旧ソビエト連邦国モルドヴァとウクライナうかないなツアー

日食メガネがおつとめ品として割引販売されるのを期待してぎりぎりまで購入を控えていたのが裏目に出て金環日食は4重サングラスで観察する体たらくとなってしまった。ともかく世紀の天体ショーを無事見届けることが出来たのだが、前回のブルガリア・ルーマニアツアーのレポートを受けてマサが20世紀末にすでに東欧を訪れていたという事実の発覚は見過ごすことが出来ず、それ以上の実績を求めてさらに内陸のモルドヴァとウクライナに行かなければならなくなったのだ。

5月22日(火)

12:05発NH207便は定刻通りに出発し、午後5時過ぎにミュンヘン国際空港に到着した。空港からSバーンという近郊列車が出ているのでそれに乗ってミュンヘン郊外のMoosachという駅に降り立った。ハイシーズンのこの時期のミュンヘン近郊のホテルはどこも高値が付けられているのでその中でも比較的安めな(といっても\18,000程度)Hotel Meyerhofに投宿して英気を養うことにした。

5月23日(水)

MoosachからSバーンでミュンヘン国際空港に戻るとルーマニアの小さな航空会社であるCarpatairが運行する11:50発の V3 322便、Saab2000プロペラ機に乗り込むと、2時間程のフライトでルーマニア西部の地方都市であり、Carpatairのハブ空港になっているTimisoaraに到着した。引き続きV3 129便、Fokker100ジェット機に搭乗すると1時間程のフライトでモルドヴァの首都キシニヨウに午後5時前に到着した。

かつてソ連の一地域であったモルドヴァへの入国にはビザと「レギストラーツィア」と言われる滞在登録が必要だったのだが、近年西側自由諸国への歩み寄りを強めているせいか日本のパスポートに対してはビザなしで入国できるのだが、入国審査で観光のためにモルドヴァへ来たぜと言っても容易に理解してもらえず滞在先等を細かく訪ねられてしまった。無事に入国を果たし、両替所で手持ちの20ユーロを差し出すと300レイ(Lei)という現地通貨になって返ってきたので思わず一礼して両替所を後にした。

キシニヨウ空港には165番マルシルートカというミニバスが乗り入れていたのでLei3を支払って乗り込むと20分程で町の中心部に到着した。早速Hotels.comに予約させておいた☆☆☆ホテルであるBella Donnaにチェックインする際にどんな妖怪人間ベラが現れるのか戦々恐々としていたのだが、受付に出てきたのは普通のおしゃれなモルドヴァ・ギャルであった。

7時を過ぎてもあたりは暗くならないのでとりあえず軽く町中を散策してみることにした。町の雰囲気は旧ソ連の田舎町という感じであるが、メインストリートのシュテファン・チェル・マレ大通りには当時の威光を思わせる巨大な建造物群が立ち並び、元々寒いお国のせいか、道行くイケメン猫も高級そうな毛皮をまとっていたのであった。

5月24日(木)

九州より少し小さいサイズのモルドヴァは首都のキシニヨウといえども観光資源に乏しく、これといった見所もないのだが、とりあえず情報収集も兼ねて町に繰り出すことにした。列車の時刻を確認するために乗り込んだキシニヨウ駅の前では早朝から質素なフリーマーケットが展開されており、衣類や雑貨はまだしも誰が買うのだろうといぶかってしまうようなガラクタがシートの上に颯爽と広げられていた。青い蒸気機関車が展示されてあるキシニヨウ駅は駅舎正面の造りは重厚であるが、列車の本数が少ないために閑散としている様子であった。

駅を出て大通りを目指していく道すがらの中央市場で原住民が織り成す人間模様を垣間見た後、団地に取り囲まれているマザラキ教会の外観を窺がうことにした。1752年に建立されたこの教会は小さいながらも人々の信仰を集めており、多くの信者が出入りしていたので内部への侵入を憚られてしまった。

シュテファン・チェル・マレ大通りに戻り、マクドナルドで飯を食った際に店内のトイレを使用させていただくためにはレシートに記載されている4桁の暗証番号が必要であることを学び、今後の排便活動のためにはレシートをぞんざいに扱うことは出来ないと肝に銘じた後、大通り沿いの見物に精を出すことにした。ぱっとしない外観のオペラハウスと警備の手薄そうな大統領府の通りを挟んで反対側にシュテファン・チェル・マレ公園が人々の憩いの場所になっているようだったので憩いのおすそ分けにあずかることにした。尚、シュテファンはモルドヴァ建国の父であり、公園の入口には御仁の記念碑も建っているのだ。

キシニヨウ観光のハイライトは勝利の門の裏側の公園に鎮座するキシニヨウ大聖堂であろう。また、向かいの市庁舎にはためく国旗はルーマニアの旗にモルドヴァの国章を配したものでこの国はロシアよりもむしろルーマニアの影響を受けていることを容易に伺い知ることが出来るのだ。

5月25日(金)

早朝ホテルBella Donnaをチェックアウトすると修復が進んでいる聖ティロン大聖堂のネギ坊主を横目にキシニヨウ駅へと急いだ。7:22発ウクライナのオデッサ行き国際列車は古い車両に木造のシートが設えられており、5時間もの長時間にわたって硬い椅子とケツの筋肉の格闘が繰り返されることとなるのだった。

途中駅に到着した車内でモルドヴァの出国とウクライナへの入国がつつがなく果たされると列車は国際列車から国内列車に成り下がってしまった。ウクライナの入国の手続きをした駅ではどこで手に入れたのか大ジョッキのビールを手にした無頼の輩が乗り込んで来て私の前の席に腰掛けやがった。奴は最初は隣のおばちゃんにやたらと話しかけており、おばちゃんも体よくあしらっていたのだが、それでも飽き足らずついには私が読んでいた本にまで手を掛けてきた。本の内容が奴の興味に合致しないことを思い知ると程なくして黒海沿岸の港町オデッサに到着した。

1年を通して太陽に恵まれ温暖な気候で知られるオデッサであるが、この日は風も強く気温も低かったため、歯の根が合わないほど震えながら港を目指して歩いて行った。キシニヨウより数倍大きく洗練された感のあるオデッサの並木道の街路樹は異様な程高く大きく、巨大な柱や屋根となって道路を覆っているかのようだった。

港に近づくにつれて豪華な博物館の建物が増え始め、それらの前段を飾る彫刻の手足も複雑に絡み合っていた。町行く女性は例外なくウクライナ美人の遺伝子を受け継いでおり、1995年~1996年頃に富山県のパナソニック砺波の半導体工場で長時間ミーティングの憂き目に遭い、飛行機の最終便に乗れなかったときに入った高岡の飲み屋に出稼ぎに来ているウクライナギャルと比べても決して遜色のないものであった。当時はソ連崩壊後ウクライナが独立して間もない情勢が不安定な時期であったにもかかわらず、日本語をまったく理解しないウクライナホステスはその美貌だけで接客をやり遂げるという離れ業を演じていたのだった。

オデッサ最大の観光名所としてポチョムキンの階段が港へと続いている。この階段はソビエト映画史上最高と言われる、エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」(1925年)の舞台となった場所である。何でも1905年の第一次ロシア革命の最中に起こったポチョムキン号の水兵蜂起事件が映画化されたものであり、このオデッサの階段のシーンは目を覆うほど残酷極まりないものであるそうだ。

強風吹きすさぶオデッサ港のターミナルにはCOSTA MEDITERRANEAという豪華客船が停泊していたのだが、ここから黒海を縦断してイスタンブール、はたまたギリシャに抜ける国際フェリーも運航されているのだ。

ポチョムキンの階段の脇に電話ボックスを長くしたようなちゃちなケーブルカーが安値で運行されていたのだが、それに乗らずに階段を駆け上がってエカテリーナII世像が見下ろす広場に到着した。「黒海の真珠」との異名をとる港町オデッサであるが、現在の形に整えたのはエカテリーナII世で、彼女はサンクト・ペテルブルグを建設したピョートル大帝にならい、「黒海に向かって開かれたロシアの窓」として町を築いたのだ。

エカテリーナII世像のふもとで予約しておいたOdessa Apartments On Ekateriniskaya Streetのスタッフを電話で呼びつけると車で迎えに来たので場所が分かりにくいアパートの小部屋に何とかしけこむことに成功した。今日は寒かったのでとあるステーキ屋で肉を食らってとっとと休ませていただくことにした。

5月26日(土)

今日は朝からオデッサ本来のこの時期の温暖な気候を取り戻していたので気持ち良く散策に繰り出すことにした。ウィーンの建築家によって設計され、1884年~1887年にかけて建てられたオペラ・バレエ劇場の周辺では何がしかの婚礼の儀式が行われており、豪華な建物の外観に彩りを添えていた。

博物館が林立する広場ではEURO2012のサッカー系のイベントが行われており、リフティング青少年集団やパッとしないゆるキャラが格好の被写体として広場の主役に躍り出ていた。

巨大なカテドラル前の公園では派手な色の鞍を付けられた馬がいたいけな少女の乗馬を心待ちにしているように辛抱強く待機しており、オデッサののどかな休日の一シーンとなっていた。

横浜と姉妹都市という契りを結んでいるオデッサには「横浜」や「神戸」といった日本食のレストランも数多いのだが、私という奇人を輩出した日本では番付の高い港町であるはずの「門司」という名を冠した店がないことに憤りを覚えながらもさらに港の風情を満喫していた。

鷹や孔雀を記念写真の道具として操っている商売人を横目にプリモールスキー並木道を歩いているとのど自慢系のアコーディオンを弾いているおっさんの伴奏に合わせて民謡を歌っている美人合唱団の歌声にしばし聞き惚れていた。

夕刻になると歩行者天国のデリバスィフスカ通りに面するゴールサト公園のステージで簡易オーケストラによるコンサートが開催され、衝動を押さえきれない老若男女はリズムに合わせてついついダンスに興じながらオデッサは夕闇に包まれていくのであった。

夕暮れ時にオデッサ駅に移動し、チケット売り場で移動手段兼宿泊施設であるキエフ行きの夜行列車のチケットを所望したのだが、何とすべて売り切れということで思わず「キエ~!」という奇声を発しそうになった。仕方なく駅に近いビジネスホテル風の☆☆☆☆ホテルであるBlack Sea Hotelに飛び込むと一番安い部屋で日本円で¥5000程度の505グリブナ(rpH)ということだったので迷わずチェックインすることにした。

気を取り直してオデッサ駅に舞い戻り、明日の8:40発のキエフ行きの列車のチケットを買おうとしたのだが、これもすべて売り切れということでキエ入りそうな声で「そ~ですか~」と言って退散するしかなかったのであった。

5月27日(日)

列車のチケットの購入に失敗し、バックアップとして夕方発のキエフ行きの飛行機を押さえていたのでウクライナに来て浮かないな~という重石を背負った雰囲気を引きずりながら時間潰し観光を余儀なくされた。

町中では何らかのビューティコンテストが行われており、リムジンで乗りつけたウエディング系の衣装を身にまとった美女達が次々にレッドカーペットを歩きながら自己満足に浸っていた。

オデッサには外壁を彫刻で飾ったアール・ヌーヴォー建築がたくさんあり、見る者を飽きさせない町造りがなされているのだが、一方で緑濃き公園内では少年の心身を鍛えるフィールドアスレチック系のファシリティも充実しており、子供達はレンジャーさながらのアクティビティに興じているのだった。

思いがけず長居してしまったオデッサを後にすべくバスで空港に移動し、18:20発ウクライナ国際航空とのコードシェア便であるAEPO CIBITが運行するVV18便に乗り込んだ。1時間程のフライトでウクライナの首都であるキエフのボリスビル空港に到着すると空港バスでキエフ駅に向かった。さらに地下鉄に乗り換えてドニエプル川の中州の島に位置するビドロパルク駅に到着したのは明るさがまだ残る午後9時過ぎくらいの時間であったろうか?

遊興地帯とお見受けするビドロパルク駅周辺は週末の喧騒さめやらず、ディスコティックなサウンドが高らかに鳴り響き、多くの人々が遅くまで飲み食いに興じていた。パルクというだけあり、島の大部分は緑溢れる公園で島の南部から宿泊予定のホテルのある対岸に渡ることが出来ると高をくくっていたのだが、鬱蒼とした森林地帯を犬に吼えられながら歩き回っても島と対岸を結ぶ橋を見つけることが出来ず、1時間程むなしく島内を彷徨って結局ビドロパルク駅に戻ってくる失態を演じてしまった。不本意ながら地下鉄で橋を渡り、駅に降りて30分程歩くとついに予約しておいた☆☆☆ホテル・スラヴィティッチに到着したのは午後11時近くになってしまい、浮かない気分を引きずったままチェックインとなったのだった。

5月28日(月)

早朝旧ソ連時代に建設されたはずの大型ホテルであるスラヴィティッチの8階の部屋から周囲を見渡すと対岸に立ちはだかる像や塔の様子が朝靄越しに見て取れた。ホテルを出て地下鉄駅に向かう道すがらのドニエプル川沿いを歩いていると静かな水面に美しい緑の景色が写し出されていた。

地下鉄1号線に乗ってキエフの市街地である対岸に渡り、アルセリナという駅で降りて南に向かって歩いていると戦没者慰霊碑の向こうに数多くの修道院系の金色の屋根が姿を見せ始めた。

ドニエブル川沿いの深い緑の中に広がる、東スラヴで最も長い歴史を持つ修道院はペチェールスカ大修道院(rpH50、写撮rpH100、世界遺産)でロシア正教文化の源泉であり、ロシア正教ウクライナ支部の総本山となっている聖地である。巨大な壁画を横目に入口の門をくぐったのだが、門の中には聖三位一体教会が内蔵されており、その先には工事中の大鐘楼と豪華絢爛なウスペンスキー大聖堂が光り輝いていた。

広い敷地内には通路も多く、修道院南側の地下洞窟にある地下墓地を目指したのだが、門が閉ざされていたので北側の教会や博物館が集まっているエリアを中心に散策することにした。19世紀後半に建てられた比較的新しい教会であるトラペスナ教会の内部では天井画の下の祭壇の前で信者が参集し、何らかの礼拝が行われていた。

展示場となっているいくつかの小部屋の中にはこの修道院にまつわるはずの金の装飾品や司祭グッズが写撮代を支払った者のみ撮影出来る特典つきで丁重に展示されているのであった。

大修道院内のほとんどの教会が18世紀にウクライナ・バロック様式で立て直されているのに対して、三位一体教会のみが12世紀の姿を留めているとのことなので内部にまで足を踏み入れてみることにした。内部の造りは狭いものの、壁を埋め尽くすフレスコ画と木製のイコノスタースは圧倒的な迫力を醸し出していた。

北側の門の中に造られた教会はウスィフスヴィヤツカ教会で、階段を上って中に入ると中央ドームからキリストに見下される内装が施されていた。

ペチェールスカ大修道院でキエフ住民のキリスト教への帰依具合の確認が取れたところでドニエプル川沿いの大通りを北に向かって歩いてみることにした。風光明媚な川には多くの橋が架かっており、船着場には大きな遊覧船が停泊している様子も見受けられた。

マサよ、君は原発事故後の放射能漏れ対策としてロシアの伝統民芸品のテクノロジーの応用を検討したことがあるか!?

というわけで、ソ連時代の1986年にレベル7の原発事故を起こしたチェルノブイリに乗り込むには特別なツアーの手配が必要であるのだが、キエフ市内にはチェルノブイリ博物館が開館し、原発事故の悲劇を後世に伝えようとしているので見学を試みることにした。しかし、この博物館は日曜日と毎月最終月曜が休館日ということだったので、事故後に石棺によって封じ込めた放射能が30年近くの時を経てコンクリートの経年劣化により漏れ出す恐れに対応すべく、新たな石棺をマトリョーシカ状に何層も覆いかぶせるアイディアを館長と議論するには至らなかったのだ。

低地の川沿いから山の手にあるウラジーミルの丘に手軽なケーブルカーで移動すると目の前に鮮やかな青で彩色された聖ミハイル修道院が姿を現した。1713年にウクライナ、バロック様式で建てられたこの聖堂は付属の鐘楼とともにソ連時代の1936年に破壊されてしまったのだが、1997年から1998年に修復されて今に至っているのである。

丘の上で瞑想をしながらも勧誘のチラシを配っているヨガ軍団をかわして、裏の方からは地味にしか見えないウラジーミル聖公像の背中で哀愁を感じることにした。ウラジーミル公は遊牧民との戦いに勝利し、対外的にも有力となったキエフ・ルーシの統制を強めるために988年にギリシア正教を国教に定めた偉人として崇められているのだ。

聖ミハイル修道院を背景に広場に立つポフダン・フメリニツキーというおっさん扮するコサックの英雄像を通り過ぎて、1037年に建てられた現存するキエフ最古の教会であるソフィア大聖堂(rpH50、世界遺産)までやってきた。現在の姿は17世紀後半にウクライナ・バロック様式で再建されたものだが、写真撮影禁止の内装は11世紀のものが残されている。壁面は豪華なフレスコ画とモザイクで埋め尽くされているのだが、とりわけ中央および祭壇上のドームを占めている巨大なモザイクのキリストと聖母マリアの迫力に圧倒されることになる。

エレガントな装飾が眩しいアンドレイ教会がキエフで一番チャーミングといわれているアンドレイ坂の頂上にそびえている。この教会はロシアの女帝エカテリーナII世のキエフ来訪を記念して1749年から建設が始められたもので、設計はエルミタージュ宮殿など多くのバロック建築を手がけたイタリア人ラストゥレリによるものである。そのためアンドレイ坂の周辺ではサンクトペテルブルグの雰囲気をそこはかとなく感じることが出来るのだ。

キエフの歴史が凝縮されたウラジーミル通りを下っていると村神と名乗る日本食系居酒屋チェーン店とその配達車に遭遇した。その先にはオペラ・バレエ劇場がウクライナの文化の中心であるかのように鎮座しており、往時のキエフの正面玄関であった黄金の門が彩を添えている。

聖人ウラジーミルにちなんだファシリティのハイライトであるかのように1882年に完成した比較的新しいウラジーミル聖堂が黄色光りしていたので中に入り、アール・ヌーヴォーのフレスコ画に見入っていたのだが、写真撮影にはrpH50もの大金の支払いを求められるので心のフィルムにその光景を刻み付けるに留めておいた。

1834年にウクライナで2番目に開校されたキエフ大学があたかも血塗られたかのような色で彩色されているのだが、これはロシアのニコライI世が徴兵拒否運動を起こした学生たちへの罰としてニコリともせずに建物を血の色で塗りつぶすよう命令した嫌がらせの名残となっているといわれている。

キエフで一番にぎやかなフレシチャーティク大通りは月曜日なのに歩行者天国になっており、何がしかのイベントの前触れであるかのように生ビールのサーバーが道路脇のテントに続々と運び込まれていた。多くの噴水を湛えたネザレージュノスティ(独立)広場にそびえ立つ長身のオブジェの麓ではイベントの設営が粛々と行われていたのだが、近々ウクライナとポーランドで開催されるEURO2012のサッカーイベントにまつわるものではないかと推測された。

5月29日(火)

早朝ホテル・スラヴィティッチをチェックアウトすると徒歩と地下鉄でキエフ駅に向かった。キエフ駅から空港バスでボリスビル空港に移動すると11:10発ウクライナ国際航空が運行するPS401便に搭乗し、午後1時頃にはフランクフルト国際空港に到着した。引き続き20:45発NH210に乗り換え、帰国の途についた。

5月30日(水)

定刻15:00に成田空港に到着し、最後のキエフで何とか浮かばれた実感を胸に流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥60,790、Carpatair = EUR214.48、ウクライナ航空 = $419.4

総宿泊費 Lei1,317、rpH1,080.17、¥26,357

総ドイツ鉄道代 EUR20

総モルドヴァバス代 Lei3 (Lei1 = ¥6.7)

総モルドヴァ鉄道代 Lei106

総ウクライナバス代 rpH52.5 (rpH1 = ¥10)

総キエフ地下鉄代 rpH10

総キエフケーブルカー代 rpH1.5

協力 ANA、Carpatair、ウクライナ航空、Hotels.com

バラ咲くブルガリアとルーマニアドラキュラツアー

前回のエチオピアツアーで患ったお腹のグルグル感が未だに解消されていないので腸内の調整が必要であると考えた時にふと善玉菌の存在が脳内をよぎってしまった。善玉菌は主に明治ブルガリアヨーグルトに含まれているそうなので世界に冠たるヨーグルト立国であるはずのブルガリア方面へのツアーが企画され、即座に実行に移されることになったのだ。

2012年5月2日(水)

東欧へのアクセスが便利なイスタンブールをハブ空港とするトルコ航空TK51便は到着機材の遅れのため1時間成田からの出発が遅れてしまったものの無事に20:00発TK1029便に乗り継ぐことが出来、ブルガリアの首都ソフィア・ヴラジデブナ国際空港に夜の10時頃到着した。空港バスに乗り込み、30分程走って到着した先はどうやらソフィア大学の近くだったのだが、この大学の日本名が上智大学であるのかどうかは知る由も無かった。

ともかく予約している宿を目指して歩き始めたのだが、暗闇からブルガリア出身力士の琴欧洲のような大関が現れていきなり寄り切られてはたまらないので周囲への警戒を怠らなかった。多少人通りのある町中にはアルファベットではなくロシア語のようなキリル文字が溢れていたので多少不安感を感じていたものの日付が変わる前に何とかagodaに予約させておいたMaxim Boutique Hotelにしけ込むことに成功した。

5月3日(木)

ブルガリアのホテルに居ながらにして朝食にヨーグルトが供されない状況に納得出来ないままソフィアの町中に出てみると道行く女性の何人かはソフィア・ローレンやソフィー・マルソーのようなソフィスティケートされたレディだったのでとりあえず腹の虫を抑えることは出来たのだ。

ソフィア市街の南西にあるオフチャ・クベル・バスターミナルまで辿り着くと10:20発のバスに乗って人里離れた深い山々に囲まれたブルガリア最大の見所に向かった。3時間もの時間をかけて到着した目的地はブルガリア正教の総本山ともいうべきリラの僧院(世界遺産)で壁の向こうにはこの世のものとは思えない別世界が広がっていた。

リラの僧院はもともと10世紀に建立されたのだが、現在の形になったのは14世紀でその後ブルガリアは約500年間にわたってオスマン朝の支配下に入ることになった。その間はキリスト教の信仰はもちろんのこと、ブルガリア語の書物を読むことも制限されていたのだが、この僧院だけはそれらが黙認されていたという。

僧院の中心には4階建ての外陣に囲まれて建っている聖母誕生教会が君臨している。白と黒の横縞模様が眩しいアーチをくぐると外壁の壁面と天井に隙間無く描かれたフレスコ画に圧倒されることになる。写真撮影厳禁の内部にはイコノタスという幅が10mもある立派な壁が立ちはだかり、その壁面には精緻な彫刻が施され、さらに金箔で彩られている豪華版であった。

リラの僧院は1833年の大火で古い建物はほとんど焼け、その後復旧された代物であるが、聖母誕生教会の横に寄り添っているフレリョの塔は消失を免れ、14世紀に建てられた当時のままの姿で残っている。尚、塔の1階の土産物屋は14世紀の竣工当時から商売を営んでいたのかどうかは定かではなかった。

リラの僧院を退院して、来た時と同じバスに乗り込み、ソフィア市街に帰り着いたのは午後6時くらいの時間帯であった。トランヴァイに乗って町の中心部に戻ると東西の文化が混在した独特な雰囲気の町並みを眺めながら歩いていた。

バルカン半島で最も美しいといわれる教会であるアレクサンダル・ネフスキー寺院が威厳のあるたたずまいで12の黄金のドームを光らせていたので収容人員5000人を誇る内部に入ってみることにした。この寺院はブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争(1877年~1878年)で戦死した約20万人のロシア人兵士を慰霊する目的で建てられたもので一番豪華な中央の祭壇はロシアに捧げられているのだ。

アレクサンダル・ネフシキー寺院とは対照的な質素な教会がひっそりと佇んでいる。ソフィアという町の名はブルガリアの栄枯盛衰を見守ってきたこの聖ソフィア教会に由来するもので、ソフィアはギリシア語で「知恵」を意味するという。尚、その中で最上級のものを自画自賛する上智がどういった位置づけにあるのかは四谷に行かないと分からないであろう。

5月4日(金)

早朝よりソフィア中心部の教会・遺跡巡りに精を出すことにした。ソフィアに現存する最古の教会は4世紀にローマ帝国によって建てられた聖ゲオルギ教会で高級ホテルのシェラトンや博物館の建物に守られるようにしてかろうじてその威厳を保っているようだった。

地下に目を移すと旧共産党本部での地下鉄工事の際に偶然発見された古代の城塞都市セルディカの遺跡がひっそりと眠っている。石造りのブルガリア正教の教会である聖ネデリャ教会は朝の出勤前の淑女がロウソクを捧げ、内部はおびただしい数の灯されたロウソクで壁に描かれたイコンを照らし出している。

1566年にオスマン朝最高の建築家といわれるミマール・スィナンによって設計されたイスラム寺院はバーニャ・バシ・ジャーミヤである。トルコ語で「風呂」を意味するバーニャの名の通り、このモスクの裏の公園には飲用の温泉が湧き出ており、ペットボトルで汲みに来ている善良な市民の姿も見受けられた。

ブルガリアくんだりまで来てヨーグルトに関する成果が上がっていないことを遺憾に思ったので、ヨーグルトほど知られていないが、実は世界市場の7割を占めるバラの香料の産地であるブルガリア中部のバラの谷へのツアーを強行することにした。ソフィア中央駅隣の中央バスターミナルから10:30発のバスに乗り、3時間以上かけてカザンラクというバラの谷の中心地までやって来た。

早速セヴトポリス広場の近くにあるインフォメーションで地図を入手すると町の中心から少し離れた場所に位置するバラ博物館を見学することにした。館内にはバラをばらばらにして絞る機械や香油のサンプルが展示されており、バラの香油が非常に貴重な産物であることが容易に理解出来る展示内容になっていた。

見学の途中からバラの香油にはリラックス効果はあるが痩身効果が無いことを体現しているおばちゃんガイドが登場し、英語での解説が加えられた。琴欧洲より横幅の広いおばちゃんの言うことにはバラの花が咲くのは5月中旬からで今はまだ時期尚早でやはり「バラ祭り」の開催される6月の最初の週がベストであるとのことであった。館内にはバラ祭りや歴代バラの女王の写真も展示されているのだが、バラの精油を1kg得るためには3000kgものバラを琴欧洲より強い握力で絞らなくてはならないので必然的に逞しくなるのはいたしかたないと思われた。

バラの満開の時期にはまだ早すぎたものの、バラ博物館を擁する研究所の敷地内のビニールハウスにて数種類のバラが試験栽培されていたので水やりをしているおっさんの許可を得て中に入ってみることにした。尚、先ほどのおばちゃんガイドの説明を思い返すとブルガリアで栽培される芳香用のバラは通常見かける観賞用のバラよりも小ぶりだが香りが強いということだったのだが、ハウスで咲いているバラエティに富んだ数種類のバラもそのような特性を持ったものであった。

