ボケの聖地大歩危・小歩危と日本三大秘境紅葉ツアー

中学校の社会の授業で川崎先生から四国の徳島に大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)という景勝地があることを習った。それを知った同級生のワルが成績の芳しくない女生徒2人にそれぞれ大ボケ、小ボケと命名し、授業中の珍回答を揶揄していた。さらに大歩危・小歩危の背後に祖谷渓という日本三大秘境と言われる渓谷が小便をちびりそうになるような断崖の切れ込み方で観光客を集めているという。

季節は紅葉を迎え、景勝地のボケぶりもたけなわになった頃を見計らって秘境に足を踏み入れるツアーが開催されることとなったのだ。

2012年10月31日(水)

7:25発ANA651便B787-8ドリームライナーに乗り込むと約1時間20分のフライトで岡山空港に到着した。空港バスで岡山駅に移動し、マリンライナーという快速列車で瀬戸大橋を渡り、坂出駅でローカル列車に乗り換えてお昼前にしなびた港町の多度津駅に到着した。さらにワンマンのローカル列車で1時間以上の時間をかけて午後2時過ぎに阿波池田駅に到着した。駅を出てすぐの観光案内所の隣の広場ではおばちゃんが三味線ライブを行っており、数人の聴衆の前で見事であるはずのベンベラベンを披露していたのだ。

阿波池田駅で駅レンタカーを予約していたのでスズキのワゴンRに乗り込むと国道32号線を高知方面にひた走った。国道沿いにはJR土讃線の線路とともにエメラルドグリーンの水を湛えた吉野川が流れ、河岸には砂岩が変成してできた砂質片岩の分厚い地層がダイナミックに露出していた。

これといった見所のない小歩危峡を過ぎ、サンリバー大歩危と名乗る温泉施設を通り過ぎてラフティングショップやコンビニを融合したドライブイン的なファシリティで小休憩することにした。近くに三名含礫片岩に刻まれた後藤新平句碑があったので歩危の秋が堪能出来るように祈っておいた。尚、歩危(ほけ)とは、ほき、ほっけから転じた地名で崖地険しい所をいう。歩危の上に大や小などの文字が付くと「ぼけ」と濁って読むという。

大歩危峡での代表的なアクティビティは遊覧船に乗ってしばしボケ~と時間をやり過ごすことなので「大歩危遊覧船レストラン大歩危峡まんなか」で¥1,050の乗船料を支払って30分の船旅を楽しむことにした。救命胴衣を身につけて船に乗ると程なくしてボケクルーズの開始となった。乗客は船頭が説明の中でボケをかましたらすかさずツッコミを入れようと虎視眈々と狙っていたようであったが、まっとうな説明しかなかったので舌先で待機させていた「何でやねん!?」「お前何考えと~ねん!?」といった王道文句を飲み込まざるを得なかったのだ。

ボケとツッコミの掛け合いはともかくとして遊覧船から眺める渓谷美と両岸の奇岩怪石は非常に特徴的であった。遊覧船は1年中営業しているので四季折々の季節を楽しむことが出来るのだが、やはり数週間後に訪れるはずの紅葉の時期が最も素晴らしいのではないかと思われた。

遊覧船乗り場のすぐ先にラピス大歩危と名乗る道の駅大歩危が妖怪屋敷の看板を誇らしげに掲げていたので入ってみることにした。ここには通常の道の駅のファシリティだけでなく妖怪屋敷/石の博物館が開業しており、チケット売り場のおね~さんが挨拶の際に「何かよ~かい?」と小ボケをかましてきたら\500の入場料を支払って入ってみるつもりだったのだが、妖怪のような機転が利かなかったので貴重な入場料収入を逃してしまったのだ。

このあたりの地域は妖怪銀座になっているようで、今日宿泊するホテルである大歩危峡まんなかの近くには妖怪めぐりマップも掲げられているほどの念の入れようであった。ちなみにホテルは温泉ホテルで露天風呂から峡谷を見渡すことも出来、地元の食材を使った懐石料理は高級料亭なみの豪華なものだったのだ。

11月1日(木)

ホテルまんなかをチェックアウトすると日本三大秘境の一つに数えられる祖谷(いや)の奥地に足を踏み入れることにした。西祖谷地区の県道を過ぎて国道439号線に差し掛かると祖谷の中でも最強の秘境である東祖谷地区に入ってしまったことに気づかされた。ここから車が一台通れる程の奥の細道が延々と続くのだが、ここかしこで工事が行われているためダンプカーの通行が多く、弱小レンタカーは祖谷の細道でいやいやながらバックして道を譲らなければならないのだ。

大歩危・小歩危や祖谷を含めた一帯は剣山国定公園となっているのだが、奥祖谷の最深部、徳島と高知の県境に日本百名山の剣山がそびえているのでこの機を捉えて登頂しなければならなかった。剣山の登山拠点である見ノ越に到着するとリフト乗り場の駐車場は閑散としている様子であったが、それでも1台の観光バスが止まっていた。四国とはいえ、標高の高いこの地域はすでに冬支度を始めており、標高別拠点の気温を表示する掲示板には摂氏一桁が踊っていた。

通常の登山者はリフトで山の中腹まで輸送されるのだが、所要時間15分の足ブラブラリフトに往復\1,800を支払うのは忍びなかったので頂上への道のり4,000mを徒歩で制覇してやることにした。登山道に入るといきなり「クマに注意」の看板が現れ、思わずリフト乗り場に引き返そうと思ったのだが、四国にどんなクマがいるのか興味があったので気持ちを強く持って山道を進むことにした。

登山リフトの終点の西島駅には40分程で到着し、ここでクマの襲来を警戒した冷や汗が引くのを待って頂上を目指すことにした。剣山頂上への道のりはいくつかのルートがあるのだが、最短ルートを通ればわずか30分程で到達出来るので、クマさえ現れなければこの山へはハイキング程度の体力で登頂することが可能である。念の為に途中の大剣神社で登山の成功を祈願すると程なくして冬の装いになっている標高1,955mの剣山山頂に到着することに成功した。

山頂周辺には熊笹等の自然の植生を守るために遊歩道が設けられており、晴れていれば小豆島や瀬戸大橋、大鳴門大橋等の眺望が楽しめるのだが、視界が良くなかったために周辺の山々の頂の景色のみ頂いておいた。

吹き付ける風が容赦なく体温を奪いそうだったので剣山頂上のやどである頂上ヒュッテに陳列されている土産物等をチラ見してそそくさと下山することにしたのだった。

剣山を後にして国道439号線を東祖谷方面に引き返すことにした。奥祖谷に二重かずら橋という代表的な観光地があるので\500を支払って見学することにした。祖谷は平家の落人が住み着いた場所でかずら橋は平家一族が、平家の馬場に通うために設けたと言われる橋である。二重の名のとおり、男橋と女橋の2本があり、「夫婦橋」とも呼ばれている。

女橋のすぐ横にはロープをたぐりながら渓谷を渡る「野猿(やえん)」があり、美しい紅葉と透き通るような清流を見ながら優雅な神輿的空中散歩を楽しむことが出来るようになっている。

