FTBサミット夢跡ツアー in 厳島神社

先月開催されたG7広島サミットの成果としてウクライナに平穏な日々が訪れ、核軍縮は実行されるのであろうか?
この疑問に対する答えを求め、今回のツアーの目的地として厳島神社が選定されたわけだが、コロナ明けの人気観光地も人手不足で猫の手も借りたいはずなので事前に猫集会を開いて対応を協議しておくことも忘れなかった。

2023年6月10日(土)
12:30羽田発予定であったANA635便岩国行は羽田空港A滑走路近くの誘導路で、台湾のエバー航空とタイ国際航空の旅客機2機が接触した影響で1時間以上の遅れを出したため、山口県東部の岩国錦帯橋空港に到着したころにはすでに午後3時を回っていた。

早速ニッポンレンタカーでトヨタのヤリスをレンタルしたのだが、錦帯橋を世界遺産に推しているポスターを見ていささかやりすぎではないかと感じながらヤリスを転がしていた。約15分程のドライブで山梨県大月市の猿橋、徳島県三好市の祖谷のかずら橋とともに日本三奇橋として君臨している錦帯橋に到着した。

1673年に岩国第三代藩主の吉川広嘉によって架けられた錦帯橋であったが、残念ながら政治家の情報漏洩よろしくすぐに流失してしまったそうだ。しかし改良を加えて翌年再建された錦帯橋は、1950年9月にキジア台風による洪水で流失するまで276年の間、架替えを繰り返しながら威容を保ったという。

流失後、鉄筋コンクリートで再建という意見もあったそうだが、市民の強い要望により、1953年に再度、木造の錦帯橋として再建され、現在に至っている。平成13年度(2001)から平成15年度(2004)にかけて、劣化した木造部分を架け替える「平成の架替事業」を行い2004年3月、装いを新たに完成し、訪れる人を魅了し続けているのだ。

橋の形状であるが、5連のうち3連がアーチという木造橋は世界にも類を見ないもので、夏季には鵜飼いも楽しめるようでそれに関連するかどうかわからない釣り人も数人散見された。

錦帯橋への入橋は¥310の支払いで往復可能となっていたので町側から山側に向かって橋を渡らせていただいたのだが、セット券販売されているロープウエイによる岩国城への入城は時間の都合で断念せざるを得なかった。次回は屋形舟に乗って伝統的な鵜飼による夜の鮎漁を観賞しながらライトアップされた錦帯橋を愛でつつ地元北九州の若戸大橋や関門橋といった海峡をまたぐ吊り橋にも思いを馳せなければならないことであろう。

錦帯橋の勤怠管理システムにより営業時間が決まっているはずなので余裕をもって退勤させていただき、広島方面に車を走らせた。広島東洋カープの練習場と寮に隣接している安芸グランドホテルに首尾よくチェックインを果たし、「やっぱ広島じゃ割」クーポンをゲットして気を良くするとフロントで深々と頭を下げている銅像と目が合ってしまった。それはあたかもオリラジ中田率いるパフォーマーがG7首脳というパーフェクトヒューマン達が一堂に会した広島サミットを讃えているかのようでもあったのだ。

8階の部屋から名物牡蠣の養殖棚が並ぶ瀬戸内海を見下ろし、宮浜温泉を引き入れた内風呂「平安の湯」で旅の疲れを体の中からほぐした後、懐石系の夕食で舌鼓のメロディーを奏でていた。

瀬戸内海を挟んでいるが宮島フロントに君臨している安芸グランドホテルの桟橋から世界遺産ナイトクルージング(¥2,000)なるものが運航されているのでチェックインの際にすでに9時20分発の便の予約をかましておいた。

中島みゆきよろしく銀の龍の背に乗るような感覚で船は静かに出向し、一路厳島方面に向かって行った。夜の厳島神社では大鳥居がライトアップされ、光と影がとけあって、とても神秘的な時間が流れているようであった。小雨そぼ降る中、観光客はその様子をカメラと心に刻みつけながら、30分のクルージングに酔いしれていた。

6月11日(日)
大物芸人にも決して物怖じしないはずの♪I am a perfect human♪に別れを告げ、ホテルをチェックアウトするとあっちゃんの言動はいくら何でもやりすぎではないかと思いながらヤリスを転がして宮島口に向かっていた。

宮島口に宮島観光協会が開業していたので中に入ってみると「けん玉発祥の地」という輝かしい称号とともに宮島の干潮・満潮時刻を表示したしゃもじが目に飛び込んできた。宮島は日本一の木製しゃもじの産地だけでなく、しゃもじの発祥の地として有名で広島出身の岸田首相がウクライナ電撃訪問の折にゼレンスキー大統領に宮島のしゃもじを献上して「敵を召し取れ」と檄を飛ばしたそうであるが、広島サミットでの会談の際には支援物資のおかわりについて議論されたようである。

宮島口から10分おきに運航されているJR西日本宮島フェリーに乗り、10分ほどの航海で宮島フェリーターミナルに到着した。

みちのくの松島、京都の天橋立とともに日本三景の一角を担っている宮島であるが、厳島神社へ向かう道すがらおびただしい数の人なれした野生の鹿に遭遇するのだが、奈良公園における鹿せんべいのような餌付けはされていないので観光客の隙をついて食べ物を強奪する光景が散見された。

朝食での牡蠣グラタンの摂取が腸内環境に影響を及ぼしたためか、便所に立て籠もる回数が増えてしまったものの無事厳島神社の観光コースに乗っかることが出来た。

ここでの最大の見どころは何といっても潮の満ち引きの塩梅による大鳥居との大捕り物であるのだが、歩いて行けるタイミングと神社が海に浮かんで見えるタイミングを逃さないためには終日宮島にいなければならないはずであろう。

さらに厳島神社を慈しむために¥300という世界遺産としては破格の安さの拝観料を支払ってお参りさせていただくことにした。

拝殿、本社本殿等、威厳のある建造物には圧倒された一方で境内の中の御手洗の存在は観光客に安心感を与えるのだが、御手洗川には決して排出してはならぬことを肝に銘じて見学させていただいた。

ところで、厳島神社と言えばその造営者である平清盛の存在を忘れてしまっては困るのであるが、平家は清盛から代々篤くこの神社を信仰してきた。一方宮島の人々も清盛に深い愛着を持っており、清盛没後770年にあたる1945年には、「清盛を祀る社を」という宮島の人々の思いから清盛神社が創建され、見事その愛が結実されたのであった。

宮島にはびこる「馬と鹿」を目にした米津玄師も思わず♪これが、愛じゃなければ何と呼ぶのか僕はしらなかったぁ~♪と口ずさんでしまったことであろう。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥16,740 / passenger
総フェリー代 ¥360 / passenger
総宿泊費 ¥39,100(2食付き、2名様)
総レンタカー代 ¥6,710
総ガソリン代 ¥493
総高速代 ¥430

協力 ANA、楽天トラベル、ニッポンレンタカー

シン・FTB Los x ロス = 二刀流Show Timeツアー

コロナ自粛中のGWはまるで猫が寝込んだようにおとなしく過ごさざるを得なかったのだが、待望のコロナ明けを迎えても円安に苦しむ日本人旅行者はコスト面で自主規制を余儀なくされている今日この頃である。

このたび運よくANAよりSuper Valueという破格の運賃による航空券をゲット出来たので、過去数年分の旅行ロスを取り戻すべくLos方面へのツアーが敢行されることとなったのだ。

2023年5月1日(月)、5月2日(火)
連休のはざまとなっている5月1日(月)の裏の仕事をさくっとこなした後、日の暮れるのを待って羽田空港第3ターミナルへとJR横浜線、京急羽田空港線を走らせた。おなじみのANAのSuite Loungeで夕食とアルコール入り飲料で体の調子を整えると日付の変わった0:30発NH106便に乗り込み、フライト時間の大半を無意識状態で過ごせるように狭いエコノミー席での体勢の調整に余念がなかった。

5月1日(月)
太平洋上の日付変更線を超えたことに気づかないまま、飛行機は前日の5月1日(月)午後5時頃ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着した。米国入国の際にそれなりの時間がかかることは想定済みだったのでストレスなくイミグレーションとカスタムを通過すると上階に上がり空港周辺を巡回するHotel Shuttle Busに乗り込み、Holiday Inn Los Angeles – LAX Airportにしけこんだ。

これまでの裏の仕事のハードな出張による副産物としてIHGリワーズクラブのポイントをためこんでおり、宿泊料は無料の恩恵を受けたので、代わりにホテルのレストランに金を落とさなければならない義務感でビールとメキシカン料理で脂肪で覆われた小腹の隙間を埋めさせていただいた。

5月2日(火)
IHGダイヤモンド会員に無料で供される朝食の施しを断り、早朝6時にホテルを出発するShuttle Busに乗りこんだまでは良かったもののバスの運転手や同乗客から下車するべくターミナルを惑わされたため、目的のTerminal 7に辿り着くまでに余計な時間を要してしまっていた。

何とかUnited Clubで朝食を取れる時間が確保出来たのでアメリカンブレックファストで栄養補給を行うと8:26発UA1185便でメキシコのLos Cabosに向かった。ところで何故今回のツアーでLos Cabosが目的地に選定されたのかであるが、第一の理由は単純に行ったことがなかったからなのだが、第二の理由は私が昔勤めていた米国の故シマンテックという会社がITバブル華やかなりし頃、グローバルの多数の営業を引き連れてAchiver’s Tripという名目でLos Cabosで豪遊しやがったという行けなかった者からすると忌まわしい過去の怨念を払拭するためである。ちなみに私は営業ではなくマーケティングだったので最初からAchiverの土俵には乗っていなかったのだが・・・

いずれにしても2時間超のフライトで砂漠の大地を縦切り、バハカリフォルニア半島の最南端に位置するLos Cabos国際空港に到着する運びとなった。多くのアメリカ人バカンス客と一緒にメキシコへの入国を果たすと割高だが明朗会計の前払いとなっているエアーポートタクシーに乗り込み、まずは本日の宿泊予定地に向かった。車窓からはバハカリフォルニア半島の乾いた大地を賑わせているサボテンの姿が見受けられたのだが、前述のAchiver’s Tripの旅行者へのはなむけの言葉はマサに「サボってんじゃ~ね~!」がふさわしかったのではなかろうか?

ちなみにロス・カボスはメキシコの基礎自治体で半島南端のカボ・サンルーカスと東側のサンホセ・デル・カボの二つの主要都市のほか、いくつかの村を含んでいるという。二つの都市を結んでいるのは幹線道路の国道一号線でこの道路上に各種ホテルが軒を構えているのだが、今日はカジュアルなビジネスホテル系のHOLIDAY INN EXPRESS CABO SAN LUCASにIHGの24,000ポイントの支払いで宿泊することとなっている。

チェックイン後、とくにすることもなかったので小さなプールのあるホテルの敷地を散策し、停泊しているクルーズ船を眺めながら感染拡大の温床となったことはもはや過去の遺物だと言い聞かせていた。

国道一号線の主要都市間は市バスが頻繁に往来しているので紫外線が弱まってきた時間を見計らってバスでサンルーカス方面に向かった。初めての土地ゆえ、下車するべくバス停を無意識に通り越し、バスはどんどんダウンタウンの奥地に向かって行ったので適当なところで降りてスーパーマーケットでトイレ休憩をさせていただいた。生鮮食品売り場を見渡すと、さすがに海沿いの都市だけに提供される魚の種類は豊富であったのだが、とりあえず闇営業の仲介で吉本を首になったカラテカ入江をしのぶことが出来るはずのスナック菓子は購入しておいた。

慣れないスペイン語とメキシコペソ(M$)の現金払いの市バスの乗車に苦労を重ねながら、何とかサンルーカスの見どころが集まるマリーナ周辺まで漕ぎ付くことに成功した。

サンルーカスは観光用に整備された人工的な都市の印象は否めないが、街自体の装飾や演出が優れているので歩いているだけでリゾートの気分は自然に盛り上がっていくのである。

マリーナに係留されているおびただしい数のクルーザーを見てもわかる通り、ここでの主なアクティビティは加山雄三的な舟遊びであるのだが、今回は日程の都合で老人と海のように大海に乗り出すようなことはなかったのだが、天空を突き刺すカジキと地面から生えているサーフボードのオブジェだけで疑似マリンスポーツ体験を賄うことが出来たのであった。

夕食は多くの飲食店の中から雰囲気の良い音楽が流れているシーフードメキシカン系のレストランで取ることにした。メキシコでは乾杯の音頭はコロナビールで取るはずなのでそのしきたりには従うことにしたのだが、ビールのお供の柑橘類がライムであることに多少の不安を覚えざるを得なかった。その心は北部九州出身である私のような輩はこのような状況では大分県名産のかぼすを絞ると相場が決まっているのだが、ロス・カボス滞在中の間は「かぼすロス」に苛まれ続けることが確定したからである。

5月3日(水)
午前10時過ぎにはHOLIDAY INN EXPRESSをチェックアウトし、ホテルで手配したタクシーに乗り込むとリゾート気分による胸の高まりを抑えつつ、今日から泊まることになっているHilton Grand Vacations Club La Pacifica Los Cabosに向かった。完全プライベートリゾートであるがゆえにゲートで宿泊予定者名簿と名前を照らし合わせた後、晴れて敷地内への入場が許されたのでフロントでチェックインする運びとなった。

ウエルカムドリンクは、日本では高校球児の主要なヘアースタイルを模しているはずの丸刈り~タとレモネードが選べるのであるが、少しでも早くリゾート環境に適応するためにマルガリータを一気飲みしてフロントデスクで宿泊手続きを行った。デスクではサボテン並みのとげとげしい対応ではないもののチェックイン時間の午後3時までは部屋に入れないとのことだったのだが、ホテル内の施設は自由に使えるとのことだったので早速リゾート内の散策と洒落こんだ。

あいにくの曇り空ではあったもののプールやビーチを眺める限りではここロス・カボスがユカタン半島のカンクンとともにメキシコ最強クラスのリゾート地であることは疑いの余地はなく、松任谷由実が推薦するはずのアカプルコさえ霞んでしまうほどの絢爛ぶりが窺えた。

