台を目指すことにした。

アルプスの王者スイス、世界でトップクラスの山岳観光の醍醐味を提供するために最新の技術を駆使して至る所にロープウエイを張り巡らせている。ツェルマットの村の南端の乗り場に到着すると次から次にやってくるゴンドラはグループ毎の貸切状態での運行となり、他の観光客に気兼ねすることなく空中遊泳を楽しむことが出来るのだ。

マッターホルンは常に視界にあるのだが、見る角度によって異なった趣を示し、♪さわるものみな傷つけた♪ギザギザハートのとがった少年やうつむきがちの考える人、そのまんまピラミッド等、見るものを決して飽きさせず、常に観光客の視線をひとりじめしているようである。

いくつかの駅でロープウエイを乗り継いだもののわずか40分程度で標高3817mのマッターホルン・グレイシャー・パラダイスに到着した。ちょっと長めのトンネルを歩くと視界が開け、そこは夏なのにスキーに興じるウィンタースポーツフリークで賑わっていた。低酸素と低体温状態になる準備をするためにショップ兼レストランの建物でカフェインを吸収すると満を持してヨーロッパ最高地点の展望台を目指すことにした。

トンネル道を戻り、エレベーターに乗り、最後の力を振り絞って階段を上って到達した展望台で見た絵のような天空世界の光景は凍りつくようにクールであった。展望台の標高は3883mでシャモニ・モンブランのエギーユ・ミディより41m、ユングフラウヨッホのスフィンクス・テラスより311m高くなっている。

キリスト十字架の向こうにあぐらをかいているよう鎮座しているマッターホルンの姿は崩れ正三角形のピラミッドでツェルマット村から見上げたものとは似ても似つかない形状である。高い運賃を支払い、寒さに震えながらでも見に来る価値は十分あり、晴れていればおつりがくるほどの迫力で迫ってくるのだ。

次から次に上ってくる観光客の数と展望台およびその他施設の収容能力のバランスを考慮してマッターホルン・グレイシャー・パラダイスを後にすることにした。帰りは乗り継ぎ駅のトロッケナー・シュテーク駅の展望台での景色を楽しんだが、その後は素直にロープウエイに戻り、ツェルマットへと帰還した。

昨日のハイキングで多少すねが痛んでいたのだが、さらなるハイキングコースを求めて村から3分で到着出来る展望台であるスネガに行くことにした。2013年にリニューアルされたばかりの地下ケーブルカーに乗り込み、標高差683mという急勾配のトンネルで一気に標高2288mに到達すると稜線までくっきり見える貴婦人のようなマッターホルンに出迎えられた。

丁度昼食時でもあり、ビュッフェレストランで軽食とビールを調達し、マッターホルンに向かって杯を上げた。食べ物のクオリティはさておき、マッターホルンに見守られた青空ビアガーデンでのひと時は至福以外の何ものでもないのである。

スネガ→ツェルマットのハイキングコースは初級コースで常にマッターホルンを正面にしてゆるやかな坂を下って行った。途中トイレ休憩で立ち寄った山小屋ホテルからの景色と雰囲気も非常によく、次回この地に戻ってくる機会があれば是非このスタイルのホテルで静かに過ごしてみたいと思いながらツェルマットへ帰っていった。

終日マッターホルン三昧のアクティビティを満喫し、疲れた足を引きずって列車に乗り込み鉄路をベルンへと引き返して行った。ベルン駅でタクシーを捕まえ、ポイントを使ってただで泊ることが出来るHoliday Inn Bern Westsideにチェックインするとひたすら体を休めることに専念した。

8月15日(木)
スイス連邦の首府ベルンは世界遺産に登録されている「中世の町並み」で有名である。アルプスから離れ、今日は旧市街を存分に散策する予定であったが、疲労の抜けが悪かったため、観光は断念し、駅地下で存在感を出している当地にゆかりのある偉人アインシュタインの二頭身像に「アイ~~ン」を決めてベルンから撤収となった。

ベルンから列車に乗り、約1時間でチューリッヒ中央駅に到着後タクシーでポイントを使ってただで泊ることが出来るCrowne Plaza Zurichに移動した。今夜はホテルに新設されたイタリアンレストランでビフテキを貪り食って体調の維持回復に努めることにした。

8月16日(金)
ホテル近くの市電の停留所で24時間有効のチケット(CHF8.8)を購入し、チューリッヒ中央駅へ移動した。駅の切符売り場の自動販売機で係りの女性の援助でサルガンス行きのチケットを入手すると列車に乗り込み車窓を流れる牧歌的な景色を眺めながら1時間程の鉄道の旅を楽しんだ。

思えば失業手当で生計を立てていた8年前にHILTIというリヒテンシュタインの会社の面接を受け、見事不採用となった苦い経験からいつかはリヒテンシュタインに行かなければならないとの思いを胸にいだき続けていたのだが、今日ついにその日が訪れることとなった。

サルガンス駅を出て隣接するバス乗り場に向かい、リヒテンシュタインバス11番の2階席に乗り込むといつのまにか国境を越え、約30分でリヒテンシュタインの首都ファドゥーツの郵便局前に到着した。スイスとオーストリアに挟まれたヨーロッパ第4の小国であるリヒテンシュタイン入国の証を立てるためにまずは観光案内所に立ち寄ることにした。普通の国に入国する場合にはパスポートにただでスタンプを押していただけるのだが、リヒテンシュタインでは記念スタンプというプレミアム感をだしにして観光客からCHF3を巻き上げて希望者のパスポートに押印するシステムになっているのでこの機をとらえてパスポートの差し支えのないページに何の変哲もないスタンプを押していただいた。

リヒテンシュタインは切手とは切っても切れない関係にあるようで切手製作の長い歴史とかつての栄光の時代を今に伝える入場料無料の切手博物館に入場することにした。館内に展示されている切手は普通の郵便切手とは一線を画し、どれも芸術性の高いデザインを誇っている。数ある記念切手の中でも♪カ~モン ベーベー♪アメリカのアポロ計画との関連性は深いようで展示スペースーの主要な一角はアポロ一色となっていた。また館内で記念切手の販売も行っており、多くの中国語スピーカーが爆買体制に入っていた。

ファドゥーツの中心地はいくつかの博物館とたくさんのオブジェで彩られているのだが、先述のHILTIも美術に対する造詣も深く、Art Foundationで会社の利益を還元しているようだったので8年前の不採用の一件は水に流すのが筋だろうと考えることにした。

ファドゥーツ市街地を見下ろす高台にファドゥーツ城がそびえているので上ってみることにした。城のデザイン性には特に印象的なものはなく、入場も出来ないので高台からの景色を軽く眺めてリヒテンシュタインから出国した。

チューリッヒに戻り、フライトまでしばらく時間があったので軽く町歩きと洒落込んだ。中央駅の南側チューリッヒ湖に続くリマト川の川岸には鋭く尖った教会が立ち並んでおり、また旧市街はチューリッヒの歴史が凝縮されたスポットになっているのだが、金融センターはマネーロンダリングの温床になっているのではないかという疑問を拭うことは出来なかった。

