天照大FTBツアー in 伊勢志摩

暖春の影響で日本列島の桜前線の進行が異常に速かったのだが、辛くも山梨の桃源郷とともに富士桜と五重塔のマリアージュを堪能することが出来たものの何か物足りないような力不足を感じていた。

例年1月に参拝させていただく邦人の心のふるさと伊勢神宮であるが、今年は内宮の駐車場への道筋の尋常ならざる混雑により途中でのドロップアウトを余儀なくされ、後日のリベンジ参拝を誓いながら一旦お伊勢参りを強制中断させていた。

花見シーズンの喧騒が去るのを待ち、春風に乗ってやってきたインバウンド観光客の大群を横目に日本有数のパワースポットへと満を持して舞い戻るツアーの火蓋が今ここに切って落とされたのだ。

2023年4月7日(金)
午後1時過ぎにミナミノ~ゼと言われる八王子みなみ野の自宅を出ると高尾山ICから圏央道に入り、新東名、伊勢湾道路を経て渋滞ノイローゼに苛まれることなく順調に自家用車を走らせると5時過ぎに本日の宿泊地であり、お伊勢参りの定宿に指定されている榊原温泉湯元榊原館に到着した。

全国旅行支援制度の活用による宿泊費の割引のみならず「おいでよ三重旅キャンペーン」の¥2,000クーポン2枚を握りしめてチェックインを果たすと早速夕食会場に向かった。榊原館では美と健康をテーマに献立作成しており、「温泉野菜蒸し」という旬の野菜を効能の高い温泉で蒸しあげたものが定番となっているのだが、今回はそれに加えて地物一番「特選松阪牛」が食卓を彩った。

ワールドベースボールクラシックで頂点に舞い戻ったサムライジャパンの活躍は記憶に新しいところだが、第1回、第2回のWBCで連続MVPを獲得したレジェンド松坂大輔が解説者の仕事に飽き足らずに準決勝の始球式に登場した時の対松坂桃李比2倍に膨れ上がった横幅を誇る堂々たる体躯に衝撃を覚えた視聴者も多かったことであろう。夕食の松阪牛のラインアップにイチボが並んでいるのを見て、高卒でデビューした平成の怪物がイチローから連続三振を奪った後のヒーローインタビュー時に発せられた「自信が確信に変わった」という流行語が脳内でリフレーンされながら松阪牛をレアで堪能させていただいたのだった。

「お伊勢さん湯ごりの地」としてその名を轟かせている榊原温泉の歴史は古く、約2000年前、伊勢の地に天照大神が鎮座され、皇女・斎王が神宮を祀ってきた。伊勢神宮の参拝前には、天皇たりとも身を清めなければならない。奈良の都から伊賀を抜け、布引山(青山高原)を越えた榊原が伊勢の入口にあたり、ここに湧く温泉で「湯ごり」をして身を清めることが、当時の正式な参拝方法であった。

また、七栗の湯との異名をとる榊原温泉であるが、平安時代の才女、清少納言の随筆「枕草子」の第百十七段に、「湯は七栗の湯、有馬の湯、玉造の湯」という一節がある。七栗の湯は京の都で温泉の代名詞となり、特に恋の病を癒すいで湯として、鎌倉時代から室町時代にかけて多くの歌人に詠われた。

現代ではまろみ源泉としてそのパワーは衰えることなく、温泉宿・ホテル総選挙でうる肌部門全国エリアランキング第1位の座を長年防衛している様子が見て取れた。

館内には源泉神社が祀られ、その源泉温度31.2℃は飲用にも適しており、その強力な温泉力により体の内外からデトックス効果を高めることが出来るため、神宮と対峙するころには完全に毒抜きされた状態となっているはずである。

4月8日(土)
早朝から榊原温泉での湯ごりをゴリゴリと満喫すると腹が減ったので食事会場のダイニング厨草子で健美食を完食したのだが、温泉の効能も相まって呼吸が「全集中」に高められていることに気づかされた。なるほど、そこには米俵とともにそれを炊き上げる竈門が奉られており、炭治郎紋様を彷彿とさせるはんてんに身を包むと「鬼滅の刃」のような研ぎ澄まされた感覚も身に付くのであった。

さらなるパワーアップを求めて木へんに神の字が示すように神と人との境界を表す榊原の地を探索することにした。この地は自生する榊枝を井に浸し伊勢神宮に献上されたことから、榊原と呼ばれるようになったとのことだが、その井が射山神社鳥居の正面にある長命水である。

また、本殿手前にあるのが、大国主命の別名大黒様が打ち出の小槌を持った像で、ピンク色ののぼりの間に鳥居があるのだが、ここが縁結びの強力パワースポットとなっている。マサに恋柱 甘露寺蜜璃に匹敵するパワーを持っている聖地と言えるであろう。

射山神社の境内には驚くほどの高木や古木が立ち、歴史の長さを感じることが出来るのだが、神社の前の道沿いにも生命力の塊のような古木の巨大な根が顔を出しているのだ。

榊原の地を後にしたものの、いざお伊勢参りという気分をさらに高めるために、伊勢神宮外宮の参道に鎮座している「柄杓童子」のひしゃくでケツをたたかれながら道を切り開くことにした。

伊勢神宮内宮の近隣に位置しているものの伊勢神宮とは一線を画しているような存在感で多くの参拝者が訪れる伊勢屈指のパワースポットである「猿田彦神社」に立ち寄ってみた。ここは天孫降臨の案内役を担った、物事を良い方向へ導いてくれる道開きの神「猿田彦大神」を祀る由緒正しい神社であり、境内には、芸事の神様を祀り、著名人からの信仰もあつい佐瑠女神社があり、恋みくじやお守りも人気を博している。尚、個人情報保護法の観点から、願かけ絵馬に貼るためのラベルも常備されているのでどんなに恥ずかしい願い事も気兼ねすることなく記入出来るのだ。

本殿の目の前に方位石(古殿地)が鎮座しているのだが、これは「みちひらき」の御神徳を表す八角形の石柱で、かつて御神座のあった神聖な場所に位置しており、触ると願いが叶うかも知れない霊験あらたかな代物である。

たから石は形が宝船に似ていることから名付けられたもので、白蛇が石の上に乗っているように見える縁起のいい石で参拝者に金運を与えてくれる可能性を秘めたお宝である。

神社の裏手にひっそりと水が張られているのは「御神田」で毎年5月5日には豊作を祈って早苗を植えるお祭り「御田祭」が執り行われることになっている。

御神田を見守る猿の像に別れを告げ、猿田彦神社から去る決心をしたものの、次の訪問先はなお伊勢神宮ではなく二見興玉神社とさせていただいた。

荒海に面するこの神社は御祭神に猿田彦大神を祀り、縁結び・夫婦円満・交通安全などにご利益のある場所とされている。参拝者を出むかえるのは要所要所に配置されたカエルのオブジェであり、それらは恭しくも猿田彦大神のお使いとされる二見蛙(無事にかえる、貸したものがかえる)として重要な役割を果たしている。

風光明媚な境内には「さざれ石」、「天の岩屋」といった見どころもあるのだが、私が気になったのは初穂料300円で参戦出来る輪投げに他ならず、私が放れば大谷投手よりも大きな変化のスライダーとなって神様の腰さえ引かせてしまう恐れがあるので遠慮しておいた。

ここでの最大の見どころは夫婦のように寄り添って顔を出す大小の岩で普通に「夫婦岩」と命名されているのだが、野球ファンの感覚からするとそれらはあくまでも「オール阪神・巨人」のシルエットに他ならないのである。

禊橋を渡って先に頭に浮かんでしまった戯言を祓い清め、本日投宿する予定の志摩方面に車を走らせた。

今日は思いのほか気温が低く、海風で体が冷えていたので午後3時前には宿泊先であるセラビーリゾート伊勢志摩に到着した。ここでのセラピーは♪出来るだけ嘘はないように~♪水平線を眺めながらの露天温泉の貸し切り入浴であるのだが、伊勢海老やアワビといった豪華海鮮料理のエキスを体内に吸収して満を持して神宮に対峙する準備を整えることが出来るのだ。

4月9日(日)
温泉、食事に次ぐここでの第3のセラピーは午前5時30分に上り始める太陽とのご対面である。この場所で日の出の絶景を目にすると♪水平線が光る朝にあなたの希望が崩れ落ち♪るような悲劇は決して起きないと断言出来るのではなかろうか?

当館の社長が作った多品種健康朝食でセラピーを仕上げると宿にほど近い安乗岬を散策することにした。ここは的矢湾入口の岬で、江戸時代にはすでに幕府直営の灯明台があったそうだ。風光明媚な岬の先は断崖と荒磯で、海女の漁場となっている一方で、灯台に至るまでの道のりにはイベント広場やおしゃれなカフェもあるので天気のいい日には日がな一日いても飽きない場所であろう。

「古事記」の中に出てくる有名な神話で、天照大神が須佐之男命の悪事を戒めるために岩戸の中に隠れてしまわれた伝説にちなんだ洞窟を「天の岩戸」と呼び、この伝説の地は日本各地にあるのだが、伊勢神宮内宮の南東側に位置し、周囲は杉の大木がうっそうと茂り、凛とした霊気に包まれている恵利原の水穴はこれぞマサに「天の岩戸」と呼ぶにふさわしい聖地であろう。

名水百選に選定されている清らかな水は飲用だけでなく、滝行にも供せられており、それ用の更衣室さえ整備されている念の入れようであった。

「天の岩戸」のさらに奥地には「風穴」も口を開けており、何とかここまでは参拝出来たのだが、あまりのパワーに大腸が刺激されすぎたため「便の個室」へ早く駆け込む必要が生じたため、「猿田彦の祠」にはたどり着くことが出来なかったのだった。

腸内環境が落ち着いた頃を見計らって今回のツアーのメインイベントであるお伊勢参りに馳せ参じることとなった。あらためて説明するまでもあるまいが、伊勢神宮は日本人の心のふるさとといわれ、「お伊勢さん」「大神宮さま」とも呼ばれ、親しまれており、明治神宮とは一線を画している。神宮球場を本拠地とする東京ヤクルトスワローズも伊勢打撃コーチを招くなどして本家の大神宮さまに近づこうとしたようであるが、いせ~(威勢)のいい結果とはならなかったようだ。

野球場は持っていないが、伊勢神宮の正式名称は「神宮」であり、宇治の五十鈴の川上にある皇大神宮(内宮)と、山田原にある豊受大神宮(外宮)の両大神宮を中心として、14所の別宮、43所の摂社、24所の末社、42所の所管社があり、「神宮」はこれら125の宮社の総称でもあるのだ。

参拝のしきたりであるが、「外宮先祭」という言葉があり、参拝に限らず行事ごとに関しても外宮から行うことが習わしとなっているので外宮の無料駐車場に車を止めてまずは天照大御神のお食事を司る神の豊受大御神に謁見させていただくことにした。

式年遷宮の資料館であるせんぐう館を横目に大鳥居をくぐり、亀石の頭を踏まないように注意しつつ、例年の参拝通り、「風宮」、「多賀宮」、「土宮」、「正宮」をすべて網羅させていただいた。

今年の1月には外宮のみの参拝で強制終了となってしまっていたのだが、これは「片参り」と呼ばれ、よくないこととする説もあるそうだ、外宮から内宮へと向かう車の通行量も落ち着いていたので念願の五十鈴川沿いの有料駐車場に車を止めて鯉のぼりに見送られながら内宮へと歩を進めた。

神様の通る道を避けながら右側通行の宇治橋を渡り、何らかのイベントの名残であるはずの弓道会場を横目に五十鈴川の御手洗場に向かった。このあたりには小魚と小銭が同居しているのだが、手水舎がない時代のみならず、いまだにこの川で手をすすいでいる人も数多くいるのでここでの賽銭は慎むべき行為であるはずだ。

神宮に自生する木々一本一本からすさまじいパワーを感じながら、滝祭神、風日祈宮、荒祭神、正宮と順に参拝させていただき、先の「片参り」を解消して肩の荷を降ろすことに成功した。

インバウンド観光客であっても日本の神社では「二礼二拍手一礼」の作法が頑なに守られるのであるが、私も大谷のバックナンバーである17を思い浮かべながら♪どんなときも優しくあれるように♪という願い事でプーチン率いるロシアをけん制しておいたのだ。

伊勢神宮の御神札(お札)を総称して「神宮大麻」というのだが、今年も大角祓(授与大麻)をいただいて運勢のアップデートをさせていただいたつもりになった。尚、神宮大麻は全国の神社を通して頒布されるものでもあるのだが、FTBでは必ず内宮でいただくことが習わしとなっているのだ。

宇治橋を支える木組みの造形美を胸に刻み伊勢神宮を後にして内宮参道に差し掛かったのだが、ここでは常に人いきれで辟易とさせられる。

人込みをかき分けてたどり着いた先で肉付きのよさげな牛と目が合ってしまったので運命の糸に引かれるように松阪まるよしに入店し、すかさず牛鍋丼を牛食して遅まきながらWBC優勝の祝勝会をさせていただき、伊勢うどんも赤福もスルーして流れ解散となった。

FTBサマリー
総高速代 ¥18,790
総ガソリン代 ¥10,206
総宿泊費 ¥78,300(2泊分、2人分、2食付き)

協力 楽天トラベル

シン・FTB電気自動車で回るもう一つのアメリカ西海岸ベイエリアツアー

3年ぶりの米国ツアーは想像を絶するほど過酷なものとなった。
前座として2月14日(火)の午後10時過ぎに羽田からサンフランシスコに飛び、サンノゼに1泊後、16日(木)の午前0時過ぎのフライトで羽田にとんぼ返りするという離れ業を演じなければならなかった。羽田に到着したのが17日(金)の午前5時前だったので1泊4日のツアーということになるのだが、行き帰りの便とも同じメンバーの乗務員のサービスを受けたため、これぞマサに乗務員並みの重労働に匹敵するものとなった。

週末に山口県の長門温泉で束の間の休息を取らせていただいたものの、20日(月)の夕方にはデンバー行きの機上の人となってしまった。到着地のデンバーはマイナス20℃の凍るような世界で、3日間虎の穴のような過酷なセールストレーニングを受け、23日(木)夜にはサンフランシスコに移動となったのだが、滑走路の状態が悪いため、飛行機の出発が2時間以上遅れた上に、到着したサンフランシスコ空港のゲートが閉まっているという落ちまでついてしまった。乗客の断末魔の叫びに後押しされ、何とか帰ってしまったゲート回りのメンバーを定位置に呼び戻し、晴れて降機、レンタカー確保、ホテル到着となったころには午前1時を回った時間となってしまった。

泥のように疲れた体にムチ打って金曜日にサンノゼオフィスで業務をこなした後、待望の週末のHolidayが訪れたので雪残るシリコンバレーからシン・FTBツアーを強行することとなったのだ。

2023年2月25日(土)
宿泊先であるHoliday Inn & Suite Silicon Valley – Milpitasには電気自動車用の充電器は装備されていたのだが、私がHertzより借り受けていたテスラのModel 3に電気をチャージするにはアダプターが必要だったのでここでの充電は断念し、テスラ純正の電気を求めてさまようこととなった。途中テスラのタッチパネルがSoftwareのupdateをしたいとわがままを言ったので、ふいにupdateをタップすると40分近く足止めを食らってしまった。

首尾よくテスラのご本尊と言えるFremont工場が数マイル先に位置していたのでそこに駆け込み、Superchagerという急速充電器でわずか30分程度で電力と体力を回復させると風光明媚なモントレー方面に向かってModel 3を転がした。電気自動車はマサに動く家電のような代物でアクセルを踏んだ時の加速感とペダルから足を離した時の減速感が素直に足首の動きと連動し、ガソリン車以上の反応で書き味のなめらかなボールペンで手でスラスラと文字を書くような走りを見せてくれる。

全般的なテスラ車の表情は男前のイーロン・マスクとは異なり、ショッカーの戦闘員のマスクにように無表情であるのだが、「イー!」という掛け声のように発進する様はマサに首領である運転手に対して従順であると言える。

今回の目的地をさ~どうしようかと思案していたのだが、ふいに日本の女子卓球選手が得点を決めた時に発する大きな「サ~!」という掛け声(ちなみに男子はチョレイ!」が頭をよぎり、愛らしい卓球少女が男を手玉に取る魔性の女に変貌を遂げたような感覚を覚えたのでナビゲーションにセットされた目的地は必然的にビッグサー (Big Sur)となった。

