ドゥオ~モ~!マサよ!!
ということで、立てた人差し指に後光がさすほどの日本一の「ど~も~」使いである芳村真理が夜のヒットスタジオの終了以来テレビ画面から姿を消してしまって久しい今日この頃である。ところで、FTBがオ~ドリ~の足跡をこお~どり~しながらローマくんだりまで追いかけてきたのは実に4年近くも前の出来事であった。今回はイタリア各地に点在するドゥオ~モをめぐりつつ、ルネッサンスに代表される中世イタリアの栄華の歴史をこの目で確認し、きたる2005年に自分自身に起こりうるルネッサンスの前途を祝し、イタリア三都を巡るツアーを開催することにした。
12月25日(土)
クリスマスのわりには閑散としている成田空港第二ターミナルから午前11時50分発NH205便にてパリを目指すと行きつけのシャルル・ド・ゴール空港に定刻4時半頃到着した。そこからエールフランスが誇るCity Airという小型ジェット機に乗り換えてイタリアの夜空を飛んでいると徐々にフィレンツェの夜景が浮かび上がるように迫ってきた。小規模なフィレンツェ空港に到着するとそこから空港バス(4ユーロ)に乗り、一路フィレンツェの中央駅であるサンタ・マリア・ノヴェッラ駅を目指した。バスが駅に近づくとJALPACK etravelに予約させておいた☆☆☆☆ホテルであるグランドマジェスティックが近くに存在していることが確認できたのでそのままチェックインして今晩はふて寝を決め込むことにした。
12月26日(日)
午前7時の教会の鐘の音で目を覚まされてしまったもののあたりはまだ暗がりだったため、とりあえず、風呂と朝飯を済ませると丁度観光に適した時間になったのでフィレンツェ歴史的地区(世界遺産)の散策に乗り出すことにした。ホテルから小雨に濡れた石畳の上を町の中心方向に歩いていくと段々とルネッサンスの栄光をたたえた雰囲気が強くなってきた。ふと頭上を見上げるとそこにはフィレンツェの象徴である花の聖母教会・ドゥオーモの巨大なクーポラが目の前に迫っていた。
ど~も天候がすぐれなかったため、とりあえず屋根のあるファシリティをということでウッフィツィ美術館(9.5ユーロ)の入館を待つ行列に並ぶことにしたのはいいが、ルネッサンス時代の珠玉のコレクションを誇るこの美術館への入館のチケットを手にするまでにはその後1時間半もの時間の経過を待たなければならなかった。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ等のルネッサンスの巨匠の作品がこれでもかというほど展示された館内は当時の栄華に包まれた雰囲気で中でも世界史の教科書にも必ず登場するボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」は官能的なタッチで画かれていたので多くのシニョーレの目を引いていた。
美術館を出るころには雨も上がっていたので本格的に町をさまよいながらも再びドゥオーモ周辺に舞い戻って来た。ドゥオーモの真横にジョットの鐘楼(6ユーロ)がそびえていたので414段もの階段を登って上部テラスに出てみることにした。高さ82mを誇るジョットが設計した鐘楼はデザインと色彩に優れた芸術性を持っており、ここからはフィレンツェの町並みが一望出来るのであるが、ドゥオーモのクーポラはさらに高みに位置しているため、ドゥオーモの方向を見るとつい「ど~も、すみません」と林家三平師匠のせりふが口をついて出てきてしまうのであった。
夕暮れ時にサンタ・クローチェ教会というミケランジェロやマキャべり等の有名人の墓が276も収められた教会を見物しに行って来た。フィレンツェ1古い広場に面したこの教会の内部は140mx40mという広さを誇る一大墓地の様相を呈しているのだが、内部は様々な芸術家たちの作品できらびやかに飾られているのであった。
12月27日(月)
♪森と~泉にぃか~こまれて~静かに、眠るぅ♪のはブルーシャトーであるが、かの有名なピサの斜塔がフィレンツェ近郊に君臨しているという情報を入手していたので足を伸ばして見ることにした。フィレンツェ中央駅の自動販売機で5ユーロを支払いイタリア国鉄(TRENITALIA)のローカル線に飛び乗り、車窓を流れる風景を眺めていると車掌が颯爽と切符チェックにやって来た。ここで発覚した事態は何と乗車駅で自動タイムスタンプ機に切符を通さなかったため、追加で5ユーロの罰金を徴収されるはめになり、マサであれば5ユーロしかかからないところを私は10ユーロも支払わなければならないことだったのだ!罰金を授業料だと割り切ることの出来る懐の深さを見せた私を乗せた列車は1時間4分でピサ中央駅に到着した。駅から北に向かい、アルノ川にかかる橋を越えて30分ほど歩くと行く手に財務省の財政基盤のように今にも倒れそうな巨大な塔が姿をあらわしたのであった!
