アラビアのFTB in クウェート、オマーン

マサよ、君は日本のバブル崩壊の直接の引き金が何であるか覚えているか!?

ということで、私が大和証券北九州支店の優秀な営業マンとして肩で風を切りながらブイブイ言わせていたバブルもたけなわの1990年8月2日にイラクのサダム・フセインがクウェートに侵攻しやがり、その後多国籍軍も参戦する湾岸戦争へとなだれ込んでいった。その影響で石油価格は暴騰し、日本はアメリカに戦費をむしり取られた挙句に金だけ出しやがって人は出さないと非難を浴びながら坂道を転げ落ちるように凋落して行った。

今回はそのいまわしいクウェートの地が湾岸戦争後にどのように復興成ったのかを実地検分すると同時にアラビア半島にありながら戦争とは無関係の優等国オマーンの実態を調査するために寒波が襲来する日本を離れて中東に舞い戻ってくることになったのだ。

2012年1月29日(日)

トルコ航空を利用したハイペースでの中東ツアーの影響で♪飛んでイスタンブール♪を基調とした庄野真代ネタも尽きた今日この頃であるが、昨今では「しょうの」と言えば高島彩をゆずに譲ってめざましテレビのメインに成り上がって覚醒した生野アナウンサーの台頭が著しくなっている。

すっかりおなじみとなった14:40発TK51便、B777-300ER機に乗り込むとつつがなくイスタンブールに到着し、引き続き21:55発TK772便に乗り継いでイラクとサウジアラビアに挟まれたクウェートを目指した。

1月30日(月)

飛行機は定刻2:15頃クウェート国際空港に到着し、先般訪れたドーハやバーレーンの空港よりも規模が大きく居心地がよかったので空港内のゲート近くのベンチで夜を明かすことにした。適当に時間潰しも出来たところで手持ちのエジプトポンドをクウェートディナールに両替してビザ代の3ディナールを支払い、午前7時前にクウェートへの入国を果たした。

空港の出口の目の前のバス停で客待ちしているバスに乗り込むと仕事に向かう労働者を横目に一路クウェートシティを目指した。適当な所で下車して青空が眩しいクウェート湾岸沿いを歩いていると干潮の浜辺が緑の海草で覆われている光景が目に飛び込んできた。

湾岸沿いにサドゥ・ハウスというベドゥインの織物が展示されているファシリティに無料で入場することが出来たので織物や手工芸品、はた織り機等を見学させていただいた。尚、この建物はオイル時代に入る以前に建てられた貴重なもので湾岸戦争で被った被害もすっかり修復されているのだった。

サドゥ・ハウスの隣の広い敷地にはクウェート国立博物館がリニューアル中の様相でいくつか公開されている展示コーナーもあったので入って見ることにした。展示品はヘレニズム、イスラム時代の出土品や人形をあしらった現代のクウェート人の部屋などを再現したものがメインであったのだが、巨大なプラネタリウムもあり、その中では星の見物ではなく宇宙にまつわるアニメ系のショーが展開されていた。

湾岸から高層ビルの並び立つ市街地に切り込むと湾岸戦争で受けたダメージのかけらも見られないほどの発展ぶりを目の当たりにして依然としてバブル崩壊の後遺症から抜け出せていない日本との違いを痛感させられた。

クウェートシティのランドマークとしてそびえている通信塔を横目にクウェートシティを駆け抜けると今日の宿泊地であるIbis Sharq Hotelにチェックインし、再び市街地を探索することにした。

クウェートのシンボルと言えばスウェーデンの建築会社により設計され1979年に完成したクウェート・タワーであり、湾岸に唯一無二の存在感を示しているのでスカイツリー程の期待感を抱かずに見に行くことにした。タワーは3つから成り、最大のものは高さ187mを誇り、回転展望台やレストランを内蔵しているのだが、2つ目のタワーと併せて主目的はウォータータンクとなっている。尚、3つ目のタワーは他のタワーを照らす照明塔で単なる脇役でしかないのである。いずれにしてもこれら3つのタワーの高さを足してもスカイツリーには及ばないのでバブルの後遺症に悩む日本人観光客もここで溜飲を下げることが出来るのではないかと思われる。

クウェート・タワーの周辺は市民に憩いの場を提供する公園になっており、野良猫を養うシーフードレストランや遊園地は程々の人々で賑わっていた。照明塔である3つめのタワーがその威力を発揮するのは日没後であり、暗闇に浮かび上がるシルエットは一種幻想的な惑星の雰囲気を醸し出していた。

1月31日(火)

湾岸戦争の爪跡を博物館として保存しているファシリティがクウェートシティ市街の南に位置するフィンタスという町にあると聞いていたので市バスで行ってみることにした。湾岸沿いの町であるフィンタスは新興住宅地といった風情を漂わせており、道行く人に湾岸戦争を伝えるアル・クレイン・ハウスの場所を聞いて回ったのだが、意外な事に誰も知らないとのことだったのであえなく撤収することとなった。

クウェートシティに戻った頃には雨が降り出していたので、雨宿りも兼ねてヘリテージ・スークを散策することにした。昼飯時を迎えたスークの食堂では原住民がカレー系の料理と生野菜を大量に発注しており、テーブルの脇を山盛りのパンを皿にのせた従業員が忙しく歩き回っていた。

スークの醍醐味は生鮮食品なので巨大な魚が横たわる鮮魚コーナーを抜けて精肉売り場に突入することにした。各肉屋の戸口にはあらゆる部位の肉のブロックが吊るされており、明らかに買う気のない私に対しても積極的に販売促進を仕掛けてくるのだった。

スークを出ると近くにある電波塔のビルで雨宿りさせていただくことにした。尚、電波塔には展望台らしきものがあり、エレベーターも設置されているのだが、営業していない様子だったのでクウェートシティの高みの見物は断念し、バスでクウェート空港に退散することにした。

クウェートからオマーンの首都マスカットまではオマーン航空を利用する手はずとなっている。尚、中東では多くの路線を持つオマーン航空であるが、日本へは放送禁止用語になるのを恐れてか、未だに乗り入れてないのが現実である。21:15発WY648便は搭乗に際して1時間以上の遅れを出したにもかかわらず大変長らくおま~んたせしましたといったお詫びの言葉もなく離陸となったのだった。

2月1日(水)

マスカットのシーブ国際空港に着いたのは1時間時計の進んだ深夜1時半過ぎであった。入国の際にビザ代として20オマーンリヤル(US$55)を支払わされたもののスムーズな手続きで入国を果たすと空港のArrivalは多くの出迎え人でごったがえしており中東はどこの国でも宵っ張りであることを思い知らされた。とりあえずエアポートタクシーのカウンターで車を手配すると予約しておいたTiger Home Hotel Appartmentsに速やかに移動して意識を失うことに専念した。

シーブ国際空港からマスカットの市街地までは40km程離れており、その間は幹線道路が通っている。ホテルをチェックアウトしてしばらく高速で車が行き来する幹線道路沿いを歩いているとルートタクシーと呼ばれるワゴン車の乗り合いタクシーが止まったので乗せてもらうことにした。ルートタクシーはマスカットのルイという繁華街地区に到着したので、エアポートタクシーとは比べ物にならないくらいの安い運賃を支払って下車すると近隣を散策することにした。

一見住居にしか見えないが、内部にはオマーン各時代の工芸品やベドウィンの銀製アクセサリー、王家の使っていた家具等が展示してある国立博物館(RO0.5)を軽く見学させたいただき、テレコムタワーを見上げながら次の観光ポイントを物色することにした。

生野アナウンサーもめざましテレビでコメントするのを躊躇するはずの名前を持つオマーン国軍博物館(RO1)がオマーン国軍によって厳重に管理されながらも軍事オタク垂涎の展示物を誇っているので「ココ調」してみることにした。オマーン国軍の敷地の入口には銃を持った警備員が目を光らせているのだが、博物館を見に来た来意を告げると彼は車を呼んでくれて、敷地の奥の博物館の建屋まで無償で私を配送してくれたのだった。

この博物館では何かと紛争の多い中東の中でアラブの監視役の地位を確立しているオマーンの戦力を誇示するかのようにオマーン国軍の発展の歴史や武器等が整然と展示されているのだ。

オマーンの戦力分析を終えると商業地区にそびえているクロック・タワーで時間を確認し、マスカット証券市場の回転株価ボードをちら見して今日からお世話になるルイ・ホテルに向かった。マスカット市内では立地条件の良いこのホテルは☆☆☆ながらウエルカム・フルーツのサービスがあったのだが、皿に盛られたブドウの種類はマスカットではなかったのだ。

ホテルの目の前のルートタクシー乗り場からバンに乗って海岸沿いのマトラという地区に向かった。コルニーシュという海岸道路は眺めの良い遊歩道を併設しており、カブース港にはダウ船や豪華客船が停泊している光景が見受けられた。

険しい崖山の上に築かれたマトラ・フォートを横目に海岸沿いをさらに進んで行くと丘の上に白いランプのような建物が見えてきた。これは香炉を模した展望台ということなのだが、中には入れないのでこの場所からマトラの町並みを見下ろすことはかなわないのである。

この地区には砦を作る以外に取り柄がないのかと思われるくらいに多くの砦があるのだが、高台からの眺望を得るためにアクセス可能な名も無き砦に登ってみることにした。今にも崩落しそうな階段を登って砦に辿り着いたのだが、内部はさらなる崩壊が進んでおり、崩れた床下からは真っ青な海が顔を覗かせていた。

オマーンのみならず中東を代表するスークとしてマトラ・スークがある。スーク自体の床面積は広くないのだが、内部は迷路状に小道が入り組んでおり、ふらふら歩いていると様々な店から声をかけられる。今日はとりあえず物品の下見のみさせていただいてルートタクシーでホテルに戻り、プールサイドでビールとビュッフェを堪能しながらしばし中東にいることさえ忘れていた。

2月2日(木)

アラビア半島の南東部を占めるオマーンの国土面積は日本の4分の3にも及ぶ広さを誇り、地方都市へ行く観光客の足としてはバスがメインになっている。今日はどこぞの地方都市まで足を伸ばしたいと思い、かつては海のシルクロードの中継地として栄え、シンドバッドの船出の場所として知られているソハールも検討したのだが、現在では当時の面影を伝えるものはないとのことで、さらに渚のシンドバッドがサーフィンボードを小脇に抱えて唇盗む早技を磨いている姿を見ると幻滅するかも知れないと考えたので断念した。

ソハール行きの代替プランとして、ONTC (Oman National Transport Co.)のメインバスターミナルから午前8時発のバスに乗り、マスカットから208km離れたバハラァという町に向かうことにした。バスがマスカットの都市部を離れて南西の内陸部に入ると車窓の景色は山岳部の砂漠地帯に一変した。途中ニズワという大きめの都市を経由して砂漠の中のオアシス村であるバハラァに到着したのは午前11時を過ぎた時間であった。

バハラァで最大唯一の見所は1987年に世界遺産に登録されているバハラァ・フォートでこれを見学しないことにはバハラァくんだりまで来た意味がなくなってしまうのだが、この遺産は1988年には危機遺産に陥ってしまったためか今もって長い修復の途上で中に入ることは出来ないという非情な現実を突きつけられてしまった。

オマーンはかつて東アフリカからインド亜大陸までを席巻する貿易王国であったのだが、その当時の威光を今に伝えているのがバハラァ・フォートである。今回はむなしくバハラァ・フォートの回りを一周し、その修復の過程を垣間見ながらこの歴史的遺産の詳細が少しでも早く砦フェチの好奇心を満たす日が来ることを祈っておいた。