テスラ工場から約1時間半程のドライブで太平洋岸にあるカリフォルニア州の美しい街、モントレーに到着した。Carls Jr.でハンバーガーを食って腹ごしらえをするとModel 3にも栄養を与えるべく、近くのテスラのディーラーに駆け込み早めの充電に勤しんでいた。尚、充電にかかるコストは自動課金になっているようでHertzにチャージされたものがそのままレンタカー代にも反映される仕組みとなっている。

モントレーから海岸沿いに伸びるパシフィックコーストハイウエイは絶景の宝庫であり、切り立った断崖から見下ろす紺碧の海には巨大なコンプ的海藻であるケルプが繁茂し、多くの魚介類やアシカ、ラッコなどを養っている。

丘の上ののどかな草原地帯がいつしか巨木に覆われた険しい山々に支配され始めるとBig Surの胎内に入ったことが実感され始めた。ファイファー・ビッグサー州立公園地帯のビジターセンターには足を踏み入れたのだが、空模様が芳しくなかったので今日の散策は断念してモントレー方面へとUターンを決め込んだ。

カリフォルニア州道1号線を北上している途中で今回の訪米で何度も口にした将来のビーフ達をのどかな牧場で見守ったりしながらのんびりとModel 3を転がした。

パシフィックコーストハイウエイの数ある絶景の中で最も映えるポイントにおびただしい数の停止車両がひしめいていた。

断崖絶壁の切れ目を強固なコンクリートの柱とアーチ構造で繋げるビクスビー橋は1932年に架けられたものでビクスビークリークの急斜面を見れば当時の工事がいかに困難を極めたかが一目瞭然なのである。

日没前にモントレーに到着し、そそくさと本日の宿泊先であるHoliday Inn Express At Montrey Bayにチェックインするとネットで当地のサンセット時間を調べた。
17:58のサンセットまであと20分程だったので急ぎModel 3に鞭打って向かったポイントはモントレー半島の南、太平洋に面する小さな都市カーメル・バイ・ザ・シーであった。

ビーチの駐車場が満車状態だったため、近隣の住宅地の空きスペースを拝借して車を止めると駆け足でカーメルビーチにに向かった。さすがにカーメルビーチに太陽が沈みゆく景色は「カリフォルニアで一番美しい夕日」とも称されているそうで観光客はおのおのの出で立ちでシルエットロマンスの雰囲気に浸っていた。

日もとっぷり暮れたころにモントレーのフィッシャーマンズワーフに立ち寄ると待望のディナータイムとなった。立ち並ぶシーフードレストランの中から客引きのおね~さんのキップの良さに釣られて入ったレストランではクラムチャウダーとカラマリがサービスとなっている気前の良さではあったものの財布の紐がからまわりしないように時価となっているカニやロブスターの注文は控え、地道な価格設定のシーフードグリルで分相応のディナーを楽しませていただいたのだった。

2月26日(日)
早朝8時にはホテルをチェックアウトし、今日も相変わらずさえない雲行きの空を見上げながらフィッシャーマンズワーフを散策した。遠く海洋哺乳類の鳴き声は聞こえるのだが、その姿を拝むことは叶わなかったのでモントレーから再びビッグサーに向かって車を走らせた。

セコイアの木を繁茂させている険しい山々が姿を現すと曇り空は耐え切れずに雨粒を落とし始めた。ファイファー・ビッグサー州立公園の駐車場($10)に車を止め、軽くトレイルを歩き始めると♪よ~こそ ここへ クッククック♪というリズムを刻みながら♪私の青い鳥♪が飛び交っている姿を鑑賞するまでは良かったのだが、天候不良の中をビジネス仕様の革靴で歩き回る程の冒険心が湧き上がってこなかったので今日のところは引き上げることとした。

サンフランシスコ国際空港まで帰る道すがら、パシフィックコーストハイウエイ上で気になったVista Pointがあったので車を止めて散策してみることにした。切り立つ崖とワイルドなコーストラインはカラフルな植物で覆われており、遠目の海にラッコが見え隠れしていたようなのだが、その雄姿を明確に捉えることは出来なかったのだ。

午後4時半過ぎの飛行機でポートランドに飛び、雪降る世界に舞い戻るとHertzで深紅のテスラのModel Yをレンタルすると一気に裏の仕事モードに突入となったため、不本意ながら流れ解散とさせていただくことにする。

FTBサマリー
総飛行機代 ただ
総宿泊費 ただ
総レンタカー代 ただ
総電気自動車充電代 ただ

協力 ANA、IHG Group、Hertzレンタカー、Advanced Energy Inc.

シン・FTB海峡ドラマチック 海のシルクロード マラッカの旅

振り返ると私の人生前半は西日本の大都市である門司と下関を急流で隔てる関門海峡で流されないように突っ張って生きてきた。古くは源平合戦、大谷翔平よりはるか以前に二刀流で実績を残した宮本武蔵が佐々木小次郎にサヨナラ勝ちをおさめた巌流島の戦い、さらには1987年10月には故アントニオ猪木がマサ!斎藤との死闘で新日本プロレスを人気凋落の危機から救った近代巌流島の戦い、1995年の門司港レトロのグランドオープン等、海峡は様々な戦いの舞台となってきた。

2020年初頭より猛威を振るい、人類の活動を停滞させた新型コロナウイルスもアップデートを繰り返しながら今日まで生き延びてきたが、アントニオ猪木亡き後のアントキの猪木、アントニオ小猪木のように徐々にその存在感も薄くなってきた。

今回裏の仕事の会社が解禁したカンファレンスを有効活用させていただく形となったものの、世界有数の海峡に参上し、「元気があれば何でも出来る!」ことを今一度思い起こさせるツアーが開催されることとなったのだ。

2022年11月5日(土)
午後3時過ぎに成田空港に到着し、つつがなくチェックイン、出国の手続きを済ませ、ANA SUITE LOUNGEに向かう道すがらですれ違った人々の多くは外国人で思わずここは欧米か!?と思った次第であった。

17:25発NH815便は定刻通りに出発し、約7時間のフライト時間をコロナの犠牲になった志村けんに代わって主役を務めた沢田研二の名演技が光る「キネマの神様」を見ながらやり過ごしていた。

11月6日(日)
日付の変わった午前零時過ぎにクアラルンプール国際空港に到着すると、ここでもつつがなく入国、税関を通過するとHotels.comでたまたま見つけた空港に内蔵されているサマサマ ホテル KL インターナショナル エアポートにしけこむことに成功した。

6時間程度惰眠を貪り、午前8時半頃に起床し、朝食会場で腹ごしらえをする際にマレーシアのコロナ対策をつぶさに観察したのだが、マスク着用ルールも含めてほぼ日本並みの対策が施されていることが確認出来たので今から始まるマレーシア生活への大きな自信となった。

11時過ぎに様々な不安を打ち消してくれたサマサマホテルをチェックアウトすると空港の到着ロビーに戻り、マラッカへの交通手段となるタクシーを物色した。とあるタクシーカウンターでRM 180でのディールが成立したのでマレーシアの国産車タクシーに乗り込むと2時間弱でHoliday Inn Melakaに到着した。


IHGのDiamond会員である私に用意された部屋は19階という上階のスイートルームで広めの窓からは関門海峡とは比べ物にならないほど広いマラッカ海峡とそれに続く湿地帯の絶景を見下ろすことが出来た。

部屋を出てエレベーターホールに向かうと海峡とは反対の窓の向こうに整然としたマラッカの街並みが広がっていた。マラッカは2008年に「マラッカ海峡の歴史都市群」としてユネスコ世界文化遺産に登録されているのだが、その東アジア、東南アジアにおいて類をみないユニークな建築様式、文化的な街並みに浸るために下界に下りることにした。

ビルの隙間からマラッカタワーが手招きをしているように見えたのでその方向に向かって歩を進めていると土産物店が並ぶ広場やのどかな公園の先には鮮やかな赤色の歴史的建造物群が姿を現した。

高台へと続く階段を上がっていくと日本人にもなじみのある宣教師のシルエットが近づいてきた。マラッカがポルトガルに支配されていた頃、この地は西洋の宣教師達の活動拠点であり、その威光の名残としてフランシスコ・ザビエル像が「チョッ~ト イイデスカ!」という布教のポーズで観光客を勧誘しているのだ。

ザビエルが案内するセントポールの丘はマラッカの街を見渡せるベストビューポイントとなっており、海峡を行き来する巨大な船舶による刻一刻と移り変わる風景で観光客の旅情を揺さぶっている。

ポルトガル支配の頃、キリスト教布教の拠点として建てられたセントポール教会は今や廃墟と化しているのだが、1552年12月に中国にて46歳でこの世を去ったザビエルの遺骨が1553年2月にマラッカに移送され、約9ヶ月間この場所に安置されていたという由緒正しい聖地である故、多くの観光客が巡礼に訪れているのだ。

1650年に当時マラッカを支配していたオランダの総督府として建てられ、現在は歴史博物館(RM 20)となっているスタダイス(The Stadthuys)にて歴史の勉強をさせていただくことにした。

当博物館はマラッカ王国誕生からオランダ、ポルトガル、イギリスといった欧州列強および第二次大戦中の日本軍の占領時代を経て、マレー連邦として独立するまでのマラッカの歴史が包み隠さず展示されている正直なファシリティで、マラッカのシンボル的存在として君臨している。

また、歴史のみならず近代マラッカの風俗や暮らしの展示物も豊富で、ここを見学させていただくと即座にマレーシアに溶け込めるような構成となっている。

スタダイスでの歴史探訪終了後、けたたましい音響付きで観光案内するトライシクル(サイドカー付きオートバイのオートバイを自転車にすり替えた代物)の駐車場をスルーしてオランダ広場に向かった。

ここはマラッカ観光の中心地とも言える場所で赤を基調とした建物や噴水等オランダ統治時代の箱物が並んでおり、オランダとは交易を持っても統治された実績のない日本のハウステンボスとは一線を画す景観となっている。

土産物屋通りを抜け、オランダ広場の裏手に回ると「つまらない住宅地」の様相を呈する古い団地が立ち並んでおり、観光地と庶民の暮らしの密着度も垣間見えていた。

裏手の方から再び観光地に戻るとマラッカ川沿いの遊歩道を歩いてみた。風光明媚な川沿いに立ち並ぶ飲食店には閑古鳥が鳴いており、アフターコロナと言えども全盛期には年間400万人もの観光客を集めていた賑わいとは程遠く、東京海上もどう保証してあげればよいのか判断出来ないほどさびれているようだった。

どこからともなく「虎だ虎だお前は虎になるんだ」という心の声に促され、伊達直人がタァ~と飛び降りるタイガーマスクのオープニングのような感覚を覚え、ふと上方に目をやるとチャイナタウンはマサに虎の穴と化しているようだった。

今日は長旅の疲れもあり、虎の穴に入ることは遠慮して、マラッカ川のクルーズ船や海洋博物館のオブジェ等を横目にホテルに引き上げることにした。

Holiday InnではExecutive Loungeに招待されていたので、そこでそそくさと夕食を済ませマラッカ海峡を見渡せるプールを横目に部屋に戻った。このホテルではNHKの主要番組がリアルタイムで視聴出来るように取り図られているので、「鎌倉殿の13人」を見て御家人の勢力争いでの勝ち上がり方を学習し、海峡を行きかう船を数えながら就寝させていただいた。

11月7日(月)
朝ドラを見て舞い上がった後、さくっと朝食をすませると再びマラッカの歴史都市群を見て回ることにした。

ビルに描かれた壁画を一瞥し、マラッカ川沿いの海の博物館前を素通りして昨日はあえて侵入せずにとっておいた虎の穴に入場させていただくことにした。

チャイナタウンの正門から裏門迄の距離は大したことはないもののエキゾチックな商店や土産物屋が軒を連ねており、少ないながらも観光客の行き来する様子が見受けられた。虎の穴の入門手続きはどうすればよいのか模索していたのだが、悪役レスラーに対抗するためのボディビルのジムが金ぴかに輝いていたので恐らくここであろうと自分を納得させて引き下がった。ちなみに虎の穴のマネージャーはミスターXであったが、日本ではドクターXの方が認知度が高くなっている今日この頃である。

チャイナタウンに軒を連ねる独特の家並みはマラッカの象徴的風景と言われているのだが、観光客はむしろ白亜の豪邸の方に気を取られているようであった。

1646年に中国から運んできた資材で建てられたマレーシア最古の中国寺院である青雲亭寺院に充満する線香の香りで心を落ち着かせようとしていたところ、「虎鉄聖徳自白反依」の文字で説明されているはずの親子虎の姿が目に飛び込んできたのでここが本当の虎の穴であることを確信した。

チャイナタウンを後にして昨日歩いたマラッカ川の遊歩道の対岸を歩いて気が付いたのだが、マラッカの建物に描かれている壁画は見事であり、歴史都市群の光景に違和感なくなじんでいるのであった。

赤いオランダ教会と横付けされている青いポルシェのコントラストは♪緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ♪に匹敵する光景だと感心しながら、昨日見たセントポール教会方面にプレイバックしてみることにした。

ザビエルから♪いったい何を教わってきたの♪と思いながら廃墟となった教会を通り抜け、丘の麓に君臨する強固な砦跡であるサンチャゴ砦を見に行った。

ここは1511年にオランダとの戦いに備えるため、ポルトガル軍によって造られた大砲を備えた砦なのだが、私的にはジュリアナ扇子をほうふつとさせる南国の木の方が気になってしょうがなかったのである。

1912年創建の洋風建築である独立宣言記念館を見て「独立自尊」の重要さを再認識し、ドン・キホーテを思い起こさせる探検型のショッピングセンターを抜けて正午前にはHoliday Innに帰還した。

ホテルでタクシーを手配してもらい数キロ離れたセントラルバスターミナルまでRM 30の明朗会計で送ってもらい、13:30発のデラックスバスでクアラルンプールへの車中の人となった。2時間後にTBSという日本のテレビ局ではない巨大なバスターミナルで下車してBandar Taslk Selatanという駅に向かった。駅の改札前では猫が我が物顔で闊歩しており、ふとKIOSKに目をやるともう一匹の猫が店でくつろいでいる様子だったので売店のおばちゃんと目を合わせるとみなしごの猫を世話してあげなければならないとのことで、ここはさながらタイガーマスクに登場するみなしご施設の「ちびっこハウス」ではないかと思われ、将来この猫たちも伊達直人扮するタイガーマスクのように強くなることが保証されているはずであろう。

KLセントラルという中心駅に向かうためにKLIAトランジットという高速列車の切符を求めて歩いていると巨大な爬虫類がガニ股で歩いているのを発見した。その傍らでは大柄の猫が成仏されているようで、もしかすると戦った後ではないのかとも訝られ、この体長1mにも達する肉食のミズオオトカゲ(マレーシアオオトカゲ)も裏切者のタイガーを追う虎の穴の刺客に見えてしまうのであった。

その後KLセントラルから近郊線でBukit Nanasという駅で下車し、高層ビル群が立ちはだかるクアラルンプールの中心街を1時間以上さまよった末に何とかThe Ritz Carlton Kuala Lumpurに辿り着き、沢口靖子とリッツパーティを楽しむこともなく、一気に裏の仕事モードに突入したのであった。

11月8日(火)
裏の仕事のWork ShopでThe Ritz Carlton隣接のJW Marriot Kuala LumpurのBayu Ballroomに軟禁状態となり、キンキンにクーラーの効いた部屋で寒さに耐え忍んで過ごしていた。

11月9日(水)
クーラーの温度調節が多少改善されてきたようだった。重役のプレゼンテーション後の質問コーナーで意地悪な質問で虎の尾を踏んでやろうかと思ったが、踏みとどまった。

11月10日(木)
午前中のThe Ritz CaltonのCarlton 6 Conference roomでのセミナー後、午後は独立を勝ち取ることとなり、本業に戻ることが可能となった。目まぐるしく近代化が進んでいるクアラルンプール市内で私の興味を引く観光地は限られているのだが、まずはモノレールと近郊線を乗りついでマスジッド・ジャメを目指してみた。

1909年建立の古いモスクであるマスジッド・ジャメはイギリス人建築家によるデザインとなっている。日本武道館ほどの大きな玉ねぎではないものの、新玉ねぎのような白いドームが特徴的で、礼拝のない時間帯は原住民の絶好の昼寝スポットとなっている。