かつて地中海の大海運国として君臨していたピサの威光は700年以上の時を越えた今でもドゥオーモ広場(世界遺産)に集約された形で残されている。とりあえず、広場にあるチケットセンターで斜塔登頂ツアー(15ユーロ)と各ファシリティの共通入場券(8.5ユーロ)を購入すると早速11時発のツアーで斜塔に登ることにした。1173年に着工された斜塔は約55mの高さを誇り293段にわたる手すりなし螺旋階段で頂上まで続いているのだが、2,000万人あまりの総入場者数が踏みしめた大理石の階段は中央がかなり擦り減っており、否が応でも時代の流れを感じさせてくれるのであった。ここではガリレオ・ガリレイが「落下の法則」の実験をしたことで有名であるが、頂上から下を見るとこれこそマサに気合の入っていないマサをバンジージャンプさせるのに最適なファシリティであると思われた。
現代のピサではジャッキー吉川とブルーコメッツにおけるジャッキー吉川のように斜塔がひとり立ちしたような存在感があるのだが、実は宗教的ドゥオーモ一連のファシリティの伽藍配置の中では単なる鐘塔として建築されたに過ぎないことが現場に来て初めて確認できた。広場の中央にはピサ様式のロマネスク建築、ドゥオーモが鎮座しており、その前には宝石箱のような洗礼堂が建ち、その横にはカンポサントと言われる大理石の高い壁で囲まれた納骨堂があり、4つあわせて世界遺産としての価値を生み出しているのであった。
ピサ中央駅でピザを食った後、汽車でフィレンツェに戻ると小雨が降っていたので雨宿りも兼ねてドゥオーモ前の八角形の建築物である洗礼堂(3ユーロ)に入って見ることにした。ドゥオーモ同様の色大理石で建築されている洗礼堂内部の天井や壁面は洗練された絵画で覆われており、観光客はむち打ちになるリスクも省みず、皆一様に上を見上げていた。
フィレンツェを流れるアルノ川にかかる最古の橋としてヴェッキオ橋がかかっており、おびただしい数の観光客たちが行き来している。この橋にはきらびやかな彫刻細工店や宝石店が軒を連ねているのだが、店に入ると吉野家に入ったときのいつもの習慣でつい「この店で一番高いものをくれ!」と言ってしまう私にとって大きなリスクとなる店々であると思われた。
12月28日(火)
イタリアルネッサンスの栄光は若手芸術家の大パトロンとして暗躍したメディチ家の後ろ盾なしではあり得なかったということは歴史上の周知の事実である。そのメディチ家ゆかりの人々を祀るメディチ家礼拝堂(4ユーロ)に侵入し、ミケランジェロが設計した新聖具室にある像の美しさを見ていると、マサであれば財務省の全財産を持参金として持ち込んでも養子縁組でメディチ家にもぐりこむことを画策したであろうと思われた。
毎朝7時に鐘を鳴らして目覚ましをしてくれた寄木細工のような美しいファサードを持ったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(2ユーロ)に軽くフィレンツェ滞在中のお礼参りをした後、ミケランジェロの美術館として名高いアカデミア美術館(8ユーロ)に向かった。ここでも約1時間の入館待ちの行列に並んでいる時にアメリカ人観光客の「これがイタリアンサービスか!?」という愚痴を聞きながらも何とか入館を果たすとミケランジェロの未完成の彫刻やフィレンツェ派絵画との対面に成功した。ミケランジェロと言えばダヴィデという彫刻で有名であり、世界のあちこちでそのコピーが出回っているのだが、そのオリジナルがこの美術館内に立ち尽くしている。体高5mはあろうかと思われる巨大な像の周りには観光客がたかっており、股間に生えている寒さで縮こまった”いちもつ”を見て、皆一様に「パンツくらいはかせんかい!」と思っていたことであろう。