マスカットへの帰りのバスが来るのが午後5時過ぎの予定なので6時間あまりの時間をバハラァで過ごさなければならなかった。バハラァのスークにはこれといって見る物がなく、住民は昼過ぎから家に篭ってしまうので人間模様の観察も出来ずにむなしく住宅街を彷徨っていた。バハラァは陶器の産地としても知られており、住宅街の中にも工房らしきものがあったのだが、門が閉ざされていたので中を覗くことも出来ず、何の戦利品も得ないままにバスでマスカットに帰って行った。

2月3日(金)

午前中の程よい時間にルイ・ホテルをチェックアウトするとルートタクシーでマトラに移動し、フィッシュ・マーケットの見学と洒落こんだ。多くの原住買い物客で賑わうマーケットには労働者による魚の解体もライブで行われており、血の滴る切り身は大いに食欲をそそるものがあった。

マーケットの裏手はしなびた漁港になっており、マーケットで魚を購入する代わりにパンを撒き餌に自力で生きた魚を釣り上げようとしている輩やおこぼれに預かっているカラスが共存共栄している様子が見て取れた。

マトラから海岸通りを2kmほど東に進み重厚なマスカット・ゲートをくぐるとオールド・マスカットというこじゃれた官庁街に到着した。オールド・マスカットの港の真ん中にそびえている砦はミラニ・フォートで1500年代に造られ、破壊と再生を繰り返してきた代物であるが、現在も軍や警察の施設として使われているので観光客が侵入することは出来なくなっている。

ミラニ・フォートの麓にはアラム・パレスという豪華な宮殿があり、白を基調とした城壁内部は緑の芝生ときれいな花々で彩られていた。今日はイスラム休日の金曜日ということもあり、官庁街は閑散として人も車も少ないのだが、ルートタクシーがたまたま流れてきたのでそれに乗り込んでマトラへと戻ることにした。

通常は多くの人で賑わうマトラ・スークも正午から午後4時くらいまでの昼休みの間はきっちり店を閉めており、人通りよりも猫通りの方が多いゴーストタウンと化してしまっているのだ。

リゾートホテルが立ち並ぶオマーン湾岸地域はコーロム地区と呼ばれており、マトラから西に10km以上離れているのでルートタクシーで乗り付けてみることにした。コーロム・ネイチャー・リザーブというクラウンプラザ・ホテルが見下ろすビーチの上には数多くのナツメヤシの枯葉を屋根にしたパラソルが突き刺さっており、アラブ服を着た原住民が様々なアクティビティに興じていた。

アクティビティはサッカーやクリケットのようなお手軽なスポーツから水上バイクやカヤックなど様々であったのだが、上半身裸の男子によるセミ格闘系のゲームには多くの観客が集まり、声援が飛び交っていた。

ビーチ沿いの道路にはおしゃれなカフェやスターバックス、シーフードレストランも営業しており、ビーチで砂まみれにならずとも存分にリゾート気分を味わうことが出来るような設備が整っていた。また、シーフードビュッフェを提供するレストランの横のマングローブでは屈強なおやじが投げ網で食材を確保しようと躍起になっていた。

インターコンチネンタル・ホテルの中庭を無断で抜けてルートタクシーを捕まえるべく幹線道路を目指しているとオープン間近と思われるRoyal Opera House Muscatが西日に照らされて豪華に白光りしていた。

マサよ、君はオマーンの特産香料でわらしべ長者になるという野望がよぎったことがあるか!?

というわけで、オマーンは古代エジプトやローマで儀式用香料として盛んに使用された乳香の産地として知られている。当時の乳香は非常に貴重な物で金と同等の価値があったと言われているのだが、長年財務官僚としての地位に安住し、錬金術さえ身に着けてきたはずのマサであれば私が持ち帰る乳香を同重量の金と交換してくれるはずなので再びマトラ・スークに戻り、乳香のサンプルを物色することにした。

マトラ・スークには金本位制を取っているゴールド・スークだけでなく乳本位制を匂わせている香水や香料を売る店が数多くあり、店頭では香炉の上でミルキーな乳香がジリジリと焚かれている。大抵の売り物には値札など付いてなく、商いはすべて交渉制によるものらしいのだが、財務省と違って明朗会計を身上とする私は値札の付いている店でおそらく相場より高い値段で乳香のサンプルを購入させていただいた。

シーブ国際空港に戻り、家に香炉の在庫がないことに気付いたので陶器製の一番安いやつを購入して手持ちのオマーンリヤルをすべて使い切ってしまった。

2月4日(土)

4:15発TK859便は定刻通りに出発し、5時間半程度のフライトでイスタンブールに帰ってきたのは2時間の時差を引いて午前8時前であった。今ではすっかりトルコ航空のラウンジの住人としての生活に慣れてしまった反面、トルコ風の食事のメニューにも飽きてしまったので栄養補給も程ほどにして血中のアルコール濃度を上げることに専念した。

18:40発TK50便はいつもほど団体観光客が多くなかったおかげで横3列席をすべて占領し、不貞寝しながら成田に向かって行った。

2月5日(日)

定刻13:10より早く成田空港に到着し、前回、今回と2回に渡ってペルシア湾岸を調査したにもかかわらず1匹たりともペルシア猫を発見出来なかったのはイスラムの宗主国であるサウジアラビアが囲っているのではないかといぶかりながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 トルコ航空 = ¥100,080、オマーン航空 = KD56.9 (KD1 = ¥276)

総宿泊費 $267.08、RO25 (RO1 = ¥199)

総クウェートバス代 KD1

総オマーンタクシー代 RO7

総オマーンルートタクシー代 RO2.1

総オマーンバス代 RO4.8

総クウェートビザ代 KD3

総オマーンビザ代 RO20

協力 トルコ航空、オマーン航空、agoda

アラビアの石油成金小国ツアー in カタール、バーレーン

マサよ、君は1993年10月28日にドーハで起こった悲劇を覚えているか!?

というわけで、カズ、ラモス、都並、柱谷等が寸でのところでワールドカップ初出場の切符を掴みそこなったあのいまわしいドーハを首都とするカタールがその時の状況をどう語~るのか現地に行けばわかるのではないかとの期待を抱いてアラビア半島では小国ながらプレゼンスの高い国々へのツアーが急遽催行される運びとなったのだ。

2012年1月15日(日)

イスタンブールを日本国内に知らしめるのに多大な貢献を果たした庄野真代ではなく、トルコ航空がスポンサーになっているマンチェスター・ユナイテッドの主力選手の肖像が機体にプリントされた14:40発TK51便、B777-300ER機に乗り込むと選手の面々も出演を果たしている機内のセキュリティビデオを見ながら成田空港を後にした。

同日の20:00頃に♪夜だけ~のぉ~ パラダイ~スぅ♪に到着し、引き続き21:30発TK774便バーレーン行きに乗り換えると機上で眠れぬ夜を過ごすこととなった。

2012年1月16日(月)

TK774便がバーレーン国際空港に到着したのは丑三つ時あたりであったのだが、空港内のファシリティは免税品店も含めて24時間アクティブな様子で、Transferデスクでカタール航空の搭乗券を入手すると5:15発QR151便ドーハ行きに乗り込んだ。飛行機が離陸して30分程すると後半ロスタイムにショートコーナーからカズを交わしてセンタリングを上げられ、頭で合わせたボールがなすすべも無いキーパー松永をあざ笑うかのようにゴール隅に吸い込まれるような感覚を覚えると悲劇の舞台となったドーハ上空に差し掛かっていることに気付かされた。

ドーハ国際空港では入国審査と同時にビザが取得出来るので、ビザカードでQR100を支払い、カタールへの入国を果たすとようやく東の空から太陽が昇ってきた。ドーハ中心部は空港からそんなに離れていないので青空に突き抜けているモスクの尖塔を見上げながら徒歩でカタール国立博物館を目指したのだが、改修中で閉館しているご様子だったので近代化された街中をあてどもなく彷徨ってみることにした。

「世界で最も退屈な町」と言われていること自体がドーハの悲劇であると思い知った街並みはオイルマネーの投入による建築ラッシュで近代的なビルがニョキニョキと建っているのだが、どうもアラビアの情緒は欠けてしまっているようだ。

古き良きアラビアのかけらを求めて歩いていると春を思わせる陽光の下で不貞寝を決め込んでいるラクダの楽園の向こうに白光りする伝統的な建造物を発見した。ドーハで最も古い建物のひとつであるドーハ・フォートはイギリス軍の侵略を防ぐ目的で建てられたものだそうだが、結局カタールは大英帝国の手中に落ちて手篭めにされてしまったという悲劇を味わっているのだ。ドーハ・フォートの外壁は白く塗りなおされているのだが、中にはこれといって何も無く手持ち無沙汰のまま外壁沿いの展望スペースを一周して撤収することとなった。

ドーハ・フォートから北に向かい、かすかに見える海を目指して歩いていると管理された芝生と花々に彩られたグランド・モスクが姿をあらわした。その傍らにピンク色が鮮やかなクロック・タワーが建っていたので近寄ろうとしたところ、警備員の手が手招きとは逆の方向に振られていたのでこのあたりはイスラム教徒以外の観光客は入ってはいけないところだと思い知らされた。

グランド・モスクに隣接する豪勢な首長の館の向こうには真っ青なアラビア湾(ペルシア湾)が輝いていたのだが、車社会のカタールでは歩行者が大きな道路を横切るためには大幅な迂回を強いられるため、今日は早々とグランド・カタール・パレス・ホテルに引き篭り、インド料理のブッフェを詰め込んだもののヤケ酒も食らえずに退屈な夜を過ごさざるを得なかったのだ。

1月17日(火)

秋田県程度の大きさの国土に180万人の人口を抱えているカタールであるが、その大半は首都ドーハに集中している。経済は主に石油と天然ガスに多くを依存してきたのだが、近年は観光事業にも力を入れ「世界で最も退屈な町」からの脱却を図っている。今朝はその変貌の過程を見届けるために高層ビルが並び立つ沿岸部まで足をのばしてみることにした。

沿岸部に行く途中で昨日から気になっていたとぐろを巻いている高いビルに接近したところ、Qatar Isramic Cultural Centerという看板が掲げられていたので試しに入ってみることにした。広々とした内部にはイスラムの歴史に関する説明資料が展示されており、多くの欧米人観光客が興味津々の面持ちでイスラムに対する理解を深めようとしていた。

ドーハの沿岸部は大きな弧を描いており、停泊しているレトロな木造のダウ船や林立する摩天楼と青い海が絶妙のコントラストを醸し出している。きれいに整備された遊歩道を歩いているとかつてここが真珠の産地であった名残を残すミキモト垂涎の真珠貝のオブジェがぱっくりと口を開けてカメラを持つ観光客を待ち受けていた。

カタールを語る上で重要な出来事は2006年12月にドーハで行われたアラブ諸国初のアジア大会であるが、その当時のマスコットらしき野郎も現役のオブジェとして湾岸の風景に溶け込んでいた。

遊歩道を3km以上歩いたところで遠巻きに眺めていた摩天楼が間近に迫ってきたのだが、よく見るとほとんどのビルが建設中でビル群の中には作業員以外の人の流れがなく近代化したゴーストタウンの様相を呈していた。