散歩の途中で公園の便所を使用させていただいたのだが、個室には使用済み注射器を破棄するための穴があり、薬物問題は犯罪行為ではなく、健康や公衆衛生の問題と捉えているスイス独自の考え方の一旦を垣間見ることが出来た。

帰りのフライトはチューリッヒからスイス航空が運航する22:40発LX138便に乗り、香港への帰路に着いた。

8月17日(土)
午後4時過ぎに香港国際空港に到着。スイス滞在中に見たニュースで香港空港でのデモが原因で多数の便が欠航になったことを知らされていたが、香港に入境するとすでにデモ隊は解散させられている様子で逆にいつもより静かな空港模様となっていた。

8月18日(日)
0:55発CX524便成田行きは乗り継ぎ便の乗客待ちで1時間程度の遅れを出したものの、香港国際空港のハブ機能が正常に回り始めた結果であると捉え、心のバランスを取っていた。成田空港には早朝7時くらいに到着したのだが、その時間はスカイライナーの運行もなく、モーニングライナーも丁度良い時間帯のものがなかったので接続の悪い特急でのんびりと東京の西のはずれに帰っていった。

FTBサマリー
総飛行機代 キャセイパシフィック= ¥62,230, ルフトハンザ = HKD9,277
総宿泊費 CHF903
総スイスハーフフェアカード代 CHF120
総鉄道代 CHF315.5
総バス代 CHF16
総タクシー代 CHF77.8

協力 キャセイパシフィック航空、ルフトハンザドイツ航空、スイス航空、Hotels.com、IHG、SBB

FTB南太平洋最強の楽園ボラボラ島ツアー

2018年8月にタヒチへの初上陸を果たしたFTBであるが、その際FTBがモーレア島で撮影した奇跡の1枚が「Air Tahiti Nui 20 year anniversary game」なるフォトコンテストで見事、最優秀賞に選ばれ、タヒチへの往復ペア航空チケットが授与されるという悪運を掴んでいた。2019年が明けると早速Air Tahiti Nuiのマーケティングにコンタクトし、チケット予約担当と渡航スケジュールを調整した結果、日本の海の日がからむ3連休を軸にした日程で有給を取り、再びタヒチで羽を伸ばすツアーが敢行されることとなったのだ。

2019年7月13日(土)
17:40発TN77便は機体のバランスをとるという名目で搭乗客を手荷物ごとヘルスメーターで測りにかけるという珍しい対応に時間を要したものの、定刻どおりの出発は維持され、約11時間のフライトでフランス領ポリネシアの首都パペーテのファアア国際空港に午前10時ごろ到着した。入国審査エリアに通じる小ステージでは恒例のウクレレの演奏で観光客のリゾート気分を盛り上げると徐々に財布の紐が緩んでいくような感覚に襲われた。両替所で当座の現金として¥10,000をタヒチの通貨であるフレンチ・パシフィック・フラン(CFP)に良くないレートで交換していただくとその足で隣の国内線の搭乗カウンターへ移動した。

AIR TAHITIが運行する11:55発VT407便は定刻どおりの出発というわけにはいかず、約1時間の遅れで行き先が同じ次の便と重なり合うように出発となった。AIR TAHITIは座席指定が出来ないため、景色の良い左側席を確保するためには早めに並ばなければならなかったのだが、乳酸が溜まって硬くなったふくらはぎと引き換えに最前列左側の非常口シートの確保に成功し、約45分の遊覧飛行がスタートとなった。

近隣のモーレア島を過ぎ、ボラボラ島に近づくと眼下にはその代名詞となるブルーラグーンのグラデーションが広がり、ひとめでその美しさの虜となってしまったのだが、無常にも飛行機は機体をよじるように旋回し、ボラボラの外輪島の空港へとソフトランディングを果たしたのだった。

到着後、早速空港の建屋に入り、荷物を確保すると居並ぶ高級リゾートホテルのカウンターからリゾートブルーのインターコンチネンタルのロゴを見つけ、名乗りを上げるとリゾートでは欠かすことの出来ないはずの花のレイで歓迎していただいた。空港の桟橋から各ホテルへはそれぞれのシャトルボートでの送迎となっているので宿泊客の人数がそろうまでしばし海を見下ろしているとボラかと見まがえるような魚の大群までが歓迎ムードで透明感を出していた。

ボラボラ島はボラれる島と呼ばれているかどうかは定かではないが、約20分程かかるホテルへの送迎ボートの代金は1人あたり片道¥7,000程度となっているのだが、他に移動の選択肢がないため、必然的に送迎代がホテル料金に組み込まれるという効率的なシステムになっている。それにしても青いラグーンを疾走する航海は快適で送迎代の高さなどその瞬間は微塵も気にならず、後でクレジットカードの請求を見て後悔すれば良いのである。

ボートがInterContinental Hotels Bora Bora Resort Thalasso Spaの桟橋に近づくと高らかなほら貝の音色とともに酋長兼荷物持ちの係りの現地人が宿泊客を出迎えてくれるシステムになっているのだが、彼の人件費も送迎代に含まれているかどうかは定かではなかったのだ。

桟橋まで電動カートを乗り付けて迎えにきたKozueと名乗る日本人コンシェルジュの隙の無い挨拶を受け、一通り敷地内の施設の案内をしていただくとIHG Club Memberのチェックイン場所に案内され、地元特産のバニラで香り付けされた冷紅茶で一息つくことが出来た。さらにボラボラ島のシンボルであるオテヌマ山を背景に半強制的に記念写真を撮られた後、待望の水上ヴィラへの案内の時間となったのだ。

部屋はすべて水上ヴィラなのだが、いくつかのグレードに分かれているようでプライベートプール付の部屋までラインアップされている。ANAの陰謀でIHGの最高級会員ランクであるスパイアエリートにプロモーションで成り上がっているFTB一行にはアップグレードされているはずのオテヌマ山ビューの上部屋があてがわれた。大きな窓とガラステーブル越しにエメラルドグリーンのラグーンが一望でき、簡易シャワー付の広々としたテラスからは水深1.65mのラグーンにエントリー可能な極楽の作りとなっている。

ところで水上ヴィラの構造で一番気になるポイントは上水の供給と下水の処理であるが、生理的な欲求により排泄される汚物等は桟橋の下に張り巡らされているパイプで処理・回収されているようで、決して海に垂れ流しにされることはないということを断言しておこう。

すでに財布の紐がゆるんでしまっていたのだが、フレンチポリネシアでここだけというタラソテラピーを体験出来るディープ・オーシャンスパからの案内はとりあえず無視してホテルの敷地内をゆっくりと散策させていただいた。初日の時差ぼけの影響を受けないようにただひたすら美しい景色に見入ったり、ハンモックでむくんだ背中に網目模様を作ったりしながら高級リゾートを味わいつくそうと躍起になっているうちに夕暮れ時が迫ってきた。