世界一の高さ約100mを誇るフラッグポールにマレーシア国旗がはためいていたのでその方向を目指して歩を進めていた。

マレーシアは1957年にイギリスからの独立を宣言し、マレーシアの国旗が初めて掲げられたのがムルデカ・スクエア(独立広場)である。広場内の噴水は化け物がゲロを吐いているような装飾となっているものの、自ら勝ち取った独立の威厳を感じさせる空気が漂っていた。

広場周辺にはアラビアンナイト風のエキゾチックな建物がいくつかあり、スルタン・アブドゥル・サマド・ビル(旧連邦事務局ビル)は絶好の映えスポットになっている。

1888年開業のセントラルマーケットを買う気もないまま散策することにした。マレーシアの民芸品店等いくつか見るべき店もあったのだが、店員がアグレッシブさに欠けていたのですべて素通りしてマーケットを後にした。

近郊線、モノレールを乗り継いでチョウキットという駅で下車してみた。この近辺は高層ビルが立ち並ぶエリアとは一線を画しているようで古き良き時代の雰囲気が残っている様子が見て取れた。

行く手にはペトロナスツインタワーが雨季の雲を突き破る勢いで尖っていたので、スコールをものともせずその方向を目指していた。

トンネルをくぐるとそこは大都会で川沿いの高速道路で分断されている左右の街はまるで別世界のようであった。

世界一高いビルの称号はとうに奪われてしまったものの、いまだに世界一高いツインタワーとしての地位を維持しているペトロナスツインタワーの内部に侵入し、頂点を目指したいと思っていたのだが、あいにくチケットは売り切れでおとといきやがれとのサインが出ていたのであえなく撤収し、雨の中ライトアップされたシルエットを恨めしく見上げていた。

11月11日(金)
午前10時半にホテルをチェックアウトし、モノレール、KLIA Transitを乗り継いで空港に向かった。

14:15発NH886便は定刻通り出発し、約6時間のフライトで午後10時過ぎに羽田空港に着陸した。入国前の検疫で時間を取られることがわかっていたので今日は羽田近辺の宿を押さえていた。おかえり東京キャンペーンで安く泊まれる上に買い物クーポンまでもらえる「変なほてる」のチェックインカウンターはロボットと恐竜が受付を担当しており、やはりTOKIOは世界有数のテクノポリスの地位を譲ってはいけないという意気込みを感じながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代:ただ
総宿泊費:ただ
総タクシー代:RM 210 (RM1 = ¥31)
総バス代: RM 14.4
総MLRT代: RM 12.5
総KLIA Express代:RM 61.5

協力:ANA、 Advanced Energy Inc.、Hotels.com、IHG、ナビスコ、楽天トラベル

犬HK大河スペシャル 鎌倉殿のFTB

1い1い9く2につくろう鎌倉幕府

ということで、日本史の年号暗記の紀元とも言える鎌倉幕府の成立は1192年のことであった。2022年の現在における自身を顧みると、受診料の売り上げに貢献しているだけならまだしも、ざわつく金曜日以外はおはようからおやすみまでNHKが提供するコンテンツであるニュース、ドラマ、紅白歌合戦、大谷MLB中継の中毒となっており、マサにちむどんどんする公共放送の犬と化してしまっている。

NHKとの間に結ばれてしまった主従関係はいみじくも鎌倉殿と御家人のようで、なぜそのような関係性になってしまったのかを解明するためにいざ鎌倉まで馬の代わりに車を飛ばすツアーが開催されることとなった。

2022年6月19日(土)
正午過ぎに正直不動産の心根を持つはずの住宅メーカーに建築を依頼した住居を後にすると、大泉頼朝に仁義を切るためにいざ鎌倉に直行すべきところを何故か伊豆方面に車を走らせていた。西湘バイパスリニューアル工事の影響で小田原ICで高速を下りると地獄渋滞に巻き込まれてしまったものの、午後2時過ぎにはイタリアのアマルフィ海岸を彷彿とさせる熱海市の中心部に差し掛かった。

熱海市街から少し離れた山の中腹部に位置する熱海駅からほど近い場所に伊豆山が鎮座している。伊豆山は、走るが如き温泉が湧き出し海に注いでいたので走湯山とも呼ばれていた。伊豆山神社は、古来、伊豆大権現、走湯大権現として歴代鎌倉将軍の庇護により隆盛を極め、関八州総鎮護として崇められてきたという。

熱海湾を見下ろし、境内に入る前に手指を消毒するために手水舎に立ち寄るといきなり大晦日のNHKの使者ではないかと見まがうほどの紅白の龍に出迎えられた。紅白ではなく、赤白二龍は御祭神 天忍穂耳尊の随神であり、赤は火を表し、白は水を表す、火と水の力でお湯(温泉)を生み出す温泉の守護神としてこの地を取り仕切っている。

今回いざ鎌倉詣でに先立ち、伊豆山神社に参拝した理由はここがいいくに鎌倉の紀元であるからに他ならない。この地はマサに今から845年前に源頼朝と北条政子が結ばれた聖地であり、彼らの♪秘密にならない二人の秘め事♪の名残が随所に残されている。

頼朝・政子腰掛石という一見すると何の変哲もない背もたれ付きの石が鎮座している。その説明によると、伊豆の蛭ヶ小島に配流されていた頼朝は伊豆山神社を崇敬していた。当時頼朝と政子が恋のから騒ぎをしていたのがこの境内であり、当社で二人は結ばれ、伊豆山の神様の力により鎌倉に幕府を開き篤い崇敬を当社に寄せたとのことであった。

今や恋愛のパワースポットと言っても過言ではない伊豆山であるが、そのパワーは走湯山縁起と吾妻鏡の大磯高麗山より道祖神とともに来た神様の降り立つ光り石にも授けられており、肛門から十分におすそ分けいただくことが出来た。

熱海市立伊豆山郷土資料館(¥180)がこじんまりながらも大河ドラマの威を借りて開業していたので入ってみることにした。写真撮影禁止の館内には鎌倉時代から伝わる貴重な品々が展示されていたのだが、中でも頭髪梵字曼荼羅という北条政子が頼朝の1周忌に自らの髪の毛を除髪してこれを刺繍し、伊豆山権現の法華堂の本尊として阿字一幅を奉納したと言われている曼荼羅のレプリカに♪純情・愛情・過剰に異常♪であったはずの尼将軍の情念を感じるとともに自身のあまちゃんぶりを思い知らされた。

ヤマトナデシコが七変化する様は大河のお決まりのストーリーであるとの認識を新たに帰路に立つ朱色の鳥居をくぐろうとした瞬間に燃えるようなバーニングプロの圧力を感じた。なんとその鳥居の奉納者としてNHKの40周年特番が大反響を呼んだ小泉今日子の名が刻まれていたのだった。

♪あなたに会えてよかった♪という感覚を引きずりながら熱海を後にし、一路本日の宿泊先である「海のある伊豆高原 オーベルジュ ピーコック ヒル」へと急いだ。チェックイン後、早速貸し切り露天風呂(天然温泉)で情念を洗い流すと待望の夕食時間となった。

こだわり素材のフルコースはオマール海老、あわび、渡り蟹、金目鯛等の高級食材を駆使した料理がデーブルを彩り、純情と愛情で煮込まれたはずのビーフシチューがメインを飾っていたのであった。

6月20日(日)
昨夕は雨が降っていたので高原から海を見下ろすことは出来なかったのが、今朝は朝風呂から初島が見渡せるほど晴れ上がっていた。

オーベルジュ ピーコック ヒルを出立する際に玄関脇にある天使の鐘を鳴らしてみた。3回鳴らすと天使が舞い降りるとの説明があるのだが、2回目の打撃が芯に当たらなかったのでエンゼルスの大谷には是非その無念を晴らしてほしいと祈りながら伊豆高原を後にした。

今日も西湘バイパスリニューアル工事の影響でシーサイドの道が大渋滞を起こすことを読み取ったカーナビは鎌倉までの道のりに箱根越えを選択した。その影響で伊豆高原から鎌倉市内までは2時間半もの時間を要したが、正午過ぎに江ノ島電鉄鎌倉高校前駅にほど近い聖テレジア病院のタイムズ駐車場に車を滑り込ませた。

偏差値66を誇る名門「鎌倉高校前」駅の踏切はSLAM DUNK等数々の作品の聖地巡礼スポットとなっており、予習復習をきっちりこなすはずの多くのインスタ映えハンターで賑わっていた。

鎌倉高校前駅のプラットフォームに立つと目の前には江の島が迫っており、波打ち際では稲村ジェーンは期待出来ないとわかっているはずのサーファーたちが波と戯れていた。サーフボードを小脇に抱えた多くのサーファーとすれ違うのだが、1985年9月にリリースされたKAMAKURAの1曲目に収録されている外で遊べないと言われた♪Computer Chridren♪の年代ではないかと思われた。

休日の江ノ島電鉄は都内のラッシュアワーの様相を呈していたのだが、乗車した鎌倉高校前から4駅先までつつがなく移動することが出来た。数多くの乗客が下車した長谷駅は鎌倉大仏と長谷寺の最寄り駅となっており、紫陽花が見ごろを迎えていることもあってか、多くの人の足は長谷寺に向かっていた。

鎌倉長谷寺は正式には海光山慈照院長谷寺と号します。往古より「長谷観音」の名で親しまれる当山は、奈良時代の天平7年(736年)開創を伝え、寺伝に曰く、聖武天皇の御代より勅願所と定められた、鎌倉有数の古刹であります。

なお、観音山のすそのから中腹にかけて広がる境内は、四季を通じて花木が鮮やかな彩りを添え、また、遠く相模湾を見渡すことのできる眺望は、鎌倉随一とも賞されるとのことであり、特に紫陽花の時季には多くの参拝客を集め、コロナの余波を引きずっている今年は有料の鑑賞券の配布で入場制限をかけているため、カムカムエヴリバディとはいかず、昼過ぎにのこのこやってきた輩が目にするものはむなしい当日券受付終了の手慣れた立て看板であったのだが、それにもめげず長谷寺の実態を解明すべく、入山させていただく事にした。

多くのキャッシュレスによる支払いに対応した受付で¥400の拝観料を支払うと、金魚の糞のごとく入場者の背中を追って階段を昇って行った。

階段を昇り切るといきなりアントニオ猪木の必殺技で卍に固められたような戦慄を覚えた。その正体は卍を模った卍池に浮かべられた紫陽花ブルーにより、酷暑の中で体感温度が急激に下がった感覚であったろう。

卍池の紫陽花で背筋をしゃんと伸ばした後、千体地蔵に向き合った。千体地蔵とは、各家の先祖供養や水子の供養のために奉納されるお地蔵さまで、数年おまつりしたお地蔵さまは、浄化供養のお焚き上げをすることにより人数調整が出来るシステムになっている。

観音堂との異名を持つ本堂に祀られているご本尊の十一面観音菩薩像は像高9.18mにも及ぶ本邦最大級の木彫仏である。当山の伝えによれば、721年に大和(奈良県)長谷寺の開山である徳道上人の本願に基づき、2人の仏師により楠の巨大な霊木から二体の観音像が三日三晩にして造顕されたという。そのうちの一体は大和長谷寺の本尊となり、残る一体は海中へ奉じられ、736年に相模国に忽然と姿を顕し、その後鎌倉へ遷座され、当山開創の礎となったという。

ご本尊に対する写真撮影は控えなければならなかったのだが、観音堂に隣接する観音ミュージアム(¥300)は観音菩薩の御心に触れ、そのご利益を体感出来る場所とのことだったので入場してみることにした。

ここでの最大の見どころは観音三十三応現身像であり、様々なポーズや表情をした多くの仏像と面談出来るのであるが、最も私の心を揺さぶったのはあたかも手もみをしているかのようなポーズで赤ら笑顔を浮かべているカーネーション好きのほっしゃん像であった。

思わず「まさかや!」と叫んでしまいそうなほっしゃんのすべらない話に背中を押されてミュージアムを後にすると入場出来ないとわかっていながら「あじさい路」の看板に引き寄せられるように観音山方面に足が進んで行った。

散策路に足を踏み入れることはかなわなかったので「あじさい路」の景色がどれほどすばらしいかは御仏の眼力に委ねるしかなかったのだが、少なくとも日本有数の観光地の旬な時季の一旦は垣間見ることが出来たのであった。

帰りの江ノ島電鉄の吊り広告で藤岡弘から後ろ指をさされてはっと気づいたのだが、NHKに対する依存度の増加はマサに自身が保守的になっている証であり、まだまだ「グレートトラバース」のような冒険を続けていかないと衰退してしまうと胆に銘じながら流れ解散となった。

FTBサマリー
総高速代 ¥3,210
総宿泊費 ¥22,620(2人分、2食付)
総ガソリン代 ¥3,376
総駐車場代 ¥1,980

協力 楽天トラベル、NHK

FTB再起動記念 ミッキー吉野推薦 !? 観桜ゴダイゴツアー

♪そこ~にゆ~けば~♪ (出典:ガンダーラ by ゴダイゴ)
♪A long time ago~♪ (Source:Gandhara by GODIEGO)

ということで、オミクロン禍による蔓延防止法に気を使ってどこにも行く気が起こらず、猫守にうつつを抜かしてトラベラーの本能が失われてしまったかのような低迷期を脱するべく、神聖なひなたの道への帰還を目指してFTBを再起動させる運びとなった。

その第一弾としてキャスティングディレクターとしてにわかに脚光を浴びているはずの奈良橋陽子が多数の楽曲の作詞を手掛けたゴダイゴにゆかりのあるツアーが桜吹雪とともに開催されることとなったのだ。

2022年4月9日(土)
正午発ANA023便、B787-8機は出発の準備に時間を要し、多少の遅れを出したものの満席の乗客をつつがなく大阪伊丹空港まで送り届けてくれた。


早速551蓬莱に駆け込み、豚饅を片手にニッポンレンタカーでワゴンRをレンタルすると、へぎ板(敷き紙のこと)にくっついた饅頭の裏皮を歯でこそぎ落としながら味わい尽くし、いにしえの都方面に向かって車を走らせた。

大仏と満開の桜のマリアージュが楽しめるということでSNSでバズっている壷阪寺の住所をカーナビにセットし、順調に目的地に向かっていたのだが、午後3時過ぎに残り1.3kmという地点で地獄渋滞の最後尾で行く手を阻まれた。30分経過しても300m程しか進まなかったので途中Uターンする何台かの車に倣って回れ右をして壷阪寺観光未遂はゲームオーバーとなった。

気を取り直して、「世界遺産である大峯の山々に抱かれ修験道と共に奈良県の美しい自然と文化が残る村」というキャッチフレーズを誇る天川村を所在地とする本日の宿泊地である洞川(どろがわ)温泉へと急いだ。道中立ち寄った道の駅 吉野路 黒滝で満開の山桜が青い空と緑の木々に映えている光景を見て留飲を下げると夕暮れ前に何とか洞川温泉卿に辿り着き、花あかりの宿 柳屋に投宿した。

源泉かけ流しの単純温泉でシンプルに豚饅の香りをリセットすると、夕食時間の6時45分迄まだ時間があったので温泉街を探索させていただくことにした。


洞川温泉郷は大峯山から発し熊野川の源流ともなっている山上川のほとり、標高約835m余りの高地に位置する山里で、その冷涼な気候から関西の軽井沢とも呼ばれるところである。どことなくなつかしく、昭和の時代にタイムスリップした雰囲気を漂わせるまちなみには、旅館・民宿が20数軒、そのほかに土産物店や古来の生薬・胃腸薬である陀羅尼助丸を製造販売する店13軒や各種の商店が軒を連ねている。

温泉街の外れにある真言宗醍醐派大本山大峯山龍泉寺に湛えられている清らかな水に釣られて軽く参拝させていただくことにした。マサに♪ホーリーアンドブライト♪の世界を体現しているかのような雰囲気の中で私の興味を引いたものが2つあった。一つ目は柔道一直線の主役である一条直也が履いていた仕様のものより明らかに重そうな鉄の下駄なのに盗難防止のためか、ポールに鎖で繋がれていた光景を見にしたことと、2つ目は「なで石」と呼ばれる丸い石で、仕様書によると持ち上げる前になでると軽くなり、叩くと重くなるという万有引力を発見したニュートンに対する果敢なる挑戦であった。

お待ちかねの夕食タイムになった。配膳されているメニューに「ならジビエ」はなかったものの奈良県産の山の幸を中心とした美味で健康的で満足のいくものであった。

4月10日(日)
今回の宿泊先に家族連れはなく、♪今日も子供たちの歌声が世界を♪大きく包むような状況ではなかったので安眠してさわやかな朝を迎えることが出来た。
旅館から撤収する際に宿主から今日の吉野は桜も満開だが人も満開だよと警告されたのだが、1時間後にその実態を思い知ることになった。

