FTBEU南蛮ポルトガルツアー

♪ポルトガル人がっ、ながさきへ~~~ カステラ (カステラ) カステラ (カステラ) めいげつど~の カステラ~~♪

というわけで、大地震クラスの余震におびえながら暮らしている今日この頃であるが、ヨーロッパの最西端ポルトガルでは与信が破綻し、ついに財政危機に陥ってしまった。大航海時代にはスペインとともに7つの海を制覇し、日本にも鉄砲やカステラを伝え、種子島を歴史の表舞台に引きずり出し、文明堂を開花させたポルトガルの栄光は遠い過去のものとなっているのだが、これから金融危機を迎えようとする日本にとってポルトガルは対岸の火事とは思えないので、危機下での庶民の暮らしをいち早く思い知るために南蛮に旅立つこととなった。

2011年4月19日(火)

午前11時50分発の空席の目立つNH207便は定刻通り出発となり、午後5時にはミュンヘン国際空港に到着した。ルフトハンザ航空のラウンジでドイツのビールを牛飲しながら時間をつぶした後、午後7時35分発LH1792便に乗り換えると3時間程度のフライトで午後10時前にリスボン空港に到着した。今日は着いた時間が遅かったので空港近くのHoliday Inn Lisbon Airportにそそくさとタクシーで移動してドイツで吸収したアルコールを抜くことに専念した。

4月20日(水)

幼少時代にテレビやラジオから流れる明月堂のカステラソング(http://www.meigetsudo.co.jp/04movie.html)を子守唄にして育ち、おいしいものを伝えるためにわざわざ船を漕いでやってきたポルトガル人に敬意を表するために、いつかポルトガルに行かなければならないと常々思っていたのだが、遅ればせながらついにポルトガルの土を踏むことになった。

空港近くのホテルからリスボンのセントロまでは7km近くの距離があるのだが、町の雰囲気を肌で感じるために軽く歩いてみることにした。ポルトガルは日本の4分の1の面積の国土を持ちながら人口は約1070万人で首都リスボンに至っては約50万の人々しか暮らしていないので町行く人もそんなに多くなく非常にのんびりした印象を受けた。

広い道とカラフルなアパートが目立つ市街地を抜けるとテージョ川沿いにそびえ立つ水色が眩しいサンタ・アポローニア駅に到着した。川沿いの建物の壁にはアートとも見紛える落書きが施されており、この国の芸術レベルの高さを垣間見ることが出来る。

とある建物の前でテレビクルーが参集している光景を目撃したのだが、どうやらそこはポルトガルの財務省関係のファシリティらしくマサのような官僚をとっ捕まえて財政危機に対する対応策を問いただそうという姿勢が見て取れた。リスボンの海の玄関口として広がるコルメシオ広場を通り過ぎると遠くに4月25日橋がその全容をあらわにした。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを彷彿とさせるこの橋は1966年に完成した全長2278mのつり橋であり、上段は車、下段は鉄道用としてリスボンと対岸との大動脈となっているのだ。

リスボン中心部からテージョ川沿いに6km程西にあるのがベレン地区である。ここには16世紀初めにエンリケ航海王子を中心に海洋国としての地位を確立したゆかりのファシリティ群があり、しかも世界遺産として君臨しているので市電に乗って見物に行くことにした。まずは手始めに16世紀初めにマヌエル1世の命により、船の出入りを監視する要塞として建てられたベレンの塔(€5)に登頂した。マヌエル様式の優雅なテラスを持つこの塔を、司馬遼太郎は貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえて「テージョ川の公女」と勝手に呼びやがったそうだが、なるほどここでエマニュエル婦人が椅子に座って佇んでいても十分絵になるくらいの官能的な建造物である。

1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して建造された発見のモニュメント(€5、展望台とリスボンエクスペリエンスというシアター込み)を発見したのでエレベーターで屋上に上がってみることにした。大航海時代のポルトガルはアフリカ南岸経由インド航路を開拓し、様々な陸地を発見したことで世界史に名を馳せているのだが、展望台の上から鳥瞰出来る世界地図の極東部には1541年に発見されたへたくそな形の日本列島も見受けられたのだった。

エンリケ航海王子の偉業を称え、さらにヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓を記念してエンリケ王子が建てた礼拝堂の跡地にマヌエル1世が1502年に着工したジェロニモス修道院(€7)に安置されてあるヴァスコ・ダ・ガマの棺に、文明堂や明月堂に成り代わってカステラ伝来のお礼を言いに行って来た。

ところで、この修道院はマヌエル様式を代表する壮麗な建物もさることながら、中庭を囲む55m四方の回廊もすばらしく、その魅力の虜となった観光客は中々帰ろうとはしなかったのだ。

桃山時代の日葡交流の様子を思い起こすべく狩野派の手により描かれた南蛮屏風を見学するために国立古美術館(€5)を訪問した。この美術館は17世紀に建立されたシャネラス・ヴェルデス宮殿を改装して1884年に設立されたポルトガルを代表する美術館でかつてポルトガルと交流のあった国々の美術品の展示も充実しているのだ。

ベレン地区からリスボン旧市街に戻り、とある歩行者天国の大通りを歩いていると地に足が付いていないポルトガルの経済状態をあらわすように大道芸人が空中に浮いており、それを見ている取り巻き観光客が恐怖に脅えながらもチップをはずんでいた。

夕暮れ時のリスボンの一大パノラマが美しいサン・ジョルジェ城(€7)に歩きつかれた重い足を引きずりながら登城した。この城はもともとローマ人の手によって要塞として建設されたのだが、その後西ゴート族、イスラム教徒、キリスト教徒の王など数百年の間に次々とテナントが代わったせいか、程よい具合にさびれているので今では城内は「憂愁のポルトガル」が絶妙に表現された公園となっているのだ。

4月21日(木)

マサよ、君はリスボンの西の郊外に森に抱かれたエデンの園がで~んとした存在感で世界文化遺産に登録されている実態を垣間見たことがあるか!?

というわけで、かつてイギリスの詩人バイロンがエデンの園と呼んだシントラまで足を延ばすためにリスボンのヘソであるロシオ広場の脇に建つロシオ駅から近郊列車に乗り込むこととなった。

シントラ駅に到着するとエデンの園に♪デン デン デ デン デン レッツゴ~♪と乗り込む前にバスに乗ってユーラシア大陸の西の果てであるロカ岬に立ち寄ることにした。北緯38度47分、西経9度30分、高さ140mの断崖の上には、そこがユーラシア大陸最西端であることを示す石碑が建っており、目の前に広がる真っ青な大西洋を見下ろすとここがマサに地の果てであることが実感させられるのだ。さらに、ロカ岬の敷地にある土産物屋で2種類の最西端到達証明書の発行を有償で行っているのだが、私は証明書関係には飽きていたので購入は控えておいた。

シントラ駅に戻り、起伏の激しいシントラ地区を楽して回ることが出来る巡回バスに乗り込むとペーナ宮殿の麓で下車した。窓口でペーナ宮殿ともうひとつの史跡を観光することが出来るコンビチケット(€14)を購入すると小雨降るあいにくの天候の中、急な坂道を登っていくことにした。

ドイツのルートヴィヒ2世はかの有名なノイシュヴァンシュタイン城を築城させたことで名を馳せているのだが、ペーナ宮殿を建築させた輩はそのいとこにあたるフェルディナント2世で、ここに来れば両名とも共通したおとぎの国系悪趣味を持っていることが確信出来るのである。1850年に竣工したペーナ宮殿はイスラム、ゴシック、ルネッサンス、マヌエルなど各様式の寄せ集めではあるが、それが見事にブレンドされて不思議な魅力を醸し出しているのである。

標高529mの山の頂に建つペーナ宮殿からはシントラの町並みのみならず、天気が良ければ遠くリスボン市はもとよりテージョ河口から大西洋まで見晴らすことが出来るのである。

ムーアの城跡という元々7~8世紀にムーア人によって築かれ、1147年アフォンソ・エンリケス王子によって落城され、その後修復されたのだが、今では廃墟のようになっている夢のあとに登ってみた。城壁の塔からはペーナ宮殿の遠景とエデンの園の全景が眺められ、この場所がかつて王侯貴族の避暑地になっていた中世の景色の記憶さえ呼び起こされそうな気がするのだった。

ムーアの城跡から下山すると多くの観光客で賑わっているレプブリカ広場の近辺を軽く散策し、シントラを後にした。リスボンに戻るとサンタ・アポローニア駅から急行系の列車に乗り、ポルトガル第3の都市であり、15万人の人口を持つコインブラに向かった。2時間半程の列車の旅でポルトガル中部のコインブラに着いた時間は午後9時を回っていたので、とある中華料理屋で麺を食った後、楽天トラベルに予約させておいたホテルアストリアに引き篭もって暗い夜を明かした。

4月22日(金)

☆☆☆ながらクラシックな佇まいが歴史を感じさせるホテルアストリアをチェックアウトするとコインブラ最大の見所であるコインブラ大学を目指して丘を駆け上がった。現在の大学は新しい部分と古い部分に分かれているのだが、見所は旧大学の方に集中しているのでGeneral Admission代(€7)を支払ってアカデミックな建物とその内部を見学させていただくことにした。

旧大学内部は写真撮影禁止となっているのだが、ポルトガル歴代の国王の肖像がかかっている帽子の間は優秀な学生のための学位授与の儀式などに使われていたそうである。建物の幅の狭いテラスは眼下にコインブラの町並みを見下ろすことが出来るちょっとした展望台にもなっており、近隣のカテドラルの奥行きの深さまで傍観することが出来るのだ。

大学近辺のカテドラルは新旧2つのものがそれぞれ入口の階段に物乞いをはべらせながらも特徴的な雰囲気を醸し出していた。イエズス会のコレジオ付属教会として1598年に建立された新カテドラルはバロック様式の美しいファザードが印象的であるのに対して初代ポルトガル国王アフォンソ・エリンケスによって1162年に建立された旧カテドラル(€2)は要塞のように堅固な概観を持つロマネスク様式の教会となっているのだ。

旧カテドラルから坂を下り、古い城壁の名残であるアルメディーナ門をくぐってコインブラの商業の中心地区である5月8日広場に到達した。広場を見下ろすように1131年にアフォンソ・エリンケスによって建立され、16世紀にマヌエル1世が大規模なリフォームを施したサンタ・クルス修道院がそびえている。修道院の中では皆それぞれシスター等を捕まえて懺悔をしているようで、それを文句も言わずに聞いてやらなければならない関係者は大変な忍耐力の持ち主であることは疑いようのない事実であろう。

町を歩いているとふと魚が見たくなったので市場に立ち寄り魚の切り身を見てお茶を濁した後、モンデゴ川にかかるサンタ・クララ橋を渡り、対岸から高台にそびえるコインブラ大学を見渡した。

1286年に建立され、かつてはコインブラの守護聖人であったイザベル王妃の棺が納められていたが、度重なるモンデゴ川の氾濫により17世紀にお払い箱となった旧サンタ・クララ修道院が見事に修復されていたので、そのお払い箱ぶりを見物することにした。現役の修道院ではなく、単なる遺跡となっているので箱物の中にはインテリアや装飾は見られないのだが、13世紀の竣工当初は豪華絢爛であったことが広大な敷地から容易に想像出来るのであった。

今日は終日天気が思わしくなく、ポケットの中で増殖したユーロのコインがブラブラする違和感を感じてきたので早々とコインブラを後にしてローカル列車でさらに北上し、午後4時過ぎにはポルトガル第2の都市であるポルトに到着した。街の中心に位置するサン・ベント駅の壁は見事な装飾で飾られているばかりか南蛮菓子を代表するカステラも販売されていたのだが、最低販売のボリュームが多そうだったので購入を見合わせた。

今日予約していたホテルはポルト市の郊外に位置しており、メトロで移動して相当な距離を歩くことが予想されたので、とりあえずメトロで最寄駅に向かった。最寄駅に向かう途中で雨で冷却されたお腹の具合が悪くなったのでトイレを探したのだがなかったのでトイレの面影をすでに確認しておいた出発点のサン・ベント駅に戻ってきた。ところが、そこのトイレは50€セントコインを投入しなければドアが開かないしくみになっていたのだが、あいにく手元にはコインブラでブラブラさせていた45セントしか残っていないという危機的状況に陥ってしまった。そこで近くにいたポルトガル語しか理解しなさそうな掃除のおばちゃんを捕まえ、表情で窮状を訴えて5セントまけさせた上に近くの両替機から50セント硬貨を引き出させるという離れ業を演じ、何とか財政危機を乗り越えることが出来たのだった。

4月23日(土)

早朝ポルト郊外のHoliday Inn Expressをチェックアウトするとバスとメトロを乗り継いで世界文化遺産にも指定されているドウロ川北岸に広がるポルト歴史地区にやってきた。昨日の雨模様とは打って変わって今日は朝から晴れ渡っており、アズレージョ装飾を施された建物も一際輝いて見えた。

まず手始めにポルトの全貌を把握するためにクレリゴス教会に付属している塔(€2)に登ってみることにした。76mあるクレゴリスの塔はポルトガルいちの高さを誇り、頂上からはオレンジ瓦の町並みとドウロ川、さらに対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区まで見渡すことが出来るのだ。

ポルトガルでは窓から干された洗濯物が古びた町並みに溶け込んでいるのだが、クレリゴス教会近隣のビルでは何故か普段着を着たみすぼらし系の人形が財政難を苦にして首吊り自殺をしているようないでたちで干されていたのだった。

ポルト市民の日々の暮らしぶりを感じるためにボリャオン市場を見物することにした。活気のある場内ではポルトガル人が財政危機を感じさせないほどの勢いで肉、魚、野菜、果物等を売りさばこうと躍起になっていた。

街を見下ろす丘の上にカテドラルが異様な存在感を示していたので内部を軽く覗いた後、となりの回廊(€5)を渡り歩いてみることにした。ゴシック様式の回廊の内側には18世紀のアズレージョが貼りめぐらされており、展示場となっている各小部屋には伝統的なクリスチャングッズが陳列されていた。

高台にあるカテドラルから路地を抜けて下界に下りるとボルサ宮前の広場で大航海時代の立役者であるエンリケ航海王子が頭上に泊まるカモメをものともせずに遠く大西洋を指差していた。

撮影禁止ながら内部を覆うタ-リャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾が豪華なサン・フランシスコ教会(€5)でギンギラギンにさりげなく精神統一を行うと休日の観光客で溢れかえるドウロ川岸まで下ることにした。

ドン・ルイス1世橋を見上げるドウロ川ではクルーズが大変な人気を博しているようで乗り場は常に長蛇の列が形成されていたので参加を断念し、再び丘の上に這い上がってドン・ルイス1世橋を渡る決断が下された。

ドン・ルイス1世橋は車が通る下部とメトロの路線が引き込まれた上部の2層構造になっており、メトロのレイヤーにはチャチなケーブルカーもしくは階段で到達することが出来るのだが、私は風情のある階段沿いの景色を見ながら軽く息せき切ってみることにした。

ポルト歴史地区の対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの丘には楽して丘の上り下りをしたい輩のためにゴンドラも定期運行されており、川向こうの斜面にへばりつく世界遺産の眺望も楽しむことが出来るのだ。

ポルトに来てポートワインを賞味しなければポルトに来た意味をなくしてしまうのでヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区の麓に林立するワイン工場街を彷徨うことにした。ワイナリーの多くは無料で見学ツアーを行っているので適当な人の波に身を任せてCROFTというワイン工場に紛れ込んだ。

ポルト在住であるはずのポルトギャルの案内で開始されたツアーにはおびただしい数の観光客が参加していたのだが、スペイン語かポルトガル語なのか私には意味をなさない言語で展開されていたので私は黙ってワイナリーにぐっすり寝かされている樽と芳醇な香りに包まれて時間をやり過ごすしかなかったのだ。ツアーも終わり、待望の試飲の時間となったのだが、ワイングラスの底に注がれているルビーのワインを舐めながら、説明→試飲の工程を何度繰り返せば酔えるのだろうと考えていた。

締めのポートワインでポルト観光全行程の終了と相成ったのでカンパニャン駅からIC列車に乗って300kmの道のりを3時間かけてリスボンまで帰り、Holiday Inn Lisbonのアップグレードされた無駄に広いスイートルームに引き篭もり、レストランで最後の南蛮晩餐を堪能させていただきつつ長い夜を過ごしていた。

4月24日(日)

リスボンのほぼ中央に位置するHoliday Inn Lisbonをチェックアウトし、大胆な落書きを施されたビルを横目に南に向かっていると日中は緑豊かだが、夜間は麻薬と売春の巣窟になるというエドゥアルド7世公園に紛れ込みゆったりとした斜面を下って行った。

リスボンは「7つの丘」と呼ばれ、その起伏に富んだ地形がリスボン特有の美しい街並みを作り出しているのだが、短いながらも3路線あるケーブルカーが彩りを添えている。ポルトガルのシャンゼリゼともいわれるリベルダーデ通り沿いにひっそりとラヴラ線のケーブルカーが停車していたのでその脇の階段を上っていくとモラエスの生家に到着した。ちなみにモラエスとは1899年にポルトガル領事として神戸に赴任し、その翌年には徳島出身の芸者ヨネと同棲まで始めやがった手の早い輩だそうだ。

へたくそな落書きが目に余るグロリア線ケーブルカーを上りきるとサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台に辿りついた。展望台から眺めるリスボン市街の景色の美しさもさることながら公園内には昨晩の夜景を楽しんだであろうビールやワインのビンの残骸がそこら中に転がっていたのが印象的だった。

1584年に苦難の航海の末にリスボンにたどり着いた日本の天正遣欧少年使節が1ヶ月程お世話になったイエズス会の教会であるサン・ロケ教会に入会した。しかしながら、この教会には伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの足跡は一切残されてなく、日本史では大きく取り上げられているイベントでもイエズス会では日常的な寄宿者が通り過ぎて行った程度に過ぎないことを思い知らされるのだ。

サン・ロケ教会のロケハンが終了するとこれぞリスボンという風景に出会えるビッカのケーブルカーを見に行くことにした。テージョ川を背景にケーブルカーが急坂を上り下りする姿は観光客の絶好の被写体になっているのだが、意外にもケーブルカーの出発地点はビルの一室に紛れているような地味な場所だった。

南蛮ツアー最後の訪問地は1147年イスラム礼拝堂跡にアフォンソ・エリンケスの命により建立されたカテドラルとなった。正面のバラ窓が特徴的なカテドラル内部では日曜日のミサのプログラムの一部であるはずの何らかの合唱が行われており、私も思わず合掌しながら見入ってしまうこととなった。

街中に乗り捨てられている観光用のレンタルゴーカートや市街を走り抜ける市電を横目にロシオ広場まで移動し、そこから空港バスに乗り込みリスボン空港へと帰還した。TAPポルトガル空港のラウンジで南蛮菓子を肴に色々な色のワインを飲みながらフライトまでのひと時を過ごしていた。

午後2時15分発LH1791便に乗り込み、午後6時過ぎにミュンヘン空港に到着するとルフトハンザ航空のラウンジに直行し、すでに南蛮菓子の面影が無くなっていたのでミュンヘンビールを痛飲しながら午後8時55分発NH208便のフライトまでの時間潰しをしていた。

4月25日(月)

異様に空席の目だったNH208便は定刻通りの午後3時半過ぎに成田空港に到着し、そのままポルトガル人が種子島に流れ着くように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥133,330

総宿泊費 €203、¥9,900

総鉄道代 €48.4

総タクシー代 €18.5

総メトロ、トラム、バス代 €22.4

協力 ANA、ルフトハンザドイツ航空、PRIORITYCLUB、楽天トラベル、明月堂

災害と貧困の国バングラデ首都ダッカ町歩きツアー

マサよ!というと

マサよ~という

こだマサでしょうか!?・・・・・私だよ!!!

