シン・FTB第7次MLBツアー ♪ニューヨーク・ニューヨーク♪

ニュ~ヨ~~クへ行きたいかぁ~!
ウォ~~~~!!!

という福留功男日テレアナウンサー(当時)の掛け声と参加者の地響きアンサーにより幕を開ける「アメリカ横断ウルトラクイズ」は当時学生だった私の野望と好奇心を常に駆り立てる名作であった。また、1980年7月にリリースされた「パープルタウン」は八神純子により♪愛する気持ちを呼び覚ます都会(まち)ね Ne~w Yo~rk♪と歌いあげられ、当時の若者の心に大いなる刺激を与える名曲であった。

私が初めてニューヨークに足を踏み入れたのはパープルタウン発売7周年記念の1987年7月のことであり、その後長らくのブランクを経てイチローやゴジラ松井がニューヨークでセンセーションを巻き起こし始めた2000年代からしばしばこの地に通うようになっていた。とはいえ、田中マー君がヤンキースタジアムでデビューを果たした2014年を最後にビッグアップルの摩天楼から遠ざかっていたのだが、ついにその大きな谷を埋めるべくイベントがニューヨークで発生することとなったので嬉々としてNYで入浴する気持ちが芽生えてきたのであった。

6月7日(金)
羽田空港第二ターミナル発着の11:00発NH110便は定刻通りに出発すると手持ちのアップグレードポイントを使い果たしてしけ込むことに成功したB777-300機のビジネスクラスTHE ROOMに腰を落ち着けたのだが、座席が前後の向きを組み合わせて配列されており、私の席は進行方向に背を向けていたため、離陸時の重力に違和感を感じながらのスタートとなった。

約13時間のフライトでJFK国際空港に到着したのは午前11時過ぎで軽く米国への入国審査を通過するとAir Train ($8.5)、地下鉄($2.9)を乗り継いでまずは本日の宿泊先に向かうことにした。ところでNY市の地下鉄は長らくMetroCardで入場するシステムになっていたのだが、昨年よりOMNY(One Metro New York)が導入され、非接触型決済システムに対応したクレジットカードが使えるようになり、MetroCardもその役割を終える予定になっているのだが、カードを持たないはずのホームレスの皆様方にとっては地下鉄が益々ハードルの高い乗り物となっているようだ。

地下鉄で到着したペンステーションでNJ Transitという列車のチケットを購入すべき自動販売機の操作をしている最中にはしきりに$2をせびってくる輩につきまとわれたのだが、これこそマサにNY旅行の醍醐味であり、このようなアナログ無心行動が残っている現状に少し安心感を覚えたのだった。

ニュージャージー州を抜けてペンシルバニア州に向かうNJ Transitの運行もアナログそのもので乗車する列車のプラットホームが決まる直前まで乗客は駅の構内でなすすべもなく待たされるシステムになっていた。何はともあれダイヤの乱れが日常になっている様子のNJ Transit列車に乗り込むと約50分程でNewark Liberty International Airport駅に到着した。そこからさらに運賃無料のAir Trainに乗り換え、Parking 4駅で下車し、Hotel Shuttleの待ち合わせエリアでHOLIDAY INN NEWARK INTERNATIONAL AIRPORTのバスを待っていた。

30分程の待ち時間はあったものの無事にシャトルバスに乗車し、ホテルにチェックインすることが出来たのでベッドの上でしばし旅の疲れを取らせていただいた。
午後4時前にはホテルを出ると来た時と逆の手順でペンステーションに戻り、さらに地下鉄に乗って10年ぶりの帰還となるヤンキースタジアムを目指した。乗り換えが必要であったが、ヤンキースのユニフォームを着ている集団の背中を追っていると次第に人口密度の多い方へと誘われ、ついにスタジアム前の喧騒の中の一部と化すこととなった。

2016年以来のヤンキースタジアムでのカードとなる対ロサンゼルス・ドジャース戦は大谷人気も相まって日本人ファン率の高さに圧倒されながら流されるように入場ゲートを通過し、角度的には左打席の大谷フロントではあるが、ターゲットからは程遠い最上階の固いシートに腰を下ろしてプレーボールの瞬間を今か今かと待っていた。

グラウンドに目を向けるとドジャースの先発ピッチャーである山本由伸が独特のやり投げフォームで投げやりにウォーミングアップに精を出しており、勢い余った遠投の投球がキャッチボール相手の頭上を越えてスタンドに突き刺さる様子も垣間見られた。

48,000人以上の観客を集めて午後7時5分にプレーボールとなったゲームは1回表ドジャーズの攻撃で2番打者の大谷を迎えたところで早くも盛り上がりのピークとなった。ヤンキースファンのブーイングとドジャースファンの歓声が入り混じる中3-2のフルカウントからセカンドゴロに倒れ、続くフリーマンは自由人よろしくフォアボールを選んだものの4番打者のスミスのセカンドゴロで攻撃終了となり、淡々と進行するゲームのスタートとなった。

ハイサイおじさんを彷彿とさせる沖縄出身のデーブ・ロバーツ監督により自信をもってマウンドに送り出された日本最高峰投手である山本由伸がブロンクス・ボンバーズとの異名を取る強力ヤンキース打線とついに対峙することとなった。

1番、2番打者を簡単に打ち取り、次に打席に向かうのは大谷も見上げるほどの巨漢のホームラン打者であった。通算755号のホームランを打ち、世界の王貞治に抜かれるまでは世界一であった伝説のハンク・アーロンと同じ名前を持つアーロン・ジャッジに対し、カウント2-2から投じられたフォークボールに黒いバットが一閃すると打球はあっという間にレフト頭上を越える2塁打となってしまった。次打者スタントンもジャッジに匹敵するホームラン打者であったが、あっさり三球三振に打ち取られ1回裏の攻撃は事も無げに終了した。

ゲームはその後両チーム無得点のまま淡々と進んで行った。好投を続ける山本由伸の投法は足を高く上げないスライドステップで一部の野球通から「あっち向いてホイ」投法と揶揄されているが、これまでの試合では前後左右に振られる指の動きと相手の首の向きが合ったときに打たれていたような印象であったが、今日のピッチングはバッターの狙いが合った時でも力でねじ伏せられるほどの制圧振りであった。スピードガンによる直球の計測速度も自己最高の98マイルとなり、最終的には106球を投げてヤンキース打線を7三振の無得点に抑えきってマウンドを後にしたのだった。

試合はそのまま延長戦に突入し、タイブレークで無死2塁からの開始となるのだが、前の回に凡退した大谷は11回表には2塁ランナーとして復活し、フリーマン四球、スミスがセンターライナーに倒れた後、5番のテオスカー・ヘルナンデスが2塁打を放ちドジャースに2点をもたらせた。その裏の攻撃をジャッジのタイムリーヒットによる1点に凌いだドジャースが3連戦の初戦をものにするとハイタッチを交わすドジャース選手を祝福するようにフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪の歌声が高らかに響いていたのだった。尚、本日の大谷は5打数無安打と不発に終わり、日本人ファンの期待に応えるには至らなかったのだ。

試合終了後、数万人の観客が一気に流れてくる地下鉄駅に蟻の歩みのようにゆっくりと進んでいくと改札のところで腰位置からの前方圧力で回転するバーを飛び越えて入場している輩も多く見受けられたのだが、なるほどこの方法だとMetroCardやクレジットカードがなくても地下鉄に乗ることが出来るのであえて管理を甘くしてホームレスへの救済策として機能しているのではないかと感心させられたのだった。

6月8日(土)
地下鉄でペンステーションに到着したころにはすでに日付が変わってしまっていた。NJ Transitは相変わらず遅れを出しているようだったが、ヤンキースタジアムから流れてきた乗客は気にする素振りもなく、車内はマシンガントークの嵐で活気づいていた。結局ニューアークのホリデーインに帰って来れたのは丑三つ時を過ぎた時間であったろうが、時差ボケの影響もあったのであまり気にすることなく意識を失うことのみに専念しながら過ごしていた。

午前9時半頃覚醒すると昨夜入浴していないことに気づいたもののここはニューヨークではなくニュージャージーなので仕方がないことだと思いつつ、浅いバスタブに斜めに身を沈めて体内時計の調整を図っていた。ホテルのアメリカンブレックファストのスクランブルエッグはすでに固くなっていたのだが、胃袋の容積を満たすのには十分だったので腹八分目まで詰め込んだ後、昼寝と洒落こむことにした。

ホテルの客人にも3時間の時差を超えて飛行機を飛ばしてやってきたドジャースファンが多数いたのでユニフォーム姿の彼らとともに午後4時くらいにホテルを出ると昨日と同じ手順でヤンキースタジアムを目指した。今日の試合は昨日より30分遅い午後7時35分開始となる予定で夕食のポップコーンを買って席に着こうと思っていたころに始球式が始まった。

モニターを見上げるとヤンキースの背番号55番のユニフォームに身を包んだ日本人顔がマウンドから全力投球したものの投球は大きく右にそれる大暴投となってしまった。驚きはこれだけにとどまらず、始球式の主はヤンキースの共同オーナーとして君臨しているビズリーチの社長であり、暴投の原因はこの転職サイトを使わずに、60歳を直前にしてすでに転職先を決めてしまっている私への当てつけでないかと勘繰られもした。

今日のゲーム展開は昨日の試合であっち向いてホイに幻惑させられたブロンクスボンバーズの強力打線は鳴りを潜める一方でドジャースはテオスカー・ヘルナンデスの2本のホームランなどで大差が付けられていた。

私の席の斜め右前方に観戦マナーの悪いヤンキースファントリオがゲームが始まっても着席せずにはしゃいでいたのだが、いつの間にか彼らの声援はトーンダウンし、ついには周辺のドジャースファンに見送られて退散となってしまった。

食べても減らないポップコーンで口中の水分をすっかり奪われてしまったのでビール売りから$17のジャイアント缶ビールを調達したのだが、ビズリーチの社長が始球式後にビズリーチ女優がやっているような人差し指を立てるポーズを決めることが出来なかった憂さを晴らすようにそのデザインは「いいね!」の太い指を模したガチョウが「がちょ~ん」
と叫んでいるかのような図柄であった。

今日の大谷とジャッジの動向であるが、テオスカーに主役の座を奪われた大谷も3回表にきっちりレフト前にタイムリーヒットを放ち、4打数1安打でかろうじて存在を示していた。ジャッジの方は大差の負けゲームであっても彼のモチベーションは落ちることなく、2本の本塁打を放ち、ホームランキングの独走態勢に入って行ったのだった。

結局試合は11対3でドジャースが連勝し、このカードの勝ち越しを早々と決めてしまった。♪ニューヨーク ニューヨーク♪のメロディーに見送られ、ヤンキースタジアムのトイレで見た後ろ姿は松井の亡霊であったのか、また、ペンステーション近くで見上げたエンパイヤ―ステートビルは近隣のビルに反射してあたかも双子のビルに見えたのもニューヨークの幻かと思いながらホテルへの遠い道のりを引き上げていった。

6月9日(日)
午前中に2日間お世話になったHOLIDAY INN NEWARK INTERNATIONAL AIRPORTを引き払うとようやくマンハッタンへと拠点を移すこととなった。そもそも週末のマンハッタンのホテル代が異常に高かったのでやむなく郊外のホテルに投宿していたのだが、日曜になって価格も落ち着いたのでロウアーマンハッタンのウォールストリートに程近いHotel Indigo NYC Financial Districtへと颯爽とやってきたのだ。

最上階の部屋からウォール街のシンボルであるトリニティ教会を見下ろした後、ブランチのチーズバーガーで腹をこなすとお金の匂いにつられるように金融街へと流されていった。

世界の代表的な株価指数であるNYダウ、NASDAQとも史上最高値を更新している昨今であるが、関連ニュースで必ず目にするモ~モ~が「チャージング・ブル」というウォール街のシンボルである。この牛の銅像は1987年の株式大暴落、いわゆるブラックマンデーを受けて「アメリカのパワーの象徴」を意味して作られたそうだが、ゲリラ・アートとして1989年12月15日にロウワー・マンハッタンのニューヨーク証券取引所の向かいのブロード・ストリートの中央にある60フィート (18 m)のクリスマスツリーの下に突然設置されたというではないか。当初警察はこの銅像を押収しこの銅像は拘置されたが、人々の激しい抗議によりニューヨーク市公園・保養局がこの銅像を証券取引所から2つ南のボウリング・グリーンの広場に正式に設置することを決めたそうだ。大人気のこのモ~モ~はも~勘弁してくれと言わんばかりの長蛇の列の観光客の撮影スポットになっているのだが、A面の顔面だけでなく、なぜかB面のケツの下も執拗にマークされているようであった。

LAD v.s. NYY3連戦の最後の日は少し早めにスタジアムに繰り出した。「Pregame Glimpse of Greatness: A Peek Inside Yankee Stadium」というゲーム開始前のヤンキースタジアム内の見学チケットを買っていたのでツアーが始まる4時35分前には入場ゲート前に並んでいた。ヤンキースタジアムにはバックスクリーンの手前が防球網に守られたモニュメントパークになっており、そこにはヤンキースで活躍し、永久欠番としてその名を刻んだ名選手たちの伝説が奉られている。

27回のワールドシリーズ制覇を誇るこの球団の歴史を彩る名選手の中でも野球の神様ベーブ・ルースの存在感は群を抜いており、近年の大谷選手の二刀流の活躍でさらに脚光を浴びているのだが、このモニュメントパーク内を一周するとここの主が誰であるか一目瞭然となっている。

ヤンキースのオーナーであるジョージ・スタインブレナーはぶれない強引さと傲慢さで常勝軍団を作り上げ、その栄光の証として掲げられた最大のモニュメントは名選手たちに囲まれたセンターに君臨しているのである。

グランドの中では試合前のバッティング練習が行われていたのだが、大谷の姿はそこになく、今年からショートを守っているムーキー・ベッツがむきになって守備練習を繰り返している姿にプロフェッショナルとしての生き様を感じた。

今日の試合はヤンキース有利の展開で6回裏終了時のグラウンド整備員による♪YMCA♪も連敗による♪ゆううつなど 吹き飛ばして 君も元気出せよ♪と日本語で言わんばかりの諸手の上がりようだった。

試合のハイライトは4打数3安打2打点と大暴れのジャッジの活躍であったが、最大の見どころは8回の表と裏の攻防であった。8回の表は大谷の左翼線打ち損ないの2塁打から始まりフリーマンの自由に打てる状況だが、チームバッティングの内野ゴロで大谷は3塁に進んだ。続くスミスはライト定位置にフライを打ち上げ、そこには強肩のジャッジが手ぐすねを引いて待ち構えていた。捕球後タッチアップのスタート切った俊足の大谷と150㎞以上のジャッジの送球の一騎打ちとなったのだが、間一髪のタイミングで滑り込んだ大谷の右足がいち早くホームベースの一角をとらえたのであった。

このシリーズの主役は誰であるかというジャッジが下されたのは8回裏のヤンキースの攻撃であった。それはLADのテオスカーでもShow Timeでもなく、この回の先頭打者として登場し、飛距離434フィートの特大弾をレフトスタンドに叩き込み、NYYの勝利を確信付けたジャッジ自身であったのだ。

6対4で勝利したヤンキースナインを祝福する♪ニューヨーク ニューヨーク♪のリズムは格別で多くのファンは最高の気分でスタジアムを後にした。スタジアムを出たところの路上でジャッジのTシャツと大谷Tシャツが並んで売られていたので迷わず$10の支払いで大谷シャツを購入し、今回のシリーズの締めくくりとさせていただいた。

6月10日(月)
ニューヨーク滞在最終日はウォールストリートの宿泊地を拠点に終日マンハッタンの名所観光に励むことにした。1987年7月当時のロウアーマンハッタンのランドマークはワールドトレードセンターのツインタワーであった。

2001年の9.11後、いつしかその地はグランドゼロと呼ばれていたのだが、今日ではワールドトレードセンタービルもその数を7棟まで増殖させている。さらにその中心部には不死鳥のごとく翼を広げた建造物がマサに羽ばたこうとしており、内部空間はショッピングセンター、複数路線の地下鉄駅が交差する貿易の殿堂としてもはや誰もグランドゼロとは呼ばず、力強い一歩を踏み出しているのだ。

体力の充電がてらバッテリーパークをぐるっと歩いて再びWTCエリアに戻り、さらにマンハッタンからブルックリンへの架け橋であるブルックリンブリッジに向かった。

この橋は交通の要衝であるだけでなく、中央部の木道は人道になっているので多くの観光客が行き来する人気スポットとなっている。

橋の上からの絶景に気を取られながら歩いていると前方に巨大な幸福の黄色いマフラーを巻かれていい気になっている若人の姿が飛び込んできた。よく見るとそれはエリマキトカゲでもなく、同じ爬虫類でもヘビー級のヘビで観光客のインスタ映えに一役買っており、NYの燃える商魂の一端を垣間見た気がした。

多くの観光客は橋を渡ってブルックリンに到着するとタッチ&ゴーでマンハッタンに引き返すルートを取っているので私もそれに倣うことにした。マンハッタンに向かう景色は林立する摩天楼に圧倒される絶景のオンパレードで、大学生の時分に投資の大部分を無駄にしたはずの英会話学校の講師から学んだ自由の女神を英語でSatue of Libertyと言う記憶を噛みしめながら自由の女神像を遠巻きに眺めていた。

黄色いヘビが出没するスポットに戻ってきたのだが、記念撮影の列はヘビー・ローテーションにはなっていない様子で放置状態のニシキヘビはブルックリンブリッジに錦は飾れていないように見受けられた。

地下鉄で北上し、ミッドタウンで地上に出るとそこにはアメリカ横断ウルトラクイズの決勝の地がそびえていた。MetLifeビルはかつてPANAMビルとして栄華を極め、その大手航空会社は大相撲のスポンサーもつとめており、「ヒョ~ショ~ジョ~!」という高らかな声を響かせて人気を博したデービッド・ジョーンズ氏が輪島や北の湖等に表彰状とともに巨大な地球儀状のトロフィーを渡していた光景が昨日の出来事のように浮かんでくるのである。

♪マリーという娘♪がいたはずの5番街を歩いているとババが抜かれたり、「七」が並べられたりする感覚を覚えたのでふと斜め前方を見上げるとそこにそびえていたのは有名なトランプタワーであった。

内部に侵入すると彼が45代大統領を務めあげた実績を刻むモニュメントもちゃっかりスペースを取っており、土産物の品数も多いのだが、何といっても常駐しているトランプが観光客と一緒にポーズを取ってくれるシステムが確立されていたのだった。

来る大統領選で切られるカードに思いを馳せながら数ブロック北上するとそこは憩いのセントラルパークで鉛筆状の細いビルを見上げながらトランプをシャッフルするように気持ちを落ち着けた。

今後いかなる高さのビルが建立されようとも摩天楼のシンボルの地位は揺るぎないエンパイアステートビルの展望台行きを所望する観光客の集団を横目に地下鉄でロウア―マンハッタンへ帰って行った。

暮れなずむウォールストリートであったが観光客の姿は絶えず、突き当りのトリニティ教会まで多くの人出で賑わっていた。尚、1987年7月時のトリニティ教会は漆黒でカラスの教会との異名を取っていた記憶があるのだが、その後紆余曲折を経て現色まで褪せていったのであろうか?