1417年に建築家ブルネッレスキによって着工され、今ではフィレンツェの象徴として町を見守っているドゥオーモのクーポラ(6ユーロ)についに登頂することになった。東京ドームを施工した竹中工務店が存在しなかった中世の時代に出現したこの巨大な赤い丸屋根は建築学上の奇跡とされており、464段の階段で登頂するその頂上からは赤レンガ色をしたフィレンツェの美しい町並みが一望出来るとともにクーポラ内部に描かれた「最後の審判」というフレスコ画も決して見逃すことが出来ない芸術作品である。
かつての行政の中心であり、フィレンツェの歴史を刻むシニョリーア広場を抜け、ヴェッキオ橋を渡り、ピッティ宮殿に向かった。壮大なルネッサンスの典型的宮殿の2階はパラティーナ美術館(8.5ユーロ)になっており、ラファエッロを中心とした数多くの絵画が展示されている。
フィレンツェ滞在の締めとして小高い丘からフィレンツェの町並みを一望出来るミケランジェロ広場まで足を運んだ。緑色の緑青を身にまとったダヴィデの銅像(コピー)が身構えている広場の駐車場には数多くの観光バスやキャンピングカーや普通自動車であふれかえっていた。夕暮れ時になったので高台から望むフィレンツェのの町並みの中でも異様な存在感を示している建造物に「ドゥオ~も、ありがとう!」とつぶやいて花の都を後にすることにした。
ユーロスターという新幹線系の乗り物がヨーロッパを走り回っており、フィレンツェ中央駅からミラノまで316kmの道のりを2時間46分で結んでいる列車が1時間に一本の割合で運行されていたので乗車(41.83ユーロ / 1st class)させていただくことにした。2列シートの向かい席でイタリア人に囲まれていると飲み物を乗せたワゴンが乗員によって転がされてきた。当然金を払って何かを買うものと思っていたのだが、イタリア人達の挙動を見ると何と水やカッフェは無償であることが確認され、飲み逃してしまったエスプレッソよりも苦い経験をさせられてしまったような気分を引きずってミラノへ向かって行くことになってしまった。
12月29日(水)
ミラノ中央駅に程近いビジネスホテル風情の☆☆☆ホテルであるイビス・セントロホテルをチェックアウトすると再びムッソリーニ時代の代表的な建築物である巨大なミラノ中央駅に戻り、2階端の手荷物預所(3.5ユーロ/ 5時間)でバッグを預けると早速イタリア最大の経済都市ミラノの回遊に出ることにした。
オレンジ色の路面電車が走る大通りを30分ほど歩くとミラノの心臓部であるドゥオーモ広場に到着した。大都会ミラノの中にあって別世界を演出する荘厳なるバロック建築の傑作品であるドゥオーモの内部に入って軽く「ど~も~」と挨拶した後、ガッレリアの巨大アーケードを抜けてスカラ座広場に向かった。レオナルド・ダ・ヴィンチ像に向かって軽く会釈をし、振り返るとオペラの殿堂スカラ座が目に飛び込んできた。日本でスカラ座というと安っぽい映画館というように相場が決まっているのであるが、ここミラノの世界1有名な劇場であるスカラ座は1778年に建立された松竹、日活、東映、東宝など入りこむ余地のないほど格調高い代物なのである。
1446年に完成し、ミラノ公国の歴史を伝える要塞として君臨するスフォルツェスコ城の中の市立博物館(3ユーロ)でエジプトミイラ等の考古学展示品やミケランジェロが死の数日前まで製作していたという未完の彫刻である「ロンダーニのピエタ」等の貴重な美術作品を堪能した後、科学者ダ・ヴィンチの偉業を展示しているレオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館(7ユーロ)に向かった。ここには天才ダ・ヴィンチが考案した様々なデバイスの復元作品やスケッチ等の展示だけでなく、ダ・ヴィンチ以後に発達した近代工業品を生み出すための施設や仕組み、SLや電気機関車、戦闘機や船舶の実物やアルファロメオやモトグッチのバイク等も広大な敷地内に展示されており、マサにダ・ヴィンチの名に恥じないスケールのでかい博物館であった。