ということで、復興へと大きく舵を切らなければならない今日この頃であるが、マサのような高級官僚が描く復興のシナリオにのり、電力会社に天下って行くのもよいが、「災害」と「貧困」を生業としている国から学ぶべきことも多いはずである。一方で、少年隊がもう仮面舞踏会の招待状をもらえないはずの40代半ばを過ぎても少年隊を続けなければならないほどの高度高齢化社会に備えて人間力を鍛えておくことも重要視されている。

今回は貧しいながらも頻繁に起こる大洪水のような災害を受け入れながら生きるベンガルの緑地の日の丸を持つ国バングラデシュを訪問し、近年のサイクロンの襲来により、仮面ライダーのオートバイに荒らされたような窮地から回復する術を学ばせていただくべくダッカを練り歩くツアーが敢行されることとなった。

2011年3月30日(水)

「バングラデシュを訪れよう!観光客が来る前に!!」という自虐的とも言えるキャッチフレーズを掲げているせいか、すでに昨日目黒区のバングラデシュ大使館で破格ともいえる無償のビザを査証していただき、渡航の準備も万端整っていた。尚、大使館の近くに目黒寄生虫館が開館していたのだが、衛生状態が悪いはずのバングラデシュで注意しておかなければならない寄生虫の生態を予習しておこうとは最初から思っていなかった。

震災後のショックから抜け切れていない成田空港は閑散としており、午前10時発NH909便香港行きも多くの空席が目立っていた。午後2時前に香港国際空港に到着し、JALのマイレージが余っていたのでマサであれば5~6万くらいかかるところを私はただで搭乗出来ると思っていた割には、税金と称して\18,640を支払わされていた香港ドラゴン航空ダッカ行きのボーディングパスをトランスファーカウンターで入手した。KA192便ダッカ経由カトマンズ行きは定刻の午後6時5分に出発し、4時間のフライトで午後8時過ぎにダッカのシャージャラル国際空港に到着した。ほとんどの乗客がカトマンズを目指しているせいか、ダッカで下りた乗客は少人数だったため、割と短時間で入国審査を切り抜けることが出来たのだった。

空港ですでに蚊が多いことに気付き、今回のツアーの前途を懸念しながら空港のATMでバングラデシュの現地通貨であるタカを引き出したのだが、相棒のトシの「欧米か?!」を封印せざるを得ない程、欧米人の姿を目にすることがなくなろうとはこの時点では考えもしていなかった。運よく欧米人10人に会うまで「帰れまてん」という企画をも封印出来たので、タクシーカウンターでタクシーを発注して今回の宿泊先である当地の高級ホテルであるベストウエスタン・ラ・ビンチに投宿した。

3月31日(木)

ダッカは町歩きが好きな人にはたまらないと言われるものの、初日は心と体を慣らすためにホテル周辺の散策にとどめよと物の本に書いてあったのでまずはウォーミングアップを兼ねてホテルからダッカ中央駅までの4km程度を歩いてみることにした。

ダッカ市街地の大まかな地理を頭に叩き込み、けたたましいクラクションと喧騒の中をやみくもに歩いていると当然のように方向感覚を失ってしまった。大通りには普通車やバスだけでなく、CNGという圧縮天然ガスを充填して走る緑の三輪車が連なるように走り、リキシャと言われる地球温暖化ガスを排出しない自転車系乗客座席引っ張り乗り物が路上に満ち満ちていた。電柱から髪の毛のように伸びる電線は無造作に束ねられ、この国の電力事情の混乱を示唆しているように思われた。

蒸し暑い中、数時間歩いても駅へ向かう道の手掛かりさえ掴むこともままならなかったのだが、何とか線路を発見することが出来たので、線路の上を駅の方向に辿っていくことにした。線路沿いの風景は発展途上国にありがちなスラムの日常生活そのものであり、寄生虫が付いているであろう生鮮食品だけでなく、牛やヤギ等の家畜も列車に轢かれないようにしっかりと繋がれているのであった。

何とか辿り着くことに成功したダッカ中央駅にたまたまローカル系の列車が止まっていたのだが、乗客は車内だけでなく、屋上にも溢れており、完全に安全性を無視した運行体制が敷かれていることが確認出来た。また、男性が路上で用を足すときは通常の立ち姿ではなく座って放尿していたので、私も早くこの方式を会得しなければ膀胱炎は免れないのではないかと懸念された。

バングラデシュは日本の半分ほどの広さの国土に世界7位の1億4000万以上の人々が暮らしている人口過密地帯である。今回のツアーでは喧騒の首都ダッカだけでなく、近隣に2つの世界遺産を抱えるクルナを訪問しようと考えていたので、駅で気軽に列車のチケットの手配でもぶちかまそうと思っていたのだが、駅構内の表示や案内がほとんどベンガル語でクルナには来るな!と脅迫されている感覚を覚えたのでダッカに留まることにした。

ダッカ市内を数時間練り歩いて異様な疲労感を感じたのでホテルにとぼとぼと徒歩で戻ることにした。帰る道すがらの歩道には下水施設がいくつも崩壊した痕跡があり、これがサイクロン等の自然災害によるものか、もともとこのような体制なのか識別することが出来なかった。また、交通量の多いダッカでは事故も多いと見えて、ほとんどの乗用車は鉄パイプ系のバンパーを車体の前後にインストールしているのだった。

4月1日(金)

ホテルのふもとに大きな生鮮食品市場であるカウラン・バザールが商売繁盛していたので軽く覗いて見ることにした。貧困の国とはいえ、バザールには豊穣なベンガルデルタの恵みを実感させる程の食べ物が溢れており、お金が無くても何とか食いつないでいけるようなたくましさを思わず感じてしまうのだった。

昨日の放浪により、多少ダッカ市内の地理感覚が身に付いてきたので、ダッカ町歩きの目玉といっても過言ではないオールド・ダッカに恐る恐る足を踏み入れる決断が下された。道行く途中の広場では青少年が国技であるはずのクリケットに興じていたのだが、たまたまバングラデシュでクリケットのワールドカップが開催されているため、町中には主催者たるものを誇示する看板が至る所に設置されていた。

人間の巣窟とも言えるオールド・ダッカに足を踏み入れると、そこには将来マトン・カレーの原料となる羊たちが道端で沈黙していやがった。迷路のような細い路地を歩いていると、私のようなよそ者外国人は原住民から平均10秒くらいガン見されるのでそのプレッシャーに耐えながら歩を進めなければならない。

路地を抜け切るとブリコンガ川に行き当たった。ヒマラヤの雪解け水によって形成されたベンガルデルタと呼ばれる氾濫原を担っているはずのこの川とその岸辺はおびただしい程のゴミで汚されているのだが、原住民は平気で沐浴を楽しんでいらっしゃった。

ショドル・ガットという船着場にはロケット・スチーマーという外輪を持つ蒸気船が停泊しており、この船はダッカとクルナを26時間以上かけて航行する定期船となっているようだった。

ピンク・パレスとの異名を取るアージャン・モンジールを鉄格子越しにチラ見した後、ひといきれで窒息しそうになっても一息入れることが出来る場所のないオールド・ダッカからそそくさと退散させていただくことにした。

ホテルの近くにダッカ最大のショッピングセンターであるボシュンドラ・シティがリッチな買い物客でごった返していたので、フードコートがあればここで夕飯でもご馳走になろうと思って入ってみることにした。果たして中央ぶち抜きの7階建ての最上階はファストフード天国だったのでここでお約束のカレー系の食い物を食いつないで英気を養っておいたのだ。

4月2日(土)

ダッカを初めて訪れ、少しでも町中を歩いてしまった輩は、その後ホテルの外に出るのが非常におっくうになることが実証されたのだが、私は人間力を鍛えなければならない使命を帯びていたので、勇気を振り絞って喧騒に戻ることにした。ダッカ大学の近くに国立博物館(Tk75)がアカデミックな装いで門を構えていたのでバングラデシュ人と一緒にバングラデシュに関する各種展示物を見学させていただくことにした。ここで一番印象に残ったものはパキスタンからの独立戦争にかかわる資料で、壮絶な写真や虐殺された人々の遺品や遺骨が当時の惨劇を物語っていた。尚、バングラデシュの国旗の赤い円は独立戦争で流された血を表しているのである。

別に意図したわけではないのだが、人間の磁力に吸い寄せられるようにオールド・ダッカに舞い戻ってしまっていた。ここでは通りごとに異なる種類のバザールがござ~るのだが、鳥インフルエンザが蔓延するリスクのある家禽類のコーナーではスリムクラブが2010年のM1の決勝で世の中で一番弱いとのたまったウズラが籠の中に封じ込められていた。尚、世の中で一番強いものは放射能であることは皮肉にも実証されてしまっており、イスカンダルまで取りに行かなければならないコスモクリーナーDのような装置の早急なる自力開発が望まれているのだ。

これまでダッカ市内を歩き回って欧米人どころか東洋人にさえ会うことがなかったのだが、町で声をかけられてもほとんどはリキシャやCNGの運転手であった。となりのインドでは10m歩くごとに客引きに声をかけられたのだが、バングラデシュでは引き当てるべく観光資源が乏しいので無理もないことだと思われた。

今夜もボシュンドラ・シティで夕食をとることにした。フードコートでは多くのバングラデシュ人がクリケットワールドカップ決勝戦インド対スリランカに見入っており、時折大きな歓声が上がっていた。飯を食っていると雨季に入ったバングラデシュの氾濫の兆しを思わせるような雷雨のサウンドが聞こえてきたかと思うと館内の電気が一斉に消えてしまった。水はけの悪い道路はとたんに冠水しているようだが、原住民はビーチサンダルを履いているにもかかわらず、水溜りを避けて歩いていたので狭い歩道はいつにも増して渋滞状態だったのだ。

4月3日(日)

ダッカ滞在の最終日はホテルのチェックアウト時間の正午ギリギリまで部屋に引き篭もり、極力外界との接触時間の短縮を図っていた。重い気分を引きずってホテルを後にすると、今日はダッカで最も洗練された雰囲気を持つグルシャン地区に足を運ぶことにした。グルシャンに向かう道すがらで踏み切り待ちをしていると列車の屋根で少年が大の字になって立っている光景を目にした。

グルシャンが洗練されているとはいえ、その手前の池の周辺はスラム系の水上住宅街になっており、住民は渡し舟でそれぞれの帰路に着いていた。ウェスティン・ダッカがグルシャン地区随一の高級ホテルとして君臨していたので高い金を払って昼飯を食うという名目でしばらく目撃していないバングラデシュ人以外の人種の見学に行ったのだが、大きな成果は得られなかったのでとっとと撤収することにした。

ダッカ国際空港はグルシャンからわずか5km程度の距離だったので乗り物に乗らずに徒歩で向かっていると途中で何がしかのデモに遭遇してしまった。おびただしい数の原住民の熱い視線を感じ、声援さえ受けながらも何とかデモ隊を交わして無事に空港に到着することに成功し、念願の出国の手続きとなった。午後9時5分発KA191便カトマンズ経由香港行きは定刻通り出発し、機内でカトマンズに向かう観光客が少しでもダッカに立ち寄る気を起こすような観光客受入体制の確立を祈っておいた。

4月4日(月)

午前6時前には香港国際空港に到着したのだが、そこには日本からの到着旅客向けの健康相談デスクの案内が風評被害を煽るように各所に立てられていた。さらにキャセイパシフィックが運行する成田行きの便は何故かキャンセルになっており、スリムクラブも恐れる放射能の脅威をマザマザと見せ付けられたような気がした。

午前9時45分発、機体にパンダ紋様をあしらったNH912便はキャセイパシフィックがフライトをキャンセルするのもうなづけるほど空席が目立っていた。午後3時に成田に到着するとリハビリの必要性を感じたのでスリムクラブを輩出した沖縄へ流れされるように解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥21,830、日本航空(香港ドラゴン航空)= ¥18,640(税金のみ)

総宿泊費 Tk 22,880(Tk 1 = ¥1.2)

総タクシー代 Tk 800

総バングラデシュ ビザ代 ただ

協力 ANA、日本航空、香港ドラゴン航空

FTBSEAビルマの竪琴ツアー

ミズシマ(サよ)~ いっしょに ニッポンにかえろ~~!

ということで、仏像顔の中井貴一を主演に据えて1985年に公開されたビルマの竪琴の決め台詞は明石家さんまのひょうきん族のギャグにも採用され、一大センセーションを巻き起こしたのは記憶に新しいところだが、結局水島上等兵は帰ってくることはなかった。ビルマの国名は1989年にミャンマーに変わってしまったが、水島は今でもビルマの空の下で竪琴を弾いているはずだという思いに駆られ、その音色に引き込まれるようにこの地を訪れることになったのだ。

3月9日(水)

ビザ申請用紙の渡航目的欄に沖縄弁で「アウン・サン・スー・チーに会うんサ~!」と余計な事を書かなかったおかげで、予定通りミャンマー大使館でビザが査証されたパスポートを返却していただくことに成功した。

3月10日(木)

午前0時30分羽田発のNH173便に乗り込むと後輩の水嶋ヒロが出演している機内映画プログラムがあれば見ておかなければならないと思っていたのだが、幸いにもなかったので安心して瞑想モードに突入した。バンコクのスワンナブーム国際空港に午前6時前に到着すると、数週間に渡ってチケットを暖めておいたタイ国際航空TG303便に乗り換えると午前9時頃に市川昆監督や中井貴一も利用したことがあるはずのヤンゴン国際空港に辿り着いた。

スループットの悪い入国審査カウンターでアウン・サン・スー・チーの話題を持ち出さなかったのでアウンの呼吸で入国を許可されると念願のビルマの竪琴ツアーが開始されることとなった。地場の旅行会社であるミャンマー ゴールデン ガーデン トラベルに国内線のチケットの手配を依頼しており、ヤンゴン空港でチケットを受け取る手はずを整えていたのだが、要人であるはずの私が入国するということで用心のために代表取締役社長であるカイン カイン エー氏自らがパシリの役目を買って出て到着エリアで待ってくれていた。尚、ミャンマーの現地の旅行会社はメールでの日本語対応が可能であり、カイン カイン エー氏も流暢な日本語を喋るのだが、驚いたことに日本に行ったことはないとのことだった。

空港で「坂の上の雲」を読みながら4時間程やり過ごし、午後2時にエアバガンが運行する109便に乗り込むこととなった。この便がいくつかの経由地を経てバガンに到着したのは午後5時を過ぎた時間であったので、そそくさと空港でタクシーを拾ってホテルに向かうことにした。タクシーではお約束のツアーの客引きが便乗し、しきりにガイド付きのツアーを高値で売り込もうと躍起になっていたのだが、何とかのらりくらりと交わしている間にオールドバガンのホテル・タラバーゲートに到着した。

城壁に囲まれた保護区であるオールドバガンの入口にタラバー門が開門されているのだが、この門は9世紀にビンピャー王がバガンの防護を固めようと築いた城壁の名残である。

ホテル・タラバーゲートを出て夕暮れ時の町並みを散策することにしたのだが、バガンの観光の主要交通手段となる馬車の運転手兼客引きの執拗なマークに遭い、彼はホテルにゴールするまでそのマークの手を緩めることはなかったのであった。エーヤワディー(イラワジ)川が流れる岸辺は質素な村落地帯となっており、若者村民たちがセパタクローに興じながらその見事な足技を披露していた。

ホテルで夕食を取った後、ロビーでネットに接続出来るというので早速時間当たり$3の大金を払って速度の遅いインターネットに接続したのだが、この国の厳しい情報統制のおかげでかろうじてYahoo Japanには接続させていただけるが、Yahooメール等のウエブメイルは使用不能になっており、私のタイムリーな情報発信は制限されてしまったのだ。

ネット接続につき込んだ$3が無駄になり、蚊に食われた足を掻きながら呆然と空を見上げていると、ヒロとの結婚でミズシマ一族の一員となった絢香が歌唱する「三日月」が♪みんな空の下♪を明るく照らしていた。

3月11日(金)

ミャンマー最大の見所で世界的にも貴重な仏教遺跡のひとつバガンは、1044年にビルマ族による史上最初の統一王朝が開かれた土地であり、エーヤワディー川の岸に広がる乾いた平原に数千ともいわれる仏教建築物が林立し、幻想的な光景を目の当たりにすることが出来る。

とうことで、起きぬけにエーヤワディー川岸を散策し、バガンの朝の営みの一端を垣間見ることにした。川岸に着岸している船は単に居住空間を提供しているものや物資や人々を運ぶもの等様々であるのだが、浜辺では早朝から多くの原住民の往来が見受けられた。川岸から高台に続く階段に多くの原住民が座って朝飯を食っていたのだが、何故か皆一様に通り過ぎる私に対して物乞いの手を差し伸べていた。

階段の頂上に川を見下ろすように小さな円筒形の仏塔が光っている。このぶっとい仏塔はブーパヤー・パヤーであり、一説によると7~8世紀頃、ビュー族によって建てられたと言われている。

ところで、外国人旅行者はバガンへ入る際に$10の入域料を徴収されることになっており、私も昨日空港で入域料を奉納していたので、朝食後にその元を取るために本格的にバガンの散策に繰り出すことにした。手始めにホテルのあるタラバー門から程近いバガンで最も美しい建築とされるアーナンダ寺院を見学させていただくことにした。

仏教建築に興味がないであろうマサであれば、あ~何だ・・・という程度の印象しか持たないかも知れないが、アーナンダ寺院はバガンの遺跡を代表する最大かつ最もバランスの取れた美しい寺院だといわれている。本堂の中央には高さ9.5mの4体の黄金の仏像がそれぞれ四方を向いて収められており、朝日を浴びた東の仏像の足元では僧侶の読経に合わせて熱心な信者が朝のお勤めにいそしんでいた。

バガン遺跡観光の機動力を高めるためにホテル裏の馬車配送センターを兼業している自転車屋でママチャリをレンタルすることにした。バガン観光地区一帯はオールドバガンだけでなく、ニャウンウー、ニューバガンと広範囲に渡っているため、効率的に回るための足がどうしても必要になるのだ。

