FTB Last Ichiro in Seattle

2019年3月21日、46,451人の大観衆を呑み込んだ東京ドームは途中から異様な雰囲気に変わった。日本が誇るサムライメジャーリーガーのイチローが今日の試合をもって引退するという記事がネットで流れると球場内はにわかにざわつき始め、92,902個の目はイチローの一挙手一投足に釘付けとなった。やがて試合が終わり、選手たちがベンチ裏に引き上げた後も多くの観客が場内に残り、誰もがイチローが再びファンの前に姿を見せるであろうことを疑っていなかった。

感動の東京ドームセレモニーから6ヶ月の月日が流れ、マリナーズはアメリカン・リーグ西地区の最下位を独走し、イチローの思い描くマリナーズの復活とはならなかったが、Ichiroの長年の貢献に敬意を示すためにシアトルでIchiro Celebration Nightなるイベントが開催されることとなった。

FTBではIchiroがメジャーデビューした2001年以来その活躍を現地で見守ってきたのだが、今回最後のお披露目ということで急遽飛行機を飛ばしてシアトルまで弾丸ライナーツアーを敢行することとなった。

2019年9月13日(金)
今回のツアーでは東京ドームホテルでのイチロー会見から一夜明けた3月22日にイチローと弓子夫人を乗せたANA運行の成田→シアトル直行便(搭乗ゲートはANAの粋な計らいで51とされた)は使わずに21:55発NH116便羽田発バンクーバー行きに乗り込むと約8時間のフライトでバンクーバーに到着後、ワンバウンドではあるが、Air Canada運行のAC8093便プロペラ機に乗り換えてイチロ、シアトルに向かった。中秋のように肌寒いシアトルに20時前に到着すると空港に隣接されているCrowne Plaza Seattle Airportホテルにチェックインし、今晩の試合でマリナーズの投手陣を背負って立つはずの菊池雄星がノックアウトされた事実に愕然としながら床につくこととなってしまった。

9月14日(土)
正午前にホテルを出て目の前を走るT-LinkというLight Railでシアトルのダウンタウンに向かった。思えばFTBが初めてシアトルを訪れたのは1998年の7月で当時ニューヨーク・ヤンキースのエースであった故伊良部秀輝氏の快投を目の当たりにするために留学先のサンフランシスコからわざわざやって来たのだった。当時の球場The King Domeは密閉式ドーム球場で傾斜の急なアッパーデッキにへばり付いて伊良部が三振を取るたびに大きな声援を送っていたのが昨日のことのように思い出される。

ダウンタウン到着後、お約束のPike Place Marketで生鮮魚を見て気持ちを落ち着かせ、その足で長躯ダウンタウン南のT-MOBILE PARKに向かった。球場前のカフェで遅い昼食を取りながら、開門前のゲートに集まるファンの群れ具合を観察し、いい具合を見計らってHome Plate側のGateに回り込み、Ken Griffy JR.の銅像に拍手を打ち、行列の一部となった。

午後4時過ぎに待望の開門となり、先着2万名に配られるIchiro首振り人形を手にしたファンは宝物を抱えるようにして球場内に入っていった。首振り人形は今春の東京ドームでのイチローのファンへの別れをモチーフにしているのだが、白髪が目立つ本人の写真とは異なり、人形の方の短髪は黒く染められていたのであった。

5時45分開始のセレモニーまで時間を持て余していたので球場内スタンドの裏側をじっくりと見て回ることにした。チームの歴史を伝えるコーナーでは数多くのIchiroのBaseball Gearが展示され、ミズノやアシックスの宣伝に一役買っている。

自分の席に戻り、ライトスタンド方面に目を向けると筋金入りIchiroファンであるエイミーさん手作りのICHI-METERが最後のお勤めを果たすようにフルラインアップで展示されていた。

国歌斉唱が終わるとマウンドの前に重役用の椅子が並べられ、スーツ姿のマリナーズの役員の面々とScott Servais監督を先頭にユニフォーム組が続々と姿を現し整列した。バックスクリーン後方の巨大モニターにはIchiroのマリナーズ入団以来の活躍がダイジェスト版となって映し出されていた。2001年にIchiroがMLBという未知の世界に足を踏み入れた時にはメジャーで成績を残すことに関しては疑いを持たなかったが、それ以上にメジャーのスーパースター達をギャフンと言わせるほどのセンセーションが見たかった。それが現実となり、期待以上のパフォーマンスで引退までひた走った姿はちっぽけな国の国民栄誉賞程度では到底報いきれないものであろう。

シーズン終盤の消化試合ということもあり、全席Sold outというわけにはいかなかったが、Last Ichiroの勇姿を目に焼き付けておきたい日米の熱狂的ファンがIchiroフロントのLower Levelの内野席をすし詰め状態にしていた。ちなみにこの日の観客数は26,063であった。

大歓声とともに姿を現したIchiroはお馴染みの背番号51番のユニフォームを身にまとっており、球団関係者および来賓であるマリナーズのレジェンド、Ken Griffy Jr., Edgar Martinezと握手を交わしていた。やがてIchiroの名も彼らと並び称されるべく、この球場に永久に刻みつけられることが約束されているのだ。

固唾を呑んで見守る大観衆の前でFranchise Achievement Awardを受賞したIchiroの挨拶の時間となった。異様な雰囲気の中で脳内が白化し、話の内容が飛ばないように配慮したIchiroは事前準備していた原稿を前にして流暢な英語でシアトルおよび日米のファンへの感謝の意を表してくれた。

Ichiroの挨拶終了後はバタバタと記念写真撮影に移行し、その後ファンに惜しまれつつグラウンドを後にした。

ほどなくしておまけの試合が始まったのだが、今日はマリナーズのKingであるFelix Hernandezの登板日ということで所定のエリアに席を取っている観客は無償で配布される黄色いTシャツを着てしきりに黄色い声を上げていた。私服に着替えたIchiroも弓子夫人と一緒にスタンドに陣取り試合の行く末を見守っていたのだが、Ichiroの面子を潰さないように奮起したマリナーズは延長戦でサヨナラ勝ちを収め、お別れのメッセージに変えていたようであった。

9月15日(日)
Ichiroイベント週末の最終日である今日の試合は午後1時15分開始であり、本日の催しはIchiro Replica Jersey T-Shirt Dayと称し、先着1万5千人にTシャツが配られるということなので開門直前に球場に駆けつけた。今日はIchiroのお披露目はなしということで昨日ほどの行列ではなかったのだが、最終的には17,091人の観客で客席の約35%が埋め尽くされた。

場内に入場し、Tシャツを受け取ると早速どんなものか確認すべく広げて見るとそれはマサにユンケルの野望が刻まれたシャツだったのだ!ICHIROの名前の上にはスポンサーのSATOのロゴが目立つように配置され、一見すると鈴木一朗が佐藤一朗に成り代わったような印象さえ与える代物となっていた。この状況に納得できない私はすぐにチームショップに駆け込み、IchiroのTシャツを買いあさって溜飲を下げることにしたのだが、この反応もすべてSATOとマリナーズがグルになって仕組んだ陰謀の結果なのであろうかとさえ思われた。

グラウンドでは試合前にラテン系の民族衣装を着た踊り子によるダンスが繰り広げられ、試合の方は昨日に引き続きマリナーズがサヨナラ勝ちを収め、その瞬間は最高の盛り上がりとなった。佐藤製薬との競演を果たし、永久欠番が約束されたマリナーズの51番はIchiroとともに208cmの長身左腕ビッグユニットであるRandy Johnsonとの連名になるはずであろうが、Randy SATO Johnsonに成り下がることは避けられるであろうかと考えながらT-MOBILE PARKを後にした。

Ichiro引退後はシアトルに来る機会はなくなるかも知れないという郷愁の思いから、今日もPike Place Marketに足が向かった。栄光のスターバックス1号店でパイクプレースローストでも買って帰ろうかと思ったが、やはり帰国してから買うことにした。International Districtやスタジアム周辺はSODO(South of Downtown)と呼ばれている地区で相変わらずホームレスが多く、怪しげな雰囲気が醸し出されている。シアトルがお膝元となっているMicrosoft, F5 Networks, amazon.com, T-MobileとITやAI化が進み、Downtown北部は近代化が加速している一方で増加する失業者はレトロな雰囲気のSODOに押しやられ、ストリートライフを余儀なくさせられているという光と影を感じながらLast Ichiroシリーズは幕を閉じたのだった。

9月16日(月)
11:25発AC8092便でシアトルからバンクーバーに向かう空路は概ね晴天でシアトルがエメラルドシティと言われている所以を噛み締めながら別れを告げた。NH115便は定刻16:25に出発となり、一路羽田空港へと向かっていった。

9月17日(火)
飛行機が着陸態勢に入ると折りからの曇り空は虹色に変わった。Ichiroが今後、元カタカナのイチローと呼ばれるようになっても日米の架け橋として日本人メジャーリーガーのレジェンドとなった功績は決して忘れ去られることはないと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥145,360
総宿泊費 $477.24
総T-Link代 $12

協力 ANA、Air Canada、IHG

究極のリゾート「セイシェルの夕陽」ツアー

1983年6月にリリースされた松田聖子のアルバム「ユートピア」に収録されている「セイシェルの夕陽」を聴いて以来、いつかはこの地で夕陽を拝まなければならないと考え続けてきたのだが、30年以上の歳月を経てついに念願のセイシェルツアーが敢行されることになったのだ。

9月1日(月)
10:05成田発NH909便香港行きに乗り込み、4時間超のフライト中ほとんどの時間を機内プログラムで放映されている半沢直樹に見入りながら倍返しのノウハウを身に着けようとしているうちに猛暑の香港に到着した。香港市内で数時間をやり過ごした後、air seychellesが運行する19:10発HM87便に搭乗すると7時間以上のフライトで深夜でも酷暑のアブダビに着陸した。

9月2日(火)
アブダビ空港でしばし免税品店のウインドウショッピングを楽しんだ後、午前2時に同じ飛行機に乗り、さらに4時間以上のフライトでセイシェルのマヘ空港に到着したのは夜も明けた午前7時過ぎであったろう。空港で客待ちをしているタクシーと交渉してEUR45の支払いで車に乗り込むと迫りくる花崗岩を樹木でコーティングした山々と透き通る海のコントラストを横目に今回のツアーの最初の宿泊地であるHilton Seychelles Northholme Resort & Spaに向かった。

インド洋に110以上の島を散りばめたセイシェル諸島で最大のマヘ島の北部に造成されたヒルトンリゾートの客室はすべて木造のヴィラになっており、金持ち観光客が遠慮なく札ビラを切れるように多くの諸施設が充実しているのだ。

早朝の到着にもかかわらず、景観のすばらしいレストランで朝食をご馳走になった後、すぐ部屋に案内されるほどのホスピタリティを発揮したヒルトン従業員がオーシャンビューのヴィラのドアを開け放つとそこに広がっていたのはマサにユートピアと言っても過言ではないほどのすばらしい居住空間であった。とりあえず備え付けのジャグジーで身を清めると「ゆーとぴあ」直伝のゴムパッチンに興じる暇もなく、ヒルトンを飛び出して町に繰り出してみることにした。

マヘ島随一と言われる北岸のボー・バロン・ビーチの眩いほどの白砂で目慣らしをすると島内をくまなく運行する路線バス(SCR5)に乗車してセイシェルの首都であるビクトリアを目指した。インドの財閥タタ・モーターズの青バスであふれかえったバスターミナルで下車すると人口9万人を誇るインド洋の島国の中枢を垣間見ることにした。日本人旅行客は少ないセイシェルであるが、そこには松下幸之助の精神が今も息づく明るいナショナルの看板も掲げられており、首都といっても素朴な雰囲気に包まれていたのだ。

イギリスの統治時代の1903年にビッグ・ベンを模倣して造られた町のシンボルである時計塔で時間を確認すると庶民の食生活の鏡であるサー・セルウィン・クラーク・マーケットを覗いてみることにした。さすがに昼下がりの市場はすでに活気を失っており、売れ残った淋しい熱帯魚がウインクする代わりにむなしく口を開けて横たわっているだけであった。

ヒルトンに戻り、西向きの部屋のバルコニーから夕陽が沈むのを待ち構えていたのだが、昼過ぎから西の空は雲に覆われ、絶景を目にするのは翌日以降に持ち越しになってしまったのだ。

9月3日(水)
マサよ、君は真っ赤なインクを海に流しているような美しい夕焼けを目に焼き付けたことがあるか!?

ということで、セイシェルの高級ホテルではその敷地内でリゾートを完結することができるので、今日はヒルトンでセレブ気分を擬似体験させていただくことにした。まずは日本円で5000円以上はするシャンペン付の高級朝食ビュッフェで養分を吸収したのだが、この料金の半分以上はレストランからの眺望代と言っても過言ではないほどのエメラルドグリーンの海とさわやかな風と鳥の声を聞きながら優雅な雰囲気を味わった。

食後にプライベートビーチに繰り出し、無料で貸し出しているスノーケリングセットで海中探索をした後、プールで体の表面の塩分を抜きながら午後からのセレブ体験に備えていた。尚、セイシェルは年間を通して気温が25℃くらいなので紫外線さえケアーすれば長時間外に滞在しても苦にならないのである。

パリス・ヒルトンのような高級セレブがリゾートに行くと必ず受けるはずのSPAのトリートメントをあらかじめ予約しておいたので昼下がりにDUNIYE SPAでヒーリング効果を高めることにした。肉体にどす緑色の海洋的泥物体をなすりつけられ、ビニールに出し巻き状にされると暖かさと清涼感が交互に現れるような不思議な感覚に包まれ、その後手のひらでプレッシャーをかけられると体の奥底に眠っていた精気がみるみるとよみがえってくる感覚を覚えたのだ。

昨日とは打って変わって雲の少ない西の空がみるみるうちにたそがれ色に染まっていった。松田聖子や作詞家の松本隆も見たことがあるはずの世界のどんな場所で見るよりも美しい夕焼けを実際に目の当たりにしながら30年来の郷愁を存分に味わうことに成功したのだった。

9月4日(木)
2泊の滞在で高級リゾートのお作法を身に着けるために散財したヒルトンをチェックアウトするとタクシーで空港に移動し、12:30発HM3124便でセイシェルで2番目に大きな島であるプララン島に向かった。リゾート観光客を乗せた19人乗りのプロペラ機がマヘ空港を飛び立つと15分ほどで美しいラグーンに面したのどかな空港に着陸した。空港でタクシー運転手に捕まったのでそのまま車に乗り込み、この島での宿泊地となっているVillage du Pecheurを目指した。

このホテルはヒルトンほどではないが、マヘ島よりものどかな雰囲気のプララン島にマッチしており、目の前のアンス・ヴォルベールのビーチは象牙色の砂とエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていたのであった。

プララン島もマヘ島と同様に路線バス網が発達しているので、坂道を登るパワー不足が露呈しているバスに乗ってあてもなく流れてみることにした。なぜか再び空港に戻ってきたので近辺のビーチと黒真珠を養殖しているファシリティを遠巻きに眺めた後、アンス・ヴォルベールのビーチに舞い戻ってきた。

近辺の砂地にはクリームコロッケの材料に最適なはずの赤蟹が無数の穴をこじ開けており、スーパーマーケットの前にはパンくず待ちのカラフルなすずめ系の鳥が餌の取り合いに勤しんでいたのだった。

9月5日(金)
早朝朝日を浴びながら、藁の屋根のバンガローを横目に長いビーチを裸足で走ってトレーニングをかました後、バスに乗って神秘的であやしいヤシの木が生い茂っている国立公園を訪問し、ジャングルに踏み込むことにした。

世界遺産に登録されているヴァレ・ド・メ国立公園(SCR360)は伝説の果実ココ・ド・メールで有名なヴァレ・ド・メの森で構成されている。ココ・ド・メールとは昔昔インド洋の国々に流れ着いていた双子ヤシの実のことである。ココ・ド・メールは殻が取れると女性の腰の形をした実が現れるのだが、この植物の木には雌株と雄株があり、臀部の形をした実がなっているほうが雌株で雄株の花房は細長い棒状になっている。そのため、昔から女性と男性のシンボルとしてさまざまな神話のネタになっていたのだが、なるほど臀部にはケツ毛までも生えているほどの念の入れようなのである。

国立公園内にはいくつかのトレイルが形成されており、一歩足を踏み入れると太古の昔にタイムスリップしたかのようにヤシの巨木と巨大な葉っぱに圧倒されるのだ。

ココ・ド・メールは成長過程が非常に遅く、発芽してから実をつけ始め、その実が大きくなるまでには15~40年かかり、寿命は200~400年程度と言われているが、長いものでは樹齢800年を越すものも確認されているのだ。

ココ・ド・メールがなる森に入り、ここでメールを打つことが難しいと考えたのでヴァレ・ド・メ国立公園から撤退してバスで島の北西に位置するアンス・ラジオという美しいビーチに向かった。浜辺でSeyBrewという地ビールを飲みながらクレオール料理に舌鼓を打っていたのだが、ラジオからのミュージックの変わりにハエが飛び交うブーン音が響いてきたので早めに食事を切り上げて周囲を散策しているとココ・ド・メールよりもふた周りほど大きい楕円形の物体が目に飛び込んできた。

近づいてよく見るとそれは浦島太郎を搬送できるほどの巨大なリクガメであり、やつらは自力で餌を食べることができるにもかかわらず、観光客が差し出す葉っぱをしきりに求めていたのであった。

9月6日(土)
リゾートホテルにもかかわらず午前10時にチェックアウトさせられたのでしばらくホテルやビーチ近辺を散策していると大型ホテルの広場で何がしかのフェスティバル系の催し物の準備が着々と進んでいるようだったので冷やかしに覗いてみることにした。会場には歌謡ショーが行われそうなステージやフラワーアレンジメント、ココナッツジュースのスタンド等があったのだが、とあるテントではココ・ド・メールの直売まで行われていたのだった。

プララン島を後にすべく空港からHM3131便で飛び立った。マヘ島の上空近辺ではエデン・アイランドと呼ばれる高級住宅島を埋め尽くす赤い屋根が見受けられ、ヨーロッパの金持ちがこぞってプライベートリゾートに訪れる様が目に浮かぶようだった。

マヘ空港に着くとタクシー往復よりも安上がりであるはずのSixTレンタカーでKIAの小型車をレンタルすると島の南部に位置する今日の宿泊地であるDoubleTree Resort & Spa by Hilton Hotel Seychelles – Allamandaに向かった。当ホテルはヒルトン本家ほどの規模感はないものの、ビーチに面した部屋のベランダにはお湯の出が良くないジャグジーが据え付けられており、階下のプールと相まって十分なリゾート気分を満喫するに足るファシリティを誇っているのである。

9月7日(日)
東向きの窓から差し込む朝日で目覚めると昨日よりも海の透明度が増していたので朝からビーチを散策することにした。

この近辺のビーチは砂地と岩礁がミックスされているので絶好のスノーケリングエリアになっており、原住民が魚を捕まえようと躍起になっている様子も見受けられるのだが、海底の石にはウニ系黒いとげ物体も付着
しているのだ。

セイシェルを出るまでにしばらく時間があったのでマヘ島の南部から西部を車で流してみることにした。マヘ島には900m以上の山もあり、高台からの眺望もすばらしく、さわやかに吹き抜ける風を利用した風力発電所やエデン・アイランドの様子も遠巻きに眺めることが出来るのだ。

6日間の滞在で十分にリゾートの極意を身につけることが出来たので、15:55発HM86便で行きと同じくアブダビ経由で香港への帰路へとつくことになった。

9月8日(月)
午前10時前に香港に到着すると香港観光にうつつを抜かす体力も残っていなかったので14:30発NH1172便にて羽田まで羽を伸ばし、半沢の倍返しが10倍返しにアップグレードされた回を見ながら流れ解散となった。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \80,850, air seychelles = EUR733.87
総宿泊費 SCR12,577.17 (SCR1 = \8.5), \51,796
総タクシー代 EUR45, SCR1,400
総バス代 SCR 45
総レンタカー代 EUR47.25
総ガソリン代 SCR441

協力 ANA, air seychelles, HiltonHhonors, agoda, SixT rent a car

FTBスペシャル エチオピアの山間の片田舎に第2のエルサレムは実在した!!

