FTBSEA秘境ボルネオ島北部沿岸部にマレーシア近代都市は実在した!

建国50周年を記念したVisit Malaysia 2007というキャンペーンにより、観光客集めに躍起になっているマレーシアの国土はマレー半島だけでなく、ボルネオ島の北東部にも広がっている。高温多湿の熱帯雨林を育むボルネオ島は野生動植物の宝庫となっているのは言うまでもないのだが、豊富な天然資源にも恵まれ、それを発掘するための起点となる都市も発達しているのである。

2007年11月21日(水)

午後1時30分発のNH5851便、全日空とマレーシア航空のコードシェア便は満席の乗客を乗せ、午後8時過ぎには世界のベストエアーポートに選ばれたクアラルンプール国際空港(KLIA)に到着した。明日の早朝便に対応するため、今夜はホテルにしけこまずに空港内のベンチにごろんと横になり、意識朦朧のうたた寝状態で時間をやり過ごすことにした。

11月22日(木)

まだ意識が十分に回復していない午前4時にMH2638便に搭乗すると2時間半のフライトでボルネオ島の北東部に差し掛かったのだが、ふいにみそ煮や塩焼き、酢でしめられる青魚の感情がこみ上げてきた。飛行機から降りるとそこには「ようこそサバ!州」の横断幕がかけられており、観光熱のエネルギーとなるはずの油が乗ってきた感覚を覚えたのだ。

曇天の空模様の下、空港からコタキナバル市街地までの8kmの道のりを徒歩で移動し、汗とともに油を飛ばした後、スターバックスでカフェインを補給し正常な意識を取り戻した。早速サバ州の歴史をレビューするためにサバ州立博物館(RM15)に進軍することにした。原住民であるルングス族とムルト族のロングハウスを模した4階建ての本館にはサバ州の自然、動物、昆虫、サバ州がたどった歴史に関するものが展示されているのだが、第二次世界大戦中には日本の大東亜共栄圏の一部として天然資源を供給していた様子も垣間見ることが出来るのだ。また、隣接する伝統村には実際に使われていたロングハウスや伝統家屋を移築し、それらが周囲の池の水周りの環境にマッチするように屋外にモデルハウスよろしく展示されていた。

マレーシア国内で多数の信仰者を誇るイスラム教徒の心の拠り所になっている州立モスクに靴を脱いでお邪魔させていただき、信者の邪魔にならないように気をつかいながら内装の見学を実施した後、今回のツアーの宿泊地となっているル・メリディアン・コタキナバルにチェックインすると長旅と寝不足による疲れを取るためにダラダラと過ごさせていただいた。

11月23日(金)

コタキナバルから88km北東に東南アジアの最高峰として有名なキナバル山が頭を雲の上に出していると聞いていたのでミニバス(RM15)で2時間程かけてキナバル公園(世界自然遺産)まで足をのばすことにした。午前10時半頃に現地入りするとまず国立歴史ギャラリー(RM3)にてキナバル山の地形、植生、地質などを学習することにした。ここでは火山でないにもかかわらず、毎年数ミリづつ隆起しているキナバル山の色つき模型やムシキングに登場するであろう巨大色鮮やかカブト・クワガタムシの標本等を凝視することに成功した。

続いて山岳植物園(MR5)にて熱帯雨林に繁茂する木や草花を愛でた後、登山ゲートまでの4kmの道のりを歩くことにした。数多くのバス、タクシー、自家用車に抜かれながらも1時間程度で何とか標高1,890mの登山ゲートに到着した。キナバル山の登山道はよく整備されており、標高4,095mの頂上まで気軽に登ることが出来るのだが、登山のためには登録やガイドを雇ったりする必要があるので今回は固く閉ざされたゲートの前に立ち尽くして我慢するしかなかったのだ。尚、ゲートの近くに展望台があり、登山が出来ない輩はリュックを抱えて登山道を行き来する山男、山女を壁女の面持ちで指を加えて眺めることが出来るのだ。

登山ゲートからぬかるんだ川沿いのトレッキング道を経由してビジターセンターに戻り、そこでキナバル山のスライドショーや資料館を見物した。ボルネオ島にはここでしか見られない固有の植物があるのだが、食虫植物であるウツボカヅラや花びらが1mにもなるラフレシアが代表的なものである。尚、本物のラフレシアを見るためにはジャングルの奥深くにヒルに血を吸われながら侵入する必要があるので今回は近くに野ざらしにしてあるオブジェで我慢しておいた。

夕刻にコタキナバルに戻ってくると、シグナル・ヒルというダウンタウンと海や近隣の島を見渡せる高台からヒルに血を吸われる心配なく景色を堪能させていただいた。下界に戻り、沿岸部埋立地に広がるセントラルマーケットに焼鳥の煙に吸い寄せられるように舞い込んだ。夕方のマーケットには数多くの屋台が出店しており、地元で水揚げされた数多くの種類の魚や海老が炭火の上で焼かれたり、焦がされたりしており、椅子に座って格安ディナーを満喫することが出来るようなシステムになっていた。

尚、今夜は屋台ではなく、バナナ・リーフ・レストランというバナナの葉が皿代わりのインド料理屋に入店し、名物フィッシュヘッドカレー(時価)をRM18で発注した。この食い物は普通のカレーに地元で獲れたそれなりの大きさの魚の頭部と上半身が浸されており、小骨のハンドリングさえ苦にならなければ魚の頭部の髄から出たエキスとインドカレーの絶妙なコラボレーションを十分堪能することが出来るのだ。

11月24日(土)

コタキナバルの市街地は南シナ海に面しているものの埋立地が多く、海水浴を楽しむためには近郊の島々までボートで行くことが一般的になっている。トゥンク・アブドゥル・ラーマン公園という大小5つの島から成る海洋公園があり、その中のサピ島に最もきれいなビーチがあると聞いていたのでボート乗り場から高速ボート(往復RM17)を泳がせて上陸を試みることにした。ボートは高速モーターが付いているものの6人程度しか乗れない小型船なので波の影響をもろに受け、木の葉のように翻弄されながらも波の上をジャンプし、そのたびにケツに大きな衝撃を受けることとなった。

荒波でずぶ濡れになり、ボートのジャンプとケツを浮かせるリズムがかみ合ってきた頃、サピ島の船着場に到着した。ボートのパイロットからシュノーケルを受け取り、サービスかと思っていたがRM10を要求されたので支払いに応じながらサピ島への上陸を果たすことと成った。島の入り口で上陸許可料(RM10)を巻き上げられた後、ベンチの場所取りをして早速波に揉まれることにした。尚、レンタルしたシュノーケルは管を加える部分が噛み切られていたため、通常の水中めがねに成り下がっていた。

土曜日の島内には多くの地元イスラム教徒女性もにわかバカンスに来ており、彼女らは頭にスカーフを巻いたまま泳ぐ実態が確認出来た。ビーチとサンゴ礁が美しいサピ島とのふれ込みであったが、今回はサンゴ礁の死骸が足に食い込んできただけで生きたサンゴ礁に水中でお目にかかることは出来なかった。また、海の透明度はそんなに高くなく、魚も白身魚系のものを数尾目撃しただけであった。

マサよ、君は官僚組織内でトカゲのしっぽ切りに興じる輩に成り下がってないか!?

ということで、サピ島のビーチ自体は目を見張るほどのものでもないのだが、島の深部にはおなじみの熱帯雨林が広がっており、そこからバーベキューの残飯を求めて奴らがやって来るのだ!面長の顔にうろこに守られた流線型のボディ、腕立て伏せの出来ない短い手足をゆっくりと動かしながら体長1mにも達するほどのオオトカゲが数匹バーベキュー場を我が物顔で歩き回り、観光客に愛嬌と脅威を与えているのだった。

再びコタキナバルへの帰路へ着くためにボートに乗りこんだのだが、乗客はボ~として海に落ちても差し支えないようにライフジャケットが着せられているのだ。何とかトカゲやサメの餌にならずに生きながらえて帰って来れたので、今日はセントラルマーケットの屋台でディナーを満喫することにした。とりあえず名も知れぬ白身魚を指名し、車海老系の海老を2尾とパサパサのライスをプラスティックの器に盛っていただき夕飯としたのだが、トータルでRM18程度の支払いであった。尚、屋台の焼鳥系の串物の相場は1本でRM1(¥30)、3本でMR2なのだ。

11月25日(日)

早朝6時35分のMH2637便でKLIAに戻り、NH5852便にて午後7時くらいに成田に到着。切り取ったトカゲのしっぽをマサへの手土産にすることもかなわずそのまま潮が引くように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \2,180、マレーシア航空 = RM778.- (RM1 = \30)

総宿泊費 RM870.-

総バス代 RM30.-

総ボート代 RM17.-

総タクシー代 RM30.-

協力 ANA、マレーシア航空、STARWOODS

FTBSEAメコンの恵みラオス首都ビエンチャンツアー

ミャンマーの首都ヤンゴンのデモで長井映像ジャーナリストが殉職した。やんごとなきお方であったため、非常に悔やまれる出来事であったのだが、長いものに巻かれるマサの意思を汲んでFTBが満を持してミャンマーに乗り込むことも考えられたのだが、今回は隣国のラオスで勘弁していただくことにしたのだった。

10月5日(金)

午後6時10分発NH915便バンコク行きに搭乗し、機内映画のダイハードに主演するブルース・ウイルスの頭が眩しかったため、十分な睡眠が取れないまま午後11時頃にバンコクのスワンナブーム国際空港に到着した。空港からシャトルバス(THB150)に乗り込むと1時間程で繁華街のシーロム通りに君臨するホリデーインにチェックインし、そのまま今日のアクティビティを強制終了させることにした。

10月6日(土)

早朝5時半にホテルをチェックアウトすると通常であればTHB500程度しかかからないタクシー代をTHB800のお支払いで再びスワンナブーム国際空港に舞い戻ってきた。午前7時35分発のTG690便、B737-400機に搭乗すると1時間ちょっとでラオスの首都であるビエンチャン国際空港に到着した。

空港に到着するとラオスに入国するためには事前もしくは空港にてビザを取得するため、写真が必要だという衝撃の事実に直面してしまった。コピー用紙に印刷したしょぼい写真しか持ってなかった私はその写真でビザが取得出来るのか戦々恐々とした面持ちで1時間ほど列に並んでいたのだが、ビザの窓口のおばちゃんに日本人で3日間しか滞在しない輩にはビザは必要ね~ぜと言われたのでほっとすると同時にこの1時間の不安と焦燥は何だったのだろうと思わされた。

何とか入国を果たすと予約しておいたNovotel Vientianeホテルは空港からそんなに離れていないため徒歩で向かっていると雨が激しくなってきたので午前11時前にホテルにしけこみ、Early Check inにもかかわらず部屋を提供していただけたので社会主義国にもかかわらず放映されているESPNの大リーグ放送を見ながら雨が止むまで時間潰しをしていた。

午後になって天候も小康状態を取り戻したので雨上がり決死隊を結成して町に繰り出すことにした。ビエンチャンは首都とはいうもののバンコクのような毒々しい高層ビル群はなく、通常のアジアの田舎町の様相を呈していた。また人口も少なく、人民の性格も控えめなのでトクトク等の乗り物に対する勧誘もマイルドに抑えられているのである。仏教国であるラオスには数多くのワット(寺院)があるのだが、タートダムという苔むした黒色の塔が町の中心で異様な存在感を示していた。

ビエンチャンの中心をほぼ南北に貫く大通りであるラーンサーン通り沿いにタラートサオというラオス最大のマーケットがある。ここにはさおやサオ竹だけでなく、食料品から衣服、電化製品等あらゆるものが販売されているのである。ラーンサーン通りの終点にパトゥーサイというパリの凱旋門を彷彿とさせる塔が町のランドマークのいでたちで立ちはだかっている。これは戦死した兵士の霊を慰めるために建てられた戦没者慰霊塔であり、ビエンチャンのシンボルとして堂々とした威容を示しているのだ。

ラーンサーン通りを南下し、ホワイトハウスと呼ばれる迎賓館を横目にタイとの国境を形成するメコン川の河畔に到着した。河岸には夕暮れ時から屋台が並ぶとのことで原住民は設営や仕込みに余念がない様子であった。ここでも観光客に対する押しの弱い呼び込みが展開されていたのだが、もう一雨きそうだったので今晩は撤収し、ホテルのレストランで魚の揚げ物を食いながらお茶を濁すことにした。