ビーチまで下りてみると今は亡き日通のペリカン便を偲んでいるかのような怪鳥が岩の上で魚待ちをしている姿を見てこの海の生態系の豊かさを感じ取った。

ビーチのアクティビティとして水上バイク、乗馬、小舟等があるようであったが、リゾート客はあまり関心を示していないようであった。

待望のチェックインを済ませると早速水着を着こんでプールバー方面に向かった。とはいえビリヤードの設備があるはずもないので皆アルコールを飲みながらそれぞれのスタイルで水平線に向かってくつろいでいたのだった。

夜のとばりがおりてもリゾート内は落ち着いた雰囲気をとどめており、浴びるほどの酒を飲みすぎて「許しテキーラ」と温情にすがろうとする者も♪シエリト・リンド♪を合唱するホセやサンチアゴのアミーゴ達も参上することはなかったのだ。

5月4日(木)
昨日の曇天とは打って変わって早朝より青空が広がり、いよいよリゾートがその実力を遺憾なく発揮出来る環境が整った。

リゾートのメインレストランであるTalaveraで高値で供されるビュッフェ朝食を軽快な流しのギターのメロディーとともにゆっくりと楽しんだ後、水着に着替えるとプール沿いの至る所に設置されている大判のタオルをわしづかみにするとコロナビールと一緒にデッキチェアに身を委ね、リゾート活動の定番となっているはずのプールサイド読書に勤しむことにした。

ハズキルーペを介した読書で目に疲労がたまってきた頃を見計らってプールにどぼんしてビーチで展開される人間模様にしばし目をなじませてピント調整を行った。

ビーチもプールも野性味に欠ける感は否めないのだが、突如姿を現したイグアナ越しに眺める海の青さは圧巻であり、これぞマサにメキシカンリゾートの神髄であると思い知らされた。

喉の渇きを覚えるとそのままカウンターでマルガリータを発注し、イグアナに乾杯したのだが、つまみのピザであるはずのマルゲリータがないのが唯一の難点といえよう。

結局日が西に傾きかける時間まで至福の時間を堪能したのだが、リゾート客が去った後のプールは鏡のように周囲のヤシの木を写し取っていた。

今回FTBが泊っている部屋はコスト面を配慮してプールフロント1階のパーシャルオーシャンビューであったのだが、後々ハウス猫のコンシュルジュ付きであることが判明した。奴はしなやかな肢体とともに突然姿を現し、心理的癒しのサービスを提供すると名作映画のように風と共に去って行ったのだった。

今日のディナーは予約が必要だと言われていたが、実際には予約しなくても入れたVelaというイタリアンレストランで取ることにした。

女性の妖怪人間系の名前を冠したはずのベラでは主にシーフード系の料理を召し上がったのだが、地元の食材を伝統的イタリアンにマッチさせた手法により、リゾート暮らしで脳みそを溶かし、人間性を失ってしまった観光客も思わず「早く人間になりた~い」とうなってしまうほど美味にアレンジされていた。

5月5日(金)
わずか二泊三日のリゾート滞在の最終日を迎えた。昨夜のディナータイムの静けさとは打って変わって朝食レストランのTalaveraは活況を呈しており、昨日着席したオープンテラスが満席だったので屋内のテーブルに席を取ったのだが、内と外では違う価格設定がされているようで、開放感に劣るが食べ物への距離が近い屋内は価格的にやや有利であり、ライブオムレツやサボテンをもすりつぶすことが出来るはずの強力ミキサーを要するスムージーバーにもスムーズにアクセス出来たのだった。

チェックアウト迄の貴重な時間はビーチで過ごし、海辺で繰り広げられる人間模様をボ~と眺めていた。

すでに日よけ用の帽子やアクセサリーを売りさばく商人たちも虎視眈々と商機をうかがっていたものの、決してリゾート客のプライベートスペースに土足で踏み込むような押し売り営業はしないので商品に興味のない客にとって彼らは単にビーチを彩る景色の一部でしかなかったのだ。

午前10時にホテルをチェックアウトし、タクシーで空港に向かった。カラフルなロス・カボス国際空港はメキシコ国内や米国主要都市からの様々な航空会社のフライトで賑わっており、そのアクセスの便利さからリピーターもかなり多いはずだとあらためて認識させられた。

12:25発UA547便は30分程遅れて出発し、ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着したのは午後3時半を回った時間であった。さらに長い列の入国審査を突破するのもかなりの時間を要してしまった。何とか米国への再入国を果たすとHearz Rental Carのシャトルバスに乗り、Hertzの営業所に着いたのだが、ここでも長蛇の列の洗礼を受けてしまった。何とかTeslaのModel 3を入手して目的地に向かおうとしたが、モータリゼーションの申し子であるロサンゼルス名物の渋滞にはまってしまったのだ。

1998年の夏以来、25年ぶりに訪れたエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムであったが、$20の支払いで駐車場に滑り込んだ時にはすでに試合開始となっていた。巨大なエンゼル帽をあしらった球場正門の装飾は当時と変わらなかったのだが、そこに君臨するエンゼルスの主である二刀流使いにより新たな時代の息吹が感じられた。

ア・リーグ西地区首位を快走するテキサス・レンジャーズを迎え撃つエンゼルスは大谷を3番指名打者に据えて立ち向かったものの、序盤はレンジャーズに3点のリードを許し、大谷のバットからの快音も聞こえないまま試合は淡々と進んだ。

日本では「こどもの日」ということもあり、折り紙兜を被った日本人ファンの姿も見受けられたのだが、今日はエンゼルスの選手にホームランは出ず、ホームラン・セレブレーションで鹿児島の甲冑工房丸武産業製の兜を「パイルダー・オン」する兜甲児的なパフォーマンスは見ることが出来なかった。

今日のShow Timeは残念ながら野球のパフォーマンスではなく、巨大スクリーンに映し出されるコーセーによってあ~せい、こ~せ~と演技指導された姿のみであったのだが、通常は♪飛ばせ 鉄拳 ロケットパンチ♪によって放たれる外野センター奥の巨大な人工岩と滝まで架けられるアーチの軌道が期待されている。ちなみにその装飾はかつて親会社であったウォルト・ディズニー・カンパニーの時に大幅な改修に着手して出来たものの名残であり、エンゼルスの選手がホームランを打つと、約27メートルの高さまで火が勢いよく噴き、花火も打ち上がるアトラクションが提供されている。

メキシコでの思い出を胸に売店でタコスとブリトーを買って景気づけをすると逆転猿と和訳される「ラリー・モンキー」のラリッた姿に後押しされ、9回裏ツーアウトの土壇場からエンゼルスが同点に追いついてしまった。

試合は延長戦に突入し、ノーアウト2塁から始まるタイブレークの10回表のレンジャーズのスコアボードに首尾よくゼロが記された。10回裏のエンゼルスの攻撃は主砲トラウトからであったが、最近の試合で虹ますのようなアーチをかけずとも申告敬遠の憂き目に会い、切り身にされるような断腸の思いで一塁に向かって行った。

ノーアウト1塁、2塁のサヨナラの好機にShow Timeがお膳立てされたものの、大谷はセカンドゴロに倒れ一死1・3塁で大谷が一塁ベースコーチに反省の弁を述べたのも束の間、次打者アンソニー・レンドンへの初球はワイルドピッチとなり、期せずしてエンゼルスがサヨナラ勝ちを収め、球場内は歓喜の嵐に包まれたのであった。

5月6日(土)
IHGリワーズクラブのポイントがさらに余っていたので25000ポイントの支払いで宿泊したCandlewood Suites Anaheim – Resort Areaをチェックアウトするとディズニーランドの城下町であるアナハイム市内をModel 3で軽く流し、空港近くのサンタモニカまで足を延ばしたのだが、桜田淳子の♪来て 来て 来て 来て サンタモニカ♪という歌声に統一教会の幻影を感じたので車から降りることなくそのままHeartzの営業所に帰って行った。

17:15発NH125便は定刻通りロサンゼルス国際空港を出発し、機内映画の「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」を見ながら次のメキシコツアーの折にはヒューストン空港を経由することになるだろうと考えていた。

5月7日(日)
飛行機が日本に近づくにつれ、Losでの楽しい生活が走馬灯のように脳内を駆け巡りLosロスの感情が押し寄せてきた。マサにそれはロス・インディオスとシルビアが歌う♪別れても好きな人♪に通ずるものがあったのだが、その歌がヒットしている当時の六本木のスナックで歌われていた♪別れたら~ 次の人♪のように未来志向が重要ではないかと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥134,540 / passenger、United航空 = ¥32,350 / passenger
総宿泊費 US$1,065.68
総レンタカー代 US$114.23
総タクシー代 US$115、M$1,000(M$1 = ¥7.8)
総バス代 M$104

協力 ANA、United航空、IHG、HILTONHHNORS, Heartz Rental Car

天照大FTBツアー in 伊勢志摩

暖春の影響で日本列島の桜前線の進行が異常に速かったのだが、辛くも山梨の桃源郷とともに富士桜と五重塔のマリアージュを堪能することが出来たものの何か物足りないような力不足を感じていた。

例年1月に参拝させていただく邦人の心のふるさと伊勢神宮であるが、今年は内宮の駐車場への道筋の尋常ならざる混雑により途中でのドロップアウトを余儀なくされ、後日のリベンジ参拝を誓いながら一旦お伊勢参りを強制中断させていた。

花見シーズンの喧騒が去るのを待ち、春風に乗ってやってきたインバウンド観光客の大群を横目に日本有数のパワースポットへと満を持して舞い戻るツアーの火蓋が今ここに切って落とされたのだ。

2023年4月7日(金)
午後1時過ぎにミナミノ~ゼと言われる八王子みなみ野の自宅を出ると高尾山ICから圏央道に入り、新東名、伊勢湾道路を経て渋滞ノイローゼに苛まれることなく順調に自家用車を走らせると5時過ぎに本日の宿泊地であり、お伊勢参りの定宿に指定されている榊原温泉湯元榊原館に到着した。

全国旅行支援制度の活用による宿泊費の割引のみならず「おいでよ三重旅キャンペーン」の¥2,000クーポン2枚を握りしめてチェックインを果たすと早速夕食会場に向かった。榊原館では美と健康をテーマに献立作成しており、「温泉野菜蒸し」という旬の野菜を効能の高い温泉で蒸しあげたものが定番となっているのだが、今回はそれに加えて地物一番「特選松阪牛」が食卓を彩った。

ワールドベースボールクラシックで頂点に舞い戻ったサムライジャパンの活躍は記憶に新しいところだが、第1回、第2回のWBCで連続MVPを獲得したレジェンド松坂大輔が解説者の仕事に飽き足らずに準決勝の始球式に登場した時の対松坂桃李比2倍に膨れ上がった横幅を誇る堂々たる体躯に衝撃を覚えた視聴者も多かったことであろう。夕食の松阪牛のラインアップにイチボが並んでいるのを見て、高卒でデビューした平成の怪物がイチローから連続三振を奪った後のヒーローインタビュー時に発せられた「自信が確信に変わった」という流行語が脳内でリフレーンされながら松阪牛をレアで堪能させていただいたのだった。

「お伊勢さん湯ごりの地」としてその名を轟かせている榊原温泉の歴史は古く、約2000年前、伊勢の地に天照大神が鎮座され、皇女・斎王が神宮を祀ってきた。伊勢神宮の参拝前には、天皇たりとも身を清めなければならない。奈良の都から伊賀を抜け、布引山(青山高原)を越えた榊原が伊勢の入口にあたり、ここに湧く温泉で「湯ごり」をして身を清めることが、当時の正式な参拝方法であった。

また、七栗の湯との異名をとる榊原温泉であるが、平安時代の才女、清少納言の随筆「枕草子」の第百十七段に、「湯は七栗の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節がある。七栗の湯は京の都で温泉の代名詞となり、特に恋の病を癒すいで湯として、鎌倉時代から室町時代にかけて多くの歌人に詠われた。

現代ではまろみ源泉としてそのパワーは衰えることなく、温泉宿・ホテル総選挙でうる肌部門全国エリアランキング第1位の座を長年防衛している様子が見て取れた。

館内には源泉神社が祀られ、その源泉温度31.2℃は飲用にも適しており、その強力な温泉力により体の内外からデトックス効果を高めることが出来るため、神宮と対峙するころには完全に毒抜きされた状態となっているはずである。

4月8日(土)
早朝から榊原温泉での湯ごりをゴリゴリと満喫すると腹が減ったので食事会場のダイニング厨草子で健美食を完食したのだが、温泉の効能も相まって呼吸が「全集中」に高められていることに気づかされた。なるほど、そこには米俵とともにそれを炊き上げる竈門が奉られており、炭治郎紋様を彷彿とさせるはんてんに身を包むと「鬼滅の刃」のような研ぎ澄まされた感覚も身に付くのであった。

さらなるパワーアップを求めて木へんに神の字が示すように神と人との境界を表す榊原の地を探索することにした。この地は自生する榊枝を井に浸し伊勢神宮に献上されたことから、榊原と呼ばれるようになったとのことだが、その井が射山神社鳥居の正面にある長命水である。

また、本殿手前にあるのが、大国主命の別名大黒様が打ち出の小槌を持った像で、ピンク色ののぼりの間に鳥居があるのだが、ここが縁結びの強力パワースポットとなっている。マサに恋柱 甘露寺蜜璃に匹敵するパワーを持っている聖地と言えるであろう。

射山神社の境内には驚くほどの高木や古木が立ち、歴史の長さを感じることが出来るのだが、神社の前の道沿いにも生命力の塊のような古木の巨大な根が顔を出しているのだ。

榊原の地を後にしたものの、いざお伊勢参りという気分をさらに高めるために、伊勢神宮外宮の参道に鎮座している「柄杓童子」のひしゃくでケツをたたかれながら道を切り開くことにした。