オールドバガンから北東に5km程離れているニャウンウーはバガン地区の入口となる町で長距離バス乗り場もある交通のターミナルとなっている。とある旅行会社で明日乗らなければならないバスのチケットを購入し、軽く町並みを眺めていると、セブンイレブンの看板を掲げながらセブンイレブンらしくないしなびた商店を発見した。

ニャウンウーの長距離バスセンターの近くにシュエズィーゴォン・パヤーがそびえている。これはアーナンダ寺院と並んでバガンを代表する黄金の仏塔で青空の下で圧倒的な存在感を示していた。日光で熱せられた広い境内を裸足で歩いていると仏塔以外にも多くの小仏塔や仏像が安置されているきらびやかな建物を目にすることが出来、原住民は額を地面になすりつけんばかりの勢いで祈りを捧げていた。

ニャウンウーからオールドバガンに向かう途中にあるティーローミィンロー寺院は1215年にバガン王ナンダウンミャーがこの地で王位継承者に選ばれたことを記念して建てた寺院である。5人の王子の中からの王位継承者の選定方法であるが、傘が倒れた方向に座っていた者を選んだというエピソードが残されており、ナンダウンミャー王は別名ティーローミィンロー(傘の王)と呼ばれていたためにこの名称が付いたと言われているのだ。尚、この方法が財務省で採用されれば、マサがトップの事務次官に成り上がるのも夢ではないと思われた。

猛暑での体力消耗を避けるためにミャンマーでは日中の最も暑い時間帯はホテルで休憩することが通例となっているので、ホテルに戻り何気なくテレビから流れるNHK Worldのニュースを見ていた。日本とは2時間半の時差のあるミャンマー時間のお昼過ぎに信じられないような光景が目に飛び込んできた。巨大地震と津波により東日本が壊滅し、水島の帰国を按ずるどころか私自身が帰国出来ないような恐怖感に駆られながら一瞬たりともテレビから目を離すことが出来なくなってしまった。

数時間後に何とか気を取り直し、仏教の聖地に来ているアドバンテージを利用してブッダに救いを求めるべく、再び炎天下に飛び出すことにした。12世紀半ばにアラウンスィードゥー王によって建立された美しい寺院は65mの高さを誇るバガンで最も高いタビィニュ寺院である。タビィニュとは全知者を指し、仏陀を意味しているのでここにお参りすれば何とかご加護を受けられるはずであろう。

バガンの遺跡は広い範囲に散らばっているので考古学保護区であるオールドバガンの南5~6kmに位置するニューバガンまで足を伸ばしつつ周辺の寺院や仏塔を眺めていた。

バガンの平原に夕暮れ時が訪れた頃、夕日の名所とされているシュエサンドー・パヤーに到着した。この仏塔はバガン黄金期の初期にあたる1057年の建立で、特徴的な5層のテラスの上を目指して観光客が急な階段を我先にと這い上がろうとしていた。塔のふもとでは金属製のリングをはめて首を長く見せる風習のあるバダウン族の女性が機を織りながら購買意欲の高い観光客が来るのを首を長くして待っていた。

サンドーとはビルマ語で「聖髪」を意味し、この仏塔の中にはモン族の所有していた釈迦の遺髪が納められていると言われている。この仏塔の最上部のテラスからはバガンの平原に無数に林立する仏塔群を見下ろすことが出来、夕暮れ時にはバガン中の観光客が参集するため、テラスの上は観光客で溢れ返ってしまうのだった。

3月12日(土)

早朝7時前にホテル・タラバーゲートをチェックアウトし、朝日を浴びながらニャウンウーの長距離バス乗り場への道のりを徒歩で目指していた。バス乗り場には日本でお払い箱になったバスが数多く停車しており、その余生はミャンマーでの過酷な道路事情でスクラップになるまで酷使されることになっているようだ。

原住民を満載したトラックも日本製で、あらためて日本の工業製品の品質の高さを認識することが出来るのだが、日焼け止めは現地の伝統の自然化粧品が使われている。しかし、柑橘系の木の幹をすりおろして粉にしたその化粧品は何故か「タナカ」と命名されており、ミャンマーではどこへ行ってもタナカギャルやタナカ児童が炎天下を闊歩しているのだ。

座席の広い日本の夜行バスの払い下げを受けた長距離バスは8時半にバガンを出発すると不安定な橋、水没した道路、迫り来る牛の大群を避けて午後2時前にはミャンマー第二の都市であるマンダレーに到着した。

バスを降りるとゲストハウスやタクシーの客引きが大挙して押し寄せてきたのでその攻勢をかわしながらバス乗り場を後にするとなおもバイクタクシーの客引きが追いかけてきたので仕方なく乗ってやることにした。マンダレーの長距離バスターミナルは市街から10km程南に位置しているので移動交通手段がないと市街に辿りつけないのだが、2時半頃には何とか伝統的ミャンマー様式を模した堂々とした概観を持つセドナ・ホテル・マンダレーに到着した。

予定よりも早くチェックイン出来たので、町に出て整然とした碁盤目状の町並みを歩いてみることにした。ホテルの目の前に一辺が3km、高さ8mの城壁に囲まれ、さらに濠をめぐらせてある旧王宮が町の中心部をなしているのでその南側の大通りに沿って西に歩いているとマンダレー駅に到着した。重厚な駅ビルとは裏腹にホームのある駅の構内は典型的な東南アジアの旅情が溢れており、原住民が織り成す人間模様を観察するのに持って来いの場所となっている。

さらに西に向かって歩を進めるとマンダレー最大のマーケットであるゼェジョーマーケットに到着したので、ここで中古の竪琴でも売っていないかと探し回っていた。路上ではナイトマーケットの準備がぼちぼち始まっていた頃であったのだが、何気なく見上げた視線の先にある看板を見て愕然としてしまった。何とここでは大胆にも竪琴がそばヌードルとして宣伝されていやがったのだ!しかも現地のそばということで竪琴を粉にしてそばにしてしまったのか!?という疑念さえ沸いてきたのでそのままホテルに引き返して平常心を取り戻すためにレストランに駆け込んだ。

ミャンマービールを飲みながらフィッシュカレーを流し込み、気持ちも落ち着いてきたところでロビーに出るとそこでは民族衣装に身を包んだホテルの契約踊り子が民族舞踊でマンダレーの夜を彩っていたのであった。

3月13日(日)

ミャンマーのほぼ中心に位置する古都マンダレーは1857年にミンドン王によって建設され、以後1885年にイギリスに占領されるまで、ミャンマー最後の王朝として栄えていた。その栄華の夢の跡を偲ぶために早朝より旧王宮を散策させていただくことにした。尚、このファシリティはミャンマー国軍の軍事設備も兼ねているため、外国人の入場エリアは限られているのだ。とりあえず、入口でマンダレー入域料としての$10を徴収されると中心部の美しく再現された旧王宮の建造物群に向かって突き進んでいった。

1945年3月に日本軍と英印連合軍との戦闘によって焼失した王宮であったが、現在では王の謁見の間や控えの間、宝物館等、往時の栄華が偲ばれるほど豪華に再現されている。

円筒形をした監視塔からは建物群を鳥瞰的に眺めることが出来るばかりか、遠くマンダレーヒル迄の眺望も提供しているのだが、実際に建造物を間近に観察すると建て付けの悪さがどうしても目に付いてしまうのである。

マンダレー駅の近くにエアバガンのオフィスがあり、そこでフライトのリコンファームを行った後、近隣のショッピングモールを軽く散策して猛暑を避けるためにホテルに戻ってきた。テレビから流れるCNNのニュースでは暗い音楽とともに日本の地震の状況がひっきりなしに伝えられていた。

午後3時を回った頃に活動を再開することにした。マンダレーの見所はマンダレーヒル周辺に広がっており、まずは麓の寺院であるチャウットーヂー・パヤーを見学させていただくことにした。本堂にある大きな石仏は1865年にミンドン王によって開眼されたのだが、その切れ長の目は中井貴一を髣髴とさせる細さであった。

白い仏塔が果てしなく並ぶサンダムニ・パヤーは、ミンドン王が王宮造営の間、仮の王宮となっていたそうで、そのひとつひとつの白い仏塔には律儀にも仏典を刻んだ石版が納められているのだ。

クドードォ・パヤーには仏陀が悟りを開いてから死ぬまでの説教をまとめた経典を刻んだ石版が729もの小仏塔群に納められており、時のミンドン王にして2400人もの僧を招集してその作業にあたらせたと言われている。

旧王宮の東北に隆起している標高236mのマンダレーヒルは、丘全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地であると同時に絶好のサンセットスポットとなっているので満を持して登ってみることにした。マンダレーヒルへは車を使って7合目付近から観光を開始することも出来るのだが、私は当然のように麓から攻めることにした。

マンダレーヒルの頂上に達するまでの間は屋根のある参道が展開されており、要所要所に祠や仏塔が点在しているので、それらを見て歩くと結構時間がかかるのだ。また、道行く途中からも麓の寺院の遠景を拝みながら仏塔の配置と全体のスケール感を堪能することが出来るのである。

1時間程かけて何とか頂上に這い上がるとそこにはマンダレーヒルで最も古いスタンピー・パヤーの豪華絢爛な配色が施された仏教施設が待ち構えている。また、奥には下りの階段があり、ムイジーナッカという2匹のコブラの像が口を開けてそこにお布施のお札を挟めと催促するような上目遣いをしている。尚、このムイジーナッカはミャンマー人に大変な人気を誇っているようで、頂上まで巡礼に来た輩はもれなくこの像の前で記念写真を撮っていた。

夕暮れ時が訪れると僧侶も観光客も皆一様に西側のテラスの手すりにもたれかかると沈み行く太陽を最後まで見守り、マンダレー観光のハイライトを飾っていた。

3月14日(月)

セドナ・ホテルをチェックアウトするとダウンタウンにあるいくつかの見所を拾ってみることにした。シュエチミン・パヤーはマンダレー最古の仏塔とされ、バガン王朝時代に建立されたものらしいのだが、現在メンテ中になっているのでこの寺院が信者と猫の憩いの場になっている状況を確認して撤収することにした。

退官した東京都バスが走る大通りを抜けるとエインドーヤー・パヤーに到着した。ここには整った形の仏塔がそびえているはずなのだが、やはりメンテ中らしく、布で覆われた残念な姿をさらしていた。通常遺跡はそのままの姿で保存されることが多いのだが、ここミャンマーでは積極的に修復の手が加えられ、現役の仏塔や寺院として地元の信仰の支えとなっているのだ。

マンダレー市街から南に40km以上離れたマンダレー空港に移動するために流しのタクシーを捜していたのだが、中々捕まらず結局マンダレー駅まで流れ着いてしまった。駅で客待ちをしていたタクシーはMAZDAという看板は持っているものの明らかに日本製ではないオンボロ車だったのだが、時間も押していたので運転手にマンダレー空港まで走れるかと聞くとたどり着けるという自信を持った意思表示をしたので$20で契約して乗り込むことにした。バックミラーもサイドミラーもなく、走るための必要最低限の機能しかないタクシーは一応ガソリンで走るのだが、何とそのガソリンタンクは運転席の足元のポリタンクに満たされていたのだった。

普通車系のタクシーに何台も抜かれながら1時間以上かけて何とかマンダレー空港に到着した頃には、この乗り心地の悪いオンボロ車に情が移っていたので$5のチップを渡して無事に市街地に帰還出来るように祈っておいた。午後1時40分発エアバガン120便に乗り込むと4時前にはヤンゴン空港に到着し、空港タクシーで今日の宿泊先であるパークロイヤル・ヤンゴンに移動した。

ところで、ヤンゴン市街地までの空港タクシー代は$8なのでホテル到着時に運転手に$10札を渡したのだが、ドル札のお釣りがないと言いやがったので、それではミャンマーの紙幣で釣りをよこせと要求し、この旅で初めてミャンマーの通貨であるチャットを目にした。ミャンマーでは旅行者向けに米ドルが流通しているのだが、米ドルからチャットに両替するための公式な手段がなく、町中で物を買い食いしたりするのに非常に苦労するのである。通常の両替手段は両替商の看板も何も掲げていないブラックマーケットでの両替となるため、チャットを入手するのはYahooインスタントメッセンジャー等のようなお気軽さとは無縁のものであることを思い知らされるのだ。

ヤンゴン市街地中心部に位置するパークロイヤル・ヤンゴンにチェックインし、CNNニュースを見ながら相変わらずYahooメールが使えない不便を思い知った後、町に繰り出してみることにした。イギリス植民地以降、この町はラングーンと呼ばれてきたのだが、町には多くの植民地時代に建てられた重厚な建物が並んでいる。

ヤンゴン川沿岸に建つ仏塔はボータタウン・パヤー($2)で2500年以上昔、8人の僧がインドから仏陀の遺品を持ち帰ってここに安置したことに始まるといわれている。仏塔の内部はまばゆいほどの金で装飾されており、迷路のような道が張り巡らされている。

広い境内は多くの仏像で賑わっているのだが、日本から伝来したはずの「シェ~!」のポーズを決めたシュールな仏像が一際目を引いた。寺院の外ではそこいらの鳥たちを拉致して閉じ込めてある鳥かごが無造作に置かれているのだが、これは信者が金を払って鳥を逃がして徳を積み、逃がした鳥を子供が捕まえて小遣いを稼ぐという人間の身勝手なお金の流れの連鎖を支援するものであろう。    

3月15日(火)

ヤンゴンの市街はスーレー・パヤー($2)を中心に設計されている。スーレーとはパーリ語で「聖髪」という意味で、仏塔内には仏陀の遺髪が納められているといわれている。スーレー・パヤーでは早朝より多くの参拝客で賑わっており、仏教がミャンマー人の生活の一部として溶け込んでいる様子を間近で観察することが出来るのだ。

ヤンゴンで最も大きいボーヂョーアウンサン・マーケットに買う気もないのに行ってみることにした。ここではお土産物や宝飾品店等が多いのであるが、道行く外国人に対してミャンマー通貨のチャットへの両替を勧誘するささやき声も聞こえるのだ。

正午前にパークロイヤル・ヤンゴンをチェックアウトしようとした際に、昨日はクレジットカードは使えると言ったはずなのに今日になって現金払いにしやがれと手の平を返されてしまった。手持ちの米ドルが底をつきかけており、もう現金では払えね~ぜとダダをこねたところ他の通貨も受け付けるという妥協案を示してきたのでタイバーツで支払っておいた。尚、ミャンマーではクレジットカードを使える所が非常に限られているので観光客は米ドルでの現金掛け値なしの取引を覚悟して入国しなければならないのだ。

ミャンマーでの国営天気予報であってほしいミャンボ~ マーボ~天気予報の確認を怠っていたせいか、ヤンゴンに来て雨に見舞われてしまった。しとしとと降りしきる雨の中、ヤンゴンを見守るミャンマー最大の聖地であるシュエダゴン・パヤー($5)を参拝させていただくことにした。

ヤンゴン市外の北、シングッダヤの丘に金色に輝くシュエダゴン・パヤーの歴史は、今から2500年以上も昔にさかのぼるといわれている。言い伝えによると、とある兄弟の商人がインドで仏陀と出会った際に引導を渡される代わりに8本の聖髪をもらい、紀元前585年にこの地に奉納したのが起源とされている。

「シェ~!」の変形バージョンのポーズを決めたおやじに迎えられて104段の階段を登りきると高さ99.4m、基底部の周囲433mの巨大な仏塔に圧倒されることになる。この仏塔には8688枚の金箔が使用され、塔の最頂部には1個76カラットのダイヤをはじめ、総計5451個のダイヤと1383個のルビー等がちりばめられているのだ。

広大な境内の東西南北には祈祷堂があり、それぞれにシュエダゴン・パヤーにゆかりのある仏陀像が祀られている。尚、これまで無数のパヤーを見てきたが、仏教国ミャンマーの象徴ともいうべき仏塔「パヤー」は英語では「パゴダ」と呼ばれており、日本では「パゴダ」という呼称の方が通りが良いようである。

今回のツアーでは結局「ミズシマ」と名乗る日本人を探し出し、「いっしょにニッポンにかえろ~!」と呼びかけておきながら、連れて帰れないという実績を残す前に、自分が日本に帰れるかどうかの不安感に苛まれ、仏陀にすがるような思いで多くの仏教施設を訪問させていただく結果となってしまった。午後7時40分発TG306便でヤンゴンからバンコクに戻り、11時55分発NH916便が予定通り出発出来るのも仏陀のご加護であったのは間違いないはずである。

3月16日(水)

機内のエンターテイメントプログラムでキムタク主演のSpace Battleship Yamatoを見ながら有効な放射線除去の方法を考えていたのだが、宇宙戦艦ヤマトの原作のイメージが損傷されている印象だけが残留してしまった。

午前7時30分過ぎに成田空港に到着すると、Arrival Loungeにしばらく立て篭もり、過去数日に日本で起こったことをレビューし、気持ちの整理をしながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = だた、タイ国際航空 = THB11,900、エアーバガン = $197

総宿泊費 $354.08、\5,300

総バス代 $11

総タクシー代 $51

総バイクタクシー代 $3

総レンタサイクル代 $5

総ミャンマー出国税 $10

総ミャンマービザ代 ¥3,000

協力 ANA、タイ国際航空、Myanmar Golden Garden Travels & Tours Co., Ltd(http://gg.yangon.jp/)、楽天トラベル

奥東南アジア ラオスの桃源郷ルアンパバーン

水島上等兵に敬意を表してビルマの竪琴ツアーを実施するためにミャンマー行きの航空券をすべて手配し、満を持してミャンマー連邦大使館に観光ビザの申請に行ったのだが、、申請窓口の不機嫌そうな女性事務員が言うには何とビザの発行に一週間も要するというではないか。しかも私が大使館に出向いたのは出発の2日前だったのでもはやビザの発行を待っているとANAご利用券を使って購入したE-ticketが紙くずならぬEくずと化してしまい、マサに竪琴の弦が切れかかった窮地に陥ってしまった。。私の経験則から言うとブラジル大使館は人情にほだされてビザを予定より早く発行してくれた実績があったのだが、軍事独裁政権主義のミャンマーは頑として融通を利かそうとはしないので水島上等兵に「いっしょにニッポンへ帰ろう!」と呼びかけるミャンマー行きは延期せざるを得なくなってしまった。

高級官僚のマサであればその権力を盾に八百長をしてでも即日でビザを発行させたであろうが、ガチンコで勝負しなければならない私はすかさずバックアッププランの検討に取り掛からなければならなくなったのだった。バンコクから短時間で移動が可能だという要件から2007年の10月にラオスの首都ビエンチャンを訪問(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2007laos.html)し、雄大なメコン川を眺めながら再びこの地に戻らなければならない望郷の念に駆られていたので、今回はラオス北部の世界遺産都市ルアンパバーンに急遽足を踏み入れる決断が下されたのだ。

2011年2月24日(木)

