芳村真理垂涎ドゥオ~モFTBEUイタリア~ノ

ドゥオ~モ~!マサよ!!

ということで、立てた人差し指に後光がさすほどの日本一の「ど~も~」使いである芳村真理が夜のヒットスタジオの終了以来テレビ画面から姿を消してしまって久しい今日この頃である。ところで、FTBがオ~ドリ~の足跡をこお~どり~しながらローマくんだりまで追いかけてきたのは実に4年近くも前の出来事であった。今回はイタリア各地に点在するドゥオ~モをめぐりつつ、ルネッサンスに代表される中世イタリアの栄華の歴史をこの目で確認し、きたる2005年に自分自身に起こりうるルネッサンスの前途を祝し、イタリア三都を巡るツアーを開催することにした。

12月25日(土)

クリスマスのわりには閑散としている成田空港第二ターミナルから午前11時50分発NH205便にてパリを目指すと行きつけのシャルル・ド・ゴール空港に定刻4時半頃到着した。そこからエールフランスが誇るCity Airという小型ジェット機に乗り換えてイタリアの夜空を飛んでいると徐々にフィレンツェの夜景が浮かび上がるように迫ってきた。小規模なフィレンツェ空港に到着するとそこから空港バス(4ユーロ)に乗り、一路フィレンツェの中央駅であるサンタ・マリア・ノヴェッラ駅を目指した。バスが駅に近づくとJALPACK etravelに予約させておいた☆☆☆☆ホテルであるグランドマジェスティックが近くに存在していることが確認できたのでそのままチェックインして今晩はふて寝を決め込むことにした。

12月26日(日)

午前7時の教会の鐘の音で目を覚まされてしまったもののあたりはまだ暗がりだったため、とりあえず、風呂と朝飯を済ませると丁度観光に適した時間になったのでフィレンツェ歴史的地区(世界遺産)の散策に乗り出すことにした。ホテルから小雨に濡れた石畳の上を町の中心方向に歩いていくと段々とルネッサンスの栄光をたたえた雰囲気が強くなってきた。ふと頭上を見上げるとそこにはフィレンツェの象徴である花の聖母教会・ドゥオーモの巨大なクーポラが目の前に迫っていた。

ど~も天候がすぐれなかったため、とりあえず屋根のあるファシリティをということでウッフィツィ美術館(9.5ユーロ)の入館を待つ行列に並ぶことにしたのはいいが、ルネッサンス時代の珠玉のコレクションを誇るこの美術館への入館のチケットを手にするまでにはその後1時間半もの時間の経過を待たなければならなかった。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ等のルネッサンスの巨匠の作品がこれでもかというほど展示された館内は当時の栄華に包まれた雰囲気で中でも世界史の教科書にも必ず登場するボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」は官能的なタッチで画かれていたので多くのシニョーレの目を引いていた。

美術館を出るころには雨も上がっていたので本格的に町をさまよいながらも再びドゥオーモ周辺に舞い戻って来た。ドゥオーモの真横にジョットの鐘楼(6ユーロ)がそびえていたので414段もの階段を登って上部テラスに出てみることにした。高さ82mを誇るジョットが設計した鐘楼はデザインと色彩に優れた芸術性を持っており、ここからはフィレンツェの町並みが一望出来るのであるが、ドゥオーモのクーポラはさらに高みに位置しているため、ドゥオーモの方向を見るとつい「ど~も、すみません」と林家三平師匠のせりふが口をついて出てきてしまうのであった。

夕暮れ時にサンタ・クローチェ教会というミケランジェロやマキャべり等の有名人の墓が276も収められた教会を見物しに行って来た。フィレンツェ1古い広場に面したこの教会の内部は140mx40mという広さを誇る一大墓地の様相を呈しているのだが、内部は様々な芸術家たちの作品できらびやかに飾られているのであった。

12月27日(月)

♪森と~泉にぃか~こまれて~静かに、眠るぅ♪のはブルーシャトーであるが、かの有名なピサの斜塔がフィレンツェ近郊に君臨しているという情報を入手していたので足を伸ばして見ることにした。フィレンツェ中央駅の自動販売機で5ユーロを支払いイタリア国鉄(TRENITALIA)のローカル線に飛び乗り、車窓を流れる風景を眺めていると車掌が颯爽と切符チェックにやって来た。ここで発覚した事態は何と乗車駅で自動タイムスタンプ機に切符を通さなかったため、追加で5ユーロの罰金を徴収されるはめになり、マサであれば5ユーロしかかからないところを私は10ユーロも支払わなければならないことだったのだ!罰金を授業料だと割り切ることの出来る懐の深さを見せた私を乗せた列車は1時間4分でピサ中央駅に到着した。駅から北に向かい、アルノ川にかかる橋を越えて30分ほど歩くと行く手に財務省の財政基盤のように今にも倒れそうな巨大な塔が姿をあらわしたのであった!

かつて地中海の大海運国として君臨していたピサの威光は700年以上の時を越えた今でもドゥオーモ広場(世界遺産)に集約された形で残されている。とりあえず、広場にあるチケットセンターで斜塔登頂ツアー(15ユーロ)と各ファシリティの共通入場券(8.5ユーロ)を購入すると早速11時発のツアーで斜塔に登ることにした。1173年に着工された斜塔は約55mの高さを誇り293段にわたる手すりなし螺旋階段で頂上まで続いているのだが、2,000万人あまりの総入場者数が踏みしめた大理石の階段は中央がかなり擦り減っており、否が応でも時代の流れを感じさせてくれるのであった。ここではガリレオ・ガリレイが「落下の法則」の実験をしたことで有名であるが、頂上から下を見るとこれこそマサに気合の入っていないマサをバンジージャンプさせるのに最適なファシリティであると思われた。

現代のピサではジャッキー吉川とブルーコメッツにおけるジャッキー吉川のように斜塔がひとり立ちしたような存在感があるのだが、実は宗教的ドゥオーモ一連のファシリティの伽藍配置の中では単なる鐘塔として建築されたに過ぎないことが現場に来て初めて確認できた。広場の中央にはピサ様式のロマネスク建築、ドゥオーモが鎮座しており、その前には宝石箱のような洗礼堂が建ち、その横にはカンポサントと言われる大理石の高い壁で囲まれた納骨堂があり、4つあわせて世界遺産としての価値を生み出しているのであった。

ピサ中央駅でピザを食った後、汽車でフィレンツェに戻ると小雨が降っていたので雨宿りも兼ねてドゥオーモ前の八角形の建築物である洗礼堂(3ユーロ)に入って見ることにした。ドゥオーモ同様の色大理石で建築されている洗礼堂内部の天井や壁面は洗練された絵画で覆われており、観光客はむち打ちになるリスクも省みず、皆一様に上を見上げていた。

フィレンツェを流れるアルノ川にかかる最古の橋としてヴェッキオ橋がかかっており、おびただしい数の観光客たちが行き来している。この橋にはきらびやかな彫刻細工店や宝石店が軒を連ねているのだが、店に入ると吉野家に入ったときのいつもの習慣でつい「この店で一番高いものをくれ!」と言ってしまう私にとって大きなリスクとなる店々であると思われた。

12月28日(火)

イタリアルネッサンスの栄光は若手芸術家の大パトロンとして暗躍したメディチ家の後ろ盾なしではあり得なかったということは歴史上の周知の事実である。そのメディチ家ゆかりの人々を祀るメディチ家礼拝堂(4ユーロ)に侵入し、ミケランジェロが設計した新聖具室にある像の美しさを見ていると、マサであれば財務省の全財産を持参金として持ち込んでも養子縁組でメディチ家にもぐりこむことを画策したであろうと思われた。

毎朝7時に鐘を鳴らして目覚ましをしてくれた寄木細工のような美しいファサードを持ったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(2ユーロ)に軽くフィレンツェ滞在中のお礼参りをした後、ミケランジェロの美術館として名高いアカデミア美術館(8ユーロ)に向かった。ここでも約1時間の入館待ちの行列に並んでいる時にアメリカ人観光客の「これがイタリアンサービスか!?」という愚痴を聞きながらも何とか入館を果たすとミケランジェロの未完成の彫刻やフィレンツェ派絵画との対面に成功した。ミケランジェロと言えばダヴィデという彫刻で有名であり、世界のあちこちでそのコピーが出回っているのだが、そのオリジナルがこの美術館内に立ち尽くしている。体高5mはあろうかと思われる巨大な像の周りには観光客がたかっており、股間に生えている寒さで縮こまった”いちもつ”を見て、皆一様に「パンツくらいはかせんかい!」と思っていたことであろう。

1417年に建築家ブルネッレスキによって着工され、今ではフィレンツェの象徴として町を見守っているドゥオーモのクーポラ(6ユーロ)についに登頂することになった。東京ドームを施工した竹中工務店が存在しなかった中世の時代に出現したこの巨大な赤い丸屋根は建築学上の奇跡とされており、464段の階段で登頂するその頂上からは赤レンガ色をしたフィレンツェの美しい町並みが一望出来るとともにクーポラ内部に描かれた「最後の審判」というフレスコ画も決して見逃すことが出来ない芸術作品である。

かつての行政の中心であり、フィレンツェの歴史を刻むシニョリーア広場を抜け、ヴェッキオ橋を渡り、ピッティ宮殿に向かった。壮大なルネッサンスの典型的宮殿の2階はパラティーナ美術館(8.5ユーロ)になっており、ラファエッロを中心とした数多くの絵画が展示されている。

フィレンツェ滞在の締めとして小高い丘からフィレンツェの町並みを一望出来るミケランジェロ広場まで足を運んだ。緑色の緑青を身にまとったダヴィデの銅像(コピー)が身構えている広場の駐車場には数多くの観光バスやキャンピングカーや普通自動車であふれかえっていた。夕暮れ時になったので高台から望むフィレンツェのの町並みの中でも異様な存在感を示している建造物に「ドゥオ~も、ありがとう!」とつぶやいて花の都を後にすることにした。

ユーロスターという新幹線系の乗り物がヨーロッパを走り回っており、フィレンツェ中央駅からミラノまで316kmの道のりを2時間46分で結んでいる列車が1時間に一本の割合で運行されていたので乗車(41.83ユーロ / 1st class)させていただくことにした。2列シートの向かい席でイタリア人に囲まれていると飲み物を乗せたワゴンが乗員によって転がされてきた。当然金を払って何かを買うものと思っていたのだが、イタリア人達の挙動を見ると何と水やカッフェは無償であることが確認され、飲み逃してしまったエスプレッソよりも苦い経験をさせられてしまったような気分を引きずってミラノへ向かって行くことになってしまった。

12月29日(水)

ミラノ中央駅に程近いビジネスホテル風情の☆☆☆ホテルであるイビス・セントロホテルをチェックアウトすると再びムッソリーニ時代の代表的な建築物である巨大なミラノ中央駅に戻り、2階端の手荷物預所(3.5ユーロ/ 5時間)でバッグを預けると早速イタリア最大の経済都市ミラノの回遊に出ることにした。

オレンジ色の路面電車が走る大通りを30分ほど歩くとミラノの心臓部であるドゥオーモ広場に到着した。大都会ミラノの中にあって別世界を演出する荘厳なるバロック建築の傑作品であるドゥオーモの内部に入って軽く「ど~も~」と挨拶した後、ガッレリアの巨大アーケードを抜けてスカラ座広場に向かった。レオナルド・ダ・ヴィンチ像に向かって軽く会釈をし、振り返るとオペラの殿堂スカラ座が目に飛び込んできた。日本でスカラ座というと安っぽい映画館というように相場が決まっているのであるが、ここミラノの世界1有名な劇場であるスカラ座は1778年に建立された松竹、日活、東映、東宝など入りこむ余地のないほど格調高い代物なのである。

1446年に完成し、ミラノ公国の歴史を伝える要塞として君臨するスフォルツェスコ城の中の市立博物館(3ユーロ)でエジプトミイラ等の考古学展示品やミケランジェロが死の数日前まで製作していたという未完の彫刻である「ロンダーニのピエタ」等の貴重な美術作品を堪能した後、科学者ダ・ヴィンチの偉業を展示しているレオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館(7ユーロ)に向かった。ここには天才ダ・ヴィンチが考案した様々なデバイスの復元作品やスケッチ等の展示だけでなく、ダ・ヴィンチ以後に発達した近代工業品を生み出すための施設や仕組み、SLや電気機関車、戦闘機や船舶の実物やアルファロメオやモトグッチのバイク等も広大な敷地内に展示されており、マサにダ・ヴィンチの名に恥じないスケールのでかい博物館であった。

ダ・ヴィンチ博物館から直線距離にしてわずか200mのところにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(世界遺産)が「最後の晩餐」の聖地として君臨している。この絵は石膏が乾く前に絵の具を染み込ませて描かれているフレスコ画と異なり、ギターペイントのような油絵の具を使った油絵のため損傷が激しく油の乗りが悪い部分は何度も修復が繰り返されているそうだ。この絵には「汝らのひとり、我を売らん」というイエスのことばが発せられた瞬間の人間模様が描かれているのだが、イエスを裏切るユダのキャラとしてはマサを起用するのが最適ではないかと思われた。しかしながら、今回のツアーの最大の誤算としてこの絵を拝見させていただくためには電話予約が必要であり、予約をしていなかったFTBとしては結局「最後の晩餐」にありつくことが出来なかったのだ。

ということで、空腹感を満たさなければならないはめになった私は再びドゥオーモ広場に舞い戻り、階段でドゥオーモの屋上(3.5ユーロ)に登って余計体力を使うことにした。屋上では天に突き刺すようにのびている幾百もの尖塔が間近に見られるだけでなく、遠く雪を被ったアルプスの山々まで見晴らすことが出来たのであった。ドゥオーモから下界に下り、ミラノブランドショッピングの殿堂であるヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを歩いているとミラノコレクションのモデルとしてスカウトされ、プレタポルテに出されてしまうかも知れないという恐怖感を感じたのでとっととミラノ中央駅からヴェネツィアに向かう快速系の汽車に乗って退散することにした。

12月30日(木)

マサよ、君はアドリア海に浮かぶ宝石、夢の浮き島で浮ついた気分になったことがあるか!?

