シン・FTBハワイ島ボルケーノリゾートツアー

アロハ ボンよ ハワイ湯!?

というわけで、昨年のオアフ島を皮切りに、年初にはカウアイ島を訪問し、ハワイのネイバーアイランドの旅も二週目に突入しているわけだが、今回は2002年12月以来のハワイ島に上陸し、今なお活動を続ける活火山に活を入れていただき、翌週から始まる新しい仕事へのエネルギーとさせていただくべくボルケーノツアーを敢行することと相成った。

2024年7月13日(土)
20:10発NH184便A380フライングホヌ3号機は定刻通りに出発すると約7時間のフライトで翌朝ホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港に到着した。引き続き11:10発HA232便は少し遅れを出したものの最後部座席のエンジンフロントの窓からかすかに見えるなだらかな台地の稜線を横目にハワイ島のヒロ国際空港に滑り降りた。

哀愁を含んだメロディーであるはずの「つのだ☆ひろ」の♪メリー・ジェーン♪のリズムに迎えられることもなく、淡々と荷物を受け取りANA Travelersに予約させておいたアラモレンタカーのカウンターではあらも~コンパクトカーがなくなったということで日産の中型車かジープのどちらかを選んでよいと言われたので迷わずジープを選択してボルケーノツアーの幕が切って落とされた。

四国の半分の大きさを誇るハワイ島の台地の息吹を初日から感じるべく、ヒロから11号線を南西に走りハワイ火山国立公園(世界遺産)を目指した。入口で車1台につき$30の入園料を払う際に,前回来た時には$10だったことが脳内をかすめるといやがおうでも長い時が溶岩のように流れさってしまったことに感慨を覚えた。

今日のアクティビティは何もしないことがメインになるので早速事前予約しておいた火口淵に立つ歴史あるホテルである「ボルケーノ・ハウス」にしけこませていただいた。

1846年創業のハワイ火山国立公園内に立つ超有名なこのホテルの部屋はスタンダードとボルケーノクレータービューの2タイプに分かれており、九州弁で「ぼるけの~」と言われて高い金を払わされてもクレータービューには価値があると思ったので神様がくれ~た~はずの眺望を見渡せる部屋にチェックインした。

部屋からは雄大なキラウエア・カルデラが見渡せるのだが、幸か不幸かキラウエア火山は2023年の噴火以来沈静化している様子で悪魔のような赤い溶岩の流れや阿蘇中岳のような噴煙は見られなかった。

ボルケーノ・ハウス内にはギフトショップやレストラン、バーもあるので昼間の時間は宿泊しない多くの観光客で賑わっている。

ウエルカムドリンクが体内に浸透した頃を見計らって軽く近隣の散策に繰り出すことにした。クレーターも見る位置を変えると一層その輪郭が際立って見え、まるで隕石が落下した痕跡のようなきれいなえぐられようであった。

火山噴火後、長い時間をかけて生態系が回復していくわけであるが、名も知れぬ花や大ぶりのアジサイ、カウアイ島ほど数は多くないニワトリが数羽いた程度であったろうか。

ハワイ火山の予備知識を吸収するためにキラウエア・ビジターセンターにお邪魔させていただいた。ここでは記録映画による火山の成り立ちの説明だけでなく、外来生物により固有種が蹂躙されている様子も野生の豚等のはく製を使って効果的に表現されている。

何といってもここでの最大の見所はキラウエアに在住の火の女神「ペレ」の肖像画であろう。一部のサッカー通の間ではペレと言えば、ブラジルを優勝に導いたハナ 肇似のワールドカップのレジェンドのことを思い浮かべるのであろうが、ハワイの人々は、火山が爆発するたびにペレが怒ったといってその怒りを鎮めるための儀式が執り行われているという。

夕暮れ時にボルケーノ・ハウスに戻ると昼間かかっていた雲はすっかり風と共に去りぬ状態で台地を思わせるなだらかな稜線のみが地平線と化していた。

ボルケーノ・ハウス内にあるザ・リム(The Rim)というレストランを19:30に予約していたので赤く染まる夕日を肴に地産地消の料理を楽しませていただいた。メインで注文したチキンは数時間前に遭遇した中の一羽ではないかと疑う隙も与えないほど料理の質は洗練されたものであったのだ。

7月14日(日)
ハワイとは言え、標高1200mの標高ともなると朝はしっかり冷え込むのだが、凛とした空気にクレーターの輪郭が冴えていた。

ボルケーノ・ハウスをチェックアウトするとCrater Rim Drive Westに沿ってジープを走らせ、キラウエア展望台に到着した。ここからのキラウエア火口の眺望もさることながら、荒野に繁茂する大木を彩る赤い花が目に留まった。

観光客グループを取り仕切っていたガイドの説明によるとその植物はオヒア(OHI’A)というもので火山噴火後の生態回復の過程で一番早く根ざすものだそうだ。

その木はオヒアレフアとも呼ばれているようで、ハワイの伝説で、火山の神ペレが青年オヒアに恋したが、オヒアにはすでにレフアと呼ばれる恋人がいたので拒絶したところ、ペレは怒ってオヒアを醜い木に変えたので、他の神々がレフアを憐れんでこの木に咲く美しい花にしたという伝説さえ残っているのだ。

Crater Rim Driveから分岐したChain of Craters Roadは溶岩台地を切り裂き海まで下るダイナミックなドライブコースで過去に噴火したクレーターが次々と姿をあらわしてくれ~たのだったが、前回来た時には黒い溶岩も舗装したてのアスファルトのように焼きたて新鮮で何よりも海に溶岩が流れ込み噴煙を上げている姿が印象的だったのだが、今回はペレも溶岩流のシュートを海に向かって放ってないようだったので落ち着いて見学にいそしむことが出来たのだった。

一方で、岸壁に打ち付ける波と風は荒々しく、もろい海岸線には穴が開けられ、最終的にははかなくも崩れ去っていくのであろう。

Chain of Craters Roadからの帰りの上り道のビューポイントのいくつかで車を止めて外に出てみると溶岩を突き破って繁茂しようとする生命の力強さを感じることが出来る。これがマサに再生というものが目の前で展開されている景色である。

Lava Tubeなる溶岩が通り抜けた夢の跡系のトンネルが口を開けていたので通り抜けてみることにした。ここは約500年以上前に起こったキラウエア火山の噴火によって開口されたもので格好のトレッキングスポットとして整備されている。また周辺の熱帯雨林とのコラボレーションも見ものである。

キラウエア・カルデラの隣にキラウエア・イキ火口が平坦なトレッキングコースを提供しており、非日常空間を楽しみたいはずの粋な観光客がさっそうと闊歩している姿が目に入ったのだが、このアクティビティは次回に回すことにした。

ハワイ火山国立公園を退場し、ヒロまで戻り、島を横断する200号線に入ろうかと思ったのだが、ヒロの広さに翻弄されて道に迷ったので急がば回れで海岸線ルートを取り、西海岸のコハラ・コーストに向かった。

今日の宿泊先であるHilton Grand Vacations Club Ocean Tower Waikoloa Villageは前回宿泊したHilton Waikoloa Village内の敷地の奥座敷に位置しており、安定的な高値で観光客をおびき寄せている夢のリゾートである。

到着した時間が遅めだったもののサンセットには何とか間に合うことが出来たので絶景を胸に刻み、プールでのクールダウンも含めて次回訪問時の演習とさせていただいた。

7月15日(月)
今日は日がな一日ワイコロア・ビーチ・リゾート内にとどまることとなった。

ワイコロア・ビーチ・リゾートの核となっているのは言うまでもなくHilton Wikoloa Villageという巨大テーマパークリゾートである。

敷地内にはメイン・ロビーを中心にトラム(モノレール)とボートの交通手段が張り巡らされているのだが、トラムのスピードは歩いている人に抜かれる程度でスーツケースの運搬には便利である。ボートの方は運航していない様子でボート基地にぼ~と留まっていたのだ。

敷地内の動物の種類は豊富であり、ショップの店番として猫の手を貸している輩や害獣駆除のために導入され、その後野生化したマングースや多くの魚類はその辺の水のあるところで元気に泳いでいた。

この地の動物の王者として君臨しているのはDolphin Quest Villageに幽閉されている数頭のイルカで、イルカと触れ合うプログラムは高値だが、大変な人気を博しているようだ。城みちるのような♪イルカにのった少年♪体験程度のものであればそんなのいるか!と拒否されるかも知れないが、少なくともイルカのトレーナー気分は味わえるのではないだろうか?

トラムの路線と並行するように長い回廊が伸びているのだが、そこはオープン美術館と呼べるほどの美術工芸品が立ち並んでいる。

ハワイアン、ポリネシアンだけでなく、ヒルトングループの総力を結集して東洋からかき集めたはずの仏像や陶芸品はリゾートに疲れたバカンス野郎に心の平穏を取り戻させるための一服の清涼剤になっているのだ。

喧噪のヒルトンを後にしてワイコロア・ビーチ・リゾートを平行移動するようにMarriott’s Waikoloa Ocean Clubに移動した。昨年オーナーになったMarriott Vacation Clubを最大限に活用すべく2泊のみ予約が取れたのでここに来たのは必然の成り行きだった。

さすがにVacation Clubの立地だけに徒歩圏内に2つの便利なショッピングセンターがあり、ここでは気取らずにゆっくり過ごせる配慮がなされているように感じられた。

早速横断歩道を渡って目の前の規模は小さいキングス・ショップスをぶら散歩することにした。昼飯を食っていなかったのでハワイで人気のアイランド・ヴィンテージ・コーヒーに入店し、マイルドなスムージーをベースにしたアサイーボウルと匂いを嗅いだだけでそれだと分かるコナ・コーヒーを吟味させていただいた。

近くのスーパーまで足を延ばすとさすがにコナ・コーヒーの聖地だけあり、様々なパッケージを着飾ったものが高値で売られていた。中でもレオナルド・ダヴィンチもその出現を予想できなかったはずのKONA LISA COFFEEの微笑みに魅了されたものの買い付けは後日の楽しみに残しておいた。

マリオットに戻り、敷地内を散策したのだが非日常感を演出する奇抜なヒルトンとは異なり、ここではFish Pondやワイルドな溶岩台地が目の前に迫っており、より自然との一体感が楽しめるようになっている。

古代ハワイアンの遺跡を抜けてPublic Beachに向かう途中に野良猫の公認たまり場があるのだが、ここでは管理された餌場を巡って猫とマングースが共存兼仁義なき戦いを繰り広げているのである。

燃えるサンセットの移ろいは同時にルアウ(ハワイ語で宴会)の時間でもあり、ハワイ島西海岸のリゾートを彩るお約束の光景となっているのだった。

7月16日(火)
部屋にはバスタブは無かったが、昨夜の長ジャグジーで疲れを水疱と化していたので、早朝から猫の見守り等、施設内を散策することが出来た。また、昨夜の内に大型ショッピングモールのクィーンズ・マーケットプレイスで食材を買いあさっていたので朝食のネタには事欠かなかった。

今日はボルケーノツアーを締めくくるべく、マウナ・ケアでパワーチャージをしなければならなかった。

ハワイ島のツイン・ピークは言うまでもなく標高4,205mのマウナ・ケアと4,169mのマウナ・ロアであるが、その間を縫うようにして馬の鞍のようなサドルロードが通っている。ワイコロア方面からサドルロードには入れたのだが、マウナ・ケアへの分岐道を見誤って時間のロスとともにガソリンを食ってしまったので給油のために一気に東海岸のヒロまで突っ切ることにした。

つのだ☆ひろの♪メリー・ジェーン♪よりも♪メリーアン♪の方に共感する時代を過ごしてきたため、ヒロでは給油と給水のみですぐにサドルロードに引き返し、夜には♪星空のディスタンス♪が近くなるはずのマウナ・ケアに向かってジープのアクセルを踏み込んだ。

首尾よくマウナ・ケアへの分岐道が見つかったので標高2,804mのオニヅカ・ビジターセンターまで一気に駆け上がることにした。尚、オニヅカとは1986年に起きたスペースシャトル「チャレンジャー号」の事故で命を落としたオニヅカ大佐にちなむものだ。

ビジターセンター内には望遠鏡の模型やポスターが展示され、「すばる」という大型光学赤外線望遠鏡を要する日本が国際共同利用観測所の中心的役割を果たしていることが一目で分かるようになっている。

土産物のラインナップも豊富でマウナ・ケアのTシャツを購入する際に売店のおね~ちゃんから頂上まで足を延ばすのかいと聞かれたときに通常であれば谷村新司よろしく♪わ~れも行く♪と啖呵を切るところであったろうが、あいにく車がスバルの四駆ではなかったので今回は断念を決め込んでいた。

ビジターセンター周辺を散策するとそこはマサに不思議の国でまるでそこに生きる「アリス」になったような気分を味わった。

なるほど♪昴♪を要するマウナ・ケアは谷村新司の山であり、逆方向のマウナ・ロアは♪君のひとみは10000ボルト♪を誇る女神ペレが住むことから堀内孝雄の山と解釈することも出来るだろう。

マウナ・ケアへの山頂までは「サンセット・星空ツアー」に参加するのが王道であるが、異常な円安で見送っていたので次回は♪心の命ずるままに~♪行動することを誓いながら下山することとなったのだった。

早めの時間にワイコロア・ビーチ・リゾートに帰って来れたのでキングス・ショップス内のエーベイズ・アイランド・グリルでハッピーアワーを堪能させていただいた。タップから注がれるコナビール ロングボードアイランド ラガーで肉類を中心としたハワイ・リージョナル・キュイジーヌを流し込みカジュアルな気分で最後の晩餐を楽しませていただいた。

今日はルアウはなかったものの夕日の色は相変わらず鮮やかで日が落ちた後もなかなか抜けないオレンジ色が漆黒へと変貌するまで西の空から目を離すことが出来なかったのだ。

7月17日(水)
早朝4時過ぎに起床し、すでにリゾートのメンテナンスのためにかいがいしく働いている従業員を横目に帰国の準備を整えていた。丁度コーヒーショップ等の店が開店する6時にマリオットをチェックアウトすると昨日予習しておいたサドルロードを抜けてヒロへの帰路を急いでいた。

ヒロ国際空港には7時半過ぎに到着したのだが、朝食を取るべく店舗も少なかったのですみやかに9:30発HA161便の機上の人となった。ホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港のANA Suite Loungeでモーニングビールとカレーで華麗なブランチを済ませると
12:20発NH181便は来た時と同じA380フライングホヌ3号機であることに気づかされた。

7月18日(木)
アルフィーは♪た~とえ500マイル離れぇても~♪という歌詞で長いディスタンスを表現しているが、ホノルル・成田間の区間マイルと比較すると果たして500マイルは遠いのかと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥104,670 / passenger
総宿泊費 $750.16
総レンタカー代 ¥75,761
総走行距離 434マイル
総ガソリン代 $73.17

協力 ANA、ハワイアン航空、ANA Travelers、アラモレンタカー、HILTONHHONORS、Marriott Vacation Club

シン・FTB第7次MLBツアー ♪ニューヨーク・ニューヨーク♪

ニュ~ヨ~~クへ行きたいかぁ~!
ウォ~~~~!!!