1987年7月当時、大学4年生の私はすでに大和証券への就職を決めていたため、興味本位でニューヨーク証券取引所の見学さえぶちかましていた。取引所の威光は今も変わらないのだが、それを見上げる「恐れを知らぬ少女」像なる自信家の登場は2018年まで待たなければならなかったそうだ。

トランプタワーならぬ、トランプビルまで見てモ~十分観光のフルコースは堪能したのだが、ふと強気のモ~モ~の股間に目を移すと金の玉々をしっかりと抱き抱える観光客の笑顔に仰天させられた。お金の神様であるはずのこのチャージング・ブルが自由の女神を抜いてNYの人気観光スポットの第一位に躍り出るのも遠い未来ではないことを予感させられた。

6月11日(火)
午前2時発NH159便は定刻通りに出発し、すぐに入眠したものの14時間余りのフライトを睡眠だけで消化するのは無理があった。色々考えを巡らせているうちにドジャースの選手がヒットを打って塁上で決めているポーズのことが気になった。ドジャースの選手であるキケ・ヘルナンデスに起源を発するため「キケ・ポーズ」と言い、両手を上げ、上体を傾けながら左足を上げるポーズであるが、ドジャーズ開幕戦が日本で開催される際には赤塚不二夫先生に敬意を表しておそ松ながら「シェ~」のポーズにマイナーチェンジしなければならないはずだと考えていた。

6月12日(水)
公共交通機関も稼働していない早朝5時前に羽田空港に到着し、朝日を浴びて体内時計をリセットしつつ流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥319,440(内ANA SKYコイン使用 ¥199,100)
総宿泊費 $508.34
総Air Train代 $17
総地下鉄代 $31.9
総NY Transit代 $96

協力 ANA、IHG、MLB.com

シン・FTB Los x ロス = 二刀流Show Timeツアー

コロナ自粛中のGWはまるで猫が寝込んだようにおとなしく過ごさざるを得なかったのだが、待望のコロナ明けを迎えても円安に苦しむ日本人旅行者はコスト面で自主規制を余儀なくされている今日この頃である。

このたび運よくANAよりSuper Valueという破格の運賃による航空券をゲット出来たので、過去数年分の旅行ロスを取り戻すべくLos方面へのツアーが敢行されることとなったのだ。

2023年5月1日(月)、5月2日(火)
連休のはざまとなっている5月1日(月)の裏の仕事をさくっとこなした後、日の暮れるのを待って羽田空港第3ターミナルへとJR横浜線、京急羽田空港線を走らせた。おなじみのANAのSuite Loungeで夕食とアルコール入り飲料で体の調子を整えると日付の変わった0:30発NH106便に乗り込み、フライト時間の大半を無意識状態で過ごせるように狭いエコノミー席での体勢の調整に余念がなかった。

5月1日(月)
太平洋上の日付変更線を超えたことに気づかないまま、飛行機は前日の5月1日(月)午後5時頃ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着した。米国入国の際にそれなりの時間がかかることは想定済みだったのでストレスなくイミグレーションとカスタムを通過すると上階に上がり空港周辺を巡回するHotel Shuttle Busに乗り込み、Holiday Inn Los Angeles – LAX Airportにしけこんだ。

これまでの裏の仕事のハードな出張による副産物としてIHGリワーズクラブのポイントをためこんでおり、宿泊料は無料の恩恵を受けたので、代わりにホテルのレストランに金を落とさなければならない義務感でビールとメキシカン料理で脂肪で覆われた小腹の隙間を埋めさせていただいた。

5月2日(火)
IHGダイヤモンド会員に無料で供される朝食の施しを断り、早朝6時にホテルを出発するShuttle Busに乗りこんだまでは良かったもののバスの運転手や同乗客から下車するべくターミナルを惑わされたため、目的のTerminal 7に辿り着くまでに余計な時間を要してしまっていた。

何とかUnited Clubで朝食を取れる時間が確保出来たのでアメリカンブレックファストで栄養補給を行うと8:26発UA1185便でメキシコのLos Cabosに向かった。ところで何故今回のツアーでLos Cabosが目的地に選定されたのかであるが、第一の理由は単純に行ったことがなかったからなのだが、第二の理由は私が昔勤めていた米国の故シマンテックという会社がITバブル華やかなりし頃、グローバルの多数の営業を引き連れてAchiver’s Tripという名目でLos Cabosで豪遊しやがったという行けなかった者からすると忌まわしい過去の怨念を払拭するためである。ちなみに私は営業ではなくマーケティングだったので最初からAchiverの土俵には乗っていなかったのだが・・・

いずれにしても2時間超のフライトで砂漠の大地を縦切り、バハカリフォルニア半島の最南端に位置するLos Cabos国際空港に到着する運びとなった。多くのアメリカ人バカンス客と一緒にメキシコへの入国を果たすと割高だが明朗会計の前払いとなっているエアーポートタクシーに乗り込み、まずは本日の宿泊予定地に向かった。車窓からはバハカリフォルニア半島の乾いた大地を賑わせているサボテンの姿が見受けられたのだが、前述のAchiver’s Tripの旅行者へのはなむけの言葉はマサに「サボってんじゃ~ね~!」がふさわしかったのではなかろうか?

ちなみにロス・カボスはメキシコの基礎自治体で半島南端のカボ・サンルーカスと東側のサンホセ・デル・カボの二つの主要都市のほか、いくつかの村を含んでいるという。二つの都市を結んでいるのは幹線道路の国道一号線でこの道路上に各種ホテルが軒を構えているのだが、今日はカジュアルなビジネスホテル系のHOLIDAY INN EXPRESS CABO SAN LUCASにIHGの24,000ポイントの支払いで宿泊することとなっている。

チェックイン後、とくにすることもなかったので小さなプールのあるホテルの敷地を散策し、停泊しているクルーズ船を眺めながら感染拡大の温床となったことはもはや過去の遺物だと言い聞かせていた。

国道一号線の主要都市間は市バスが頻繁に往来しているので紫外線が弱まってきた時間を見計らってバスでサンルーカス方面に向かった。初めての土地ゆえ、下車するべくバス停を無意識に通り越し、バスはどんどんダウンタウンの奥地に向かって行ったので適当なところで降りてスーパーマーケットでトイレ休憩をさせていただいた。生鮮食品売り場を見渡すと、さすがに海沿いの都市だけに提供される魚の種類は豊富であったのだが、とりあえず闇営業の仲介で吉本を首になったカラテカ入江をしのぶことが出来るはずのスナック菓子は購入しておいた。

慣れないスペイン語とメキシコペソ(M$)の現金払いの市バスの乗車に苦労を重ねながら、何とかサンルーカスの見どころが集まるマリーナ周辺まで漕ぎ付くことに成功した。

サンルーカスは観光用に整備された人工的な都市の印象は否めないが、街自体の装飾や演出が優れているので歩いているだけでリゾートの気分は自然に盛り上がっていくのである。

マリーナに係留されているおびただしい数のクルーザーを見てもわかる通り、ここでの主なアクティビティは加山雄三的な舟遊びであるのだが、今回は日程の都合で老人と海のように大海に乗り出すようなことはなかったのだが、天空を突き刺すカジキと地面から生えているサーフボードのオブジェだけで疑似マリンスポーツ体験を賄うことが出来たのであった。

夕食は多くの飲食店の中から雰囲気の良い音楽が流れているシーフードメキシカン系のレストランで取ることにした。メキシコでは乾杯の音頭はコロナビールで取るはずなのでそのしきたりには従うことにしたのだが、ビールのお供の柑橘類がライムであることに多少の不安を覚えざるを得なかった。その心は北部九州出身である私のような輩はこのような状況では大分県名産のかぼすを絞ると相場が決まっているのだが、ロス・カボス滞在中の間は「かぼすロス」に苛まれ続けることが確定したからである。

5月3日(水)
午前10時過ぎにはHOLIDAY INN EXPRESSをチェックアウトし、ホテルで手配したタクシーに乗り込むとリゾート気分による胸の高まりを抑えつつ、今日から泊まることになっているHilton Grand Vacations Club La Pacifica Los Cabosに向かった。完全プライベートリゾートであるがゆえにゲートで宿泊予定者名簿と名前を照らし合わせた後、晴れて敷地内への入場が許されたのでフロントでチェックインする運びとなった。

ウエルカムドリンクは、日本では高校球児の主要なヘアースタイルを模しているはずの丸刈り~タとレモネードが選べるのであるが、少しでも早くリゾート環境に適応するためにマルガリータを一気飲みしてフロントデスクで宿泊手続きを行った。デスクではサボテン並みのとげとげしい対応ではないもののチェックイン時間の午後3時までは部屋に入れないとのことだったのだが、ホテル内の施設は自由に使えるとのことだったので早速リゾート内の散策と洒落こんだ。

あいにくの曇り空ではあったもののプールやビーチを眺める限りではここロス・カボスがユカタン半島のカンクンとともにメキシコ最強クラスのリゾート地であることは疑いの余地はなく、松任谷由実が推薦するはずのアカプルコさえ霞んでしまうほどの絢爛ぶりが窺えた。

ビーチまで下りてみると今は亡き日通のペリカン便を偲んでいるかのような怪鳥が岩の上で魚待ちをしている姿を見てこの海の生態系の豊かさを感じ取った。

ビーチのアクティビティとして水上バイク、乗馬、小舟等があるようであったが、リゾート客はあまり関心を示していないようであった。

待望のチェックインを済ませると早速水着を着こんでプールバー方面に向かった。とはいえビリヤードの設備があるはずもないので皆アルコールを飲みながらそれぞれのスタイルで水平線に向かってくつろいでいたのだった。

夜のとばりがおりてもリゾート内は落ち着いた雰囲気をとどめており、浴びるほどの酒を飲みすぎて「許しテキーラ」と温情にすがろうとする者も♪シエリト・リンド♪を合唱するホセやサンチアゴのアミーゴ達も参上することはなかったのだ。

5月4日(木)
昨日の曇天とは打って変わって早朝より青空が広がり、いよいよリゾートがその実力を遺憾なく発揮出来る環境が整った。

リゾートのメインレストランであるTalaveraで高値で供されるビュッフェ朝食を軽快な流しのギターのメロディーとともにゆっくりと楽しんだ後、水着に着替えるとプール沿いの至る所に設置されている大判のタオルをわしづかみにするとコロナビールと一緒にデッキチェアに身を委ね、リゾート活動の定番となっているはずのプールサイド読書に勤しむことにした。

ハズキルーペを介した読書で目に疲労がたまってきた頃を見計らってプールにどぼんしてビーチで展開される人間模様にしばし目をなじませてピント調整を行った。

ビーチもプールも野性味に欠ける感は否めないのだが、突如姿を現したイグアナ越しに眺める海の青さは圧巻であり、これぞマサにメキシカンリゾートの神髄であると思い知らされた。

喉の渇きを覚えるとそのままカウンターでマルガリータを発注し、イグアナに乾杯したのだが、つまみのピザであるはずのマルゲリータがないのが唯一の難点といえよう。

結局日が西に傾きかける時間まで至福の時間を堪能したのだが、リゾート客が去った後のプールは鏡のように周囲のヤシの木を写し取っていた。

今回FTBが泊っている部屋はコスト面を配慮してプールフロント1階のパーシャルオーシャンビューであったのだが、後々ハウス猫のコンシュルジュ付きであることが判明した。奴はしなやかな肢体とともに突然姿を現し、心理的癒しのサービスを提供すると名作映画のように風と共に去って行ったのだった。

今日のディナーは予約が必要だと言われていたが、実際には予約しなくても入れたVelaというイタリアンレストランで取ることにした。

女性の妖怪人間系の名前を冠したはずのベラでは主にシーフード系の料理を召し上がったのだが、地元の食材を伝統的イタリアンにマッチさせた手法により、リゾート暮らしで脳みそを溶かし、人間性を失ってしまった観光客も思わず「早く人間になりた~い」とうなってしまうほど美味にアレンジされていた。

5月5日(金)
わずか二泊三日のリゾート滞在の最終日を迎えた。昨夜のディナータイムの静けさとは打って変わって朝食レストランのTalaveraは活況を呈しており、昨日着席したオープンテラスが満席だったので屋内のテーブルに席を取ったのだが、内と外では違う価格設定がされているようで、開放感に劣るが食べ物への距離が近い屋内は価格的にやや有利であり、ライブオムレツやサボテンをもすりつぶすことが出来るはずの強力ミキサーを要するスムージーバーにもスムーズにアクセス出来たのだった。

チェックアウト迄の貴重な時間はビーチで過ごし、海辺で繰り広げられる人間模様をボ~と眺めていた。

すでに日よけ用の帽子やアクセサリーを売りさばく商人たちも虎視眈々と商機をうかがっていたものの、決してリゾート客のプライベートスペースに土足で踏み込むような押し売り営業はしないので商品に興味のない客にとって彼らは単にビーチを彩る景色の一部でしかなかったのだ。

午前10時にホテルをチェックアウトし、タクシーで空港に向かった。カラフルなロス・カボス国際空港はメキシコ国内や米国主要都市からの様々な航空会社のフライトで賑わっており、そのアクセスの便利さからリピーターもかなり多いはずだとあらためて認識させられた。

12:25発UA547便は30分程遅れて出発し、ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着したのは午後3時半を回った時間であった。さらに長い列の入国審査を突破するのもかなりの時間を要してしまった。何とか米国への再入国を果たすとHearz Rental Carのシャトルバスに乗り、Hertzの営業所に着いたのだが、ここでも長蛇の列の洗礼を受けてしまった。何とかTeslaのModel 3を入手して目的地に向かおうとしたが、モータリゼーションの申し子であるロサンゼルス名物の渋滞にはまってしまったのだ。

1998年の夏以来、25年ぶりに訪れたエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムであったが、$20の支払いで駐車場に滑り込んだ時にはすでに試合開始となっていた。巨大なエンゼル帽をあしらった球場正門の装飾は当時と変わらなかったのだが、そこに君臨するエンゼルスの主である二刀流使いにより新たな時代の息吹が感じられた。

ア・リーグ西地区首位を快走するテキサス・レンジャーズを迎え撃つエンゼルスは大谷を3番指名打者に据えて立ち向かったものの、序盤はレンジャーズに3点のリードを許し、大谷のバットからの快音も聞こえないまま試合は淡々と進んだ。

日本では「こどもの日」ということもあり、折り紙兜を被った日本人ファンの姿も見受けられたのだが、今日はエンゼルスの選手にホームランは出ず、ホームラン・セレブレーションで鹿児島の甲冑工房丸武産業製の兜を「パイルダー・オン」する兜甲児的なパフォーマンスは見ることが出来なかった。

今日のShow Timeは残念ながら野球のパフォーマンスではなく、巨大スクリーンに映し出されるコーセーによってあ~せい、こ~せ~と演技指導された姿のみであったのだが、通常は♪飛ばせ 鉄拳 ロケットパンチ♪によって放たれる外野センター奥の巨大な人工岩と滝まで架けられるアーチの軌道が期待されている。ちなみにその装飾はかつて親会社であったウォルト・ディズニー・カンパニーの時に大幅な改修に着手して出来たものの名残であり、エンゼルスの選手がホームランを打つと、約27メートルの高さまで火が勢いよく噴き、花火も打ち上がるアトラクションが提供されている。

メキシコでの思い出を胸に売店でタコスとブリトーを買って景気づけをすると逆転猿と和訳される「ラリー・モンキー」のラリッた姿に後押しされ、9回裏ツーアウトの土壇場からエンゼルスが同点に追いついてしまった。

試合は延長戦に突入し、ノーアウト2塁から始まるタイブレークの10回表のレンジャーズのスコアボードに首尾よくゼロが記された。10回裏のエンゼルスの攻撃は主砲トラウトからであったが、最近の試合で虹ますのようなアーチをかけずとも申告敬遠の憂き目に会い、切り身にされるような断腸の思いで一塁に向かって行った。

ノーアウト1塁、2塁のサヨナラの好機にShow Timeがお膳立てされたものの、大谷はセカンドゴロに倒れ一死1・3塁で大谷が一塁ベースコーチに反省の弁を述べたのも束の間、次打者アンソニー・レンドンへの初球はワイルドピッチとなり、期せずしてエンゼルスがサヨナラ勝ちを収め、球場内は歓喜の嵐に包まれたのであった。

5月6日(土)
IHGリワーズクラブのポイントがさらに余っていたので25000ポイントの支払いで宿泊したCandlewood Suites Anaheim – Resort Areaをチェックアウトするとディズニーランドの城下町であるアナハイム市内をModel 3で軽く流し、空港近くのサンタモニカまで足を延ばしたのだが、桜田淳子の♪来て 来て 来て 来て サンタモニカ♪という歌声に統一教会の幻影を感じたので車から降りることなくそのままHeartzの営業所に帰って行った。

17:15発NH125便は定刻通りロサンゼルス国際空港を出発し、機内映画の「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」を見ながら次のメキシコツアーの折にはヒューストン空港を経由することになるだろうと考えていた。

5月7日(日)
飛行機が日本に近づくにつれ、Losでの楽しい生活が走馬灯のように脳内を駆け巡りLosロスの感情が押し寄せてきた。マサにそれはロス・インディオスとシルビアが歌う♪別れても好きな人♪に通ずるものがあったのだが、その歌がヒットしている当時の六本木のスナックで歌われていた♪別れたら~ 次の人♪のように未来志向が重要ではないかと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥134,540 / passenger、United航空 = ¥32,350 / passenger
総宿泊費 US$1,065.68
総レンタカー代 US$114.23
総タクシー代 US$115、M$1,000(M$1 = ¥7.8)
総バス代 M$104

協力 ANA、United航空、IHG、HILTONHHNORS, Heartz Rental Car

FTB Last Ichiro in Seattle

2019年3月21日、46,451人の大観衆を呑み込んだ東京ドームは途中から異様な雰囲気に変わった。日本が誇るサムライメジャーリーガーのイチローが今日の試合をもって引退するという記事がネットで流れると球場内はにわかにざわつき始め、92,902個の目はイチローの一挙手一投足に釘付けとなった。やがて試合が終わり、選手たちがベンチ裏に引き上げた後も多くの観客が場内に残り、誰もがイチローが再びファンの前に姿を見せるであろうことを疑っていなかった。

感動の東京ドームセレモニーから6ヶ月の月日が流れ、マリナーズはアメリカン・リーグ西地区の最下位を独走し、イチローの思い描くマリナーズの復活とはならなかったが、Ichiroの長年の貢献に敬意を示すためにシアトルでIchiro Celebration Nightなるイベントが開催されることとなった。

FTBではIchiroがメジャーデビューした2001年以来その活躍を現地で見守ってきたのだが、今回最後のお披露目ということで急遽飛行機を飛ばしてシアトルまで弾丸ライナーツアーを敢行することとなった。

2019年9月13日(金)
今回のツアーでは東京ドームホテルでのイチロー会見から一夜明けた3月22日にイチローと弓子夫人を乗せたANA運行の成田→シアトル直行便(搭乗ゲートはANAの粋な計らいで51とされた)は使わずに21:55発NH116便羽田発バンクーバー行きに乗り込むと約8時間のフライトでバンクーバーに到着後、ワンバウンドではあるが、Air Canada運行のAC8093便プロペラ機に乗り換えてイチロ、シアトルに向かった。中秋のように肌寒いシアトルに20時前に到着すると空港に隣接されているCrowne Plaza Seattle Airportホテルにチェックインし、今晩の試合でマリナーズの投手陣を背負って立つはずの菊池雄星がノックアウトされた事実に愕然としながら床につくこととなってしまった。