というわけで、昨夜チェックインさせていただいたヴェネツィア、サンタ・ルチア駅に程近い☆☆☆☆ホテルであるアマデウスを午前9時前に出発すると早速世界中の人々の憧れであり、世界を代表する水上都市ヴェネツィアとラグーン(世界遺産)の散策に漕ぎ出すことにした。アドリア海にぽっかりと浮かぶ水の都ヴェネツィア本島内部には数え切れないほどの運河が刻まれており、自動車が走ることが出来ないので交通手段は必然的にボートか徒歩になる。とりあえず、最初は石畳の路地を「Per San Marco」という表示を頼りにヴェネツィア観光のハイライトであるサン・マルコ広場に向って歩き出すことにした。

いくつもの路地を曲がり、運河にかかる橋を乗り越えて40分くらいかけて何とかサン・マルコ広場に到着したのだが、宵っ張りだと思われる観光客の出足は遅いらしくまだ広場はひっそりとしていたのでここをスルーして沿岸沿いに島の奥地に向かった。島の東部の方は原住民の居住地域と見えて数多くのアパートの間に通された紐にかけられた洗濯物が風になびいていた。また、東の最奥部のサンテレナ島にはセリエAのヴェネツィアが本拠地とするサッカー場もあり、サポーターが乗り合いボートで駆けつけられるような体制が整っていた。

中世のヴェネツィアは海洋王国として君臨し、遠くコンスタンチノープルまで占領した実績があるのだが、その栄光の歴史を偲ばせる海洋史博物館(1.55ユーロ)が営業していたので見物してやることにした。ここには中世から近代までの数々の船の模型や儀礼用のゴンドラや有人潜水魚雷のようなものまで展示されており、アドリア海の今昔物語のダイジェスト版の様相を呈していた。

抜けるような青空の下、賑わいを取り戻してきたサン・マルコ広場に戻ると鐘楼(6ユーロ)の屋上に登頂するエレベーターの行列に並ぶことにした。高さ96.8mを誇る鐘楼の展望台からはラグーンと町が一望出来るのであるが、遠くに見える雪を被ったアルプスから吹き付けるアルプスおろしの寒風に耐え切れず皆短時間でいそいそと下界に下りていったのであった。

島の南部にあるジューデッカ運河のほとりでヴェネツィアのサンセットと夕焼けを堪能し、明日も快晴であることを確信するとヴェネツィア派絵画の傑作を集結したアカデミア美術館(9ユーロ)に入館することにした。ここには14~18世紀にかけてのヴェネツィア派や、トスカーナ派の作品が収められているのだが、どの絵も立体的で登場人物がキャンバスから飛び出してきそうなほどの迫力を醸し出しており、非常に印象の深いものであった。

12月31日(金)

旅行者の数も減り、普通の町の顔を多少取り戻す冬のヴェネツィアであるのだが、年末年始にはバケーションをエンジョイしようとイタ公の伊太郎たちが橋幸男よろしく目を細めながら大挙してやってきてしまうのでホテルのレートも上がってしまう今日この時期である。ところで、水の王者ヴェネツィア近郊にはたくさんの離島があり、フランスのリビエラ、アメリカのマイアミ、ハワイのワイキキと並ぶ国際的なリゾートを持つリド島が映画「ベニスに死す」の舞台として高いステータスを誇っているらしいのでヴァポレットという水上乗り合いボートを泳がせて訪問してみることにしたのが、冬はただの寒い島に成り下がっていることが確認された。尚、長さ12kmの細長いこの島にはバスも車も走っていたのであった。

リド島でTourist用のヴァポレットの24時間有効チケットを10.5ユーロで購入するとそのままヴェネツィア本島に戻り、さらに本島を真っ二つに二分してS字型に蛇行する全長4kmあまりの大運河Canal Grandeのクルーズと洒落込んだ。ヴァポレットの各駅停車1号線はCanal Grandeをゆっくり進み、客待ちの水上タクシーや沿岸のRistranteや古い教会を通り過ぎ、成金野郎どもが乗ったゴンドラをかわしながらリアルト橋に向かった。常に人々で溢れんばかりのリアルト橋の上にはお洒落なショップが並んでおり、その近くにはアドリア海で釣れた魚介類を売りさばく魚市場が賑わいを見せていた。

サンタ・ルチア駅構内のビュッフェでマカロニポモドーロ系のパスタを食った後、再びヴァポレットに乗り込みサン・マルコ広場に戻ることにした。サン・マルコ寺院のとなりに栄えあるヴェネツィア総督の政庁として9世紀に建立されたドゥカーレ宮殿(11ユーロ)が美術・博物館づらで観光客を引き寄せていたので私もつい吸い寄せられるように入ってしまった。巨大な宮殿の中にはいくつもの評議員の部屋や大会議室があるのだが、それらの壁には例外なくすばらしい絵画が描かれており、特に2階大評議員会議室にあるティントレット作「天国」は7mx22mの大きさを誇っており、世界最大の油絵として圧倒的なスケールを誇っていた。

ドゥカーレ宮殿は小さな運河をまたぐ小さな橋により地下牢獄を持つ建物につながっている。この牢獄は満水時には水牢になったといわれ、この橋を渡ると2度とこの世に戻って来れないので橋の小窓からこの世に別れを惜しみため息をついたといわれる。通称”ため息の橋”との異名を取るこの橋を渡る観光客は皆「ああ、寒ぃ~」と愚痴交じりのため息をつきながら次々に渡って行った。

1月1日(土)

ハッピー ニュー マサよ!!

ということで、2005年の幕開けがここヴェネツィアでどのように祝われているかを体感するために紅白歌合戦も放映されないホテルの部屋で待機していると夜中の12時10分過ぎにいきなり花火と爆竹が鳴り響く騒音が聞こえてきた。取るものも取りあえずあわてて表に飛び出し、見通しのいい駅前のスカルツィ橋の上に立つと「た~まや~~」とは決して叫ぶことが出来ないみすぼらしげな打ち上げ花火が次々と夜空を裂き、橋の上にワインボトルを持ち込んだ伊太公たちは路上酒盛りの真っ最中であったのだ。しかし残念なことに運河を道頓堀川に見立てて次々に飛び込む日本人阪神ファンの姿を発見することは出来なかった。

昨夜の喧騒もまるでうそのようにひっそりと静まり返ったサンタ・ルチア駅前からヴァポレットに乗り、30分ほどで石畳に花火の黒こげの跡を残すサン・マルコ広場に到着した。町の守護聖人であり、9世紀にエジプトから運ばれた聖マルコの遺体をおさめるために建立されたサン・マルコ寺院(3ユーロ)の上階は宝物館となっており、そこにはヴェネツィアの十字軍が遠征のどさくさにまぎれてコンスタンチノープルよりかっぱらってきた紀元前400~200年ごろの作品といわれる4頭の青銅馬像や美しいモザイク画が輝いていた。

午後2時44分発のルフトハンザ航空フランクフルト行きに間に合わせるために空港バス(3ユーロ)でマルコ・ポーロ空港に向かった。そう、かの有名なマルコ・ポーロもヴェネツィア人であり、壮大なFTBレポートの原型であると伝えられる東方見聞録を地元のマサに相当する誰かに送るために日夜ペンを走らせていたことであったろう。

というわけで、今回のツアーにおいて数々の教会や寺院で懺悔を繰り返してきたわけだが、ひょうきん懺悔室のように上から水をかけられることはなかった。したがって、これからも満を持して悪事に励むことが出来るという自信を土産にイタリアの地を後にした。

ドゥオ~モ~!イタリア情報ですよぉ!!

*日本人観光ツアーサバイバル

 イタリアの観光地はどこも添乗員に誘導された日本人観光ツアーで大変な賑わいを見せているのだが、フィレンツェのホテルでは朝7時の朝食時間に日本人が大挙して食堂に降りて来てテーブルを占拠し、彼らがひいたあとのビュッフェはつわものどもが夢のあとの様相を呈しているのだ!

*イタリアトイレ情報

 イタリア観光地のトイレはどこも有料となっており、0.3~0.6ユーロの小銭をむしりとられながら用を足すことになる。マサに小銭がないと安心してクソもタれることが出来ない状況であるのだが、犬は自由に糞便することが許されているのでそこかしこに犬のクソが転がっており、人間は決して油断して観光することは許されないのだ。

*イタリア広場情報

 フィレンツェ、ピサ、ミラノ、ヴェネツィアの広場には例外なくハトの餌売りの輩が出現し、観光客は餌に釣られて手乗りバトと化した鳥を腕や頭に乗せて無邪気に記念写真を撮ってやがる。もし、私がイタリア語が堪能であったなら鳥インフルエンザの人間への感染の可能性についてうんちくを垂れてやるのだが・・・

*愛欲の国イタリア

 ミケランジェロの聖地フィレンツェではダヴィデの”いちもつ”を接写した絵葉書が売られており、ミケランジェロ広場ではダヴィデの胸から下半身にかけての肖像を写し取ったエプロンがチン品として売られている。マサに愛欲の国イタリアの面目躍如といったところか!?

FTBサマリー

総飛行機代 \202,080        

総宿泊代(朝食付き) \105,000  

総国鉄代 68.99ユーロ   

総空港バス代 7ユーロ        

総ヴァポレット代 14ユーロ     

総国鉄罰金代 5ユーロ      

総訪問したドゥオーモ数 3           

総遭遇したスーパーカー 0

次回はFTB念願の地球の裏側までもぐりこむ予定です。

協力 ANA、エアーフランス、ルフトハンザ航空、TRENITALIA(http://www.trenitalia.com/home/en/index.html)、etravel

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in サイパン

ハファダイ マサよ!

ということで、2月のサイパンの風物詩となった大阪近鉄バッファーローズが誇るいてまえ打線の打撃音は合併球団オリックス・バッファローズの誕生によりもう響かなくなってしまう。猛牛中村紀洋は遠く大リーグに渡ることになり、大阪芸人のタフィー・ローズはすでにジャイアンツの軍門に下ってしまい、いてまえ打線もどっかにいってまえと在阪野球ファンの断末魔の叫びが聞こえてきそうな今日この頃である。このような状況を鑑みて日本からわずか3時間のフライトで常夏気分を満喫することが出来るサイパンの実力を再確認し、楽天野球団のキャンプ地として売り込むためにわざわざ調査に乗り出すことにした。

12月9日(木)

ノースウエストのマイレージが余っていたのでマサであっても3~4万くらいしかかからないところを私はただで入手していたサイパン行き往復E-Ticketを手に成田空港第一ターミナルに乗り込んだ。ANAやスターアライアンスの便であれば三顧の礼のVIP待遇で迎えられる私もノースウエストでは凡人に成り下がっている手前、通常のエコノミーカウンターで軽くチェックインすると早速午前10時35分発のNW76便、B747-200機に登場し、機内でスパイダーマン2を見ながら、一路サイパン国際空港を目指していた。

午後3時前にサイパン国際空港に到着し、入国、通関を済ませて外に出ると12月の東京とは打って変わっていきなり28℃の熱気に包まれてしまった。北マリアナ諸島特有の熱帯性熱帯気候に体をなじませるためにタクシーで$30くらいかかるホテルまでの道のりを徒歩で向かうことにした。島の南部に位置する空港からサンホセという海辺の町に出るとそこから海岸沿いに美しいビーチロードの遊歩道が続いていた。ここから見るサイパンの海は遠浅のエメラルドグリーンでそのむこうにある深い海には大型の船舶が何隻か停泊しているのが確認された。