結局カザンラクでの滞在は2時間程度だったのだが、バラの香水や石鹸等を入手して意気揚々と午後4時発のソフィア行きのバスに乗り込んだ。7時過ぎに若干治安の怪しそうな雰囲気を漂わせているソフィア駅で夜行列車の切符を購入すると移動手段兼宿泊施設となるモスクワ行きの寝台車に乗り込んだ。

ソフィアからブカレストまでの乗車券+寝台車の料金はわずか61レヴァ(日本円で¥3000程度)と大変お得でしかも空いていたので4つのベッドがあるコンパートメントを占拠してくつろいでいると隣のコンパートメントに居住しているおばちゃん車掌からシーツとタオルを差し入れていただいた。そそくさとベッドメーキングを済ませると列車は定刻午後8時半に出発となった。

5月5日(土)

早朝3時過ぎにルーマニアとの国境駅であるルセに到着し、車内でパスポートに出国のスタンプを押してもらうと次の駅であるCIURGIUでは乗り込んできた制服姿のおっさんにパスポートを預けてルーマニア入国の手続きをしていただいた。

列車は30分程遅れたが、午前7時前にはルーマニアの首都であるブカレストの北駅に到着した。車のキーを見せながら忍び寄る怪しい白タクの運転手の勧誘をかわして駅構内のマクドナルドで朝飯を食うことにした。すでに駅のATMでルーマニアの通貨であるレイ(RON)を引き出していたのでカウンターでエッグマックマフィンとコーヒーを発注したのだが、店員はハッシュポテト付きのお得なメニューであるセットがRON10なのにそれを薦めることなく、単品の合計でRON11.6を請求する気の利かなさを見せていた。

ブカレストの北約170kmの位置に中世の町並みを残した美しい古都が血の気の多い観光客を待ち構えているので8:25発のインターシティの列車に乗ってブラショフという町までやって来た。早速駅から数キロ離れた中心街まで進出するとカフェやレストランが立ち並ぶ歩行者天国には中世のいでたちをした警備兵が練り歩き、中央公園では新郎新婦系の男女がマサに写真に撮られようとしているところだった。

ブラショフの南西26kmの所にとあるオカルト系の城が不気味にそびえ建っているという話を聞いていたのでバスに乗って近寄ってみることにした。バスで40分程走ると田舎町の中ににわかに日本では水谷豊のデビュー作として知られるバンパイアやドラキュラの看板が目に付くようになってきた。

吸血鬼ドラキュラの居城のモデルとして知られるブラン城(RON25)は岩山の上にそびえる典型的な中世の城砦である。この城は1377年にドイツ商人がワラキア平原から入ってくるオスマン朝の兵士をいち早く発見するために築いたものであるが、14世紀末にはワラキア公ヴラドI世がここを居城とした。ヴラドI世の孫がドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュで、奴はオスマン朝軍の兵士を杭で串刺しにして並べた残虐さを持つことから串刺し公との異名をとっている。尚、ツェペシュはルーマニア語で串刺しを意味するという。

何はともあれ、にんにくや十字架等のアンチドラキュラグッズも持たずに入城させていただいたのだが、城内はいたって普通の中世の居住空間で最上階の展示室に取って付けたようなドラキュラに関する説明パネルが展示されていたのだった。

ブラン城の入口付近は一大土産物屋地帯となっており、長身のバンパイアが客寄せしている店先にはドラキュラ人面マグカップ等のミーハー土産だけでなく、本格的なチーズも展示販売されていた。

ドラキュラに遭遇したショックでぶらんと首をうなだれながらブラン城を後にしてブラショフの中心街に戻ってきた。スファトゥルイ広場は相変わらず多くの人々の憩いの場所になっており、広場を見下ろす高さ65mの黒の教会はトランシルヴァニア地方最大の後期ゴシック様式の教会である。14世紀後半から15世紀初頭まで、約80年の歳月をかけて建設されたこの教会の名前の由来は、1689年にハプスブルグ軍の攻撃に遭い外壁が黒こげになってしまったことからきているとのことであった。

5月6日(日)

早朝ブラショフを後にすると7:30発ブダペスト行きの列車に乗り、さらに128km走ってルーマニアの中心に位置する歴史都市シギショアラに到着した。一見するとしなびた雰囲気を湛えているシギショアラ駅を出て白壁にドーム状の正教会を見上げながら歴史地区を目指した。

14世紀に建てられた時計塔を中心とした旧市街は、中世の雰囲気を色濃く残しており、世界文化遺産にも登録されているのだが、旧市街は高台にあるため、階段を登っていくにつれてその時計塔の威容が徐々に迫ってくるのであった。

とりあえずATM番犬を刺激しないようにいくらかの現金を出金すると歴史地区を一回りしてみることにした。カラフルな建物が多い旧市街には新旧の教会が混在しており、建物の業態のほとんどはレストラン、土産物屋、宿泊施設といった観光系のファシリティに特化していた。また、旧市街の南側には古びた屋根付き木造階段が山上教会まで続いており、最上段には素朴なギター弾きがこれ見よがしの小銭入れと化したギターケースを空けて観光客を待ち受けていた。

マサよ、君はドラキュラは夜は生き血を吸っているが、昼間に吸っているものは何であるのか、その現場を押さえたことがあるか!?

というわけで、シギショアラの出身者で最もよく知られている人物はブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったヴラド・ツェペシュで彼の生家は今なおレストランとして繁盛しているのでここでブランチをすることにした。この店のプロモーション役として現役のドラキュラがテラス席で客寄せに励んでいるのだが、どうも思ったほどの集客の成果が上がっていないようであった。夜は処女の生き血を求めて彷徨うドラキュラであるが、手持ち無沙汰の昼間の時間はタバコを吸って気を紛らわせているというドラキュラファンを幻滅に導く愚行が多くの観光客の眼前で行われていたのだった。

シギショアラのシンボルである時計塔(RON10)は展望台兼歴史博物館になっているので登ってみることにした。博物館の展示品は中世の備品や医療機器等珍しい物もいくつか見られたのだが、時計を動かす仕掛けやそれにまつわる怪しい人形類がゆるキャラのような役割を演じているようだった。

塔の展望台から周囲を見渡すとこの町はヨーロッパでよく見られる茶色い屋根の建物で埋め尽くされており、それを取り囲むように広がる緑の大地と非常にマッチしていることがよくわかるのだ。

地上に降りて再び歴史地区の内外を散策してみたのだが、日曜日ということもあり、町の各所にあるバーはどこも盛況で皆中世の雰囲気に包まれながら酒を酌み交わして歓談していたのだった。

agodaに予約させておいた旧市街の中心の広場に面したカサ・ワグナーという19世紀に建てられた家を改装したアンティークなホテルにすでにチェックインしていたのだが、夕飯は義理でこのホテルのレストランでご馳走になることにした。ルーマニア料理として有名なチョルバ・デ・ブイというチキンスープとサルマーレというロールキャベツと付け合せにママリガというトウモロコシの粉を蒸したものをいただいたのだが、値段が安いので非常にコストパフォーマンスが高かったのだ。

日が暮れると旧市街に灯がともり、見事なライトアップの景観を現出させることになる。待ちに待ったドラキュラのゴールデンタイムが始まるのかと戦々恐々としていたのだが、ここのドラキュラは民間人と同じライフサイクルのためかすでに撤収されているご様子だったのだ。

5月7日(月)

9:09発の列車に乗って294kmもの距離を5時間程度の時間をかけて午後2時過ぎにブカレスト北駅に戻ってきた。駅構内のマクドナルドでビッグマックセットを食った後、独裁者チャウシェスクにより造られた近代的な町の散策に出ることにした。尚、世界史的な観点であればチャウシェスクがルーマニアを支配した独裁者になるのだが、日本人に取ってはビート・たけしをスターダムに押し上げた伝説のギャグである「コマネチ」が最も馴染み深いルーマニアの産物であると言っても過言ではないであろう。

ブカレストの大通り沿いでは旧共産党の遺物であるはずの巨大なビルが廃墟になりかけている光景を目にするのだが、全般的に巨大な建造物群が目に留まる。近代的な建築物を横目に歩いているともはや遺跡としか表現できない旧王宮跡が姿を現した。

応急処置によりかろうじて往時の面影を残している旧王宮跡(RON3)は吸血鬼ドラキュラのモデルのヴラド・ツェペシュ公が15世紀に築いた砦の跡である。内部はおよそ近代美術館への変貌を遂げようとしているかのように奇抜な絵画や彫刻が寄せ集められていた。

1989年12月の革命の舞台となった革命広場は共和国宮殿(国立美術館)アテネ音楽堂、旧共産党本部、クレツレスク教会等に取り囲まれており、その中心に血を流して自由を手に入れた犠牲者のために建てられた慰霊碑が天を指している。尚、1989年12月22日に故チャウシェスク大統領は共産党本部のテラスで大群衆を前に最後の演説をぶちかまし、その直後にヘリコプターでばっくれやがったのだ。

旧共産党員のアパートが立ち並ぶエリアにかろうじてナディア・コマネチの痕跡を見つけたのだが、それは診療所のようなファシリティとお見受けした。14歳で参加したモントリオール・オリンピックの体操で10点満点を連発した白い妖精コマネチであったが、その後は共産党独裁政権に翻弄され、チャウシェスクの次男の愛人になることを要請されたのだが、夜の床運動で金を取る自信まではなかったせいか、ついにはアメリカに亡命してしまったのだ。

故チャウシェスク大統領の野望の集大成とも言うべき未完の宮殿「国民の館」が夕日を背に巨大なシルエットを浮かび上がらせていたので遠巻きに眺めることにした。日本円にして1500億円を投じて造らせたというこの館は地上8階、地下5階、核シェルター内蔵の豪華版で、世界の官庁、宮殿などの建物の中では、米国防省のペンタゴンに次ぐ規模を誇っているのだ。マサにとてつもない財力が投入されていたわけであるが、その陰で善良な国民は飢餓を強いられていたのだった。

5月8日(火)

早朝6時過ぎにホテルをチェックアウトすると近くのバス停から空港行きの783番バスに乗り込み、1時間程でアンリ・コアンダ国際空港に到着した。10:15発TK1044便はやや遅れて出発したもののお昼過ぎにはイスタンブール国際空港に着陸した。引き続き16:55発TK50便に搭乗すると恒例のJTB旅物語トルコ8日間のツアー客に包囲されてのフライトとなった。

5月9日(水)

午前11時前に成田空港に到着し、こわばっていた体をほぐすために四肢で平行四辺形を型どる運動をしながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥116,890

総宿泊費 RON315.92、¥11,915 (RON1 = ¥24)

総ブルガリア鉄道代 Lv61 (Lv1 = ¥54)

総ブルガリアバス代 Lv55

総ブルガリアトランヴァイ代 Lv1

総ルーマニア鉄道代 RON150.7

総ルーマニアバス代 RON8.6

協力 トルコ航空、agoda

地中海の要衝マルタ・シチリア島ツアー

山椒は小粒でも ピリりと辛いと言うが、「地中海のヘソ」と言われても「へ~そ~」という印象しか持たれないであろうマルタ共和国はミニ国家ながらも地中海の要衝として歴史上重要な役割を担ってきた。今回は「地中海文明のゆりかご」とも称されるマルタの歴史を解明するために、マルタ島まで足を運んだわけだが、その目と鼻の先にイタリアのシチリア島が控えていたのでついでに寄ってみることにしたのだ。

2011年11月21日(月)

12時20分発NH209便成田発フランクフルト行きは定刻どおりに出発し、B777-300ER新型機のエコノミークラスでありながら10型シートスクリーンから繰り出される機内エンターテイメントプログラムで邦画「ロック わんこの島」を見ていると三宅島はマサにわんこの島であるという現実を脳内に刷り込まれた。午後16時30分頃フランクフルト国際空港に到着すると空港内にこれ見よがしに展示されているベンツを横目にAIR MALTAのチェックインカウンターに向かった。

WEBで有利な価格で購入した19時15分発KM329便は多少の遅れを生じさせたものの午後10時頃にはマルタ国際空港に到着することが出来たので早速市バスに乗り込み、マルタ共和国の首都ヴァレッタに向かった。ヴァレッタのバスターミナルには銅像を抱えた円形の噴水オブジェが不気味に輝いていたのだが、あたりにはほとんど人が歩いていなかった。

楽天トラベルに予約させておいたホテル・オズボーンはヴァレッタの中心街に位置しているのですぐに見つかると高をくくっていたのだが、現地に入るとシティ・ゲートの国家的大規模なリニューアル工事による通行制限等のためにマルタにいながらにして丸太で頭を勝ち割られて脳内GPSを破壊されたかのように方向感覚を失ってしまっていた。ヴァレッタの街は隆起した半島の丘の上に形成された堅固な要塞のようになっており、坂や路地が多いので感覚を立て直すのにかなりの時間を要してしまった。

何とか道行く人にホテルの位置を聞いておずおずとホテル・オズボーンへの道を辿り、チェックインを果たした頃にはすでに日付が変わってしまっていたのだった。

11月22日(火)

世界遺産に登録されているヴァレッタ旧市街をくまなく見て回るために朝食もそこそこにホテルを飛び出すとまずは高台からの眺望がすばらしいアッパー・パラッカ・ガーデンに向かった。ここは堡塁の上に海に突き出るような地形のためグランド・ハーバーや対岸の聖アンジェロ砦等の城塞を一望することが出来、団体観光客の絶好の記念撮影ポイントになっているのだ。

高台から下りて岬沿いを歩いていると海岸からせり上がった城壁の堅牢さに圧倒され、これぞマサに難攻不落のお手本ともいうべき造りであると思い知らされることになる。

狭い路地を通って再び高台に這い上がり、ヴァレッタの中央部に君臨し、現在は大統領府と議会が置かれている為に衛兵に警護されている騎士団長の宮殿(EUR10)を見学することにした。

ところで、騎士団とはキリスト教を尊び、勇気、礼儀、名誉を重んじた騎士達の集団でかの有名な十字軍の遠征を支えていたエリート軍団である。聖ヨハネ騎士団は聖地エルサレムに1113年に創立され、その後ヨーロッパ各地を転戦し、1530年神聖ローマ皇帝カール5世により、ここマルタに本拠地が設置される運びとなった。そのため聖ヨハネ騎士団はマルタ騎士団とも呼ばれているのである。その騎士団長の居住地であった宮殿の中は色大理石が床を覆い、その脇には重厚な甲冑が配置されていた。

数々の騎士たちの戦争グッズを展示してある兵器庫には人間の自由な動きを阻害するはずの重々しい甲冑や様々な銃剣類、大砲等が並べられており、騎士の装備には金がかかるため、富裕層の子弟にのみ騎士としての鍛錬が果たされることが容易に想像出来るのである。

マルタ騎士団の守護聖人ヨハネに捧げられた聖ヨハネ大聖堂(EUR6)が騎士たちの心のよりどころとして遠く祖国を離れた騎士たちを癒していたはずなので豪華絢爛な内部を覗いて見ることにした。色大理石の床の絵のデザインは9頭身のキュートなガイコツから聖ヨハネの生涯まで様々で天井画の油絵と併せて実に個性豊かであった。また、一見簡素に見える外観だが、中央のバルコニーは新たな騎士団長が選出された際に騎士たちに挨拶をかましていた由緒正しい場所となっているのだ。

マルタを語る上で騎士団のはるか昔の有史以前に幅を利かせていた巨石神殿をないがしろにするわけにはいかないので、その歴史理解の一助とするために国立考古学博物館(EUR5)を見物することにした。ここには先史時代の巨石神殿をはじめとする遺跡からの発掘品が展示されているのだが、最大の見所は「マルタのヴィーナス」や「眠れる美女」といった小さな石像である。いずれの像の体型もふくよかなことからマルタの女としての価値はマルサの女を演じた宮本信子よりも森三中の方が高かったという伊丹十三監督も痛み入る事実を突きつけられたのだった。

マルタの首都ヴァレッタの見所をひととおりカバーすることが出来たので、市バスでマルタ本島のほぼ中央部に平野を見下ろすようにたたずむ静かな町を訪れることにした。「静寂の町」との異名を取るイムディーナは、16世紀にはヴァレッタに先立って首都が置かれていた町で「オールドシティ」と称され、今でも往時の威光をここかしこに見ることが出来る。

町への入口である堂々たるメインゲートを抜けると城壁に囲まれた町はまるで時間が止まったかのような静けさを湛えていた。町中のあちこちに見られる細く狭い路地は人通りが少ないながらもきれいに整備され、日が暮れると町の赴きが一層濃くなってくる感覚を覚えた。セントポール広場の一角に建つ大聖堂は見事にライトアップされ、暗闇に浮かぶバロック様式のファサードはサイレントシティにほのかな彩を添えていたのだった。

11月23日(水)

マサよ、君はマフィアの語源はシチリア島に存在する犯罪者による秘密結社の通称であることを知っているか!?

ということで、早朝ホテル・オズボーンをチェックアウトするとマルタ⇔イタリアの船便を運行するVIRTU FERRIESのターミナルに徒歩で向かった。あらかじめWEBで購入していたチケットをプリントアウトしていたのでそれと引き換えに搭乗券を入手して巨大なカーフェリーに乗り込むと定刻6時45分に蛍の光を奏でることなく静かに出港となった。

別名シシリーとも言われるシチリア島はイタリア半島の長靴のつま先で蹴り上げられているように浮かんでいる地中海最大の三角形の島でそのシンボルマークは3本の足(3つの岬)を持つメドゥーサである。

マフィアの財源にはなっていないと信じる船内のスロットマシンで散財することなく1時間半ほどの地中海のクルーズを満喫すると8時半前にはシチリア島最南部のポッツァーロ港に着岸した。フェリーから次々に吐き出される大きなトラックやトレーラーを見ているとマルタ島とシチリア島は物流面で密接な繋がりを持っていることを窺い知ることが出来る。

フェリー乗り場からポッツァーロのセントロまで徒歩で1時間程度かけて移動し、長距離バスを捕まえてかつて大ギリシアの首都であった美しき古代都市に向かった。「シラクーサとパンタリカのネクロポリ」として世界文化遺産に登録されているシラクーサは至る所に古代遺跡が息づいている町である。早速ギリシア、ローマ時代の発掘地域であるネアポリ考古学公園(EUR10)に侵入し、古代文明に思いを馳せて見ることにした。

ネアポリ考古学公園の入口近くに天国の石切り場があり、その中で細長い耳の形をした「ディオニュシオスの耳」がぽっかりと聞き耳を立てていたので中に入ることにした。高さ36m、奥行きの深い洞窟の内部は真っ暗ではあるが音響効果がすばらしく、「こだまでしょうか?」と言うと「いいえ、誰でも」と響いてきそうな神秘性さえ漂っていた。

石切り場で耳の穴をかっぽじいた後、ゆるやかな坂を登るとテメニテの丘にたたずむシチリアで一番大きなギリシア劇場が目に飛び込んできた。これは紀元前3世紀、ヒエロン2世時代に着工された劇場で1万5千人の収容能力を誇っている。今でも古代劇の上演が2年に一度のペースで行われており、観客は隣の石切り場で切り出したはずの固い石のシートに腰掛けさせられて意志の強さを問われることになるのである。さらに考古学公園の敷地内には古代ローマの円形闘技場が廃れているのだが、これは3~4世紀帝政時代の物で剣闘士たちの登場口となった通路もかろうじて残っているのである。

シラクーサから再び長距離バスに乗ると1時間程度でシチリア州第2の都市であるカターニアに到着した。バスはセントロから離れた中央駅近くに停車したのでそこから海沿いに沿って歩いているとあらぬ場所に紛れ込んでしまっていた。とりあえずそこ行くおじさんにランドマークであるはずのドゥオーモの位置を訪ねると親切な彼はドゥオーモのドームが目視出来る場所までわざわざ案内してくれたのだが、「グラッツェ」と謝意を述べることが出来なかったので「ど~も」とのたまってお茶を濁しておいた。

「ノート渓谷の後期バロック都市」の一部として世界文化遺産に登録されているカターニアの中心はドゥオーモ広場であるが、着いた頃には日没を迎えていたので近くのInformationにおじゃまして本日宿泊予定で楽天トラベルに予約させておいた安ホテルヴィラメーターの場所を確認させていただくことにした。ホテルはカターニアのシティマップがカバーするエリアの範囲外だったので936番のバスを紹介されたのだが、待てど暮らせど来なかったので仕方なくはるばる中央駅まで移動して、かろうじて1台のタクシーが客待ちしているところを捕まえて言い値のEUR25を支払い、メーターを稼動せずにホテルヴィラメーターまで引き上げていった。

11月24日(木)

高台にあるホテルヴィラメーターをチェックアウトし、カターニアの目抜き通りであるエトネア通りを延々1時間かけて南に下り、ようやくドゥオーモ広場の象の噴水まで辿り着いた。象の上にはオベリスクが乗っかっており、そいつはわざわざエジプトから運ばれてきた代物なのである。

ドゥオーモ広場の裏手のバスターミナルから長距離バスに乗り、車窓から標高3323mを誇るヨーロッパ最大の活火山エトナ山の勇姿をうっすらと眺めながらカターニアを後にすると2時間半以上の時間をかけてシチリア州最大の都市パレルモに到着したのは正午前の時間帯であった。

パレルモの見所の多くはは旧市街に集中しているので、早速バスの到着したパレルモ中央駅から北北西に伸びるローマ通りを北上し、パレルモのへそと言われるクアットロ・カンティに向かった。四つ辻(十字路)の意を持つクアットロ・カンティは広場に面した4つの建物の角を均等に弧を描くように丸く切り取り、それら壁面に3段づつの装飾が施されている代物である。一番上の装飾は町の守護聖女、2番目は歴代スペイン総督、一番下は四季を表現した噴水になっているのだが、その噴水に付属している人面像はいささか苦悶の表情を浮かべているのが興味深かった。

クアットロ・カンティのすぐそばにあるプレトーリア広場の噴水を取り巻いている裸体彫刻で気分を高揚させるとイスラム人支配を今に伝えるサン・カタルド教会(EUR2)に参拝することにした。この教会は小ぶりではあるが、ノルマン時代(1160年頃)に建設された3つの赤い丸屋根がキュートで内部は非常にシンプルな分、好感が持てるものだった。

パレルモの代表的建造物としてカテドラーレが様々な建築様式を融合してかたどられているので拝見させていただくことにした。この大聖堂は1184年の創建当時はシチリア・ノルマン様式であったのだが、14、15世紀を中心とした度重なる増改築の果てにイスラム様式の濃い折衷様式に生まれ変わったのた。内部には皇帝と王の霊廟(EUR1.5)となっているエリアがあり、天蓋の下には重厚な石棺が並べられていた。

1583年に建造されたヌオーヴァ門を見上げて今ではシチリア州議会堂になっているノルマン王宮を取り巻いている民衆の多さに圧倒されながらもパレルモ観光のハイライトと称されるパラティーナ礼拝堂(EUR7)に辿り着いた。

ノルマン王宮の2階に設けられたアラブ・ノルマン様式のパラティーナ礼拝堂の入口は艶やかなモザイク画で彩られ、中に入るとさらなるモザイク画の宇宙空間が展開されていた。内部は大理石のアーチに無数のモザイク画がちりばめられ、これらはコンスタンティノープル、ラヴェンナと並びキリスト教美術の最高傑作に称されているのだ。

黄金のモザイク画に圧倒されながらパラティーナ礼拝堂から退堂すると赤い丸屋根が印象的な12世紀アラブ・ノルマン様式のサン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会を遠巻きに眺めた後、イエズス会がパレルモで最初に建立したジェズ教会を訪問した。1564年の創建で比較的地味な外観ながら、内部は豪華絢爛で華麗に広がっている天井のフラスコ画が目を引いた。

今日宿泊している☆☆☆☆ホテルのクリスタル・パレスの近くにシチリア料理の店があったのでそこで夕食をとることにした。ビールを頼んだつもりなのに何故かダイエットコーラが出てきたのでついでに痩身効果がありそうなタコのサラダと名物カジキの焼き物を発注した。タコのサラダは蛸足の先っちょの方を切り集めてオリーブオイルと香草をなすりつけただけなのにEUR12もしやがり、カジキはサイコロ状の切り身にされ、変な衣で覆われながら玉ねぎと香草とともに串刺しになった変わり果てた姿をさらしていたのだ。

11月25日(金)

パレルモ中央駅から列車に乗り、シチリア島の最大の見所であるアグリジェントに向かった。途中の駅でバスへの振替輸送になったものの午前11時前には「アグリジェントの考古学地域」として世界文化遺産に登録されている壮大な神殿群の残る町に到着した。

中央駅から市バスに乗り、神殿の谷と呼ばれる地域で下車し、入口で各種神殿に入るコンボチケット(EUR13.5)を購入すると壮大なギリシア神殿遺跡のアドベンチャーをスタートさせた。

最初にギリシア神殿建築の最高傑作と持ち上げられているコンコルディア神殿を見学させていただいた。この神殿は紀元前450~440年頃のものなのだが、6世紀末の初期キリスト教時代に聖ペテロ・パウロ教会として転用されていたため比較的高い保存状態がキープされてきたのだ。

神殿の谷の東端、標高120mの丘の頂点で、上半身のない翼の折れたエンジェルの奥に位置するのはジュノーネ・ラチニア神殿である。コンコルディア神殿と同時代の物であるが、紀元前406年にカルタゴの進攻にあって炎上し、中世の地震で全壊した暗い過去を持っているのだが、♪も~し、お~れが ヒ~ロ~ だぁ~たら♪というような気概を持つ輩の活躍でここまでの復興を果たした様子が見て取れる。

さらにエルコレ(ヘラクレス)神殿、ディオスクロイ神殿を立て続けに見学したのだが、何故か神殿の谷で一番印象に残った物は局部をダイナミックに表現した銅像群と股間を占拠した人面局部そのものであったのだった。

神殿の谷から一時的に撤収し、紀元前4世紀にさかのぼる町の遺構であるヘレニズム期・ローマ期地区で区画整理された古代都市の様相を確認した後、州立考古学博物館を覗いてみることにした。

約20室もの部屋に展示された発掘品の中で最も目を引く代物は地下と1階を貫いた中央展示室に立て掛けられている高さ7.75mの人像柱テラモーネである。こいつはジョーヴェ・オリンピコ神殿の柱として組み込まれていた実績があり、その様子は神殿の模型により再現されている。さらに古代の人物や神様が描かれた壺が数多く展示されているのだが、その図柄から神殿の谷に放置されている銅像の役割が多少なりとも理解出来たように思えたのだった。

夕暮れ時に神殿の谷に戻り、ジョーヴェ・オリンピコ神殿を見学した。神殿には人像柱テラモーネがあたかも腹筋運動を始めるかのように横たわっているのだが、博物館の展示品が本物でこちらは体幹が弱いはずのレプリカになっているので立ち上がることが出来ないのもうなずけるのだ。

神殿の谷が闇に包まれると壮大な遺跡群の建造物が守護神の銅像とともに不気味に浮かび上がってきた。神秘的な光景を目の前にしてしばし息を呑んだ後、ホラー映画の殿堂「サスペリア」がイタリアで製作されたことを不意に思い出し、「決してひとりでは見ないでください」との啓示を受けたような感覚を覚えたので市バスに乗ってホテル・デッラ・ヴァーレにエスケープしなければならなかった。