9月14日(土)
正午前にホテルを出て目の前を走るT-LinkというLight Railでシアトルのダウンタウンに向かった。思えばFTBが初めてシアトルを訪れたのは1998年の7月で当時ニューヨーク・ヤンキースのエースであった故伊良部秀輝氏の快投を目の当たりにするために留学先のサンフランシスコからわざわざやって来たのだった。当時の球場The King Domeは密閉式ドーム球場で傾斜の急なアッパーデッキにへばり付いて伊良部が三振を取るたびに大きな声援を送っていたのが昨日のことのように思い出される。

ダウンタウン到着後、お約束のPike Place Marketで生鮮魚を見て気持ちを落ち着かせ、その足で長躯ダウンタウン南のT-MOBILE PARKに向かった。球場前のカフェで遅い昼食を取りながら、開門前のゲートに集まるファンの群れ具合を観察し、いい具合を見計らってHome Plate側のGateに回り込み、Ken Griffy JR.の銅像に拍手を打ち、行列の一部となった。

午後4時過ぎに待望の開門となり、先着2万名に配られるIchiro首振り人形を手にしたファンは宝物を抱えるようにして球場内に入っていった。首振り人形は今春の東京ドームでのイチローのファンへの別れをモチーフにしているのだが、白髪が目立つ本人の写真とは異なり、人形の方の短髪は黒く染められていたのであった。

5時45分開始のセレモニーまで時間を持て余していたので球場内スタンドの裏側をじっくりと見て回ることにした。チームの歴史を伝えるコーナーでは数多くのIchiroのBaseball Gearが展示され、ミズノやアシックスの宣伝に一役買っている。

自分の席に戻り、ライトスタンド方面に目を向けると筋金入りIchiroファンであるエイミーさん手作りのICHI-METERが最後のお勤めを果たすようにフルラインアップで展示されていた。

国歌斉唱が終わるとマウンドの前に重役用の椅子が並べられ、スーツ姿のマリナーズの役員の面々とScott Servais監督を先頭にユニフォーム組が続々と姿を現し整列した。バックスクリーン後方の巨大モニターにはIchiroのマリナーズ入団以来の活躍がダイジェスト版となって映し出されていた。2001年にIchiroがMLBという未知の世界に足を踏み入れた時にはメジャーで成績を残すことに関しては疑いを持たなかったが、それ以上にメジャーのスーパースター達をギャフンと言わせるほどのセンセーションが見たかった。それが現実となり、期待以上のパフォーマンスで引退までひた走った姿はちっぽけな国の国民栄誉賞程度では到底報いきれないものであろう。

シーズン終盤の消化試合ということもあり、全席Sold outというわけにはいかなかったが、Last Ichiroの勇姿を目に焼き付けておきたい日米の熱狂的ファンがIchiroフロントのLower Levelの内野席をすし詰め状態にしていた。ちなみにこの日の観客数は26,063であった。

大歓声とともに姿を現したIchiroはお馴染みの背番号51番のユニフォームを身にまとっており、球団関係者および来賓であるマリナーズのレジェンド、Ken Griffy Jr., Edgar Martinezと握手を交わしていた。やがてIchiroの名も彼らと並び称されるべく、この球場に永久に刻みつけられることが約束されているのだ。

固唾を呑んで見守る大観衆の前でFranchise Achievement Awardを受賞したIchiroの挨拶の時間となった。異様な雰囲気の中で脳内が白化し、話の内容が飛ばないように配慮したIchiroは事前準備していた原稿を前にして流暢な英語でシアトルおよび日米のファンへの感謝の意を表してくれた。

Ichiroの挨拶終了後はバタバタと記念写真撮影に移行し、その後ファンに惜しまれつつグラウンドを後にした。

ほどなくしておまけの試合が始まったのだが、今日はマリナーズのKingであるFelix Hernandezの登板日ということで所定のエリアに席を取っている観客は無償で配布される黄色いTシャツを着てしきりに黄色い声を上げていた。私服に着替えたIchiroも弓子夫人と一緒にスタンドに陣取り試合の行く末を見守っていたのだが、Ichiroの面子を潰さないように奮起したマリナーズは延長戦でサヨナラ勝ちを収め、お別れのメッセージに変えていたようであった。

9月15日(日)
Ichiroイベント週末の最終日である今日の試合は午後1時15分開始であり、本日の催しはIchiro Replica Jersey T-Shirt Dayと称し、先着1万5千人にTシャツが配られるということなので開門直前に球場に駆けつけた。今日はIchiroのお披露目はなしということで昨日ほどの行列ではなかったのだが、最終的には17,091人の観客で客席の約35%が埋め尽くされた。

場内に入場し、Tシャツを受け取ると早速どんなものか確認すべく広げて見るとそれはマサにユンケルの野望が刻まれたシャツだったのだ!ICHIROの名前の上にはスポンサーのSATOのロゴが目立つように配置され、一見すると鈴木一朗が佐藤一朗に成り代わったような印象さえ与える代物となっていた。この状況に納得できない私はすぐにチームショップに駆け込み、IchiroのTシャツを買いあさって溜飲を下げることにしたのだが、この反応もすべてSATOとマリナーズがグルになって仕組んだ陰謀の結果なのであろうかとさえ思われた。

グラウンドでは試合前にラテン系の民族衣装を着た踊り子によるダンスが繰り広げられ、試合の方は昨日に引き続きマリナーズがサヨナラ勝ちを収め、その瞬間は最高の盛り上がりとなった。佐藤製薬との競演を果たし、永久欠番が約束されたマリナーズの51番はIchiroとともに208cmの長身左腕ビッグユニットであるRandy Johnsonとの連名になるはずであろうが、Randy SATO Johnsonに成り下がることは避けられるであろうかと考えながらT-MOBILE PARKを後にした。

Ichiro引退後はシアトルに来る機会はなくなるかも知れないという郷愁の思いから、今日もPike Place Marketに足が向かった。栄光のスターバックス1号店でパイクプレースローストでも買って帰ろうかと思ったが、やはり帰国してから買うことにした。International Districtやスタジアム周辺はSODO(South of Downtown)と呼ばれている地区で相変わらずホームレスが多く、怪しげな雰囲気が醸し出されている。シアトルがお膝元となっているMicrosoft, F5 Networks, amazon.com, T-MobileとITやAI化が進み、Downtown北部は近代化が加速している一方で増加する失業者はレトロな雰囲気のSODOに押しやられ、ストリートライフを余儀なくさせられているという光と影を感じながらLast Ichiroシリーズは幕を閉じたのだった。

9月16日(月)
11:25発AC8092便でシアトルからバンクーバーに向かう空路は概ね晴天でシアトルがエメラルドシティと言われている所以を噛み締めながら別れを告げた。NH115便は定刻16:25に出発となり、一路羽田空港へと向かっていった。

9月17日(火)
飛行機が着陸態勢に入ると折りからの曇り空は虹色に変わった。Ichiroが今後、元カタカナのイチローと呼ばれるようになっても日米の架け橋として日本人メジャーリーガーのレジェンドとなった功績は決して忘れ去られることはないと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥145,360
総宿泊費 $477.24
総T-Link代 $12

協力 ANA、Air Canada、IHG

FTB MLBフォーカス レジェンドと二刀流世代交代ツアー in バンクーバー&シアトル

ボンよ、イチローが古巣マリナーズと契約したのは2018年3月7日のことであった。この契約発表がなされるや否やFTBは他の旅行代理店に先駆けてゴールデンウィークのシアトルMLBツアーを企画し、即日航空券の発行まで行うという電光石火の早業を見せたのであった。ついでにまだ行ったことがないカナダのバンクーバーにも立ち寄るオプション付きやった。

2018年5月2日(水)
午後9時50分発NH118便羽田発バンクーバー行きに乗るべく、7時過ぎに空港に着いたのはよかったのだが、ANAのカウンターでカナダ入国の電子ビザは取得していますかと聞かれ、自信を持ってしていないと答えたところご丁寧にとなりの椅子席に案内され、タブレットを渡されて無事にeTA (Electric Travel Authorization)をサクッと取得出来たのであった。

ANAのSUite Loungeで少しは高級なはずの和牛ステーキの小さいやつを食して夕食とすると機内では頭の中を3回転半くらい回してひたすら意識を失うことに集中し、同日午後2時過ぎには浅田真央やキム・ヨナも来たことがあるバンクーバー国際空港に到着した。空港からスカイトレインなる鉄道に乗り、わずか20分程度でダウンタウンの中心部に侵入するとグランビル・ストリートという南北を貫くメインストリートを南下して予約済みのHoliday Inn & Suite Vancouver Downtownに無事にチェックインと相成った。

初春のブリティッシュ・コロンビアの晴天につられるようにホテルから足を踏み出すとグランビル・ストリートをさらに南下してグランビル・アイランドを見下ろす大橋を渡り切り、ぐるっとUターンしてバンクーバー有数の観光地に成り上がっているグランビル・アイランドへと足を踏み入れた。

グランビル・アイランドはグランビル・ストリート(大橋)の真下にある小さな島で、昔は工場街として発展したそうだが、一旦さびれた後、観光スポットとしてV字回復を果たした楽しいことが満載の場所である。船着場には大小様々のクルーザーが繋留されており、釣ったばかりの魚を洗浄しているおっさんやレストランで自ら食材になろうとしているかのように振舞っているいいカモも見受けられた。

最大の見所は何といってもグランビル・アイランド・パブリック・マーケットで新鮮な魚介類、肉、野菜、果物、メープルシロップのような地元の特産品がそこそこの価格で売られており、地元の住民だけでなく、観光客も遠慮せずに財布の紐を緩めることが出来るのである。

夕飯時になったのでマーケット内のフードコートでファストフードを掻き込むか、洒落たレストランでスローフードを良く噛んで食べるべきか迷ったのだが、ツアー初日ということもあり、消化器官への負担も考えてスローを選択することにした。Fish Companyという新鮮な魚しか扱ってないはずの小洒落たレストランの窓辺に席を取り、地元のビールと今日のスープ、生牡蠣、魚の3点盛をじっくりと味わい、優雅なディナーを十分に堪能させていただいたのだった。

腹ごなしのために再びアイランド内をぶらぶら歩いていると現役の工場らしき場所に行き当たった。そこの設備には斬新なポップアートが施されており、多くの観光客がゲートの前で足を止めていた。便所を借りるために再びマーケットに戻ったのだが、午後7時が終了時間ということで、重たい膀胱を刺激しないようにさっき飯を食ったばかりのレストランに引き返し、担当してくれたウエイトレスにお願いして個室に駆け込んだのだった。

5月3日(木)
時差ボケの影響を受けずに朝まで生眠り出来たのでホテルで高値の朝食を取った後、近場の観光に繰り出すことにした。グランビル・ストリートを北上し、途中目抜き通りのロブソン・ストリートを闊歩し、ウォーターフロントへ向かった。

バンクーバー・ハーバー・フライト・センターで水上飛行機の離着陸を見物し、シーウォール・ウォーター・ウォークを「ウォ~!」と叫ばずに歩いてバンクーバー最強の観光地であるスタンレー・パークへ向かった。

スタンレー・パークはダウンタウンの北西に広がる広大な自然公園で、どの観光ポイントから手を付けて良いかわからなかったのでとりあえず公園入り口のInformation近くでアイドリングしている馬車で1時間の観光(CAD45)をかますことにした。装備してないはずのシートベルトを締めるようにとの洒落でスタートした馬車ツアーはガイドギャルの弾丸トークでバンクーバーの歴史や近辺の見所情報が語られた。園内の最大の見所である広場で5分間の猶予が与えられ、観光客は馬車を降りてトーテムポールとの記念撮影に躍起になっていた。

馬糞の香りに慣れた頃合に1時間のツアーも終焉を迎えたので、馬車を降りて今来た道を馬車馬のようにむやみに歩いて見ることにした。園内を流れる細い川にはSALMON CROSSINGというサケの繁殖地としての復活を期する黄色看板が掲げられ、サケとの衝突を避けるような注意が促されている。海沿いのビューポイントには一見コペンハーゲンにある世界三大がっかり世界遺産の人魚姫に見える人間姫(Girl in a Wet Suit Statueという)が岩の上にインストールされており、園内の自然に対するひとつのアクセントになっているようであった。

広い園内をすべて網羅出来たわけではないが、この時期は総じて花々が美しく咲き誇り、散策や休息には最適の観光地であることは疑いようもない事実であった。

スタンレー・パークからダウンタウンに戻る散策路には珍しい形をした立ち木や倒木が写真撮影スポットになっているのだが、私が一番印象に残ったのは用途不明の足長高床式小屋であったのだ。

散策も一段落したところで地元のビール醸造所系レストランでフルーティな地ビールと揚げ物をつまんだ後、Canada Placeという比較的新しげなくつろぎ広場をさまよった。野生のがちょうがCanadian Familyとして認定されているこの場所では卵をあたためているがちょうに「がっちょ~ん!」というような刺激を与えてはならないため、静かに退散させていただくしかなかったのだ。

休息を取るためにホテルに一旦戻り、何気なくYahoo Newsをチェックするとミズノプロの黒バットで後頭部をジャストミートされたような衝撃的なニュースがスポーツ欄を埋め尽くしていた。シアトル・マリナーズはイチローがジジロ~になるまで選手として使い続けると信じて疑わなかったのだが、今年は選手登録を外して会長付き特別補佐に就任するというではないか!このニュースが出た瞬間にGWイチローv.s大谷観戦ツアーを組んだ大手旅行会社である日本旅行、近ツリ、JTB、FTB等には抗議の電話が殺到し、「てるみくらぶ」の二の舞になるのではないかと懸念されたのだが、いずれにしても今季のレジェンドと二刀流の共存共栄は見られなくなってしまったのである。

失意のうちにホテルを飛び出し、チャイナタウンで暴飲暴食をして溜飲を下げようと思ったのだが、適当な場所が見つからなかったのでバンクーバー発祥の地であるガスタウンで蒸気時計を眺めながらガス抜きをするしか鬱屈する気持ちを静めるすべがなかったのだ。

5月4日(金)
昨日の快晴とはうってかわり、今朝はイチローロスとともにどんよりとした空気に支配されていた。宿泊しているホテルはシアトル行きバスの発着地になっているので9時半発のバスに乗り、国境を超えて一路シアトルを目指した。シアトルダウンタウンにあるコンベンションセンターに1時半頃到着するとHoliday Inn Seattle Downtownにチェックインを果たし、早速シアトル最強の観光地であるパイクプレイスマーケットの様子を見に行くことにした。

屈強な男が魚番をしている脇を通り過ぎて早めの夕食をとるためにとあるシーフードレストランにしけこみ地元のIPAビールでCrab Biscuitやサーモンソテーを流し込んで空腹感を解消し、Pike Streetにある1号店ではないスターバックスでコーヒーを飲みながらしばしくつろぎ、球場へ行く時間を見計らっていた。

シアトル・マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに到着したのは試合開始1時間前の午後6時くらいであったろうか。球場を彩る外壁にはまだイチローの写真が残されていることに安心して入場すると三塁側内野席の前方に席を取った。永久欠番選手の名前をあしらったホームプレートが3枚遠巻きに眺められたのだが、4枚目の51番の掲示が遅くなればなるほどイチローのライフが伸びるはずであろう。

今夜はスターウォーズナイトということでスターウォーズの人気キャラクターが試合前のグラウンドを闊歩しており、選手紹介の大型ビジョンもスターウォーズバージョンが徹底されていた。

イチロー目当てで来場した日本人観光客の救いとなったのはエンゼルス大谷の天使のような活躍であった。5番指名打者大谷がコールされると場内にはこの日最大のブーイングが沸き起こり、エンゼルスと最後まで獲得を争ったマリナーズが逃した魚の大きさを思い知らされた。エンゼルス入団の決め手となったのはやはり二刀流をやりたいという大谷の申し出に対してエンゼルスのマイク・ソーシア監督が「そ~しや!」と気持ちよく承諾したことであったろう。

右打者の強打者がずらりと並ぶエンゼルスの打線の中で左打者の大谷が5番に座ることで打線のバランスが格段によくなっている様子で、この日の大谷はクラブハウスで見ているはずのイチローにいいところを見せようと発奮して4打数2安打の活躍でチームの勝利に見事に貢献したのであった。

大谷の活躍よりさらに大きな出来事が起こったのは試合中盤のエンゼルス4番打者のアルベルト・プホルスの打席であった。イチローと同じ2001年にメジャーデビューを果たし、同年のナショナルリーグの新人王を獲得した長距離打者のプホルスはこれまで2999安打を重ねており、シアトルで3000安打を打つことが確実視されていたので多くのエンゼルスファンが球場に駆けつけていた。

2打席目でライト前へ渋いヒットを落としたプホルスの元にエンゼルスの選手全員が駆けつけ、祝福のために試合は中断となったのだが、次打者の大谷はその喧騒をものともせず、レフト線にツーベースヒットを放ち見事に花を添えたのであった。

試合途中で球場内通路をうろつき、イチローグッズがもはやディスカウント価格で販売されているのではないかとひやひやしながら歩き回っていたのだが、それどころかイチローの栄光の歴史を彩るコーナーが開設され、そのレジェンドぶりに益々拍車がかかっている様子だったので安心して球場を後にした。

5月5日(土)
シアトルに遠征に来ている大谷率いるエンゼルスの選手達はまぎれもなく「ホテルニューオータニ」クラスの高級ホテルに宿泊しているはずであり、それらをしらみつぶしにあたれば大谷の出待ちをしてサインを入手することも可能かも知れなかったのだが、今朝もやはりパイクプレイスマーケットでまったり過ごすことにした。お決まりの観光コースとなっている1912年開店のスターバックス1号店はすでに長蛇の列をなしていたので入店を断念して海沿いの景色を眺めていた。

ブランチを取るために比較的すいてそうなシーフードレストランに入ってお約束のシーフードチャウダーやサーモンバーガー等を賞味させていただき、短い時間だがシアトルの休日を十分に満喫させていただいた。

今日の試合は午後6時10分開始ということで昨日より早めに球場に到着したのだが、翌日の先発投手としての準備のためにエンゼルスは大谷ロスの打順を組むことを余儀なくされていた。試合はシーソーゲームの展開であったが、延長戦の末マリナーズがサヨナラ勝ちを収めたので今夜はシアトルファンが溜飲を下げる番となった。

シアトル・マリナーズにはイチローだけでなく、過去数多くの日本人選手が在籍した実績がある。レフトセンター間の客席の下にブルペンがあり、その近辺のThe PENというコーナーで過去のリリーフ投手の栄光のパネルが展示されているのだが、、2000~2003年に在籍し、129セーブをあげた佐々木も一角に名を連ねており、その大魔神ぶりがシアトルファンの心に深く刻まれていることが確認出来たのだった。

5月6日(日)
会長付き特別補佐という要職を手にしたイチローは来年東京ドームで開催されるマリナーズの開幕戦出場を念頭に、それまでに劣化しないように冷凍保存されるようであるが、本来は今日この日に投手大谷とイチローの対決を期待して多くの日本人観光客がシアトルを訪れている。大谷も怪我の影響で登板日がずれたりしたのだが、何とか今日のデーゲームでマウンドでの勇姿を見せるということで舞台は整ったのである。

三塁側観覧席、前から6列目、マサに大谷フロントと言っても過言ではない良席に陣取ったFTBご一行は大谷がベンチから出てくるのを一日千秋の思いで待ち構えていた。試合開始30分前についにその193cmの巨体が姿を現すと三塁側のにわか日本人街は大歓声に包まれた。