わずか12~13kmの距離を2時間ほど歩いて午後5時過ぎにはガラパンというサイパン最大の繁華街に足を踏み入れることになり、思わず自分のパンツのガラを確認しないではいられなくなってしまいながらも何とか予約しておいたハファダイビーチホテルにしけこむことに成功した。現地語で「こんにちわ」を意味する「ハファダイ」という言葉をホテルの冠名にしているこのホテルはサイパン最大の規模を誇り、白砂のマイクロビーチのオンザビーチにありながら、玄関前にはDFSギャラリアが構えているという絶好のロケーションを持つ総合レジャーリゾートである。部屋はすべてビーチに面していたので、今夕は7階の部屋から水平線に沈む太陽を眺めながら郷愁に浸らせていただくことにした。

12月10日(金)

早朝よりホテルの前に広がる白砂のマイクロビーチを散歩していると原住民系のビーチレジャー客引きが「今日は何するの?」と次々に声をかけてくる。軽く彼らをかわしながら同じビーチサイドに建つ第一ホテル、ハイアット・リージェンシーホテルのプライベートビーチを抜けてアメリカ記念公園に紛れ込んだ。この公園には第二次世界大戦における、アメリカ軍の犠牲者の慰霊碑のモニュメントが建立されており、緑豊かなビーチ沿いでは散歩やバーベキュー等を楽しむことが出来るようになっている。

ガラパンのダウンタウンのはずれに北マリアナ諸島歴史・文化博物館($3)がかつての日本病院跡の立地にひっそりとオープンしていたのでサイパンの秘められた歴史を解明するために入場してみることにした。ここには約400年にわたって北マリアナ諸島で生活する人々の遺物が数多くの展示品として公開されていた。特に1638年に沈没したスペインのガレオン船コンセプシオン号から引き揚げられた、金、陶器、貴金属装飾品は高い評価を受けている収蔵品である。また、第一次世界大戦後、日本の統治時代が長いこともあり、砂糖王として原住民から尊敬されている松江春次に関する資料やビデオも放映されているのであった。

その砂糖王を記念する公園が博物館の向かいにその名もSugar King Parkとして君臨していたので見物させていただくことにした。南洋興発(株)を率いてサトウキビ栽培と精糖を北マリアナ諸島の一大産業に育て上げた松江春次の銅像は太平洋戦争時にこの地に上陸したジェネラル・マッカーサーにして「松江の銅像は倒すな!」と命令されたほど威厳の高いものであったそうだ。

砂糖王が醸し出した甘い余韻に浸りながら午後のひとときを海をボ~と眺めながら過ごした後、ホテルのビーチ沿いで煙を出している鉄板焼きレストランパラパラでステーキ&ロブスタースペシャル($35)を夕食の肴として心地よい南国の夜をふかしていった。

12月11日(土)

韓国人系で日本語を話すレンタバイク屋で250ccのスクーターをレンタルすると景勝地の多い島の北部へ乗り出すことにした。緑豊かなマッピ山の崖下にバナデロという戦跡地が通称「ラスト・コマンド・ポスト」という名称で多くの観光バスを集めていたので立ち寄って見た。ここにある洞窟状のくぼみをコンクリートで補強したトーチカは日本軍最後の司令部であり、生々しい砲台の跡や破壊された戦車等が残っており、それらの遺品は当時の戦況の激しさを静かに物語っていた。

サイパンのワン・オブ・ザ・ベストの景勝地としてイスレタ・マイゴ・ファハンと呼ばれるバードアイランドの展望所がある。海鳥たちのサンクチュアリとなっているバードアイランドの周辺の海の色はサファイアブルー、ネイヴィーブルーがブレンドされた美しいハーモニーを醸し出しており、中国人団体観光客の一大記念撮影スポットとなっていた。

標高249mのマッピ山の北側は切り立った断崖となっており、通称スーサイド・クリフと呼ばれている。現在平和を祈る観音様を祭ってあるこの地は戦争当時はアメリカ兵の投降の呼びかけに応じることを潔しとしない多くの日本人が身を投げた悲しい場所なのであった。

美しい海に囲まれたサイパンには多くのダイビングスポットがあるのだが、その中でも人気ナンバーワンスポットとしてグロットが君臨している。リアス式海岸状に削られた島北部のマドック岬の崖下の駐車場にバイクを止め、さらに急斜面の階段を100段ほど下るとアーチ状の天井を持つ洞窟に到着する。ここは天然のプールになっており、水中では3ヶ所の横穴で外洋とつながっている。外洋から横穴に差し込む光が水面に反射し、洞窟の奥には神秘的なブルーの空間が広がっている。ここには重たいボンベを抱えたダイバー達が次々と降りてきて海の中に消えていったのであるが、アワビやウニやサザエを取るときしか潜らないことにしている私はなすすべもなく見守るしかなかったのであった。

12月12日(日)

マサよ、君はバンザイ・クリフという断崖から「天皇陛下バンザイ」と叫びながら身を投げた婦女子や老人たちに思いを馳せてむせび泣いたことがあるか!?

ということで、サイパン北部でくしくも日本に一番近いサパネタ岬とラグア・カタン岬の間の断崖は通称バンザイ・クリフと呼ばれており、1944年7月7日に決行された日本軍最後の玉砕突撃の翌日に追い詰められた弱者が米兵の制止の声を振り切って次々と80m下の太平洋の荒波に身を投げた場所である。この場所には戦没者の霊を慰める白亜の太平洋の塔と観音像がひっそりと建っており、おもわず手を合わせずにはいられない観光スポットとなっているのだ。

午後4時55分発NW75便にて帰国、定刻より早い午後7時前に成田に到着し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \2,310(税金のみ)

総レンタスクーター代 $25

総タクシー代 $30

総宿泊費 \23,700

*サイパンだ!観光情報

  サイとパンダをかけあわせたサイパンダという動物がサイパンで幅を利かせていやがっている。観光バスにさえ、フロントに角を生やしたサイパンダバスが多くの無邪気な観光客を観光スポットに送り込んでいる様が目撃された。当然DFSギャラリアにもサイパンダコーナーが一席設けられており、ぬいぐるみ等のグッズが高値で取引されていた。

次回はドゥオ~モFTBEUイタリア~ノが発生する予定です。

協力: ノースウエスト航空、サイパンのレンタバイク屋

なるほど・ザ・FTB秋の温泉2004第3弾♪天城越え♪

♪山がぁ燃えるぅぅぅ~♪ song by S. Ishikawa

http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/amagigoe.htm (音が出るぜ!)

マサよ、君はこの歌が決して山火事の歌ではないことに気づいているか!?

ということで、1854年に日米和親条約が締結されて南伊豆の下田と北海道の箱館が開港され、実質上日本の鎖国政策が終焉をむかえてしまったのであるが、今年は開国150年という非常にめでたい年にあたる。この記念すべき年が現地でどのように祝われているのかという検証も含めて今回は天城を越えて南伊豆の温泉地を探索することとなった。

11月27日(土)

雪に覆われた富士山頂を眺めながら、厚木インターで東名を下り、小田原厚木道路を経由して伊豆半島の東部を海岸線に沿って南下していくと熱川温泉が近づいてきた。この界隈に昭和33年の開園以来伊豆の伝統的な観光地としての地位をゆるぎないものにしている熱川バナナワニ園(\1,000)が君臨しているので入園させていただくことにした。バナナワニ園という名前にもかかわらず、ここにはバナナワニという黄色い皮をかぶった種のワニがいるわけではないという認識を前提に園内の探索を開始することにした。1万坪を誇る園内は本園・ワニ園、本園・植物園、分園に分かれていたのでまずは本園・ワニ園からスタートすることにした。

本園・ワニ園は狭い池系の柵に囲まれた地域の中にクロコダイルやアリゲーター等世界中から拉致されてきたワニが飼育されているのだが、最近柵のペンキを塗り替えたと見えて柵に接触するすべてのワニの鼻頭が青色のペンキに覆われていて気の毒な気がしたのも事実である。ところでビートたけしが漫才ネタに使っていた「このワニはこんなに小さいときから育ててきたのに成長した今となってはスキがあればこ~んな大きな口をあけて私を食べようとするんですよぉ」と嘆いていたワニの飼育係はついに発見出来なかった。

本園・植物園の方には美しい花木・原種ラン・熱帯性スイレン等が展示栽培されており、温泉の熱を利用して育てられた草花を見ながら熱帯の雰囲気を味わうことが出来るようになっていた。本園から無料のマイクロバスに乗って到着する分園の方はさらに大きな規模を誇っており、バナナ、パパイア、グアバ等の熱帯果樹だけでなく、大規模なワニ池やレッサーパンダの飼育場や巨大ゾウガメが元気に歩行している砂場池等のファシリティが充実していて非常に見ごたえのあるものとなっていた。

熱川温泉をさらに南下して下田温泉に向かう途中の飛び込みで入ったラーメン屋になぜか開国150周年を記念して矢沢永吉のコンサートが11月22日に下田市で開催される旨を告知したポスターが貼られていたので永ちゃんの偉大さが再認識された次第であった。下田温泉に到着すると早速楽天トラベルに予約させておいた下田温泉なぎさホテルにチェックインさせていただき、弱アルカリ性、単純泉にしばし浸かった後、軽く町並みの散歩をこなして小腹を空かし、魚系中心の豪華旅館メニューに舌鼓を打ちながら外圧に負けて開国を余技なくされた幕府の情けなさをしみじみと嘆いて夜を過ごすことにした。

11月28日(日)

下田温泉なぎさホテルをチェックアウトすると早速「しもだまちあるきMAP」を参考にしながら下田の名所を散策することにした。

マサよ、君は初代アメリカ総領事館でちょんまげ野郎どもに囲まれ、孤独に耐えながらも黙々と業務をこなし、1858年の不平等条約である日米修好通商条約の締結にこぎつけた毛頭を知っているか!?

ということで、初代米国総領事であるタウンゼント・ハリスが根城にしていた初代アメリカ総領事館であった玉泉寺を訪問させていただいた。寺の境内にはハリス記念館(¥300)も併設されており、その中には当時をしのばせる貴重な資料や物品が展示されていた。また、昭和54年6月27日には第39代アメリカ大統領ジミー・カーターとその一味が玉泉寺を訪問しており、下田の町は上へ下への大騒ぎになった様子が記録されていたのであった。尚、寺院の裏には黒船(ペリー艦隊)乗員の墓やロシア艦ディアナ号乗員の墓もあり、日本最初の外人墓地の様相も呈していた。

湾の入り口に位置する下田市全体を見渡す高台は下田公園になっており、開国記念碑やあじさい園、椿園など歴史と自然と美しい景色が融合した絶好の散歩道が提供されていた。開国の歴史をダイジェストで学習するのに最適な下田開国博物館(¥1,000)で黒船来航の状況を確認するために入ってみることにした。ここは大きくペリーのコーナーとハリスのコーナーと都合のいい便乗条約である日露和親条約締結の中心人物であったプチャーチンを中心とするロシアとの友好のコーナーに分かれれている。ここで目を引く展示物は当時実際にハリスが食した膳のメニューやハリスの妾として不遇な人生を送り、唐人とののしられた唐人お吉に関する展示物であったろう。また、当時の資料を拝見していると1853年にペリーが浦賀に来たときにQuick Decisionが出来ずに1年後に再度下田くんだりまで来させたという日本伝統の返事引きのばし作戦の歴史が見て取れたのも事実であった。日米和親条約が締結された舞台となった了仙寺から下田公園入り口まではペリーロードとなっており、ペリーが下田に上陸した記念の場所にはペリーの大顔を形どったペリー艦隊上陸の碑が建立されていたのだった。

開国の港下田を後にすると伊豆半島の中心部に位置する天城峠を目指すことにした。天城山、天城高原を有する伊豆の中心部は険しい山道になっており、九十九折を髣髴とさせる7回転ループ自動車道を越えると天城峠に向かう脇道が登場する。その脇道は舗装されていない狭い道路でドライバーは皆♪戻れなくても も~ い~の♪という決意を持って車を転がしているように思われた。2kmほど走ると天城隊道に到着した。ここでは伊豆の踊り子の衣装を身にまとったギャルとその取り巻きが待ち構えており、「天城越え」という文字の入った白提灯を有償で観光客に貸し付けて暗い天城隊道を徒歩で歩かせるような催し物が行われていた。

道の駅天城越えで名物わさびソフト(¥300)を食った後、天城最強の名所であり、日本の滝百選のひとつである♪じょうれんのたぁきぃ♪(浄蓮の滝)に向かった。浄蓮の滝を見上げる展望所には滝の景色の美しさもさることながら紅白の常連となっている石川さゆりのレリーフとともに名曲♪天城ぃ越ぉえ~♪の歌詞を掘り込んだ石碑が女の情念とともに刻まれており、おばちゃん観光客の絶好の記念写真スポットになっていることが確認されたのであった。

天城峠を下ると伊豆天城湯ヶ島温泉市営湯の国会館(¥800)の露天風呂でナトリウム、硫酸塩温泉に浸かりながら旅の疲れとともに情念を振り払い、今年の紅白では必ず石川さゆりが赤組のとりをつとめることを祈念して伊豆を後にすることにした。

FTBサマリー

総宿泊費  \13,275(2食付)

総高速代  \7,250

総ガソリン代  \5,742

次回はFTB炎の離島デスマッチ第?弾 サイパンをお送りします。

FTB遣唐使2004 in 長安

こち(東風)吹かば にほひ(匂い)おこせよ むめ(梅)の花 あるじなしとて 春な忘れそ by 道真

(訳:マサよ、こっちに来ることがあったらうめ~貢物を主である総統に必ず持ってきてくれ、でないと左遷されるぜ!)