10月7日(日)

今日もすっきりしない天候ながらも何とか曇り空を維持していたので、ホテルでUS$を現地通貨であるキープに両替していただき、本格的に町に繰り出すことにした。町の北東部に45mの黄金の塔がビエンチャンのみならずラオスのシンボルとして光り輝いているので見物を決め込むことにした。タートルアン(Kip500)の起源は紀元前3世紀までさかのぼるといわれ、当時はクメール様式の仏塔が建てられたらしいが、現在は何年かおきに黄金に塗り直されている眩しい建造物になっている。

ラオスの考古学的な遺品、内戦時代の武器と現在の社会や経済を展示したラオス国立博物館(Kip10,000)にて遅まきながらラオスの歴史を学習させていただくことにした。ここではフランス植民地時代から社会主義革命にかけて、ラオス人民が圧政とどのように戦ってきたかが時系列でわかるようになっているのだ。

昨日ちら見した凱旋門もどきのパトゥーサイは展望台(Kip3,000)も兼ねているのでらせん状の階段を登り、内蔵されたみやげ物売り場を抜けて頂上からビエンチャンの景色を一望した後、オアシスというラオス伝統マッサージ屋でフットマッサージ(Kip40,000)を受けながら足に溜まった乳酸を拡散させることに成功した。

オアシスで一服の清涼剤のような爽快感を得ると丁度夕暮れ時になってきたのでメコン河岸を散歩がてらぶらぶら歩いているとメニュー片手に私の前に立ちふさがる青空食堂の客引きに捕まってしまったのでしょうがなく川べりの特等席につかせていただくことにした。とりあえず地ビールであるビア・ラーオとトムヤム系のスープと焼き魚と白ご飯を発注すると、出てきた瓶ビールはこの青空環境では信じられないほどキンキンに冷却されていた。川を眺めていると長尺のボートを駆る2人組みの漁師が川に網を投げ込んでしきりに魚を引っ掛けようと躍起になっていたのだが、私に供された焼き魚は明らかに目の前の川で水揚げされたものであった。私の口にしたものは普通の魚の塩焼きには違いないのだが、その白身魚は驚くほど美味であった。尚、その食堂とは関係のないおばちゃんやおね~ちゃんが常にあたりをうろついておりスルメとスルメあぶりキットをぶら下げて虎視眈々とイカの売り上げ増を狙っていたのだった。

10月8日(月)

タラートサオのバスターミナルからおんぼろバスに乗り、45分程でタイとの国境を形成するメコン川に架かる友好橋に到着した。その後、道は未舗装の凸凹道になり、合計1時間程かけてブッダパークに到着した。ここは正式にはワットシェンクワンという寺院だが、多くの仏体が無造作に置かれているところからいつの間にかブッダパークと呼ばれるようになったという。なるほど巨大な寝仏をはじめ数多くの仏体にお目にかかることが出来たのだが、所詮は出来損ないの箱根芸術の森美術館だとブッタ切られても仕方のない代物であると思われたのだ。

バスでビエンチャンに戻り、ワットホーパケオ(Kip5,000)、ワットシーサケート(Kip5,000)といった正統派の寺院を見学し、何とかブッダパークの残像を消し去ることに成功した。これらの寺院は博物館になっており、本堂は歴史的価値も高く、寺を守る仏像たちも細い目を開けながら侵入者が入ってくれば「ぶつぞ~」というような雰囲気を醸し出していた。

マサよ、君はぬるまビールを片手にメコン河畔に沈みゆく太陽を見ながら郷愁に耽ったことがあるか!?

ということで、ラオスの最後の晩餐を飾るべく、メコン河岸をさまよっていると座敷を供えた青空食堂のおに~ちゃんが控えめに客引きしてきたので誘いに乗ってやることにした。座敷童子になった気分で特等席に陣取り、正三角形背もたれ座布団に体を預けようとすると汗臭いすえた香りが漂ってきたので前かがみの体勢で接触を避けることにした。早速ビア・ラーオとポテトフライと鶏肉のしょうが焼きを発注したのだが、出てきたビールは昨日の他の食堂のものとは打って変わって生ぬるいものであった。しかしながら、それは郷愁を誘うような生ぬるさであり、大河の暮れなずむ風景と相まって再びラオスへ来なければならないのではないかと思わせるようなセッティングとなってしまった。

午後9時30分発TG693便にてバンコクへ戻り、成田へと帰るANAのNH916便はお約束のビジネスクラスへのアップグレードとなった。同便は早朝に成田に到着するため、スチュワーデスからたたき起こされて朝飯を食わされるのがよいのか、そのまま寝過ごす方がよいのか選択を迫られたのだが、とりあえず飯は食うぜと注文しておいた。

10月9日(火)

午前8時過ぎに成田に到着、そのまま流れるような勢いで会社に出社。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \7,540  タイ国際航空 = THB8,340

総宿泊費  THB3,204.97  $151.8

総空港バス代 THB150

総タクシー代 THB800

総ラオスバス代 Kip4,000

ラオス国際空港使用料 $10

協力 ANA、タイ国際航空、PriorityClub(http://www.ichotelsgroup.com/h/d/6c/490/ja/home

FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in モルディブ

マサよ、君は地球温暖化現象の影響で今にも海に沈みそうな国家に上陸し、そのはかなくも美しい海洋資源に酔いしれたことがあるか!?

ということで、1998年から数度にわたるエルニーニョ現象や2004年12月の津波の被害を受けて最高海抜わずか3mの群島国家であるモルディブが危機に瀕しているという話を何度も聞かされていた。折りしも昨年日本沈没という映画が大ヒットをしそこねているわけであるが、日本列島より脆弱なモルディブが海に沈む前に何とか上陸を果たし、美しい海を目の当たりにして環境問題についての認識を新たにするために今回は多額の資金を投入することとなったのだった。

2月10日(土)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば6~7万くらいかかるところを私は税金と燃料Sur chargeの支払いだけで搭乗出来る午前10時50分発、JAL719便シンガポール行きに乗り込むと7時間40分のフライトでお馴染みのシンガポールチャンギ空港に午後5時半頃到着した。

到着後、シンガポール航空のラウンジでくつろいでいるとここの無線LANが有料であるという驚愕の事実に直面してしまったため、ThinkPad X40に内蔵されているIntel Centrino Mobileにただ乗り出来る無線LANを探させたところとなりのラウンジであると思われるマレーシア航空の電波を拾っていただいたので首尾よく無料でインターネットに接続し、昨晩までのビジネスマン仕様の名残である残務をこなすことに成功したのだった。

午後8時35分発SQ452便、B777-200機マーレ行きに搭乗すると3時間(日本からは4時間)の時差を超えて午後10時過ぎに念願のモルディブに到着した。イミグレーションをそそくさと抜け、建物から出ると目の前におびただしい数のリゾートのカウンターが軒を連ねていたので、今回宿泊する予定のKurumbaHotel等を要するUniversal Resortの担当者に名前を告げるとSQ452便で来やがった他の10人のリゾート野郎を待たなければならないのでその辺のカフェで待っててくれと言われた。

午後11時くらいに何とか全員集合となり、迎えのスピードボートに乗り込むとほんの10分程度のクルーズでモルディブ最古のリゾートとして名高いKurumba Maldives(http://www.kurumba.com/accommodations.html)に到着した。早速ウエルカム系のトロピカルドリンクを飲みながら、チェックインの手続きが施され、電動カートで部屋まで案内していただき、花で飾られたベッドとアウトドア吹き抜けのバスルームを目の当たりにしていやがおうでもリゾート気分が盛り上がってきたのだった。

2月11日(日)

早朝、窓から差し込むさわやかな光で目をさまし、50平米以上の広さを誇るスーぺりアルームから外に出てみるとそこに広がっている光景は色とりどりの花々とヤシの木を駆け上がる爬虫類、白い砂浜、どこまでも透き通る青い海といったマサに南国の楽園であったのだ!

早速ビーチに沿って狭い島を一周してみると30分もかからずに出発地点に戻ってきてしまった。また、ビーチに据え付けられているリクライニング式デッキチェアには各部屋の番号が示されており、容易に他のリゾート野郎の縄張りへの侵入が許されないのではないかと感じられもした。島の内陸部にはリゾートには欠かせないテニスコートやリゾートくんだりまで来てなおも運動を怠ることが出来ない自己管理者のためのマシンジムやリゾートの代名詞となっているスパが軒を連ねていた。

レストランでビュッフェ形式の朝食を食った後、念願であったモルディブの青い海に繰り出すことにした。専用のデッキチェアに手回り品を置いた後、白砂を踏みしめて透明の海に足を踏み入れたのだが、数歩進むと足の裏に鋭利な刺激を覚えてしまった。何と白砂に隠れたサンゴの死骸がそこかしこにシャープエッジを出しており、二足歩行を続けるのが困難になったので仰向け四つん這い状態で進まざるを得ない状態になってしまった。尚、島の周りには自然石を積み上げた堤防が形成されており、遊泳エリアは波もおだやかで深さも腰くらいまでしかなく、その分直射日光にさらされてしまうため、木陰に据え付けられているマイルームデッキチェアに戻ると寝転がって本を読むという欧米風のリゾート体制を長時間満喫することとなった。

午後3時くらいに再び青い海の誘惑に駆られて浅瀬をシュノーケリングすることにした。尚、FTB式のシュノーケリングはSPEEDの競泳用ゴーグルのみでヒレも呼吸用管もない単に肺にたまった空気に依存するシンプルなものであるが、それでも枝サンゴの密集地帯ではそこを住みかにしている熱帯魚たちと十分戯れることに成功した。海から上がるとビーチが夕焼けに染まっており、楽園地帯は幻想的な雰囲気につつまれていた。

2月12日(月)

♪あ~~わたしの恋は~みぃなみぃのぉ~風にのって はしぃるわ~~♪

というわけで、ここKurumbaは「青い珊瑚礁」系のキャピキャピカップルは少なくヨーロピアン系のしっとりしたリゾーターが多いため、島内が大人の雰囲気に包まれている。チェックアウトの12時迄の時間を使ってマイビーチで海面を浮遊しながら魚の生態の観察にうつつを抜かしていた。尚、浅瀬のハウスビーチといえどもサンゴは豊富でそこに居住しているシーフード候補は非常に多いわけで、時間の経つのも忘れて体の表面を赤く染めてしまったのだ。

正午前にチェックアウトし、フライトに合わせてチャーターされるフェリーの時間が午後8時45分なので向こう8時間ばかりの時間潰しをしなければならない。ホテルのReception周辺にはスーツ姿が似つかわしくない色黒の原住民系の男女が列をなしていた。彼らはリゾートにくつろぎにくるスリランカの大統領夫妻の取巻きであると思われた。

とりあえずチェックアウト直前まで自分の所有物であったビーチの木陰のRoom#235のデッキチェアに寝そべって読書をしたり、海に張り出したレストランであるオーシャングリルで遅いランチをエンジョイし、さらにプールサイドで読書をしながら優雅な時を過ごしていた。午後8時45分になり、送迎の高速ボートに乗り込むと10分で空港のあるフルレ島に到着し、モルディブの首都マーレからま~れ右をしてモルディブを後にした。

2月13日(火)

昨夜23時15分発のSQ415便に乗り、午前7時前にはシンガポールに到着していた。さらに8時15分発JL712便に搭乗し、午後4時に成田着、その後モルディブの海面を浮遊するように流れ解散となる。

モルディブ情報

*モルディブ共和国は1190の島からなる群島国家でそのうちの300はリゾート島である。基本的に一島一リゾート主義が貫かれており、狭い島内でリゾートが競合していることはないのである。

*一島一リゾートのため、一旦ひとつのリゾートに入ってしまうと他のリゾートへ移ることは出来ず、そこでの生活を満喫せざるを得なくなるのである。

*モルディブは海洋資源以外はすべて輸入に頼っているため一般的に物価が高く、リゾートホテルのレートも高めに設定されている。また、ガソリン代も高いため、ホテルの送迎ボート代も高めになっているのである。

*モルディブはその地理的ロケーションからヨーロッパのリゾート野郎が多く、いくつかのリゾートではヨーロッパ客の独占体制が敷かれているところもあるという。

FTBサマリー

総飛行機代  JAL \22,090(税金のみ)、シンガポール航空 S$1,127.00

総宿泊費 $748(朝食付き)

総送迎高速フェリー代 $50

協力 JAL、シンガポール航空、JTBトラベル、UNIVERSAL RESORTS(http://www.universalresorts.com/)

FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in セブ島、マクタン島

♪おっかのうえ、ひぃなげぇしぃの♪マサよ!