伊勢神宮内宮の近隣に位置しているものの伊勢神宮とは一線を画しているような存在感で多くの参拝者が訪れる伊勢屈指のパワースポットである「猿田彦神社」に立ち寄ってみた。ここは天孫降臨の案内役を担った、物事を良い方向へ導いてくれる道開きの神「猿田彦大神」を祀る由緒正しい神社であり、境内には、芸事の神様を祀り、著名人からの信仰もあつい佐瑠女神社があり、恋みくじやお守りも人気を博している。尚、個人情報保護法の観点から、願かけ絵馬に貼るためのラベルも常備されているのでどんなに恥ずかしい願い事も気兼ねすることなく記入出来るのだ。

本殿の目の前に方位石(古殿地)が鎮座しているのだが、これは「みちひらき」の御神徳を表す八角形の石柱で、かつて御神座のあった神聖な場所に位置しており、触ると願いが叶うかも知れない霊験あらたかな代物である。

たから石は形が宝船に似ていることから名付けられたもので、白蛇が石の上に乗っているように見える縁起のいい石で参拝者に金運を与えてくれる可能性を秘めたお宝である。

神社の裏手にひっそりと水が張られているのは「御神田」で毎年5月5日には豊作を祈って早苗を植えるお祭り「御田祭」が執り行われることになっている。

御神田を見守る猿の像に別れを告げ、猿田彦神社から去る決心をしたものの、次の訪問先はなお伊勢神宮ではなく二見興玉神社とさせていただいた。

荒海に面するこの神社は御祭神に猿田彦大神を祀り、縁結び・夫婦円満・交通安全などにご利益のある場所とされている。参拝者を出むかえるのは要所要所に配置されたカエルのオブジェであり、それらは恭しくも猿田彦大神のお使いとされる二見蛙(無事にかえる、貸したものがかえる)として重要な役割を果たしている。

風光明媚な境内には「さざれ石」、「天の岩屋」といった見どころもあるのだが、私が気になったのは初穂料300円で参戦出来る輪投げに他ならず、私が放れば大谷投手よりも大きな変化のスライダーとなって神様の腰さえ引かせてしまう恐れがあるので遠慮しておいた。

ここでの最大の見どころは夫婦のように寄り添って顔を出す大小の岩で普通に「夫婦岩」と命名されているのだが、野球ファンの感覚からするとそれらはあくまでも「オール阪神・巨人」のシルエットに他ならないのである。

禊橋を渡って先に頭に浮かんでしまった戯言を祓い清め、本日投宿する予定の志摩方面に車を走らせた。

今日は思いのほか気温が低く、海風で体が冷えていたので午後3時前には宿泊先であるセラビーリゾート伊勢志摩に到着した。ここでのセラピーは♪出来るだけ嘘はないように~♪水平線を眺めながらの露天温泉の貸し切り入浴であるのだが、伊勢海老やアワビといった豪華海鮮料理のエキスを体内に吸収して満を持して神宮に対峙する準備を整えることが出来るのだ。

4月9日(日)
温泉、食事に次ぐここでの第3のセラピーは午前5時30分に上り始める太陽とのご対面である。この場所で日の出の絶景を目にすると♪水平線が光る朝にあなたの希望が崩れ落ち♪るような悲劇は決して起きないと断言出来るのではなかろうか?

当館の社長が作った多品種健康朝食でセラピーを仕上げると宿にほど近い安乗岬を散策することにした。ここは的矢湾入口の岬で、江戸時代にはすでに幕府直営の灯明台があったそうだ。風光明媚な岬の先は断崖と荒磯で、海女の漁場となっている一方で、灯台に至るまでの道のりにはイベント広場やおしゃれなカフェもあるので天気のいい日には日がな一日いても飽きない場所であろう。

「古事記」の中に出てくる有名な神話で、天照大神が須佐之男命の悪事を戒めるために岩戸の中に隠れてしまわれた伝説にちなんだ洞窟を「天の岩戸」と呼び、この伝説の地は日本各地にあるのだが、伊勢神宮内宮の南東側に位置し、周囲は杉の大木がうっそうと茂り、凛とした霊気に包まれている恵利原の水穴はこれぞマサに「天の岩戸」と呼ぶにふさわしい聖地であろう。

名水百選に選定されている清らかな水は飲用だけでなく、滝行にも供せられており、それ用の更衣室さえ整備されている念の入れようであった。

「天の岩戸」のさらに奥地には「風穴」も口を開けており、何とかここまでは参拝出来たのだが、あまりのパワーに大腸が刺激されすぎたため「便の個室」へ早く駆け込む必要が生じたため、「猿田彦の祠」にはたどり着くことが出来なかったのだった。

腸内環境が落ち着いた頃を見計らって今回のツアーのメインイベントであるお伊勢参りに馳せ参じることとなった。あらためて説明するまでもあるまいが、伊勢神宮は日本人の心のふるさとといわれ、「お伊勢さん」「大神宮さま」とも呼ばれ、親しまれており、明治神宮とは一線を画している。神宮球場を本拠地とする東京ヤクルトスワローズも伊勢打撃コーチを招くなどして本家の大神宮さまに近づこうとしたようであるが、いせ~(威勢)のいい結果とはならなかったようだ。

野球場は持っていないが、伊勢神宮の正式名称は「神宮」であり、宇治の五十鈴の川上にある皇大神宮(内宮)と、山田原にある豊受大神宮(外宮)の両大神宮を中心として、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があり、「神宮」はこれら125の宮社の総称でもあるのだ。

参拝のしきたりであるが、「外宮先祭」という言葉があり、参拝に限らず行事ごとに関しても外宮から行うことが習わしとなっているので外宮の無料駐車場に車を止めてまずは天照大御神のお食事を司る神の豊受大御神に謁見させていただくことにした。

式年遷宮の資料館であるせんぐう館を横目に大鳥居をくぐり、亀石の頭を踏まないように注意しつつ、例年の参拝通り、「風宮」、「多賀宮」、「土宮」、「正宮」をすべて網羅させていただいた。

今年の1月には外宮のみの参拝で強制終了となってしまっていたのだが、これは「片参り」と呼ばれ、よくないこととする説もあるそうだ、外宮から内宮へと向かう車の通行量も落ち着いていたので念願の五十鈴川沿いの有料駐車場に車を止めて鯉のぼりに見送られながら内宮へと歩を進めた。

神様の通る道を避けながら右側通行の宇治橋を渡り、何らかのイベントの名残であるはずの弓道会場を横目に五十鈴川の御手洗場に向かった。このあたりには小魚と小銭が同居しているのだが、手水舎がない時代のみならず、いまだにこの川で手をすすいでいる人も数多くいるのでここでの賽銭は慎むべき行為であるはずだ。

神宮に自生する木々一本一本からすさまじいパワーを感じながら、滝祭神、風日祈宮、荒祭神、正宮と順に参拝させていただき、先の「片参り」を解消して肩の荷を降ろすことに成功した。

インバウンド観光客であっても日本の神社では「二礼二拍手一礼」の作法が頑なに守られるのであるが、私も大谷のバックナンバーである17を思い浮かべながら♪どんなときも優しくあれるように♪という願い事でプーチン率いるロシアをけん制しておいたのだ。

伊勢神宮の御神札(お札)を総称して「神宮大麻」というのだが、今年も大角祓(授与大麻)をいただいて運勢のアップデートをさせていただいたつもりになった。尚、神宮大麻は全国の神社を通して頒布されるものでもあるのだが、FTBでは必ず内宮でいただくことが習わしとなっているのだ。

宇治橋を支える木組みの造形美を胸に刻み伊勢神宮を後にして内宮参道に差し掛かったのだが、ここでは常に人いきれで辟易とさせられる。

人込みをかき分けてたどり着いた先で肉付きのよさげな牛と目が合ってしまったので運命の糸に引かれるように松阪まるよしに入店し、すかさず牛鍋丼を牛食して遅まきながらWBC優勝の祝勝会をさせていただき、伊勢うどんも赤福もスルーして流れ解散となった。

FTBサマリー
総高速代 ¥18,790
総ガソリン代 ¥10,206
総宿泊費 ¥78,300(2泊分、2人分、2食付き)

協力 楽天トラベル

シン・FTB電気自動車で回るもう一つのアメリカ西海岸ベイエリアツアー

3年ぶりの米国ツアーは想像を絶するほど過酷なものとなった。
前座として2月14日(火)の午後10時過ぎに羽田からサンフランシスコに飛び、サンノゼに1泊後、16日(木)の午前0時過ぎのフライトで羽田にとんぼ返りするという離れ業を演じなければならなかった。羽田に到着したのが17日(金)の午前5時前だったので1泊4日のツアーということになるのだが、行き帰りの便とも同じメンバーの乗務員のサービスを受けたため、これぞマサに乗務員並みの重労働に匹敵するものとなった。

週末に山口県の長門温泉で束の間の休息を取らせていただいたものの、20日(月)の夕方にはデンバー行きの機上の人となってしまった。到着地のデンバーはマイナス20℃の凍るような世界で、3日間虎の穴のような過酷なセールストレーニングを受け、23日(木)夜にはサンフランシスコに移動となったのだが、滑走路の状態が悪いため、飛行機の出発が2時間以上遅れた上に、到着したサンフランシスコ空港のゲートが閉まっているという落ちまでついてしまった。乗客の断末魔の叫びに後押しされ、何とか帰ってしまったゲート回りのメンバーを定位置に呼び戻し、晴れて降機、レンタカー確保、ホテル到着となったころには午前1時を回った時間となってしまった。

泥のように疲れた体にムチ打って金曜日にサンノゼオフィスで業務をこなした後、待望の週末のHolidayが訪れたので雪残るシリコンバレーからシン・FTBツアーを強行することとなったのだ。

2023年2月25日(土)
宿泊先であるHoliday Inn & Suite Silicon Valley – Milpitasには電気自動車用の充電器は装備されていたのだが、私がHertzより借り受けていたテスラのModel 3に電気をチャージするにはアダプターが必要だったのでここでの充電は断念し、テスラ純正の電気を求めてさまようこととなった。途中テスラのタッチパネルがSoftwareのupdateをしたいとわがままを言ったので、ふいにupdateをタップすると40分近く足止めを食らってしまった。

首尾よくテスラのご本尊と言えるFremont工場が数マイル先に位置していたのでそこに駆け込み、Superchagerという急速充電器でわずか30分程度で電力と体力を回復させると風光明媚なモントレー方面に向かってModel 3を転がした。電気自動車はマサに動く家電のような代物でアクセルを踏んだ時の加速感とペダルから足を離した時の減速感が素直に足首の動きと連動し、ガソリン車以上の反応で書き味のなめらかなボールペンで手でスラスラと文字を書くような走りを見せてくれる。

全般的なテスラ車の表情は男前のイーロン・マスクとは異なり、ショッカーの戦闘員のマスクにように無表情であるのだが、「イー!」という掛け声のように発進する様はマサに首領である運転手に対して従順であると言える。

今回の目的地をさ~どうしようかと思案していたのだが、ふいに日本の女子卓球選手が得点を決めた時に発する大きな「サ~!」という掛け声(ちなみに男子はチョレイ!」が頭をよぎり、愛らしい卓球少女が男を手玉に取る魔性の女に変貌を遂げたような感覚を覚えたのでナビゲーションにセットされた目的地は必然的にビッグサー (Big Sur)となった。

テスラ工場から約1時間半程のドライブで太平洋岸にあるカリフォルニア州の美しい街、モントレーに到着した。Carls Jr.でハンバーガーを食って腹ごしらえをするとModel 3にも栄養を与えるべく、近くのテスラのディーラーに駆け込み早めの充電に勤しんでいた。尚、充電にかかるコストは自動課金になっているようでHertzにチャージされたものがそのままレンタカー代にも反映される仕組みとなっている。

モントレーから海岸沿いに伸びるパシフィックコーストハイウエイは絶景の宝庫であり、切り立った断崖から見下ろす紺碧の海には巨大なコンプ的海藻であるケルプが繁茂し、多くの魚介類やアシカ、ラッコなどを養っている。

丘の上ののどかな草原地帯がいつしか巨木に覆われた険しい山々に支配され始めるとBig Surの胎内に入ったことが実感され始めた。ファイファー・ビッグサー州立公園地帯のビジターセンターには足を踏み入れたのだが、空模様が芳しくなかったので今日の散策は断念してモントレー方面へとUターンを決め込んだ。

カリフォルニア州道1号線を北上している途中で今回の訪米で何度も口にした将来のビーフ達をのどかな牧場で見守ったりしながらのんびりとModel 3を転がした。

パシフィックコーストハイウエイの数ある絶景の中で最も映えるポイントにおびただしい数の停止車両がひしめいていた。

断崖絶壁の切れ目を強固なコンクリートの柱とアーチ構造で繋げるビクスビー橋は1932年に架けられたものでビクスビークリークの急斜面を見れば当時の工事がいかに困難を極めたかが一目瞭然なのである。

日没前にモントレーに到着し、そそくさと本日の宿泊先であるHoliday Inn Express At Montrey Bayにチェックインするとネットで当地のサンセット時間を調べた。
17:58のサンセットまであと20分程だったので急ぎModel 3に鞭打って向かったポイントはモントレー半島の南、太平洋に面する小さな都市カーメル・バイ・ザ・シーであった。

ビーチの駐車場が満車状態だったため、近隣の住宅地の空きスペースを拝借して車を止めると駆け足でカーメルビーチにに向かった。さすがにカーメルビーチに太陽が沈みゆく景色は「カリフォルニアで一番美しい夕日」とも称されているそうで観光客はおのおのの出で立ちでシルエットロマンスの雰囲気に浸っていた。

日もとっぷり暮れたころにモントレーのフィッシャーマンズワーフに立ち寄ると待望のディナータイムとなった。立ち並ぶシーフードレストランの中から客引きのおね~さんのキップの良さに釣られて入ったレストランではクラムチャウダーとカラマリがサービスとなっている気前の良さではあったものの財布の紐がからまわりしないように時価となっているカニやロブスターの注文は控え、地道な価格設定のシーフードグリルで分相応のディナーを楽しませていただいたのだった。

2月26日(日)
早朝8時にはホテルをチェックアウトし、今日も相変わらずさえない雲行きの空を見上げながらフィッシャーマンズワーフを散策した。遠く海洋哺乳類の鳴き声は聞こえるのだが、その姿を拝むことは叶わなかったのでモントレーから再びビッグサーに向かって車を走らせた。

セコイアの木を繁茂させている険しい山々が姿を現すと曇り空は耐え切れずに雨粒を落とし始めた。ファイファー・ビッグサー州立公園の駐車場($10)に車を止め、軽くトレイルを歩き始めると♪よ~こそ ここへ クッククック♪というリズムを刻みながら♪私の青い鳥♪が飛び交っている姿を鑑賞するまでは良かったのだが、天候不良の中をビジネス仕様の革靴で歩き回る程の冒険心が湧き上がってこなかったので今日のところは引き上げることとした。

サンフランシスコ国際空港まで帰る道すがら、パシフィックコーストハイウエイ上で気になったVista Pointがあったので車を止めて散策してみることにした。切り立つ崖とワイルドなコーストラインはカラフルな植物で覆われており、遠目の海にラッコが見え隠れしていたようなのだが、その雄姿を明確に捉えることは出来なかったのだ。

午後4時半過ぎの飛行機でポートランドに飛び、雪降る世界に舞い戻るとHertzで深紅のテスラのModel Yをレンタルすると一気に裏の仕事モードに突入となったため、不本意ながら流れ解散とさせていただくことにする。

FTBサマリー
総飛行機代 ただ
総宿泊費 ただ
総レンタカー代 ただ
総電気自動車充電代 ただ

協力 ANA、IHG Group、Hertzレンタカー、Advanced Energy Inc.