夜中12時半出発の羽田発NH173便バンコク行きに乗り込むと同時に目隠しを装着し、どうしても私に挨拶をしないと気がすまないスチュワーデスの干渉を避けていると午前5時過ぎにはバンコクのスワンナブーム国際空港に到着した。次の便の乗り継ぎ迄の間に広い空港内を闊歩したのだが、巨大な免税ショッピングモールに設置された古代仏教のフェスティバル系のオブジェが圧倒的な存在感を示しているのを目の当たりにした。

バンコクエアウェイズが運行するPG945便ルアンパバーン行きは定刻13時30分に離陸すると約1時間40分のフライトで国際空港に到着した。空港のATMでラオスの通貨であるキープを引き出して当座の生活資金をキープすると、早速タクシーチケットカウンターでタクシーを発注し、20分程度で今回の宿泊地であるバン・ランカーン・ゲストハウスにゲストとして迎えられることと相成った。チェックインの手続きもそこそこにメコン川とその支流のナムカーン川に挟まれたルアンパバーンの中心地を彷徨うことにした。

ラオスの北部は、そのほとんどが山岳部で形成されており、その山々の間に世界遺産都市ルアンパバーンが桃源郷のように存在し、その魅力から多くの欧米観光客の楽園となっている。なるほど川べりには多くのホテルやゲストハウスが軒を連ね、皆一様に川を見下ろすようにバーやレストランを開業させている。水深の浅いナムカーン川ではたくさんの児童たちが水遊びに興じており、マサに古き良き時代の日本の田舎の風景を思い起こさせてくれるのであった。

大河メコンに多くのスローボートが繋留されているのを確認し、メインストリートに移動するとそこはナイトマーケットの出店準備をしている原住民で賑わいを見せ始め、大事な売り物を足蹴にしないように注意をしながらゲストハウスに引き上げていった。

2月25日(金)

ルアンパバーンでは特定の建造物ではなく、町全体が世界文化遺産に登録されているのだが、今日は大小あわせて70以上もの寺院のうち、代表的なものをお参りさせていただくことにした。

ルアンパバーンのシンボルになっているワットシェントーン(Kip 20,000)は1560年に建立された寺院でラオスの寺院の中で最高の美しさを誇ると言われている。本堂は「ルアンパバーン様式」といわれるスタイルで建造されており、屋根が大胆に湾曲しているのが特徴とされる。

ホーラーサロットと言われる車庫には実際に1960年に行われたシーサワンウォン王の葬儀で使用された霊柩車が収められており、その金の装飾が王の圧倒的な権威を示しているように思われた。敬礼をしている寝仏が納められた祠は「レッドチャペル」との異名をとり、その名の通り、ピンク地モザイク画で彩られている。

ルアンパバーンの中央にそびえる高さ150mの小高い山プーシー(Kip 20,000)はかつて神様に導かれてこの山に辿りついたという仙人の山で頂上にタートチョムシーという塔が建っている。頂上からはメコン川とナムカーン川の間に広がるルアンパバーンの町を見下ろすことが出来、町の構造を鳥瞰的に把握するのに一役買っているのだ。

プーシーから下山して麓にあるこじんまりした寺院の古い壁画に目を通した後、かつて王宮だった建物を利用して王朝時代の歴史を展示しているルアンプラバーン国立博物館(Kip 30,000)を見学することにした。ルアンプラバーンはこの町の旧名称であるのだが、館内には王族が使用した家具調度品や日本を含む各国使節からの贈答品などが展示され、当時の繁栄を偲ばせてくれるのだ。

当博物館の裏手にラオスと日本の共同プロジェクト10周年を記念して修復仏像展が開催されていた。仏教学科を主体にした身延山大学の指導で修復された仏像の展示物もさることながら、ここでは仏像修復所も公開されており、タバコを吸いながら修復を見守るけしからん輩や「自然に古く見せるようにしなけりゃだめだよ!」と厳しい指導をする大学関係者の権威も垣間見ることが出来るのだ。

メコン川の向こう岸に沈む夕日を背景にスローボートで到着した欧米人客を獲得しようと躍起になっているゲストハウスの客引きとの攻防戦が終盤に差し掛かった頃には日もとっぷり暮れてしまったのでナイトマーケットの物産を物色することにした。出店者は周囲の村々の少数民族で織物やお茶や日用雑貨を交渉に欠かせない電卓片手に適正価格で販売し、ボッタクリ店との汚名を着せられないように配慮しているようだった。

2月26日(土)

ルアンパバーンの早朝の象徴的な光景となっている托鉢を見学するために夜も明けきらない5時半にとある寺院の前で待ち伏せをすることにした。托鉢とは、坊主頭の寺院の僧侶が喜捨を受けに町を歩く儀式でラオス全土で行われているのだが、世界遺産の町ルアンパバーンではほかの町とは比較にならない規模で実施されているのだ。

托鉢が行われるのは早朝5時半~6時半と聞いていたので満を持して5時半に集合したのだが、托鉢の始まる気配さえ感じられなかったので暗闇の中でしばらく時間をつぶさなければならなかった。しかし周囲が明るくなった6時半頃にはタクシーやトクトクで多くの団体観光客が参集し、それぞれのポジションに着くとほどなくプレイボーズとなった。

世界遺産に登録されて以来、観光化されてきた宗教儀式とはいえ人々は僧侶に敬意を示さなければならないので基本姿勢は正座となっている。また、フラッシュ撮影が禁止されているのは決して僧侶の頭からの反射光が眩しいからではないのである。

僧侶は各寺院の行列毎におのおの金属製の壺を持って裸足で練り歩き、貢物は主にもち米ご飯やバナナ等の食べ物であるのだが、すぐに壺が一杯になるので青少年少女が合掌しながら路上に控え、あふれた貢物を回収するシステムになっているのだ。

托鉢をプレイ坊主からゲームセットまで見守り、仮想的に徳を積むことが出来たのでさらなる悟りを開くために寺院巡りを再開することにした。1821年に建立されたワットマイ(Kip 10,000)はラオスにおける仏教芸術が最盛を誇った頃を髣髴とさせる絢爛さを誇っており、五重に折り重なった屋根はワットシェントーンよりも美しいと言われている。

おばあちゃんが現役看板娘として取り仕切っているスイカ売り場の奥にベトナム風寺院のワットパバートタイ(Kip 10,000)がひっそりと存在している。さすがに建物の建築様式は他の寺院とは異なっており、中には巨大な黄金の寝仏が薄目を開けながら寝たふりをしていた。

ナーントランニーという仏を守る女神の像が躍動しているワットタートルアンをちら見し、さらに町中を歩いていると衣料品店の店先では現代風の娘が不自然に笑顔を取り繕っていた。

ついさっき目にした大量のスイカの幻影を消し去ることが出来ないままワットビスンナラート(Kip 20,000)に到着した。タートパトゥムという塔がスイカを半分に切ったような形をしていることからこの寺にはスイカ寺という別名が付けられているのだ。

ワットビスンナラートに隣接するワットアーム(Kip 20,000)の本堂正面の両脇には力士のような鬼が股を割って構えており、内部の仏画は八百長をした力士の将来を暗示するかのような地獄絵図がデザインされているのだ。

ここ数日間ルアンパバーンの町中を歩き回ったわけだが、体内には当然疲労が蓄積し、それを解消するための癒しが求められるのだが、この地には数多くのマッサージ店が軒を連ね、しかも1時間500円程度の安値で施術してくれるので毎日通っても財政難に陥る懸念はないのである。

大通りの中央のとあるカフェの奥にカム族に伝わるマッサージを体験出来るマッサージ屋が開業していたので試しにカムマッサージ(Kip 55,000)を受けてみることにした。カム族ということで歯を使った甘噛みが駆使されるのかと思ったのだが、女性施術士が施した技はカム族秘伝のツボマッサージということだった。

2月27日(日)

マサよ、君は無免許であるにもかかわらず象の運転を強制され、何とか無事故無違反で乗り切ったことがあるか!?

というわけで、ルアンパバーンは現在のラオスの礎を築いた「ラーンサーン王国」の都として発展を遂げたのだが、ラーンサーンは百万頭の象を意味し、それを国名にしてしまうほど象との関係が深いのである。そういう背景からこの地では多くの優秀な象使いを輩出しており、養成のための教育体制も充実しているのだ。今回はその実態を確認すると同時に私にとっても将来上野や旭山動物園で再就職する際の賃金交渉を有利に進めるために象を運転するトレーニングに参加させていただくことにした。

All Lao Camp & Resortが提供するメニューで2 Days Mahout Courseという2日間で象使いに成り上がるコースにあらかじめ申し込んでおいたのでゲストハウスに迎えに来たバンに乗り込むと山中に展開されているキャンプ&リゾート地に向かった。尚、Mahoutを辞書で引くと「象の御者で飼い主(the driver and keeper of an elephant)」となっている。

All Lao Camp & Resortのファシリティはルアンパバールから車でわずか20分程度、ナムカーン川の両岸に展開されている。最初にとあるElephant Riding Platformに到着すると休む間もなくElephant Ridingの火蓋が切って落とされた。象には背中に2人掛けの座席がインストールされており、ドライバーも含めて3人乗りがスタンダードとなっている。出発当初は象使いが象を運転し、私とオーストラリアから来たおばちゃんが後部座席で余裕をこいて座っていたのだが、ふいにその象使いは、子供や動物やヘッドハンターから絶大な人気を誇っている私の特性を見抜いた様子で私に運転を代われと言いやがった。

象の背中を伝って何とか運転席にたどり着いた私は象の首周りの筋肉の動きを内太もも内転筋に感じながら、これがラオスで最も効果的なマッサージだと思っていた。シートベルトもなく安定感の悪い象の運転席に座り続けるのは意外と体力を消耗するもので体勢を安定させるための唯一のよりどころは象の頭しかないのであった。また、エアーバッグもないので象に振り落とされて落象したあかつきには大怪我は免れないことであったろう。

象の大きな耳のパタパタを膝元に感じながら、ナムカーン川の浅瀬を渡り、今日の宿泊地となっているMahout Eco Lodgeに到着すると部屋に準備されていた囚人服のようなユニフォームに着替えなけれならなかった。尚、象に類する巨体を持つオーストラリア人のおばちゃんにフィットするユニフォームはなかったので必然的に彼女は私服での参加となったのだ。

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昼食後にコースの講師兼世話役のアットに案内されてボートで川を渡り、対岸のビレッジを軽く見学する運びとなった。尚、アットが居住しているあばら家もその村にあり、中では妻が新生児が眠っている揺りかごを揺らしていた。

象使いになるためにはMahout Training Schoolで講習を受けるのが必須となっている。ここでは講師のアットから象に対するコマンドが教授されたのだが、象は元々言語を持っていないのでこれは象を操るための造語に過ぎないのである。

基本的な象語を会得した後、再び象に搭乗し、Elephant Bathing Areaまで運転する運びとなった。川に象を沈めると水をかけて象を洗濯するという重労働を強いられるのだが、「Bone bone、ブン ブン」というコマンドで象は鼻で吸い上げた水を自らの背中にかけ、背中にしがみついている人類をびしょ濡れにして喜ばすというのが定番になっている。

Mahout Courseには象の相手だけでなくその他のアクティビティも含まれているのだが、象に水をかけられてびしょ濡れになった勢いを駆ってTubingという浮き輪にはまって川に流されるという1時間程度の放置プレイに参加することにした。このプレイにより観光客はナムカーン川のゆるやかな流れに乗り、田舎の桃源郷のような景色を眺めながら徐々に癒されていく感覚を覚えるのだった。

夕暮れ時にボートに乗ってアンリ・ムオというフランス人探検家の墓にお参りに行くことになった。アンリ・ムオはインドシナ半島のジャングルを探検しているときにアンコール・ワットを発見してワット驚いたという輝かしい実績を持っているのだが、マラリアに罹り、この地で終焉を迎えることになってしまったそうだ。また、ここはラオスの中心地とされ、Zero kmの碑も建てられているのだ。

ところで、世話役のアットにルアンパバール近辺のジャングルの野生動物情報を聞いたところ、コブラのような毒蛇がツイストをしながらやってくることはないが、虎はいるかも知れないとのことだった。現にアットの子供時代に親とボートで魚採りをしているときに六甲おろしに乗ってもいない猛虎が川を泳いでいる光景を見てアット驚いた恐怖体験を持っているとのことであった。

2月28日(月)

コース2日目は早朝7時に起床し、ジャングルまで象を迎えに行き、さらに朝の水浴びをさせなければならなかった。象を洗っているその脇を象の糞がどんぶらこと流れていくというようなコミュニケーションの継続により象との信頼関係が築かれ、将来的には地元の象使いのように象の上でタバコを吸ったり、運転しながら携帯メールを打つといった離れ業が身に付いていくものと思われた。

朝食後のアクティビティのオプションとしてエスニック・ビレッジへのトレッキングとカヤッキングがあったのだが、もう水に濡れたくなかったのでトレッキングを選択することにした。炎天下の山道をガイドの先導で2時間ほど練り歩くと正午前にしなびたビレッジに到着した。

竹で建築された粗末な家が並ぶ村の人間模様を軽く見学させていただいた後、村の重役とおぼしき人の家で昼食をご馳走になることになった。食事は川魚の切り身を油で炒めた物に指で丸めたもち米ご飯をなすりつけて食べるという素朴なものであり、子沢山の大家族の他のメンバーは米で作られているはずの麺を召し上がっていた。

電気もなく、NHKも放映されない素朴な村であるが、観光客のホームステイは受け付けているということで、八百長で廃業になった力士が人生をやり直すためのスタート地点としてこの上ない環境が提供されていることは確かであろう。

トレッキングも無事終了したのでルアンパバーンに戻り、予約していたThe View Pavilion Hotelという高級ホテルで涼を取った後、夕飯を求めて町に出ることにした。村での質素な生活と食事を参考にして今夜は市場の露天で供される惣菜と焼き魚をBeerLaoで流し込み、わずか400円程度の支払いで済ませ、余った金はFoot Massageにつぎ込みながら桃源郷での最後の夜を過ごしていた。

3月1日(火)

ホテルがメインストリートの寺院の前に立地していることから図らずも再び托鉢のオレンジの隊列を見守ることとなった。地元の熱心な信仰者は毎日欠かさずお供えを与えるのかと思っていたのだが、今日路上で膝まづいている外国人観光客を除く地元の人々の顔ぶれを見ると3日前の参加者とは異なっているようだった。

メコン川のクルーズも兼ね、上流にさかのぼる事25km、メコン川がナウムー川に合流する地点にある洞窟を訪れるツアー(Kip 95,000)に参加することにした。午前8時半の集合時間にはすでにたくさんの欧米人観光客が参集しており、皆それぞれに指定された小型のスローボートに乗り込んでいった。私を含めた総員5名が乗船したボートは出航後しばらくすると水上IDEMITSUガソリンスタンドで燃料を補給した後、座り心地の悪い椅子の上でケツをよじりながら1時間以上の単調な水上クルーズが続けられた。

最初の上陸ポイントはバーンサーンハイという酒造りの村で、ここはラオスの焼酎である「ラオ・ラーオ」を蒸留している現場を見学することが出来る。また、売られている酒類の中にはお約束のコブラ等を漬け込んだ滋養強壮酒も並んでおり、見るだけで背筋の寒さを覚えるため、夏バテ防止に効果があるのではないかと思われた。

村ではラーオ・ルー族の女性があちこちで機を織っており、その華やかな成果物が多くの店先を飾っていた。世界的にも評価の高いラオスの織物だが、このような形で生産された物がルアンパバーンのナイトマーケットのテントの下で観光客の物色の対象となるのであろう。

船がさらに30分程上流に向かって航行すると巨大な絶壁の隙間に白い階段が伸びている光景が目に飛び込んできた。パークウー洞窟(Kip 20,000)はその岩肌の洞窟に安置された数千の仏像で知られており、ルアンパバーン市内の寺院中心の仏教施設とは趣を異にした光景を見学することが出来るのだ。

洞窟は2ヶ所あり、川に面した切り立った崖にくりぬかれた洞窟が「タムティン」、さらに上にある恰幅のよい仏像に守られた真っ暗な横穴が「タムプン」となっている。

正味4時間のツアーで上陸部分がわずか1時間程度の観光が終了するとThe View Pavilion Hotelに戻り、送迎車でルアンパバーン空港に帰って行った。午後4時10分発予定のPG946便は1時間以上の遅れを出したものの大勢に影響なく、7時過ぎにはバンコク国際空港に到着した。深夜便の発着が多いバンコク空港のショッピングモールは夜が更ける程に人出が多くなり、その喧騒を抜けて午後11時55分発NH916便に乗り込むとすぐさま瞑想状態に入らせていただいた。

3月2日(水)

午前7時半過ぎに成田空港に到着し、その足でミャンマー連邦大使館に向かったのだが、「農民の日」という祝祭日のため大使館は閉館となっており、ミャンマーへの道のりがいかに厳しいかを寒風の中で感じながら流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ただ、バンコクエアウェイズ = THB15,620

総宿泊費 $341

総タクシー代 Kip 50,000 (Kip 10,000 = 約¥100)

総Airport Transfer代 $6

総 2 Days Mahout Course代 $95

協力 ANA、バンコクエアウェイズ、All Lao Travel Service(http://www.alllaoservice.com/)

ダーウィンと一緒に考えるガラパゴス進化論ツアー

現職を退職すると同時に会社から貸与されていたブラックベリーを奉還しなければならなくなり、私の手元には国際電信電話株式会社のルーツを持つ割にはグローバル対応が出来ていないAUのWINという携帯電話しか残されていない状況に陥ってしまった。この機会に今はやりのスマートフォンでも導入しようと思い、ソフトバンクショップで最新機種であるガラパゴスの値段を聞くと、とても無職人の手の出る価格帯ではなかったので無難にAUのBRAVIAフォンに機種変更して矢沢永吉に仁義を切っておいた。

一方で、今回のツアーでは脱藩後の人生設計を確立するために「竜馬がゆく」5~8巻と多くの雑誌を携えて出立したのだが、はやりの電子書籍なるものを導入すれば荷物も軽くなったはずであろう。最近シャープ固有種の電子書籍であるガラパゴスが発売された割にはiPad程のセンセーションが沸き起こっていないのでとりあえずガラパゴスまで足を伸ばし、シャープのガラパゴスが独自の進化を遂げる過程をダーウィンと一緒に思い描かなければならくなったのだ。

2011年2月8日(火)

昨年10月にオープンした羽田空港の新国際線ターミナルに遅ればせながら初登場することとなった。新東京国際空港という名称から東京の看板をはずされて成田国際空港に格下げになっている成田空港を差し置いてアジアのハブ空港になる野望を持つ羽田空港国際線ターミナルに江戸小町という飲食店商店街が開業し、下総にあるために江戸とは名乗れない成田空港との決定的な差別化を目の当たりにすることとなった。