ということで、とりたてて「アグネス・チャン杯争奪 香港飲茶ツアー」を開催する意向もないまま、香港まで足を運ばなければならないのは世界有数の海の美しさを誇るフィリピンセブ島の移動拠点として香港国際空港が単に交通の便がいいからに他ならないのだが、年末のあわただしい中何とかセブ島までたどり着くべく長い足をさらに伸ばすことにしたのだ。

12月27日(水)

年末恒例の空港の混雑をものともせず、さらにビジネスクラスへの無条件アップグレードを勝ち得た私は颯爽とNH909便B747-400機に乗り込み、機内映画のUDONを見ながらワインを飲んで伸びてしまったものの午後2時過ぎには香港国際空港に到着した。空港からバスで九龍に向かい、何故か東海観光の株主優待券を利用して半額で宿泊することの出来るドーセットシービューホテルにチェックインした後、香港一のメインストリートであるネイサンロードを南下してハーバーの方へ向かった。

たそがれ時の香港ハーバーは徐々に明かりが灯り始め、町中がいまだにクリスマスの余韻のイルミネーションに満たされている光景が浮かび上がってきた。対岸の香港島の高層ビルが醸し出す100万香港ドルの夜景を目の前にしてハーバーウォークを満喫しているとふとドラゴンへの道が切り開かれた感覚を覚えてしまった。すると目の前に香港最強のムービースターであるブルース・リーが「アチョー!」のポーズを決めている銅像が死亡遊戯を楽しむがごとく、道行く観光客の行く手を阻んでいたのであった!

12月28日(木)

世界有数の優良エアーラインであるキャセイパシフィクが誇るB777-300機、セブ行きは定刻より30分程遅れたものの、午前9時半には離陸し、正午過ぎにマクタン・セブ国際空港に到着した。入国後すぐに今回の宿泊地であるHilton Cebu Resort & Spaの看板を掲げた若者をとっ捕まえると車を手配させて早速ホテルに向かった。

12月中旬に予定されていたASEAN SUMMITが台風という口実で中止になり、その余韻の横断幕がむなしくあちこちに掲げられていたのだが、本当はテロの脅威が迫っていたため、ホテルの入り口では警察犬を駆使した慎重な安全管理がなされていた。ヒルトンホテルはマクタン島東海岸のリゾートホテルの中で最も新しく、3つのタワーがビーチを見下ろすようにそびえている。レセプションで提供されるグアバジュースを一気に飲み干すと11階の部屋にチェックインし、そのままビーチに向かった。

岩礁地帯に白砂を移植したであろう人工っぽいビーチの遊泳地帯はブイで仕切られており、餌付けされている熱帯魚がゆらゆらスイミングしている姿を間近で見ることが出来、また波がおだやかなのでシュノーケルにもってこいのコンディションであることが確認された。ホテルを出て半島の最端を目指して歩いているとそこはもはやリゾート地ではなく、単なる田舎の明るい漁村の様相を呈しており、屈託のない笑顔をたたえた原住民青少年少女が容赦なく、「アンニョンハセヨ!」と声をかけてくれるのであった。

12月29日(金)

早朝より、ビーチでシュノーケリングをしながら熱帯魚と戯れた後、徒歩で町に繰り出すことにした。

マサよ、君はセブ島へのツアー客の多くがマクタン島にとどまりセブ島に上陸しないまま去っていく事実を把握しているか!?

ということで、マクタン島北東に突き出た半島の付け根にマゼラン記念碑とラプラプ像が君臨している。世界的探検家であるマゼランは1521年にセブに上陸して以来、キリスト教の布教に精力を傾けていたのだが、マクタン島の酋長であるラプラプだけはこの侵略に戦いを挑んでいたそうだ。その結果マゼランはラプラプとはラブラブにならないまま殺害されてしまい、彼の野望は海の藻屑と消え、ラプラプは英雄としてその名を残しているのである。

マクタン島とセブ島は2本の橋で繋がっており、セブ本島に上陸しないとセブ島に来たことにはならないのでまずは第2マンダウエ・マクタン大橋を徒歩で渡りきることにした。橋の最高部にはこの橋が日本のODAにより建設された看板が誇らしげに掲げられており、また橋の上からはセブ本島とマクタン島の間の海峡を一望することが出来、そこにはリゾートエリアとは正反対のバラック系の居住地や廃船家屋がならんでおり、セブエリア原住民の本来の生活様式を垣間見ることが出来るのだった。

炎天下の中すでに10km以上も歩いて何とかセブ本島に上陸することに成功した訳だが、さすがにフィリピン第3の都市であるセブシティを持つ本島だけあり、広い道路と大きな船が行き来する港湾ファシリティが印象的であった。脱水症状を免れるために第1マンダウエ・マクタン大橋を渡り、マクタン島へと撤収する道すがら、橋の欄干が非常に低くマリンブルーの海に転落する恐怖を覚えながら何とかマクタン島へとたどり着いたのであった。マクタン島のとあるインターネットカフェ(P25/hr)でアンチウイルスソフトがインストールされていないPCでサーフィンの練習をした後、そそくさとホテルへの帰路を急いだ。

再び10数kmの道を歩きホテルに戻ったころには身も心もボロボロになっていたのでヒルトンリゾートの売りのひとつであるスパで人間性を取り戻すことにした。数多くのメニューの中から、スタンダードなマクタン・マッサージ(P2,400)を選択すると待合室にてジンジャーティーで一息入れた後、セラピストの案内で施術室へと案内された。まずはトイレ兼更衣室でスッポンポンになり、ガウンをまとったのはいいのだが、ベッドですぐにガウンを脱がされてうつ伏せにされ、フィリピンマダムからアロマ系のオイルを全身になすりつけられながら1時間もの恍惚の時を過ごすことになったのであった。

12月30日(土)

昨夜のスパでスパッと英気を取り戻すことに成功したので朝から海でひと暴れをと考えていたのだが、あいにくの嵐まがいの荒天だったため、11階の部屋からビーチとプールを恨めしげに眺めてこの島の上客はもはや日本人ではなく韓国人であることを思い知った後、ホテルをチェックアウトし、タクシーの運ちゃんに高額チップをたくして日本人の実力を思い知らせながら空港へ到着した。

CX920便にて晴天の香港に到着したのは午後4時近くになっていたため、そのまま空港バスに乗り込み香港島に向かった。楽天トラベルに予約させておいた港島太平洋ホテルは空港で入手した都市地図の圏外に位置していたため、場所を特定するのに街中を3時間程歩き回ったものの疲れを感じなかったのはスパのスバらしさであることを認識しながら香港での夜を過ごしていた。

12月31日(日)

NH912便、B767-300機にて午後2時半頃には帰国、その後引き続き次回FTBのアクティビティのために奔走。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥46,980(ANA)、HK$3,834.- (キャセイパシフィック)

総宿泊費 HK$1,548.1(HKD1 = \15.3)、P19,504.94(P1 = \2.4)

総香港バス代 HK$117.2

総香港トラム代 HK$2.0

総マクタン島車代 P770

総マクタン・セブ空港使用料 P550

協力 ANA、キャセイパシフィック航空、HiltonHHonors、東海観光、楽天トラベル

FTBSEAインド洋の真珠スリランカツアー

マサよ、君は外務省の海外安全情報(http://www.pubanzen.mofa.go.jp/)でスリランカに「十分注意して下さい」という警告が出されているにもかかわらずスリルを味わうために強行渡航し、刑事コロンボの活躍により、思いがけず現地が安全であることに気づかされた経験をしたことがあるか!?

2006年11月23日(木)

午前10時45分発ANA111便シンガポール行きB767-300ER機は定刻通り成田空港を離陸すると午後5時過ぎにはシンガポールチャンギ国際空港に到着した。空港からMRTに乗り込み、ハーバーフロント駅で下車するとシャトルバスにてセントーサ島を目指した。シンガポール最強のリゾートアイランドであるセントーサ島にS$2の入場料の支払いで侵入すると島内巡回バスに乗り、マーライオンタワー前で下車した。日もとっぷり暮れた闇の中で不気味な目を光らせているマーライオンタワーは本家のチャチなマーライオンよりもワイルドな作りとなっているのだが、それでも安っぽい印象をぬぐいさることは出来なかった。

チャンギ空港へと戻り、午後10時45分発SQ468便、シンガポール航空が誇るB777-200機に乗り込むと2時間半の時差を超えて深夜12時前にコロンボのバンダーラナーヤカ国際空港に到着した。空港のArrivalを出るとHilton Colomboの看板を掲げたおっさんが客待ち兼客引きのアクティビティを行っていたのでシャトルバスはないか聞いたところ、勝手に車を手配しやがったのでRs2000の支払いで午前1時過ぎには安全にホテルに到着することに成功した。

11月24日(金)

HiltonHHonorsゴールド会員の身分制度により17階のExecutive floorにアップグレードされていたので起き抜けに窓から外を見渡すとスリランカ随一の大都会であるコロンボの喧騒と目の前に広がるインド洋の洋々たる景色が広がっていた。ホテルはフォートという昔は島を防衛する砦があったのだが、今は行政と経済の中心になっている要衝地区に位置しているので街中では至るところに軍隊と刑事コロンボによる厳戒な警備体制が敷かれていた。

インドの喧騒を彷彿とさせるぺター地区では至るところがバザールでござ~るになっており、人ごみをかきわけて何とかセントラルバスターミナルにたどり着いた。排ガス規制のなされていない赤色の国営バスに乗り込み、エアコンなし窓全開状態で112kmの距離を3時間半もの時間をかけ、顔中すすだらけ状態になりながら古都キャンディに到着した。

世界遺産に認定されているキャンディはシンハラ王朝最後の都であり、遷都を繰り返したシンハラ王朝が16世紀末にたどり着いたのがこの地であり、それからイギリスの植民地となる1815年まで300年間の間、首都として繁栄したそうだ。キャンディの中心に19世紀初めに造られたキャンディ湖が佇んでいたのでまずは湖岸を一周してみることにした。

マサよ、君は陸の王者もびっくりするインドリクオオトカゲが水陸両用である事実に直面したことがあるか!?

ということで、キャンディ湖周辺を歩いていると♪そばかすなんて気にしない♪ほど色黒の少女に数多く遭遇することは想定の範囲内であったのだが、体調1mを超える巨大な爬虫類が水辺をノシノシ歩いたり、湖水浴をしている光景を目撃したことはマサに予想外であり、熱帯野生の王国スリランカの実力をマザマザと見せつけられた気がした。

キャンディ湖畔に佇んでいるスリランカを代表する仏教寺院として仏歯寺が君臨しており、ここに来なければスリランカに来たことにはならないと言われているので参拝させていただくことにした。土足厳禁の宗教ファシリティのため、靴を物じちにとられる必要があるのだが、靴を預けていると誠実そうに見える青年が仏歯寺の方ではなく、別のヒンドゥー寺院の方へ行けという合図をしたので黙って従うと彼が後からついてきやがった。観光地区恒例の頼んでもいないのにガイドを始めるという古典的観光商売の手法に乗せられていると気づきながらも心の優しい私は邪険には出来ないと思ったので奴のガイドに乗ってやることにした。

さすがに昔セイロンと言われていた島だけあり、彼の説明はすべて正論だと思われたので、とある寺院で日本人旅行者がRs2,000の寄付をしたというわざとらしいノートを見せつけられてそれがサクラ系だとうすうす感づいていたものの私もつられてRs1,000のお布施をしてしまった。その後シンハラ王朝の王宮系のファシリティ等を見学した後、ついに仏歯寺の境内(Rs500、写真撮影Rs150)に侵入することと相成った。

仏歯寺は肌色の壁に茶色の屋根で、シンハラ建築様式の八角形の堂が美しいバランスを保って建っており、お堂の中にはタイ、インド、日本等、世界各国の仏教国から拉致された仏像が奉納されているのだ。尚、仏歯の由来であるが、紀元前543年にインドでブッダを火葬した際、その中からやっとの思いで入手したブッダの歯を歯科技工士の加工を施すことなく奉納されているからであるが、この歯はセイロンで都が転々とするたびに一緒に運ばれてきたそうだ。

また、仏歯寺の見所のひとつとして故プレマダサ大統領に愛された象の剥製があり、そいつはキャンディを賑わす夏の風物詩であるペラヘラ祭では仏歯を背に街中を練り歩くという大役を長年務めてきたそうだ。今にも動き出しそうな巨象の剥製を見てゾ~としたせいかお布施を要求する象番の攻撃を自動的にかわすことに成功し、そのまま仏歯寺の境内に突入することと相成った。境内は至るところが鮮やかな装飾で彩られているのだが、最も印象的なのはブッダの一生が描かれている10数枚の仏教パネルであった。ところで仏歯寺観光を終える段階で押しかけガイドにUS$20もの大金をくれてやったので、お布施とあわせて間違いなく徳を積むことに成功したのは疑いようのない事実であったろう。

マサよ、君は日本でお払い箱になった払い下げバスがどこで余生を送っているか知っているか!?