という福留功男日テレアナウンサー(当時)の掛け声と参加者の地響きアンサーにより幕を開ける「アメリカ横断ウルトラクイズ」は当時学生だった私の野望と好奇心を常に駆り立てる名作であった。また、1980年7月にリリースされた「パープルタウン」は八神純子により♪愛する気持ちを呼び覚ます都会(まち)ね Ne~w Yo~rk♪と歌いあげられ、当時の若者の心に大いなる刺激を与える名曲であった。

私が初めてニューヨークに足を踏み入れたのはパープルタウン発売7周年記念の1987年7月のことであり、その後長らくのブランクを経てイチローやゴジラ松井がニューヨークでセンセーションを巻き起こし始めた2000年代からしばしばこの地に通うようになっていた。とはいえ、田中マー君がヤンキースタジアムでデビューを果たした2014年を最後にビッグアップルの摩天楼から遠ざかっていたのだが、ついにその大きな谷を埋めるべくイベントがニューヨークで発生することとなったので嬉々としてNYで入浴する気持ちが芽生えてきたのであった。

6月7日(金)
羽田空港第二ターミナル発着の11:00発NH110便は定刻通りに出発すると手持ちのアップグレードポイントを使い果たしてしけ込むことに成功したB777-300機のビジネスクラスTHE ROOMに腰を落ち着けたのだが、座席が前後の向きを組み合わせて配列されており、私の席は進行方向に背を向けていたため、離陸時の重力に違和感を感じながらのスタートとなった。

約13時間のフライトでJFK国際空港に到着したのは午前11時過ぎで軽く米国への入国審査を通過するとAir Train ($8.5)、地下鉄($2.9)を乗り継いでまずは本日の宿泊先に向かうことにした。ところでNY市の地下鉄は長らくMetroCardで入場するシステムになっていたのだが、昨年よりOMNY(One Metro New York)が導入され、非接触型決済システムに対応したクレジットカードが使えるようになり、MetroCardもその役割を終える予定になっているのだが、カードを持たないはずのホームレスの皆様方にとっては地下鉄が益々ハードルの高い乗り物となっているようだ。

地下鉄で到着したペンステーションでNJ Transitという列車のチケットを購入すべき自動販売機の操作をしている最中にはしきりに$2をせびってくる輩につきまとわれたのだが、これこそマサにNY旅行の醍醐味であり、このようなアナログ無心行動が残っている現状に少し安心感を覚えたのだった。

ニュージャージー州を抜けてペンシルバニア州に向かうNJ Transitの運行もアナログそのもので乗車する列車のプラットホームが決まる直前まで乗客は駅の構内でなすすべもなく待たされるシステムになっていた。何はともあれダイヤの乱れが日常になっている様子のNJ Transit列車に乗り込むと約50分程でNewark Liberty International Airport駅に到着した。そこからさらに運賃無料のAir Trainに乗り換え、Parking 4駅で下車し、Hotel Shuttleの待ち合わせエリアでHOLIDAY INN NEWARK INTERNATIONAL AIRPORTのバスを待っていた。

30分程の待ち時間はあったものの無事にシャトルバスに乗車し、ホテルにチェックインすることが出来たのでベッドの上でしばし旅の疲れを取らせていただいた。
午後4時前にはホテルを出ると来た時と逆の手順でペンステーションに戻り、さらに地下鉄に乗って10年ぶりの帰還となるヤンキースタジアムを目指した。乗り換えが必要であったが、ヤンキースのユニフォームを着ている集団の背中を追っていると次第に人口密度の多い方へと誘われ、ついにスタジアム前の喧騒の中の一部と化すこととなった。

2016年以来のヤンキースタジアムでのカードとなる対ロサンゼルス・ドジャース戦は大谷人気も相まって日本人ファン率の高さに圧倒されながら流されるように入場ゲートを通過し、角度的には左打席の大谷フロントではあるが、ターゲットからは程遠い最上階の固いシートに腰を下ろしてプレーボールの瞬間を今か今かと待っていた。

グラウンドに目を向けるとドジャースの先発ピッチャーである山本由伸が独特のやり投げフォームで投げやりにウォーミングアップに精を出しており、勢い余った遠投の投球がキャッチボール相手の頭上を越えてスタンドに突き刺さる様子も垣間見られた。

48,000人以上の観客を集めて午後7時5分にプレーボールとなったゲームは1回表ドジャーズの攻撃で2番打者の大谷を迎えたところで早くも盛り上がりのピークとなった。ヤンキースファンのブーイングとドジャースファンの歓声が入り混じる中3-2のフルカウントからセカンドゴロに倒れ、続くフリーマンは自由人よろしくフォアボールを選んだものの4番打者のスミスのセカンドゴロで攻撃終了となり、淡々と進行するゲームのスタートとなった。

ハイサイおじさんを彷彿とさせる沖縄出身のデーブ・ロバーツ監督により自信をもってマウンドに送り出された日本最高峰投手である山本由伸がブロンクス・ボンバーズとの異名を取る強力ヤンキース打線とついに対峙することとなった。

1番、2番打者を簡単に打ち取り、次に打席に向かうのは大谷も見上げるほどの巨漢のホームラン打者であった。通算755号のホームランを打ち、世界の王貞治に抜かれるまでは世界一であった伝説のハンク・アーロンと同じ名前を持つアーロン・ジャッジに対し、カウント2-2から投じられたフォークボールに黒いバットが一閃すると打球はあっという間にレフト頭上を越える2塁打となってしまった。次打者スタントンもジャッジに匹敵するホームラン打者であったが、あっさり三球三振に打ち取られ1回裏の攻撃は事も無げに終了した。

ゲームはその後両チーム無得点のまま淡々と進んで行った。好投を続ける山本由伸の投法は足を高く上げないスライドステップで一部の野球通から「あっち向いてホイ」投法と揶揄されているが、これまでの試合では前後左右に振られる指の動きと相手の首の向きが合ったときに打たれていたような印象であったが、今日のピッチングはバッターの狙いが合った時でも力でねじ伏せられるほどの制圧振りであった。スピードガンによる直球の計測速度も自己最高の98マイルとなり、最終的には106球を投げてヤンキース打線を7三振の無得点に抑えきってマウンドを後にしたのだった。

試合はそのまま延長戦に突入し、タイブレークで無死2塁からの開始となるのだが、前の回に凡退した大谷は11回表には2塁ランナーとして復活し、フリーマン四球、スミスがセンターライナーに倒れた後、5番のテオスカー・ヘルナンデスが2塁打を放ちドジャースに2点をもたらせた。その裏の攻撃をジャッジのタイムリーヒットによる1点に凌いだドジャースが3連戦の初戦をものにするとハイタッチを交わすドジャース選手を祝福するようにフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪の歌声が高らかに響いていたのだった。尚、本日の大谷は5打数無安打と不発に終わり、日本人ファンの期待に応えるには至らなかったのだ。

試合終了後、数万人の観客が一気に流れてくる地下鉄駅に蟻の歩みのようにゆっくりと進んでいくと改札のところで腰位置からの前方圧力で回転するバーを飛び越えて入場している輩も多く見受けられたのだが、なるほどこの方法だとMetroCardやクレジットカードがなくても地下鉄に乗ることが出来るのであえて管理を甘くしてホームレスへの救済策として機能しているのではないかと感心させられたのだった。

6月8日(土)
地下鉄でペンステーションに到着したころにはすでに日付が変わってしまっていた。NJ Transitは相変わらず遅れを出しているようだったが、ヤンキースタジアムから流れてきた乗客は気にする素振りもなく、車内はマシンガントークの嵐で活気づいていた。結局ニューアークのホリデーインに帰って来れたのは丑三つ時を過ぎた時間であったろうが、時差ボケの影響もあったのであまり気にすることなく意識を失うことのみに専念しながら過ごしていた。

午前9時半頃覚醒すると昨夜入浴していないことに気づいたもののここはニューヨークではなくニュージャージーなので仕方がないことだと思いつつ、浅いバスタブに斜めに身を沈めて体内時計の調整を図っていた。ホテルのアメリカンブレックファストのスクランブルエッグはすでに固くなっていたのだが、胃袋の容積を満たすのには十分だったので腹八分目まで詰め込んだ後、昼寝と洒落こむことにした。

ホテルの客人にも3時間の時差を超えて飛行機を飛ばしてやってきたドジャースファンが多数いたのでユニフォーム姿の彼らとともに午後4時くらいにホテルを出ると昨日と同じ手順でヤンキースタジアムを目指した。今日の試合は昨日より30分遅い午後7時35分開始となる予定で夕食のポップコーンを買って席に着こうと思っていたころに始球式が始まった。

モニターを見上げるとヤンキースの背番号55番のユニフォームに身を包んだ日本人顔がマウンドから全力投球したものの投球は大きく右にそれる大暴投となってしまった。驚きはこれだけにとどまらず、始球式の主はヤンキースの共同オーナーとして君臨しているビズリーチの社長であり、暴投の原因はこの転職サイトを使わずに、60歳を直前にしてすでに転職先を決めてしまっている私への当てつけでないかと勘繰られもした。

今日のゲーム展開は昨日の試合であっち向いてホイに幻惑させられたブロンクスボンバーズの強力打線は鳴りを潜める一方でドジャースはテオスカー・ヘルナンデスの2本のホームランなどで大差が付けられていた。

私の席の斜め右前方に観戦マナーの悪いヤンキースファントリオがゲームが始まっても着席せずにはしゃいでいたのだが、いつの間にか彼らの声援はトーンダウンし、ついには周辺のドジャースファンに見送られて退散となってしまった。

食べても減らないポップコーンで口中の水分をすっかり奪われてしまったのでビール売りから$17のジャイアント缶ビールを調達したのだが、ビズリーチの社長が始球式後にビズリーチ女優がやっているような人差し指を立てるポーズを決めることが出来なかった憂さを晴らすようにそのデザインは「いいね!」の太い指を模したガチョウが「がちょ~ん」
と叫んでいるかのような図柄であった。

今日の大谷とジャッジの動向であるが、テオスカーに主役の座を奪われた大谷も3回表にきっちりレフト前にタイムリーヒットを放ち、4打数1安打でかろうじて存在を示していた。ジャッジの方は大差の負けゲームであっても彼のモチベーションは落ちることなく、2本の本塁打を放ち、ホームランキングの独走態勢に入って行ったのだった。

結局試合は11対3でドジャースが連勝し、このカードの勝ち越しを早々と決めてしまった。♪ニューヨーク ニューヨーク♪のメロディーに見送られ、ヤンキースタジアムのトイレで見た後ろ姿は松井の亡霊であったのか、また、ペンステーション近くで見上げたエンパイヤ―ステートビルは近隣のビルに反射してあたかも双子のビルに見えたのもニューヨークの幻かと思いながらホテルへの遠い道のりを引き上げていった。

6月9日(日)
午前中に2日間お世話になったHOLIDAY INN NEWARK INTERNATIONAL AIRPORTを引き払うとようやくマンハッタンへと拠点を移すこととなった。そもそも週末のマンハッタンのホテル代が異常に高かったのでやむなく郊外のホテルに投宿していたのだが、日曜になって価格も落ち着いたのでロウアーマンハッタンのウォールストリートに程近いHotel Indigo NYC Financial Districtへと颯爽とやってきたのだ。

最上階の部屋からウォール街のシンボルであるトリニティ教会を見下ろした後、ブランチのチーズバーガーで腹をこなすとお金の匂いにつられるように金融街へと流されていった。

世界の代表的な株価指数であるNYダウ、NASDAQとも史上最高値を更新している昨今であるが、関連ニュースで必ず目にするモ~モ~が「チャージング・ブル」というウォール街のシンボルである。この牛の銅像は1987年の株式大暴落、いわゆるブラックマンデーを受けて「アメリカのパワーの象徴」を意味して作られたそうだが、ゲリラ・アートとして1989年12月15日にロウワー・マンハッタンのニューヨーク証券取引所の向かいのブロード・ストリートの中央にある60フィート (18 m)のクリスマスツリーの下に突然設置されたというではないか。当初警察はこの銅像を押収しこの銅像は拘置されたが、人々の激しい抗議によりニューヨーク市公園・保養局がこの銅像を証券取引所から2つ南のボウリング・グリーンの広場に正式に設置することを決めたそうだ。大人気のこのモ~モ~はも~勘弁してくれと言わんばかりの長蛇の列の観光客の撮影スポットになっているのだが、A面の顔面だけでなく、なぜかB面のケツの下も執拗にマークされているようであった。

LAD v.s. NYY3連戦の最後の日は少し早めにスタジアムに繰り出した。「Pregame Glimpse of Greatness: A Peek Inside Yankee Stadium」というゲーム開始前のヤンキースタジアム内の見学チケットを買っていたのでツアーが始まる4時35分前には入場ゲート前に並んでいた。ヤンキースタジアムにはバックスクリーンの手前が防球網に守られたモニュメントパークになっており、そこにはヤンキースで活躍し、永久欠番としてその名を刻んだ名選手たちの伝説が奉られている。

27回のワールドシリーズ制覇を誇るこの球団の歴史を彩る名選手の中でも野球の神様ベーブ・ルースの存在感は群を抜いており、近年の大谷選手の二刀流の活躍でさらに脚光を浴びているのだが、このモニュメントパーク内を一周するとここの主が誰であるか一目瞭然となっている。

ヤンキースのオーナーであるジョージ・スタインブレナーはぶれない強引さと傲慢さで常勝軍団を作り上げ、その栄光の証として掲げられた最大のモニュメントは名選手たちに囲まれたセンターに君臨しているのである。

グランドの中では試合前のバッティング練習が行われていたのだが、大谷の姿はそこになく、今年からショートを守っているムーキー・ベッツがむきになって守備練習を繰り返している姿にプロフェッショナルとしての生き様を感じた。

今日の試合はヤンキース有利の展開で6回裏終了時のグラウンド整備員による♪YMCA♪も連敗による♪ゆううつなど 吹き飛ばして 君も元気出せよ♪と日本語で言わんばかりの諸手の上がりようだった。

試合のハイライトは4打数3安打2打点と大暴れのジャッジの活躍であったが、最大の見どころは8回の表と裏の攻防であった。8回の表は大谷の左翼線打ち損ないの2塁打から始まりフリーマンの自由に打てる状況だが、チームバッティングの内野ゴロで大谷は3塁に進んだ。続くスミスはライト定位置にフライを打ち上げ、そこには強肩のジャッジが手ぐすねを引いて待ち構えていた。捕球後タッチアップのスタート切った俊足の大谷と150㎞以上のジャッジの送球の一騎打ちとなったのだが、間一髪のタイミングで滑り込んだ大谷の右足がいち早くホームベースの一角をとらえたのであった。

このシリーズの主役は誰であるかというジャッジが下されたのは8回裏のヤンキースの攻撃であった。それはLADのテオスカーでもShow Timeでもなく、この回の先頭打者として登場し、飛距離434フィートの特大弾をレフトスタンドに叩き込み、NYYの勝利を確信付けたジャッジ自身であったのだ。

6対4で勝利したヤンキースナインを祝福する♪ニューヨーク ニューヨーク♪のリズムは格別で多くのファンは最高の気分でスタジアムを後にした。スタジアムを出たところの路上でジャッジのTシャツと大谷Tシャツが並んで売られていたので迷わず$10の支払いで大谷シャツを購入し、今回のシリーズの締めくくりとさせていただいた。

6月10日(月)
ニューヨーク滞在最終日はウォールストリートの宿泊地を拠点に終日マンハッタンの名所観光に励むことにした。1987年7月当時のロウアーマンハッタンのランドマークはワールドトレードセンターのツインタワーであった。

2001年の9.11後、いつしかその地はグランドゼロと呼ばれていたのだが、今日ではワールドトレードセンタービルもその数を7棟まで増殖させている。さらにその中心部には不死鳥のごとく翼を広げた建造物がマサに羽ばたこうとしており、内部空間はショッピングセンター、複数路線の地下鉄駅が交差する貿易の殿堂としてもはや誰もグランドゼロとは呼ばず、力強い一歩を踏み出しているのだ。

体力の充電がてらバッテリーパークをぐるっと歩いて再びWTCエリアに戻り、さらにマンハッタンからブルックリンへの架け橋であるブルックリンブリッジに向かった。

この橋は交通の要衝であるだけでなく、中央部の木道は人道になっているので多くの観光客が行き来する人気スポットとなっている。

橋の上からの絶景に気を取られながら歩いていると前方に巨大な幸福の黄色いマフラーを巻かれていい気になっている若人の姿が飛び込んできた。よく見るとそれはエリマキトカゲでもなく、同じ爬虫類でもヘビー級のヘビで観光客のインスタ映えに一役買っており、NYの燃える商魂の一端を垣間見た気がした。

多くの観光客は橋を渡ってブルックリンに到着するとタッチ&ゴーでマンハッタンに引き返すルートを取っているので私もそれに倣うことにした。マンハッタンに向かう景色は林立する摩天楼に圧倒される絶景のオンパレードで、大学生の時分に投資の大部分を無駄にしたはずの英会話学校の講師から学んだ自由の女神を英語でSatue of Libertyと言う記憶を噛みしめながら自由の女神像を遠巻きに眺めていた。

黄色いヘビが出没するスポットに戻ってきたのだが、記念撮影の列はヘビー・ローテーションにはなっていない様子で放置状態のニシキヘビはブルックリンブリッジに錦は飾れていないように見受けられた。

地下鉄で北上し、ミッドタウンで地上に出るとそこにはアメリカ横断ウルトラクイズの決勝の地がそびえていた。MetLifeビルはかつてPANAMビルとして栄華を極め、その大手航空会社は大相撲のスポンサーもつとめており、「ヒョ~ショ~ジョ~!」という高らかな声を響かせて人気を博したデービッド・ジョーンズ氏が輪島や北の湖等に表彰状とともに巨大な地球儀状のトロフィーを渡していた光景が昨日の出来事のように浮かんでくるのである。

♪マリーという娘♪がいたはずの5番街を歩いているとババが抜かれたり、「七」が並べられたりする感覚を覚えたのでふと斜め前方を見上げるとそこにそびえていたのは有名なトランプタワーであった。

内部に侵入すると彼が45代大統領を務めあげた実績を刻むモニュメントもちゃっかりスペースを取っており、土産物の品数も多いのだが、何といっても常駐しているトランプが観光客と一緒にポーズを取ってくれるシステムが確立されていたのだった。

来る大統領選で切られるカードに思いを馳せながら数ブロック北上するとそこは憩いのセントラルパークで鉛筆状の細いビルを見上げながらトランプをシャッフルするように気持ちを落ち着けた。

今後いかなる高さのビルが建立されようとも摩天楼のシンボルの地位は揺るぎないエンパイアステートビルの展望台行きを所望する観光客の集団を横目に地下鉄でロウア―マンハッタンへ帰って行った。

暮れなずむウォールストリートであったが観光客の姿は絶えず、突き当りのトリニティ教会まで多くの人出で賑わっていた。尚、1987年7月時のトリニティ教会は漆黒でカラスの教会との異名を取っていた記憶があるのだが、その後紆余曲折を経て現色まで褪せていったのであろうか?