近鉄吉野駅を目指してワゴンRを走らせ、桜満開の週末には吉野山にはマイカー規制が敷かれていることは周知の事実であったが、臨時のパークアンドバスライド用の駐車場も午前10時の段階ですべて満車となっており、途方に暮れながら国道169号線のむなしい往復に勤しんでいた。その間に開発したバックアッププランによると終点の吉野駅より数駅前の近鉄駅の近辺に車を乗り捨て電車で吉野山にすべりこむという秘策であった。

近鉄六田駅と越部駅の間にホームセンターのコメリが駐車場を構えていたので買う気もないのに車を止め、便所まで利用させていただいたという罪悪感を引きずりながら越部から電車に乗り、11分後に終点吉野駅に到着した。満員電車から降りて見た光景は全盛期のゴダイゴの武道館ライブに向かうような花見客の大行列であった。

山全体が世界遺産に登録されている吉野山は標高毎に下千本、中千本、上千本、奥千本に区分けされ、桜の時期にはその開花状況が吉野町のホームページでアップデートされる体制が確立されている。

吉野山は全国的に桜の名所としてその名をとどろかせており、4月上旬~中旬にかけて3万本ともいわれるシロヤマザクラが世界中の観光客をおびき寄せている。日本全国の多くの桜の名所では、近代になってから桜並木を整備したり、古くからある古木を大切に 保護したり、いわゆる「花見」のために桜を植栽・管理しているのだが、吉野の桜はそれらのものと は一線を画し、「花見」のためではなく、山岳宗教と密接に結びついた信仰の桜として現在まで大切に保護されてきたのだ。

今日の花見客の行動は散り始めになっている下千本をスルーして満開になっている中千本にいち早く到着するために右往左往していた。中千本到達のためにはケーブルカーという名を借りたロープウエイに乗っていくのが最速のコースであるが、案の定乗り場には長蛇の列が出来ていたため、ケーブルカーの底面の「ようおこし」を見上げながら、急な遊歩道を駆け上がっていった。

中千本では土産物屋や飲食店で民衆がごった返していたのだが、桜吹雪舞う喫茶店で水分を補い、グリコ・森永事件で迷宮入りとなったはずのキツネ目の男が焼き栗をかき回しているのを尻目にやみくもに山の奥地に向かって行った。

ミッキー吉野という太ったリーダーがゴダイゴと命名し、その名をかたることで日の目を見ることとなったはずの後醍醐天皇の墓参りと♪ビューティフル・ネーム♪等の合唱(合掌)が今日ここにやってきた本来の目的であったので道標を頼りに向かうべき方向へと進んでいるはずであった。

しかし、山腹をピンクに染める壮大な景色に目を奪われているうちに、大和吉野で南朝政権を樹立し、室町幕府が擁立した北朝と争い、ついには吉野で崩御した後醍醐天皇陵に辿り着くことはかなわなかったのだった。

ゴダイゴが音楽プロデュースした1978年のテレビドラマ「西遊記」でも結局天竺に辿り着けなかったという落ちであったため、翌年の「西遊記II」への持ち越しとなったのだが、FTBにおいても当然吉野のリターンマッチは企画されることであろう。その時には猪八戒役が西田敏行から左とん平に変わったような大きなインパクトが与えられるはずだと負け惜しみながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ただ(すべてスカイコイン使用)
総レンタカー代 ¥9,460
総高速代 ¥4,040
総ガソリン代 ¥3,569
総近鉄代 ¥560
総宿泊費 ¥27,960

協力 ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、近畿日本鉄道、コメリハードアンドグリーン大淀店

Go To FTB 紅葉を見に行こ~ようツアー奥鬼怒&日光

都道府県魅力度ランキング2020で絶対王者の茨城県を抜いて見事最下位の座を獲得した栃木県であるが、U字工事の懸命なプロモーションにもかかわらず、その魅力が国民に浸透していない現状を憂い、山間の秘湯や世界遺産が最も輝きを放つ晩秋にGo toトラベルに便乗させていただくツアーを開催することにした。

2020年11月8日(日)
お昼前に自家用車で日野市の自宅を出発し、毎回飽きもせずあきる野インターから圏央道に乗り、東北道の宇都宮インターを経由して日光道に入り、日光インターで一般道に下りるとひたすら山道を霜降高原方面に走っていた。途中のドライブインで山菜の量が少ないのが気になった山菜そばで空腹を満たし、標高1,400m以上の峠を越えて奥鬼怒方面へ向かった。

奥鬼怒温泉への入口となっている日光市営バスの終点である女夫渕(めおとぶち)無料駐車場に着いたのは2時40分くらいで、そこで自家用車を乗り捨てて
ひたすら旅館の送迎バスが到着するのを寒空の下で待っていた。女夫渕より先の奥鬼怒温泉には4つの温泉宿があるのだが、一般車の通行は出来かねるとのことなので奥鬼怒歩道を1時間半かけてトレッキングするかクマに遭遇するリスクを避けるためにバスに揺られるかの選択肢を与えられていたので迷わずバスで行くことにした。

送迎時間の3時を少し過ぎて宿のバスがやってきたので宿泊客は各自出席を取られて乗り込んだのだが、日光市営バスに乗ってくるはずの最後の1組がバスの遅れで未着になっていたのでバスの運転手の決して責めないでやって欲しいとの助言を胸に刻み、コロナ対策用の半開窓から吹きすさぶ寒風に震えながら連帯責任を取っていた。

3時20分を過ぎてようやく出発となり、バスは山道を登って行ったのだが、運転手はとある法面の前でおもむろにバスを止め、斜面にへばりついている特別天然記念物のニホンカモシカの姿を指さした。カモシカフロントの窓に座っている乗客には絶好のシャッターチャンスが与えられたのだが、ブラインドサイドの乗客には千載一遇のチャンスをふいにしなければならない無念のみが刻みこまれたのだ。

劣化してガード不能なガードレール越しに見えるがけ下の景色を堪能すること約30分、ようやく神秘の森に包まれた関東最後の秘湯として名高い日光国立公園・奥鬼怒温泉郷の八丁湯(はっちょうのゆ)に到着した。

到着後、リピーターの宿泊客は速やかに部屋の鍵が渡されたのだが、八丁湯初心者たちは受け付けの脇に集められ、宿主による口八丁手八丁のオリエンテーションの洗礼を受けなければならなかった。ようやく鍵を受け取り、長い渡り廊下に染み付いたワックスの香りを吸い込みながら奥鬼怒の豊かな原生林に囲まれた安らぎのログハウスツインに入室した。部屋の中はWiFiの電波は受信出来るがテレビはなく、高い天井による広々とした空間は独特の音響効果を生み、壁1枚
隔てられた隣室からの隠微な音が一晩中こだまするとはこの時は思ってもみなかったのであった。

宿備え付けの茶菓子で血糖値を調整すると日が沈まないうちに100%自然湧出のかけ流し自家源泉を堪能させていただくことにした。昭和4年開業時の野天風呂
「雪見の湯」をはじめ、「滝見の湯」「石楠花の湯」の3つの混浴風呂でダイナミックな景観を楽しみながらしばしコロナの恐怖から心身を解き放した。

6時20分に食事処に向かうとそこには地の物をふんだんに味わう山の料理が用意されていた。魅力度ランキング最下位とはいえ、栃木の食材を活かした素朴で味わい深い郷土料理は松茸の土瓶蒸しやイノシシ鍋等、人気県でふるまわれる高級料理とそん色のないものであった。

11月9日(月)
北関東系と思われる隣室のヤンキーカップルに安眠を妨害されたものの、温泉効果により肉体には活力がみなぎっていたので朝ぶろの後、うっすらと降り積もった雪をものともせず看板犬の威嚇を軽くいなしていた。

食事処に場所を移すと玉手箱のような風呂敷包みが無造作に置かれているようであったが、結びを振りほどき三段重を展開すると素朴な山菜料理が姿を現すという趣向が凝らされた粋な朝食の演出であったのだ。

下野の国の山間に一足早い冬の訪れを実感した八丁湯を後にすべく送迎バスに乗り込み、道中の工事の影響で30分以上かけて女夫渕に戻ると自家用車で平家落人のひなびた寒村を疾走した。途中で観光百選「瀬戸合峡」という看板が目についたのでその実力の程を確かめてみることにしたのだが、鬼怒川の上流にかかる吊り橋を見て寒気を感じたのでそのまま退散した。

途中美しい紅葉に目を奪われながら峠を上り、下り、日光の市街地に差し掛かると突然車の列がせき止められてしまった。どの車も世界遺産「日光の社寺」方面に向かっているようで観光地の駐車場は平日とは思えないような賑わいであった。

何とか東照宮大駐車場に車をねじ込み、五重塔を一瞥して拝観受付所でセット料金(東照宮拝観券+宝物館入館券)チケット(¥2,100)を購入し、徳川家のお膝元の門をくぐることとなった。

平成31年3月31日まで続いた平成の大修理を経て新装開店なった日光東照宮は1617年に徳川初代将軍徳川家康公を御祭神におまつりした神社であるが、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、1636年に造替されたものである。

国宝、重文がずらりと並ぶ社殿群の中で最初に参拝客をくぎ付けにするものは神厩舎の「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻である。この教訓は一説によると農家の長男に嫁入りした娘の姑対策として要所要所で有効性を発揮するものであったろう。

日光東照宮の代名詞となっている日本を代表する美しい門は陽明門で宮中正門の名をいただいたと伝えられており、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされている。

ボンよ、君たちの仲間が普通にうたた寝をしている姿の彫刻が国宝に指定され、強い者が弱い者を虐げることのない共存共栄の平和な世の中を表現しているという事実を思い知ってくれないか!?

というわけで、伝説的な彫刻職人左甚五郎(ひだりじんごろう)の作品と伝承されている「眠り猫」であるが、その左とやらがなんぼのもんかよくわからない輩にとっては何の変哲もない猫の彫り物にしか見えないはずであろう。

猫を養っている坂下門は江戸時代には正式には将軍社参のときにしか開かれなかったそうであるが、いつからか全開されるようになり、人々は気軽に家康公の御墓所に続く奥参道を闊歩出来るようになったのである。

奥社宝塔(御墓所)は御祭神徳川家康公の墓所で、昭和40年、東照宮350年祭を機に公開されたという。参拝者はホトトギスが鳴くまでじっと待てるような忍耐力を身に着けるべくこの場に佇み、祈りを捧げているのだった。

本殿・石の間・拝殿からなる御本社は東照宮の最も重要なところで、参拝客は靴を脱いでお邪魔することが出来るのだが、写真撮影は禁止となっている。御本社を守る唐門は全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、その表面には非常に細かい彫刻が施されている。

東照宮で一番盛り上がる場所と言えば「鳴き龍」で有名な本地堂(薬師堂)であろう。薬師堂にはヒノキ板が34枚はめ込まれた鏡天井があり、狩野派によって
描かれた巨大な龍の水墨画風の絵を見上げることが出来る。その龍の顔の直下で拍子木をカーンと打つとあら不思議!音が共鳴し、鈴を転がしたような龍の鳴き声が聞こえるというが、本当は誰も龍の鳴き声がどんなものであるかは知らないはずである。

残念ながら「三猿」、「眠り猫」と並び称される日光三彫刻のひとつである「想像の象」は見逃してしまったので後日ガネーシャを見て想像しておくことにした。また、華道家の假屋崎省吾が個展をやっているという立て看板があったのだが、本仮屋ユイカではなかったので興味は引かれなかった。

宝物館の方は御祭神徳川家康公の遺愛品をはじめ、朝廷や将軍家・大名家からの奉納品、当宮の祭器具などを収蔵、展示公開しているのだが、刀剣類や甲冑、大工道具等のガテン系の物が多く、文系の書画や絵巻が少なかったことに合点がいかない輩は少ないと思われた。

夕暮れ近くになると参拝客の数に落ち着きが見え始めたので標高634mの紅葉を思う存分堪能し、持て余し気味の6000円分の地域共通クーポンの使い道を考えながら流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー
総宿泊費 ¥26,455 (二食付き、二人分)
総ガソリン代 ¥4,421
総高速代 ¥8,690

協力: 楽天トラベル、国土交通省観光庁

FTB情熱のアンダルシアツアー第2弾コルドバ、セビーリャ withジブラルタル

除夜の鐘がゴーンとなる頃、日産をしゃぶりつくしたカルロスが風と共に去り、日本の司法制度に軽いロスを与えている今日この頃であるが、FTBでは招き猫としての職務を忠実に果たし、唯一供与されるべき利益がカンヅメであるはずのボンに見送られ2年越しのアンダルシアツアーに繰り出すため、合法的に日本を出国することとなったのだ。

2019年12月26日(木)
午前中に収入源となっている裏の仕事の業務を放り出し、一躍羽田空港に向かうと表の仕事であるFTBツアーに着手するためにANAの国際線カウンターに向かった。年末繁忙期の飛行機代を半額に抑えるために羽田から北京を経てトルコ航空のイスタンブール経由でスペインのマラガに移動する旅程を開発していたので、荷物を羽田で預けてマラガで受け取る段取りを付けていただいていたのだった。17:25発NH963便に乗り込み、約4時間のフライトで北京首都空港に到着するとペキンダックの誘惑に屈することなく、Air Chinaのラウンジで牛肉麺をすすりながら時間をやり過ごしていた。

12月27日(金)
日付の変わった00:50発TK21便に乗り込むと約10時間のフライトで♪飛んでイスタンブール♪に早朝6時過ぎに到着した。2018年10月29日に開港した新イスタンブール空港はアジアとヨーロッパの架け橋にふさわしく、庄野真代でも迷ってしまいそうな巨大なターミナルの一角でチョコレートをふんだんにあしらったよくわからない架空動物像に出迎えられた。スターアライアンスのラウンジは吹き抜けの上階に設えられており、エスニックなトルコ料理やチャイ等の飲食物が無制限に提供されている。

09:25発TK1305に搭乗する際に羽田のANAのチェックインカウンターで指示されたとおりに荷物がちゃんと搭載されているか確認した際に係員から「オンボード」という回答をもらっていたので安心して機上の人となった。

スペインアンダルシア第二の都市マラガ国際空港に定刻12:10に到着し、早速Baggage Claimに向かったのだが、いくら待てども預けた荷物が出てこなかった。複数の被害者とともにイベリア航空のLost Baggageに駆け込むと何かの手違いでこれから出てくるはずだとターンテーブルへの帰還を促されたのだが、やはり荷物は現れることはなかった。

再びLost Baggageの担当者と対峙することになり、今日はもう荷物なしで過ごさなければならないと腹をくくり連絡先を交換した後、被害者用のキット(パジャマ用のTシャツ、短パン、洗面用具入り)を受け取り空港からの撤退を決め込んだのだ。

Lost Baggageの精神的ダメージを引きずりながらマラガ空港駅から近郊列車に乗り、マラガの中央駅であるマリア・サンブラーノ駅に移動し、スペイン国鉄Renfeの高速列車で1時間かけてコルドバ駅に到着した時間はすでに午後5時近くになっていただろうか?