ということで、キャンディからコロンボへの帰路にはインターシティという民営のバスを使ったのだが、エアコン完備のそのバスは昔日本で活躍していた仕様、外観そのものであった。尚、スリランカにはXXXXスイミングスクール、XXXX自動車学校、XXXX工務店という装飾が施されたマイクロバス等がそこかしこで活躍しているのだが、スリランカ人の日本語理解には一役も買ってないのではないかと懸念しながら冷房の微調整が効かない寒い車内でコロンボへ帰っていった。

11月25日(土)

早朝Hilton Colomboをチェックアウトするとインターシティバスターミナルでゴール(GALLE)行き(Rs150)日本製マイクロバスに乗り込み、インド洋沿岸南下ドライブと洒落込むことにした。バスに揺られて3時間程度経過した頃、オフサイドなしに相手チームのネットを揺さぶった時の快感を味わった感覚を覚えるとゴールに到着したことに気づかされた

世界遺産に登録されているゴール旧市街と要塞はもともとはアラブ商人たちの中継貿易港として栄えていた港町であったのだが、16世紀末にポルトガル人が入植し砦が築かれ、17世紀になると今度はオランダ人がその砦を拡張し、砦の中に町を造り、それが要塞都市ゴールの原型となっている。ゴールの町は半島を囲む砦の中の旧市街と、その北側の新市街に分けられるのだが、見所は旧市街に固まっているので赤茶色の石造りの時計塔をたよりに歩を進めることにした。ゴールには特にキーパーの姿も見あたらないので勝手に侵入することが可能であったので、まずは砦の上に沿って一周してみることにした。

土曜日の昼下がりということもあり、透明なインド洋に面する石砦にはゴールイン直前だと思われるカップルやアベックが溜まっており、フリーキックで壁を越えてネットを揺さぶりそうな熱気を充満させていた。一方、ビーチでは家族連れがのんきに海水浴やマリンスポーツを楽しんでおり、マサに沿岸部のワールドカップ状態と化していた。

ゴールには雨でのロスタイムも含めて90分ほど滞在し、決着が付かなかったが、延長戦を戦う気力も残されていなかったのでバスでコロンボに帰ってきた。Hilton Colomboで晩飯を食った後、ホテルに手配させた車に乗り込み、刑事コロンボの治安維持に感謝しつつ、そのままコロンボ空港まで引き上げることとなった。

11月26日(日)

午前1時10分発のSQ469便に搭乗し、深夜の機内食に目もくれることなく意識を失うと早朝シンガポール空港に到着し、午前8時45分発のANA112便にて帰国し、日本では刑事コロンボが着用しているトレンチコートが必要なほど冷え込んでいる現実に直面し、そのまま流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥9,220, シンガポール航空 = S$951.-

総シンガポールMRT代 S$3.8

総スリランカタクシー代 Rs4,000(Rs1=約¥1.1)

総スリランカバス代 Rs546

総宿泊費 Rs20,488

総仏歯寺ガイド料 US$20

総仏歯寺お布施 Rs1,300

協力 ANA、シンガポール航空、HiltonHHonors

FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in ビンタン島

マサよ、君はシンガポールの沖合いにお手軽リゾートが軽く浮かんでいることを知っているか!?

ということで、これまで飛行機の乗り継ぎ地点としてしか見なしていなかった中継貿易都市シンガポールであったが、高速フェリーを漕いでわずか45分程度で到着する夢の楽園の存在が確認されたため、急遽飛行機を飛ばしてその島の実態を確認するミッションが発生してしまったのだ。

11月2日(木)

高速フェリーをしのぐ早さで仕事をこなすことが出来る私は、軽く午前中で仕事を強制終了させるとその足で成田空港に向かい、午後5時25分発のANA901便シンガポール行きB767-300ER機に搭乗した。深夜12時過ぎにシンガポールチャンギ国際空港に到着するとここでの常宿に指定されたTransit Hotelが午前2時過ぎに予約していない不貞の輩に対する空き部屋を提供するのを待って、何とかひと部屋に潜り込むことに成功し、そのまま朝を迎えることとなった。

11月3日(金)

約6年ぶりのシンガポールへの入国を果たすと早速MRTでタラメラ駅まで移動し、そこから冷房なしバスに乗り換えてタラメラフェリーターミナルを目指した。インドネシアのビンタン島やバタム島へのフェリーを運航させているタラメラフェリーターミナルのチケットカウンターにて早速手の平と甲で連続して頬を打たれる感覚で往復ビンタンチケットを入手すると午前11時発のビンタンリゾートフェリーに乗り込みわずか45分の航海でインドネシアのビンタン島への到着を果たした。

フェリーターミナルのイミグレーションでつつがなくインドネシアへの入国を果たすと予約していたビンタンラグーンリゾートのシャトルバスが待っていたのでそそくさと乗り込むと10分程度で目的地に到着した。ホテルの正面玄関にバスが停車するのを待ちかねていたかのように数人の踊り子がウエルカム南国ダンスをかましているその間隙を縫ってロビーに到着し、チェックインを果たしたものの午後2時まで部屋の準備が出来ないということだったのでロビーで脳みそを溶かしながらボケ~と過ごしていた。無事部屋への侵入を許されるとそこで待っていたものは多湿地帯特有のほんのりとカビの香りを含んだオーシャンビューサンデッキテラス付きのラグジャリーリゾートルームであったのだ!

海パン、Tシャツ、ビーサンから構成される基本的リゾートの身なりを整えると巨大プールサイド地帯を抜け、海辺のマッサージギャルや野郎を横目に透明ビーチに繰り出すことにした。思ったより波が高いビーチは遊泳には不向きであるが、バナナボートやジェットスキー等のマリンリゾートには適しているようで打ち寄せる波に対して延髄切り等をかましていると丁度良い具合のトレーニングになることが実感されたのだった。

日もとっぷり暮れるとリゾートディナータイムを告げるかのようにシーサイドに灯火が灯り始めた。NELAYAN GRILLというシーフードレストランがビーチにテーブルを展開して指名料なしに新鮮な魚介を指名出来るので300gの現役ロブスターを発注し、波の音を聞きながら待っていると火傷したロブスターに変貌を遂げて私の前に現れた。ビンタンリゾートでの飲食代は通常のアジアンリゾートの相場を上回っているのだが、この優雅な雰囲気を少しでも味わえばすぐに元が取れ、しかもお得感が上回ることはすぐに実感出来るのであった。

11月4日(土)

早朝よりビーチのデッキチェアにごろ寝して波の音を聞いたり、プールにドボンしたりして時間をやり過ごし、各国バイキング料理の朝食で腹を満たした後、カビ臭いビンタンリゾートの部屋には備長炭で対策すべきだと考えながら午後1時過ぎにシャトルバスにてリゾートを後にした。ところでビンタン島のリゾート地区は北部の狭いエリアに限定されており、そこではシンガポールドルでの取引が行われているのだが、一歩島の奥に足を踏み入れると普通のインドネシアの田舎町が出現し、現地通貨であるインドネシアルピアでの安価な商売がなされているそうだ。

満席の午後2時発のフェリーにキャンセル待ちで潜り込むと1時間の時差を超えて4時くらいにシンガポールに戻ってきた。その足でバスとMRTを乗り継いでラッフルズブルバード近くにそびえる最高級レベルのホテルであるConrad Cetennial Singaporeにしけこんだ。高層階の部屋の窓からはメトロポリス特有の夜景がきらきらと展開され、図らずも優雅な夜を満喫することと相成った。

11月5日(日)

午前8時45分発NH112便にてシンガポールを後にすると着陸時に往復ビンタを打たれたような衝撃を受けながらも午後4時過ぎには成田空港に到着し、そのまま流れ解散となる。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥62,230

総宿泊費 S$518.85

総フェリー代 S$52.20

総MRT代 S$4.5

総バス代 S$1.6

協力 ANA、HiltonHHonors、ビンタンラグーンリゾート(http://web.bintanlagoon.com/

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in ペナン島

例年より冬の訪れが早く感じられ、朝ふとんから抜け出すのに一苦労する今日この頃であるが、そんなだらけた雰囲気を一掃するために年中プールに入れる南国を求めてマレーシアの首都クアラルンプールを目指し、♪Malaysia Truly Asia♪の雰囲気を満喫するツアーに繰出すことにした。

2005年11月23日(水)

マレーシア航空が運行するANAとのコードシェア便NH5855便、B777-200機は定刻午前10時前に離陸すると深緑ボディコン系民族衣装制服に身を包んだマレースチュ-ワーデスの手厚いサービスを受けながら順調に航行していた。飛行機男として有名な私であるが、何故かシートテレビで選択した日本映画「電車男」を見ながら免税品の「エルメス」のスカーフを買い占めてやろうという野望もむなしく、エルメスは販売していないという現実に直面し、何とか無駄使いを防ぐことに成功した。

KLIAという略称で有名なクアラルンプール国際空港に午後5時過ぎに到着するとKLIAエクスプレスという空港と市内をノンストップで結ぶ特急列車(RM35)に乗り込み、約28分の列車の旅でKLセントラル駅に乗り込んだ。あいにくの雨模様の天気ににもかかわらず、アジア有数の大都会であるクアラルンプールのダイナミズムを実感するために徒歩で本日宿泊する予定のWESTINホテルを目指した。モータリゼーションの進行したクアラルンプールの街並みは複雑でわかりにくく、結局ネオン輝く大都会を2時間ほどさまよって午後8時過ぎに高級地域にそびえているWESTINホテルにチェックインすることが出来たのであった。

11月24日(木)

都市モノレールでKLセントラルステーションに向かい、そこからKLIAに乗り、再び空港に戻ってきた。マレーシア航空国内線が誇るクアラルンプール-ペナン島間は一日に数多くの便を就航させているので午前9時15分の便に搭乗すると1時間程度のフライトでペナン島国際空港に着陸した。

小雨そぼ降る中、適当な汚れ系のバスに乗り、空港方面からペナン島のダウンタウンとして有名なジョージタウンを目指すと30分ほどでペナン島のランドマークになっている65階建ての高層ビルKOMTARに到着した。今日は天気が悪かったので予約していたシェラトンホテルにそそくさとチェックインして軽く落ち着きを取り戻した後、イギリスの影響が色濃く残るジョージタウンの見学に繰り出すことにした。

ペナン博物館(RM2)というペナン島の歴史、文化、自然をダイジェストに学習するのに最適なファシリティが私を待ち構えていたので入ってみることにした。館内には日本軍人を含むペナン島に侵入してきた諸民族の紹介展示や人々の衣装や暮らしぶりが紹介されており、雨の中時間潰しに来たであろうバックパッカー系の白人観光客数人がたむろしていたのだった。

11月25日(金)