NH1006便ロサンゼルス行きに搭乗すべくANAのカウンターでチェックインしているとエドはるみのような丁寧な受け答えが身上のカウンター嬢からエコノミークラスが満席なのでビジネスクラスにアップグレードされた事実が告げられた。律儀なマサであれば「てやんでぇ~ 満席になった証拠を見せやがれ!」と手鼻をかみながら啖呵を切るところであったろうが、私はとりあえず「グー ググー ググー コォ~~!!」と心の中で叫んでおいた。

出国審査を抜け、免税品店街を遠巻きに眺めた後、ANA運行便をファーストクラスでご利用のお客様とダイヤモンドサービスメンバーしか入場を許されていないANA SUITE LOUNGEで生活することにした。羽田からの深夜便を利用する乗客はラウンジで散々飲み食いした後、搭乗後は速攻で寝るというライフスタイルが確立されているため、ラウンジにはフルコースの食事メニューが揃っていた。

2月9日(水)

NH1006便ロサンゼルス行きは日付の変わった午前0時過ぎに出発となり、さらなるシャンペンを流し込んで意識を無くすことに集中した。

2月8日(火)

午後5時近くにロサンゼルス国際空港に到着したのだが、驚いたことに日付が水曜日から火曜日に逆戻りしていた。これはマサにタイムボカンでも実現出来なかった新種のタイムマシンかと思い、頭をボカンと殴られた上に「おとといきやがれ」と罵られたようなショックを受け、HiltonHHonorsのポイントが余っていたのでマサであれば$100くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHampton Inn Los Angels International Airportにチェックインし、ワルサーではなく、グロッキー状態となってダウンしてしまった。

2月9日(水)

折角のタイムスリップの機会を生かし、ダイナモンド探しに相当する貴重な経験をするために午前9時45分発のコンチネンタル航空CO1594便に乗り込むとヒュ~とひとっ飛びしてストンと下りたところはヒューストン・ジョージブッシュ・インターコンチネンタル空港であった。さらにCO653便に乗り継ぎ、南米エクアドルの首都であるキトに到着したのは午後10時20分頃であった。

今回のツアーはH.I.S. Internationalを通じてメトロポリタンツーリングというラテン系の旅行者に丸投げしておいたのでキトのマリスカル・スクレ国際空港に迎えに来ていたバンに乗り込み、深夜近くに☆☆☆☆☆ホテルであるメルキュールにチェックインを果たした。尚、キトは赤道直下の町とは言え、アンデス山脈の流れを汲む標高2850mの高地であり、しかも雨季なので気温は低く日本の冬に相当するいでたちで活動しなければならないのだ。

2月10日(木)

今日の午前中はキト市内の観光になっていたのでツアーガイドのエジソンとともに迎えに来たバンに乗り込み、他のホテルで数人の観光客をピックアップした後、キト旧市街に向かった。1978年にユネスコの世界文化遺産第一号に認定されたキトの旧市街は400年前の植民地時代の雰囲気を色濃く残している。街の中心は1809年8月10日の独立を記念した碑が建っている独立広場であり、碑の下にいるライオンに矢が刺さっているのは、スペイン(ライオン)の支配が終わった事を意味している。また、西側には衛兵に護衛された大統領府の白い建物が曇り空の下で光っている。

アルミ製の巨大なマリア像が見守るパネージョの丘を見上げながら歩いているとキトのランドマークとなっているラ・コンパニーア教会に到着した。この教会は1605年から163年もかけて建立されたのだが、教会全体の彫刻のすばらしさもさることながら写真撮影禁止の内部には約7トンの金を使って装飾した内装がきらびやかに輝いているのだ。

南米一古い歴史を持つサン・フランシスコ教会・修道院はスペインによる征服後まもなく(1535年)建立された頑丈な教会だったのだが、1987年の大地震であちこちが傷んでおり、内部は未だに修復中となっていた。教会前の石畳の広いサン・フランシスコ広場は市民の憩いの場所となっており、アンデスの民が華やかな色の布きれを売りさばこうと観光客の団体をマークしていた。

ツアー料金に含まれているということで近くの茶店に入り、コカコーラの代わりにコカ茶を発注した。コカ茶はコカインの原料であるコカの葉から作られており、高地が多い南米各地で一般的に飲まれているお茶で高山病に効果があると言われているのだ。尚、初期のコカ・コーラにもコカの成分が含まれていやがったそうだ。

キトから北へ20km、車で30分のところに赤道を記念して高さ30mにも及ぶ赤道記念碑が立てられているのでお約束通りに訪問しなければならなかった。なぜならエクアドルはスペイン語で赤道を意味し、ここに来なければエクアドルに来た意味がなくなってしまうからだ。ところで、南北の線を股にかけて満足したのは2008年8月のウガンダツアー(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2008uganda.html)以来だったのだが、線の色が赤ではなくオレンジだったのがこの国の詰めの甘さだと思われた。記念碑は展望台も兼ね、内部はエクアドルの民族博物館になっているのだが、貴重な民族関係の資料を写真撮影させていただくことは憚られているのだった。

2月11日(金)

午前7時過ぎにメトロポリタンツーリングの担当者がピックアップに来たのでバンに乗り込み、キト空港に向かった。空港からタメ航空195便に乗り、グアヤキルを経由してガラパゴスのサンクリストバル空港に向かって高度を下ろしていると美しい青い海と緑の大地のコントラストが眼下に広がった。

1978年に世界自然遺産第一号として登録されたガラパゴス諸島は南米大陸エクアドルの沖960kmの海上に浮かぶ島々でエクアドル本土とは1時間の時差がある。正午過ぎに空港に到着すると厳格な入島審査の最中に観光客は入島税としてUS$100を奉納し、晴れてガラパゴスへの侵入が許されることになる。

ガラパゴスエコツアーの先駆けとして名高いメトロポリタンツーリングが催行するクルーズは3泊4日、4泊5日、7泊8日と3種類あるのだが、今回は手ごろな3泊4日クルーズに申し込んでいたので、そのクルーズ船であるサンタクルス号が停泊してある港までバスで向かった。眩しいほどに青い洋上には数多くのクルーズ船や漁船が浮かんでおり、桟橋には怠惰なアシカたちがのん気に昼寝をこいていたのだった。

ツアー客はパンガ(別名ゾディアック)と呼ばれるゴムボートに次々と乗り込み、沖合いのサンタクルス号に向かったのだが、その途中でアシカに占拠された漁船やそれを冷ややかに見守るペリカンの姿に遭遇した。

サンタクルス号のスペックは全長72.35m、幅11.85m、収容乗客数90名というガラパゴスクルーズ船の中では大きいほうで、屋上にはサンデッキ、バーやジャグジーまで付いている豪華船である。早速メインデッキのバー・ラウンジで登録を済ませ、アッパーデッキにある窓から海を見下ろす客室に荷物を放り込むとダイニングルームで昼食を取らせていただくことと成った。

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昼食後に簡単なブリーフィングが行われ、ガラパゴスには人間の生命に危険を及ぼすようなエキサイティングな生物はいないが爬虫類を中心にユニークな固有種が多いことが確認された。引き続きサンデッキでスノーケルギアを選んでいるとまもなく最初のランディングポイントであるサンクリストバル島のセロブルーホに到着した。

パンガに乗りビーチにウェットランディングで上陸するといきなり二日酔いのオヤジがゲロを吐いてのた打ち回っているようなアシカの鳴き声に迎えられた。さらに砂浜には色黒のウミイグアナが徘徊し、岩場には茹でてもいないのに真っ赤なカニが這い回っていた。

観光客はおのおのビーチの散策や海水浴やスノーケルにいそしんでいたのだが、その間にもガラパゴスミヤコドリは潮間帯に生きる小さなカニや貝を捕捉しようと歩き回り、カツオドリはピンポイントで魚を捕らえようとダイビングを繰り返していた。

乳飲み子を抱えたガラパゴスアシカはしきりに胸ビレでまとわり付くハエを追い払っていたのだが、周りを取り巻く人類には無関心で自ら絶好の被写体となり、図らずも観光客を喜ばせていた。

船に戻ると程なくしてウェルカムパーティーが開始され、船員やガイドやスタッフ等の紹介や挨拶が行われた。今回のクルーズでは世界11ヶ国から参加者が集まっているのだが、アジア人は私しかいなかったのでツアー中はガラパゴスの動物並みの希少人種としての振る舞いを余儀なくされることになったのだった。

2月12日(土)

午前6時のモーニングコールで覚醒し、あわただしくビュッフェの朝食を食した後、7時にはエスパニョーラ島のプンタスアレスにドライランディングする運びとなった。

この島はガラパゴス諸島内で最も古く400万年前に形成されたといわれている。また、ここでは他の地域では見られない赤いウミイグアナを間近にすることが出来、そのあまりの美しさに親戚であるはずのヨウガントカゲも顔を真っ赤にして照れているのである。

ビーチでしきりにイナバウアーを繰り返しているアシカに高い芸術点を与えることもなく、川辺の石を思わせる枕上溶岩の上を歩く3時間にも及ぶ過酷なトレッキングが開始された。

岩場の高台にガラパゴス食物連鎖の頂点に君臨するタカ派のガラパゴスノスリがその鋭いくちばしとカギ爪を隠そうともせず周囲を見渡していた。その下の岩が突き出た大地は羽を広げると2m以上に達するガラパゴスアホウドリの繁殖地になっているのだが、群れはすでにペルーの沖合いに飛び立っており、廃墟のようになっていた。

アホウドリはすでに巣立っていたのだが、ガラパゴスマスクカツオドリはいまだに繁殖と子育ての最中であった。尚、磯野家との関係が取りざたされるはずのカツオドリは英名でブービーと呼ばれているのでやつらが巣立つ順番はビリから2番目ではないかと思われた。

真っ青な足が眩しいガラパゴスアオアシカツオドリが人類の接近も恐れずに岩の上に佇んでいた。尚、ガラパゴスにはアカアシカツオドリも生息しているのだが個体数が少ないため、めったにお目にかかることはないのだが、その代わりに結膜炎を患ったような赤い目を持つアカメカモメが私の前を横切っていったのだった。

きれいな海と鮮やかな色の動物達が印象に残ったエスパニョーラ島を後にすると船は次の目的地であるフロレアーナ島を目指していた。船が順調に航行していたその時、突然バンドウイルカの群れが姿を現し、船と伴走したり、船の前を先導するように泳ぎ始めた。そのため船上からは城みちるもアイドル時代に乗ったことがあるはずのイルカの背中を長時間観察することが出来たのであった。

フロレアーナ島でのアクティビティはディープウォータースノーケリングとグラスボトムボートの2組に分けられたので私は果敢にもスノーケリングに参加して潮の流れに逆らってみることにした。ガラパゴスは赤道直下に位置しているとはいえ、南極からの冷たい海流の影響で比較的寒冷な気候となっており、実際に海の中では冷たい流れと暖かい流れが交わっているポイントがあったのだった。

スノーケリングが終了すると島を散策する機会が与えられたので緑濃いトレイルを歩いてみることにした。マングローブに囲まれた大きな沼はフラミンゴの生息地であるのだが、一羽も居住していなかったので対岸のビーチまで歩を進めて海ガメの産卵地の夢の跡を見物してお茶を濁しておいた。

雨季にもかかわらず晴れ渡ったガラパゴスにサンセットが訪れ、西の空が茜色に染まり始めた。ガラパゴスのアクティビティは日中の酷暑を避けるため、早朝と午後3時以降に集中して行われるため、サンライズとサンセットの絶景はクルーズの定番となっているのだ。

2月13日(日)

午前8時よりガラパゴス諸島で一番新しいと言われているフェルナンディーナ島のプンタエスピノーサというポイントに上陸することとなった。ガラパゴス諸島はハワイ諸島と同様に海底火山の隆起により形成されているのだが、この島は過去200年の間に24回も噴火した実績を持つ非常にアクティブな島なのである。

マングローブが生い茂る上陸ポイントにドライランディングするといきなりウミイグアナの絨毯に遭遇し、観光客はそのおぞましさから足のすくむ思いをさせられることになる。

いかにも最近溶岩が流れましたという毒々しい黒い大地を歩いているとクジラの骨がわざとらしく陳列されており、ガイドのニコラスによる説明が加えられたのでそれをおとなしく聞いてやらなければならなかった。

クレバスが縦横無尽に走る黒い大地の所々には溶岩サボテンがニョキニョキと生えており、淡水と海水が混ざる汽水地帯はアカウミガメの格好の保養所となっているようだった。

ビーチはウミイグアナの繁殖地となっており、土木工事担当のメスのイグアナがしきりに穴を掘っていやがった。近くには過酷な労働のために殉職したはずのイグアナの遺体も遺棄されているのだが、それらはカニやトカゲのデザートとして重要な栄養源になっていることが確認できた。

腕立て伏せの得意なヨウガントカゲが外的を威嚇するように筋力トレーニングを行っている脇をすり抜け、不貞寝アシカを起こさないように注意しながら船に戻るとほどなく昼食の時間となった。

クルーズ船サンタクルスで供される食事はおおむね豪華で今日の昼食はおおぶりのエビのカクテルのオードブルで始まるエクアドルをフィーチャーしたメニューであった。中でもローストされて恨めしそうなブタの目とラテン系ではじけるようなシェフの笑顔が対照的であったのだった。

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マサよ、君は赤道直下の暖かい海で小さなペンギンの鋭い攻撃を紙一重でかわしたことがあるか!?

ということで、タツノオトシゴをほうふつとさせるガラパゴス諸島最大の島であるイサベラ島プンタ・ビセンテ・ロカというポイントに船は錨を降ろした。目の前は見上げる程の断崖絶壁がそびえているのでここでの上陸は出来ないため、おのずとパンガを使ったアクティビティになる。

グループは再び2つに分けられ一組はパンガでのクルージングに専念する代わりにもう一組はディープウォータースノーケリングで最後の力を振り絞ることになる。海に飛び込む前にパンガで近辺を徘徊しながらこのあたりの生態系の説明が行われた。岩場に張り付いている動物はアシカよりも一回り小さい割には毛深いオットセイであり、かつてはその毛皮目当てに乱獲され、生息数が著しく減少した時期もあったそうだ。

世界で3番目に小さいガラパゴスペンギンはフンボルト海流に乗ってマゼランペンギンが漂流して来やがったと言われているが、近年ではエルニーニョ現象の影響で生息数が激減し、希少価値が増しているのである。

波のおだやかな海の中は珊瑚はないもののカラフルな地形となっており、巨大なブダイの格好の棲家となっていた。海底には多くのガラパゴスアオウミガメがへばり付いており、容易に引き剥がせないような頑固さを誇っていた。

ガラパゴスに居住している動物は何故か人類を恐れないどころか自ら近づいてくるような好奇心の強さを示しているのだが、海中でも例外でなく、アシカ等があしからずとまとわりついてくるのだった。ふと高速で飛行するような黒いシルエットが目の前を横切ったかと思うと急速方向転換して陸の王者であるはずの私にマイルドな攻撃を加えてきた。防水機能付きのコンパクトデジカメであっても一眼レフのように使いこなす技量を持つ私はすぐに体制を入れ替えるとかろうじて水中を飛ぶガラパゴスペンギンの勇姿をフラッシュメモリーに刻みつけることが出来たのであった。

2月14日(月)

昨晩のうちに船はガラパゴス諸島の中心に位置するサンタクルス島北部沖合いに錨を降ろしていたので、クルーズ最終日は早朝7時に早々とチェックアウトし、下船の運びとなった。

港に迎えに来ていたバスに乗り込むと一行はサンタクルス島を北から南に縦断し、プエルト・アヨラというガラパゴス最大の町を抜けてチャールズ・ダーウィン研究所に到着した。

ガラパゴとはスペイン語でゾウガメを意味するところからゾウガメがガラパゴスという名の由来になっているのだが、1964年に設立されたチャールズ・ダーウィン研究所では特にゾウガメの飼育観察を盛んに行い、乱獲により激減した個体数の回復を図っている。子ガメは生まれると各年次毎に卵から帰った順番を表す背番号で管理され、2010年物はなかなかの出来であることが確認出来た。

成長して大きくなったビンテージ亀には広くて快適な生活空間が与えられ、ガラパゴス諸島各島に生息する固有種ごとに管理されているのだが、甲羅の形状を見るだけで明らかに違いがあることがわかるのである。

チャールズ・ダーウィン研究所のスター的存在として君臨しているロンサム・ジョージというピンタ島に生き残った最後の1頭のゾウガメがひとり旅でこの場所に連れて来られていた。。日本名で山本と名乗るかどうかは確認出来なかったのだが、♪ここでぇ いっしょにぃ死ねたらいいとぉ♪思えるような伴侶を首を長くして待っているという。結婚相談所も兼ねているはずのダーウィン研究者は総力を上げてピンタ島固有種に遺伝子レベルの近いメスガメを紹介してあげたのだが、ジョージは面食いだったようで興味を示していないのだ。

今回のツアーで海草好きなウミイグアナは嫌と言うほど見ることが出来たのだが、陸上で独自の進化を遂げたガラパゴスリクイグアナには出会うことが出来なかった。リクイグアナはウミイグアナと比べて肉や皮が珍重されたために乱獲された過去を持ち、さらに人間が持ち込んだヤギやブタがリクイグアナの大好物であるサボテンを食い荒らしたために生息数が激減していたのだ。そこでダーウィン研究所では色鮮やかなリクイグアナの保護、育成も重要なミッションとなっているのだ。

キオスクでお土産を買うこともなくダーウィン研究所を後にすると再びバスに乗り込み島北部の港に帰って行った。港から連絡船に乗り、ガラパゴスペリカンに見送られながらバルトラ島に向かった。

過去米軍に接収されていたバルトラ島の空港はガラパゴスのもうひとつの空の玄関口となっており、キトやグアヤキルから頻繁にフライトが出ているのである。正午過ぎに離陸したタメ航空192便に乗り込むと眼下の景色を眺めながらガラパゴスとの別れを惜しむと同時に官僚機構という暖流で独自の進化を遂げているはずのマサもここで進化論を会得しなければならないと考えていた。

人口300万人を誇るエクアドル最大の都市であるグアヤキルのシモン・ボリーバル国際空港に到着したのは午後3時を回った頃だった。迎えのバンでセントロの☆☆☆☆☆ホテルであるユニパークまで移動し、速攻でチェックインして街の散策に繰り出すことにした。ホテルの目の前に巨大なゴシック様式のカテドラルがあり、そのふもとにセミナリオ公園がグアヤキルの中心的公園としてその地位を確立しているので気軽に入ってみることにした。

ガラパゴス諸島を後にする際にイグアナとはすっぱり縁を切ったはずなのに、なんとこの公園には緑色が眩しいリクイグアナがぞろぞろとうごめき、子供たちの絶好の遊び相手となっていた。通称イグアナ公園と呼ばれているこの公園にはカメや魚も飼われており、大都市における市民の憩いの場となっているのだった。

グアヤキルはグアヤス川に沿って発展してきた港町で、約2.4kmにわたる遊歩道は「マレコン2000」と呼ばれる市内最大のエンターテインメント・スポットになっている。少子化が叫ばれる日本と違って、この場所にはおびただしい数の子供の歓声が上がっており、この国の将来はイグアナと共に安泰であることを確信させられるのである。

グアヤキルで最も古いサンタ・アナの丘周辺はスペイン統治時代の面影が残る一画である。丘へ上る石畳の階段には、ご丁寧に一段一段、段数が刻まれており、444段で頂上にたどり着くことが出来るのだ。階段の両脇にはカラフルな建物に入居したレストランやバーがひしめきあっており、頂上には海賊船のオブジェや教会があり、、さらに灯台型の展望台からグアヤキルの町並みを一望出来るようになっているのだ。

2月15日(火)

午前4時半という早朝にもかかわらず、メトロポリタンツーリングは律儀にもツアーガイドと運転手の2人体制で迎えに来たのでバンに乗り込み、グアヤキル空港に向かった。午前6時23分発コパ航空CM300便に乗り込むと2時間程度でパナマシティに到着した。さらにコンチネンタル航空CO873便に乗り換え、4時間以上のフライトでヒューストンに到着後、米国入国を果たした時間は次の便の出発間近になってしまったため、広い空港でマラソンをさせられながらもCO137便に乗り継ぎ、ロサンゼルスに到着したのは午後5時くらいであった。

2月16日(水)

日付の変わった夜中の12時10分にNH1005便は離陸したのだが、16日という日は空の上で霧のように消え去ってしまった。ところで、CDMA方式というマイナーな技術を採用してしまったAUの携帯こそマサにメジャーな3Gという環境から隔絶され、独自の進化を遂げたガラパゴスそのものなので今更ソフトバンクショップに頭を下げさせてシャープのガラパゴスを買う必要はないとの結論はとうに下されていたのだった。

2月17日(木)

早朝5時半過ぎに羽田空港に到着し、無職人であるにもかかわらず、そのまま何食わぬ顔で会社に行って業務が出来るかどうかのシミュレーションをするためにANAのArrival Loungeに入ってみることにした。さすがに旅行者から仕事人への変貌をサポートするためにラウンジ内には多くのシャワー室が設置されているのだが、もはやビールやワイン等の酒類はここでは供されることはないのである。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥32,740 、コンチネンタル航空 = ¥81,710

総宿泊費 ただ

総ガラパゴス島入島税 $100

総グアヤキル空港出国税 $29.78 

総ガラパゴスクルーズ代 $3,790

協力 ANA、コンチネンタル航空、HiltonHHonors、メトロポリタンツーリング(http://www.metropolitan-touring.com/)、H.I.S. International Tours

FTB史上最大の難局を乗り越えて実現した南極ツアー

マサよ、君は南極遠征に参加するためだけに将来の社会復帰の可能性の難局を恐れずに長年勤めた会社を辞職した勇者を知っているか!?