11月26日(土)

阪急交通社が提供する「南イタリア、シチリア島の旅 10日間」のツアー客に包囲されながらもそそくさと朝食とチェックアウトを済ませると長距離バスターミナルからバスに乗り、カターニアに向かうことにした。カターニアに到着して埠頭を見物していると巨大なカーフェリーが停泊していたのだが、これはナポリを夜に出て翌朝カターニアに到着するお得な宿泊施設兼移動手段であると思われた。

相変わらずエトナ火山には雲がかかっていて眺望が悪かったので、ドゥオーモ広場に移動し、大聖堂内部を除いてお茶を濁しておいた。ドゥオーモ広場の脇から活気のある大きな声が聞こえてきたので近づいてみるとそこには新鮮な魚が直売されている青空市場が開かれていた。

今日の重要なミッションは無事にポッツァーロの港に辿り着き、夜のフェリーでマルタに帰り着くことだったので中央駅でイタリア鉄道のチケットを購入し、午後12時45分発の列車で肩の荷を下ろすかのようにカターニアを後にした。

1時間程で到着したシラクーサで途中下車すると考古学地区とは反対方向にあるオルティージャ島に向かった。シチリア本島から橋を渡り、小さなオルティージャ島に上陸を果たすと紀元前7世紀末に一世を風靡したはずのシチリア最古のアポロ神殿が廃墟のいでたちで出迎えてくれた。

やわらかな日差しが降り注ぐ中、狭い島内を散策しているとパピルスが生い茂る小ぶりのアレトゥーザの泉に辿り着いた。泉の周辺は住民と観光客と住猫の憩いの場所になっており、人々は海沿いの洒落たカフェで遅いランチを召し上がっていた。

抜けるような青い海が広がる沿岸部では釣りで生活の足しを得ようとする者や何らかのメディアのイケメンモデルとそのイケメンぶりをファインダーから覗いている写真家との爽快な駆け引きの模様を眺めることに成功した。

アルキメデスを輩出したシラクーサに敬意を表して歩きで島内巡りをしているとアルキメデス広場の奥にシラクーサのシンボルとされるドゥオーモが構えていたので臆せずに中に入って見た。かつてこの場所には紀元前5世紀にアテネ神殿が建てられていたということだが、その証として神殿の円柱がドゥオーモの身廊にどっしりと組み込まれていた。

日暮れ時を迎えたドゥオーモ広場に妖精のように金色に着飾ったハイカラな物乞いが佇んでいたので思わず手持ちの小銭を提供してその有様をフラッシュメモリーに刻み付けると眩しい夕日に照らされたシラクーサを後にして、列車でポッツァーロに移動した。

今回のマフィアの起源シチリア島ツアーではジローラモのようなチョイ悪おやじにはちょいちょい出くわしたのだが、マーロン・ブランドのような極悪のコルリオーネには出会うことが出来なかったので、日本ではゴッド・ファーザーのテーマが暴走バイクのクラクションに採用されている事実を伝えることが出来なかった。いずれにしても午後9時発のフェリーに乗り込むと10時半には平和であるはずのマルタ島に帰着することが出来た。ところで、フェリーで思い出したのだが、ギリシアショックが飛び火して不景気真っ盛りのイタリアではフェラーリどころか乱暴な運転をするランボルギーニさえ目にすることが出来なかったのだ。

11月27日(日)

昨日深夜に到着した☆☆ホテルであるカスティーユの朝食会場は屋上のレストランだったので、そこからヴァレッタの遠景を眺めると早朝に行われていたMALTA CHALLENGE MARATHONのゴールテープを切った勢いで町に飛び出していった。

市バスの一日乗車券を購入するとマルタ本島最南部の青の洞門に向かった。この場所は陸続きの高い岩礁が年月をかけて波と風でえぐられて自然の大きなアーチを描き、真っ青な海の色とコラボレーションした名勝である。

洞門巡りの小型遊覧船(EUR7)が観光客を満載して行き来していたので乗船してみることにした。波はそんなに高くないのであろうが、船体が小さいために大きな揺れを体感し、長時間乗っていると船酔いは免れないと思いながらも洞門の美しい光景に引き付けられていった。浅瀬で海底に白砂が体積しているエリアは太陽光に照らされてマサにエメラルド化しており、岩礁の波に洗われている箇所は何故か紫式部状に変色していたのだ。

20分程度の短い航海を終え、遊泳おやじに見送られながら下船し、マルタ島に残る注目の神殿群を見学すべく高台に向かって歩いていると船着場の入り江が遠巻きに心細く眺められた。

マルタには先史時代に築かれた巨石神殿が数多く存在し、数十トンに及ぶ巨石がいかにして運ばれ、組み上げられたのかは今もって大きな謎となっている。「謎解きはディナーのあとで」と悠長に構えていると入場できなくなってしまうので取り急ぎ世界文化遺産に登録されているハジャー・イム神殿とイムナイドラ神殿(EUR9)の歴史をなぞってみることにした。神殿自体を直視する前に切符売り場の近くのミニ展示室にある模型を見たり、説明を読み込んだりしたのだが、どうやら春秋分の日に海から昇る太陽の光が神殿の入口から差し込んでくる構造になっているようだ。ちなみに森三中のような下半身の石像は実は性別の判別がついてなく、力士説さえ取り沙汰されている様子であった。

まず最初にハジャー・イム神殿の調査から始めることにした。遠目からは東京ドームに見える遺跡の有様は歴史的価値の高い神殿を酸性雨等から守るためにドーム型の白布傘で覆いながら古代の無防備と現代の知恵を融合させているという調査結果が得られた。この神殿には重さ20トンもの巨石が組み込まれており、人海戦術で巨石を運んで立ち上げた様子が紹介されているのだが、「クレーンを貸してくれ~ん」と暴言を吐く者は一人もいなかったことであろう。

ハジャー・イム神殿を退殿して海に向かって続くかのような一本道を進むと番犬を養っているイムナイドラ神殿に辿り着いた。紀元前3000年~2400年に建てられたこの神殿の一部の石積みはオリジナルであるが、その他のものは後世に再現されたものとなっている。しかし、世界中の巨石ファンにとって胸が躍るような魅力的な遺跡であることは間違いないであろう。

市バスで一旦ヴァレッタのバスターミナルに戻って体勢を立て直すと別経路の市バスでマルタ本島最大の漁村であるマルサシュロックに向かった。ちなみに、マルサというと東京国税局査察部を思い浮かべる輩が多いと思うが、マルタ語では「港」になっているのだ。マルサシュロックを一躍歴史上の表舞台に引き上げた出来事は1989年のマルタ会談で、マルサシュロック沖のソ連客船マクシム・ゴーリキー内でアメリカのパパ・ブッシュ大統領とソ連のゴルビー書記長の間で米ソ冷戦の終結が宣言されたことである。

マルサシュロックを散策していると極彩色の船を多く見かけるのだが、大小にかかわらずどの船にも前面に一対の目が描かれている。これは悪天候や不漁から漁師を守る魔よけと海のお守りを意味しているとのことだ。

海に面した通りには魚料理を売り物にするレストランが所狭しと立ち並び、多くの観光客の憩いの場所となっていた。とりあえず私も一軒のレストランのオープンテラスに腰掛けて適当な魚介類の入ったスパゲッティを発注するとムール貝、カキ、エビ、イカ、ハマグリ等を満載した豪華な物が出てきたので、このような状況で必ず出没する物欲猫に見守られながら完食させていただいた。

マルサシュロックでは海沿いの市場も大きな見所で大量の魚介類の迫力に圧倒されながら歩いていると漁師の銅像に遭遇したのだが、魚のおこぼれに預かろうとする猫も漁村生活には欠かせない風物詩として堂々と銅像化されているのだ。

市バスの一日乗車券をフル活用すべく、ヴァレッタに戻ってさらに別のバスでヴァレッタの対岸に位置するマルタ最大のリゾート地であるセント・ジュリアンに移動した。高級リゾートホテルが並び立つ中で楽天トラベルに予約させておいた☆☆☆☆☆ホテルでありながらシーズンオフ価格の\6,100で宿泊することが出来るル・メリディアンにチェックインするとしばし沿岸部を散策した後、ホテル近辺のレストランで夕食をいただくことにした。

シチリア島の痛メシ屋ではコペルトという席料の名目で付属のパンにも金を取るシステムが横行しているのだが、マルタのこのレストランではパンは無料で提供され、濃厚なバターとともにサケのほぐし身をオリーブオイルで練りまわしたサーモンディップもパンのお供としてテーブルを賑わしてくれたのだ。発注品はマルタ名物であるはずの魚介汁とエビのソースが濃厚なスパゲッティだったのだが、完食後はディナーのあとで謎解きをする気力をなくすほど骨抜きにされていたのだった。

11月28日(月)

早朝からそぞろ歩きの楽しいセント・ジュリアンの沿岸部を犬の糞を避けながら散策しているとCAT VILLAGEという猫の下宿のようなファシリティで寝起きを共にし、いい気になっている猫の集団に遭遇した。さらにこの漁港の生活を表現する銅像にも猫の出演が確認された。三宅島はロックの活躍によりわんこの島としての名声を築き上げたのだが、マルタはにゃんこの島としての地位をマサに不動のものとしているかのようであった。

開放的雰囲気の溢れるセント・ジュリアンを後にすると、バスでヴァレッタを経由してマルタ最大のタルシーン神殿(EUR6)を目指した。ヴァレッタの北東に位置するこの神殿は紀元前3000~2500年に建設されたもので20世紀前半に発掘されるまで地中に埋まっていたため保存状態が良く、らせん模様や動物の行進、羊飼いなどのレリーフなどが鮮明に残っている。神殿内には各種の発掘品が見られるのだが、いずれもコピーでオリジナルは先に訪れたヴァレッタの考古学博物館で手厚く保管されているのだ。

タルシーン神殿から北に進むとヴァレッタの対岸に3つの岬が突き出て格好の天然要塞となっている地域に到着した。この地域にある3つの町が総称されてスリー・シティーズと呼ばれているのだが、ここからマリーナ越しにヴァレッタ要塞を眺めながら騎士団に別れを告げ、マルタ国際空港への帰路に着いた。

午後3時20分発KM328便は遅れて出発し、さらに濃霧のためフランクフルトへの到着が遅くなってしまったが、乗り継ぎの午後8時45分発NH210便には余裕で間に合う時間だったのでラウンジでソーセージを食べずにシャンパンだけを飲ませていただいた。

11月29日(火)

午後4時過ぎに成田空港に到着すると、このフライトで10年連続ダイヤモンド会員の地位を防衛することになる上客の私をマークしていたチーフパーサーから来年は新型機B787ドリームライナーで羽田-フランクフルト便が就航することになるのでどうしても乗ってくれと懇願されたのでその愛社精神に免じて検討しておくことにした。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥61,840、AIR MALTA = EUR208.62

総宿泊費 ¥36,900(すべて朝食付き)

総フェリー代 EUR58

総バス代 EUR49.9

総イタリア鉄道代 EUR16.8

総タクシー代 EUR25

協力 ANA、AIR MALTA、VIRTU FERRIES LTD、楽天トラベル

EU諸国でい~湯だなツアー in ブダペスト

♪バ バンバ バン バン バン♪ 番場蛮を輩出した侍ジャイアンツがあっさりとクライマックスシリーズで敗退し、秋の夜長をむなしく過ごさなければならなくなった今日この頃であるが、冷え込みが厳しくなるにつれて湯煙が恋しくなるのが人情というものである。温泉は日本人の専売特許と思われがちであるが、遠くヨーロッパにも世界に冠たる温泉国が存在しているので今回はその実力を実感するために中欧まで羽を伸ばすことと相成ったのだ。

2011年10月29日(土)

♪いつか 忘れていぃったぁ~♪

ということで、正午発トルコ航空TK0051便、B777-300ER機で11時間以上かけて成田から♪飛んで イスタ~ンブ~ル~♪に到着したのは午後6時を過ぎた時間で、あたりの様相は徐々に♪夜だけぇ~のぉ~ パラダイスぅ♪状態を醸し出し始めていた頃であった。乗り継ぎ便の出発時刻が翌日の午前中だったため、トルコ航空がトランジットホテルとしてアレンジした☆☆☆☆☆ホテルであるWOW Istanbulにチェックインすると♪ど~せ フェアリ~テール♪と思いながらも外出せずにゆっくり休ませていただいた。

10月30日(日)

庄野真代が夢に出てくることも無く平和な朝を迎えたので、朝食後シャトルバスでイスタンブール空港に向かった。イスタンブール空港のスターアライアンスのラウンジは専任シェフ達も躍動するほど豪華絢爛でその雰囲気に押されるように朝からシャンパンを軽飲してしまった。

午前10時35分発TK1035便は定刻どおり出発し、1時間40分程度のフライトでハンガリーの首都ブダペストのフェリヘジ国際空港に到着したのは午前11時半を回った頃であった。空港のターミナル2から市バスが出ていたので乗り込むと終点のKobanya-Kispestという地下鉄駅で下車した。そこから青白いしなびた地下鉄に乗り換えて国際列車の発着が多い東駅に辿り着いた。とりあえず整理券で管理されている整然とした切符売り場で隣国スロヴァキアの首都であるブラチスラヴァ行きの2等チケットを購入し、列車の出発まで時間があったので軽く周囲を散策することにした。

東駅の構内には怪しい輩をチェックしている警察官やチェスで雌雄を決しようとしている勝負師、旅支度を整えている紳士等が息づいていたのだが、路面電車が走る駅の外を歩くと何となく旧東欧の物寂しい雰囲気が感じられた。

15時25分発車予定であったEuro Cityの列車は30分程度の遅れを出して16時前に出発となった。車窓から流れる葉っぱの色づいた秋の寒村地帯の景色を眺めているといつしか日も暮れてブラチスラヴァ中央駅に到着したのは18時半を過ぎた時間帯であった。今日宿泊予定のDoubleTree by Hilton Hotel Bratislavaは駅から2km程離れていたので街の様子を眺めながら歩いていると地下道には芸術性のある落書きもいくつか見受けられたのだった。

10月31日(月)

1993年にちょこざいなチェコとの連邦制を解消してひとつの主権国家となったスロヴァキアの首都はここブラチスラヴァであり、その見所は狭い旧市街に固まっているので早速徒歩で向かうことにした。

旧市街はもともと城壁に囲まれていたのだが、それらはとっとと取り払われ、今ではミハエル門だけがその片鱗を残す建造物として旧市街随一の存在感を示している。この門は14世紀にゴシック様式で建てられたもので、16世紀には現在見られるようなルネッサンス様式に改築されている。

ハロウィンの余韻を残す店舗群を過ぎると旧市街の中心フラヴネー広場が開けてきた。広場はゴシックとバロックの両様式が見られる旧市庁舎等の歴史的建造物に囲まれており、こぢんまりとしているものの独特な美しさを醸し出している。

日本大使館や日本料理屋も進出しているフラヴネー広場の警備は公務員ではなく主に銅像が担当していると見受けられ、小国でありながらもユーロに参加し、ギリシャの支援に対して物申す姿勢を示しているのはこのような経費削減が徹底されているからではないかと思われた。

ドナウ川を跨ぐ近代的な橋のたもとに聖マルティン教会(EUR2)がその高さ85mの尖塔をそびえさせながら自己主張していたので思わず入ってしまった。その主張の根拠は、1536年当時のハンガリー帝国の首都であったブダがオスマン朝に攻め落とされた際に、ここブラチスラヴァに首都が移転され、1563年~1830年もの長きにわたって聖マルティン教会で戴冠式が行われており、かのハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアも照れもせずにここで即位した実績を持っているからだ。

聖マルティン教会を脱会して廃墟のような建物を横目に坂を登っていくと四隅に突き出た塔がユニークで「ひっくり返したテーブル」とも揶揄されているブラチスラヴァ城に辿り着いた。そもそもこの城は12世紀にロマネスク様式で建てられた石造りの城であったのだが、何度かの改築の果てに1811年には火災で荒廃し、第2次大戦後に復旧された代物である。尚、18世紀には女帝マリア・テレジアの居住地にもなっていたのである。

ブラスチラヴァ城の丘から下りる頃には街は賑わいを見せており、観光用のレトロなミニバスが主な見所を練り走り、オープンテラスのテーブルでは観光客がランチを召し上がっていた。

旧市街のはずれにある大統領官邸が律儀な衛兵に警護されている様子を確認すると中央駅まで舞い戻り、13時54分発の列車でハンガリーへの帰路に着いた。17時頃にブダペストに到着すると楽天トラベルに予約させておいたMercure Budapest Koronaに速やかにチェックインして、とりあえずタオルと海水パンツを引っ掴んで美しくライトアップされた夜の街に繰り出していった。

緑色に輝く自由橋を渡り、ドナウ川の西海岸に渡るとアールヌーヴォー様式の重厚な建物が暗闇に浮かんでいた。早速そのホテル・ゲッレールト内部に侵入し、温泉カウンターで17時以降は割引となるチケットをHUF3000で購入するとICチップ入りのリストバンドを握り締めて男性用の浴場に向かった。

浴場の入口ゲートにICチップをかざすと赤色のランプが緑色に変わり、腰位置のバーを押回転させると晴れて脱衣所への入所が果たされた。脱衣所は2フロアから成るキャビン式になっていたのだが、どのキャビン使えばよいのかわからなかったのでしばらく1階と2階をうろうろしながら使用法を模索していた。それでもらちが明かなかったのでゲート入口近くに陣取っている関係者らしいおっさんに尋ねたのだが、奴は私が出場したいと勘違いしたのか、出場口の改札機に私のリストバンドをかざし、さらにそのリストバンドを回収箱に放り込んでしまった。「おっさん、まだ温泉に入ってもないのに何すんねん!?」とクレームを付けたところ奴は新しいチケットを買えばええやんと言いやがった。このおっさんには仁義というものが通じないと思ったのでInformationデスクのおばちゃんに駄々をこねてマスターIDカードで再入場を果たすと何とかブダペストの顔とも言うべきゲッレールト温泉にありつくことが出来たのだ。

ゲッレールト温泉のお湯は無色無臭で36℃と38℃のふたつの浴槽で構成されていた。尚、当地の温泉はゲイの社交場的な側面もあり、浴場の中央にひとりでいることはパートナー募集を意味すると物の本に書かれてあったので、端っこのポジションを死守しながらゲイのマークをかわしていたのだった。

11月1日(火)

美しく青きドナウ川が流れるブダペストは川を挟んで西側をブダ、東側をペストと呼び、それぞれ街の景観が異なっている。今日はペスト地区を中心に観光予定が組まれたため、Mercureホテルをチェックアウトすると昨日の温泉でのえ~湯の気分そのままに英雄広場を目指した。

ハンガリー建国1000年祭の事業の一環として1896年に造られた英雄広場は緑青をまとった英雄達の銅像に取り囲まれ、その中心の墓石のような物体の左右には衛兵がにらみを利かせ、11時になると律儀に衛兵交代の儀式さえ行われたのだ。

英雄広場の裏手には広大な市民公園が広がり、各種博物館の重厚な建造物群の前では人々が写真撮影に興じていた。さらにその近辺には1913年に造られた大温泉センターであるセーチェニ温泉や動物園、サーカス場等もあり大規模な市民の憩いの場になっているのだ。

ブダペストの目抜き通りであるアンドラーシ通りで最も存在感のある建造物は1884年に完成した国立オペラ劇場である。今回は劇場見学ツアーに参加する機会を逸したため、劇場の両脇にシーサーのようにひっそりと佇むスフィンクス系の巨乳石像を凝視して立ち去ることとなった。

アンドラーシ通りから高さ96m、直径22mの巨大なドームが目に飛び込んでくるブダペスト最大の聖堂は1851年の着工から半世紀をかけて1905年に完成した聖イシュトヴァーン大聖堂である。尚、イシュトヴァーンは初代ハンガリーの国王でキリスト教を積極的に推進し、死後聖人に列せられた程の大人物として崇められているのだ。

聖イシュトヴァーン大聖堂の参道からドナウ河岸に出てしばらく歩いていると川べりに金属で固められた多くの靴が並んでいる光景に遭遇した。これは第2次大戦中に撃たれてドナウ川に落ちて亡くなってしまった犠牲者を偲ぶメモリアルとなっているのだった。

ドナウ川の東河岸に建つネオゴシック様式の巨大な建造物は1885年~1902年の間に建立されたブダペストのシンボルとも言うべき国会議事堂である。ルネッサンス風のドームの高さは聖イシュトヴァーン大聖堂と同じ96mだが、その豪華絢爛さにおいては他の箱物を圧倒するほどの存在感を示している。

ドナウ川の中洲の島であるマルギット島に繋がるマルギット橋を歩いて対岸に渡り、西日に輝く国会議事堂の勇姿を眺めているとマサにここはブタに真珠ではなく、ドナウの真珠と形容するに値するブダペストの光景であると思われた。

早朝からかなりの距離を歩き回り、疲労もピークに達していたのだが、夕暮れ時に最後の力を振り絞って標高60mの王宮の丘に這い登って行った。中世からの城壁に囲まれた王宮の丘は長さ1.5kmの平坦な岩山で発掘途中の遺跡や中世の雰囲気漂う建造物で溢れている。「ドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト」という登録名で世界遺産として君臨しているこの丘の上にHiltonBudapestが陣取っているのでここに投宿し、今夜は夜景見物に出かける余力もなくダウンしてしまった。

11月2日(水)

早朝より王宮の丘の南半分を散策し、ドナウ川の対岸から朝もやの中を朝日が上がっていくのを眺めていた。王宮のファシリティ自体は第2次大戦後に修復され、完成したのは1950年代となっており、建物自体はそれほど古くないのだが、朝日を浴びるとその荘厳さがいっそう際立っていたのだった。

王宮の丘からマイルドな紅葉を眺めながら下界に下りると目の前にライオンのコンビに守られたくさり橋が姿を現した。くさり橋は1849年にブダ側とペスト側を初めて結んだ橋で現在のブダペストを創った礎とも言えるのだが、発酵したチーズのように腐り始めていないか慎重にチェックしながら対岸まで渡らせていただいた。

街はすでに活気づき始めておりトラムや多くの車が行き交っているのだが、船の運航していない早朝のドナウ川の水面は鏡のようになめらかに周囲の景色を映し出しており、朝もやと併せて神秘的な光景を現出させていた。

ハングリーなハンガリー人が集まるはずの中央市場にはペストにかかっていないブタ肉、ソーセージ、野菜、パンといったあらゆる食材が売られているのだが、売り手サイドのハングリー精神が乏しいせいか、いささか活気を欠いた淡々とした商売が展開されていた。

ドナウ河岸に標高235mの岩山がゲッレールトの丘として多くの観光客を集めているので登ってみることにした。ゲッレールトはハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世によってイタリアから招かれた伝道師でハンガリーのキリスト教化に一役買った人物なのだが、1046年の異教の暴徒によって手押し車にはりつけられ、この丘のてっぺんから突き落とされて殉教したという。

ゲッレールトの丘の頂上にはツィタデッラと呼ばれる要塞があり、さらにドナウ川に向かってシュロの葉を天に掲げ持つ女神像はナチス・ドイツからの解放を記念して旧ソ連軍が建てたものだ。また、中世にはゲッレールトの丘でワインを醸造していたが、丘に住む魔女が夜な夜な人家を襲ってワインを巻き上げていたという言い伝えがあり、その魔女は今ではほうきにまたがったチャチな人形に成り下がっている。

ツィタデッラの要塞の中にはBunkerと呼ばれる博物館(HUF1200)があり、ナチス・ドイツやソ連軍等に関する思い出したくも無いはずの歴史が不気味な蝋人形で再現され、この国の複雑な背景を雄弁に物語っていた。

ブダペストには地下鉄やトラム、バス、ヘーブと言われる近郊列車といった便利な乗り物が多いのだが、今朝それらの乗り物が乗り放題の24時間券(HUF1550)を購入していたのでトラムとヘーブを乗り継いでドナウ川西岸北部のローマ時代の遺跡が点在するオーブダ(旧ブダの意)まで足を伸ばすことにした。早速ローマ帝国の植民地時代に造られたローマ軍の円形劇場跡を見物したのだが、現役当時は1万6000人の観客を収容した大劇場も今では地元住民の憩いのドッグランに成り下がっているようだった。引き続きバラの丘の中腹にあるグル・ババの霊廟というオスマン朝の参謀グル・ババの墓にお参りさせていただいた。年老いた墓守に八角形の霊廟の扉の鍵を開けてもらい、しばし棺に敬意を表した後、墓守が写真撮影がすんだことを確認すると礼拝はあえなく終了となった。

オーブダを後にして3本の地下鉄が交差するペスト側のデアーク広場駅に移動した。一流ホテルであるKempinskiが見下ろすおしゃれな通りにファーストフードやバー、土産物といったいくつかの出店があり、薪を燃やした釜焼きのピザがうまそうだったので1つ買って昼食とした。

今日は体力を温存するためにデアーク広場から16番バスに乗り、くさり橋を渡って王宮の丘へと上って行った。眺めの良い城門が見えたところでバスを降り、階段を上るとそこはマサに中世の世界であった。

白い石灰岩でできたとんがり屋根を持つ丸塔とその回廊は漁夫の砦と言われており、かつてこのあたりに魚の市がたっていたことや、城塞のこの場所はドナウの漁業組合が守っていた伝統からこの名をいただいている。すでにうろこが落ちてしまったはずのこの場所はドナウ川やペスト地区を見下ろす最高のビューポイントに成り上がっているのだ。

カラフルな建造物が多い丘の上のメイン通りを北西に進んでいると一際背の高い塔に遭遇した。これは13世紀に建てられたフランシスコ派の教会の一部でマーリア・マグドルナ塔という代物である。教会の本堂は第2次大戦で壊れてしまい、しなびたこの塔だけが残されてしまったのだ。

Hilton Budapestの隣に位置し、ブダペストのランドマークのひとつとして君臨しているマーチャーシュ教会(HUF990)はブタを焼いてチャーシューにしたことがないはずのマーチャーシュ王の命で高さ88mの尖塔が増築されたことに由来すると言われている。尚、現在の塔の高さは80mになっているのだが、これは数々の増改築の賜物であると思われる。

マーチャーシュ教会の前に広がる三位一体広場にはバロック様式の三位一体像があるのだが、これは中世ヨーロッパで猛威をふるったペストの終焉を記念して18世紀に建てられたものでブダペストにも例外なくペストが蔓延したことを物語っている。

王宮の丘の南半分を占めているのが文字通りの王宮であるのだが、13世紀の最初の建設以来、戦争や大火災で何度も大改築を繰り返し、現在のものは1950年代に完成した最新バージョンとなっている。

最新版の王宮はセーチェニ図書館と国立美術館、ブダペスト歴史博物館になっており、今回はブダペストの栄枯盛衰の歴史を探るためにブダペスト歴史博物館に入館することにした。マサであれば入館料HUF1400を支払わなければならないところを私は閉館30分前の特別価格のHUF700で入館し、広い館内を駆け足で回って見ることにした。展示室は中世の竣工時から現在まで残されている地下室や洞窟をうまく利用しており、その中に昔の王宮を飾っていた柱や壁、武器や図面等が所狭しと並べられているのだ。

王宮の丘に最短距離でアクセス出来るケーブルカー乗り場をスルーして16番バスに乗車し、デアーク広場からロンドンに次いで世界で2番目に古い地下鉄M1線でセーチェニ温泉を目指した。

マサよ、君は日本の健康ランドを凌駕するローマ帝国時代の公衆浴場を彷彿とさせる大温泉センターでチェックメートをかけられたように固まったことがあるか!?