4世紀から綿々と続くキリスト教の優等国エチオピアに第2のエルサレムが存在するという。貧困というイメージにとらわれがちなエチオピアは実は想像を超える精神世界に支えられており、その宗教的偉業をこの目で確かめるために今回は久しぶりに東アフリカの大地に戻ってくることとなったのだ。

2012年4月17日(火)

4月に更新されたアップグレードポイントを使ってビジネスクラスへの成り上がりを果たしたNH209便は定刻11:25に成田を出発し、約12時間のフライトで午後4時半過ぎにフランクフルト国際空港に到着した。そそくさとドイツへ入国したのも束の間でエチオピア航空が運航する22:05発ET707便に乗り込むと3列席に寝転がって機内で7時間の夜を過ごすこととなった。

4月18日(水)

ET707便は定刻通り午前6時過ぎにエチオピアの首都アディスアベバ国際空港に到着したのだが、すぐさまArrival ViSAを求める長い列に並ばなければならなかった。約1時間で無事に観光VISAを入手し、晴れてエチオピアへの入国を成し遂げると手持ちの50ユーロを現地通貨のブルに両替すべく両替所で手続きをすると1135ブルもの大金を渡されたため、思わずブルってしまった。

空港のビルを出て市街地への交通手段を物色していると黄色や青の車体のタクシーを尻目に安そうなミニバスが走り回っていたのでアディスアベバの銀座と言われるピアッサに行く便に乗り込みエチオピア人と一緒に空港を後にした。多少ボラれているのは確実であるが、ボラれるのが気にならないほど安いミニバスがピアッサに到着すると、そこには銀座と呼ぶには気が引けるほどの混沌の世界が広がっていた。

排気ガスと埃と小便臭が漂う目抜き通りには路上就寝者が散見され、主要産業であるはずの靴磨きや物乞いからひっきりなしに手が差し伸べられる状況にインドやバングラデシュに匹敵するカルチャーショックを覚えたのだが、2300mを超える高地ではまとわりつくような暑さを感じなかったため、気が付くとすんなり現地に溶け込んでしまっていた。

ピアッサの上空にそびえるメネリクII世像の背後に聖ギオルギス教会が鎮座していたので敷地を歩いていると原住民が近づいて来てチケット売り場のご案内等の話を始めたので用心のため、その場を退散することにした。

高台にある聖ギオルギス教会の敷地を出て道を下っているとスカッと爽やかとは思えない巨大なコカコーラの廃れたキオスクに遭遇した。建設中の中層ビルの足場は木材で組まれており、その下をロバ使いに忠誠を誓っているはずのロバの集団が整然と歩いていた。チャーチル通りという目抜き通りを下っていると何故か事故車の展示会場のような催し物が目に付いたのだが、これはとある保険会社の恐怖広告であることが確認された。

国立劇場そばの変な形のライオン像を一瞥し、さらに歩いているとバスターミナルを併設したラガール駅に到着した。駅構内は閑散としており、のどかな線路周辺の景色は滅多に列車がやってこない事実を如実に物語っていた。

格安ホテル予約agodaでエチオピアのホテルを物色した際にアディスアベバのヒル・シェラトンといった高級ホテルしかヒットしなかったので今回はANAのマイルキャンペーンもやっているHotels.comで☆☆☆のダム・ホテルを予約していたのだが、表示された地図が実際の場所とは異なっていたのでしばらく町中を彷徨う羽目に陥ってしまった。町中でヤギを放牧しているおじさんに聞くとタクシーで行けと言われたのだが、方向感覚がかなり醸成されてきたので引き続き歩を進めることにした。昼過ぎに何とかダム・ホテルを探し当てることが出来たので近くのスーパーマーケットで買ったビールを痛飲するとダムの底を目指すように一気に眠りに落ちてしまった。

4月19日(木)

目覚ましを早朝4時半にセットしていたにもかかわらず4時前に覚醒すると昨夜は姿を現さなかった無線LANのアンテナ表示がかろうじて1本立っていたのでネットで所用を済ませると5時前にフロントギャルをたたき起こしてチェックアウトの手続きをしていただいた。空港までタクシーの手配をしなければならないのだが、電話が繋がらないようで「何で昨日のうちに言ってくれないのよ」という不満を聞き流しているうちに門番のおじさんが首尾よくタクシーを調達してきた。

空港のセキュリティは厳重で搭乗者であろうとも検問で身分証明書と航空券の情報を提示しないと空港ビルにさえ入れない仕組みになっていた。ET124便は定刻7:00にアディスアベバ空港を離陸すると、バスでは約2日かかるところをわずか1時間のフライトでエチオピア第3の町であるゴンダールに到着した。空港からゴンダールの町まではそんなに距離はないだろうと高をくくって歩き始めたのは良いのだが、道行くタクシーからゴンダールまでは24kmあるぜ!と忠告を受けたため、近隣の町でミニバスを拾うことにした。

1636年にファシリデス王によってエチオピアの首都と定められてから1864年までの2世紀にわたって首都であったゴンダールに到着したのは10時を回った頃であったろうか?早速最大の見所であり世界文化遺産に登録されているゴンダール城(100B)の見学になだれこむこととなった。

ゴンダール城内には標高2300mのファシルケビの丘に建てられた6つの城と12ヶ所の城門が残されており、アフリカのような文明とは程遠い地域に中世ヨーロッパと紛う城塞があったため、後世になって「不思議の城」と呼ばれるようになったという。城はポルトガル・フランス様式を取り入れた建築で、はっきりとはしていないが、インドの建築家により建造されたとも言われている。

ゴンダール王朝を治めた王たちは開祖のファシリデス王を始め、ヨハンネスI世、イヤスI世、ダーウィットIII世等、何世代かに渡るのだが、それぞれの王は先代の宮殿を使用することはなく、自分の趣味に合わせた施設や宮殿を建設したためにこの地に多くの城が残されているのだ。

尚、1941年にゴンダール城を占拠していたイタリア軍を追い出すためにイギリス軍が爆弾を落としやがったためにほとんどの城は廃墟となったのだが、4つの丸い塔が印象的なファシリデス王の城だけは無傷で原型をとどめているのである。

正午を回ったところでゴンダール城の見学を切り上げるとHotels.comの検索にもヒットしなかったゴンダールのホテルを物色するために町中を練り歩くこととなった。この町にはミニバスの他に三輪車のトクトクも走り回っており、何となくアジアの風情も感じさせられるのだが、みすぼらし系の制服を着た小学生は皆元気な笑顔にあふれていた。

結局ゴンダール城の近くのLODGE DU CHATEAUが何となく雰囲気が良さげだったので$35を支払ってしけ込むことにした。当宿の中庭の木にはカラフルな鳥たちが代わる代わる姿を現し、そのさえずりに癒されながら午後のひと時を過ごさせていただいた。

体力も回復したところでゴンダールにある44の聖堂のうち、1800年代の南スーダンからのイスラム勢力との争いにも屈せず唯一残ったオリジナルの教会であるダブラ・ブラハン・セラシエ教会(50B)に礼拝に行くことにした。17世紀、イヤス王により建立されたエチオピアで最も有名なこの教会の外観は質素であるが、聖堂の上の十字架はゴンダールの十字架と呼ばれている由緒正しいものである。

教会内部全面を彩る壁画はオリジナルの色彩のまま残っており、天井に無数に描かれたエチオピアの天使は目が大きく顔の横に羽が生えている。体がない理由はこの天使が聖ヨハネの象徴であるからだ。イエスに洗礼を受けた聖ヨハネであったが、美しい娘サロメが養父ヘロデ王に踊りの報酬として聖ヨハネの首を願い、ヘロデ王はヨハネの首を切りやがったのだが、聖ヨハネは首を切られてもなお50日間の間、首だけで飛んで伝道活動をしたという逸話からエチオピアの天使は顔の横に羽を持っているのだ。

エチオピアの天使に見送られてダブラ・ブラハン・セラシエ教会を後にすると夕飯時が迫っていたので、ゴンダールでは高級の部類に入るはずのFour Sistersというレストランで空腹を満たすことにした。とりあえずビールとエチオピアの郷土料理を発注したのだが、付け合せのパンの色が使い古しの雑巾色であまりにも酸っぱかったので3ロールの内の1ロールしか食することが出来なかった。尚、酢のような酸味は意図的に付けられたものであり、ワッフルのようなパンの食感だけは悪くなかったと言えよう。さらにエチオピア特産のハチミツ酒がサービスで提供されたのだが、これもほろ甘い泡盛のような独特の味だったので完飲には至らなかったのだ。

4月20日(金)

夜も暗いうちからアザーンの轟音で叩き起こされると、目の前の教会からは永遠と続く祈りの声が響き始め、この国の信仰心は半端ではないことを思い知らされるに至ったのである。7時半に宿の2階のテラスでホットハチミツをなすりつけたパンケーキとエチオピアコーヒーの朝食をいただくと軽く朝の散歩と洒落込んだ。

町中は早朝礼拝の名残が残っているものの徐々に活気を見せ始め、牛やヤギも草を求めて路上を練り歩いていた。10時過ぎに宿所属の空港への送迎ワゴンに乗り込むと30分程度でゴンダール空港に到着し、予定の飛行機が早めに出発したために午後1時前には次の目的地に到着する運びとなった。

今回のツアーのハイライトであるラリベラは辺りを高山に囲まれた山村風情の田舎町であるのだが、エチオピアで最初に登録された世界文化遺産である岩窟教会群は4世紀から続くキリスト教国エチオピアのシンボルとして君臨しているのだ。

ラリベラ空港に到着すると、到着口には数々のホテルが長机の上に客引き看板を出しており、私の宿泊予定宿のLAL HotelもFree Shuttleの案内を出しながらも担当者不在の状況であった。そこで隣のホテルの兄ちゃんに問い合わせたところワゴン車に乗せられて無料でLAL Hotelまで送ってもらえるような雰囲気を漂わせながら空港を後にした。ワゴン車では観光客は私だけであとは空港に参集していた原住民が数人乗っていたのだが、兄ちゃんにLAL Hotelはツアー会社による予約なのか飛び込みなのかを聞かれたのですでに予約していると答えたところ、いきなりその車は送迎車からタクシーに変貌を遂げ70Bを払わなければならなくなってしまった。

何はともあれ30分程でホテルに到着すると受付の若者がすぐに「教会に行くのは今日かい?」と質問を投げかけ、さらにガイドを売り込もうとしたので教会巡りは明日の予定だと答えてはぐらかせておいた。とりあえず町の様子を確認するために外に出てみたのだが、町行く原住民から郷ひろみでもない私に対してひっきりなしに「ジャパン!」という声援が浴びせられるのもお約束の一つととらえていた。さらに、私の風貌にジャッキー・チェンの幻影を見出した輩は「俺と戦え!」と挑みかけてくる始末であったが、人々は総じてフレンドリーなのである。

町の頂上に唯一の銀行があったのでそこで手持ちのUS$をいくらかのエチオピアブルに両替してもらい、金銭面の不安を払拭することに成功した。また、エチオピアではエイズの感染者が多いためかHIVに対する注意を促す看板も見受けられた。青少年の娯楽は粗末なボールを使った草サッカーか路上卓球のようであるが、スマッシュを決めたときに発する「サ~!」という掛け声を教えるのは控えておいた。

岩窟教会は一枚岩を堀抜いて作られており、保護のためのブリキの屋根で覆われているため遠目からでも場所を確認することが出来るので、岩盤を登ってラリベラで一番大きい聖救世主教会を見下ろして明日の礼拝の予習とした。教会の傍では敬虔な信者が聖書を熟読しながらひっそりと佇んでいた。

原住民が住む家は教会周辺から郊外まで広く点在しているのだが、教会の頑強さとは裏腹に土レンガや泥壁で塗られたような極めて質素なものであった。また、ユーティリティも蝋燭や薪や雨水等の自然の恵みを存分に活用している様子であったのだった。

4月21日(土)

マサよ、君は巨大な岩さえもくり抜いて次々と教会を造ってしまうエチオピア正教の真髄に恐れ入ったことがあるか!?

ということで、早朝9時前にホテルを出て教会群見学のチケットオフィスで350Bを支払って4日間有効のチケットを入手すると、まずは質素なミュージアムで古い聖書と司祭の衣装、十字架等の展示品を見学させていただいた。ちなみにラリベラの由来であるが、12世紀初頭にアクスムという地からこの場所に遷都したラリベラ王が、当時聖地エルサレムへの道がイスラム教徒に占領されたことにより巡礼が困難になったため、この地に第2のエルサレムを造り上げ、その王の名を取ってラリベラと呼ばれるようになったのだ。

ラリベラの主要な岩窟教会群は第1、第2、第3グループから成るのだが、まずはチケットオフィスに一番近い第1グループの聖救世主教会から巡礼させていただくことにした。長さ33.7m、奥行き23.5m、高さ11.5mとラリベラで一番の大きさを誇る聖救世主教会は、窓に特徴があり、上部の窓はアクスム様式で下方がギリシア様式の十字架様になっている。

靴を脱いで内部に入ると絨毯越しに岩のゴツゴツ感が感じられ、暗い中で聖書を読み耽っている聖職者と中に飾られている宗教画を見ていると何人も犯すことが出来ない神聖な雰囲気がひしひしと伝わってくるのである。

狭い岩穴通路を抜けると町の信仰を集めている聖マリア教会が出現した。教会の脇には洗礼をするために使う水を貯める穴があり、片隅には観光巡礼者に十字架を売りつけようと隙を窺っている児童が目を光らせていた。

聖マリア教会を退出し、高台から観光巡礼者の集団を見送りながら第1グループ教会群の狭い通路を下っていった。数ある扉や岩窟の前では相変わらず聖職者がはべっており、彼らは観光客が通るのを気にする様子もなくお祈りや聖書の熟読に勤しんでいた。

今日は土曜日ということで、広場に町中の人が参集し、農産物や衣類、日用品等を取引するサタデー・マーケットが開催されていた。広場は大量の原住民が広げる産物でマサに足の踏み場を見つけるのも難しい程の盛況でエチオピア正教とは一味違うラリベラの一面を垣間見ることが出来た。

マーケットに程近い小道を下り、宗教画を展示販売している小屋を過ぎると崖っぷちに参集している人々の向こうに巨大な石の十字架が姿を現した。岩窟教会群第3グループ唯一の教会である聖ギオルギス教会にまつわる伝説は、ラリベラ教会群建設が終盤にさしかかっていた頃、白馬にまたがり戦いの鎧に身を包んだ聖ギオルギスがラリベラ王に望んで「私の教会はどこだろうか」と尋ねたところ、ラリベラ王は彼に最も美しい教会を建立することを約束したといわれている。

岩盤に掘られている狭い通路を通って高さ12m、奥行き12m、幅12mの正十字形の教会の入口に辿り着き、別名「ノアの方舟」と言われる聖ギオルギス教会の威厳ある外観を息を呑んで見上げていた。教会内部は柱がない彫り貫き状態となっており、常駐している司祭は手にしている十字架の角が教会のどの角に相当しているのかを説明し、積極的に写真撮影にも応じてくれたのだった。

残る第2グループの教会群を見学するために再び坂を登り、聖ガブリエル・聖ラファエル教会の入口に辿り着いたのだが、扉が閉ざされていたため、岩盤の上を歩き回って聖エマニュエル教会を見下ろす位置まで移動した。この教会は第2グループの中では最も美しいと言われており、上から見ると岩を掘り抜いて造られたのだということが良くわかるのだ。

正午になると教会群が一旦しまってしまうのだが、聖エマニュエル教会も団体巡礼者の記念写真の撮影を持って扉を閉ざしてしまった。ホテルに戻る道すがらではサタデーマーケットでの戦利品を携えた原住民が意気揚々と帰路に着いていた。

午後2時くらいまでホテルで休憩した後、再び第2グループに戻ると聖ガブリエル・聖ラファエル教会の扉が開いていたので遠慮なく入会し、中に飾られている宗教画をじっくり見学させていただいた。

長さ20mほどの長く暗いトンネルを懐中電灯の明かりを頼りに慎重に歩き、地上に這い出ると聖マルコリオス教会に到着した。内部をちら見して下に続く階段を下りると目の前に午前中に見下ろした聖エマニュエル教会が立ちはだかっていた。

靴を脱いで聖エマニュエル教会の中に入り、絨毯に巣食うダニやノミや南京虫に注意を払いながら、神に救いを求めた。尚、教会内部は太陽光がほとんど差し込まず、湿度が高いのでこれらの虫にとっても天国となっているものと思われた。

狭い通路を通って聖アバ・リバノス教会に辿り着いた頃に夕立が激しく降り始めたのでしばらく雨宿りをしなければならなかった。教会内部は大勢の観光客が占拠していたので中に入れなかったのだが、教会を保護するブリキの屋根のおかげで濡れ鼠になるのを免れた。なるほど、強い日差しや激しい雨から教会の侵食を防ぐためには景観を犠牲にしても屋根が不可欠であることは確かなようであった。

4月22日(日)

日曜日はミサが行われる日であるが、早朝から厳かな雰囲気をたたえた町に繰り出すとおびただしい数の礼拝服をまとったエチオピア正教の信者であふれかえっていた。

聖ギオルギス教会の十字架を取り巻く崖っぷちも白い模様で彩られているように見え、マサに世界的に類を見ない宗教シーンが目の前に広がっているのであった。

信者でない私ごときがミサを見させていただくわけにはいかないと思ったのだが、果敢にも下に下りて教会周辺を歩いていると「ジャパ~ン」という声援も心なしか控えめになっているように感じられた。

聖救世主教会に続く広場ではマイクを使った神父による大々的な説教も行われており、信者の間を縫うようにして聖マリア教会に達するとそこでは何がしかの婚礼の儀が行われているようで独特の盛り上がりを見せていた。

早朝礼拝を終えると午前10時にLAL Hotelを出発する送迎マイクロバスに乗り込み、無償でラリベラ空港まで送っていただいた。正午過ぎに飛び立ったET123便は1時間程度のフライトで大都会アディスアベバに舞い降りた。徒歩およびミニバスでピアッサまで移動し、人ごみの中を歩いているとここでの私に対する声援は「チャイナ!」というものが支配的になっていた。

高台の大通り沿いにあるソランバ・ホテルという多少高級感のあるビジネスホテルにチェックインするとエチオピアに来て初のバスタブに身を沈める欲求を抑えて町に出ることにした。アディスアベバから90km程離れた村にTiyaという一枚岩の墓石群を擁する世界遺産があり、バスで到達可能だということだったので長距離バスターミナルにバスを物色しに行ったのだが、行き先の看板は英語表記ではなく、すべてエチオピアの公用語であるアムハラ語であったのでバスでの小旅行は断念せざるを得なかった。

バスターミナルの向かいにマルカートという東アフリカで最大の規模を誇る大市場が迷宮への入口を開いていたのだが、外国人観光客がガイドなしに紛れ込んだら出て来れないと物の本に書かれてあったので深く侵入することは控えていたのだが、アディスアベバの秋葉原に相当する道端では電子機器を解体して得られた電子部品が青空の下に広げられていたのだった。

エチオピアの宗教はエチオピア正教に代表されるキリスト教だけでなく、イスラム教も大勢力を誇っているのだが、それを証明するかのように巨大なモスクもここかしこでミナレットを天に差し向けていた。

4月23日(月)

エチオピアのホテルでの伝家の宝刀である停電に何度か遭遇したものの、部屋の前の大通りを通る車の毒々しいクラクション音もなかったのでこの国には混沌とした中にも秩序があると思いながら一夜を過ごした。

今日は早朝より国立博物館(10B)に入館してエチオピアの歴史について学習させていただこうと考えていたのだが、2階の美術品と3階の民俗学のコーナーが閉鎖されていたので考古学の分野を中心とした調査に絞らざるを得なかった。ところで、人類発祥の地はアフリカであり、アフリカ人からすると他の民族はすべて子孫であるという位置づけになるのだが、その事実を誇示するかのように人類学のコーナーの展示は充実している。

中でも1974年にエチオピア北部の村で発掘されたアウストラロピテクスのルーシーは320万年前の二足歩行の原人の化石人骨として独立したコーナーで多くの考古学ファンを引き付けていた。

国立博物館ではエチオピア民族の解明には至らなかったので近くにあるアディスアベバ大学メインキャンパスに侵入して内部の民俗学博物館(50B)でリベンジする運びとなった。建物はかつてハイレ・セラシエ皇帝の宮殿であったので皇帝の寝台やトイレ等の生活感も残っている。

展示品はエチオピア各民族の民具や衣装、楽器等多岐に渡っているのだが、コーヒーのルーツであるエチオピアのコーヒーセレモニーという客をもてなすときの代表的な習慣に使われる道具が非常に興味深かった。

宗教画のコーナーではキリストにまつわる様々な出来事が漫画チックに描かれており、ヨーロッパの教会等で見られるフレスコ画の厳かな絵とは一味違った宗教の世界を垣間見せてくれるのだ。

アディスアベバ大学を出学してエチオピアで最も大きい三位一体教会(30B)に参拝することにした。この教会は先のハイレ・セラシエ皇帝により、第2次世界大戦直前の対イタリア戦勝利を記念して1941年に建立された比較的新しいものである。尚、近くに政府の建物があり、そちらの方にカメラを向けるとカメラを没収されるので心技体を集中して余計な物が写りこまないように注意しなければならないのだ。

ソランバ・ホテルに戻り、何気なくベッド横の引き出しを開けるとエイズ対策に力を入れているお国柄のためか、コンドームが2箱入っていた。しかもそのフレーバーはコーヒー味であったので、コーヒー発祥の地としてのプライドがこんなところにも込められている現実にかすかな興奮を覚えてしまった。

4月24日(火)

早朝朝飯も食わずにソランバ・ホテルをチェックアウトし、長い下り坂を下り終えたところでミニバスに乗り込んで空港を目指した。アディスアベバ空港の免税品店で500gのエチオピアコーヒーを$6で購入すると10:00発ET706便に乗り、7時間半もの長時間を機内で過ごしていた。

フランクフルト国際空港に着いたのは午後5時前だったので空港に乗り入れている近距離鉄道に乗り込み、フランクフルト中央駅へ向かった。駅前にあるダ・ヴィンチをモチーフにしたホテル・レオナルドにチェックインすると近くの台湾料理屋でドイツ・ビールと日本食も含むビュッフェで満腹感を味わった後、早めに就寝させていただいた。

4月25日(水)

11:55発NH209便の機材はANAとボーイングが共同開発し、通常ではありえない3年遅れで納品となったB787-8機であった。B767の後継機となるはずの中型機である同機のエコノミークラスのシートアレンジは2列、4列、2列であり、中央4列席の通路側の33D席に陣取った私には特に狭さを感じることなく快適なフライトとなった。

4月26日(木)

午前6時過ぎに羽田空港に着陸した際に窓際の33A席の頭上の通気孔から水滴が漏れ、客がCAに文句を言っていたのだが、東レのカーボンを機体に採用し、錆びに強いために機内湿度を高めに設定出来るメリットを享受出来るために多少の水滴くらいは我慢しやがれ!と思いながら水滴が流れるように流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥51,030 、エチオピア航空 EUR806.33

総宿泊費 ¥39,266、$35

総エチオピアビザ代 $20

総タクシー代 420B(1B = ¥4.6)

総ミニバス代 19.1B

総フランクフルト鉄道代 EUR8.2

協力 ANA、エチオピア航空、Hotels.com、agoda

FTBサハラ入口ハラハラツアー in チュニジア

バンクーバーを根城とした真央の時代が終わりを告げると同時に上海では真夜の時代の幕開けとなった。♪涙の数だけ強くな♪ってきた岡本真夜は盗作されてしまった自らの楽曲を何の迷いもなく上海万博のテーマソングとして献上したという度量の広さを見せつけ、さらに一躍ダウンロード数を伸ばすという快挙さえ成し遂げている。FTBもそのままのFTBでいるべく♪も~と 自由に も~と素直♪なハングリー精神を取り戻すために乾いた大地を目指すことにしたのだ。

2010年4月29日(木)

ボンジュール マサよ!サバ(鯖)!!