ヒルトン、シェラトン、フォーシーズンズ、インターコンチネンタル等の高級ホテルが並び立つ湾岸エリアに程近い場所に中近東最大級の規模を誇るシティ・センターという大型ショッピングモールが退屈な町での行き場のない金を集めているようだったので見物しに行くことにした。吹き抜けのシティ・センター中央の基盤は浅田真央であれば退屈することのないスケートリンクになっており、映画館、ブランドショップ、レストランの数も豊富で40℃を越す夏場には絶好のインドア避暑地として賑わうことが約束されているのだ。

シティ・センターで程よく時間潰しが出来たので4kmにも渡る沿岸の遊歩道をドーハの中心部に向かって引き返すことにした。夕暮れ時になると人々は遊歩道に設置されたベンチに集い、忍び寄る猫をマークしながら各自持参した食い物を広げて一日の終わりをのんびりと過ごしていた。

日が落ちるとライトアップされたオブジェや摩天楼が輝き始め、酒が飲めないという悲劇を除いて人々はすっかりアラビアにいることを忘れてしまっているかのようであった。

1月18日(水)

ドーハ市内でアラビアの雰囲気を味わうことが困難だと感じたので2007年に沿岸部にオープンしたイスラム・アート美術館(QR25)に展示されている財宝を見て溜飲を下げることにした。

博多名物にわかせんぺいを連想させるような外観を持つ美術館内に展示されている代物はにわかイスラム研究者もおもわずうなるほどの貴重品ばかりであったのだが、古いコーランに書かれているアラビア文字よりも皿や陶器に描かれているへたくそな絵のほうが当時の生活模様を如実に表しているように感じられた。

美術館の裏手には臨海公園が整備されつつあり、安楽椅子に座って対岸の摩天楼を眺めながら至福の時を過ごすことが出来るように配慮されている。尚、イラクに同点ゴールを決められた瞬間にベンチから転げ落ちたゴン中山のような悲劇を起こさないために椅子にはしっかりとした手すりが取り付けられていたのだった。

退屈とリフレッシュが表裏一体となっているドーハを後にすべく、17:05発QR160便に乗り込むと50分程度のフライトでバーレーン国際空港に帰ってきた。ここでもBHD5の支払いで入国審査時にビザを入手すると時速300kmでサーキットを疾走するような刺激を求めてバーレーンに入国した。

アラビア湾に浮かぶバーレーンは奄美大島とほぼ同じ面積を持つ小島国でありながら、110万人もの人口がひしめきあっている。アラブで初めて石油を採掘した実績を誇るバーレーンだが、その石油もあと20年しかもたないので近年は観光にも力を入れているという。その成果としてF1の誘致にも成功し、2004年に中東で初めてのF1が開催されて以来、毎年春先のバーレーン・グランプリの時期には音速の貴公子たちがおびただしい観光客を伴ってこの地にやって来ているのだ。

バーレーン国際空港から首都マナーマの市街地へはタクシーで行くのが一般的なので早速タクシー乗り場で順番待ちをしていた1台に乗り込み、運転手が時々メーターをたたいているのが気になったものの、相場のBHD5でConcord International Hotelに到着した。インド人が経営する同ホテルは設備は古いが部屋は広々としており、24時間営業のレストランやバーも併設されている。バーレーンはイスラム国家でありながら戒律が緩やかなために飲酒が認められており、そのせいか深夜過ぎまでディスコティックな喧騒が絶えず、善良な宿泊客の安眠の妨げとなっていた。

1月19日(木)

マナーマ市街地の中心部にあるホテルを出て市民の生活ぶりや人間模様を観察するために周囲を歩くことにした。たまたま行き当たった巨大なマーケット群は野菜、果物、魚系に建屋が分かれており、この国の多様な食文化が所狭しと並べられた新鮮な食料品の供給により支えられていることが実感出来るのだ。

南アジアからの出稼ぎ労働者の足となっているものの富裕層が乗らないために運営状態が良くないバスターミナルから適当なバスに乗り、勘をたよりに適当な所で下車して歩いていると何故か地元のアラビア人に呼び止められたので、これ幸いとバーレーン・フォートへの道筋を尋ねたところ身振り手振りを駆使したアラビア語で教えてくれたので何とか方向性だけは理解することが出来た。

マナーマ中心部から西に5km程離れた沿岸部に静かに佇むカラート・アル・バーレーンは通称バーレーン・フォートと呼ばれ、アラビア半島の数少ない世界遺産のひとつとして君臨している。

かつてメソポタミアとインダスをつなぐ中継貿易の拠点として栄えていたこの地は、その後もいくつもの都市が積み重なるようにして造り上げられ、現在残っている遺構は1512~1622年にわたりバーレーンを支配したポルトガルが残した城砦跡である。

バーレーンを代表する観光地としての整備が急がれるバーレーン・フォートの傍らにはカラート・アル・バーレーン美術館(BHD0.5)も開館しており、悠久の時を経て受け継がれた発掘品の数々がセミ貸切状態の観光客の興味を引いていた。

バーレーン・フォートからマナーマに戻る幹線道路の周辺はマサに大型ショッピングセンターの見本市と化し、地元のバーレーン人やキング・ファハド・コーズウエイという総延長25kmの橋を車で渡ってやってくる隣国のサウジアラビア人の旺盛な購買需要を満たそうという努力の結果が見て取れた。

数あるショッピングセンターの中で最大最新のものは2008年にオープンしたシティ・センターで巨大な駐車場には自家用車が列を成し、正面入口前には多くのタクシーが整然と並んでいた。ドーハのシティ・センターの目玉はアイススケートリンクであったのだが、ここには高波が起きるプールがあるらしく、緑のムーミンもどきが客の気を引こうと躍起になっていた。

マナーマ北部の沿岸に商業、居住区、娯楽などの施設が集まったファイナンシャル・ハーバーが建設中で、あたかもドーハと競っているかのようにユニークな形をしたビル群の建設ラッシュとなっていた。中でもワールド・トレード・センターはすでに完成しており、ツインタワーの間を取り持つ渡り廊下には何故か風車のようなものが取り付けられていたのだった。

1月20日(金)

昨日は洗練された近代ショッピングセンターの中で商いの様子を見ていると飽きないと思ったので今朝はバブ・アル・バーレーン(バーレーン門)の南に広がる伝統的なスークに巣食っている商人を見学することにした。

スークではカラフルな布地やドレスを売る店が多かったのだが、辺りには特徴的なモスクもいくつかあり、印象的な絵が描かれた垂れ幕のようなものが特に目を引いた。

ドーハを「世界で最も退屈な町」とするとバーレーンは世界で2番目に退屈な所ではないかとの疑念が沸いてきたので、バス・ターミナルに行ってバーレーン中部にあるインターナショナル・サーキットや1931年にアラビアで最初に発見された第1号油井の隣の石油博物館へのアクセスを模索したが、埒があかなかったのでマナーマの10km程南にあるイーサ・タウンまでバスで往復してお茶を濁しておいた。やはり車社会のバーレーンを縦横無尽に移動するにはレンタカーを借りるかタクシーをチャーターするしかないと思い知らされたのだった。

発展著しいバーレーンの道路は工事中や交通規制で至る所で通行が制限されており、パトカーや白バイもけたたましいサイレンを鳴らして猛スピードで走り回っていた。歩行者保護の意識の乏しい車が走り抜ける幹線道路の脇を心細く歩いて行くと何とかバーレーン国立博物館(BHD0.5)に辿り着くことが出来た。

広大な敷地の中にある広い館内にはポップな現代アートや自然史展示室、バーレーンの歴史を紹介した展示室等があり、太古の石器時代からティルムン文明、イスラムにいたる歴史の変遷を学習するのに最適なファシリティとなっている。

この博物館で特筆すべき代物はバーレーン全土に8万5000以上あるといわれる古墳の重要なものをそのまま持ってきて展示しているコーナーである。尚、古墳は断面が分かるように切断されており、暴かれた墓や副葬品も豪華絢爛さは見られないが、非常に興味をそそるものである。

また、石油発見前のバーレーンは遠浅の海で採れる真珠も主要産物のひとつであり、当時の採集の様子や真珠貝、銀座のミキモトでは高値がつかないはずの粒の大きさと形がまちまちな真珠が展示されていた。

バーレーン博物館から南へ向かう幹線道路沿いの海岸は公園等の整備が進んでおり、マリーナ脇の広場は地元住民の憩いの場になっていた。さらに南下するとグランド・モスクの通称で通っているアハマド・アル・ファテフ・モスクの尖塔が天空に向かってそびえていた。今日は金曜日なのでイスラム教徒以外は入場できないのだが、それ以外はモスク内への侵入どころか写真撮影も許可されているとのことだ。

バーレーンでのバーゲンを期待したわけでないが、世界で2番目に退屈な町ではショッピングモールが最適な暇つぶしスポットであるはずなので夕暮れ時に再びシティ・センターに突入することにした。イスラムの休日ということもあり、フォルクスワーゲンの新モデルの実車展示等に群がる富裕層で溢れ変えるシティ・センター内には安価なファストフードを提供するフードコートから高級感のあるエスニックレストランまで多くの食欲スポットがあるのだが、とりあえずアラビア湾で採れた魚を様々な国の料理方法で提供するシーフードレストランで骨抜きはしてあるが、小骨には手が回っていない白身大魚のアラビア風ソテーを召し上がって夕食とした。

ウインドショッピングも一巡したところでタクシーに乗り、手持ちのキャッシュが底をついたところで降りるつもりが、ぎりぎりでバーレーン空港まで辿り着けた幸運に感謝しながらも空港の両替屋で手持ちの米ドルをバーレーン・ディナールに両替し、買い食いでもしながらさらなる時間潰しをしなければならなかった。

1月21日(土)

今回のツアーで持参したダヴィンチ・コードの文庫本、上・中・下巻を完読した頃、ついに搭乗の時間となったので3:10発TK775便に乗り込み、4時間程のフライトで早朝イスタンブールに帰ってきた。成田行きのフライト時間まで半日程あったのでイスタンブールで入国してトルコ風呂にでも行こうと思っていたのだが、外は冷たい雨がしんしんと降っていたのでラウンジに留まり、数日振りのアルコールを朝から浴びながら怠惰な時間を過ごさせていただいた。

18:40発TK50便成田行きはマンチェスター・ユナイテッド機ではなかったものの日本人ツアー客を満載して離陸し、完全日本語対応された機内エンターテイメントプログラムを楽しみながら11時間もの長時間フライトを快適に過ごさせていただいた。 

1月22日(日)

13時過ぎに成田空港に到着し、成金になったとはいえアラビアの伝統とは異なるものを急激に取り入れると退屈地獄に陥ることがあると肝に銘じながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 トルコ航空 = ¥99,880 カタール航空 = BHD72.8 (BHD1 = 約¥204)

総宿泊費 $300.36

総バーレーンタクシー代  BHD11.5

総バーレーンバス代  BHD0.6

総カタールビザ代 QR100(QR1 = 約¥21)

総バーレーンビザ代 BHD5

協力 トルコ航空、カタール航空、agoda

聖地エルサレムとインディFTBツアー

杓子定規の目盛に埋没しているマサが所属する官僚組織の聖地は霞がかって正体が見えない霞ヶ関と言われているが、そもそも聖地とはエルサレムを指すものであり、ここに巡礼に行かなければ聖地を語るに片手落ちになってしまうので、その片手を落とさないためにもエルサレムとその周辺のツアーを敢行しておかなければならなくなったのだ。

2011年12月26日(月)

年末年始の繁忙期にもかかわらずお得な価格で中東へ飛ぶためにわざわざ関西空港に移動して、トルコ航空が運航する23:30発TK47便、A330-200機に颯爽と乗り込んだ。

12月27日(火)

♪飛んで イスタ~ン♪ マサよ!