というわけで、901年に京の都から大宰府に左遷された菅原道真は上のような捨て台詞を吐いて飛ばされていったのであるが、その後太宰府天満宮を立ち上げて学問の神様として君臨し、歴史に名を残しやがった。しかし忘れてはならないのは道真の独断と偏見により894年に遣唐使が廃止され、白紙(894)に戻されてしまったことだ。それにより私のような優秀な人材が遣唐使として活躍するチャンスが失われてしまったのであるが、今回はFTB独自のルートにより、1,110年ぶりに遣唐使を再開するプロジェクトを実行に移すことにした。

11月11日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば14~15万くらいかかるところを私はただで入手していた西安行きのチケットを手に午前9時50分発のJL609便に乗り込み、5時間弱のフライトで現地時間午後2時前に西安国際空港に到着した。空港からバス(25元)で西安市の中心部である鐘楼に向かっていたのだが、古都長安城の石垣を基礎にして建造された周囲14kmにもわたる明代城壁の北門が目の前に迫ってくるといやがおうでも遣唐使としての責任感によるプレッシャーで胸が詰まる思いであった。

奈良の平城京がパクった条里制は中心の鐘楼という鐘を打ち鳴らすためのタワーから東西南北に大通りが伸びている。とりあえず、鐘楼の近くでバスを降りるとその足で城壁の南門近くに君臨している西安碑林博物館(30元)を訪れることにした。碑林には書道好きにはたまらない難しい漢字で文章を彫った古い石碑が林立しており、拓本と言って石碑に紙を貼り付けてその上からタンポで墨を塗り付け、文字や絵の部分を白抜きにして複写する技術をライブで行っており、また、由緒正しそうな拓本自体も観光客相手に高値で販売されていた。この博物館には石碑だけでなく、石刻芸術や陶器、青銅器、鉄器、玉器、絵画等も展示されており、非常に見ごたえのある観光スポットであることが確認出来た。

今日の宿泊先である鐘楼に程近い東大街の☆☆☆☆ホテルである西安皇城ホテルにチェックインすると日も暮れた時間に街を散策することにした。鐘楼、鼓楼といったランドマークになる建造物は夜はきれいにライトアップされ、古都西安の夜景を彩っており、はるか昔の遣唐使の健闘を讃えているかのようであった。

11月12日(金)

あいにく朝から小雨がそぼ降っているため、とりあえず屋根のついている陝西歴史博物館(35元)の見物から今日の遣唐使の業務を開始することにした。伝統的宮殿様式の概観を持つこの博物館には先史時代から秦代、漢代、魏晋南北朝時代、隋唐代、宋、明、清代の貴重な逸品が数多く展示されている。古代中国は文明の発達した巨大国家だったため、日本のような周辺弱小国がわざわざ船を漕いで長安くんだりまで貢物を持参して先進文化を吸収していたのだが、その名残や足跡もここには残されていたのであった。

昔昔、長安はシルクロードの起点となっていたのは有名な話であるが、玄奘三蔵もこの地を発って天竺まで経典を取りに行ったという話が西遊記といういい加減な話として受け継がれている。三蔵法師ゆかりの寺として648年に建立された慈恩寺(25元)があり、その中に大雁塔(20元)が64mの高さを誇っていたので登頂したのだが、あいにくの雨模様の空のため、西安の区画整理された町並みがぼんやりと眺められた程度にとどめられてしまった。寺の中に玄奘三蔵院という建物があり、その中に玄奘がたどった天竺までの道のりやそれにまつわる資料が展示されていた。しかし、ここには坊主頭の夏目雅子風の三蔵はいてもギャラの高そうな「あるある大王堺正章風孫悟空」や「釣りバカ西田敏行系猪八戒」、「破産の帝王ルックルック岸辺シロー式沙悟浄」、「白馬おひょ~え藤村俊二」等のとりまきに対する資料はみじんも残されておらず、これではゴダイゴがいくらガンダーラをヒットさせても決して浮かばれないのではないかと思われた。http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2781/data/tv/tv-ntv.html

ANAマイレージクラブダイヤモンド会員のみが手にすることが出来る全日空ホテルズ無料宿泊券が2枚余っていたのでマサであれば合計$200以上かかるところを私はただで泊まることが出来る☆☆☆☆☆ホテルであるANA GRAND CASTLE HOTEL XIANに早々とチェックインして高級中華ディナーを楽しみながら西安の長い夜は更けていった。

11月13日(土)

ホテル近くのバス停からバス(1元)に乗って西安駅で下車し、駅前の人間模様を軽く見渡した後、今回の遣唐使としての最大の任務である秦俑博物館(90元)に向かうべく、走っているバスの窓からおばちゃん車掌が手招きをしながら乗客の客引きをしている兵馬俑行きミニバス(4元)に飛び乗って世界遺産に指定されている現地に向かった。西安最大の見所として君臨する通称兵馬俑は1974年にたまたま井戸を掘っていた農民により偶然発見されたものである。兵馬俑はあの世に行ってしまった秦の始皇帝を守るべく、紀元前220年ごろから製作され始めた大地下帝国的兵士騎馬集団であり、兵士の身長は平均178cmで顔立ちはそれぞれ異なっているのだ。

博物館は一号坑、二号坑、三号坑、秦銅車馬展覧館などで構成されており、7000もの兵士俑や100あまりの戦車、400あまりの陶馬などから構成されているのだが、発掘されているのはまだほんの半分以下であり、坑内にて生々しい発掘の現場を目の当たりにすることが出来る。尚、原型を保っている兵士俑のポーズは直立のものだけではなく、ブルースリーが「アチョ~!」と叫んでいるような格闘系のものやホストが片膝をついて「いらっしゃいまほ~♪」と言っている様なものまで確認された。ところでマサよ、現在上野の森美術館で大兵馬俑展http://www.heibayo.com/が開催されており、雰囲気のかけらだけでも体験することが出来るので大阪から新幹線を転がして必ず見に来るようにしてくれないか!?

兵馬俑からわずか1.5kmほどの場所に同じく世界文化遺産に登録されている秦始皇陵(25元)が国家AAAA景区として観光客の客引きに成功しているので見物することにした。ここはいわずと知れた中国最初の皇帝である始皇帝の陵墓であり、その存在感は心霊現象が多発する青山墓地や多摩川霊園が束になってかかってきても敵わないほどである。始皇陵の頂上まではザクロを栽培している段々畑を横目に階段を登っていくのだが、当然階段の途中で収穫したザクロを観光客に売りつけようとしている農民も待ち構えているのであった。尚、ふもとの広場では秦代の兵士の服装を身にまとった人民が鐘や太鼓を打ち鳴らしながらのパフォーマンスが定期的に行われていた。

マサよ、君は中国にも古くから温泉保養地が人民を癒していた事実を知っているか!?ということで、秦始皇陵から西安市街に戻る道すがらでバスを降り、華清池(35元)という温泉と風景の美しさで有名な観光スポットに立ち寄ることにした。この温泉は2700年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽などが造られたその遺跡が残っているのだが、特に有名なのは世界3大美女の1人である楊貴妃専用の浴槽や当時の唐の皇帝であった玄宗のプールのような巨大浴槽が博物館として残されているところである。また、蒋介石もここで静養した実績があり、1936年の西安事変における弾痕がガラスを突き破った跡も生々しく残されているのであった。

11月14日(日)

2日間お世話になったANAホテルをチェックアウトするとその足で小雁塔(18元)に向かった。707年に建立された小雁塔はもともと15層の塔であったのだが、地震により上部2層が崩壊して現在は13層43mの塔として君臨しており、狭い階段を登って到達する頂上からは西安市の街並みが一望出来るのだ。

最近真言密教の研究を開始した私は空海にゆかりのある青龍寺(8元)を訪問することにした。この寺は582年に霊感寺として創建され、711年に青龍寺に改名された由緒正しい寺であり、804年、当時日本から入唐した多くの僧のひとりだった空海は、この寺の恵果和尚に弟子入りし、密教の教義を習得したのである。唐末の戦乱で廃寺となっていたのだが、1973年に塔の土台と殿堂の発掘により再建され、その後、空海紀念碑や恵果や空海の像が安置されている恵果空海紀念堂などが建造され、ひっそりとしたたたずまいながらもマニアの日本人観光客を集めているのである。長崎県の五島列島を出航した空海が長旅を経て到着した目的地をとうとう見つけ出すことに成功したFTBは遣唐使としての役割を何とか果たすことが出来たのであった。

空港行きバスが出るまでの時間を利用して鐘楼(15元)の内部を見物することにした。鐘楼はもともと鐘を鳴らして時間の告知をしたり、戦時に物見台や司令部としての役割を果たしていたファシリティであったそうだ。建物内部の歴史的な資料もさることながら正午から鐘の楽器を使った民俗音楽つき美女式舞踊等のパフォーマンスがおっぱじまってしまったので美女の動きに思わず目が釘づけになり、思いもよらず楽しいひとときを過ごさせていただけたのであった。

15時30分発JAL660便にて帰国、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \3,960 (税金のみ)

総宿泊費  \8,500

総バス代  60元(1元 = \13くらい)

今後の予定: ドォ~モ~FTBEUイタリア~ノ

協力 日本航空、全日空ホテルズ

なるほど・ザ・FTB秋の温泉2004第2弾ゲロ

♪木曽のぉ~おんたけさんは~♪http://www.shinmai.co.jp/kanko/yama/00022.html

ということで、秋の行楽シーズンもたけわなの今日この頃であるが、先月訪れた奥飛騨温泉郷から高山に向かう道すがらでふいに胸の奥底からこみ上げてくるすっぱい物を感じる交差点があり、その行き先を口に出してしまうと思わずリバースしてしまいそうな感覚に襲われてしまった。今回はその原因の究明のために再び飛騨の里を乗り超えて木曽の奥地まで足を延ばすことにした。

11月6日(土)

ドリカムのメロディーに乗り、ニューヨークのダウンタウンを走ると必ず美女の目を引くネクストプロポーションオデッセイも1,000km点検を終えて、そろそろ走りに油が乗ってきたと見えて中央高速を油断しながら飛ばしていると「車両のふらつきが大きくなりましたぁ~」というカーナビからの警告ボイスを余計なお世話だと思いながらも長野自動車道の松本インターで高速を降りると国道158号線をひたすら西に向かって走っていた。

奥飛騨温泉郷、さらに飛騨高山を抜け、国道41号線から岐阜方面に向かって南下すると午後5時前には今日の宿泊地になっている楽天トラベルに予約させておいた下島温泉のひなびた朝六荘に到着した。旅館のおやじに案内された部屋は2階からイワナの泳ぐ川と渓谷を見下ろすことが出来る景色のいいところであったのだが、何とこの旅館は個室に鍵がついてないほどオープンな環境になっており、下島温泉の誇る単純炭酸泉、またの名をサイダー泉の温泉設備もその辺の銭湯よりもかなり劣ったものであった。

気の抜けたサイダー泉のなかで日本を代表する清涼飲料は三ツ矢サイダーであり、果汁入り飲料の王道はプラッシーであることはまちがいない!などと考えながら時間をやりすごしていると夕飯時になったので膳の準備が整った1階の部屋に移動した。下呂温泉から15kmほど離れた温泉地なので食事の方ももんじゃ焼き、お粥、雑炊等の流動食系のものしか出ないだろうと高をくくっていたのだが、何と食卓にはイワナづくしの超豪華な料理が並んでおり、思わず緊張して度肝を抜かれてしまった。イワナの刺身、天ぷら、焼き物、味噌汁、鍋とおびただしいほどの山菜を前にするとこの旅館の実力はファシリティではなく、豪華絢爛な料理であることが肝に銘じられたのであった。

11月7日(日)

朝六荘が誇る鮎の甘露煮をメインとした朝飯を詰め込んだ後、おやじのお奨めのスポットである巌立峡に向かった。南飛騨国際健康保養地としてパンフレットまで出している巌立は御嶽山の大噴火によって出来た高さ72m、幅120mの柱状節理の大岩壁で県指定の天然記念物である。あたりには遊歩道も整備されており、三ツ滝等の轟々と流れる滝も容易に見物することが出来るようになっていた。

マサよ、君は日本三大名泉を知っているか!?