ということで、ブダとペストの統合を願う貴族政治家セーチェニ公の尽力でくさり橋が架橋され、その本名はセーチェニ公のくさり橋と呼ばれる程高名なセーチェニの名を冠した温泉に満を持して入浴させていただく機会を得ることとなった。

チケット売り場で夕方料金のHUF2900を支払い、リストバンドを受け取った後、回転バーを回して入場すると脱衣所番のおね~ちゃんの仕切りでスムーズにロッカーが割り当てられたので海水パンツに着替えて嬉々として浴場に突入していった。硫黄臭が漂う浴場には温水プールをはじめ多くの温度別浴槽があったので36℃の温泉に長時間浸かっているとおびただしい数のハンガリー水着ギャルやおばちゃんが行き来する姿が眺められ、図らずも混浴のチャンスさえ与えられたのであった。外には巨大な温泉プールが沸いており、寒風吹きすさぶ中を果敢に泳いでいる者や寒さで38℃高温プールの中で固まっている輩もいた。名物のチェス盤にも何人か集まっていたのだが、閉館時間も迫っていたため、プレーは打ち切られている様子だった。

セーチェニ温泉からドナウ河岸に戻ってみるとそこで待っていた光景は息を呑むほど洗練された夜景であった。

ライトアップされたくさり橋を徒歩で渡り、丘までの階段を登り切り、Hilton Budapestへの帰路を急いでいるとマーチャーシュ教会が闇の中で妖しく輝いていたので思わず足を止めて見入ってしまった。中からはコンサートのゴスペル曲が荘厳なトーンで聞こえてきたのだった。

11月3日(木)

中世へのタイムスリップを終了させるべくHilton Budapestをチェックアウトすると朝の冷たい空気を裂いて王宮の丘を駆け下りてデアーク広場の地下鉄乗り場に向かった。地下鉄、バスを乗り継いでフェリヘジ国際空港に戻り、12時35分発TK1036便で再び♪飛んで イスタ~ンブ~ル~♪の機上の人となった。

成田行き18時40分発TK0050便は多くの日本人ツアー客で満席となっていたものの、ヨーロッパのベストエアラインに選ばれているトルコ航空の機内で10インチの巨大画面から映し出されるオンデマンドの映画を鑑賞しながら苦痛なく過ごさせていただいた。

11月4日(金)

定刻の午後1時前に成田空港に到着後、温泉に流されるように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥109,450

総宿泊費 EUR317.81、¥7,200

総鉄道代 EUR16

総スロヴァキアトラム代 EUR0.35

総ブダペスト市営交通代 HUF2,910 (HUF1 = 約¥0.4)

協力 トルコ航空、HiltonHHonors、楽天トラベル

FTBEU南蛮ポルトガルツアー

♪ポルトガル人がっ、ながさきへ~~~ カステラ (カステラ) カステラ (カステラ) めいげつど~の カステラ~~♪

というわけで、大地震クラスの余震におびえながら暮らしている今日この頃であるが、ヨーロッパの最西端ポルトガルでは与信が破綻し、ついに財政危機に陥ってしまった。大航海時代にはスペインとともに7つの海を制覇し、日本にも鉄砲やカステラを伝え、種子島を歴史の表舞台に引きずり出し、文明堂を開花させたポルトガルの栄光は遠い過去のものとなっているのだが、これから金融危機を迎えようとする日本にとってポルトガルは対岸の火事とは思えないので、危機下での庶民の暮らしをいち早く思い知るために南蛮に旅立つこととなった。

2011年4月19日(火)

午前11時50分発の空席の目立つNH207便は定刻通り出発となり、午後5時にはミュンヘン国際空港に到着した。ルフトハンザ航空のラウンジでドイツのビールを牛飲しながら時間をつぶした後、午後7時35分発LH1792便に乗り換えると3時間程度のフライトで午後10時前にリスボン空港に到着した。今日は着いた時間が遅かったので空港近くのHoliday Inn Lisbon Airportにそそくさとタクシーで移動してドイツで吸収したアルコールを抜くことに専念した。

4月20日(水)

幼少時代にテレビやラジオから流れる明月堂のカステラソング(http://www.meigetsudo.co.jp/04movie.html)を子守唄にして育ち、おいしいものを伝えるためにわざわざ船を漕いでやってきたポルトガル人に敬意を表するために、いつかポルトガルに行かなければならないと常々思っていたのだが、遅ればせながらついにポルトガルの土を踏むことになった。

空港近くのホテルからリスボンのセントロまでは7km近くの距離があるのだが、町の雰囲気を肌で感じるために軽く歩いてみることにした。ポルトガルは日本の4分の1の面積の国土を持ちながら人口は約1070万人で首都リスボンに至っては約50万の人々しか暮らしていないので町行く人もそんなに多くなく非常にのんびりした印象を受けた。

広い道とカラフルなアパートが目立つ市街地を抜けるとテージョ川沿いにそびえ立つ水色が眩しいサンタ・アポローニア駅に到着した。川沿いの建物の壁にはアートとも見紛える落書きが施されており、この国の芸術レベルの高さを垣間見ることが出来る。

とある建物の前でテレビクルーが参集している光景を目撃したのだが、どうやらそこはポルトガルの財務省関係のファシリティらしくマサのような官僚をとっ捕まえて財政危機に対する対応策を問いただそうという姿勢が見て取れた。リスボンの海の玄関口として広がるコルメシオ広場を通り過ぎると遠くに4月25日橋がその全容をあらわにした。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを彷彿とさせるこの橋は1966年に完成した全長2278mのつり橋であり、上段は車、下段は鉄道用としてリスボンと対岸との大動脈となっているのだ。

リスボン中心部からテージョ川沿いに6km程西にあるのがベレン地区である。ここには16世紀初めにエンリケ航海王子を中心に海洋国としての地位を確立したゆかりのファシリティ群があり、しかも世界遺産として君臨しているので市電に乗って見物に行くことにした。まずは手始めに16世紀初めにマヌエル1世の命により、船の出入りを監視する要塞として建てられたベレンの塔(€5)に登頂した。マヌエル様式の優雅なテラスを持つこの塔を、司馬遼太郎は貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえて「テージョ川の公女」と勝手に呼びやがったそうだが、なるほどここでエマニュエル婦人が椅子に座って佇んでいても十分絵になるくらいの官能的な建造物である。

1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して建造された発見のモニュメント(€5、展望台とリスボンエクスペリエンスというシアター込み)を発見したのでエレベーターで屋上に上がってみることにした。大航海時代のポルトガルはアフリカ南岸経由インド航路を開拓し、様々な陸地を発見したことで世界史に名を馳せているのだが、展望台の上から鳥瞰出来る世界地図の極東部には1541年に発見されたへたくそな形の日本列島も見受けられたのだった。

エンリケ航海王子の偉業を称え、さらにヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓を記念してエンリケ王子が建てた礼拝堂の跡地にマヌエル1世が1502年に着工したジェロニモス修道院(€7)に安置されてあるヴァスコ・ダ・ガマの棺に、文明堂や明月堂に成り代わってカステラ伝来のお礼を言いに行って来た。

ところで、この修道院はマヌエル様式を代表する壮麗な建物もさることながら、中庭を囲む55m四方の回廊もすばらしく、その魅力の虜となった観光客は中々帰ろうとはしなかったのだ。

桃山時代の日葡交流の様子を思い起こすべく狩野派の手により描かれた南蛮屏風を見学するために国立古美術館(€5)を訪問した。この美術館は17世紀に建立されたシャネラス・ヴェルデス宮殿を改装して1884年に設立されたポルトガルを代表する美術館でかつてポルトガルと交流のあった国々の美術品の展示も充実しているのだ。

ベレン地区からリスボン旧市街に戻り、とある歩行者天国の大通りを歩いていると地に足が付いていないポルトガルの経済状態をあらわすように大道芸人が空中に浮いており、それを見ている取り巻き観光客が恐怖に脅えながらもチップをはずんでいた。

夕暮れ時のリスボンの一大パノラマが美しいサン・ジョルジェ城(€7)に歩きつかれた重い足を引きずりながら登城した。この城はもともとローマ人の手によって要塞として建設されたのだが、その後西ゴート族、イスラム教徒、キリスト教徒の王など数百年の間に次々とテナントが代わったせいか、程よい具合にさびれているので今では城内は「憂愁のポルトガル」が絶妙に表現された公園となっているのだ。

4月21日(木)

マサよ、君はリスボンの西の郊外に森に抱かれたエデンの園がで~んとした存在感で世界文化遺産に登録されている実態を垣間見たことがあるか!?

というわけで、かつてイギリスの詩人バイロンがエデンの園と呼んだシントラまで足を延ばすためにリスボンのヘソであるロシオ広場の脇に建つロシオ駅から近郊列車に乗り込むこととなった。

シントラ駅に到着するとエデンの園に♪デン デン デ デン デン レッツゴ~♪と乗り込む前にバスに乗ってユーラシア大陸の西の果てであるロカ岬に立ち寄ることにした。北緯38度47分、西経9度30分、高さ140mの断崖の上には、そこがユーラシア大陸最西端であることを示す石碑が建っており、目の前に広がる真っ青な大西洋を見下ろすとここがマサに地の果てであることが実感させられるのだ。さらに、ロカ岬の敷地にある土産物屋で2種類の最西端到達証明書の発行を有償で行っているのだが、私は証明書関係には飽きていたので購入は控えておいた。

シントラ駅に戻り、起伏の激しいシントラ地区を楽して回ることが出来る巡回バスに乗り込むとペーナ宮殿の麓で下車した。窓口でペーナ宮殿ともうひとつの史跡を観光することが出来るコンビチケット(€14)を購入すると小雨降るあいにくの天候の中、急な坂道を登っていくことにした。

ドイツのルートヴィヒ2世はかの有名なノイシュヴァンシュタイン城を築城させたことで名を馳せているのだが、ペーナ宮殿を建築させた輩はそのいとこにあたるフェルディナント2世で、ここに来れば両名とも共通したおとぎの国系悪趣味を持っていることが確信出来るのである。1850年に竣工したペーナ宮殿はイスラム、ゴシック、ルネッサンス、マヌエルなど各様式の寄せ集めではあるが、それが見事にブレンドされて不思議な魅力を醸し出しているのである。

標高529mの山の頂に建つペーナ宮殿からはシントラの町並みのみならず、天気が良ければ遠くリスボン市はもとよりテージョ河口から大西洋まで見晴らすことが出来るのである。

ムーアの城跡という元々7~8世紀にムーア人によって築かれ、1147年アフォンソ・エンリケス王子によって落城され、その後修復されたのだが、今では廃墟のようになっている夢のあとに登ってみた。城壁の塔からはペーナ宮殿の遠景とエデンの園の全景が眺められ、この場所がかつて王侯貴族の避暑地になっていた中世の景色の記憶さえ呼び起こされそうな気がするのだった。

ムーアの城跡から下山すると多くの観光客で賑わっているレプブリカ広場の近辺を軽く散策し、シントラを後にした。リスボンに戻るとサンタ・アポローニア駅から急行系の列車に乗り、ポルトガル第3の都市であり、15万人の人口を持つコインブラに向かった。2時間半程の列車の旅でポルトガル中部のコインブラに着いた時間は午後9時を回っていたので、とある中華料理屋で麺を食った後、楽天トラベルに予約させておいたホテルアストリアに引き篭もって暗い夜を明かした。

4月22日(金)

☆☆☆ながらクラシックな佇まいが歴史を感じさせるホテルアストリアをチェックアウトするとコインブラ最大の見所であるコインブラ大学を目指して丘を駆け上がった。現在の大学は新しい部分と古い部分に分かれているのだが、見所は旧大学の方に集中しているのでGeneral Admission代(€7)を支払ってアカデミックな建物とその内部を見学させていただくことにした。

旧大学内部は写真撮影禁止となっているのだが、ポルトガル歴代の国王の肖像がかかっている帽子の間は優秀な学生のための学位授与の儀式などに使われていたそうである。建物の幅の狭いテラスは眼下にコインブラの町並みを見下ろすことが出来るちょっとした展望台にもなっており、近隣のカテドラルの奥行きの深さまで傍観することが出来るのだ。

大学近辺のカテドラルは新旧2つのものがそれぞれ入口の階段に物乞いをはべらせながらも特徴的な雰囲気を醸し出していた。イエズス会のコレジオ付属教会として1598年に建立された新カテドラルはバロック様式の美しいファザードが印象的であるのに対して初代ポルトガル国王アフォンソ・エリンケスによって1162年に建立された旧カテドラル(€2)は要塞のように堅固な概観を持つロマネスク様式の教会となっているのだ。

旧カテドラルから坂を下り、古い城壁の名残であるアルメディーナ門をくぐってコインブラの商業の中心地区である5月8日広場に到達した。広場を見下ろすように1131年にアフォンソ・エリンケスによって建立され、16世紀にマヌエル1世が大規模なリフォームを施したサンタ・クルス修道院がそびえている。修道院の中では皆それぞれシスター等を捕まえて懺悔をしているようで、それを文句も言わずに聞いてやらなければならない関係者は大変な忍耐力の持ち主であることは疑いようのない事実であろう。

町を歩いているとふと魚が見たくなったので市場に立ち寄り魚の切り身を見てお茶を濁した後、モンデゴ川にかかるサンタ・クララ橋を渡り、対岸から高台にそびえるコインブラ大学を見渡した。

1286年に建立され、かつてはコインブラの守護聖人であったイザベル王妃の棺が納められていたが、度重なるモンデゴ川の氾濫により17世紀にお払い箱となった旧サンタ・クララ修道院が見事に修復されていたので、そのお払い箱ぶりを見物することにした。現役の修道院ではなく、単なる遺跡となっているので箱物の中にはインテリアや装飾は見られないのだが、13世紀の竣工当初は豪華絢爛であったことが広大な敷地から容易に想像出来るのであった。

今日は終日天気が思わしくなく、ポケットの中で増殖したユーロのコインがブラブラする違和感を感じてきたので早々とコインブラを後にしてローカル列車でさらに北上し、午後4時過ぎにはポルトガル第2の都市であるポルトに到着した。街の中心に位置するサン・ベント駅の壁は見事な装飾で飾られているばかりか南蛮菓子を代表するカステラも販売されていたのだが、最低販売のボリュームが多そうだったので購入を見合わせた。

今日予約していたホテルはポルト市の郊外に位置しており、メトロで移動して相当な距離を歩くことが予想されたので、とりあえずメトロで最寄駅に向かった。最寄駅に向かう途中で雨で冷却されたお腹の具合が悪くなったのでトイレを探したのだがなかったのでトイレの面影をすでに確認しておいた出発点のサン・ベント駅に戻ってきた。ところが、そこのトイレは50€セントコインを投入しなければドアが開かないしくみになっていたのだが、あいにく手元にはコインブラでブラブラさせていた45セントしか残っていないという危機的状況に陥ってしまった。そこで近くにいたポルトガル語しか理解しなさそうな掃除のおばちゃんを捕まえ、表情で窮状を訴えて5セントまけさせた上に近くの両替機から50セント硬貨を引き出させるという離れ業を演じ、何とか財政危機を乗り越えることが出来たのだった。

4月23日(土)

早朝ポルト郊外のHoliday Inn Expressをチェックアウトするとバスとメトロを乗り継いで世界文化遺産にも指定されているドウロ川北岸に広がるポルト歴史地区にやってきた。昨日の雨模様とは打って変わって今日は朝から晴れ渡っており、アズレージョ装飾を施された建物も一際輝いて見えた。

まず手始めにポルトの全貌を把握するためにクレリゴス教会に付属している塔(€2)に登ってみることにした。76mあるクレゴリスの塔はポルトガルいちの高さを誇り、頂上からはオレンジ瓦の町並みとドウロ川、さらに対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区まで見渡すことが出来るのだ。

ポルトガルでは窓から干された洗濯物が古びた町並みに溶け込んでいるのだが、クレリゴス教会近隣のビルでは何故か普段着を着たみすぼらし系の人形が財政難を苦にして首吊り自殺をしているようないでたちで干されていたのだった。

ポルト市民の日々の暮らしぶりを感じるためにボリャオン市場を見物することにした。活気のある場内ではポルトガル人が財政危機を感じさせないほどの勢いで肉、魚、野菜、果物等を売りさばこうと躍起になっていた。

街を見下ろす丘の上にカテドラルが異様な存在感を示していたので内部を軽く覗いた後、となりの回廊(€5)を渡り歩いてみることにした。ゴシック様式の回廊の内側には18世紀のアズレージョが貼りめぐらされており、展示場となっている各小部屋には伝統的なクリスチャングッズが陳列されていた。

高台にあるカテドラルから路地を抜けて下界に下りるとボルサ宮前の広場で大航海時代の立役者であるエンリケ航海王子が頭上に泊まるカモメをものともせずに遠く大西洋を指差していた。

撮影禁止ながら内部を覆うタ-リャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾が豪華なサン・フランシスコ教会(€5)でギンギラギンにさりげなく精神統一を行うと休日の観光客で溢れかえるドウロ川岸まで下ることにした。

ドン・ルイス1世橋を見上げるドウロ川ではクルーズが大変な人気を博しているようで乗り場は常に長蛇の列が形成されていたので参加を断念し、再び丘の上に這い上がってドン・ルイス1世橋を渡る決断が下された。

ドン・ルイス1世橋は車が通る下部とメトロの路線が引き込まれた上部の2層構造になっており、メトロのレイヤーにはチャチなケーブルカーもしくは階段で到達することが出来るのだが、私は風情のある階段沿いの景色を見ながら軽く息せき切ってみることにした。

ポルト歴史地区の対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの丘には楽して丘の上り下りをしたい輩のためにゴンドラも定期運行されており、川向こうの斜面にへばりつく世界遺産の眺望も楽しむことが出来るのだ。

ポルトに来てポートワインを賞味しなければポルトに来た意味をなくしてしまうのでヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区の麓に林立するワイン工場街を彷徨うことにした。ワイナリーの多くは無料で見学ツアーを行っているので適当な人の波に身を任せてCROFTというワイン工場に紛れ込んだ。

ポルト在住であるはずのポルトギャルの案内で開始されたツアーにはおびただしい数の観光客が参加していたのだが、スペイン語かポルトガル語なのか私には意味をなさない言語で展開されていたので私は黙ってワイナリーにぐっすり寝かされている樽と芳醇な香りに包まれて時間をやり過ごすしかなかったのだ。ツアーも終わり、待望の試飲の時間となったのだが、ワイングラスの底に注がれているルビーのワインを舐めながら、説明→試飲の工程を何度繰り返せば酔えるのだろうと考えていた。

締めのポートワインでポルト観光全行程の終了と相成ったのでカンパニャン駅からIC列車に乗って300kmの道のりを3時間かけてリスボンまで帰り、Holiday Inn Lisbonのアップグレードされた無駄に広いスイートルームに引き篭もり、レストランで最後の南蛮晩餐を堪能させていただきつつ長い夜を過ごしていた。

4月24日(日)

リスボンのほぼ中央に位置するHoliday Inn Lisbonをチェックアウトし、大胆な落書きを施されたビルを横目に南に向かっていると日中は緑豊かだが、夜間は麻薬と売春の巣窟になるというエドゥアルド7世公園に紛れ込みゆったりとした斜面を下って行った。

リスボンは「7つの丘」と呼ばれ、その起伏に富んだ地形がリスボン特有の美しい街並みを作り出しているのだが、短いながらも3路線あるケーブルカーが彩りを添えている。ポルトガルのシャンゼリゼともいわれるリベルダーデ通り沿いにひっそりとラヴラ線のケーブルカーが停車していたのでその脇の階段を上っていくとモラエスの生家に到着した。ちなみにモラエスとは1899年にポルトガル領事として神戸に赴任し、その翌年には徳島出身の芸者ヨネと同棲まで始めやがった手の早い輩だそうだ。

へたくそな落書きが目に余るグロリア線ケーブルカーを上りきるとサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台に辿りついた。展望台から眺めるリスボン市街の景色の美しさもさることながら公園内には昨晩の夜景を楽しんだであろうビールやワインのビンの残骸がそこら中に転がっていたのが印象的だった。

1584年に苦難の航海の末にリスボンにたどり着いた日本の天正遣欧少年使節が1ヶ月程お世話になったイエズス会の教会であるサン・ロケ教会に入会した。しかしながら、この教会には伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの足跡は一切残されてなく、日本史では大きく取り上げられているイベントでもイエズス会では日常的な寄宿者が通り過ぎて行った程度に過ぎないことを思い知らされるのだ。

サン・ロケ教会のロケハンが終了するとこれぞリスボンという風景に出会えるビッカのケーブルカーを見に行くことにした。テージョ川を背景にケーブルカーが急坂を上り下りする姿は観光客の絶好の被写体になっているのだが、意外にもケーブルカーの出発地点はビルの一室に紛れているような地味な場所だった。

南蛮ツアー最後の訪問地は1147年イスラム礼拝堂跡にアフォンソ・エリンケスの命により建立されたカテドラルとなった。正面のバラ窓が特徴的なカテドラル内部では日曜日のミサのプログラムの一部であるはずの何らかの合唱が行われており、私も思わず合掌しながら見入ってしまうこととなった。

街中に乗り捨てられている観光用のレンタルゴーカートや市街を走り抜ける市電を横目にロシオ広場まで移動し、そこから空港バスに乗り込みリスボン空港へと帰還した。TAPポルトガル空港のラウンジで南蛮菓子を肴に色々な色のワインを飲みながらフライトまでのひと時を過ごしていた。

午後2時15分発LH1791便に乗り込み、午後6時過ぎにミュンヘン空港に到着するとルフトハンザ航空のラウンジに直行し、すでに南蛮菓子の面影が無くなっていたのでミュンヘンビールを痛飲しながら午後8時55分発NH208便のフライトまでの時間潰しをしていた。

4月25日(月)

異様に空席の目だったNH208便は定刻通りの午後3時半過ぎに成田空港に到着し、そのままポルトガル人が種子島に流れ着くように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥133,330

総宿泊費 €203、¥9,900

総鉄道代 €48.4

総タクシー代 €18.5

総メトロ、トラム、バス代 €22.4

協力 ANA、ルフトハンザドイツ航空、PRIORITYCLUB、楽天トラベル、明月堂

FTB最も北の国から フィヨルド

あ”~あ”~あ” あ” あ” あ” あ”~ (song by ざだマサ!し)

マサよぉ、君はフィヨルドがノルウェー語で「内陸部へ深く入り込んだ湾」という意味をもつことを知っていたか!?

というわけで、世界経済も昨年のリーマンショック以来の氷河期からの立ち直りを模索している今日この頃であるが、フィヨルドは氷河による侵食で作られたU字、V字型の谷(氷食谷)に海水が侵入して形成された入り江のことである。今回のミッションは財務官僚では決して発想出来るはずもないフィヨルドの調査による日本経済のV字回復への方策を導き出し、グリーンニューディール政策の促進とともに何とか消費税の増税に歯止めをかけさせることである。

2009年8月8日(土)

午前11時30分発のNH209便は繁忙期ならではのエコノミークラス満席によるビジネスクラスへのアップグレードにより、12時間弱の快適なフライトで午後4時半頃にはフランクフルト国際空港に到着した。ルフトハンザ・ラウンジで適当に時間を持て余した後、午後9時45分発のルフトハンザ便に乗り換え、2時間のフライトでストックホルム・アーランダ国際空港に到着したのは午後11時45分を過ぎた深夜であった。早速空港バスで40分かけてストックホルム中心部に位置するシティ・ターミナルに移動するとそこで目にした光景はその日の業務を終えた空港バス群がプラグ・インによる充電で二酸化炭素の排出を極力抑えようとする陰ながらの努力であったのだ。

8月9日(日)

日付も変った深夜に楽天トラベルに予約させておいたFreys HotelにチェックインするとReceptionで部屋のキーとともにスリに対するワーニングの紙切れをいただいたので、スウェーデンのスリはいい仕事をするので注意しなければならないと肝に銘じながら床に就いた。

早朝スリに貴重品を盗られることの無いよう、摺り足でホテルをチェックアウトするとストックホルム中央駅に程近い船着場に向かった。カウンターでドロットニングホルム宮殿行きの往復チケットを入手すると、午前10時発のフェリーに乗り込み、約1時間のメーラレン湖のクルーズがスタートした。湖の沿岸部では至る所でビーチが展開されており、原住民たちは短い夏を謳歌するかの如く、湖水浴と日光浴にいそしんでいた。

フェリーは11時前にはドロットニングホルム宮殿前の船着場に到着したのでそのまま世界文化遺産に登録されている宮殿の見学になだれ込むことにした。チケット売場で宮殿と中国の城との共通入場券(SEK120)を購入すると北欧のヴェルサイユとも言われるドロットニングホルム宮殿の調査が実行に移された。通常古い宮殿では血なまぐさいドロッとした感覚を覚えるものであるのだが、ここドロットニングホルム宮殿に関してはそのバロック様式風の建築とバロック庭園が決してヴェルサイユをモデルにしたものではないことから北欧のおとぎ話に出てくる宮殿そのものでしかなかったのだ。

宮殿はお約束の衛兵で護衛されており、ドロッとした怪しい輩が侵入しないように常に厳しい目が光っているのだ。さらに広大な庭園の奥には中国の城という東洋をモチーフにしたこじんまりだが豪華な外装の建物も存在感を示しており、観光客はスウェーデン王朝と中国の関係も理解することなく、内部の中国風調度品の見学を余儀なくさせられるのだ。

フェリーで市の中心部に戻ると水の都ストックホルムにふさわしい優雅で厳粛な気品を漂わせている市庁舎のガイドツアー(SEK70)に参加させていただくことにした。尚、この市庁舎はコンサートや式典等様々な目的で使われているのだが、最も有名なのは毎年12月10日に開かれるノーベル賞授賞祝賀晩餐会である。私も将来財務省の支援によりノーベル文学賞を授賞してここへ来なければならないので予め下見をしておく必要があったのだった。

ツアーはまず晩餐会の会場となるブルーホールの大広間からスタートした。ブルーホールとは言うものの壁面は赤レンガで覆われており、柔らかい音響効果を醸し出すために、「敲仕上げ」という石の面を突いてこまかい痕を残す小細工まで施されているため、参加者は皆ブルーな気分に浸れるのではないかと思われた。

市庁舎見学のハイライトは金一色の黄金の間で、1900枚の金箔モザイクで飾られた壁面は豪華絢爛以外の何物でもない。ここはノーベル賞授賞パーティーの舞踏広間として使用されるとのことで、私が授賞した暁には中年になった少年隊に仮面を被せてバックダンサーとして派遣し、東山紀之にすでに打点の低くなったバク転を決めさせて参加者に♪いぃっそエクスタシ~♪を感じさせるパフォーマンスを演じる必要があると思われた。