ということで、11時間余りの時間を機内でつつがなく過ごすとトルコ航空機の巣窟となっているイスタンブールに到着し、そのまま7:40発TK784便に乗り換えてヒットラーにひっとらえられることのなかったユダヤ人によって建国されたイスラエルを目指した。飛行機は雪に覆われたトルコの大地を抜け、青い地中海を横切ると2時間程度のフライトで10時前にテルアビブ郊外のベン・グリオン空港第3ターミナルに到着した。

入国審査官の鋭い突っ込み質問が気になったものの、つつがなくイスラエルへの入国を果たすと空港に付属している鉄道でテルアビブ中央駅に向かった。さらに市バスに乗り換えてテルアビブ北部で下車すると海外格安ホテル予約のAgodaに手配させておいたDizengoff Beach apartmentsに荷物を置き去るとイスラエルで最も洗練されたテルアビブの散策に繰り出すことにした。

地中海に面したテルアビブ港からビーチ沿いに立ち並ぶリゾートホテル群に見下ろされながら南下していると常に情勢が不安定な中東の地にいることを忘れさせてくれるような近代的都市型リゾートの景観が次々に姿を現してきた。

去る2003年に「白い街」と呼ばれるテルアビブの現代建築群が世界遺産に登録されたのだが、街中を歩いてみてもどれが世界遺産に相当する建物なのか中々見分けが付かなかった。しかし実際にはユニークな形をしたビルや存在意義を図り知ることが難しいオブジェも数多く、散策が楽しい場所であるのは確かであった。

近代ビル群を抜けてさらに南下するとテルアビブ市民の台所として生活用品や食料品を明朗会計で提供しているカルメル市場に辿り着いた。今日の宿のDizengoff Beach apartmentsの部屋にはきちんとしたキッチンと調理用具がそろっていたので市場で安価なパン、チーズ、イワシの酢漬けや名物のザクロを買って夕食とし、頭をザクロ状にカチ割られたような時差ぼけ頭痛を感じることなく休ませていただいた。

12月28日(水)

管理人が常駐していないDizengoff Beach apartmentsをチェックアウトするとシェルートと呼ばれる10人乗りのミニバスでセントラルバスステーションに向かった。簡単な荷物検査が実施されているゲートを通って4階のエゲットバス乗り場まで這い上がると窓口でチケットを購入して9:30発エイラット行き394番バスに乗り込んだ。

テルアビブを脱出すると車窓を流れる景色は一気に砂漠と化し、バスは乾きを押さえるように何回かの休憩を経て340kmもの道のりを5時間以上かけてイスラエル最南端の国境の町兼紅海リゾート地であるエイラットのセントラルバスステーションに到着した。

今日の宿はバスステーションから程近いRimonim Central Hotelだったのでサクッとチェックインを決め込んでイスラエル唯一の紅海リゾートの有様を目に焼き付けておくことにした。エジプトとの国境であるターバー国境へ行って珊瑚礁を堪能する時間が無かったので近場のノースビーチ近辺を散策するに留まったのだが、海の透明度は紛れもなくダイバーの憧れの地にふさわしいものであったのだ。

12月29日(木)

早朝ノースビーチを散策してさわやかなエイラットの朝を堪能するとタクシーでヨルダンとの国境であるイツハク・ラビン・ボーダーに向かった。国境越えは思ったより簡単でイスラエル出国税101シェケル(日本円で¥2000程度)をむしり取られただけですんなりとヨルダン側のアカバの町へ侵入することに成功した。

国境から町の中心まではタクシーが唯一の交通手段となっているので車両を物色しようとしていると当然のように客引きとの熾烈な交渉合戦に巻き込まれる運びとなった。元々のプランではアカバから安いバスでペトラに向かうことを目論んでいたのだが、客引きはバスは数時間来ないだのといったヨルダン初心者を錯誤に陥らせる情報を駆使して旅行者を長距離タクシー移動の魔の手に誘い込もうと躍起になっていた。それでもペトラまでの100km以上の移動が50ヨルダンディナール(日本円で\6000程度)と随分割安に思われたのであえて客引きの術中にはまり、黄色のヒュンダイ車で一路ペトラを目指すことと成った。

完璧な英語を操るエイブラハムと名乗るおやじ運転手が駆るタクシーは砂漠を縦断する舗装路を時速110km以上で北上しながらしきりにペトラエリアでのタクシー観光の営業を繰り返し、途中の高台のビューポイントで砂漠の奥に広がる死海の紹介や岩山に隠されたペトラへ続く道等の紹介を織り交ぜながら1時間ちょっとでペトラ観光の拠点となる町であるワディ・ムーサに到着した。

早速今日の宿でお湯が出るのに長時間かかることが判明するHidab Hotelにチェックインすると入場料の高いペトラには向かわずにワディ・ムーサの散策に出ることにした。起伏の激しい町並みには数多くの商店やレストラン、格安スイーツを提供するケーキ屋等で賑わっており、ヨルダン人のほのぼのとした日常生活を垣間見ることが出来たのだった。

12月30日(金)

マサよ、君はペトラ遺跡は1812年にスイス人探検家ブルクハルトにより発見されたものでインディ・ジョーンズやハリソン・フォードによるロケハンの賜物ではないことを知っているか!?

というわけで、Hidab Hotelを出て歩いているとTOYOTAのピックアップトラックが声をかけてきてペトラの入口まで相場の3ディナールで連れて行くというので乗っかることにした。世界遺産であり、中東を代表する遺跡のひとつとして君臨しているペトラの入口は多くの団体観光客と単体観光客でひしめき合っており、彼らの間を縫うようにしてチケット売り場に辿り着くと高値の55ディナールを支払ってTwo Days Visit Ticketを購入した。尚、1日券でも値段は50ディナールとなっている。

ゲートを抜け、遺跡を目指して歩く道すがらでチケットに代金が含まれているから馬に乗って行けという勧誘の声を耳にしているとおせっかいな日本人観光客が「嘘ですよ~、後でお金取られますよ~」と捨て台詞を吐いて去っていったのでうまい話には裏があると思った次第であった。

4本のオベリスクが磨耗しているオベリスクの墓を左手に見ながら進んでいると断崖の間を縫うように路地が形成されているスイーク(Siq)で圧迫感に苛まれることになる。崖の下方には律儀にも岩の水路が続いており、壁面にはいくつかの残像も繁栄当時の面影を残している。

永遠に続くかと思われたスイークの先で岩の裂け目から徐々に姿を現したものはマサにジョージ・ルーカス監督も「あるはずね~!」と叫んでしまいそうな巨大な神殿風の建物であった。アル・ハズネ(Al Khazneh)と名づけられたこの彫り物式建造物は「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」のクライマックスを飾る舞台としてその後のヨルダン政府の観光収入の激増に一役買っている代物である。

宝物庫を意味するアル・ハズネの前に広がる広場には記念撮影用のラクダやロバのタクシーが待機しており、アンティークを取り揃えた土産物屋では招き猫としての本分をわきまえている店番が食べ物を持った観光客の動向を隙無く見守っていた。

広大なペトラ遺跡においてアル・ハズネと双璧をなす見所がはるかかなたの丘の頂上に君臨しているので次々と迫り来るロバや馬の背中乗りツアーの勧誘をかわしながら粛々と急な階段を登って行った。途中ライオン・トリクリニウムという鍵穴状の遺跡をちら見した後、1時間以上の時間をかけて何とか頂上に這い上がることに成功した。

丘の上の岩山に掘り込まれたアッデイルは修道院を意味し、その規模はアル・ハズネを凌ぐほどの巨大さを誇っている。周辺にはTOP OF THE WORLDを標榜するトレイルやビューポイントも開けており、寒風吹きすさぶ中、荒涼とした景色を眺めながらざわめく心の声に耳を傾けることが出来るのだ。

今日は朝から曇り空で午後になるといよいよ雲行きが怪しくなり、昼でも夜ダンのような暗さに包まれてしまうことを恐れて羊の放牧おばさんの奇声を合図に丘の上から撤収することにした。

象の形の岩を過ぎて下界に到着すると小さな博物館の展示物に軽く目をやった後、そぼ降る雨に打たれながら初日のペトラ探訪を強制終了させることにした。

12月31日(土)

昨日の曇天とは打って変わって今日は朝から青空が広がっていたので、早朝より新たな気分でペトラへ乗り込んだ。スイークの前では武装した兵士に扮した2人組みが観光客を出迎え、さらに2匹組の猫もおねだりのハーモニーを奏でていた。

ペトラはバラ色に輝く古代都市との異名を取るが、今日は青空の下でピンク色の岩々が一際輝いて見えるので主に遺跡の中心部を探検することにした。

アル・ハズネからしばらく歩を進めると左手にローマ円形劇場が風化している光景を目にすることが出来る。2~3世紀頃に建てられたこの劇場の収容能力は5000人以上を誇っていたのだが、最盛期のペトラには1~3万人の人口がいたと推定されている。

ローマ劇場を退場して柱廊通りの最後を飾る凱旋門を抜けると左手にアル・ビント城が見えてくる。ファラオの娘の城を意味するこの建物はナバティア人の主神、ズゥ・シャラー神を祭っていた神殿で外壁は幾何学的な模様で装飾されている。

アル・ビント城から高台に登り、乾いた景色を眺めながら歩いていると数多くの横穴状の洞窟に遭遇する。洞窟の中には現役の駐車場として使われている物もあるが、削られた岩の模様はピンクと白をあしらったマーブル状の芸術作品であった。

高台からはペトラの中心部で繁盛している土産物屋や巨大墳墓が連なる王家の墓を見下ろすことが出来たので、風化が進んでいるものの全盛時の威容を十分に維持している多くの墓を前にして人生のはかなさを感じながら下界におり、茶店で茶でもしばいた後、一番立派なアーンの墓に上ってみることにした。

アーンの墓の入口の前ではコンパニオン風の原住民が記念撮影のモデルとして立ちはだかっており、「何か文句でもあんのか? ア~ン!」というような風貌でいちびっていやがった。尚、この墓の名前の由来は上部の壺(アーン)のような飾りから来ており、5世紀のビザンチン時代には教会として使用されていた実績もあるのだ。

2日にわたるペトラ遺跡の調査を終えると送迎車で一時Hidab Hotelに戻り、昨日のうちに予約していたタクシーの到着を待っていた。次の目的地に関してはヨルダンでは首都であるが日本では井村屋の主力饅頭のひとつでしかないアンマンも選択肢の一つとして考えたのだが、35ディナールの支払いでアカバに引き返すことにした。

アカバの中心地に位置するCaptain’s Tourist Hotel Aqabaにチェックインした頃には日も西に傾いていたので夕焼け小焼けを見るために急いでビーチに繰り出すことにした。アカバ湾上空の茜色が徐々に漆黒に変わって行くと対岸のエイラットの町の明かりが鮮やかになり激動の2011年は静かに暮れて行ったのだった。

2012年1月1日(日)

ハッピー ニュー マサよ!