草津温泉、有馬温泉と並んで日本三大名泉と称される下呂温泉がついに私のカーナビの目的地としてセットされた。下島温泉から国道41号線を15km程岐阜方面に向かって車を走らせるとだんだんと内臓の奥底から胃酸を含んだ酸っぱいものがこみ上げてくる感覚を覚える。これはもしかして「ゲロ!?」と思ってふと脇道に目をやるとそこには「歓迎下呂温泉」の横断幕が朝日を浴びて輝いていたのであった!

ということで、木曽の山々に囲まれた飛騨川河岸の風光明媚な場所に開けた下呂温泉街にとうとう足を踏み入れることと相成った。その飛騨川の河川敷、下痢の患者によく似合いそうな下呂温泉病院を少し下ったところに無償露天風呂が開けており、貧乏そうなライダー達がバイクを止めて入浴に精を出していたのだが、その露天風呂は橋の上から丸見えになっているのが難点だと思われた。そこで多少小銭を持っている私はクアガーデン露天風呂というファシリティで温泉博物館+クアガーデン+白鷺の湯がセットになっているチケットを¥1,000で購入することにした。クアガーデンは総合的な健康づくりを目的とした多目的露天温泉保養館として君臨しており、大小露天風呂や打たせ湯、箱蒸し等の設備が充実していたのだ。

今年の4月にオープンしたばかりの下呂発温泉博物館を訪問した。ここでは温泉が湧き出す仕組みや無理やり温泉を掘り当てるボーリングの技術や日本各地の温泉の成分や特徴に関する展示や資料やパンフレットがもりだくさんであった。さらに、クアガーデンでふやけた体に鞭打ってなおも白鷺の湯に入湯することにした。ところで下呂温泉のルーツであるが、昔、一羽の白鷺が傷を癒そうと飛騨川の河原に舞い降り、湯のありかを告げたそうなのであるが、げろといい、さぎといい非常に怪しい温泉であることは間違いないところであろう。

マ、マサよ、き、きみは放浪の天才画家といわれている山下清をし、知っているか!?

ぼ、ぼくは、し、知っているんだなぁ~!!!

というわけで、下呂温泉の熱気もさめやらぬうちに将来放浪の天才文人として名を残す予定の私は高山本町美術館で開催されている山下清原画展(\600)を見にいくことにした。芦屋雁之助系の風貌を呈した裸の大将が残した作品は日本のピカソにふさわしく来場者の心に響く清くてすばらしいものばかりであった。大将は昭和15年から31年までのルンペンとしての放浪生活の中で一宿一飯の恩義に預かった人々にお礼として絵を描いており、その作品が日本各地に数多く残されているのだ。特に花火が大好きとあって鮮やかな色彩を使った花火見物の絵は大将の代表作のひとつになっているのだ。また、放浪のノウハウとして夏の暑い時期は北国、冬場は鹿児島に出没し、移動は効率的に線路の汽車道を歩いて夜は駅で野宿をして暮らしていたそうだ。

木曽、信濃路ツアーからの帰路の恒例となりつつある白骨温泉に今回も入浴剤状況の抜き打ち調査のために立ち寄ることにした。中部山岳国立公園、国民保養温泉地、天下の名湯白骨温泉に泡の湯旅館という高級旅館があり、そこの外風呂に¥800を支払って侵入することに成功した。台風の影響で紅葉しきれなかった晩秋の景色を見ながら源泉かけながしの39.3℃に設定してある野天風呂に浸かりながら津村順天堂がスポンサーをしていたかっくらきん大放送の野口五郎の全盛期に思いを馳せながら、「マサよ~、もうバスクリンはいらないぜ~」とつぶやいていた。

p.s.  ♪かいさぁ~つぐぅちで君のことぉ~♪

   ということで信州には「野口五郎岳」http://www.shinmai.co.jp/kanko/yama/00007.htmlもあるぜ!

   マサよ、ゴロンボ刑事にもよろしく伝えておいてくれたまえ(カマキリ男)

総高速代  \12,330

総ガソリン代  \6,618

総走行距離  847km

総宿泊費 \9,495

次回はFTB遣唐使をお送りすることを検討しております。健闘をご期待下さい!!

協力 楽天トラベル、高山本町美術館、花王名人劇場「裸の大将放浪記」

竜鉄也推薦FTBJ奥飛騨慕情 + 世界遺産

♪あ~あ~おくひだぁにあめぇ~がふる~♪

http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/OkuhidaBojo.htm (注意:音が出るよ♪)

ということで今年のマサの財務省での忘年会ソングの推薦というわけでもないのだが、今回たまたま車が新しくなってしまったのでその慣らしも兼ねて奥飛騨路まで車を転がすことになった。

10月10日(日)

9月中間決算期のノルマの厳しい時期を見計らうという頭脳プレーを駆使したため、マサであれば10万くらいしか値引きしてもらえないところを私は30数万の値引きを得て購入したネクストプロポーションオデッセイは自宅近くの市川インターから京葉道路、首都高速を抜け、荒井由美の推薦する中央フリーウエイに入ると2.4リッター、iVTEC, DOHCのエンジンがフル回転して競馬場や飛行場を見下ろしながら疾走するはずであったのだが、台風明けで残りの連休を有効活用しなければならないあせった行楽野郎の車で相模湖まで10数キロの渋滞に巻き込まれてしまった。

談合坂サービスエリアで軽く買い食いをするついでにオプション購入したインテリジェントなホンダ純正ナビゲーションシステムで奥飛騨温泉郷に目的地をセットするとグレイッシュムーブメタリックの新車は再び中央道へと戻り、田中康夫率いる長野県の松本インターを目指して疾走した。松本インターから奥飛騨までは中部山岳国立公園と言われる一帯でクネクネ山道プラストンネルが続く狭くて険しい国道158号線を走らなければならない。まだ紅葉には早いもののこの地域は上高地や穂高連峰、乗鞍高原に囲まれており、眺望のすばらしい山岳風景を提供する非常に美しい場所であることが確認出来た。

気がつくとホンダ純正ナビゲーションは長野県を越えて岐阜県に入ったことを示していた。平湯温泉、栃尾温泉、福地温泉、新平湯温泉、新穂高温泉から形成される奥飛騨温泉郷に入ったのは午後4時を過ぎた時間帯であった。ところで今年は折からの台風の影響でツキノワグマが活気づいているのだが、何故かこの地域にも熊牧場があり、数万頭の拉致されたツキノワグマで賑わっていると大々的に宣伝されていたのであった。

連休中の奥飛騨温泉郷は大変な賑わいを見せており、なるほどここが日本でナンバー1の人気を誇る温泉地帯であることを実感させるようにどの温泉宿も満室を誇っていた。新平湯温泉にある老舗風の旅館である田島館に何とかもぐりこむことに成功すると早速、単純ナトリウム泉の温泉でドライブの疲れを取ることにした。山に囲まれた露天風呂は否が応でも飛騨で唯一の有名人である仮面の忍者赤影http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/2049/akakage.htmlが参上しそうな雰囲気を漂わせており、翌朝の朝風呂も含めて3回も温泉に入ってしまったのだ。

10月11日(月)

飛騨といえば高山であるということなので高校の修学旅行で訪問した実績のある高山まで足を伸ばしてみることにした。時は高山祭りの最中ということだったのだが、台風の影響で観光客が激減してしまったという嘆きのニュースがテレビから虚しく流れていたのだが、屋台会館のある桜山八幡宮は静かな面持ちで観光客を迎えていた。宮川の川沿いにかの有名な朝市が立っていたのでぶらぶら歩いてみることにした。ここではお約束の赤カブの漬物やりんごや駄菓子や民芸品が売られており、駄菓子屋のおばさんは町行く観光客にしきりに試食を薦めており、他の店との違いを認識させることに躍起になっていた。

マサよ、君は合掌造りの集落を見て、思わず手と手を合わせて「南ぁ~無ぅ~」と言ったことがあるか!?

というわけで、気がつくと合掌造りで有名な世界文化遺産に認定されている白川郷が80km先に迫っている事実をつきとめてしまったため、軽く下見をするために白川郷まで車を飛ばすことにした。連休のディズニーランドの賑わいは誰でも予想出来るのだが、ここ白川郷も負けず劣らず日本伝統家屋の価値のわかりそうもない素人観光客で大変な盛況を見せていた。世界遺産に認定されている地域は荻町合掌造り集落というのだが、ここにはおびただしい数の急角度茅葺屋根の住宅が軒を連ねていた。しかしながら、それらの住宅の内、純粋な民家はごくわずかでほとんどが土産物屋や食堂、民宿として観光客を待ち構えている燃える商魂系屋敷であったのだ。

和田家という国指定重要文化財合掌造り民家にわずか¥300の支払いでおじゃまさせていただくことが出来るということだったので民家の内部がどうなっているのか探索してみることにした。1573年以来、長きにわたって風雪に耐えてきた家の内部は渋く黒光りしており、特に屋根裏に近づくほどにその伝統の重さがひしひしと伝わってくるような感じがした。尚、内部にはお約束の囲炉裏や床の間、はたまた江戸時代の什器等がうやうやしく展示されておりました。ところで合掌造りのシンボルとなっている茅葺屋根は消耗品となっているため、定期的な葺き替えが必要となる。ここで登場するのが「結」という互助システムであり、個人宅の屋根の葺き替えであっても村人が総出で行うことになる。それも無償援助というではないか!?当然このしきたりを破った輩は晴れて村八分の道を突き進むことになるのである。

最近入浴剤に興味を持ち始めたわけでもないのだが、帰路の途中に白骨温泉があったので立ち寄って見ることにした。長野県南安曇郡安曇村という名前を聞いただけで秘境であることが認識出来る白骨温泉はマサに四方を山に囲まれた渓谷に忽然と出現する秘湯の様相を呈していた。あたりの温泉宿に「ツムラ!」と書いた営業車が止まっていたら狼狽してしまうのは間違いないと思っていたのだが、私の心配をよそに飛び込みで入った野天風呂はバスクリン色ではなく、単純硫化水素泉が醸し出すきれいな乳白色であった。あまりにも白いお湯だったため、川口浩探検隊が洞窟で発見する白骨をピカピカに磨き上げる美術さんもここのお湯を使っているのではないかと想像されたほどであった。尚、今回の入浴剤事件で白骨温泉の知名度は格段に上がっており、おびただしいほどの癒されたい観光客を集めていたのであった。

総宿泊費  \12,000

総高速代  \14,100

総ガソリン代  \6,094

協力 ホンダベルノ京葉

FTBSEAべトコンツアー in ホーチミン

マサよ、君は20世紀以降、世界で初めて戦争でアメリカに黒星をつけた国を知っているか!?

2004年9月23日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば14~15万くらいかかるところを私はただで入手していた成田-ホーチミン間の往復チケットを手に混雑する成田空港第二ターミナルから颯爽と午前10時発のJL5133便に乗り込むとベトナム航空が運行するコードシェア便のB777-200機内で真紅のアオザイを身にまとったエスニック系スチュワーデスに迎えられた。

5時間40分程度のフライトで2時間の時差を超えてホーチミンのタンソンニャット国際空港に午後2時ごろ到着した。空港で円をベトナムドンに両替する必要があったので両替所で¥5,000を提出すると何と670,000ドンもの大金がド~ンと渡されて一瞬の内に大金持ちになってしまった。空港の出口に売店があり、8,000ドンのコーラを50,000ドン札で買うと42,000ドンであるはずの釣りが32,000ドンしか返ってこなかったのも私の中では折込済みだったので黙って見逃してやることにした。

空港バス(2,000ドン)で市内に向かうまでの道のりは数え切れない程のクラクションとバスを取り巻く無数の原チャリ系バイクとの格闘の時間であったが、40分程我慢すると市中心のベンタインパスターミナルにつつがなく到着することが出来た。バスを降りるころには折から降り始めていた雨が激しくなり、ついには厚い積雲を切り裂く雷鳴がとどろきはじめたため、仕方なくバスターミナルで雨宿りをしながらベトナム人観測を行うことにした。町ゆく人はほとんど原チャリ系のバイクにまたがっており、降りしきる雨もなんのその、いつのまにか取り出していた合羽を羽織って落雷の轟音の中を爆音を轟かせて走っており、マサにホンダ丸儲けの図式が提供されている町並みであった。

雨が小降りになってきたのでベンタインバスターミナルからベンタイン市場を抜けて今回の宿泊先である☆☆☆☆☆ホテルのエクアトリアルに徒歩で向かうことにした。ホテルへ向かう道は大通りであっても信号が整備されていないところが多く、絶妙のボディバランスと身のこなしを駆使してひっきりなしに向かってくるバイクの波を避けながら何とかホテルに到着することが出来たのであった。

9月24日(金)

