マサよ、君は日本のバブル崩壊の直接の引き金が何であるか覚えているか!?
ということで、私が大和証券北九州支店の優秀な営業マンとして肩で風を切りながらブイブイ言わせていたバブルもたけなわの1990年8月2日にイラクのサダム・フセインがクウェートに侵攻しやがり、その後多国籍軍も参戦する湾岸戦争へとなだれ込んでいった。その影響で石油価格は暴騰し、日本はアメリカに戦費をむしり取られた挙句に金だけ出しやがって人は出さないと非難を浴びながら坂道を転げ落ちるように凋落して行った。
今回はそのいまわしいクウェートの地が湾岸戦争後にどのように復興成ったのかを実地検分すると同時にアラビア半島にありながら戦争とは無関係の優等国オマーンの実態を調査するために寒波が襲来する日本を離れて中東に舞い戻ってくることになったのだ。
2012年1月29日(日)
トルコ航空を利用したハイペースでの中東ツアーの影響で♪飛んでイスタンブール♪を基調とした庄野真代ネタも尽きた今日この頃であるが、昨今では「しょうの」と言えば高島彩をゆずに譲ってめざましテレビのメインに成り上がって覚醒した生野アナウンサーの台頭が著しくなっている。
すっかりおなじみとなった14:40発TK51便、B777-300ER機に乗り込むとつつがなくイスタンブールに到着し、引き続き21:55発TK772便に乗り継いでイラクとサウジアラビアに挟まれたクウェートを目指した。
1月30日(月)
飛行機は定刻2:15頃クウェート国際空港に到着し、先般訪れたドーハやバーレーンの空港よりも規模が大きく居心地がよかったので空港内のゲート近くのベンチで夜を明かすことにした。適当に時間潰しも出来たところで手持ちのエジプトポンドをクウェートディナールに両替してビザ代の3ディナールを支払い、午前7時前にクウェートへの入国を果たした。
空港の出口の目の前のバス停で客待ちしているバスに乗り込むと仕事に向かう労働者を横目に一路クウェートシティを目指した。適当な所で下車して青空が眩しいクウェート湾岸沿いを歩いていると干潮の浜辺が緑の海草で覆われている光景が目に飛び込んできた。
湾岸沿いにサドゥ・ハウスというベドゥインの織物が展示されているファシリティに無料で入場することが出来たので織物や手工芸品、はた織り機等を見学させていただいた。尚、この建物はオイル時代に入る以前に建てられた貴重なもので湾岸戦争で被った被害もすっかり修復されているのだった。
サドゥ・ハウスの隣の広い敷地にはクウェート国立博物館がリニューアル中の様相でいくつか公開されている展示コーナーもあったので入って見ることにした。展示品はヘレニズム、イスラム時代の出土品や人形をあしらった現代のクウェート人の部屋などを再現したものがメインであったのだが、巨大なプラネタリウムもあり、その中では星の見物ではなく宇宙にまつわるアニメ系のショーが展開されていた。
湾岸から高層ビルの並び立つ市街地に切り込むと湾岸戦争で受けたダメージのかけらも見られないほどの発展ぶりを目の当たりにして依然としてバブル崩壊の後遺症から抜け出せていない日本との違いを痛感させられた。
クウェートシティのランドマークとしてそびえている通信塔を横目にクウェートシティを駆け抜けると今日の宿泊地であるIbis Sharq Hotelにチェックインし、再び市街地を探索することにした。
クウェートのシンボルと言えばスウェーデンの建築会社により設計され1979年に完成したクウェート・タワーであり、湾岸に唯一無二の存在感を示しているのでスカイツリー程の期待感を抱かずに見に行くことにした。タワーは3つから成り、最大のものは高さ187mを誇り、回転展望台やレストランを内蔵しているのだが、2つ目のタワーと併せて主目的はウォータータンクとなっている。尚、3つ目のタワーは他のタワーを照らす照明塔で単なる脇役でしかないのである。いずれにしてもこれら3つのタワーの高さを足してもスカイツリーには及ばないのでバブルの後遺症に悩む日本人観光客もここで溜飲を下げることが出来るのではないかと思われる。
クウェート・タワーの周辺は市民に憩いの場を提供する公園になっており、野良猫を養うシーフードレストランや遊園地は程々の人々で賑わっていた。照明塔である3つめのタワーがその威力を発揮するのは日没後であり、暗闇に浮かび上がるシルエットは一種幻想的な惑星の雰囲気を醸し出していた。