シンFTB中部ベトナム世界遺産日本の爪痕ツアー

♪ツン・つくつくつくツン ツン・つくつくつくツン♪
♪ヒヤ~ ヒ~ヤ ヒ~ヤ ヒ~♪
♪ベンベらベンベらベンベらベンベら ベン(ベン) ベン(ベン) ベン(ベン) ベラん♪

というわけで、感染者増減の一喜一憂はさておいてコロナ明けましておめでたく、今年は新年より活動を開始させていただくことをお慶び申し上げます。
ところで、なぜ年初の訪問先として晴れてベトナムが選ばれたのか?

それは飛行機代が一番安かったからだ!!

2023年1月1日(日)
ANAクラウンプラザ成田に隣接している緑色がまぶしいSUN PARKINGに自家用車を預けると空港まで送迎いただき、そそくさと「ANA SUITE CHECK-IN」カウンターに向かった。幸先よく、一番安いチケットからビジネスクラスへのアップグレードを果たしたものの、係員よりフィリピンのマニラで航空機の管制トラブル発生のため、搭乗予定であるハノイ行きの便の大幅な遅延もしくは欠航の可能性があることが示唆されたもののそれでも結構だと思ってチェックインした。

「ANA SUITE LOUNGE」での長期滞在を覚悟し、体内のアルコール度数を高めていったのだが、意外にもフライトは定刻通りの決行となったので、18:20発NH897便に乗り込むと約6時間半のフライトで2時間の時差分の時計を巻き戻し、午後11時にハノイのノイバイ国際空港の第2ターミナルに到着となった。

ベトナムはコロナ関連の制限はすでに撤廃しているので入国審査も検疫も短時間で突破してシャトルバスで第2ターミナルから第1ターミナルに移動した。次のフライトは翌日の早朝に設定されているため、ノイバイ空港に内蔵されているVATC SleepPod Terminal 1と名乗るカプセルホテルにチェックインすると4時間程ベッドの上で体を休ませていただいた。

1月2日(月)
早朝5時前にカプセルを抜け出し、チェックアウトを果たすとエレベーターに乗って約1分でベトナム航空のチェックインカウンターに到着した。つつがなくチェックイン、セキュリティを突破してSONG HONG BUSINESSラウンジにしけこみ朝食を取らせていただいた。ベトナム入国後の食事はレーザーラモンHG系の麺類であるはずの♪フォー!♪がメインになることが約束されているので早速牛肉入りのフォーであるフォー・ボーを召し上がって腹ごしらえをした。

6:55発のVN157便は定刻通りに出発し、8:25にベトナム第3の都市であるダナンに到着するとArrivalロビーのATMで紙幣に大量のゼロを持つベトナムドンを出金し、一気にVND2,000,000の金持ち気分になった。その勢いをかってタクシー乗り場で正直そうな緑タクシーに乗り込み、一気に本日の宿泊地を目指した。

雨季の中部ベトナムはマサにべとべとした雰囲気で天気同様にどんよりした空気感を醸し出している。車はダナンの都市部を通過すると海岸沿いのビーチリゾートを抜けて緑まぶしいソンチャー半島に入っていった。約30分程度のドライブで美しい自然に囲まれたアジア随一の高級ラグジュアリーリゾートととして名高いインターコンチネンタル・ダナン・サン・ペニンシュラ・リゾートに早くも到着する運びとなった。

当ホテルのチェックインの時間は午後3時であるが、ANAマイレージクラブの会員ランクに連動しているため、インターコンチネンタルホテルズグループ(IHG)においてもダイヤモンドエリートメンバーに成りあがっているFTBに気を使ってしきりに時間稼ぎの有償朝食を勧めていただいたのでビーチにほど近い「Barefoot」というレストランで空港ラウンジに続いて2回目の朝食を取ることとなったのだった。レストランのトイレを拝借すると便器の形状は小用、大用ともスタイリッシュなものであったのだが、空港ラウンジのトイレには設置されていたウォッシュレットは装備されてなかったのだ。

それでもホテルの特別な計らいで午前10時には部屋を用意いただけたのでバギーと名乗る電動カートに乗って部屋まで送っていただいた。当ホテルの従業員のホスピタリティは申し分なく行き届いているものの、従業員の数以上に野生のサルが生息しており、対宿泊客であっても遺憾なく不逞の輩ぶりを発揮してくるので細心の注意を払ってホテルライフをエンジョイしなければならないのだ。

部屋の方はというと、内装にはベトナム伝統デザインが施され、湿気によるダメージを受けにくい木と石が調和した飽きのこない造りとなっている。ベランダから見える海は沖縄のようなサンゴの白砂による透明なビーチというわけにはいかないものの、打ち寄せる波の音が独特なハーモニーを奏でている。

雨季だとウキウキした気分にならず、日がな一日部屋で過ごさなければならないことは想定ずみだったので夕食の時間までベトナムビールで口を濁しながらのんびり過ごさせていただいた。

ディナーはミシュラン・スターシェフによる本格フレンチ、鉄板シーフード、ベトナム料理等、バラエティに富んでいるのだが、一番手軽そうな「Citron」というベトナム料理のレストランに予約なしで入店することが出来た。サービスメニューはビュッフェのみということだったが、ベトナムに限らず、ありとあらゆる食材を使った料理を効率的に摂取させていただいたのだ。

1月3日(火)
今日もどんよりとした天気である。「Citron」で朝食を済ませるとハイシーズンに備えての下見のつもりでリゾートの敷地内をぶらぶらさせていただくことにした。

山の斜面に形成されたリゾートは「HEAVEN LEVEL」、「SKY LEVEL」、「EARTH LEVEL」、「SEA LEVEL」の4層構造になっており、それぞれのレベルにはケーブルカーでアクセス出来るようになっている。

曇天模様でビーチパラソルの花は咲かなかったのだが、天気が良ければ海沿いの2つのプールと合わせて華やかなリゾート気分が満開になるであろうことは容易に想像できるのだが、今回はハートに穴が開いた気分でも致し方なしとした。

滞在中にあらゆる種類のサルのオブジェにお目にかかったのだが、現役のサルは一向に姿を現さないままチェックアウトの時間を迎えた。ベルマンが部屋に荷物を取りに来てくれたので外に出るとそこで見送ってくれたのは日本でもよく見かける変哲のない種のサルだったのだ。

つつがなく下見を終えることが出来たインターコンチネンタル・ダナン・サン・ペニンシュラ・リゾートを退出するとタクシーでダナン中心部に位置する正統派ホテルであるヒルトン・ダナンに移動した。高層階の部屋からハン川の向こうに広がるリゾートエリアを一瞥した後、ロビーでコンシェルジュに世界遺産のノスタルジックタウンであるホイアンへのツアーの相談をさせていただいた。

ショートノーティスにもかかわらずダナンの南東30km先のホイアンへの往復送迎車がVND1,000,000で手配出来たので、迎えに来た三菱SUV車に乗り込むと午後3時過ぎにホイアンへのツアーの幕が切って落とされた。ドライバーはホイアンまでほいほいと単純に乗せて行ってくれるだけの送り人かと思ったのだが、道中あらゆる手段でのコミュニケーションが模索され、スマホに面倒な翻訳機能付き会話アプリであるカカオトークなるもののインストールを促された。目力が弱っている私では揺れる車内での文字のインプットは困難でメールアドレスのco.jpをco.joと打ち込んでしまった時点でこの試みは強制終了となった。

仕方なく、他のアプリで翻訳会話を試みたのだが、なぜかベトナム語から韓国語への翻訳で、日本のトラベラーのプレゼンスが地に落ちてしまっている現状を思い知ることとなった。何とか会話は成立し、午後4時にホイアンに到着となり、3時間後の午後7時にピックアップに来るということで話はまとまったのだ。

1999年に古い町並みがユネスコ世界遺産に登録されているホイアンは古くからアジアとヨーロッパの交易の中心地として繁栄し、16~17世紀頃には日本人町まで造られていた。

ホイアン旧市街への入り口のソンホアイ広場には朱印船の模型が恭しく展示され、かつての日本との関係の深さを物語っている。ちなみに朱印船貿易とは、16世紀後半、海禁政策がとられていた中国(明)に代わる貿易相手を東南アジアに求めた日本において、倭寇や密貿易と区別するため、幕府等の権威者が許可した正式な貿易船であることを示す「朱印状」を携えた貿易である。

1593年に造られた橋は来遠橋であるが、通称「日本橋」と呼ばれている。本場お江戸の日本橋は首都高という好ましくない屋根がつけられてしまったが、ホイアンの日本橋の木製の屋根は作成当時のおもかげをそのまま残しており、ベトナムを代表する観光名所のひとつとなっているだけでなく、紙幣のデザインにも採用されている。

橋の中には小さな寺も造られ、橋の両側はユニークな猿と犬の像が守っている。これは申の年に着工し、戌の年に竣工した事実を物語っているからに他ならない。

この橋を造った人たちは、インドからホイアン、さらに日本まで達する大ナマズがいると信じていた。そして、この大ナマズが暴れると地震や大洪水に見舞われると考え、大ナマズを鎮めるために、この地に橋を建て、橋内に寺を造ったという伝説さえ残されている。

旧市街のメインストリートには木造の古い家屋や華僑の建てた中華会館などの中国建築も並んでいるのだが、かつての繁栄当時の雰囲気が色濃く残っており、中世にタイムスリップした観光客はあてもなく歩いたり、シクロ(ベトナム人力車)に乗って決められた観光コースを回っていた。

ホイアンでは日本橋三越のような大型百貨店 はないものの、2階建てのホイアン市場が日用品や食料品の販売を担っており、日本の小売業者とは異なり楽天やamazonの台頭による業績低下の影響を受けずに脈々とその営業体制が今日まで保たれており、多くの観光客で賑わいを見せている。

黄昏時を過ぎたホイアン旧市街は漆黒の夜に向かってさらに輝きを増し始めている。多くの土産物屋の中でひときわ異彩をはなっているRocketman Tシャツは誰が買い求めるのかという疑問はさておき、灯篭流しと手漕ぎボート、ランタンの光に導かれるように街中を徘徊した。

輝きの中心に位置するアンホイ橋は最強の映えスポットとなっており、多くの観光客が光の揺れるトゥボン川を背景にSNS写真撮影に興じている。

ホイアン観光も終盤に差し掛かったころ、黙々と木に向かってノミを打ち付けているおばちゃんの姿にくぎ付けになった。こちらの興味を感じ取ったおばちゃんの説明によるとそれぞれの木彫り人形は表情によってLucky, Happy等の意味を表しているという。当初買う気はなかったのだが、その出来栄えに感銘を受けたので一つの人形を手に取り、価格を聞くとVND250,000ということだった。近辺のほぼすべての土産物屋の物品には値札はなく、すべて交渉で値段が決まるはずなのでVND200,000で価格交渉をしたのだが、最終的にはVND220,000で落札させていただくこととなった。

定刻7時にドライバーが迎えに来たのでサリーの弟のカブのように後ろ髪を引かれる思いでホイアンを後にした。帰りの道中も翻訳ソフトによる執拗な営業攻勢でDX(デジタルトランスフォーメンション)の浸透を思い知ったものの何とか無事にヒルトンに帰還することが出来たのであった。

1月4日(水)
ヒルトン・ダナンの朝食ビュッフェで炒め物のもち米添え等で腹を膨らませるとホテル周辺の散歩と洒落こんだ。ハン川沿いの遊歩道は野外彫刻博物館の様相を呈しており、どの1品も丁寧に作りこまれている印象を受けた。

遠目に見える黄色のロン橋はダナンのシンボルでロンは麻雀の殺し文句ではなく、ベトナム語で龍を意味するという。マサに龍が水面を泳ぐさまがデザインされているのだが、夜は当然のようにライトアップされ、土日祝日には火や水まで吐くパフォーマーともなるそうだ。

ピンク色の外観がまぶしいダナン大聖堂はフランス統治時代の1923年に建立されたゴシック様式のカトリック教会なのだが、今ではVietnumBankの資金力をバックに繁栄を続けているようにお見受けした。

正午前にヒルトンをチェックアウトし、タクシーで2㎞程先のダナン駅に向かった。インドシナ半島をハノイからサイゴンにかけて縦断するベトナム統一鉄道は1日に4往復の寝台列車を走らせている。ダナンから次の目的地のフエまでは約100kmで3時間程かかるのだが、あらかじめチケットはウエブサイトで購入済みだったのだ。