というわけで、アイスランド火山の噴火の影響による欠航から見事な復活を果たしたNH205便で午後5時前に久しぶりのパリ・シャルルドゴール空港に到着すると引き続き午後9時5分発エアーフランスAF1784便にてバレーボールワールドカップ男子の1試合目で日本と対戦させられて弱い日本に勢いをつけさせるという重要な役目を担ってきたチュニジアに向かった。チュニス・カルタゴ国際空港に到着したのは午後11時前だったのでそそくさとタクシーに乗り込み、本日の宿泊先である中級ホテルDu Parcにしけ込んでダウンした。

4月30日(金)

立地条件のよくない町外れにあるホテルDu Parcから徒歩でチュニス中心部を目指した。長い間フランスの支配下におかれていた影響か、何となくヨーロッパを軽くとっちらかしたような印象を受けるチュニス市街にはメトロと呼ばれる路面電車が縦横無尽に走り、黄色いタクシーが♪ア~クセル 踏み込んで~ ろ~めんでんしゃ~ お~いこした~♪光景が展開され、また大聖堂から続く目抜き通りであるハビブ・ブルギバ通りにはおしゃれなカフェ等が軒を連ねていた。

TGMと呼ばれる郊外電車がハビブ・ブルギバ通りの東端のチュニス・マリン駅からカルタゴ方面に向かって走っているのでユネスコ世界文化遺産に指定されているカルタゴ遺跡を見学するために足を延ばすことにした。約30分程電車に揺られ、カルタゴ地区の中心駅であるカルタージュ・ハンニバル駅で下車するとビュルサの丘まで這い上がることにした。1890年にフランスによって建立された威圧感のあるサン・ルイ教会背後のチケット売り場でカルタゴ地区遺跡の共通券(TND8.000、撮影料=TND1.000)を購入すると古代カルタゴの中心だったビュルサの丘に侵入した。

ビュルサの丘はローマによって滅ぼされたフェニキア人によるカルタゴ市の中心があった丘であり、さらにその後のローマ人による支配下でも中心的な役割を果たした場所でもある。ちなみに「ビュルサ」という名の由来はフェニキアの王女エリッサが、この地に都市を建設しようとした際、底意地の悪い現地人が牛の皮(ビュルサ)1枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言いやがった。エリッサはそっちがその気なら、こっちにも考えがあるぜということで、その皮を切り裂き細長いひもを作り、そのひもで土地を囲い広い領土を獲得するという一休さんもたじたじのとんちを使って快挙を成し遂げたのだが、今となってはポエニ人住居の廃墟が痛々しく広がっているだけである。

ビュルサの丘の頂上に君臨するカルタゴ博物館にポエニ時代とローマ時代の出土品から当時の様子を偲ぶために入って見ることにした。ここには周辺地域から出土されたローマのモザイクや神々の像、ポエニ時代の地中海交易品、生活用品、墓の埋葬品等が展示されている。カルタゴは度重なるローマとの戦いでついには敗北し、陥落してしまうのだが、そのときのローマ軍による町の破壊ぶりは徹底したもので、廃墟に塩を撒いて人も住めず作物も出来ないようにしたというマサに傷口に塩を塗るような非人道的な仕打ちが行われたのだった。

ビュルサの丘を下り、15分ほど歩くとローマ時代の闘技場で当時は3万6000人もの観衆を収容出来たと言われている円形闘技場に到着した。かつては円柱で支えられたアーチの上にさらにアーチが重ねられ、様々な彫刻が施されていた素晴らしい円形闘技場であったそうだが、数世紀にわたって石材が持ち出された結果、今では円形脱毛症のような悲惨な姿をさらしているに過ぎないのだ。育毛剤の必要性を感じながら、円形闘技場を後にして辿り着いた場所はローマ劇場であった。最盛期には1万人を収容したというこの劇場は育毛が行き届いているかのようにしっかり修復され、毎年7~8月に開催されるカルタゴ国際フェスティバルの会場として演劇、映画やコンサートも行われているのだ。

ローマ時代当時の暮らしぶりが想像できるローマ人の住居に入居させていただいた。しっかりと区画整理がされた住宅地の一部は修復が行き届いており、「ヴォリエールの別荘」と呼ばれる屋敷の跡には列柱回廊と中庭、出土した彫刻、碁盤の目状に構成されている4世紀初頭の床モザイクが残っている。ダイワハウチュを仕切っている役所広司であれば、この場所に役所のように大きいダンスホールを建設し、バレリーナを引退した草刈民代と全裸でシャール ウィ ダンスを楽しんでいたことであったろう。

ローマ人の住居で全裸になった妄想に駆られた勢いでアントニヌスの共同浴場に入浴することとなってしまった。ここは海を背景に建てられた広大な公共浴場で、2世紀にローマ五賢帝のひとり、アントニヌス・ピウスにより建設された健康ランドである。当時、建物は2階建てで、更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、談話室、トイレ等、健康ランドに必要なファシリティは一通り揃っていたと言われている。さらに、壁にはフレスコ画、柱には彫刻、床には色鮮やかなモザイクが敷き詰められ、非常に贅沢な作りだった名残がかすかに残されているのだ。

灼熱の健康ランドでひと汗かいた後、火照った体を冷やすためにトフェというポエニ人の墓地にお参りした。当時カルタゴには幼児を殺害して神に捧げるといういけにえの習慣があったと伝えられており、敷地内には小さな墓が無造作に並び、実際にここからは炭化した幼児の骨が入った骨壺が発見されているのだ。

海洋博物館(TND2.000)という名のチープな水族館で狭い水槽でストレスのたまっているはずの魚に神経を逆なでされた感覚を癒すために今ではただの池のようにしか見えない古代カルタゴの港を遠巻きに眺めることにした。かつてここには古代カルタゴの繁栄を支えた商業港と軍港がインテグレーションされており、周囲には倉庫街と砂岩の岸壁が巡らされ、最先端のセキュリティ体制が取られていたそうである。

マサよ、君はチュニジアで最も美しいチュニジアンブルーと真っ白な壁が映える町を地中海からのさわやかな風を受けながら闊歩したことがあるか!?

というわけで、TGMでさらに数駅北東に進出し、シディ・ブ・サイド駅で下車した。南地中海に面した岬の丘の上に敷かれた石畳の坂道を歩くと白い壁に青い窓枠や扉がインストールされた建物が次々と姿を現した。この色使いはシディ・ブ・サイドの基本カラーになっており、景観を損ねないように多くのペンキ職人により定期的なメンテナンスが行われている様子が見て取れた。

「街並み保存区域」に指定されているシディ・ブ・サイドの建物の窓際はジャスミンやハイビスカスの花で彩られ、多くの土産物屋やカフェに群がる観光客で大変な賑わいを見せていた。地中海を見下ろす高台を占拠するカフェ・レストランには青いパラソルが広がり、眼下のヨットハーバーやビーチが彩りを添えていた。

TGMでチュニス市街に戻り、ハビブ・ブルギバ通りのカフェでビールを流しこんだ後、チュニス鉄道駅から交通手段兼宿泊設備の列車の一等席に陣取り、指定席の番号が明確でないため、席の奪い合いに発展した車掌も解決することが出来ない立ち回りを見物しながら乾いた南部へと向かって行った。

5月1日(土)

列車はかつて「ローマン・アフリカの果て」と呼ばれていた、アルジェリアとの国境に近い大オアシスであるトズールに午前5時12分に到着する予定であった。時刻は5時半を回り、とある駅で大量の乗客が下車したので寝ぼけ眼で私も釣られるように列車を降りてしまった。駅のトイレに入っているタイミングで汽笛が鳴り、列車が走りすぎて行った後に駅名を確認するとそこにはMETLAOUI(メトラウイ)と書かれている驚愕の事実を目の当たりにし、一気に目が覚めてしまった。

メトラウイで朝日を浴び、ハラハラしながら道をさまよっているとさびれたバスターミナルに到着したのでそこで原住民の行動を観察していた。人はそこそこ集まっていたのだが、午前6時台にはバスはあまり来なかったので、乗合タクシー風のワゴン車であるルアージュの運転手にトズール行きかどうかを確認し、首尾よく乗車を果たすと1時間程度でチュニジア南部観光の玄関口であるトズールのバスステーションに到着することに成功した。

トズールで一番にぎわうエリアはハビブ・ブルギバ通りでそこには観光客目当ての土産物屋が軒を連ねているのだが、時間の経過とともに灼熱の太陽がその本領を発揮しはじめたので広大なナツメヤシのオアシスに身を隠すことにした。砂漠を目の前に控えた1000ヘクタールという広大なオアシスには20万本ものナツメヤシと果樹や野菜が植えられており、ナツメヤシの実であるデイツはトズールの特産品になっているのだ。

夏目漱石を思い出させるような「吾輩は猫である」ということをアピールする多数の野良猫が徘徊するナツメヤシのオアシスから「門」をくぐって脱出し、それからバスセンターに戻るとタメルザ行きのルアージュを探した。とある古びたバンの後部座席にイスラム服に身を包んだおばちゃんが佇んでおり、「ボンジュール」と挨拶を交してきたのでこの車はタメルザ行きか聞いたところ、そうだと答えたので乗り込んで出発を待つことにした。数十分経過後、ほどなく人が集まってきたので誰が運転するのだろうと様子を見ていたところ、いきなりそのおばちゃんが運転席を占拠しやがった。

保守的なイスラム世界では珍しくルアージュの女性ドライバーとして生計を立てているおばちゃんの運転するバンは荒涼とした景色が広がる山道を登り、途中どこかで道草を食いつつ、正午過ぎにはアルジェリアとの国境に近い山岳オアシスの村であるタメルザに到着した。北アフリカの先住民族であるベルベル人は紀元前から近世にいたるまで、海を渡ってくる侵略者から身を守るために地形の険しい内陸や南部などに住み着いてきたと言われている。タメルザ峡谷は、3つのベルベルの村がポイントとなっており、タメルザ村にはベルベル・テイストの最高級のホテルとして君臨するタメルザ・パラスが切り立つ山の上に建っているので宿泊する予定にしていたのだ。

タメルザのルアージュ乗り場からホテルまでの1kmを歩く道すがら、いくつかのベルベル系のオブジェを目にしながら酷暑の中、午後1時過ぎに命からがらタメルザパラスに辿り着いた。早速チェックインし、Standard roomが満室のため割高なContemporary Delux Double roomをTND495.000の大金で予約させられていた部屋にしけ込んだ。部屋のベランダからはごつごつの岩山とナツメヤシオアシスに囲まれたタメルザの旧村を見下ろすことが出来、またホテルの建物自体も周囲の景観に溶け込んだ作りと色合いになっているのだ。部屋のテーブルの上には「光の指」と呼ばれるナツメヤシの実であるデイツが皿に盛られていたので指を加えて見守る代わりに味見してみると甘い干し柿のようであった。

タメルザパラスの宿泊代に含まれるディナーはブッフェ方式で供され、宿泊客はそれぞれプール脇にセットされたテーブルでお腹に食い物をたらふくタメルゼという勢いで皆牛飲馬食に興じていたのだった。

5月2日(日)

軽く朝食を済ませた後、ホテルから続く階段を降りて旧ベルベル村の廃墟の探索と洒落込むことにした。すでに何人かの日本人ツアー客が入村し、写真を撮りまくっていたのだが、近くで見ると普通の荒れ果てたレンガの残骸地帯に過ぎないと思われたのも事実であった。

タメルザパラスをチェックアウトし、浮世離れした景観と豪華なホテルの内装に別れを告げ、タメルザの新村に向かって歩いていると羊飼いが多数の羊に急斜面を下らせながら放牧地帯に追いやろうとしている光景に遭遇し、山肌の茶色と白と黒の羊のボディのコントラストに思わず見入ってしまった。ルアージュ乗り場では昨日と同じおばちゃんドライバーが手ぐすねを引いているように待ち構えていた。おばちゃんは多くのベルベル友人たちと油を売りながら乗客が集まるのを待っていたのだが、一旦人数が揃い、出発するような素振りを見せたのはフェイントで近隣で荷物を下ろして元の場所に帰ってくるという小技を繰り広げながら時間だけが経過していった。何とかトズールへの帰路に就くことが出来たものの、おばちゃんの携帯電話は10分毎に呼び出し音を響かせていた。

トズールでは宿泊の手配をしていなかったため、ハラハラしながら高級ホテルの建ち並ぶツーリスティックゾーンを彷徨っていた。数あるホテルの中で一番高級そうな☆☆☆☆☆ホテルであるソフィテルパーム・ビーチ・トズールにアポなしで突入するとかろうじて空室があったので荷物を部屋に放り投げてトズールのメディナの散策に繰り出すことにした。

14世紀に造られたと言われているウルド・エル・ハデフ地区というメディナは砂と粘土を混ぜ合わせて造った日干しレンガの町なみが魅力的である。建物にはレンガを手前に引き出したり奥に引っ込めたりする伝統的な技術を使って、幾何学的な模様が壁に描かれているのが印象的で保守的な衣装を身にまとった原住民とすれ違うと数百年も昔にさかのぼったような不思議な感覚さえ覚えてしまうのだ。

炎天下のため、頭も適当にのぼせてきたのでカレーシュという馬車に乗ろうかとも考えたのだが、中年オヤジの加齢臭と馬の香りがマッチしないと思ったので、徒歩で撤収することにした。ホテルに帰る道すがらで数多くのツアー会社から夕暮れ四輪バギーツアーの勧誘を受けたのだが、トズールではフランス語でクアッドと呼ばれる四輪バギーで近隣の砂漠やオアシス、はたまた丸一日かけて、かのスターウォーズのロケ地を巡るツアーが人気を博しているのである。

5月3日(月)

早朝ホテルを出てツーリスティックゾーンからオアシスを抜け、ラクダ飼いがラクダに給水している様子を垣間見ながら15分程度歩くと巨大な南海キャンディーズのしずちゃんが腰掛けているシーンに遭遇した。近づいてよく見ると生身のしずちゃんが静かに佇んでいるのではなく、巨大な原住民女性のオブジェが睨みを利かせているだけであった。

ここはラス・エル・アイン展望公園で広場中央の小高い岩山に登ると緑豊かなオアシスや近隣のゴルフ場が一望出来ると同時に岩山自身にはトズール出身の偉大な詩人、アブール・カセム・シェビの顔が刻み込まれており、遠くから眺めるとまるでアメリカの歴代大統領の人面岩から構成されているマウント・ラシュモアと見紛えてしまうのだ。

砂漠ホスピタリティを提供するトズールの治安の良さを十分に堪能し、暑いのとハエがブンブンまとわり付いてくるのを我慢すればマサであっても十分暮らしていけることが確認出来、また、ナツメヤシのオアシスでも夏目雅子のような肌の露出は許されない事実を認識して納得したのでバスターミナルからトズールを後にした。

長距離バスで5時間程度走るとチュニスの南165km、周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部に位置する古都ケロアンに午後4時頃到着した。早速バスターミナルから南東に2km程歩くと高さ8m、厚さ2mを誇るメディナの城壁が姿を現した。グランド・モスクの尖塔をチラ見してメディナの周囲を一周しながら今日の寝床をハラハラしながら探していた。メディナから1km程離れた場所に☆☆☆であるオテル・コンチネンタルを発見し、何とか忍び込むことに成功したので荷物を置いて身軽になり、メディナに舞い戻ることにした。

ケロアンは7世紀にマグレブ征服(アラブ化)の目的でウマイア朝より派遣された、総督ウクバ・イブン・ナーフィにより建設された北アフリカにおけるイスラム発祥の地である。ここはイスラム世界ではメッカ、メディナ、エルサレムに次いで4番目に重要な聖都であり、ケロアンへの7回の巡礼は、メッカへの一度の巡礼に値するとまでいわれているのだ。

世界文化遺産に指定されているメディナの内部は白壁の家々が織り成す景観が美しく、人々の生活が息づいており、町を歩いているとジャパン、ジャポン、ジャパニ、がんばれニッポン、ジャッキー・シェン等、数多くの声援を浴びることになるのだが、ジャパネット高田は残念ながら浸透していない様子であった。メディナの家々には人間の手の形をした取っ手がインストールされており、その取っ手でドアをノック出来る仕組みになっているのだった。

5月4日(火)

フランス語でHを発音しないオテル・コンチネンタルをチェックアウトすると目の前にアグラブ朝の貯水池があったので軽く見学しておいた。中世世界で最高技術を用いて造られたこの貯水池は現在もケロアン市民の水源となっており、乾燥地帯の水不足解消に一役買っているのだ。

メディナに戻り、共通券(TND8.000、撮影料TND1.000)を購入し、いくつかの見所を回ってみることにした。640年、時の権力者ウクバ・イブン・ナーフィによって建立されたアフリカ最古のグランド・モスクは外観はいたってシンプルであるが、内部もそれなりにシンプルに見えた。しかし、中庭には大理石が敷き詰められており、ローマ・ビザンチンの遺跡から拝借した列柱が重々しい雰囲気で並び、中央には濾過設備を持つ雨水を貯めるための排水溝さえ装備しているのだ。

鳥を取り押さえていい気になっている猫にガンをつけて、ラクダが水をくみ上げる聖なる井戸であるビル・バルータに立ち寄った。ここはもともとは7世紀に掘られた井戸であるが、その周囲を囲むように、1676年にモハメッド・ベイが白いドーム状の屋根をもつ建物を建設した。一見モスクのような外観であるが、入り口から階段を上がった2階には、井戸と拉致されたラクダが待ち構えている。このラクダが井戸の周囲を歩くとロープで水がくみ上げられる仕組みになっているのだが、ラクダにとっては楽な仕事であるのではないかと思われた。

白黒縞模様が目に焼きついたガリアーニ霊廟をチラ見してメディナを後にすると市場をスルーして数多くの観光バスを集めているシディ・サハブ霊廟を見学することにした。ここはマグレブで最も美しい霊廟と言われ、壁、床、天井といたるところに見られる色鮮やかなアラベスク模様がそれを実感させてくれるのだ。