ということで、近所のモスクから鳴り響くアザーンの調べで強制起床させられると正月気分の感じられないアカバの透明なビーチで心を清めることにした。原住民はすでにビーチに繰り出しており、海底を覗けるグラスボートもあちこちでマイルドな営業客引きを始めていた。

ホテルの前で客待ちをしているタクシーを捕まえ、軽い料金交渉の結果、10ディナールでアカバ国境まで移動し、順調にイスラエルへの再入国を果たした。イスラエル側の国境で銃を携えたセキュリティ嬢にタクシーを呼んでいただくと10数分でエイラットの中央バスステーションに到着した。

2011年8月18日に満員のバスに大量の銃弾が打ち込まれ、7人が死亡するほどのテロが起きたことがうそであるかのようにエイラットは日常のリゾート風景を取り戻していた。イスラエル軍に守られながら14:15発のバスに乗り込むと2時間半程でイスラエル最大の死海のほとりのリゾート地であるエン・ボケックに到着した。

スパを併設するOasis Dead SeaホテルのReceptionで長時間待機の憂き目にあいながらもチェックインを果たすと宿泊代に含まれているビュッフェの夕食を馬食して溜飲を下げておいた。すでに夜の帳がおりていたのだが、死海にまつわるエステグッズをたたき売りしているショッピングセンターが多くの美魔女候補で賑わっていたので買う気もないのにひやかしに行くことにした。主なエステグッズを大別すると塩と泥とクリームに分類されるのだが、これらの開発と乱売により死海の水位は年々下がってきているのだ。

1月2日(月)

肌寒い早朝よりバスローブを羽織ってホテルから死海ビーチに足を運んでいる観光客が部屋の窓越しに見受けられたので私もビーチに下りてみることにした。死海というとマイナス400mの世界最低の塩水湖でヘドロのようなドロドロしたものが溜まったマサに死の海の様相を想像していたのだが、目の前にはサファイアブルーの美しい水が静かに湛えられていた。死海に浸した指をしゃぶってみると通常の海水の10倍という塩分濃度33%の洗礼が私の味覚にもたらされた。

真冬の時期にもかかわらず死海くんだりまで来て憧れの浮遊体験をしなければ死海に来た意味がないと言わんばかりに水面に仰向けになっている強者もいたのだが、その浮遊が水質の特徴である塩分含有量によるものなのか個人の脂肪蓄積量の成果であるのか見極めることが困難であった。やはり私の筋肉質の肉体で実証するしかないと思ったものの目の中に塩が入って視界不良になるのを恐れて今回は見合わせることにした。

死海沿岸にある世界遺産としてマサダ国立公園がユダヤ民族結束の象徴として君臨している。ローマ軍に追い詰められ、最後に残ったユダヤ人が籠城した遺跡を是非調査したいと考えていたのだが、やはりマサダに行くべきなのはマサだと思ったのでエン・ボケックからバスに乗って一路エルサレムへ直行することにした。

空気の冷たさを感じるエルサレムのセントラルバスステーションに到着したのは午後2時くらいの時間帯でそこから徒歩でとぼとぼとPark Hotel Jerusalemに移動したもののチェックインは3時からということだったのでバスステーションに内蔵されているショッピングセンターでしばし時間を潰さなければならなかった。

チェックインを果たした頃には冷たい雨が降り始めたので夕刻まで待機を強いられ、街中に出ようと思った時には聖地は闇に包まれていた。米国を凌駕する科学技術を持つイスラエルはその先端技術を宇宙人との交信により仕入れているとの噂を裏づけるいくつかの痕跡を目にしながらエルサレムの中心地に向かった。

堅固な城壁に守られたエルサレム旧市街の内部は迷路のようでスークなど屋根のある細い道が多く、さらに階段を上り下りしなければならないため方向感覚が掴みづらい構造となっている。尚、華やかなスークでは土産物だけでなく食品や日用品も売られているのだが、スパイスのピラミッドや鮮やかなピクルスが道行く人の興味を引き付けていた。

1月3日(火)

宿泊しているホテルからエルサレムの旧市街までは2011年に完成したLRTという路面電車が便利なので今回の巡礼には何度もこの路線を使用させていただいたのだが、停留所に設置されている自動販売機でチケットを購入する際に高確率で機械がトラブる現象が発生している。反応の悪いボタンを何度も押してチケット購入画面に辿り着いたものの紙幣やコインを投入しても認識せずに返ってきたり、機械に十分な釣銭余力を与えるために多くの小額コインを投入すると10枚以上のコインは受け付けないとダダをこねて初期画面に戻ったりすることはザラであった。それでも1回の乗車につき6.6シェケル(日本円で約\140)の支払いでDamascus Gateという停留所まで来るとそこからエルサレム旧市街の8つの城門の中で最も美しいとされるダマスカス門をくぐって巡礼の火蓋が切って落とされた。

イスラエル兵による手荷物検査を切り抜けるとユダヤ人にとって最も大切な祈りの場となっている嘆きの壁(世界遺産)に到着した。壁に生えているのはヒソブの草で夜になると石の間にたまった夜霧が草を伝って落ちてくるのだが、それが涙を流すユダヤ人の姿を映しているようで、いつの頃からか嘆きの壁と呼ばれるようになったという。男性は向かって左側、女性は右側と祈りの場所が分けられており、壁の石の隙間には人々の悲願を記した紙切れが詰められている。

嘆きの壁を前にして財務省主導の増税による財政再建案を嘆いてばかりではいられないので壁の向こうにある神殿の丘(世界遺産)に向かうことにした。神殿の丘は、古くはソロモンの神殿があった場所とされ、ダビデが神の契約の箱を置いた所とも言われているのだが、今ではメッカ、メディナに続くイスラーム第3の聖地となっている。ムスリム以外の人は嘆きの壁の南側からモロッコ門を通って神殿の丘へ上らなければならないのだが、午前9時現在で長蛇の列が出来ていたので最後尾に回りこんだ。ところが、1時間並んで入場門が視界に入ったところで午前10時のタイムリミットとなり、神の後押しによる入場を果たすことは出来なかったのだ。

気を取り直してキリスト教最大の巡礼地である聖墳墓教会(世界遺産)に礼拝に行くことにした。イエスが十字架にかけられ、磔刑に処せられたのはゴルゴタの丘でマサにその丘と考えられている所に建つのが聖墳墓教会である。教会内には多くの巡礼者で溢れているイエスの墓を始め、十字架に釘付けにされた場所や息を引き取った場所、その後に香油を塗られた場所等多くのイエス最後にまつわるゆかりの場所があるのだ。

男色系の人々の心にさざ波を立てるかも知れないエッケ・ホモ教会(NIS9、世界遺産)は新約聖書に登場するイエスの裁判が行われた場所である。「エッケ・ホモ」とは、ラテン語で「視よ、この人なり」の意味でイエスがローマ総督ピラトの裁判を受けたとき、ピラトがイエスを指して言った言葉からきている。教会内部にはローマ時代の遺跡も残されており、エッケ・ホモ・アーチは、135年にローマのハドリヌス帝により、エルサレム征服を記念し建造された3重の凱旋門の一部が残ったものである。

イエスが十字架を背負って歩くゴルゴタへの道はヴィア・ドロローサ(世界遺産)と言われている。全長約1kmにわたるこの道は当時も今も繁華街で巡礼者は十字架を抱えながらイエスの歩いた悲しみの道を辿っているのである。ヴィア・ドロローサは第1留のピラトの官邸からゴルゴタにある聖墳墓教会まで14留あり、それぞれの留(ステーション)でイエスの身に起こった事柄が伝えられているのだ。

エルサレム旧市街の西端に歴史を重ねてきたエルサレムを物語るダビデの塔(NIS30、世界遺産)が歴史博物館として豊富な資料や模型を展示しているので学習させていただくことにした。早速入口を入ってすぐのところのファサエルの塔展望台に登り、間近で見ることが出来なかった神殿の丘に君臨する岩のドームの勇姿を拝むことにした。ムハマンドが昇天したという伝説を持つ岩のドームはエルサレムの象徴的存在であり、ダビデの塔博物館にもその内部の模型が律儀に展示されていたのであった。

緑青をまとったラブリーなダビデ像が見守るダビデの塔は紀元前20年にヘロデ王がエルサレムを防御するために建てられた要塞であるのだが、その名の由来はビザンツ時代に誤って呼ばれたのが始まりという間の抜けた噂が残っている。但し、伝説によると、この塔を建てたのはダビデ王ということになっており、この塔から彼の忠臣ウリヤの妻バテシバの沐浴を盗み見たという現代人も共感出来る彼の性癖も伝えられているのだ。

1月4日(水)

♪あらふぁ~と(あなたと)わたしが 夢の国♪

というわけで、進め!電波少年のアポなし企画で松本明子がイスラエルの紛争地帯であるパレスチナ自治区のガザ地区まで出向いてアラファト議長とてんとう虫のサンバをダジャレた実績は芸能界の金字塔のひとつに数えられている。昨今の情勢によりガザ地区に入るわけにはいかないので同じパレスチナ自治区であり、エルサレムの南10kmに位置するベツレヘムを訪問することにした。

エルサレム旧市街のダマスカス門に程近いスルタン・スライマーン・バスターミナルから21番バスに乗り、出発して程なくするといきなりバスが停止してイスラエル軍による乗客の身分照会が行われた。日本代表の私はパスポートを提示することで事なきを得たのだが、原住民の中には時間をかけてみっちり取り調べられている輩も見受けられた。

バスはイスラエル軍が見守るパレスチナ自治区との境界のチェックポイント(検問所)を抜け、アラブ人の町であるベツレヘムの中心に到着した。厳しいタクシー運転手の勧誘のマークをかわし、明らかにエルサレムとは雰囲気の違う町並みを見ながら歩いていると巨大なクリスマスツリーが飾られているメンジャー広場に到着した。広場に面するビルにはアラファト議長の垂れ幕が掲げられており、その辺にたむろして油を売っているアラブ人に笑みを湛えながらもにらみをきかせていた。

エルサレムではイエスの終焉の歴史を辿ったのだが、ベツレヘムはイエス生誕の地であり、生誕教会が聖地とされているので礼拝させていただくことにした。メンジャー広場に面した謙虚のドアといわれる小さな扉からかがんで教会内に入ると身廊からつり下がっている数多くのランプや床に空けられた穴から覗き見えるコンスタンティヌス帝時代の古いモザイクが目に飛び込んできた。

生誕の場所は教会の地下洞窟とされており、イエスが生まれたとされる場所には銀で☆の形がはめこまれた祭壇がある。☆には「ここにてイエス・キリストは生まれたまえり」とラテン語で刻まれている。

生誕教会の北隣にはフランシスコ派修道院聖カテリーナ教会があり、教会の前には聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳する作業に生涯を捧げたヒエロニムスの像が建てられている。尚、この翻訳の偉業によりキリスト教が世界中に広まったといわれているのだ。

メンジャー広場からアラブ人で賑わうスークを抜け、バス停に帰り着くと丁度客待ちしていたバスに乗り込みベツレヘムを後にした。エルサレムのセントラルバスステーションからベン・グリオン空港行きのバスに乗ったものの、空港近辺でローカルバスに乗り換えなければならなかったので、とあるバス停でバス待ちをしているとS価学会を脱会して夫の信仰するユダヤ教に改宗した米国婦人のSの金満体質に対する愚痴を聞いてやらなければならなかった。

空港からイスラエルを出国する際には細かい質疑応答が繰り返されるため、人によっては5時間もかかり飛行機に乗り遅れるという憂き目にあったという噂を聞いていたので早めに空港に着いたのだが、FTBご一行様のツアーに関しては短時間で切り抜けることが出来、20:00発TK789便イスタンブール行きの出発時間を遅らせることはなかったのだ。一方、23:55出発予定のイスタンブール発関西空港行きTK46便は濃霧で機材の到着が遅れたため、1時間以上の遅れを出しやがったのだ。

1月5日(木)

TK46便は遅れを取り戻すことなく、午後7時頃に関西空港に到着した。さらに関西空港から羽田に向かう飛行機も札幌からの到着予定便が大雪のために欠航になり、その機材を使う予定であった次便の関西→羽田の最終便の乗客を救済するという名目で50分も遅れてしまった。そのアナウンスがこだましたのが搭乗予定時間の直前で、地上係員に詰め寄る乗客に悟りを開くことなく流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥130,450

総宿泊費 US$301、¥24,161、JD85 (JD1 = 約¥108)

総鉄道代 NIS14.5 (NIS1 = 約¥21)

総バス代 NIS214.5

総LRT代 NIS66

総イスラエルタクシー代 NIS66

総ヨルダンタクシー代 JD112

総イスラエル出国料 NIS101

総ヨルダン出国料 JD8

協力 トルコ航空、Agoda

飛んでイスタンブールFTBバージョン in トルコ

♪いつか わすれていぃったぁ♪1978年のヒット曲である庄野真代の一発屋ソング(http://www.youtube.com/watch?v=PN2QKZcR3Os)を耳にして以来、必ずイスタンブールを訪れなければならないと考え続けてきた。ついに30年の時を経てその野望を果たす機会を手にすることになったのである!!!