夕食はいくつかあるレストランから一番カジュアルな「サンズ」というビーチフロントのレストランに席を取った。高値のプライムリブステーキを噛み締めながらビーチ方面に目をやるとホテルの従業員のような軽いフットワークでテーブルサーフィンしている子猫と目が合ってしまったので、高い肉の分け前を与えながらボラボラ島初日は更けていったのだった。

7月14日(日)
高級リゾートでは何もしない贅沢を満喫するのが鉄則のはずなので高値で供されるホテルのウォーターアクティビティはとりあえずスルーして今日ものんびり過ごすこととした。

グルメレストラン「リーフ」で朝食のブッフェを満喫すると運動不足が気になったのでカヤックでラグーンに漕ぎ出した。ハネムーンナーやアクティビティをプロカメラマンが撮影していい気になるフォトセッションを横目に見ながら海水がしみこんだパンツが飽和状態になった頃を見計らって陸へと戻ってきた。

昼下がりのラグーンに人だかりが出来ていたので近寄って見るとエイひれを翼のようにはためかせて旋回している多数のエイが観光客に何かをおねだりするかのようにすりすりしていたのでついついその輪に加わることとなった。

当ホテルでは午後2時からエイの餌付けを行っているとの説明をすでにコンシェルジュから受けていたのだが、律儀なエイは毎日30分前には餌場に集合し、観光客と戯れるのが恒例になっているようだった。すねからふくらはぎにかけてエイひれのぬめっとした感触が新鮮さを保っているうちにいきもの係であるはずの屈強な海パン野郎が魚の切り身が入ったバケツを持って姿を現した。6匹ほどのエイに囲まれ、絶大な人気を誇っているいきもの係はこのエイの集団はファミリーで父親、母親、子供らのメンバー紹介をしてくれたのだが、末の子供の名前を
六輔と呼ぶかどうかは常に日本人観光客の判断に委ねられているのだ。

エイ六輔からパワーをもらい、その代表作である♪上を向いて歩こう♪という意識付けがなされた一方で、リゾート地滞在での脳みその流出と時差ぼけとのブレンド効果により、その後のアクティビティはあまり記憶に残っていないのだが、プールサイドでヒナノの黒ビールを飲んだり、スノーケリングのマスクがブカブカで海塩水を飲んだりしながら夕暮れまでの時間をのんびり過ごしていたようだった。

ディナーはフォーマルなフレンチレストランの選択も考えたのだが、昨晩高級牛肉をごちそうしてやった子猫におびき寄せられるように再び「サンズ」レストランに席を取った。今夜は魚系を中心としたアラカルトメニューを発注したのだが、その半分くらいは食べ盛りの子猫の胃袋に吸収されてしまったのだった。ちなみに後で分かったことだが、その猫はホテル専属ではなく、ごく普通の野良の流し猫ということであった。

7月15日(月)
ボラボラ島随一の人気ホテルで宿泊客の回転率が良いためか、スパイアエリートと言えども滞在時間の延長は許されず、午前11時のチェックアウト時間は厳守しなければならなかったのでぎりぎりまで敷地内の絶景を目に焼き付けておくことにした。

10時45分に律儀なポーターが部屋まで荷物をピックアップに来てくれたので後ろ髪を引かれるように水上ヴィラを後にした。チェックアウトカウンターではついさっきまで財布の紐を緩めていた宿泊客が殺気だったように明細の内容に間違えがないかどうかのチェックに余念がなく、1組1組の対応にかなりの時間を要していた。

チェックアウト後、出発までの時間がある上客にはデイルームというシャワー付の小部屋が与えられるのだが、特に海水を洗浄するようなアクティビティは行わなかったのでテーブルでバニラ紅茶を飲みながら夢の続きを楽しんでいた。

ボラボラ島には2件のIntercontinental Hotelがしのぎを削っており、宿泊客向けの有料シャトルボートで結ばれているので12時15分のボートに乗り、外輪島に位置するResort Thalasso Spaからボラボラ本島最南端のBora Bora Le Moana Resortに移動した。

Moana ResortはThalasso Spaに比べてアットホームな雰囲気でレートもリーゾナブルに設定されている。ここでは日本人コンシェルジュの代わりにベイと名乗るモントリオール出身のカナダ人若ギャルが名古屋国際大学で学んだ日本語を駆使して案内をしてくれた。部屋が準備出来るまでの時間を利用して通常であればWelcome Letterでしかその存在を認識出来ないGeneral Managerの生挨拶を受けることとなった。妙齢の女性GMはたどたどしいながらも棒読みで正確な日本語で歓迎の意を表し、その場で快適な滞在が保証されたのであった。

Moana Resortに隣接するように広がる浅瀬のラグーンはタヒチで最もきれいな海といわれているマティラ・ビーチでボラボラ島では唯一のパブリックビーチとなっている。特に海水浴客が大挙して押し寄せてくる雰囲気でもないので、心を空にして澄んだ海と向き合うのには最適な場所であろう。

Moana Resortの客室は大きく分けて水上バンガローとビーチバンガローで構成されているのだが、今回はThalasso Spaで散財し、JCBが1ヵ月後くらいに危機に陥れるはずの財政状態を考慮して安価なビーチバンガローを予約しておいた。とはいえ、部屋代は他のリゾートのレートよりは圧倒的に高いのでここでも相当な出費は覚悟しておかなければならないのだ。

ビーチ&プールサイドのバーでビールを流し込んで昼食の代わりとすると目の前に広がる透明な海に身を委ねることにした。泳いでも歩いても水深はへその位置を越えることは無く、水底に転がるウニと戯れながらセラピー効果を高めていた。

夕暮れ時に戻ってきたマティラ・ビーチはサンセットビューポイントとしても有名で海浴びをして戯れながら西日を見送る原住民の姿は太古から変わらぬ営みそのものであったのだ。

7月16日(火)
ボラボラ島上陸後、丸々3日間はホテル敷地内のビーチやラグーンの美しさに魅せられてホテルにへばりつくような過ごし方に終始したのだが、高い部屋代も常識的レベルの高さに落ち着き、もはや元を取るのに躍起になる必要はなくなったので今日は島を一周するアクティビティに参加することにした。

昨日のチェックインの段階でコンシェルジュのベイに相談してVauvau Adventuresが催行する4×4ジープサファリツアーの午後の部を常識的な値段で予約していたのでピックアップ指定時間の午後1時半にロビーで待っていた。何らかの不手際で30分程遅れてやってきたのはイタリアのスーパーカーであるマセラティ・ボーラ(Bora)ではなくボロボロ系の4WDであった。

FTB一行の他、米国からの観光客2組を荷台シートに乗せてツアーの火蓋は切って落とされたのだが、ビューポイントの高台に向かうべく、オフロードの急坂をビーストモードに切り替えて駆け上がる時にV型8気筒320馬力を誇るマセラティ・ボーラでも4WDジープには太刀打ち出来ないことがすぐに理解出来た。