1987年7月当時、大学4年生の私はすでに大和証券への就職を決めていたため、興味本位でニューヨーク証券取引所の見学さえぶちかましていた。取引所の威光は今も変わらないのだが、それを見上げる「恐れを知らぬ少女」像なる自信家の登場は2018年まで待たなければならなかったそうだ。

トランプタワーならぬ、トランプビルまで見てモ~十分観光のフルコースは堪能したのだが、ふと強気のモ~モ~の股間に目を移すと金の玉々をしっかりと抱き抱える観光客の笑顔に仰天させられた。お金の神様であるはずのこのチャージング・ブルが自由の女神を抜いてNYの人気観光スポットの第一位に躍り出るのも遠い未来ではないことを予感させられた。

6月11日(火)
午前2時発NH159便は定刻通りに出発し、すぐに入眠したものの14時間余りのフライトを睡眠だけで消化するのは無理があった。色々考えを巡らせているうちにドジャースの選手がヒットを打って塁上で決めているポーズのことが気になった。ドジャースの選手であるキケ・ヘルナンデスに起源を発するため「キケ・ポーズ」と言い、両手を上げ、上体を傾けながら左足を上げるポーズであるが、ドジャーズ開幕戦が日本で開催される際には赤塚不二夫先生に敬意を表しておそ松ながら「シェ~」のポーズにマイナーチェンジしなければならないはずだと考えていた。

6月12日(水)
公共交通機関も稼働していない早朝5時前に羽田空港に到着し、朝日を浴びて体内時計をリセットしつつ流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥319,440(内ANA SKYコイン使用 ¥199,100)
総宿泊費 $508.34
総Air Train代 $17
総地下鉄代 $31.9
総NY Transit代 $96

協力 ANA、IHG、MLB.com

シン・FTBヒューストン経由コスメル島天国と地獄インターコンチネンタルツアー

メキシコ最強の観光地、ユカタン半島の東端に位置するカンクンを拠点にいくつかのマヤ遺跡を散策したのは今から19年前の2005年2月のことであった。

当時心残りであったのはバスで立ち寄ったプラヤ・デル・カルメンという町からフェリーに乗って世界で一番透明度の高い海を持つコスメル島に上陸出来なかったことに他ならず、再訪を期してユカタン半島を後にしたのだった。その後ユカタン半島に戻るどころかスカタンな人生を過ごしてきたわけだが、ドロンジョ様のスカポンタンにも背中を押され、ついにコスメル島を目指すツアーが遂行されることとなったのだ。

2024年5月1日(水)
成田空港17:00発NH6便は定刻通りに出発すると日付変更線を越えて同日の午前11時前にはロサンゼルス空港に到着となった。すでに米国入国の定連となっているためあらためて指紋を採取されることもなく入国審査を顔パスで切り抜けるとUnited Clubラウンジで乗り継ぎまでの時間をさしておいしくないケータリングの飲食物を口にしながらやり過ごしていた。

16:22発UA1497便は定刻通りに出発し、2時間の時差を超えて22時前にはヒューストン・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に到着した。広い空港内にはSky TrainやSubwayが行き来しているのだが、早速Subwayに乗り込んで本日の宿泊先で空港内蔵ホテルのヒューストン・エアポート・マリオット・アット・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタルにつつがなく到着したのだった。

5月2日(木)
午前10時過ぎのフライトに備えて8時前にはホテルをチェックアウトしたのだが、外気はむっとするような湿気を含んでおり、暗雲漂う中Subwayでターミナルへと向かった。すでに常ラウンジと化しているUnited Clubで朝食を済ますと搭乗時刻前には所定のゲートに到着したのだが、ゲート前の行き先を告げる画面にはすでに混乱の兆候が見え始めていた。

早朝よりUnitedから本日搭乗予定の便はOn timeとのメールによる通知を受けていたのだが、目の前の状況が刻々と悪化している様子が見て取れた。窓越しに駐機している飛行機の背後に広がる空の様子を眺めると、分厚い雷雲を引き裂くように雷鳴が鳴り響き、あたかも夜のとばりが下りて来てしまったかのような暗さであった。

ゲートのアナウンスに耳を傾けると搭乗予定の便は燃える闘魂サン・アントニオから来る予定なのだが、悪天候のため離陸が出来ず、そもそも前の便が出発出来ずにゲートにとどまっているため、必然的な卍固め状態となってしまっていたのだ。この時あたりからUnitedからのメールの本数が一気に増え始め、真綿でスリーパーホールドを決められたような遅延地獄に陥ってしまったため、やむなくFTBの対策本部に格上げされたUnited Clubに引き上げることとなった。

今日の午後にはコスメル島に到着出来るというヒュ〜という盛り上がりの気持ちがいきなりストンを落とされたのはマサにヒューストンのラウンジにいる時であった!

直近のメールによるとUA1919便は16:31までさらなる遅延のアナウンスがあったものの19時前には何とかコスメルに到着する算段であったのだが、14時過ぎに届いた立て続けのメールには何とフライトがキャンセルされ、新たに明日の便が予約されたとのショッキングな知らせであり、いくら暴風雨の嵐のためとはいえ、長期休養したリーダーの大野君が復帰する時にはすでにジャニーズ事務所が無くなっているくらいの衝撃を受けてしまった。

通常であれば膝から愕然と崩れ落ちるところであるが、約10分で正気を取り戻すと早速本日から宿泊する予定であったPRESIDENTE INTERCONTINENTAL COZUMEL RESORT & SPAにメールを投げ込み到着が1日遅延する旨を伝えると即座に了解したとの返事をいただいた。立て続けにMarriottのウエブサイトにアクセスすると今朝チェックアウトしたばかりの同じホテルを予約し、何とか本日の宿を確保出来たかのように思われた。

United Club内のカウンターには長蛇の列が出来ていたのだが、チェックイン済みの荷物を取り戻す必要があったので担当者にその旨を伝えると1〜2時間くらいで荷物の引き取りは可能だろうとの返答をいただいた。

空港内の土産物屋の多数の招き猫に見送られ、彼らが招いたのは嵐であり、♪体中に風を集めて 巻き起こせ A・RA・SHI A・RA・SHI♪のメロディーとともにやけ気味にBaggage Claimへと重い足を運んで行った。

Baggage Serviceのカウンターを先頭に見たこともないような長蛇の列が形成されていたのだが、ひるまずに列の最後尾に並ぶと1時間以上は経ったであろう時間にやっとFTBの順番が巡ってきた。すでに多数のクレームを受けて正常な判断機能が麻痺しているであろう担当者から告げられた言葉は、明日の便に振り替え予約されているのであれば荷物を引き戻す必要はなく、どうしても今日荷物が欲しければ6時間以上待てという非情な物質(ものじち)との引き換え系の暴言であった。

一旦は引き下がったものの再考の上、身代金を払ってでも荷物を救出しなければならないとの決断に至ったのでさらに長くなった列の最後尾に再び並び直すことにした。気の遠くなるような時間を立ち尽くしたまま過ごし、何とかBaggage Serviceのカウンターが視界に入ったころ、「Mr. FUKUDA!」と呼ぶ天の声的アナウンスが場内に響き渡った。指定された場所に足早に向かうと何とかそこで危害を加えられていない荷物との再会を無事に果たすことが出来たのであった。

数時間前に依頼したUnited Clubの差し金とはいえ、何とか荷物を奪還したものの試練はそれだけにとどまらなかった。なんと先程Marriottのウエブサイトで予約したホテルのチェックインの日付が明日になっていることが判明し、泣く泣く高額のキャンセル料を支払ってキャンセルし、あらためて今晩の宿を探さなければならなくなっていたのであった。

なすすべもなく向かった先はいわくつきとなったエアポート・マリオット・アット・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタルであったが、当然当日予約の部屋は空いているはずもなく、近隣のホテルのリストを渡され、一軒一軒自力で探すほかない状況であった。

携帯の電波の状態が良くなかったのでホテルロビー出口の外気の当たるところで電話をかけようとしているといかにも白タク系の雰囲気を装っているが紳士の心根を持つはずのナイスガイが車で近隣のホテルを当たってあげると申し出てくれたので藁にもすがる思いで彼の車にかけることにした。Hampton Innをはじめ数件のホテルで満室Sold outの洗礼を受け、次に向かった先はSheratonであったのだが、ここでもSold outを告げられ空振り三振で空港に戻るべきかと思った瞬間にマネージャー面した男性が女性クラークを制し、実は部屋は空いているという助け舟を出してくれた。嬉々として白タク系の紳士の元へ戻り、感謝を込めて彼の言い値より高い$60を握らせ、「いいね!」のポーズで別れを告げると遅れてきたMarriott Bonvoy会員のゴールドメンバーの威光とともに何とかチェックインを果たしたのであった。

5月3日(金)
ゴールドメンバーの特典である朝食をさくっと済ますと空港までの無料送迎シャトルに乗り込み、憂鬱な空の色を眺めながら粛々と昨日と同様の手順を踏んでいた。午前中の強雨は昨日よりもましであったものの10:03出発予定であったUA1919便はまたもや遅れを出し、それでも11時前には晴れてヒューストンを離れることが出来たのであった。

離陸しさえすればこっちのもので、約2時間ちょっとのフライトで念願のコスメルに到着すると抜けるような青空に迎えられた。つつがなくメキシコへの入国を果たすと一人当たり$14の支払で乗り合いバンに乗り込み、コスメルでの宿泊先に向かうこととなった。

20分程度のドライブでPRESIDENTE INTERCONTINENTAL COZUMEL RESORT & SPAに到着し、チェックインデスクでウエルカムドリンクを飲みながら、やっとの思いでヒューストンのインターコンチネンタルからコスメルのINTERCONTINENTALへの引継ぎを完了させることが出来たことを実感した。

IHGダイヤモンド兼アンバサダー会員の威光により2段階アップグレードされたオーシャンビューの部屋に案内されると窓越しに広がる雄大な景色はいかなる高級コスメティックスにも劣らないはずの透明感あふえるコスメルの海であった!

昼飯を食いそびれていたのでホテル内の散策がてらLe Cap Beach Clubという地中海系料理を供するレストランに突入し、シーフードや牛肉タコスを肴に吸い込まれそうな透明な海をひたすら眺めながら、ヒューストンでの悪夢を消し去るのに躍起になっていた。

思いのほかの疲労とマルガリータのテキーラが体の節々に行き渡った影響からか部屋に戻ると不覚にも意識を失ってしまい、気が付くとサンセットの時間を迎えていた。

太陽が完全に水平線に吸い込まれた後のマジックアワーは想像以上の長続きで漆黒の闇が訪れるまで身動き出来ないままでいたのだった。

広々とした高級ルームであったが、バスタブの設置までは気が回ってなかったので代わりにインフィニティプール後方のジャグジーの泡に揉まれながら体内に残留しているアルコールをバブルとともに排出し、明日への鋭気を養うべき長時間のリセットモードを満喫させていただいた。

5月4日(土)
想像だにしなかったアクシデントにより3泊の予定が2泊になってしまったため、島内観光は断念し、ひたすらホテルの敷地内での籠城を決め込むことにした。

毎日コスメルに入港するクルーズ船の雄姿を横目に海辺の朝食会場となっているCarbeno Restaurantに入場した。建物を吹き抜ける爽やかなそよ風とともに野鳥が館内を縦横無尽に飛び交い、ちょっとしたバードウォッチング気分が味わえるのかと思ったのも束の間、野鳥の目的は人類の隙をついて食べ物を略取することであり、マサに仁義なき共生の光景が展開されているのだった。

マサと言えば、前回のユカタン半島ツアーでとうもろこしの粉に水を加えて生地にしたものがマサであること(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5)を
解明していた。マヤの聖地を巡りながらほんまやと納得しながらありがたく食すようになったのだが、このホテル内のレストランの主食もタコスやナチョスになっているようで外資の入ったリゾートホテルとはいえ、メキシコのアミーゴプライドは決して損なわれてはいないのだ。

世界一の透明度の海に囲まれたコスメルは言うまでもなくダイビングの聖地であり、早朝よりホテル内の桟橋から多数のダイビングボートが出航する。ダイビングをしない輩はその光景をぼ〜と眺めるだけであるが、ホテル敷地内でもその透明度は十分に堪能可能である。

レストラン裏のScuba Du Dive Centerでスノーケリングセットを借りて安全な場所で波に体をゆだねるのも良いのだが、それがなくても砂地に足が付いた場所で魚ウォッチングが可能なほど豊かな水産資源が身近に迫っているのだ。

この地の陸の王者であるはずのイグアナを横目にホテル敷地内を隈なく散策し、途中シーフードのランチで一休みして十分にコスメルでの休日を堪能させていただいた。

日が傾きかけてきた頃合いを見計らってインフィニティプールに繰り出し、ジャグジーでの温浴効果を高めていると早くもサンセットの時間を迎えてしまった。

水際から真っ赤に燃える西の空を見上げながら、永遠に続いて欲しい瞬間とはマサにこのことであろうと考えながら自らも水の中に体を沈めていくのであった。

5月5日(日)
今朝は昨日よりも少し早い時間に朝食会場に繰り出した。相変わらずダイビングボートはせわしなく出航の準備に取り掛かっていた。

まだお客さんの数も少なく、料理の食べ残しがテーブルに散在していなかったのでバードウォッチをするほどの野鳥の飛来も見られなかったのであろう。しかし野鳥の少ない原因はそれだけではなく、今朝は手乗り猛禽を操っている鷹匠が威嚇兼パトロールの任に着いており、野鳥のさえずりも心なしか警戒モードの調べを含んでいた。

チェックアウトまでのしばしの時間であったが、名残を惜しむように徘徊し、コスメルの絶景を目に焼き付けるのに余念がなかった。

気が付くとメールボックスには見慣れたUnitedの文字が躍っており、ヒューストンへのフライトが遅れるとの再度の嵐を予見させる通知であった!

予定していたチェックアウト時間を1時間程遅らせて正午過ぎにタクシーを呼んでもらい、来る時よりもかなり割安の$20の支払いでコスメル空港に帰ってきた。元々のフライトの予定時間は13:27で、それが13:50になるとの通知はまだ序の口で空港に着いてからもUnitedからのスパムメールは止まらずに出発時間が14:30, 15:20, 16:00, 16:20と小刻みに後ろ倒しになって行った。United航空のハブ空港であるヒューストンであれば、即座に一人当たり$15のMeal Couponが発行されて搭乗予定客の溜飲を下げるのに一役買っていたのだが、ここコスメル空港ではUnitedの威光は届かない様子で「許しテキーラ!」というお詫びの一言もなかったのだ!