二重かずら橋を過ぎると遠目から見ると人間の寄り合いに見える人形の集団が農作業をしていたりバス停でバスを待っているふりをしている光景が目に飛び込んでくる。ここは天空の村・かかしの里という場所で、かかし工房ではかかしの生産のみならず置物や焼物等の無人販売も行われており、気に入った物があればかかしに金を支払って持ち帰ることが出来るシステムとなっている。

かかしを使って人間の数を水増ししようとしているのは一見卑怯とも思えたのだが、これが秘境の実態だと自分に言い聞かせて楽天トラベルに予約させておいた「いやしの温泉郷ホテル三峯」にチェックインして秘境温泉を堪能しながら静かな夜を過ごさせていただいた。

11月2日(金)

いやしの温泉郷の敷地内から奥祖谷観光周遊モノレール(¥1,500)が発着しているので話のタネに乗車してみることにした。カブトムシを車両のデザインに取り入れたこのモノレールは世界最長の4,600mの行程を誇り、590mの高低差も世界一となっている。最大傾斜角は40°で最高標高は1,380mとなっているのでこの時期には十分な防寒対策をして乗車しなければならない。

モノレール駅で待機している多くの2人乗りの車両の1つに乗り込むとシートベルトを締めて1時間ちょっとの自動運転によるのどかな森林浴がスタートした。車両は上りや下りを自動検知している様子でシートのリクライニングが傾斜角によって自動調節される仕組みになっているので後ろに倒れすぎたり前のめりになったりする心配もなく体力のない老人であっても快適に山間の遊覧を楽しむことが出来るのだ。

モノレールの線路のほとんどは林の中を通っているので単調な感じも否めないではないが、時々野生の鹿が現れて乗客の目を楽しませてくれる。標高が上がり、眺望が開けると周囲の山々が色づいていく様子を遠目に眺められるのだ。

秘境モノレールを堪能させていただいた「いやしの温泉郷」を出ると落合集落を一望出来る展望台にたどり着いた。国指定重要伝統的建造物保存地区に指定されている落合集落は江戸中期から昭和初期に建てられた民家や石垣と畑が急斜面に広がり、なつかしい山村の風景を今なお残しているのだ。

東祖谷地区の見どころを一通りおさえることが出来たので比較的秘境度がマイルドな西祖谷地区に戻ってきた。西祖谷地区の最大の見所は日本三奇橋のひとつとして君臨し、国・県指定重要有形民族文化財に指定されている祖谷のかずら橋である。かずら橋は平家一族が追っ手から逃れるために、いつでも切り離せるようにと、シラクチカズラという植物で造ったと言われている。今では3年に一度、安全のために架け替えられているが、渡る時には絶妙な揺れと橋げたの隙間から見える10数メートル下の渓流の景色により何とも言えないスリルを味わうことが出来るのだ。

尚、この一方通行のかずら橋を渡るためには¥500の入場料を支払う必要があり、私は既に奥祖谷の二重かずら橋でその醍醐味を味わっていたので同額の¥500で名物祖谷そばを食って腹の足しにすることにしたのだった。

かずら橋の出口の近くに平家の落人たちが琵琶を奏でてなぐさめあったと伝えられる高さ50mの琵琶の滝が流れていたのでここでマイナスイオンを吸収して祖谷渓に向かった。途中のホテルかずら橋の前に古いバスが停車していたのだが、このボンネット定期観光バスにより西祖谷の主な見所は網羅されている。

マサよ、君は日本一の渓谷で度胸の善し悪しが立ち小便の勢いによって試されていたという驚愕の事実を知って思わずちびりそうになったことがあるか!?

私は・・・・・ない!!

というわけで、西祖谷の観光地を抜け、遠く眼下に流れる祖谷川を見ながら細い山道を駆け上がるといつしか数百mの断崖絶壁の続くV字型の深い谷である祖谷渓谷に入っていた。祖谷渓の中腹に日本秘湯を守る会の会員にもなっている祖谷温泉が一軒宿の看板を掲げていた。この旅館の温泉はケーブルカーに乗って渓谷を下って到着することが売り物らしいのだが、気軽に入れそうもなかったのでスルーしておいた。

祖谷温泉を少し通り過ぎたところでいきなり交通安全を祈願しているはずの小便小僧の看板が目に飛び込んできた。看板のすぐ先には美しい背骨のアーチを描いたブロンズ児童がイチモツの先に見える遠く崖下に流れる川に狙いを定めていた。この小便小僧の立つ岩は、谷底から200mの断崖に突き出しており、明治時代に周辺に道路をつくった際も崩落せずに残った岩で、度胸試しに立ち小便をする人が跡を絶たず、いつの間にか「小便岩」と呼ばれるようになったという。マイルドな尿意を抑えていた私も連れションの恩恵に預かろうと思ったのだが、小僧のチンチンが恐怖で縮こまっているように見えたので遠慮しておくことにした。

小便小僧が早く大人になることを祈りながら祖谷渓を後にすると再び大歩危・小歩危の景勝地帯を抜けて大歩危駅のありさまを見学しに行くことにした。普通の田舎駅の外観を持つ大歩危駅でありながら、駅長はこなきじじいが勤めているようで彼の仲間の妖怪がそれぞれのコインロッカーの管理を担当しているようだった。

大歩危峡を出るにあたり、この地方の実力者であるはずのこなきじじいへの挨拶は欠かせないと思ったので遊覧船乗り場からさほど離れていない藤川谷に鎮座する児啼爺像に参拝しておいた。尚、近くには小生意気なスタイルのエセこなきじじいも存在していたのだが、賽銭収入があるのは児啼爺像だけのようであった。

小歩危峡の近くで「ぼけ除け大地蔵」という非科学的な観点からアルツハイマーと果敢に戦おうとしている寺の看板を発見したのであわよくばその効能に与ろうと急坂を上ってお参りに行くことにした。残念ながら住職に会えなかったので「日本に何万人といるアルツハイマー患者を救うためにもっと認知度を上げるべきではないか」との助言を与えるにはいたらなかった。

夕暮れ時に阿波池田駅でレンタカーを返却し、駅周辺をぶらぶらしていたのだが、この町はかつての野球強豪校池田高校の城下町なのでここかしこで下校時の女子高生に遭遇した。高台にある高校まで足を運んでみるとグランドでは野球部やほかのクラブがひしめき合って練習に励んでおり、普通の公立高校の日常の放課後が展開されていた。甲子園を制覇したやまびこ打線というキャッチフレーズの名のとおり、高校は山に囲まれており、ここから阿波の金太郎という名選手が生まれたのも納得出来る気がした。金太郎はドラフト1位で巨人に入団し、寮生活をしていたのだが、おとなしい生活には飽き足らず夜な夜な非常階段を通って門限破りを繰り返し、酒池肉林を満喫していたとの報告を受けている。これに怒った寮長は非常階段に有刺鉄線を張り巡らせて門限破りを阻止しようと試みたのだが、火事が起こったときに焼け死にたくなかったはずの金太郎は後日消防署に通報して非常階段の機能を復活させ、見事肉林への扉を再開したのであった。

消防法に詳しい金太郎の頭脳的悪行を露にしたところで丁度帰りのワンマン電車が来たので電車を数本乗り継いで岡山駅に帰っていった。

11月3日(土)

ANA「ダイヤモンドサービス」ホテル宿泊・お食事クーポンを使ってただで泊まることが出来た岡山全日空ホテルをチェックアウトするとバスで岡山空港に移動し、9:35発ANA654便で「金太郎は剣山にいるはずのクマに勝てるだろうか」と考えながら東京への帰路に着いた。

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥26,000

総空港バス代 ¥1,480

総JR代 ¥3,700

総レンタカー代 ¥11,950

総ガソリン代 ¥1,450

協力 ANA、楽天トラベル、駅レンタカー、ANAホテルズグループジャパン、徳島県立池田高等学校

イチロ、ボルトを締め直してカリビアンツアー in NY、ジャマイカ、バハマ

グレたイチローがシアトルをバックれてヤンキーになった!?