大規模なケロアンのルアージュステーションでチュニス行きのルアージュを捕まえて2時間程で首都チュニスに帰ってきた。チュニジアのルーブルとの異名をとるバルドー博物館は大規模な改修工事の真っ最中であったのだが、一部展示品を公開していたのでTND4.000を支払って突入した。ここでの見所は世界最大規模を誇るローマ時代のモザイクコレクションであるはずなのだが、あまりにも閉鎖中の展示室が多かったため、印象に残ったのはビートたけしが推奨するはずの「男には男の武器がある!」銅像のみであった。

世界文化遺産に指定されているチュニス旧市街はフランス門がメインゲートになっており、かつては門の両脇から城壁が延びてメディナを取り囲んでいたと言われている。門を通るとビクトワール広場に出てそこから先は夕方の買い物時の群集で押しくらまんじゅう状態になっているスークに繋がっている。スークは観光客用の土産物だけでなく、原住民が日用品を買うための重要な市場となっており、食肉や地中海で取れた新鮮な魚を売りつける生鮮食品屋も軒を連ねているのだ。

メディナの中央は巨大な広場となっており、チュニス最大で最高の聖地であるグランド・モスクや草サッカー少年を多数集めるほどの広大な敷地を持つ首相官邸等の箱物で占められている。午後5時前に何故かモスクからカラフルな鼓笛隊が出てきたと思ったら奴らは首相官邸の広場に掲げられている国旗を降納するためのセレモニーを行う要員であったのだ。

今夜はあらかじめ予約してあった街を見下ろす高台に位置するシェラトン・チュニスを予約していたのでハラハラすることなく過ごせると思ったのだが裏の仕事の電話会議に参加するためのブラックベリーが熟れすぎて腐ってしまい、電話が繋がらなかったのでもっとハラハラする羽目に陥ってしまった。

5月5日(水)

シェラトンからタクシーでチュニス・カルタゴ空港に移動し、午前11時30分発AF2185便の機上の人となった。エアーフランス機内で今風のマリー・アントワネット系のスチュワーデスに白ワインを注文したところ、赤ワインをいただいたのでそれを白ワインだと信じて飲み干したのだが、パリのシャルル・ドゴール空港のスター・アライアンスのラウンジで本物の白ワインを痛飲して溜飲を下げておいた。

午後8時発NH206便で成田に向かう機内ではサハラ砂漠に一人取り残され、真夜中に岡本真夜のAloneを熱唱するというアクティビティが出来なかったことを後悔し、真夜よろしく♪カードがぁ も~ないから~♪とうそついて電話会議への参加をキャンセルすべきではなかったかと悩んでいた。

5月6日(木)

NH206便は定刻通り午後2時40分に成田空港に到着。涙の数だけ強くなった自分を実感し、みずほ銀行の支援を受けているはずの井上真央の巻き返しに期待しながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥197,870

総宿泊費 TND1,235.000 (TND1.000 =¥67)

総鉄道代 TND25.450

総バス代 TND15.570

総タクシー代 TND10.000

総ルアージュ代 TND10.340

総TGM代 TND1.450

総メトロ代 TND0.800

協力

ANA、STARWOOD

FTB世界三大瀑布完結編世界遺産ヴィクトリアの滝ツアー

マサよ、君は世界三大瀑布というものを知っているか?

またそれらをすべて制覇した実績を誇りに刻んだことがあるか!?

ということで、日本三大幕府と言えば鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府にすぎないのであるが、世界三大瀑布とは北米のナイアガラの滝、南米のイグアスの滝、アフリカのヴィクトリアの滝を指し、いずれ劣らぬ大規模なマイナスイオン供給源となっているので源頼朝もその存在に気づいていれば心の拠り所にしていたはずである。

次の総選挙で自民党の大敗が予想され、与党を支えてきた官僚も滝に打たれて初心に戻ることが必要とされる中、FTBは先行してヴィクトリアの滝の猛しぶきの洗礼を受けにはるばるアフリカ南部に足を伸ばすことになったのだ。

2009年7月16日(木)

午後7時発NH911便香港行きは定刻通り出発し、機内エンターテイメントにより提供される邦画「おっぱいバレー」に主演して胸がいっぱいになったはずの綾瀬はるかとともにはるか彼方で流れ落ちる大滝に思いを馳せていた。午後11時50分に南アフリカ航空SA287便ヨハネスブルグ行きに乗り継ぐと12時間以上もの時間を滝に打たれるのと同等の試練が与えられたように狭い機内で過ごしていた。

7月17日(金)

午前7時前におなじみのヨハネスブルグO.R.タンボ国際空港に到着すると2時間半後には再びSA040便VICTORIA FALLS行きのの機上の人となっていた。合計20時間以上のフライトを経て念願のジンバブエにあるVICTORIA FALLS国際空港に到着したのは午前11時15分であり、早速ホテルが送迎用に手配したDingani Toursのバンに乗り込み今回のツアーの宿泊地となっているその名もずばりTHE VICTORIA FALLS HOTELにしけこんだ。

創業1904年のTHE VICTORIA FALLS HOTELは伝統と格式のあるホテルでかつてはエリザベス女王をはじめ、英国王室からの来賓も多数滞在した実績を誇っているのだ。ホテルの内装は非常にクラシカルで数多くの動物の剥製胸像が壁にインストールされており、リビングには腰が痛い人にはたまらないフカフカのソファや王や女王の巨大な絵も宿泊客の目を引くのに一役買っている。

ホテルのガーデンからはヴィクトリア大橋が遠巻きに眺められ、その奥には轟音とともに滝から流れ落ちた水が水煙となって立ち昇っていた。ガーデンを抜けると滝への近道となっているのだが、ホテルの敷地を一歩出るとそこは国立公園の管理地域であり、いつ何時野生動物の襲撃を受けても不思議ではない環境なので自己責任で行動しなければならないのだ。目の前に転がっているおびただしい数の生の象の糞を避けながら歩いていると野生動物に遭遇する代わりに原住民が立ちふさがり、100兆ジンバブエドル札を5USドルに交換してほしいとしきりにまとわりついてきた。赤字国債の乱発で返済の目途が立っていない日本の借金をいち早く返済したいはずの財務官僚であれば100兆という単位に思わず目が眩むところであろうが、ジンバブエは急激なインフレが進んでおり、すでにジンバブエドルは通貨としての機能を失ってしまい、100兆が無価値になるという悲しい現実を思い知らされた。

数え切れないほどの「0」を見て丸くなってしまった目を修復するために、「GORGE VIEW BRIDGE VIEW LOOK OUT」というザンベジ川による侵食によって形成された蛇行した峡谷を眺めて目の保養に努めることにした。固い岩盤が削られて出来たこれらの峡谷はかつては滝であったと伝えられており、滝の位置は気の遠くなるような年月をかけて今も上流方向に移動し続けているのだ。

滝を管理するゲートに近づくにつれ、轟音が大きくなるとともに体がマイナスイオンを帯びてくる感覚を覚えた。ゲートで入場料$20を支払うと念願のヴィクトリアの滝ジンバブエサイドの探索をスタートさせた。ちなみにこの滝は1855年にイギリス人探検家デビッド・リビングストンによって発見されたのだが、その偉大なるまぐれの功績により滝の入り口近くにはリビングストンの銅像がリビングルームでくつろいでいるかのように気軽に立ちはだかっているのである。

滝の名前は当時のイギリス女王の名前を取り、ヴィクトリアの滝と許可無く命名されたのであるが、現地では「モシ・オア・トゥンヤ」と呼ばれ、その意味は「雷鳴のとどろく水煙」という直感的なものであり、なるほど、郷ひろみがお約束で♪君たち女の子♪と歌っても♪僕たち男の子♪と音程をはずしても追っかけギャルのように滝の底から♪ゴーゴー♪という爆音しか返ってこないのである。

公園内の遊歩道は非常に整備されており、滝はデビルズ・キャタラクト、メイン・フォールズ、ホースシュー・フォールズ、レインボー・キャタラクト、アームチェア・フォールズ、イースタン・キャタラクトの6つのパートに分かれており、それぞれのパートでレインコートを持参していない観光客は濡れねずみとなって這い回ることを余儀なくされるのだ。

たまたま公園内に迷い込んだイボイノシシが濡れイノシシになりながらも果敢に草を食っていたので、財務官僚の悪行の濡れ衣を着せるべく対決しようと思ったのだが、伝家の宝刀イボころりを持参していなかったので断念した。滝は国境のザンベジ川を越えてザンビアサイドまで続いており、母国は違えどイボ兄弟がその迫力を競うように流れ落ちているのだ。

激しい水しぶきは太陽光線によりいたるところで美しい虹を形成している。ヴィクトリアの滝では満月の前後3日間の夜に公園を開放し、月の明かりで虹がかかる絶景も楽しむことが出来るため、滝廉太郎でなくても「荒城の月」程度の楽曲は作曲出来るのではないかと思われた。

7月18日(土)

早朝7時前に水煙の彼方から立ち登る真っ赤な朝日を眺めながら朝食をいただいた後、ザンビアへ向かうべくホテル敷地外の国立公園けもの道もどきに繰り出すとすぐさま地元のPoliceがエスコートしに飛んできたので今朝は原住民にジンバブエドルをUSドルに両替してあげる機会を逸してしまっていた。

国境の架け橋となっているヴィクトリア大橋からは滝だけでなく深く刻まれた峡谷も見下ろすことが出来るのだが、何と言っても降下距離111mを誇る世界一の高さのバンジージャンプまでもが高値で営業されているのだ。通常であれば、私も朝一のモーニングバンジーを披露して通行人の胸中に大和魂を刻みつけるところであるのだが、長旅の疲労が抜けきれていなかったため、勧誘に来た原住民を睨みつけるにとどまってしまった。

橋を超えると国境のイミグレーションにたどり着き、そこで$20を支払ってOne day tripビザを入手した。建物の外では多くのパスポートを持っていないバブーンが道端の駐車車両を我が物顔ではしごしている光景が目に飛び込んできた。何故かジンバブエサイドの入場料の半額である$10を支払ってヴィクトリアの滝ザンビアサイドに侵入するといきなり敬礼したリビングストンのお出迎えを受けてしまった。昨日の濡れねずみの教訓により今日は$2を支払って2枚重ね式レインコートをレンタルするとヴィクトリアの滝の総幅1.7kmのうち、1.2kmを支配するザンビア側の滝の観測を始めることにした。

ナイフエッジ・ブリッジと命名されている足元から舞い上がる水しぶきにより、遠めから見ると虹を渡っているようなトリック映像が撮影出来る橋を鋭く渡りきり、ナイフエッジポイントというジンバブエサイドとの対岸で「こちら側の景色の方が絶景ぜ!」といった優越感に浸ることが出来る終着点に到着した。そこに掲げられている汚い字で書かれた看板には「どうせ短い人生だったら清水の舞台から飛び降りるつもりで思い切って勝負して見ろや!」と解釈すべき文言が踊っていた。それを見て若手芸人が満を持して放った鉄板ギャグが全く受けないような滑りやすい環境であることをあらためて思い知らされるのだ。

ザンビアサイドでは水煙を巻き上げる滝そのものだけでなく、まさかこの明るい虹のすぐ先にストンと奈落の底に突き落とされる地獄が待ち受けているとは夢にも思えないおだやかな流れのザンベジ川も見学コースに含まれている。この場所は晴れているのに土砂降り状態に辟易した観光客の絶好の乾燥スポットになっているのであった。

3時間程度の滞在でザンビアから出国するとバンジージャンプの勧誘の魔の手を避けながらジンバブエに戻って来た。一旦ホテルを経由してザンベジ川の上流方面の散策に繰り出すことにした。ヴィクトリアフォールズの町の中心部から北へ5km程歩くと「ザンベジ自然保護区」という看板を出しながらワニを保護するどころかワニ皮クラフトセンターの原料とするためにワニを繁殖させている通称「ワニ園」に乗り込んだ。ここでは大小多数のワニの他に数匹のナイルオオトカゲや独身で人恋しいダチョウが拉致されている実態が確認された。

「Big Tree」と呼ばれる樹齢200年以上のバオバブの木をあたりの野生動物の気配に気をつけながら観察させていただいた。乾季のために落葉し、枯れきった印象を受ける巨木はもうこれ以上観光客が幹に意味のない落書きを刻まないためにチープな柵でしっかり保護されていた。

7月19日(日)

マサよ、君は山上たつひこ原作の「がきデカ」のこまわり君のように「アフリカ象が好っき!!」と叫びたくなる衝動に何度も駆られたことがあるか!?

というわけで、ダイヤモンドの生産地として経済力を蓄え、南部アフリカのなかで最も豊かな国といわれえているボツワナの北東部に、7万頭の象が暮らし、象の生息密度が世界一といわれるチョベ国立公園がある。ヴィクトリアの滝からチョベ国立公園まではわずか70kmの距離でヴィクトリアの滝から日帰りツアーが催行されているので$200をはたいてFORCHE TOURS & TRAVELのChobe Full Day Tripに参加することにした。

おなじみのヴィクトリアの滝の水煙の背後から昇っていく朝日を拝むと午前7時半にツアーのドライバーがホテルにピックアップにやってきたのでバンに乗り込み一路ボツワナとの国境を目指した。道路の両側には野生動物が生息しているブッシュが広がっており、鋭いくちばしと赤のワンポイントが眩しいグラウンドホーンビルという怪鳥がこれから起こるはずの不思議発見を暗示しているかのようだった。

ボツワナとの国境を越える際にジンバブエサイドのドライバーと一旦お別れし、ボツワナからサファリカーを駆ってやってきたガイドの口車にも乗せられてモワナ・サファリ・ロッジという高級ロッジで黒人宿泊家族をピックアップするとついにチョベ国立公園のゲーム・ドライブの開幕となった。屋根付きサイドオープンのサファリーカーで舗装されていない道を数キロ走るといきなり喉を鳴らしながら歩いている杉本彩のような美しいフォルムの豹に遭遇し、思わず度肝を抜かれてしまった。通常日中のゲームドライブでは木の枝の模様の一部となっている睡眠豹しか見つけられないのが関の山なのであるが、今朝のように飄々と地上を歩いている豹を見かけることは非常に稀なのである。

車でチョベ川沿いの砂浜を転がしながらジンバブエの国獣セーブルアンテロープの群れや各種鳥類を観察していたのだが、ガイドのコメントでツアー客のつぼにはまった言葉はインパラの群れをマクドナルドと表現したことであった。チョベ国立公園ではライオンや豹等の捕食者も多いのだが、インパラは比較的捕まえやすいのでファーストフードに例えられ、その気になったインパラもつぶらな瞳で「いらっしゃいませ、こんにちわ」と答えているかのようであった。

ゲームドライブ開始後、2時間程経過してもアフリカのサバンナで感じるあのいつもの感覚に遭遇出来なかった。大鷲が樹上で経過を見守る中、さらにドライブを続けると遂に背筋がゾ~とするような感覚と共に1頭の象が姿を現したのであった!この象は先行するサファリカーを鼻であしらった後、悠然と立ち去っていったのだった。尚、園内には立ち枯れやなぎ倒されて枯れてしまったおびただしい数の木々を見かけるのだが、これは象の所業だということで、国立公園のエコサイクルとして欠かすことの出来ないアクティビティであると説明された。

午前中のゲーム・ドライブが終了するとモワナ・サファリ・ロッジに戻りビュッフェ形式で供される肉やサラダをビールと共に流し込んで午後からのボートクルーズのために体力を蓄えていた。午後2時から待望のクルーズのスタートとなったのだが、チョベリバーでのボートツアーは一昔前のコギャルに言わせると「チョ~ ベリー バッド!」かと思われたのだが、すぐにその予想は覆されることとなった。

チョベ川は下流でザンベジ川と交わるのだが、この地域では川を挟んで4つの国(ボツワナ、ジンバブエ、ザンビア、ナミビア)が隣接している。川には新鮮な草が生い茂っている多くの中洲があり、それらはバッファローやカバ等の絶好のリゾート地となっている。尚、カバはその印象とは裏腹に非常に獰猛な草食獣でライオンに殺害されるよりもむしろカバに殺されている人間の方が多いそうで決してバカにしてはいけないと注意された。

しばらくクルーズを続けていると川面から潜望鏡のようなものが中州に向かって近づいて行く光景が目に飛び込んできた。しばらく観察を続けていると、これは長い鼻をシュノーケリング活用してチョベチョベとチョベ川を渡っている象であることが確認され、ごれぞチョベ国立公園ならではの珍百景の代表だと思われた。

中州の低い岸壁は鳥類の営巣地帯となっている様子で鳥のつがいが交互に卵を暖めあっていた。また、それを虎視眈々と狙っているかのように数多くの野生のクロコダイルが擬似剥製状態で横たわっていやがった。

無事にボートクルーズも終了し、Chobe Full Day Tripの満足度の白黒を付けようと考えていた矢先にゼブラの群れが道路を横断してきたのだが、持参していたデジカメをしまうまえだったので何とか写真に収めることが出来た。

7月20日(月)

恒例の東の空をオレンジに染める朝日を見納めた後、午前10時前に迎えに来たバンに乗り込みヴィクトリアフォールズ国際空港への帰路に着いた。午後12時15分発のSA041便にてヨハネスブルグ、O.R.タンボ国際空港に戻り、高利回りにつられて購入した南アフリカランド建て債券が南アフリカランドの日本円に対する暴落により被った損害分に値する心の隙間を埋めるために南アフリカ航空関係者にいちゃもんをつけようと思ったが、ワールドカップご祝儀の為替レートのゆり戻しを期待して我慢しておいた。

7月21日(火)

SA286便にて午後12時過ぎに香港に到着。引き続き、午後3時10分発NH910便にて成田に飛行中、映画レッドクリフ(赤壁)を見ながら、豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎だった頃の時代背景にも拘わらず、ロボットや潜水艦等の最新テクノロジーを時代劇にうまくマッチさせていた仮面の忍者「赤影」の方がむしろ迫力があったはずだと考えていた。

午後8時30分本物の雨の成田空港に到着し、そのまま滝が流れるように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥13,680、南アフリカ航空 = HK$11,085

総宿泊費 $789

総空港⇔ホテル送迎代 $60

総ジンバブエビザ代 $30

総ザンビアビザ代 $20

総Chobe Full Day Trip代 $200

協力 ANA、南アフリカ航空、FORCHE TOURS & TRAVEL

アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ初日の出ツアー

アメリカの金融危機に端を発した不景気の影響で白金~ゼ以外は金がね~ゼ状態である今日この頃だが、日本国民が寝正月にいそしまざるを得ないような閉塞感を打破するために高い金を払ってまでアフリカの頂点を極めるツアーが強行されることとなったのだった。

12月27日(土)

ANAの営業努力によりエコノミークラスが満席となり、必然的にはじき出された私がビジネスクラスにアップグレードされるという成り上がりの方程式の確立により1Fという最前列の席に陣取るとNH911便香港行きは定刻より30分以上遅れたものの午後11時過ぎには香港国際空港に到着した。

香港空港での乗り継ぎの時間が押してしまったため、係員の先導により南アフリカ航空SA287便の出発ゲートまで案内され、無事に機内の通路側席に身を沈めるとヨハネスブルグまでのさらに長い旅の開始となった。

12月28日(日)

SA287便は午前7時前におなじみとなったヨハネスブルグ、O.R.タンボ国際空港に到着した。空港のラウンジで7時間ほどやり過ごした後、午後2時30分発SA182便に乗り込みナイロビを目指した。3時間40分程機内で過ごし、ナイロビのジョモ・ケニヤッタ国際空港に到着したのは午後7時30分であった。さらにケニア航空とPrecision航空のコードシェア便であるPW728便は午後9時半に出発し、タンザニアのキリマンジャロ国際空港に到着したのは午後10時を過ぎた時間であり、東アフリカへの長旅には体力が必要であることをあらためて痛感させられた。

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空港にてタンザニアへの入国ビザのスタンプを押していただき、侵入を果たすとSPRINGSLANDS HOTELのスタッフがピックアップに来ていたので同行のカナダ人のカップルとスイス人のアベックと一緒にバンに乗り込み50分程でキリマンジャロ登山のゲートシティとなっているモシのホテルに到着した。チェックインの際にキリマンジャロ登頂の簡単なオリエンテーションがあり、その後旅人の何人かはホテルの中庭にて酒をかっくらっていたのだが、私はキッチンに程近い73号室に立て篭もり、暑さとキッチンからの朝食準備サウンドでほとんど眠れない夜を過ごすこととなってしまった。

12月29日(月)

ジャンボー マサよ!