12:28発SE4列車の3号車は3層構造の寝台車になっており、上階に行くほど運賃が下がるのとは裏腹にスペースが狭くなってしまうのだ。

ダナンとフエの間にはハイヴァン峠が君臨しており、列車は海外線を走るため、眼下の絶景を終始寝転びながら堪能することが出来たのだった。

車窓の景色は断崖を経て農村部に移行し、コメ本位制を維持しているかのようなのどかな田んぼの風景を経てフエの都市部に入っていった。

1993年にベトナム初の世界遺産に登録されたフエに到着すると待ち構えていたタクシーの勧誘を断り切れずに相場より高いはずの金額を支払って本日の宿泊先であるホテル・サイゴン・モリンに向かった。Booking.comでお得な価格で予約出来たスイートルームにチェックインすると白を基調としたコロニアル調の内装や洋風の調度品に囲まれて外の喧騒とは切り離された空間を堪能させていただいた。

部屋のカードキーの動作不良というトラブルに見舞われたものの、日没後に雨模様のフエの旧市街を散策してみることにした。ホテルが林立する新市街からフーン川に架かるチューンティエン橋を渡り、旧市街に入るとライトアップされた建造物がいにしえの世界に誘ってくれるようだった。

夕食は手軽にホテルで取ることにしたのだが、選択は店員の判断に委ねることにした。気を良くした店員が選択したメニューは「黒ひげ危機一髪」をモチーフにしてあるはずの串刺し揚げ春巻きのくり抜きパイナップル生け花やパクチー香草牛肉等日本人の味覚の深層にも訴えるはずの美味な料理であった。

1月5日(木)
朝食ビュッフェは宿泊料に含まれているのでスイカアートが目を引くレストランで腹ごしらえを済ませると、1901年創業のフエで最も歴史のあるホテル内を散策することにした。

今日もあいにく朝からの雨であったのだが、中庭の風情は悪天候を逆手に取るほどしっとりと落ち着いていた。

ローシーズンのためか、ガーデンカフェにはひと気がなかったのだが、バーテンダー風のリスが健気に店番をしている様子が印象的だった。しかし残念ながらチップであるはずのピーナツを与えるまでには至らなかったのだ。

天候の改善を祈りながら正午のチェックアウト時間近くまでホテルで過ごさせていただいたのだが、埒が明かなかったので観光を決行することにした。フエの世界遺産の代名詞はグエン朝王宮に他ならないのでここを見逃すわけにはいかないのである。

街中に出て魚醤と香草の香りがプーンと漂うフーン川の橋を渡り、旧市街に侵入するとランドマークであるフラッグ・タワーを目指して歩を進めた。1807年に建てられた旗台は塔のてっぺんまで入れると29.52mにもなり、新市街からもその旗めきを拝むことが出来るのだ。

王宮を死守しているとされる9つの大砲を見てグエン朝の強力打線に思いを馳せると、王宮門にあるチケット売り場 (VND200,000)でE-TICKETを購入しバーコードをかざすと雨にもかかわらず、はれて王宮への入門を果たした。

1802年~1945年の間、13代もの長期にわたって政権を握ったグエン朝の王宮は東西642m、南北568mの広さを誇り、高さ6mの城壁に囲まれた別世界であるが、中国の紫禁城を模して建立されたといわれている。内部には多くの「殿」、「廟」、「宮」が建てられているのだが、紫禁城ほどの建物密度にはなっていないので全般的に開放感のある造りとなっている。

王宮の正殿であるタイホア殿(太和殿)のみ修復中であったが、あとは自由に見て回ることが出来るものの、とても1日で見学出来るような広さでなく、体力温存のために電気カーを使っても2日くらいは見ておく必要があると思われた。

建物の色調や装飾は概ね中国風で龍や獅子をアレンジしたものが多く、どれも圧倒する目力を誇っている。

かつで武官の詰所であった「ヒューヴ―」は皇帝の衣装を着ての記念撮影所と化しており、玉座に座って記念写真が撮れる映えスポットとなっている。

広大な王宮内にはいくつかの茶店が営業しているので歩き疲れた観光客は風光明媚な庭を眺めながらアフタヌーン・ティーを楽しめるように取り図られている。

日本庭園を模して造られた庭園には多くの盆栽もあり、中国だけでなく、日本の影響も少なからず残っている様子が見て取れた。

展示されている公式文書には様々な種類の金印の玉璽が押印されているのだが、王宮の要の位置に配置されている巨大な龍の金印がその頂点に立つものだと見受けられた。

王宮門の2階が観光客に開放されていたので登ってみることにした。あらためて見ると門口は5つあり、中央の門が皇帝専用で、左右が文官と武官、さらに外側の門が兵士やゾウ、馬が使用していたそうだ。建設当時は木造の建物にはすべて金箔が貼られていたと伝えられているが、現在はその面影は残っていないのだ。

王宮出口の近くに文化スペースがあり、ベトナム工芸品の実演販売を行っていた。針と糸を巧みに操る職人の手際につられてベトナム笠購入に食指が動いたのだが、手荷物として持ち込んだ機内で原型を維持出来るかという不安がよぎったため、財布の紐を開くことが出来なかった。

午後3時半にホテル・サイゴン・モリン内蔵のコーヒーショップのベトナムコーヒーで糖分を補充し、さいごんの力を振り絞ってタクシーでフーバイ空港へ向かった。
18:40発VN1546便ハノイ行きは定刻通りに出発し、20:00にハノイ・ノイバイ空港に到着した。来た時とは逆に第1ターミナルから第2ターミナルに移動し、NH898便のチェックインまで時間を持て余していたので空港レストランで最後のベトナム晩餐を楽しませていただいた。

1月6日(金)
ANAのアップグレードポイントを持て余していたのでビジネスクラスにアップグレードさせていただいたNH898便は定刻0:25に出発し、機内サービスより睡眠を重視したため短い飛行時間ではあったが、ほとんどフルフラットの体制で過ごしていた。定刻7:00前に成田に到着するとANAのArrival Loungeの開業時間が14時であることに軽いショックを受けながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥142,230
総宿泊費 VND20,566,085、¥6,281
総タクシー代 VND2,100,000
総ベトナム統一鉄道代 VND177,000
¥1 = 約VND170

協力 ANA、IHG、HiltonHhnors、Booking.com、Hotels.com、SUN PARKING

斑鳩のFTB! 柿食へば鐘がなるんか虎の穴の巻

♪斑鳩を旅するのなら春よりも秋がいい あなたが言ってた通りです♪(旅愁~斑鳩にて~ Song by 布施明)

ということで、今年も残すところひと月を切り、♪シクラメンのかほり♪も強くなってきた今日この頃だが、私の心の中にはレコード大賞受賞曲よりも旅情を揺さぶる地味な曲が染みこんでいるようだ。今回は奈良、斑鳩を代表する神社仏閣にお布施をしなければならないと思い立ったのだが、何とか紅葉シーズンが終了する前に古都に滑り込むツアーが敢行されることになったのだ。

2022年12月10日(土)
コロナの第8波を横目に師走の喧騒を取り戻した羽田空港に到着すると13:00発ANA025便に乗り込み、約1時間ちょっとでコロナの痛みを忘れているかのような大阪伊丹空港に到着した。早速ニッポンレンタカーでダイハツムーブを調達すると、途中私の本籍地に立ち寄った後、生駒山の長いトンネルを潜り抜け、奈良盆地に侵入した。さらに信貴フラワーロードの坂道を駆け上がるとほどなくして本日の宿泊地である信貴山観光ホテルに到着した。

夕方6時から供される夕食までの時間を利用して信貴山唯一の天然温泉大浴場で温泉基準に適合した主成分のメタケイ酸を体内に取り込み、心と体を整えることにした。ロビーの虎のはく製と「せんとくん」には敬意を示したものの、「館内でのマスク着用にご協力お願いします」という看板の割には土産物屋にタイガーマスクの販売がなされていないことに多少の不満を覚えざるを得なかった。

アワビの蒸し焼きをメインにした会席料理で奈良の旬の味覚をたしなむと、「夜の朝護孫子寺から天空へと向かう光が灯される、特別なライトアップ」に備えてしばし部屋でくつろぐことにした。

信貴山観光ホテルでは夜の8時から「夜のお散歩ナイトウォーク」という宿泊者向けのツアーを開催しているのだが、FTBはその時間に先立ち、すでにライトアップされた朝護孫子寺方面へと歩を進めていた。全長約106mの開運橋を渡り、鳥居をくぐるとそこはマサに幻想的な世界であった。

朝護孫子寺では新旧、大小取り交ぜた虎にお目にかかることになるのだが、信貴山と虎の因縁は、今から千四百余年前、日本の平和を乱す朝敵物部守屋を討伐するため、聖徳太子が、此の山に来たり、戦勝の祈願をされると、頭上に毘沙門天王が出現され必勝の秘法を授けられた。奇しくも、その日は寅年、寅の日、寅の刻であったのだ。

太子はその御加護で敵を滅ぼし、世治まりて後、自ら天王の御尊像を彫まれ、伽藍を創建して、信ずべき、貴ぶべき山「信貴山」となづけられた。

以来、信貴山の毘沙門天王は虎に縁りのある福の神として、寅年、寅の日を縁日と定め、大法要が行われているのだ。

奇しくも2022年は、36年に1度の周期で巡ってくる「五黄の寅」の年で干支と九星術の組み合わせの中でも最も運気が強いとされている。そのような虎のエキスを十分に吸収させていただくと同時に金運上昇、商売繁盛、厄除け開運まで面倒見ていただくことが出来、マサに至れり尽くせりの参拝となったのだった。

12月11日(日)
早朝6時より信貴山千手院で護摩焚きが行われているので信貴山観光ホテルの宿泊者は是非ご覧下さいとの案内があったので5時半に起床して信貴山に向かった。

毘沙門護摩は、信貴山千手院に代々伝わる秘法で、正統の真言密教が伝える、毘沙門天王のご祈祷の中で最も霊験あらたかなものなのだが、何を血迷ったのか、ホテルから徒歩10分の千手院に辿り着けずに意図しない山の方向にいざなわれてしまった。結局護摩焚きには参加できず、ごまかしのように大和平野の夜明けの絶景を堪能するだけとなってしまった。

気を取り直してホテルに戻り、温泉で身を清め、朝食を済ませると太陽光で白日の下にさらされているはずの虎の穴に参拝させていただくことにした。

昨夜渡った開運橋は日中の時間は開運バンジーという30mのジャンプ台が運用されており、時間があれば私も華麗なダイブを披露するところであったのだが、時間がないために断念した。

昨夜天空へと向かうビームライトに向かって遠吠えをしていた虎は「世界一福寅」でボブルヘッド人形のように電動式で首が動くような構造になっている。

ガビ~ン虎(と呼ばれているかどうかは定かではないが・・・)は「三寅の福」という胎内くぐりの出来るファシリティで 父寅、母寅、子寅が一体となっているトンネルを形成しており、ここをくぐれば三寅の福に与うることが出来ると言われている。

今回行くことは出来なかったのだが、信貴山頂の空鉢護法堂は白蛇様を祀っており、現役の白蛇数匹が恭しく飼育されている。前回幸運にもそのなまめかしい御姿を拝見させていただくことが出来ていたので、今回は登頂せずに体力を温存し、代わりに霊宝館(¥300)を見学させていただいた。

信貴山の寺宝を展示してある霊宝館の中で最大の見どころである国宝 信貴山縁起絵巻(レプリカ)は日本三大絵巻の一つに数えられる平安絵画の名品として知られている。現代の漫画のようなものだが、躍動感あふれる画面を見ていると作成当時は「鬼滅の刃」以上の人気を博したであろうことが容易に想像でき、マサに日本アニメの原点を見たような気がした。

信貴山の虎の穴には縞模様の張子の虎だけでなく、柱を彩る彫刻の寅や何千年も劣化することがないであろう石造りの虎や一億円の財産を咥えている金運の虎等が居住しているのだが、弘法大師でさえ、ここでは寅大師の異名を取らされているのだった。

信貴山を下り、わずか6㎞程の先には日本が誇る世界遺産、世界最古の木造建築を誇る法隆寺が君臨している。2008年の吉日に裏の仕事でJR法隆寺駅近辺に本社を構える客先に米国本社の外人と一緒にプレゼンテーションをする機会をいただき、その後主要顧客に発展させた実績を手土産に参拝して以来の訪問となった。

まずは中門の金剛力士像を見上げて外人との掛け合いの阿吽の呼吸を思い出すと¥1,500の拝観料を支払い、いざ西院伽藍へと突入した。

西院伽藍は五重塔が西に、金堂が東に並列する法隆寺式伽藍配置で、金堂、五重塔、中門と回廊部分は飛鳥時代の建築様式を伝える世界最古の木造建築であることは説明するまでもないであろう。

薬師三尊像をご本尊とする大講堂の中はさながら国宝仏像のオールスターである。名前だけでお布施の出来るはずの布施明ほどではないにしてもわずかながらの金額を瓦の寄進として供出すべく、ひら瓦に毛筆で名前を書付けさせていただいた。

世界最古の木造建築とは対照的に平成10年に建立された大宝蔵院は法隆寺の誇る国宝「百済観音像」を中心とした寺宝の数々を安置している近代建物で、当然のことながら内部の秘宝は撮影禁止の措置が取られている。

ちなみに小学生時代に切手収集に小遣いを投資していた私が保持している第1次国宝シリーズ第1集 法隆寺百済観音(1967年発行)の記念切手は額面は¥15なのだが、現在は¥50という高値で取引されているのだ。

修学旅行生の背中を見ながら東院伽藍までの移動の道すがら、引率の先生による次の奈良の大仏の見学までトイレに行けないのでここで用を足すようにとの助言に従い、トイレを済ませると法隆寺東院の中心建物である夢殿の周囲を旋回させていただいた。