初出場した紅白歌合戦の曲目紹介で司会の加山雄三から「仮面ライダー!」と言われ、思わず変身しそうになった少年隊の無念を胸に市庁舎を後にすると中世の香り漂うストックホルム旧市街であるガムラ・スタンに♪時を超えた楽園♪を探しに行くことにした。ガムラ・スタンでは1280年~1310年に建立されたリッダーホルム教会や13世紀に建てられたストックホルム最古の教会である大聖堂がランドマークとなっているのだが、石畳を踏みしめて歩いているとそこはマサに♪迷い込んだイルージョン♪となって観光客を迎えてくれるのだ。

ノーベル賞100周年を記念して2001年にオープンしたノーベル博物館(SEK60)に侵入し、歴代授章者から♪Wake up De・sire ! ♪のインスピレーションを受けるとガムラ・スタンの北に建つ堂々たるイタリア・バロック、フランス・ロココ様式の建築物である王宮へとなだれ込み、警備している衛兵に♪捨てな!捨てな!マジな プライドを今は~♪と歌いかけて観光客の記念写真に笑顔で応じさせようとしたが、無理だったので仕方なくガムラ・スタンから撤退することにした。 

午後10時30分発、移動手段兼宿泊施設であるSWEBUS EXPRESSの長距離バスに乗り込むと♪溶~けて魔法のリズム♪によりなんとかスリの脅威から身を守ることに成功したストックホルムを後にした。

8月10日(月)

SWEBUSは早朝6時にオスロ長距離バスターミナルにおそるおすろ滑り込んだ。バスを下車すると乗客は皆、とある方面に足を向けていたので私も夢遊病者のようにその後に付いていくとオスロ中央駅にたどり着いた。街が目を覚ますまでしばらく駅で時間を潰した後、市内交通に関する情報を提供するトラフィカンテンでオスロ・パスという市内の公共交通機関の運賃やおもな博物館、美術館の入場料が無料になるお得なカードを購入すると早速オスロ市内の観光に乗り出すことにした。

市庁舎広場からフェリーに乗り込み博物館が林立するビィグドイ地区に流れ着き、上陸すると早速フラム号博物館を訪問させていただき、ノルウェー出身の探検家であるアムンゼンの足跡を辿ることにした。フラム号は北極海流の研究のために造られた、全長39m、満載時で800トンの船で樽のような船底により氷に押しつぶされることなく、氷の上に浮き上がることが出来るように設計されている。そのおかげで北極の氷原に3年間も閉じ込められたにも関わらず無事オスロに帰還したという輝かしい実績を誇っているのだ。

北極研究によりノーベル平和賞を授賞したナンセンから譲渡されたフラム号を駆ってアムンゼンは北極点一番乗りを逃した屈辱を胸に急遽南極に向かい、イギリスのスコット隊を出し抜いて見事南極点一番乗りを果たすという快挙を成し遂げた様子をフラム号博物館の展示物で確認出来た勢いをかって、立て続けにノルウェー海洋博物館とコンチキ号博物館の見物をぶちかました。

コンチキ号博物館ではバルサ材で造られたいかだ船コンチキ号でペルーからイースター島まで8000kmを101日間かけて漂流した文化人類学者トール・ヘイエルダールの冒険魂により南米からポリネシアへの文化の移動説が実証された現実を目の当たりにさせられた。また、一見すると日の丸に見間違えられる帆を持つパピルス船ラー2世号では古代エジプトから南米への文化の移動説さえ実証されてしまっているのだ。

フェリーでオスロ中心部に戻り、オスロの目抜き通りであるカール・ヨハン通りで銅像の真似をする大道芸人に納得がいかず叫びたい衝動に駆られたので地下鉄でムンク美術館に向かうことにした。エドヴァルド・ムンクは言わずと知れたノルウェーが生んだ北欧唯一と言っても過言ではない世界的な画家である。1963年にムンクの生誕100年を記念して開館したムンク美術館には、ムンクがオスロ市に寄贈した膨大な作品が収められている。美術館内にあるカフェではNOK38の支払いで”叫び”ケーキ通称Scream Cakeを発注することが出来るのでチョコレート味に舌鼓を打ちながら溜飲を下げておいた。

オスロフィヨルドを見守るように建っているアーケシュフース城をちら見した後、空港バスでオスロ・ガーデモエン国際空港に移動し、スカンジナビア航空SK4055便にてスタヴァンゲルに向かった。JTBに予約させておいたベストウエスタンホテルの予約が入っていないという危機に直面したもののFTBの類稀なる交渉術により、近くの上級ホテルに緊急避難すると明日から本格化するフィヨルドツアーに備えて白夜の中、英気を養っていた。

8月11日(火)

早朝上級ホテルをチェックアウトし、スタヴァンゲルのフェリーターミナルからカーフェリーに乗り込むと30分程でタウという町に到着した。タウから乗継のバスに乗り込みさらに30分程のドライブでプレーケストール・ヒュッテに辿り着いた。バスを降りると小雨降る中、早速約2時間のリーセフィヨルドへのトレッキングが開始されたのだった。

足もとの悪い岩場の急坂を上ると傾斜は次第に緩やかになり、小さな湖が現れだんだんと視界が開けてきた。果てしなく続く巨大な岩肌と視界を遮る霧がこれから遭遇するであろう恐怖の絶景への期待感を否が応でも抱かせてくれるのだった。

さらに歩を進めるとどうやらフィヨルド淵の断崖に出た様子で立ち込める霧の中であってもここがとんでもなく危険な場所であることが体感された。霧の晴れ間に視界が確保されると、目の前に海面からほぼ垂直に切り立つ一枚岩がついにその全貌を現したのだった。

ノルウェー語で「教会の説教壇」という意味を持つプレーケストーレンは、海面からほぼ垂直に切り立つ一枚岩であり、ここから見下ろすリーセフィヨルドは圧巻のひと言である。当然柵のような野暮なものは設置されていないので観光客は自己責任で絶壁の淵に辿り着き、600m下の海面を恐る恐る覗き込むのがここでの主なアクティビティである。私も崖際で平井堅よろしく♪瞳をとじて♪1分間の片足立ちをかました後、クリフハンガーのように絶壁で懸垂を30回くらいするべきであったろうが、降りしきる霧雨で滑りやすくなっているため、今回はやむなく断念せざるを得なかったのだ。

プレーケストーンを見下ろすさらなる高台に這い上がり、マサにナイフで切り取ったような垂直の壁のエッジにへばり付いて眼下のフィヨルドを眺めている観光客の高みの見物をさせていただいた。プレーケストーンを上から眺めるとは表面にクラックが入っている状況が確認出来、今にも崩れ落ちそうな危うささえ漂わせていたのだが、近くでその割れ目の中を覗くと残念なことに非道観光客によるゴミ捨て場になっている現実の厳しさを思い知らされたのだった。

8月12日(水)

午前9時35分発のSK4156にてスタヴァンゲルからノルウェー第二の都市兼フィヨルド観光の拠点となるベルゲンに10時過ぎに到着した。空港からバスで市内に入り、ベルゲン駅の目の前のグランド・ホテル・テルミニスに荷物を預けるとベルゲンの見所の見物に乗り出すことにした。

ベルゲン港の入り江の一番奥まったところに漁業大国ノルウェーを体感することが出来る魚市場が開かれていたので腹ごしらえも兼ねて立ち寄ってみることにした。年齢を「成魚」であると思い切った詐称をしているさかなクンも思わず「ギョ」とするほどの品揃えを誇る魚市場で何故か「ノルウェーの物価は高くて大変でしょう」と気安く話しかけてきやがった日本人の店員がいたのでそこで思わずエビのサンドイッチを買って昼食とさせていただいた。さらに薄切りサーモンを貼り付けた小さいパンとビールで乾杯した勢いを駆ってハンザ博物館に侵入することにした。

ハンザ博物館(NOK50)は1704年に建立された趣のある木造の商館で内部ではハンザ商人の暮らしの様子が見事に再現されている。ベルゲン繁栄の元となった干しダラは当時のままの様子で展示されているのだが、館内を歩くとタラちゃんが歩く時に発する不思議な足音の代わりに木造家屋が軋むような音がハンザ同盟時代を偲ばせるような趣を醸しだすのに一役買っている。

ベルゲンの観光地区の先にローセンクランツの塔とホーコン王の館の堅牢な石造りの建物群を遠めに眺めた後、ブリッゲン博物館(NOK50)になだれ込み、歴史を伝える世界遺産の木造家屋群であるブリッゲン見学の予習をさせていただいた。この博物館では模型や実際の発掘物でブリッゲンを中心としたベルゲンの歴史を学ぶことに成功した。

ベルゲンの中心地、港に面して壁のように木造家屋が並ぶ一帯は、ブリッゲン地区と呼ばれている。これらの木造家屋は元々13世紀~16世紀に建てられ、ドイツのハンザ商人の家屋や事務所として利用されていた。密集した木造家屋のせいで過去幾度もの火災で焼け落ちたのだが、そのたびに元通りに復元され今では土産物やレストラン、手工芸の工房として観光客の財布の紐を緩めさせるのに多大な貢献をしているのだ。

以外に奥行きのある家屋が並ぶその隙間を入っていくと迷路のようになっており、ペイントされていない剥き出しになっている木材はシロアリの絶好のご馳走になるのではないかと懸念されもした。また、正面から建物の並びをよく見ると地盤沈下のせいか傾いている家屋もあるのだが、2階部分の建築構造によりうまくバランスが保たれていたのだった。

魚市場で目にこびりついてしまった筈のうろこを落とすためにために魚市場から150mほどのところにあるケーブルカー乗り場(往復NOK70)から標高320mのフロイエン山に登頂することにした。ケーブルカーが最大傾斜26度、全長844mを約6分かけて登りきると眼下に広がる光景はベルゲン湾の周辺に密集した建物群や停泊している大小の船舶といった海洋国ノルウェーの特徴を目に焼き付けるのにまたとないものであったのだ。

午後9時半をすでに回った夕暮れ時にベルゲン湾沿いをぶらぶら歩いていると港の光景が徐々に幻想的な茜色に染まり始めていた。雲の切れ間から差す西日に照らされたブリッゲンの光景もまた格別なものであり、近辺のカフェのテラスではさわやかな北欧の一日の余韻を楽しむかのように人々が語らっていた。

8月13日(木)

ベルゲン駅隣の長距離バスターミナルからベルゲンを後にすると、午前9時前に豊かな自然に囲まれたノールハイスムンという小さな村に到着した。そのままバスの到着を待っていたかのように停泊しているフェリーになだれ込むと全長179km、ノルウェーで2番目に長いハダンゲルフィヨルドのクルーズがスタートした。尚、フェリーのチケットは内部のキオスクで気安く買える仕組みになっているのだ。

フェリーは「女性的なフィヨルド」と形容される緩やかな景観の中をフィヨフィヨと進んで行くと山肌を明らかに氷河が流れた後や夏真っ盛りのこの時期に真っ白な雪をたたえている現役の氷河に次々に遭遇した。フェリーはいくつかの船着場を経由して正午前にアイフィヨルドに到着し、そこで下船する運びとなった。

あらかじめフェリーの中でアイフィヨルドの3時間観光ツアーのチケットを高値で購入していたので下船後に待っていたバスに乗り込み、ツアーガイドのネイちゃんの案内でネイチャーセンターに連れて行かれた。ハダンゲルヴィッダ高原のネイチャーセンターではいきなり建物の屋根の上で草を食っているヤギに出迎えられた。尚、こいつらは決して自分の意思で上って来たのではないことは明らかであるのだが、落下の危険もものともせずに果敢に屋根に植えられている草を食い尽くそうと躍起になっているようであった。

ネイチャーセンターでこのあたりの地形の成り立ちを学習した後、このツアーのハイライトである182mの大瀑布、ヴォーリングフォセンに向かった。滝を見下ろすように木造建築が風情を醸しだすFOSSLI HOTELが存在感を示しており、展望台からは思わず吸い込まれそうになる清らかな滝と緩やかに蛇行して流れる川の情景に時間の経つのを忘れるくらいに見入ってしまうのである。

フェリーは午後2時40分にアイフィヨルドを後にすると30分程で到着したウルヴィクで下船し、路線バスに乗ってフィヨルド観光の中継地となっているヴォスに向かった。バスがヴォス駅に到着するとその目の前には美しいヴァングス湖が薄日に照らされていたのが印象的だった。湖畔には1277年に建立されたゴシック教会であるヴォス教会が町の歴史を見守ってきたかのような威厳を湛えていた。

8月14日(金)

早朝ヴォス駅よりバスに乗り1時間程の山道ドライブで午前9時半頃にソグネフィヨルド観光のフェリーが発着するグドヴァンゲンに到着した。ここで目にした光景は急峻な岩肌を幾筋にもなって流れ落ちる滝であり、否が応でも世界一長く、深いソグネフィヨルドで遭遇するはずのこの世の物とは思えない絶景への期待が大きくなっていくのである。

長さ204km、最深部は1308mの深さを誇るソグネフィヨルドは最奥部で枝分かれしており、細い先端部分のネーロイフィヨルドはユネスコの世界自然遺産に登録されている。グドヴァンゲン~フロムを結ぶ観光フェリーはネーロイフィヨルドに沿って航行し、途中で方向を変えアウルランフィヨルドに切り込む航路となっている。

ノルウェーのフィヨルド観光を取り仕切るwww.fjord1.noが運行させているフェリーに午前10時半に乗船すると観光客は足早に船の最上階の屋外デッキを目指していた。何故なら2時間のクルーズで次から次に出くわす幻想的な景色はどれひとつとして見逃すことが出来ない程すばらしいものであるということがグドヴァンゲンで遭遇した光景のインパクトにより確約されているからだ。

Fjord1フェリーの操舵室ではWindows OSで動作しているはずのナビが進路を指し示していたのだが、フェリーがバイキングに乗っ取られるよりもこのナビゲーションソフトの脆弱性を付くサイバー海賊によりソマリア沖まで誘導されるリスクの方が高いのではないかと懸念された。通り過ぎる景色はどこを切り取っても世界自然遺産にふさわしいもので急峻な山肌や数え切れない程の滝、点在する村々を眺めていると気温の低い船外で風邪や新型インフルエンザのウイルスに対する耐性が低下しそうになっていることにも気づかずに時間が過ぎ去ってゆくのであった。

マサに幻想的であったFjord1フェリーでの航海も終焉を迎え、船は午後12時半にフロムに到着した。「山間の小さな平地」という意味を持つフロムは、アウルランフィヨルドとフロム渓谷の山々という豊かな自然に囲まれた住民わずか500人ほどの小さな町に過ぎないのだが、夏になるとフィヨルド目当てのおびただしい数の観光客が押し寄せてくるのである。

世界中の旅行者の憧れの的である登山列車フロム鉄道の歴史を学習することが出来るフロム鉄道博物館でほとんどの工事を手作業に頼りながら何とか開通にこぎつけた山岳鉄道開拓の苦難を疑似体験することが出来たので、それを忘れないうちにフロム峡谷のトレッキングに繰り出すことにした。

フロム峡谷には10種類のトレッキングコースが設けられており、難易度により初級のカテゴリー1から上級のカテゴリー3までに区分されている。その中から私が選択したコースは当然のことながら上級向けのブレッケの滝へのツアーであった。フロム駅を出発し、見事なまでに透明な川にかかる橋を越え、羊を放牧している牧場を眺めながら歩いていると山間に滝が流れている姿を遠めに眺めることが出来る。単純にあの滝を目指せばよいと考え、急な山道を登っていったのだがいつまでたっても目的地にたどり着けず、ついに列車の時刻に間に合わなくなるのではないかという焦燥感にも駆られてしまった。

汗だくになりながら1時間以上歩いたのであろうか?ついに水が流れる音とともにブレッケの滝が目の前に姿を現した。何とか目的地にたどり着き、苦労した割には大したことはない滝を軽く見物した後、速攻で下山している際に見下ろした峡谷とフィヨルドのコントラストはマサに氷河が刻んだ芸術作品以外の何者でもないと思われた。また、川沿いには集落が点在しており、北欧の田中邦衛のような不器用な人間が住んでいるはずの家々に生えている木々には見事なサクランボやリンゴが実っていた。

午後4時10分、海抜3mから標高865mまで登る全長20kmの距離をわざわざ1時間かけて走る念願のフロム鉄道(NOK230)に乗り込んだ。車内は異常な程の混雑状態となっており、心無い日本人若者観光客はこれは山岳鉄道ではなく、最悪鉄道だと苦し紛れの駄洒落を飛ばして行き場の無い感情の捌け口を求めようとしていた。しばらくすると車掌のはからいで団体客用の車両に空席が残っているので駄洒落野郎も含めて何とか座席が確保出来る救済措置が取られたのであった。走り始めた列車の車窓には当然のごとく峡谷の絶景が写し出され、疲れて眠っている観光客以外は皆外の景色に釘付けになっていた。

フロム鉄道での最大のアクティビティと言っても過言ではないイベントは落差93mのショース滝で途中停車し、乗客は列車から降りておのおの記念写真が撮影出来ることである。さらに滝の爆音をかき消すかのように民族音楽が流れ始め、いきなり青い服を身にまとったブロンドガールがサプライズのように山肌の小屋の中から姿を現しやがった。そのブロンドガールがフェードアウトするとあたかも瞬間移動したかのように同じ装いをしたブロンドガールが今度は滝の近くに現れたのだ。その後交互に姿を消したり、現したりしながら乗客をあざけているうちに車掌の笛によって乗客は列車に戻らなければならなくなったのだった。

終点のミュールダール駅は標高866.8mの山岳地帯で周囲の山々には美しい高山植物とともに白い雪が残っている。軽く周囲を散策させていただき、午後6時28分発のオスロ行きの列車に乗り換えて5時間以上かけて到着するとそこには白い雪の代わりに眩しいネオンが光輝いていた。

8月15日(土)

早朝ホテルをチェックアウトし、駅前の虎の銅像の大きさに脅威を覚えた後、工事中のオスロ大聖堂を通り過ぎ、王宮周辺を散策することにした。すると昨日フロム鉄道で対面に座り、英語で話しかけてきた若者が近づいて来て「昨日列車で一緒でしたよね?」と一言捨て台詞を残し、こちらの回答を待たずに過ぎ去って行ってしまった。

マサよ、君はムンク美術館に展示されている「叫び」ではなく国立美術館に所蔵されている「叫び」の方を見なければムンクに文句を言う資格が与えられないことを知っているか!?

ということで、物価の高い北欧の中にあって入場料が破格の無料となっているのだが、月曜日が閉館となっており、土曜日は午前11時からの開館のため、入口で入場を待つ観光客で混雑している国立美術館に侵入することにした。時間がなかったのでゴーギャン、ピカソ、モネ、セザンヌなどの画伯の作品はブッチして一目散にムンクの展示室に突進した。尚、「叫び」は耳を覆いたくなるようなタッチで描かれているのだが、ムンクも本気を出せばうまい絵も描けることが現地の調査で確認出来た。

オスロ中央駅からエアポート・エクスプレス・トレイン(NOK170)でわずか20分でオスロ・ガーデモエン国際空港に到着すると午後1時45分発のルフトハンザ便でフランクフルトに戻り、発券カウンターではプレミアムエコノミーにしか昇格出来なかったのだが、搭乗口で逆転ビジネスクラスアップグレードを勝ち得たNH210便に乗り込み、これもムンクに文句を言わなかったご利益であると感謝しながらノイズキャンセリングヘッドホンで耳を押さえながら乾燥した機内でカーディガンも着ないで過ごしていた。

8月16日(日)

午後2時半頃成田空港に到着し、新型インフルエンザに対応しなければならないという心の叫びを感じながら流れ解散。

身の毛もよだつ北欧情報

1.揺り篭から墓場までと例えられる社会福祉制度を誇る北欧の物価は日用品や食費においては体感的に日本の2倍~3倍であると思われ、観光客の財布やクレジットカードを容赦なく痛めつけるので北欧通貨のクローナを使うときは常に「苦労するな~」と思うのである。土産物屋ではTAX FREEの看板が掲げられ、空港で税金が還付される仕組みになっており、観光客がトナカイの毛皮を買う時等の購買意欲がそがれないような努力がなされている。かといって福祉を充実させるために日本で消費税を上げることに関しては慎重に議論されなければならないであろう。

2.北欧は真夏でも気温が20℃くらいしか上がらず、またノルウェーの西岸ではメキシコ海流のおかげで天候が変わりやすく雨が降ったり止んだりしている日々を過ごさなければならなかった。そのせいで帰国後風邪なのかインフルエンザなのか区別が付かない体調となり、2007年7月に賞味期限が切れた葛根湯で対応しなければならない屈辱の今日この頃である。

3.北欧と言うとバイキングを思い浮かべる輩が多いと思われるのだが、スウェーデンやノルウェーでバイキングのキャラクターになっているのはむしろバイキンを彷彿とさせる物ばかりである。たまにハイキングウォーキングのQ太郎のような長髪イケ面バイキングにも遭遇したが、観光客は「おねが お願いします おねが」と言ってチップを払えば記念撮影させていただける実態が確認された。

FTBサマリー

総飛行機代  ANA = ¥278,170.-、スカンジナビア航空 = NOK 2,420.- (NOK1 = ¥16)

総宿泊費 ¥58,500、NOK1,590.-

総鉄道代 NOK695.-

総バス代、SEK526.- (SEK1 = ¥13) 、NOK766.-

総フェリー代 SEK150.-、NOK700.-

協力 ANA、ルフトハンザ・ドイツ航空、スカンジナビア航空、楽天トラベル、Fjord1、SWEBUS、ノルウェー鉄道

非協力 JTB

FTBEUウィッシュ、アウシュヴィッツ、プラハの春 & ベルリンでヒットラーをひっ捕らえよツアー

ウィッシュ マサよ!

ということで、元総理大臣と同じ名前を持つ私はそのアドバンテージにもかかわらず、決して売名行為に走ることはなかったのであるが、世の中には」「ウィッシュ!」と調子をこきながらおじいちゃんの威光を利用して訴求効果を高めているミュージシャンも生息している。定額給付金のバラマキも決まったところで将来の消費税率の上昇もセットにされ、竹下元総理も草葉の陰でほくそえんでいることであろうが、今回はふるさと創生について今一度考え直すべく社会主義から自由主義への開放が進んでいるダイゴ味を実感するために東欧を視察することとなった。

2009年5月1日(金)

先週奥州から帰ってきたばかりなのに今度は欧州に足をのばすために成田空港に向かった。昨今の豚インフルエンザの脅威により、空港ではマスクをした輩との遭遇の応酬が予想されたが、意外なことにマスクをした観光客や空港職員は全体の17%程度だと見受けられた。野村監督や城島と同等の野球人である私はキャッチャーマスク以外のマスクをかぶる事を潔しとしないのであるが、手荷物検査で押収される恐れがあるため、今回はスッピンで旅立つこととなったのだ。

GW期間の航空運賃の高騰の影響を避けるため、今回はかつて南周り航路と呼ばれたルートを使ってヨーロッパに旅立つべくANA111便シンガポール行きに午前11時に搭乗すると機内で邦画「感染列島」を見て伝染病蔓延の恐怖を刻み込むことにした。また、主演の檀れいが「淡麗」ではなく「金麦」のCMに出ている現実を直視して、キリンの営業力のなさを嘆きながらサントリー・プレミアムモルツを痛飲していたのだった。午後5時過ぎにはシンガポールに到着したものの、シンガポール航空SQ26便の出発まであと6時間以上あったので広いシンガポール・チャンギ空港内をジョギングしながら疫病に対する免疫力を高めようとしていた。

5月2日(土)

移動手段と宿泊設備を兼ねた機内で12時間以上過ごした後、午前6時過ぎにフランクフルト国際空港に到着した。早速ルフトハンザ航空LH3300便に乗り換え、1時間半程のフライトでポーランドの首都ワルシャワに午前9時半前に到着した。ワルシャワ・オケンチェ国際空港到着ビーには何人かの花を手に持った輩を見かけたのだが、ポーランドでは友人や家族と再会するときには花を贈るという文化があるためだ。

市バス(PLN2.8)で30分程かけてワルシャワ旧市街にやってきた。旧王宮の前で何らかのセレモニーが行われている様子で吹奏楽隊による演奏と大砲が高らかに打ち鳴らされ、あたかもFTBの東欧進出を祝っているかのようだった。ワルシャワ歴史地区は世界遺産に登録されており、その中心である旧市街市街広場に迷い込んだ。広場の中央には勇猛そうな人魚像Pomnik Syrenkiが剣を振り上げ、来る者を威嚇するかのように虚勢を張っていた。周囲には馬車の列や露天の画商やカフェが並び周囲を取り囲むカラフルな建物群とのコントラストによりマサに観光客を中世にタイムスリップさせてくれるのである。

旧市街を抜けてしばらく歩いているとふとイボイボを持つ緑の細長い野菜のことが頭に浮かんだので目の前の建物に目をやるとそこは現在博物館として公開されているキュリー婦人の生家であった。今日は何かの祝い事のために休館だったため、中に入ってラジウムの研究は出来なかったので帰国して糠床をかき混ぜて一夜漬けでキャッチアップしなければならないと思われた。キューリが萎んでしまった感覚を引きずったまま、ワルシャワ蜂起45周年を記念して1998年8月に建てられたワルシャワ蜂起記念碑にお参りすることにした。第二次世界大戦の末期にドイツ軍に対して一斉に蜂起したワルシャワ市民であったが、ソ連軍の援軍が得られなかったため、蜂起は水分の無くなったキューリと同様に次第に力を失い、20万人の死者を出した挙句にほとんどの市街を破壊され、10月2日に降伏を余儀なくされたその苦しみや無念さが兵士達の像から伝わってくるかのようだった。

旧市街の北にバルバカンという15~16世紀に造られたバロック様式の砦があるのだが、これは火薬庫や牢獄として使われていたファシリティで第二次大戦で破壊された後、1954年に見事に復元を果たしたそうだ。コンパクトな造りながらワルシャワの歴史をわかりやすく展示しているワルシャワ歴史博物館(PLN8.-)で破壊と再生について考えさせていただくことにした。第二次大戦時にドイツによって破壊の限りを尽くされたワルシャワの様子が写真と記録映画に残っているのだが、戦後首都の復興にかける市民の情熱が壁の割れ目1本にいたるまで忠実に再現して都市を見事に復元させてしまった様子にポーランド人の心意気を感じずにはいられなくなるのだった。

かつての王の住居であり、国会や大統領執務室として、また士官学校や国立劇場がおかれるなど、文化、政治、経済の中心であった旧王宮(PLZ22.-)を見学することにした。ここも第二次大戦により破壊されたのだが、「王の広間」にあった最も価値の高い調度品は美術史家、復元専門家等の手で国外に持ち出されていたために難を逃れていたのが幸いしてバロック様式の建物の内部は1596年にポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジムグント3世の時代そのままの様子を今も伝えているのだ。

王宮広場から南へ伸びるクラクフ郊外通りはかつて「王の道」と呼ばれた美しい建物群が林立する通りである。大統領官邸とワルシャワ大学を過ぎると今まで誰も異議を唱えることがなかった常識を疑ってみたくなるような感覚を覚えるのだが、そこには地動説を唱えたコペルニクスの像が地蔵のような頑固さで固まっているのだった。尚、コペルニクスはワルシャワ西北180kmにあるトルンの出身だそうだ。通りにビール、ハム・ソーセージやパンなどを売りつける屋台が展開されていたのでとりあえずビールと食パンにバターとキューリをなすりつけたものを買い食いして空腹を満たした後、今日の宿泊先であるシェラトン・ワルシャワ・ホテル&タワーズに荷物を置いてワジェンキ公園に向かった。

ヨーロッパで最も美しい公園のひとつに数えられ、ワルシャワ市民の自慢の種でもあるワジェンキ公園でまず観光客の目を引くのはアールヌーヴォー様式のしだれ柳の傍らに腰掛ける地元ポーランド出身のショパンの像である。また、17世紀末に当時のポーランド王ヤン3世ソビエスキが建てた夏の離宮であるヴィラヌフ宮殿の周りでは放し飼いにされている孔雀がジュディ・オングのようにその美しい羽を広げて観光客の目を引き付けるのに一役買っていた。

Centrumというワルシャワ中央駅周辺地域は近代建造物が林立しているのだが、中でも文化科学宮殿は高層建築の少ない調和の取れたワルシャワの町にはまるで似つかわしくない権威主義的な建物で「ソビエトの建てたワルシャワの墓石」などと呼ばれており、贈り主のスターリンも草葉の陰で余計な事をしたしまったと後悔の念に苛まれているはずである。

5月3日(日)

早朝文化科学宮殿前で客待ちをしているタクシーでぼったくられることなく空港に戻り、LOTポーランド航空LO3907便プロペラ機に乗り込むと1386年~1572年までポーランド王国の首都として栄えた古都であるクラクフまでひとっ飛びで移動し、ヨハネ・パウロ2世・クラクフ・バリツェ国際空港からシャトル列車に乗り換えてクラクフ本駅に到着すると午前10時35分発のオシフィエンチム行きのバスに乗り込んだ。

マサよ、君はホロコーストの現実を目の当たりにして、ホロホロと涙をこぼすほどの衝撃を受けたことがあるか!?