レフトの芝生の上でウォーミングアップを開始した大谷はマサに貫禄十分でこれから始まるShotimeに向かって球場の雰囲気は徐々に高まっていった。

一方、マリナーズの先発投手も最大の強敵と言えるThe Kingの順番となっている。サイヤング賞をはじめ多くのタイトルを獲得しているマリナーズの絶対エース、フェリックス・ヘルナンデスの登板日には三塁側アルプススタンドはKING’S COURTに変貌を遂げ、ヘルナンデスが三振を取るたびに多くの歓声が上がる手順となっているのだ。

午後1時10分にヘルナンデスの一投で始まった試合であったが、ヘルナンデスの苦手な時間帯はヒルナンデス!とでも言い訳するかのように初回に2本のホームランを食らってエンゼルスが先行した。早速援護をもらった大谷はこれまでの登板とは投球パターンを変えてカーブやスライダーを増やし、強打マリナーズ打線を手玉に取っていた。

大谷の快投を援護したのは、すでに2回のMVPを獲得した実績のあるスーバースター、マイク・トラウトであった。守備ではセンター前に飛んできた打球に猛然とチャージし、イチローをしのぐレーザービームで三塁を陥れようとしたランナーを見事に刺し、打つほうではノックアウトされたヘルナンデスに代わったリリーフ投手の出鼻をくじく、虹鱒のような特大のアーチをレフトにかけて点差を5点に広げたのであった。

エンゼルスがワールドシリーズを制した2002年にはティム・サーモンという主軸打者がチームを牽引していたのだが、このチームは魚系の選手が活躍するとチーム状態が良くなる傾向にあるようなのでサーディーンやシャークと言った名前の選手ををトレードで釣ってくれば最強のチーム構成が約束されるはずであろう。

快投を続ける大谷は99マイルの速球と88マイルのフォークボールが冴え渡り、6回まで無得点に抑えたのだが、疲れの見え始めた7回に四球とホームランで2点を献上した後、リリーフ投手にゲームを託すこととなった。

8対2で勝利を飾ったエンゼルスの選手は三塁側ベンチに引き上げ、ベンチ前ではヒーローインタビューも始まった様子で大谷もこの場に呼ばれるはずだと期待する多くの日本人が詰め掛けていたのだが、大谷はすでにチェックアウトしたのか、再びグラウンドに姿を現すことはなかったのだ。

シアトルでのMLBツアーも一段落となったのであらためてダウンタウンに目を向けると以前から存在した不安定なビルはともかくとして新たな高層ビルやユニークな建造物が続々と誕生している様子が目についた。今ではこれなくしてショッピングは語れないほどの存在になったAmazon.comはブラジルのアマゾン奥地ではなく、シアトルに本社を構えており、レジがないAIコンビニと言われているamazon GOの一号店もダウンタウンで開業している。

早速店舗を訪ねて見ると入り口に立つサポート要員にスマホにアプリのインストールを促され、改札にバーコードをかざしての入店となった。適当に買い物をすると自身のamazonアカウントに買い物情報が表示され、金額が引き落とされる仕組みになっているのだった。レジがないということで万引きが懸念されるかも知れないが、アプリにより厳格な入場規制が敷かれているのでダウンタウンを寝ぐらにしているホームレスには門戸は開かれてないようであった。

シアトルのシンボルと言えば1962年の万国博覧会の時に建立されたスペースニードルである。米流通天閣と言っても過言ではないコテコテ系のタワーは今なお多くの観光客を集めており、上階の展望台にレストランでもあれば記念に飯でも食っていこうと思ったのだが、カフェしかないということだったので断念した。その代わりに近辺の人気がありそうなレストランに首尾よく入店し、味噌付き焼き牡蠣やビフテキ、チキン等でシアトルでの最後の晩餐を堪能させていただいた。

5月7日(月)
日本人ツアー客率の高かったHoliday Innをチェックアウトするとダウンタウンからリンク・ライト・レールに乗り、シアトル・タコマ空港に向かった。シアトルからバンクーバーに飛び、バンクーバー空港で名物メープルシロップを仕入れると午後4時15分発NH116便の機上の人となった。

5月8日(火)
機内エンターテイメントで日曜劇場「陸王」を見ながらイチローもあきらめずに走り続けるはずだとの思いを胸に流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥134,590
総宿泊費 CAD558.89、USD617.76
総バンクーバースカイトレイン代 CAD9.1
総バンクーバー・シアトルバス代 USD43
総Metro代 USD15.25
総リンク・ライト・レール代 USD3

協力 ANA、Air Canada、IHG

IchiRoad to 3000 in マイアミ with ドミニカ共和国

FTBはイチローの2001年のMLBデビュー以来、MLBの様々な球場でイチローの雄姿を見守ってきた。
http://www.geocities.jp/takeofukuda/2001mlb3.html
http://www.geocities.jp/takeofukuda/mlb.html

3000本安打という金字塔が達成間近になり、にわかにカウントダウンが熱を帯びてきたこの時期に飛行機を飛ばしてわざわざアメリカの端っこまで足を伸ばすことはMLB評論家を自任するFTBとしては当然の義務なのだが、果たしてイチメーターは進んだのであろうか!?

2016年7月8日(金)
17:10発ANA114便シカゴ行は定刻通りに出発し、機内で東芝日曜劇場「天皇の料理番」を見ながらエコノミークラスの機内食の不十分さを心理的に補っているうちにシカゴオヘア空港に午後3時前に到着した。ユナイテッド航空が運航する19:21発NH7800便に乗り換えると約3時間弱のフライトでマイアミ空港に着いたのは午後11時半を回った時間であった。Holiday Innホテルのシャトルバスが中々来ないことに苛立ちを隠せないどこぞの航空会社の乗務員のクレーム電話に耳を傾けながらバスを待っていると30分待ちでやってきたバスに乗りホテルに着いた頃には日付が変わってしまっていたのだった。

7月9日(土)
空港から1.6マイルしか離れていないHoliday Inn Miami International Airportからシャトルバスで再び空港に戻るとMetororailという公共交通機関でマイアミダウンタウンまで移動し、さらにダウンタウン内を無料で移動出来るMetromoverに乗り換えてBayfront Parkという駅で下車する運びとなった。今回は「I」のロゴを持つホテルに宿泊するこだわりを見せていたのでシーズンオフで安値で宿泊出来るIntercontinental Miamiにチェックインするとしばし窓辺からカリブ海クルーズの出航地となっているマイアミ港の景色を眺めていた。

アシックスをお払い箱にして2015年のシーズンよりイチローが採用したビモロシューズの紐を締めなおして再びMetromover、Metrorailを乗り継ぎ、Culmerという駅からMarlins Park行きのシャトルバスに乗ると午後3時前には全天候型スライド開閉式屋根付きエアコン完備球場であるマイアミ・マーリンズの本拠地に到着した。

手始めに球場の全容を解明すべくスタンド周りを一周して見たのだが、Team Shopではイチローユニフォームが日本語版、英語版共販売されており、イチローの3000本安打達成を前祝いするかのようにイチローグッズの専門店まで開業していたのだった。さらにライトスタンド後方には電光式Ichimeterが現在の通算安打数である2990を誇らしげに灯していた。

イチロー率いるマイアミ・マーリンズ対シンシナチ・レッズの試合は4時10分にプレーボールとなったのであるが、チーム事情から主役のイチローは序盤はベンチを温めて、3塁側スタンド前列に席を取ったFTB一行に対してその形の良い後頭部を披露するにとどまっていた。試合の方はレッズの左投手のLambが羊肉のように臭いコースを突いてマーリンズ打線も湿りがちだったためか、762本のMLB本塁打記録を持つバリー・ボンズ打撃コーチもその坊主頭を抱えていたのだった。

冬場のバカンスシーズンではないため、千葉ロッテ・マリーンズ程度の観客数しか入っていない球場が盛り上がりを見せ始めたのは、当然のことながら主役のイチローがネクストバッターズサークルに姿を現した8回の裏2死1,2塁の場面であった。

場内に「Ichiro Suzuki」の名前がコールされると観客は総立ちとなり、事前に配られていた「ROAD TO 3000」のパネルや多くのファンが手にしているイチローの人面ウチワをが打ち振られ、皆ライトスタンドのIchimeterが2991に代わることを疑っていなかったのだが、無念にもこの日のイチローはピッチャーゴロに倒れてしまったのだ。

結局試合の方は地元のマーリンズが4対2で勝利を収め、イチローも勝利のハイタッチに参加してその見事なチームワークスピリットを観客に示してくれていたのだった。

試合終了後、晩飯の頃合いになっていたのでシャトルバスと公共交通機関で一路ホテルに帰還し、ダウンタウンに「スシロー」等の高級日本食屋が開業していれば、一番高いネタの皿を天高く積み上げて溜飲を下げようと思ったのだが、和食探しが徒労に終わったため、ホテルの肉食レストランである「Toro Toro」でおすすめの「Nikkei」と名乗る宮崎ブランド牛を断ってToro Toroという南米肉セットを食らってIchiroのリベンジを祈願しておいた。

7月10日(日)
今日はMLBオールスター前の前半戦最終戦ということで、前日と同じカードのマーリンズ対レッズ戦は午後1時10分からの開始となったのだが、昨日と同様にイチローはスターティングメンバ―に名を連ねていなかった。試合の方はバリー・ボンズ打撃コーチの適切なアドバイスが功を奏したはずの主砲ジャンカルロ・スタントンのホームランがレフトスタンド上段に突き刺さり、マーリンズ有利の展開で進んでいった。

スタントンのホームランの喧騒を凌駕するイチローコールが場内にこだましたのは7回裏無死1塁のチャンスに代打イチローが起用された場面であった。

しかし、相手投手のスライダーがイチローの足を直撃するとイチローコールは一瞬にしてブーイングの嵐となり、手当に向かったトレーナーを制するようにイチローは軽やかな足取りで一塁に向かっていった。

試合の方は7対3でマーリンズが勝利を収め、プレーオフ進出を期待する地元ファンは喜んでいたものの、日本からはるばるイチローのヒットを期待して見に来たファンはイチローの出場機会が制限されていることにフラストレーションを抱えているようだった。しかし、イチローの調子自体は全盛期を彷彿とさせるほどのヒットメーカーに復活しており、7月中には3000本安打を打つことは確実視されているのだが、あとはマーリンズサイドのマーケティングとの兼ね合いになるかも知れない。

7月11日(月)
午前11時頃インターコンチネンタルホテルをチェックアウトしてホテルに内蔵されているAlamoレンタカーでヒュンダイ小型車をレンタルするとダウンタウンから少し離れたリゾートエリアであるマイアミビーチを軽く流していた。細長いビーチのパーキングメーター式駐車場はどこも満車状態で何とか見つけた駐車場に車を止めてビーチに足を踏み入れてみるとそこはマサに大西洋のセレブビーチの様相を呈していたのだった。

今回はマイアミビーチでのアクティビティは予定に入れていなかったので、速やかに車に戻ると世界遺産の湿地帯として君臨しているエバーグレーズ国立公園($20/車1台)に向かうことにした。同公園にはいくつかの観光ポイントやビジターセンターがあるのだが、一番簡単にアクセス出来る淡水地帯のシャークバレービジターセンターを訪問させていただいた。

通常ここでのアクティビティは24km先の展望台までトラムか貸自転車でアリゲーター等を見物しながら到達して戻ってくることであるのだが、今日は時間がなかったのでとりあえず午後3時からのパークレンジャーのプレゼンテーションを拝聴することにした。現在エバーグレーズで大きな問題の一つになっているのは外来種の脅威であり、元々ペットとして飼われていたビルマニシキヘビが公園に放流され、そいつらが繁殖し、ワニと仁義なき戦いと繰り広げているので駆除しなければならないと申していた。

公園には野生のボブキャットが生息しており、ボブキャット・トレイルを抜けてシャーク川に辿り着くそこにはアリゲーターが水面をなめらかに移動し、正直そうに見える白い鳥のサギが正攻法で魚を取っている光景を目にすることが出来た。

午後5時にはマイアミ国際空港でヒュンダイ車を返却し、アメリカン航空AA1337便が1時間の遅れを出したものの午後7時半にマイアミを飛び立ち、約2時間のフライトでドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴのラス・アメリカス国際空港に午後9時半頃到着した。早速空港のATMで現地通貨を2000ペソ程引き出すとタクシーで今回の宿泊先である☆☆☆☆☆ホテルのCatalonia Santo Domingoに移動し、2013年に行われた第3回ワールドベースボールクラシック(WBC)での同国の優勝を讃えながら眠りにつかせていただいた。

7月12日(火)
ドミニカ共和国は、カリブ海でキューバに次いで2番目に大きなイスパニョーラ島の東半分を占めており、国全体の面積は九州に高知県を足したくらいの大きさである。コロンブスが第1回航海の時に足を踏み入れたドミニカ共和国は、当初スペインによって新大陸で最初の町が造られ繁栄したのだが、その栄華を伝える歴史遺産が旧市街に残っているので早速訪問することにした。

ソーナ・コロニアル(旧市街)という一角は世界遺産にも指定されており、歴史的建造物が数多く残っている。まずは旧市街のランドマークになっているコロンブス広場でクラーク博士ばりに指をさしているコロンブスの像にイチローの3000本安打の早期達成を祈っておいた。

1492年~1821年まで、歴代の総督が住んでいた官邸がラス・カサス・レアル(王宮)博物館(RD$60、オーディオガイド付き)として開業していたので見学させていただくことにした。展示物は多岐にわたり、サンタ・マリア号など、航海に使われた帆船のミニチュア模型や、何故か桃山時代から江戸時代にかけての日本の甲冑や刀まであり、サムライ・ジャパン魂もここまで届いていたのかと驚かされもした。

博物館の目の前には石碑のような日時計が鎮座しているのだが、これは1753年に造られた新大陸で最も古い日時計で長きに渡ってこの町の波乱万丈を見守ってきた威厳を湛えていた。

ホテルが海に面していることもあり、レストランでシーフード三昧を楽しむことにした。ロブスターのサラダ、タコのソテー、プリプリ白身魚の焼き物やパエリア風シーフードライスを召し上がったのだが、どれも日本人の味覚にマッチしており、広島カープアカデミーオブベースボール(http://www.carp.co.jp/facilities16/dominica.html)の日本人スタッフもきっと満足したであろうと思われた。

7月13日(水)
ホテルの目の前はカリブ海の絶景とはいえ、バカンス用のビーチではなかったのだが、地元住民が何人か泳いでいたので軽く水浴びをすることにした。何気ない住民の憩いの場に見えるビーチだが、砂浜はウミガメの産卵地にもなっているようで海の生態系の重要な役割さえも担っていることが確認出来たのだ。

再び旧市街に繰り出し、マイケル・ジャクソンに扮装した大道芸人のチップ缶にコインで音を鳴らして景気づけをした後、昨日は見ることが出来なかった重要ファシリティのいくつかを見学することにした。昨日訪れたコロンブス公園の背後にどっしりとした大聖堂(RD$100、オーディオガイド付き)が多くの観光客を集めていたので入ってみることにした。1510年にスペイン王朝の依頼を受けて新大陸初の教会建設に着工したのが建築家のアロンソ・ロドリゲスというゲス野郎だったのだが、労働者たちが富を求めてさらに先へと航海に出たので工事は中断となり、建築再開は1519年で完成をみたのは1540年だということだが、何とか新大陸で一番最初の大聖堂の誕生という栄誉だけは守られたのだった。

サントドミンゴ大聖堂ともいわれるこの建築物は、ルネッサンス様式とゴシック様式の混合で、白い珊瑚礁の高い天井が印象的である。内部の祭壇のわきには14ものチャペルがあり、1506年にこの世を去ったコロンブスの遺体も遺言通りにスペインから運ばれてここに安置されていたという(現在はコロンブス記念灯台に移されている)。

サント・ドミンゴの旧市街は要塞に囲まれているが、その中心となる要塞がオサマ砦(RD$70)である。ここは1505年~1507年の間に造営されたサント・ドミンゴをカリブの海賊から守るための防衛の拠点となっている。高さは18.5mで、当時は市内で一番高い建物であり、新大陸時代最初の軍事建築物でもある。

昨日は押し売り観光ガイドの心理的ブロックにより入るのをためらったパンテオンにスペイン語、英語がわからないふりをして突入することにした。1714年にイエズス会の教会として建てられたパンテオンは、その後タバコ倉庫、国立劇場に変貌を遂げ、1955年にドミニカ共和国の歴代の総督や国民的英雄が眠る霊廟となり、常に衛兵に警護されているのだ。

ラス・カサス・レアル博物館からオサマ川沿いの防護壁沿いを練り歩き、中世ヨーロッパに匹敵する雰囲気を楽しんだ後、番猫により警護されているサンフランシスコ教会の廃墟を鉄格子越しに眺めた。勤勉な番猫は観光客に頭を擦り付けたり、膝に乗ったりと執拗なマークを緩めることはなかったのであった。

7月14日(木)
早朝ホテルをチェックアウトするとタクシーでラス・アメリカス空港に移動し、定刻9:00に出発したAA1026便でマイアミに帰って来たのは正午前であった。空港のAlamoレンタカーで再びヒュンダイ小型車をレンタルするとフロリダ半島の南端部に向かってひたすら車を走らせた。エバーグレーズ国立公園のゲートを抜け、フロリダ湾に面したFlamingo Visitor Centerに午後4時前に到着した。11月~4月が観光シーズンということもあり、真夏のこの時期は観光客も少なく閑散としているのだが、虫刺されに対する注意を促すFlamingo Mosquite MeterがIchimeter並みの存在感を示していた。

Flamingo Visitor Centerではフロリダ湾周遊コースもしくは湿地帯内部に分け入るコースの2種類のボートツアー(それぞれ$35/1.5HR)が定時開催されているのだが、丁度4時からBlack Waterという湿地帯ツアーがスタート目前となっていたので参加することにした。

ツアーガイド兼運転手のALEXの早口での説明によると今から通過する運河は人為的に作られたもので、この運河により湿地帯の環境に多大なる影響がおよぼされたという。淡水と海水が混じった汽水域であるこのあたりに生えているマングローブは4種類で、ワニは汽水域や海洋に住むクロコダイルと淡水域に住むアリゲーターの2種類が生息しているという。出航後早速岸辺で口を開けて休んでいるクロコダイルを発見したのだが、今回のツアーでワニをまともに見れたのはこの時だけで、期待していた多くのワニに囲まれてV6の♪ワニなって踊ろう♪を歌い踊るという状況には決してならなかったのだ。

エバーグレーズ一帯は哺乳綱海牛目に属するマナティーの生息地で、ツアー中にマナティーも姿を現し、観光客も思わず席を立って前のめりになったのだが、水の黒さに阻まれてその人魚のような雄姿を拝むことは叶わなかったのだ。いずれにしても動物がアクティブに行動するのは冬場ということで、ALEXの言う外来種の蛇との遭遇も不発に終わり、ツアーのほとんどの時間はマングローブを育てる黒い水面をむなしく眺めるにとどまってしまったのでALEXのチップの売り上げもほとんどゼロだったのだ。

アブのふくらはぎチクチク攻撃をかわしつつ、ボートツアーは5時半に終了となり、北米に生息するマウンテンライオンの亜種であるフロリダパンサーの幻影を追いながらエバーグレーズを後にして今日の宿泊先であるHoliday Inn Miami International Airportへとひた走った。

7月15日(金)
松田聖子よろしく♪マイアミの午前5時♪前に目を覚まし、5時半にホテルを出て空港のレンタカーセンターでヒュンダイ社を返却すると7:28発のUA便でシカゴまで飛んで行った。さらに11:00発ANA11便に乗り込むと12話を機内ビデオで一気に公開している「天皇の料理番」を完結して眠りにつくこととなった。

7月15日(土)
イチローの3000本安打達成を後押しするかのような追い風に乗ったおかげで定刻より1時間以上前の12時半過ぎに成田空港に到着し、イチロ自宅への帰路につく。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \144,000、AA = \44,180
総宿泊費 $867.76
総タクシー代 $80
総バス代 $9
総メトロ代 $11.25
総レンタカー代 $151.04
総ガソリン代 $35.29

協力 ANA、ユナイテッド航空、アメリカン航空、Priceline.com、Alamoレンタカー、楽天トラベル、Booking.com、IHG

イチロ、ボルトを締め直してカリビアンツアー in NY、ジャマイカ、バハマ

グレたイチローがシアトルをバックれてヤンキーになった!?