Hotels.comに予約させておいた駅近の☆☆☆トリップコルドバホテルにチェックインすると今回のツアー中に荷物と再会出来ない可能性を考慮し、スペイン最大のデパートチェーンであるエル・コルテ・イングレスに駆け込み、物品と晩餐用の食材を買いあさりながらアンダルシアの1日目はあわただしく過ぎていった。

12月28日(土)
セビーリャ、マラガに次ぐ、アンダルシア第3の都市コルドバ(世界遺産)は、ローマ時代には属州ヒスパニア・パエティカの首都として、かの有名な皇帝ネロの家庭教師を務めた哲学者セネガをはじめ、多くの学者や詩人を輩出し、ローマ文化の中心地として栄えた。その後アル・アンダルスと呼ばれたイスラム教徒に占領された土地の首都になり、ウマイヤ朝の首都になった756年には♪甘いな いやいや♪、♪ウマイヤ イヤイヤ♪と歌ったはずの髭男爵も存在したことであろう。

1236年になるとキリスト教徒はイスラム教徒に♪グッバイ♪と言ってコルドバを奪回したのだが、♪でも離れがたいのさ♪と言わんばかりにイスラム文化をすべて拭い去ることは出来ずに現在に至っている。

駅前のトリップコルドバホテルをチェックアウトすると抜けるような青空の元でたわわに実っているオレンジの木々を横目に白壁の家々が続く旧ユダヤ人街に向かった。キリスト教徒がイスラム教徒を排除する運動であるレコンキスタ終了後の1492年に布告されたユダヤ人追放令によってこの町から姿を消したユダヤ人であるが、♪もっと違う設定で もっと違う関係で♪出会えていればよかったのだが、たったひとつ確かなことがあるのならば、この場所は♪とても綺麗だ♪と言えよう。

ユダヤ人街を抜け、グアダルキビル川に架かるローマ橋を渡り、ローマ橋を守るために築かれた要塞であるカラオーラの塔の近辺からしばし旧市街を見渡した。橋の上では、NHKのど自慢大会の伴奏でも通用しそうな腕前のアコーディオン弾きが、ローカルなメロディを奏で、小銭の収集に勤しんでいた。

コルドバのシンボルであるメスキータ(EURO10)はマサにイスラム教とキリスト教が共存するファシリティで、一歩中に入ると約850本からなる「円柱の森」に圧倒されることになる。

後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラフマーン1世により、新首都にふさわしいモスクを造ろうと、785年に着工したメスキータはコルドバの発展と歩調を合わせるように3回にわたって増築され、最終的には2万5000人を収容する大モスクへと発展していったのだ。

内部は、大理石とくさび形の赤レンガを交互に組み合わせたアーチが限りなく広がっているのだが、年代的に古いアーチと新しいアーチが混在しているように見受けられた。

848年にアブド・アッラフマーン2世によって拡張された部分は、レコンキスタの後ゴーンではないはずのカルロス5世によってカテドラルにコンバージョンされてしまったところが多く、今となっては元の姿を知る由はないのである。

メスキータを見学中にi-Phoneのけたたましい呼び出し音で現実世界に引き戻されたのだが、紛失した荷物がついに見つかったという連絡だったので今日中にマラガ空港に荷物を迎えに行くと言い残して電話を切った。

イスラム勢力であるはずのトルコ航空により、メスキータ見学の切り上げを余儀なくされ、近世スペインの作家セルバンテス(ドン・キホーテの著者として有名)ゆかりのポトロ(コルドバ市の紋章である子馬)広場に軽く立ち寄って駅に戻り、コルドバを後にして一路マラガ空港へと引き返した。

マラガ空港到着ロビー近辺のイベリア航空Lost Baggageカウンターで荷物との再会を果たしたのはよかったのだが、イスタンブール空港のトルコ航空搭乗カウンターで確かに耳にした「オンボード」とは裏腹にオンボロになったスーツケースを目にして言葉を失ってしまった。荷物を引き渡す際に♪感情のないアイムソーリー♪さえもなかったので、イスタンブールの印象が♪飛んでイスタンブール♪から「とんでもないイスタンブール」に変わってしまったのは♪辛いけど否めない♪と思われたのだった。

結局往復で3時間以上も荷物の一件で無駄にすることとなり、次の目的地であるセビーリャに着くのが午後10時過ぎになることが見込まれたため、マラガ・マリア・サンブラーノ駅のフードコートで小腹を満たすことにした。これと言って入りたいと思うレストランもなかったので消去法で選んだSUSHI ARTISTで名前負けしている握り寿司セットを食ってお茶を濁していた。

マラガからRenfeで2時間かけてセビーリャまで足を延ばし、Hotels.comに予約させていた☆☆☆☆アイルホテルに到着したのは予想通りの10時過ぎだったのだが、荷物があるという安心感に抱かれて今夜はゆっくりと休むことが出来たのだった。

12月29日(日)
セビーリャ駅前という好立地のアイルホテルの目の前は市バスのバス停になっていたので32番の市バスに乗って終点のドゥケ・デ・ラ・ビクトリア広場で下車した。途中ハチの巣をつついたような奇抜な建造物が気になったので近寄って見たのだが、それはスペイン最大級の近代木造モニュメントであるメトロポリタン・パラソルという複合施設となっている。


EURO3を支払い、28mの高さの展望台に上るとセビーリャ市街地の全体像が見渡せたので、最初に訪れる観光スポットとしてはもってこいの場所である。

近隣のカフェでカフェインを吸収する名目でトイレを借り、大腸の流出物を下水に流し込むと軽くなった足取りで旧市街の中心部に向かった。道は細く、多少迷路のようになっているのだが、カテドラルに隣接したヒラルダの塔を目印に進むと容易にセビーリャの心臓部にたどり着いた。


ビゼーのオペラ「カルメン」や「セビリアの理髪師」の舞台として知られるセビーリャは、ローマ時代には属州ヒスパニア・パエティカの主要都市として栄え、西ゴート王国の首都がおかれたこともあるのだが、ジブラルタル海峡を渡ってきたモーロ人に712年に征服され、以降500年以上にわたり、イスラム文化が繁栄したようで市街にはその当時のおもかげが色濃く反映されているようである。

巨大なカテドラルの隣に貴重な公文書を所蔵するインディアス古文書館(世界遺産)がつつましく建っていたので長い入場待ち行列の最後尾に並んだのだが、目の前で入場制限が敷かれてしまい、コロンブス、マゼラン等の自筆文書を見ることはかなわなかった。


どうやら観光地としてのセビーリャの実力を甘く見ていたようで、この地の最強の観光コンテンツであるアルカサル(世界遺産)の前には数100mもの入場待ちの行列が出来ていた。何時間かかるか想像もつかなったが、とりあえず行列の最後尾に陣取り、しばらく成り行きを見守ることにした。

予約している個人や団体客を優先させるため、フリーの客が並んでいる列は遅々として進まず、それでも3時間程待ったかいがあって黄昏時についにアルカサル(EURO10)への入場が許されることとなった。


荘厳なイスラム風の宮殿アルカサルは例えて言うならセビーリャに存在するグラナダのアルハンブラ宮殿である。

9世紀から11世紀にかけて使われていたイスラム時代の城を、レコンキスタ後にキリスト教徒の王たちが改装した建築物だが、なかでも1350年に即位したペドロ1世は、スペイン各地からイスラム建築の職人を呼び寄せ、アルハンブラ宮殿を彷彿させるような建物を建造した。


何故かイスラム文化に心酔していたペドロ1世は、イスラムの服装をまとい、宮廷内ではアラビア語を使えという無茶ぶりまでしていたそうである。

アルカサル最大の見どころはペドロ1世宮殿の内部装飾であるが、豪華なムデハル様式の装飾や、彩色タイルの内壁、ヒマラヤ杉の格子細工による円柱天井等は見るものを虜にし、3時間以上並ばされた肉体のダメージが一瞬にして消え去っていくようであった。

さらにこの宮殿中央部に君臨する「乙女の中庭」には泉があり、漆喰細工の美しいムデハル様式の列柱に囲まれているのだが、ここが最も記念撮影渋滞が起こるスポットであった。

アルカサル裏側の庭園まで足を運ぶと庭師によって整然と整えられた樹木はあたかもジパンシーの宣伝に一役買っているのではないかと錯覚させられた。

アルカサルを後にして、翌日乗るバスのチケット買うためにバスターミナルに寄ったりしているといつのまにか日もとっぷりと暮れ、ライトアップされたカテドラルが漆黒の闇に浮き上がった。

年末の日曜日の目抜き通りは何故か立錐の余地がないほど人があふれ、いつの間にか海洋生物を模したちょうちん行列の波に巻き込まれてしまい、その流れに逆流しながらも、地元民が集まる食堂で飯を食い、タクシーでホテルに帰って行った。

12月30日(月)
アイルホテルをチェックアウトし、昨日と同様に32番バスでセビーリャの市街地に向かった。旧市街地の中心であるヌエバ広場の市庁舎前の街路樹が角刈りにされているのに軽い動揺を覚えたが、気を取り直してカテドラル方面に向かった。

インディアス古文書館は残念ながら休館ということだったので、前足で巧みにボールをキープしているライオン像を尻目にセビーリャを象徴する建造物であるカテドラル(世界遺産、EURO10)の入場待ちの列に陣取ることにした。

スペイン最大、またヨーロッパの聖堂としてはローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模を誇る、奥行き116m、幅76mの箱物の内部に開門時間の午前11時過ぎに入場を果たすと、「後世の人々がわれわれを正気の沙汰ではないと思うほどの巨大な聖堂を建てよう」という1401年に開かれた教会参事会の決定当時の意気込みがひしひしと伝わってきた。

聖堂内部は数えきれないほどの見どころがあるのだが、観光客が最も足を止めるポイントは4人の国王に棺を担がれたコロンブスの墓である。さすがにスペイン随一の有名人の墓は内部で一番人目に触れやすい入口近くの一等地に設置されており、果たした役割の大きさが自ずと参拝者に伝わってくるような仕掛けになっている。

カテドラル内部の北東の角部屋を占める高さ97mのヒラルダの塔が観光客に開放されているので遠慮なく登らせていただくことにした。狭い階段を何度も何度も折り返して登ったその先には巨大な鐘楼が君臨し、展望台からはセビーリャの町中を360度の角度で見渡すことが出来たのだった。

数あるセビーリャの観光地の中で、世界遺産に指定されてはいないものの、その威厳ある独特の景観から観光案内の一面を飾るスペイン広場が市民の憩いの場を提供しているので癒されに行ってきた。

半円形状に建物が囲むスペイン広場は、、1929年にイベロ・アメリカ博覧会の会場として造られたもので、日本で言えば大阪の万博記念公園に相当するファシリティだと言えなくもないが、太陽の塔のような芸術の爆発物の代わりにスペイン各県の特徴や歴史的場面をタイルで描いた58のベンチが置かれている。

情熱的なギターの音色に釣られて人だかりに近づいてみると真っ赤なドレスに身を包んだフラメンコダンサーが切れ味鋭いステップを踏んでおり、そのリズムの余韻を胸にセビーリャに別れを告げることとなった。

タクシーでアイルホテルに戻り、荷物をピックアップして同じ車でプラド・デ。サン・セバスティアン・バスターミナルに移動した。アンダルシア最南端のアルへシラス行きのバスは定刻通りの15:30に出発し、2時間以上かけてアフリカ大陸モロッコへの船が出航する港に到着した。下車したところが次の町へ行くべきバスターミナルではないことに気づかされたので徒歩でしばらく歩いていると道端にいるおじさんが頼んでもないのでジェスチャーで行くべき方向を示してくれた。

アルへシラスからラ・リネア行きの市バスに乗り込むとすっかり暗くなった海岸線沿いをバスは走り、約30分でラ・リネアに到着した。早速国境へと足を運び、スペイン出国のスタンプはもらったものの、イギリス領ジブラルタルへの入国の証はパスポートに刻まれないまま、国境沿いのジブラルタル空港を抜け、予約していたHoliday Inn Express Gibraltarへたどり着いたのだった。

12月31日(火)
昨晩の暗がりの中では分からなかったが、ホテルは岩山の麓に位置しており、得もいえぬ威圧感を感じながらアメリカ流のブレックファストで腹を満たすと大英帝国繁栄の余韻が残っているはずであろう街中を散策することにした。

大西洋と地中海をつなくジブラルタル海峡に突き出た岩の塊からなる岬がジブラルタルであるが、ここはスペインの王位継承戦争の間イギリス軍に占領され、1713年のユトレヒト条約によって晴れてイギリスに統治権が与えられたそうだ。

500mにもわたるメインストリートを抜け、ひたすらロープウエイ乗り場を目指してひた歩いた。ジブラルタルを象徴する岩山であるターリクの山「The Rock」に上らなければ、この地を訪れた意味をなくしてしまうので高い運賃を払って標高426mの山頂にある展望台に到着した。

雲が多く、アフリカ大陸までは見渡すことが出来なかったが、岩山のエッジの効いた先端部の形状はすばらしく、これからも丸くなり過ぎず、尖った部分を残して今後の人生を歩んで行くべきだと励まされているようだった。

展望台からの眺望にしばし気を取られていると毛深い生き物が、観光客の背中にあるが視線の届かないリュックサックを目指して一直線に突進して行った。敵もサルもので、やつは巧みにファスナーを開けると一瞬にして食べ物を取り出し、立ちサルでもなく、ふてぶてしくその場に座り込んで完食してしまったのだ。

猿は9世紀にアラブ人が持ち込んで野生化し、観光客を楽しませるとともに脅威となっている。「岩山に猿がいるかぎりイギリスの統治が続く」という古い言い伝えがあるそうだが、ここはイギリス領というよりは単なる猿の惑星にしか見えなかったのだ。

猿山から下山し、イタリアンカフェで免税ではあるが、物価の高いパスタを食した後、再びスペインに帰国すべく、国境へ向かって歩いていた。赤信号の遮断機で立ち止まったその先はジブラルタル空港の滑走路となっており、小型の飛行機がイギリスの本土目指して離陸して行った。私の入っている生命保険も満期と更新の時期を迎えており、ここで得た体験次第ではジブラルタ生命に乗り換える可能性も検討したのだが、そこまでする必要はないであろうと思いとどまったのだった。

スペイン国旗を仰ぎ見ながらラ・リネアに戻り、市バスでアルへシラスに移動、その後長距離バスでマラガに向かい、着いた時間は夜だったので地下鉄のとある駅で下車して予約していたHilton Garden Inn Malagaに投宿した。

Hiltonhhonorsのポイントが余っていたので宿泊代が無料であったのが忍びなくホテルのレストランでシーフードを奮発して帳尻を合わせておいた。

2020年1月1日(水)
ハッピーニュー ボンよ、

ということで、国際的なリゾート地として有名なコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の玄関口として賑わうマラガでアンダルシアの最終日を迎えたわけだが、かの有名な変画家であるピカソが1881年にマラガでおぎゃ~と生まれてから10歳までの幼少期をこの地で過ごした生家があるということなので立ち寄ってみたのだが、元日のため休館となっていた。

近隣のピカソ美術館も門戸を開いてくれなかったのだが、唯一歓迎してくれたのはピカソの遊び場だったメルセー広場に佇むピカソのベンチだけだったのだ。

髪のないピカソの生涯の解明がかなわず、後ろ髪を引かれるように乾燥したマラガを後にすると17:25発TK1304便でとんでもないイスタンブールへ飛んで行った。

1月2日(木)
イスタンブール空港で荷物が迷子になった憂さ晴らしをすることも考えたのだが、ここでは♪恨まないのがルール♪となっているので1:45発TK26便に乗り、おとなしく上海へと旅立った。約10時間半のフライトで上海浦東国際空港に17:15に到着したのだが、今回はきっちり入国後に荷物をピックアップして再発防止策を実践することにしたのだった。

1月3日(金)
約6~7時間もの時間をラウンジでやり過ごし、1:45発NH968便に搭乗し、羽田に着いたのは夜もまだ明けぬ5時半くらいであった。いくつか問題はあったものの♪Yesterday♪から始まる♪Traveler♪魂を胸に、次回は「ルネッサ~ンス!」の音頭とともにワイングラスをカチンと鳴らすイタリアツアーが発生するだろうかと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥75,710 (ANA)、¥101,918(トルコ航空)
総宿泊費 EURO405.65、GBP108.3
総Renfe代 EURO111.8
総バス代 EURO39.74
総メトロ代 EURO4.4
総タクシー代 EURO14
総ロープウエイ代 GBP14
協力 ANA、トルコ航空、IHG、Hiltonhhonors、Hotels.com

FTB Last Ichiro in Seattle

2019年3月21日、46,451人の大観衆を呑み込んだ東京ドームは途中から異様な雰囲気に変わった。日本が誇るサムライメジャーリーガーのイチローが今日の試合をもって引退するという記事がネットで流れると球場内はにわかにざわつき始め、92,902個の目はイチローの一挙手一投足に釘付けとなった。やがて試合が終わり、選手たちがベンチ裏に引き上げた後も多くの観客が場内に残り、誰もがイチローが再びファンの前に姿を見せるであろうことを疑っていなかった。

感動の東京ドームセレモニーから6ヶ月の月日が流れ、マリナーズはアメリカン・リーグ西地区の最下位を独走し、イチローの思い描くマリナーズの復活とはならなかったが、Ichiroの長年の貢献に敬意を示すためにシアトルでIchiro Celebration Nightなるイベントが開催されることとなった。

FTBではIchiroがメジャーデビューした2001年以来その活躍を現地で見守ってきたのだが、今回最後のお披露目ということで急遽飛行機を飛ばしてシアトルまで弾丸ライナーツアーを敢行することとなった。