搭乗することになっているヒューストンからの飛行機が到着した時間はすでに16時を回っており、結局UA1867便ヒューストン行きが出発出来たのは16:50であった。

約2時間のフライトでヒューストンまで帰ってこれたのだが、さらなる難題はロサンゼルスまでの乗り継ぎ便には間に合わないという事実である。幸い米国入国審査がすいていたのでそそくさと荷物をピックアップしてUnitedの乗り継ぎカウンターに向かい、首尾よくロスへの最終便にねじ込んでもらったのだが、その便自体もすでに遅れの兆候を示していた。

常ラウンジのUnited Clubの飲食物で胃袋の容積を満たすと22時前には搭乗ゲートに向かい、遅ればせながら出発出来ると高をくくっていた。ところが待てど暮らせど出発する気配がないのでついには腹をくくらなければならない状況になっていた。機長のアナウンスによると遅れの理由はワシントンDCからのケータリングを待っているとのことで狭い機内に閉じ込められた乗客を希望者のみ一旦降機させるとの措置さえ取られていた。

トイレ近くの機内後方に陣取っていたFTB一行であったが、かわるがわる用を足しに来る乗客の中でひときわ長い時間トイレに籠城している輩がいるようであった。すると突然うめくような嘔吐サウンドがトイレ周辺にこだまし、付近の乗客が眉をひそめている様子が見て取れた。しばらくして出てきたのは小太りの黒人女性であり、当然のことながらそのトイレは使用禁止の烙印が押されてしまった。

それだけならまだしも汚染されたトイレを除染しなければ出発出来ないという安全規定により、吸引機を持った防護服姿の整備士が乗り込んでくる事態となり、機長の甘い作業時間の見通しもあいまって乗客の苛立ちはピークを迎えつつあった。一方、汚染の張本人は悪びれることなく機内を徘徊し、解説者のような振る舞いで遅れの原因説明に勤しんでいたのだった。

5月6日(月)
結局UA2000便が出発出来たのは日付の変わった0:20でロサンゼルスに着いたのは午前2時くらいの時間であったろう。幸いなことにホテルへのシャトルバスは24時間運行なのでホテルまでの足は確保されていたのだが、予約していたウェスティン・ロサンゼルスエアポートに到着した時間の記憶はすでに飛んでいた。ホテルの従業員は深夜シフト体制に入っていたためか、ここでもチェックインまで長時間を要してしまい、結局ベッドに体を横たえることが出来たのは4時を回った時間になっていたであろうか?

幸い日本へのフライト時間が午後であったので多少睡眠時間は確保出来たのだが、それでも午前10時過ぎにはチェックアウトしてそそくさと空港へ向かって行った。United航空の束縛を逃れて搭乗したNH5便は定刻通りに出発し、定刻のありがたさを噛みしめつつ、機内映画のゴジラ-1.0の主役である着ぐるみに破壊的衝動の発散を肩代わりしていただいた。

5月7日(火)
午後4時半頃成田空港に到着し、ヒューストン経由で旅行するときにはホイットニーを警護したケビン・コスナー扮するボディーガードのような強いメンタルが必要であることを肝に銘じつつ流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥135,350 / passenger、United Airlines = ¥86,530 / passenger
総宿泊費 $1,440.25
総宿泊キャンセル料 $221.13
総タクシー代 $108

協力 ANA、United Airlines、IHG、Marriott Bonvoy

FTBJ 20世紀少年よ桂離宮にいらっしゃ~い!ツアー

昨今ショッキングなニュースが世界中を駆け巡っている。太陽のような存在の日本人二刀流リーガーの財産が悪の「ともだち」に支配されてしまったというではないか。まるで大きな谷の底でもがくように人間不信と葛藤する心情は察するに余りあるので日本人の心のふるさとであるはずの古都を訪問し、いかにして人間性を取り戻すべきかを検証するツアーが急遽催行されることとなったのだ。

2024年4月13日(土)

13:20発ANA991便は定刻通りに羽田空港を出発すると定刻より少し遅れて午後3時前に関西国際空港に到着した。早速ニッポンレンタカーでマツダの普通車をレンタルすると、とある夢の跡に向かって車を走らせた。

♪こんにちわ~♪ (こんにちわ~)♪西のくにから~♪

というわけで、大阪府の北摂に君臨する1970年に開催された日本万国博覧会の広大な敷地は今は万博記念公園(¥260)として今なお大阪府民だけでなく日本国民の憩いの場所として賑わっているので、桜の時期を逃したとはいえ、訪問しないわけにはいかなかった。

奇しくも今日は2025年4月13日に開幕するEXPO 2025 大阪・関西万博のちょうど1年前ということで20世紀少年が21世紀老年にバトンを渡すにはうってつけのタイミングだったのだ。

閉園前30分の午後4時半に滑り込みで入園を果たすと眼前に諸手を上げて立ちふさがっていたのは三波春夫ではなく、芸術を爆発させた成果物であるはずの太陽の塔であった。

人間に二面性があるように太陽の塔も赤を基調としたA面とは裏腹に、B面は皆既日食のように太陽の財産を蝕んでいるかのようなダークサイドが見事に表現されていた。


奇しくも園内に内蔵されている国立民族博物館では「日本の仮面」というみんぱく創設50周年記念特別展が開催されており、入館するまでもなく、仮面の下に隠されている人間の本性について考えさせられたのであった。

トーテムポールを見上げて姿勢を正し、イチゴソフトで乾杯して気を取り直すとわずか30分程の滞在時間の間に21世紀老年への坂道をいかに緩やかに下っていくかの指針が少しではあるが見えてきたような気がした。

今日の宿泊先は楽天トラベルに予約させておいた洛西・竹の郷にある、ホテル京都エミナースで、心の疲れを癒す2種類の天然温泉を堪能しながら雅の世界へと舵を切って行った。

4月14日(日)

宮内庁御用達の観光地である「桂離宮」はWEBでの参観申し込みが必須で、予約していた時間を念頭に阪急桂駅へ向かった。駅前のコインパーキングに車を預け、15分程歩くと桂離宮表門に着いたのだが、そこでは何故か当日券も販売されていたのだった。

参観はすべて宮内庁御用達のガイドによる案内で遂行されるのだが、日本人観光客をしのぐ人数で乗り込んで来た外国人観光客への説明は通訳ではなくオーディオガイドがその役目を果たしている。また、桂離宮の説明用の資料には「このパンフレットは、宝くじの社会貢献広報事業として助成を受け作成されたものです。」との説明が明記されており、決して「違法スポーツ賭博」からの資金援助は受けていないので負けを取り戻すための掛け金を上げることなく安心して観光に励むことが出来るのだ。

桂離宮は、17世紀初頭に創建された宮家の別荘で当初は「桂山荘」と称していたのだが、明治16年に宮内省所管となり、桂離宮と称されることになったのだが、創建以来永きにわたり火災に遭うこともなく、ほとんど完全に創建当時の姿を今日に伝えている。

桂三枝の「いらっしゃ〜い!」という挨拶もなく、午前11時過ぎに待望の参観の火ぶたが切って落とされることとなった。

最初に案内されたのは御幸門であるが、正門である表門に向かう道筋は徐々に狭くなっており、遠近法により限られたスペースが広く見えるような工夫が施されている。

切石と自然石を巧みに配した飛石を伝って外腰掛という待合い腰掛でしばしガイドの説明に耳を傾けると一行は参観コースに従って粛々と進んでいった。

桂離宮の中央には複雑に入り組む汀線を持つ池があり、大小五つの中島に土橋、板橋、石橋を渡し、書院や茶室に寄せて船着きを構えている。緑の池には亀や泥魚だけでなく、水の原をただようシロサギの姿も見受けられ、甘い話には裏があることを暗に示しているかのようだった。

黒く扁平な石が敷き詰められ池に突き出している場所は洲浜と呼ばれ、先端に灯篭を据えて岬の灯台に見立てて海を演出している。また、その先の中島と石橋のつながりは天橋立を模しているとのことである。

寛文2年(1662年)頃までには在来の建物や庭園に巧みに調和させた中書院、さらに新御殿、月波楼、松琴亭、賞花亭、笑意軒等が新増築されており、それらを一軒一軒丹念に見て回ると心の中のわびさびが自然に刺激され、すさんだ心が浄化されていくのであった。

桂離宮では月を雅に鑑賞するための仕掛けがここかしこに施されているのだが、特に月波楼は池辺の高みに立つ茶亭で、月見はいうまでもなく、苑内の主要な景観が一望でき、納涼の設備の役目も果たしているのだ。

全行程約1km、1時間程度の参観が無事終了するころには腹も減ってきていたので明星カップ焼きそばの「一平ちゃん」でも食ってみようかと思ったのだが、何とか踏みとどまった。やはり人生の岐路に立たされた場合は拳に顎をついて考えてみることが最も重要ではなかろうか?

関西国際空港に帰還し、15:40発ANA992便で羽田行の機中の人となり、飛行機は都心部の上空で高度を徐々に下げていった。スカイツリーや東京タワーの頂点を見下ろしながら、あらためて「驕る平家は久しからず」と肝に銘じながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥17,050 per passenger
総宿泊費 ¥35,244(2名分、2食付き)
総レンタカー代 ¥10,336(ガソリン代込み)
総高速代 ¥5,970
総駐車場代 ¥1,500
総走行距離 237KM

協力 ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、宮内庁京都事務

シンFTB魅惑のガーデンアイランドツアー in カウアイ島

アロハ ボンよ ハワイ湯!

というわけで、昨年9月に催行したハワイ オアフ島ツアーの最中、♪仮面舞踏会♪のリズムに後押しされてMarriott Vacation Clubに入会してしまったので今回早速そのエンターテインメントの実力を確認するために再びハワイに戻ってくることと相成った。尚、訪問先がカウアイ島になったのはClubとの契約の地であるオアフ島のMarriott Ko Olina Beach Clubの予約が取れなかったためではなく、2004年以来20年ぶりに訪問するカウアイ島がどのような変貌を遂げているのかを確認する使命のために他ならない。

2024年1月3日(水)
20:35成田発NH184便A-380-800機、機体に海亀文様をあしらったFlying Honuは定刻通りに出発した。機内映画の「ミステリと言う勿れ」を見ながら頭が爆発している自らの苦悩を整えていると6時間弱のフライトでホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港に午前9時過ぎに到着した。

アロハ航空の廃業により、ホノルルからのネイバーアイランドへの運航を独占している感のあるハワイアン航空が運航する正午発HA273便に搭乗すると30分程度のフライトでカウアイ島のリフエ空港に着陸した。早速ハーツレンタカーでコンパクトカーの予約にもかかわらず4WDのシボレートラバースSUV車をあてがわれたので遠慮なくレンタルさせていただくとイチロ今回のツアーの宿泊先であるMarriott’s Kauai Beach Clubに向かった。

空港からわずか10分程度で到着したMarriott’s Kauai Beach ClubはROYAL SONESTA KAUAI RESORTという高級ホテルと同居する形で運営されており、深く切れ込んだ入江に位置し、島で屈指の美しい海浜公園であるカラパキ・ビーチ沿いに展開されている。

今回アサインされた8階のオーシャンビューの部屋からはくっきりとした視力検査のマーク状の湾の形状が一望でき、晴れてBeach Clubの一員になった実感がじわじわと湧いてきた。

ビーチを散策するとちらほらとマリンスポーツを楽しんでいる輩もいるのだが、波も比較的静かなのでどちらかというとのんびり海を眺めて過ごすのにうってつけのリゾートであるとお見受けした。

KAUAI WEAHER STATIONなる看板で島のお天気情報を学習させていただいたのだが、唯一の気象予報士はヤシの実になっているようでヤシの実が「風と共に去りぬ」の状態になっているときの天候はハリケーンであるとのことであった。

今日は時差ボケのきつい初日ということで特に観光することもなく、車で近隣のスーパー等を巡り、いち早く現地の生活のペースに溶け込む活動に終始した。

1月4日(木)
日の出とともに目を覚まし、カーテンを開けてオーシャンの方向を一瞥すると巨大なマンションが迫ってくるような威圧感を感じた。

後の調査で判明したことだが、その巨大な物体の正体はホノルルから出港し、ハワイ4島を周遊する豪華客船PRIDE OF AMERICAでアメリカの総力とプライドをかけて安全運航を約束しているはずのクルーズツアーの1ページがマサに垣間見えた瞬間だったのだ。

Vacation Clubのようなタイムシェアの別荘を借りているという生活スタイルになじむために食事は現地調達したものを部屋で食したほうがよいだろうということで昨夜と今朝の栄養補給は必然的に質素倹約となっていた。

日本からハワイへは短時間で旅行出来る一方で、時差が大きいことから時差ボケが長引くことが難点で短期の旅程では頭の中のフラダンス状態が抜けきれないまま生活を送ることになる。それでも何とかアロハスピリットに後押しされ、島内の見物に繰り出すことにした。

カウアイ島最大の見どころを目指すために島西部のワイメア・タウン方面に車を走らせた。ワイメアは1778年にイギリスの海洋探検家であるキャプテン・クックが上陸した地であり、当時の現地人は一行をハワイの神「ロノ」の再来と信じて♪ようこそここへクッククック♪と歓待したそうだが、桜田淳子の幻影もすでに遠い過去のものとなっているため、クックの銅像に挨拶することもなく食料調達のためにイシハラ・マーケットに向かった。

1934年オープンで生鮮食料品を扱うイシハラ・マーケットであったが、日本における石原軍団の凋落の写し鏡のようにすでに廃業となっていた。ここを再びザワつかせるためには石原軍団の末裔であるはずの石原良純が一肌脱いで長嶋一茂あたりから資本提供を受けて事業を立て直す必要があるのであろう。

生鮮食品のゲットはならなかったが、別のスーパーで乾き食品を調達した後、車はワイメア・タウンから550号線に入り、一気に山道を駆け上がると外気温は見る見るうちに低下していった。とりあえず550号線のドン付きまで走り切ろうと思ったのだが、途中トイレ休憩が必要となったのでコケエ州立公園のビジターセンター駐車場に車を滑り込ませた。コケエ州立公園では多くのコケエコッコと観光客が戯れており、カウアイ島がニワトリファーストで成り立っている現状を見せつけられた。

コケエコッコの鳴き声に後押しされてコケエ博物館に入場することにした。入場料は無料だが、一人$3ドルの寄付を求められているので手持ちの$1を奉納し、展示物を見学させていただくことにした。狭い館内なので多くの展示物はなく、観光客はここでトレッキングのコースを確認したりしているのだが、ご本尊であるはずの野生の豚がその様子に目を光らせていた。

550号線の終点にはカララウ展望台が君臨し、カウアイ島最難関のトレッキングコースであるカララウ・トレイルのナ・パリ・コーストの海岸線やギザギザハートに削られた山肌の絶景を見下ろすことが出来たのだ。

カララウ展望台から来た道を引き返して南下する途中のプウ・ヒナヒナ展望台で長い年月により創り出された自然の芸術に圧倒されるとその勢いでワイメア渓谷州立公園のメインの展望台の駐車場に突入した。

$20の入場料をクレジットカード限定の支払いで乗り切ると足早に展望台を目指して行った。展望台ではいきなり古代の現地人風の裸の王様が長椅子ステージの上で演説している様子が目に飛び込んできた。

裸王の演説内容は当然のことながらワイメア渓谷、カウアイ島、さらにはハワイ全体の観光ガイド的な説明であるのだが、その戦士たる出で立ちは多くの観光客の興味を引き付け、最後には拍手喝采だけでなくSNS映えのための写真撮影のシャッター音とチップの嵐を浴びていたのだった。

裸王の説明によるとギネスブックで世界一の降水量を誇る標高1569mのワイアレアレ山の山頂は通常雲に覆われて見えないのだが、今日はその全貌がくっきりと見えるとのことであったが、マサにわ~い アレ(優勝)アレ(優勝)が示唆しているものは岡田監督の連覇ではないかと期待と不安が一つになったような感覚を覚えた。

展望台から見下ろす光景は「太平洋のグランドキャニオン」の異名にふさわしく、ここは本物のグランドキャニオンまで足を運ぶことの出来ない輩がグランドキャニオンの写真撮影を行うための最適なスポットであることが再確認されたのであった。