衝撃のニュースが日米を駆け巡ったのは7月23日のことであった。思えばイチローが渡米し、全米にセンセーションを巻き起こした2001年からFTBのMLBツアーが加速し、同時多発テロを乗り越えてイチローは伝説の域に達してしまった。しかし、野球人生の集大成とも言うべきワールドチャンピオンのリングだけは強豪チームにいない限りは決して手にすることは出来ないのも事実である。

今回は大都市で覚醒したイチローのさらなる飛躍ぶりをこの目で確かめるためにニューヨークに飛び、さらに緩んだボルトを締めなおすためにジャマイカ、北ウイングの足跡を追ってナッソーを訪問するツアーが開催されることとなったのだ。

2012年10月2日(火)

ANAのプレミアムポイントが余っていたのでビジネスクラスにアップグレードして乗り込んだ11:00発NH010便は定刻通りに出発し、約12時間のフライトで午前10時過ぎに曇り空のニューヨークJFK国際空港に到着した。早速AirTrainと地下鉄を乗り継いでダウンタウンに向かったのだが、地下鉄を降りて外界に出ると今日の野球の試合の開催が危ぶまれるように雨がしとしと しとピッチャーだった。

再び1乗車に付き$2.25に値上げされている地下鉄に乗り、柄の悪いことで有名なブロンクスのW Farms Sq Tremont Avで下車するとhotels.comに予約させておいたHoward Johnson Bronxにチェックインしてしばし雨の行く末を見守っていた。夕方の5時近くになると霧雨を切り裂くように外に出て地下鉄を乗り継いでイチロ、ヤンキースタジアムに向かった。161 St Yankee Stadiumで下車すると2009年にオープンした新ヤンキースタジアムが目の前に迫っていた。尚、老朽化のために取り壊された旧ヤンキースタジアムは跡形も残っていなかったのだ。

スタジアムの回りを一周し、その建築様式を確認するとTicketmasterでオンライン高値購入しておいたチケットを入手するためにチケット売り場のWill Callの窓口に向かった。チケットを手にヤンキースタジアムへの入場を果たすと各土産物屋ではイチロー祭りが開催されているかのように多くのイチローグッズが並んでいた。さらに食い物屋に目を向けると伝統的なホットドッグやピザを横目に日本食屋の開店も見られたのだが、メニューの目玉はイチローを転がしたようなSUZUKI ROLLだったのだ。

試合開始まで時間があり、雨よけのシートのかかったグランドでは練習も行われていなかったので球場内を隈なく散策することにした。伝統あるヤンキースは永久欠番を量産しており、欠番に値する野球の神様達を奉るためにバックスクリーンの直下にMemorial Parkなるものを開設している。神様達は銅版のプレートとなってその活躍を讃えられているのだが、何故か前オーナーのジョージ・スタインブレナーIIIの巨大なプレートが神様達を束ねているかのように中央に飾られていやがった。

続いて球場内2階にあるヤンキース博物館にも足を運び、ワールドチャンピオン27回の栄光の歴史をまざまざと見せつけられたのだが、直近の世界一である2009年にワールドシリーズのMVPを獲得したマツイの痕跡がスタジアムのどこにも見られなかったのでそれはマヅイだろうと思いながら場内を彷徨っていた。

霧雨の降り続く中ではあるがヤンキースとレッドソックスの伝統の一戦は定刻7:05にプレーボールとなり、相手が左ピッチャーのために9番という下位打線に甘んじているイチローが私が座っているレフトスタンド前のフィールドに定着した。

この日のイチローは3打席目にSUZUKI ROLLを彷彿とさせるような球を3塁線に転がし、見事なバントヒットとしたのだが、見せ場はこの打席だけで結局5打数1安打とファンにとっては物足りない結果となってしまった。

試合の方は9回裏に2点をリードされたヤンキースが代打ラウル・イバネスの起死回生の同点2点ホームランにより延長戦に突入し、12回の裏のチャンスに再び打席が回ってきたイバネスのサヨナラヒットによってヤンキースが勝利し、フィールド内とスタンドは歓喜の渦が巻き起こり、締めの定番ソングであるフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪がかき消されそうな喧騒であった。

試合が終わったのが11時半頃で満員の地下鉄に乗り、深夜にブロンクスのホテルに帰り着いたのだが、ニューヨークでの入浴は翌朝に回して時差でボケている今夜はとっとと寝静まることにした。

10月3日(水)

今日の天気予報も雨であったのだが、何とか曇り空が涙を流さずに持ちこたえていたので午前中にロウアーマンハッタンに繰り出すことにした。地下鉄フルトン駅で下車して9.11 Memorial方面に向かうとグランドゼロにはワールドトレードセンターに変わる高層ビルが再び天空を目指すかのように建設中であった。

タイムズスクエアで大道芸人が芸のクライマックスを警察に制止されて見物人からブーイングをくらうNYPDを横目に街頭でOREOとHOLDSの新商品のサンプルを受け取ってミッドタウンをしばし徘徊した。

午後6時頃にヤンキースタジアムに入場すると今日は雨が降らなかったために通常通りの試合前の打撃練習が行われ、外野席ではグローブを手にしたファンがホームランボールを追って右往左往していた。今日はレギュラーシーズンの最終戦でヤンキースが勝つか2位のボルチモア・オリオールズが負けるとヤンキースのアメリカンリーグ東地区の優勝が決まるという大一番であり、場内は異様な熱気に包まれていた。

その熱気の主役となるのが、ヤンキースのエース黒田とレッドソックスの崖っぷちエース松坂の先発ピッチャーの投げ合いであり、マサに日本人のために用意された舞台が幕を開けようとしていたのだ。試合開始前30分頃からウォーミングアップを開始した両エースであったが、右肘の手術から復帰して今だに調子の出ない松坂は重そうな体を引きずりながらランニング、キャッチボール、ブルペンでのピッチングへと入っていった。ブルペンでの投球はあまり球が走っていないように見受けられ、捕手の構えたミットになかなかコントロールされていなかったのだ。

試合は定刻7:05に開始となり、1回の表に黒田はいきなり1点を先行された。その裏の松坂は2番のイチローをポップフライに打ち取り、三者凡退で順調なスタートを切ったかに見えたのだが、2回にスリーランホームラン、3回にツーランと2本のホームランで5点を失い、早々と交代を告げられて日本に強制送還されるかのようにマウンドを降りていった。

試合はヤンキースの一方的な展開で7回裏にはこれまで4打席ヒットがないにもかかわらず大歓声でファンに迎えられていたイチローに5打席目が回ってきた。千両役者のイチローは右中間に2塁打を放ち、2点を追加したのだが、その時追加点の場面とは関係のないところで大歓声が上がった。電光モニターには2位のオリオールズが敗れ、ヤンキースの優勝が決定したことを告げる表示が大きく示されると観客はスタンディングオベーションで優勝を祝い、セカンドベース上のイチローもようやくその事実を理解した様子であった。

黒田は7回を7安打2失点の好投でマウンドを降り、今季16勝目を上げてヤンキースの優勝に多大な貢献を果たしたのだった。ヤンキースは14対2で宿敵レッドソックスを打ち破るとロッカールームではお約束のシャンペンファイトが繰り広げられ、その様子は電光モニターに鮮やかに写し出されていた。

優勝の余韻に浸っているヤンキースファンとともにスタジアムを後にする際に1人のファンが着ているユニフォームの背中に背番号55とともにMATSUIの文字が浮かび上がっていた。チーム公認の球場内展示物には松井の痕跡はなかったのだが、ファンの心にはマツイの幻影がしっかりと刻み込まれているのであった。

10月4日(木)

ニューヨークでヤンキース優勝の瞬間を目に焼き付け、イチローがイチロー足りうる価値を維持していることが確認出来たので次の目的地に向かうべく地下鉄でJFK空港に向かった。カリビアン航空が運行する13:25発BW014便に乗り込むと約3時間50分のフライトでジャマイカの首都キングストンのノーマン・マンレイ国際空港に時計の針を1時間戻した午後4時15分頃到着した。

入国の際に審査官のおばちゃんからあれこれ質問されてあまり歓迎されていない印象を受けたものの何とか入国を果たすと両替所で手持ちのUS$60を差し出すとあまり良くないレートで両替していただき、4,549ものジャマイカドル(JMD)の大金を手にした。空港のArrivalの出口の近くにJUTAという会社のタクシーカウンターがあったのでそこで市内までの料金がUS$28であることを確認すると安心してタクシーを発注したのだが、何故か乗り込んだ車は誰も乗っていないマイクロバスであった。

何はともあれ、hotels.comに予約させておいた治安の良いニューキングストン地区にある高級ホテルWyndham Kingston Jamaicaに約30分で到着するとフロントでチェックインを行う運びとなった。フロントのおね~ちゃんに周辺の地図をくれないかと要求したのだが、無いとの返事だったのでキングストンは観光客向けの町ではないことを即座に認識することとなった。

日本の秋田県とほぼ同じ大きさを誇るジャマイカでは北部のモンテゴ・ベイというカリブ有数のビーチリゾートエリアがあり、観光客のほとんどはそこで休暇を楽しむのだが、海外から来るビジネス客の多くは首都キングストンに滞在し、ここでは国際的な会議もたびたび行われているという。この日のWyndhamホテルではイギリスからの独立50周年を祝うイベントが行われており、多くのパーティドレスで着飾った貴婦人が入口で記念写真を撮られながら会場に吸い込まれて行った。

パーティのためにホテル内の食事処が閉鎖されていたため、「ひとり歩きは絶対にやめよう」という物の本に書かれている警告にもかかわらず夜になって外に出てみることにした。なるほど、ホテル周辺にはホームレス系を中心とした怪しい輩がたむろしており、施しを受けるために宿泊客の出待ちを行っていた。ホテルの近辺にケンタッキーがあったのでそこに入ってチキンバーガーを発注している際にも怪しい野郎が店の中を覗き込んでおり、店員が追い払った隙に店を抜け出し、何とか無事にホテルに帰還出来たのだった。

10月5日(金)

キングストンの背景に高級コーヒー豆で有名な標高2000mのブルーマウンテンがそびえているのだが、ホテル内の喫茶店や土産物屋で売られているコーヒーもすべてブルーマウンテンである。朝食として香り高いコーヒーとマフィンをいただくと意を決してキングトンの観光に出ることにした。

キングストンはレゲエ・ミュージックのふるさととして有名でキング・オブ・レゲエとして君臨しているのが、かのボブ・マーリーである。キングストンの唯一の見所でここに来なければキングストンに来たことにはならないと言われているボブ・マーリー博物館(US$20)がニュー・キングストン地区で開館しているので見学に行くことにした。

多くの来館者はモンテゴベイから1日かけてツアーでやって来ており、博物館自体はガイドによる案内で館内は写真撮影禁止となっている。この建物はアイランド・レコード社の社長の家でボブが亡くなるまでの6年間を妻と子供たちと生活した場所であるので寝室、キッチン、狙撃されたときの銃弾の跡などボブの生活が染み付いているのである。

ところで、レゲエとは1960年代にジャマイカで誕生した新しいジャンルの音楽でもともとあったアメリカのリズム&ブルースにアフリカ的なリズムを加えたアップテンポの「スカ」からちょっとスローダウンした「ロック・ステディ」を経てキングストンのスラム街であるトレンチ・タウンのルードボーイ(不良少年)によって完成されたものである。ボブも父を亡くした12歳でトレンチ・タウンに移り住み、そこで彼の音楽的な基礎が作られたようである。

尚、1時間のガイドツアーの内の最後の20分は視聴覚室でボブのDVDをじっくりと見せてくれるので、気に入れば隣のショップでCDやDVDを買って帰ることも出来るのである。

ボブ・マーリー博物館でレゲエの真髄に触れることが出来たので炎天下の中をホテルに戻り、プールのある中庭でしばしくつろぐことにした。何でも昨今のジャマイカでは小島よしおのリズムがレゲエに取り入れられているという噂を耳にしており、危険なダウンタウンやトレンチタウンに行けばその真相を解明できる可能性があるのだが、そんなの関係ね~と思っていたので終始安全なホテルでくつろぐことにしたのだ。

10月6日(土)

ジャマイカはスペインに支配された周辺のカリブ海諸国と異なり、英国連邦に加盟しているので公用語は英語であり、車は日本やイギリスと同じ右ハンドル、左側通行なので道行く車の多くは日本車である。治安が良くギャングの抗争に伴う銃撃戦に遭うリスクが少なければダウンタウンのスラム街に侵入し、ミヤネ屋が伝える上半身裸率の高い庶民の生活も垣間見ることが出来るのだが、今回はアップタウン周辺の散策にとどめることにした。

ジャマイカの民族構成の内90%以上はアフリカ系であるのだが、彼らは英国の統治時代にアフリカから連れてこられた奴隷の子孫である。よってその類まれなる身体能力はオリンピック100m、200mの金メダリストのウサイン・ボルトを頂点としたアスリートに引き継がれているのだ。そのボルトがネジ業界ではナットに相当するはずの共同経営者と開店しているレストランがキングストンにあると伺っていたのでネットで場所を調べて突撃することにした。

ボルト・ポーズをデザインに取り入れたTRACKS & RECORDS(http://www.tracksandrecords.com/)というレストランは幸いホテルから2km程しか離れていなかったのだが、夕食の時間帯に移動するのはリスクを伴うのでランチの時間を狙って来店することにした。店に入るとすぐボルトの叩き出した世界新記録のタイムが誇らしげに掲げられており、店内はスポーツバー風の装いであった。

この店はジャマイカ料理のレストランなのでローカルな食物であるザリガニの出汁をベースにしたジャンガスープとタラをすり身にしたフリッターを発注させていただいた。出汁が利いているジャンガスープは非常に美味だったのだが、フリッターは味が薄くマヨネーズをなすり付けて食うよりも醤油の方が相性がいいはずだと思ったのだが、何とか完食してボルトに仁義を切っておいたのだった。

昼過ぎにホテルに戻った途端に雲行きが怪しくなり、激しい雷雨が降り始めた。何ボルトに相当するのか想像はつかないが高電圧の雷がそこら中に轟音を立てて落ちている様で必然的に午後からの活動は制限されることになってしまったのだ。

10月7日(日)

正午前にWyndhamホテルをチェックアウトしてホテルの敷地で待機しているJUTAタクシーに乗り、キングストン国際空港へとひた走っていた。空港で出国審査を受ける際の審査官は偶然にも入国の際に遭遇したおばちゃんで「楽しめたか?」と聞かれたので大して出歩くことは出来なかったものの「楽しんできたぜ!」と見栄だけは張っておいた。

朝飯を食って来なかったので空港のコーヒーショップでブルーマウンテンコーヒーを軽飲し、ついでに粗挽きされたコーヒー豆も買っておいた。免税品かつ原産国でありながら、ブルーマウンテンコーヒーの価格は高く、227g入りの真空パックでJMD1995(日本円で約\1700)もしやがった。尚、日本が誇るUCCコーヒーはブルーマウンテンに自前のコーヒー農園を持っており、以前はガイドツアーも行われていたそうだが、現在は高値でコーヒー豆を日本に輸出することに専念しているようであった。

♪Love is the My~stery~ 私をよ~ぶのぉ~ 愛はミ~ステリ~ 不思議なち~からでぇ~~~~~~~~~~~~~~♪

ということで、14:30発BW063便は定刻通りに出発し、途中モンテゴベイを経由して3時間弱のフライトで1時間時計の進んだ午後6時過ぎにバハマ連邦の首都ナッソーに到着した。

ところで何故ナッソーくんだりまで来なければならなかった理由であるが、1984年5月1日にリリースされた名曲「北ウイング」を収録した中森明菜の6枚目のアルバムのタイトルが「ANNIVERSARY FROM NEW YORK AND NASSAU AKINA NAKAMORI 6TH ALBUM」となっており、ニューヨークはわかるが、当時の私にとってナッソーは謎であり、将来ナッソーに行くのはめっそ~もないと思っていたのだが、北ウイングを飛び立った中森明菜がやって来たのはニューヨークを経由してナッソーだったという定説が強まったため、私もナッソーに来なければならなくなったのだ。

何はともあれ、フロリダ半島の東数百km沖にあるバハマ諸島の中心ニュープロビデンス島のナッソー国際空港に降り立つとナッソーダウンタウンまで9kmと距離も手頃だったので徒歩で予約しておいたホテルに向かうことにした。歩いてみると思ったより距離感が感じられ、2時間経ってもダウンタウンにたどり着かず、挙げ句の果てに雷雨に見舞われ濡れ鼠になりながらagodaに予約させておいたNassau Junkanoo Resortにチェックインを果たしたのは午後10時近くになってしまったのだ。

10月8日(月)

早朝差し込んでくる光で目を覚まし、最上階である6階の部屋の窓越しから巨大なクルーズ船がゆっくりと入港する光景が目に入った。ナッソーはカリブ海クルーズの寄港地になっており、前夜マイアミを出た船が翌朝ナッソーに着くことになっているので毎日何らかの豪華客船の入港、出航の様子が見られるのだ。

ダウンタウンの目の前に広がるJunkanooビーチは白砂のビーチにエメラルドブルーの海の景色が美しく波も穏やかなので早朝から夕暮れ時まで海水浴を楽しむことが出来るカリブ海の天国と言えよう。

ダウンタウンのちょっとした高台を目指していると階段脇を流れる水が涼しげでコケに覆われたクイーンズ・ステアケイスに遭遇した。階段を上りきったところはフィンキャッスル砦($2)になっており、船の舳先のような形が印象的であった。この砦は1793年に造られたもので3つの大砲が海の彼方を狙ったまま残されている。

砦のとなりには水道塔がそびえており、以前はエレベーターで塔の頂上まで上がり、ナッソーの街全体を見渡すことが出来たのだが、残念ながら今は立ち入り禁止となっていた。

ナッソーの北にパラダイス・アイランドという細長い島が浮いており、リゾートの架け橋を渡って到達することができるので、その楽園ぶりがいかほどのものかこの目で確かめに行くことにした。

ナッソーのダウンタウンには大型のホテルが少ないこともあり、観光客のリゾートの拠点は主にパラダイス・アイランドか西に4km程離れたケーブル・ビーチとなっている。パラダイス・アイランドに立ち並ぶホテルは皆リッチでゴージャスなのだが、その最高峰に君臨するのがアトランティスというテーマパーク型リゾートホテルである。

アトランティスホテルの中庭にあるプールや魅惑のアトラクションは主に宿泊客専用となっているのだが、観光客から金を巻き上げるカジノはアクセスフリーになっているのでリゾート客の散財ぶりを冷やかしにカジノを通過してみたのだが、昼の時間帯だったためディーラーも暇を持て余していた。