ということで、念願のキリマンジャロ登頂ツアーに出発する朝を時差ボケと寝不足のまま迎えてしまった。ホテルの2階からはこれから立ち向かうキリマンジャロの勇姿がくっきりととらえられ、朝食と一緒に供されるキリマンジャロブレンドであるはずのコーヒーを召し上がっていると嫌がおうにも闘魂が湧き上がってくるのであった。

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SPRINGSLANDS HOTELからはおびただしい数のキリマンジャロ登頂ツアーがスタートするのだが、午前8時半にツアーガイドと送迎車が迎えに来ることになっている。昨晩私が到着した時間が遅かったため、今朝になって初めて私と旅の道連れになるツアー客の紹介がガイドのウイルソンによって行われた。必然的に私が隊長として仕切ることになるツアーは日本人客3名から構成され、1名は登山経験者の佐賀のサラリーマンでもう1名は登山素人のエチオピアの外交官ということだった。

登山の装備を確認し、かろうじて1本のストックをレンタルさせていただき、迎えのマイクロバスに乗り込むと後から数多くのドイツ人旅行者が便乗してきやがったので、バスの中はマサにどいつもこいつもドイツ人状態に陥ってしまっていた。

バスはモシの市街を抜け50分程でキリマンジャロ登山の代表的な登攀ルートであるマラング・ルートを取り仕切るマラング・ゲートに午前11時頃到着し、キリマンジャロ国立公園(世界自然遺産)の管理事務所でレジストレーションを済ますと待望のキリマンジャロ登山がついに火蓋を切ることとなったのだ。

標高1970mに位置するマラング・ゲートは観光客用の登山道とポーターが荷物を運ぶ輸送路に分けられおり、登山道はあたかも熱帯雨林のジャングルのように鬱蒼と樹木が生い茂っていた。山中では薪にするための木を刈るための鋭利な刃物を持った原住民少年達が「One Dollar、ワンダラー」と言ってまとわりつき、思わずここはワンダーランドかと感じさせられた。

スタートから3時間程で今日の目的地である標高2700mのマンダラ・ハットに到着した。早速4人が寝泊り出来る小屋にチェックインし、ポーターが汗をポーターポタ流しながら運んできてくれた荷物を受け取った後、食堂で午後の紅茶の時間を向かえた。しかし、夕食までにまだ時間があったので近くのMAUDI CRATERを軽く散策してみることにした。

クレーターまで歩く道すがら大きな木々の上からシロクロコロブスという東アフリカにに生息する猿の出迎えを受け、キリマンジャロの自然の豊かさをあらためて思い知らされた。午後6時に同行のコックが作る夕食が供されたのだが、スープから始まるメニューはフルコースの様相を呈しており、マンダラ・ハットで満更でもない美食感覚を味わい、日も暮れるとやることがなくなるので小屋に篭城し、持参した寝袋の中でサナギのような一夜を過ごすこととなった。

12月30日(火)

早朝6時ごろ目が覚めたのでサナギから成虫に出世して抜け殻をたたんだ後、爽快な朝日を眺め、朝食をとっととすませて次の目的地に向けてスタートした。マンダラ・ハットには山頂から流れる水を利用した水洗トイレがあるのだが、もしハットを出て登山の途中で催してしまったらどうするのかガイドに聞いたところ、小か大にもよるのだが、とりあえず植物や岩の陰に隠れて済ますのが一般的であるということではからずも数時間後に私自身が実践することになってしまったのだ。

老廃物を排出して身軽になったところで登山のペースも上がってきたのだが、途中見慣れぬ寝台一輪車が登山道に放置されているのを発見した。その数時間後に寝袋に梱包された状態でマサに同モデルの一輪車で配送されている日本人とレスキュー隊に遭遇してしまった。その光景を目にして背中が凍りつくような恐怖を覚え、高山病を甘く見てはいけないと肝に銘じたのであった。

今日踏破すべく11.7kmの登山道はいつしか展望が開けており、数多くの美しい高山植物と険しい岩峰であるマウエンジ峰を眺めながら歩を進めていると雪を抱いたギボ峰がその山容を見せ始めた。そう、今回の究極の目的は世界最大のコニーデ型火山を形成するシラ峰、ギボ峰、マウエンジ峰の3つの峰の中で最高峰のギボ峰のウフルピークを目指すことに他ならないのだ。

出発から5時間程で今日の目的地である標高3780mのホロンボ・ハットに到着した。おなじみの4人用の小屋にチェックインするとポーターが洗面器にお湯を汲んで来てくれたので顔を荒い、近くを流れる川べりに繁茂するセネシオというサボテン状の植物に見入っていた。

ホロンボ・ハットは決してオンボロハットではなく、マンダラ・ハットと同様に太陽電池で電源を賄っており、雪解け水を利用したシャワーや水洗トイレも備えているのだが、何といってもそこから眺める太陽に照らされたギボ峰の姿は堂々とした威容を放っていた。また、ここは登りだけでなく下りの登山客も宿泊する設備であるため、いやがおうでも登頂の成否に関する情報が入ってくる。しかも日本人の登山客も数多いため、日本語でより生々しい話が聞けるのだ。

登頂の成否はすでに富士山の標高を越えているホロンボ・ハットでの高度順応に依存する場合もあるようでここで2日間を過ごすと成功率がかなり上がると聞いていたのだが、プロである私は自分にそのような甘えを許すことは出来なかったので、この日も薄い空気と時差ボケのせいでサナギの中で十数時間眠れない夜を過ごしながら迫りくる恐怖と闘っていた。

12月31日(水)

東の空が白みはじめた頃、成虫になれる程成熟していない状態でサナギを抜け出し、朝日に向かって体を慣らしていた。標高3776mの富士山は2回程軽く制覇しているが、今日からは全くの未体験ゾーンに足を踏み入れることになる。

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午前8時前にホロンボ・ハットを後にすると、セネシオの茂る川沿いを抜け、高山植物の美しい花が群生している湿地帯に到着した。ここで先行するポーター達が水を汲んでいるのだが、次の地点のギボ・ハットには水道がないため、あらかじめ食事や飲料用の水を確保しておかなければならないのだ。この水場からさらに進むとLast Waterという文字通り最後の水場が存在するのだが、ここは現在水量不足のため機能していない様子であった。

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やがて、植物限界を超えた登山道は砂漠のようなガレ地に様変わりしたものの、真っ青の空の下、迫りくるギボ峰を眺めながらさわやかなトレッキングはさらに続くのであった。私が仕切っているパーティの他の2人よりもかなり先行して歩いていると途中でアシスタントガイドと名乗る若者がどこからともなく姿を現し、最後は一緒にギボ・ハットまで同行することとなった。

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標高4700mのギボ・ハットに到着するとさすがに酒を飲むと人の3倍くらい赤くなるほどの赤血球を持つ私であってもマイルドな頭痛に悩まされることとなった。血液中の酸素を運ぶヘモグロビンがまだ足りていないことが要因であるとも考えられるのだが、キリマンジャロ登山では毎月2~3人程がお亡くなりになられているため、ギボ・ハットを訪問した霊能力者の宜母愛子には見えるはずの霊の仕業ではないかと思われもした。また、4700mのキリマンジャロ山中での思考能力の低下により、誇大広告を取り締まるのはジャロ、大晦日に歌っている演歌歌手はジェロだという見分けもつかなくなっているし、ましてや桑田佳祐のように一人紅白を行う余裕もなかったのだ。

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ギボ・ハットの小屋は一部屋12人体制となっており、基本的には早い者勝ちで場所を取る事が出来るのだが、同じ部屋にいる哀れな日本人は先に場所を確保しておいたにもかかわらず米人女性にここは我々グループの場所だとイチャモンをつけられて他の場所に追いやられてしまっていた。

頂上で日の出を見るため、今晩中に出発しなければならないので夕食は午後4時半に供された。高山病のため食欲が出ない登山客を見越してかメニューはスープスパゲッティと非常にあっさりしたものであった。夕食後はとにかくサナギに入って意識を無くすことに集中したため、何とか1時間くらいは熟睡出来たのではないかと思われた。

午後10時15分にガイドが起こしに来ると言われていたものの10時には勝手に目が覚めたので早速出発の準備をすることにした。食堂には暖かい飲み物とビスケットが準備してあったので紅茶を飲み、食いたくもないビスケットを数切れ流し込んだ後、午後11時過ぎに出発となった。

今にも降ってきそうな星空を眺めながら、ヘッドライトの明かりを灯してガイドのウイルソンに続き頂上への一歩を踏み出した。尚、頂上へのアタックに関してはどの登山客も防寒対策を施し、2本のストックを頼りに登っていくのだが、私の装備はジャンパーの下にフリース、ジャージにタイツとかなり軽装かつシングルストックであったものの、ガイドは手袋を付ける代わりにポケットに手を突っ込み、しかもストックなしというマサに原住民にしか出来ないようなスタイルだった。

1月1日(木)

ハッピー ニュー マサよ!

ということで、カウントダウンは無かったものの道中登山客が鳴らしたクラッカーにより2009年の新年を迎えたことを思い知らされ、皆それぞれに「Happy New Year」と挨拶を交わしていた。登山道は火山礫や砂地で形成されており、ジグザグの登り道であるものの非常に歩きにくく猛烈な寒さの中ゆっくりとしか進めないため、いくらフリースを着込んでいても自分の肉体にバグがあるかのように何度もフリーズしてしまい、そのたびに再起動が必要となった。

人類の高度限界を超えている5500mくらいから急な岩場が出現し、ガイドの経路選択により何とか岩場を登りきり、午前4時50分にギボ峰のクレーターのへりにある標高5681mのギルマンズ・ポイントに命からがら到着したころには意識が朦朧とした状態であった。ウイルソンに体を抱えられ、とりあえずのギルマンズ・ポイント制覇の祝福を受けると休む間もなく、アフリカ大陸最高地点であるウフル・ピークへ向かって歩を進めた。

ウフル・ピークへの道のりは今まで登って来た登山道に比べて非常に緩やかだったものの暗がりからウルフの遠吠えのように吹いてくる強風により体感温度は著しく低下し、大阪漫才で言うところの「鼻の穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろ~かい」状態が終始続くこととなった。ところで先導するウイルソンはと言うと従来の堅調な足取りから多少欽ちゃん走りの兆候が見られるようになり、明らかに高山病の症状を発症していやがった。心の優しい私は通常であればウイルソンをおんぶしてでもいち早く頂上に這い上がっていたところであったが、それでは私が逆にチップをもらう立場になり、彼の山岳ガイドスピリッツに傷が付くのを恐れてその申し出は控えておくことにした。

マサよ、君はアフリカ最高峰で初日の出を拝んだものの酸素不足でお願い事をする余裕さえなく、普通に呼吸出来ることが最高の贅沢であることを思い知らされたことがあるか!?

ということで、午前6時15分を過ぎると東の空がオレンジレンジに染まり始め、ウイルソンのペースダウンにより、ウフル・ピーク到着を目前にして初日の出を迎えることとなった。とりあえず写真は1枚撮ったものの官僚の天下り制度が廃止になる前にマサに高額給与が給付される天下り先が見つかるように願をかける時間はなかったのだった!

午前6時40分、ついに標高5895mのアフリカ大陸最高峰に虫の息で辿りつくとウイルソンがハグを求めてきたのでバグのある肉体にもかかわらず軽くサバ折りで返したのだが、そのままバックドロップに持ち込む体力はもはや残されていなかった。頂上での唯一無二のアクティビティは当然のように記念写真を撮ることであるのだが、気温が氷点下に達しており、デジカメの使用温度を著しく下回っているため常温時下のようにバチバチシャッターを押すことが出来なくなっていた。

地球温暖化現象のためキリマンジャロ山頂の雪は減少していると言われているが、目の前には分厚い氷河が立ちふさがっており、眼下には弱肉強食と酒池肉林の営みが日々繰り返されているであろう広大なサバンナが広がっていた。頂上での滞在が我慢の限界を超えた頃、ウイルソンが堰を切ったように登山道を下り始め、思わず5000m級マラソンに参加させられた気分になった。すると暗がりでは見えなかったギボ峰のクレーターが太陽光線により白日の下にさらされ、ここに落下すると神様が準備してくれ~た~霊界の片道切符を手に出来ることが確信された。

高山病からいち早く回復したいウイルソンは下りのルートとしてスキーのゲレンデを彷彿とさせる急斜面を滑り降りる方法を選択しやがった。砂場のモーグル地帯と化している急斜面にはところどころ巨大な火山岩があたかもジャンプ台のように露出しており、通常であれば上村愛子のようにバックフリップを決めるべく第一エアーに差し掛かったところで着地に失敗し、左ケツを強打した際、マサであればケツが二つに割れるほどの衝撃まで覚えてしまった。

満身創痍になりながらも何とか午前9時半頃にはギボ・ハットに帰還することに成功し、疲労で食欲の無い状態でかろうじて朝食のスープをすすり、帰着が遅れているエチオピア大使館員を置き去りにして10時過ぎには9km以上先のホロンボ・ハットへ向かって歩を進めていた。尚、同行した佐賀人は極度の高山病に襲われ、ギルマンズ・ポイントには達したものの頂上への登頂を断念し、その後症状を引きずったままホロンボ・ハットまで帰ってきた。

数時間後に生きながらえて帰ってきたエチオピア大使館員も合流し、疲労のため部屋でもだえ苦しんでいるとウイルソンが登頂成功を祝して乾杯するための赤ワインを持ってきたのでもはやヘモグロビンも必要ないと思いながらも付き合ってやることにした。さすがに今日は寝不足と困憊した疲労のため、午後5時過ぎに夕食を取った後、一生羽化出来ないのではないかと思われる程、泥のように眠り込んでしまった。

1月2日(金)

朝起きるとキリマンジャロから注入された霊力のおかげで体力が120%回復していることに気づかされた。多くの登山客の後塵を拝しながらも貧困国スピリッツを発揮し、昨日の登山では辛くもウフルピークに到達したエチオピア大使館員と共に眼下に広がる雲海を眺めていると、登頂が成功するもしないも所詮は運かい?と考えていた。

午前8時前には登山ゲートに戻るべく18kmにもおよぶ道を歩き始めたのだが、グロッキー状態の佐賀人の回復が思わしくなかったのでポーターがポータルラジオから流れる軽快な音楽に乗って行き来しているのを横目にゆっくりと下山するしかなかった。昼過ぎにゲートに到着すると国立公園事務所でシリアルナンバーで管理されている登頂証明書が授与される運びとなった。尚、賞状の縁取りはウフル・ピークが金でギルマンズ・ポイントは緑としっかりと差別化がなされていたのだ。

昨晩の山小屋でガイドをはじめとする各隊員の勤務評定を行っていたので、浦島太郎がキビ団子を配る要領でチップの支払いを完了し、マイクロバスでホテルに戻ってきた。ホテルではタンザニア国内のツアーを取り仕切っている大手ZARA tours(http://www.zaratours.com/)からもキリマンジャロ登山ツアーの参加賞的な賞状がウイルソンの手から授与された。通常であれば記念写真でも撮るところであるのだが、ウイルソンが共にHappy New Yearを過ごした喜びを分かちあうためにさらなるお年玉を要求してきたので賽銭のつもりで10,000タンザニアシリングを奉納させていただいた。

部屋に戻り、シャワーで5日分の汚れをそぎ落とし、中庭でエチオピア大使館員とキリマンジャロ・ビールで祝杯をあげながら登山の余韻に浸っていた。夕食時に見も知らぬ外人達と登山の成果を報告しあっている頃、初日に出会った時はアルプスの少女ハイジが大人になったような雰囲気をたたえていたスイス人ギャルが高山病のため4700m地点で登山を断念したことをクララのようなクラーい表情で報告しにやってきた。一方、連れのペーター(仮称)はこちらに手を振りながら何事もなかったかのように飯をかっ食らっていやがった。ということで、いかに物知りな♪おしえておじいさん♪というブレインを持っていても高山病は実際に体験しなければ克服出来ないということが教訓として刻まれたのだ。

1月3日(土)

早朝ホテルをチェックアウトし、キリマンジャロ空港発PW721便プロペラ機に乗り込むとあらためてその偉大さを感じさせるキリマンジャロ山を横目にナイロビまで飛行していった。ジョモ・ケニヤッタ空港でDODOWORLDが手配した送迎車に乗り込むと今日の宿泊先であるCOMFORTホテルに早々と引き篭もった。

何とかキリマンジャロから生きながらえて帰ってきたばかりなので治安の悪いナイロビで危険を冒すことのないよう今日はホテルのバーやレストランでウダウダしながら有り余る時間をやり過ごした。

1月4日(日)

早朝4時半に迎えにきたDODOWORLDの職員は治安を考慮してか2名体制を取っていた。5時過ぎには空港に着いたのでしばらくラウンジでインターネットに接続し現世への回帰を図らせていただいた。SA183便ヨハネスブルグ行きは定刻7時30分に離陸し、快晴の空の下、機長の貴重な計らいでキリマンジャロ近辺を飛行していただくこととなった。私の座っている窓側からはクレーターの様子がくっきりと見えるのだが、ブラインドサイドから乱入してきたピントの合わせにくいデジカメギャルにしばらく狭い窓を占領されるはめに陥ってしまった。

午前11時頃O.R.タンボ国際空港に到着し、高利回りにつられて購入した南アフリカランド建て債券が南アフリカランドの暴落により大損害を被っている腹いせに免税品を買い占めようかと思ったが、ランドセル程度しか買えない現金しか持ち合わせていなかったため断念した。

1月5日(月)

SA286便にて13時間の空の旅を経て香港に到着。アップグレードされたNH910便のシートテレビで映画「鉄道員」(ぽっぽや)を鑑賞しながら鼠先輩の事を考えているうちに成田に到着。そのまま六本木に繰り出すことなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \63,210、南アフリカ航空 = HK$13,321

総キリマンジャロ登山ツアー旅行代 $1,995

総タンザニアビザ代 US$50

総ケニアビザ代 US$50

総チップ US$128、Tsh10,000

総登山装備レンタル代 US$5

総歩行距離 64km

協力 ANA、南アフリカ航空、DODOWORLD、ZARA Tours

ウガンダ追悼霊長類ツアー

マサよ、君はかつて「俺たちひょうきん族」で幅を効かせていたお笑い芸人であるウガンダ(http://yakitoriugachan05.hp.infoseek.co.jp/)が先日病で永遠の眠りにつき、その追悼のためにわざわざウガンダまで足を運ばなければならないという義侠心に駆られたことがあるか!?