ワイメアを後にして海岸沿いを走っていると歴史遺産的な看板が目に入ったので立ち寄ってみることにした。ここはハワイ州歴史的建造物に指定されているロシアン・フォート・エリザベスという廃墟で特に目を引くものはなかったが、かつてカウアイ島を統治していたカウムアリイ王の雄姿だけは写真に収めておいた。

一旦Marriott’s Kauai Beach Clubに戻り、夕暮れ時にカラパキ・ビーチ周辺を散策し、リゾーターのアクティビティを遠巻きに眺めながらのんびりと過ごしていた。

今日のディナーはコンシュルジェの推奨リストに上がっていた近隣のThe Plantation house by Gaylordsを予約していたので日もとっぷり暮れた7時半に入店した。


1880年代に建てられたプランテーションのオーナー、ウィルコックス一家の豪華な邸宅をそのまま使用したガーデンレストランで猫の挨拶もそこそこに中庭の上席に案内され、メニューを手渡された。地産地消の割には高値で提供されている料理の中からマーケットプライスのものを避けて発注したものは伝統的なハワイ料理であるAhi Poke(マグロの刺身に醤油ベースのタレや香味野菜で和えたもの)を皮切りに海老や地魚をいい具合にアレンジした日本人の味覚を喜ばせる一品たちで、必然的にクレジットカードに多大な負担をかけさせることとなったのだ。

1月5日(金)
カラパキ・ビーチはサンセットもサンライズも直接見ることは出来ないロケーションであるが、夜明けの空には毎日♪パープルタウン♪すなわち♪むらさきにけむる夜明け♪が現出する。

♪すばらしい朝にHu Hu Hu♪から始まったこの日はリフエの町にほど近い双子の滝から活動をスタートさせた。ハワイ語でふたつの水という意味を持つワイルア滝がBeach Clubから車で20分程度の場所に流れているので見に行ってみた。古代ハワイの男たちが、上から滝つぼへ飛び下り、男を上げていたという高飛び込み伝説が残っているワイルアの滝ではあったものの滝つぼの見えるフォトジェニックなポイントへのアクセスが不可能だったので観光客の平均滞在時間がわずか数分であったことが心残りである。

ワイルア滝からの帰路の生鮮食料品店でPokeやタコのマリネ等の食料品を買い込んでBeach Clubでの昼食用に供すると、午後1時からのアポイントに備えてしばしくつろいでいた。

Beach Clubにチェックインした初日にコンシュルジェから施設に関する情報提供を受ける段取りになっているのだが、その折にツアーなるものに参加すればポイントの積み立てで無償宿泊の特典がもらえるマリオットボンボイポイントの30,000ポイントの進呈を受けることが出来るという口車に乗せられていたのだった。

約束の時間に1階のSales Officeの受付で来意を告げると中の打ち合わせテーブルでしばし担当者を待つこととなった。FTBの担当として名乗りを上げたSales Executiveの案内で最上階である12階に誘われ、絶景を前に営業活動が繰り広げられたのだが、何とか追加の投資をせずに持ちこたえられたのでまんまと30,000ポイントをせしめることに成功したのだった。

Sales Executiveから伝導された営業熱を冷ますために施設内のハワイでも有数の規模を誇るプールに入ることにした。プール内でもプールサイドでも少々行き過ぎたクールダウンを感じたのでジャグジーに入りたかったのだが、稼働している3ヵ所のジャグジーはリゾートファミリーに占拠され、割って入るほどの勇気がなかったので断念して部屋に引き返した。

夕暮れ時にプールサイドに舞い戻り、2日間カウアイ島に寄港していたクルーズ船を見送ると今晩はプール脇のレストランでの軽食による散財で施設への義理を果たしていた。

1月6日(土)
カウアイ島では曜日ごとに各所でファーマーズマーケットが開催されているのだが、土曜日の今日はノースショアで市が立っているので物色してみることにした。こじんまりとした印象ではあったものの確立された地産地消システムが提供する地元の野菜、フルーツ、スイーツ、コスメティックス等を見て回ると次第にテンションが上がってきたので思わず生はちみつとリップクリームを衝動買いして地元経済に貢献させていただいた。

1830年代から受け継がれてきた文化を感じられるレトロ・タウンであるハナレイに差し掛かった。チン・ヤン・ビレッジ・ショッピングセンター内を買う気もないのに練り歩いているとサーフスクールやサーフショップが目に付いた。ここはビーチエリアにほど近く、大波が来る冬場には熟練サーファーが日々波に揉まれながら腕を磨いているそうである。

狭いカウアイ島であるが、車で島内を一周するまでの道路整備はされておらず、ノースショアのカララウで終点を迎えることになる。そこから最高のキャンプを味わえるカララウ・トレイルが伸びているのだが、登録制のアクティビティは常に売り切れ状態になっており、ナ・パリ・コースト州立公園の満車の駐車場であえなくUターンとなってしまった。

カララウからの帰路でトイレの個室を求めていると首尾よくハナレイコロニーリゾートの水回り設備が使えそうだったのでレストランの入り口脇のトイレに痕跡を残し、そのお礼にカフェでモカフラペチーノ系の飲み物を牛飲した。レストラン裏手の景色は透明度の高い海のグラデーションで彩られており、ここでやっと落ち着いてノースショアの海岸の景色を堪能することが出来たのであった。

英語でタロイモのことをTaroというが、Taroはハワイの名産品の一つになっており、ハナレイ渓谷展望台からはタロイモ水田を中心とした湿地の保護区であるハナレイ・ナショナル・ワイルドライフ・レフュージを見下ろすことが出来る。霧のかかったワイアレアレ山を背景にした碁盤の目はマサに自然と人類の共同作業の賜物であり、訪れる人を古き良き時代に誘う癒しそのものである。

今日からMarriott’s Kauai Beach Clubでの広い部屋を予約していたので、部屋の準備完了とともにi Phoneにテキストメッセージが入ったのでそそくさと戻ることにした。今日から2日間過ごす部屋は最上階である12階角部屋のビーチ&プールフロント、広々ベランダ付きだったのだが、部屋に長居することなく、太陽に愛される町ポイプに繰り出すことにした。

ポイプで最も印象に残るはずの景勝地である潮吹き穴で伝説に彩られた自然の驚異を感じることにした。ここで目にする現象もさることながら、ハワイ先住民の言い伝えによるとカイカブという大きなトカゲの魔物がポイプの海岸線を守っているとカイカブった人々は、この地域で魚を取ったり泳いだりすると魔物に食べられると恐れていた。東尾という苗字を持つかどうかは定かではないが、ある日リコという利口な少年が海に入ると石田純一のようなカイカブが襲い掛かってきたのだが、リコはゴルフクラブのような鋭い棒を純一(魔物)の口に突き刺して溶岩棚の下に入り込み、小さな穴を通って地上に逃げおおせたという。

リコを追っかけた魔物は溶岩洞の中で引っかかり、その後潮吹き穴から噴き出す音は魔物の叫び声、潮しぶきは魔物の吐息だと言われるようになり今日にいたっているそうだ。

潮吹き穴から噴出された潮をカブって我に返ると夕暮れ時が迫ってきたころ合いを見計らってポイプ・ビーチパークに移動し潮吹きの景色を遠目に見ながらサンセットを満喫することにした。

FTBも世界各地で美しい夕日を鑑賞してきたのだが、ビーチを練り歩くニワトリ映えのするサンセットは世界でも類を見ない光景であるはずでマサにカウアイ島ならではの奇景ではないかと感心しながら見入っていた。

1月7日(日)
カウアイ島の有名な聖地のひとつであるシダの洞窟でかつてのハワイの王族や貴族の儀式をしのんでパワーをいただくつもりであったのだが、遊覧船ツアーが休止になっているようだったので次回訪問時に繰り越すことにした。

シダの洞窟を要するワイレア周辺は遺跡や伝説がたくさん残る地なので、まずは約20mの高さからふた筋に流れ落ちるオパエカア滝を眺めてリモートで体を清め、ワイルア川で邪念を流し去った。

カウアイ島最大の川であるワイルア川周辺は遠くポリネシアの島々からカヌーでやってきた人々が安住の地とした場所であり、当時は王や貴族がこの一帯を厳しく治めていた。そのためこの地域には歴史的にも興味深い遺跡や言い伝えが多く残っているのだ。

「陸の王者」の遺伝子を受け継いでいる私であるが、ワイルア川沿いには多くの聖地が点在しており、かつて「王者の道」と呼ばれ、王族や貴族階級、また、彼らの招待を受けた者しか通ることが許されなかったそうだ。

オパエカア滝の展望台を少し下った所にあるポリアフ・ヘイアウは高さ1m50cm、幅90cm程の石垣で囲まれ、島の先住民であるメネフネによって造られたと伝えられている。その目的はいまだに定かではないが、月に一度の夜、神々がここに集まりどんちゃん騒ぎをしていたのではないかと言われている。

ワイルア川にほど近いホロ・ホロ・ク・ヘイアウはカウアイ最古のヘイアウ(古代のハワイ人が建設した聖域のこと)で、ハワイでは珍しく、供え物は人類を犠牲として神に捧げていたと伝えられている。なるほどここから少し登った高台が墓地になっているのもそういう理由からであったのだろうか?

王者の道から普通の道に出て車を走らせ東海岸の遊歩道を歩きながら潮風を感じていると昨日訪れたハナレイから離れ(い)られない体になっていることに気づいたので再びノースショアに向かって行った。

道行く車中でこれぞガーデンアイランドという山紫水明を見出だし、容赦なく写真撮影を行いながら到着した場所はプリンスヴィルという高級リゾートタウンであったが、気軽に車を停められる雰囲気ではなかったのでそそくさと退散した。

ハナレイの広場にはいくつかのキッチンカーがいずれもきちんとした店構えで出店している。そういえば名産品のタロイモを食していなかったことを不意に思い出したのでTaroスムージーを高値で発注してみることにした。太いストローから直撃した冷媒による頭キーン状態で考えたことは日本にも古くから鬼のライバルであるPeach Taro,、海亀の自動運転で城に招待されたBack Island Taro、 マサカリをかついで熊を運転したGold Taro、ひと粒の米には7人の神様が宿っていると信じるドカベンYamada Taro、父親の目線がシュールなGe・Ge・Ge Goblin Taroが活躍していたことであった。

ハナレイにフィッシュマーケットが地味に営業していたので入ってみると、ここが米に海苔をまとった巻物の宝庫であることがわかったので高値で数本買って帰ることにした。切れ味鋭い包丁で食べやすい幅に切られた巻きずしをしつこいほどのラップでさらに巻き上げたものを手にBeach Clubへの帰路についた。

早速ベランダでスパイシーツナやホタテの太巻きをワサビを醤油に溶かしたソースと称するものに付けて食してみるとこれが想像以上の美味であったのだが、地元民が毎日食べるとなるとそれ相当のエンゲル係数は覚悟しなければならないはずである。

エンゲルを凌駕する「KAUA‘I‘ SPIRIT」に背中を押され、今日もポイプまで足を延ばした。

カウアイでも最高のビーチといわれるポイプ・ビーチパークはブギーボードやボディーサーフィンのメッカとして知られており、カウアイ島ではここの波打ち際が最も人口密度の高いエリアであることを示していたのだった。

1月8日(月)
同じ場所に5泊という滞在型リゾートの醍醐味を十分に味わうことが出来たMarriott’s Kauai Beach Clubを携帯のテキストメッセージの一言でチェックアウトするとリフエ空港のスターバックスでコーヒータイムを楽しんだ。飲んだコーヒーはハウスブレンド系の何の変哲もないものだったのだが、店を出る際に少し粉っぽさを感じてその方向に目をやるとそこにはコーヒーの王者であるはずのコナコーヒーがスターバックスのパッケージで鎮座していたのだが、カウアイコーヒーだったら買うわいと思っていたのでコナコーヒーを手に取ることはなかったのだった。

9:34発HA164便でホノルルに戻り、空港のANAラウンジでブランチを済ますと12:30発NH181便で成田への帰路についた。

1月9日(火)
午後4時過ぎに成田空港に到着し、車を預けたサンパーキングに電話を入れた後、即座に携帯の設定を機内モードに戻していた。世間は3連休明けの平日なのだが、仕事関係の電話を受けられるほど爆発した脳みそは回復していないだろうと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥138,300.- / passenger、ハワイアン航空 = ¥25,270.- / passenger
総宿泊費 $74.77 (TAXのみ)
総レンタカー代 $389.65
総ガソリン代 $61.21

協力 ANA、ハワイアン航空、ハーツレンタカー、Marriott Vacation Club

シン・FTB ベトナム フーコックのかぜ

♪It’s so easy 走りだせよ! Easy to be happy. 風の青さを~ 抱きしめて 荒野へとまっすぐに オ~イエ~♪

というわけで1週間くらい前から♪かぜを感じて♪おり、発熱はしていないものの日々の筋トレ、体幹トレーニングで鍛えぬいた箇所に沿って筋肉痛が進行し、その後喉の奥底にからみつく緑黄色社会系のしつこい痰に悩まされていた。

症状も改善に向かっていたのでベトナム南部の離島で♪Easy to be happy 振り切って♪と歌えば完治するだろうと高をくくってかねてより計画しておいたフーコック島に向かうこととした。

2023年11月22日(水)
19:15成田発NH833便ホーチミン行きは定刻通りに出発し、7時間以上のフライトで2時間の時差を超えて日付が変わる前にはタンソンニャット国際空港に到着した。深夜にもかかわらず入国審査待ちの長蛇の列を見ながらここでも旺盛な旅行需要の回復の実態が見て取れた。

税関を通過して晴れてベトナムへの入国を果たし、イチロ到着エリアのATMに向かうとクレジットカードで百万ベトナムドン (VND) をド~んと出金し、一気にミリオネアへと成り上がった。

空港から今日の宿泊先であるHoliday Inn & Suites Saigon Airportへのタクシー代はVND 250,000という固定価格制になっているようだったので交渉の余地なく車上の人となり、約10分後にはチェックインを果たしていた。

11月23日(木)
モダンな外観のホテル上階のスイートルームから下界を見下ろすとマサにホーチミンの喧騒そのものが見て取れるのだが、空港近くという立地条件からか「放置民」と称されるはずのホームレスはいないようだった。

食欲不振のため、ホテルの各種ビュッフェメニューの中からかろうじて私の喉を越したものはレーザーラモンHG系の麺類であるはず「フォー!」で、その他流動食と合わせて何とか体力の維持に努めていた。

11時過ぎにはホテルをチェックアウトするとドアマンにタクシーを呼んでもらって空港に移動したのだが、タクシー代はVND 110,000で来るときの半額以下であった。
ベトナム航空運航の13:20発VN1827便はスモッグの曇り空を切り裂いて離陸し、インドシナ半島南部を西に進路を取り、タイランド湾に浮かぶ離島を目指して行った。眼下にベトナム最大の面積を誇るフーコック島の雄姿が確認出来るころには晴れ渡る空の下で視界を遮るものはなくなり、無事にフーコック空港に着陸することに成功した。

手付かずの自然が残る秘境のリゾートフーコック島は昨今欧米を中心に人気を集めるリゾートとして急速な発展を遂げている。島の大部分を山や丘、森、そして美しいビーチなどの大自然に覆われているのだが、伝統的なベトナムの魚醤・ニョクマムや胡椒の生産が主要産業となっている。

空港からフーコック島西海岸のリゾートエリアに位置するInterContinental Phu Quoc Long Beach Resortまでのタクシー代は定額のVND 200,000に設定されているようでわずか15分程度で現世の喧騒とはかけ離れたドリームランドに到着したのだった。

IHGのダイヤモンドエリートメンバー兼インターコンチネンタルのアンバサダーとしての地位を誇るFTBに対して用意いただいた部屋は数段階アップグレードされているはずの上階のサンセットビュー部屋であり、日が西に沈んで行くのを心待ちにしながらホテルライフをスタートさせることにした。

何はともあれホテルの中庭池の鯉を横目にプールサイドをスルーして早速ビーチに向かった。

ビーチの砂のキメ細かさが足裏に心地良い刺激を与えてくれるのと同時「キュッ、キュッ」というサウンドがマリンスポーツへの扉をこじ開けようとしていたのだが、さすがに今日の体調では水に浸ることは控えるべきだと考えたのでビーチサイドのカフェレストランSeaShackでビールをチビチビ飲みながらリゾート客のアクティビティを遠巻きに眺めていた。