ということで、乗客を収容したバスは1時間半程の時間をかけてクラクフの西54kmのところにある町オシフィエンチムの郊外にあるドイツ名「アウシュヴィッツ」に到着してしまったのだ。人類の負の世界遺産として登録され、現在博物館(入場無料)として一般公開されているアウシュヴィッツ強制収容所は人類が犯した過ちを永遠に記憶にとどめなければならない重要な場所として位置づけられている。

早速インフォメーションセンターで日本語の資料を購入すると収容所跡の見学をさせていただくことにした。収容所の入り口であったゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という文字がむなしく掲げられており、収容所のシンボルとなっている。内部には28棟の「囚人棟」があり、そのうちの15棟が博物館として公開されているのだが、特に見学者の目を引くものはこの囚人棟で行われていたナチスによる戦争犯罪の動かぬ証拠である。

5号棟では、ナチスが連行した人々から没収した衣類、靴、トランク、さらには遺体から取り外された義足、義手やメガネ等が山積み展示されており、また、ガス室で「チクロンB」という明らかにアリナミンAやリポビタンDといった滋養強壮ドリンクとは異なる劇薬により大量殺戮された囚人たちから切り取られた膨大な量の髪の毛やそれらを使って織られたカーペットがホロコーストの壮絶さを無言で語っていた。尚、チクロンBは気化しやすいため、密閉していた空缶の多さからも当時の常軌を逸した愚行が伝わってくるかのようだった。

「死のブロック」と命名された11号棟は、内部までほぼ当時のままの姿をとどめており、臨時裁判所、監禁室、鞭打ち台、移動絞首台、飢餓室、立ったまま身動きが取れない立ち牢などが残されている。10号棟と11号棟の間にある壁は「死の壁」と呼ばれ、何千人もの人が銃殺に処された場所で多くの花束が手向けられていた。

囚人の数が増大すると同時に、収容所地域も拡大していった。そして、収容所というよりもむしろ巨大な殺人工場に変貌を遂げていったアウシュヴィッツは1942年にはオシフィエンチムから3km離れたブジェジンカ村にビルケナウと呼ばれるアウシュヴィッツ2号をオープンさせた。その収容所の面積は約175ヘクタール(約53万坪)で、300棟以上のバラックがあった。

ビルケナウの正門は囚人から「死の門」と呼ばれ、中央衛兵所の棟からは全体が見渡せるようになっており、その下には100万人以上の囚人を運んだ鉄道の引込み線が不気味な静けさで収容所の奥まで伸びているのだ。いくつか残っている木造バラックの中には3段ベッドが設えられており、囚人は衛生状態が悪い腐った藁の上で寝かされていたため、疫病が蔓延していたという。

鉄道の引込み線の終点にはナチス政権下犠牲者国際記念碑が建てられており、その両隣にナチスが撤退する際にホロコーストの証拠隠滅のために爆破解体したガス室・焼却炉がその不気味な残骸として観光客の恐怖を煽っているかのようであった。当時は汽車で到着したユダヤ人はシャワーを浴びさせると騙され、洋服を脱がされて、シャワー室に見せかけた地下の部屋まで歩かされた。210平方メートルの部屋に約2,000人が押し込まれ、扉を閉じてから、天井の穴からチクロンBが投入されると中の人間はものの15分で窒息死してしまうのだ。

アウシュヴィッツで戦時下における人間の狂気によって犯される愚行の結末を学んだ後、バスでクラクフに帰ることになったのだが、最終便のバスが満席だったため、立ち牢に収容された感覚を引きずりながら1時間半の擬似囚人体験を満喫することが出来た。

5月4日(月)

アウシュヴィッツ訪問のゲートウエイシティとなっているクラクフであるが、「ワルシャワが東京とすればクラクフは京都」とも例えられる歴史的な町並みは、1978年に世界遺産に登録されているのでついでにクラクフの観光もしておくことにした。

まず最初に1498年に建立された重厚な円形の砦であるバルバカンをちら見させていただいた後、中世から残っている広場としてはヨーロッパ最大を誇る中央市場広場に迷い込んだ。広場の中央には織物会館と呼ばれる14世紀に建立されたルネッサンス様式の堂々たる建物が君臨している。会館内には土産物屋が数多く並んでおり、織物だけでなく民芸品やアクセサリー屋もぎっしり並んでいる。中央市場広場に面する聖マリア教会は1222年に造られたゴシック様式の大きな建物で内部は恒例のステンドグラスや芸術品で美しく演出されているのだ。

クラクフ旧市街の南の外れ、ヴィスワ川のほとりの高台に歴代ポーランド王の居城として名高いヴァヴェル城がそびえている。その南の麓の川べりに近いところに龍に関する勧善懲悪の伝説が残されている「龍の洞窟」があり、人々を威嚇するようにチープな龍の銅像が定期的に火を噴きやがっていた。

登城道を登り、城門をくぐると3つの礼拝堂をもつヴァヴェル城大聖堂(PLZ10)の存在感に圧倒されることになる。1320年にゴシック様式で着工されてから、数世紀にわたってルネッサンス様式やバロック様式が加えられた大聖堂はクラクフからワルシャワへの遷都後の18世紀まで歴代ポーランド王の戴冠式が行われていたファシリティである。北側のジグムント塔には1520年に鋳造されたポーランド最大の鐘が吊るされており、宗教上および国の特別な行事の際にもったいぶって鳴らされるといわれている。尚、この鐘は釘を一切使わずに木だけを使って組み立てられた周囲8mの台にインストールされているのだ。

16世紀初頭にジグムント王が建てたゴシックとルネッサンスの複合様式のヴァヴェル城旧王宮の内部は博物館になっており、今日は宝物・武具博物館と古いヴァヴェル城遺構が特別に無料公開されていたので存分に満喫してから下城させていただいた。道行く途中で前ローマ法王のヨハネ・パウロ2世の記念碑を崇めた後、ヤギェウォ大学に入学した。1364年にポーランドで最初に創立されたこの大学はコペル・ニクスやヨハネ・パウロ2世といったそうそうたるOBを抱えており、成績優秀であったはずのヨハネ・パウロ2世は回りの学生から「ほ~お~」と常に感心されていたそうだ。

再び中央市場広場に戻り、旧市庁舎の塔の前で打ち首にされていた巨大な銅像の雁首の意味を理解できないままクラクフ本駅から列車に乗り、ヨハネ・パウロ2世・クラクフ・バリツェ国際空港に帰って行った。LOTポーランド航空でワルシャワを経由して春まだ浅い寒気を感じるチェコのプラハ・ルズィニェ空港に到着したのは午後7時半を過ぎた時間であったので空港に付属しているホリデーインホテルにマサであればEURO85くらいかかるところをIHG ANAホテルポイントを使ってただで宿泊し、しばしプラハの春を待つことにした。

5月5日(火)

1992年に世界遺産に登録されたプラハ歴史地区解明の第一弾としてそのシンボルとも言うべきプラハ城に登城する朝を迎えた。ヴルタヴァ川の西岸、小高い丘フラッチャニにそびえる聖ヴィート大聖堂の威風堂々とした外観に度肝を抜かれながらも気を取り直してチケットA(CZK350)を購入すると早速その内部をくまなく探索することにした。この大聖堂はもともと930年に建造されたロトンダ(円筒型のシンプルな教会)から端を発し、14世紀のカレル4世の時代に現在のような堂々たる建物に改築され始めたそうだ。建築は1420年まで続き、その後もバージョンアップが繰り返され、最終的な完成を見たのは20世紀に入ってからのことであった。

聖ヴィート大聖堂で胸のビートが高鳴り、目眩を感じたので旧王宮で応急処置をすることにした。ヴラディラフホールは完成当時はヨーロッパ最大のホールで梁が肋骨上の模様となっているアーチ型の天井が印象的である。またこのホールに付属しているバルコニーからはプラハ市街眺望が堪能でき、何とか胸の鼓動を正常に戻すことが出来た。

聖ヴィート大聖堂と旧王宮の間を通り抜けるとイジー広場に出た。その北面にはロマネスク様式の2本の白い尖塔を持つ聖イジー教会が920年に完成したのち、現在まで維持~されている現実を目の当たりにした。チケットAには「プラハ城についての展示」と国立博物館の入場券も含まれているのでそれらを軽くこなしてプラハ通に成り上がった後、色とりどりの小さな家が並んだおとぎ話のような世界である黄金小路に迷い込んだ。ここは元々1597年に出来たもので当時は城に仕える召使いなどが住んでいたという。黄金小路に建ち並ぶ家々の2階はすべてつながっており、中世の武器や甲冑が展示されているのだが、実写版「科学忍者隊ガッチャマン」のような仮面が来る人すべてに♪だれだ だれだ だれでゃぉ~♪と子門真人よろしく問いかけているかのようだった。

黄金小路を♪命ぅを~ かけてとびだせば~♪そこはダリボルカと呼ばれる塔であり、中世には牢獄として使われていたファシリティだった。さらに真反対の城の正門に回りこみ正午からの衛兵の交代式に参列させていただいた。建物の窓に陣取った音楽隊のファンファーレと共に衛兵の行進がスタートし、無表情のまま粛々と式は進行し、滞りなく業務の引継ぎが完了する瞬間を目の当たりにすることが出来た。

正門の前の広場ではにわか専門的クラシックパフォーマーがスメタナの交響詩「我が祖国」で有名なヴルタヴァ(モルダウ)の美しい旋律で観光客の足を止めさせていた。城の高台から下界に降りる道すがら、プラハの建物のオレンジ色の屋根が醸しだす小奇麗な景色を十分堪能させていただいた。HILTONHHONORSのポイントが余っていたのでマサであればCKZ2,500くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るヒルトン・プラーグホテルにチェックインするとガラス張りの天井まで吹き抜けになっている広々としたロビーを抜けてどんより曇ったプラハ旧市街に繰り出すことにした。

プラハでひときわ豪華な装飾が施された建造物があるのだが、これは市民会館で内部には音楽祭「プラハの春」の会場となるホールが内蔵されており、プラハ市民はこの会館で快感に浸れるようになっているのだ。旧市街に到着すると緑青グリーンでコーティングされたヤン・フスの銅像が目に飛び込んできた。「フ」に濁点がつくと女性からの指示が得られなかったであろうフスは15世紀における宗教改革の先駆者で腐敗したローマ教会を厳しく批判した結果、火あぶりの刑に処せられ、それが彼のカリスマ性にも火を付けフス派と呼ばれるフスの信奉者たちは以後カトリック教会と激しく戦うこととなったそうだ。

広場の東に2本の塔を天に突き刺している教会が1135年に建てられたティーン教会であるが、中に入ることが出来ないのでそれに対抗するかのような存在感を示している旧市庁舎に足を向けた。元々は塔の横にも建物があったそうだが、第2次大戦中ナチス・ドイツにより破壊されてしまったそうだ。午後3時近くになると旧市庁舎塔の側面の下におびただしい数の観光客が群れをなしてきた。何事かと思って目を上げると神秘的な造形の天文時計が壁にインストールされていることが確認され、しかも3時の時を告げるタイミングで仕掛けが動き出し、キュートなガイコツ君が鳴らす鐘の音と共に窓から12人の使徒が財務省の使途不明金を批判するかのように順番に現れ、最後は時計の一番上に現れる鶏が鳴いてあっけなく終了したのだった。

旧市街で白い壁がひときわ輝いている聖ミクラーシュ教会で午後5時からのコンサートの案内ビラが配られているのを確認した後、ヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の美しい石橋であるカレル橋に向かった。この橋は14世紀後半から15世紀の初めにかけて、カレル4世の時代にゴシック様式で建造されたもので、全長520m、幅は約10mもある。カレル橋の上では常に世界各国からの旅行者があふれ、、ストリートパフォーマーや土産物屋で枯れるどころか大変な賑わいを見せている。橋の欄干には左右15体づつ、合計30体の聖人像が配置されており、その中で聖ヤン・ネボムツキー像のレリーフに触れると幸運が訪れるということで触れられた部分は不自然な輝きを放っていた。

建築博物館とも称されるプラハであるが、新市街にもいくつか特徴的な建造物がある。プラハ随一の繁華街となっているヴァーツラフ広場は、大通りといったほうがむしろ似つかわしい感じでその頂点には国立博物館が堂々と立ちふさがっている。国民劇場は「チェコ語によるチェコ人のための舞台を」というスローガンの下に集められた国民の寄付などで1881年に完成したチェコ人が自らのアイデンティティをかけたチェコ文化復興の象徴たる劇場である。多くの国際列車が発着するプラハ本駅はアールヌーヴォー様式で装飾された華麗な丸天井が特徴的であるが、残念なことに地下の男子トイレが使用禁止になっていたのだった。

5月6日(水)

♪ボヘミア~ァァァン や~ぶれか~けの タ~ロット投~げて~ 今宵もぉぅぉぅぉぅ あなたの行方占ったひ~と~♪

というわけで、プラハから東へ65km、中部ボヘミアに位置する都市クトナー・ホラに葛城ユキ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E3%83%A6%E3%82%AD)の幻影を求めてバスで1時間半程の時間をかけて行って見ることにした。13世紀に銀鉱山の町として栄え、当時はボヘミア地方第2に都市だったクトナー・ホラは16世紀に銀が枯渇して衰退するまでの栄光が町の至る所に残っており、その歴史都市は世界遺産に登録されているのだ。

クトナー・ホラで圧倒的な存在感をもってそびえる聖バルバラ聖堂(CZK60)の名前になっているバルバラは坑夫の守護聖人であり、建設資金のほとんどがカトリック教会ではなく市民たち自身によって調達されたと言われている。この大聖堂は1338年に建設が開始され、1558年にひとまずの完成を見ている。その後も改修が続けられ、17から18世紀にはバロック様式の影響も加わっている。聖堂の内部をよく観察すると17世紀頃の民族衣装を着けランタンを掲げた坑夫の像、貨幣鋳造職人たちのフレスコ画などが見られ、坑夫たちの気休めのために建てられたという歴史を雄弁に物語っているのだ。

聖バルバラ聖堂を出て小ぶりながら造形美が特徴的な石の泉をちら見した後、ファサードの精巧なレリーフが印象的な石の家(CZK40)に立ち寄った。この石の家は田中邦衛が富良野に造ったものとはレベルが違い、内部は博物館にもなっており、クトナー・ホラの美術や工芸品が展示されているのだ。

昔の銀鉱山の跡をガイドツアーで見ることが出来るフラーデク鉱山博物館の14:30のツアー(CZK110)に首尾よく潜り込むことが出来たので財務省を凌駕する錬金術を身に付けるために参加させていただくことにした。尚、ガイドはチェコ語のみで行われるため、英語の説明資料を拝借してまずは試し堀り系の穴を軽く見学させていただき、その後大きな木製粉砕機がインストールしてある建屋でオリエンテーションを受けることになった。

雨と水滴が染み込んだ白い作業着とヘルメットを見に付けさせられ、1人1個の電池寿命が長そうな懐中電灯を手渡されていよいよ地下の坑道跡のツアーがスタートすることとなった。肥満人間にダイエットの必要性を実感させるような狭い坑道をあるときは身を屈めながら進み、ところどころでチェコ語ガイドの理解することの出来ない説明を加えながら銀の採掘がいかに大変な作業であったかを身を持って体験することに成功した。坑道を出ると銀の製錬や硬貨の鋳造現場を人相の悪い人形で再現した展示室での説明を持って1時間半にもおよぶツアーは幕を閉じたのであった。

5月7日(木)

昨晩宿泊した1952年~54年に建立されたアールデコ様式の建物を利用したクラウン・プラザ・プラーグをチェックアウトするとトラムと地下鉄を乗り継いで旧市街に舞い戻ってきた。「百塔の町」と称されるプラハの遠景を自分の目とデジカメのSDメモリーに焼き付けるためにCZK100を支払って旧市庁舎の塔に這い上がることにした。高みよりプラハの市街を見下ろしていると1968年に旧チェコスロヴァキアで始まった政治改革である「プラハの春」や1989年に共産党政権が無血革命で崩壊した「ビロード革命」の場面が走馬灯のように流れていくような妄想に駆られていた。

ユダヤ人と言えば苦難の歴史がつきものだが、ユダヤ教徒が住むことを許された一定の地区はゲットーと呼ばれ、他とは隔離された地域に密集して住んでいた。プラハでは旧市街広場のすぐ北にユダヤ人地区が歴史の重みを背負ったまま観光地化されているので少しでもその苦難を理解するために足を踏み入れることにした。早速ユダヤ博物館のセットチケット(CZK300)を購入するとまずはピンカスシナゴーグに侵入した。尚、シナゴーグとはユダヤ教徒の祈りの家や教会を指すファシリティでこの地区には多くのシナゴーグ(内部写真撮影禁止)が存在しているのだ。

ピンカスシナゴーグの内部の壁一面にナチスに殺害されたユダヤ人およそ8万人の姓名とその死亡場所および死亡年月日がびっしりと書き連ねられているのだが、この地区にはドイツ占領下の各国からユダヤ人が狩り集められ、ここからさらにアウシュヴィッツのような強制収容所へ転送されたという。ピンカスシナゴーグを出ると旧ユダヤ人墓地の入り口につながっている。1万2000墓もの石板状の墓石が無造作に放置されているように感じるこの墓地は一種異様な雰囲気を醸し出しているのだが、1787年にこの墓地はキャパ不足であると思われる理由で廃止され、以後新しく埋葬された者はいないそうだ。

旧ユダヤ人墓地の出口の近くに儀式の家がオープンしている。この建物はもともと儀式のためのホールであり、遺体置き場でもあったそうだが、現在はユダヤの伝統や生活習慣、なかでも病気や死生観、墓についての情報が満載されている。その後クラウスシナゴーグ、マイゼルシナゴーグの見学を立て続けに行い、スペインシナゴーグではユダヤ民族の歴史に関する展示も確認した。中でも第二次大戦中に「JUDE」のバッジをつけさせられたユダヤ人の写真が何か大切な物を語りかけているかのようであった。

旧新シナゴーグ(CZK200)がユダヤ人地区で別料金を徴収し、独立した存在感を漂わせているので現役シナゴーグとしての機能に敬意を表してお邪魔させていただくことにした。1270年頃に建てられたゴシック建築のシナゴーグはヨーロッパ最古の物でもともとは新シナゴーグと名乗っていたのだが、16世紀以降新しいシナゴーグが林立しやがったため、このような回りくどい名前になってしまったのだ。内部には16世紀のラビ(ユダヤ教の司祭)レウが使ったと言われるイスや、ダビデの星が中央に描かれたユダヤ紋章旗などが目を引いた。

これまでのツアーでポーランドやチェコにおけるユダヤ人の虐殺に対して言いようのない憤りを覚えたのでナチスのご本尊であるベルリンに乗り込むことが決断された。その前にくすんだ黒が独特の存在感をかもし出す火薬塔で火薬を入手すべく塔の頂上(CZK70)まで登ってくまなく探したのだが、見つかったのはプラハ市街の絶景だけであった。

プラハ・ホレショヴィツェ駅というベルリン、ワルシャワ、ブタペストなど旧東欧諸国の国々とを結ぶ列車が発着する駅から12時40分発のドイチェ・バーンの列車を転がして、4時間半もの時間をかけてドイツの首都ベルリンまでやって来た。思えばナチスのヒットラー、ガミラスのデスラーから総統の職務を引き継いだ私にとってベルリンは約束の地でもあったのだ。列車は定刻17:20にベルリン中央駅であるBerlin Hauptbahnhofにすべりこんだ。到着後は右も左もわからない状態であったため、とりあえずベルリンとその近郊の乗り物がすべてフリーパスになるBerlin Welcome Card72時間有効分をEURO25で購入し、Sバーン(近郊列車)とUバーン(地下鉄)を乗り継いで今日の宿泊地であるヒルトン・ベルリン近くの駅に降り立った。

ホテルにチェックイン後、Berlin Welcome Cardに支払った大金の元を取るために、夕暮れ時のベルリン市街を軽く散策することにした。ユダヤ人の虐殺に対して憤懣やるかたない気持ちを引きずって町を歩きはじめたのだが、市の中心部にHolocaust Mahnmalという虐殺されたユダヤ人を追悼するメモリアルを目の当たりにした瞬間にドイツ人がどいつもこいつも反省している気持ちが伝わってきたので許してやることにした。その近辺にはブランデンブルク門という東西ドイツ統一の象徴がそびえているのだが、かつてはここに近づくことさえ許されなかったという。事実ドイツ自身も戦争による被害を被っているので東西分断から統一への歴史も解明していく必要性があらためて認識された。

ドイツ連邦議会議事堂が午後10時まで屋上にあるガラス張りの中央ドーム内部の見学を無償で提供している事実が判明したので30分の入場待ち時間をやり過ごし、金属探知機を通過後エレベーターで屋上に向かった。中央ドームには螺旋階段が巡っており、頂上では吹き抜けになった天井から青空が覗いていた。多くの観光客は寝転がりながらどいつもこいつもボケ~と空を見上げていやがった。尚、頂上は当然のことながら360度の展望を提供しており、無償パンフレットによるOutlooksの説明のフォローアップ体制も出来ているのだ。

5月8日(金)

昨晩ドイツ人のユダヤ人虐殺の反省の気持ちが形になっている現実を確認出来たので、早く戦争を終結させるためにベルリンからSバーンに乗り30分程で到着するポツダムに向かった。ベルリン近郊にはいくつかの宮殿が残っており、ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群はユネスコの世界遺産に登録されている。まず手始めにフリードリヒ大王が愛したサンスーシ宮殿(EURO12)から攻めることにした。サンスーシとは憂いのないという意味で、各国の観光客が見学中に憂いを感じないようにチケット売り場で各国語に対応したオーディオガイドを貸与する仕組みになっている。ガイドから流れる回りくどい日本語の説明に耳を傾け、フリードリヒ大王の執務室や彼が敬愛したヴォルテールの部屋をふくらはぎを伸ばしながら見た後、宮殿まで段々になっている庭園を経由して大きな風車がゆっくり回っているファシリティまで到着するとお約束の正装したパフォーマーがフルートを吹いていた。

ポツダムくんだりまで来てポツダム宣言を受諾しなければ「耐えがたきを耐え」てきた日本国民に申し訳ないと思ったのでポツダム宣言が採択されたツェツィーリエンホーフ宮殿(EURO8)まで足を伸ばすことにした。20世紀の初めに建てられたこの宮殿はホーエンツォレルン家最後の王子、ヴィルヘルムが家族と住んでいたところであるが、スターリンがポツダム会議の会場としてこの場所を選んだという歴史的事実によりそんな王子のことはどうでもよくなったのである。お約束のオーディオガイドでセルフツアーを進行させていると宮殿の各部屋がソ連や各国の控室になっていたりした等の歴史的事実が臨場感のあるものとして伝わってきた。特にメイン会議室ではテーブルに各首脳国の国旗が立っており、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長をはじめ各国の外務大臣や通訳の席順が示されており、ドイツの民主化という大義名分のもと、交渉を有利に運ぼうとする緊張感も現場に残されていた。

ポツダム宣言の受諾により戦争を終結させ、心の平穏を取り戻すことに成功したのでベルリンに戻りMuseumsinselと呼ばれる博物館の島に向かった。ベルリン大聖堂に見守られたこの島にはボーデ美術館や旧博物館等、その外観だけでも見ごたえのある建造物も多いのであるが、その中で展示品のスケール感に圧倒されるペルガモン博物館(EURO10)に入場することにした。

博物館の名前となっているペルガモンは現在のトルコにあり、そこからはるばる運ばれた祭壇には外側に様々なレリーフが施されている。その中でもひときわ有名な物は伝統の一戦であるはずの「神々と巨人族のレリーフ」であろう。この状況は日本における阪神・巨人戦で巨人が11連勝しているように巨人族が神々を圧倒しているように見受けられた。伝統の一戦の他にもミレトス市場の門、バビロンのイシュタール門といった甲子園球場並みの非常に規模の大きな遺跡が所蔵されており、鐘やラッパやジェット風船に依存しなくても観客は十分に興奮のるつぼに陥ってしまうのだ。

ペルガモン博物館を完封した後、SバーンとUバーンを乗り継いでシャルロッテンブルク宮殿に到着したのだが、延長12回時間切れ引き分けのため、もはや中に入ることが出来なかったのでその外観だけを記録にとどめておくことにした。さらにUバーンを乗り継いでKaiser Wilhelm Memorial Churchに到着した。この教会は戦争の恐怖を記憶に焼き付けておくため、あえて爆撃された当時の状況そのままに放置されているように見受けられた。

マサよ、君は近代的なビルや歴史的建造物が林立するこのベルリンはかつて「壁」というもので東西に分断されていたという歴史的事実におののいたことがあるか!?