というわけで、伊丹幸雄(http://supercools.fc2web.com/itami.html)のホラ貝の音色に引き寄せられるかのようにタケチャンマンははるか東アフリカの台地まで飛行機を飛ばして行かなければならなくなってしまったのだが、そこにはブラックデビルのような数多くの霊長類の恐怖が待ち受けているのであった。

2008年8月9日(土)

18時40分発のNH911便にて香港に22時20分に到着し、南アフリカ航空SA287便に乗り換えて13時間にも及ぶ深夜の長旅が始まった。

8月10日(日)

早朝6時30分頃ヨハネスブルグのO.R.タンボ国際空港に到着し、6時間もの長時間を空港でやり過ごした後、午後2時発のSA160便に乗り換え、さらに4時間のフライトでウガンダのエンテベ空港に到着したのは午後7時を過ぎた時間であった。空港で$50を支払ってウガンダ入国のビザを取得し、タクシーでウガンダの首都カンパラの中心地にさらに40分程かけてやってきた。スターウッドのポイントが余っていたのでマサであれば$200くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るシェラトンホテルにチェックインするとビュッフェディナーで空腹を満たした後、念願のベッドでの睡眠となった。

8月11日(月)

早朝7時に今回の現地ツアーのアレンジを任せておいたGreenleafツアーが日程の説明兼ピックアップにやってきたので適当に説明を聞いてガイドのクレアが運転するサファリカーに乗り込みカンパラを後にすることになった。大都会カンパラを一歩出ると道路の舗装状態が極端に悪化し、あちこちにあいている陥没をかわしながら車はウガンダ西部のコンゴとの国境付近に向かった。

6時間程のドライブでウガンダでチンバンジーの生息密度が最も高いと言われているキバレ国立公園に到着した。園内のヘッドクオーターの食堂で多少ぼったくり系のランチセットを食った後、ガイドの先導でチンパンジートラッキングがスタートした。日本の森林公園と見間違えるようなスタンダード系の森に入り、草木を分け入っているとわずか20分くらいで木の上でフィールドアスレチックをやっているチンパンジーに遭遇した。その後地面でくつろいでいるチンパンジーの群れを見つけ、ガイドの指示により絶妙の距離感を保ちながら野生のチンバンジーをじっくり観察することに成功した。

1時間程チンパンジーの生態を研究していると激しい雨が降ってきたのでやむなく撤収し、公園を後にすると今日の宿泊先であるクレーター・バレー・キバレへと非難した。CVKで名の通ったこのロッジの目の前には昔の火山活動によって形成されたクレーター湖が広がっており、レッドテールモンキーをはじめとする野生動物も元気に飛び跳ねていた。夜になるとロッジの女主人が手塩にかけたビーフシチューに舌鼓を打ち、夕食後は即席キャンプファイヤーの前でガイドとウガンダの歴史を語り、かつ冥福を祈りながら静かに過ごしていた。

8月12日(火)

早朝CVKを後にすると、かつてこの地を牛耳り、強大な王国を作ったトロ王国の首都が置かれていたフォート・ポータルに向かった。高台に君臨する建物に向かって車を走らせていると次第に脂の乗ったマグロの最高級の鮨ねたの感覚を覚えた。すると目の前に最近新築されたトロ王国の新宮殿が姿を現したのだが、あいにく武装した警備員に今日はガイドがいないので見学出来ないと言われ、セリが終わった後に築地に魚を仕入れに来たような屈辱感を味わされたのだった。

最高級の鮨ねたは逃したものの、気を取り直して東アフリカで最も多様性のある環境保護を誇っているクイーン・エリザベス国立公園に向かった。途中の道のりで♪ドキッ、ドキッ、♪という鼓動と♪思考回路はショート、燃え尽きそうなヒューズ♪の状態に陥った時、目の前にEQUATORという文字をあしらったまあるいオブジェが姿を現した。そ~か、マサにここが地球を南北に二分する赤道であるにもかかわらず、赤い線が引かれていないということは、♪恋はあつあつ亜熱帯♪と歌いながら布袋寅泰との結婚生活に短期間でピリオドを打った山下久美子(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E4%B9%85%E7%BE%8E%E5%AD%90)も赤い糸で結ばれてなかったのだと納得しながら、EQUATORにぶら下がっている日焼けした赤道小町を眺めていた。

午後のゲームドライブでは主にベジタリアン系の動物をウオッチしながらビタミンCを仮想的に吸収し、目の前で草を食んでいる角の長い牛の肉の消化吸収の一助になればと思いながら、4時前には宿泊先のヒッポ・ヒル・キャンプ・カトゥエに到着した。ここはヒッポ・ヒルの名の通りクレーター湖を見下ろす小高い丘の上を根城をしており、時折カバも訪れるということであったが、夕食にはカバの蒲焼が供されることはなかったのだ。

8月13日(水)

夜明け前の午前6時半よりゲームドライブをスタートさせるとあいかわらずイボイノシシ、アンテロープ、ウォーターバックといった単調なヘルシー系の動物のウォッチングで時間が過ぎて行った。ふとサファリ・カーが集結しているポイントに目を奪われ、脱兎のごとくそこに参加するとブッシュの奥でシャイなライオンがこちらを伺うように佇んでいる姿が発見されたのだった。また別の場所ではジャイアントモリイノシシが鋭い牙とブタ鼻で威嚇するようにすごんでいた。

クイーン・エリザベス国立公園にはエドワード湖とジョージ湖という二つの大きな湖があり、それらがカジンガ運河という細めの水路で結ばれており、そこをボートで往復しながら動物見物をするというボートサファリがこの公園のハイライトになっている。午後4時発のボートに乗り込むとここでボ~とした2時間を過ごさなければならないのかと思っていたが、そこには想像を絶する動物模様が繰り広げられていたのだった。

救命胴衣を身にまとった観光客を満載したボートが出航し、岸べりを航行しているとおびただしい数の動物が水浴びをしている姿を垣間見ることが出来る。ここで確認された生態はカバとバッファローは混浴仲間であり鳥を背中に乗せながら仲良く♪ババンバ バン バン バン♪状態を共有して平和に過ごしていることだった。

マサよ、君は象が目の前で泳いでいる姿を見てゾ~として目が泳いでしまったことがあるか!?

ということで、ここでは日中の暑さを避けるためにおびただしい数のアフリカ象が水浴びおよび象かきで泳いでいる姿を瞼とデジカメのメモリーに焼き付けることが出来るのである。

ボートは運河を往復し、漁民の集落が点在する地域を航行すると近くにダンディーなクロコダイルが潜んでいるリスクを省みず、少年たちは湖ではしゃぎ泳いでいた。また、漁民は各自の船で漁に繰り出し、それを日通系のペリカンやアフリカハゲコウが興味ないふりで見守っていた。

8月14日(木)

夜中の3時過ぎにキャンプの敷地内やテントの周辺を練り歩くようなミシミシという謎の足音で悩まされ熟睡することが出来なかった。宿泊責任者にその足音の実態を尋ねると案の定15頭ほどのカバがおいしい草をたべにわざわざここまで遠征に来られたということであった。尚、カバは夜行性で夜中に草を食べるため数キロもの道のりを歩き、走れば以外に早いという生態がすでにこの目で確認されていたのだった。

眠い目をこすりながら早朝ゲームドライブを開始するとキャンプから地元の湖に戻るカバの集団に遭遇した。サバンナ地帯に入り、昨日ライオンを発見したブッシュ近くで同じメスライオンを発見した。さらに2頭のカブを連れたメスライオンがサファリカーから子供を守るようなしぐさでカメラに向かってポーズを取ってくれた。

マサよ、君は象のパレードに道をふさがれ、その迫力にたじろぎ固まったことがあるか!?

早朝ゲームドライブを終えてキャンプに戻る途中で道端から1頭の象が姿を現した。今となっては象も珍しくなくなったので軽く記念写真を撮ってあげてやりすごそうと思っていたところ、草葉の陰から次から次に老若男女の象が大挙して出現し一気に道路を埋め尽くしてしまった。アンカーの象が道を通り過ぎ集団が湖に去って行ったのを確認した後、正気を取り戻して再びキャンプへの帰路を急ぐことにした。

キャンプの手前の原住民の居住地では子供が旅行者に手を振ってくれるシステムになっていたので軽く記念写真を撮り、その出来栄えを見せ付けた後チェックアウトし、次の旅程へと移動することにした。その道すがら道端で巨大なヘビとトカゲの死体を弄んでいる学童達がいた。聞くところによるとウガンダの人は毒を持つ爬虫類が嫌いでそれらが繁栄しないように死んだ後も徹底的に痛めつける行動形態があるとのことであった。

大いなる驚異と感動とやすらぎを与えてくれたクイーン・エリザベス国立公園を後にすると、グレート・リフト・バレーという大地溝帯を見下ろす山間に向かって車を走らせた。午後3時過ぎに今日の宿泊先であるキチュワンバのカタラ・ロッジに到着し、部屋に電気を通していないためランプの灯火で自然の音に耳を傾けながら蚊帳を吊ったベッドの中ですでに蚊に食われた手足を掻き毟り、マラリアの恐怖におびえながら夜を明かした。

8月15日(金)

カリンズ森林という世界でも類まれなアクセス環境の良いチンパンジーの観察に適した森林保護区を訪問させていただいた。ここはエコツーリズムを実践するために日本の援助も受けており、日本人の研究者も長期滞在してチンパンジーの生態解明に一役買っているのだ。

午前8時より早速チンパンジー・トラッキングを開始し、鬱蒼とした森に入って行った。キバレ国立公園内の森よりも起伏が激しいためか歩き始めて40分経っても動物の姿さえ発見することが出来なかったのでこの森で目にする霊長類は先導するガイドだけではないかという不安に苛まれたものの、先に森に入ってチンパンジーの居所を見つけてくれている先行隊からの携帯電話による誘導により9時ごろにはチンパンジーの鳴き声がけたたましいスポットに到着することが出来たのだった。

川口と名乗る青年海外協力隊によりウガンダのエコツーリズムのミッションで派遣されている横浜の動物園のインド象飼育担当係の説明に耳を傾けながら、チンパンジーの生態に関して詳細に理解することに成功したのだが、彼が私にウガンダを旅行先に選んだ理由を尋ねたとき、決してお笑い芸人のウガンダの追悼のため、お盆のこの時期を選んだやって来たのだという事実を告げることが出来なかったため、無邪気な動物好きを演じながらトラッキングは正午まで続けられた。

森の中ではチンパンジーが草木や枝を使ってこしらえたシングルベッドや高い木の上で細い枝を伝い起用に移動しながら木の実を探している行動形態を十分に観察することが出来た。また、森の中には他に6種類の霊長類も生息しており、そのなかでシロクロコロブスというロンゲの美しい猿は集団で姿を現し、チンパンジーに捕食される恐怖に怯えながらもその神々しい姿をさらけ出してくれたのだった。

川口氏に来年の3月迄の任期をまっとうするように励ました後、カリンズ森林を後にし、400km以上離れたカンパラへの帰路に着いた。道路のアスファルトはあいかわらず所々に陥没が見られるもののガイドのクレアは構わずにサファリカーをハイスピードで転がしていた。すると途中でけたたましい警告音とともに右前輪部から白煙が上がってきた。丁度町中にいたため、どこからか探してきた自動車整備工の若者に症状を確認させたところ、ブレーキパッドが破損し、ブレーキオイルが漏れるという重大な故障が確認された。

何とかブレーキの故障箇所を交換し、ブレーキオイルを充填すると車は何事もなかったように走り始めた。しかし、そこから200kmくらい走ったところであったろうか、突然車からパンクのような大きな破裂音が聞こえたため足回りをチェックしたのだが異常が見られなかったため再び走り出すと突然車はパワーを失い路肩への停車を余儀なくされてしまった。車内に充満する異臭の元を特定するために助手席の座席の下のエンジンを確認するとそこから黒い煙がもくもくと湧き上がってきやがった。

狼狽したクレアは本社に携帯で連絡を取り、道行く子供を小銭で買収して水を汲みに行かせるなど緊急対応を取っていたのだが、最終的に車を放棄して5km離れた最寄の町まで移動して、本社からの助けを待つという決断が下された。この5kmを移動する手段としてヒッチハイクが試みられたのだが、首尾よく荷台に小ぶりのスイカを満載したトラックが止まってくれたので♪ドナドナドナ ド~ナ~♪状態でスイカを一玉たりとも潰さないようにケアーしながら町に到着したのであった。

結局カンパラへの到着が予定より3時間以上遅れて午後10時過ぎになり、ツアー会社の和田氏に夜食をご馳走になりながら、今回の旅行の感想を語ることとなった。確かに何度かのトラブルに見舞われたのだが、ウガンダという国は困っている人がいると必ず誰かが助けてくれるという国民性を十分に理解出来たので不思議と不安に陥ることはなかったぜとリップサービスをしておいてやった。

8月16日(土)

再びただで宿泊したシェラトンホテルを5時間程度の滞在でチェックアウトすると早朝4時半にエンテペ空港に向かった。午前7時30分発のSA161便でヨハネスブルグに戻り、さらに6時間後に香港への機上の人となる。

8月17日(日)

午後12時過ぎに香港に到着し、引き続き午後3時10分発のNH910便にてビジネスクラスのアップグレードを受け、ウガンダに感謝しながら帰国し、そのまま川の流れのように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥44,250 南アフリカ航空 = ¥198,700

総シェラトンホテル宿泊費 ただ

総ウガンダ旅行代 $1,950

総ウガンダビザ代 $50

総タクシー代、空港シャトル代 Ush 90,600 ($1 = Ush 1,530)

協力 ANA、南アフリカ航空、STARWOOD、Greenleaf Tourist(http://www.green.co.ug/index.jp.html

第二回FTB野生の王国 in ケニア

ジャンボ~ マサよ!

ということで、2007年の1月に南アフリカ共和国の誇るクルーガー国立公園にてFTB史上初のサファリツアーを敢行したことは記憶に新しい快挙であるのだが、当時はベジタリアン系の動物にしか遭遇出来ず、ライオンと一緒にライオンハートを合唱することさえままならなかった。今回はそのリベンジを果たすべくサファリの殿堂ケニアに乗り込み、勇猛果敢なマサイ族の狩猟技術を参考にし、財務省のマサを盾に取りながら国民からの非難の矢をかわす技術を習得するために立ち上がったのだ。

2007年12月27日(木)

午後5時25分発のNH901便シンガポール行きに搭乗すべくANAのカウンターを訪れるとお約束通りにエコノミークラスが満席のため、ビジネスクラスへのアップグレードの権利を得ると7時間の快適なフライトで深夜12時前にはシンガポール、チャンギ国際空港に到着した。

12月28日(金)

草木も眠る丑三つ時である午前2時半にシンガポール航空SQ478便ヨハネスブルグ行きに搭乗すると9時間程の長時間フライトでヨハネスブルグ、ORタンボ国際空港に到着した。ここからさらに南アフリカ航空SA182便ナイロビ行きに午前9時50分に乗り込むと4時間のフライトでナイロビ、ジョモ・ケニヤッタ国際空港に午後3時過ぎに到着した。

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マサよ、君は「地球の歩き方」でさえ、決して歩いてはいけないという危険地帯に果敢にも足を踏み入れたことがあるか!?

というわけで、ケニアの首都ナイロビは昨今治安の悪化が著しく、ジャンボ~!と言いながら乱暴なことをする不貞の輩が多いと聞いていたので今回のツアーではあらかじめすべての旅程をDoDoWorldという日本人経営の旅行会社にまかせていた。空港に迎えに来ていたDoDoWorldの送迎車に乗り込むと自分で予約しておいたHilton Nairobiまで送っていただき、日本を発ってから30数時間後にとうとうベッドに体を横たえることと相成った。

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12月29日(土)

午前8時にダニエルと名乗るDoDoWorldのドライバーがワンボックスサファリカーで迎えに来てくれたので早速実車するとケニアの代表的な国立公園の1つであるアンボセリ国立公園へ向かった。長時間のドライブのため、途中休憩所兼土産物屋に寄ったのだが、そこの店員であろう若人は物品を押し売りする気配もなかったのでしばらく雑談に花を咲かせていた。彼はケニアに来てもう動物は見たのかい?と聞いてきたので、ここに来る道すがらすでに牛、ヤギ、ロバは見てきたぜ!と答えておいた。

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サファリカーがナマンガという町のタンザニアとの国境ゲート近くに差し掛かるとそこから道はオフロードになり、4WDのポテンシャルがいかんなく発揮されることとなった。アンボセリ国立公園のゲートに到着すると数台のサファリカーが入場のための列をなしていた。その間土産物売りの原住民が車の窓にへばりついてきて盛んに実はMade in Chinaかも知れないハンドクラフト品を彼らの言い値で売りつけようと躍起になっていた。公園のゲートを抜けるとそこから先は砂嵐舞い上がる不毛な世界が広がっており、わずか数頭の草食動物がたそがれながら歩いていた。やがて車は広大なサバンナに突入し、見渡す限り平坦な台地に芝生に毛が生えたような草が生い茂っている景色となった。

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午後1時前にアンボセリの宿泊先であるソパ・ロッジにチェックインするとビュッフェタイプの昼食で空腹を満たした後、3時半より念願のゲームドライブがスタートした。ワンボックスタイプのサファリカーは屋根を上に押し上げてサイドをオープンにすることが出来るので立ち姿で動物観察に励むことが出来るような構造になっている。とある高い木が繁茂している地域に差し掛かるとふと「ホームレス中学生」を著してベストセラー作家となった漫才師の感覚を覚えさせられた。すると目の前にはギザギザ模様を持つマサイキリンが葉っぱを引きちぎりながら咀嚼している姿が飛び込んできた。

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今日は3時間ほどゲームドライブを楽しませていただいたのだが、今日の収穫はサバンナをマサに我が物顔で集団行動しているおびただしい数のアフリカ象であった。また、アンボセリの展望台としてオブザーベーション・ヒルが盛り上がっており、公園内で唯一徒歩で外に出られる場所となっているのでそこから園内の遠景を見渡すことが出来たのであった。本日のサファリが終了し、夕食を終えた頃にはあたりは漆黒の闇夜となっていた。空にはこれでもかと言うほどの満天の星が今にも降ってくるかのように輝いていた。

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12月30日(日)

アンボセリはキリマンジャロの山麓の北に広がる原野であり、アーネスト・へミングウエイがハンティングを楽しみ、「キリマンジャロの雪」を執筆した場所として名を馳せている。尚、キリマンジャロがその勇姿を現すのは雲のない早朝の時間に限られているため、午前6時にはいそいそと起き出してロッジの敷地内のビューポイントに向かった。そこには万年雪を抱いた標高5,895mのキリマンジャロが朝日に輝いており、キリマンジャロブレンドであるはずのコーヒーを飲みながら、その霊験あらたかな姿に思わず合掌してしまったのだった。

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午前8時より2日目のサファリの開始となった。本日の最大のハイライトは昨日見つけることが出来なかった百獣の王をこの目にしかと焼き付けることに他ならない。通常であればアンボセリでは水場近辺で容易にライオンを見つけることは可能であるとのことであったが何故か今回はなかなか姿を現そうとはしないのだ。サバンナを遠巻きに眺めていると何とか仰向けでだらしなく片足を上げた不貞寝雄ライオンを辛うじて発見出来たにとどまった。それ以外は相変わらずのバッファローや象の集団に遭遇するのが関の山であった。

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マサよ、君はサファリパークではお目にかかることは出来ない野生のライオンを至近距離で目撃したことがあるか!?

ということで、ドライバーのダニエルが5.0以上であるはずの脅威の視力でついにブッシュに隠れているライオンを見つけ出した。早速接近遭遇を試みるべく車をライオンの目と鼻の先に横付けにしていただいたのだが、ライオンは全く動じることなくその場で車の挙動を見やっているだけであった。この好機を捕らえてライオンハートを大合唱しようとしたのだが、メンバーがメス2頭とオス1頭だけであったので5人組のSMAPを形成することが出来ずに断念したのだった。

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公園内の1等地に君臨しているアンボセナ・セレナロッジで昼飯を食った後、マサと何らかの血縁関係があってほしいマサイ族の集落を見学するプランも考えられたのだが、マサイ族と堅気のケニア人の見分けがつかないためにプライドの高いマサイ族から槍を投げられるのを恐れて断念した。その代わりに早々とロッジに戻り、プールサイドのデッキチェアに横たわりながらいかりや長介とアダモステの幻影でお茶を濁しておいた。

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12月31日(月)

今日は朝からどんよりと曇っており、時折小雨が落ちてくるような天候だったので早朝のキリマンジャロに向かって拍手を打つことは出来なかった。午前7時半にソパロッジを後にするとアンボセリ国立公園内を軽くミニゲームドライブをしながら抜けていった。途中タンザニアとの国境近くのガソリンスタンドで給油待ちをしているとお約束のマサイのいでたちをした原住民の土産押し売り攻撃にあってしまった。その中で1人民族衣装をまとっていない女性がマネージャーよろしくお金のぼったくりを取り仕切っており、土産を買わないと見ると異なる戦略を展開してきたのだ。まず写真を撮っていいというので1枚取るとここに9人そろっているから1人あたり50シリングとして合計450シリングをよこせと言ってきやがった。写真のレイアウトの関係で9人全員が入らなかったことも手伝って財布の中の小額紙幣と小銭をかき集めて200シリング程度でお茶を濁そうとしている間に給油も終了したので原住民とのコミュニケーションもあえなく強制終了となったのであった。

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昼頃に一旦ナイロビを経由してナクル湖に向かう道すがら地球の溝と言われるグレート・リフト・バレーの大景観を見渡すことに成功した。この溝はモザンビークからレバノンまで6,500kmにもわたっており、バレーの底には無数の動植物たちがひしめいているのだ。

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午後3時過ぎにナクル湖国立公園に到着し、早速ゲームドライブを始めることとなった。この場所は湖を抱える公園とあって草原が広がるサバンナとは異なる生態系を有している。数多くの草食動物がたわむれているさんま系の樹木であるはずのアカシアの林を抜けるとふと♪背番号1のすごい奴が相手♪のような感覚に見舞われた。気がつくと目の前にはピンク色に染まった湖が広がっており、何とそのピンク色の正体は♪わ~たしピンクのサウスポ~♪ではなく無数の1本足打法のフラミンゴであった。

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ソーダ性の湖であるナクル湖には体は白く、くちばしは黒い先端以外はピンクのオオフラミンゴとピンクがかった羽と赤黒いくちばしを持つナガシマフラミンゴではなく、コフラミンゴが生息している。また、宅急便を配達出来そうなほど大きなくちばしを持つ日通系のペリカンやリーブ21が必要だと思われるアフリカハゲコウというみすぼらし系のコウノトリも存在感を示している。

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さらにゲームを続けるとゴルフ場のグリーンのように短く刈り込まれた芝生のような草原に到着し、何かしら巨大な物に遭遇しそうな不安感にサイなまれた。するとそこには色白で鋭い一角を尖らせている巨大なシロサイがその偏平足で草地を踏み慣らしながら、食事と排泄を同時に行っていた。

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再びから騒ぎを期待してアカシアの林をドライブしていると遠めにさんま好みであるはずの柄をまとった獣の気配を感じた。そこにはヒョウが飄々と木の枝に寝そべっている姿があったのだった。さらにその近くのブッシュには体はシロサイよりも小さいがよりアグレッシブに攻撃をしかけてくるクロサイの親子が散歩している姿があった。

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夕方6時過ぎに今日の宿泊基地であるサロバ・ライオン・ヒル・ロッジにチェックインした。高級感溢れるロッジはクリスマスから新年の雰囲気で盛り上がっており、バーの野外ステージでは紅白歌合戦に匹敵するであろう白組対青組のケニア人ダンス大会が繰り広げられており、観光客の喝采を浴びていたのだが、ダンスが終わりダンサーがCDを売ろうとすると何故か拍手が小さくなっていったのだった。また、当然のことながら夕食後の宴は深夜まで続き、宿泊客を巻き込んだケニア人従業員の狂乱ダンスは新年のカウントダウンでクライマックスを迎えたのだった。

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2008年1月1日(火)

ハッピーニュー マサよ!