体調の良し悪しにかかわらず燃えるようなサンセットは平等にやってくるので部屋のベランダからオレンジ色に輝く水平線を眺めてしばし旅情に浸らせていただいた。

夜になっても食欲は湧いてこなかったものの回復のための栄養素を吸収する必要があったのでホテル内のベトナム料理レストラン「Sora & Umi」に予約なしでしけこんだ。コロナビールでウイルスが上書きされることを期待しながら、ウエイターにおすすめの麺類を尋ねたところBun Cha (ブンチャ)を指名してきたので頼んでみることにした。ブンチャは焼いた豚肉とライスヌードルを用いたベトナム料理でサラダ素麺とも呼ばれている代物だ。グリルで焼いた豚肉の脂身(Cha)などを白いビーフン(Bun)にのせ、好みのハーブと甘酢っぱいつけだれに付けて食すのだが、その甘さが裏目に出てヌードルの完食には至らずもかろうじて葉っぱに巻いた焼肉で喉奥の痰を切り裂き肉食系の面目だけは保つことが出来たのだった。

11月24日(金)
朝9時半に朝食ビュッフェ会場に辿り着き、フォーや流動食で何とか胃袋を落ち着かせた。
今日は日がな一日浜田省吾よろしく♪ベッドでドン・ペリニヨン♪的活動に終始しながら♪いつかあいつの足元に BIG MONEY 叩きつけてやる♪というリベンジ妄想にふけるつもりであったが、リゾートの誘惑にはあらがえず、プールサイドに引き寄せられていった。

若いボーイが注文を取りに来たのでマルガリータを発注したものの、その数分後に先輩のボーイが飛んできてピザが焼かれそうであることを匂わせたのであわててクラシカル・マルガリータ、すなわち飲み物のマルガリータを頼んだのだと主張し、何とか事なきを得たのであった。

プールの水が少し冷たく感じる一方で遠浅のビーチの海水は病人には適温であるはずのぬるさだったのでここでタラソセラピーと洒落こむことにした。

透明というよりもエメラルドグリーンの海水は陸からの養分を豊富に含んでいるようであったが、特に魚類と遭遇することもなく、人類のレレレのレ~的アクティビティを横目にしばし緑茶を濁していた。

フーコックではサンセットは毎日見られる訳ではなく、今日は暑い雲に西方の視界を遮られていた。ディナーはいい具合に空いていたカフェレストランSeaShackで取ることにしたのだが、この度新メニューとしてシーフードの盛り合わせが松、竹、梅のランク付けでデビューしたようだったので景気づけに一番高いやつを発注した。スコップで運ばれてきたシーフードの盛り合わせは無造作にテーブル上のキッチンペーパーの上に流し出されたので早速食して見たのだが、甘辛いたれを絡ませた伊勢海老や普通の海老、ムール貝等はそれなりに美味であったのだが、付け合わせのパンまでは喉を通すことは出来なかったのだ。

11月25日(土)
今日も体調の回復がおもわしくなく、♪もうひとつの土曜日♪的なバラードの気分を引きずっていた。恩を仇で返すような♪友達に借りたおんぼろ車で♪と歌唱するほどやさぐれていなかったのだが、とりあえず♪海まで走ろう♪とは思っていた。

ビーチでは丁度パラセーリングがスタートする瞬間を目の当たりにしたのだが、数人がかりの力仕事の成果として晴れて沢田研二の♪TOKIO♪の気分を短時間だけ満喫出来ることが確認されたのだった。

パラセーリングが♪海に浮かんだ光の泡♪になったのを見届けるとさらにビーチの散策を進めることにした。忽然と目の前に姿を現したものは石垣の上に設えられた真珠貝のオブジェであり、MIKIOMOTOの気配はなくともこの島の主要産業が真珠の養殖であることを雄弁に物語っていた。

午後4時のレイトチェックアウトまでの時間をリゾートで満喫し、タクシーで空港へ帰ることになったのだが、ベトナムでは恒例となっているスマホの翻訳ソフトによるタクシー運転手の観光地への勧誘攻撃が始まった。彼は飛行機の出発まで時間があるので真珠の養殖場へ行かないかと誘ってきたのだが、体調の戻りが芳しくない私にとっては「豚に真珠」だと思えたので丁重にお断りし、速やかに空港へと向かわせた。

今日は昼食を抜いていたので空港でやたらとどんぶりサイズの大きい牛肉麺(フォー・ボー)を食した後、17:15発VN1828便でホーチミンへと帰って行った。

すでにホーチミンでの定宿に認定されたHoliday Inn & Suites Saigon Airportにチェックインし、ビールと生春巻きの完食でベトナム料理を締めさせていただくとあとはひたすらドン・ペリニヨンのないベッドで体力の回復に努めていた。

11月26日(日)
早朝4時過ぎに起床し、5時過ぎには寝ぼけタクシーで空港へと向かっていた。タンソンニャット国際空港で最後のフォーを流し込むと7:30発NH834便の機上の人となり、是枝裕和監督のカンヌ映画祭出品作品である「怪物」を見ながら、うちの怪物猫は切れの悪いうんこをしたときに床に肛門をなすりつける伝家の宝刀「うんこ切り」をマスターしているのだが、これも家に運が付く所業であると自分に言い聞かせながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥57,640.- / passenger、 ベトナム航空 = ¥10,570.- / passenger
総宿泊費 US$ 580.22
総タクシー代 VND 1,110,000.- (¥1,000 = VND 167,323)

協力 ANA、ベトナム航空、IHG HOTELS & RESORTS

FTBJ犬山城でどうする!

圧倒的な招き力と猫力を背景に絶対的な猫派を自認するFTBではあるが、今回はひょんなことから犬派の牙城であるはずの犬山に入城し、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」的アクティビティに従事することとなったのだが、さてどうするものか!?

2023年11月12日(日)
午前10時過ぎに八王子市の自宅を出発し、圏央道から東名を経由して新東名に入り、浜松サービスエリアで昼食休憩を取ることにした。出世の街である浜松は家康公ゆかりの地ということで私もその縁起にあやかるべく家康公グルメの中からしぞ~かおでんを選んで食し、ホトトギスが鳴くまでどのような試練にも耐えうる忍耐力の醸成に勤しんだ。

新東名から再び東名に舵を切り、愛知県に侵入すると岡崎ICで高速を降りるとそのまま家康公の息吹を感じる岡崎公園に向かった。

岡崎公園は家康公が生誕した岡崎城を有する自然豊かな歴史公園で大河ドラマフィーバーの流れに乗り、「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」をオープンさせ、戦国武将好きの観光客の取り込みに躍起になっている。

公園に入ってまず私の目を奪ったものは犬のような忠誠心を持つと言われている徳川四天王パフェの看板で、「どうする?」と問われても「高い!」という印象が「映え」への欲望を凌駕するには至らなかった。

岡崎城の隣に鎮座し、家康公を祭神とする龍城神社は神君生誕の朝、城楼上に雲を呼び風を招く金の龍が現れ、昇天したという「昇龍伝説」が残るパワースポットである故か、多くの七五三まいりの参拝客で賑わっていた。

竹千代(家康公の幼名)が生を受けた岡崎城の周囲を半周すると「家康公・竹千代像ベンチ」が格好の記念撮影スポットとして君臨していたのだが、順番待ちの観光客に気を使って肩を並べることは遠慮しておいた。

¥890の支払いで「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」と岡崎城の共通入場券を購入し、松本の潤んだ目力に引き寄せられるように各展示コーナーを徘徊させていただいた。

このドラマは演出上BL(Boys Love)の要素をふんだんに取り入れて視聴率アップを画策していただのが、ご時世がらそのようなものは一切排除され、すべて硬派にまとめあげた展示が印象的であった。

岡崎城に入城するころには日も西に傾きかけていたのだが、歴史的建造物の外観とはうらはらに3層5階建ての天守の内部はモダンな歴史資料館となっており、5階の展望室からの岡崎市内の景観は圧巻であった。、

岡崎城を下城し、出世街道かどうか定かではない道を1時間ほど西進すると歩いているときにふと棒にあたったような感覚を覚えた。気づけば愛知県犬山市の中心部に紛れ込んでおり、名鉄犬山駅前をスルーして木曽川沿いにそびえる犬山城を見上げているうちに本日の宿泊地に到着した。

インターコンチネンタルやホリデーインを展開するIHGグループの中ではインディーズ系であるはずのホテルインディゴ犬山有楽苑は犬神家の一族の有名な殺害現場を彷彿とさせるほどの旅行需要のV字回復により国内外からの多くの旅行者で賑わっていた。

IHGのダイヤモンドメンバーの私に対してご用意いただいた部屋は3階の国宝犬山城正面ビューの上室で戦国時代からの犬の遠吠えが聞こえてきそうなほど非日常感が演出されていた。

天然温泉「白帝の湯」に浸かり、一介の戦国武将から帝王にまで出世した家康公に思いを馳せていたのだが、竹の生い茂る中庭はむしろ人質時代の竹千代の生い立ちとうまくシンクロしているようであった。

11月13日(月)
早朝より白帝の湯で体を清め、部屋から犬山城を見上げると天守の周りを鳥が旋回していたので警備の点も万全ではないかと思われた

9時開城の犬山城の天守にはすでに人影が見られていたので満を持して10時過ぎに出向くことにした。犬山城へと続く道は急な坂道となっており、ショートカットするためには犬猿の仲であるはずの猿田彦神社を経由しなければならなかったので参拝することを忘れなかった。

チケット売り場で¥550を支払い、晴れて国宝犬山城(別名 白帝城)の敷地内に潜入した。犬山城の築城は1537年であるが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際には緒戦で羽柴秀吉方の急襲を受け、羽柴軍と織田信雄、徳川家康連合軍が尾張に集結するきっかけとなったという日本史的にも重要な遺産である。

早速内見する運びとなったのだが、外観3重、内部4階の城内を隈なく見て回るためにはきわめて急な階段を上り下りしなければならず、これが思いのほか重労働となった。

内部に展示されてある遺品は物言わぬ歴史の証人には変わりないのだが、私の心に一番訴えかけてきたものはオードリー春日のネタになったはずの「鬼瓦」であった。

最上階はぐるりと周囲を見渡せる展望所になっているのだが、木曽川を望む立地が最強の防御網を形成している様子が見て取れる。防御の固い犬山城を落城させるための作戦を考えると正攻法では太刀打ち困難なのは明白なので大量の飼い猫を送り込み、どう猛な武将にすりすりして骨抜きにする平和的解決が最も望ましいはずだと考えていた。

下城して敷地内の土産物屋を物色していると芦屋雁之助似のいかつい男の写真が恭しく展示されている様子が目に飛び込んできた。彼は「裸の大将」でならしている山下清画伯であるのだが、大将が服を着ているというだけでここがいかに格調高い国宝であることの証明になるはずであろう。

犬山城のふもとで見た犬山市の公式キャラクターが「わんまる君」であることに猫派への友好性を感じることが出来たので安心してホテルへの帰路に着いた。

ホテルインディゴ犬山有楽苑が醸し出す幽玄はどこから来ているのだろうかという問いに答えるためにホテル専属の庭園という役割を果たしている有楽苑に立ち入ることとなった。一般入苑料は¥1200となっている一方でホテルの宿泊客にはルームキーの提示のみで入苑出来るのだが、有楽苑を見ない代わりに¥1200を宿泊費から引いてくれという要求には応えられないはずであろう。

織田信長の実弟である織田有楽斎は茶の湯の創成期に尾張国が生んだ大茶匠であり、彼にゆかりのある「如庵」という茶室は紆余曲折を経て有楽の生まれ故郷である犬山に腰を据えて今日まで国宝としての地味な輝きを放っている。

秋桜と書いてコスモスと読ませる強引な当て字はさだまさしと山口百恵の楽曲により世の中に定着し、今日に至っているのだが、正真正銘の秋に咲き誇る桜が豊田市山間部の「小原四季桜まつり」として活況を呈しているようなので足を延ばしてみることにした。会場は5ヵ所あるのだが、最初に本部のある「小原ふれあい公園}に駐車料金¥1000の支払いで車を停め、百花繚乱の四季桜と紅葉の競演を期待したのだが、桜はほんの2分咲きで、紅葉の色づきも思ったより進行していなかった。

小原ふれあい公園から徒歩10分の森の中のしなびた神社に「家康の腰掛石」が祀られていたので立身出世、運気UPのご利益を求めて腰を掛けることにした。今から400年ほど前の江戸時代に徳川家康公が小原一円の様子を視察に来たときに床几として石の上に座ったと伝 えられているそうだ。小原町の賀茂原神社に大人で一抱えほどもある石(150㎏)のそばに『御腰掛け石」と刻まれた標柱が 建っており、「力石」とも言われているのだが、「あしたのジョー」のライバルかどうかは定かではなかったのだ。

♪ひ~とはみな一人では生きてゆけないものだから~♪と口ずさみながらふれあい(中村雅俊)公園を後にすると小原で一番四季桜が多く、約1200本の四季桜と紅葉の絶景がご覧になれるとの謳い文句に引き寄せられて「川見四季桜の里」に移動した。

四季桜の開花状況はふれあい公園より進んでいるもののまだまだ満開には時間がかかる様子であったが、所々で四季桜と紅葉の競演が見られ、四季桜まつりの名に恥じない景色には違いないと納得して八王子への帰路に着いたのだった。

FTBサマリー
総宿泊費 ¥27,936
総高速代 ¥12,630
総ガソリン代 ¥5,660

協力 IHG HOTELS & RESORTS

シン・FTB王道バカンス ハワイ オアフ島ツアー

アロハ ボンよ、ハワイ湯!?

というわけで、アフターコロナにもかかわらず、円安の定着により海外渡航客の戻り足が鈍く、航空会社もこぞってキャンペーンによる需要喚起に励んでいる今日この頃であるが、憧れのハワイ航路が♪ウエイクアップ デ・ザイヤ―♪を呼び起こす起爆剤になりうるかどうかを確認するためにオアフ島ツアーを開催することにした。

8月30日(水)
21:30発NH182便B700-300機は定刻通りに成田空港を出発した。機内映画のトップガン マーヴェリックを見ながらまだまだ若い者には負けられないという気概をあらたにしていると間もなくしてダニエル・K・イノウエ国際空港(旧名称ホノルル国際空港)に到着した。飛行時間はわずか7時間弱であった。

ハワイのさわやかな朝日を浴び、メラトニンを増やして時差ぼけを解消すると空港でタクシーを拾ってワイキキ方面に向かった。最初の宿泊先であるヒルトン・ハワイアン・ビレッジまでの道のりはわずか10km程度であったろうが、$50のタクシー代が重くのしかかってくるように感じられた。

12時半に追加料金を払ってアーリーチェックインをさせていただくとダイヤモンドヘッド・タワー上階のオーシャンビューの部屋のベランダに陣取り、おだやかな海に浮かぶヨットやボートをぼ~と眺めていた。

リゾートの敷地内にはヒルトン・ハワイアン・ビレッジの歴史を物語る年表や銅像も数多く設置されているのだが、1961年には映画「ブルーハワイ」の撮影でエルビス・プレスリーが宿泊した事実が大きな金字塔となっているようである。

約15年振りのハワイの雰囲気に酔いしれ、気が付くと昼飯を食いそびれていたので近場のアラモアナショッピングセンターに買う気もないのに足を運んでみることにした。

フードコートで高値のバーガー系のランチで胃袋を落ち着かせたのは良いのだが、ちょっとした日用品の購入の後、財布の中身を見てみると「アラ モぁ ナくなった」というセリフが思わず口をつくようにハワイで使うお金には羽が生えていることが実感された。

日も西に傾いてきた頃にヒルトン・リゾートの目の前に広がるデューク・カハナモク・ビーチを散策させていただいた。このビーチは国際的に有名な沿岸生態学者であるスティーブン・レザーマン博士(通称ドクタービーチ)が毎年選出する全米ベストビーチ・リストで、2014年にはアメリカのベストビーチに選ばれている由緒正しい砂浜である。

ビーチの内側には最新の水循環装置を備えた5エーカーの海水ラグーン、デューク・カハナモク・ラグーンが君臨し、サーフィンやカヌー等のアクテビティとは一味違う静かなひと時を過ごせる憩いの場となっている。