2019年9月13日(金)
今回のツアーでは東京ドームホテルでのイチロー会見から一夜明けた3月22日にイチローと弓子夫人を乗せたANA運行の成田→シアトル直行便(搭乗ゲートはANAの粋な計らいで51とされた)は使わずに21:55発NH116便羽田発バンクーバー行きに乗り込むと約8時間のフライトでバンクーバーに到着後、ワンバウンドではあるが、Air Canada運行のAC8093便プロペラ機に乗り換えてイチロ、シアトルに向かった。中秋のように肌寒いシアトルに20時前に到着すると空港に隣接されているCrowne Plaza Seattle Airportホテルにチェックインし、今晩の試合でマリナーズの投手陣を背負って立つはずの菊池雄星がノックアウトされた事実に愕然としながら床につくこととなってしまった。

9月14日(土)
正午前にホテルを出て目の前を走るT-LinkというLight Railでシアトルのダウンタウンに向かった。思えばFTBが初めてシアトルを訪れたのは1998年の7月で当時ニューヨーク・ヤンキースのエースであった故伊良部秀輝氏の快投を目の当たりにするために留学先のサンフランシスコからわざわざやって来たのだった。当時の球場The King Domeは密閉式ドーム球場で傾斜の急なアッパーデッキにへばり付いて伊良部が三振を取るたびに大きな声援を送っていたのが昨日のことのように思い出される。

ダウンタウン到着後、お約束のPike Place Marketで生鮮魚を見て気持ちを落ち着かせ、その足で長躯ダウンタウン南のT-MOBILE PARKに向かった。球場前のカフェで遅い昼食を取りながら、開門前のゲートに集まるファンの群れ具合を観察し、いい具合を見計らってHome Plate側のGateに回り込み、Ken Griffy JR.の銅像に拍手を打ち、行列の一部となった。

午後4時過ぎに待望の開門となり、先着2万名に配られるIchiro首振り人形を手にしたファンは宝物を抱えるようにして球場内に入っていった。首振り人形は今春の東京ドームでのイチローのファンへの別れをモチーフにしているのだが、白髪が目立つ本人の写真とは異なり、人形の方の短髪は黒く染められていたのであった。

5時45分開始のセレモニーまで時間を持て余していたので球場内スタンドの裏側をじっくりと見て回ることにした。チームの歴史を伝えるコーナーでは数多くのIchiroのBaseball Gearが展示され、ミズノやアシックスの宣伝に一役買っている。

自分の席に戻り、ライトスタンド方面に目を向けると筋金入りIchiroファンであるエイミーさん手作りのICHI-METERが最後のお勤めを果たすようにフルラインアップで展示されていた。

国歌斉唱が終わるとマウンドの前に重役用の椅子が並べられ、スーツ姿のマリナーズの役員の面々とScott Servais監督を先頭にユニフォーム組が続々と姿を現し整列した。バックスクリーン後方の巨大モニターにはIchiroのマリナーズ入団以来の活躍がダイジェスト版となって映し出されていた。2001年にIchiroがMLBという未知の世界に足を踏み入れた時にはメジャーで成績を残すことに関しては疑いを持たなかったが、それ以上にメジャーのスーパースター達をギャフンと言わせるほどのセンセーションが見たかった。それが現実となり、期待以上のパフォーマンスで引退までひた走った姿はちっぽけな国の国民栄誉賞程度では到底報いきれないものであろう。

シーズン終盤の消化試合ということもあり、全席Sold outというわけにはいかなかったが、Last Ichiroの勇姿を目に焼き付けておきたい日米の熱狂的ファンがIchiroフロントのLower Levelの内野席をすし詰め状態にしていた。ちなみにこの日の観客数は26,063であった。

大歓声とともに姿を現したIchiroはお馴染みの背番号51番のユニフォームを身にまとっており、球団関係者および来賓であるマリナーズのレジェンド、Ken Griffy Jr., Edgar Martinezと握手を交わしていた。やがてIchiroの名も彼らと並び称されるべく、この球場に永久に刻みつけられることが約束されているのだ。

固唾を呑んで見守る大観衆の前でFranchise Achievement Awardを受賞したIchiroの挨拶の時間となった。異様な雰囲気の中で脳内が白化し、話の内容が飛ばないように配慮したIchiroは事前準備していた原稿を前にして流暢な英語でシアトルおよび日米のファンへの感謝の意を表してくれた。

Ichiroの挨拶終了後はバタバタと記念写真撮影に移行し、その後ファンに惜しまれつつグラウンドを後にした。

ほどなくしておまけの試合が始まったのだが、今日はマリナーズのKingであるFelix Hernandezの登板日ということで所定のエリアに席を取っている観客は無償で配布される黄色いTシャツを着てしきりに黄色い声を上げていた。私服に着替えたIchiroも弓子夫人と一緒にスタンドに陣取り試合の行く末を見守っていたのだが、Ichiroの面子を潰さないように奮起したマリナーズは延長戦でサヨナラ勝ちを収め、お別れのメッセージに変えていたようであった。

9月15日(日)
Ichiroイベント週末の最終日である今日の試合は午後1時15分開始であり、本日の催しはIchiro Replica Jersey T-Shirt Dayと称し、先着1万5千人にTシャツが配られるということなので開門直前に球場に駆けつけた。今日はIchiroのお披露目はなしということで昨日ほどの行列ではなかったのだが、最終的には17,091人の観客で客席の約35%が埋め尽くされた。

場内に入場し、Tシャツを受け取ると早速どんなものか確認すべく広げて見るとそれはマサにユンケルの野望が刻まれたシャツだったのだ!ICHIROの名前の上にはスポンサーのSATOのロゴが目立つように配置され、一見すると鈴木一朗が佐藤一朗に成り代わったような印象さえ与える代物となっていた。この状況に納得できない私はすぐにチームショップに駆け込み、IchiroのTシャツを買いあさって溜飲を下げることにしたのだが、この反応もすべてSATOとマリナーズがグルになって仕組んだ陰謀の結果なのであろうかとさえ思われた。

グラウンドでは試合前にラテン系の民族衣装を着た踊り子によるダンスが繰り広げられ、試合の方は昨日に引き続きマリナーズがサヨナラ勝ちを収め、その瞬間は最高の盛り上がりとなった。佐藤製薬との競演を果たし、永久欠番が約束されたマリナーズの51番はIchiroとともに208cmの長身左腕ビッグユニットであるRandy Johnsonとの連名になるはずであろうが、Randy SATO Johnsonに成り下がることは避けられるであろうかと考えながらT-MOBILE PARKを後にした。

Ichiro引退後はシアトルに来る機会はなくなるかも知れないという郷愁の思いから、今日もPike Place Marketに足が向かった。栄光のスターバックス1号店でパイクプレースローストでも買って帰ろうかと思ったが、やはり帰国してから買うことにした。International Districtやスタジアム周辺はSODO(South of Downtown)と呼ばれている地区で相変わらずホームレスが多く、怪しげな雰囲気が醸し出されている。シアトルがお膝元となっているMicrosoft, F5 Networks, amazon.com, T-MobileとITやAI化が進み、Downtown北部は近代化が加速している一方で増加する失業者はレトロな雰囲気のSODOに押しやられ、ストリートライフを余儀なくさせられているという光と影を感じながらLast Ichiroシリーズは幕を閉じたのだった。

9月16日(月)
11:25発AC8092便でシアトルからバンクーバーに向かう空路は概ね晴天でシアトルがエメラルドシティと言われている所以を噛み締めながら別れを告げた。NH115便は定刻16:25に出発となり、一路羽田空港へと向かっていった。

9月17日(火)
飛行機が着陸態勢に入ると折りからの曇り空は虹色に変わった。Ichiroが今後、元カタカナのイチローと呼ばれるようになっても日米の架け橋として日本人メジャーリーガーのレジェンドとなった功績は決して忘れ去られることはないと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥145,360
総宿泊費 $477.24
総T-Link代 $12

協力 ANA、Air Canada、IHG

♪教えておじいさん♪第二回スイスアルプスツアー with マッターホルン

♪くちぶえはなっぜ~♪
中略
♪おしぃえて おじいさん♪

ということで、前回2002年の1月に敢行されたスイスアルプスツアーではおじいさんならぬ過去の歴史から多くのことを学んだが、いかんせん真冬のツアーということで行動範囲が大きく制限されてしまっていた。スイス人の誇りとするアルプの森の真髄を極めるためには盛夏に山中を行幸しなければならないため、航空運賃が最高騰するお盆の時期に待ったなしでマッターホルン地域に足を踏み入れるツアーが開催されたのだ。

2019年8月10日(土)
FTBにおきましては時間はかかるがハイシーズンにヨーロッパに安値で到達可能な方法を開発したので早速実践に移すことにした。日本からの直行便は回避し、キャセイパシフィック航空が運行する14:45成田発香港行きCX527便に搭乗すると3時間強のフライトで19:00前には世界のハブとして名高い香港国際空港に到着した。つつがなく入国手続きを終え、税関を通過し、香港への門戸が開かれると眼前には毒蛇に出会ったような衝撃的な光景が広がっていた。

黒装束を身にまとった多数のデモ集団がライブで香港への入境客を歓迎し、観光客のSNS映えに貢献するようなプラカードを掲げながら様々な種類、言語のビラを配り歩いていた。

デモの喧騒を横目に耐え切れぬ空腹につられて飲茶レストランに入り、かろうじてワンタンメンをすすり上げた後、香港から出境し、タイ国際航空のラウンジでトムヤムスープのマイルドな辛さとともにデモ集団の要求する香港の自由が守られるよう、陰ながら祈っていた。

ルフトハンザ航空が運航する23:15発LH797便は定刻どおりに出発したものの、たくさんの巨体ドイツ人が搭乗する割にはエコノミークラスの前後のピッチが異様に狭いシート配置のため膝がピチピチになるのをこらえながら意識を飛ばすことに集中していた。

8月11日(日)
約11時間のフライトでフランクフルト国際空港に到着したのは夜明け前の5:30くらいで約1時間の乗り継ぎ時間を経てLH1182便にてチューリッヒへと転送させられた。定刻7:35にスイスの空の玄関チューリッヒ空港に到着すると空港駅のスイス鉄道(SBB)のカウンターで有効期間1ヶ月のスイスハーフフェアカードを120スイスフラン(CHF)で購入し、同時にツェルマットまでのチケットも定価の半額で入手することに成功した。

スイスウォッチのような正確な時間管理で運行するSBBの進行方向2階席を確保すると約1時間後には首都ベルンを過ぎ、さらに1時間後にフィスプという駅に到着した。ここでMGB (Matterhorn Gotthard Bahn)という登山鉄道に乗り換えると広々とした窓越しにアルプスの絶景が広がった。

合計約3時間半をかけて念願のツェルマットに到着したのは正午過ぎであった。晴れ渡ったツェルマットに一歩足を踏み出すとさわやかな空気に包まれた感覚を覚えたのだが、ここでは厳格な排ガス規制が敷かれ、町行くタクシーや送迎車はすべて四角い電気自動車であった。

標高1605m、狭いマッター谷のどんづまりにあるツェルマットのメインストリートであるバーンホフ通りを颯爽と通り抜け、Hotels.comに予約させておいた当地での宿泊先である☆☆☆☆ホテルのモンテ・ローザにチェックインする運びとなった。由緒あるこのホテルの壁にはマッターホルン初登頂を果たしたウィンバーのレリーフがはめ込まれており、彼の定宿として長い歴史を歩んできた伝統と格式が刻まれている。一見様のFTBには最上階である6階の上部屋ではあるもののマッターホルンビューではない部屋があてがわれたのだが、木の息吹を感じさせる上質な作りと季節の花をあしらったベランダからの絶景はツェルマットでの滞在をワンランク上げてくれるものとなっている。

チェックインの際にコンシェルジュ・レディーから今日はFolklore Festivalというお祭りの日でホテルの前がパレードの通り道になっているということだったので時差ぼけの眠気を押さえ込んでパレードフロントの道端に陣取った。

Festivalを彩る各パレードチームの扮装はマサにスイスアルプスの文化、歴史、暮らしそのものであり、幼い子供たちから草刈正男の雰囲気を持つおしえておじいさんまで一様に笑顔で目抜き通りを練り歩いていた。

パレードの終焉を見届け、狭いツェルマットの町を一通り歩き回っている際に黄色い表紙のガイドブックを携えた多くのアジア人に遭遇したのだが、その多くは日本語をしゃべっていた。夕食には地元で醸造されているツェルマットビールとお約束のチーズフォンデュを発注した。チーズの臭いにつられて飛び回るハエを振り払いながら中鍋になみなみと溶かされたホットチーズに一口大のパンを絡めてひたすら口に運ぶ作業を繰り返したのだが、単調さに耐え切れず完食には至らなかった。どの観光客もおそらくスイス滞在時の最初で最後のチーズフォンデュになるはずであろうが、食べ残されたチーズの行く末を案じながらスイス初日の夜は更けていった。

8月12日(月)
マッターホルンに憧れてツェルマットにやってきた観光客の大敵は天候である。今日は早朝から雨と霧の洗礼を受け、マッターホルンロスの中での観光のモデルケースの確立を迫られたのだが、座して天候の回復を待つのが常套手段であろう。

当地に日本人が多い理由のひとつにツェルマットと京都、富士河口湖、妙高高原との姉妹都市の締結があげられよう。町中には友好を示すレリーフが飾られており、妙高という日本食屋が通りの一等地に巨大な店を構えていた。

教会で雨宿りをしながらマッターホルン博物館(CHF10)がオープンする午前11時を猫と一緒に待っていた。マッターホルンの形状をかたどった透明な入り口から館内に入ると地下の展示場に続く階段をこの地方独特の家屋の表情を見ながら下って行った。展示物はマッターホルンが初登頂された時代の苦難と栄光、暮らしぶりを如実にあらわしており、ここに鎮座する人物が生き生きと当時の模様を物語ってくれた。

古き良きツェルマットの特徴がよく残っている路地にネズミ返しのある古い穀倉倉庫が並んでいる。いくつかの倉庫はいまだ現役らしく入り口は季節の花で彩られている。

行動が制限される雨の日は食事で気を紛らわすしかないのだが、昼食にはスイスのソウルフードであるはずのとろける熱々チーズのラクレット、夕食時には肉食獣に成り代わり、ソーセージと噛みごたえのある牛肉で来たるべくハイキングに備えて歯を食いしばっていた。

8月13日(火)
起き抜けにテラスに出て天候を確認すると雨は上がっているものの上空は微妙な曇り空であった。ツェルマットでは余裕のある滞在期間を取っていたのだが、これ以上足止めを食うわけにはいかないので天空の視界がどうなっていようと登山鉄道でスイス随一の展望台を目指すことにした。

ツェルマット駅の斜め前に位置するゴルナーグラート鉄道はアルプス登山ブーム全盛時の1898年に開通したアプト式登山鉄道である。トップシーズンのこの時期は約24分おきの運行となっているのだが、始発の7:00からほぼ満席状態で観光客を空気の薄い世界へと運んでいる。

いくつかの駅で停車しながら、約33分で標高3090mの終点ゴルナーグラートに到着した。雲の流れにさえぎられマッターホルンへの謁見は許されなかったが、展望台からはアルプス山脈第2の高峰モンテ・ローザ(4634m)や山脈を長い時間かけて切り裂いている氷河の迫力を存分に味わうことが出来た。

ゴルナーグラートには高級山岳ホテルであるクルムホテルが君臨し、展望台で冷え切った観光客は大挙してレストランに乱入し、ホットドリンクを口にして一様にほっとした表情を浮かべていた。

モンテ・ローザを源とするゴルナー氷河に別れを告げるとその足でスイスを代表するハイキングコースへ踏み出すこととなった。行程は当然のことながら全コース下りで雲に邪魔されているとはいえ、絶景を見ながらの進行となる。

逆さマッターホルンで有名なリッフェルゼーで足を止めたのだが、鏡の役割を果たす泉は無地のキャンバスに成り下がっていた。しばらく近辺に佇み、祈るように雲の流れを見つめていたのだが、マッターホルンはかろうじてその先端のマウスピース相当部を公開してくれたに過ぎなかったのだ。