というわけで、昨夜の喧騒にもかかわらず、今朝は6時半から早朝のゲームドライブを開始した。バブーン・クリフというナクル湖を一望出来る高台にはその名の通りさかりのついたバブーンの楽園となっており、その隙間をイワハイラックスという岩場で群生しているウサギに似た小動物が駆け足で蠢いているのだ。

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めくるべく快感を与えてくれたナクル湖を後にすると、昼過ぎにナイロビに戻り、ウイルソン国内空港で4日間のドライバーを務めてくれたダニエルに別れを告げるとAIRKENIAのDash 7というプロペラ小型機に乗り込みマサイ・マラへと飛び立った。機上から果てしなく広がる大草原を見渡していると飛行機は徐々に高度を下げ土色の滑走路の小さな空港へ着陸した。そこで乗客の入れ替えを行った後、再び離陸し3分後に他の草原空港に到着した。さらに3番目の空港で飛行機を降りると迎えのジープに乗り込み、すぐにイブニング・ゲーム・ドライブのスタートとなった。マサイ・マラ国立保護区はタンザニアのセレンゲティ国立公園と繋がっており、パスポートの提示の必要ない動物たちは自由に国境間を行き来することが出来、ヌーの大移動は一大イベントとなっているのだ。ジープのドライバーによると通称アフリカンマッサージと呼ばれる揺れを発生させながら、車は草原の中の轍や川さえも渡りながらサファリはサンセットまで続いた。

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夕暮れ時にダチョウ倶楽部に遭遇したせいか、送迎されたロッジに「聞いてないよ!」と言われ、間違ったロッジに到着したことが発覚したものの、無事宿泊すべきキャンプからの使いのジープで旅程にはないナイトサファリを楽しみながら午後7時半過ぎにはマサイ・マラのキャンプ地であるフィグ・ツリー・キャンプに到着した。今日は新年のスペシャルイベントとしてブッシュ・ディナーが催行されるというので早速送迎大型四駆車に乗り込みブッシュに向かった。尚、ブッシュ・ディナーと言うものの決してジョージ・ブッシュ大統領の失政を糾弾するためのディナーではないことは明らかで星空の下シェフがその場で調理する高級そうなディナーに宿泊客は皆舌鼓を打っていた。やがて舌鼓が本当の鼓のリズムに変わるとお抱えの契約ダンサーであるはずのマサイ族が「鍛えれば全身バネになる!」系のダンスを始めてしまった。当然のことながら千葉ロッテ・マリーンズのファンが球場で見せるジャンプよりも確実に高く跳んでいたのだ。

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1月2日(水)

フィグ・ツリーキャンプは周囲をタレク・リバーに囲まれており、深夜にカバがやってきた様子でブフォー、ブフォーと水を吐き出す騒音のため熟睡することが出来なかった。早朝6時前に従業員にたたき起こされた頃にはカバはすでにチェックアウトしていたのでその姿を見て苦情を言うにはサファリでの出会いまで待たなければならなかった。

6時半より念願のケニア最大の野生動物の宝庫となっているマサイ・マラ国立保護区でのサファリがスタートした。数多くの種類の草食動物はすでに他の公園で見ているのでマサイ・マラでは肉食獣が至近距離で見物出来ることを期待した。ところで、ケニアのサファリの目玉としてバルーン・サファリという熱気球で低空飛行しながら動物達を見下し、おまけにバブーンにさえ邪魔されない草原にバルーンを不時着させ、シャンペン付き朝食をご馳走になるという催し物のためか空にはいくつかのバルーンが浮かんでいた。

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ライオンはすぐに私の目の前に姿を現した。草原に伏せている単独の雌ライオンは遠吠えで群れの仲間を呼び寄せており、ブッシュでくつろいでいる2頭の雄ライオンはさわやかな朝の空気の中リラックスした雰囲気でくつろいでいた。

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朝食後10時より2回目のサファリがスタートとなったのだが、♪いちねんさんびゃくろくじゅうごにち♪のスタート早々、幸先良くチーターに遭遇することに成功した。数台のサファリカーがチーターを取り囲んでいる中、あたりを見渡しているチーターは365歩のマーチがバカ売れしたわけでもないのに何でこんなに人気があるのだろうといぶかっている様子であった。

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マサイ・マラを流れるマラ川にはいくつかのヒッポプールと呼ばれるカバの入浴ポイントがあり、そこでは車から降りて川を見下ろすことが出来るのだ。川にはダンディーなクロコダイルも暮らしているがシャイなためか見つけてもすぐに川の中に姿を消してしまった。昨夜にキャンプで安眠妨害したブフォー者のカバを罰として蒲焼にでもしてやろうかと思ったが、個体が特定出来ないので断念するしかなかった。

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午後4時よりイブニング・サファリのスタートとなった。早速茂みの中に10数頭のライオンが眠っているスポットを発見し、そこはマサに青空ライオンホテルの様相を呈していたのだ。

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というわけで、今日はおはようからお休みまで暮らしを見つめるライオンの提供でサバンナの脅威を実感することに成功した。

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さらに川沿いを走っていると巨木の枝でヒョウが昼寝している姿を真近で目撃してしまった。熟睡しているとはいえ、いつ何時猛獣に豹変するかも知れないので注意しながら観察を行わせていただいた。

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1月3日(木)

午前6時半より今回のツアーでの最後となるモーニング・サファリが敢行された。日の出とともに1頭のメスライオンが草原に佇んでいる姿を発見したのだが、そのライオンは獲物からの返り討ちのためか足に傷を負っているため車の接近に非常にナーバスになっていた。手負いの獅子は非常に危険なのでサファリカーは足を引きずりながら遠ざかるライオンをこれ以上追うことはなかった。

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ここ2日間何事もなくサファリは遂行されたのだが、ここに来て突然トヨタ・ランドクルーザーサファリカーの右後輪が前触れもなくパンクしてしまった。原住民ガイドは持っていた短剣で近くに生えている木から枝を切り落として即興のタイヤ止めを作ると運転手は手際よく大型ジャッキで車を持ち上げて短時間でスペアタイヤに交換してしまった。

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パンク修理でのタイムロスを補うかのように朝のさわやかな空気の中を♪ワンツー、ワンツー♪と元気よく歩いているチーターとの近距離接近遭遇に成功した。

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今回のサファリツアーの締めくくりとして狩りに向かうライオンの群れが現れた。サバンナを悠々と練り歩くライオンの姿はマサに百獣の王と呼ぶにふさわしい荘厳な雰囲気を醸し出し、途中子どもをブッシュに残して親ライオン達は獲物に向かって突進していったのだった!

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サファリでの全旅程を終了すると再び草原空港からプロペラ機に乗り、ナイロビへと帰って行ったのだが、ナイロビ市内は数多くの警官により厳戒態勢が敷かれていた。年末に行われた大統領選挙で与党の現職大統領が再選されたのだが、選挙結果の開票遅れをいぶかった野党が不服を申し立てたことが発端となり、大きな暴動が引き起こされ数百人の原住民が命を落としてしまったのだ。ウイルソン国内空港に迎えに来てくれたDoDoWorldのドライバーの顔にも緊張感がみなぎっており、何とかHilton Hotelまで送っていただいた後、ホテルの部屋から官庁街を見下ろすと人も車もほとんど通ってない状況だったので今日はホテルのテレビニュースで行く末を見守るしかなかったのだ。

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1月4日(金)

昨日の喧騒から一夜明けると街は多少落ち着きを取り戻し、人も車も官庁街に戻ってきていた。午前10時にホテルをチェックアウトし、DoDoWorldの迎えで一旦DoDoWorldオフィスに寄った後、空港へ帰る道すがらウタマドゥーニという土産物屋で物品を購入した。

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マサよ、君は旅の途中の空港でイエローカードをもらったことがあるか!?

私は・・・・・ある!!!

ということで、無事ジョモ・ケニヤッタ国際空港に到着し、南アフリカ航空のチェックイン・カウンターで搭乗券をもらっているといきなりケニアに7日以上滞在した輩が南アフリカに行く際には黄熱病予防接種のイエローカードが必要だと言われ、カウンターの後ろで乗客の荷物をベルトコンベヤーにぶん投げていた原住民に空港内のクリニックまで強制連行されてしまった。事務所らしき所には同じ目に遭っているいる乗客が数人待機しており、手数料KSH450を支払い、パスポートを提示すると別室に連れて行かれ野口英世の業績さえ知らなさそうなおよそ看護婦らしくない女性から左肩にブスリと注射をかまされてしまった。しばらくして首尾よくイエローカードの入手に成功したのだが、本来はケニア入国の12月28日には接種していなければならなかったため、イエローカードの発行の日付が28日に調整されていた。しかも、事務所のおばちゃんに領収書の日付は1月4日になっているのでその領収書は人目にさらすことのないように注意された。

何とか午後3時45分発のSA183便の搭乗に成功し、午後7時前にヨハネスブルグに到着した。入国審査では案の定イエローカードの提示を要求されたので「この紋所が目に入らぬか!?」という勢いでカードを提示すると何事もなかったように南アフリカ共和国への入国を果たしたのだ。

1月5日(土)

The Airport Grand Hotelの中庭のプールで上空を轟音とともに着陸態勢に入っている飛行機を眺めた後、送迎バンで空港まで移動し、午後1時30分発のSQ479便にてシンガポール行きの機上の人となる。

1月6日(日)

夜も明けきらぬ午前6時前にシンガポールに到着し、午前8時35分発のNH112便に乗り込むとチーターに教えられた♪じ~んせいは ワンツー パンチ、汗かき、べそかき、あるこ~よ♪を胸に成田に帰国、そのまま流れ解散。

総飛行機代 ANA = ¥78,070、シンガポール航空 = S$2,116.-、南アフリカ航空 = ¥73,140

総宿泊費  KSH18,956.7、ZAR924.15

総ロッジサファリツアー代  $2,650

総ケニアビザ代 ¥6,000

総黄熱病予防接種代 KSH450 (KSH1 = ¥1.9)

協力 ANA、シンガポール航空、南アフリカ航空、HILTONHHONORS、DoDoWORLD(http://www.dodoworld.com/)、PORT PUBLIC HEALTH OFFICE JOMO KENYATTA AIRPORT

新春スペシャル FTB野生の王国 in 南アフリカ

ハッピー ニュー マサよ!!

ということで、チーターから逃げ切れるだけの脚力をキープするために日々のトレーニングを怠ることが出来ない今日この頃であるが、実はチーターは一日一歩、三日で三歩しか進まず、しかも三歩進んで二歩下がるという行動体系が確認されていた。何はともあれ、もはや紅白歌合戦でも見ることが出来なくなったチーターはともかく、本物の野生とはどういうものかを認識するために年明けより地球の裏側まで飛行機を飛ばすことにしたのであった。

2007年1月1日(月)

元旦一日だけで年間売り上げの半分以上を稼ぎ出すという京成電鉄に乗り成田駅で下車し、初詣客で立錐の余地のない成田山新勝寺の参道を歩いていると境内は入場規制がかけられており、容易にお参りも出来ない様子が確認されたのでそのまま引き返し、成田空港へ向かった。ANAのラウンジにて成田山新勝寺のウエブサイト(http://www.naritasan.or.jp/index2.html)にアクセスし、リモートで2007年のマサの財務省での活躍を祈願しておいたわけであるが、神様も一日何百万件もの願い事はさばき切れるわけもなく、オンサイトでもリモートでもご利益には大差はないと思われたのだ。

日本最大級の初詣ファシリティの成田山新勝寺のご利益のおかげでANAから無償アップグレードを提供され、颯爽とB767-300ER機の1B席に腰をおろすと快適なフライトで翌2日の午前0時過ぎにはシンガポールに到着した。

1月2日(火)

SQ478便、B777-200機は満席の乗客を乗せて定刻午前2時15分にはシンガポールを出発し、約11時間のフライトで午前7時前には南アフリカ最大のヨハネスバーグ国際空港に到着した。世界最強の犯罪都市であるヨハネスバーグへの侵入は断念し、今回はそのまま南アフリカ航空SA317便、B737-800機に搭乗し、ケープタウンを目指すことにしていた。

ケープタウンに到着したのは午前11時過ぎだったので日本を出て約24時間で目的地に着いたことになる。空港のバゲージクレイムのそばに市内へのシャトルを取り扱っているカウンターがあったのでそこでR110を支払って予約し、午後12時過ぎにシャトルのミニバンに乗り込み、一路ケープタウンのダウンタウンを目指した。バンは空港の敷地を出て広い道をシティに向かっていたのだが、道路を仕切る柵の向こうには無数のトタン系のバラックによるコロニーが形成されている様子が垣間見れた。

あらかじめケープタウンロッジという☆☆☆☆ホテルを予約していたので客室最上階の8階の部屋が無意味に広いことに驚きながらチェックインした後、早速新年の喧騒で賑わっているであろうウォーターフロント地区に足を運ぶことにした。背中に迫り来るケープタウンのシンボルであるテーブル・マウンテンの迫力を感じながらウォーターフロントのシンボルである時計塔があるワーフまでたどり着いた。

観光案内所の近くにロベン島へのツアー窓口兼ビジターセンターがあったので入って見ることにした。ロベン島とはテーブル湾沖合い14km程のところに浮かんでいる島であり、アパルトヘイト時代に政治犯が収容されていた黒人専用の刑務所島で、ネルソン・マンデラ氏も収容されていたこともあり、今では世界遺産となっているのだ。尚、ロベン島へのツアーは非常に人気があるようで1月13日まですでに予約で埋まっているとの無常な張り紙があったため、ビジターセンター内に展示されているいくつかの写真の中で釈放されたマンデラ氏がマンザラではないという表情を浮かべている様子を見て我慢するしかなかったのだ。

テーブル湾の中でも入り組んだ波止場の地域はオットセイの格好のプレイステーションになっている様子で数多くのオットセイ野郎が階段の上で日向ぼっこをしたり、遊泳をしたりして観光客を喜ばせていた。さらにウォーターフロント一帯は一大ショッピングセンターとレストラン街で形成されており、道行く人の75%くらいは白人で、思わずここは「欧米か!?」を突っ込んでしまいそうな洗練された雰囲気を醸しだしていたのだ。

1月3日(水)

ケープタウンは公共の交通機関が発達してなく、主要観光スポットへはツアーを利用するのが一番便利だということなのでホテルにおいてあったパンフレットを参照してTable Mountain, Peninsula & CapePointのFull Day Tour (R570)に参加することにした。午前8時過ぎにフォルクスワーゲンのバンを駆る黒人運転手兼ツアーガイドが迎えにきたので車に乗り込むと何と他に参加者のない独占ツアーであることが確認されたのであった。

マサよ、君は黒人も日焼け対策を施している事実を目の当たりにしたことがあるか!?

ということで、まず最初に訪れたのはケープタウンの象徴的存在であるテーブル・マウンテンであるのだが、この名前の由来は岩盤でできた海抜1087mの山頂がナイフで横に切ったように平らなためであるという。頂上までたどり着くには徒歩かロープウエイを選択することになるのだが、ツアーの時間規制のためロープウエイ(R120/往復)を選択することにした。チケットを購入する列に並んでいると私の直前の黒人女性の顔に白いクリーム状のものが塗りつけられているのを発見したのだが、それは明らかにサンスクリーンであるものと思われた。

満員の観客で膨れ上がったロープウエイは内部が回転する構造で、上りながらすべての方向を眺望出来るような仕組みが取られており、5分程の短時間で頂上に到着するに至った。丁度ロープウエイに乗る直前にテーブル・クロスと呼ばれるテーブル・マウンテンを覆う白い雲がかかり始めていたので頂上ではいい具合に流れる雲の隙間からケープタウンの町並みや大西洋が見え隠れしていたのであった。

頂上にて30分程の美しい眺望を楽しんだ後、ロープウエイで下山し、ワーゲンバンに乗り込むとハウト湾という港町に向かった。ここでのアクティビティはオットセイのコロニーとなっているドイカー島行きのフェリーに乗り、そのまま引き返して帰ってくることである。早速チケット売り場で10時15分発のフェリーのチケットを買おうとしたのだが、売り切れになっていたため、近くの売店で巨大オットセイを回しているルンペン風のおやじに小銭を寄付した後、11時に出航する他の船(R55)に何とか乗り込むことと相成った。さわやかな海風と吐き気を催す揺れを感じながら15分程航行すると岩で出来た小島に多数のオットセイがへばりついている姿が浮かんできた。船の舳先でタイタニックのポーズを決めながらオットセイの生態を十分確認することが出来たので港に戻るとファンキーに着飾った原住民が下船する乗客にダンスを決めていたのでここでも低額のチップをはずまざるを得ない状況であった。

チャップマンズ・ピーク・ドライブ(R35)という高さ600mの岩山を通る全長10kmのドライブウエイでケープ半島一の眺望を楽しみ、さらに白砂のビーチを眺めて眩しくなった後、バンは喜望峰自然保護区(R55)のゲートをくぐることとなった。まずはケープポイントというケープ半島の先端にあるルック・アウト・ポイントまでケーブルカー(R25/片道)で登り、そこからあのヴァスコ・ダ・ガマも見た喜望峰を見下ろし、インド洋と大西洋の狭間に立ちながらインド洋からの風が大西洋の風よりも5℃高いことを実感していた。その後、喜望峰までバンで移動し、その看板の前で初詣が出来なかった腹いせとして代わりにマサの悲願である天下り先が速やかに斡旋されるように希望の願いをこめておいた。

ツアーのクライマックスとしてケープ・ペンギンが生息するボルダーズ・ビーチ(R25)を訪問した。観光客はペンギンの私生活をおびやかさないようにビーチへの侵入を禁止されているため、遊歩道を歩くことになっているのだが、目的地に近づくにつれてロッテ・クールミントガムを噛んだ時の爽やかさの代わりに獣の生臭さを強く感じることになるのである。尚、ここに住んでいるペンギンどもは人見知りをするどころかむやみに近づくと人類に対してもアグレッシブな攻撃を仕掛けてくる生態さえ確認出来たのであった。

ツアーも無事終了し、ホテルのレストランで南アフリカ産の赤ワインを飲みながら肉を食った後、深夜部屋でまどろんでいるとけたたましい喧騒により夢からうつつに引き戻されてしまった。何とホテルの目の前で年明けのわけのわからないフェスティバル&カーニバル系の黒人行進が笛やトランペットや歌声とともに私が気を失う午前2時くらいまで永遠に続いていたのであった。

1月4日(木)

早朝ホテルをチェックアウトする前に軽くケープタウンのダウンタウンを散策し、この都市がヨーロッパの各都市と比べても引けをとらないことを再認識した後、ホテルの送迎車(R250)でケープタウン空港へ向かった。南アフリカ航空のラウンジで出発前のひと時を過ごし、インターネットで浮世の情報を確認した後、午前11時50分発SA8800便、ERJ機に搭乗すると午後2時過ぎにはネルスプリット空港、別名Kruger Mpumalanga International空港に到着した。

空港のハーツでカローラ系と思われる5速マニュアル、パワステ、パワーウインドウなしの小型車をレンタルすると炎天下の中、ネルスプリットのダウンタウンに向かい、予約しておいたTown Lodgeにチェックインした。今日は着いた時間が中途半端だったため、山あいのパノラマルートという風光明媚なドライブルートで峠を攻めた後、明日からの野生の王国への侵入に備えて体力を蓄えておくことにした。

1月5日(金)

マサよ、君は本物の弱肉強食が日々展開されている舞台に足を踏み入れたことがあるか!?

私は・・・・・ついにその一歩を踏み出してしまった!!!