さらにアトランティスの目の前には豪華クルーザーが停泊するハーバーがあり、その周辺はショッピングセンターになっていたのでこのホテルに宿泊していなくても充分リゾートのおこぼれに預かることが出来るのだ。

10月9日(火)

早朝目を覚ますと港にはすでに昨日とは違うクジラの尻尾が突き刺さったようなクルーズ船が停泊していた。クルーズ船の乗客は下船するとローソン・スクエアというコンビニはない小さな広場を通過しておのおの街に繰り出す日常となっている。

ローソン・スクエアの近くにストロー・マーケットという土産物屋のたまり場があり、観光客はここでストロー(やしの木の葉を裂いてよったもの)製品や木彫りの置物を物色したり、バハマ・ママたちと仁義なき値段交渉をして交渉力を鍛えようとしていた。

政府庁舎を有するパーリアメント・スクエアにはコロニアル風のピンクの建物が立ち並んでいるのだが、バハマにピンク色の建物が多いのはフラミンゴを国鳥とし、シンボルカラーとしてフラミンゴ色を採用しているからだ。

ダウンタウンの路地には個性的な土産物屋や飲食店も多く、海賊をモチーフにした人形がそこかしこで観光客の目を楽しませてくれるのだ。

カリブ海というと海賊を連想してしまうのだが、カリブ海に海賊がいたのは実話で1700年代前半にはナッソーに2000~3000人もの海賊が住んでいたという。海賊に関する知識についてはパイレーツ・オブ・ナッソーという博物館($12)で学習することが出来るので早速入場してみたのだが、館内には臨場感たっぷりの人形や模型がマサにディズニーランドのカリブの海賊のように配置されているのだ。

途中で地元の小学生ツアーに合流し、彼らは海賊に扮した荒くれ男の説明を要所要所の生返事を加えながら律儀に聞き入っていた。一通り説明が終わって中庭に出ると記念写真撮影タイムとなり、青少年少女たちは代わる代わる海賊のオブジェを背にしてポーズを取っていた。

フラミンゴ色の建造物はすでに充分堪能したので今度は本物のフラミンゴを見るためにオーダストラ・ガーデン&動物園($16)に入園することにした。園内はそんなに広くはないのだが、飼育されている動物は鳥類、爬虫類、哺乳類と非常にバラエティに富んでおり、観光客は手を消毒してインコに餌をあげることも出来るのだ。

ネコ科の動物もSERVAL、OCELOT、JAGUARと取り揃えられており、それらが狭い檻の中をアクティブにのし歩く様子も間近にすることが出来たのだった。

ここでの最大のイベントは1日3回行われるフラミンゴのショーでフラミンゴ・アリーナに訓練されたカリビアン・フラミンゴを寄せ集め、アリーナ内を行進させるのと観光客に一本足のポーズを取らせてフラミンゴと記念写真を撮ることであった。

午後4時過ぎから海に入って波に揺られていたのだが、常夏と思われるバハマ諸島でも12月~3月の冬季には気温が下がるため、ビーチでくつろげるのは11月くらいまでかも知れないのだ。

10月10日(水)

Energy Surchargeと称してagodaに事前に支払っている宿泊料とは別に3泊分で$46.5を払わされたNassau Junkanoo Resortをチェックアウトすると沿岸部を走るバスに乗って空港まで2km程の距離のオレンジヒルビーチに移動し、そこから徒歩で空港まで向かった。歩いている途中で何故中森明菜がアルバムのレコーディングの地としてナッソーを選んだのか考えていたのだが、それは単に来たかっただけだろうという結論に至った。

ナッソー国際空港の米国行きのターミナルは他の国行きとは離れており、アメリカへの入国手続きもナッソー国際空港で行われるという離れ業が演じられていた。バハマ連邦はジャマイカと同じく英連邦加盟の国であるのだが、これではまるでアメリカの植民地ではないかと思われたのだった。何はともあれ12:40発のUA1462便に乗り込むと約3時間でニューアーク・リバティ空港に到着した。空港から列車と地下鉄を乗り継いでニューヨークでの定宿となってしまったHoward Johnson Bronxの最寄駅まで移動し、チェックイン後すぐにヤンキースタジアムに向かった。

マサよ、君はMLBのポストシーズンの試合を現場で見てサヨナラ勝ちの瞬間に見知らぬヤンキースファンとハイタッチを交わしたことがあるか!?

というわけで、アメリカン・リーグのディビジョン・シリーズであるボルチモア・オリオールズとニューヨーク・ヤンキースの戦いはすでにオリオールズの本拠地で1勝1敗となっており、第3戦はヤンキー・スタジアムでの初戦であったので試合前に選手紹介等のセレモニーが賑々しく行われていた。

試合はエース黒田の好投にもかかわらず、2対1とヤンキースがリードされて9回の裏を迎えた。4打席目のイチローがレフトライナーに倒れた後、度重なるチャンスに凡退を繰り返し、ヤンキースファンから辛辣なブーイングを浴びていた3番アレックス・ロドリゲスについに代打が出され、「Rauuuuu~L」の声援とともに勝負強いラウル・イバネスが打席に立った。イバネスが振り抜いた打球はライナーとなって右中間スタンドに突き刺さり、ついにヤンキースはスコアを振り出しに戻したのだった。

試合の方は延長戦に突入し、大歓声とともに12回の裏に先頭打者として打席に立ったイバネスが振り切った打球は大きな弧を描いてライトスタンドに舞い降りた。その瞬間にヤンキースタジアム全体に驚喜の嵐が吹き荒れ、観客は誰彼構わず隣近所同士でハイタッチを繰り返し、勝利の喜びを分かち合っていた。

10月11日(木)

昨日のヤンキースタジアムでの喧騒をひきずりながら入浴して身を清め、Howard Johnson Bronxをチェックアウトすると地下鉄でのんびりとJFK国際空港に向かっていた。12:30発NH009便は20分程の遅れを出したものの、眠れない機内で映画を3本ほど鑑賞しながら14時間近くのフライト時間をやり過ごしていた。

10月12日(金)

午後3時過ぎに成田空港に到着すると、実は間違って翌日の試合のチケットも購入していたため、ヤンキースタジアムに魂は残してきたと思いながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \127,140、Caribbean Airlines = $370.91、ユナイテッド航空 = \15,870

総宿泊費 \75,500

総ナッソーホテルEnergy Surcharge $46.5

総ニューヨークAirTrain、地下鉄代 $55

総ジャマイカタクシー代 $56

総ナッソーバス代 $1.5

協力

ANA、Caribbean Airlines、ユナイテッド航空、hotels.com、agoda、Ticketmaster.com

FTB発掘あるあるインカ帝国調査イインカイツアー(捏造なし!)

FTBではこれまでマヤ文明、アステカ文明、エジプト文明等数々の古代文明の謎を解明してきたが、今回はインカ帝国調査委員会を立ち上げ、捏造ではない本物の謎の究明に立ち向かうため、ペルーへと旅立つことにしたのである。

2007年8月11日(土)

盆、暮れの繁忙期にはエコノミークラスが満席となるため必ずビジネスクラスにアップグレードしていただけるNH8便サンフランシスコ行きに乗り込むと追い風にうまく乗り切れないため1時間の遅れを出しながら午前11時にやっとのことで地元サンフランシスコに到着した。早速BARTでバ~とダウンタウンに滑り込むとその足でサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であるAT&Tパークに向かった。

今回のMLB観戦のハイライトはスーパースター、バリー・ボンズの756号ホームランボールの争奪戦に勝利し、そのボールを福岡に持ち帰り王監督のサインをもらってe-Bayに出品し、高値で売り抜ける予定であったが、すでに兵どもが夢のあと状態だったため、何の変哲もない野球観戦に成り下がってしまっていた。桑田が桑わっ田ピッツバーグ・パイレーツとの試合は午後12時50分にプレーボールとなったのだが、私が見たかった出来事であるボンズのホームラン(758号)と桑田の登板はすでに昨日の出来事となってしまっており、今日はボンズは休養日で大量リードで勝利したパイレーツは桑田を出す機会がなく、唯一の見所は過去の遺物となった投手が捕手のサインを覗き込む時の「パイレーツだっちゅ~の」のポーズだけであった。

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野球観戦終了後、次のフライトまでの空き時間を潰すべく、$5に値上されているケーブルカーには乗らずにその横を歩きながらダウンタウンの観光を実行することにした。夏休みの観光スポットはどこも家族連れで賑わっており、ケーブルカー乗り場には長蛇の列が出来ており、観光客は箱乗り状態でアップ・ダウンを楽しんでいた。

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8月12日(日)

思わず相方のトシに「欧米か?」と突っ込まれそうになるタカ・ペルー航空が運航する午前1時20分発TA561便にチェックインする際に目的地は「南米か?」と聞かれたのでペルーのリマだと答えておいた。4時間以上のフライトで中米エル・サルバドルの首都サン・サルバドルに到着し、この空港で5時間近くを座り心地の悪い椅子の上で不貞寝をしてやり過ごし、さらに5時間以上のフライトでリマのホルへ・チャべス国際空港に到着したのは夕方の6時半過ぎであった。何故か手元にあったユーロを現地通貨であるソルに両替した後、本日の宿泊地であり、セントロに位置するシェラトンホテルまでの交通機関を探していると日本の三井物産が経営しているMITSU TAXIに捕まってしまったので仕方なく、相場より高いUS$27を支払って実車することにした。ホテルまでの道すがら、私を上客だと判定した運転手から巧みな営業を仕掛けられ、今後空港までの行き来に関してはすべてMITSU TAXIをチャーターすることになってしまった。

8月13日(月)

STAR WOODSのポイントが余っていたため、マサであればUS$100以上かかるところを私はただで宿泊することが出来たシェラトンホテルをチェックアウトすると、早朝7時に迎えに来たMITSU TAXIに乗り込み、昨日着いたばかりの空港に舞い戻った。リマ ⇔ クスコ間のフライトは多くの航空会社が参入し、競争が激しくなっているのだが、その中の代表的なエアーラインであるアエロ・コンドルを選択しようとしたところ「混ンドル!」と拒否されるのを恐れてWEBから容易に予約の出来たSTAR PERUの1117便に搭乗し、午前9時15分にリマをコンドルのように飛び立った。上空から下界を見下ろすと茶色い不毛の大地が果てしなく広がっており、起伏に富んだアンデスの遠景を鳥瞰することに成功した。

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午前11時前に標高3,399mのクスコ空港に着陸し、空港外でラジオタクシーを捕まえると翌日に控えたマチュピチュ行きの列車のチケットを現地手配すべく、ワンチャック駅へ向かった。南米独特のスローサービスにより、何人もの旅行者がチケット購入待ち状態になっていたのだが、皆文句も言わずに待合室でインカ帝国探訪に思いを馳せており、怒りの火花が導線に引火することもなかったのだ。

駅到着1時間後に何とかチケットの購入に成功すると念願の古都クスコ(世界文化遺産)の散策に乗り出すこととなった。クスコはかつて北はコロンビアから南はチリ北部まで、南北4,000kmもの地域を支配していた南米最大の王国、インカ帝国の首都であった。1534年にスペイン軍の侵攻を受けると町は崩壊したのだが、新たに精巧なインカの石組みを基盤としたスペイン風の街並みが建造されたのだ。その代表的な建造物としてサント・ドミンゴ教会(S/.6)がインカの石組みに支えられた状態で今なお堅牢さを誇っているので手始めに見学させていただくことにした。ここはインカ時代にはコリンカチャ=太陽の神殿として君臨し、内部は眩いばかりの金で装飾が施されていたのだが、黄金に目がくらんだスペイン人がすべて略奪し、延べ棒に変換して本国に送信してしまったのだ。しかし、黄金がなくなった今もその美しい石組みは健在でインカの建材加工の精密さを長きにわたって伝承しているのだ。

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200mも続く石組みが残るロレト通りを歩いていると高地での酸素不足からろれつが回ってないのを感じながらも何とかクスコの中心であるアルマス広場に到着した。スペイン式町造りは中心にアルマス広場をおくことから始まるのであるが、偶然にもインカ帝国の町造りも広場が中心だった。ここは広場を見下ろすカテドラルをはじめ、レストラン、旅行会社、土産物屋に囲まれた最大の観光拠点となっている。

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髭剃りメーカーのジレットがじれったく感じる「カミソリの刃1枚すら通さない」と言われるインカの石材建築を象徴する物件として宗教芸術博物館があり、その建物を支える礎石として12角の石が有名である。通常の石組みであれば4角形で十分なのだが、あえて難度が高い多角形に挑戦し、ピッタリと寸分の隙間もなく、しかも接合剤も使わずに組み上げ、数度の地震を乗り越えながら何百年もの間ビクともしていない様子は日本の城郭を支える石垣とは趣の異なる美意識を感じさせる代物である。尚、12角の石よりも小ぶりであるが、近辺に14角の石もひっそりと佇んでいるのだ。

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夕暮れ時にアルマス広場に立ちふさがるカテドラル(S/.16)に侵入した。この物件はインカ時代のピラコチャ神殿の跡に建造されたもので、1550年に建築が始まって完成したのは100年後と言われている。内部にはトポシの銀300トンを使ったメインの祭壇が鎮座しており、約400ある宗教画の中ではクスコ名物のクイ(テンジクネズミ)が盛られてある「最後の晩餐」が目を引いた。

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マサよ、君は空気が薄くて寝苦しい夜を過ごしたことがあるか!?

楽天トラベルに予約させておいたSan Agustin Plazaホテルの予約が通っていないという危機に直面したため、系列のSan Agustin Internationalと交渉し、新たにディールを成立させて宿泊したその夜は高地に位置するクスコの空気が薄いため、呼吸困難を経て意識不明状態に陥り、見事睡眠状態を達成するという荒業が完成されたのだった。

8月14日(火)

午前5時前に何とか蘇生し、5時より供されている朝飯を食ってホテルをチェックアウトし、マチュピチュ行きの列車が発着するサン・ペドロ駅に向かった。クスコからマチュピチュへは鉄道でアクセスするのが一般的になっており、通常早朝に数本の列車が出るのみである。午前6時15分に発車したビスタドームと呼ばれるパノラマ列車内ではペルーの旅行会社であるミッキーツアーの日本語をしゃべるペルー人のツアーガイドに席が進行方向ではないと文句を言っている日本人観光客の愚痴と隙間風のように入り込んでくるディーゼルの排気ガス以外は快適な環境が提供されていた。4,000m超の山を越えるため、3回のスイッチバックを繰り返しながら列車はゆっくりとクスコの街並みを見下ろすように進み、その後車窓は次々にとうもろこし畑、アンデスの雪山、マチュピチュ近辺のジャングルといったものを映し出していった。

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わずか114kmの距離を4時間以上かけてマチュピチュ村にあるアグアス・カリエンテス駅に10時半頃到着し、観光案内所でマチュピチュの入場券(S/.120.50)を購入するとシャトルバス(US$6)に乗り込みつづら折の未舗装道路を30分くらいかけてマチュピチュの入り口に登りついた。インカ帝国を語る上で数々のテレビ番組で「空中都市」、あるいは「失われた都市」として取り上げられているマチュピチュ(世界文化自然複合遺産)は15世紀前半、スペイン軍によるインカの都市の破壊を免れるために標高2400mに造られており、無傷のままインカ帝国滅亡から400年近くを経過した1911年にハイラム・ビンガムに発見されたのだ。

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午前11時過ぎより早速マチュピチュの謎の解明に取り掛かることにしたのだが、手始めにマチュピチュの背後にそびえる峰であるワイナピチュに登頂することにした。ワイナピチュへの入山は一日400人に限定されており、何とか400番目の入山権利を首尾よく入手すると断崖絶壁で急勾配の道をピチュピチュと汗を滴らせながら進むトレッキングをスタートさせた。眩い太陽の下、過酷な坂道を40分ほど登ると、頭上にインカの遺跡が見えてきた。さらに岩の下に空いた洞窟を抜けると頂上に到達し、巨大な岩の上で多くの観光客がマチュピチュの遠景や周囲の山々を覆うジャングルの景色に見入っていた。頂上からマチュピチュを見下ろすと遺跡が尾根にあるのがよくわかり、そこに到達するためのシャトルバスの路線がつづら折状に山間に美しくつづられているかのようだった。

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ワイナピチュから滑落することなく来た道を逆方向にチュピチュピと下山することに成功したので遺跡の隅々を隈なく調査することにした。マチュピチュの食生活を支えるために重要な役割を果たしていた段々畑が大きなスケールで広がっており、遺跡の中心部には石を削って造られた水路が張り巡らされ、きれいな山水が流れていた。また、遺跡の中央には太陽の神殿が君臨しており、石で描かれた美しい曲線が目を引いた。神殿の下は陵墓になっており、ミイラの安置所だったと思われる。

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マチュピチュの最高点にインティワナと言われる高さ1.8mの日時計が時を刻んでいる。その眼下には糸のように細いウルバンバ川とめまいをおこしそうな絶壁が見下ろせる。高台に沿って神聖な広場と3つの窓の神殿を抜け、市街地を通り過ぎ、最も定番のマチュピチュの風景が撮影できるポイントである見張り小屋に登った。記念写真の順番待ちをする観光客の合間を縫って風景を撮影していると飼いならされているリャマの集団に遭遇し、砂浴びの砂嵐を見舞われてしまった。

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マチュピチュを発見したアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムの名を冠したバス道ではなく、下山道はジャングルを切り開いた階段道を選択し、1時間ほどで麓のマチュピチュ村に帰った来た。ミッキーツアーによる日本人観光客に占拠されているHOSTAL ELSANTURIOにチェックインした後、村の散策に乗り出すことにした。村長の多忙さを尊重して面会は申し込まなかったものの、村内にはインターネットカフェやトレッキングで疲れた肉体を癒すためのマッサージ屋、さらにはアンデアンスパという温泉まで沸いているのだ。

8月15日(水)

早朝よりバスに乗り、再びハイラムビンガムロードをくねくねとドライブし、マチュピチュの入り口に到着した。ここで直面した衝撃の事実は大金をはたいたにもかかわらず、入場チケットは有効期間は3日であるが、1回入場すると無効になるという事実が私の理解しないスペイン語で書かれているということであった! やむなく空中都市から地上に舞い戻ると列車の時間を変更してもらい、9時15分発のオリャンタイタンボ行きのバックパッカー列車に乗車した。

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6000m級の山々に囲まれたインカの聖なる谷のほぼ中心に位置するオリャンタイタンボ(S/.70=周遊チケット)はインカ帝国時代の宿とも要塞跡ともいわれており、300段の階段に沿ってタンボの代わりに段々畑が斜度45度の斜面に造られている。300段の階段を登りつめると広場に出た。広場の周辺には恒例のインカの石組みが続き、中央には6個の巨石を並べた不思議な建造物が残っている。一説によると太陽の神殿の作りかけではないかと言われているが、いずれにしてもこの急斜面をどうやって持ち上げたのか謎は残ったままである。

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オリャンタイタンボで乗り合いタクシーに乗りあって午後5時くらいにクスコに戻ってきた。街中では何らかのフェスティバル&カーニバル系の催し物に遭遇し、原住民ギャルが脚線美を見せ付けるように踊り狂っていた。夕暮れ時にクスコの市街を見下ろせる高台にあるサン・クリストバル教会に息を切らせて駆け上がり、たそがれる夕暮れの風景にインカ帝国への思いを馳せることにした。