ということで、1989年も暮れかかり日本のバブルがピークを打った頃、大和証券の優秀な若手営業マンであった私は巨額のコメルツ銀行株やダイムラー・ベンツ株の注文をさばき、その功績により外国株式部よりドイツ製の名刺入れを授与された実績があるのだが、その時がマサにベルリンの壁崩壊のタイミングであったのだ!ベルリン市内には現在でも壁の残骸を各所に残しており、当時の壮絶な状況が今に伝えられている。中でも「チェック・ポイント・チャーリー」と呼ばれるポイントは東西両陣営の対立を象徴する検問所であり、幾度にもわたってデモの舞台となっているのだ。

「チェック・ポイント・チャーリー」の目の前に「壁」の博物館(EURO12)が立ちふさがっているので人生の壁を越えるための何かのヒントが得られることを期待して入ってみることにした。1961年8月13日、西ベルリンは旧東独武装部隊によって完全封鎖され、「壁」の敷設が始まり「西ベルリン包囲網」の全長は155kmにもおよんだ。館内の展示では地下を掘って西側へ脱出する人々のフィルムやフォルクス・ワーゲンのトランクの奥に隠れて検問を突破しようとして見つかってしまうテクニックやハング・グライダーやチープな飛行船を使って壁を越える等、失敗を恐れず命がけのチャレンジの歴史が所狭しと示されているのだ。また、破壊された壁の残骸はまだふんだんに在庫してある様子で博物館付属のショップでカプセルに入れられて販売されていた。

この歴史的事実を目の当たりにして、日本においても戦後東西両陣営に分割され、マサの居住する埼玉県浦和市を含む東日本は「ソ連邦ジャポニカ連合共和国」として統治されていたかも知れないと思うと消費税アップぐらいではおちおち文句を言うことは出来ないと思われたのも事実である。 

5月9日(土)

昨夜の宿泊先であったウエスティン・グランド・ベルリンの前に置いてあるベルリンの壁の残骸に別れを告げるとUバーンとバスでベルリン・テーゲル空港に向かった。空港に向かう道すがらBerlin Welcome Cardに支払ったEURO25の元を取ることが出来なかった後悔の念を飲み会で割り勘負けしたときの損失と比較検討していた自分に気づいていた。

旧東ドイツ陣営のせいかドイツの首都のわりにはチープなベルリン・テーゲル空港からルフトハンザLH179便にてフランクフルト国際空港に帰ってくると数時間後にはシンガポール航空SQ25便の機上の人になっていた。機内で「K-20怪人二十面相・伝」を見ながらグリコ・森永事件の犯人である怪人21面相こと、きつね目の男は実は着ぐるみに身を包んだ東山紀之でジャニーズ事務所の圧力によりもみ消されたのではないかという心配に駆られてしまい眠ることが出来なかった。

5月10日(日)

午前6時過ぎにシンガポール空港に到着し、その2時間後にANA112便に乗り換え、午後4時半過ぎに成田に到着。検疫で黄色い紙をもらった後、空気中に浮遊しているはずの豚インフルエンザ・ウイルスを避けながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥68,850、シンガポール航空 = S$1,899、ルフトハンザ・ドイツ航空 =  ロト・ポーランド航空 = PLN664.99

総宿泊費 PLZ693.12, CZK2,300.-, EURO269.-

総ポーランドバス代 PLN22.8 (PLN1 = 約¥29.-)

総ポーランド鉄道代 PLN15.-

総ポーランドタクシー代 PLN31.-

総チェコバス代 CZK162.- (CZK1 = 約¥5.-)

総チェコ地下鉄、トラム代 CZK78.-

総鉄道代 CZK1,133.-

協力 ANA、シンガポール航空、ルフトハンザ・ドイツ航空、ロト・ポーランド航空、HILTONHHONORS、SPG、IHG ANAホテルズ

FTBもっとも北の国からフィンランド、ロシア(サンクト・ペテルブルグ)

あ”~あ”~あ”あ”あ”あ”あ”~

マサよぉ、君は見知らぬ北の大地で2人組のスリの集団にあやうく身ぐるみはがされそうになるところを何とかデジカメ1台の被害で食い止めたことがあるか!?

私は・・・・・あ”る!!!

ということで、今回は満を持してFTBに導入されたペンタックスの最新デジカメOptio W60がスリの被害に遭ってしまった(詳細は後述)ため、FTBオリジナル画像なしでのレポート作成を余議なくされてしまったわけで。

2008年7月19日(土)

ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!

ということで、燃料サーチャージの高騰の影響もあってか成田空港は連休の初日にもかかわらず閑散とした雰囲気で特に欧米行きの旅行客は少ない様子であった。その恩恵を受けたのかどうかわからないが、恒例のビジネスクラスへの無条件アップグレードを受けることが出来たので早速午前11時25分発のANA205便に乗り込みパリのシャルル・ド・ゴール空港に向かった。

パリからフィンランド航空に乗り換えて♪森と~泉に~か~こ~まれた~♪ヘルシンキに到着したのは夜の11時前であったのだが、西の空に残っている夕日を背にしながら空港に隣接しているヒルトンホテルにチェックインし、深夜に日が沈んだことを確認した後、ベッドに沈み込んだわけで。

7月20日(日)

空港のヒルトンホテルをチェックアウトすると空港バス(EURO5.9)でヘルシンキ市内に向かった。ヘルシンキ中央駅でバスを下車すると早速ヘルシンキの観光と洒落こんだ。ところで、NOKIAを要するモバイル王国フィンランドでNTTドコモの携帯を持っていると「のき~やぁ~」と締め出される恐怖感を覚えるかと思ったが以外と町中で携帯で話をしている市民は少なかったのだ。

フィンランドの最も有名な建物として白亜のヘルシンキ大聖堂がそびえており、その前の広場には数多くの観光バスが一時停車していた。ヘルシンキの中心街は波止場に面しており、マーケット広場というヘルシンキで最も国際色豊かでかつ有名な市場では数多くの露店が立ち、食料品や手工芸品が高値で取引されていた。

マーケット広場からフェリーに乗り、世界遺産に登録されているスオメンリンナ要塞に侵入した。スオメンリンナは、世界でも大きく、歴史ある要塞のひとつで1700年代、6つの島に建てられた駐屯地の街はフィンランドでも人気の高い名所のひとつとなっている。ここはスウェーデン・ロシア戦争、クリミア戦争などで重要だった要塞で、その名残として潜水艦や大砲が展示されている。

また、かつて戦艦を建造したドックやビジターセンター内にある博物館も見ごたえがあり、850人の居住民の生活さえおびやかさなければ子供からお年寄りまでみなで楽しむことが出来るのだが、宴会後のビールの缶やワインのボトル等のゴミは各自持ち帰るべきだと思われた。

2時過ぎにフェリーでマーケット広場に戻り、小腹がすいたので露店で鉄板焼きにされているWhite Fish(EURO6)を食うことにした。イワシ系のWhite Fishは頭からしっぼまで骨ごと食える魚で物価が高すぎることさえ頭をよぎらなければ非常に満足のいく食い物となるのである。

テンペリアウキオ教会という自然の床岩を切りだして作られた別名ロックチャーチと言われる教会に日曜日のミサが終了した3時半ごろにお邪魔させていただいた。ここはヘルシンキで最も人気のある名所のひとつで、教会の内部の壁は自然石で出来ており、その抜群の音響効果と雰囲気を利用したコンサートの会場としても利用されているわけで。

7月21日(月)

ヘルシンキ中央駅を7時23分に発車するシベリウス号に乗り込み一路ロシアのサンクト・ペテルブルグを目指した。フィンランドの出国、ロシアへの入国手続きはすべて車内で行われたため車外には一歩も出ずに6時間もの時間をかけて午後2時半前に念願のサンクト・ペテルグブルグ、フィンランド駅に到着した。

フィンランド駅から今回の宿泊先である☆☆☆ホテルのサンクト・ペテルブルグホテルまで徒歩で移動し、チェックインをすませ、部屋のショボさに軽く愕然とした後、街に繰り出すことにした。ホテルは観光スポットの少ないネヴァ川の右岸に建っているため、ネヴァ川クルーズを楽しんでいる観光客を見下ろしながらいくつかの橋を渡り、ネヴァ川左岸の観光地帯に侵入した。

サンクト・ペテルブルグの創設者が圧倒的な存在感で君臨するデカブリスト広場(元老院広場)にはピョートル大帝像である「青銅の騎士」がそびえており、婚礼の記念写真を撮っているウエディング軍団やワイングラスを持っていないひげ男爵の扮装をした有料記念写真サービス等で大変な賑わいを見せていた。ピョートル大帝像の南に金色の丸屋根が一際輝いているイサク聖堂が北島三郎の与作と同等の存在感で天を貫くかのようにそびえていたので外観のみ拝観させていただき、その勢いでネフスキー大通りになだれこんだ。

ネフスキー大通りはトルストイやドストエフスキーの作品にも登場するのでロシア文学のファンにはおなじみであるのだが、この通りは19世紀半ばの姿をそのまま残す大通りで非常に見どころが多いのである。また、ネフスキー大通りは3本の運河と交差しており、各運河からは遊覧船が出ており、サンクト・ペテルブルグが北のヴェニスと呼ばれるのも納得するくらいの高値で観光客を乗船させているのである。

ネフスキー大通りに交差する第二の運河であるグリバエードフ運河の近くにかつてナポレオン軍の軍旗が置かれたカザン聖堂が今にも噴火しそうな出で立ちで君臨しており、市民の格好の夕涼みの憩いの場所となっていた。さらに運河沿いを北上すると17世紀ロシア建築様式独特のねぎ坊主屋根が姿を現した。スパス・ナ・クラヴィー聖堂は血の上の教会の異名を持ち、1881年にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された際にロシア全土から募った寄付金によって建てられたわけで。

7月22日(火)

マサよ、君はサンクト・ペテルブルグに来てエルミタージュ国立美術館に来なければサンクト・ペテルブルグに来たことにはならないという不文律を知っているか!?

ということで、世界遺産に指定されているサンクト・ペテルブルグ歴史地区と関連建造物群の中心的存在であるエルミタージュ美術館(P350)に早朝より繰り出したのだが、チケット売り場には10時半開門の1時間前の9時半にはすでに長蛇の列が出来ていた。尚、その長蛇の列は閉館の数時間前まで途切れることはなかったのだ。

長時間の立ち仕事のためにすでに腰のあたりに重さを感じつつ、11時前に何とかチケット(P350)を入手するとバックバックをクロークに預け、エルミタージュの散策をスタートさせた。世界三大美術館のひとつであるエルミタージュのコレクションは、ピョートル大帝の娘エリザヴェータ・ペトロヴナ女帝によって始められ、その後、エカテリーナII世に引き継がれ、収蔵されている絵画、彫像、発掘品などは300万点にも上っている。

エルミタージュ=隠れ家という名前通りに内部は非常に複雑な構造になっており、3階建ての建物の中の展示室は400室にも及んでいる。また、元々は宮殿であったため、帝政ロシアの財力をつぎこみ、全世界から最高級の材料を取り寄せ、一流の職人を投入して作らせた内装と装飾品の数々が展示品と見事なハーモニーを織り成している。エルミタージュで一番の見ものは西欧美術のコレクションであり、マネやモネ、マチス、ゴッホ等の絵画が所せましと並べられている。とある一室ではふとスターバックスに押され気味であるものの新宿や渋谷等で根強く営業している老舗の喫茶店の感覚を覚えた。するとそこには印象派を代表するルノアールの絵画がキャンバス内の美女の笑顔と同等の眩さで観光客を虜にしていたのだった。

入口近くの女子トイレの待ち時間が1時間半であるというとあるツアーコンダクターの戯言を耳にしながら午後3時半過ぎにエルミタージュを後にするとネヴァ川に架かる橋を2つ渡り、遊覧船や戦艦を見降ろしながらペトロパヴロフスク要塞に向かった。チケット売り場で6つのファシリティが見学出来るコンボチケット(P250)を入手すると早速要塞の中心にそびえ立つペトロパヴロフスク聖堂に侵入した。高さ121.8mとサンクト・ペテルブルグで最も高い建築物の中にはピョートル大帝からアレクサンドルIII世までの歴代ツァーリ(ロシア皇帝)が埋葬されているのだ。

1703年5月16日にペトロパヴロフスク要塞の建築が始まったのであるが、くしくもこの日はサンクト・ペテルブルグ誕生の日となっている。湿地帯の島に要塞を築くことは容易ではなかったのだが、迫るスウェーデン軍からロシアを守るために突貫工事で建造されているのだ。尚、函館の五稜郭の見本となったといわれるこの要塞には建物の屋根に遊歩道が設置されており、そこから見下ろすネヴァ川の景色はマサにこれぞ世界遺産と言える代物なのであるわけで。

7月23日(水)

大江戸線の数倍の深さの大深度地下を縦横無尽に走っている地下鉄(P17)のプラットフォームを目指し、果てしなく続くエスカレーターを下り、古い車両のメトロに乗ってヴィチェプスク駅を目指した。そこからローカルの鉄道に乗り換えてサンクト・ペテルブルグの中心から27km程離れたエカテリーナ宮殿に向かった。エカテリーナ女帝の命により、ロシアバロック様式を代表する建築家の設計により1756年に完成した宮殿はおびただしい数の観光客が押し寄せるため、団体客と個人客に分かれて厳格な入場制限が敷かれていたのであった。

宮殿内の内装はそれはそれは見事だと言うことであり、特に2003年に修復なった琥珀の間は世界の奇蹟と賞讃されている代物だそうだが、今回は入場チケットを入手することが出来なかったので琥珀の間でコ~ハク歌合戦を実行し、徳永英明直伝の社会主義が崩壊し、レニングラードからサンクト・ペテルブルグへの変貌を遂げた自由主義の悲哀を綴った「レーニン・ブルー」を熱唱することもままならなかったのだ。しかしながら、宮殿内部への侵入の野望はついえたもののエカテリーナ宮殿の庭園(R180)には何とか潜り込むことが出来たので光り輝く宮殿を背にしながら♪輝きながら♪を口ずさみそれを最後の言い訳として英明には仁義を切っておいた。

午後再びサンクト・ペテルブルグに戻ってくると人類学・民族学博物館(P200)に入場すべく長蛇の列の最後尾にスタンバることにした。1時間待ちでロシア人の倍の外国人料金で何とか入場を果たし、疲れた足腰を引き摺って見学をスタートさせた。ここはエスキモーや正露丸を呑んで日露戦争に打ち勝った日本等のロシアにゆかりの人類学・民族学的展示物が多いのであるが、何故か奇形新生児のホルマリン漬けの展示品が数多く、観光客を好奇と恐怖のどん底に陥れていたわけで。

7月24日(木)

3日間お世話になったホテルサンクト・ペテルブルグをチェックアウトすると今ではすっかりおなじみとなったスパス・ナ・クラヴィー聖堂(P300、カメラP50)の内部を内見させていただくことにした。1881年にロシア皇帝アレクサンドルII世が暗殺された際にロシア全土から募った寄付金によって建立された通称血の上の教会の内部はそれは見事なモザイク画で飾られており、床の大理石の模様も見事に修復されていた。

サンクト・ペテルブルグ到着の初日に外観のみ拝観させていただいたイサク聖堂(P300、カメラP50)の内部に満を持してお邪魔させていただくことにした。高さ100mを超え、収容人数は1万4千人とも言われるロシア正教の聖堂は世界で3番目の大きさを誇り、内部を飾る壁画の数々は聖書の名場面や聖人を描いており、非常に見ごたえのある芸術作品となっている。

イサク聖堂の調査を終えた後、宮殿広場に建つ半円形の凱旋アーチを抜け、ネフスキー大通りに向かっていたときに何者かにつけられているような脅迫感を覚えたので100mくらい注意しながら歩いていた。また、私の斜め前方には携帯電話でしきりにしゃべっている男が私との距離を保ちながら歩いていた。違和感を感じた私がふいに方向転換すると二人はいきなり絵葉書やガイドブックを手に私に襲い掛かり、「ワンダラー、One Dollar」と叫びながら超強引な押し売りに変貌を遂げやがった。何とか身をこなしながら彼らの攻撃を数10秒間にわたって耐え、大通りにエスケープしてしばらくほっとしているとジーパンの左ポケットに収納しているはずのデジカメがなくなっていることに気付いてしまった。通常であれば再び彼らの元に戻り、力づくで盗品を奪い返すところであったのだが、言葉の通じない異国では逆に被害を拡大させてしまう恐れがあるので今回伝家の宝刀「泣き寝入り」を余儀なくされ、涙で濡れた枕もとで藁人形に五寸釘でも打って欝憤をはらすことにした。尚、当然のことながら、旅行先では命と同じくらい大切なパスポートや財布、現金等は何とか防衛することに成功したのだった。

というわけで、旅の記録が詰まったデジカメとSDメモリーを強奪されてしまったたという傷心を抱えて♪あの頃のぉ~ 優しさにぃ 包まれてたぁ お~もいでがぁ 流れてく この町♪をレーニンブルーのメロディーと「もやもや病」を発症した時の徳永英明の感覚を引き摺りながらヘルシンキへの帰途についたわけで。

7月25日(金)

早朝ヘルシンキ中央駅からフィンランド鉄道に乗り、1時間半の時間をかけて湖水地方のタンペレという町にやってきた。午前10時前に予約していたホリデーインに首尾よくチェックインすることが出来たので荷物を置くと早速観光をスタートさせた。

マサよ、君はカルピス子供劇場でおなじみのムーミンがここタンペレで誕生したというトレビアによりわざわざタンペレまで足を延ばさざるを得なかったことがあるか!?

ということで、サンクト・ペテルブルグで発症した「もやもや病」を完治させるためにタンペレ市立美術館ムーミン谷(EURO4)に癒されに行った。ここにはムーミンの声を担当した岸田今日子のナレーションは無いものの原作者のトーべ・ヤンソンによる原画のイラストやムーミンの話に描かれた出来事を表現する立体模型が数多く展示され、おさびし山での寂しさを紛らわすことが出来るにょろにょろしたファシリティとなっている。

♪レーニンブルー も~おぉ~ 終わった は~ずなのにぃ~ レーニンブルー いつまで おいかけるのぉ♪

というわけで、フィンランドの独立に貢献し、ロシア革命の時期に何度もフィンランドに匿われていたレーニンにゆかりのレーニン博物館(EURO5)に♪あなたの まぼろしぃ 消す♪目的で入って見ることにした。受付で日本語の説明ガイドブックを借り、レーニンの生い立ちや社会主義活動を綴ったパネルや展示物を見学していると再び「もやもや病」の症状が再発してしまったために、世界初のスパイ専門の博物館であるスパイ博物館(EURO7)でスパイスを効かせた逆療法を試みることにした。ここでは表の政府よりも世界の歴史に大いなる影響をおよぼしたスパイ達の諜報活動を支えた秘密の道具等が展示されており、よく人質の命と引き換えに要求されるマイクロフィルム等の実物を間近に観察することが出来るのだ。しかしながら、冷戦時代の主流であった盗聴器は今ではホームセンターで購入出来る代物に成り下がってしまっているのが残念である。

タンペレ市内には200湖を超える湖があり、ランチやディナークルーズ等の遊覧船も数多く出ている。しかし、ここでの特筆すべき事実は携帯電話で世界の通信市場を制覇したノキア市が隣接していることであり、実際にタンペレにも数多くのノキアの従業員が高い通信料を払いながら暮らしているという。また、ノキア社やその営業所をめぐるツアーも存在しているとのことで、携帯マニアにはたまらない地域であることは間違いないわけで。。。

7月26日(土)

タンペレからヘルシンキに戻り、ヘルシンキ大聖堂の内部がサンクト・ペテルブルグのイサク聖堂に比べて随分地味であることを確認した後、マーケット市場に乱入し、サーモンスープ(EURO5)を食ってブランチとした。その後、観光客や地元の原住民で賑わうヘルシンキ市街の喧噪を見ながら空港バスでヘルシンキを後にした。

午後4時発のフィンランド航空873便にてパリに戻り、ANA206便に乗り換えて帰国の途についたわけで。。。。

7月27日(日)

午後2時半に成田空港に到着し、そのまま流れ解散。

♪人影も見えない午前零時♪に眠りにつこうとしたが、時差ボケの関係で♪寝たふりが~ こ~んなにつらいことだと~は♪思いもしなかった時、レーニンブルーが実は♪レイニーブルー♪であったことを知り愕然としながら徳永英明への最後の言い訳を考えていたわけで。。。。。。。。。。。。。。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA ¥214,880 フィンランド航空 EURO263.13

総宿泊費 フィンランド EURO 358、ロシア ¥34,200

総空港バス代 EURO 5.9

総フィンランド鉄道代 ¥32,700

総ロシア地下鉄代 P17 (P1 = ¥4.6)

総ロシア鉄道代 P72

総ロシアビザ代 ¥5,000

総ビザ取得代行手数料 ¥5,250

協力 ANA、フィンランド航空、フィンランド鉄道、ジェーアイシー旅行センター

FTBもっと北の国から from デンマーク、ロシア with 狩人

ア~ア~、ア ア ア ア ア~(song by さだ マサ!し)

プーチン、じゃなかったマサよ~、君は北方領土返還のための身代官僚になる覚悟があるか!?

というわけで、これまで松山千春とともに♪めぐる季節の中で♪何度も北海道東部の沿岸部を歴訪し、鈴木宗雄よろしく「北方領土かえせ~!」と叫んできたが、ラチがあかなかったので今回はついに日本から北方領土を奪い去った国に上陸し、逆方向の観点から何とかならないかとりあえず検討してみることにした。

2006年7月15日(土)

スカンジナビア航空が誇る成田発コペンハーゲン行きSK984便、エアバスA340-300機に搭乗するといつものヨーロッパ便が飛行する新潟航路ではなく、稚内航路を飛行している様子がフライトマップに映されていた。これもひとえに悪の北の国から発射されたジョン・イルのへたくそなミサイルの脅威回避のためであるのだが、飛行機は定刻通りの午後4過ぎにコペンハーゲン空港に到着した。

今回のツアーではデンマークで北方地方での生活のための体を慣らすためにコペンハーゲン空港から列車(DKK27)でコペンハーゲン中央駅に向い、駅前のツーリストインフォメーションで情報を入手した後、再び列車に乗り、グロストラップという町で下車した。Hilton HHnonorsグループでスカンジナビア半島を仕切っているScandicというホテルがあるのだが、実は払い戻し不可の事前予約を一週間前の7月8日泊で設定してしまっていたため、丸々DKK485を損してしまったリベンジを果たすためにマサであればDKK485くらいかかるところをHilton HHonorsのポイントを使って私はただで宿泊することが出来るScandic Glostrupにチェックインすると白夜にもかかわらず早々と意識を失わさせていただいた。

7月16日(日)

早朝ホテルをチェックアウトするとSトレインというコペンハーゲン近郊を走る列車に乗り、空港に向った。午前10時25分発SK734便、MD81型機に乗り込むと2時間の時差を超えて午後3時前にモスクワのシェレメチェヴォII国際空港に到着した。

ということで、ついに念願のロシアに足を踏み入れることになったわけであるが、ロシアの巨漢ボクサー、イワン・ドラゴになぶり殺しにされた親友のアポロ・クリードのリベンジに向かうロッキーのような緊張感で入国審査を迎えることとなった。イミグレーションでガイド本を見なければ決して書き込むことが出来ない入出国カードに必要事項を記入すると入国を待つ客人達の最後尾に並び、厳かに自分の順番の来るのを待っていた。すると「FUKUDA」という私の名前の入ったサインボードを透明な壁越しにせわしげに掲げながら私の姿をさがしているおばちゃんに遭遇した。旅行会社を通してあらかじめ空港からホテルまでの送迎サービスを予約しておいたので関係者がすでにスタンバイしている状況が即座に確認されたのであった。

約1時間経過後、何とかロシアの入国を果たすと待ちきれなかったというそぶりのおばちゃんに即座に拉致され、そのまま税関で何も申告することなく旅行会社のカウンターに連れて行かれて無愛想なロシア人おじさんの運転手を紹介された。おじさんの運転するおんぼろ系のロシア製セダンは120km以上の猛スピードで前を走る車を次々に抜かしながら、腰を抜かしそうになる私を尻目に高速道路か一般道か区別がつかない道路を疾走した。途中ガス欠系かと思われる車両トラブルで路肩に車を止めて対応したもののつつがなく予約していたウクライナホテルに到着した。

モスクワ川右岸に位置するスターリン・クラシック様式の29階建て☆☆☆☆ホテルであるウクライナはモスクワ最大級の大きさを誇っている。早速Receptionでバウチャーを渡してチェックインするとレギストラツィアという滞在登録を行うために1時間ほどパスポートをフロントに預けなければならなかった。

今日は到着した時間も夕刻になってしまっていたので、ホテル周辺の軽い散策とU.S.ドルからロシアの通貨であるルーブル(P)への両替とホテル内レストランであるウクライナでボルシチと骨抜きにされた虹鱒の焼き物系のディナーを食ってとっとと休ませていただいた。

7月17日(月)

曇り空から滴り落ちる小雨模様にもかかわらず、早朝9時過ぎから念願のモスクワの散策に乗り出すことにした。ホテルを出てモスクワ川にかかる橋を渡り、目抜き通りのひとつである新アルバート通りを東に向かって20分ほど歩くとメトロの地下道に行き当たったのでそこをくぐるといきなり目の前に巨大な赤の城壁が現れた。この城壁の内部はいわずと知れたクレムリンであり、入り口には10時の開門を待つおびただしいほどの観光客が群れをなしていた。

とりあえずクレムリンの周辺を一周してみることにしたのだが、次々と目の前に現れる赤を基調とした建造物群に初めて来た観光客は一様に度肝を抜かれている様子であった。無名戦士の墓という第二次世界大戦でナチスドイツと戦い命を落とした兵士を奉っている記念碑の前には直立不動の衛兵が陣取り、写真を撮る観光客に対してもしきりに無関心を装い、前方をまっすぐ見据えたままであった。

ヴァスクレセンスキー門というスターリンの命により1931年に破壊され、ソ連崩壊後の1995年に再建された門をくぐるとかの有名な赤の広場に足を踏み入れることが出来た。赤の広場はクレムリンの北東の城壁と赤レンガ造りの国立歴史博物館、グム百貨店、ねぎ坊主が眩しい聖ワシリー聖堂に囲まれた広さ7万3000平方メートルを誇るロシアを代表する世界遺産広場である。一気に赤の広場を突っ切るとロブノエ・メストというかつてここから皇帝が全国に布令を読み上げ、重罪人の処刑を実行した石柵で囲った小さな円形の台をちらっと見やった後、聖ワシリー教会の前でオープン時間の午前11時が来るのを待っていた。

聖ワシリー聖堂(P100)の前には1612年にポーランド軍を撃退したミーニンとバジャルスキー像が英雄のポーズを決めており、豪華絢爛なねぎ坊主たちに彩りを添えている。1561年に竣工したこの聖堂を設計した建築家の二人は出来上がったものがあまりに美しかったため、2度とこんな美しい建造物が出来ないようにイワン雷帝の命により目をくり抜かれてしまうというとばっちりまで食らってしまったのだが、イワンこっちゃないと言われたかどうかは定かではない。

赤の広場を囲む一角にグム百貨店という日本橋三越本店に匹敵するデパートが君臨しているのでひやかしに入って見ることにした。店舗のほとんどは外資系ブランド物屋で占められているが、3階建ての中の構造は吹き抜けになっており、おしゃれな雰囲気を醸し出しながら観光客から外貨を稼ごうとしているかのようだった。

あざやかなレンガレッドで建造された国立歴史博物館(P150)が赤の広場の北側に陣取っているのでロシアの歴史を学習するために入場させていただくことにした。ここには革命以前のロシアの全歴史に関する資料が展示されており、特に「はじめ人間ギャートルズ」が暮らしていた時代に大掛かりな罠をしかけてマンモスを捕まえていた様子等が印象的であった。

赤の広場とその周辺のファシリティを十分堪能することに成功したのでモスクワ川沿いを下って救世主キリスト聖堂まで移動してみることにした。1883年に完成したこの聖堂は革命後の宗教弾圧によりスターリンの命によって爆破され、ソ連崩壊後の1999年に再建された新築であり、今では異様な存在感で川べりに立ちふさがっているのだ。

モスクワを代表する楽しい通りとして歩行者天国のアルバート通りを素通りしてみることにした。この通りにはおしゃれなカフェやレストラン、土産物屋が軒を連ねており、またおびただしい数の似顔絵書きが見た目よりもいい感じで観光客の容貌の特徴をとらえようと精を出していた。

7月18日(火)

マサよ、君はロシアの心臓部に侵入し、心臓が止まるほどの感動に打ち震えたことがあるか!?