標高が下がってくると大地はガレ場からアルプに変貌し、ウールで着膨れした羊が整然と草を食んでいる様子も風景の一部となった。リッフェルベルク駅(2583m)の隣のホテル・リッフェルベルクでビュッフェ形式の昼食を取ってパワーアップすると頻繁に行き来するゴンドラを横目に片側が崖になっている急な下り斜面を慎重に下って行った。

短角牛が草を食む牧場を過ぎると森林地帯に突入し、いくつかの山小屋食堂の奇抜な装飾に恐れおののきながらも長い道のりを淡々と下って行った。

さらに郷ひろみのデビュー曲の合いの手のように♪ゴーゴー♪とアルプスの雪解け水が流れる峡谷でマイナスイオンをチャージし、ひざがガクガクになりながらも何とか総延長約11kmのコースを完走した。

ツェルマットの町中に戻ってくるとアルプスの少年が先導するヤギの集団に遭遇したのだが、カランコロン系の鈴と一緒に首輪に管理用のシリアルナンバーが記されたタグが取り付けられていた。

ホテルに戻って一息ついた後、教会近くのベンチに佇み、緞帳のようにマッターホルンを覆い隠す雲の流れを見つめていた。日没も迫ってきたので一緒に空を見上げていたアジア人観光客は私に「Good luck」と言い残して撤収していったのだが、マッターホルン博物館前でアルプホルンの演奏が始まるとその音色に乗って雲の流れが速くなり、ついにこの地で見るべき景色とのご対面となったのだった。

8月14日(水)
ツェルマット滞在最終日の朝をむかえ、夜明けとともに目を覚ますとテラス越しに見上げた空が西条秀樹をほうふつとさせる最上のブルースカイブルーだったので取るものもとりあえず教会前のマッターホルンビューポイントへ走っていった。まぶしすぎた空を背景に朝日を浴びたマッターホルンは薄化粧の雪と岩肌の筋をあらわにして黄金色に輝いていたのだった。

散々じらされた挙句の真打登場により、感動もひとしおとなったのだが、4478mの巨体で村に覆いかぶさるその勇姿はマサにスイスの巨人そのものであった。

貴重な好天が約束された本日のアクティビティは非常に忙しく、午前中はロープウエイを乗り継いでヨーロッパ最高地点の展望台を目指すことにした。

アルプスの王者スイス、世界でトップクラスの山岳観光の醍醐味を提供するために最新の技術を駆使して至る所にロープウエイを張り巡らせている。ツェルマットの村の南端の乗り場に到着すると次から次にやってくるゴンドラはグループ毎の貸切状態での運行となり、他の観光客に気兼ねすることなく空中遊泳を楽しむことが出来るのだ。

マッターホルンは常に視界にあるのだが、見る角度によって異なった趣を示し、♪さわるものみな傷つけた♪ギザギザハートのとがった少年やうつむきがちの考える人、そのまんまピラミッド等、見るものを決して飽きさせず、常に観光客の視線をひとりじめしているようである。

いくつかの駅でロープウエイを乗り継いだもののわずか40分程度で標高3817mのマッターホルン・グレイシャー・パラダイスに到着した。ちょっと長めのトンネルを歩くと視界が開け、そこは夏なのにスキーに興じるウィンタースポーツフリークで賑わっていた。低酸素と低体温状態になる準備をするためにショップ兼レストランの建物でカフェインを吸収すると満を持してヨーロッパ最高地点の展望台を目指すことにした。

トンネル道を戻り、エレベーターに乗り、最後の力を振り絞って階段を上って到達した展望台で見た絵のような天空世界の光景は凍りつくようにクールであった。展望台の標高は3883mでシャモニ・モンブランのエギーユ・ミディより41m、ユングフラウヨッホのスフィンクス・テラスより311m高くなっている。

キリスト十字架の向こうにあぐらをかいているよう鎮座しているマッターホルンの姿は崩れ正三角形のピラミッドでツェルマット村から見上げたものとは似ても似つかない形状である。高い運賃を支払い、寒さに震えながらでも見に来る価値は十分あり、晴れていればおつりがくるほどの迫力で迫ってくるのだ。

次から次に上ってくる観光客の数と展望台およびその他施設の収容能力のバランスを考慮してマッターホルン・グレイシャー・パラダイスを後にすることにした。帰りは乗り継ぎ駅のトロッケナー・シュテーク駅の展望台での景色を楽しんだが、その後は素直にロープウエイに戻り、ツェルマットへと帰還した。

昨日のハイキングで多少すねが痛んでいたのだが、さらなるハイキングコースを求めて村から3分で到着出来る展望台であるスネガに行くことにした。2013年にリニューアルされたばかりの地下ケーブルカーに乗り込み、標高差683mという急勾配のトンネルで一気に標高2288mに到達すると稜線までくっきり見える貴婦人のようなマッターホルンに出迎えられた。

丁度昼食時でもあり、ビュッフェレストランで軽食とビールを調達し、マッターホルンに向かって杯を上げた。食べ物のクオリティはさておき、マッターホルンに見守られた青空ビアガーデンでのひと時は至福以外の何ものでもないのである。

スネガ→ツェルマットのハイキングコースは初級コースで常にマッターホルンを正面にしてゆるやかな坂を下って行った。途中トイレ休憩で立ち寄った山小屋ホテルからの景色と雰囲気も非常によく、次回この地に戻ってくる機会があれば是非このスタイルのホテルで静かに過ごしてみたいと思いながらツェルマットへ帰っていった。

終日マッターホルン三昧のアクティビティを満喫し、疲れた足を引きずって列車に乗り込み鉄路をベルンへと引き返して行った。ベルン駅でタクシーを捕まえ、ポイントを使ってただで泊ることが出来るHoliday Inn Bern Westsideにチェックインするとひたすら体を休めることに専念した。

8月15日(木)
スイス連邦の首府ベルンは世界遺産に登録されている「中世の町並み」で有名である。アルプスから離れ、今日は旧市街を存分に散策する予定であったが、疲労の抜けが悪かったため、観光は断念し、駅地下で存在感を出している当地にゆかりのある偉人アインシュタインの二頭身像に「アイ~~ン」を決めてベルンから撤収となった。

ベルンから列車に乗り、約1時間でチューリッヒ中央駅に到着後タクシーでポイントを使ってただで泊ることが出来るCrowne Plaza Zurichに移動した。今夜はホテルに新設されたイタリアンレストランでビフテキを貪り食って体調の維持回復に努めることにした。

8月16日(金)
ホテル近くの市電の停留所で24時間有効のチケット(CHF8.8)を購入し、チューリッヒ中央駅へ移動した。駅の切符売り場の自動販売機で係りの女性の援助でサルガンス行きのチケットを入手すると列車に乗り込み車窓を流れる牧歌的な景色を眺めながら1時間程の鉄道の旅を楽しんだ。

思えば失業手当で生計を立てていた8年前にHILTIというリヒテンシュタインの会社の面接を受け、見事不採用となった苦い経験からいつかはリヒテンシュタインに行かなければならないとの思いを胸にいだき続けていたのだが、今日ついにその日が訪れることとなった。

サルガンス駅を出て隣接するバス乗り場に向かい、リヒテンシュタインバス11番の2階席に乗り込むといつのまにか国境を越え、約30分でリヒテンシュタインの首都ファドゥーツの郵便局前に到着した。スイスとオーストリアに挟まれたヨーロッパ第4の小国であるリヒテンシュタイン入国の証を立てるためにまずは観光案内所に立ち寄ることにした。普通の国に入国する場合にはパスポートにただでスタンプを押していただけるのだが、リヒテンシュタインでは記念スタンプというプレミアム感をだしにして観光客からCHF3を巻き上げて希望者のパスポートに押印するシステムになっているのでこの機をとらえてパスポートの差し支えのないページに何の変哲もないスタンプを押していただいた。

リヒテンシュタインは切手とは切っても切れない関係にあるようで切手製作の長い歴史とかつての栄光の時代を今に伝える入場料無料の切手博物館に入場することにした。館内に展示されている切手は普通の郵便切手とは一線を画し、どれも芸術性の高いデザインを誇っている。数ある記念切手の中でも♪カ~モン ベーベー♪アメリカのアポロ計画との関連性は深いようで展示スペースーの主要な一角はアポロ一色となっていた。また館内で記念切手の販売も行っており、多くの中国語スピーカーが爆買体制に入っていた。

ファドゥーツの中心地はいくつかの博物館とたくさんのオブジェで彩られているのだが、先述のHILTIも美術に対する造詣も深く、Art Foundationで会社の利益を還元しているようだったので8年前の不採用の一件は水に流すのが筋だろうと考えることにした。

ファドゥーツ市街地を見下ろす高台にファドゥーツ城がそびえているので上ってみることにした。城のデザイン性には特に印象的なものはなく、入場も出来ないので高台からの景色を軽く眺めてリヒテンシュタインから出国した。

チューリッヒに戻り、フライトまでしばらく時間があったので軽く町歩きと洒落込んだ。中央駅の南側チューリッヒ湖に続くリマト川の川岸には鋭く尖った教会が立ち並んでおり、また旧市街はチューリッヒの歴史が凝縮されたスポットになっているのだが、金融センターはマネーロンダリングの温床になっているのではないかという疑問を拭うことは出来なかった。

散歩の途中で公園の便所を使用させていただいたのだが、個室には使用済み注射器を破棄するための穴があり、薬物問題は犯罪行為ではなく、健康や公衆衛生の問題と捉えているスイス独自の考え方の一旦を垣間見ることが出来た。

帰りのフライトはチューリッヒからスイス航空が運航する22:40発LX138便に乗り、香港への帰路に着いた。

8月17日(土)
午後4時過ぎに香港国際空港に到着。スイス滞在中に見たニュースで香港空港でのデモが原因で多数の便が欠航になったことを知らされていたが、香港に入境するとすでにデモ隊は解散させられている様子で逆にいつもより静かな空港模様となっていた。

8月18日(日)
0:55発CX524便成田行きは乗り継ぎ便の乗客待ちで1時間程度の遅れを出したものの、香港国際空港のハブ機能が正常に回り始めた結果であると捉え、心のバランスを取っていた。成田空港には早朝7時くらいに到着したのだが、その時間はスカイライナーの運行もなく、モーニングライナーも丁度良い時間帯のものがなかったので接続の悪い特急でのんびりと東京の西のはずれに帰っていった。

FTBサマリー
総飛行機代 キャセイパシフィック= ¥62,230, ルフトハンザ = HKD9,277
総宿泊費 CHF903
総スイスハーフフェアカード代 CHF120
総鉄道代 CHF315.5
総バス代 CHF16
総タクシー代 CHF77.8

協力 キャセイパシフィック航空、ルフトハンザドイツ航空、スイス航空、Hotels.com、IHG、SBB

FTB南太平洋最強の楽園ボラボラ島ツアー

2018年8月にタヒチへの初上陸を果たしたFTBであるが、その際FTBがモーレア島で撮影した奇跡の1枚が「Air Tahiti Nui 20 year anniversary game」なるフォトコンテストで見事、最優秀賞に選ばれ、タヒチへの往復ペア航空チケットが授与されるという悪運を掴んでいた。2019年が明けると早速Air Tahiti Nuiのマーケティングにコンタクトし、チケット予約担当と渡航スケジュールを調整した結果、日本の海の日がからむ3連休を軸にした日程で有給を取り、再びタヒチで羽を伸ばすツアーが敢行されることとなったのだ。

2019年7月13日(土)
17:40発TN77便は機体のバランスをとるという名目で搭乗客を手荷物ごとヘルスメーターで測りにかけるという珍しい対応に時間を要したものの、定刻どおりの出発は維持され、約11時間のフライトでフランス領ポリネシアの首都パペーテのファアア国際空港に午前10時ごろ到着した。入国審査エリアに通じる小ステージでは恒例のウクレレの演奏で観光客のリゾート気分を盛り上げると徐々に財布の紐が緩んでいくような感覚に襲われた。両替所で当座の現金として¥10,000をタヒチの通貨であるフレンチ・パシフィック・フラン(CFP)に良くないレートで交換していただくとその足で隣の国内線の搭乗カウンターへ移動した。

AIR TAHITIが運行する11:55発VT407便は定刻どおりの出発というわけにはいかず、約1時間の遅れで行き先が同じ次の便と重なり合うように出発となった。AIR TAHITIは座席指定が出来ないため、景色の良い左側席を確保するためには早めに並ばなければならなかったのだが、乳酸が溜まって硬くなったふくらはぎと引き換えに最前列左側の非常口シートの確保に成功し、約45分の遊覧飛行がスタートとなった。

近隣のモーレア島を過ぎ、ボラボラ島に近づくと眼下にはその代名詞となるブルーラグーンのグラデーションが広がり、ひとめでその美しさの虜となってしまったのだが、無常にも飛行機は機体をよじるように旋回し、ボラボラの外輪島の空港へとソフトランディングを果たしたのだった。

到着後、早速空港の建屋に入り、荷物を確保すると居並ぶ高級リゾートホテルのカウンターからリゾートブルーのインターコンチネンタルのロゴを見つけ、名乗りを上げるとリゾートでは欠かすことの出来ないはずの花のレイで歓迎していただいた。空港の桟橋から各ホテルへはそれぞれのシャトルボートでの送迎となっているので宿泊客の人数がそろうまでしばし海を見下ろしているとボラかと見まがえるような魚の大群までが歓迎ムードで透明感を出していた。

ボラボラ島はボラれる島と呼ばれているかどうかは定かではないが、約20分程かかるホテルへの送迎ボートの代金は1人あたり片道¥7,000程度となっているのだが、他に移動の選択肢がないため、必然的に送迎代がホテル料金に組み込まれるという効率的なシステムになっている。それにしても青いラグーンを疾走する航海は快適で送迎代の高さなどその瞬間は微塵も気にならず、後でクレジットカードの請求を見て後悔すれば良いのである。

ボートがInterContinental Hotels Bora Bora Resort Thalasso Spaの桟橋に近づくと高らかなほら貝の音色とともに酋長兼荷物持ちの係りの現地人が宿泊客を出迎えてくれるシステムになっているのだが、彼の人件費も送迎代に含まれているかどうかは定かではなかったのだ。

桟橋まで電動カートを乗り付けて迎えにきたKozueと名乗る日本人コンシェルジュの隙の無い挨拶を受け、一通り敷地内の施設の案内をしていただくとIHG Club Memberのチェックイン場所に案内され、地元特産のバニラで香り付けされた冷紅茶で一息つくことが出来た。さらにボラボラ島のシンボルであるオテヌマ山を背景に半強制的に記念写真を撮られた後、待望の水上ヴィラへの案内の時間となったのだ。

部屋はすべて水上ヴィラなのだが、いくつかのグレードに分かれているようでプライベートプール付の部屋までラインアップされている。ANAの陰謀でIHGの最高級会員ランクであるスパイアエリートにプロモーションで成り上がっているFTB一行にはアップグレードされているはずのオテヌマ山ビューの上部屋があてがわれた。大きな窓とガラステーブル越しにエメラルドグリーンのラグーンが一望でき、簡易シャワー付の広々としたテラスからは水深1.65mのラグーンにエントリー可能な極楽の作りとなっている。

ところで水上ヴィラの構造で一番気になるポイントは上水の供給と下水の処理であるが、生理的な欲求により排泄される汚物等は桟橋の下に張り巡らされているパイプで処理・回収されているようで、決して海に垂れ流しにされることはないということを断言しておこう。

すでに財布の紐がゆるんでしまっていたのだが、フレンチポリネシアでここだけというタラソテラピーを体験出来るディープ・オーシャンスパからの案内はとりあえず無視してホテルの敷地内をゆっくりと散策させていただいた。初日の時差ぼけの影響を受けないようにただひたすら美しい景色に見入ったり、ハンモックでむくんだ背中に網目模様を作ったりしながら高級リゾートを味わいつくそうと躍起になっているうちに夕暮れ時が迫ってきた。

夕食はいくつかあるレストランから一番カジュアルな「サンズ」というビーチフロントのレストランに席を取った。高値のプライムリブステーキを噛み締めながらビーチ方面に目をやるとホテルの従業員のような軽いフットワークでテーブルサーフィンしている子猫と目が合ってしまったので、高い肉の分け前を与えながらボラボラ島初日は更けていったのだった。

7月14日(日)
高級リゾートでは何もしない贅沢を満喫するのが鉄則のはずなので高値で供されるホテルのウォーターアクティビティはとりあえずスルーして今日ものんびり過ごすこととした。