衝撃のニュースが日米を駆け巡ったのは7月23日のことであった。思えばイチローが渡米し、全米にセンセーションを巻き起こした2001年からFTBのMLBツアーが加速し、同時多発テロを乗り越えてイチローは伝説の域に達してしまった。しかし、野球人生の集大成とも言うべきワールドチャンピオンのリングだけは強豪チームにいない限りは決して手にすることは出来ないのも事実である。

今回は大都市で覚醒したイチローのさらなる飛躍ぶりをこの目で確かめるためにニューヨークに飛び、さらに緩んだボルトを締めなおすためにジャマイカ、北ウイングの足跡を追ってナッソーを訪問するツアーが開催されることとなったのだ。

2012年10月2日(火)

ANAのプレミアムポイントが余っていたのでビジネスクラスにアップグレードして乗り込んだ11:00発NH010便は定刻通りに出発し、約12時間のフライトで午前10時過ぎに曇り空のニューヨークJFK国際空港に到着した。早速AirTrainと地下鉄を乗り継いでダウンタウンに向かったのだが、地下鉄を降りて外界に出ると今日の野球の試合の開催が危ぶまれるように雨がしとしと しとピッチャーだった。

再び1乗車に付き$2.25に値上げされている地下鉄に乗り、柄の悪いことで有名なブロンクスのW Farms Sq Tremont Avで下車するとhotels.comに予約させておいたHoward Johnson Bronxにチェックインしてしばし雨の行く末を見守っていた。夕方の5時近くになると霧雨を切り裂くように外に出て地下鉄を乗り継いでイチロ、ヤンキースタジアムに向かった。161 St Yankee Stadiumで下車すると2009年にオープンした新ヤンキースタジアムが目の前に迫っていた。尚、老朽化のために取り壊された旧ヤンキースタジアムは跡形も残っていなかったのだ。

スタジアムの回りを一周し、その建築様式を確認するとTicketmasterでオンライン高値購入しておいたチケットを入手するためにチケット売り場のWill Callの窓口に向かった。チケットを手にヤンキースタジアムへの入場を果たすと各土産物屋ではイチロー祭りが開催されているかのように多くのイチローグッズが並んでいた。さらに食い物屋に目を向けると伝統的なホットドッグやピザを横目に日本食屋の開店も見られたのだが、メニューの目玉はイチローを転がしたようなSUZUKI ROLLだったのだ。

試合開始まで時間があり、雨よけのシートのかかったグランドでは練習も行われていなかったので球場内を隈なく散策することにした。伝統あるヤンキースは永久欠番を量産しており、欠番に値する野球の神様達を奉るためにバックスクリーンの直下にMemorial Parkなるものを開設している。神様達は銅版のプレートとなってその活躍を讃えられているのだが、何故か前オーナーのジョージ・スタインブレナーIIIの巨大なプレートが神様達を束ねているかのように中央に飾られていやがった。

続いて球場内2階にあるヤンキース博物館にも足を運び、ワールドチャンピオン27回の栄光の歴史をまざまざと見せつけられたのだが、直近の世界一である2009年にワールドシリーズのMVPを獲得したマツイの痕跡がスタジアムのどこにも見られなかったのでそれはマヅイだろうと思いながら場内を彷徨っていた。

霧雨の降り続く中ではあるがヤンキースとレッドソックスの伝統の一戦は定刻7:05にプレーボールとなり、相手が左ピッチャーのために9番という下位打線に甘んじているイチローが私が座っているレフトスタンド前のフィールドに定着した。

この日のイチローは3打席目にSUZUKI ROLLを彷彿とさせるような球を3塁線に転がし、見事なバントヒットとしたのだが、見せ場はこの打席だけで結局5打数1安打とファンにとっては物足りない結果となってしまった。

試合の方は9回裏に2点をリードされたヤンキースが代打ラウル・イバネスの起死回生の同点2点ホームランにより延長戦に突入し、12回の裏のチャンスに再び打席が回ってきたイバネスのサヨナラヒットによってヤンキースが勝利し、フィールド内とスタンドは歓喜の渦が巻き起こり、締めの定番ソングであるフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪がかき消されそうな喧騒であった。

試合が終わったのが11時半頃で満員の地下鉄に乗り、深夜にブロンクスのホテルに帰り着いたのだが、ニューヨークでの入浴は翌朝に回して時差でボケている今夜はとっとと寝静まることにした。

10月3日(水)

今日の天気予報も雨であったのだが、何とか曇り空が涙を流さずに持ちこたえていたので午前中にロウアーマンハッタンに繰り出すことにした。地下鉄フルトン駅で下車して9.11 Memorial方面に向かうとグランドゼロにはワールドトレードセンターに変わる高層ビルが再び天空を目指すかのように建設中であった。

タイムズスクエアで大道芸人が芸のクライマックスを警察に制止されて見物人からブーイングをくらうNYPDを横目に街頭でOREOとHOLDSの新商品のサンプルを受け取ってミッドタウンをしばし徘徊した。

午後6時頃にヤンキースタジアムに入場すると今日は雨が降らなかったために通常通りの試合前の打撃練習が行われ、外野席ではグローブを手にしたファンがホームランボールを追って右往左往していた。今日はレギュラーシーズンの最終戦でヤンキースが勝つか2位のボルチモア・オリオールズが負けるとヤンキースのアメリカンリーグ東地区の優勝が決まるという大一番であり、場内は異様な熱気に包まれていた。

その熱気の主役となるのが、ヤンキースのエース黒田とレッドソックスの崖っぷちエース松坂の先発ピッチャーの投げ合いであり、マサに日本人のために用意された舞台が幕を開けようとしていたのだ。試合開始前30分頃からウォーミングアップを開始した両エースであったが、右肘の手術から復帰して今だに調子の出ない松坂は重そうな体を引きずりながらランニング、キャッチボール、ブルペンでのピッチングへと入っていった。ブルペンでの投球はあまり球が走っていないように見受けられ、捕手の構えたミットになかなかコントロールされていなかったのだ。

試合は定刻7:05に開始となり、1回の表に黒田はいきなり1点を先行された。その裏の松坂は2番のイチローをポップフライに打ち取り、三者凡退で順調なスタートを切ったかに見えたのだが、2回にスリーランホームラン、3回にツーランと2本のホームランで5点を失い、早々と交代を告げられて日本に強制送還されるかのようにマウンドを降りていった。

試合はヤンキースの一方的な展開で7回裏にはこれまで4打席ヒットがないにもかかわらず大歓声でファンに迎えられていたイチローに5打席目が回ってきた。千両役者のイチローは右中間に2塁打を放ち、2点を追加したのだが、その時追加点の場面とは関係のないところで大歓声が上がった。電光モニターには2位のオリオールズが敗れ、ヤンキースの優勝が決定したことを告げる表示が大きく示されると観客はスタンディングオベーションで優勝を祝い、セカンドベース上のイチローもようやくその事実を理解した様子であった。