今日は朝から本格的にペナン島の調査に乗り出すことにした。ペナン島には様様な宗教の寺院があるのだが、今回はKOMTARからバスに乗りこむとマレーシア最大の仏教寺院である極楽寺を訪問することにした。12万㎡の広大な敷地内にカラフルな建物群が建ち並んでおり、地元華人にも観光客にも人気の高い寺院である。高台にはペナン島遠景を見下ろす巨大な仏陀像がそびえており、、また高さ30m、7層からなるパゴダはビルマ風、タイ風、中国風が混在しているエスニックの粋を集めて建立されたものとなっているのだ。

1922年に敷設されたペナン名物のケーブルカー(往復RM4)に乗り込み30分ほどの時間をかけて標高692mのペナンヒルに登頂した。折からの雨模様の天気も何とか持ち直し、頂上からはこれぞ「東洋の真珠」にふさわしいすばらしい景色を堪能することに成功した。尚,この場所は蒸し暑いペナン島の中の高原のリゾート風の様相を呈しており、すばらしい風景はジョージタウンやマリンブルーの海原のみならず、遠くマレー半島の緑のジャングルにまでおよんでいるのだ。

ペナン島のリゾートビーチは島の北部に集中しており、ジョージタウンからバスでアクセスする事が出来るので、代表的なビーチリゾートであるバトゥ・フェリンギまでバスを転がしてやってくることにした。ペナン島の海は「東洋の真珠」と言われる割にはウーロン茶系の色が混じっており、そんなにきれいだとは思えないのでここでのアクティビティはきれいな海を眺めるよりもひたすらジェットボートやパラセイリング等のマリンスポーツに励まざるを得なくなる現状が確認された。

夕飯時になったのでフェリンギの有名なステーキレストランであり、巨大な船の形をしたThe Shipという肉屋に入ったのだが、木造の有名レストランでも湿気のマネージメントが出来ていないらしく、一歩店内に入ると一瞬でカビの香りに包まれてしまったのだが、我慢して高値のステーキを口にしながら無理やりリゾート気分に浸っていたのであった。

11月26日(土)

ゴムや錫のプランテーションから脱却し、工業化に成功しているマレーシアにはプロトンという国産車が縦横無尽に走っている。そのプロトン製のタクシーでKOMTARからペナン空港に戻ると、午前9時過ぎのマレーシア航空便でクアラルンプールに帰還することにした。尚,ペナン島のお土産にペナントでも?と思っていたのだが、無かったので恒例の手ぶらで引き上げることに相成った。

マサよ、君は世界で一番高いビルがマレーシアくんだりにそびえていることを知っているか!? しかも2棟もだぜ!!!

ということでクアラルンプール市内に戻るとKLCC(Kuala Lumpur City Center)という最大のビジネスセンターに繰出し、高さ452mを誇るペトロナス・ツインタワーの周辺を散策することにした。マレーシアの国営石油会社であるペトロナス社の発注により、ツインタワーのうちタワー1は日本、タワー2は韓国のゼネコンが請け負うことになり、双方の意地とテクノロジーが結集されて1998年に竣工しているものなのだ。ところで私がわざわざここまで足を運んで来た目的は言うまでもなく、これらのビルが耐震性の安全基準を満たしているかどうかの疑問をぶつけるために姉歯建築士の偽装工作話をリークするためだったのだが、土曜日はオフィスは開いてなかったので仕方なくタワーの麓に隣接されているショッピングセンターで飯を食うだけにとどまってしまった。ちなみにショッピングセンターの周辺でフレンドリーに声をかけてくる老若男女が多数いるのだが、彼らは間違いなく恒例の「ブラックジャック詐欺」の鴨を探している輩だと認識していたので、真剣勝負しか興味ない私には「ババ抜き」で来い!と言い返すしかなかったのだ。

結局ペトロナスタワーに登頂することも、姉歯の不正をチくることも出来なかったのだが、高いところにはどうしても登る必要があったため、地上421mで東南アジア一、世界で4番目の高さを誇るKLタワー(RM20)に登ることにした。地上276mの展望台にエレベータで到着するとヘッドホンセットを手渡され、かつ日本語にチャンネルまで合わされてしまったのでこのタワーから見える景色の解説を聞いてやることにした。聞くところによるとクアラルンプールは地盤が非常に強固なため、高層ビルの建築に適しているそうで西新宿や東京タワーが束になってかかってきても太刀打ち出来ないほどのビル群をタワーから見下ろす事が出来た。また、解説いわく、光のガーデンといわれるクアラルンプールの夜景を見るためには昼だけでなく、夜もこのタワーに登ってきやがれというプロモーションも忘れてはなかったのだ!

KLタワーから下界に降りるとその足でマスジッド・ジャメという美しいモスクを過ぎてムルデカ・スクエアという独立広場に向かった。この広場の周辺にはアラビアンナイト風のエキゾチックな建物が並び、高さ100mの世界一高いフラッグポールには独立を祝うかのようにマレーシアの国旗が風になびいていたのだった。

総飛行機代  \63,210 + RM352 (RM1 = \31)

総宿泊費  RM788.5

総KLIA Express代 RM140

総ペナン島バス代 RM8.7

総ペナン島タクシー代 RM30

総クアラルンプールモノレール代 RM6.9

協力 ANA、マレーシア航空、STARWOOD PREFERED GUEST

FTBSEAエキサイティング インド入門

♪インドの山奥で しゅ~ぎょ~をしてぇ~ ダイバダッダのたましいやどしぃ♪http://www.urban.ne.jp/home/ak1go/tvhero10.html

というわけで、かつてタケチャンマンとよばれたこともある私であるが、当時相手にしていた敵はブラックデビル、妖怪人間しっとるけ、なんですか~マン、アホちゃいまんねんパ~でんねん等の単なる色物系に過ぎなかった。さらなる強敵「死ね死ね団」http://www.urban.ne.jp/home/ak1go/Rein2.htmlに対抗するためにはインドへ行ってダイバダッダの下で修行をしてレインボーマンにならなければならない。なぜなら、ダイバダッダではなく台場程度でしか修行をしていないであろう財務官僚であれば、不祥事を起こしたときにせいぜい「レ陰謀マン」の土の化身に変身して地中深くもぐることしか出来ないと思われたからだ。

2005年3月16日(水)

ANAのマイレージが余っていたのでマサであれば14~15万くらいかかるところを私はただで入手していた東京-バンコク往復チケットを手にANA953便にて定刻10時20分に成田を出発した。午後3時頃にはB767-300機は着陸体制に入り、眼下を見ると何と空港の敷地内に紫外線対策を施したキャディを従えてクラブを振り回している輩を多数発見してしまった!今までタイ国際空港には夜しか来たことがなかったので気がつかなかったのだが、ここには滑走路と滑走路の間にゴルフ場が展開されており、飛行機の離着陸の騒音に悩まされながらダブルボギーで回ることが出来るのだった!!

バンコクはインド各都市との乗り継ぎ便が多いため、今回はタイ国際航空を利用してデリーを目指すことにした。TG315便、A330機は定刻より少し遅れて午後8時15分頃離陸し、3時間強のフライトで深夜デリーのインディラ・ガーンディー国際空港に到着した。早速空港内の銀行でUS$70を提出するとインドルピー(Rs)2,950になって返ってきたので、札束を握りしめて空港バスに乗ることにした。EATS社というオンボロ系の空港バスが停泊していたので早速乗り込み出発を待っていたのだが、何と客が私以外にいなかったのでおっさんが運行をキャンセルするので他のバスを待てと言いやがった。30分くらいするとDTC(Delhi TransportCorporation)社のバス(Rs50)が現れて今度は多少インド人の乗客も増えていたのでバスは無事に走り出すことになったのだが、空港を出ると深夜にもかかわらずひどい渋滞に巻き込まれてしまったのだ。

20km程度の道のりを1時間半程かかったのであろうか、バスがデリーの中心部のコンノートプレースに到着するとバスを降りて予約しておいた☆☆☆☆☆ホテルであるメトロポリタン・ホテル・ニッコーを探すことにした。暗がりの中地図と方位磁石を頼りに街中をさまよっていると地面に人が寝ていたり、犬が追いかけて来たり、怪しいオートリクシャーの運転手がしきりに客引きしようと迫ってくるので最高レベルの注意をしながらホテル方面に早足で歩いていた。

30~40分くらい歩いているとうまく方向感がつかめてきて、Hotel Nikkoへの道のりを示す道看板も現れてきたので多少安心感が広がったころ思いもつかぬ出来事に遭遇してしまった。とあるインド人のおっさんががしきりに「Where are you going?」と何度も声をかけてきてしつこく付きまとって来たので無視して歩いていると奴はいきなり背後から私の後頭部をはたくという暴挙に出やがった。「早速死ね死ね団の手先の登場か!?」と思い、延髄斬りナマステバージョンで応戦しようかと思ったが、インドに来ていきなり引導を渡すか渡されるかの大立ち回りを演じるにはまだ修行が足りないと思ったのでここは六本木のマハラジャで鍛えたカレーな!?ステップを駆使して攻撃をかわし、一目散に逃げることにした。

何とか死ね死ね団員?の魔の手を逃れてホテルにしけこみ、落ち着いた頃には深夜の2時を回った時間帯であった。いずれにしても深夜のデリーを徘徊することが非常に危険な行為であることが教訓として深く刻み込まれたのであった。

3月17日(木)

朝8時半頃目を覚ますとここデリーは日本との時差が3時間30分という中途半端な時間体制を取っていることに気づかされた。早速ホテルを出て昨夜恐怖を演出した町並みが朝方どのように変化しているかを確認するために昨日通った道筋に沿ってコンノートプレイスを目指した。ホテルから出てほどなくすると何がしかの客引き系の輩が入れ替わり立ち替わり話かけてきて目的地のコンノートプレースではない路地の方向に私を導こうと躍起になっており、1人あたり平均100mはくっついて来たので適当にいなしながら進んで行った。

ニューデリーのヘソと言われ、リング状に繁華街を形成しているコンノートプレースはイギリスの植民地時代の都市計画によって建設されたニューデリーの中心のひとつでここから各方面に放射状に道が伸びているのだ。恐らくインドで最も発展した地域であるのは間違いないのだが、歩行者用の信号が機能していないので道を横断するのにリスクを犯さなければならないのだ。コンノートプレースをぐるっとひと周りしながら落ち着いて地図が見れる人気の少ない場所を探したのだが、あるはずもなかったのでとりあえずホテルに戻り体制と行動計画を仕切りなおすことにした。

強固な城壁とガードマンにより外界から隔離されたホテルのロビーは市内の喧騒とはかけ離れた別天地であるので地図を大きく広げて観光地を物色し、今日はニューデリー市街地の南部方面を散策することにし、気を取り直して民衆の渦の世界に再び舞い戻ることにした。1時間ほど歩いて国立博物館(Rs150)に到着した。ここにはインダス文明から中世、近代にかけての貴重なお宝が数多く展示されているのだが、中でもゴダイゴが喜びそうなガンダーラの仏像やヒンドゥー寺院の彫刻、神像等が目を引いた。国立博物館から東に目をやると高さ42mのインド門が第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑としてそびえているので見物しに行ってきた。さらに逆方向の西側の丘の上には大統領官邸が鎮座しており、その近辺には陰謀渦巻くであろう国会議事堂の円形の建物が建ち、一大官庁街を形成していた。

午後4時頃にコンノートプレースに戻り、マクドナルドで遅い昼飯を食うことにしたのだが、ヒンドゥー教徒が仕切っているマックのメニューには牛を殺生して挽肉にしたハンバーガーのメニューはなく、チキン、フィッシュ、べジーやカレー等のオリジナルメニューが幅を利かせていたのでMac Curry Panセット(Rs99)という長方形のナン系の土台にインドカレーが流し込まれた物を発注した。尚、メニュー表で燦然と輝いていたマック・マハラジャ・チキンという代物がビッグ・マックに相当する物であろうと予想された。 

インドの街中を歩いていると当然のように民族衣装であるマハリク・マハリタ系のサリーを着こなした女性が闊歩している姿を見かける。私も少しでもインドに溶け込むためにサリーにあやかり、せめてサリパパ(サリーのパパ)ヘアーの寝ぐせをつけるために無意識にホテルのベッドで頭を枕に擦りつけながら奮闘したのだが、成果物は単なるカブの後ろ髪にとどまってしまった。 

3月18日(金)

昨日は主に新興のニューデリーを散策させていただいたのだが、今日は恐怖の人間のるつぼと言われるオールドデリーに満を持して足を踏み入れることにした。デリーは言わずと知れたインドの首都であるが、それがニューデリーを指すのか普通のデリーなのか素人には判断が付きにくいものであろう。原住民がオールドデリーと呼ぶ普通のデリーはニューデリーに隣接しており、それらの位置的関係は横浜と新横浜というよりもむしろ大久保と新大久保に近いと思われたのだが、一歩オールドデリーに足を踏み入れると町の雰囲気が一変してしまうのだ。

コンノートプレースのすぐ北側はすでにオールドデリーであり、ニューデリー駅でさえ、オールドデリーの一帯に組み入れられているのだが、そこには無数の人間とオートリクシャー、サイクルリクシャー、野良犬、牛等が交差する一大無法地帯の様相を呈していた。牛の中には荷物引きとしての定職に就いて活躍しているものもいるのだが、多くの牛はフリーターとして道端でだらだらした生活を送っているようで、この地域はほこりと人いきれと牛でマサにモ~モ~とした空気に満ち溢れていた。但し、野良犬にとっては食い物がたくさん落ちているのでワン!ダーランドと言えるのではないだろうか?