・・・私だよ・・・

ということで、南極ツアーを催行するためには通常の会社勤めの輩にはかなわない最低2週間以上の休暇が必要になるわけだが、それを強行するためには、時として自分の将来にふりかかるリスクを省みない勇気を振り絞らなければならない。このたび自らの意思でそのような境遇を設定することに成功し、FTB史上最大のアドベンチャーがついに実行に移されることと成ったのだ。

1月13日(木)

午前11時10分発のNH2便ワシントンDC行きは定刻どおりに出発し、同日の午前10時前にはワシントン・ダレス空港に到着した。実は現職を辞職した早々にもかかわらず私の有り余る野望と才能を求めてB社の最終面接がその本社のペンシルバニア州で設定されてしまっていたために、午後12時40分発UA7817便アレンタウン行きに乗り継ぎ、さらに迎えのハイヤーに乗り込むと3時過ぎにはB社に到着する運びとなった。

B社ではPresident兼CEO、HRの副社長、とある事業部長の副社長の3名と面談し、いかに私がマサのような財務官僚を凌駕するほど優秀であるかという印象を植え付けることに成功し、午後5時半に迎えに来たハイヤーに乗り込み意気揚々と空港への帰路に着いた。アレンタウン空港に着いたのは午後6時半頃でここからB社が手配しておいた午後8時発のワシントンDC行きの便に乗り込めばつつがなくブエノスアイレス行き午後10時4分発UA847便に乗り継げるはずであった。

ハイヤーの運転手が私を空港に送り届けた大仕事を終えて帰路に着き、私はそのままUAのカウンターに向かったのだが、ここで驚愕の事実が突きつけられてしまった。何と搭乗予定のUA7818便は2時間以上の遅れを出す予定で、この便に搭乗するともはや予約していたブエノスアイレス行きの便に乗り継ぐことが出来ない。時刻も7時近くになり午後10時4分発の便に間に合わせるためにはタクシーかレンタカーを飛ばしてワシントン空港に辿りつくしか道が残されてなかった。田舎の空港でタクシーが首尾よく捕まらなかったためにハーツでレンタカーを借り、地図も持たずに勘で車を走らせているといつのまにかあらぬ方向にひた走っていたようだった。

3時間程無駄道を走ってしまったようで、ブエノスアイレス行きの便はすでに出発した時間となってしまい、仕方なく今夜はどこかに泊まることにした。ボルチモア近くのResidence Innに12時近くに宿を取ったのだが、今夜は悔恨のために一睡もすることが出来なかったのだ。

1月14日(金)

日付も変わったところで何とかバックアッププランを画策すべく、2ヶ月前から手配しておいた南極ツアーの緊急連絡先にメールを投げて返事を待った。尚、当ツアーのキャンセルは90日前までは受付可能なのだが、それを超えると旅行代金は一切返金されないという恐ろしいシステムになっていたのだ。

正午前にホテルをチェックアウトし、ワシントン・ダレス空港で車を返し、UAのカウンターに向かった。何とか$250の追徴金で一日遅れのブエノスアイレス行きの便に変更していただき、UAのRed Carpetラウンジに引き篭もり、引き続き対策を講じていた。ラウンジでメールを開くと緊急連絡先から返事があり、待ち合わせ時刻は4時となっているが、船の出港は15日の6時なのでそれまでに到着すれば間に合う可能性があるので何とかあきらめることなく精進せよとのことであった。また、ブエノスアイレスからアルゼンチン南端のウシュアイアへの乗り継ぎ便が満席なのでとりあえず空港に辿りついてキャンセル待ちをしておけとの指示もあった。

UA847便ブエノスアイレス行きは定刻通りの午後10時04分に出発し、10時間以上のフライトで翌日の午前10時50分に到着予定であったのだが、その後のせっぱ詰まった旅程を考えると気が気でないまま機内で長い夜を過ごすこととなってしまった。

1月15日(土)

UA847便は予定通り午前10時50分にブエノスアイレスのエセイサ国際空港に到着した。首尾よく入国審査と税関を抜け、手持ちの米$をいくばくかのアルゼンチンペソに両替するとタクシー乗り場でタクシーを捕まえて国内線が発着するホルへ・ニューベリー空港まで飛ばした。明らかにボラれているはずの300ペソを運転手に支払うと早速アルゼンチン航空のカウンターに向かい、Check in カウンターとTicket saleカウンターをたらいまわしにされ、さらにTicket saleカウンターでは1組の客を処理するために驚く程の時間がかかり、いらいらしながら私の順番を待っていた。

何とか午後3時40分発のAR2856便のキャンセル待ちリストに滑り込み、搭乗口で出発時間がくるまでの間にインターネットに接続し、南極ツアーの緊急連絡先に近況報告をするとAR2856がウシュアイアに到着する午後7時半まで船の出航を遅らせて待っていてやるので幸運を祈るとのことであった。

AR2856便は午後3時10分に搭乗時刻となり、予約客が次々と機内に吸い込まれていった。どうやらキャンセル待ちをしているのは私の他にアルゼンチン人の若ギャルが1人いただけなので、この便に搭乗できるかも知れないという淡い期待が膨らみ、実際に便出発間近の3時40分くらいに搭乗しても良いということで私と若ギャルのためにゲートが開かれた。しかし、その瞬間にLast callをとうに過ぎているにも拘わらず、正規の搭乗券を持った家族ずれが3名押しかけ、無常にも私と若ギャルを残してAR2856便は飛び去ってしまったのだった。

失意のままメールを開き、南極ツアー緊急連絡先の担当者にクルーズには参加できない旨を伝え、支払い済みの60万近くのクルーズ代金がパーになったため、気が狂う~ぜと思いながら、私が行こうとしているのは南極ではなく難局であるとの確信が強くなっていったのだった。さらに本来であれば今日の4時にウシュアイアの桟橋近くのホテル・アルバトロスのレストランに集合して船に乗り込むはずであったのだが、「アホウドリ」を意味するアルバトロスにちなんで、今日だけは私がアホウに落ちぶれてしまった屈辱感を味わったのだ。

クルーズ失敗のリカバリープランなど当然考えているはずもなかったので、とりあえずホルへ・ニューベリー空港からタクシーに乗り、ブエノスアイレスのセントロに位置するシェラトン・ホテルに飛び込み、今夜は窓から見える夜景を眺めながらむなしい夜を過ごすしかなかったのだった。

1月16日(日)

不貞寝の割には朝早く目が覚めてしまったので、とりあえずブエノスアイレスの中心地を歩いて気を紛らわすことにした。ブエノスアイレス自体にはこれといった見所がないのだが、南北に抜ける7月9日大通りは世界一幅が広いと言われ、その中心に天空を指すようにそびえているオベリスコが目を引いた。

正午に宿泊代の高いシェラトンホテルをチェックアウトするとその足でHoliday Inn Expressに宿を移した。さらに観光を続けるために町中を歩いていると5月広場に到着した。ここではピンクの家との異名をとる大統領府が観光客に開放されていたのだが、何故か内部に飾られているアルゼンチンの英雄であるチェ・ゲバラの写真が圧倒的な存在感を示しており、マラドーナの痕跡は跡形もなかったのだ。

また、日曜日ということもあってか30℃を越す真夏の町中にはおびただしい数の露天商が出店しており、地元のアルゼンチン人で大変な賑わいを見せていた。但し、ブエノスアイレスは物価が高いようだったので、とりあえず10ペソを支払い半分に裂いたチョリソを固めのパンにサンドしたチョリパンと5ペソのオレンジ生絞りジュースで飢えと喉の渇きを抑えておいた。

1月17日(月)

一昨日キャンセル待ちの便に乗れなかったため、そのまま南極ツアー自体をお蔵入りにすることも考えたのだが、とりあえずウシュアイアだけには行って敗北感を味わおうと思い、失意のまま今日の午前7時40分発AR1852便ウシュアイア行きの便を予約していたので2時間前の5時半過ぎにはホルへ・ニューベリー空港に到着した。月曜日の空港は早朝にもかかわらず想像以上にごったがえしており、どこがチェックインカウンターの列の最後尾か判断出来なかったので仕方なく人の比較的少ない自動チェックイン機の列に並んだ。機会はスペイン語だけでなく英語も理解したので何とかチェックインを果たすとAR1852便は予定通り離陸となった。

南米大陸のほぼ南緯40度以南の地域はパタゴニアと呼ばれ、ウシュアイアはブエノスアイレスから3250km離れたパタゴニアの最南端に位置する世界最南端の町である。ウシュアイアのあるフエゴ島はマゼラン海峡、ビーグル水道と大西洋に囲まれた九州よりも一回り大きな島で半分がチリ領、もう半分がアルゼンチン領となっている。

3時間30分程度のフライトでウシュアイア空港に到着すると、そこは万年雪をいだいた山々と港町から成る風光明媚な南の大地であった。早速タクシーで市の中心部に向かうことにしたのだが、10分ほど走るとゴルフでパー5のところを2打でホールアウトしたような感覚を覚えたときにはホテル・アルバトロスの目の前に到着していた。何しろ今日の宿さえ決まってなかったので桟橋近くの観光案内所に乗り込み、適当な安ホテルを紹介していただいた。ウシュアイアはアルゼンチンの夏の避暑地となっているため、国内、海外からの観光客も多いのだが、何とか町の中心のホテルにしけこむことが出来たので早速町の散策に乗り出すことにした。

観光案内所の隣に南極公式案内所があったのでそこで今日、明日くらいに出航する南極ツアーがあるかどうか確認したのだが、埒が明かなかったので自力で町を練り歩いてツアー会社を血眼になって探していた。クルーズだけにどうしても後悔(航海?)したくないという思いが強かったからだが、とあるツアー会社のウインドウにLast Minutesと書かれた南極クルーズの案内が出ていたので早速そこに入って見た。おね~ちゃんに詳細を確認すると明日18日に出航予定のantarapply社のクルーズに空きがあるので何とかそこにネジ込めるべき交渉を開始した。

料金は$3,500の10泊11日のクルーズであったのだが、南の僻地まで来ていまさら手ぶらで帰るわけにもいかず、余分の大金をつぎ込んで予約することにした。尚、南極に行く前には様々な手続きが必要でいろいろな書類にサインさせられるとともに、日本人の場合は環境省地球環境局環境保全対策課に事前の届出を出す必要があったためにおね~ちゃんに速攻でFAXを送ってもらい、つつがなく予約を完了することに成功した。

何とか南極に行ける目処がつき、気が楽になったのであらためてウシュアイアという町を見直すことにした。折角世界の果てまで来たので世界の果て博物館(30ペソ)というファシリティに入って見たのだが、マサに世界の果てという感じで展示物はあまりなく、原住民の質素な生活様式が確認出来たにとどまってしまった。

1月18日(火)

ウシュアイアまで来て飛び込みでクルーズに申し込み、本当に南極に行けるのか未だに不安が残っていたのだが、午後4時にクルーズ船に乗船する運びとなった。桟橋には何隻かの船が停泊しており、古式の風帆船やNATIONAL GEOGRAPHIC EXPLORERという大型船の他にUSHUAIAと命名されたトラディショナルな船舶もひっそりと佇んでいた。

南極へ行くとなると砕氷船「しらせ」やタイタニックのような大型船でのクルーズをイメージするかも知れないが、実際にantarapplyが催行するクルーズは全長84.73xm、幅15.54m、乗客定員84名の「USHUAIA」というそんなに大きくない船で南極大陸まで繰り出すものであり、船に乗り込むと二名一室のツインの部屋に荷物を放り込み、上階のパブラウンジに集合した。するとほどなくシャンパンでのウエルカム・パーティで酒を飲んでいる間にUSHUAIAは蛍の光を奏でることもなく、いつのまにか出航となっていた。

その後乗客はカンファレンスルームに集められ、船長とExpedition LeaderのMonicaからクルーズの注意事項が伝えられ、さらに乗船後24時間以内にかならず実施しなければならないLife Boat Drillという救命着の実装訓練が開始された。尚、この救命着にはホイッスルがインストールされており、頭からすっぽり被ると顔の前に笛が来るので、皆安心して遭難できるような工夫が施されているのだ。

船はおだやかなビーグル水道を抜けると午後10時半過ぎにはドレーク海峡の荒波に乗り出した。乗客はそれぞれ酔い止めの薬をもらっており、船内の至る所にはエチケット袋が配備され、一種ものものしい雰囲気を醸し出していた。予想通り、船は木の葉のように上下左右に揺れ始めたため、皆意図せぬままに欽ちゃん走りのような様相で船内を行き交っていた。

1月19日(水)

ウシュアイアから南極への距離はわずか1000kmとはいえ、南極に到達するにはまる2日以上の日数を要するため、この日は船内で静かに過ごすこととなる。同部屋の日本人サーファー観光客は波にうまく乗れなかった様子で昨夜2度も吐いてしまったため、ベッドの上階でピクリとも動かなくなっているのだが、酔い止めの薬を飲んでいない私は午前7時のモーニングコールを聞いて果敢にラウンジまで這い上がってきた。朝食は7時半に供されるのだが、水を一杯飲むとすぐに胃の中から酸っぱい物体が上がって来る感覚を覚えたので部屋に戻り、今日は一日中グロッキー状態でついに起き上がることさえ出来なかったのだ。

1月20日(木)

朝からそんなに体調もすぐれなかったのだが、さすがに2日目ともなると私の鍛えられた三半規管も揺れになれた様子で何とか気合を入れてビュッフェ形式で供される朝食を胃に詰め込んだ。南極探検のガイドとしてリーダー、サブリーダー、ナチュラリスト、レクチャラー等5人のスタッフが交代で南極地域に関することや動物に関するレクチャーが行われているのだが、今日は何とかそのいくつかを聴講するまでに回復した。

船内で供される昼食と夕食は前菜、スープ、メイン、デザートからなる豪華なフルコースで牛、豚、羊、チキン、ターキーを中心とした肉類が多いのだが、決して地ペンギンの塩焼き、クジラの竜田揚げ、アザラシの甘露煮等の地場の食材は使われないのだった。

午後3時より必須のレクチャーとして南極地域での行動の仕方、ゾディアックというゴムボートへの乗船の仕方、動物との距離のとり方等の注意事項が講義され、上陸用の長靴も各乗客にレンタルされ、否が応でも南極上陸への期待が高まっていくのだった。

夕刻になり、ついに荒波のドレーク海峡を超えた様子で目の前に白い雪をまとった南極半島の北に位置する南シェトランド諸島の景色が広がった。さらに午後10時半を過ぎると白夜であるはずの空にサンセットが訪れ、白い大地や雲が幻想的なピンクやオレンジに染まっていったのだった。

1月21日(金)

この日より念願の陸地に上陸してのアクティビティが開始される。上陸に先立ち、乗客達は外来物を陸地に持ち込まないために船上でまず長靴を洗浄することが義務付けられている。このような地道な努力により南極の自然環境は守られており、当然のことながら大地に糞便を撒き散らすことは野生動物の特権となっており、人類の生理現象はわざわざ船に戻って解消しなければならないのだ。

午前8時半についにモーターエンジンをインストールしたゴムボートであるゾディアックが海に下ろされ、乗客を順番に乗せると猛スピードでハーフムーン島(南緯62度35分)を目指して進んでいった。

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島ではくちばしの下にヒゲのような一本線の模様があるアゴヒゲペンギンが雪の解けた岩場のあちこちにルッカリー(巣)を形成しており、周辺にはペンギンの糞の堆積による窒素系の異臭が充満していた。尚、ルッカリーから海に向かうペンギンの腹部は茶色く汚れているのだが、海から戻ってくる固体はきれいにクリーニング済みであった。

また、頭部を金髪に染めたマカロニウエスタン系の種であるはずのマカロニペンギンが一羽ツッパりながら家路に着いているのが一際目を引いた。さらに探検隊はハーフムーン島に建つアルゼンチンの基地であるBASE CAMARAに乗り込み、お茶をご馳走になったにもかかわらず従業員を慰労することもなく、そそくさと船に帰って行ったのだった。

船は南下するとLivingston島(南緯62度36分)に到着した。この島のWalker Bayは黒い火山系のビーチが続き、Hanna Pointとという場所はジェンツーペンギンの繁殖地になっており、さらにアザラシのハーレムも形成されている。