黒田は7回を7安打2失点の好投でマウンドを降り、今季16勝目を上げてヤンキースの優勝に多大な貢献を果たしたのだった。ヤンキースは14対2で宿敵レッドソックスを打ち破るとロッカールームではお約束のシャンペンファイトが繰り広げられ、その様子は電光モニターに鮮やかに写し出されていた。

優勝の余韻に浸っているヤンキースファンとともにスタジアムを後にする際に1人のファンが着ているユニフォームの背中に背番号55とともにMATSUIの文字が浮かび上がっていた。チーム公認の球場内展示物には松井の痕跡はなかったのだが、ファンの心にはマツイの幻影がしっかりと刻み込まれているのであった。

10月4日(木)

ニューヨークでヤンキース優勝の瞬間を目に焼き付け、イチローがイチロー足りうる価値を維持していることが確認出来たので次の目的地に向かうべく地下鉄でJFK空港に向かった。カリビアン航空が運行する13:25発BW014便に乗り込むと約3時間50分のフライトでジャマイカの首都キングストンのノーマン・マンレイ国際空港に時計の針を1時間戻した午後4時15分頃到着した。

入国の際に審査官のおばちゃんからあれこれ質問されてあまり歓迎されていない印象を受けたものの何とか入国を果たすと両替所で手持ちのUS$60を差し出すとあまり良くないレートで両替していただき、4,549ものジャマイカドル(JMD)の大金を手にした。空港のArrivalの出口の近くにJUTAという会社のタクシーカウンターがあったのでそこで市内までの料金がUS$28であることを確認すると安心してタクシーを発注したのだが、何故か乗り込んだ車は誰も乗っていないマイクロバスであった。

何はともあれ、hotels.comに予約させておいた治安の良いニューキングストン地区にある高級ホテルWyndham Kingston Jamaicaに約30分で到着するとフロントでチェックインを行う運びとなった。フロントのおね~ちゃんに周辺の地図をくれないかと要求したのだが、無いとの返事だったのでキングストンは観光客向けの町ではないことを即座に認識することとなった。

日本の秋田県とほぼ同じ大きさを誇るジャマイカでは北部のモンテゴ・ベイというカリブ有数のビーチリゾートエリアがあり、観光客のほとんどはそこで休暇を楽しむのだが、海外から来るビジネス客の多くは首都キングストンに滞在し、ここでは国際的な会議もたびたび行われているという。この日のWyndhamホテルではイギリスからの独立50周年を祝うイベントが行われており、多くのパーティドレスで着飾った貴婦人が入口で記念写真を撮られながら会場に吸い込まれて行った。

パーティのためにホテル内の食事処が閉鎖されていたため、「ひとり歩きは絶対にやめよう」という物の本に書かれている警告にもかかわらず夜になって外に出てみることにした。なるほど、ホテル周辺にはホームレス系を中心とした怪しい輩がたむろしており、施しを受けるために宿泊客の出待ちを行っていた。ホテルの近辺にケンタッキーがあったのでそこに入ってチキンバーガーを発注している際にも怪しい野郎が店の中を覗き込んでおり、店員が追い払った隙に店を抜け出し、何とか無事にホテルに帰還出来たのだった。

10月5日(金)

キングストンの背景に高級コーヒー豆で有名な標高2000mのブルーマウンテンがそびえているのだが、ホテル内の喫茶店や土産物屋で売られているコーヒーもすべてブルーマウンテンである。朝食として香り高いコーヒーとマフィンをいただくと意を決してキングトンの観光に出ることにした。

キングストンはレゲエ・ミュージックのふるさととして有名でキング・オブ・レゲエとして君臨しているのが、かのボブ・マーリーである。キングストンの唯一の見所でここに来なければキングストンに来たことにはならないと言われているボブ・マーリー博物館(US$20)がニュー・キングストン地区で開館しているので見学に行くことにした。

多くの来館者はモンテゴベイから1日かけてツアーでやって来ており、博物館自体はガイドによる案内で館内は写真撮影禁止となっている。この建物はアイランド・レコード社の社長の家でボブが亡くなるまでの6年間を妻と子供たちと生活した場所であるので寝室、キッチン、狙撃されたときの銃弾の跡などボブの生活が染み付いているのである。

ところで、レゲエとは1960年代にジャマイカで誕生した新しいジャンルの音楽でもともとあったアメリカのリズム&ブルースにアフリカ的なリズムを加えたアップテンポの「スカ」からちょっとスローダウンした「ロック・ステディ」を経てキングストンのスラム街であるトレンチ・タウンのルードボーイ(不良少年)によって完成されたものである。ボブも父を亡くした12歳でトレンチ・タウンに移り住み、そこで彼の音楽的な基礎が作られたようである。

尚、1時間のガイドツアーの内の最後の20分は視聴覚室でボブのDVDをじっくりと見せてくれるので、気に入れば隣のショップでCDやDVDを買って帰ることも出来るのである。

ボブ・マーリー博物館でレゲエの真髄に触れることが出来たので炎天下の中をホテルに戻り、プールのある中庭でしばしくつろぐことにした。何でも昨今のジャマイカでは小島よしおのリズムがレゲエに取り入れられているという噂を耳にしており、危険なダウンタウンやトレンチタウンに行けばその真相を解明できる可能性があるのだが、そんなの関係ね~と思っていたので終始安全なホテルでくつろぐことにしたのだ。

10月6日(土)

ジャマイカはスペインに支配された周辺のカリブ海諸国と異なり、英国連邦に加盟しているので公用語は英語であり、車は日本やイギリスと同じ右ハンドル、左側通行なので道行く車の多くは日本車である。治安が良くギャングの抗争に伴う銃撃戦に遭うリスクが少なければダウンタウンのスラム街に侵入し、ミヤネ屋が伝える上半身裸率の高い庶民の生活も垣間見ることが出来るのだが、今回はアップタウン周辺の散策にとどめることにした。

ジャマイカの民族構成の内90%以上はアフリカ系であるのだが、彼らは英国の統治時代にアフリカから連れてこられた奴隷の子孫である。よってその類まれなる身体能力はオリンピック100m、200mの金メダリストのウサイン・ボルトを頂点としたアスリートに引き継がれているのだ。そのボルトがネジ業界ではナットに相当するはずの共同経営者と開店しているレストランがキングストンにあると伺っていたのでネットで場所を調べて突撃することにした。

ボルト・ポーズをデザインに取り入れたTRACKS & RECORDS(http://www.tracksandrecords.com/)というレストランは幸いホテルから2km程しか離れていなかったのだが、夕食の時間帯に移動するのはリスクを伴うのでランチの時間を狙って来店することにした。店に入るとすぐボルトの叩き出した世界新記録のタイムが誇らしげに掲げられており、店内はスポーツバー風の装いであった。

この店はジャマイカ料理のレストランなのでローカルな食物であるザリガニの出汁をベースにしたジャンガスープとタラをすり身にしたフリッターを発注させていただいた。出汁が利いているジャンガスープは非常に美味だったのだが、フリッターは味が薄くマヨネーズをなすり付けて食うよりも醤油の方が相性がいいはずだと思ったのだが、何とか完食してボルトに仁義を切っておいたのだった。