東院の片隅に「法隆寺と紙幣」というコーナーがあり、夢殿の図柄もさることながら、聖徳太子の価格の上昇の歴史が見て取れた。1万円で頭打ちとなった後、福沢諭吉先生への世代交代を果たしたまでは良いのだが、今後渋沢栄一に馴染んで行けるかどうかは若者世代に託すことになるのであろう。

今回のツアーでは柿を食いながら鐘の音を聞くといった正岡子規的なアクティビティはなかったのだが、布施明の歌手としてのジャンルは演歌なのか歌謡曲なのかポップスなのかという疑問はまだ解消されていないはずだと思いながら流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー
総飛行機代 ただ(ANAスカイコイン使用)
総宿泊費 ¥26,480(2食付き、2名様)
総レンタカー代 ¥8,260
総ガソリン代 ¥957
総高速代 ¥3,740
総駐車場代 ¥500

協力 ANA、楽天トラベル、ニッポンレンタカー

第二回FTBSEAべトコンツアー in ハノイ

2004年9月下旬にホーチミンを歴訪した実績


があるFTBであるが、当時はベトナム戦争でアメリカに黒星をつけ、戦後ドイモイ政策により急激な経済発展を遂げたベトナムの一面を垣間見ることが出来たのだが、今回は首都ハノイに繰り出し、古き良き時代のベトナムと数多くの奇岩を形成した自然の驚異を満喫することにした。

2008年9月12日(金)
JALのマイレージが余っていたので、マサであれば14~15万くらいかかるところを私は燃油代と税金の支払いのみで搭乗出来るJL751便に乗り込むと午後6時15分に出発したB767-300機は5時間程度のフライトで2時間の時差を越えて午後10時前にハノイのノイバイ国際空港に到着した。

入国後手持ちの$40を両替所でベトナムドンへの両替を試みるとVND656,000もの大金になってド~ンと返ってきたので欽ちゃんのど~んとやってみようで言うところの「ばかうけ」の気分を味わうことに成功した。大金を手にして空港タクシーに乗り込み30km程離れた市街地にあるニッコーホテルに移動すると定額料金のVND250,000に対してつり銭がないためにVND300,000を支払ってあげたため、「どっちらけ」の感覚に成り下がってホテルへのチェックインを余儀なくされたのだった。

9月13日(土)
早朝ニッコーホテルをチェックアウトし、もやにより日光が遮られているにもかかわらず30℃を越す猛暑の様相を呈したハノイ市街に繰り出すことになった。ハノイには単線の鉄道が通っており、線路沿いに進めば目的地に到着出来ると思っていたのだが、いつの間にか線路を見失ってしまい原チャリのクラクションでめまいがしそうな旧市街を2時間余り彷徨うこととなってしまった。

今日の予定はベトナムきっての景勝地であるハロン湾までバスで移動することであったのだが、世界最強レベルの旅行ガイドブックである「地球の歩き方 ベトナム’04~’05」の掲載情報が古かったせいかハロン湾行きのバスが出るターミナルに到着するまでいくつかのバスターミナルをはしごするはめになってしまった。とあるバスターミナルの案内所で原住民から目的地を確認すると市内バスとタクシーを乗り継いで何とか目的のミニバスに搭乗することに成功した。

バスターミナルを出発した韓国製払い下げミニバスは乗車率150%くらいになるまで道行く途中で乗客を勧誘しながら走ったため、4時間くらいかかってハロン湾の観光の拠点であるバイチャイ・バスターミナルに午後6時頃到着したのだった。そこから本日の宿泊予定地である楽天トラベルに予約させておいたハロン・プラザホテルへの道筋がわからなかったため、適当に湾沿いを目指してバイチャイ市街を歩いていると市バスが運行していることが確認出来たのでバスに乗り込み、言葉の通じない切符売りのおね~ちゃんとバス代がいくらであるかという仁義無きやりとりを繰り広げ、しかも野次馬風情のおっさん乗客が笑い転げているという状況の中で何とかホテルに到着することが出来たのであった。

9月14日(日)
マサよ、君は世界遺産として君臨しているハロン湾に比べてローカルな日本三景に甘んじている松島の現実に地団駄を踏んで悔しがっている松嶋菜々子を想像したことがあるか!?

ということで、昨晩のビュッフェで生ガキをはじめとする地元の海の幸を満喫することが出来たハロン・プラザホテルをチェックアウトするとハロン湾クルーズの船が出港しているクルーズ船乗り場を目指して海沿いを2km以上練り歩いた。

船乗り場のチケット売り場でハロン湾入域料(VND40,000)を支払い客引き風情の原住民に訳もわからずとある木造クルーズ船に連行されると午前8時過ぎにハロン湾クルーズ4時間コース($30)がスタートしてしまった。おびただしいほどの数の停泊しているクルーズ船を横目に私と何人かのベトナム人家族を乗せた船はエメラルドグリーンの海をすべるように航行していった。

船から海面を見渡すとそこには大小2,000もの奇岩がニョキニョキと生えておりマサに幻想的な光景を演出しているのだった。船は30分ほどでダウゴー島という大き目の島に到着し、そこで観光客は下船すると皆一様に島の散策に乗り出した。ティエンクン洞という高さ20m、幅数十mの鍾乳洞は内部がブルーやグリーンでライトアップされており、整備された遊歩道を歩いていると幻想的な気分と湿気によるだくだくの汗でやさしく包まれることになる。

ダウゴー洞はさらに大きな鍾乳洞であるが、観光時間の制限により通常は見学を省略されてしまうのだが、コウモリには格好の居住地となっていることが確認出来た。船に戻り、ダウゴー島を後にするとクルーズ船は島々の間を抜け、船上生活者の生活模様を垣間見ながらいくつかの特徴的な岩に遭遇した。

闘鶏島という2羽の鶏が闘っているように見える島がいわゆるひとつのハイライトのような様相を呈しており、どのクルーズ船も島の目の前に停泊して観光客に記念写真を撮らせながらご機嫌取りをしていたのだ。

4時間の予定のクルーズが2時間半程で終わってしまったのでそそくさとバスでハノイに戻り、数多くのシクロが客待ちをしているハノイ大教会を見上げ、パリのオペラ座を模して建築された市劇場の隣に位置するマサであれば$160くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るヒルトン・ハノイ・オペラに日中の暑さを避けるために早々とチェックインし、そのまま夜を迎えることとなった。

9月15日(月)
文廟(VND2,000)という1070年に孔子を祭るために建立された廟を訪問した。この敷地内にはさまざまな時代の建物が混在しており、中でも大学施設として使用されていた奎文閣はハノイの象徴となっている。また、ファシリティ内で民族音楽の演奏が行われており、観光客はチップを強要され、VND2,000程度でお茶を濁そうとしても$1以上を強奪されるシステムになっていることが確認された。

ベトナム独立の祖として崇められているホー・チ・ミンの遺体がガラスケースに入れられて安置されているホー・チ・ミン廟を遠巻きにチラ見し、月曜日が休館となっているホー・チ・ミン博物館の建物の立派さを思い知った後、一柱寺というハノイのシンボル的仏教寺院を見学した。一柱寺は李朝の太宗が1049年に創建した延祐寺の楼閣で、一本の柱の上に仏堂を乗せたユニークな形からこの名で呼び親しまれているのだ。

一柱寺で不安定感を満喫出来たのでその勢いを買ってロンビエン橋というパリのエッフェル塔を設計したギュスターブ・エッフェルによって設計され、1902年に完成した1700mの鉄橋で錆びた雰囲気を味わい、ドンスアン市場とハンザ市場というハノイの代表的な市場をはしごしてベトナム人の生活感と活気を感じながらハノイ駅に紛れ込んだ。駅ではルンペン風の若者にここで買う必要も無い靴の中敷の押し売り攻撃に遭ったものの何とかかわすことが出来たのだった。

マサよ、君は捕虜収容所として常に満室だった裏のハノイ・ヒルトンが市内のど真ん中に取り残されているおぞましい事実を知っているか!?

というわけで、ホアロー収容所(VND5,000)という19世紀末にフランスによって造られた監獄に収容されに行ってきた。1953年の満室時には2000人以上を収容した実績のあるホアロー収容所の内部には拷問の道具やその様子を描いたレリーフ、処刑に使われたギロチン台等が残されており、ベトナム戦争時に収容された鬼畜米兵から皮肉を込めて「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれていたそうだ。

ハノイ市街の中心に位置し、市民の憩いの場となっているホアンキエム湖上のゴッソン島に玉山祠(VND2,000)が夕涼みの観光客を集めていたので郷ひろみ系の眉をした虎に挨拶をして参拝させていただくことにした。尚、ホアンキエム湖には大亀の伝説があり、実際祠内には1968年に捕獲された体長2mの大亀の剥製が鎮座しているのだ。

ハノイを代表するエンターテイメントとして水上人形劇が有名であり、近くの劇場が夕方から公演を行っていたのでセカンドクラス(VND40,000)のチケットを買って見物することにした。水面を舞台にして繰り広げられる人形劇はベトナム伝統楽器の音色に沿って人形が繊細でコミカルな動きで観客を魅了し、民話や民族的な話が繰り広げられていくのだが、最後の舞台挨拶では操り人形師まで出て来やがるのである。

ハノイ市内の観光を十分すぎるほど満喫出来たのでミニバス(VND35,000)でノイバイ国際空港に戻り、乗客よりも圧倒的に数が多い見送り客の間をすり抜けてチェックインを果たすと午後11時55分発のJL752便に乗り込み機上の人となる。

9月16日(火)
機内で相武紗季とはタイプの違うものの相武紗季に匹敵するほどの美人スチュワーデスに思わずもっていかれそうになったところを何とか踏みとどまり、午前6時45分に小雨で涼しい成田に到着し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥25,200 (燃油代、税金のみ)
総宿泊費 $173.25、¥9,529
総タクシー代 VND340,000 ($1 = VND16,400)
総バス代 VND136,000

協力 JAL、HiltonHHonors、楽天トラベル

シン・FTB海峡ドラマチック 海のシルクロード マラッカの旅

振り返ると私の人生前半は西日本の大都市である門司と下関を急流で隔てる関門海峡で流されないように突っ張って生きてきた。古くは源平合戦、大谷翔平よりはるか以前に二刀流で実績を残した宮本武蔵が佐々木小次郎にサヨナラ勝ちをおさめた巌流島の戦い、さらには1987年10月には故アントニオ猪木がマサ!斎藤との死闘で新日本プロレスを人気凋落の危機から救った近代巌流島の戦い、1995年の門司港レトロのグランドオープン等、海峡は様々な戦いの舞台となってきた。

2020年初頭より猛威を振るい、人類の活動を停滞させた新型コロナウイルスもアップデートを繰り返しながら今日まで生き延びてきたが、アントニオ猪木亡き後のアントキの猪木、アントニオ小猪木のように徐々にその存在感も薄くなってきた。

今回裏の仕事の会社が解禁したカンファレンスを有効活用させていただく形となったものの、世界有数の海峡に参上し、「元気があれば何でも出来る!」ことを今一度思い起こさせるツアーが開催されることとなったのだ。

2022年11月5日(土)
午後3時過ぎに成田空港に到着し、つつがなくチェックイン、出国の手続きを済ませ、ANA SUITE LOUNGEに向かう道すがらですれ違った人々の多くは外国人で思わずここは欧米か!?と思った次第であった。

17:25発NH815便は定刻通りに出発し、約7時間のフライト時間をコロナの犠牲になった志村けんに代わって主役を務めた沢田研二の名演技が光る「キネマの神様」を見ながらやり過ごしていた。

11月6日(日)
日付の変わった午前零時過ぎにクアラルンプール国際空港に到着すると、ここでもつつがなく入国、税関を通過するとHotels.comでたまたま見つけた空港に内蔵されているサマサマ ホテル KL インターナショナル エアポートにしけこむことに成功した。

6時間程度惰眠を貪り、午前8時半頃に起床し、朝食会場で腹ごしらえをする際にマレーシアのコロナ対策をつぶさに観察したのだが、マスク着用ルールも含めてほぼ日本並みの対策が施されていることが確認出来たので今から始まるマレーシア生活への大きな自信となった。

11時過ぎに様々な不安を打ち消してくれたサマサマホテルをチェックアウトすると空港の到着ロビーに戻り、マラッカへの交通手段となるタクシーを物色した。とあるタクシーカウンターでRM 180でのディールが成立したのでマレーシアの国産車タクシーに乗り込むと2時間弱でHoliday Inn Melakaに到着した。


IHGのDiamond会員である私に用意された部屋は19階という上階のスイートルームで広めの窓からは関門海峡とは比べ物にならないほど広いマラッカ海峡とそれに続く湿地帯の絶景を見下ろすことが出来た。

部屋を出てエレベーターホールに向かうと海峡とは反対の窓の向こうに整然としたマラッカの街並みが広がっていた。マラッカは2008年に「マラッカ海峡の歴史都市群」としてユネスコ世界文化遺産に登録されているのだが、その東アジア、東南アジアにおいて類をみないユニークな建築様式、文化的な街並みに浸るために下界に下りることにした。

ビルの隙間からマラッカタワーが手招きをしているように見えたのでその方向に向かって歩を進めていると土産物店が並ぶ広場やのどかな公園の先には鮮やかな赤色の歴史的建造物群が姿を現した。

高台へと続く階段を上がっていくと日本人にもなじみのある宣教師のシルエットが近づいてきた。マラッカがポルトガルに支配されていた頃、この地は西洋の宣教師達の活動拠点であり、その威光の名残としてフランシスコ・ザビエル像が「チョッ~ト イイデスカ!」という布教のポーズで観光客を勧誘しているのだ。

ザビエルが案内するセントポールの丘はマラッカの街を見渡せるベストビューポイントとなっており、海峡を行き来する巨大な船舶による刻一刻と移り変わる風景で観光客の旅情を揺さぶっている。

ポルトガル支配の頃、キリスト教布教の拠点として建てられたセントポール教会は今や廃墟と化しているのだが、1552年12月に中国にて46歳でこの世を去ったザビエルの遺骨が1553年2月にマラッカに移送され、約9ヶ月間この場所に安置されていたという由緒正しい聖地である故、多くの観光客が巡礼に訪れているのだ。