5月3日(土)

ボンジュール マサよ! サバ!(鯖?)

ということで、ANA205便にておなじみのパリ、シャルル・ド・ゴール空港に到着するとそのままエールフランス航空AF2390便に乗り換え目的地であるイスタンブールに到着したのは深夜12時前であった。すでに♪夜だけ~の~パラダイス♪の様相を呈しているイスタンブールであったが、それだと曲のエンディングになってしまうので気を取り直して空港に乗り入れているハフィフ・メトロに乗り込み、何とか1時前には本日の宿泊先であるHoliday Inn Istanbul Cityに無事に到着した。

5月4日(日)

早朝ホテルをチェックアウトし、イスタンブール市内の主要部を走っている路面電車トランヴァイに乗り込みスルタンアフメットというイスタンブール旧市街(世界遺産)の観光の中心地に降り立った。早速撫でようとすると前足で攻撃をしかけてくる気位の高い三毛猫が門番を務めているアヤソフィア博物館(YTL10)を訪問させていただいた。

西暦360年にギリシア正教の大本山として竣工したアヤソフィアは幾たびかの焼失と時代の流れに翻弄されながら、後にイスラーム寺院へと変貌を遂げたイスタンブールを象徴する箱物である。内部には多数のビザンツ文化を象徴するモザイク画が残っており、また聖母マリアの手形といわれている柱にはくぼみがあり、そのくぼみに親指を入れてあとの4本の指を柱から離さずにぐるりと円を描ければ願いがかなうと言われているので観光客は一様にグリグリおよびグルグルに興じていたのである。

3大陸を制したスルタンの栄華を今に伝えるトプカプ宮殿(YTL10)がマルマラ海を眼前に、ボスポラス海峡を望む小高い丘に建てられており、オスマン朝の支配者の居城として400年もの間、政治や文化の中心として栄え、膨大な秘宝が今なお収容されているとのことであったので見物しない手はないと思い侵入することにした。宮殿内の調理場は現在はクリームシチューを盛り付け出来そうな有田焼まで収蔵する陶磁器の展示コーナーになっているものの16世紀末には1200人あまりの料理人がいたといわれている片鱗がうかがえる巨大な鍋釜等の調理器具も目を引いた。また、宝物館には86カラットの大きなダイヤを49個のダイヤで取り囲み、ティアドロップ型に仕上げたスプーン屋のダイヤモンドが永遠の輝きを放っていた。尚、このダイヤの伝説として原石を拾った漁師が市場で3本のスプーンと交換したため、この名が付いたと言われているのだ。

トプカプ宮殿の最大の見所としてハーレム(YTL10)が別の博物館として扱われているので将来マサの資金を横領してハーレムを作る野望を持っている私の後学のために見学しておくことにした。入口を入るとまず黒人のヌビア出身者が多い宦官の部屋があり、その奥には妖艶な装飾を施されたスルタンの母や妻たちの住まいが次々と全貌をあらわした。また、鮮やかなイズニックタイル装飾の美しいムラト3世の間等のいくつかの大広間も目を引くものがあった。いずれにしても恐妻家で慣らしている川崎麻世には想像もつかないような居住空間が実現されているのだ。

イスタンブールの旧市街では、地下の貯水池が数ヶ所発見されているのだが、4世紀から6世紀の間にコンスタンティヌス帝からユスティニアヌス帝の時代に造られた地下宮殿(YTL10)が数多くのコリント様式の柱と巨大魚さえ生息させる水をたたえながら観光客を集めていた。宮殿の一番奥にはメドゥーサの顔が2体横たわり絶好の記念写真スポットとなっている。

イスタンブールがヨーロッパとアジアの架け橋と言われているのはマルマラ海から黒海につながる長さ約30kmのボスポラス海峡で分断され、数多くのフェリーと2つの大橋で結ばれているからである。ボスポラス海峡をゆっくりクルーズするフェリーもイスタンブールの観光の目玉のひとつであるのだが、今回は時間の都合で旧市街とアジア側を結ぶ連絡船で往復することにした。旧市街のエミノニュという桟橋を出航したフェリーは高台のトプカプ宮殿を背にしながらわずか15分程度の航海でアジア側のハーレム桟橋に到着した。多くの車に引き続いて船を下船し、20分程度アジアの滞在を楽しんだ後、再びフェリーに乗りヨーロッパ側へと帰っていった。

イスタンブールは金角湾を境に旧市街と新市街に分かれており、多くの釣り人で賑わっているガラタ橋で結ばれている。出来損ないのイワシのような魚がバケツの中で瀕死状態になっている光景を横目にガラタ橋を渡りきると高台にあるガラタ塔の脇を抜け新市街の中枢であるイスティクラール通りをお散歩させていただいた。この通りにはノスタルジックトラムの別名もあるチンチン電車が走っており、新市街のシンボルのひとつとなっている。

新市街の散策を終えてガラタ橋を旧市街に向かって歩いていると靴磨きの若者が商売道具であるハケを落としたので親切に拾ってやるとお礼のつもりなのか奴はいきなり私に台の上に靴を載せろと言ったのでその通りにすると頼んでもないのに靴磨きを始めやがった。しょうがないのでいくらかの金をはらってやろうと思って5YTLを差し出すと彼は小銭でいいと言いつつも私の財布から日本円の千円札を抜き取りやがった。どこかに両替に行くと言って姿を消した彼を深追いしなかった私は図らずもイスタンブール発たとえ騙されても♪うらまないのがル~ル♪を実践することとなったのだった。

5月5日(月)

トルコ航空のTK266便にて深夜の1時過ぎにカッパドキア(世界遺産)の空の玄関口となっているカイセリ空港に到着し、タクシーで宿泊先であるヒルトンカイセリに移動した。翌朝トルコ語でオトガルというバスターミナルの場所を探すのに手惑い何とか正午のバスに乗り込むと1時間ちょっとのドライブでネヴシェヒルにたどり着いた。

ネヴシェヒルはカッパドキア地方の中心都市であるが、この町自体には見所がないので市内バスで観光地に移動しようと町はずれをさまよっていたときに巨大な亀が広い自動車道を無謀にも横断しようとしている光景が目に飛び込んできた。協栄ジムの金平会長であれば亀田兄弟の愚行を案じて見殺しにするところであるが、浦島スピリットを持つ私は竜宮城への入城券を手にするために体長30cmはあろうかと思われる亀を抱え上げたところ奴は手足をバタバタして抵抗し、しかも糞尿を撒き散らして威嚇するという亀田式のパフォーマンスを展開した。何とか安全な草地に着陸させたものの亀は私に命を助けられたことに対する感謝の意さえ表明することもなかった。ちなみにカッパドキアでは河童の代わりに亀が多いらしく「亀横断注意」の看板をいたるところで目にしたのだ。

亀の救済に思わぬ時間を費やしてしまったため、とりあえずタクシーを拾ってカッパドキアの観光の中心であるギョロメ村にあるギョロメ屋外博物館(YTL10)に向かった。ギョロメ谷には30以上の岩窟教会があり、その中の保存状態のよい多くのものが屋外博物館として公開されている。それぞれの教会には壁画やフレスコ画が見られ、特にDARK Churchの異名を持つカランルク・キリセ(YTL5)にはキリスト像や受胎告知等の鮮やかな色合いのフレスコ画が残っているのだが、迫害を受けた名残のためか人物画の顔や目の部分は無残にもかき消されているものが多かったのも事実である。

ちなみにカッパドキアの名前の由来に関するFTB考古学チームの独自調査の結果によればフランシスコ・ザビエルを彷彿とさせるカッパヘアーの修道士を追放するために洞窟にやってきた侵略者が「カッパどきや~ァ!」と言ったことが始まりだそうである。

トカル・キリセというカッパドキア随一の広さを持ち、天井や壁のフラスコ画の青が美しい2階建ての教会を見物した後、奇岩群を見ながらギョロメ村に戻り、そこからバスに乗ってカイセリへの帰路についた。

夕暮れ時のカイセリではウル・ジャミィというモスクやシンボルとして君臨しているカイセリ城の存在感が目を引いた。尚、カイセリは中部アナトリアを代表する商業都市なのでトルコ人のビジネスマンが颯爽と闊歩している姿にもお目にかかることが出来るのだ。

5月6日(火)

昨日カッパドキアツアーの予行演習をすでに終えていたので今日はスムーズにギョロメまで辿り着くことに成功した。早速オトガルの近くのレンタ乗り物屋でYAMAHAのスクーターを調達するとカッパドキアでの運転には気をつけろという店主に「屁のカッパや!」と最後っ屁を残しながら、観光をスタートさせた。

ネヴシェヒルとギョロメの中間にウチヒサルという鳩の家が無数にある高い岩峰の前でスクーターを降り、奇岩沿いを登っていると散歩風情の原住民がいろいろな場所を自主的に案内してくれた。鳩の家と言われる由来は岩の表面に空いている無数の穴が鳩の巣で住民は昔から鳩の糞を集めて畑の肥料として活用していたからだそうだ。原住民の案内が一通り終わるとお約束どおり金を要求してきたのでとりあえずYTL10を奉納していい気にさせておいた。

ウチヒサルの頂点には「尖った砦」と言う意味の巨大な一枚岩の城塞(YTL3)がそびえているのでここに這い上がり、絶景を見渡した後、ギョロメ・パノラマ地区まで移動し悠久の時の中で刻まれたカッパドキアの岩肌や地層を眺めていると雨が降ってきたので合羽を持ってこなかったことを今更ながら後悔することとなった。

ゼルヴェ峡谷に聖堂や住居が無数にあり、多くの人々がここで生活していたことを偲ばせるゼルヴェ屋外博物館(YTL5)を訪問させていただいた。実際にほんの30年ほど前まで村人が住んでいたそうだが、岩が崩壊の危機にさらされたため移住を余儀なくされたと言われている。多くの峡谷の壁面には洞窟や、山と山を結ぶトンネルが細かく巡らされ往時の生活を偲ばせる名残が残されている。