昼過ぎにホテルに戻った途端に雲行きが怪しくなり、激しい雷雨が降り始めた。何ボルトに相当するのか想像はつかないが高電圧の雷がそこら中に轟音を立てて落ちている様で必然的に午後からの活動は制限されることになってしまったのだ。

10月7日(日)

正午前にWyndhamホテルをチェックアウトしてホテルの敷地で待機しているJUTAタクシーに乗り、キングストン国際空港へとひた走っていた。空港で出国審査を受ける際の審査官は偶然にも入国の際に遭遇したおばちゃんで「楽しめたか?」と聞かれたので大して出歩くことは出来なかったものの「楽しんできたぜ!」と見栄だけは張っておいた。

朝飯を食って来なかったので空港のコーヒーショップでブルーマウンテンコーヒーを軽飲し、ついでに粗挽きされたコーヒー豆も買っておいた。免税品かつ原産国でありながら、ブルーマウンテンコーヒーの価格は高く、227g入りの真空パックでJMD1995(日本円で約\1700)もしやがった。尚、日本が誇るUCCコーヒーはブルーマウンテンに自前のコーヒー農園を持っており、以前はガイドツアーも行われていたそうだが、現在は高値でコーヒー豆を日本に輸出することに専念しているようであった。

♪Love is the My~stery~ 私をよ~ぶのぉ~ 愛はミ~ステリ~ 不思議なち~からでぇ~~~~~~~~~~~~~~♪

ということで、14:30発BW063便は定刻通りに出発し、途中モンテゴベイを経由して3時間弱のフライトで1時間時計の進んだ午後6時過ぎにバハマ連邦の首都ナッソーに到着した。

ところで何故ナッソーくんだりまで来なければならなかった理由であるが、1984年5月1日にリリースされた名曲「北ウイング」を収録した中森明菜の6枚目のアルバムのタイトルが「ANNIVERSARY FROM NEW YORK AND NASSAU AKINA NAKAMORI 6TH ALBUM」となっており、ニューヨークはわかるが、当時の私にとってナッソーは謎であり、将来ナッソーに行くのはめっそ~もないと思っていたのだが、北ウイングを飛び立った中森明菜がやって来たのはニューヨークを経由してナッソーだったという定説が強まったため、私もナッソーに来なければならなくなったのだ。

何はともあれ、フロリダ半島の東数百km沖にあるバハマ諸島の中心ニュープロビデンス島のナッソー国際空港に降り立つとナッソーダウンタウンまで9kmと距離も手頃だったので徒歩で予約しておいたホテルに向かうことにした。歩いてみると思ったより距離感が感じられ、2時間経ってもダウンタウンにたどり着かず、挙げ句の果てに雷雨に見舞われ濡れ鼠になりながらagodaに予約させておいたNassau Junkanoo Resortにチェックインを果たしたのは午後10時近くになってしまったのだ。

10月8日(月)

早朝差し込んでくる光で目を覚まし、最上階である6階の部屋の窓越しから巨大なクルーズ船がゆっくりと入港する光景が目に入った。ナッソーはカリブ海クルーズの寄港地になっており、前夜マイアミを出た船が翌朝ナッソーに着くことになっているので毎日何らかの豪華客船の入港、出航の様子が見られるのだ。

ダウンタウンの目の前に広がるJunkanooビーチは白砂のビーチにエメラルドブルーの海の景色が美しく波も穏やかなので早朝から夕暮れ時まで海水浴を楽しむことが出来るカリブ海の天国と言えよう。

ダウンタウンのちょっとした高台を目指していると階段脇を流れる水が涼しげでコケに覆われたクイーンズ・ステアケイスに遭遇した。階段を上りきったところはフィンキャッスル砦($2)になっており、船の舳先のような形が印象的であった。この砦は1793年に造られたもので3つの大砲が海の彼方を狙ったまま残されている。

砦のとなりには水道塔がそびえており、以前はエレベーターで塔の頂上まで上がり、ナッソーの街全体を見渡すことが出来たのだが、残念ながら今は立ち入り禁止となっていた。

ナッソーの北にパラダイス・アイランドという細長い島が浮いており、リゾートの架け橋を渡って到達することができるので、その楽園ぶりがいかほどのものかこの目で確かめに行くことにした。

ナッソーのダウンタウンには大型のホテルが少ないこともあり、観光客のリゾートの拠点は主にパラダイス・アイランドか西に4km程離れたケーブル・ビーチとなっている。パラダイス・アイランドに立ち並ぶホテルは皆リッチでゴージャスなのだが、その最高峰に君臨するのがアトランティスというテーマパーク型リゾートホテルである。

アトランティスホテルの中庭にあるプールや魅惑のアトラクションは主に宿泊客専用となっているのだが、観光客から金を巻き上げるカジノはアクセスフリーになっているのでリゾート客の散財ぶりを冷やかしにカジノを通過してみたのだが、昼の時間帯だったためディーラーも暇を持て余していた。

さらにアトランティスの目の前には豪華クルーザーが停泊するハーバーがあり、その周辺はショッピングセンターになっていたのでこのホテルに宿泊していなくても充分リゾートのおこぼれに預かることが出来るのだ。

10月9日(火)

早朝目を覚ますと港にはすでに昨日とは違うクジラの尻尾が突き刺さったようなクルーズ船が停泊していた。クルーズ船の乗客は下船するとローソン・スクエアというコンビニはない小さな広場を通過しておのおの街に繰り出す日常となっている。

ローソン・スクエアの近くにストロー・マーケットという土産物屋のたまり場があり、観光客はここでストロー(やしの木の葉を裂いてよったもの)製品や木彫りの置物を物色したり、バハマ・ママたちと仁義なき値段交渉をして交渉力を鍛えようとしていた。

政府庁舎を有するパーリアメント・スクエアにはコロニアル風のピンクの建物が立ち並んでいるのだが、バハマにピンク色の建物が多いのはフラミンゴを国鳥とし、シンボルカラーとしてフラミンゴ色を採用しているからだ。

ダウンタウンの路地には個性的な土産物屋や飲食店も多く、海賊をモチーフにした人形がそこかしこで観光客の目を楽しませてくれるのだ。

カリブ海というと海賊を連想してしまうのだが、カリブ海に海賊がいたのは実話で1700年代前半にはナッソーに2000~3000人もの海賊が住んでいたという。海賊に関する知識についてはパイレーツ・オブ・ナッソーという博物館($12)で学習することが出来るので早速入場してみたのだが、館内には臨場感たっぷりの人形や模型がマサにディズニーランドのカリブの海賊のように配置されているのだ。

途中で地元の小学生ツアーに合流し、彼らは海賊に扮した荒くれ男の説明を要所要所の生返事を加えながら律儀に聞き入っていた。一通り説明が終わって中庭に出ると記念写真撮影タイムとなり、青少年少女たちは代わる代わる海賊のオブジェを背にしてポーズを取っていた。

フラミンゴ色の建造物はすでに充分堪能したので今度は本物のフラミンゴを見るためにオーダストラ・ガーデン&動物園($16)に入園することにした。園内はそんなに広くはないのだが、飼育されている動物は鳥類、爬虫類、哺乳類と非常にバラエティに富んでおり、観光客は手を消毒してインコに餌をあげることも出来るのだ。