1月31日(火)
湾岸戦争の爪跡を博物館として保存しているファシリティがクウェートシティ市街の南に位置するフィンタスという町にあると聞いていたので市バスで行ってみることにした。湾岸沿いの町であるフィンタスは新興住宅地といった風情を漂わせており、道行く人に湾岸戦争を伝えるアル・クレイン・ハウスの場所を聞いて回ったのだが、意外な事に誰も知らないとのことだったのであえなく撤収することとなった。
クウェートシティに戻った頃には雨が降り出していたので、雨宿りも兼ねてヘリテージ・スークを散策することにした。昼飯時を迎えたスークの食堂では原住民がカレー系の料理と生野菜を大量に発注しており、テーブルの脇を山盛りのパンを皿にのせた従業員が忙しく歩き回っていた。
スークの醍醐味は生鮮食品なので巨大な魚が横たわる鮮魚コーナーを抜けて精肉売り場に突入することにした。各肉屋の戸口にはあらゆる部位の肉のブロックが吊るされており、明らかに買う気のない私に対しても積極的に販売促進を仕掛けてくるのだった。
スークを出ると近くにある電波塔のビルで雨宿りさせていただくことにした。尚、電波塔には展望台らしきものがあり、エレベーターも設置されているのだが、営業していない様子だったのでクウェートシティの高みの見物は断念し、バスでクウェート空港に退散することにした。
クウェートからオマーンの首都マスカットまではオマーン航空を利用する手はずとなっている。尚、中東では多くの路線を持つオマーン航空であるが、日本へは放送禁止用語になるのを恐れてか、未だに乗り入れてないのが現実である。21:15発WY648便は搭乗に際して1時間以上の遅れを出したにもかかわらず大変長らくおま~んたせしましたといったお詫びの言葉もなく離陸となったのだった。
2月1日(水)
マスカットのシーブ国際空港に着いたのは1時間時計の進んだ深夜1時半過ぎであった。入国の際にビザ代として20オマーンリヤル(US$55)を支払わされたもののスムーズな手続きで入国を果たすと空港のArrivalは多くの出迎え人でごったがえしており中東はどこの国でも宵っ張りであることを思い知らされた。とりあえずエアポートタクシーのカウンターで車を手配すると予約しておいたTiger Home Hotel Appartmentsに速やかに移動して意識を失うことに専念した。
シーブ国際空港からマスカットの市街地までは40km程離れており、その間は幹線道路が通っている。ホテルをチェックアウトしてしばらく高速で車が行き来する幹線道路沿いを歩いているとルートタクシーと呼ばれるワゴン車の乗り合いタクシーが止まったので乗せてもらうことにした。ルートタクシーはマスカットのルイという繁華街地区に到着したので、エアポートタクシーとは比べ物にならないくらいの安い運賃を支払って下車すると近隣を散策することにした。
一見住居にしか見えないが、内部にはオマーン各時代の工芸品やベドウィンの銀製アクセサリー、王家の使っていた家具等が展示してある国立博物館(RO0.5)を軽く見学させたいただき、テレコムタワーを見上げながら次の観光ポイントを物色することにした。
生野アナウンサーもめざましテレビでコメントするのを躊躇するはずの名前を持つオマーン国軍博物館(RO1)がオマーン国軍によって厳重に管理されながらも軍事オタク垂涎の展示物を誇っているので「ココ調」してみることにした。オマーン国軍の敷地の入口には銃を持った警備員が目を光らせているのだが、博物館を見に来た来意を告げると彼は車を呼んでくれて、敷地の奥の博物館の建屋まで無償で私を配送してくれたのだった。
この博物館では何かと紛争の多い中東の中でアラブの監視役の地位を確立しているオマーンの戦力を誇示するかのようにオマーン国軍の発展の歴史や武器等が整然と展示されているのだ。
オマーンの戦力分析を終えると商業地区にそびえているクロック・タワーで時間を確認し、マスカット証券市場の回転株価ボードをちら見して今日からお世話になるルイ・ホテルに向かった。マスカット市内では立地条件の良いこのホテルは☆☆☆ながらウエルカム・フルーツのサービスがあったのだが、皿に盛られたブドウの種類はマスカットではなかったのだ。
ホテルの目の前のルートタクシー乗り場からバンに乗って海岸沿いのマトラという地区に向かった。コルニーシュという海岸道路は眺めの良い遊歩道を併設しており、カブース港にはダウ船や豪華客船が停泊している光景が見受けられた。