1650年に当時マラッカを支配していたオランダの総督府として建てられ、現在は歴史博物館(RM 20)となっているスタダイス(The Stadthuys)にて歴史の勉強をさせていただくことにした。

当博物館はマラッカ王国誕生からオランダ、ポルトガル、イギリスといった欧州列強および第二次大戦中の日本軍の占領時代を経て、マレー連邦として独立するまでのマラッカの歴史が包み隠さず展示されている正直なファシリティで、マラッカのシンボル的存在として君臨している。

また、歴史のみならず近代マラッカの風俗や暮らしの展示物も豊富で、ここを見学させていただくと即座にマレーシアに溶け込めるような構成となっている。

スタダイスでの歴史探訪終了後、けたたましい音響付きで観光案内するトライシクル(サイドカー付きオートバイのオートバイを自転車にすり替えた代物)の駐車場をスルーしてオランダ広場に向かった。

ここはマラッカ観光の中心地とも言える場所で赤を基調とした建物や噴水等オランダ統治時代の箱物が並んでおり、オランダとは交易を持っても統治された実績のない日本のハウステンボスとは一線を画す景観となっている。

土産物屋通りを抜け、オランダ広場の裏手に回ると「つまらない住宅地」の様相を呈する古い団地が立ち並んでおり、観光地と庶民の暮らしの密着度も垣間見えていた。

裏手の方から再び観光地に戻るとマラッカ川沿いの遊歩道を歩いてみた。風光明媚な川沿いに立ち並ぶ飲食店には閑古鳥が鳴いており、アフターコロナと言えども全盛期には年間400万人もの観光客を集めていた賑わいとは程遠く、東京海上もどう保証してあげればよいのか判断出来ないほどさびれているようだった。

どこからともなく「虎だ虎だお前は虎になるんだ」という心の声に促され、伊達直人がタァ~と飛び降りるタイガーマスクのオープニングのような感覚を覚え、ふと上方に目をやるとチャイナタウンはマサに虎の穴と化しているようだった。

今日は長旅の疲れもあり、虎の穴に入ることは遠慮して、マラッカ川のクルーズ船や海洋博物館のオブジェ等を横目にホテルに引き上げることにした。

Holiday InnではExecutive Loungeに招待されていたので、そこでそそくさと夕食を済ませマラッカ海峡を見渡せるプールを横目に部屋に戻った。このホテルではNHKの主要番組がリアルタイムで視聴出来るように取り図られているので、「鎌倉殿の13人」を見て御家人の勢力争いでの勝ち上がり方を学習し、海峡を行きかう船を数えながら就寝させていただいた。

11月7日(月)
朝ドラを見て舞い上がった後、さくっと朝食をすませると再びマラッカの歴史都市群を見て回ることにした。

ビルに描かれた壁画を一瞥し、マラッカ川沿いの海の博物館前を素通りして昨日はあえて侵入せずにとっておいた虎の穴に入場させていただくことにした。

チャイナタウンの正門から裏門迄の距離は大したことはないもののエキゾチックな商店や土産物屋が軒を連ねており、少ないながらも観光客の行き来する様子が見受けられた。虎の穴の入門手続きはどうすればよいのか模索していたのだが、悪役レスラーに対抗するためのボディビルのジムが金ぴかに輝いていたので恐らくここであろうと自分を納得させて引き下がった。ちなみに虎の穴のマネージャーはミスターXであったが、日本ではドクターXの方が認知度が高くなっている今日この頃である。

チャイナタウンに軒を連ねる独特の家並みはマラッカの象徴的風景と言われているのだが、観光客はむしろ白亜の豪邸の方に気を取られているようであった。

1646年に中国から運んできた資材で建てられたマレーシア最古の中国寺院である青雲亭寺院に充満する線香の香りで心を落ち着かせようとしていたところ、「虎鉄聖徳自白反依」の文字で説明されているはずの親子虎の姿が目に飛び込んできたのでここが本当の虎の穴であることを確信した。

チャイナタウンを後にして昨日歩いたマラッカ川の遊歩道の対岸を歩いて気が付いたのだが、マラッカの建物に描かれている壁画は見事であり、歴史都市群の光景に違和感なくなじんでいるのであった。

赤いオランダ教会と横付けされている青いポルシェのコントラストは♪緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ♪に匹敵する光景だと感心しながら、昨日見たセントポール教会方面にプレイバックしてみることにした。

ザビエルから♪いったい何を教わってきたの♪と思いながら廃墟となった教会を通り抜け、丘の麓に君臨する強固な砦跡であるサンチャゴ砦を見に行った。

ここは1511年にオランダとの戦いに備えるため、ポルトガル軍によって造られた大砲を備えた砦なのだが、私的にはジュリアナ扇子をほうふつとさせる南国の木の方が気になってしょうがなかったのである。

1912年創建の洋風建築である独立宣言記念館を見て「独立自尊」の重要さを再認識し、ドン・キホーテを思い起こさせる探検型のショッピングセンターを抜けて正午前にはHoliday Innに帰還した。

ホテルでタクシーを手配してもらい数キロ離れたセントラルバスターミナルまでRM 30の明朗会計で送ってもらい、13:30発のデラックスバスでクアラルンプールへの車中の人となった。2時間後にTBSという日本のテレビ局ではない巨大なバスターミナルで下車してBandar Taslk Selatanという駅に向かった。駅の改札前では猫が我が物顔で闊歩しており、ふとKIOSKに目をやるともう一匹の猫が店でくつろいでいる様子だったので売店のおばちゃんと目を合わせるとみなしごの猫を世話してあげなければならないとのことで、ここはさながらタイガーマスクに登場するみなしご施設の「ちびっこハウス」ではないかと思われ、将来この猫たちも伊達直人扮するタイガーマスクのように強くなることが保証されているはずであろう。

KLセントラルという中心駅に向かうためにKLIAトランジットという高速列車の切符を求めて歩いていると巨大な爬虫類がガニ股で歩いているのを発見した。その傍らでは大柄の猫が成仏されているようで、もしかすると戦った後ではないのかとも訝られ、この体長1mにも達する肉食のミズオオトカゲ(マレーシアオオトカゲ)も裏切者のタイガーを追う虎の穴の刺客に見えてしまうのであった。

その後KLセントラルから近郊線でBukit Nanasという駅で下車し、高層ビル群が立ちはだかるクアラルンプールの中心街を1時間以上さまよった末に何とかThe Ritz Carlton Kuala Lumpurに辿り着き、沢口靖子とリッツパーティを楽しむこともなく、一気に裏の仕事モードに突入したのであった。

11月8日(火)
裏の仕事のWork ShopでThe Ritz Carlton隣接のJW Marriot Kuala LumpurのBayu Ballroomに軟禁状態となり、キンキンにクーラーの効いた部屋で寒さに耐え忍んで過ごしていた。

11月9日(水)
クーラーの温度調節が多少改善されてきたようだった。重役のプレゼンテーション後の質問コーナーで意地悪な質問で虎の尾を踏んでやろうかと思ったが、踏みとどまった。

11月10日(木)
午前中のThe Ritz CaltonのCarlton 6 Conference roomでのセミナー後、午後は独立を勝ち取ることとなり、本業に戻ることが可能となった。目まぐるしく近代化が進んでいるクアラルンプール市内で私の興味を引く観光地は限られているのだが、まずはモノレールと近郊線を乗りついでマスジッド・ジャメを目指してみた。

1909年建立の古いモスクであるマスジッド・ジャメはイギリス人建築家によるデザインとなっている。日本武道館ほどの大きな玉ねぎではないものの、新玉ねぎのような白いドームが特徴的で、礼拝のない時間帯は原住民の絶好の昼寝スポットとなっている。

世界一の高さ約100mを誇るフラッグポールにマレーシア国旗がはためいていたのでその方向を目指して歩を進めていた。

マレーシアは1957年にイギリスからの独立を宣言し、マレーシアの国旗が初めて掲げられたのがムルデカ・スクエア(独立広場)である。広場内の噴水は化け物がゲロを吐いているような装飾となっているものの、自ら勝ち取った独立の威厳を感じさせる空気が漂っていた。

広場周辺にはアラビアンナイト風のエキゾチックな建物がいくつかあり、スルタン・アブドゥル・サマド・ビル(旧連邦事務局ビル)は絶好の映えスポットになっている。

1888年開業のセントラルマーケットを買う気もないまま散策することにした。マレーシアの民芸品店等いくつか見るべき店もあったのだが、店員がアグレッシブさに欠けていたのですべて素通りしてマーケットを後にした。

近郊線、モノレールを乗り継いでチョウキットという駅で下車してみた。この近辺は高層ビルが立ち並ぶエリアとは一線を画しているようで古き良き時代の雰囲気が残っている様子が見て取れた。

行く手にはペトロナスツインタワーが雨季の雲を突き破る勢いで尖っていたので、スコールをものともせずその方向を目指していた。

トンネルをくぐるとそこは大都会で川沿いの高速道路で分断されている左右の街はまるで別世界のようであった。

世界一高いビルの称号はとうに奪われてしまったものの、いまだに世界一高いツインタワーとしての地位を維持しているペトロナスツインタワーの内部に侵入し、頂点を目指したいと思っていたのだが、あいにくチケットは売り切れでおとといきやがれとのサインが出ていたのであえなく撤収し、雨の中ライトアップされたシルエットを恨めしく見上げていた。

11月11日(金)
午前10時半にホテルをチェックアウトし、モノレール、KLIA Transitを乗り継いで空港に向かった。

14:15発NH886便は定刻通り出発し、約6時間のフライトで午後10時過ぎに羽田空港に着陸した。入国前の検疫で時間を取られることがわかっていたので今日は羽田近辺の宿を押さえていた。おかえり東京キャンペーンで安く泊まれる上に買い物クーポンまでもらえる「変なほてる」のチェックインカウンターはロボットと恐竜が受付を担当しており、やはりTOKIOは世界有数のテクノポリスの地位を譲ってはいけないという意気込みを感じながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代:ただ
総宿泊費:ただ
総タクシー代:RM 210 (RM1 = ¥31)
総バス代: RM 14.4
総MLRT代: RM 12.5
総KLIA Express代:RM 61.5

協力:ANA、 Advanced Energy Inc.、Hotels.com、IHG、ナビスコ、楽天トラベル

犬HK大河スペシャル 鎌倉殿のFTB

1い1い9く2につくろう鎌倉幕府

ということで、日本史の年号暗記の紀元とも言える鎌倉幕府の成立は1192年のことであった。2022年の現在における自身を顧みると、受診料の売り上げに貢献しているだけならまだしも、ざわつく金曜日以外はおはようからおやすみまでNHKが提供するコンテンツであるニュース、ドラマ、紅白歌合戦、大谷MLB中継の中毒となっており、マサにちむどんどんする公共放送の犬と化してしまっている。

NHKとの間に結ばれてしまった主従関係はいみじくも鎌倉殿と御家人のようで、なぜそのような関係性になってしまったのかを解明するためにいざ鎌倉まで馬の代わりに車を飛ばすツアーが開催されることとなった。

2022年6月19日(土)
正午過ぎに正直不動産の心根を持つはずの住宅メーカーに建築を依頼した住居を後にすると、大泉頼朝に仁義を切るためにいざ鎌倉に直行すべきところを何故か伊豆方面に車を走らせていた。西湘バイパスリニューアル工事の影響で小田原ICで高速を下りると地獄渋滞に巻き込まれてしまったものの、午後2時過ぎにはイタリアのアマルフィ海岸を彷彿とさせる熱海市の中心部に差し掛かった。

熱海市街から少し離れた山の中腹部に位置する熱海駅からほど近い場所に伊豆山が鎮座している。伊豆山は、走るが如き温泉が湧き出し海に注いでいたので走湯山とも呼ばれていた。伊豆山神社は、古来、伊豆大権現、走湯大権現として歴代鎌倉将軍の庇護により隆盛を極め、関八州総鎮護として崇められてきたという。

熱海湾を見下ろし、境内に入る前に手指を消毒するために手水舎に立ち寄るといきなり大晦日のNHKの使者ではないかと見まがうほどの紅白の龍に出迎えられた。紅白ではなく、赤白二龍は御祭神 天忍穂耳尊の随神であり、赤は火を表し、白は水を表す、火と水の力でお湯(温泉)を生み出す温泉の守護神としてこの地を取り仕切っている。

今回いざ鎌倉詣でに先立ち、伊豆山神社に参拝した理由はここがいいくに鎌倉の紀元であるからに他ならない。この地はマサに今から845年前に源頼朝と北条政子が結ばれた聖地であり、彼らの♪秘密にならない二人の秘め事♪の名残が随所に残されている。

頼朝・政子腰掛石という一見すると何の変哲もない背もたれ付きの石が鎮座している。その説明によると、伊豆の蛭ヶ小島に配流されていた頼朝は伊豆山神社を崇敬していた。当時頼朝と政子が恋のから騒ぎをしていたのがこの境内であり、当社で二人は結ばれ、伊豆山の神様の力により鎌倉に幕府を開き篤い崇敬を当社に寄せたとのことであった。

今や恋愛のパワースポットと言っても過言ではない伊豆山であるが、そのパワーは走湯山縁起と吾妻鏡の大磯高麗山より道祖神とともに来た神様の降り立つ光り石にも授けられており、肛門から十分におすそ分けいただくことが出来た。

熱海市立伊豆山郷土資料館(¥180)がこじんまりながらも大河ドラマの威を借りて開業していたので入ってみることにした。写真撮影禁止の館内には鎌倉時代から伝わる貴重な品々が展示されていたのだが、中でも頭髪梵字曼荼羅という北条政子が頼朝の1周忌に自らの髪の毛を除髪してこれを刺繍し、伊豆山権現の法華堂の本尊として阿字一幅を奉納したと言われている曼荼羅のレプリカに♪純情・愛情・過剰に異常♪であったはずの尼将軍の情念を感じるとともに自身のあまちゃんぶりを思い知らされた。