午前中から30℃を超える猛暑の中、早速ホーチミン市内の観光に乗り出すことにした。南ベトナム政権時代に独立宮殿と呼ばれた旧大統領官邸である統一会堂(10,000ドン)が市の中心部に君臨しているので見学させていただくことにした。ここは1975年4月30日に解放軍の戦車がこの宮廷の鉄柵を突破して無血入場を果たし、事実上ベトナム戦争を終結させたことから後に統一会堂と呼ばれるようになったのだ。建物の中は大統領や副大統領の応接室や内閣会議室、宴会場、映画館等があり、最上階は展望台となっており、ここからかつて解放軍の戦車がやってきたレユアン通りを見通すことが出来る。また、建物の地下には秘密の軍事施設が設置されており、大統領の司令室や暗号解読室、アメリカと連絡を取り合った放送局などが残されているのだ。

ホーチミン市博物館(10,000ドン)がフレンチコロニアル風の威風堂々とした建物づらで観光客を集めているので覗いて見ることにした。ここでは古代からのホーチミン周辺の暮らしぶりや動物の剥製、各種民族グッズ等が展示されている。

米粉で作ったベトナム名物の麺であるフォーを24時間煮込んだスープで提供する店であるフォー24でスペシャルフォー(29,000ドン)を食った後、ベトナム歴史博物館(10,000ドン)を見物することにした。ここには原始時代からの遺功としてメコンデルタの古代石器やチャンバ芸術の仏像等が数多く展示されているのだが、余興として中庭でベトナム名物の水上人形劇($1)を見物することも出来るようになっており、人形のコミカルな動きを見ながらほっと胸をなでおろすことが出来るように取り図られているのだ。

夕飯時になったので食文化の発達したベトナムでも地元の人にも人気のあるクアンアン・ゴンというレストランでベトナム式パリパリ皮の中に海老とかが入った食い物を前菜にカニの丸揚げをにんにく、塩コショウで炒めた贅沢な一品と格闘しながらホーチミンの夜をパクチーとともに更かし、英気を養ったのであった。

9月25日(土)

マサよ、君はべトコンのゲリラ戦の真髄を見たことがあるか!?

ということで、ホーチミン市の中心部から北西へ約70kmの位置に南ベトナム解放民族戦線(通称べトコン)の拠点となっていた地下トンネルが200km以上にわたって難攻不落の要塞状に掘られていたという情報を聞きつけたので早速現状確認に向かうことにした。ベンタインバースターミナルからサイゴンバス(2,000ドン)で1時間ほどかけてクチバスターミナルに到着するとそこからライトバン状のミニバス(10,000ドン)に乗り換えてクチトンネルの観光施設があるベンユオックに向かった。原住民乗客ですし詰め状態になったミニバスは水牛やスタンダードな牛が開墾を行なっているのどかな田園風景を走り抜けると途中で原住民を降ろしながら1時間ほどでベンユオックに到着した。

サイゴン川近くに位置するベンユオックは戦争当時枯葉剤が大量に撒かれたゴムの木の熱帯雨林だったため、異常に蒸し暑く、立っているだけでも汗がにじんでくるほどであった。クチトンネル(65,000ドン)はベトナム戦争が終わって30年経った今でもクチ果てることなく、革命歴史遺跡として数多くの観光客を集めている。まずはチケット売り場で入場券を買うと迷彩服を着た謎の係員に林の中を案内され、ベトナム戦争のビデオとクチトンネルの構造やサイゴンとの位置関係を説明したパネル等が設置されたファシリティに案内された。ビデオが終わるころには観光客も適度に集まっていたのでいよいよクチトンネルへのツアーがスタートした。

最初に見せられたのは巧妙にカモフラージュされたトンネルへの入り口でそれはスリムなベトナム人の体系に合わせた非常に狭いもので米兵のブタ野郎が容易に侵入出来ない微妙な大きさに掘られていたのだった。さらにゴムの木林のいたるところに大きな陥没が見られるのは米軍戦闘機B52が爆撃した跡なのだそうだ。また、要所要所にトンネル内に空気を供給する換気用の穴が蟻塚風にこじ開けられているのが印象的でもある。ガイドを先頭にいよいよトンネル内への侵入となった。観光用のトンネルは毛頭のブタ野郎も何とか侵入可能なように多少広げられていたのでガイドに続いて入っていった米国人もツアーのプログラムに参加することが出来たのであった。蒸し暑い熱帯雨林のさらに地下に存在するトンネル内部は天然のサウナのようでみるみる体中が汗と壁面に接触したときの泥にまみれていったのであった。

トンネル内部には作戦会議室や病院、司令官室等、数多くの部屋があり、マサに闇の中に地下都市が形成されていた。観光用に広げられているとはいえ、トンネル内部を移動するときは腰をかがめたり座ったまま進むような体勢を取らされるのでツアーはかなり過酷なものとなった。最後に地下の台所と食堂に出るとそこでお茶と当時べトコンが食料としていたタロイモの一種が試食出来るように取り図られていたのであった。また、このクチトンネル一帯のファシリティには数多くのべトコン土産物売り場や当時数々の米兵のブタ野郎を落とし入れたであろうさまざまな落とし穴の展示やおまけに体重130kと書かれたビルマニシキヘビまで飼われていた。さらに林から広場に出ると射撃場で射撃も楽しむことが出来、地雷を踏んで大破した戦車や装甲車も周辺に数多く転がされているのであった。

ということで、ここで得た教訓はマサ率いる悪徳財務省のような圧倒的勢力に対抗すべく、ゲリラ戦を展開するためにはとりあえず穴を掘って「王様の耳はロバのみみぃ~」と叫ぶことであったろう。

9月26日(日)

ベトナム戦争が終結するまでホーチミンはサイゴンとよばれていたのだが、私もさいごんの力を振り絞って最終日の観光に精を出すことにした。ホーチミンくんだりまで来てここに来なければべトコンを語る資格がないとまで言われているであろう戦争証跡博物館(10,000ドン)を訪問した。ここではベトナム戦争の歴史をビデオや実際に使用された戦車や大砲、爆弾などの戦争遺物、写真などで綴った博物館である。ここで多くの観光客の目を釘付けにする代物は従軍写真家が撮影した悲惨なベトナム戦争の写真や枯葉剤がこの国にもたらせた悲惨な状況証拠の展示である。また、屋外には拷問の島と呼ばれたコンソン島の牢獄「トラの檻」を復元したファシリティもあり、ギロチン台の実物やべトコンに課された様々な拷問の数々をリアルに学習することが出来るようになっていた。

その後、19世紀に建てられた赤レンガ造りのサイゴン大教会と19世紀末のフランス統治時代に建てられた中央郵便局を軽く見た後、サイゴン川にかかる橋を渡ってホーおじさん記念館(10,000ドン)を訪問することにした。ここにはホーチミン主席の革命活動の写真や記念品が展示されているのだが、一方でホーおじさんは若い頃からFTBと同様に世界各国を歴訪した実績を持っていることが確認出来た。

ホーチミン市の目抜き通りとしてドンコイ通りが君臨しており、おびただしい数のレストランやブティック、土産物屋が軒を連ねており、日本人をはじめ多くの観光客を集めていた。すべてのブティックにはお約束のアオザイがディスプレイされており、日本人ギャルも血眼になって物品の物色をしているのだが、大阪生活も板についてきたマサであればアオザイ物色ギャルに対して「いつ着んねん!?」と激しいつっこみをかましていたのではないかと思われた。

深夜11時50分発のJAL750便にて帰国の途に着き、翌朝7時半ごろ成田空港にて流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,760

総宿泊費  VND 4,249,547 (¥1 = 約160ドン)

総バス代  VND 26,000

総空港までの帰りのタクシー代  $10

総空港使用料  $12

第2回カンガルーといっしょに地球環境問題をカンガェルーツアー in オーストラリア

アテネオリンピックで金メダル確実と言われた長嶋ジャパンがオーストラリアに連敗し、銅メダルに甘んじてしまった!球界再編に揺れる日本プロ野球はこの事実を最大の教訓とし、今後の野球界発展のための糧としていかなければならない今日この頃であるが、それに先んじてFTBがまずオーストラリアの軍門に下り、地球環境問題をカンガェルーと同時にオーストラリアのスポーツ躍進の秘密を解明すべく赤道を越えることにした。

9月5日(日)

9月3日(金)発の飛行機に搭乗するつもりであったのだが、何とFTB史上初となるチケットの買い間違いにより日曜日発を余儀なくされたJAL5143便はカンタス航空とのコードシェア便だったため、真紅の垂直尾翼に白抜きのカンガルーのシルエットをあしらったカンタス航空機についに搭乗することに成功した。B767-338機メルボルン行きは定刻20時15分に離陸すると適度に空いている機内で快適な空の旅の旅が提供されることとなったのだ。

9月6日(月)

メルボルン空港が霧に覆われていたため定刻よりやや遅れたものの午前8時前には到着し、スムーズに入国手続きを済ませると空港バス(A$13)で早速今日の宿泊場所であるHilton on the Park Melbourneに向かった。ホテルに荷物を預けると早速目の前に広がるオリンピックパークを散策することにした。1956年に南半球で最初に開催されたオリンピックの会場は今ではすっかり緑多き公園へと生まれ変わっており、10万人を収容するメインスタジアムは野球の祖先と言われているクリケット場へと変貌を遂げていた。また、周囲にはラグビー場やテニスの全豪オープンが開かれるロッド・ラバー・アリーナ・アット・メルボルン・パークが異様な存在感を示しており、アテネオリンピックで惨敗した杉山愛選手もこの雰囲気に飲まれないだろうかを心配になるほどであった。

オリンピックパークからやや北上すると「公園の都」メルボルンを代表するフィッツロイ・ガーデンに迷い込んだ。芝生グリーンの眩しいこの公園にキャプテンクックの小屋(A$4.0)なるものが建っていたので侵入してみることにした。メルボルン市100周年を記念し、1934年に買われ、イギリスのヨークシャーから運ばれ、この地に復元されたこの小屋の前には家主のキャプテンクックの銅像がお約束の♪ようこそここへクッククック♪といういでたちで望遠鏡片手に観光客を迎えているのだった。

フィッツロイ・ガーデンの西に堂々たるゴシック建築のセント・パトリックス大聖堂が105.8mの尖塔を天に突き刺すようにそびえさせており、そのさらに西側にオーストラリア2番目の大都会であるメルボルンのダウンタウンが広がっている。英国風の街づくりが白豪主義でならしているオーストラリアの人々が闊歩する光景にマッチしており、非常に優雅な雰囲気を醸し出しているのだが、一方では街のいたるところに公衆便所が設置されており、尿意や便意の近い人であっても安心して買い食いしながら街歩きが出来る優しい都会であることが確認出来た。

9月7日(火)

ダウンタウンのハーツでニッサンパルサー5速マニュアル車をレンタルするとメルボルンの南東137kmに位置するフィリップ島を目指すことにした。自然の宝庫といわれるフィリップ島では数多くの野生動物を目にすることが出来るのだが、それらをより確実に目にするためにまずコアラ保護センター(A$8)を訪問した。センター内はおおよそ3つのエリアに区切られており、最初に入ったエリアは遊歩道に沿って生えているユーカリの巨木の手が届きそうな場所にふんだんに葉っぱのついたユーカリの枝が移植されており、観光客が間近にコアラを見物出来る配慮がなされていた。そこには4頭ほどのコアラが住んでおり、通常動物園で見るような動かないぬいぐるみ状ではなく、アクティブに枝から枝へとジャンプしたり、ユーカリの葉っぱを貪り食うコアラの姿を見ることが出来る。3番めに侵入したエリアはマサにユーカリの自然林になっており、数10mの高さのユーカリの木のてっぺんにコアラがひっしとしがみついている姿を遠巻きに眺められるようになっていた。

コアラセンターのすぐ近くにワイルドライフ・パーク(A$11)が開園されており、カンガルーに引き寄せられるようについつい入園してしまった。入場料を支払うと同時に動物用の餌が入った小袋を渡されると早速園内を巡回してみることにした。まず最初に目についたのはディンゴという古代犬の群れであった。今から8,000年ほど前にアボリジニがオーストラリアに渡ってくるときに連れてきた犬が野生化したものだそうなのだが、どう見てもその辺を散歩している普通の犬にしか見えなかった。園内にはウォンバッドやワラビー、タスマニアン・デビル、コアラ、各種鳥類が飼育されており、中でも放し飼いにされているカンガルーは餌を見せるとピョンピョンと飛び跳ねながらやって来て隙あらば観光客の餌を奪うことに余念がない様子であった。ちなみにカンガルーという名の由来だが、白人入植者がアボリジニに初めてカンガルーを見たときに「あの動物は何?」と訪ね、アボリジニはそいつの言っていることが理解出来ずに「カンガルー(何言ってるんかわからん!)」と言ってしまい、白人入植者のカンガェルー暇もなくその名前になってしまったという間抜けな話が残っているそうだ。

マサよ、君はペンギンパレードに参加したことがあるか!?