ネコ科の動物もSERVAL、OCELOT、JAGUARと取り揃えられており、それらが狭い檻の中をアクティブにのし歩く様子も間近にすることが出来たのだった。

ここでの最大のイベントは1日3回行われるフラミンゴのショーでフラミンゴ・アリーナに訓練されたカリビアン・フラミンゴを寄せ集め、アリーナ内を行進させるのと観光客に一本足のポーズを取らせてフラミンゴと記念写真を撮ることであった。

午後4時過ぎから海に入って波に揺られていたのだが、常夏と思われるバハマ諸島でも12月~3月の冬季には気温が下がるため、ビーチでくつろげるのは11月くらいまでかも知れないのだ。

10月10日(水)

Energy Surchargeと称してagodaに事前に支払っている宿泊料とは別に3泊分で$46.5を払わされたNassau Junkanoo Resortをチェックアウトすると沿岸部を走るバスに乗って空港まで2km程の距離のオレンジヒルビーチに移動し、そこから徒歩で空港まで向かった。歩いている途中で何故中森明菜がアルバムのレコーディングの地としてナッソーを選んだのか考えていたのだが、それは単に来たかっただけだろうという結論に至った。

ナッソー国際空港の米国行きのターミナルは他の国行きとは離れており、アメリカへの入国手続きもナッソー国際空港で行われるという離れ業が演じられていた。バハマ連邦はジャマイカと同じく英連邦加盟の国であるのだが、これではまるでアメリカの植民地ではないかと思われたのだった。何はともあれ12:40発のUA1462便に乗り込むと約3時間でニューアーク・リバティ空港に到着した。空港から列車と地下鉄を乗り継いでニューヨークでの定宿となってしまったHoward Johnson Bronxの最寄駅まで移動し、チェックイン後すぐにヤンキースタジアムに向かった。

マサよ、君はMLBのポストシーズンの試合を現場で見てサヨナラ勝ちの瞬間に見知らぬヤンキースファンとハイタッチを交わしたことがあるか!?

というわけで、アメリカン・リーグのディビジョン・シリーズであるボルチモア・オリオールズとニューヨーク・ヤンキースの戦いはすでにオリオールズの本拠地で1勝1敗となっており、第3戦はヤンキー・スタジアムでの初戦であったので試合前に選手紹介等のセレモニーが賑々しく行われていた。

試合はエース黒田の好投にもかかわらず、2対1とヤンキースがリードされて9回の裏を迎えた。4打席目のイチローがレフトライナーに倒れた後、度重なるチャンスに凡退を繰り返し、ヤンキースファンから辛辣なブーイングを浴びていた3番アレックス・ロドリゲスについに代打が出され、「Rauuuuu~L」の声援とともに勝負強いラウル・イバネスが打席に立った。イバネスが振り抜いた打球はライナーとなって右中間スタンドに突き刺さり、ついにヤンキースはスコアを振り出しに戻したのだった。

試合の方は延長戦に突入し、大歓声とともに12回の裏に先頭打者として打席に立ったイバネスが振り切った打球は大きな弧を描いてライトスタンドに舞い降りた。その瞬間にヤンキースタジアム全体に驚喜の嵐が吹き荒れ、観客は誰彼構わず隣近所同士でハイタッチを繰り返し、勝利の喜びを分かち合っていた。

10月11日(木)

昨日のヤンキースタジアムでの喧騒をひきずりながら入浴して身を清め、Howard Johnson Bronxをチェックアウトすると地下鉄でのんびりとJFK国際空港に向かっていた。12:30発NH009便は20分程の遅れを出したものの、眠れない機内で映画を3本ほど鑑賞しながら14時間近くのフライト時間をやり過ごしていた。

10月12日(金)

午後3時過ぎに成田空港に到着すると、実は間違って翌日の試合のチケットも購入していたため、ヤンキースタジアムに魂は残してきたと思いながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \127,140、Caribbean Airlines = $370.91、ユナイテッド航空 = \15,870

総宿泊費 \75,500

総ナッソーホテルEnergy Surcharge $46.5

総ニューヨークAirTrain、地下鉄代 $55

総ジャマイカタクシー代 $56

総ナッソーバス代 $1.5

協力

ANA、Caribbean Airlines、ユナイテッド航空、hotels.com、agoda、Ticketmaster.com

FTBもっと北の国からバルト三国世界遺産首都ツアー

あ”~あ”~あ”あ”あ”あ”あ”~

マサよ、君は北の海に面する小国群がソ連崩壊のきっかけを作ったという歴史的事実におののいたことがあるか!?

ということで、世間一般の夏休みも終わり、海外旅行の旺盛な需要が沈静化した時期を見計らって北欧とは明らかに一線を画しているバルト三国でもっと北の国のアンチソ連三国志を学習するツアーが催行されることとなったのだ。

2012年9月6日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば\12万くらいかかるところを私はただで搭乗出来ると思いきや、燃油代として\5万円超を支払わされた10:45発JL441便はボーイングの最新鋭低燃費機であるB787-8ドリームライナーでの就航であったのでそんなに燃料代はかからないだろうと思いながら新しい機内に足を踏み入れた。

先だって六本木のロシア大使館まで申請と受け取りのため2回も足を運び入手したトランジットビザを携えてJALが月曜日と木曜日の週2回のみ運行しているモスクワ行きの直行便に乗り、乗客の少なさにJALの再上場後の株価の行く末を案じながら過ごしていると10時間程度のフライトでモスクワ最大の空港であるドモジェドボ空港に到着した。

民主化の進んでいるロシアでは入国書類もすでになくなっており、ビザがあればすんなり入国出来たのだが、乗り換えの便がモスクワ北東35kmに位置するシェレメチェヴォII国際空港だったのでモスクワの南東のはずれのドモジェドボ空港から大移動をかまさなければならなかった。とりあえず空港バスで渋滞に巻き込まれながら最寄りの地下鉄のドモジェードフスカヤ駅に移動し、そこから地下鉄で1時間以上かけてモスクワ市内を縦断し、レチノイ・ヴァグザール駅に到着するとさらにミニバスであるマルシルートカに乗って合計3時間程度の時間をかけてシェレメチェヴォII国際空港に到着した。

モスクワの町の雰囲気と交通機関を充分堪能させていただいたので22:15発アエロフロートロシア航空とエストニア航空のコードシェア便であるSU3706便に乗り込むと1時間40分程度のフライトでエストニアの首都タリン空港に1時間の時差を超えて夜11時頃到着した。EUに加盟し、さらにEUROも導入しているエストニアへの入国を果たして外に出るといきなり外気温10°C以下の冷気にさらされ、もっと北の国からの洗礼を受けることとなった。市バスでタリン市の中心部に移動し、hotels.comに予約させておいたホテルメトロポールにチェックインすると早速ベッドに入って体を温めながら休ませていただくこととなったのだ。

9月7日(金)

中世の空気を今持って漂わせているタリンはバルト海のフィンランド湾に望む港町で、かつてはソ連の一地方都市として不遇な時代を過ごしていたのだが、現在は多くの観光客が行き交う「バルトの窓」として開かれている。まずはその開かれ具合を垣間見るために曇寒空の下、タリン港周辺の散策を行うことにした。