オールドデリーを代表する観光地としてRed Fort(赤い砦)と呼ばれるラ-ル・キラー(Rs100)が17世紀のムガル帝国の栄華を偲ばせるような出で立ちで君臨しているので入ってみることにした。赤砂岩で造営された堂々たる城壁の内部は緑の芝生と重厚な建物群のコントラストが美しく、その上、外界から隔離されているので観光地というよりも人込みに揉まれて疲れきった観光客が自分を取り戻すための避難所として有効に機能しているのではないかという気さえした。

ラ-ル・キラーから距離的に近いのだが、人込みをかき分けなければならないので到着するのに時間がかかる場所にジャマー・マスジッドというイスラムのモスクが町を見下ろす高台にそびえているので靴を脱いでお邪魔させていただくことにした。1658年に完成し、インド最大の規模を誇るイスラムのシンボルは赤砂岩と白大理石を配した美しいドームやミナレット(塔)から成り、中庭は2万5000人を収容可能な広さを誇っている。金曜日は集団礼拝の日ということもあり、本堂の前には安物のじゅうたんをはじめとした礼拝体制が敷かれていた。

3月19日(土)

今回のインド入門ツアーの予定としてインド北部の3主要都市の徘徊が組まれていたので、早朝ホテルニッコーをチェックアウトするとインド門にほど近い、ジャイプル行きバスターミナルへ向かった。一昨日下調べをしておいたにも拘らずFTBのコンピューターを狂わすインドの魔術にはまったおかげでバス停の場所を探し出すのに大変手間取り、予定のバスよりも遅い午前11時発のGold Line Volvo(Rs435であるはずなのにRs500取りやがった)に実車することになった。

ところで、インドは暑いのでスポーツはインドア系のものが盛んであると思っていたのだが、バスの待合室では皆インド対パキスタンのクリケットの試合に夢中になっており、広場では大人も貧乏そうな子供もクリケットに興じていた。

エアコン付きの高級バスであるため、外国人観光客と裕福なインド人を乗せたVolvoバスは定刻通りに出発し、デリーから南西へ266km離れた広大なラジャースターン州の州都であるジャイプルを目指した。乾燥した砂漠の州であるラジャースターンの内部に踏み込むにつれてラクダが荷物や建築資材を載せた荷車を引っ張っている光景を頻繁に目にするようになる。バスは途中休憩所での30分程度の停車を含めて6時間余りの時間をかけてジャイプルの中央バススタンドに到着した。

バスを降りるとお決まりのオートリクシャーの客引き攻撃をかわし、持っていた地図を頼りに今日の宿泊地の位置のあたりをつけるために鉄道駅近くの州政府観光局を目指して歩き始めた。デリーよりも整然とした町並みを北に向かって歩いていると思いがけず赤褐色ピンク色の城門を持つ城壁に囲まれた町に行き当たってしまった。とりあえず目的地は北だと思い、さらに進んでいると町中にはおなじみの牛だけでなく、豚、やぎ、にわとりがうごめいており、マサにわくわく動物ランドの様相を目撃してしまったのだ。

地図を慎重に見ながら夕暮れ時のジャイプルの町を縦横無尽に歩き回ったのだが、なかなか目的地を見出すことが出来なかったので仕方なく、近くの高級ホテルで客待ちをしているタクシーに頼ることにした。老人ドライバーにホテル名を告げると彼はすぐにホテルの場所を理解しなかったため、次の順番待ちの怪しげな若者ドライバーが割って入るように私が持っていた地図を覗き込みながら場所の指南を始めた。老人が場所を理解し、古いセダンに乗り込むと横から若者ドライバーがいい土産物屋を知っているので寄っていかないかとか窓を空けてくれたりとかのおせっかいを焼きやがった。私を乗せた老人のタクシーが走り出してしばらくするとホテルまで何分くらいの時間がかかるか調べようと思って左手首にふと目をやるとそこにあるはずのFTB仕様のダブル時間帯高級ウォッチが忽然と姿を消していることに気づいてしまった。そ~か、若者ドライバーもきっと死ね死ね団の一味に違いないと後々から気づかされる羽目に陥ってしまったのだった。

罪のない人の良さげな老人の運転するセダンは器用に人込みを掻き分けて何とか宿泊先であるTrident Hilton Jaipurに到着した。ロビーで観光マップをもらい、私が頼りにしていた地図と見比べてみるとまたしても驚愕する事実に直面してしまった。何と通常は地図の上部は北を示すルールがあるにも拘らず、私が見ていたものは端っこに小さいマークで右方向が北だと示すNマークが付けられており、またしてもインドの魔術に引っかかってしまったような屈辱を味わってしまった。 

3月20日(日)

腕時計をスられていたのでバックアップ用に携帯していたコンパクト目覚ましクロックをポケットに忍ばせてホテルをチェックアウトすると昨日訳もわからずさまよい歩いた城壁町である旧市街の中心にリベンジ観光に出ることにした。

世界最大の日時計が設置されたジャンタル・マンタル(Rs50)という1728年に建設された天文台で数多くの天文観測ファシリティを見物した後、今もマハラジャが暮らしていると言われるシティ・パレス(Rs180)に侵入した。この建物は時のマハラジャ、サワーイ・ジャイ・スィン2世により1726年に建立されたもので一部が博物館として公開されている。主な見所はTexitileという展示館でマハラジャ名物であろうお立ち台や羽毛の付いたジュリ扇は無いものの歴代のマハラジャの豪華絢爛な衣装が展示されている。 

風の宮殿という異名を持つHama Mahal(Rs5)の彫刻を施したテラスが涼しげにバザールの大通りを見下ろしていたので裏通りから中に入って暑い砂漠の中の清涼剤のような涼しい風を受けるために工事作業員に気を使いながら上まで登り不毛の山に囲まれたジャイプルの町並を眺めた後、通り沿いのバス停から市バス(Rs5)に乗り、ジャイプル随一の観光地であるアンベール城に向かった。

市街地から北東へ11km、インド人と一緒に30分程ブーゲンビリアの花が咲く山道をバスに揺られると荒涼とした丘の上に要塞のような城壁が見えてきた。16世紀にはカチワーハ家の王国(アンベール王国)の首都であったこの地にジャイプルの威信をかけて築城されたアンベール城(Rs50)が建つ丘の上に行くには名物のゾウのタクシーが運行されているのだが、私はゾウの糞を避けながら徒歩で登ることにした。城内の敷地の中にはゾウのターミナルだけでなく、鏡をちりばめた幾何学的な模様の装飾が見事な勝利の間(鏡の間)や美しい庭園、堂々とした門構えのガネーシャ門等が目を引いた。

アンベール城からさらに30分程登った山上に難攻不落のジャイガール要塞(Rs35またはCityPalaceのチケットに含まれる)が構えているので炎天下の中、最後の力を振り絞って登頂することにした。この要塞は1036年に建てられ、アンベール城が完成するまでマハラジャが住んでいたそうだ。好立地条件?のおかげで一度も敵の手に落ちたことがないので非常に保存状態よく残っている。ここに美しい空中庭園があり、ここから見下ろすとアンベール城や市内が一望出来るのだ。また、この近辺にはガン黒系の尾長ザルが集団で生活しており、彼らも景色を見ながらサルとしての人生を考えているようであった。

美しいジャイプルの観光を終えると予約しておいた高級ホテルであるRajputana Palace Sheratonに引き払い、バイキングで提供されるインド料理を食いながらマハラジャの雰囲気に浸り、乾燥した夜を過ごすことにした。

3月21日(月)

外界から隔離された別天地のSheratonホテルをチェックアウトすると中央バススタンドにて9:30発のアグラ行きエアコンなし、デラックスバス(Rs125)に乗り込み、インド北部3都市トライアングルツアーの最後の目的地であるアグラを目指した。ジャイプル-アグラ間のバス路線は総じて片道一車線の田舎道でバスはトラックやトラクターやラクダを追い越しながら進み、時には将来マトンカレーの材料になるであろう羊の群れに行き先を遮られもした。6時間半ほどの時間をかけてバスはアグラのイートガー・バススタンドに到着したころには全開した窓から入ってくるほこりでそれなりに体中が汚れていることに気づいた。 

バスを降りた際のお決まりの客引き攻撃はうまくかわしたものの、道行くヘビ使いが「俺の技を見ろ!」と言わんばかりにコブラの首を持って追いかけてきたのでコブラツイストで応戦するわけにもいかず、そのままロープに飛んだ勢いで逃げることにした。アグラの町並みを見ながら約7kmくらいの道のりを1時間ほどかけて宿泊先のTrident Hilton Agraに到着し、とりあえず最終目的地のアグラに着いてほっとしたので今夜は梓みちよの「二人でお酒を」http://norimitsu.cool.ne.jp/uta/hutarideosake.htmlの2番をあぐらをかきながら歌ってくつろぐことにした。

3月22日(火)

マサよ、君は世界で最も美しい建築物であるタージ・マハルの迫力にタジ、タジになったことがあるか!?

ということで、今回のツアーのハイライトとも言えるタージ・マハル(Rs250 + Rs500 for ADAチケット、いわゆるインド考古学局へのみかじめ料)をついにこの目で見ることに成功した。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃のために22年の歳月をかけて建立した白大理石の世界一豪華な墓であるタージ・マハル(世界文化遺産)はアグラの青空の下で圧倒的な存在感を示していた。その美しいシルエットを見るために世界各国から観光客が殺到し、皆裸足で大理石の上を歩いて足の裏から頭の先まで感動に浸っているようだった。尚、シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸に自らの墓として黒いタージを建立してタージ・マハルと橋でつなぐという壮大な野望を持っていたそうであるが、自分の地位を狙うバカ息子に拉致されて叶わぬ夢となったといわれている。

タージ・マハルから2km程北西のヤムナー川の河岸に1565年に建立されたアグラ城(Rs250)がムガル帝国の権力を誇示するかのようにその赤砂岩の城郭をそびえたたせている。城の内部には当然のごとく宮殿や謁見の間や庭園等のすばらしいファシリティがあるのだが、シャー・ジャハーンがバカ息子に幽閉された塔(囚われの塔)からはタージ・マハルの姿を眺めることが出来るので観光客は「なんでわいがこんなめに遭わなあかんねん?」とシャー・ジャハーンの気持ちを代弁することも出来るのだ。 

今回はスケジュールの都合で訪問できなかったのだが、アグラ近郊にファテープル・スィークリーという壮大な都城の遺跡がある。ここは莫大な金で築城したにもかかわらず、水不足が原因でわずか14年後に立ち去らなければならなかったという事情を持っており、中世インド版厚生年金基金の掛け金で建てた箱物の廃墟の様相を呈しているはずで今後社会保険庁の慰安旅行の目的地として役人は「ほれ見たことか!」と皆癒されに来ることが予想されよう。

3月23日(水)

早朝よりホテルからオートリクシャーでイードガー・バススタンドに移動し、そこからデラックスバスではない普通バス(Rs110)でデリーへの帰路につくことにした。川べりで連れ野グソをしている老人と少年等ののどかな光景を見ながらバスはより整備の進んだアグラ-デリー間の道路をこれまでよりも少ない数のクラクションを鳴らしながら疾走した。 

普通バスの硬いシートにケツが馴染んできた6時間後くらいにバスはデリーに到着した。バスターミナルの近くにフマユーン廟(Rs250、世界文化遺産)という皇帝の墓が君臨していたので立ち寄ることにした。1565年に建立されたこのファシリティは庭園の中に廟を置く形式で、後に影響を受けて建てられたタージ・マハルのモデルとなったイスラーム建築の傑作である。

再びオールドデリーの喧騒の中に舞い戻ってきた。通常の都会であれば車で道が渋滞しているのであるが、ここでは人間とリクシャーと牛等で身動きが取れなくなってしまうという恐ろしい状況を体験することが出来た。小腹が減ったのでコンノートプレースのマクドナルドに寄ることにした。ここで野蛮な肉食獣に無理やり連れてこられた羊系のベジタリアンが食うに困らないために編み出されたメニューであるマックべジーを賞味させていただいたのだが、カレーコロッケ風で以外にも美味だったのだ!