ということでフィリップ島、いやメルボルン観光のハイライトとなっているペンギンパレードが夜な夜な開催されるサマーランド・ビーチにやって来た。コアラ保護センターのおっさんに売りつけられたペンギンプラス(A$25)といういい席でペンギンが見られるチケットを片手にまずビジターセンターでペンギンの生態を学習した後、日没近くの午後6時ころにペンギンが漁を終えて上がってくるであろうビーチで待機することにした。しとしとと降りしきる雨の中を防寒対策を万全に施した観光客たちは辛抱強く暗い海を眺めながら今か今かとペンギンパレードが始まるのを待ちわびていた。ビーチにカモメの群れが集まりだした6時40分ころについに1羽目のペンギンが姿を現した。その後、次から次に海から姿をあらわしたペンギンは5~6羽ほどの隊列を組みながら、観光客の見守るスタンドの前をいそいそと行進していった。この場所でコロニーを形成しているペンギンはフェアリー・ペンギンといって体調30cmほどの世界で最も小さいコビトペンギンとも言われる種類のものであるのだが、海から内陸の潅木地帯まで1km近くの道のりを時間をかけて行進していく様は、ディズニーランドのパレードよりも何百倍も見る価値があることは間違いないであろう。尚、巣の近くまで戻ったペンギンは何故か異様な泣き声を放っていた。

9月8日(水)

フィリップ島のBest Western Motelでペンギンを数えながら眠りに落ちた後、今日は早朝からメルボルン市内まで戻り、さらにビクトリア州西部のグレート・オーシャン・ロードを目指すことにした。オーストラリアが誇るベストドライビングルートであるグレート・オーシャン・ロードはサーフィンの町トーケーを基点とする。さらに海岸に沿って走るとローンという借金をしている人々には聞き苦しい名前のリゾートタウンを通過する。この町の山岳部にレインフォレストが開けており、アースキン・フォールという滝で軽くマイナスイオンを浴びた後、さらに沿岸部をひた走りアポロ・ベイという町のパン屋で店員のおね~ちゃんがおすすめだというカレー風味のポテトビーフパイで昼食を取ることにした。

ここまでの沿岸部の道のりは普通のオホーツク街道と大差ない通常の海沿い道のように思われた。しかしながら、グレート・オーシャン・ロードが佳境を迎えるポート・キャンベル国立公園に差し掛かったあたりから状況が一変してしまった。

マサよ、君は「12人の使徒」という神様がこの世に使わせた奇跡に近い絶景を見たことがあるか!?財務省が使い込んでいるであろう「12億の使途不明金」とはマサにレベルの違う代物なのだ!!!

というわけで、ビクトリア政観のポスターでもお馴染みの「12人の使途」を何故かさらっとスルーしてその先のロック・アード・ゴージに向かった。このあたりの海岸線は波と風の浸食により複雑に入り組んだ絶壁が形成されており、そのせいで昔ロック・アード号というロンドンからメルボルンへ向かっていた移民船がこのあたりで難破してしまったそうだ。ここにはその船で亡くなった人たちのメモリアルがあると同時に数多くの自然が作る湾岸芸術作品を間近に見物することが出来るようにトレイルが作られてある。さらに10数キロほど進むとロンドン・ブリッジという波の侵食によって形成されたかつてのダブルアーチが君臨していたのだが、10年ほど前にさらなる侵食により橋の真ん中が落ちてしまったという洒落にならなくもない奇岩が多くの観光客の興味を引いていた。

薄曇の中サンセットの時間を迎えることになった。気がつくと再び「12人の使途」を見渡せる展望台で強い海風に打たれながらたたずんでいた。このあたりには絶壁沿いに遊歩道が形成されており、「12人の使途」の色々な側面が見られるようになっていた。夕日を浴びて浮かび上がるひとつひとつの奇岩は垂直に切り立った数10mの高さの絶壁と絶妙のコントラストを奏でており、数多くの観光客が太陽が完全に沈んでしまうまでその場を離れられないでいたのであった。

ということで、オーストラリアを代表する景観を提供するグレート・オーシャン・ロードを心ゆくまで堪能した後、杉山清隆よろしく♪さよならオーシャン♪を口ずさみながらメルボルンへの長く、暗い帰路についたのであった。

FTBスペシャルレポート 怪鳥エミューとの仁義なき戦い

フィリップ島を代表する自然公園であるワイルドライフ・パークには数多くの動物が放し飼いにされている。持っていた餌のせいでカンガルーから絶大な人気を誇っていた私の前に巨大な影が長い首を前後上下にゆっくりと振りながらひたひたと忍び寄ってきた。バビル2世のしもべである怪鳥ロプロスの3分の1はあろうかと思われるその巨体の持ち主はケンタッキーフライドチキンを1店舗分ほどまかなうことが出来るほどの肉量を誇る怪鳥エミューであった。私が手にしていた餌に目をつけた怪鳥は全体像をカメラに収めることが出来ないほどの至近距離を保ちながらもカメラ目線で近づいてくるように思われた瞬間、防御が手薄になっていた左手の餌袋がくちばしの一撃によってたたき落とされてしまった!あわれな餌袋は怪鳥のなすがままに食い荒らされるのを余儀なくされると思ったそのとき、FTBが開発した地球に最も優しい武器である「肩掛け背中に回したカバン前屈み重力爆弾(右回り)」の安全装置が解除された。怪鳥の動揺を見て取った私はすばやく餌袋をガードし、カンガルー達の喝采のジャンプを背中に感じながら何とか餌を守り通すことに成功したのであった。

バビル2世の住居であるバビルの塔は♪コンピューターに守られた♪と歌われているが、私のカバンが、常に携帯されているThinkPad X31で守られていたとしたら、エミューもひとたまりもなかったであろうと思われた。

9月9日(木)

オーストラリア南東部、北半球で言うと北海道に相当する緯度にあるタスマニア島は面積は北海道より一回り小さいものの自然環境という点ではオーストラリア大陸とは一線を画す多様性を提供しているのでその実態の解明のためにわざわざメルボルンからカンタス機を飛ばしてタスマニア州の州都であるホバートに着陸することにした。午前10時頃、ホバート空港のハーツで後に坂道を登るパワーの無さに苦労することになるヒュンダイ小型5速マニュアル車をレンタルすると早速200kmほど北に位置するタスマニアのもうひとつの主要都市であるロンセストンに向かった。

タマー川が入り組んでいるロンセストンから海岸部に向かう地域はタマー・バレーと言われているエリアで数多くの種類のフルーツやタスマニア・ワインの産地として名高い場所である。タマー川の入り口にあたるジョージタウンからさらに海側に向かうとロウ・ヘッド・ペンギン観測所というフェアリー・ペンギンがビーチから上がってくる浜があるのだが、ここでもA$14を観光客からふんだくって毎夜ペンギンツアーが行われている実態が確認出来た。昼間の時間帯だったため、浜に下りることが出来たのだが、砂地には無数のペンギンの足跡が残されていた。

ロンセストン観光のハイライトとして名高いカタラクト渓谷がダウンタウンからほんの徒歩10数分のところに開けている。タマー川の侵食によって形成された切立った岩や崖の周囲にはメイン・ウォークと対岸のジグ・ザグ・トラックという遊歩道により地元のジョギングランナーや観光客ハイカーのための絶好のロケーションとなっている。渓谷の奥には美しい公園が開けており、数羽の孔雀がジュディ・オングよろしく羽を広げながら観光客を魅了している様子も楽しむ事が出来る癒し系のファシリティであった。

タスマニアくんだりまできてタスマニア・ビーフを食わなければ狂牛病について語る資格がないと言われているので宿泊先モーテルでいただいた10%割引券を握り締めてJailhouse Grillというステーキハウスでディナーを楽しむことにした。さすがに流刑地の島の食い物屋だけあり、Jailhouseの名に違わず、手錠や鎖、かんぬき等の数多くの牢屋グッズに囲まれながら味わったステーキは配合飼料を一切使用せず、牧草のみで育った健康な牛の風味を漂わせていた。

9月10日(金)

タスマニア北海岸に少し出っぱった半島があり、そこにスタンレイという港町がゴールド・ラッシュ時の伝統的な面影を残しているので訪問してみることにした。スタンレイのシンボルとしてザ・ナットという海から突き出ている台形の山のような大地が君臨しているのだが、この岩山は”Tasmania’s Answer to Ayers Rock”と言われている代物である。ザ・ナットの頂上までは徒歩20分、リフトで10分かかるのだが、タスマニア北岸のきれいな海を見ながら徒歩で頂上まで登り、ザ・ナットの周囲に沿って一周してみたのだが、決してスパナやモンキーレンチで締め付けることが出来るような6角形をしていないことだけは確認出来た。

ザ・ナットの景観にナットくして北海岸を後にするとヒュンダイ車は島内部の山岳部に向かった。タスマニア西部はクレイドル山を中心に自然の宝庫となっており、1800年代の後半に絶滅したと言われているタスマニア・タイガーが今にも襲って来そうな林を抜けてクレイドル山/セント・クレア湖国立公園に入って行った。ここは数あるタスマニアの国立公園の中でも随一の景勝を誇っており、また野生動物が最も多い地域でもある。小雨がぱらついていたため、ブッシュ・ウォーキングは出来なかったが、神秘的なセント・クレア湖がぼんやりと霧の中に浮かび上がっている姿を何とか眺めることが出来た。ちなみにウォンバッドはそこかしこでマイペースで歩いており、人が近づいても関心なしといった達観した雰囲気を漂わせていたと同時にこのあたりの動物注意の黄色の看板のモデルにもなっており、実際に車に轢かれて成仏している個体もかなり多いのは確かであった。

9月11日(土)

島北部の町ロンセストンから一気に南下してホバート近郊のポート・アーサーに向かった。そもそもオーストラリアは流刑地としての歴史を持っているのだが、タスマニア島は流刑地オーストラリアでさらに罪を犯した札付きの罪人が送られてくる獄門島という負の歴史を持った島で横溝正史も小説に書ききれず、金田一耕助も決して解決出来ないような難事件を犯した罪人たちが余生を過ごした場所なのである。

ポートアーサー流刑場跡がちょっとしたテーマパークのいでたちで観光客を集めているので将来収賄罪で臭い飯を食う可能性があるマサに先んじて罪人気分を味わうために入って見ることにした。A$24で観光パッケージになったチケットを購入すると12時半から始まるウォーキングツアーに参加することと相成った。この場所は1830年から1877年まで「監獄のなかの監獄」として恐れられており、中年女性説明員によると特にセキュリティシステムが優れているとのことでカンガルーに変装して脱走を図った囚人も警備員にまんまと見破られ銃を突きつけられて御用となったというエピソードを披露して観光客の失笑を買っていた。また、日もとっぷりと暮れた夜の時間帯にはゴースト・ツアーも開催されるそうで暗く冷たい監獄の雰囲気とあいまって観光客を恐怖のどん底に突き落としてくれるのだそうだ。

尚、A$24のチケットにはフェリーによるお得なクルーズも含まれており、時間のある人は湾内近郊のDead Islandという墓場の小島を散策出来るように取り図られているのだ。

午後5時30分発のカンタス機でメルボルン航空に戻り、マサであればA$250かかるところをHiltonHHnorsの特典により私はただで宿泊することの出来る空港内のヒルトンホテルにチェックインしたところ、Gold VIP会員の私に用意されていた部屋は角部屋の非常に広い部屋でゴジラとイチローが同時に素振りをしてもかろうじて互いのバットが干渉しないほどの無駄な面積を誇っていた。また、無償のフルーツセットがテーブルの上に置いてあったのでそれを貪り食いながら空港からの夜景を楽しんでメルボルン最後の夜を満喫することとなった。

9月12日(日)

早朝の飛行機でメルボルンを発ち、シドニーを経由して午後7時半に成田着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \94,980 + A$207.34 (A$1=\80)

総宿泊費  A$575

総レンタカー代  A$364.8

総ガソリン代  A$161.94

総バス代  A$13

総エンスト回数 1回(5速からいきなりオートマ車の要領でクラッチを踏まずに停止してしまったため)

協力 日本航空、カンタス航空、ハーツレンタカー、HiltonHHnors

次回はマサが訪問したにもかかわらず私が行ったことがないホーチミンでべトコン三昧が予定されております。

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in モロカイ島

アロハ マサよ ハワイ湯!?