ダ・ヴィンチ博物館から直線距離にしてわずか200mのところにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(世界遺産)が「最後の晩餐」の聖地として君臨している。この絵は石膏が乾く前に絵の具を染み込ませて描かれているフレスコ画と異なり、ギターペイントのような油絵の具を使った油絵のため損傷が激しく油の乗りが悪い部分は何度も修復が繰り返されているそうだ。この絵には「汝らのひとり、我を売らん」というイエスのことばが発せられた瞬間の人間模様が描かれているのだが、イエスを裏切るユダのキャラとしてはマサを起用するのが最適ではないかと思われた。しかしながら、今回のツアーの最大の誤算としてこの絵を拝見させていただくためには電話予約が必要であり、予約をしていなかったFTBとしては結局「最後の晩餐」にありつくことが出来なかったのだ。
ということで、空腹感を満たさなければならないはめになった私は再びドゥオーモ広場に舞い戻り、階段でドゥオーモの屋上(3.5ユーロ)に登って余計体力を使うことにした。屋上では天に突き刺すようにのびている幾百もの尖塔が間近に見られるだけでなく、遠く雪を被ったアルプスの山々まで見晴らすことが出来たのであった。ドゥオーモから下界に下り、ミラノブランドショッピングの殿堂であるヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを歩いているとミラノコレクションのモデルとしてスカウトされ、プレタポルテに出されてしまうかも知れないという恐怖感を感じたのでとっととミラノ中央駅からヴェネツィアに向かう快速系の汽車に乗って退散することにした。
12月30日(木)
マサよ、君はアドリア海に浮かぶ宝石、夢の浮き島で浮ついた気分になったことがあるか!?
というわけで、昨夜チェックインさせていただいたヴェネツィア、サンタ・ルチア駅に程近い☆☆☆☆ホテルであるアマデウスを午前9時前に出発すると早速世界中の人々の憧れであり、世界を代表する水上都市ヴェネツィアとラグーン(世界遺産)の散策に漕ぎ出すことにした。アドリア海にぽっかりと浮かぶ水の都ヴェネツィア本島内部には数え切れないほどの運河が刻まれており、自動車が走ることが出来ないので交通手段は必然的にボートか徒歩になる。とりあえず、最初は石畳の路地を「Per San Marco」という表示を頼りにヴェネツィア観光のハイライトであるサン・マルコ広場に向って歩き出すことにした。
いくつもの路地を曲がり、運河にかかる橋を乗り越えて40分くらいかけて何とかサン・マルコ広場に到着したのだが、宵っ張りだと思われる観光客の出足は遅いらしくまだ広場はひっそりとしていたのでここをスルーして沿岸沿いに島の奥地に向かった。島の東部の方は原住民の居住地域と見えて数多くのアパートの間に通された紐にかけられた洗濯物が風になびいていた。また、東の最奥部のサンテレナ島にはセリエAのヴェネツィアが本拠地とするサッカー場もあり、サポーターが乗り合いボートで駆けつけられるような体制が整っていた。
中世のヴェネツィアは海洋王国として君臨し、遠くコンスタンチノープルまで占領した実績があるのだが、その栄光の歴史を偲ばせる海洋史博物館(1.55ユーロ)が営業していたので見物してやることにした。ここには中世から近代までの数々の船の模型や儀礼用のゴンドラや有人潜水魚雷のようなものまで展示されており、アドリア海の今昔物語のダイジェスト版の様相を呈していた。