ということで、早朝ネルスプリットのホテルを後にすると、アクセル全開で南ア観光最大のハイライトと言われているクルーガー国立公園を目指した。この公園は南北350km、東西60km、総面積は日本の四国に相当する世界最大級の自然動物公園である。まずは公園最南部のマレネラゲートで入園料R120を支払って入場するといきなりバッファローの群れに行く手を遮られて度肝を抜かれてしまった。園内には総延長2,000kmの舗装道路が張り巡らされ、速度は50kmに規制されており、また、舗装されていない道は40kmで車を転がすことが出来るわけで、もちろんサバンナRX-7のようなスポーツカーを乗り入れることも可能なのだが、決してそのポテンシャルを発揮させてはもらえないのである。

バッファローズにいてまわれた後、しばらく単なるさわやかな草原ドライブが続いていた。ただっ広い園内では常に動物に遭遇出来るとは限らなく、しかもお会いできる動物の80%は鹿系のインパラであった。ふと、前を行く車がストップし、木陰がガサガサ動いている気配とゾ~とする感覚を覚えて見上げるとそこにはアフリカ象がその巨体を揺すりながら立ちふさがっていた。

園内には8ヶ所の入口と19ヶ所の設備の整ったキャンプ設備があるのだが、その中で最大のスクサーザ・キャンプに侵入した。ここにはコテージ、バンガロー、ガソリンスタンド、銀行、レストランと通常の街中にあるようなファシリティがすべて揃っており、おびただしい数の欧米人観光客で大変な賑わいを見せているのである。

マサよ、君はゲーム・ドライブを楽しんだことがあるか!?

というわけで、PS3やゲームボーイをプレイしながらハンドルは握れないので、ゲーム・ドライブとは動物を探しながら園内をゆっくりドライブすることでクルーガーへやってきた目的はこれに尽きるのだ。スクサーザを出て園内を東に向かい、さらに南下していると広大なサバンナを見下ろすビューポイントがあり、そこでは身の危険を冒すのを承知で車から降りてもよいという看板が立っていたので車外に出て体を伸ばすことにした。さらに川沿いを運転していると木の上の葉を食っているキリンに遭遇し、象に行く手を遮られもした。また、ロウアー・サビー・キャンプからサビー川を見下ろすとカバが遊泳したり、陸地を悠然と歩いている姿を遠めに眺めることに成功した。

とりあえず、午後4時過ぎにはゲーム・オーバーとさせていただき、この公園を設立した大統領の名前を冠したポール・クルーガー・ゲートから園外に出ることにした。ゲートでは入場の際にもらったレジストレーションの紙のチェックと動物を不正に拉致してないかを確認するために車のトランクを開ける等のセキュリティ体制が敷かれていた。

クルーガーのサバンナでのゲーム・ドライブで火照った体を冷やすために高地で涼を取る必要があったのでピルグリムズ・レストという高原地帯まで車を飛ばし、そこにある小奇麗なロイヤル・ホテルにチェック・インし、パラパラのリズムの中でインパラの数を数えながら深い眠りへと落ちていった。

1月6日(土)

現在訪問しているムプマランガ州のもうひとつの観光のハイライトとしてブライデ・リバー・キャニオンというブライデ川と1000mもの高さの峡谷が織り成す壮大な景色が見られるパノラマ・ルートが存在しているので大陸ならではのダイナミックな景観を堪能することにした。Pinnacleというキャニオンの中にニョキッと存在する岩の塔や窓枠から壮大な景色を提供するような神の窓の眺望に驚異し、さらにベルリン滝ではマサに川が流れ落ちる瞬間を間近に眺めることが出来るのだ。

ブルックス・ラック・ポットホール(R22)というブライデ川とトゥルー川が交わるところは有料の景観地として観光客を集めており、設置された橋の上から見る滝壷や川の流れにより削られたマーブル模様の岩肌が非常に印象的である。数々のビューポイントを提供するパノラマルートを完走し、そのまま乾燥した道を再びクルーガー国立公園を目指した。今回は公園の南北中央部あたりに位置するオルペンゲートに向かって時速120kmくらいで車を転がしていたところ、遠めに3本の高い木が動きながらこちらに向かっている光景が見えたため、徐々にスピードを落としてそれらの物体に接近することにした。近づくにつれ明らかになった物体の正体はキリンのトリオであることが判明し、車を路肩に止めてその挙動を観察していたのだが、私が接近しても彼らは危機キリン状態になることもなく悠然と公道の上で行動していたのだった。

何とか午後1時前に入園し、サタラというキャンプに向かっているとふと白黒はっきりしないようなあいまいな感覚に見舞われた。そこはシマウマのワンダーランドになっており、鹿類やヌー一族等の草食動物がのんびりと草を食んでいる光景が観光客の目を楽しませていたのだった。

ということで一日半かけてサファリを探索させていただいたのであるが、遭遇した動物はすべてベジタリアンであり、ライオンハートを持つ私に恐れをなしたであろうライオンは決して私の前には姿を現さなかった。また、獲物が獲れないチーターが♪汗かきべそかき歩♪いている姿も目撃することが出来なかったのでリベンジに来なければならないのではないかとも思いながら、クルーガーを後にしたのであった。

1月7日(日)

宿泊していたネルスプリットのTown Lodgeを後にすると近辺にあるローフェルト国立ボタニカルガーデン(R12)を訪問することにした。園内にはこの州の水瓶兼自然動物の宝庫となっているクロコダイル川が流れており、カバも時々姿を現すという。また、植物園だけあり、当然のことながらアフリカ中の珍しい木々も生えているのである。

空港の近くに私設のサファリ系のファシリティがあり、そこに2頭のシロサイを発見した。クルーガーでは遠巻きにしか見ることが出来なかったサイをここではじっくり観察することが出来たのであるが、サイは凶暴な動物なので一旦怒らすとごめんなサイとあやまってもうるサイと言って許してくれないそうでマサにサイ難な状況になるそうである。

というわけで、すべてのアクティビティを無事終了したFTBは午後1時発SA1264便、ERJ機でヨハネスバーグまで戻り、そこからシンガポール航空で「海猿」をはじめとする邦画3本を見ながらシンガポールに飛んでいた。

1月8日(月)

早朝シンガポールに到着し、そのままNH112便に乗り換え、ゲート直前でビジネスクラスへの無償アップグレードを獲得し、快適なフライトで成田に帰着、流れ解散となる。

南アフリカ、サファリ情報

・南アフリカの通貨ランド(R1 = ¥17)の紙幣には動物のスケッチが印刷されているのだが、それらはビッグファイブと呼ばれるライオン、ヒョウ、ゾウ、サイ、バッファローである。

・クルーガーの各キャンプ地のビジターセンターには布製の園内図に各色のピンを刺して動物目撃情報を提供し、観光客のガイドに一役買っているのである。

・遭遇した主な動物・・・インパラ、バッファロー、キリン、サイ、カバ、シマウマ、アフリカゾウ、ヌー、バブーン、ベルベット・モンキー、ヒョウ(木の上にいる気配のみ)、イノシシ等

FTBサマリー

総飛行機代 ¥72,250(ANA)、S$1,906(シンガポール航空)、R4,670(南アフリカ航空)

総宿泊費  R3,158.6 

総ケープタウン空港シャトル代 R110

総ホテルからケープタウン空港への送迎代 R250

総レンタカー代 R802.82

総ガソリン代 R495

総走行距離 1,400km

総高速代 R33

協力 ANA、シンガポール航空、南アフリカ航空、JTBトラベル、CTI Tours & Travel

FTB青春アミーゴスペインとその他もろモロッコツアー

つい一週間前の古代エジプトツアーによりついにアフリカ大陸への扉をこじ開けることに成功したFTBであるが、その余韻も覚めやらぬうちに新たなツアーが企画され、実行される運びとなった。前回はアラビア半島との境界であるエジプトを制覇したのだが、今回はイベリア半島の南岸、地中海のジブラルタル海峡を挟んだ対岸に位置するモロッコに上陸する計画が立てられたのだ。

12月29日(木)

ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!

ということで、ANA205便にておなじみのパリ、シャルル・ド・ゴール空港に定刻午後4時半頃到着し、フランスへの入国を果たすとすかさずバスでターミナルを移動し、スペインが誇るイベリア航空IB3433便に搭乗し、スペインの首都マドリッドに到着したのは午後8時半を過ぎた時間帯であった。

空港で東京メトロを彷彿とさせる地下鉄路線図を入手すると、早速空港から地下鉄(1ユーロ)でマドリッドの中心部を目指した。午後9時を回った時間にPlaza de Espanaという市の中心部に降り立ったのだが、マドリッドは日本人を狙った強盗事件が頻発しており、♪シ~、Si♪と言って寄ってくる青春アミーゴ系の若者が集団で首絞め強盗などをプロデュースしているので注意しなければならないという情報を得ていたので今夜はおとなしく☆☆☆ホテルのBest Westernに引き払ってフテ寝をすることにした。

12月30日(金)

早朝より地下鉄でマドリッドの中央駅の1つであるアトーチャ駅に向かった。加藤茶をほうふつとさせるアトーチャ駅は列車でスペイン各地に旅行する輩が全員集合する場所であるのだが、屋内植物園のような吹き抜けの待合室が非常に印象的である。

8時15分発のアルへシラス行き列車で6時間程車窓に広がる広大なスペインの風景を眺めていると午後2時半頃目的地に到着した。列車を下車すると早速フェリーのチケットを販売している数ある旅行代理店の1つに飛び込みモロッコ行きのチケット(32ユーロ)を入手した。EuroFerrysが運行するカーフェリーは定刻4時に大きな汽笛とともにアルへシラス港を出港し、左手に巨大なジブラルタルロックを眺めながら、2時間半の船の旅がスタートした。

出航から10分くらい後に船内のPolice officeでモロッコへの入国手続きをすまし、1時間の時差を超えて午後6時前に船はモロッコの海の玄関口であるタンジェ港に入港した。港内の銀行で円をモロッコの通貨であるディラハムに両替し、暗くなったタンジェの町を軽く散策しながら、とあるインターネットカフェで今日宿泊する予定のホテルの位置の確認などを行った。

Hotel Ibis Tangerはダウンタウンから15km離れた空港近くに位置しており、公共交通機関でアクセス出来ないため、タクシーを見つけることにしたのだが、モロッコのタクシーシステムは市内の近距離を走るプジョー系のプチタクシーと遠距離まで行く、乗合ベンツタクシーであるグランタクシーに棲み分けされていることが確認された。ホテルへはグランタクシーしかなく、相乗りするモロッコ人もいなかったので仕方なく、DH150もの大金を支払ってホテルに移動し、モロッコに来たという哀愁を噛みしめながらホテルのレストランで地ビールである「カサブランカ」を飲みながら哀愁のカサブランカを歌ってモロッコの第一夜を過ごしていた。

12月31日(土)

早朝よりグランタクシーでタンジェ駅に移動し、窓口でレシート仕様の切符を購入し、9時発の列車でモロッコが誇る世界遺産都市フェズを目指した。途中Sidi Cacemという駅で列車を乗り換え、地中海性気候がはぐくむ雄大な遊牧風景を見ながら合計5時間半の汽車の旅で念願のフェズに到着した。

駅前のHotel Ibisにチェックイン後、軽くフェズの見物に乗り出すことにした。フェズの町は3つに分かれており、旧市街のフェズ・エル・バリ、フェズ・エル・ジェディド、新市街で構成されているのだが、手始めにフェズ・エル・ジェディドから様子を探っていくことにした。街路樹のオレンジがたわわに実っている道を歩いているといつしか城壁に行く手をはばまれてしまったので大きく迂回してスパ門から旧市街に侵入した。

気が付くと迷路の中をさまよっており、まとわりつく少年が道案内を買って出たが、金を要求されると癪なのであえて少年が示す道の反対方向に進んでいくとますます道がわからなくなってきた。動物的勘により何とか方向感覚を取り戻すと、フェズ・エル・ジェディド通りというにぎやかな通りに紛れ込んでしまった。ここは衣料品のアーケード街になっており、多くの原住民が大晦日の年末商戦にいそしんでいた。

さらに迷路を奥深く進むと観光バスとおびただしい数のプチタクシーが停車している美しい門の前に到達した。門の奥には入り組んだ通路の脇におびただしい数の店が営業しており、客と店主と物資の輸送手段である馬やロバの織り成すモロッコ独特の光景が展開されていただのであった!

1月1日(日)

ハッピー ニュー マサよ!!!

ということで、昨日遭遇した雑然とした環境は何だったのかということを昨夜のうちにレビューし、再びその喧騒に足を運ぶことにした。まずは欧米観光客と一緒に美しき王宮の正門を見上げた後、世界遺産であるフェズ・エル・バリに向かった。フェズの旧市街メディナのフェズ・エル・バリは9世紀の初めにモロッコの最初のイスラム王朝、イドリス朝の都となり、そのときに造られた町が1000年を超えて今なお、市民の生活の場所として生き続けている所なのだ。

昨日入門して中の雰囲気に圧倒された門はブー・ジュルード門というメディナの入口にあるフェズ最大の門であることをすでに学習していたのであらためて幾何学文様によって彫刻された青色や緑色で彩られた門をくぐって見ることにした。世界最大、最強の迷路であるフェズ・エル・バリには2つの大通りがあり、そこに無数の枝分かれした袋小路がつながっているのだ。道は人が2人並べばいっぱいになるほどの狭さで日干し煉瓦と高い土壁により、昼間でも日の光が遮られている。道の脇の店は場所により、衣料や工房や食品売り場に分かれているようで、魚屋の前では切り落とされるイワシの頭待ちの猫が数匹正座している様子を垣間見ることが出来る。

メディナを颯爽と闊歩している私に対して様様な土産物屋から郷ひろみでもないのに容赦なく♪ジャァパ~ン♪という歓声が浴びせられるのであるが、その♪出会いはァ、億千万のむなさわっぎぃ♪を感じさせるものだったので立ち寄らずに人間模様の観察だけにとどめておいた。フェズ・エル・バリも奥の方に入り込むと染色された牛皮を背負ったロバとすれ違ったり、強烈な異臭を放つ区域がある。ある原住民がいきなり私の腕をつかんで「NAMESI~GA~WA~」「ナメシ皮~」と叫んで工房に引き込もうとしたのだが、なめされる恐怖を覚えたのでモ~という捨て台詞を残してその場を後にした。ちなみに川べりにはなめされたばかりと思われる牛革が数多く干されていた。

フェズ・エル・バリの迷路で閉所恐怖症の逆療法に成功したのでフェズ駅から約1時間の汽車の旅で古都メクネス(世界遺産)に移動した。メクネスは今も続く現モロッコ王朝アラウィー朝が17~18世紀に都と定めた街である。フェズに比べ建造物は新しく、色鮮やかでメディナも整然としており、王都の入口に構えているマンスール門は北アフリカで最も美しく、有名な門として君臨しているのだ。

堅く閉ざされているマンスール門の向こうにモロッコ少年達が草サッカーにいそしんでいるエディム広場があり、しばらく歩くとリフ門に到着した。この門を抜けると両側をどっしりとした高い壁で囲まれた直線の道が現われた。この長い道は通称「風の道」と呼ばれ、又三郎系の強い風が吹き抜けていくのである。

壮大な王都建設を夢見て、その完成を待たぬままこの世を去った王ムーレイ・イスマイルの墓が安置されているムーレイ・イスマイル廟を訪問させていただいた。ここはマンスール門と同様、メクネスで最も重要な見所として君臨しており、美しいモザイクやしっくい彫刻のすばらしさを堪能出来るイスラム文化の傑作である。

メクネスからフェズに戻り、フェズ駅のレストランで夜飯を食うことにした。適当にカバブ系の肉料理を発注したのだが、小太り系のウエイトレスが頼みもしないのに安物系のミネラルウォーターやパンやサラダを次々と運んできやがった。最終的に金を払う段になって、ペテン師づらした店主がマイルドなボッタくり値段を要求し、モロッコ通貨のディラハムがなくなってしまったので「ユーロでどや?」と言ったところ「両替出来るぜ!」という返事だったのでユーロで支払うことにしたのだが、両替マジックによりマイルドから通常のボッタくりプライスに値上げされたような屈辱感を覚えさせられた。

1月2日(月)

「こんな夜中にどこいくねん!?」というようなHotel Ibisのフロント担当にチェックアウトを申し出ると午前1時半にホテルを出て1時50分のタンジェ行き夜行列車に乗車した。夜行列車とはいえ、寝台ではなく昼間走っている列車が単に夜走っている代物なので、6人乗りの一等車両のコンパートメント内には白人旅行者達が無理な体勢で睡眠にいそしんでいた。

午前7時過ぎにタンジェ駅に到着し、出勤体制に入ったモロッコ人とともに朝日を浴びながらタンジェのメディナを目指した。フェリー乗り場を見下ろす高台に位置するカスバ門からはジブラルタル海峡を隔てたスペインの山並みを見渡すことが出来、憂いを帯びたモロッコ人イスラム教徒と犬が絵のような景色に見入っていた。

迷路や軽いボッタくりその他もろもろの貴重な経験をさせていただいたモロッコを後にすべく正午発のフェリーに乗り込むと午後3時半頃にスペイン、アルへシラスに戻って来ることが出来た。すでに乗るべき列車に乗り遅れていることが発覚したので仕方なくアルへシラスを観光し、アンダルシア気分を満喫することにした。

とりあえず駅と港のほど近い場所に中心街であるセントロがあったので、小高い展望場所から夕日を浴びているジブラルタルロックを眺めながら感慨に耽ることにした。夕飯時になり、港の近くのスペイン料理の飯屋に入り、スペイン語で書かれた意味のわからないものを発注すると美味なシーフード系のスープと車海老系のエビを辛く揚げたものが出てきたのだが、何故か付け合せのパンが高いという軽いボッタくり感を味わってしまった。

午後9時15分発マドリッド行き寝台夜行列車に乗車すべくアルへシラス駅に戻ると自分の肉体に匹敵するサイズのバックパックを抱えた欧州人ギャルペア等の旅行客に混じりながら列車待ちをしていた。乗車券込みでわずかEURO46.5の2等寝台、6人寝のコンパートメントの中段に潜り込むとほどなくして青春アミーゴ系の若者に取り囲まれてしまったのだが、彼らは夜中に♪シ~、Si~、お~れたちはいつで~も♪といった唄を歌ってドンちゃん騒ぎをすることもなかったので割と平和に寝台車内生活を満喫することが出来たのであった。

1月3日(火)

列車は11時間以上の時間をかけて午前8時前にマドリッドチャルマンティン駅に到着した。早速地下鉄で市の中心部に移動し、プラド美術館(EURO6.0)を目指した。大橋巨泉も推奨する世界的に有名なプラド美術館の見所はスペインが誇るグレコ、ベラスケス等の巨匠が描いたスペイン絵画であるが、特にゴヤの作品に関しては様様な絵画がチャンプル風に展示されたひとつのコーナーとして観光客の目を引いていた。

マヨール広場というスペインを代表する広場にいつのまにか入り込んでいたのだが、ここでは年末年始のイベントが行われたであろう会場設定の撤収作業が行われていたのでそのまま私もスペインから撤収すべく地下鉄でマドリッド国際空港に引き払い、そのまま流れ解散と相成った。

ということで、前回のエジプト、今回のモロッコと立て続けに北アフリカを制覇した訳であるが、これらアラブ諸国ではサンコンさんやニカウさん、ブッシュマン、クンタ・キンテ、ルーツ等の典型的なアフリカ人に遭遇することが出来なかったので次回はもっと深いアフリカに行かなければならないと思われた。

また、モロッコ最大の経済都市であるカサブランカへも行けなかったかわりにFTBがジュリーと共同開発している♪TOKIO♪発♪ダーリング♪以外の♪危険なふたり♪で行くモロッコ♪カサブランカダンディ♪現地観光と帰りは♪勝手にしやがれ♪、ツアコンが♪寝たふりしてる間にぃ~、出て行ってくれ~♪ツアーを財務省の慰安旅行向けに提供したいと考えている。オプションとしてトリプルボギーをたたいた後に♪ボォギ~、ボォギ~~、あんたの時代はよかったァ~♪と泣き言を歌っている三流ゴルファー見学ツアーも考えられよう。移動バスのカラオケ大会では盛り上がることまちがいなし!!http://music.yahoo.co.jp/shop?d=p&cf=52&id=233731

マサよ、必ず実行しろよ!!!

FTBサマリー

総飛行機代 \197,560

総フェリー代 64ユーロ

総スペイン国鉄代 100.5ユーロ

総マドリッド地下鉄代 4ユーロ

総モロッコ国鉄代 DH314.5(DH1=\13程度)

総モロッコバス代 DH5.0

総グランタクシー代 DH300

総宿泊費 64.2ユーロ、DH1,095

協力 ANA、イベリア航空、ルフトハンザ航空、スペイン国鉄、Tanger – Algesirasフェリー会社モロッコ国鉄(ONCF)www.oncf.org.ma/、Best Western、Hotel Ibis