夕日に照らされるダイヤモンド・ヘッドを見送った後、予約なしで着席できたビーチフロントのトロピックス・バー&グリルにしけこんでディナータイムとなった。ハワイアンシーフードメドレーと和牛ブリスケを食させていただいたのだが、和牛にかかっている自家製バーベキューソースが市販品のA1ステーキソースと大差ない味である以外は非常にゴージャスな気分を味わうことが出来たのであった。

8月31日(木)
午前中の涼しげな気候につられて、おもむろにヒルトンを飛び出すとワイキキ・ビーチ方面に向かって歩を進めた。ビーチにはすでにリゾート客が繰り出しており、皆それぞれの出で立ちで小麦色のマーメイドを目指していた。

ワイキキのセンターとして不動の地位を確立しているロイヤルハワイアンセンターの数あるダイニングからアイランド・ヴィンテージ・ワインバーを選択し、ハワイアン系のプレートを発注して遅めの朝食を取ることにした。クレジットカード支払いによるチップは15%, 18%, 20%, 22%の言い値系選択制になっているもののハズキルーペの力を借りなければ細かい数字の確認が出来ないため、どうしても真ん中あたりに狙いを定めて☑マークを記入することになってしまうのだ。

ワイキキのメインストリートは巨大なショッピングセンターとしてブランド店の見本市と化しているので買う気がない私であっても購買意欲をそそられないようにANAが運営しているマハロラウンジにエスケープした。ANAのテリトリーということで心を許してくつろいでいたのだが、巨大ホテルブランドであるマリオットの回し者に$100をやる代わりにマリオットバケーションクラブ見学説明会への参加を勧められたので一本釣りされてみることにした。

マリオットとのアポ確定後、ヒルトンに戻ってプールサイドでくつろごうかと思ったのだが、どのプールや設備も芋洗い場と化しているようだったのでかろうじてアイスクリームを食すと一旦部屋に引き払い、体制を立て直して夕暮れ時に再びワイキキに舞い戻ってきた。

プーチンの影におびえることなく、カメハメハ大王と人気を二分するはずのデューク・カハナモク像にハワイへの帰還を告げるとしばしザ・ベンチャーズが奏でる電気ギターのテケテケサウンドの幻聴とともに波乗りジョニーや波乗りパイレーツを傍観した。

地元の画家の作品を数多く展示するギャラリーで絵になる男であるはずの長嶋一茂の幻影を一瞥し、エンタメディナーの鉄板となっているはずの鉄板焼き屋である「田中オブ東京」に入店した。先にマリオットから$100のバウチャーを授与されていたので夕食代にあてるべくANAトラベルに予約させておいたのだ。

ハワイカクテルの主流派であるはずのブルーハワイやマイタイで気分を高めると「田中」より技術を引き継いだはずの地元シェフによる鉄板用調理器具であるコテを使ったこてこてのパフォーマンスの幕が切って落とされた。ジャグリングの際にコテを落とした時は単なる小手先のパフォーマーかと思ったのだが、鉄板上での失敗にもテンパることなく見事に客のハートに火を灯したのだった。

9月1日(金)
チェックアウト時間ギリギリの11時までヒルトンで過ごした後、タクシーで空港まで移動し、ハーツレンタカーでKIAの普通車をレンタルした。ハワイは1年中温暖な気候でいつ来ても気軽にバカンスが楽しめるのだが、ワイキキ周辺の喧騒には辟易とさせられるので比較的人口密度の低いノースショアに移住するプランをあらかじめ組んでおいたのだ。

ノースショアのオールドタウンであるハレイワに到着すると、あたかも翼が生えたような♪バンザ~イ 君に会えてよかった♪的なテンションの高まりを感じた。そこにはウルフルズの代わりにBANZAI BOWLSの看板が掲げられており、朝のいい気分のうちに食すると思わず諸手を上げてしまうはずのメニューであるアサイー・ボウルがメインになっているので高値で発注してみることにした。

けたたましいミキサーサウンドですり潰したアサイースムージーの上には各種フルーツやナッツが盛り付けられており、カロリー消費量が激しいはずのサーファーの美容と健康にはうってつけの栄養食である。

ノースショアの海岸沿いの国道83号線の道路状況はスムージーとは程遠く、数回の地獄渋滞を乗り越えて今日から2日間お世話になるコートヤード バイ マリオットオアフ ノース ショアに到着した。ワイキキのリゾートホテルではないのにリゾートホテル並みの宿泊料と1日$20の駐車場代の支払いはFTBの財政を圧迫したもののこのマリオットグループでの宿泊が後日大きな恩恵をもたらせてくれたのだった。

ホテルの隣の広大な敷地でポリネシア・カルチャー・センターが圧倒的な存在感を誇っていたのだが、入場せずに軽く周囲を見学するにとどめておいた。それよりも近隣のスーパーやダイニングでの物品の相場の確認に余念がなかったのだ。

ビッグウエーブが押し寄せるサーフィンの聖地ノースショアは夏はベタ凪になると聞いていたのだが、ビーチにはそれなりの波がうねっており、地元住民の夕飯前の最適なエクササイズ環境が提供されていたのであった。

9月2日(土)
早朝よりローカルフードを提供してくれるはずの近隣のダイニングに寄ってみたのだが、人が並んでいるようだったので断念して再びハレイワに向かった。特に渋滞にも遭遇せずスムーズなドライブに気を良くしてBANZAI BOWLSでアサイースムージーを流し込んで朝食とした。

金銭出納には常に気を付けているつもりであるが、今回のツアーでは思わぬ物価高に見舞われ多額の出費を余儀なくされている中で、今後収支バランスを保っていく術を身につけさせていただくためにとあるパワースポットに向かった。

カイアカ・ベイ・ビーチ・パークと言う海に面した公園の中で車を停めるとおもむろにパックマンの強い引力に引き寄せられてしまった。

現地語でポハクラナイと呼ばれる伝説の岩は直訳すると「岩のベランダ」であるが、洗濯物も干せそうにないので通称バランスロックと呼ばれている。

この代物はハワイ先住民の故郷であるタヒチから流れてきて、霊力のある岩という言い伝えがあるので、不思議な力を有しているはずであろうことから投打のバランスにおいてはすでに伝説となっている大谷翔平選手も訪れ、パワーチャージした実績があるそうだ。

ちなみにハンバーガーの具になった心境を共有するためにマクドやモスの社員研修ツアーのコースになっているかどうかは定かではない。

パワーバランスの一端を垣間見た後、車は南に進路を取り、真珠湾を思い出すPearl CItyから西に切り込み、KO OLINAビーチを目指した。目的はむろんマリオットバケーションクラブ見学説明会に参加するためであった。

Valletパーキングに車を預けると颯爽と会場のコナタワーの14階に向かった。そこで出迎えてくれたセールスエグゼクティブのレディは勧誘ノルマを抱えているはずで♪きっとお前も悩めるマドンナ♪に違いないと警戒心が湧き上がった。

マドンナの説明によると目の前のラグーンは熊谷組が設計し、どんな嵐が起こってもビーチに高波が押し寄せることはないとのことであった。また、マリオットの敷地のとなりは広大な空き地となっており、ここで2014年に嵐15周年の野外公演が開催された実績まで誇っているという。

アイドルの所属事務所に嵐が吹き荒れている状況はさておき、マドンナが繰り出す条件は特にシャイな言い訳を仮面で隠している様子もなく、勧誘もさほど強引ではなかったのでいつしか前向きな検討段階に入っていった。通常であればマドンナの上司であるシニア・ディレクター登場による締めの特典をもって合意となるのだが、その前の段階、すなわち今回マリオットグループで宿泊している旅行者には無条件で1000ポイント贈呈するという殺し文句ですでにダイヤモンドヘッドのある東の山の方から♪いぃっそ エクスタシーィ♪ ♪強っく♪ ♪強っく♪というクライマックスの声が下りてきたような感覚を覚えていたのであった。

無事に契約書にサインを済ますと今日はリゾートの設備を自由に使ってもよいとのことだったので早速ロッカーで水着に着替え、ネズミ駆除のために放たれているマングースによって♪時を止めた楽園♪に導かれた。

♪とけて 魔性のリズム♪に体が支配されはじめたころリゾートを後にして帰路についたのだが、今後KO OLINAビーチがハワイにおける別荘の役割を果たすかどうかはFTBの匙加減にかかっているはずであろう。

ホテルへ帰る道すがらで海亀渋滞を引き起こすビーチに立ち寄ってみた。ハワイでは海亀をホヌと呼び、ノースショアのラニアケア・ビーチ付近はホヌが上がってくるため、その見学のために慢性的な渋滞が発生するとのことであった。幸か不幸かホヌは不在でその代わりにサーファーが波に上がっている姿を見て留飲を下げることが出来たのだった。

9月3日(日)
今回のツアーにてヒルトンからマリオットへの華麗なる転身を土産に空港へと向かった。空港で待っていたのは生身の海亀ではなく、フライングホヌと呼ばれる海亀文様をあしらった大型機であった。途中ハワイ出身の名野球選手であるウォーリー与那嶺のメモリアルで、お金を使いすぎた罪はDo not ウォーリーで問題ないとの啓示を受けたのでそのまま13:00発NH181便A380機に乗り込み帰国の途に着いた。

9月4日(月)
機内のオーディオプログラムで70~80年代の楽曲を聴きつつ、近年では仮面舞踏会は記者会見と同義語になってきていないかと訝りながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥106,180 / passenger
総宿泊費 $1,796.95
総タクシー代 $110
総レンタカー代 $127.8
総ガソリン代 $22.46

協力 ANA、ANAトラベル、Hiltonhhonors、MARRIOTT VACATION CLUB、ハーツレンタカー

FTBサミット夢跡ツアー in 厳島神社

先月開催されたG7広島サミットの成果としてウクライナに平穏な日々が訪れ、核軍縮は実行されるのであろうか?
この疑問に対する答えを求め、今回のツアーの目的地として厳島神社が選定されたわけだが、コロナ明けの人気観光地も人手不足で猫の手も借りたいはずなので事前に猫集会を開いて対応を協議しておくことも忘れなかった。

2023年6月10日(土)
12:30羽田発予定であったANA635便岩国行は羽田空港A滑走路近くの誘導路で、台湾のエバー航空とタイ国際航空の旅客機2機が接触した影響で1時間以上の遅れを出したため、山口県東部の岩国錦帯橋空港に到着したころにはすでに午後3時を回っていた。

早速ニッポンレンタカーでトヨタのヤリスをレンタルしたのだが、錦帯橋を世界遺産に推しているポスターを見ていささかやりすぎではないかと感じながらヤリスを転がしていた。約15分程のドライブで山梨県大月市の猿橋、徳島県三好市の祖谷のかずら橋とともに日本三奇橋として君臨している錦帯橋に到着した。

1673年に岩国第三代藩主の吉川広嘉によって架けられた錦帯橋であったが、残念ながら政治家の情報漏洩よろしくすぐに流失してしまったそうだ。しかし改良を加えて翌年再建された錦帯橋は、1950年9月にキジア台風による洪水で流失するまで276年の間、架替えを繰り返しながら威容を保ったという。

流失後、鉄筋コンクリートで再建という意見もあったそうだが、市民の強い要望により、1953年に再度、木造の錦帯橋として再建され、現在に至っている。平成13年度(2001)から平成15年度(2004)にかけて、劣化した木造部分を架け替える「平成の架替事業」を行い2004年3月、装いを新たに完成し、訪れる人を魅了し続けているのだ。

橋の形状であるが、5連のうち3連がアーチという木造橋は世界にも類を見ないもので、夏季には鵜飼いも楽しめるようでそれに関連するかどうかわからない釣り人も数人散見された。

錦帯橋への入橋は¥310の支払いで往復可能となっていたので町側から山側に向かって橋を渡らせていただいたのだが、セット券販売されているロープウエイによる岩国城への入城は時間の都合で断念せざるを得なかった。次回は屋形舟に乗って伝統的な鵜飼による夜の鮎漁を観賞しながらライトアップされた錦帯橋を愛でつつ地元北九州の若戸大橋や関門橋といった海峡をまたぐ吊り橋にも思いを馳せなければならないことであろう。

錦帯橋の勤怠管理システムにより営業時間が決まっているはずなので余裕をもって退勤させていただき、広島方面に車を走らせた。広島東洋カープの練習場と寮に隣接している安芸グランドホテルに首尾よくチェックインを果たし、「やっぱ広島じゃ割」クーポンをゲットして気を良くするとフロントで深々と頭を下げている銅像と目が合ってしまった。それはあたかもオリラジ中田率いるパフォーマーがG7首脳というパーフェクトヒューマン達が一堂に会した広島サミットを讃えているかのようでもあったのだ。

8階の部屋から名物牡蠣の養殖棚が並ぶ瀬戸内海を見下ろし、宮浜温泉を引き入れた内風呂「平安の湯」で旅の疲れを体の中からほぐした後、懐石系の夕食で舌鼓のメロディーを奏でていた。

瀬戸内海を挟んでいるが宮島フロントに君臨している安芸グランドホテルの桟橋から世界遺産ナイトクルージング(¥2,000)なるものが運航されているのでチェックインの際にすでに9時20分発の便の予約をかましておいた。

中島みゆきよろしく銀の龍の背に乗るような感覚で船は静かに出向し、一路厳島方面に向かって行った。夜の厳島神社では大鳥居がライトアップされ、光と影がとけあって、とても神秘的な時間が流れているようであった。小雨そぼ降る中、観光客はその様子をカメラと心に刻みつけながら、30分のクルージングに酔いしれていた。

6月11日(日)
大物芸人にも決して物怖じしないはずの♪I am a perfect human♪に別れを告げ、ホテルをチェックアウトするとあっちゃんの言動はいくら何でもやりすぎではないかと思いながらヤリスを転がして宮島口に向かっていた。

宮島口に宮島観光協会が開業していたので中に入ってみると「けん玉発祥の地」という輝かしい称号とともに宮島の干潮・満潮時刻を表示したしゃもじが目に飛び込んできた。宮島は日本一の木製しゃもじの産地だけでなく、しゃもじの発祥の地として有名で広島出身の岸田首相がウクライナ電撃訪問の折にゼレンスキー大統領に宮島のしゃもじを献上して「敵を召し取れ」と檄を飛ばしたそうであるが、広島サミットでの会談の際には支援物資のおかわりについて議論されたようである。

宮島口から10分おきに運航されているJR西日本宮島フェリーに乗り、10分ほどの航海で宮島フェリーターミナルに到着した。

みちのくの松島、京都の天橋立とともに日本三景の一角を担っている宮島であるが、厳島神社へ向かう道すがらおびただしい数の人なれした野生の鹿に遭遇するのだが、奈良公園における鹿せんべいのような餌付けはされていないので観光客の隙をついて食べ物を強奪する光景が散見された。

朝食での牡蠣グラタンの摂取が腸内環境に影響を及ぼしたためか、便所に立て籠もる回数が増えてしまったものの無事厳島神社の観光コースに乗っかることが出来た。

ここでの最大の見どころは何といっても潮の満ち引きの塩梅による大鳥居との大捕り物であるのだが、歩いて行けるタイミングと神社が海に浮かんで見えるタイミングを逃さないためには終日宮島にいなければならないはずであろう。

さらに厳島神社を慈しむために¥300という世界遺産としては破格の安さの拝観料を支払ってお参りさせていただくことにした。

拝殿、本社本殿等、威厳のある建造物には圧倒された一方で境内の中の御手洗の存在は観光客に安心感を与えるのだが、御手洗川には決して排出してはならぬことを肝に銘じて見学させていただいた。

ところで、厳島神社と言えばその造営者である平清盛の存在を忘れてしまっては困るのであるが、平家は清盛から代々篤くこの神社を信仰してきた。一方宮島の人々も清盛に深い愛着を持っており、清盛没後770年にあたる1945年には、「清盛を祀る社を」という宮島の人々の思いから清盛神社が創建され、見事その愛が結実されたのであった。

宮島にはびこる「馬と鹿」を目にした米津玄師も思わず♪これが、愛じゃなければ何と呼ぶのか僕はしらなかったぁ~♪と口ずさんでしまったことであろう。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥16,740 / passenger
総フェリー代 ¥360 / passenger
総宿泊費 ¥39,100(2食付き、2名様)
総レンタカー代 ¥6,710
総ガソリン代 ¥493
総高速代 ¥430