ヤマトナデシコが七変化する様は大河のお決まりのストーリーであるとの認識を新たに帰路に立つ朱色の鳥居をくぐろうとした瞬間に燃えるようなバーニングプロの圧力を感じた。なんとその鳥居の奉納者としてNHKの40周年特番が大反響を呼んだ小泉今日子の名が刻まれていたのだった。

♪あなたに会えてよかった♪という感覚を引きずりながら熱海を後にし、一路本日の宿泊先である「海のある伊豆高原 オーベルジュ ピーコック ヒル」へと急いだ。チェックイン後、早速貸し切り露天風呂(天然温泉)で情念を洗い流すと待望の夕食時間となった。

こだわり素材のフルコースはオマール海老、あわび、渡り蟹、金目鯛等の高級食材を駆使した料理がデーブルを彩り、純情と愛情で煮込まれたはずのビーフシチューがメインを飾っていたのであった。

6月20日(日)
昨夕は雨が降っていたので高原から海を見下ろすことは出来なかったのが、今朝は朝風呂から初島が見渡せるほど晴れ上がっていた。

オーベルジュ ピーコック ヒルを出立する際に玄関脇にある天使の鐘を鳴らしてみた。3回鳴らすと天使が舞い降りるとの説明があるのだが、2回目の打撃が芯に当たらなかったのでエンゼルスの大谷には是非その無念を晴らしてほしいと祈りながら伊豆高原を後にした。

今日も西湘バイパスリニューアル工事の影響でシーサイドの道が大渋滞を起こすことを読み取ったカーナビは鎌倉までの道のりに箱根越えを選択した。その影響で伊豆高原から鎌倉市内までは2時間半もの時間を要したが、正午過ぎに江ノ島電鉄鎌倉高校前駅にほど近い聖テレジア病院のタイムズ駐車場に車を滑り込ませた。

偏差値66を誇る名門「鎌倉高校前」駅の踏切はSLAM DUNK等数々の作品の聖地巡礼スポットとなっており、予習復習をきっちりこなすはずの多くのインスタ映えハンターで賑わっていた。

鎌倉高校前駅のプラットフォームに立つと目の前には江の島が迫っており、波打ち際では稲村ジェーンは期待出来ないとわかっているはずのサーファーたちが波と戯れていた。サーフボードを小脇に抱えた多くのサーファーとすれ違うのだが、1985年9月にリリースされたKAMAKURAの1曲目に収録されている外で遊べないと言われた♪Computer Chridren♪の年代ではないかと思われた。

休日の江ノ島電鉄は都内のラッシュアワーの様相を呈していたのだが、乗車した鎌倉高校前から4駅先までつつがなく移動することが出来た。数多くの乗客が下車した長谷駅は鎌倉大仏と長谷寺の最寄り駅となっており、紫陽花が見ごろを迎えていることもあってか、多くの人の足は長谷寺に向かっていた。

鎌倉長谷寺は正式には海光山慈照院長谷寺と号します。往古より「長谷観音」の名で親しまれる当山は、奈良時代の天平7年(736年)開創を伝え、寺伝に曰く、聖武天皇の御代より勅願所と定められた、鎌倉有数の古刹であります。

なお、観音山のすそのから中腹にかけて広がる境内は、四季を通じて花木が鮮やかな彩りを添え、また、遠く相模湾を見渡すことのできる眺望は、鎌倉随一とも賞されるとのことであり、特に紫陽花の時季には多くの参拝客を集め、コロナの余波を引きずっている今年は有料の鑑賞券の配布で入場制限をかけているため、カムカムエヴリバディとはいかず、昼過ぎにのこのこやってきた輩が目にするものはむなしい当日券受付終了の手慣れた立て看板であったのだが、それにもめげず長谷寺の実態を解明すべく、入山させていただく事にした。

多くのキャッシュレスによる支払いに対応した受付で¥400の拝観料を支払うと、金魚の糞のごとく入場者の背中を追って階段を昇って行った。

階段を昇り切るといきなりアントニオ猪木の必殺技で卍に固められたような戦慄を覚えた。その正体は卍を模った卍池に浮かべられた紫陽花ブルーにより、酷暑の中で体感温度が急激に下がった感覚であったろう。

卍池の紫陽花で背筋をしゃんと伸ばした後、千体地蔵に向き合った。千体地蔵とは、各家の先祖供養や水子の供養のために奉納されるお地蔵さまで、数年おまつりしたお地蔵さまは、浄化供養のお焚き上げをすることにより人数調整が出来るシステムになっている。

観音堂との異名を持つ本堂に祀られているご本尊の十一面観音菩薩像は像高9.18mにも及ぶ本邦最大級の木彫仏である。当山の伝えによれば、721年に大和(奈良県)長谷寺の開山である徳道上人の本願に基づき、2人の仏師により楠の巨大な霊木から二体の観音像が三日三晩にして造顕されたという。そのうちの一体は大和長谷寺の本尊となり、残る一体は海中へ奉じられ、736年に相模国に忽然と姿を顕し、その後鎌倉へ遷座され、当山開創の礎となったという。

ご本尊に対する写真撮影は控えなければならなかったのだが、観音堂に隣接する観音ミュージアム(¥300)は観音菩薩の御心に触れ、そのご利益を体感出来る場所とのことだったので入場してみることにした。

ここでの最大の見どころは観音三十三応現身像であり、様々なポーズや表情をした多くの仏像と面談出来るのであるが、最も私の心を揺さぶったのはあたかも手もみをしているかのようなポーズで赤ら笑顔を浮かべているカーネーション好きのほっしゃん像であった。

思わず「まさかや!」と叫んでしまいそうなほっしゃんのすべらない話に背中を押されてミュージアムを後にすると入場出来ないとわかっていながら「あじさい路」の看板に引き寄せられるように観音山方面に足が進んで行った。

散策路に足を踏み入れることはかなわなかったので「あじさい路」の景色がどれほどすばらしいかは御仏の眼力に委ねるしかなかったのだが、少なくとも日本有数の観光地の旬な時季の一旦は垣間見ることが出来たのであった。

帰りの江ノ島電鉄の吊り広告で藤岡弘から後ろ指をさされてはっと気づいたのだが、NHKに対する依存度の増加はマサに自身が保守的になっている証であり、まだまだ「グレートトラバース」のような冒険を続けていかないと衰退してしまうと胆に銘じながら流れ解散となった。

FTBサマリー
総高速代 ¥3,210
総宿泊費 ¥22,620(2人分、2食付)
総ガソリン代 ¥3,376
総駐車場代 ¥1,980

協力 楽天トラベル、NHK

FTB再起動記念 ミッキー吉野推薦 !? 観桜ゴダイゴツアー

♪そこ~にゆ~けば~♪ (出典:ガンダーラ by ゴダイゴ)
♪A long time ago~♪ (Source:Gandhara by GODIEGO)

ということで、オミクロン禍による蔓延防止法に気を使ってどこにも行く気が起こらず、猫守にうつつを抜かしてトラベラーの本能が失われてしまったかのような低迷期を脱するべく、神聖なひなたの道への帰還を目指してFTBを再起動させる運びとなった。

その第一弾としてキャスティングディレクターとしてにわかに脚光を浴びているはずの奈良橋陽子が多数の楽曲の作詞を手掛けたゴダイゴにゆかりのあるツアーが桜吹雪とともに開催されることとなったのだ。

2022年4月9日(土)
正午発ANA023便、B787-8機は出発の準備に時間を要し、多少の遅れを出したものの満席の乗客をつつがなく大阪伊丹空港まで送り届けてくれた。


早速551蓬莱に駆け込み、豚饅を片手にニッポンレンタカーでワゴンRをレンタルすると、へぎ板(敷き紙のこと)にくっついた饅頭の裏皮を歯でこそぎ落としながら味わい尽くし、いにしえの都方面に向かって車を走らせた。

大仏と満開の桜のマリアージュが楽しめるということでSNSでバズっている壷阪寺の住所をカーナビにセットし、順調に目的地に向かっていたのだが、午後3時過ぎに残り1.3kmという地点で地獄渋滞の最後尾で行く手を阻まれた。30分経過しても300m程しか進まなかったので途中Uターンする何台かの車に倣って回れ右をして壷阪寺観光未遂はゲームオーバーとなった。

気を取り直して、「世界遺産である大峯の山々に抱かれ修験道と共に奈良県の美しい自然と文化が残る村」というキャッチフレーズを誇る天川村を所在地とする本日の宿泊地である洞川(どろがわ)温泉へと急いだ。道中立ち寄った道の駅 吉野路 黒滝で満開の山桜が青い空と緑の木々に映えている光景を見て留飲を下げると夕暮れ前に何とか洞川温泉卿に辿り着き、花あかりの宿 柳屋に投宿した。

源泉かけ流しの単純温泉でシンプルに豚饅の香りをリセットすると、夕食時間の6時45分迄まだ時間があったので温泉街を探索させていただくことにした。


洞川温泉郷は大峯山から発し熊野川の源流ともなっている山上川のほとり、標高約835m余りの高地に位置する山里で、その冷涼な気候から関西の軽井沢とも呼ばれるところである。どことなくなつかしく、昭和の時代にタイムスリップした雰囲気を漂わせるまちなみには、旅館・民宿が20数軒、そのほかに土産物店や古来の生薬・胃腸薬である陀羅尼助丸を製造販売する店13軒や各種の商店が軒を連ねている。

温泉街の外れにある真言宗醍醐派大本山大峯山龍泉寺に湛えられている清らかな水に釣られて軽く参拝させていただくことにした。マサに♪ホーリーアンドブライト♪の世界を体現しているかのような雰囲気の中で私の興味を引いたものが2つあった。一つ目は柔道一直線の主役である一条直也が履いていた仕様のものより明らかに重そうな鉄の下駄なのに盗難防止のためか、ポールに鎖で繋がれていた光景を見にしたことと、2つ目は「なで石」と呼ばれる丸い石で、仕様書によると持ち上げる前になでると軽くなり、叩くと重くなるという万有引力を発見したニュートンに対する果敢なる挑戦であった。

お待ちかねの夕食タイムになった。配膳されているメニューに「ならジビエ」はなかったものの奈良県産の山の幸を中心とした美味で健康的で満足のいくものであった。

4月10日(日)
今回の宿泊先に家族連れはなく、♪今日も子供たちの歌声が世界を♪大きく包むような状況ではなかったので安眠してさわやかな朝を迎えることが出来た。
旅館から撤収する際に宿主から今日の吉野は桜も満開だが人も満開だよと警告されたのだが、1時間後にその実態を思い知ることになった。

近鉄吉野駅を目指してワゴンRを走らせ、桜満開の週末には吉野山にはマイカー規制が敷かれていることは周知の事実であったが、臨時のパークアンドバスライド用の駐車場も午前10時の段階ですべて満車となっており、途方に暮れながら国道169号線のむなしい往復に勤しんでいた。その間に開発したバックアッププランによると終点の吉野駅より数駅前の近鉄駅の近辺に車を乗り捨て電車で吉野山にすべりこむという秘策であった。

近鉄六田駅と越部駅の間にホームセンターのコメリが駐車場を構えていたので買う気もないのに車を止め、便所まで利用させていただいたという罪悪感を引きずりながら越部から電車に乗り、11分後に終点吉野駅に到着した。満員電車から降りて見た光景は全盛期のゴダイゴの武道館ライブに向かうような花見客の大行列であった。

山全体が世界遺産に登録されている吉野山は標高毎に下千本、中千本、上千本、奥千本に区分けされ、桜の時期にはその開花状況が吉野町のホームページでアップデートされる体制が確立されている。

吉野山は全国的に桜の名所としてその名をとどろかせており、4月上旬~中旬にかけて3万本ともいわれるシロヤマザクラが世界中の観光客をおびき寄せている。日本全国の多くの桜の名所では、近代になってから桜並木を整備したり、古くからある古木を大切に 保護したり、いわゆる「花見」のために桜を植栽・管理しているのだが、吉野の桜はそれらのものと は一線を画し、「花見」のためではなく、山岳宗教と密接に結びついた信仰の桜として現在まで大切に保護されてきたのだ。

今日の花見客の行動は散り始めになっている下千本をスルーして満開になっている中千本にいち早く到着するために右往左往していた。中千本到達のためにはケーブルカーという名を借りたロープウエイに乗っていくのが最速のコースであるが、案の定乗り場には長蛇の列が出来ていたため、ケーブルカーの底面の「ようおこし」を見上げながら、急な遊歩道を駆け上がっていった。

中千本では土産物屋や飲食店で民衆がごった返していたのだが、桜吹雪舞う喫茶店で水分を補い、グリコ・森永事件で迷宮入りとなったはずのキツネ目の男が焼き栗をかき回しているのを尻目にやみくもに山の奥地に向かって行った。

ミッキー吉野という太ったリーダーがゴダイゴと命名し、その名をかたることで日の目を見ることとなったはずの後醍醐天皇の墓参りと♪ビューティフル・ネーム♪等の合唱(合掌)が今日ここにやってきた本来の目的であったので道標を頼りに向かうべき方向へと進んでいるはずであった。

しかし、山腹をピンクに染める壮大な景色に目を奪われているうちに、大和吉野で南朝政権を樹立し、室町幕府が擁立した北朝と争い、ついには吉野で崩御した後醍醐天皇陵に辿り着くことはかなわなかったのだった。

ゴダイゴが音楽プロデュースした1978年のテレビドラマ「西遊記」でも結局天竺に辿り着けなかったという落ちであったため、翌年の「西遊記II」への持ち越しとなったのだが、FTBにおいても当然吉野のリターンマッチは企画されることであろう。その時には猪八戒役が西田敏行から左とん平に変わったような大きなインパクトが与えられるはずだと負け惜しみながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ただ(すべてスカイコイン使用)
総レンタカー代 ¥9,460
総高速代 ¥4,040
総ガソリン代 ¥3,569
総近鉄代 ¥560
総宿泊費 ¥27,960

協力 ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、近畿日本鉄道、コメリハードアンドグリーン大淀店