というわけで早朝より地下鉄(P15)を転がして昨日じっくり下見しておいたクレムリン周辺部に満を持して繰り出すことにした。午前10時開園の直前に何とかクレムリン(世界遺産、P300)の入場チケットを入手することに成功するとかつてアメリカのホワイトハウスと勢力を二分していたソ連邦の中枢に侵入することと相成った。クレムリンの内部には観光客用の歩道が整備されており、観光客が少しでも歩道を反れるとカラシニコフで銃殺される代わりに笛で警告される仕組みを目の当たりにしながら、中心部に進んで行った。

クレムリンには当然のことながらクレムリン大会宮殿や大クレムリン宮殿等の観光客には公開されていない政治の中枢的なファシリティがあるのだが、観光客が見物を決め込むのはサボールナヤ広場にある聖堂群である。広場はウスペンスキー大聖堂、ブラゴヴェッシェンスキー聖堂、アルハンゲンスキー聖堂、十二使途教会等に囲まれ、それらの教会は15世紀~17世紀に建造されたいずれもロシア正教に由来する代物である。

また、クレムリン内部には色とりどりの花々が美しい庭園や「大砲の大帝」という世界最大の口径を誇った大砲でありながら、実は一発も発砲したことがない無用の長物や「鐘の大帝」という高さ6m、重さ200トンの世界最大の鐘にもかかわらず、鋳造中の火災によりあわてものの輩が鐘に水をぶっかけて鐘にひびが入り、一部が欠け落ちていまだに誰もその音色を聞いたことが無いという不遇な鐘が観光客の好奇の目にさらされながら余生を送っているのである。

というわけで、北方領土はさておき、ロシアに来てここに来なければロシアに来たことにならない観光名所を十分堪能することが出来たので、その足でクレムリンを退場し、ロシアのバレエ、オペラの聖地であるボリショイ劇場に向かうことにしたのだが、あいにく改装中で見る影も無かったので、メトロポールホテルでロシア革命議会が開かれたレーニンの面影をたどるにとどまってしまった。

クレムリンの南西にノヴォデヴィッチ修道院が1524年に建立された中世のいでたちで君臨しているのだが、休館日だったので外壁と塔の先端のみ垣間見てボリショイ・モスクワ国立サーカスのアリーナに向かった。残念ながら、サーカスのシーズンは9月下旬から始まるらしく、アリーナの周辺は閑散としていたため、日本に帰って安田大サーカスで我慢するしかないものと思われた。

ロシアでは超能力の研究が盛んであり、超能力を使った病気の診療システム等も発達しているのだが、その中枢にロシア最高学府のモスクワ大学が君臨しているのでバビル二世に匹敵する超能力を見につけるために校内に侵入したのだが、放課後だったため、仕方なくヴァラビョーヴィの丘からモスクワを一望することにした。ここからの眺めはすばらしく、私の常宿である巨大なウクライナホテルや遥かかなたにクレムリン等を見渡すことができる。また、隣にラージヒル、ノーマルヒルのスキーのジャンプ台があり、熱心なジャンパーが雪の無いジャンプ台から大空に舞い下がっている様子を垣間見ることが出来た。

7月19日(水)

マサよ、君は生レーニンの姿をこの目で凝視したことがあるか!?

私は・・・凝視してしまった!!!

ということで、すっかり赤の他人とは思えなくなってしまった赤の広場に3日連続で登場するとおびただしく長い行列の最後部に並んで見ることにした。その行列は赤の広場のクレムリンの城壁の中央にある小ピラミッドのようなオブジェに続いていたのだが、即座にそれがレーニン廟(無料)への入場を待ちわびる観光客の群れであることに気づかされた。1時間半ほどの入場待ちで20数秒間レーニンとの謁見を許されたのであるが、正装姿の彼はハリウッドの特殊メークさながらの遺体保存技術で数多くの衛兵に見守られながら安置されていた。また、レーニン廟に入るためには帽子を脱いで静粛にしなければならず、徳永英明であっても♪レイニーブルー♪を口ずさむことさえも許されないのである。

レーニンとの謁見を果たしながらも♪壊れかけのラジオ♪の雰囲気を引きずりながらレーニンの指導したロシア革命の資料も展示されている近代史博物館(P150)に乗り込んだ。ここには日露戦争で活躍した偉い日本人だちの資料や第二次世界大戦時のナチスとの戦いの歴史を学習するのに最適な生きた教材がふんだんに取り揃えられているのだ。

世界ではじめて宇宙に人を送り出した技術を自慢するための宇宙飛行士記念博物館を訪問したのだが、閉館日のようだったのでとりあえず天高く伸びるオベリスクの先端のロケットを見て首のストレッチをした後、トレチャコフ美術館(P240)に移動し、12世紀以降のロシア美術の名作と美術品見物に来ている人々の見物に精を出すことにした。さすがにロシアを代表する美術館だけあって貴重な絵画や彫刻が展示されているのだが、それらを見に来ている輩も八頭身、色白足長美女で美術館に彩りを添えているのだ。

7月20日(木)

早朝より散歩ついでにロシアのクトゥーゾフ将軍がロシアに侵入したナポレオン軍に戦勝した記念に建てられた凱旋門で凱旋した後、ボロディの戦闘パノラマ館の見学に乗り出すことにした。ここはマサにナポレオンのロシア遠征でロシア軍がナポレオン軍に大打撃を与えたボロディノの戦闘に捧げられた博物館であり、円筒形のドームの内部には戦闘の様子を詳細に模写した3D系のパノラマを味わうことが出来るファシリティである。

というわけで、ついに第一次ロシア遠征も終焉を迎えることとなり、ウクライナホテルにチャーターした送迎車に乗り込むと一路シェレメチェヴォII国際空港を目指し、イワン・ドラゴをKOして見事アポロ・クリードのリベンジを果たし、「数百万人が殺し合いをするよりも2人で殴り合いをするほうがましだ!」という演説をぶった勢いでコペンハーゲンに帰っていった。

7月21日(金)

既にコペンハーゲンにおけるFTBの定宿となったScandic Copenhagen Glostrupの最寄駅からSトレインに乗り、コペンハーゲン中央駅に繰り出した。小雨そぼ降る午前中の雨宿りも兼ねてまずは国立博物館に侵入して北欧の歴史をたどってみることにした。館内の展示物はデンマークの古代、氷河期から19世紀に至るまでの歴史的なコレクションのみならず、エジプト、ギリシャ、ローマ時代の遺物もカバーしており、特にヴァイキング時代の展示は食いしん坊も万歳するほど食べ放題の様相を呈しているぐらい充実していたのだ。

雨も上がったところで本格的なコペンハーゲン中心部の散策に乗り出すことにしたわけだが、まず、女王の居城であるアメリエンボー宮殿に参上し、親のすねをかじっている多くの甘えん坊とともに衛兵交代式を見学させていただいた。さらに沿岸部を北上するとコペンハーゲンのシンボル、アンデルセン童話で有名な人魚姫の像を見物し、松田聖子よろしく♪わたし はぁだしぃのマーメイド こぉむぎ 色なのォ♪系の色目を使いながら人魚姫に寄り添って記念写真を撮っている観光客を見下していた。

クリスチャンボー城という現在は国会議事堂として使用されているファシリティの城内見学ツアー(DKK60)に参加し、女王謁見の間とそれを取り巻く豪華な間や会議室に入り、以前日本の天皇もお邪魔したことがあると聞いてしきりに感心した後、観光客や原住民で賑わう大通りでソフトアイス(DKK20)を買い食いしながらダウンタウンの散策をしているとミュージアムエロチカ(http://www.museumerotica.dk/uk/index.htm)という夜の生活には欠かせない博物館が賑わいを見せている様子を横目にチボリ公園に向かった。

1843年に開園したチボリ公園(DKK75)はコペンハーゲン中央駅の目の前に位置しているという好立地条件もあり、また、開園期間が春~秋とクリスマスに限定されているため現在は多くの来園客で大変な賑わいを見せている。最近絶叫型ハードウエアのバージョンアップを行ったということで乗客のセキュリティを保証する一方でスループットも早くなったと言われているのでもはやIBMに買収される心配はないものと思われる。大人も子供も楽しめる複合型エンターテイメント空間のチボリが最大の真価を発揮するのは午後9時以降である。園内の劇場では華やかなモダンバレエのショーが繰り広げられ、また特設ステージではロックコンサートが開催され、立錐の余地もないほどの観客がほろ酔い気分で乗り乗りになってしまうのだ。また、園内には数多くのレストランがあり、そのうちのアジアン麺フードを提供するWAGAMAMAで飯を食うためにWAGAMAMA Noodleを発注したのだが、ウエイトレスの愛想の良さにもかかわらず、味はマサにわがままそのものだった。

7月22日(土)

早朝ホテルをチェックアウトし、コペンハーゲン中心部に繰り出すと緑多き植物園とデンマーク王室の住居であるローゼンボー宮殿を散策し、ロイヤル気分を満喫するとそのままダウンタウンでソフトアイス(DKK16)を食った後、空港迄戻り、午後3時発SK983便で東京へと帰っていった。

7月23日(日)

マサよ、君は生狩人が歌う生♪あずさ2号♪を聞いて信濃路に思いを馳せたことがあるか!?

私にとって今もまぶしいひとつの青春であるはずの狩人が八王子くんだりまで来て健康ランドで営業をぶちかますという話を風の噂で聞いていたので帰国後速攻で繰り出すことにした。八王子健康ランドふろっぴぃに午後4時ごろ到着すると早速垢すり場で「赤の広場」で積層されたはずの垢をすりおろしていただいた後、宴会場に陣取り狩人のステージが始まるのを今か今かと待ち構えていた。

午後6時に素人ナレーターの「常に獲物を狙うハンターのようであれと作曲家都倉俊一が命名した」という狩人の名前の由来に続き、狩人がステージに登場すると♪コスモス街道♪でステージの幕が上がった。約1時間あまりのステージは狩人のヒット曲が少ないため、途中兄弟漫談や物まね等を差し挟み最大の山場の♪あずさ2号♪に差し掛かると場内は最大の盛り上がりを見せた。しかしラストは引きが悪いということで♪世界でひとつだけの花♪という捨て台詞的歌で狩人は次の獲物を狙うべくハンターのように去って行ったのだった。

天声入語

先週裏の仕事で一週間ほど滞在したドイツの女性は方眼紙の一角に正確にサービスエースを決めるシュティフィ・グラフのような厳し系のギャルが圧倒的に多かったのだが、ここモスクワではFTBの統計によると23%はマリア・シャラポア系の妖精ギャルであることが確認された。付け乳首はないものの数多くのシャラポアギャルを見ながらニヤニヤして歩いていると街中にはびこる不良警察官から職務質問され、あげくの果てには賄賂を要求されるので注意しなければならない。従ってロシアの町を歩くときは伊達公子も恐れるシュティフィ・グラフの顔つきが要求されることになるのだ。(総)

ロシア・モスクワ旅行情報

*ビザ・招待状 – 社会主義から自由主義に移行したものの未だにロシア国内の自由旅行は許されていないのでロシア旅行を所望する輩はロシアの旅行社から招待状を入手しなければならない。今回FTBの子会社になるであろうJIC旅行センターを通じ、ロシアのVAO INTOURISTより招待状を入手し、何とか観光ビザの入手に成功したわけである。

*モスクワの地下鉄 – モスクワの地下鉄網は路線の多さもその色使いも東京メトロや都営線に匹敵するものを持っているのだが、深さはほとんど大江戸線並みの深度を誇っている。何でも要人の核シェルターにも転用可能であるとも言われているのだ。

*パスポートコントロール – ロシアの町並みにはおびただしいほどの警察官が目を光らせている。彼らは道行く観光客のパスポートをチェックし、ビザやレギストラツィア等の書類が不備であれば即座に罰金をふんだくろうと虎視眈々とカモを狙っているのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥240,420

総宿泊費 ¥74,000 + DKK570(DKK1 = ¥20.1)

総無駄にした宿泊費 DKK485

総コペンハーゲンS鉄道代 DKK189

総モスクワ地下鉄代 P90(P1 = ¥4.4)

総送迎代 ¥13,400

総ロシアビザ取得手数料 ¥5,250

総ロシア旅行手配手数料 ¥4,200

協力 スカンジナビア航空、HiltonHHonors、ジェイアイシー旅行センター、VAO INTOURIST、八王子健康ランドふろっぴぃ、

狩人(http://www.karyudo.jp/

FTB青春アミーゴスペインとその他もろモロッコツアー

つい一週間前の古代エジプトツアーによりついにアフリカ大陸への扉をこじ開けることに成功したFTBであるが、その余韻も覚めやらぬうちに新たなツアーが企画され、実行される運びとなった。前回はアラビア半島との境界であるエジプトを制覇したのだが、今回はイベリア半島の南岸、地中海のジブラルタル海峡を挟んだ対岸に位置するモロッコに上陸する計画が立てられたのだ。

12月29日(木)

ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!

ということで、ANA205便にておなじみのパリ、シャルル・ド・ゴール空港に定刻午後4時半頃到着し、フランスへの入国を果たすとすかさずバスでターミナルを移動し、スペインが誇るイベリア航空IB3433便に搭乗し、スペインの首都マドリッドに到着したのは午後8時半を過ぎた時間帯であった。

空港で東京メトロを彷彿とさせる地下鉄路線図を入手すると、早速空港から地下鉄(1ユーロ)でマドリッドの中心部を目指した。午後9時を回った時間にPlaza de Espanaという市の中心部に降り立ったのだが、マドリッドは日本人を狙った強盗事件が頻発しており、♪シ~、Si♪と言って寄ってくる青春アミーゴ系の若者が集団で首絞め強盗などをプロデュースしているので注意しなければならないという情報を得ていたので今夜はおとなしく☆☆☆ホテルのBest Westernに引き払ってフテ寝をすることにした。

12月30日(金)

早朝より地下鉄でマドリッドの中央駅の1つであるアトーチャ駅に向かった。加藤茶をほうふつとさせるアトーチャ駅は列車でスペイン各地に旅行する輩が全員集合する場所であるのだが、屋内植物園のような吹き抜けの待合室が非常に印象的である。

8時15分発のアルへシラス行き列車で6時間程車窓に広がる広大なスペインの風景を眺めていると午後2時半頃目的地に到着した。列車を下車すると早速フェリーのチケットを販売している数ある旅行代理店の1つに飛び込みモロッコ行きのチケット(32ユーロ)を入手した。EuroFerrysが運行するカーフェリーは定刻4時に大きな汽笛とともにアルへシラス港を出港し、左手に巨大なジブラルタルロックを眺めながら、2時間半の船の旅がスタートした。

出航から10分くらい後に船内のPolice officeでモロッコへの入国手続きをすまし、1時間の時差を超えて午後6時前に船はモロッコの海の玄関口であるタンジェ港に入港した。港内の銀行で円をモロッコの通貨であるディラハムに両替し、暗くなったタンジェの町を軽く散策しながら、とあるインターネットカフェで今日宿泊する予定のホテルの位置の確認などを行った。

Hotel Ibis Tangerはダウンタウンから15km離れた空港近くに位置しており、公共交通機関でアクセス出来ないため、タクシーを見つけることにしたのだが、モロッコのタクシーシステムは市内の近距離を走るプジョー系のプチタクシーと遠距離まで行く、乗合ベンツタクシーであるグランタクシーに棲み分けされていることが確認された。ホテルへはグランタクシーしかなく、相乗りするモロッコ人もいなかったので仕方なく、DH150もの大金を支払ってホテルに移動し、モロッコに来たという哀愁を噛みしめながらホテルのレストランで地ビールである「カサブランカ」を飲みながら哀愁のカサブランカを歌ってモロッコの第一夜を過ごしていた。

12月31日(土)

早朝よりグランタクシーでタンジェ駅に移動し、窓口でレシート仕様の切符を購入し、9時発の列車でモロッコが誇る世界遺産都市フェズを目指した。途中Sidi Cacemという駅で列車を乗り換え、地中海性気候がはぐくむ雄大な遊牧風景を見ながら合計5時間半の汽車の旅で念願のフェズに到着した。

駅前のHotel Ibisにチェックイン後、軽くフェズの見物に乗り出すことにした。フェズの町は3つに分かれており、旧市街のフェズ・エル・バリ、フェズ・エル・ジェディド、新市街で構成されているのだが、手始めにフェズ・エル・ジェディドから様子を探っていくことにした。街路樹のオレンジがたわわに実っている道を歩いているといつしか城壁に行く手をはばまれてしまったので大きく迂回してスパ門から旧市街に侵入した。

気が付くと迷路の中をさまよっており、まとわりつく少年が道案内を買って出たが、金を要求されると癪なのであえて少年が示す道の反対方向に進んでいくとますます道がわからなくなってきた。動物的勘により何とか方向感覚を取り戻すと、フェズ・エル・ジェディド通りというにぎやかな通りに紛れ込んでしまった。ここは衣料品のアーケード街になっており、多くの原住民が大晦日の年末商戦にいそしんでいた。

さらに迷路を奥深く進むと観光バスとおびただしい数のプチタクシーが停車している美しい門の前に到達した。門の奥には入り組んだ通路の脇におびただしい数の店が営業しており、客と店主と物資の輸送手段である馬やロバの織り成すモロッコ独特の光景が展開されていただのであった!

1月1日(日)

ハッピー ニュー マサよ!!!

ということで、昨日遭遇した雑然とした環境は何だったのかということを昨夜のうちにレビューし、再びその喧騒に足を運ぶことにした。まずは欧米観光客と一緒に美しき王宮の正門を見上げた後、世界遺産であるフェズ・エル・バリに向かった。フェズの旧市街メディナのフェズ・エル・バリは9世紀の初めにモロッコの最初のイスラム王朝、イドリス朝の都となり、そのときに造られた町が1000年を超えて今なお、市民の生活の場所として生き続けている所なのだ。

昨日入門して中の雰囲気に圧倒された門はブー・ジュルード門というメディナの入口にあるフェズ最大の門であることをすでに学習していたのであらためて幾何学文様によって彫刻された青色や緑色で彩られた門をくぐって見ることにした。世界最大、最強の迷路であるフェズ・エル・バリには2つの大通りがあり、そこに無数の枝分かれした袋小路がつながっているのだ。道は人が2人並べばいっぱいになるほどの狭さで日干し煉瓦と高い土壁により、昼間でも日の光が遮られている。道の脇の店は場所により、衣料や工房や食品売り場に分かれているようで、魚屋の前では切り落とされるイワシの頭待ちの猫が数匹正座している様子を垣間見ることが出来る。

メディナを颯爽と闊歩している私に対して様様な土産物屋から郷ひろみでもないのに容赦なく♪ジャァパ~ン♪という歓声が浴びせられるのであるが、その♪出会いはァ、億千万のむなさわっぎぃ♪を感じさせるものだったので立ち寄らずに人間模様の観察だけにとどめておいた。フェズ・エル・バリも奥の方に入り込むと染色された牛皮を背負ったロバとすれ違ったり、強烈な異臭を放つ区域がある。ある原住民がいきなり私の腕をつかんで「NAMESI~GA~WA~」「ナメシ皮~」と叫んで工房に引き込もうとしたのだが、なめされる恐怖を覚えたのでモ~という捨て台詞を残してその場を後にした。ちなみに川べりにはなめされたばかりと思われる牛革が数多く干されていた。

フェズ・エル・バリの迷路で閉所恐怖症の逆療法に成功したのでフェズ駅から約1時間の汽車の旅で古都メクネス(世界遺産)に移動した。メクネスは今も続く現モロッコ王朝アラウィー朝が17~18世紀に都と定めた街である。フェズに比べ建造物は新しく、色鮮やかでメディナも整然としており、王都の入口に構えているマンスール門は北アフリカで最も美しく、有名な門として君臨しているのだ。

堅く閉ざされているマンスール門の向こうにモロッコ少年達が草サッカーにいそしんでいるエディム広場があり、しばらく歩くとリフ門に到着した。この門を抜けると両側をどっしりとした高い壁で囲まれた直線の道が現われた。この長い道は通称「風の道」と呼ばれ、又三郎系の強い風が吹き抜けていくのである。

壮大な王都建設を夢見て、その完成を待たぬままこの世を去った王ムーレイ・イスマイルの墓が安置されているムーレイ・イスマイル廟を訪問させていただいた。ここはマンスール門と同様、メクネスで最も重要な見所として君臨しており、美しいモザイクやしっくい彫刻のすばらしさを堪能出来るイスラム文化の傑作である。

メクネスからフェズに戻り、フェズ駅のレストランで夜飯を食うことにした。適当にカバブ系の肉料理を発注したのだが、小太り系のウエイトレスが頼みもしないのに安物系のミネラルウォーターやパンやサラダを次々と運んできやがった。最終的に金を払う段になって、ペテン師づらした店主がマイルドなボッタくり値段を要求し、モロッコ通貨のディラハムがなくなってしまったので「ユーロでどや?」と言ったところ「両替出来るぜ!」という返事だったのでユーロで支払うことにしたのだが、両替マジックによりマイルドから通常のボッタくりプライスに値上げされたような屈辱感を覚えさせられた。

1月2日(月)

「こんな夜中にどこいくねん!?」というようなHotel Ibisのフロント担当にチェックアウトを申し出ると午前1時半にホテルを出て1時50分のタンジェ行き夜行列車に乗車した。夜行列車とはいえ、寝台ではなく昼間走っている列車が単に夜走っている代物なので、6人乗りの一等車両のコンパートメント内には白人旅行者達が無理な体勢で睡眠にいそしんでいた。

午前7時過ぎにタンジェ駅に到着し、出勤体制に入ったモロッコ人とともに朝日を浴びながらタンジェのメディナを目指した。フェリー乗り場を見下ろす高台に位置するカスバ門からはジブラルタル海峡を隔てたスペインの山並みを見渡すことが出来、憂いを帯びたモロッコ人イスラム教徒と犬が絵のような景色に見入っていた。

迷路や軽いボッタくりその他もろもろの貴重な経験をさせていただいたモロッコを後にすべく正午発のフェリーに乗り込むと午後3時半頃にスペイン、アルへシラスに戻って来ることが出来た。すでに乗るべき列車に乗り遅れていることが発覚したので仕方なくアルへシラスを観光し、アンダルシア気分を満喫することにした。

とりあえず駅と港のほど近い場所に中心街であるセントロがあったので、小高い展望場所から夕日を浴びているジブラルタルロックを眺めながら感慨に耽ることにした。夕飯時になり、港の近くのスペイン料理の飯屋に入り、スペイン語で書かれた意味のわからないものを発注すると美味なシーフード系のスープと車海老系のエビを辛く揚げたものが出てきたのだが、何故か付け合せのパンが高いという軽いボッタくり感を味わってしまった。

午後9時15分発マドリッド行き寝台夜行列車に乗車すべくアルへシラス駅に戻ると自分の肉体に匹敵するサイズのバックパックを抱えた欧州人ギャルペア等の旅行客に混じりながら列車待ちをしていた。乗車券込みでわずかEURO46.5の2等寝台、6人寝のコンパートメントの中段に潜り込むとほどなくして青春アミーゴ系の若者に取り囲まれてしまったのだが、彼らは夜中に♪シ~、Si~、お~れたちはいつで~も♪といった唄を歌ってドンちゃん騒ぎをすることもなかったので割と平和に寝台車内生活を満喫することが出来たのであった。

1月3日(火)

列車は11時間以上の時間をかけて午前8時前にマドリッドチャルマンティン駅に到着した。早速地下鉄で市の中心部に移動し、プラド美術館(EURO6.0)を目指した。大橋巨泉も推奨する世界的に有名なプラド美術館の見所はスペインが誇るグレコ、ベラスケス等の巨匠が描いたスペイン絵画であるが、特にゴヤの作品に関しては様様な絵画がチャンプル風に展示されたひとつのコーナーとして観光客の目を引いていた。

マヨール広場というスペインを代表する広場にいつのまにか入り込んでいたのだが、ここでは年末年始のイベントが行われたであろう会場設定の撤収作業が行われていたのでそのまま私もスペインから撤収すべく地下鉄でマドリッド国際空港に引き払い、そのまま流れ解散と相成った。

ということで、前回のエジプト、今回のモロッコと立て続けに北アフリカを制覇した訳であるが、これらアラブ諸国ではサンコンさんやニカウさん、ブッシュマン、クンタ・キンテ、ルーツ等の典型的なアフリカ人に遭遇することが出来なかったので次回はもっと深いアフリカに行かなければならないと思われた。

また、モロッコ最大の経済都市であるカサブランカへも行けなかったかわりにFTBがジュリーと共同開発している♪TOKIO♪発♪ダーリング♪以外の♪危険なふたり♪で行くモロッコ♪カサブランカダンディ♪現地観光と帰りは♪勝手にしやがれ♪、ツアコンが♪寝たふりしてる間にぃ~、出て行ってくれ~♪ツアーを財務省の慰安旅行向けに提供したいと考えている。オプションとしてトリプルボギーをたたいた後に♪ボォギ~、ボォギ~~、あんたの時代はよかったァ~♪と泣き言を歌っている三流ゴルファー見学ツアーも考えられよう。移動バスのカラオケ大会では盛り上がることまちがいなし!!http://music.yahoo.co.jp/shop?d=p&cf=52&id=233731

マサよ、必ず実行しろよ!!!

FTBサマリー

総飛行機代 \197,560

総フェリー代 64ユーロ

総スペイン国鉄代 100.5ユーロ

総マドリッド地下鉄代 4ユーロ

総モロッコ国鉄代 DH314.5(DH1=\13程度)

総モロッコバス代 DH5.0

総グランタクシー代 DH300

総宿泊費 64.2ユーロ、DH1,095

協力 ANA、イベリア航空、ルフトハンザ航空、スペイン国鉄、Tanger – Algesirasフェリー会社モロッコ国鉄(ONCF)www.oncf.org.ma/、Best Western、Hotel Ibis