3月24日(木)

深夜0:05発のタイ国際航空TG316便のチェックインをしている最中に実はインドの魔術により、搭乗日を一日間違えてしまったことが発覚した。すでに修行を積んでいる私はカウンターですっとぼけてまんまとこの日の便に潜り込むことに成功した。金に関することはマサに黄金の化身に変身して解決すれば良いだけの話であった。

早朝6時前にはバンコクに到着してしまった。成田行きの便の出発は夜になるので時間は有り余っているのだが、今回はタイに入国せずにタイ国際空港内で生きることにした。タイ国際航空の乗換えカウンターの近くにDay Room Serviceという空港内時間制ホテルサービスがあったので2,100バーツの支払いで6時間使用させていただくことにした。このファシリティにはベッド、テレビ、シャワーや飲み物が完備されており、深夜タイ空港に着いて翌朝早く出発する際には非常に有用であると思われた。

ANAの乗り継ぎカウンターで何とか便の調整をつけて頂き、空港内のマッサージ屋で握力の弱いおね~ちゃんに足裏をぐりぐりしてもらった後、22:25発ANA954便にて帰国、翌早朝流れ解散。

インドで引導を渡されないための有用な情報

*インドの季節について

  インドには3つの季節があると言われている。それはHot!, Hotter!!, Hottest!!!だ。従って素人は11月~2月の冬に訪れるとよいだろう。

*インドの高級ホテル 

  財務省の出先機関である金融庁の陰謀ゼロ金利政策により銀行預金が意味のないものになっているのでHSBCインドオープンhttp://www.rakuten-sec.co.jp/ITS/topinfo/HSBC_20050207.htmlに投資している私は多少インドに金を落とすために今回は高級系のホテルに滞在してやったわけだが、城壁に囲まれた高級ホテルの中央にはプールとデッキチェアがあり、暑いインドでもスイミングと睡眠が同時に出来るようになっていることが確認出来た。

*インドの路上食い物屋について

  インドのバザールでカットフルーツや生ジュース、揚げ物やカレーが群がるハエの中で売られているのだが、今回それらの食い物には決して手を出さなかった。なぜならコンピュータとモデムを使って通信を開始した時のようにお腹がピ~ひゃら状態になることを恐れたためだ。

*インドの路上トイレ

  路上にトイレはある。しかしそれは男性用に限られ、かなりオープンな環境になっているので不幸にも不意にモデム通信が開始されてしまった場合は近辺のホテルか観光用のファシリティに駆け込むしかないのだ。

*インドで人間不信にならないために

  インドでは観光客と見るとお金をごまかしたり、だまそうとする輩が次から次に襲い掛かってくる。隙をつくらないためにうそでも良いので何か目的を持って行動すべきである。私の場合は「ダイバーの友達のダイバダッダに台場でバーターする約束をしているので、てめ~の相手はしてられね~ぜ」というオーラを発して未然に危機を防いでいたのだ。

*インドの魅力について

  とはいってもみんななりふり構わず一生懸命生きている姿に好感が持て、マサに人間の原点を取り戻すために皆インドを目指すという図式が出来上がっているようだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥6,240(ANA税金) + ¥65,210(タイ国際航空)

総宿泊費 Rs33,499.27  +  US$186.90 +2,100バーツ

総バス代 Rs755 (Rs1 = \2.6くらい)

総タクシー代 Rs300

総オートリクシャー代 Rs100

総インドビザ代 ¥1,200

協力 ANA、タイ国際空港、HiltonHHonors、Starwoodhotels、Delhi Transport Corporation他インドバス会社

非協力 ETAS社

FTB炎の離島デスマッチ第?弾バリ

♪見つめあ~うと すな~おに おしゃ~べり できな~い♪ (Song by S. All stars)

ということで、昨年末のスマトラ島沖大地震によるTsunamiの被害によりインドネシアをはじめとする東南アジアの各国は莫大な経済的損失を被ってしまった。金銭的や人的な援助もさることながらいち早くリゾート地として観光客を取り戻して欲しいと考えたFTBはみずからバリ島まで足を運び観光大使としてインドネシアの復興支援に尽力することを決意して日本を後にしたのであった。

1月28日(金)

日本航空の誇りとする憧れのハワイ航路に使用される機体としてお馴染のリゾッチャ紋様をあしらったB747-SR機はデンパサール行きJL729便にもお目見えした様子で現役ギャルや元ギャルが圧倒的に多い乗客は皆リゾート気分を満喫する気満々で定刻午後4時の離陸を今か今かと待っている様子であった。しかし、無常にも機内を流れるアナウンスは1人の乗客をお待ちするために出発が遅れるというものであった。この発表により機内は騒然となるかと思われたのだが、以外にも皆「スクールウォーズ」が推薦するOne for All, Allfor Oneの精神で乗り遅れたマヌケ野郎を咎める者は誰一人としていなかったのだ。

そのマヌケ野郎のおかげでバリ島、デンパサールのグラライ空港に着いたのは定刻より多少遅れた夜11時過ぎの時間帯であった。空港でインドネシア入国ビザをUS$25で売りつけられた後すんなり入国を果たすと早速日本円を現地通貨であるインドネシアルピアに両替するためにいちばん手招きの振り幅の大きい両替所に向かい、軽く\10,000を提出すると大枚860,000ルピアになって返ってきた。

料金前払いの明朗会計空港タクシー(60,000ルピア)で今回のツアーの宿泊先であるヒルトングループが誇る最高級ホテルであるConrad Hotel & Spaに到着したのは深夜12時半くらいであったのでチェックイン後、Tsunamiも届きそうもない最上階の4階の部屋に引きこもり,リゾート気分を引きずったまま休ませていただくことにした。

1月29日(土)

朝起きて総大理石張り床の部屋からテラスに置いてあるデッキチェアで南国気分を味わい、Hilton HHonorsのゴールドメンバーのみが招待されているクラブラウンジで朝飯を食らった後、ビーチに出てみることにした。インド洋の青い海が広がる白砂のビーチにはデッキチェアとヤシの実の繊維で作られた屋根を持つ巨大な日よけ傘がたくさん据え付けられており、ひときわ大きな屋根つきのファシリティでリッチに読書をしながら午前中の時間を過ごすことにした。

バリ島は東京都の2.6倍の面積を誇る巨大な島でリゾートエリアは特に南部に集中している。今回FTBが宿泊地として選定した地区はブノアという昔漁村であったが今は新興高級リゾート地区として君臨している現世の喧騒とはかけ離れたような静けさを持った場所である。ビーチには当然高級リゾートホテルが林立しているのでそれらを物色するために軽く散歩に出ることにした。長さ5kmほどの小さなブノア半島を先端部の北に向かって歩いていると数多くのレストランやHotel & Spaが姿を現した。グランド・ミラージュ・バリというホテルに併設されているSpaでタラソ・バリというバリ島で最も人気のあるエステがある。ここでは日本のB級タレントが日夜取材に訪れ、緑色の海草系のペーストを全身になすりつけられて悶絶している様子が視聴率の悪い時間帯に放映されるための段取りが組まれているものと思われた。

ブノア半島の最北端はいまだに漁村の雰囲気を残しており、漁の終わった原住民がだらけた午後のひと時を過ごしていた。今度はビーチ沿いを南下してみると次第にマリンスポーツの種目が増えてきて観光客はジェットスキーやパラセイリングやバナナボート等の遊興に耽っていたのであった。ブノアに隣接するリゾート地として名高いヌサ・ドゥアという地区まで足を伸ばすとそこではひとつの町のように巨大なグランドハイアットのファシリティ群やバリ・ヒルトン・インターナショナル等の老舗リゾートがシーズンオフの観光客の少なさのために有り余る設備を持て余している様子が稼働率の低い客室とともに確認されたのだった。

1月30日(日)

バリのリゾート開発の先駆けとなったビーチとしてクタという地区が君臨しているとのことだったのでトレーニングも兼ねて軽くブノアから徒歩でやって来ることにした。南緯8度の熱帯性気候が醸し出す炎天下の中を10kmほど歩くと目の前を飛行機が着陸していく様子が確認出来たので空港をスルーしてさらに2~3km北に向かって歩を進めると何とかクタに到着することが出来たのだが、そのころにはマサにクタクタの状態になっていた。クタのビーチにはインド洋の豪快な波を求めてやって来やがったサーファーで溢れかえっており、その辺の砂地にはおびただしいほどのサーフボードが突き刺さっていた。

ところでこのあたりにはジゴロというギャルを食い物にして金を巻き上げて生計を立てている職業の方が数多くいらっしゃり、日本の負け犬ギャルたちも彼らの上客となっているという話を聞いていた。勝ち馬として欲望の食物連鎖の頂点に君臨するためにこの地にマーケティング活動にやって来たFTBは♪ひろしです♪って言うじゃな~い、ど~こ見てんのよ~、残念!!等の現代日本ナンパ用語の基礎知識を彼らに講義して負け犬から巻き上げた金を日本に還元するビジネスモデルの検討を始めたのであった。

日も暮れかけたのでクタでクタびれた肉体に鞭打って再び徒歩で12~3kmの道のりをConrad Hotelを目指して帰っていった。タクシーで20分もかかるところを私はわずか2時間で帰ってこれたので部屋で軽く汗を流した後、近所のエスニック食い物屋に繰り出すことにした。ホテルの目の前にLoco Cafe(http://www.lococafe.com/)というレストランがあり、付属のダンサーが決して自分の業務ではないはずの客引きをしているけなげな姿に打たれて思わず入ってみることにした。チャウダー系のシーフードスープとエビ・カニ・ロブスターが大皿を飾るシーフードスペシャル(180,000ルピア)を貪り食っていると運転手つきの4WD車で登場したこの店のオーナーがジョインしてきたので相手をしてやることにした。日本で修行?した経験も長いBudiというオーナーはシーズンオフの客の少ない時期に来てくれたということでバリの酒やフルーツやアイスクリームを無償で提供してくれた気前のいい実業家であったのだ。

1月31日(月)

マサに夢の世界を提供してくれたConrad Hotelをあとにするとタクシーでクタまで移動し、そこから本数は少ないが、外人観光客の貴重な交通手段となっているプラマ社のシャトルバスでバリ島中部にある芸能・芸術の中心地ウブドに向かった。

クタから大都会デンパサールを抜け、サヌールというリゾート地を経由してバスはバリ島中心部を目指して走っていたのだが、道幅が段々心細くなってきてついには中央の車線のない田舎道に入ってしまった。決して観光客が安心してレンタカーで走ることの出来ないような迷路を1時間程走るとバスはいつのまにかウブドのバスターミナルに到着していた。バリ・ヒンドゥー教が醸し出すバリ島本来の雰囲気を色濃く残しているウブドの町並みであるが、いたるところにJALパックとJTBのシャトルバスのバス停が設置されており、ここでも日本人観光客に侵略されている様子がありありと窺がえた。