タリンと北欧フィンランドの首都ヘルシンキの間にはLinda Line Expressの高速艇が行き交っており、その船着場はタリン港から少し離れた市民ホール港となっている。物価が異常に高い北欧都市からバルト三国くんだりに渡ってくる主な理由は船代として片道EURO50を払っても物価の安いバルト三国で買い物をすれば充分元が取れるからに他ならない。確かに船着場周辺は出航待ちの乗客で賑わっているのだが、市民ホール自体は何故か閉鎖されており、薄暗い廃墟感の中を好奇心の強そうな観光客が徘徊していたのだった。

タリンの旧市街は北ヨーロッパで最もよく保存されている旧市街のひとつで世界遺産にも登録されている貴重な観光資源である。旧市街はぐるりと城壁に取り囲まれているのだが、とりあえず北口であるはずのスール・ランナ門を通って足を踏み入れてみることにした。スール・ランナ門はかつて町の最も重要な出入口だったようで、そこを守るために1529年に建てられた砲塔がどっしりと構えている。そのかつての砲塔は「ふとっちょマルガレータ」と呼ばれているのだが、ここが監獄として使われていた頃、囚人の食事を切り盛りする太ったおかみさんがいてそのおばさんの名前に由来するという放蕩生活の帰結のような命名であったという。

ダイエットの必要性を感じながら、旧市街の石畳の上を練り歩いていると城壁のここかしこに塔が散見され、おしゃれなプチホテルや飲食店、ギャラリー等が古い町並みの中でモダンなアクセントとなっていた。

タリンの旧市街は大きく分けて山の手と下町に分かれているのだが、山の手から高みの見物を決め込んでいる団体観光客に引き寄せられるように階段を登って高さ24mのトームペアと呼ばれる丘に登って行った。身分の高い者はお決まりのように高い場所に住んでいたためか、トームペアはは常に権力の居城として市議会が支配する下町とは一線を画していた。その最大の名残は13世紀前半に建てられた騎士団の城であるトームペア城であろう。トームペア城が現在の姿になったのは18世紀後半のことで当時の権力者エカテリーナII世により改築を命じられたもので一見すると城というよりは宮殿風の建造物である。この城に寄り添っている高さ50.2mの塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれている代物で頂上にエストニアの三色旗を掲げ、今では国を象徴する存在に成り上がっている。

1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設されたエストニア本土における最古の教会である聖母マリアの大聖堂と対極を成すように1901年に当時の支配者の帝政ロシアによって建てられたロシア正教会であるアレクサンドル・ネフスキー聖堂が立ちはだかっている。エストニアが最初に独立を果たした時代にはタリンの町並みとは調和しないこのロシア正教会を移転する計画まであったそうだが、結局実現されないまま世界遺産となったのだった。

屋台で中世のアーモンド菓子を売っているエストニア美女に目を奪われながらいくつかの展望台をはしごすることにした。トームペアの展望台からは城壁と塔が立ち並ぶタリンならではの景色を堪能出来るので多くの団体観光客が列を成して記念写真の撮影に興じているのだった。

エストニアの神話によるとトームペアは古代の王カレフが眠る墓陵であるとされているのだが、彼を埋葬したのち巨大な石を集め、墓陵を造ろうとしていたのは彼の妻リンダである。リンダが墓陵が完成する最後の石をエプロンに包み丘を登っていたそのとき、エプロンの紐が切れ石が転げ落ちてしまった。疲れ果て、♪リンダ リンダ♪を歌う気力さえ残っていなかった彼女はその石に腰を下ろし、悲しみの涙にくれていたという。その時の様子は今もトームペア城南側下の広場に鎮座するリンダ像により伺い知ることが出来るのだ。

マサよ、君は猫の手も借りたいほど忙しい寿司屋が秋葉原ではなくヨーロッパの北の僻地でご主人様を待っている現実に直面したことがあるか!?

というわけで、タリンには来たものの、何かが足りんという感覚を引きずりながら観光に勤しんでいたのだが、その何かとは通常観光地で養われている生猫であるということに気がつき始めた時にふと鮨猫という看板が目に飛び込んできた。バルト海から水揚げされる魚で潤っているタリンで日本食屋が幅を利かせるであろうことは理解出来るのだが、日本のコスプレ文化がもっと北の国までに及んでいるとは想像だにしていなかった。尚、このスシ・キャットは非常に繁盛している様子だったので残念ながら入店するには至らなかったのだ。

スシ・キャットで喰らった猫パンチのショックを一掃するために旧市街の下町の中心部に移動すると14世紀の半ばに建立された庶民的な聖霊教会(EUR1)に入って15世紀の木製祭壇や質素な内部装飾を見て心を落ち着けなければならなかった。

聖霊が宿ったところを見計らって教会の向かいに君臨する大ギルドの会館に入館させていただいた。この会館は1410年に建てられ、大ギルドの集会やパーティー、結婚式などに使われていた建物であるが、1920年にギルドは解散し、現在はエストニア歴史博物館(EUR5)として有効利用されている。3本のアーチ柱で支えられている大ホールがメインの展示室になっているのだが、時代を感じさせる地下室も公開されており、さらに館内のここかしこに大ギルドの紋章でもあった赤地に白十字のタリンの小紋章が残されている。

9月8日(土)

早朝より昨日の曇天とはうって変わった青空が広がっていたので人出もまばらな旧市街の下町を巡ってみることにした。下町の中心はデンマーク人に占領される以前から市場として存在していたラエコヤ広場であるが、そこで際立った存在感を示しているのが14世紀半ばに建てられた北ヨーロッパに唯一残るゴシック様式の市庁舎である。広場の中に方位が描かれた円い石が鎮座しているのだが、この上に立ってあたりを見回すと、タリンの最も有名な5つの尖塔(旧市庁舎、聖霊教会、大聖堂、聖ニコラス教会、聖オレフ教会)のすべてが見えるのだ。

中世の雰囲気のみならず何となく不気味な雰囲気を湛えているタリンの旧市街には幽霊の話も多く、実際にヴァイム通り、日本語で幽霊通りも存在しているのだ。その由来はこの通りのある家でオランダ商人が妻を惨殺し、その幽霊が出るようになったからで17世紀以来、通りは公式に幽霊通りとなったのである。さらにとある建物の上から目を光らせているスケベオヤジがいるのだが、奴は「のぞき見トム」と呼ばれる実在の人物で隣の娘たちの動向にいつも目を光らせていた芸能レポーターのような役割を担っていたのだ。

旧市街で最も有名な中世の住宅であるスリーシスターズを改装した☆☆☆☆☆ホテルの大きな自慢のひとつは雨が降ると窓を閉めに来るという女性の幽霊の存在であるが、ホテル関係者に言わせるとフレンドリーなので心配ないとのことである。おそらく冥土に行き損ねたメイドの魂が森三中のようにホテル内を彷徨っており、今持って忠実に職務を遂行しているものと思われる。

幽霊話も一巡したところで、公園で演奏している鼓笛隊に身を清めてもらうと旧市街を抜け出して近郊の見所を探ってみることにした。

タリン駅前のバスターミナルから市バスに乗り、沿岸部を30分程度西に向かうとエストニア野外博物館(EUR6)に到着した。ここは17世紀~20世紀初頭にかけてのエストニア各地の木造建築が当時のままの姿で移築されている民俗博物館である。