険しい崖山の上に築かれたマトラ・フォートを横目に海岸沿いをさらに進んで行くと丘の上に白いランプのような建物が見えてきた。これは香炉を模した展望台ということなのだが、中には入れないのでこの場所からマトラの町並みを見下ろすことはかなわないのである。
この地区には砦を作る以外に取り柄がないのかと思われるくらいに多くの砦があるのだが、高台からの眺望を得るためにアクセス可能な名も無き砦に登ってみることにした。今にも崩落しそうな階段を登って砦に辿り着いたのだが、内部はさらなる崩壊が進んでおり、崩れた床下からは真っ青な海が顔を覗かせていた。
オマーンのみならず中東を代表するスークとしてマトラ・スークがある。スーク自体の床面積は広くないのだが、内部は迷路状に小道が入り組んでおり、ふらふら歩いていると様々な店から声をかけられる。今日はとりあえず物品の下見のみさせていただいてルートタクシーでホテルに戻り、プールサイドでビールとビュッフェを堪能しながらしばし中東にいることさえ忘れていた。
2月2日(木)
アラビア半島の南東部を占めるオマーンの国土面積は日本の4分の3にも及ぶ広さを誇り、地方都市へ行く観光客の足としてはバスがメインになっている。今日はどこぞの地方都市まで足を伸ばしたいと思い、かつては海のシルクロードの中継地として栄え、シンドバッドの船出の場所として知られているソハールも検討したのだが、現在では当時の面影を伝えるものはないとのことで、さらに渚のシンドバッドがサーフィンボードを小脇に抱えて唇盗む早技を磨いている姿を見ると幻滅するかも知れないと考えたので断念した。
ソハール行きの代替プランとして、ONTC (Oman National Transport Co.)のメインバスターミナルから午前8時発のバスに乗り、マスカットから208km離れたバハラァという町に向かうことにした。バスがマスカットの都市部を離れて南西の内陸部に入ると車窓の景色は山岳部の砂漠地帯に一変した。途中ニズワという大きめの都市を経由して砂漠の中のオアシス村であるバハラァに到着したのは午前11時を過ぎた時間であった。
バハラァで最大唯一の見所は1987年に世界遺産に登録されているバハラァ・フォートでこれを見学しないことにはバハラァくんだりまで来た意味がなくなってしまうのだが、この遺産は1988年には危機遺産に陥ってしまったためか今もって長い修復の途上で中に入ることは出来ないという非情な現実を突きつけられてしまった。
オマーンはかつて東アフリカからインド亜大陸までを席巻する貿易王国であったのだが、その当時の威光を今に伝えているのがバハラァ・フォートである。今回はむなしくバハラァ・フォートの回りを一周し、その修復の過程を垣間見ながらこの歴史的遺産の詳細が少しでも早く砦フェチの好奇心を満たす日が来ることを祈っておいた。
マスカットへの帰りのバスが来るのが午後5時過ぎの予定なので6時間あまりの時間をバハラァで過ごさなければならなかった。バハラァのスークにはこれといって見る物がなく、住民は昼過ぎから家に篭ってしまうので人間模様の観察も出来ずにむなしく住宅街を彷徨っていた。バハラァは陶器の産地としても知られており、住宅街の中にも工房らしきものがあったのだが、門が閉ざされていたので中を覗くことも出来ず、何の戦利品も得ないままにバスでマスカットに帰って行った。
2月3日(金)
午前中の程よい時間にルイ・ホテルをチェックアウトするとルートタクシーでマトラに移動し、フィッシュ・マーケットの見学と洒落こんだ。多くの原住買い物客で賑わうマーケットには労働者による魚の解体もライブで行われており、血の滴る切り身は大いに食欲をそそるものがあった。
マーケットの裏手はしなびた漁港になっており、マーケットで魚を購入する代わりにパンを撒き餌に自力で生きた魚を釣り上げようとしている輩やおこぼれに預かっているカラスが共存共栄している様子が見て取れた。
マトラから海岸通りを2kmほど東に進み重厚なマスカット・ゲートをくぐるとオールド・マスカットというこじゃれた官庁街に到着した。オールド・マスカットの港の真ん中にそびえている砦はミラニ・フォートで1500年代に造られ、破壊と再生を繰り返してきた代物であるが、現在も軍や警察の施設として使われているので観光客が侵入することは出来なくなっている。