協力 ANA、楽天トラベル、ニッポンレンタカー

シン・FTB Los x ロス = 二刀流Show Timeツアー

コロナ自粛中のGWはまるで猫が寝込んだようにおとなしく過ごさざるを得なかったのだが、待望のコロナ明けを迎えても円安に苦しむ日本人旅行者はコスト面で自主規制を余儀なくされている今日この頃である。

このたび運よくANAよりSuper Valueという破格の運賃による航空券をゲット出来たので、過去数年分の旅行ロスを取り戻すべくLos方面へのツアーが敢行されることとなったのだ。

2023年5月1日(月)、5月2日(火)
連休のはざまとなっている5月1日(月)の裏の仕事をさくっとこなした後、日の暮れるのを待って羽田空港第3ターミナルへとJR横浜線、京急羽田空港線を走らせた。おなじみのANAのSuite Loungeで夕食とアルコール入り飲料で体の調子を整えると日付の変わった0:30発NH106便に乗り込み、フライト時間の大半を無意識状態で過ごせるように狭いエコノミー席での体勢の調整に余念がなかった。

5月1日(月)
太平洋上の日付変更線を超えたことに気づかないまま、飛行機は前日の5月1日(月)午後5時頃ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着した。米国入国の際にそれなりの時間がかかることは想定済みだったのでストレスなくイミグレーションとカスタムを通過すると上階に上がり空港周辺を巡回するHotel Shuttle Busに乗り込み、Holiday Inn Los Angeles – LAX Airportにしけこんだ。

これまでの裏の仕事のハードな出張による副産物としてIHGリワーズクラブのポイントをためこんでおり、宿泊料は無料の恩恵を受けたので、代わりにホテルのレストランに金を落とさなければならない義務感でビールとメキシカン料理で脂肪で覆われた小腹の隙間を埋めさせていただいた。

5月2日(火)
IHGダイヤモンド会員に無料で供される朝食の施しを断り、早朝6時にホテルを出発するShuttle Busに乗りこんだまでは良かったもののバスの運転手や同乗客から下車するべくターミナルを惑わされたため、目的のTerminal 7に辿り着くまでに余計な時間を要してしまっていた。

何とかUnited Clubで朝食を取れる時間が確保出来たのでアメリカンブレックファストで栄養補給を行うと8:26発UA1185便でメキシコのLos Cabosに向かった。ところで何故今回のツアーでLos Cabosが目的地に選定されたのかであるが、第一の理由は単純に行ったことがなかったからなのだが、第二の理由は私が昔勤めていた米国の故シマンテックという会社がITバブル華やかなりし頃、グローバルの多数の営業を引き連れてAchiver’s Tripという名目でLos Cabosで豪遊しやがったという行けなかった者からすると忌まわしい過去の怨念を払拭するためである。ちなみに私は営業ではなくマーケティングだったので最初からAchiverの土俵には乗っていなかったのだが・・・

いずれにしても2時間超のフライトで砂漠の大地を縦切り、バハカリフォルニア半島の最南端に位置するLos Cabos国際空港に到着する運びとなった。多くのアメリカ人バカンス客と一緒にメキシコへの入国を果たすと割高だが明朗会計の前払いとなっているエアーポートタクシーに乗り込み、まずは本日の宿泊予定地に向かった。車窓からはバハカリフォルニア半島の乾いた大地を賑わせているサボテンの姿が見受けられたのだが、前述のAchiver’s Tripの旅行者へのはなむけの言葉はマサに「サボってんじゃ~ね~!」がふさわしかったのではなかろうか?

ちなみにロス・カボスはメキシコの基礎自治体で半島南端のカボ・サンルーカスと東側のサンホセ・デル・カボの二つの主要都市のほか、いくつかの村を含んでいるという。二つの都市を結んでいるのは幹線道路の国道一号線でこの道路上に各種ホテルが軒を構えているのだが、今日はカジュアルなビジネスホテル系のHOLIDAY INN EXPRESS CABO SAN LUCASにIHGの24,000ポイントの支払いで宿泊することとなっている。

チェックイン後、とくにすることもなかったので小さなプールのあるホテルの敷地を散策し、停泊しているクルーズ船を眺めながら感染拡大の温床となったことはもはや過去の遺物だと言い聞かせていた。

国道一号線の主要都市間は市バスが頻繁に往来しているので紫外線が弱まってきた時間を見計らってバスでサンルーカス方面に向かった。初めての土地ゆえ、下車するべくバス停を無意識に通り越し、バスはどんどんダウンタウンの奥地に向かって行ったので適当なところで降りてスーパーマーケットでトイレ休憩をさせていただいた。生鮮食品売り場を見渡すと、さすがに海沿いの都市だけに提供される魚の種類は豊富であったのだが、とりあえず闇営業の仲介で吉本を首になったカラテカ入江をしのぶことが出来るはずのスナック菓子は購入しておいた。

慣れないスペイン語とメキシコペソ(M$)の現金払いの市バスの乗車に苦労を重ねながら、何とかサンルーカスの見どころが集まるマリーナ周辺まで漕ぎ付くことに成功した。

サンルーカスは観光用に整備された人工的な都市の印象は否めないが、街自体の装飾や演出が優れているので歩いているだけでリゾートの気分は自然に盛り上がっていくのである。

マリーナに係留されているおびただしい数のクルーザーを見てもわかる通り、ここでの主なアクティビティは加山雄三的な舟遊びであるのだが、今回は日程の都合で老人と海のように大海に乗り出すようなことはなかったのだが、天空を突き刺すカジキと地面から生えているサーフボードのオブジェだけで疑似マリンスポーツ体験を賄うことが出来たのであった。

夕食は多くの飲食店の中から雰囲気の良い音楽が流れているシーフードメキシカン系のレストランで取ることにした。メキシコでは乾杯の音頭はコロナビールで取るはずなのでそのしきたりには従うことにしたのだが、ビールのお供の柑橘類がライムであることに多少の不安を覚えざるを得なかった。その心は北部九州出身である私のような輩はこのような状況では大分県名産のかぼすを絞ると相場が決まっているのだが、ロス・カボス滞在中の間は「かぼすロス」に苛まれ続けることが確定したからである。

5月3日(水)
午前10時過ぎにはHOLIDAY INN EXPRESSをチェックアウトし、ホテルで手配したタクシーに乗り込むとリゾート気分による胸の高まりを抑えつつ、今日から泊まることになっているHilton Grand Vacations Club La Pacifica Los Cabosに向かった。完全プライベートリゾートであるがゆえにゲートで宿泊予定者名簿と名前を照らし合わせた後、晴れて敷地内への入場が許されたのでフロントでチェックインする運びとなった。

ウエルカムドリンクは、日本では高校球児の主要なヘアースタイルを模しているはずの丸刈り~タとレモネードが選べるのであるが、少しでも早くリゾート環境に適応するためにマルガリータを一気飲みしてフロントデスクで宿泊手続きを行った。デスクではサボテン並みのとげとげしい対応ではないもののチェックイン時間の午後3時までは部屋に入れないとのことだったのだが、ホテル内の施設は自由に使えるとのことだったので早速リゾート内の散策と洒落こんだ。

あいにくの曇り空ではあったもののプールやビーチを眺める限りではここロス・カボスがユカタン半島のカンクンとともにメキシコ最強クラスのリゾート地であることは疑いの余地はなく、松任谷由実が推薦するはずのアカプルコさえ霞んでしまうほどの絢爛ぶりが窺えた。

ビーチまで下りてみると今は亡き日通のペリカン便を偲んでいるかのような怪鳥が岩の上で魚待ちをしている姿を見てこの海の生態系の豊かさを感じ取った。

ビーチのアクティビティとして水上バイク、乗馬、小舟等があるようであったが、リゾート客はあまり関心を示していないようであった。

待望のチェックインを済ませると早速水着を着こんでプールバー方面に向かった。とはいえビリヤードの設備があるはずもないので皆アルコールを飲みながらそれぞれのスタイルで水平線に向かってくつろいでいたのだった。

夜のとばりがおりてもリゾート内は落ち着いた雰囲気をとどめており、浴びるほどの酒を飲みすぎて「許しテキーラ」と温情にすがろうとする者も♪シエリト・リンド♪を合唱するホセやサンチアゴのアミーゴ達も参上することはなかったのだ。

5月4日(木)
昨日の曇天とは打って変わって早朝より青空が広がり、いよいよリゾートがその実力を遺憾なく発揮出来る環境が整った。

リゾートのメインレストランであるTalaveraで高値で供されるビュッフェ朝食を軽快な流しのギターのメロディーとともにゆっくりと楽しんだ後、水着に着替えるとプール沿いの至る所に設置されている大判のタオルをわしづかみにするとコロナビールと一緒にデッキチェアに身を委ね、リゾート活動の定番となっているはずのプールサイド読書に勤しむことにした。

ハズキルーペを介した読書で目に疲労がたまってきた頃を見計らってプールにどぼんしてビーチで展開される人間模様にしばし目をなじませてピント調整を行った。

ビーチもプールも野性味に欠ける感は否めないのだが、突如姿を現したイグアナ越しに眺める海の青さは圧巻であり、これぞマサにメキシカンリゾートの神髄であると思い知らされた。

喉の渇きを覚えるとそのままカウンターでマルガリータを発注し、イグアナに乾杯したのだが、つまみのピザであるはずのマルゲリータがないのが唯一の難点といえよう。

結局日が西に傾きかける時間まで至福の時間を堪能したのだが、リゾート客が去った後のプールは鏡のように周囲のヤシの木を写し取っていた。

今回FTBが泊っている部屋はコスト面を配慮してプールフロント1階のパーシャルオーシャンビューであったのだが、後々ハウス猫のコンシュルジュ付きであることが判明した。奴はしなやかな肢体とともに突然姿を現し、心理的癒しのサービスを提供すると名作映画のように風と共に去って行ったのだった。

今日のディナーは予約が必要だと言われていたが、実際には予約しなくても入れたVelaというイタリアンレストランで取ることにした。

女性の妖怪人間系の名前を冠したはずのベラでは主にシーフード系の料理を召し上がったのだが、地元の食材を伝統的イタリアンにマッチさせた手法により、リゾート暮らしで脳みそを溶かし、人間性を失ってしまった観光客も思わず「早く人間になりた~い」とうなってしまうほど美味にアレンジされていた。

5月5日(金)
わずか二泊三日のリゾート滞在の最終日を迎えた。昨夜のディナータイムの静けさとは打って変わって朝食レストランのTalaveraは活況を呈しており、昨日着席したオープンテラスが満席だったので屋内のテーブルに席を取ったのだが、内と外では違う価格設定がされているようで、開放感に劣るが食べ物への距離が近い屋内は価格的にやや有利であり、ライブオムレツやサボテンをもすりつぶすことが出来るはずの強力ミキサーを要するスムージーバーにもスムーズにアクセス出来たのだった。

チェックアウト迄の貴重な時間はビーチで過ごし、海辺で繰り広げられる人間模様をボ~と眺めていた。

すでに日よけ用の帽子やアクセサリーを売りさばく商人たちも虎視眈々と商機をうかがっていたものの、決してリゾート客のプライベートスペースに土足で踏み込むような押し売り営業はしないので商品に興味のない客にとって彼らは単にビーチを彩る景色の一部でしかなかったのだ。

午前10時にホテルをチェックアウトし、タクシーで空港に向かった。カラフルなロス・カボス国際空港はメキシコ国内や米国主要都市からの様々な航空会社のフライトで賑わっており、そのアクセスの便利さからリピーターもかなり多いはずだとあらためて認識させられた。

12:25発UA547便は30分程遅れて出発し、ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着したのは午後3時半を回った時間であった。さらに長い列の入国審査を突破するのもかなりの時間を要してしまった。何とか米国への再入国を果たすとHearz Rental Carのシャトルバスに乗り、Hertzの営業所に着いたのだが、ここでも長蛇の列の洗礼を受けてしまった。何とかTeslaのModel 3を入手して目的地に向かおうとしたが、モータリゼーションの申し子であるロサンゼルス名物の渋滞にはまってしまったのだ。

1998年の夏以来、25年ぶりに訪れたエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムであったが、$20の支払いで駐車場に滑り込んだ時にはすでに試合開始となっていた。巨大なエンゼル帽をあしらった球場正門の装飾は当時と変わらなかったのだが、そこに君臨するエンゼルスの主である二刀流使いにより新たな時代の息吹が感じられた。

ア・リーグ西地区首位を快走するテキサス・レンジャーズを迎え撃つエンゼルスは大谷を3番指名打者に据えて立ち向かったものの、序盤はレンジャーズに3点のリードを許し、大谷のバットからの快音も聞こえないまま試合は淡々と進んだ。

日本では「こどもの日」ということもあり、折り紙兜を被った日本人ファンの姿も見受けられたのだが、今日はエンゼルスの選手にホームランは出ず、ホームラン・セレブレーションで鹿児島の甲冑工房丸武産業製の兜を「パイルダー・オン」する兜甲児的なパフォーマンスは見ることが出来なかった。

今日のShow Timeは残念ながら野球のパフォーマンスではなく、巨大スクリーンに映し出されるコーセーによってあ~せい、こ~せ~と演技指導された姿のみであったのだが、通常は♪飛ばせ 鉄拳 ロケットパンチ♪によって放たれる外野センター奥の巨大な人工岩と滝まで架けられるアーチの軌道が期待されている。ちなみにその装飾はかつて親会社であったウォルト・ディズニー・カンパニーの時に大幅な改修に着手して出来たものの名残であり、エンゼルスの選手がホームランを打つと、約27メートルの高さまで火が勢いよく噴き、花火も打ち上がるアトラクションが提供されている。

メキシコでの思い出を胸に売店でタコスとブリトーを買って景気づけをすると逆転猿と和訳される「ラリー・モンキー」のラリッた姿に後押しされ、9回裏ツーアウトの土壇場からエンゼルスが同点に追いついてしまった。

試合は延長戦に突入し、ノーアウト2塁から始まるタイブレークの10回表のレンジャーズのスコアボードに首尾よくゼロが記された。10回裏のエンゼルスの攻撃は主砲トラウトからであったが、最近の試合で虹ますのようなアーチをかけずとも申告敬遠の憂き目に会い、切り身にされるような断腸の思いで一塁に向かって行った。

ノーアウト1塁、2塁のサヨナラの好機にShow Timeがお膳立てされたものの、大谷はセカンドゴロに倒れ一死1・3塁で大谷が一塁ベースコーチに反省の弁を述べたのも束の間、次打者アンソニー・レンドンへの初球はワイルドピッチとなり、期せずしてエンゼルスがサヨナラ勝ちを収め、球場内は歓喜の嵐に包まれたのであった。

5月6日(土)
IHGリワーズクラブのポイントがさらに余っていたので25000ポイントの支払いで宿泊したCandlewood Suites Anaheim – Resort Areaをチェックアウトするとディズニーランドの城下町であるアナハイム市内をModel 3で軽く流し、空港近くのサンタモニカまで足を延ばしたのだが、桜田淳子の♪来て 来て 来て 来て サンタモニカ♪という歌声に統一教会の幻影を感じたので車から降りることなくそのままHeartzの営業所に帰って行った。

17:15発NH125便は定刻通りロサンゼルス国際空港を出発し、機内映画の「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」を見ながら次のメキシコツアーの折にはヒューストン空港を経由することになるだろうと考えていた。

5月7日(日)
飛行機が日本に近づくにつれ、Losでの楽しい生活が走馬灯のように脳内を駆け巡りLosロスの感情が押し寄せてきた。マサにそれはロス・インディオスとシルビアが歌う♪別れても好きな人♪に通ずるものがあったのだが、その歌がヒットしている当時の六本木のスナックで歌われていた♪別れたら~ 次の人♪のように未来志向が重要ではないかと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥134,540 / passenger、United航空 = ¥32,350 / passenger
総宿泊費 US$1,065.68
総レンタカー代 US$114.23
総タクシー代 US$115、M$1,000(M$1 = ¥7.8)
総バス代 M$104

協力 ANA、United航空、IHG、HILTONHHNORS, Heartz Rental Car