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アルマス広場に戻り、民芸品を売りつけようとするアンデスの民の攻撃を避けながら、日本食堂であるKINTAROに非難し、マスの塩焼きを食っていると熊と相撲を取ったときのような振動を感じて思わず店員と顔を見合わせてしまった。これが何百人もの命を奪った大地震であることをその時点では知る由もなかったのだった。

8月16日(木)

早朝7時30分発のSTAR PERU航空でリマに戻り、待ち構えていたMITSU TAXIでダウンタウンに向かい、かつてフジモリが仕切っていたペルーの心臓部への侵入を果たした。1535年の建設以来、、南米におけるスペイン植民地の中心として栄えたリマは今では旧市街のセントロと新市街のミラフローレンス地区に分かれているのだが、まず手始めに世界文化遺産に登録されているセントロの中心であるアルマス広場を訪問した。

アルマス広場の正面に堂々とそびえているカテドラルはコンキスタドール(征服者)の総督フランシスコ・ピサロにより」礎石が置かれ、リマ建設と同時に建立されたものだ。その脇には1587年建造のペルー政庁が構えており、毎日正午を迎えると衛兵交代式が行われるので話の種に軽く見学させていただいた。

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旧市街で最も美しいと言われるサン・フランシスコ教会・修道院に宗教博物館(S/.5)が開館していたのでスペイン語のガイドツアーに便乗させていただくことにした。丁度現地在住であると思われる日本人のおじいちゃんを訪問した家族集団と一緒だったのでおじいちゃんの中途半端な解説を聞きながらのツアーとなった。ここでの最大の見所は地下にある墓地カタコンベである。天井の低い暗い地下室には長方形の囲いの中に人間の手足の骨が詰め込まれ、さらに奥にある大きな穴の中にはドクロが渦状にまるで芸術品のように並べられているのだ。

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セントロのアルマス広場とサン・マルティン広場を結ぶラ・ウニオン通りを通っているとどこぞの国のTV局の取材クルーが地震被害の取材を行っている様子でガラスが軽く割れているビルは立ち入り禁止の黄色いテープが施されていた。

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すでにリマでの定宿となった旧市街のはずれに位置するシェラトンホテルから新市街へのシャトルバンが出ているので便乗してミラフローレンス沿岸沿いにあるラルコ・マルというショッピングモール、ダイニング、エンタメ系の複合ファシリティにたどり着いた。ラルコ・マルの展望台からは太平洋が一望出来、そこから徒歩10分位のところに位置する恋人達の公園という海岸公園には日本柔道協会が公認しそうなケサ固めによる押さえ込みのモニュメントが置かれていた。

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8月17日(金)

早朝より再びアルマス広場を訪れ、2001年に破綻したフジモリ政権に別れを告げると、ホテルに迎えに来たMISTU TAXIに乗り込み、空港への帰途に着いた。尚、今回の地震で最大の被害を受けたイカ州はナスカの地上絵の観光拠点となっている場所で今回は予定していなかったのが幸いした。もしイカにいた時に地震に遭遇していたら崩壊したビルの下敷きとなり数日後にスルメの状態になって発見されていたかも知れない。

リマのホルへ・チャべス空港からTACA PERU航空に乗り、再びサン・サルバドルを経由してサン・フランシスコに帰る機内で黄色い液体であるインカコーラを痛飲しながら、ペルー人にイイン加減な奴だと思われることなく帰路に着いた。

8月18日(土)

サン・フランシスコよりNH7便に搭乗し、機上の人となる。正露丸を飲みながら乗務している気分の悪そうなスチュワーデスがいたが、救いの手を差し伸べることが出来なかった。

8月19日(日)

ペルーで地震が起こった時には無事帰国出来るかどうか自信がなかったが、何とか成田空港に到着し、そのまま流れ解散。しかし、むしろこの地震を理由に会社には帰国出来なくなった旨を伝え、ボランティア活動に移行すべきではなかったかとも思われた。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥207,290、TACA航空(UNITED) = ¥96,690、STAR PERU = US$209.44

総ペルー空港使用料 US$42.5

総宿泊費  S/.1,007.16、US$99.96、¥6,000

総BART代  US$10.3

総MITSU TAXI代  US$108

総ペルータクシー代  S/.20

総PERU RAIL代  US$96.5

総マチュピチュシャトルバス代  US$12

総サンフランシスコタクシー代 US$16

協力 ANA、TACA航空、STAR PERU航空、STAR WOODS、MITSU TAXI、PERU Rail

FTB GWスペシャル ゴジラ v.s. Havana Express

マサよ、君は表彰盾とともに自分の栄光の名前が掘り込まれた高級ボールペンを航空会社から受け取ったことがあるか!?

ということで、ANAマイレージクラブダイヤモンド会員を5年間防衛している私にその栄誉を讃えるため、記念の盾と贈答品が送られてきやがった。これもひとえに私の努力の賜物であるので遠慮せずに納めさせていただくことにするとともにGWの喧騒を引き裂くようにニューヨークに旅立つことにした。

2007年4月28日(土)

ANAのファーストラウンジにてヤンキースの強力打線に立ちふさがる松坂の勇姿を見物しながら時間をつぶし、午前11時発のANA10便に乗り込むと11時間程度のフライト時間で同日午前9時過ぎにニューヨークに到着した。早速エアートレインと地下鉄を乗り継いでマンハッタンに侵入し、その勢いで2年ぶりのヤンキーススタジアムに乗り込んだ。

MLB最大の伝統の一戦ヤンキースV.S.レッドソックスは午後3時55分にプレーボールとなった。ヤンキースの先発投手のカーステンスが投じた1球目を振り抜いた先頭打者フリオ・ルーゴの打球は弾丸ライナーで投手の膝下を直撃し、カーステンスはスッテンテンになったかのように転倒してしまった。何とか立ち上がって2番打者に立ち向かったもののヒットを打たれそのまま降板し、先発からリリーフに格下げになっていた井川が急遽マウンドに向かうこととなった。マサに胃が悪くなるほどの状況でマウンドに上がった井川であったが、次打者のレッドソックス最強打者であるデイビッド・オルティスを併殺に打ち取り、次のマニー・ラミレス四球後、J.D.ドリューも三振に斬って取り、見事にピンチを切り抜けるとそのまま6回0/3を無失点に押さえ、降板時には念願のスタンディングオベーション浴びることとなったのであった。

一方、ゴジラ松井であるが、2回に回ってきた第一打席で見事中前安打を放ち、電光掲示板に「HIT-DEKI」の文字を躍らせていた。試合の方は4回に四球で出塁した松井を1塁に置いて打席に立ったホルへ・ポサダがライトアッパーデッキに特大ホームランを打ち込み、打球を取ろうとしたファンのビールがアッパーデッキからロウアーデッキにしぶきとなって流れ落ちる状況の中で2点を先行したヤンキースが終始試合をリードし、3対1で逃げ切って連敗を7で止め、井川が見事に今季2勝目を手にしたのであった。

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4月29日(日)

マディソンスクエアガーデンの近くに位置するエレベーターの反応が遅いHampton Innをチェックアウトすると再びヤンキースタジアムの喧騒に身を委ねることにした。怪我から復帰したエース王建民を先発に立てたヤンキースであったが、初回いきなりレッドソックスの主砲ディビッド・オルティスに先制の2ランホームランを打ち込まれ、ヤンキースのミンケイビッチのつかの間の逆転3ランの後にレッドソックスの伏兵アレックス・コーラのスカッとさわやかな逆転ホームランでマサにシーソーゲームの様相を呈していた。

多くの日本人に見守られたこの試合の最大の見せ場は6回の裏のヤンキースのチャンスにリリーフに立ったレッドソックスの岡島v.s.松井という巨人の紅白戦を彷彿とさせるような対戦であった。すでに左打者二人を三振に切って取り、2アウト1,2塁という場面で松井と相対した岡島は速球と変化球を駆使し、見事松井を投ゴロに打ち取ったのであった。続く7回の裏も三者凡退でヤンキースの攻撃を退けた岡島の勢いを買ってレッドソックスはこの試合を7対4で物にし、アリーグ東地区首位の座を不動のものとしたのであった。

4月30日(月)

Newark Liberty空港からAirCanadaの便でトロントに飛び、そこからキューバまで足を伸ばすことになっていたのだが、これはあくまでも急場しのぎの予定ではない。なぜなら、キューバに入国するためにはキューバ大使館で事前にツーリストカードを入手しておく必要があったからだ。

ANAのマイレージが余っていたのでマサであればCA$1,100.-くらいかかるところを私は税金のみの支払いで搭乗することが出来るAC964便に乗り込むと午後1時過ぎにはキューバの首都ハバナに到着した。ここハバナは私の最も敬愛するサングラス俳優である寺尾聡が歌唱するHAVANA EXPRESS(http://www.youtube.com/watch?v=cPli_1AaLSs)を耳にして以来必ず来なければならないと思っていたのだった。

ハバナ空港にてUS$を現地通貨であるキューバペソに両替し、客待ちしているOKタクシー(CUC25.-)に乗り込むと30分程度で首都ハバナの旧市街であるラ・アバーナ・ピエハ地区に位置するあらかじめ予約しておいたホテルイングラテーラに到着した。このホテルは1896年に建てられた由緒あるスパニッシュコロニアル様式を誇っているが、客室は建築年数相当のしなびかたをしていた。とりあえず3時間程度ホテルでダウンさせていただいて、夕暮れ時にユネスコの世界遺産にも指定されているラ・アバーナ・ピエハ地区こと旧市街の散策に繰り出すことにした。

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旧市街には19世紀後半のキューバ黄金時代に財力をつぎこんで建てられた見事な建造物が多く残され、町中が見所になっており、コロニアルな街並みのなかを1950年~60年代の米式クラシックカーが我が物顔で疾走している。社会主義国であるキューバは一般的に治安のよい国として知られているのであるが、私にとっては150kmの速球を投げる人材がごろごろしているので決して侮れない国だと思われた。その証拠に町中のあらゆる広場や道路上で子供が草野球に興じており、ここでは王・長嶋全盛時代の古き良き日本の原風景を垣間見ることが出来るのだ。早速私も松坂直伝のジャイロボールを伝授してやろうとストレッチを始めたのだったが、肘が痛いのでやめておくことにした。

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ハバナ港へ通じる運河を守るために造られたプンタ要塞近辺におびただしい数の観光客と夕涼み系の原住民がたむろしているので私もその仲間に加わることにした。プンタ要塞からは対岸のモロ要塞がモロ見えになっており、港から流出する油により汚染された海では原住民が釣り糸だけを垂らすという一糸釣り状態で小魚を釣り上げていくうちに日も暮れていったのだった。

5月1日(火)

私の宿泊地であるホテルイングラテーラの隣はガルシア・ロルカ劇場という1838年に建立されたキューバ・クラシックバレエの本部であり、その隣はカピトリオという旧国会議事堂で1929年に建築されたアメリカのホワイトハウスがモデルになっている旧市街のランドマークである。今日はメーデーのために中に入れなったため、近隣の華人街の門を見上げたりしながら、旧市街を散策することにした。

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昔ながらの面影を残すオビスポ通りには昔ながらのレストランやかつてアーネスト・へミングウエイの常宿となっていたピンク色がまぶしいホテル・アンボス・ムンドスが君臨している。「老人と海」の著作で有名なへミングウエイはこのホテルの511号室に引きこもって執筆活動を行っていたそうだが、確かにこの雰囲気は私にとって財務省に巣食う怪老人とそれに取り入ろうとするマサとの友情を描いた「老人とマサ」を執筆するためのノウハウを身に着けるにはもってこいの土地柄だと思われた。

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キューバの特産物としてハバナ・シガーという葉巻とともにハバナ・クラブというラム酒が有名であるのだが、その製造工程を学習出来るハバナ・クラブ博物館(CUC5.-)に酔ってもない勢いで立ち寄って見ることにした。とりあえず気つけのためのラム酒カクテルを飲んだ後、英語のツアーに参加し、サトウキビから作られるラム酒の製造過程を見学させていただいた。このファシリティには1930年のラム工場を再現したミニチュアがあり、沖縄からも輸入したというサトウキビを運ぶ蒸気機関車も走っているのだ。ツアーの最後はお決まりのバーでのラムのテイスティングとなっており、酔った勢いで物品を買わせるためのショップも待ち構えているのだ。

マサよ、君はキューバに最初に上陸した日本人の像が仙台育英学園の寄贈により、ハバナにおっ建てられている事実を知っているか!?

ということで、独眼竜政(マサ!)宗の命により1613年に欧州へのパシリ出張に駆り出された支倉常長はメキシコよりキューバに立ち寄ったという縁で今では銅像になるほどの有名人になっているのだが、そのいでたちは羽織、袴に扇子を持っているというおよそキューバ人のセンスとはかけ離れたものだと思われた。それにひきかえ、1704年に建立されたキューバ風バロックスタイルのカテドラルはその風貌、趣により、最大の信仰を集めるにふさわしい重厚な雰囲気で観光客を圧倒していたのだった。

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運河を挟んで旧市街の対岸に二つの重要な要塞が君臨しているのでタクシーで海底トンネルをくぐって見物に行くことにした。ハバナ旧市街を見下ろすようにたっているモロ要塞はそのモロさによりかつてはイギリスに襲撃され、占領されてしまったのだが、フロリダとの引き換えにより再びスペイン領となった後、牢獄等その他モロモロの役割を経て今では灯台の役目まで果たしている。

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モロ要塞と並ぶように建てられている規模の大きなカバーニャ要塞(CUC6.-)に侵入を果たした。ここでの見所のひとつとしてキューバのカストロ議長と並び称される革命の英雄であるチェ・ゲバラの博物館があるのだが、メーデーのため休館となっており、「チェ!」という捨て台詞を吐いて撤退するしかなかったのである。カバーニャ要塞の人気は、毎晩21:00から150年間続けられている大砲の儀式である。日もとっぷり暮れた20時45分ごろからスペイン時代の制服を着た軍人たちが太鼓をたたきながら出現し、一連の能書き的な儀式の後で大砲に発火しやがった!一瞬鼓膜に突き刺さるような重低振動音をを発した大砲は暗闇を引き裂くような光を放ちながら空中に消え、意識を取り戻した観光客の喝采を浴びていたのであった。

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5月2日(水)

キューバ最大のビーチリゾートであるバラデロに移動するために新市街のバスターミナルに徒歩で移動し、スペイン語が分からない輩にはなってないと感じさせる運営により、乗るべきバスを探すのに苦労したのだが、何とか12時発のバラデロ行きのバスに乗り込み、途中休憩を挟み3時間くらいでハバナから140km離れた目的地に到着した。バラデロのバスターミナルにてホテルへの道筋を検討していたところ、原住民が白タクを買って出たので相場よりも高いはずのCUC10を支払って予約しているスーバー・クラブス・プンタレーナにたどり着いた。

マサよ、君はオールインクルーシブというリゾートにおける制度を熟知しているか!?

オールインクルーシブとは宿泊料金に食事、バー、マリンアクティビティ等すべての料金が含まれている体系のことで、チェックインの際にリストバンドを巻かれてホテルの宿泊客であるという認識のもとでサービスが提供されるシステムなのだ。早速マリンブルーが眩しいカリブ海のビーチに繰り出すことにした。通常の砂場色の砂が永遠に広がるビーチは結構波が高いものの遊泳には持って来いであったが海中には魚の姿を目にすることは出来なかった。その後プールサイドを散策してビールを飲みながらラテン系の貢物がもらえる催し物を見物した。尚、当然のことであるが、キューバくんだりまで来てスキューバダイビングを手がける輩のためにダイビングセンターも併設されているのである。

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5月3日(木)

バラデロからバスでハバナの旧市街に戻るとかつて大統領官邸として使われていた革命博物館(CUC5.-)に立ち寄ることにした。スペイン・コロニアル様式の博物館内には革命に関する資料や武器がところ狭しと展示されているのだが、最も人気のあるコーナーはベレー帽のカリスマ、チェ・ゲバラに関連する展示である。美人女優のチェ・ジウに匹敵する程の美男子であるチェ・ゲバラの生涯はゼンソク持ちにもかかわらず全速力で革命に明け暮れ、アルゼンチン人にもかかわらずカストロに次ぐキューバ革命政権の重鎮となり、キューバでは圧倒的な人気を誇っているのである。

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急場しのぎのツアーにもかかわらず社会主義とラテンイズムを堪能することに成功したキューバを後にすると夕刻には肌寒いトロントにいた。HiltonHhonorsのポイントが余っていたのでマサであればCA$200くらいかかるところを私はただで宿泊することが出来るヒルトントロントにチェックインすると窓越しに世界一の高さを誇るCNタワーを眺めながらとろんとした夜を過ごすこととなった。

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5月4日(金)

トロントからニューアーク空港に飛び、鉄道にてマンハッタンに帰ってきた。グランドゼロの状況が気になっていたので見に行くとワールドトレードセンターの跡地は相変わらず工事車両が行き来しながら新しいビルの基礎固めが入念に行われていた。

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ロウアーマンハッタンからブロードウエイを歩いていると溝を切った平べったい円筒形の物体に糸を巻きつけて中指からスナップを効かせて下に向かって投げたり、上に上がってくるような感覚を覚えたんで・す・YO♪ そしたら~、あ、そ~♪ ヒップホップ系の若者黒人たちが「ヨー、YO !」と言いながら闊歩していたぞ~!とりあえず、ぶつかりそうになったので「あ~い、とぅいまてぇ~~ん!!」http://www.youtube.com/watch?v=FEWI8WkqlQ8と言っておいた。

今回のツアーにてニューヨーク最後の夜を飾るにふさわしい一戦がヤンキースタジアムで繰り広げられるので地下鉄を転がして三たびヤンキースタジアムに出撃することにした。球場ではすでに試合前の打撃練習が行われていたのだが、外野守備に付いているシアトル・マリナーズのイチローは相変わらず背面キャッチ等のアクロバティックな動きを披露してヤンキースファンの喝采を浴びていた。また、球場の大スクリーンではヤンキースの栄光を語るビデオが毎試合繰り返されているのだが、ゴジラ松井も歯の浮くような台詞で栄光の賞賛に一役買っているのだ。

前回の好投により先発ローテーションの座を取り戻した井川の前に最初に立ちふさがったイチローであったが、簡単にレフトフライに斬って取られた。初回を0点に抑えた井川の勢いをかって1回の裏のヤンキースは一挙大量5点をもぎ取った。しかし、今日の井川は変化球のコントロールがなく、2回には城島との初対決で松井の頭上を超える本塁打を喫し、3回には一塁ゴロを放ったイチローとのベースカバー競争に負け、内野安打とした後、次打者ベルトレーに本塁打を打たれた。

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マサよ、君はゴジラのホームランにより、ヤンキースタジアムにゴジラの雄叫びがこだました瞬間を体験したことがあるか!?