抜けるような青空の下、賑わいを取り戻してきたサン・マルコ広場に戻ると鐘楼(6ユーロ)の屋上に登頂するエレベーターの行列に並ぶことにした。高さ96.8mを誇る鐘楼の展望台からはラグーンと町が一望出来るのであるが、遠くに見える雪を被ったアルプスから吹き付けるアルプスおろしの寒風に耐え切れず皆短時間でいそいそと下界に下りていったのであった。
島の南部にあるジューデッカ運河のほとりでヴェネツィアのサンセットと夕焼けを堪能し、明日も快晴であることを確信するとヴェネツィア派絵画の傑作を集結したアカデミア美術館(9ユーロ)に入館することにした。ここには14~18世紀にかけてのヴェネツィア派や、トスカーナ派の作品が収められているのだが、どの絵も立体的で登場人物がキャンバスから飛び出してきそうなほどの迫力を醸し出しており、非常に印象の深いものであった。
12月31日(金)
旅行者の数も減り、普通の町の顔を多少取り戻す冬のヴェネツィアであるのだが、年末年始にはバケーションをエンジョイしようとイタ公の伊太郎たちが橋幸男よろしく目を細めながら大挙してやってきてしまうのでホテルのレートも上がってしまう今日この時期である。ところで、水の王者ヴェネツィア近郊にはたくさんの離島があり、フランスのリビエラ、アメリカのマイアミ、ハワイのワイキキと並ぶ国際的なリゾートを持つリド島が映画「ベニスに死す」の舞台として高いステータスを誇っているらしいのでヴァポレットという水上乗り合いボートを泳がせて訪問してみることにしたのが、冬はただの寒い島に成り下がっていることが確認された。尚、長さ12kmの細長いこの島にはバスも車も走っていたのであった。
リド島でTourist用のヴァポレットの24時間有効チケットを10.5ユーロで購入するとそのままヴェネツィア本島に戻り、さらに本島を真っ二つに二分してS字型に蛇行する全長4kmあまりの大運河Canal Grandeのクルーズと洒落込んだ。ヴァポレットの各駅停車1号線はCanal Grandeをゆっくり進み、客待ちの水上タクシーや沿岸のRistranteや古い教会を通り過ぎ、成金野郎どもが乗ったゴンドラをかわしながらリアルト橋に向かった。常に人々で溢れんばかりのリアルト橋の上にはお洒落なショップが並んでおり、その近くにはアドリア海で釣れた魚介類を売りさばく魚市場が賑わいを見せていた。
サンタ・ルチア駅構内のビュッフェでマカロニポモドーロ系のパスタを食った後、再びヴァポレットに乗り込みサン・マルコ広場に戻ることにした。サン・マルコ寺院のとなりに栄えあるヴェネツィア総督の政庁として9世紀に建立されたドゥカーレ宮殿(11ユーロ)が美術・博物館づらで観光客を引き寄せていたので私もつい吸い寄せられるように入ってしまった。巨大な宮殿の中にはいくつもの評議員の部屋や大会議室があるのだが、それらの壁には例外なくすばらしい絵画が描かれており、特に2階大評議員会議室にあるティントレット作「天国」は7mx22mの大きさを誇っており、世界最大の油絵として圧倒的なスケールを誇っていた。
ドゥカーレ宮殿は小さな運河をまたぐ小さな橋により地下牢獄を持つ建物につながっている。この牢獄は満水時には水牢になったといわれ、この橋を渡ると2度とこの世に戻って来れないので橋の小窓からこの世に別れを惜しみため息をついたといわれる。通称”ため息の橋”との異名を取るこの橋を渡る観光客は皆「ああ、寒ぃ~」と愚痴交じりのため息をつきながら次々に渡って行った。
1月1日(土)
ハッピー ニュー マサよ!!