グルメレストラン「リーフ」で朝食のブッフェを満喫すると運動不足が気になったのでカヤックでラグーンに漕ぎ出した。ハネムーンナーやアクティビティをプロカメラマンが撮影していい気になるフォトセッションを横目に見ながら海水がしみこんだパンツが飽和状態になった頃を見計らって陸へと戻ってきた。

昼下がりのラグーンに人だかりが出来ていたので近寄って見るとエイひれを翼のようにはためかせて旋回している多数のエイが観光客に何かをおねだりするかのようにすりすりしていたのでついついその輪に加わることとなった。

当ホテルでは午後2時からエイの餌付けを行っているとの説明をすでにコンシェルジュから受けていたのだが、律儀なエイは毎日30分前には餌場に集合し、観光客と戯れるのが恒例になっているようだった。すねからふくらはぎにかけてエイひれのぬめっとした感触が新鮮さを保っているうちにいきもの係であるはずの屈強な海パン野郎が魚の切り身が入ったバケツを持って姿を現した。6匹ほどのエイに囲まれ、絶大な人気を誇っているいきもの係はこのエイの集団はファミリーで父親、母親、子供らのメンバー紹介をしてくれたのだが、末の子供の名前を
六輔と呼ぶかどうかは常に日本人観光客の判断に委ねられているのだ。

エイ六輔からパワーをもらい、その代表作である♪上を向いて歩こう♪という意識付けがなされた一方で、リゾート地滞在での脳みその流出と時差ぼけとのブレンド効果により、その後のアクティビティはあまり記憶に残っていないのだが、プールサイドでヒナノの黒ビールを飲んだり、スノーケリングのマスクがブカブカで海塩水を飲んだりしながら夕暮れまでの時間をのんびり過ごしていたようだった。

ディナーはフォーマルなフレンチレストランの選択も考えたのだが、昨晩高級牛肉をごちそうしてやった子猫におびき寄せられるように再び「サンズ」レストランに席を取った。今夜は魚系を中心としたアラカルトメニューを発注したのだが、その半分くらいは食べ盛りの子猫の胃袋に吸収されてしまったのだった。ちなみに後で分かったことだが、その猫はホテル専属ではなく、ごく普通の野良の流し猫ということであった。

7月15日(月)
ボラボラ島随一の人気ホテルで宿泊客の回転率が良いためか、スパイアエリートと言えども滞在時間の延長は許されず、午前11時のチェックアウト時間は厳守しなければならなかったのでぎりぎりまで敷地内の絶景を目に焼き付けておくことにした。

10時45分に律儀なポーターが部屋まで荷物をピックアップに来てくれたので後ろ髪を引かれるように水上ヴィラを後にした。チェックアウトカウンターではついさっきまで財布の紐を緩めていた宿泊客が殺気だったように明細の内容に間違えがないかどうかのチェックに余念がなく、1組1組の対応にかなりの時間を要していた。

チェックアウト後、出発までの時間がある上客にはデイルームというシャワー付の小部屋が与えられるのだが、特に海水を洗浄するようなアクティビティは行わなかったのでテーブルでバニラ紅茶を飲みながら夢の続きを楽しんでいた。

ボラボラ島には2件のIntercontinental Hotelがしのぎを削っており、宿泊客向けの有料シャトルボートで結ばれているので12時15分のボートに乗り、外輪島に位置するResort Thalasso Spaからボラボラ本島最南端のBora Bora Le Moana Resortに移動した。

Moana ResortはThalasso Spaに比べてアットホームな雰囲気でレートもリーゾナブルに設定されている。ここでは日本人コンシェルジュの代わりにベイと名乗るモントリオール出身のカナダ人若ギャルが名古屋国際大学で学んだ日本語を駆使して案内をしてくれた。部屋が準備出来るまでの時間を利用して通常であればWelcome Letterでしかその存在を認識出来ないGeneral Managerの生挨拶を受けることとなった。妙齢の女性GMはたどたどしいながらも棒読みで正確な日本語で歓迎の意を表し、その場で快適な滞在が保証されたのであった。

Moana Resortに隣接するように広がる浅瀬のラグーンはタヒチで最もきれいな海といわれているマティラ・ビーチでボラボラ島では唯一のパブリックビーチとなっている。特に海水浴客が大挙して押し寄せてくる雰囲気でもないので、心を空にして澄んだ海と向き合うのには最適な場所であろう。

Moana Resortの客室は大きく分けて水上バンガローとビーチバンガローで構成されているのだが、今回はThalasso Spaで散財し、JCBが1ヵ月後くらいに危機に陥れるはずの財政状態を考慮して安価なビーチバンガローを予約しておいた。とはいえ、部屋代は他のリゾートのレートよりは圧倒的に高いのでここでも相当な出費は覚悟しておかなければならないのだ。

ビーチ&プールサイドのバーでビールを流し込んで昼食の代わりとすると目の前に広がる透明な海に身を委ねることにした。泳いでも歩いても水深はへその位置を越えることは無く、水底に転がるウニと戯れながらセラピー効果を高めていた。

夕暮れ時に戻ってきたマティラ・ビーチはサンセットビューポイントとしても有名で海浴びをして戯れながら西日を見送る原住民の姿は太古から変わらぬ営みそのものであったのだ。

7月16日(火)
ボラボラ島上陸後、丸々3日間はホテル敷地内のビーチやラグーンの美しさに魅せられてホテルにへばりつくような過ごし方に終始したのだが、高い部屋代も常識的レベルの高さに落ち着き、もはや元を取るのに躍起になる必要はなくなったので今日は島を一周するアクティビティに参加することにした。

昨日のチェックインの段階でコンシェルジュのベイに相談してVauvau Adventuresが催行する4×4ジープサファリツアーの午後の部を常識的な値段で予約していたのでピックアップ指定時間の午後1時半にロビーで待っていた。何らかの不手際で30分程遅れてやってきたのはイタリアのスーパーカーであるマセラティ・ボーラ(Bora)ではなくボロボロ系の4WDであった。

FTB一行の他、米国からの観光客2組を荷台シートに乗せてツアーの火蓋は切って落とされたのだが、ビューポイントの高台に向かうべく、オフロードの急坂をビーストモードに切り替えて駆け上がる時にV型8気筒320馬力を誇るマセラティ・ボーラでも4WDジープには太刀打ち出来ないことがすぐに理解出来た。

このツアーは単に景色の良い見所を巡るだけでなく、島の成り立ちや地理、歴史、文化の説明もふんだんに含まれる教育的側面も持っている。ボラボラ島は火山活動で形成され、ラグーンを囲むように珊瑚礁の外輪島が点在しているのだが、この大きなカルデラは阿蘇の外輪山と中央の阿蘇五岳の関係に近いものがある。本島の中央には標高727mのオテヌマと661mのパヒアがそびえ、オテヌマは東の外輪島に位置するInterContinental Hotels Bora Bora Resort Thalasso Spaの方角からは「いいね!」に見えるが、島の南から見るとぬりかべにとして立ちふさがってしまうのだ。

高台からリーフの方向に目をやると世界中の色々な青をこの場所に集約させたようなグラデーションが美しく、この景色を目の当たりにすることがジープサファリツアーの最大の醍醐味であることは間違いないであろう。ちなみにボラボラの海は自然に出来たものだけでなく、人工的に形成された場所もあるとのことであったのだが、1941年12月8日に日本が真珠湾を奇襲した後、米軍は太平洋の覇権を守るために新たな軍事拠点が必要となり、ここボラボラ島に軍艦が入港できる港を造成する目的でダイナマイト爆破により水深を稼いだ暗い過去も忘れてはならない歴史の一部である。

自然のグラデーションの感動もさめやらぬうちに高台から撤収し、家内制手工業が展開する人工的なグラデーションを作るパレオ工房の見学へと移行した。出迎えてくれた猫店長の背後には植物等の自然由来の染料で染められたカラフルなパレオが風にたなびいていた。

見学者接待用のカットフルーツをほおばりながら、柄付けのデモンストレーションを行っていただいたのだが、出迎え時に作業台に上っていた猫店長はその後、少年から折檻を受けて足蹴にされ、見送りをすることなく引きこもってしまったのだ。

海沿いの遺跡のような石垣のような石壁の名残と亀の象形文字が刻まれているマラエ(野外宗教施設)でしばし歴史の授業が開かれた。ここにあった石造りの祭祀場ではかつて自然災害対策として少年少女の島民がいけにえとして捧げられる風習が長らく続けられていたが、、西洋人の侵略による文明開化ですべてキリスト教の神のご加護へと転身させられたとのことであった。

次の高台のビューポイントへは舗装路から轍路を通って到着し、ジャングルっぽい場所で車を降りた。近くの岩の表面の多くの穴はダイナマイト充填用に空けられたもので見渡しの良いこの場所には米軍の7インチ砲が数キロ先の標的をロックオンしていた。この大砲は軍艦から移設したものを岩の台座に固定したもので、結局太平洋の覇権獲得に失敗した日本軍の侵攻の脅威がないまま、その咆哮は封印され、野ざらし歴史遺産への道を辿っているのである。

周囲40kmあまりのボラボラ島をほぼ一周し、最終ポイントとなる南東の高台に上がった。ここからはタヒチ発祥の地として歴史的に重要なライアテア島とその姉妹島のタハア島の遠景を拝むことが出来る。東南アジア(フィリピンか?)から流れてきたポリネシア人の祖先達が一番最初に漂着したのがライアテア島で、その時彼らはこの地こそ伝説に伝えられる「ハバイイ」(魂の故郷でもある聖なる地の意味)だと確信したという。

ライアテア島はその後、ポリネシアの王族や信仰の発祥の地として長い間すべての中心として存在した。さらにポリネシア人はこの島からハワイ、ニュージーランド、イースター島へとカヌーでわたり、ポリネシアン・トライアングルという一大文化圏を作っていったのだった。

夕暮れ前にホテルに戻り、近隣のスーパーで買ってきたヒナノアンバー缶ビールと日本製スナックで水分と塩分を補給しながら部屋のテラスでクールダウンさせていただいた。

今夜はビュッフェ料理を肴に地元ダンサーによるタヒチアン・ダンス・ショーが開催されるということなので中庭のステージフロントの特等席を予約していただいた。お約束のダンスが一通り終わるとダンサーに指名された観客がステージまでエスコートされ、一緒に腰振りダンスを強制させられるシステムになっているのだが、ピンクレディーの♪ペッパー警部♪を彷彿とさせる大股開きの振り付けを習得するには滞在期間が短すぎるのだった。ショーが終了し、♪夢からうつつに戻された♪客にはダンサー達との記念撮影が待っており、皆一様に「ボラボラ!」との掛け声とともにポーズを取っていた。

7月17日(水)
高級リゾートに4泊して財政状態をボロボロにしたはずのボラボラ島から撤収する朝を迎えた。

早朝のマティラビーチには人影は無く、朝日に照らされた椰子の木の影が透明な水面に映し出され、これから進むべき方向を示唆しているかのようであった。

10時40分発のシャトルボートに乗るべく桟橋に向かうと異例のGeneral Managerの見送りとともに加山雄三曲のレパートリーを持つウクレレ従業員が浮かれた気分が盛り下がらないように配慮してくれたので彼らとの再会を約束してボートに乗り込んだ。

ラグーンを疾走するボートは名残を惜しむまもなく空港へと元宿泊客を送り届け、12:15発VT435便で地上最強の楽園であるはずのボラボラ島からTake Offとなった。

景色の良い席の確保に失敗したため、ふぁ~ぁ~とあくびを決め込んでいるといつの間にかファアア国際空港に到着していたので、タクシーを捕まえて一路フェリー乗り場に移動した。首尾よく午後2時発のテレバウ社の高速フェリーに乗船出来たので2時半にはモーレア島へ上陸することが出来たのだった。フェリー乗り場の目の前に出店しているAVISレンタカーで手続きをしながらフランス領ゆえ、ゴーンが風とともに去った後のルノー車が割り当てられると思ったのだが、中国製のBYD車のレンタルとなったため、ガーンとなった気分を振り払うこともままならず左ハンドル5速マニュアル車のウインカーを操作したつもりがワイパーを動かしながら海沿いの道路を走り出した。

島を半周し、約40分程でポイントを使ってただで泊まることが出来るIntercontinental Moorea Resort & Spaに到着した。このホテルには約1年ぶりの帰還となったのだが、ドルフィンセンターのイルカや保護センターの海亀は変わることなく景色の一部となっていた。

今夜はビーチのビュッフェレストランで伝統舞踊のショーが行われるということだったのだが、昨晩ボラボラでフィーバーしたばかりだったので違うレストランにエスケープして創作シーフードを発注した。舟盛の魚介類を食べ進めるうちに味がくどいと思いながらもビーチの喧騒に聞き耳を立て、モーレアのアットホームな雰囲気を懐かしんでいた。

7月18日(木)
たとえ中国製とは言え、車があるということは観光の自由度が大きく広がるというメリットを享受出来るので早速BYD車をぶん回して近くのショッピングセンターへとしけこんだ。ボラボラ島で猫店長率いるパレオの工房を見学して是非とも土産に買って帰らなければならないとの義務感にかられていたので「ナチュラル・ミスティック」というギャラリー兼ショップに足を運んだ。量産品ではない一点ものが並ぶ数多くのデザインの中から気に入った色合いのものを空港やホテルのショップで買うよりもお得な値段で入手出来たので意気揚々とホテルに戻ってきた。

一流画家ゴーギャンにして「古城のようだ」と言わしめたモーレア島のパノラマを堪能出来る高台まで車を走らせる道すがらぽつんと一頭馬と出会ったので軽くご機嫌取りをしてやった。

ベルベデールという展望台の駐車場はほぼ満車状態で4輪駆動のバギーに乗って島のオフロードを走るクアッドツアーの一団も遠慮がちに道路わきのポジションを確保して、モーレア島のシンボル的存在である標高880mのモウアロア山やふたつの湾の間にそびえる標高899mのロツイ山等の絵葉書のような絶景に見入っていた。

Late Check outの午後2時までしばらく時間があったのでホテルに戻り、ビーチバーで薄いわりに値段の高いアイスコーヒーとNachosをほおばっていると将来は有望な卵製造機やチキンソテーになることが約束されているはずのひよこ集団が首を前後に振りながらおすそ分けを求めてきたので施しを与えなければならなかった。

昨日のモーレア島の上陸以来すでに島を半周していたのだが、残りの半周はマサに輝く景色の連続であった。入り江に停泊するクルーズ船を見送り、マウヴァビーチの透明感で心を潤した後、トアテア展望台という高台に到着した。この場所はソフィテルホテルが仕切っている「水上バンガローとラグーン」の絶景ビューポイントで眼下にはモーレア島で一番美しいビーチといわれる「「テマエのパブリックビーチ」が広がっており、その先にある海と空の隙間にはタヒチ島が腰をおろしているのである。

この景色を目にしていつかソフィテルの水上バンガローを制覇しなければならないと心に誓いながらフェリーでモーレア島を脱出し、帰国準備のためにタヒチ島のIntercontinental Tahiti Resort & Spaに移動した。チェックイン手続き後、屈強な原住ポーターに荷物を運んでいただくとWelcome Drink券を握り締めてオーシャンフロントプールのバーに向かった。

テキーラのカクテルと夕日のカクテル光線のコラボレーションで最後のマリン・アクティビティを締めると晩餐の席では鹿肉のソテーと一緒に幻想のようなツアーの思い出を噛み締めていた。

7月19日(金)
夜明け前の早朝5時に迎えに来たタクシーに乗り込み、恒例のふぁ~ぁ~というあくびが収まらないうちにファアア国際空港に到着した。7:15発TN78便は定刻どおりに出発となり、「モアナと伝説の海」という漫画映画を見ながらはからずも今回学習したタヒチの伝説のおさらいをすることとなったのだ。

7月20日(土)
♪夢からうつつに戻された♪午後2時過ぎに成田空港に到着。♪カーモン ベ~ベ~ アメリカ♪というリズムとともに車を預けていたUSAパーキングで洗車済みの車を受け取り、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 AIR TAHITI NUI = ¥0、AIR TAHITI = ¥47618
総宿泊代 CFP365,805 (CFP 1 = ¥1.04)
総タクシー代 CFP6,300
総インターコンチネンタルホテル送迎フェリー代 CFP36,116
総4WDツアー代 CFP8,500
総レンタカー代 ¥9,693
総ガソリン代 CFP700
総フェリー代 CFP2,320

協力 AIR TAHITI NUI、AIR TAHITI、IHG、AVISレンタカー、Vauvau Adventures