バリ絵画の美術館であるプリ・ルキサン美術館(20,000ルピア)を訪問させていただいた。ウブドのメインストリートから橋を渡るとそこには緑の庭園に囲まれた芸術の世界が存在していた。ここにはバリ芸術の粋を集めた絵画や彫刻が展示されており、その歴史的重要性は計り知れないものであると言われているのである。

ウブドの中心の一角にモンキーフォレスト(10,000ルピア)という野生の猿が群生するこじんまりとした森があったのでひやかしに行くことにした。チケット売り場の脇で観光客に猿の餌として供給されるべきバナナを売りつけようとする原住民を軽くいなし、森の内部深くに分け入るとそこにはニホンザルより多少小柄の猿がその運動能力をいかんなく発揮しながら元気に暮らしていた。折からの小雨が強くなってきたので屋根のある休憩所で人類に興味のありそうな猿達を従えて♪おも~いでは いつも日も~あめ!♪と歌っていると乗り乗りになってきた小猿が次々と私の背中や頭に乗って来やがり、多少えらい目にあってしまったのだ。

午後7時過ぎにクタに帰って来て繁華街を歩いているとハロー、タクシー!?といういかにも有名人である私の名前がタクシーであるかのような声援が次々にあびせられた。中には”マヤク?、オンナ?”という修行をしていない若者であれば80%はひっかかるような甘言も飛び交っており、クタの風紀の乱れとアンダーグラウンドマーケットの大きさを実感させられた訳であるが、これではマサにテロリストの格好の餌食なっても仕方がないと思われた。

というわけで、今回はバリ島の下見を行ったわけであるが、ここでは各人の好みにより様々なスタイルのエンターテイメントが提供されている。但し公共交通機関は無いに等しく、レンタカーを転ばす場合には道が狭くてわかりにくいのでタクシーをチャーターしたりする必要があろう。ところでバリ島の北部の山岳火山地帯でキンタマーニという景勝地があるという情報を聞きつけ、思わず股間にボールが当ったような衝撃を受けてしまったので次は必ず乗り込まねばならないと思われた。

FTBサマリー

総飛行機代 \62,720

総宿泊費 3,481,806ルピア

総タクシー代 93,600ルピア

総バス代 40,000ルピア

総インドネシアビザ代 $25

総グラライ空港使用料 100,000ルピア

次回はどん底からの生還の予定

協力 日本航空、プラマ社、HiltonHHonors

FTBSEAべトコンツアー in ホーチミン

マサよ、君は20世紀以降、世界で初めて戦争でアメリカに黒星をつけた国を知っているか!?

2004年9月23日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば14~15万くらいかかるところを私はただで入手していた成田-ホーチミン間の往復チケットを手に混雑する成田空港第二ターミナルから颯爽と午前10時発のJL5133便に乗り込むとベトナム航空が運行するコードシェア便のB777-200機内で真紅のアオザイを身にまとったエスニック系スチュワーデスに迎えられた。

5時間40分程度のフライトで2時間の時差を超えてホーチミンのタンソンニャット国際空港に午後2時ごろ到着した。空港で円をベトナムドンに両替する必要があったので両替所で¥5,000を提出すると何と670,000ドンもの大金がド~ンと渡されて一瞬の内に大金持ちになってしまった。空港の出口に売店があり、8,000ドンのコーラを50,000ドン札で買うと42,000ドンであるはずの釣りが32,000ドンしか返ってこなかったのも私の中では折込済みだったので黙って見逃してやることにした。

空港バス(2,000ドン)で市内に向かうまでの道のりは数え切れない程のクラクションとバスを取り巻く無数の原チャリ系バイクとの格闘の時間であったが、40分程我慢すると市中心のベンタインパスターミナルにつつがなく到着することが出来た。バスを降りるころには折から降り始めていた雨が激しくなり、ついには厚い積雲を切り裂く雷鳴がとどろきはじめたため、仕方なくバスターミナルで雨宿りをしながらベトナム人観測を行うことにした。町ゆく人はほとんど原チャリ系のバイクにまたがっており、降りしきる雨もなんのその、いつのまにか取り出していた合羽を羽織って落雷の轟音の中を爆音を轟かせて走っており、マサにホンダ丸儲けの図式が提供されている町並みであった。

雨が小降りになってきたのでベンタインバスターミナルからベンタイン市場を抜けて今回の宿泊先である☆☆☆☆☆ホテルのエクアトリアルに徒歩で向かうことにした。ホテルへ向かう道は大通りであっても信号が整備されていないところが多く、絶妙のボディバランスと身のこなしを駆使してひっきりなしに向かってくるバイクの波を避けながら何とかホテルに到着することが出来たのであった。

9月24日(金)

午前中から30℃を超える猛暑の中、早速ホーチミン市内の観光に乗り出すことにした。南ベトナム政権時代に独立宮殿と呼ばれた旧大統領官邸である統一会堂(10,000ドン)が市の中心部に君臨しているので見学させていただくことにした。ここは1975年4月30日に解放軍の戦車がこの宮廷の鉄柵を突破して無血入場を果たし、事実上ベトナム戦争を終結させたことから後に統一会堂と呼ばれるようになったのだ。建物の中は大統領や副大統領の応接室や内閣会議室、宴会場、映画館等があり、最上階は展望台となっており、ここからかつて解放軍の戦車がやってきたレユアン通りを見通すことが出来る。また、建物の地下には秘密の軍事施設が設置されており、大統領の司令室や暗号解読室、アメリカと連絡を取り合った放送局などが残されているのだ。

ホーチミン市博物館(10,000ドン)がフレンチコロニアル風の威風堂々とした建物づらで観光客を集めているので覗いて見ることにした。ここでは古代からのホーチミン周辺の暮らしぶりや動物の剥製、各種民族グッズ等が展示されている。

米粉で作ったベトナム名物の麺であるフォーを24時間煮込んだスープで提供する店であるフォー24でスペシャルフォー(29,000ドン)を食った後、ベトナム歴史博物館(10,000ドン)を見物することにした。ここには原始時代からの遺功としてメコンデルタの古代石器やチャンバ芸術の仏像等が数多く展示されているのだが、余興として中庭でベトナム名物の水上人形劇($1)を見物することも出来るようになっており、人形のコミカルな動きを見ながらほっと胸をなでおろすことが出来るように取り図られているのだ。

夕飯時になったので食文化の発達したベトナムでも地元の人にも人気のあるクアンアン・ゴンというレストランでベトナム式パリパリ皮の中に海老とかが入った食い物を前菜にカニの丸揚げをにんにく、塩コショウで炒めた贅沢な一品と格闘しながらホーチミンの夜をパクチーとともに更かし、英気を養ったのであった。

9月25日(土)

マサよ、君はべトコンのゲリラ戦の真髄を見たことがあるか!?

ということで、ホーチミン市の中心部から北西へ約70kmの位置に南ベトナム解放民族戦線(通称べトコン)の拠点となっていた地下トンネルが200km以上にわたって難攻不落の要塞状に掘られていたという情報を聞きつけたので早速現状確認に向かうことにした。ベンタインバースターミナルからサイゴンバス(2,000ドン)で1時間ほどかけてクチバスターミナルに到着するとそこからライトバン状のミニバス(10,000ドン)に乗り換えてクチトンネルの観光施設があるベンユオックに向かった。原住民乗客ですし詰め状態になったミニバスは水牛やスタンダードな牛が開墾を行なっているのどかな田園風景を走り抜けると途中で原住民を降ろしながら1時間ほどでベンユオックに到着した。

サイゴン川近くに位置するベンユオックは戦争当時枯葉剤が大量に撒かれたゴムの木の熱帯雨林だったため、異常に蒸し暑く、立っているだけでも汗がにじんでくるほどであった。クチトンネル(65,000ドン)はベトナム戦争が終わって30年経った今でもクチ果てることなく、革命歴史遺跡として数多くの観光客を集めている。まずはチケット売り場で入場券を買うと迷彩服を着た謎の係員に林の中を案内され、ベトナム戦争のビデオとクチトンネルの構造やサイゴンとの位置関係を説明したパネル等が設置されたファシリティに案内された。ビデオが終わるころには観光客も適度に集まっていたのでいよいよクチトンネルへのツアーがスタートした。

最初に見せられたのは巧妙にカモフラージュされたトンネルへの入り口でそれはスリムなベトナム人の体系に合わせた非常に狭いもので米兵のブタ野郎が容易に侵入出来ない微妙な大きさに掘られていたのだった。さらにゴムの木林のいたるところに大きな陥没が見られるのは米軍戦闘機B52が爆撃した跡なのだそうだ。また、要所要所にトンネル内に空気を供給する換気用の穴が蟻塚風にこじ開けられているのが印象的でもある。ガイドを先頭にいよいよトンネル内への侵入となった。観光用のトンネルは毛頭のブタ野郎も何とか侵入可能なように多少広げられていたのでガイドに続いて入っていった米国人もツアーのプログラムに参加することが出来たのであった。蒸し暑い熱帯雨林のさらに地下に存在するトンネル内部は天然のサウナのようでみるみる体中が汗と壁面に接触したときの泥にまみれていったのであった。

トンネル内部には作戦会議室や病院、司令官室等、数多くの部屋があり、マサに闇の中に地下都市が形成されていた。観光用に広げられているとはいえ、トンネル内部を移動するときは腰をかがめたり座ったまま進むような体勢を取らされるのでツアーはかなり過酷なものとなった。最後に地下の台所と食堂に出るとそこでお茶と当時べトコンが食料としていたタロイモの一種が試食出来るように取り図られていたのであった。また、このクチトンネル一帯のファシリティには数多くのべトコン土産物売り場や当時数々の米兵のブタ野郎を落とし入れたであろうさまざまな落とし穴の展示やおまけに体重130kと書かれたビルマニシキヘビまで飼われていた。さらに林から広場に出ると射撃場で射撃も楽しむことが出来、地雷を踏んで大破した戦車や装甲車も周辺に数多く転がされているのであった。

ということで、ここで得た教訓はマサ率いる悪徳財務省のような圧倒的勢力に対抗すべく、ゲリラ戦を展開するためにはとりあえず穴を掘って「王様の耳はロバのみみぃ~」と叫ぶことであったろう。

9月26日(日)

ベトナム戦争が終結するまでホーチミンはサイゴンとよばれていたのだが、私もさいごんの力を振り絞って最終日の観光に精を出すことにした。ホーチミンくんだりまで来てここに来なければべトコンを語る資格がないとまで言われているであろう戦争証跡博物館(10,000ドン)を訪問した。ここではベトナム戦争の歴史をビデオや実際に使用された戦車や大砲、爆弾などの戦争遺物、写真などで綴った博物館である。ここで多くの観光客の目を釘付けにする代物は従軍写真家が撮影した悲惨なベトナム戦争の写真や枯葉剤がこの国にもたらせた悲惨な状況証拠の展示である。また、屋外には拷問の島と呼ばれたコンソン島の牢獄「トラの檻」を復元したファシリティもあり、ギロチン台の実物やべトコンに課された様々な拷問の数々をリアルに学習することが出来るようになっていた。

その後、19世紀に建てられた赤レンガ造りのサイゴン大教会と19世紀末のフランス統治時代に建てられた中央郵便局を軽く見た後、サイゴン川にかかる橋を渡ってホーおじさん記念館(10,000ドン)を訪問することにした。ここにはホーチミン主席の革命活動の写真や記念品が展示されているのだが、一方でホーおじさんは若い頃からFTBと同様に世界各国を歴訪した実績を持っていることが確認出来た。

ホーチミン市の目抜き通りとしてドンコイ通りが君臨しており、おびただしい数のレストランやブティック、土産物屋が軒を連ねており、日本人をはじめ多くの観光客を集めていた。すべてのブティックにはお約束のアオザイがディスプレイされており、日本人ギャルも血眼になって物品の物色をしているのだが、大阪生活も板についてきたマサであればアオザイ物色ギャルに対して「いつ着んねん!?」と激しいつっこみをかましていたのではないかと思われた。

深夜11時50分発のJAL750便にて帰国の途に着き、翌朝7時半ごろ成田空港にて流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,760

総宿泊費  VND 4,249,547 (¥1 = 約160ドン)

総バス代  VND 26,000

総空港までの帰りのタクシー代  $10

総空港使用料  $12