ビーチは色とりどりの巨体を横たえたゾウアザラシの見本市になっているのだが、個々の顔を見るとまだゾウのような鼻の成長が進んでなかったため、ほとんど年端も行かないゾウアザラシであるとの解説もBiologistから加えられた。

わくわく動物ランドを後にして、氷河を見下ろすことが出来る高台まで上るといきなり雷鳴が轟くような氷河の崩れる音に見舞われ、度肝を抜かれてしまった。また、そこらには行き倒れになったはずの動物たちの遺体も転がっており、過酷な環境の中で生き延びる厳しさをまざまざと見せ付けられたのであった。

1月22日(土)

クルーズで上陸するポイントは必ずしも予定通りになるとは限らず、当日の天気や風、海氷の状況によって船長と探検隊長によって決められることになっている。この日の朝は強風のため、当初予定していたポイントへの上陸がかなわなかったのでWilhelmina Bayのクルーズと相成った。

南極クルーズ船「USHUAIA」はOpen Bridge Policyをとっているため、乗客は自由に操舵室への出入りが許されているので、早速ひやかしに行ってきた。Bridgeでは船長の厳しい視線の下で3等航海士のヤングギャルが緊張した面持ちで面舵やとり舵を切っていた。船の操縦はコンピューター管理されており、レーダーには海氷の位置がリアルタイムで示され、航路とともに常に最新情報がアップデートされているのだ。

現在乗客は浮世とは隔絶された状態になっているはずなのだが、どうしても文明と連絡を取っておく必要がある輩のためにE-mailサービスが1分につき$3の高値で提供されている。しかしインターネットは開通していないのでFACEBOOKが使えないザッカーバーグの面目を保つまでには至っていないのだ。

午後から天候の回復が見られたのでDanco島(南緯64度44分)という小さい島への上陸が決行されることとなった。この島もご多分にもれずジェンツーペンギンの繁殖地になっており、多数のペンギンが雪を踏みしめることにより形成されたペンギンハイウエイを行き来するペンギンの生態を十分に堪能した。しかし、人間がペンギンハイウエイを歩くことは禁止事項になっているので足場の悪い新雪に埋まりながら前進するしかないのである。

高台まで到達するとそこには360度の展望が開けており、Expedition Team主催の中途半端な人間ピラミッドの余興等により凍えそうな参加者の心が温まるような配慮がなされていた。

1月23日(日)

今日もあいかわらず極地の空はどんよりとした雲に覆われていた。午前中はCuverville島(南緯64度49分)に上陸したのだが、ここも相変わらずロッテクールミントガムを噛んだ時の爽やかさとはかけ離れたペンギンの排出物が醸し出す獣臭に覆われた白い大地であった。

Cuverville島周辺の海は氷山の景観が非常に見事なのでゾディアックによるショートクルージングが行われ、乗客は冷たい波をかぶり、寒風に打ち震えながらも海上に浮かぶ白い芸術作品を堪能したのであった。

マサよ、君は世界七大陸を制覇し、ペンギンとともにトラベラーとしての誇りを胸に刻んだことがあるか!?

というわけで、南極大陸における細長い尻尾のように飛び出た南極半島の一端とはいえ、ついに南極大陸に上陸する瞬間がやってきた。南極クルーズで南極大陸に上陸出来るポイントはいくつかあるのだが、USHUAIA号は氷河が砕け落ちて津波が発生するリスクのあるNeko Harbour(南緯64度50分)に錨を降ろすこととなった。

Neko Harbourという名前にもかかわらずこの地は猫の代わりにジェンツーペンギンの支配下に置かれており、やつらは勢力を拡大するための子育てに躍起になっていた。さらに、所々でWeddellアザラシが寝こんでいる光景も目にすることが出来た。

対岸では雪崩や氷河の崩壊が頻繁に発生し、津波の脅威にさらされていたので探検隊一行は足早に高台に登ったのだが、結局周囲の風景をさらっと見渡した後、皆そそくさと雪の斜面を滑り降りて行ったのだった。

Neko Harbourから船に戻り、短い休憩時間を取った後、探検隊はペンギンさんチームとアザラシさんチームに分かれ、再びゾディアックによる1時間程度のクルーズが開始されることになった。ペンギンさんチームに所属していた私は先行して海に戻ることになり、氷山の絶景とともにCrabeaterアザラシやヒョウアザラシが氷のベッドでくつろいだり、側筋を鍛えているところを冷やかしていた。

今回は特にホエールウォッチングがフィーチャーされており、各ゾディアックは無線で連絡を取りながらクジラを探していた。そしてついにミンククジラがその勇姿を現し、各船は一斉にその後を追うようにエンジンを全開した。その結果、遠目ではあったが、何とかクジラの背びれだけは写真に収めることが出来たのであった。

今晩の夕食はAntarctic BBQが企画されていた。南極でのバーベキューということで、ついにペンギンが焼かれ、アザラシが甘辛く煮られ、カレー風味の衣を着けられたクジラが油で揚げられる瞬間が来るのか!?と期待したのだが、船上のグリルを賑わしたのは何の変哲もない家畜系の肉とチョリソだけであったのでたまたま乗客として乗り合わせていたシーシェパードの会員も目くじらを立てることはなかったのだ。

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BBQの牛を食った後、ペンギンの無事を祈りながらラウンジでくつろいでいると、あのタイタニックを沈め、主役のデカプリオさえ死に追いやった程の巨大な氷山が忽然と姿を現した。氷山はデッキから手を伸ばせば届く程に接近したのだが、ぎりぎりのところで衝突は回避され、ライフベストに頼ることなくツアーは進行していったのだった。

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1月24日(月)

南極という僻地からわざわざ手紙を出したい輩のために朝一からPort Lockroy(南緯64度49分)に寄ることになった。Port LocroyはWienke島にあるイギリスの元基地をそのまま保管し、ジェンツーペンギンを寄宿させたファシリティで上陸に先立ち臨時島民として基地に駐在しているイギリス人ギャルによるレクチャーが行われた。

Port Lockroyの郵便局から手紙を出すと6週間かかり、速達もないということだったのでここから郵政民営化に反対する抗議文を送るのは控えておいたのだが、その代わりに博物館の展示物をじっくりと見学させていただいた。館内には観測器をはじめ当時の生活を偲ばせる居住空間が保存されており、極地での生活の一端を垣間見ることが出来るのだ。

併設された土産物屋では観光客の極地での購買意欲を満たすために豊富な品物を揃えているのだが、南極1号、2号といった類の物は販売していなかったので何も買わずに退散することにした。

昨日までの曇り空と打って変わり、今日は朝から青空が広がっている。生まれてこのかた見たこともないような青と白のコントラストの中をUSHUAIA号はLemaire海峡という両端を氷河の絶壁に挟まれ、その狭さと海氷の多さのせいで大型船では通過出来ない絶景ポイントを進んでいた。

あまりの絶景のために乗客はすべて船の甲板やデッキに集まり、それぞれ記念写真の撮影に興じていた。Bridgeでは船長がその類まれであるはずの航海技術を駆使して海氷や氷山に接触して船が座礁しないように慎重に航行している様子が見て取れた。

Lemaire海峡の鏡のように澄んだ海水は迫りくる絶壁や氷河を写し込み、ここがマサに世界で最も美しい海峡であることは疑いようのない事実であることが記憶の底に深く刻まれたのだった。

船は慎重にLemaire海峡を抜けるとさらなる絶景を提供するPort Charcot(南緯65度5分)に錨を降ろした。ここで再び探検隊はペンギンさんチームとアザラシさんチームに別れ、ゾディアッククルーズのアザラシさんチームとは裏腹にペンギンさんチームはPleneau島に上陸することと相成った。

抜けるような青空のせいか、この島のペンギンはいっそう輝いて見えた。さらにペンギンのルッカリーの先には青い海と白い雪と氷を湛えた山々が広がっており、これがマサに南極の景色であり、南極ツアーの醍醐味であることが実感された。

アザラシさんチームと入れ替わりで今度はペンギンさんチームがIceberg Alleyと言われる氷山彫刻の森美術館のクルーズに乗り出すこととなった。太陽に照らし出された様々な形状の氷山は単純なテーブル状の物から表面を研磨されたオブジェ等様々であった。

また、白鳥の湖を連想させる形状の氷山の向こうから何故か小さなヨットまで登場してIceberg Alleyの景色の一部として溶け込んでしまっていた。

氷の上で匍匐前進をしているアザらしい模様をまとった流線型のフォルムを持つ動物はこの地で食物連鎖の頂点に立つヒョウアザラシである。獰猛なヒョウアザラシはペンギンを捕食しているのだが、たまに人類も襲われることがあるので注意しなければならない。恐れを知らぬヒョウアザラシは観光客を前にして腹を抱えて笑っているようにも見えるのだが、腕立て伏せでの勝負ではマサであっても勝てるのではないかと思われた。

夕暮れ時にオルカのファミリーが出現したとのアナウンスが船内にこだました。オルカを見ないとおろか者になってしまうぜとスペイン語で言われたかどうかは確認出来なかったのだが、乗客は皆カメラを携えて船首の甲板に集合した。今回のクルーズでは何度もクジラに遭遇し、そのたびに歓喜の声が上がったのだが、皆自分がいかにクジラ好きな人間であったのかをはるか南の海くんだりまで来て再認識させられてしまうのだった。

1月25日(火)

昨晩の内に船は南シェトランド諸島沖に戻っていたので、今日は朝からDeception島(南緯62度56分)に上陸することとなった。この島は海底活火山の火口部にあたるカルデラ島で、島の噴火口に海水が流れ込み、内海のあるユニークなU字の形状をしている。

Neptune Bellowsと呼ばれる狭い入口から内海に入り、船を停泊させると探検隊はTelefon Bayへの上陸を果たした。折からの雪で火山灰土に白い化粧を施した道をカルデラの淵に沿って頂上を目指した山登りが開始された。皆汗をかきながら何とか頂上へ到達すると黒いキャンバスの上に描かれた白い模様の芸術作品を黙って見守っていた。

一行は一旦船に戻った後、対岸のPendulum Coveに再び上陸することとなった。この島は火山島であるので湾内には温泉が湧き出ている箇所がいくつかあり、南極くんだりまで来て温泉に漬かることが出来るということがひとつの名物になっている。皆♪バ バンバ バン バンバン アビバノンノン♪状態を期待して水着姿になり海に突進したのだが、これが単なる寒中水泳に過ぎないという事実を体感すると5秒と持たずに陸に舞い戻って来るしかなかったのだ。

とんだ温泉ツアーだったにもかかわらず誰も文句を言わなかったことをいいことにして、最後の上陸ポイントであるGreenwich島にあるYankee Harbour(南緯62度32分)に向かった。この島は過去クジラやアザラシ漁の拠点になっていた場所であり、今でも若干その面影が残っている。

Yankeeということでここに住む動物はどれもツッパッているのかと思っていたのだが、実際はすれていないペンギンと高級毛皮を着ていい気になっているFurアザラシが勢力争いをすることなくのん気に暮らしているほのぼのとした場所だったのだ。

1月26日(水)

一行は再びドレーク海峡の荒波に身を委ねることとなった。船内のあちこちには行きと同様に多数のゲロ袋が配置されたのだが、すでに往路で鍛えられた三半規管によりその消費量は著しく減少したものと思われた。また、午前と午後に行われたレクチャーにもそれなりの人が集まり、皆南極地区を離れていくのを惜しんでいた。

1月27日(木)

船は午後にはビーグル水道に到着し、とある停泊ポイントに錨を降ろした。3時半よりカンファレンスルームでExpedition teamによる最後のプレゼンテーションが実施された。内容は南極ツアー全行程のレビューであり、また驚いたことに行程やスナップ写真を音楽付きでまとめたDVDがすでに編集されており、乗客はそれを見ながら歓喜の声を上げていた。尚、DVDは数百枚の写真から構成されており、私が登場しているカットが4、5枚あったのだが、明らかに私中心の編集となっていたようだった。さらに部屋に戻ると机の上には南極大陸に上陸したことを自慢できる証書が飾られており、参加者はこの実績を胸に抱いて今後の人生が送れるように配慮されていた。

最後の晩餐は船長主催のディナーということでシャンペンが無料でふるまわれ、前菜はカニのカクテル、メニューは牛フィレステーキと豪華なものであった。一行は形式どおりに今回の船長の航海実績を拍手とともに称えつつ、最後の夜は予想通りのドンちゃん騒ぎで更けていくのであった。

1月28日(金)

クルーズ最終日は午前7時に朝食を食った後、8時にUSHUAIA号を下船する運びとなった。乗客達は別れを惜しみつつ、皆それぞれの次の目的地に向かって散って行ってしまった。

午後7時33分発のブエノスアイレス行きAR2899便への搭乗までにはかなり時間があったのでウシュアイアの「元監獄と船舶博物館」(60ペソ)を見学することにした。ここはその名の通り、元監獄として囚人が暮らしていたファシリティを博物館として再利用したエコな博物館であり、館内の展示物は監獄に関するものから南極航海に至るまで非常に多岐に渡っているのだ。

AR2899便は10分程度遅れて離陸したものの窓の下に荒涼としたパタゴニアの大地が広がっているのを目にすることが出来た。途中エル・カラファテというパタゴニアを代表するロス・グラシアレス国立公園のゲートシティを経由した際には乾いた大地を流れる蛇行した川の景色が印象に残った。

1月29日(土)

日付の変わった午前1時過ぎにブエノスアイレスでの定宿になっているシェラトンホテルにチェックインすると、久しぶりに船のエンジン音に悩まされることのない静かな夜を過ごすことが出来た。

アルゼンチンとウルグアイはラ・プラタ川で隔てられており、ブエノスアイレスはラ・プラタ川の河口に開けている大都会でその巨大なフェリーターミナルからは頻繁にウルグアイ行きの高速フェリーが発着している。この好機を捉え、ウルグアイという国がどういう具合になっているのかを確認するためにウルグアイ唯一の世界遺産であるコロニア・デル・サクラメントを訪問することにした。

シェラトンホテルにほど近いダルセナ・ノルテ港に午前9時半頃到着し、フェリー会社ブケブス社のチェックインカウンターで昨日ウエブで購入しておいたチケットのバーコードを提示するとつつがなく搭乗券が発行された。アルゼンチン側のイミグレーションで出国とウルグアイへの入国手続きを同時に行った後、高速フェリーに乗船すると10時半に出航となった。

2時間程の航海で1時間の時差を越えてコロニア・デル・サクラメントに到着したのは午後1時半を回った頃だった。早速手持ちのUS$をウルグアイペソに両替すると1995年に世界文化遺産に登録されている旧市街に繰り出すことにした。コロニア・デル・サクラメントは1680年にポルトガル人が開拓し、1777年にスペイン人によって支配された複雑な歴史を持つ都市でその歴史地区は植民地支配の雰囲気を色濃く残している。

旧市街には植民地時代の建物を利用したいくつかの博物館(50ペソ、共通チケット)があるのでまずはポルトガル博物館に入ってみることにした。館内でポルトガル統治時代の武器や陶器、航海図等を見物した後、植民地時代の暮らしを再現したナカレリョの家をちら見して市立博物館に乱入した。

市立博物館には古代から現代までの生活品や恐竜の骨格標本等が展示されており、この地はポルトガルやスペインが支配するはるか前は巨大生物に支配されていたことが確認された。

旧市街のランドマークとなっている灯台の脇にはサン・フランシスコ修道院の遺構があり、石垣の隙間は鳥たちの絶好の棲家となっていた。また、石畳の上に停車している旧式の車がコロニアルな雰囲気と非常にマッチしていた。

3時間程の滞在でコロニア・デル・サクラメントの全容を解明することが出来たのでウルグアイを後にした。午後6時前にはブエノスアイレスに帰還出来たのでそのまま空港バスに乗り、エセイサ国際空港に帰って行った。

1月30日(日)

UA846便は定刻より早い午前6時半前にワシントンダレス空港に到着した。午前11時20分発のNH1便に乗り換えるとさらに13時間のフライトが待っていた。

1月31日(月)

成田へ帰る機中で機内映画のウォールストリートを見ながらキャンセルと払い戻しの出来ないクルーズ代は株や大根やペンギンの先物取引で損したものとさして変わらないだろうということを主演のマイケル・ダグラスから教えられていると午後3時過ぎに成田空港に到着したのでそのまま流氷のように流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ただ、ユナイテッド航空 = \136,466、アルゼンチン航空 = $709.21

総宿泊費 $169.86、2,123.65ペソ (1ペソ = \21)

総レンタカー代 $267.52

総タクシー代 434.5ペソ

総空港バス代 45ペソ

総ウシュアイア空港使用料 $8

総フェリー代 313.07ペソ

総南極クルーズ代 $3,500

総難局クルーズ代(最初申し込んだクルーズに参加出来なかったが払い戻し出来ない費用)\575,190

総海外旅行保険代 ¥10,800

協力 ANA、ユナイテッド航空、アルゼンチン航空、ハーツレンタカー、spg.com、PRIORITY CLUB、メルカードツアー(http://www.mercadotour.jp/)、oneocean expeditions (http://www.oneoceanexpeditions.com/)、Antarpply expeditions (http://www.antarpply.com/eng/index.php)

新春スペシャル ミヤネ屋では行かない世界の屋根ネパールツアー

つん つくつくつくつん ♪♪ つん つくつくつくつん ♪♪

ひや~~ ひや~~ ひや~~ ひ~~ ♪♪ 

ベンベラ ベンベラ ベンベラ ベンベラ ベン ベン ベン ベン ベラン♪♪

ということで、アラフォー時代もとうに過ぎ去り、アラウンドAKB世代に差し掛かった今日この頃にもかかわらず、今年も♪ヘビ~ぃ ローテーション♪で世界を駆け巡らなければならない私にとって48までに達成すべき目標がいくつかセットされた。その第一弾としてネパールに足を踏み入れ、ヒマラヤ周辺の調査を行うべくミッションが遂行されることとなったのだ。

2011年1月1日(土)

ハッピー ニュー マサよ!!