このツアーは単に景色の良い見所を巡るだけでなく、島の成り立ちや地理、歴史、文化の説明もふんだんに含まれる教育的側面も持っている。ボラボラ島は火山活動で形成され、ラグーンを囲むように珊瑚礁の外輪島が点在しているのだが、この大きなカルデラは阿蘇の外輪山と中央の阿蘇五岳の関係に近いものがある。本島の中央には標高727mのオテヌマと661mのパヒアがそびえ、オテヌマは東の外輪島に位置するInterContinental Hotels Bora Bora Resort Thalasso Spaの方角からは「いいね!」に見えるが、島の南から見るとぬりかべにとして立ちふさがってしまうのだ。

高台からリーフの方向に目をやると世界中の色々な青をこの場所に集約させたようなグラデーションが美しく、この景色を目の当たりにすることがジープサファリツアーの最大の醍醐味であることは間違いないであろう。ちなみにボラボラの海は自然に出来たものだけでなく、人工的に形成された場所もあるとのことであったのだが、1941年12月8日に日本が真珠湾を奇襲した後、米軍は太平洋の覇権を守るために新たな軍事拠点が必要となり、ここボラボラ島に軍艦が入港できる港を造成する目的でダイナマイト爆破により水深を稼いだ暗い過去も忘れてはならない歴史の一部である。

自然のグラデーションの感動もさめやらぬうちに高台から撤収し、家内制手工業が展開する人工的なグラデーションを作るパレオ工房の見学へと移行した。出迎えてくれた猫店長の背後には植物等の自然由来の染料で染められたカラフルなパレオが風にたなびいていた。

見学者接待用のカットフルーツをほおばりながら、柄付けのデモンストレーションを行っていただいたのだが、出迎え時に作業台に上っていた猫店長はその後、少年から折檻を受けて足蹴にされ、見送りをすることなく引きこもってしまったのだ。

海沿いの遺跡のような石垣のような石壁の名残と亀の象形文字が刻まれているマラエ(野外宗教施設)でしばし歴史の授業が開かれた。ここにあった石造りの祭祀場ではかつて自然災害対策として少年少女の島民がいけにえとして捧げられる風習が長らく続けられていたが、、西洋人の侵略による文明開化ですべてキリスト教の神のご加護へと転身させられたとのことであった。

次の高台のビューポイントへは舗装路から轍路を通って到着し、ジャングルっぽい場所で車を降りた。近くの岩の表面の多くの穴はダイナマイト充填用に空けられたもので見渡しの良いこの場所には米軍の7インチ砲が数キロ先の標的をロックオンしていた。この大砲は軍艦から移設したものを岩の台座に固定したもので、結局太平洋の覇権獲得に失敗した日本軍の侵攻の脅威がないまま、その咆哮は封印され、野ざらし歴史遺産への道を辿っているのである。

周囲40kmあまりのボラボラ島をほぼ一周し、最終ポイントとなる南東の高台に上がった。ここからはタヒチ発祥の地として歴史的に重要なライアテア島とその姉妹島のタハア島の遠景を拝むことが出来る。東南アジア(フィリピンか?)から流れてきたポリネシア人の祖先達が一番最初に漂着したのがライアテア島で、その時彼らはこの地こそ伝説に伝えられる「ハバイイ」(魂の故郷でもある聖なる地の意味)だと確信したという。

ライアテア島はその後、ポリネシアの王族や信仰の発祥の地として長い間すべての中心として存在した。さらにポリネシア人はこの島からハワイ、ニュージーランド、イースター島へとカヌーでわたり、ポリネシアン・トライアングルという一大文化圏を作っていったのだった。

夕暮れ前にホテルに戻り、近隣のスーパーで買ってきたヒナノアンバー缶ビールと日本製スナックで水分と塩分を補給しながら部屋のテラスでクールダウンさせていただいた。

今夜はビュッフェ料理を肴に地元ダンサーによるタヒチアン・ダンス・ショーが開催されるということなので中庭のステージフロントの特等席を予約していただいた。お約束のダンスが一通り終わるとダンサーに指名された観客がステージまでエスコートされ、一緒に腰振りダンスを強制させられるシステムになっているのだが、ピンクレディーの♪ペッパー警部♪を彷彿とさせる大股開きの振り付けを習得するには滞在期間が短すぎるのだった。ショーが終了し、♪夢からうつつに戻された♪客にはダンサー達との記念撮影が待っており、皆一様に「ボラボラ!」との掛け声とともにポーズを取っていた。

7月17日(水)
高級リゾートに4泊して財政状態をボロボロにしたはずのボラボラ島から撤収する朝を迎えた。

早朝のマティラビーチには人影は無く、朝日に照らされた椰子の木の影が透明な水面に映し出され、これから進むべき方向を示唆しているかのようであった。

10時40分発のシャトルボートに乗るべく桟橋に向かうと異例のGeneral Managerの見送りとともに加山雄三曲のレパートリーを持つウクレレ従業員が浮かれた気分が盛り下がらないように配慮してくれたので彼らとの再会を約束してボートに乗り込んだ。

ラグーンを疾走するボートは名残を惜しむまもなく空港へと元宿泊客を送り届け、12:15発VT435便で地上最強の楽園であるはずのボラボラ島からTake Offとなった。

景色の良い席の確保に失敗したため、ふぁ~ぁ~とあくびを決め込んでいるといつの間にかファアア国際空港に到着していたので、タクシーを捕まえて一路フェリー乗り場に移動した。首尾よく午後2時発のテレバウ社の高速フェリーに乗船出来たので2時半にはモーレア島へ上陸することが出来たのだった。フェリー乗り場の目の前に出店しているAVISレンタカーで手続きをしながらフランス領ゆえ、ゴーンが風とともに去った後のルノー車が割り当てられると思ったのだが、中国製のBYD車のレンタルとなったため、ガーンとなった気分を振り払うこともままならず左ハンドル5速マニュアル車のウインカーを操作したつもりがワイパーを動かしながら海沿いの道路を走り出した。

島を半周し、約40分程でポイントを使ってただで泊まることが出来るIntercontinental Moorea Resort & Spaに到着した。このホテルには約1年ぶりの帰還となったのだが、ドルフィンセンターのイルカや保護センターの海亀は変わることなく景色の一部となっていた。

今夜はビーチのビュッフェレストランで伝統舞踊のショーが行われるということだったのだが、昨晩ボラボラでフィーバーしたばかりだったので違うレストランにエスケープして創作シーフードを発注した。舟盛の魚介類を食べ進めるうちに味がくどいと思いながらもビーチの喧騒に聞き耳を立て、モーレアのアットホームな雰囲気を懐かしんでいた。

7月18日(木)
たとえ中国製とは言え、車があるということは観光の自由度が大きく広がるというメリットを享受出来るので早速BYD車をぶん回して近くのショッピングセンターへとしけこんだ。ボラボラ島で猫店長率いるパレオの工房を見学して是非とも土産に買って帰らなければならないとの義務感にかられていたので「ナチュラル・ミスティック」というギャラリー兼ショップに足を運んだ。量産品ではない一点ものが並ぶ数多くのデザインの中から気に入った色合いのものを空港やホテルのショップで買うよりもお得な値段で入手出来たので意気揚々とホテルに戻ってきた。