ゼルヴェの近くのパシャバー地区はカッパドキアを象徴する奇岩であるキノコ岩で有名な場所で観光のハイライトになっているのでキノコ狩りでもするような軽い足取りで歩き回ってみることにした。なるほど、ここは一面キノコ林のような様相を呈しており、天を突き上げるようにいきり立ったものやカリ首の太いもの、先っちょの割れたもの等よりどりみどりの一物系の岩の博覧会場として賑わっているのだ。

夕暮れ時にギョロメに戻り周辺を散策していると岩をくり抜いて作った洞窟ホテルが目を引いた。もちろんすでに営業中のホテルも多数あるのだが、現在建設中の物件も多く見られ、新たなリゾートと癒しを求めて今後も多くの観光客がこの地にやってくることが約束されている。

次の観光地に向かうため7時15分にギョロメのオトガルから長距離バスに乗り込み、途中サービスエリアに寄りながら10時間を車内で過ごすこととなった。尚、トルコ国内はバス路線が非常に充実しており、バスによる安価で快適に観光地を巡ることが出来るのだ。

5月7日(水)

早朝5時前にデニズリという町に到着し、眠い目をこすりながら2時間程やり過ごすと7時過ぎにミニバスに乗り込みパムッカレ(世界遺産)を目指した。トルコ語で「綿の城」という意味を持つトルコ有数の温泉保養地であるパムッカレ(YTL10)の南門から入場すると紀元前190年に始まった都市の遺跡であるヒエラポリスに向かって足を進めた。

ペルガモン王エウメネス2世によって建造された古代都市の一番の見所はスケールの大きな円形劇場である。紀元前2世紀に建てられたこのローマ劇場は非常に保存状態もよく、15,000人を収容したという観客席上部からの眺めはマサに見事と言える代物である。

円形劇場脇の道をさらに進み、春に咲き誇る花から花粉を集めようとしている蜜蜂のブンブン音をバックグランドミュージックに廃墟を歩き回っているとマルティリウムという西暦80年にこの地で殉職した使徒フィリッポとその息子の墓となっている八角堂に到着した。さらに丘を下り参道のようなところを歩いているとドミティアン門という3つの連続アーチと円筒形の石積みが美しい門に遭遇した。これはローマ様式をよく表しているため、ローマン・ゲートとも言われているそうだ。

北大浴場は古代の温泉で3つの連続アーチと円筒形の石積みは大通りの北端の門で、84~85年にドミティアヌス帝を称えて建造されたそうだ。また、その周辺にネクロポリスと言われる多数の墓が並ぶ共同墓地があり、様々な様式の棺おけを見比べることが出来るようになっている。

パムッカレ温泉というローマ時代の古代遺跡が水中にゴロゴロしている珍しい温泉プールが絶好のヒーリングスポットになっているのだが、入湯料が高いので見学だけすることにした。プールの周辺で和んでいる猫に見守られながら観光客はローマ遺跡を足蹴にして優越感に浸ることが出来るという効能により皆癒されているように見受けられた。

2世紀に建造された南大浴場を改築したヒエラポリス博物館(YTL2)に侵入し、現地で出土した彫像や石棺を見張り番と監視カメラの目を盗みながら撫で回して感触を楽しみ、温泉でローマ遺跡を足蹴にすることが出来なかった憂さを晴らした。

パムッカレの最大の見所は気の遠くなるような時を経て結晶し、台地全体を真っ白い雪山のように覆っている石灰棚である。人間のおせっかいを嫌いそうな孤独な犬が石灰棚に横たわっている光景を目にしながら下流のパムッカレ村近くまで伸びている歩道に靴を脱いでおじゃまさせていただいた。観光客は足場が悪い中を天然足底マッサージの要領で記念写真を撮りながら白い照り返しの光を浴びていた。

午後過ぎにデニズリのオトガルに戻り、バスで4時間かけてイズミルに移動した。エーゲ海地方最大の工業貿易都市であるイズミルに到着し、2707と2708号室の2部屋をぶち抜きにしたスイートルームにアップグレードしていただいたヒルトンイズミルの窓から外を眺めていると♪Wind is coming from the Agean♪というジュディ・オングの歌が脳裏をよぎり、思わず♪レースのカーテン引きちぎり、体に巻きつけ、踊ってみたくなる♪ような衝動に駆られたのだが、そのアクティビティは来る日のギリシャ・エーゲ海ツアーに取っておくことにした。

5月8日(木)

イズミルのオトガルからミニバスに乗り、1時間程走ると古代都市エフェスへの起点となっているセルチュクに到着した。オトガルから3km程歩くと地中海沿岸で有数の規模を誇る古代都市遺跡であるエフェス遺跡(YTL10)にたどり着いた。多くの土産物屋が店を構え、おびただしいほどの数の観光バスが列をなしている遺跡の北側の入り口から入場すると最初にアルカディアン通りという幅11m、長さ500mの大理石の道路に出た。現役時代には商店が並び、当時煌々とともされていたであろう街灯も今なお残されている。

アルカディアン通りの先にあるのが、ビオン山に沿って造られた大劇場である。2万4000人を収容出来たという大観客席の上部から舞台を見下ろすとお約束の剣士対猛獣の伝統の一戦が行われていた名残でもある猛獣の控え室も垣間見ることが出来る。

現在は建物は残ってなく床にモザイクのみが残っている娼館は古代の売春宿で足形の広告が目印になっている。ケルケス図書館は見事な2階建てのファサードが美しく、今世紀初頭に発見されたときには相当破壊されていたらしいが、1970年に修復され現在の姿になったという。尚、正面の女性像のオリジナルはウィーン博物館に拉致されており、ここにあるのはコピーだということだ。

マサよ、君は古代の公衆トイレを前にしてウンチクを語っている観光ガイドの説明に耳を傾けたことがあるか!?

というわけで、エフェス遺跡の中でマニア垂涎のファシリティはTOTOがなかった時代に存在した古代の公衆トイレである。これは長いすに単に穴が開けられているもので仕切りがないためプライバシーもなく多くの人々が連れ立って排泄行為に励むことが出来るとあってこれまた多くの観光客が顔をしかめながらのウンチングスタイルを決めて写真撮影に興じていた。

その他の見ものとしてはヘラクレスの門や本来はこの門のアーチとして飾られていた勝利の女神ニケのレリーフ等があるが、スコラスティカの浴場やヴァリウスの浴場等いくつかの入浴設備が充実しているのが印象に残った。これはマサに浴場で温まり欲情してしまったらすぐに娼館に駆け込むことが出来るという非常に効率的なシステムが古い時代から構築されていたことを証明するものに他ならない。

エフェスを後にし、セルチュクからバスでイズミルに戻り、トルコ第三の都市イズミルからTK335便にてこのツアーで2回目の♪飛んでイスタンブール♪を実行した。再びHoliday Inn Istanbul Cityにチェックインしたのは夜も遅い時間だったので♪ひと踊り風の藻くず♪になる間もなく就寝させていただくこととなった。

5月9日(金)

早朝トランヴァイに乗り、ベヤズット・カパルチャルシュで下車し、イスタンブール大学門をちら見した後、恒例の買う気もないのにグランドバザールという屋内市場では中東最大の規模を誇る市場に侵入した。ここでは揃わないないものはないと言われるくらい様々な物品の宝庫になっており、買い物をする所というよりは存在そのものが見ものになっているのだ。

ブルーモスクの名称で親しまれているスルタンアフメット・ジャーミィがイスタンブールの象徴としてイスラム教信者が集う神聖な場所になっているので厳粛なムードを体感するために入ってみることにした。オスマン朝建築の傑作のひとつとして高い評価を受けているその建物の内部は独特の雰囲気の丸天井とステンドグラスから差し込む淡い光と2万枚以上のイズミックタイルが絶妙のハーモニーを醸しだしている。

トプカプ宮殿の第一庭園の北側に国立考古学博物館(YTL5)が♪光る砂漠でロール♪しながら発掘されたトルコの遺跡を集めているので心して見学させていただくことにした。広い館内では多くの地元の美大生と見られる若人がいたるところでデッサンに励んでおり、中には不意にかかってきた携帯電話の着信音のため仲間から彫刻と同じ白い目で見られている学生もいた。

世界的にも評価の高いギリシャ・ローマ時代のコレクションの中でも特に目を引いたのはアレキサンダー大王の立像と石棺である。石棺は紀元前305年頃に製作されたものと考えられ周囲の彫刻はアレキサンダーにまつわる題材となっている。尚、製作時には鮮やかな色が付いていたらしくその様子はレプリカで再現されていた。

ということで、庄野真代に♪おいでイスタンブール♪と誘われたツアーもついに終焉を迎える時となった。イスタンブールから英国航空で飛んでロンドンヒースロー空港に着陸し、そこから乗り換えたANA202便の機内の中で来るべき庄野真代ツアーの第二弾としてモンテカルロで乾杯(http://www.youtube.com/watch?v=zL6L5BrW2L0)の実現性まで検討することとなった。

5月10日(土)

午後3時半頃雨の成田空港に到着し、そのまま川の流れのように流れ解散。

真代も選択に迷うはずの得々トルコ情報

1.トルコ風呂というとスペシャルサービスが提供されるこの世の楽園というイメージがあるかも知れないが、実際はハマムと呼ばれる蒸し風呂である。堀之内で開発された「泡踊り」等の過剰サービスはないがアカスリとマッサージははオプション提供されているのだ。

2.トルコではあらゆる観光地や市街地で野良猫や野良犬が我が物顔で闊歩しており、生類憐みの令が発令されている江戸時代のように動物が愛護されているのでやつらは気軽に食い物を求めて人類に擦り寄ってくるのだ。

3.トルコ行進曲で有名なトルコは後進国だと思い込んでいる輩がいるかも知れないが、実際は文明が発達しており、治安も良く人々も親切なので観光には最適な国となっている。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \216,030、トルコ航空 = YTL258 (YTL1 = 約\80)

総宿泊費 YTL1,090.86

総バス代 YTL119.9

総メトロ、トランヴァイ代 YTL9.05

総フェリー代 YTL2.3

総タクシー代 YTL65.5

総レンタルスクーター代 YTL40

総ガソリン代 YTL8

協力 ANA、エールフランス、トルコ航空、英国航空、HILTONHHONORS、PriorityClub

アラビアン・ナイトFTBの冒険 in ドバイ

♪冒険の海だ~ 船出だぁ~ 風が呼ぶ 行く手に待つのは~ 怪獣? ギャング? 宇宙人? マジックベルト マジックベルト 締めて立つ 冒険 少年 シ~ンドバッド ♪ (アラビアンナイト・シンドバッドの冒険主題歌)

ということで、小林旭をも凌ぐ♪ある時 ニヒルな渡り鳥♪として世界中を股にかけ、ピンク・レディ系のダンシングギャルに♪盗んだ こころ 返せ♪とウォンテッドされている私は♪ある時 アラブの大富豪♪に成り上がり、将来本当にウォンテッドされるかも知れないマサの保釈金をオイルマネーで稼ぐノウハウを身につけるためにアラブ首長国連邦のドバイまで羽をのばすことにした。

3月19日(水)

午後6時40分発のNH911便で香港まで飛び、さらにキャセイパシフィック航空のCX745便、A330機に乗り換えると機上で長い夜を明かすことになったのだ。

3月20日(木)

9時間以上の長時間のフライトで夜もまだ明け切らない早朝5時過ぎにドバイ国際空港に到着した。24時間空港のドバイ国際空港ではフライトの合間にここで夜を明かしたであろう多くのトラベラーがホームレスのごとく床に体を横たえており、そんじょそこらのショッピングセンターでは太刀打ち出来ないほどの免税品店群が彼らをむげに見下ろしている光景が対照的だった。