ということで、2005年の幕開けがここヴェネツィアでどのように祝われているかを体感するために紅白歌合戦も放映されないホテルの部屋で待機していると夜中の12時10分過ぎにいきなり花火と爆竹が鳴り響く騒音が聞こえてきた。取るものも取りあえずあわてて表に飛び出し、見通しのいい駅前のスカルツィ橋の上に立つと「た~まや~~」とは決して叫ぶことが出来ないみすぼらしげな打ち上げ花火が次々と夜空を裂き、橋の上にワインボトルを持ち込んだ伊太公たちは路上酒盛りの真っ最中であったのだ。しかし残念なことに運河を道頓堀川に見立てて次々に飛び込む日本人阪神ファンの姿を発見することは出来なかった。
昨夜の喧騒もまるでうそのようにひっそりと静まり返ったサンタ・ルチア駅前からヴァポレットに乗り、30分ほどで石畳に花火の黒こげの跡を残すサン・マルコ広場に到着した。町の守護聖人であり、9世紀にエジプトから運ばれた聖マルコの遺体をおさめるために建立されたサン・マルコ寺院(3ユーロ)の上階は宝物館となっており、そこにはヴェネツィアの十字軍が遠征のどさくさにまぎれてコンスタンチノープルよりかっぱらってきた紀元前400~200年ごろの作品といわれる4頭の青銅馬像や美しいモザイク画が輝いていた。
午後2時44分発のルフトハンザ航空フランクフルト行きに間に合わせるために空港バス(3ユーロ)でマルコ・ポーロ空港に向かった。そう、かの有名なマルコ・ポーロもヴェネツィア人であり、壮大なFTBレポートの原型であると伝えられる東方見聞録を地元のマサに相当する誰かに送るために日夜ペンを走らせていたことであったろう。
というわけで、今回のツアーにおいて数々の教会や寺院で懺悔を繰り返してきたわけだが、ひょうきん懺悔室のように上から水をかけられることはなかった。したがって、これからも満を持して悪事に励むことが出来るという自信を土産にイタリアの地を後にした。
ドゥオ~モ~!イタリア情報ですよぉ!!
*日本人観光ツアーサバイバル
イタリアの観光地はどこも添乗員に誘導された日本人観光ツアーで大変な賑わいを見せているのだが、フィレンツェのホテルでは朝7時の朝食時間に日本人が大挙して食堂に降りて来てテーブルを占拠し、彼らがひいたあとのビュッフェはつわものどもが夢のあとの様相を呈しているのだ!
*イタリアトイレ情報
イタリア観光地のトイレはどこも有料となっており、0.3~0.6ユーロの小銭をむしりとられながら用を足すことになる。マサに小銭がないと安心してクソもタれることが出来ない状況であるのだが、犬は自由に糞便することが許されているのでそこかしこに犬のクソが転がっており、人間は決して油断して観光することは許されないのだ。
*イタリア広場情報
フィレンツェ、ピサ、ミラノ、ヴェネツィアの広場には例外なくハトの餌売りの輩が出現し、観光客は餌に釣られて手乗りバトと化した鳥を腕や頭に乗せて無邪気に記念写真を撮ってやがる。もし、私がイタリア語が堪能であったなら鳥インフルエンザの人間への感染の可能性についてうんちくを垂れてやるのだが・・・
*愛欲の国イタリア
ミケランジェロの聖地フィレンツェではダヴィデの”いちもつ”を接写した絵葉書が売られており、ミケランジェロ広場ではダヴィデの胸から下半身にかけての肖像を写し取ったエプロンがチン品として売られている。マサに愛欲の国イタリアの面目躍如といったところか!?
FTBサマリー
総飛行機代 \202,080
総宿泊代(朝食付き) \105,000
総国鉄代 68.99ユーロ
総空港バス代 7ユーロ
総ヴァポレット代 14ユーロ
総国鉄罰金代 5ユーロ
総訪問したドゥオーモ数 3
総遭遇したスーパーカー 0
次回はFTB念願の地球の裏側までもぐりこむ予定です。
協力 ANA、エアーフランス、ルフトハンザ航空、TRENITALIA(http://www.trenitalia.com/home/en/index.html)、etravel