一流画家ゴーギャンにして「古城のようだ」と言わしめたモーレア島のパノラマを堪能出来る高台まで車を走らせる道すがらぽつんと一頭馬と出会ったので軽くご機嫌取りをしてやった。

ベルベデールという展望台の駐車場はほぼ満車状態で4輪駆動のバギーに乗って島のオフロードを走るクアッドツアーの一団も遠慮がちに道路わきのポジションを確保して、モーレア島のシンボル的存在である標高880mのモウアロア山やふたつの湾の間にそびえる標高899mのロツイ山等の絵葉書のような絶景に見入っていた。

Late Check outの午後2時までしばらく時間があったのでホテルに戻り、ビーチバーで薄いわりに値段の高いアイスコーヒーとNachosをほおばっていると将来は有望な卵製造機やチキンソテーになることが約束されているはずのひよこ集団が首を前後に振りながらおすそ分けを求めてきたので施しを与えなければならなかった。

昨日のモーレア島の上陸以来すでに島を半周していたのだが、残りの半周はマサに輝く景色の連続であった。入り江に停泊するクルーズ船を見送り、マウヴァビーチの透明感で心を潤した後、トアテア展望台という高台に到着した。この場所はソフィテルホテルが仕切っている「水上バンガローとラグーン」の絶景ビューポイントで眼下にはモーレア島で一番美しいビーチといわれる「「テマエのパブリックビーチ」が広がっており、その先にある海と空の隙間にはタヒチ島が腰をおろしているのである。

この景色を目にしていつかソフィテルの水上バンガローを制覇しなければならないと心に誓いながらフェリーでモーレア島を脱出し、帰国準備のためにタヒチ島のIntercontinental Tahiti Resort & Spaに移動した。チェックイン手続き後、屈強な原住ポーターに荷物を運んでいただくとWelcome Drink券を握り締めてオーシャンフロントプールのバーに向かった。

テキーラのカクテルと夕日のカクテル光線のコラボレーションで最後のマリン・アクティビティを締めると晩餐の席では鹿肉のソテーと一緒に幻想のようなツアーの思い出を噛み締めていた。

7月19日(金)
夜明け前の早朝5時に迎えに来たタクシーに乗り込み、恒例のふぁ~ぁ~というあくびが収まらないうちにファアア国際空港に到着した。7:15発TN78便は定刻どおりに出発となり、「モアナと伝説の海」という漫画映画を見ながらはからずも今回学習したタヒチの伝説のおさらいをすることとなったのだ。

7月20日(土)
♪夢からうつつに戻された♪午後2時過ぎに成田空港に到着。♪カーモン ベ~ベ~ アメリカ♪というリズムとともに車を預けていたUSAパーキングで洗車済みの車を受け取り、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 AIR TAHITI NUI = ¥0、AIR TAHITI = ¥47618
総宿泊代 CFP365,805 (CFP 1 = ¥1.04)
総タクシー代 CFP6,300
総インターコンチネンタルホテル送迎フェリー代 CFP36,116
総4WDツアー代 CFP8,500
総レンタカー代 ¥9,693
総ガソリン代 CFP700
総フェリー代 CFP2,320

協力 AIR TAHITI NUI、AIR TAHITI、IHG、AVISレンタカー、Vauvau Adventures

祝令和ツアー第一弾FTBはるかシルクロード敦煌の砂漠

令和なる新時代を迎えた今日この頃であるが、昭和が最終回に入った1988年の夏、大和証券の新入社員として営業成績を上げるべく激戦地の兜町周辺を奔走する毎日に疲れていた私はいつしか飛び込み営業もそこそこに映画館で時間を潰す日々を繰り返していた。映画評論家への転進が視野に入り始めた頃、若き日の佐藤浩市や西田敏行がスクリーンで躍動する「敦煌」という映画に魅せられ、私もいつしか敦煌の砂漠で身を清めることになるだろうとの予見を胸に、豚骨ラーメンの聖地である北九州支店に流されて行った。30年にもおよぶ平成の世を平静にやり過ごしているうちに中国の大動脈はシルクロードから一帯一路に進化しつつあるものの、時代の転換期である令和初日に縁あって敦煌行きのミッションを実行することとなったのだ。

2019年5月1日(水)
各テレビ局が競って放映している新時代への改元の儀式への注目もほどほどに、昼過ぎにGWの中だるみが見られる羽田空港へそそくさと移動し、ANAの搭乗案内スクリーンが映し出す「祝令和」の文字を横目に17:20発NH963便にご祝儀の期待を抱きつつ乗り込んだ。機内では特に鏡割りのサービスがあるでもなく、すでにANA Suiteラウンジで暴飲暴食の限りをつくしていたので機内食には見向きをせずに機内ビデオで放映されている「101回目のプロポーズ」の「ぼくは死にましぇん」という決め台詞を右から左に聞き流していた。

1時間の時差を越えて午後8時過ぎに北京首都空港に到着すると小腹を満たすために小辛ラーメンを流し込み、タクシーを捕まえて予約しておいたHoliday Inn Beijing Airport Zoneに移動して速やかに休ませていただくことにした。

5月2日(木)
早朝5時から運行開始するホテルのシャトルバスに乗り込み、北京首都空港のターミナル3まで送迎していただいた。朝の早い時間から空港の国内線カウンターはおびただしい数の搭乗客でごったがえしており、プレミアムチェックインが期待出来るAir ChinaのStar Alliance Goldの列を探したが見つけることが出来なかったので一番端列の最後尾にへばりつくことにした。絶え間ない横入り客のため、列の進みは芳しくなかったもののチェックインの担当者は私が上客であることを理解し、手荷物にも通常通りのPriorityタグを付けてくれたので溜飲を下げながら搭乗口に向かった。

チェックインで出遅れたため、すでに搭乗開始となっている6:40発CA1287便に乗り込むと約3時間30分かけて中国の東端から西端へと移動した。飛行機が高度を下げるにつれ、タクラマカン砂漠の荒涼とした景色に刻まれたシルクロードの道筋がくっきりと浮かび上がるとともに喜太郎のシルクロードのメロディが頭の中を駆け巡り、時を越えてよくぞここまで来たろうという感動で心が埋め尽くされたのであった。

10時過ぎに敦煌空港に到着し、女性ドライバーの客待ちタクシーに乗り込むと車窓を流れる乾いた景色からオアシスグリーンを経由して約15分ほどで市街地に到着した。Agodaに予約させておいた日本人観光客御用達の☆☆☆☆ホテルである敦煌太陽大酒店にチェックインを試みたものの、日本語を操るフロントレディが予約がうまく通っていないという動揺した表情を浮かべており、最上階のPremier Deluxeルームにたどり着くまでかなりの時間を要してしまったのだった。

敦煌初日である今日は特にこれといった予定を立てていなかったので、とりあえずコンパクトにまとまっている敦煌市街地を散策することにした。かつてはシルクロードを代表する交易都市だったわりには人が少ない印象で、中国の大都市を練り歩く時の人いきれとは無縁のリラックス状態で町の雰囲気を楽しむことが出来るのだ。