ということで、5対3と追い上げられた3回の裏の先頭打者として登場したゴジラは右中間スタンドにライナーで叩き込み、1,999本目の日米通産安打は見事な井川への援護射撃となったのであった。しかし、今日の井川はそれでも調子が上がらず、4回の表にもタイムリー2塁打と本塁打でとうとう同点に追いつかれてしまった。4回の裏に再びリードしてもらった井川であったが、5回の表に2本のシングルヒットを浴びた後、胃が悪くなったヤンキースファンの雰囲気を感じ取ったトーレ監督は井川を諦め、ビーンにスイッチした。このミスター・ビーンもコメディのようにストライクが入らず、四球を連発するわ、城島にはタイムリーを打たれるわの火に油を注いだ状態でヤンキースファンの最大限のブーイングを浴びて早々とマウンドを後にした。結局15対11の乱戦を制したのはマリナーズでイチローと城島の健在振りを印象付けられた一戦であった。

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5月5日(土)

42nd Streetに位置するポートオーソリティバスターミナルから空港バス($15)に乗り、JFK国際空港からANA9便に搭乗すると待ち構えていたのはANAのパンフレットに登場しそうなほどの美人スチュワーデスであった。おかげで窓側に閉じ込められていた窮屈感も何とか我慢することが出来たのではないかと思われた。

5月6日(日)

機内でロッキー・ザ・ファイナルをはじめとする映画6本を鑑賞し、午後3時半頃に成田に到着、そのまんま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代  ANA ¥189,010, Air Canada CA$375.26 + ¥12,520(税金のみ)

総宿泊費  $563.19, EU143.-

総ニューヨーク地下鉄代  $20.-

総ニューヨークバス、鉄道代  $42.-

総キューバタクシー代 CUC63.-

総キューババス代 CUC20.-

総トロント空港バス代 CA$33.90

総ハバナ空港出国料 CUC25

総キューバツーリストカード取得料 ¥2,100

協力 ANA, Air Canada, HiltonHHonors, Starwoods、キューバ大使館

FTB緊急企画ゴジラ救済ツアー

♪まァたすこ~しだけ きみのォこと~ むだんでェ 好きになったけど~♪ song by Hitoto Yo

http://kashi.kyun.jp/cgi-bin/sng.cgi?sid=v70693

マサよ、君は家では「スローにん」か!?

ということで、ニューヨーク・ヤンキースを率いる松井秀喜が左手首を骨折したというニュースが日本いや世界を揺るがしたのは記憶に新しいところである。何とか早い回復を願って今回は松井の故郷である石川県まで急遽足を伸ばし、一日も早い「スローにん」からの脱却の一助となることにした。

5月20日(土)

先週の週末に開催されたひの新撰組まつりで有名な土方歳三を輩出した日野市の自宅からニュースタイルオデッセイを駆って関越道、上信越道、北陸道を経由して500km以上の道のりを5時間以上も車を転がしてゴジラを輩出した石川県の小松インターで高速を降りた。近辺にある小松政夫グループが経営しているであろう小松空港からのしらけ鳥が南の空に飛んでいくかのように飛行機が離陸している光景を横目にインターから5分程度のドライブで目的地に到着した。http://homepage2.nifty.com/nepper/gyagu125to130.html

小松グループの若頭であるはずのマサよ、君は石川県最強の観光地がどこにあるか知っているか!?

というわけで、2005年の暮れに満を持してオープンした松井秀喜ベースボールミュージアムの3ヵ所ある駐車場のうちのP1に車を滑り込ませ、ミュージアムの玄関前に構えている松井秀喜少年の「僕には夢がある」像に一礼した後、¥300の支払いで館内におじゃまさせていただくことと相成った。入口で等身大ヤンキースユニフォーム姿の松井蝋人形に一瞥をくれると館内奥深くに侵入することにした。http://www.hideki.co.jp/

貴重な展示物としてゴジラ生誕時から少年時代、星陵高校から巨人入団、ヤンキースへの移籍から現在の活躍にいたるまでの軌跡がパネルやゴジラ愛用の野球グッズとともにところ狭しと飾られており、団体観光客は等身大スーツ姿松井蝋人形や巨大スパイクを見て皆「でかい!」と驚嘆の声を上げてひれ伏していた。

ひっきりなしに訪れる観光客は皆ゴジラの作り方のノウハウを吸収しようと血眼になって展示物を凝視していた。館内から外に出て見るとベースボールミュージアムの前身である「松井秀喜野球の館」が廃館になった様相を呈しているもののその隣には松井の実家が豪邸の風貌で観光客の絶好の記念写真スポットになっていた。

富山県高岡市、富山湾の海岸線の奥地の山間部に太田の湯という潰瘍、皮膚病、結石に効く奇跡の温泉が湧き出ているのでしなびた風情の湯治宿に¥500の支払いで入湯させていただくことにした。シャンプー、石鹸の使用が禁じられている強引な狭い入浴場ではなるほど人目見ただけで皮膚病だとわかる若者がしきりにお湯を体中に浴びせていた。

太田の湯で体中のナチュラルキラー細胞を増やすことに成功したので予約しておいた富山全日空ホテルに引き篭もり、ホテルでの「スローにん」生活を満喫しながら夜を過ごしていた。

5月21日(日)

昨日の雨模様、霧模様の天候とは打って代わって今日は朝から晴れ上がっていたので妙高高原の景色もまぶしい妙高サービスエリアで高原バニラソフトを食いながら雪を被った山並みを眺めていた。

北八ヶ岳への登山者でにぎわう山の宿として有名な稲子湯に胃腸病によく効く天然サイダー温泉が湧き出ているという情報を入手していたので長野県奥地の標高1520mの高地の稲子湯(¥600)までわざわざ入湯しにやって来た。単純二酸化炭素、硫黄冷鉱泉、pH4.9の泉温7.6℃を沸かした温泉にゆっくり浸かった後、信州八ヶ岳松原湖高原の景色を眺めながら、松井がニューヨークで入浴出来ないであろう温泉三昧を実施して松井の一日も早い「スローにん」からの脱却を祈願して帰りの中央道の渋滞を楽しみながら帰路に着いたのだった。

総ガソリン代 ¥13,703

総高速代 ¥20,050

総宿泊費 ¥500

協力 ANAホテルズ、松井秀喜ベースボールミュージアム

カリビアンを虜にするプエルトリコツアー

アメリカ合衆国50州を制覇してすでに4年の歳月が流れてしまった今日この頃であるが、世の中にはアメリカ合衆国領!というFTB未開拓の地が残っていると言われている。マサ率いる財務省が暗躍する日本も言ってみればアメリカの植民地に分類されるのであろうが、今回は日米野球界に数多くのカリブの怪人を輩出し、スカウトを虜にしているプエルトリコの実情の調査に向かうことにした。

2006年4月29日(土)

テロ、SARS禍、中国での反日デモといった例年のマイナス要因もなく、今年のゴールデンウイークは過去最大の高飛び野郎を輩出するというニュースに偽りなく、成田空港第二ターミナルは立錐の余地がないほどの人手でごった返していた。つい一週間前に裏の仕事のデンバー出張から帰って来たばかりの肉体に鞭打って午前11時10分発のNH2便ワシントンDC行きB777-200機(http://www.ana.co.jp/int/inflight/seatmap/b777_200/index.html)の33C席に陣取ると11時間ちょっとのフライトでワシントンダラス空港に到着した。そこからさらにUA8023便に乗り換えると午後2時過ぎにセントルイス・ランバート国際空港へ上陸することと相成った。

空港のハーツで名も知れぬ白いGM箱型車をレンタルすると早速ハイウエイに飛び乗ったのだが、驚いたことにそのハイウエイは赤ひげのホームラン王Marc McGwireの名前が冠されていたのであった!McGwireと言えば1998年に年間70本のホームランを放ち全米を興奮のルツボに陥れたことは記憶に新しいのだが、なるほどセントルイスを横断するI-70高速道路はマサにBig MACの名前にふさわしい太い道路であった。

ミズーリ州のI-70、通称Marc McGwire Highwayから州境のミシシッピー川を超えイリノイ州のI-55に乗り継ぎそのまま北に向かって70マイルほど走るとLincoln Home National Histric Siteという自然公園系のファシリティに到着した。着いた時間が遅かったためビジターセンターが閉まっていたので仕方なく周囲の散策を軽くこなした後セントルイスへの帰路に着いた。今日は初日ということで、Hilton HHonorsのポイントが余っていたのでマサであれば$90くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHampton Inn Florissantに引きこもり、巨人の星を見上げながら床に着くことにした。

4月30日(日)

セントルイスの郊外にアメリカの古い大統領であるUlysses Grantの住居がNational Histric Siteとして保存されているので見物に行ってきた。とりあえず数人の野次馬アメリカ人とパークレンジャーが案内するサイトツアーに参加したのだが、歴代の大統領を重んじるアメリカらしく古い屋敷を取り繕って観光客をおびき寄せている実態を垣間見た気がした。

セントルイスのシンボルと言えばミシシッピー河岸に仁王立ちし、その圧倒的な存在感で観光客の首をななめ上方45度に固定してしまうGateway Archである。この近辺はJefferson National Expansion Memorialとして国立公園に制定されており、西部開拓はこの地から始まったということを記念してGateway Archの地下のミュージアムにはインディアンや開拓者に扮した等身大しゃべる蝋人形君達が解説する開拓物語が観光客の注目を集めていた。

マサよ、君は田口壮という日本人プレイヤーがセントルイスくんだりでいぶし銀的輝きを放っている事実をしっているか!?

ということで、1999年8月以来(http://www.geocities.jp/takeofukuda/1999mlb.html)、約7年ぶりに野球の殿堂セントルイスのブッシュ・スタジアムを訪ずれなければならなかった。何故なら世界中の酔っ払いにバドワイザーを売りつけて暴利を貪っているアンハイザー・ブッシュがその財力を結集して新しいブッシュ・スタジアムをオープンさせやがったからだ。旧ブッシュ・スタジアムは円形闘技場を髣髴とさせるコロシアム風情の建築様式であったのだが、その廃墟の隣に築城された新ブッシュ・スタジアムはカージナルレッドを基調にした色使いは変わらないもののセンター後方にセントルイスのシンボルであるGateway Archの眺望を配した景観型スタジアムへと生まれ変わっていた。

カージナルスと言えばかつて星飛雄馬のライバルとして星一徹コーチの下で消える魔球に立ち向かったアームストロング・オズマを野球ロボットに仕立て上げた球団としてオールドファンの心の琴線を揺さぶった実績を持っている。しかし今やカージナルスの最大の目玉はオズマではなく、4月の月間本塁打記録を塗り替え、Big Macやバリー・ボンズを超える勢いの強打者であるアルベルト・プーホルズである。今日対戦したワシントン・ナショナルズの投手陣はいずれもプーホルズの強打に恐れをなし、敬遠を含む4四球でそのままホワイトハウスにお引取りを願いたいくらいなブーイングを浴びていた。

そ~そ~、田口壮の活躍も無視出来ないものであろう。今日はスタメンを外れていた田口は6回の裏3対2とカージナルスリードの2死2,3塁の場面で代打で登場し、見事センター前にクリーンヒットを放ち、2走者を迎え入れた。さらに次の打席でもライトに犠牲フライを打ち上げ、3打点を荒稼ぎし、見事にカージナルズの勝利に貢献したのであった。

オズマの聖地での日本人野手の活躍により溜飲を下げることが出来たので、その勢いでStarwoodのポイントが余っていたのでマサであれば$120くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るFour Points by Sheraton St. Louis Westに引きこもり、野球ロボットと野球人形のどちらになるべきかを考えながら感慨深い夜を過ごしていた。http://www.whv.jp/title/kyojin/about/story/index2.html

5月1日(月)

♪いますぐ~Kiss me, wow wow ゴ アゥェ~ I wish you、だ~い好きだ~よと笑ァ~てよ~♪

マサよ、君は日本を代表するロック・グループがリンドバーグにちなんでおり、Lindberghがセントルイスを根城にしていたことを知っているか!?(http://www.flight-lindberg.com/

ということで、セントルイス・ランバード空港のとあるゲートで目にした旧式飛行機のレプリカはかつてリンドバーグが大西洋無着陸単独飛行に成功した「Sprit of St. Louis」であることを確認し、♪ド~キィ、ド~キィすること、や~め~ら~れッ な~いィ~、オ~イェ~♪と操縦桿をマイク代わりに歌いながら大西洋上空を飛んでいたであろうリンドバーグを思い浮かべながらワシントンDCへの帰路に着いた。

午後を回ったころダラス国際空港に帰還出来たのでそのままシボレーキャバリエに飛び乗り、ワシントンのジョージタウンを散策した後、キャバ嬢を同伴した勢いでボルチモアまでひとっ走りした。私の推奨によりマサも行ったことがあるはずのオリオールパークアットカムデンヤードに午後6時半頃到着するとトロント・ブルージェイズに叩きのめされているオリオールズファンの断末魔の叫びを手土産にメリーランド州最西部のFrostburgのHampton Innに深夜チェックインし、メリージェーンを歌う暇もなく、ダウンさせられてしまった。

5月2日(火)

昨夜12時半過ぎのチェックインにもかかわらず、朝5時過ぎにHampton Innを引き払い、一路ワシントンダラス空港へと急いでいた。気が付くとボルチモアよりはるか140数マイル西方の山奥に引き篭もらされていたため、朝8時26分のフライトに間に合うかどうか微妙なタイミングであったのだ。案の定ワシントンに近づくにつれてラッシュアワーを迎えた高速道路は渋滞の様相を呈してきており、ダラス空港のUAのチェックインカウンターに到着したのは8時20分を回った時間であり、E-Ticketの自動チェックイン機の画面には無常にも飛行機は飛んじゃったよ~というアナウンスが表示されていた。仕方ないのでワシントンからプエルトリコへの直行フライトはあきらめて、UAの有人カウンターで他の便を探させることにした。結局午後2時50分発のシカゴ経由プエルトリコ行きのフライトを変更手数料$100の支払いで確保することが出来たのでラウンジで時間つぶしをしながらダラス空港でナマでダラダラ過ごすことと相成った。

ワシントンDCから元々行く気のなかったシカゴオヘア空港まで1時間45分、シカゴからプエルトリコの首都であるSan Juan(サンファン)まで4時間ちょっとのフライトでサンファンに到着したのは夜の11時前になっており、雨もしとしと降っていたのでとりあえずタクシーで予約しておいたハンプトン・イン&スイーツ・サンファンに引き上げ、Tシャツとパンツの洗濯をこなして寝ることにした。

5月3日(水)

プエルトリコは東西約180km、南北約60kmの島で北は大西洋に南はカリブ海に面している。つい100年前までは現代におけるヤンキースのように圧倒的な強さを誇っていたスペインの植民地だったため、アメリカの自治領にもかかわらず人々はスペイン語を話し、町の看板やサインもスペイン語が溢れているのだ。首都サンファンのメトロポリタン地区はアメリカのリゾート地らしく、近代的リゾートホテルが軒を連ね、高値で観光客をおびき寄せているのだが、オールドサンファンという地域に入るとアールデコ調のスペイン様式の建物が多く、16世紀に舞い戻ったような感覚を覚えさせられるのだ。

早朝ホテルをチェックアウトするとイスラベルデというメトロポリタン地区からバス($0.75)に乗り、オールドサンファンを目指した。サンファン市自体はプエルトリコ北部の大西洋に面した半島の一部に過ぎないのだが、オールドサンファンはさらにその先端の海に突き出した部分に過ぎずないにもかかわらず、この地は昔から海上防衛の要衝として君臨している。

サン・クリストバル要塞($3)という10万m2の敷地に建つ堅牢な砦が存在しているので見物させていただくことにした。ここは後述するエル・モロ要塞を強化するために1771年に建てられたもので観光客系のラテンギャルが林立する大砲群にまたがりながら記念写真用のポーズを決めている光景が印象的だった。

オールドサンファン観光の目玉として世界的にも貴重な遺跡でユネスコ世界遺産にも指定されているエル・モロ要塞($3)が半島の突端で尖っていたので訪問することにした。この要塞の建築が始まったのは1539年で、完成したのはなんと244年後の1783年である。カリブ海の要衝としてのプエルトリコは1493年にコロンブスが2回目の航海で到達して以来、カリブの海賊や他国軍の脅威にさらされていたため、この要塞は非常に重要な防衛拠点になっていたのだ。要塞内部は広大で古い石積みの跡や衣装、武器などが展示されている博物館やビデオの上映、さらに海上43mの高さから大西洋を見渡すことも出来るのだ。

エル・モロ要塞で海上防衛のもろもろのノウハウを習得することに成功したのでシェラトンオールドサンファンのハーツで車を調達することにした。時間にルーズなラテン系ギャルが運営しているハーツのカウンターで右頬の吹き出物から出ている血をティッシュでぬぐいながらも丁寧に道を教えてくれたギャルに感謝しながら、ぺ・ヨンジュ系の車であるヒュンダイ普通車のソナタをレンタルすると一路南部のカリブ海方面を目指した。

島中央に君臨する1000m級の山岳地帯をぶち抜く高速を抜け、2時間くらい走るとプエルトリコ第二の都市ポンセに到着した。スペインから総督として派遣され、本格的な植民を実施したポンセの子孫が建設した町のはずれにヒルトン・ポンセ・ゴルフ&カジノがポンセ最大のリゾートとして君臨しており、すでに大金をはたいて予約しておいたのでカリブ海ビーチのリクライニングチェアで潮風に吹かれながらギャルの吹き出物が早く直るように祈っておいた。

5月4日(木)

タイガーウッズの父の死を悼む必要があったので今回はあえてゴルフをせずにヒルトン・ポンセ・ゴルフ&カジノをチェックアウトするとポンセのダウンタウンの中を車で徘徊することにした。ダウンタウンにも多少スペイン風建造物の見所があると言われていたのだが、街中がかなりごちゃごちゃしており、道路の両サイドの駐車車両も多かったため、観光を断念し、コアモという温泉を持つ小さな町まで車を走らせることにした。しかし、ここでも複雑な街づくりかつ道路のでこぼこでヒュンダイ車のソナタがチェ・ジウのような涙を浮かべてしまうことを恐れて退散することにした。

ポンセとサンファンを結ぶ52号線の真中あたりにカグアスという何の変哲もない町があり、特に見所もなかったので予約しておいたFour Points by Sheraton Caguasに引きこもることにした。カジノ併設のために拡張工事を行っている騒々しいホテルの敷地内に潅木や芝生があり、何かの注意事項の看板が掲げられていた。そこに書かれていた内容はなんと「煙草の吸殻を地面に捨てるな!ヘビースモーカーのイグアナがのこのこやってきて一服しはじめると追っ払うのがやっかいなんや!」ということだった!!

5月5日(金)

結局ひと晩待ってもイグアナに出会うことが出来なかった傷心を引きずってホテルをチェックアウトすると島の東部のファハルドという港町に向かった。プエルトリコ東岸から約30km沖にアメリカのトラベル・チャンネルで世界のベストビーチに選ばれたクレブラ島があり、ファハルドから出航しているフェリーで到達出来るということだったのでフェリーに乗らずに乗船待ちのリゾート野朗どもの見物のみを行った。サンファン方面に戻り、大西洋沖の美しいビーチを遠巻きに眺めた後、ルイス・ムニョス・マリン国際空港でヨン様風の笑顔を浮かべてソナタに別れを告げ、UA1688便にてワシントンDCに帰っていった。

5月6日(土)~ 5月7日(日)

午後12時20分発NH1便B777-300機17K席(http://www.ana.co.jp/int/inflight/seatmap/b777_300er/index.html)に陣取り映画4本を立て続けに見ながら13時間のフライトを過ごし、翌日午後3時前に成田着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥167,900 + $632.10

総フライト変更手数料 $100.-

総宿泊費  $653.64

総レンタカー代 $209.01

総ガソリン代  $97.94

総タクシー代 $13.-

総バス代 $0.75

協力 ANA、ユナイテッド航空、HiltonHHonors、SPG、ハーツレンタカー