ミラニ・フォートの麓にはアラム・パレスという豪華な宮殿があり、白を基調とした城壁内部は緑の芝生ときれいな花々で彩られていた。今日はイスラム休日の金曜日ということもあり、官庁街は閑散として人も車も少ないのだが、ルートタクシーがたまたま流れてきたのでそれに乗り込んでマトラへと戻ることにした。
通常は多くの人で賑わうマトラ・スークも正午から午後4時くらいまでの昼休みの間はきっちり店を閉めており、人通りよりも猫通りの方が多いゴーストタウンと化してしまっているのだ。
リゾートホテルが立ち並ぶオマーン湾岸地域はコーロム地区と呼ばれており、マトラから西に10km以上離れているのでルートタクシーで乗り付けてみることにした。コーロム・ネイチャー・リザーブというクラウンプラザ・ホテルが見下ろすビーチの上には数多くのナツメヤシの枯葉を屋根にしたパラソルが突き刺さっており、アラブ服を着た原住民が様々なアクティビティに興じていた。
アクティビティはサッカーやクリケットのようなお手軽なスポーツから水上バイクやカヤックなど様々であったのだが、上半身裸の男子によるセミ格闘系のゲームには多くの観客が集まり、声援が飛び交っていた。
ビーチ沿いの道路にはおしゃれなカフェやスターバックス、シーフードレストランも営業しており、ビーチで砂まみれにならずとも存分にリゾート気分を味わうことが出来るような設備が整っていた。また、シーフードビュッフェを提供するレストランの横のマングローブでは屈強なおやじが投げ網で食材を確保しようと躍起になっていた。
インターコンチネンタル・ホテルの中庭を無断で抜けてルートタクシーを捕まえるべく幹線道路を目指しているとオープン間近と思われるRoyal Opera House Muscatが西日に照らされて豪華に白光りしていた。
マサよ、君はオマーンの特産香料でわらしべ長者になるという野望がよぎったことがあるか!?
というわけで、オマーンは古代エジプトやローマで儀式用香料として盛んに使用された乳香の産地として知られている。当時の乳香は非常に貴重な物で金と同等の価値があったと言われているのだが、長年財務官僚としての地位に安住し、錬金術さえ身に着けてきたはずのマサであれば私が持ち帰る乳香を同重量の金と交換してくれるはずなので再びマトラ・スークに戻り、乳香のサンプルを物色することにした。
マトラ・スークには金本位制を取っているゴールド・スークだけでなく乳本位制を匂わせている香水や香料を売る店が数多くあり、店頭では香炉の上でミルキーな乳香がジリジリと焚かれている。大抵の売り物には値札など付いてなく、商いはすべて交渉制によるものらしいのだが、財務省と違って明朗会計を身上とする私は値札の付いている店でおそらく相場より高い値段で乳香のサンプルを購入させていただいた。
シーブ国際空港に戻り、家に香炉の在庫がないことに気付いたので陶器製の一番安いやつを購入して手持ちのオマーンリヤルをすべて使い切ってしまった。
2月4日(土)
4:15発TK859便は定刻通りに出発し、5時間半程度のフライトでイスタンブールに帰ってきたのは2時間の時差を引いて午前8時前であった。今ではすっかりトルコ航空のラウンジの住人としての生活に慣れてしまった反面、トルコ風の食事のメニューにも飽きてしまったので栄養補給も程ほどにして血中のアルコール濃度を上げることに専念した。
18:40発TK50便はいつもほど団体観光客が多くなかったおかげで横3列席をすべて占領し、不貞寝しながら成田に向かって行った。
2月5日(日)
定刻13:10より早く成田空港に到着し、前回、今回と2回に渡ってペルシア湾岸を調査したにもかかわらず1匹たりともペルシア猫を発見出来なかったのはイスラムの宗主国であるサウジアラビアが囲っているのではないかといぶかりながら流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 トルコ航空 = ¥100,080、オマーン航空 = KD56.9 (KD1 = ¥276)
総宿泊費 $267.08、RO25 (RO1 = ¥199)
総クウェートバス代 KD1
総オマーンタクシー代 RO7
総オマーンルートタクシー代 RO2.1
総オマーンバス代 RO4.8
総クウェートビザ代 KD3
総オマーンビザ代 RO20
協力 トルコ航空、オマーン航空、agoda