市街地の目抜き通りの中央交差点に鎮座する飛天は仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人でシルクロード経由で各地に伝わり、敦煌のシンボルとして崇め、奉られている様子で、新高輪プリンスホテルの「飛天の間」の拝金主義とは一線を画している優美さを醸し出していた。

まだ夜には程遠い時間であったが、空腹を満たすために敦煌夜市の門をくぐることにした。ワゴンショップの土産物屋や多くの屋台は開店前で閑散としていたのだが、一部営業活動を展開している食堂の客引きは積極的でその勢いにつられるように入店し、適当な地元料理を賞味させていただいた。内陸地域のため、肉料理のメニューが圧倒的に多かったのだが、ひき肉を乗せた黄麺や塊あぶり肉の表面をこそぎ落として供されるケバブ系の食べ物はそれなりに美味であった。

市街地にはこれといった見所もなく時間を持て余すこととなったのでさらに散歩を続けていると町中にはチリひとつ落ちてなく、スカーフで防塵対策を施した掃除人があちこちでほうきを手にレレレのレ活動に勤しんでおり、この町の主要産業は観光と清掃ではないかと思わずにはいられなかったのだ。

5月3日(金)
朝7時より供される朝食会場には昨日は気づかなかった日本人観光客が数多く集散しており、祝令和よりも観光を優先させたはずの彼らは野菜中心の健康的な惣菜や中国粥、主食であるはずの牛肉麺に舌鼓を打っていた。

今回のツアーのハイライトである敦煌のシンボル、「砂漠の大画廊」と称される世界遺産「莫高窟」の見学を確実のものとするために中国の旅行会社である西安中信国際旅行社に高値を支払い、敦煌1日観光を申し込んでいた。朝8時に張し玉と名乗るうら若き観光ガイドギャルがSUVの運転手を伴ってホテルまで迎えに来たので専用車に乗り込んだ。道すがら張嬢は大連で2年間日本語を学んで日本語観光ガイドの職を得たとのことであったが、このツアーで彼女の一番得意な日本語であるはずの「お手洗いは大丈夫ですか?」という基本フレーズを何度も聞くことになるのである。

ホテルから10分程度のドライブで莫高窟数字展示センターに到着した。お手洗いに行っている間に張嬢がチケットを買って来てくれたので長い行列の最後尾に並び入場を心待ちにしていた。入場待ちの列の進み具合がやけに悪いと感じていたのだが、ある瞬間から一気に進み始め、最初に入った映画館のような場所で1本目のビデオを見せられた。さらにプラネタリウムを彷彿とさせるドーム型のシアターに移動するとすばらしい仏教画や仏像の3D映像が次々と大迫力で目の前に迫ってきたのであった。

2本の感動的なビデオで莫高窟見学の気分を盛り上げさせられた後、おびただしい数の観光客をさばくために運行されている多くのシャトルバスの先頭車に乗り込むと荒涼とした景色の中を15分ほど走り抜け、ついに莫高窟への悠久の扉が開かれる入り口へと到着した。

莫高窟勤務の中国人日本語ガイドのコストパフォーマンスを最大化するために集合場所に決まった数の日本人観光客が集まるまでの時間はちょっとした記念撮影タイムとなり、皆整然と莫高窟の看板の下のベストポジションを譲り合っていた。

ところで、莫高窟とは敦煌市の近郊にある仏教遺跡で別名、千仏洞、敦煌石窟とも称される。岩窟群は4世紀から約千年間、元代に至るまで淡々と彫り続けられ、大小492の石窟に彩色塑像と壁画が保存されており、仏教美術として世界最大の規模を誇っている。雲崗石窟、龍門洞窟とともに中国三大石窟のひとつに数えられている。青い制服を着た日本語ガイドの説明によると492の石窟はすべて公開されているわけではなく、ロシア革命時に北の国から流れてきた難民がいくつかの石窟の中でアウトドアライフを余儀なくされた 時のバーベキューの煙で内部がいぶされ、すでに修復不可能となっている壁画もあるというではないか!

とにもかくくにも多くの団体を効率よくさばくべく、粛々とツアーの開始となったのだが、残念なことに石窟内部は写真撮影禁止となっているためシルクロードを伝わって調達した多くの種類の顔料を粘土に溶いてなすり付けて彩色した保存具合の良い壁画や仏像をあらためて見るためには石窟の入り口にインストールしてあるバーコードをスキャンしておかなければならないのだ。

遣隋使、遣唐使の時代から宋、西夏、元と中国の歴史が移り変わるにつれ、仏教画の画風や色彩も変化しており、女性だけの寄進者の石窟が出現したりとバラエティに富んでいるのだが、多くは宋、元、清の時代に修復が入ったもので隋、唐時代のオリジナルのまま残っているものは大変貴重なので観光客は心してその光景を胸に刻み込むことが推奨される。

ついに莫高窟を世界に知らしめた「第17窟」に入場する瞬間を迎えることに相成った。1900年、一人の道士が莫高窟の第16窟に進入したところ、入り口の右手の壁にクラックが入っているのを見つけ、掘り進めたところ、多数の経典や仏画などが見つかったのだ。それらの多くはフランス、イギリス、日本などの探検家に買い叩かれて、持ち去られたものの、発見された古文献を研究する「敦煌学」という学問が成立する契機となったのだ。

なぜ4万点もの書画や経典が「第17窟」に隠され、壁に塗りこまれていたのかは今もって謎とされているが、井上靖の小説「敦煌」によると西夏軍に攻め込まれた敦煌が火の海となったときに貴重な経典を「灰にしてはならん」と思った敬虔な仏教徒たちが佐藤浩市の指示のもとで石窟に避難させたという説が日本人の心情に最も訴えるはずであろう。

2時間あまり続いた見学もクライマックスをむかえ、莫高窟のシンボル九層楼で締めることとなった。九層楼は莫高窟の第96窟で、俗に大仏殿と呼ばれている。高さ43mを誇り、9層を重ねた軒があり、うちの7層は山に寄りかかって築かれたが、上の2層は山を突き出して建てられた。洞窟内に弥勤の坐像が彫塑されており、石造で彩色絵画が施された泥彫塑で、高さ34.5m、幅12.5で、中国では第五番目に大きい仏像で、世界では現存する室内泥彫聖の第一大仏を誇る。仏像は唐代につくり始めたが、後代に幾度再建を繰り返しても、依然として従来の風貌が保たれているのである。

最高気温28℃まで達した乾燥晴れの中で無事に莫高窟の見学を追え、FTB一行は青い服の日本語ガイドから張嬢へと引き渡された。予約していた昼食の時間も押し迫っているようで、30年前にこの地を訪れた佐藤浩市、西田敏行の幻影に思いをはせる間もなく近郊の昼食会場へと移動した。高い観光代を払っているだけあって、昼食メニューは若鶏1羽まるごと鍋でぐつぐつにした敦煌の郷土料理や羊肉の串焼き等食べきれない品々が食卓を賑わした。