ということで、裏の仕事の出張の移動の隙間を利用してFTBはハワイの島々の中でも「根っからのハワイ」と言われているモロカイ島の探索に乗り出す機会を得ることになったのだ。

2004年8月6日(金)

♪Love is the mistery わたしをよ~ぶの~、愛はミステリー~、不思議なち~から~で~~~~~♪と中森明菜よろしく成田空港第一ターミナルの北ウイングから午後7時55分発UA866便に搭乗すると7時間20分程度のフライトでホノルル国際空港に到着した。順調に入国を果たすと空港内の離れのビルに位置しているアイランドエアーのターミナルに移動し、午前10時10分発のモロカイ島行きの便への搭乗に備えていた。アグネス・ラム系の地元添乗員が笑顔で迎えるDHC-8型プロペラ機に乗り込むと30分程度のフライトでモロカイ空港に到着することに成功した。

アロハスピリッツに溢れたホスピタリティで対応するダラーレンタカーの空港窓口でクライスラーのネオンをレンタルすると早速島内の散策に乗り出すことにした。ハワイの原風景と言われている開発がなされていない原野を抜け、島の東部にフラダンス発祥の地と言われているモロカイランチという牧場系ロッジファシリティがある地域を軽く車で流し、その後今回の宿泊地に指定された島の南部のリゾート地であるMarc Molokai Shoresにチェックインを果たすことにした。3階建てのリゾートコンドミニアムの様相を呈したMolokai Shoresの3階最上階に入室すると設備は自炊系のファシリティの他に部屋の中の階段を上がると2つのベッドが設えられている屋根裏部屋もあり、楽に4人が宿泊出来るような体制が取られていた。さらにオーシャンビューのベランダからはラナイ島の姿もクッキリと目にすることが出来るのだ。

夕暮れ時に島の北部にあるカラウパパ展望台から隣の秘境カラウパパ半島を眺め、さらに軽く林状のトレイルを歩くとファリック・ロックという高さ2mほどの男根系奇岩が出現した。子供に恵まれない女性が触れると希望通り子宝を授かるという伝説を持つこの石はマサに少子化社会には朗報となる代物であろう。

モロカイ島唯一の町であるカウナカカイにあるフレンドリー・マーケットというスーパーで食料品を買い込み、部屋の電子レンジで夕飯の支度をするとなぜかハワイで放映されている巨人・阪神戦とキカイダー・ゼロワンを見ながら暑い夜を更かしていったのであった。

8月7日(土)

冷房がないため、扇風機をぶん回しながら暑い夜を明かした後、テラスから美しい海とラナイ島の景色を眺め、ながら早朝の優雅なひと時を過ごしていた。室内のソファーでまどろんでいるとどこかしら水が流れる音が聞こえてきた。この宿泊地のファシリティでは決まった時間にスプリンクラーが作動するので多分どこかで放水しているのだろうと別に気にもとめずに1時間ほどうとうとしていたのだが、その水の音はやけに近くに聞こえ、なかなか止まらないのでおかしいと思い、音源に近づいてみるとなんと水洗トイレのタンクの下部にクラックが入りそこから止めどもなく水が流れており、フロアが水浸しになってしまっていたのであった!早速フロントに殴りこみ、メンテナンスの業者を来させるということになったのだが、浮世よりもゆっくりと時間が流れるラナイ島では業者が来るのに2時間を要してしまったのであった!!

タンクが取り替えられて、水漏れの恐怖を克服すると気を取り直して島の西部の秘境ハワラ渓谷までドライブすることにした。Molokai Shoresからハワラ渓谷への道はすばらしいドライブコースが展開されており、きれいな海を眺めながら進んでいるうちに道はいつしか車が一台しか通れないほど狭くなっていた。さらにいくつかの急カーブを通過すると不意に美しい湾やビーチの絶景が広がってきた。ハワラ湾に下り立つとそこは原住民がサーフィンやボディボードと戯れており、その後ろにそそり立つ崖は北海岸に沿って続き、モロカイ島のダイナミックな景観を造り上げ、マサに秘境と呼ぶにふさわしい眺めを提供していたのだ。

島の東北部の沿岸にカルアコイ・リゾートというマリン・リゾートやゴルフ場が展開されているリゾート地が君臨していたので後学のために見物に行って来た。土曜日の午後ということもあってか、ビーチ沿いのピクニックエリアでは原住民がのんびりと海水浴や日光浴、飲食を楽しんでいた。

8月8日(日)

午前9時15分のフライトでモロカイ島からホノルルに帰ってくると早速ダラーで先ほど返したばかりのネオンをレンタルし、ハワイで最も優秀な学生が集まると言われているハワイ大学に行ってみることにした。夏休みのため、キャンパス内は人気も少なく、見るべきものがなかったため、適当にハワイ大学をスルーしてダイヤモンドヘッド州自然記念公園($1)に向かうことにした。ダイヤモンドヘッド山頂に到着するためには山道入り口から山頂までの距離にして1.1kmの過酷な岩山と暗いトンネル、急な階段を猛暑の中徒歩で進まなければならない。しかし、その過酷な山道を制覇した先にあるものはこの世のものとは思えないほどすばらしいワイキキビーチの遠景とダイヤモンドヘッドクレーターの全貌等の景色であったので足腰の弱い日本人観光客も息を切らし、汗だくになりながらも何とか頂上にたどり着こうと必死にもがいていた。

ダイヤモンドヘッドを下山し、車の中で水からお湯に変貌を遂げている液体を飲み干すと島の東海岸沿いのすばらしい景色を眺めながらドライブと洒落こむことにした。ブルーハワイの象徴と言われている島東部のハナウマ湾は駐車場の交通規制のために入ることが出来なかったため、その先のView Pointに車を停めて東海岸を見渡して見るとやはりこのあたりがハワイで一番海が美しいところであると再確認させられた。

さらに車を転がし、サーフィンのメッカであるノースショアからサンセットビーチに向かったもののシーズンは9月半ばから始まり、それまでは高い波も来ないため、北部沿岸は普通の静かな海水浴場に成り下がっているだけであった。その後島の南部に下り、今日の宿泊先である空港近くのベストウエスタンホテルにチェックインすると夕暮れ時のワイキキに繰り出すことにした。夏休みのワイキキはおびただしいほどの日本人観光客で多少湘南海岸化現象を起こしているもののマリオットホテルの前では華やかなフラショーが繰り広げられており、やはりここは世界最高レベルのリゾート地であることを否が応でも思い知らされたのであった。

8月9日(月)

午前7時発UA58便にてサンフランシスコへ向かい、不本意ながらここから裏の仕事モードへ・・・・

FTBサマリー

総飛行機  ¥19,760

総宿泊費  $359.85

総レンタカー代  $223.02

総ガソリン代  $13.21

次回は待望の第2回カンガルーといっしょに地球環境問題をカンガェルーツアー in オーストラリアをお届けする予定です。

協力 ユナイテッド航空、ダラーレンタカー, Symantec Corp.

マルコポーロ推薦世界で一番美しい杭州の旅

ニイハオ、マサよ!

ということで、脳梗塞で病床に臥している父長嶋茂雄の代打としてANA高速中国のCMを受け継いだ長嶋一茂が推薦する癒し系の古都杭州は北京、南京、西安、洛陽、開封とともに中国六大古都のひとつに数えられている。13世紀末には90万人の人口を数えるほどの大都市となった杭州は世間知らずのマルコ・ポーロにして世界で最も美しく華やかな街と言わしめたほどすばらしい場所なのである。

7月16日(金)

ANAのマイレージが余っていたのでマサであれば¥14万くらいかかるところを私はただで入手していた成田-杭州の往復航空券を引っ提げて速やかにチェックインをすますと、日本で一番わけのわからん祭日である海の日連休を利用した海外旅行客でごった返す手荷物検査と出国審査を抜けて午前10時05分発のANA929便にてヒーリング都市杭州に向かった。12時過ぎに杭州空港に到着すると空港からバス(15元)で市内の中心部を目指した。杭州駅前で下車すると中国人民の人間模様を見るのに最適なファシリティである杭州駅を訪問して見ることにした。最近改装なった杭州駅は外見は非常にインテリジェントな建物のように見えるのだが、一歩その中に足を踏み入れてみると36℃の猛暑の中を夏バテ気味の様相を呈したおびただしい数の人民がいたるところに座ったり、転がったりして汽車を待っている様子はマサにここは人口13億人を誇る中国であることを否が応でも思い知らされてしまうのだ。

杭州駅から猛暑の中、3kmもの道のりを歩いて今回のツアーの宿泊先となっている☆☆☆☆☆ホテルの友好飯店に向かった。15F角部屋のレイクビューの部屋は数百メートル先の西湖を見下ろすような場所に位置しており、ここからクーラーの効いた環境で幻想的なサンセットも堪能することが出来るので今日は残りの一日を部屋でダラダラしながら過ごすことにした。

7月17日(土)

東西3.3km、南北2.8km、周囲15kmの西湖の北岸に高さ200mの小山がある。山を覆う岩石に光る石が混ざっていて、陽光を受けるとキラキラ輝くので宝石山と呼ばれている山に早朝より登ることにした。宝石山の頂上に保しゅく塔という高さ45mの塔が建っており、その塔は西湖のどの位置からも確認することが出来るランドマークとなっている。宝石山の山頂からは当然のことながら西湖の全景を一望することが出来る。

午後から猛暑の中、西湖周辺の散策に乗り出すことにした。西湖の名所は「西湖十景」に代表されるのでこれらが西湖観光のポイントとなっている。周辺の遊歩道にはANAハローツアー等の看板を装った電式のトラムが走り回っており、それに乗っていけば体力を消耗せずに効率的に西湖観光が出来るシステムになっているのだが、一般的ツアーとは一線を画しているFTBはあくまでも汗を流しながら歩き回る道を選んだ。西湖のいたるところに遊覧船や手漕ぎボート乗り場があり、夏バテ気味の船頭たちが客引きに精を出していた。西湖西側には緑の木々で覆われた公園が多く、適度な日陰を提供してくれるので適当に休みながらワビ・サビの境地を提供してくれる西湖の風景に見入っていた。

ホテルに帰ってしばし涼を取って体力の回復を図った後、たそがれ時の西湖に向かうとおびただしい数の夕涼み観光客がぶらぶら歩きまわっていた。午後6時半ごろには西日が宝石山の陰に隠れるように沈み始め、幻想的なサンセットの景色と真っ赤な夕焼けを十分堪能することが出来た。

7月18日(日)

銭塘江という杭州湾に注ぐ川があり、その北岸に六和塔(20元)という高さ60m、7層8角の塔がそびえているのでバスに乗って見物に繰り出すことにした。銭塘江の氾濫を鎮めるために、呉越王の命により、970年に創建された六和塔は創建当初は9層の仏塔だったが、北宋末期に破壊され、現存するものは1163年に再建されたものである。追加で10元を支払うと塔の上まで登ることが出来、そこから銭塘江と江南の田園風景を一望することが出来る。また、寺院の山側には中国や世界各地に現存する数多くの仏塔のレプリカも建てられており、それぞれの建築様式の比較も出来るように取り図られているのだ。

バスで再び西湖周辺に戻り、西湖北側の白堤という白蛇伝で有名な橋を渡り、孤山という西湖にある島の中で唯一自然に出来た島に向かった。古来より風光明媚な場所として詩人たちに愛されてきた孤山は自然豊かな公園となっており、湖岸近くは一面蓮の葉と夏に咲き乱れる蓮の花で覆われており、非常に美しい眺望が提供されている。また、蓮の葉や花をバックにここから見る夕日も絶景であった。

7月19日(月)

杭州は緑茶の産地として有名で西湖三大名泉の水で入れたお茶は非常においしいと言われている。虎跳泉(15元)という西湖三大名泉のひとつを訪問してみることにした。ここの水は表面張力がすごく、アルミ硬貨が浮かんでしまうほどであるのだが、それを実験するためのお椀と水とアルミ硬貨セットがセッティングされている場所もあり、実験好きそうな人民が慎重にアルミ硬貨を浮かべようと四苦八苦していた。また、ここには数多くのペットボトルや巨大な水筒等の入れ物を持参した人民が侵入し、くそ暑い中、水を汲んで重たいボトルを抱えてバスに乗ってまでうまい茶を飲みたいと思うこだわり派が数多く見受けられるのだ。

午後2時ごろ発ANA930便にて帰国。

編集後記

これまで数々の過酷なツアーを繰り返してきたFTBであるが、今回はじめて数々の忘れ物をしてしまうという事態に陥ってしまった。家を出て500mくらい歩いたところでパスポート忘れが発覚し、慌てて家に取りに戻り、ことなきを得たと思っていたら、空港でデジカメ忘れが発覚し、さらに友好飯店で着替えのパンツが入っていないことに気づかされ、1枚15元で現地調達することと相成った。また、昼食は麦当労(マクドナルド)等のファストフードを使ったのであるが、数がイー、アル、サン、スーしか覚えられなかったため、大きな数字のメニューが発注出来ないという屈辱も味わうことになった。

ということで、写真がないのでこれでも見てお茶を濁しておいてくれよ!http://www.xitong.net/hztour/index.html

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,760(税金のみ)

総宿泊費 ¥26,100

総バス代 37元(1元=¥15)

総空港使用料 90元