というわけで、元旦を迎えた成田空港は閑散としていたにもかかわらず羽田からのハブ空港の覇権を取り戻そうとする努力の一環なのか、お屠蘇無料サービスが振舞われており、アルコール飲料は有料になっている米系航空会社に搭乗するであろう輩はここぞとばかりに無料の酒を煽っているかのような賑わいを見せていた。

午前9時50分発のNH909便香港行きは定刻どおりに出発し、機内で「海猿3 THE LAST MESSAGE」を見ながら海上保安庁が一時的に海上不安庁に陥ってしまっても最終的にハッピーエンドで終わることが確認出来たところで香港国際空港に到着した。空港で3時間程やり過ごした後、DRAGONAIRが運行する午後5時25分発KA192便に乗り込むとバングラデッシュのダッカを経由したしたものの午後10時過ぎにはカトマンドゥのトリブヴァン国際空港に到着した。

ネパールに到着すると日本との時差が3時間15分という中途半端な設定のおかげで時差ぼけを感じることなく空港のカウンターでタクシーを発注するともれなく現地の旅行会社の勧誘員がついてきやがった。K.Bと名乗る若者は巧みな日本語を操り、ホテルに到着するまでの限られた時間の中で様々なツアーのプレゼンテーションを展開したのだが、つつがなくかわすことに成功した。PRIORITYCLUBのポイントが余っていたのでマサであればUS$150くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るKATHMANDU SOALTEE Crowne Plaza Hotelにチェックインするとホテルのカジノで年末ジャンボが当たらなかった分の穴埋めをするわけでもなく早々とダウンしてしまった。

1月2日(日)

早朝よりヒマラヤの民との交流を図るために町に繰り出すことにした。カトマンドゥはネパールの首都とはいえ、町中は非常にとっ散らかっており、トラック、バス、タクシーやバイクの排気ガスで溢れており、さらにゴミが至る所に投げ捨てられているため上級住民は皆マスクをして町中を徘徊していた。しかし、かつてヒンドゥー教を国教とし、信仰心の厚いお国柄のせいか、多くの豪華絢爛な寺院が目に付いたのだ。

ネパールの先住民ネワール族によって、独自の文化が育まれたカトマンドゥ盆地には中世時代に建立された王宮や寺院等の多くの世界文化遺産が受け継がれている。まずは手始めに丘の頂に建つ、ネパール最古の仏教寺院であるスワヤンブナートに参拝させていただくことにした。高台に鎮座する白く巨大なストゥーパ(仏塔)に描かれた目つきの悪い目は「四方を見渡すブッダの知恵の目」と言われており、マサにカトマンドゥ全体に睨みを利かせているかのようであった。

新年を迎えたスワヤンブナートは多くの参拝客で溢れかえっていたのだが、人間の数に匹敵する猿と犬も暮らしており、修行験者風の老人も観光客からの寄進を得ようと寺院内を徘徊していたのだった。

展望台からは霧の底に沈んでいるカトマンドゥ盆地を見渡すことが出来、参道の階段には絶え間なく人々が行き交い、密教のご本尊である大日如来やヒンドゥー教の女神ガンガとヤムナーからの複合的ご利益を得ようと躍起になっているかのようであった。

スワヤンブナートから下界に降り、しばし町中をさまよっていたのだが、カトマンドゥは世界に冠たる観光地であるにも拘わらずトイレの設置数が非常に少ないことが問題であると思われた。さらに神様仏様はそこいらに奉られているのだが、数少ないトイレには植村花菜のおばあちゃんが信奉する「トイレの神様」は居住していないようでピカピカには磨かれていなかったのだ。従って、ここでは絶対にべっぴんさんになりたければ高須クリニックに頼らなければならないという現実を突きつけられるのだった。

けたたましいクラクション音が鳴り響く路地や大通りを抜け、市バス乗り場に辿り着くとそこからバクタプル行きのバスに乗り、ネパール人と一緒に小1時間程度の小旅行を楽しんだ。カトマンドゥから東へ12kmほどの距離に位置するバクタプル(世界文化遺産)はカトマンドゥ盆地で3番目に大きな町で外国人が町に入るためには文化財保護基金としてUS$15をむしり取られる仕組みになっている。

一度は盆地全体の首都に成り上がった実績のあるバクタプルは中世の町そのものの佇まいを残しており、カトマンドゥの中心部ほど人も多くないのでのんびりと観光に専念することが出来るのだ。町の西側のダルバール広場には衛兵にガードされた旧王宮、国立美術館やいくつかの寺院が絶妙の伽藍配置で並び建っているのだが、ブバティンドラ・マッラ王の石柱の前では新年の催し物であるはずの民族系の踊りが繰り広げられていた。

トゥマディー広場には18世紀初めに建立されたニャタポラ寺院が君臨しており、カトマンドゥ盆地で一番高い5層の屋根から成る高さ30mの建造物はその存在感を際立たせていた。バクタプルの奥には数多くの土産物屋もさることながら、原住民の日常生活も息づいており、共同水道場での井戸端会議や布を粛々と織るおばあちゃんの姿等が目に焼き付いたのだった。

1月3日(月)

早朝7時発の長距離バスに乗るために闇夜の午前5時半にホテルをチェックアウトし、明かりのない漆黒の中を歩いていた。ライトも無く、足元が全く見えない中、勘に頼って歩を進めていたのだが、とある場所に一歩を踏み出すとふいに体に無重力状態を感じた。何事かと気づいた時にはすでに遅く、その場所だけ蓋のはずれた深い側溝にすっぽりと陥ってしまったのだ。溝の中には「ナマステ」と言いながらなまものを捨てているはずの堆積物がヘドロ化しており、その邪悪な黒いヘドロがズボンの裾に練りこまれてしまった。

マサであればドブに落ちたショックで30分程放心状態に陥ったことであろうが、私は30秒で精神状態を立て直すとドブから這い上がり、左足首の軽い捻挫の痛みと衛生状態のよくないネパールの疫病に感染するかも知れない恐怖を感じながらも再び目的地に向かって歩き始めた。多くの人々で賑わう市場で人の波を掻き分けて前進し、暗がりで見通しの利かない寺院が群集するダルバール広場を抜けたところで道に迷ってしまった。何とかタクシーを捕まえ、バス乗り場に急行させると首尾よく目的地行きのバスにしけこむことに成功したのだが、バスが出発後、車掌がチケットをチェックする際に私のチケットを何も言わずにしげしげと見つめていたのだった。

ズボンの裾になすりつけられたヘドロから漂ってくるドブ臭に悩まされながら5時間程バスで走ると中央ネパール南部の、マハーバーラタ山脈とチューリヤ丘陵の間にひらけたタライ平原の一角に降り立った。バス乗り場は多くのホテルの客引きで賑わっていたのだが、私はすでに井上陽水も推奨するはずのリバーサイドホテルを予約していたので迎えのバンに乗り込んだ。2泊3日、3食昼寝プラス各種アクティビティ付きながらUS$135のホテルにチェックインするとズボンを履き替えてビレッジツアーに参加することと相成った。

ソウハラ村は先住民であるタルー族が細々と生活している田園地帯でその暮らしぶりを見学するために井上陽水をほうふつとさせるサングラスをかけている現地ガイドに付いて田舎道を闊歩していた。タルー族は独特の文化を持っており、毎年張り替えられる家の土壁には「ペイズリー模様」の名で知られる匂玉模様が描かれており、軒先に干されているとうもろこし、整然とした鳩の巣、大量の蜜を生産する蜂の巣等、思わず望郷の念に駆られるような光景が次々に展開されたのだった。

ツアーの終盤に国立自然保護局に辿り着いたのだが、そこには巨大なアジア像が牙を剥き出しており、また驚いたことに分厚いプロテクターを身にまとった野生のインドサイが草原を我が物顔で闊歩していやがった。

1月4日(火)

冬場でも水温の高いラプティ川から立ち上る朝靄の中、カヌー乗り場に到着すると見事な一木造りでくりぬかれた数人乗りの丸木舟にライフベストも着けずに乗り込むと朝一のアクティビティであるカヌーライドがスタートした。カヌーはいつしか世界遺産に登録された野生の王国であるチトワン国立公園の敷地に紛れ込み、1時間程でジャングルウォークのスタート地点に到着した。

チトワン国立公園およびその周辺には獰猛な人食い虎や人食いワニ、村には人食われ牛や人食われ鶏等が生息しているのだが、野生と人類の暮らしとの間には高電圧が流れる針金で仕切られているのだった。ジャングルウォークでは目の前を足早に走り去るインドサイの親子やベンガルトラの生の糞、巨大なアリ塚、川沿いに佇むクロコダイル等を観察することに成功した。

ジャングルを抜けるとエレファント・ブリーディング・センターという象を育てて喜んでいるファシリティに到着した。ここでは2年前に誕生した世にも珍しい双子の象がすくすくと育っている有様を見せ付けられるのだが、その母親はジャングルに放牧に出た際に野生の間男系の象と関係を持ったらしく、すでに妊娠してしまっている驚愕の事実が伝えられた。

川べりではおっさんが絶妙なノミさばきで木彫りの仏像や動物の製作にいそしみ、その成果物は安価で直売され、観光客の人気を博していたのだが、私はすでに鎌倉で入手した大仏や高知で買った坂本竜馬像を持っているのでそいつらに仁義を尽くすために何も買わないことにしたのだった。

リバーサイドホテルの目の前の川にエレファントドライバーに運転されてやってきた数頭の象が集結し、次々に川に入っていった。象使いの指示で川の中に横たわった象に水をかけて河原の石やたわしで象の皮膚をこするエレファント・バスがすでに開始となっていた。このアクティビティは観光客から金を巻き上げながら象の入浴という重労働をさせて一挙両得を得るというものであるが、私もヘドロの染み付いたズボンで川に入り、ドブ臭を洗い流すとともに象のエキスを取り入れるというお得感を十分に満喫することが出来たのだった。

昼食後にホテルのハンモックで昼寝をした後、チトワン国立公園での最大のアクティビティであるエレファント・サファリに参加させていただけることと相成った。所定の場所には既に数十頭の象が勢ぞろいしており、おのおのの背中には巨大な2枚重ねの座布団の上に正方形の木組みの観覧席がインストールされていた。4人の観光客は各角に配置され、エレファント・ドライバーも含め、象は合計5人を乗せて歩くという重労働を強いられるのだ。

アジア象のコンボイは川を渡ると野生動物の宝庫であるはずのジャングルの奥へと踏み込んでいった。しかし、今回のサファリの参加者がジャングルで目にすることが出来た動物は人類に支配された象の群れのみであったのだった。

1月5日(水)

ソウハラ村の長距離バス乗り場で窓枠からすきま風が入ってくるバスに乗り、5時間程の時間をかけてアンナプルナ連邦とフェワ湖に抱かれた楽園であるポカラにやってきた。バスが到着すると予約していたホテルに手配していただいた送迎タクシーに乗り込み、数分でトラベル・インに到着した。ポカラはネパール観光のドル箱となっているトレッキングツアーの拠点の一つとなっているため、フェワ湖周辺にはおびただしい数のホテル、レストラン、ショップ、インターネットカフェが立ち並んでいるのだが、中でも巨木に着色を施したasian paintsの広告が至る所で異彩を放っていた。

ポカラの標高はわずか800m程なのでむしろカトマンドゥよりも暖かく、亜熱帯らしい雰囲気も漂っているのだが、すぐ目の前には7000m~8000m級のアンナプルナ連邦が広がっており、その高低差は世界でも類を見ないものである。また、高さは6993mしかないものの手前にあるため、ひときわ大きく見えるマチャプチャレがポカラの象徴として天を目指して尖っていた。

フェワ湖には色とりどりのボートが浮かべられ、天気の良い日には何もせずにボ~とするのが最高の贅沢ではないかと思われた。一方で原住民たちはフェワ湖で体を洗い、原住主婦たちは湖や川で洗濯を行っており、生活の原点を垣間見ると同時にネパールのエコシステムを思い知らされたような気もしたのだ。

夕暮れ時に今日のディナーを求めて徘徊していると「大阪名物くいだおれ」がはるかネパールの僻地で再雇用されている現実に直面したのだが、私は迷わず本格的なネパール料理を堪能出来るタカリ・キッチンでスペシャル・ディナーを発注した。尚、物価の安いネパールではスペシャルとは言え、わずか数百円程度で満腹になり、動けなくさせられてしまうのだった。

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1月6日(木)

デラックスバスであるにも拘わらず、車内のエアコンが窓枠から吹き込んでくる寒気になっているツーリストバスは早朝7時半にポカラを後にして一路カトマンドゥを目指していた。ポカラとカトマンドゥは全長206kmのブリティヴィ・ハイウエイで結ばれており、バスで7~8時間かかるのだが、対向一車線の山道を縫うように走るため、軽微な事故の発生でも交通が滞ってしまうのだ。

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デラックスバスはついにそのアドバンテージを発揮することなく、午後3時前にカトマンドゥに到着した。バスを降りた場所がタメル地区と呼ばれるツーリストエリアだったので、そこから徒歩でカトマンドゥの中心中の中心であるダルバール広場(世界文化遺産、NRs300)に向かった。ダルバールというのは、ネパール語で「宮廷」を意味する言葉である。カトマンドゥ盆地のパタンやバクタプルにも同様のダルバール広場があるのだが、それぞれの王朝の王が美しさを競い合っただけあって、どの広場にも見事な装飾が施された宮殿や寺院が立ち並んでいるのだ。

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並み居るガイドの勧誘をかわしながら立ち並ぶ古い寺院群を見上げて歩いていると色黒のユーモラスな彫像が人々の信仰を集めている状況に出くわした。これは破壊神シヴァの化身「カーラ・バイラヴ」で童話的な風貌にも拘わらず恐怖の神である。尚、カーラ・バイラヴの前でうそをつくと即座に死んでしまうと信じられており、かつてはこの像の前に容疑者を連れてきて罪を白状させていたそうなので小沢一郎の証人喚問もここで実施されなければならないであろうと思われた。

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多くの人々が行き交うバザールでござ~るインドラ・チョークを抜け、大通りに面した旅行会社が集結する地区に移動した。とある路上就寝者に入口をふさがれた旅行会社に入り、ヒマラヤ名物マウンテンフライトのチケットの手配を依頼した。首尾よく明日の1便の予約を取ることに成功したのだが、私が手にしたチケットの航空会社を見るとブッダエアーとなっていた。思わず担当者にブッダエアーの飛行機は過去ヒマラヤに墜落してお釈迦になり、搭乗者が成仏した実績はないのかと聞きたい欲望に駆られたのだが、何とかその煩悩を抑えることが出来たのであった。

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犯罪を犯した犯人はその後犯行現場に戻るという習性があることを「太陽にほえろ」等の刑事ドラマで学んだことがあるのだが、私も自分が暗がりの中でドブに落ちた時の現場検証をするために当時の足跡を辿らなければならない衝動に駆られてしまった。1月3日早朝に歩いた道を逆戻りしていると市場でわりと大きな淡水魚系の魚が並んでいる光景を目にした。現場に到着してその状況を確認するとやはりそこは格好の生捨て(ナマステ!)場になっているようであり、何とか危機を乗り越えて生きながらえている現状に感謝しなければならないと思われたのだった。

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1月7日(金)

カトマンドゥでの定宿となっているKATHMANDU SOALTEE Crowne Plaza Hotelを1月3日と同様に午前5時半に出立したのだが、これ以上ヘドロとは付き合いたくなかったので安全策を取り、タクシーで空港に向かった。ブッダエアーが運行するBHA100便は午前7時半に出発予定だったのだが、カトマンドゥ上空の気流が悪いために2時間半程遅れてのフライトとなった。

マウンテンフライトとはいえ、行き先がMountainという通常の国内線のフライトであるため機材は普通のチャチな小型機に乗り込むこととなった。機内の窓側はすべて乗客で占められ、通路側は空席にされているという配慮を感じながら1D席に腰を下ろすと小型機は神々が居住するはずのヒマラヤに向かって離陸した。

小型機が安定飛行状態に入るとすぐにごつごつした山肌に雪をたたえた絶景が小さい窓の外に広がった。しかし、ヒマラヤを見れるのは飛行機の片面だけなのでブラインドサイドに座っている乗客は何の変哲もない山閑の小さな村々を見て我慢するか反対側に乱入するしかないのであるが、全員が片面に勢ぞろいすると飛行機が傾き、本当にお釈迦になったら洒落にならないので私は自分の持ち場を離れることはなかったのだ。

飛行機が折り返し地点でUターンするとついにヒマラヤの絶景を独占する機会を得ることと成った。するとほどなくしてブッダ紋様をあしらったプロペラエンジンの背後に一目見ただけでその頂が8848mあることがわかるような巨大な頂が姿を現し、ぶったまげてしまった。すかさずスチュワーデスが歩み寄ってきてその山がエベレストであることとその手前が8516mのローツェであることが確認された。

今回は財務省のエコツアーでマサをエベレストに無酸素登頂させるための下見に来たのだが、私の経験から6000m級のキリマンジャロでも死にそうになったので8000m級の山に登ると死ぬだろうということが容易に想像出来たのだった。飛行機から下りる際にブッダエアーに搭乗し、あの世を見る代わりにエベレストを見たということを証明するシリアルナンバーで管理されたCERTIFICATEが乗客に配られていた。

ヒマラヤの極楽浄土の世界から下界に下り、空港の近くにあるパシュパティナート(世界文化遺産、NRs500)に向かった。ここはネパール最大のヒンドゥー教寺院兼インド亜大陸にある四大シヴァ寺院のひとつでもある。ガンジス川の支流であり、聖なる川とみなされるバグマティ川の川岸にあるガートでは死者の火葬が行われているのだが、上流にあるものは身分の高い者専用で庶民は下流の火葬台でこんがり焼かれ、遺灰は聖河バグマティに流されることになっている。上流の火葬ガートの前の川では少年が水の中をさらい、上流階級者の火葬で焼け残った金の断片を見つけようと血眼になっていた。

パシュパティナート構内の寺院はヒンドゥー教以外の立ち入りを禁止しているのだが、寺院の概観や寺院を棲家にしているかのような野生の猿の大群、修行中のサドゥーに出会うことが出来るので、猿に襲われなければここでゆっくりと輪廻転生について思いを馳せることが出来るのだ。

カトマンドゥの東約6kmに位置するネパール最大のストゥーパ(仏塔)のあるボダナート(世界文化遺産、NRs150)に立ち寄った。ここは古くからチベット仏教徒の主要な巡礼地であり、中国によるチベットの武力併合後は世界でも有数のチベット文化の中心地となっているのだ。世界最大級の巨大なストゥーパの周囲には巡礼者が時計回りに回り、また台座の上にも多数の観光客や巡礼者がひしめきあっていた。さらにチベット仏教徒が板の上で敬虔な祈りを捧げている光景が目に焼きついた。

すでに日も暮れてしまったのでタクシーを捕まえてトリブヴァン国際空港に帰って行ったのだが、空港に着いた時間が早すぎて中に入れてもらえなかったので仕方なく外で待機していた。DRAGONAIRのチェックインが始まる前に空港内に入れたのだが、暖房設備のないネパールの空港の建物はどこへ行っても寒々としていた。午後11時25分発のCX6731便に搭乗出来た時点でやっと暖を取ることが出来た感じがした。

1月8日(土)

CX6731便は午前6時前に香港空港に到着し、午前9時55分発のNH912便に乗り換え、午後3時前に成田に到着し、停電のない文明生活に感謝しながら流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ただ、Dragon Air = HK$6,328.-、Buddha Air = US$160.4

総宿泊費 NRs19,089.46、$157.6

総タクシー代 NRs1,850 (NRs1 = ¥1.2)

総バス代 NRs650、$9

総ビザ代 $25

総空港使用料 NRs170

協力 ANA、DRAGON Air、Buddha Air、PRIORITY CLUB