丸々太った若鶏にしゃぶりつき、鶏がらへと変身させるとその勢いを駆って次の目的地である鳴沙山へ向かった。トリップアドバイザーの敦煌観光地ランキングで莫高窟に次いで2位となっている鳴沙山は敦煌の市街区からわずか5kmに位置し、その砂山の長さは東西約40km、南北約20kmにもおよぶ広大なものである。風が吹くと「砂が鳴く」ような音を出すことから鳴沙山という名称になっているのだが、砂が鳴くような音をたてる現象は、物理的には長い年月を経て、砂粒の表面がきわめてよく洗浄され,微粉状の物質が付着していないことが重要だという。

鳴沙山くんだりまで来てラクダに乗らないと、シルクロードに来たにもかかわらずシルクのような透けスケの観光に成り下がってしまうことを恐れて100元の大枚をはたいてケツの筋肉を鍛えなおすことにした。多数の頑固そうなラクダがたむろしているラクダステーションでアサインされたラクダは前後の足を折り、正座して観光客を待ちうけ、池中玄太80キロに迫ろうかという私の肉体を軽々と背にしてゆっくりと歩き始めた。

ラクダドライバーの先導により、隊商は足場の悪い砂漠を慎重に進み、観光客が落ラクダしないように配慮されていたのだが、ラクダの機嫌次第では振り落とされそうな体勢に持ち込まれるため、常に手綱を引き締め、ケツのポジションを調整しなければならなかった。途中2箇所で記念撮影のための時間が設けられ、ラクダドライバー兼写真家の演技指導により、ポーズを取ることを強制されたのだった。

約1時間のシルクロード体験を終えると、張嬢のすすめで鳴沙山への登頂を試みることになったのだが、張嬢は「私は下で待ってます」とのたまったのだった。急角度で上昇する滑りやすい砂道ははしご状に埋め込まれたロープでサポートされているものの、息を切らした登山者はさわやかな砂風に吹かれながらその場に立ち尽くしていた。「滑沙」という有料の砂すべりアクティビティが人気を博しているのだが、その陰には修行僧のようにすべり板を運び上げる労働者の努力があるという事実を忘れてはならないのだ。

ある程度高度を稼いだところで振り向くと遠く敦煌の市街地が蜃気楼にように見え始め、三日月型の「月牙泉」の雄姿が砂山の裾野にあらわとなったのだ。

あらためて月牙泉フロントでそのオアシスぶりを眺めて見たのだが、砂漠の中にあって何千年前から絶えることなく湧き続けている神秘性に思わず引き込まれそうになってしまった。泉のそばには楼閣もあり、砂漠と水と建物のコントラストは敦煌の代表的な景色として多くのトラベラーを引き付けてやまないのだ。

敦煌観光のハイライトを駆け足で巡り、身も心もカラカラになったので、ホテルに戻って麦酒アルコールで水分を補充し、しばし休憩を取った後、夕食を取るために敦煌夜市に繰り出した。とある店先で一心不乱に木の円板に飛天を彫刻している青年の姿に釘付けになったものの、数ある食堂の客引きの声援を受けながら適当な一軒の店のテラス席に陣取った。途中となりの店で警察沙汰に発展した小競り合いがあったのだが、特に気にするでもなく地元料理を腹におさめるとライトアップされている飛天を見て体のバランスを取り戻しつつ太陽大酒店に帰還した。

5月4日(土)
晴れているのか、曇っているのか区別がつかないのは鳴沙山おろしで舞い上がった微小な砂粒が大気とコラボレーションしているせいであろうか?おかげで敦煌に着いてから今日まで謎のアレルギー症状が発生し、日本では花粉症耐性を持つ私の目、口、鼻を容赦なく蝕んでいた。清掃業者であるはずの五幸福田の従業員に対策のノウハウを聞きたいところだったが、敦煌の最終日を有効活用すべく「敦煌博物館」へと足を向けた。

チケットカウンターでパスポートを提示するとただで入場出来るシステムになっていたので遠慮なく広い館内を散策させていただいたのだが、莫高窟の仏教画のレプリカとともに私の印象に残ったものはマイクを持つポーズを取っているかのような石像のコーラスグループだったのだ。

昨日夜市で目を付けておいた飛天の彫刻をファーウエイのスマホの計算機でコミュニケーションされた言い値で購入すると洋風の喫茶店で午後のコーヒータイムと洒落込み日中はのんびりと過ごさせていただいた。夕食を取るためにホテルに早めに戻り、青島ビールを頼んだものの出てきたのは黄河ビールだったのだが、特に大差はないので気にしなかった。

前日に交わした約束の時間にたがわず、張嬢が午後8時に運転手つきのセダンに乗ってホテルに迎えに来てくれた。敦煌郊外の劇場では日夜シルクロードを題材にした劇が公開されているとのことだったので敦煌のラストナイトは観劇で決めることにした。

定刻8時半に開演となった絹路花雨「シルクロードの花吹雪」はミュージカル仕立ての活劇で飛天をモチーフにした踊り子を中心にアクロバティックな演者たちが舞台を縦横無尽に跳ね回り、シナリオは幕間に大型スクリーンに中国語と英語のストーリーが表示されるので言葉がわからない輩もストレスなくシルクロードの世界に浸ることが出来るのだった。

午後10時過ぎにホテルに戻り、張嬢に観劇のチケット代と諸経費を支払おうとしたところ、今夜の観劇はプライベートということで運転手として張嬢の彼氏を夜遅くまで引っ張りまわしているので観劇代だけ受け取ることにすると言い放ち、中国の観光業の従事者としてありえない特別対応をしていただいたことはこの場を借りてお礼を申し上げるべきであろう。

5月5日(日)
昭和、大和(証券)、令和にまたがって抱き続けた敦煌への憧憬を舞い上がった砂粒のように昇華させることが出来たので、充血した右目を手土産に11時発CA1288便で北京への帰路に着いた。高速鉄道、地下鉄を乗り継いでホテルに到着した時間が中途半端だったものの近隣の観光地、世界遺産の天壇にはかろうじて入場出来る時間帯だったので明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所の一角(15元)に足を踏み入れることにした。

天壇でもっとも有名とされる建造物の一つで、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在とされる祈年殿は入場時間の関係で遠巻きにしか眺められなかったものの、高い青空の下に広がった緑の楽園で、ここが悪名高いPM2.5の聖地であることが信じられないほど、のんびりとした時間を過ごすことが出来たのだ。

天壇散策で胃腸が活発に動き始めたので繁盛してそうな近隣の町食堂に入店し、名物北京ダックに舌鼓を打つことにした。北京で食する北京ダックはマサに本家中の本家の味で、そのまま天壇に向かって昇天しそうなくらいコストパフォーマンスが高かったのだ。

5月6日(月)
早朝5時半にホテルからタクシーで空港に移動し、8:20発NH964便で羽田に向かった。機内映画の「ボヘミアン・ラプソディ」を見ながら♪ボヘミアン♪と言えば葛城ユキの代名詞ではないかと思いながら、敦煌でハスキーになってしまった声をいたわりつつ流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥78,230、 Air China = ¥74,720
総宿泊費 RMB2,764.86
総鉄道、地下鉄代 RMB29
総タクシー代 RMB245
総敦煌1日観光代 ¥20,700