ゲートから長い動く歩道を経てイミグレーションに到着するとそこにはおびただしい数の入国希望者が列をなしていた。1時間程並ぶとやっと私の番になったのでアラブ服の入国管理官にパスポートを提出すると彼は入国目的や滞在期間等の質問をする代わりにトヨタのアリストという車を知っているか?という質問をしてきやがった。また、俺はアリストの他にGT-Rを2台持っているぜ!等の金持ち自慢話さえ繰り広げられたのだった。そ~か?入国審査の列が遅々として進まないのは入国者がすべて成金のたわごとを聞かされるためだったのかと納得させられてしまった。

何とかアラブ首長国連邦への入国を果たすと空港バス(AED3.-)でドバイの市街地に向かった。ドバイ発展の礎となった入り江であるドバイ・クリークの入り口近くのゴールド・スークでバスを降りるとまだまだこの地域が恐るべき発展を控えていることを確信させるウォーターフロントの開発の様子が目に飛び込んできた。地下トンネルを使ってクリークの対岸に侵入し、そこから整備された遊歩道を歩いていると思ったよりきれいで透明な水面に向かって釣り糸を垂らしている原住民やクリークを行き来する数多くの船が徐々にアラブの旅情を掻き立ててくれた。

ドバイの中心であるバール・ドバイ地区のまだ空いていないお店の前に借りてきた風情の猫が佇んでいたのだが奴らはペルシャ猫ではなかった。対岸の高層ビルを見渡しながらさらにクリークの奥に向かって歩いていると緑のまぶしい芝生地帯が出現し、椰子の木陰で原住民がのんきに涼を取っていた。さらに道路のターンアラウンドには華麗な花時計まで咲き誇っていた。

とりあえず、ドバイの歴史を手っ取り早く学習するためにドバイ博物館(AED3.-)に入館させていただくことにした。18世紀~19世紀に建造された砦と伝統的なダウ船が目印になっているドバイ博物館の展示品は紀元前5000年~8世紀の発掘品や風通しのよいヤシの家や装飾品、真珠養殖のための小道具であるのだが、ドバイの歴史をまとめた映像を大型スクリーンで見ることが出来るエリアではわずか30年でいかにドバイが発展してきたかをダイジェストで思い知ることが出来るのだ。

アラブの強い日差しの中をすでに長時間歩いてきたので正午過ぎには予約しておいたダ・アル・ソンドスホテルアパートメント・バイ・ル・メリディアンにそそくさと引き込むことにした。ホテルの部屋で意識を取り戻すとすでに夜のとばりがおりており、これ以上日差しを浴びる危険性がないことが保障され、また夜中にドバイを歩いてもヤバイことにはならないと聞いていたのでクリークのオールド・スークまで足を運び衣類等の繊維製品を見ながら市場を散策した。ドバイの歴史的建造物を保護している遺産地区であるバスタキヤ地区はきれいにライトアップされており、ドバイの夜景を見事に彩っていた。通常であれば、夜もすっかり更けた時間にシンドバッドに扮してアラビアンナイトの冒険を満喫するところであるが、今晩は寝不足と時差ぼけのため、既にシンドイバッドになってしまっていたのでホテルに帰ってとっとと不貞寝を決め込まざるを得なかったのだった。

3月21日(金)

一般的にUAEとしてならしているアラブ首長国連邦の本名はUnited Arab Emiratesというのだが、7つの首長国を取り仕切り首都として君臨しているのはアブダビだということなので、バス(AED15)で2時間かけて行ってみることにした。バスターミナルから片道5車線の広大な道路を北東に向かって歩いていると近代的高層ビルの合間にモスクが控えめに佇んでいる様子が見て取れる。しかし、お祈りの時間になるとそこからコーランが大音響で流れてくるシステムになっているのだ。

4km程歩くと急に視界が開け、そこにこれでもかというぐらいの真っ青な海が現れた。アラビア湾というと石油採掘のイメージからよどんだ印象を受けるかも知れないが実態はこれまでFTBが目にしたどの海よりも強いマリンブルーを放っているのだった。ビーチ沿いには美しい遊歩道が何キロにもわたって整備されており、対岸の島の砂浜ではのんきにビーチでくつろいでいる観光客の姿も遠目に見て取れた。

遊歩道をさらに東に向かって歩き、パブリックビーチのオブジェやヒルトンのプライベートビーチの賑わいを横目に見ていると目の前に豪華な宮殿の姿が現れた。上品なピンクの外壁に包まれたエミレーツ・パレスは2005年にオープンした豪奢なリゾートホテルであり、アブダビのランドマークとしてその地位を確立しているのだった。警備の厳しいエミレーツ・パレスを迂回し、橋を渡ってマリーナ・モールというビーチ沿いの大型ショッピングセンターにたどり着き、そこで涼を取ることにした。広々としたマリーナ・モールの内部は数多くのブランド屋の出店とともに競技用ボートやF1カーさえ展示されており、石油成金アラブの国力の一端を垣間見ることも出来るのだった。

夕暮れ時にアブダビ交通バスでドバイに帰る途中でバスがガソリンスタンドに寄ったので何だろうと思っていたが、何とバスが故障し代わりのバスを待たなければならないという事態に陥ってしまったのだが、その一連のトラブルの中で何の説明もアナウンスも謝罪もなされなかった。しかし、大物アラブ居住者達は誰一人文句さえ言わなかったのだ!

3月22日(土)

♪朝も早よからせっせとせっせとヘアーの乱れを整え♪た後、ホテルをチェックアウトするとドバイ博物館の前で観光スポットやショッピングセンターを効率よく回るためにThe Big Bus Companyのダブルデッカー観光バス(AED175.-)に乗り込んだ。観光バスは2つのラインから成っており、レッドラインはドバイクリークの周辺を回るルートでブルーラインはジュメイラ地区という高級リゾート地帯を走っているのだ。まず手始めにレッドラインに乗り込み、テキスタイルロードと呼ばれる繊維の問屋街を抜け、クリークを横断するトンネルを通り、ゴールド・スークを横目にしながらシティ・センターというショッピングセンターに到着した。

マサよ、君は世界中のホテルのランクを凌駕した☆☆☆☆☆☆☆ホテルがドバイに君臨しているという驚愕の事実に直面したことがあるか!?

ということで、シティ・センターでブルーラインに乗り換えるとバスはジュメイラ・ビーチ沿いのさわやかな風を受けながら西に向かってスピードを増して行った。ジュメイラ・パブリック・ビーチでバスを降りると目の前に広がっている光景はまっ白い砂浜と真っ青なアラビア湾のコントラストであった。早速♪ビキニがとってもお似合いですと肩など抱いて♪いる渚のシンドバッドを探したのだが見つけることが出来なかったのでふと天を仰ぐとそこにはパリのエッフェル塔よりも高くホテルとしては世界一の高さを誇るバージュ・アル・アラブが奇抜なデザインでそびえていたのだった。

ジュメイラ・パブリック・ビーチから徒歩でスーク・マディナ・ジュメイラまで移動した。ここの見所は敷地内にある3つの高級ホテルが全長3.5kmのクリークで結ばれ何艘ものアブラ(渡し舟)が宿泊客を乗せて行き交い、しかもバージュ・アル・アラブを見上げることが出来る絶好の風景を提供していることである。スーク自体はアンティークを中心にした品揃えになっており、アラジン系の魔法のランプでも購入しようという衝動に駆られたのだが、♪完全無欠のロックンローラー♪(http://www.youtube.com/watch?v=_O4ligLq9ss)が出てくると取り返しのつかない一発屋で終わってしまうことを恐れて控えておいた。

マサよ、君は魔法のランプで出現させたものは砂漠のスキー場に他ならないという奇跡に遭遇したことがあるか!?

というわけで、再びブルーラインに乗り込むとワールドクラスショッピングを自認するドバイで最大級のショッピングセンターであるモール・オブ・ジ・エミレーツに向かった。バスを降りると上空に巨大な傾斜を持つ建造物が覆いかぶさるように観光客を圧倒しており、一歩中に入るとそこはブランド物の見本市と化していた。しかしながら、やはりここでの最大のハイライトはスキードバイであり、人口雪で覆われたリフト付きのゲレンデをガラス越しに覗いているとここが本当に砂漠地帯であることを忘れさせてくれるのだった。

ドバイのメインストリートはマサに高層ビルの見本市の様相を呈していた。現在のドバイは建設ラッシュで世界中の3分の1の建築用のクレーンがドバイに集まっていると言われている。その中の最高峰としてひときわ存在感があるのがバージュ・ドバイという完成後の高さが800mを越える世界一のビルである。また、ドバイは海を埋め立てた人工島の建設も佳境に入っており、完成するとドバイの海岸線が580kmも増えてしまうのだ。

古代エジプトをモチーフにしたショッピング・モールがワフィ・シティに君臨しているので見物することにした。ここには主に高級ブティックの出店が見られるのだが、見所はモール内部のステンド・グラスやピラミッド等の模擬古代建造物である。尚、ピラミッドの正体はラッフルズホテルであったのだ。

Big Busツアーにはダウ船クルーズもセットになっているので、夕方5時半からのクルーズに参加させていただくことにした。木造のダウ船は満員の乗客を乗せ、港を出るとクリーク内のゆっくりとした制限速度を守りながら進んでいった。アブラと言われる水上タクシーと何艘もすれ違い、クリーク両岸の建造物を眺めていると日も暮れかかり、アラブ最後の旅情を演出してくれたのだった。

クルーズも終了し、日も暮れてしまったのだが、スパイスの香りに引き寄せられるようにデイラ・オールド・スークに舞い込んだ。欧米人と一緒によりどりみどりのスパイスを物色した後、その勢いを買って買う気もないのにゴールド・スークまで足を伸ばした。ゴールドが眩いばかりの光を放っている店先にはフラッシュをオフにして記念撮影に興じたりする欧米人や真剣に金の価値を見極めようとする原住民で独特の人間模様を醸しだしていた。

真珠採取の歴史を今に伝えるダイビング・ビレッジとかつてのドバイの様子がわかるヘリテージ・ビレッジをちら見した後、インド料理屋で魚カレーを食い、空港に帰るべくローカルの空港バスに乗り込んだ。通常であれば30分程度で着くはずなのに1時間以上かかっても空港のきらびやかなファシリティが姿を現さないのでおかしいなぁと思っていたが、終点で降ろされとんでもない僻地に来てしまったことが発覚した。辺りはアリババと40人の盗賊が出てきそうな雰囲気の寂しさだったのでこのままここの砂に埋もれてしまう恐怖心に駆られてしまったが、アラビアンナイトが提供する最後の魔法でタクシーを止めて何とかチェックインがクローズするぎりぎりの時間で空港に到着することに成功した。

3月23日(日)

午前1時15分のCX738便で午後12時半頃香港に到着し、魔法の名残でビジネスクラスにアップグレードされたNH910 に午後3時半に乗り込むと8時過ぎに成田に到着し、盗賊の嫌疑をかけられることなく再入国を果たしそのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代  ANA = \41,280, キャセイパシフィック = HK$6,856

総宿泊費  AED1,560 (AED1 = \26)

総バス代 AED37.5

総タクシー代(チップ込み)AED50

協力

ANA、キャセイパシフィック航空、STARWOOD、bigbustours.com (http://www.bigbustours.com/eng/dubai/default.aspx