協力 ANA、Air China、IHG、西安中信国際旅行社
非協力 Agoda

FTBJ平成最後の流氷遊ウォークと知床残氷ツアー

ボンよ、日本政府とロシアとの北方領土返還交渉が暗礁に乗り上げている今日この頃だが、北方領土周辺を埋め尽くす流氷の動きを氷のような頭脳で日々分析し、満を持して北の国からのレポートをお届けする時期となったのだが、さて結果やいかに。

2019年3月9日(土)
AIR DOとの共同運航便であるANA4777便は定刻より約15分遅れた11時半頃の出発となり、約2時間のフライトで午後1時過ぎにロコ・ソラーレの本拠地であるはずの女満別空港に到着した。早速ニッポンレンタカーでワゴンR をレンタルすると「そだね~」の聖地である常呂町のカーリング場に向かう変わりに一路知床半島を目指してひた走った。

長時間運転が眠気を誘い、うとろうとろしそうな状態を何とか持ちこたえることに成功した午後3時前にウトロに到着すると早速ゴジラ岩の麓にオフィスを構えているゴジラ岩観光の駐車場にワゴンRを滑り込ませた。

海外からの団体と思われる観光客がドライスーツに身を包んで観光バスで出発するのを横目に装飾を施せばウルトラマンの気ぐるみにもなりうるスーツの圧迫感を全身に受けながらワゴン車に乗り込むとものの数分で流氷遊ウォーク(¥5,000)の舞台であるウトロ漁港に到着した。

海へと続く階段を降り、防波堤の内海がカチンコチン状態になっている安定した海面に着氷すると大海原を目指して歩を進めていった。オホーツク海から流れてきた流氷が密集し、外海との境界となっている岸壁に出口をふさがれると内海全体が分厚い氷に覆われるため、歩きにくいドライスーツであってもスムーズに前進することが出来るのだ。

今日は気温が比較的高めで行進中にドライスーツの内部が汗だくになる懸念が大きかったので適当な氷の割れ目を見つけて頻繁に涼を取ることも大事であった。氷の下は流氷の天使クリオネを育む冷海であるが、遊ウォークの参加者の中にはクリオネをすくって踊り食いをした異邦人もいるという衝撃の事実が同行ガイドから告げられた。

数メートル先の海面に不自然な渦が巻いているような光景がふいに目に飛び込んできた。北方の海から流氷サーフィンで流れ着いたアザラシがついに海上に姿を現すかと期待でうずうずしたのだが、まるでアザラシにあざむかれているかのような感情が胸の中に渦巻くだけだったのだ。

約1時間の遊ウォークがとどこおりなく終わりの時間をむかえ、氷平線に向かって進む次の団体グループと入れ替わるように帰路についた。途中新鮮な氷を拾ってかじってみたものの夜の晩酌の水割りには供すことが出来ないので氷の味見はあくまでもライブで実行しなければならないのである。

ゴジラ岩観光オフィスを後にして温泉民宿旅館「酋長の家」を仕切っている老犬「コロ」が現役でいることを確認し、ゴジラ岩のシルエットが年々「いいね!」の親指化している現象を憂いながらウトロ地区を一望する見晴橋へと急いだ。

西の空へ沈み行く夕日が氷の微笑を映し出す光景はマサに神秘的と呼ぶにふさわしくシャロン・ストーンのようにすとんと太陽が沈みきるまで寒風に身を削られながら身じろぎもせずに立ち尽くしていた。

ウトロでの定宿になっている世界遺産の宿しれとこ村つくだ荘にしけこむと早速源泉かけ流しの「熊の湯」で冬眠状態になった体を解凍すると毛蟹をはじめとする北の味覚を味わいつくし、長い夜をゆるりと過ごさせていただいた。

3月10日(日)
流氷レーダーによる観測結果を受けて海氷は知床半島の東側の羅臼周辺に回りこんでいるだろうとの仮説を元にウトロを後にして一路昆布の聖地羅臼に向かうことにした。知床半島の付け根からのびる海沿いの道から見える海面は氷に覆われた白海ではなく澄み切った青海で流氷クルーズの催行に一抹の不安を抱きながら正午前に道の駅知床らうすに到着した。羅臼の観光船乗り場から出発するクルーズ船は複数あるのだが、その一部はすでに欠航を決め込んでいることが確認されたので流氷遊ウォークでお世話になったゴジラ岩観光のオフィスに駆け込み流氷クルーズの可否を問うたのだが、むなしく欠航が告げられたため、鈍氷で後頭部を殴られたような衝撃を覚えてしまったのだった。

日曜日の午後にもかかわらず羅臼の町は閑散としており、羅臼昆布を観光客に売りさばくはずの土産物店はどこも閉店ガラガラだったので冬期間閉鎖中の知床峠に続く道の途中で見つけた羅臼町郷土資料館で知床の豊かな自然をダイジェストで学ばせていただき、ついでにそこで売られていた羅臼昆布の端くれを購入することに成功した。

土産物屋は開いてなかったが、かろうじて営業していた食堂に駆け込むと壁一面が実物大羅臼昆布で埋め尽くされていたので勢いで羅臼昆布ラーメンを発注してしまった。透明なスープから湧き立つ湯気の香りとレンゲですくった液体を少し口に含んだだけで雄大な羅臼昆布の世界が一気に脳内に膨らんだ。さらに窓越しに見える小さい流氷が風に乗って流されていくさまが北の食材に対する味覚をさらに磨いていくようにも思われた。

♪あ”~あ”~あ・あ・あ・あ・あ”~♪

ということで「まんぷく」になったおなかをかかえて車に乗り込むと北の国から2002遺言で内田有紀との愛をはぐくんだ純の番屋を素通りした。繁忙期には食堂としての機能を果たしているようで美術さんの努力なしにその外観が朽ち果てることなく17年も保たれているのだった。

流氷の大半は遠く水平線の向こうに流されてしまっていたのだが、岸に乗り上げている屹立した残氷がこの地域に押し寄せる流氷濃度のすさまじさを語っていた。

知床半島を脱出し、標津町からオホーツク海に向かってマジシャンのひげのように伸びている野付半島に向かった。冬季のこの地域はがっつり凍った内海の野付湾と流氷が押し寄せるオホーツク外海とが対照的な景色を織り成しており、エゾ鹿やキタキツネ等の野生の王国としての一面も見せている。

今回の流氷ツアーではクルーズ船には乗れなかったが、着岸した流氷が織り成す新たな造形美を負け惜しむことなく堪能出来たのではないだろうかと考えながら夕日に向かって走っていた。女満別空港で原形野菜が入ったスープカレーを食して北の旅への締めくくりとし、午後7時発のANA4780で羽田へと帰っていった。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥46,480
総宿泊費 ¥21,400(二食付き)
総レンタカー代 ¥10,044
総ガソリン代 ¥2,700

協力 ANA、AIR DO、楽天トラベル、ゴジラ岩観光