バルト三国は伝統文化の保存に熱心なところであるが、ソ連時代の農業集団化政策によって伝統的な農村は破壊されてしまい、ほとんど残っていない。従って、彼らの文化の根底にある農村生活はこのような博物館まで足を運ばないと垣間見ることが出来なくなっているのである。農村の建物の大きな特徴は白川郷を彷彿とさせる茅葺き屋根と寒風が入ってくるのを最小限に抑えるためにコンパクトに作られた建物や部屋の出入り口である。もっと北の国ではマサにエコで低燃費な生活が送られていたのであろう。

市バスで旧市街に戻ると中世から伝わる国宝級の芸術品が収められている聖ニコラス教会(EUR3.5)を見学することにした。ここでの最大の見物は15世紀後半の作品で法王、皇帝、皇女、枢機卿、国王が浮かない顔で死を暗示する骸骨とダンスを踊っている「死のダンス」である。戦乱と疫病の時代であった中世にはこのような「死のダンス」のモチーフが普及したのだが、現存するものが少ないため、この絵は非常に貴重な逸品となっているのである。

タリンには生猫が足りんということは前述したが、「つるべ井戸」の通りに「猫の井戸」と呼ばれる枯れ井戸がある。かつてここには魔物が住み、住民は生贄としてよく猫を投げ込みやがったという。その酸っぱい思い出が鮨猫となって今も住民の心と舌に残っていることは疑いようもない事実であろう。

旧市街で最高の高さを誇る塔を持つ聖オレフ教会には建設にかかわったオレフという名の巨人の伝説が残されている。彼は莫大な報酬を要求して仕事を引き受けたのだが、もし教会が竣工する前に彼の名前がわかったら報酬は1ペニーでいいという条件だった。市民たちは手を尽くして彼の名前を探り当て、教会がほぼ完成に達したときに塔の上の十字架を取り付けているオレフに向かって「オレフよ、十字架が傾いているぜ!」と叫んだという。動揺したオレフは塔の上でよろめき、足場を失って下に落ちてしまった。オレフの体が地面に打ち付けられると1匹のヒキガエルと1匹の蛇が彼の口から飛び出し、彼の体は石になってしまったという。教会の外壁にはキリスト受難の物語のレリーフの下にオレフの石像が横たわっているのだ。

高さ123.7mを誇る聖オレフ教会の60mの高さのところに展望台(EUR2)が設置されているので258段の階段を登って高みの見物を決め込むことにした。急な階段を息を切らせながら登っていると狭いらせん状の階段室が前を行く飲酒若者達の吐く酒息で充満されたため、苦しさが2倍になって跳ね返ってきたのだが、無事に頂上にたどり着いた。空気のいい展望台で深呼吸をしながら酒を抜き、最後のタリン旧市街の眺望を十分に堪能させていただいた。

旧市街を後にして街の中心から1.5km程離れたバスターミナルまで徒歩で移動すると長距離バスに乗り込み、2時間程の時間をかけてパルヌというリゾートタウンに向かった。リゾートタウンといえども町は晩秋の装いで一向にリゾート気分の盛り上がりが見られなかったのでビーチにほど近いホテル・アストラに引き上げると晩飯も食わずにいち早く不貞寝体制に入ることにしたのだった。

9月9日(日)

歴史と海と太陽の町パルヌはエストニアの「夏の首都」と言われ、泥治療で有名なリゾートタウンである。早朝人影のないビーチに出てみるとなるほどリゾートの面影が残っているが、季節は過ぎ、つわものどもの夢の跡の様相を呈していた。パルヌの泥治療は180年以上の歴史を持つこの町の名物であり、そのファシリティであるネオ・クラシック様式の建物は今もパルヌのシンボル的存在として君臨しているのだが、設備の老朽化ですでに営業を停止しており、裏に回り込むとマサに廃墟そのものであった。

ホテル・アストラをチェックアウトしていくつかある町のサナトリウムを横目に旧市街に向かって歩いて行った。歴史的建造物である赤い塔が目立つバロック様式のエリザベート教会や17世紀の城門の一つであるタリン門等を見やりながらバスターミナルまで移動し、午前11時25分発のバスに乗って次の目的地を目指すことにした。

バスはいつしか国境を超えてラトヴィアに入っており、午後2時過ぎにはラトヴィアの首都リーガのバスターミナルに到着した。早速手持ちのユーロをラトヴィアの現地通貨であるラッツに両替するとホテルを目指して旧市街方面に歩いて行った。歌舞伎という名を冠したスシバーを見ながら市川染五郎の早期回復を祈り、石畳の道を歩いているとタリンでは足りんかった生猫が早くも姿を現しやがった。

旧市街に立地するホテル・セントラにチェックインすると目の前には大きな教会が迫っていたのでその威風堂々とした姿に引き寄せられるように町に繰り出すことにした。約70万人の人口を抱えるリーガはバルト三国では抜きん出た大都市でタリンの古風な雰囲気とは打って変わった都会的な空気が漂っている。ハンザ同盟の町並みが残る美しい通りにある姉妹都市のブレーメンから贈られたブレーメンの音楽隊像に挨拶をして市庁舎広場まで出てみるとそこには目を見張るほどの立派な建物が立ちはだかっていた。

リーガの守護神聖ローランド像の背後に建っている壮麗な建物はリーガを代表する建築として名高いブラックヘッドの会館である。この建物は基礎が発掘された後、リーガの創設800年を記念して再建されたものであるが、その個性的な姿がほぼ完全に再現されているという。彫金細工と彫刻で飾られた外観で目立つのが、月、日、時間と月齢を刻む大時計で、その時計を造った職人は二度と同じものが造れないように目をくり抜かれてしまったほどの秀作である。

旧市街の南側にあるのは13世紀に創立され、その後16世紀に再建されたゴシック様式の美しい聖ヨハネ教会である。通りに面した外壁上部には口を開いたふたつの修道士の顔が見えるのだが、これはこの教会に伝わる中世のエピソードによるものである。当時は生きた人間を壁に塗り込めれば災いから建物を守ることができるという信仰があり、ふたりの修道士が志願して壁の中に入ることになった。壁には外から穴が開けられて、通りかかる人から施しを受けられるようになっていたが、彼らはほどなく亡くなってしまった。その後穴は塞がれ、彼らの行いは人々の記憶から消え去ったのだが、19世紀半ばの教会修理の際に彼らの屍が実際に発見されたことから彼らを記念してこのような人面像が造られたそうだ。

聖ヨハネ教会に隣接するように建っている高い塔をもつ教会は聖ペテロ教会(Ls4)である。最初の教会は13世紀に建てられ、18世紀にはほぼ現在の姿に改築されたのだが、塔自体は第二次世界大戦後に改修されたもので、高さは123.25mを誇っている。72mの地点までエレベーターで昇ってリーガの町並みを一望できるということなので早速楽して高みを極めてみることにした。塔の上からはタウガヴァ川とかつての堀に囲まれた世界遺産であるリーガ歴史地区を鳥瞰するとともに旧市街の主要な観光ポイントの大まかな位置関係をいち早くつかむことができたのだった。

旧市街には飲食店で太らされているはずの生猫も多く生息しているのだが、リーブ広場の北側では屋根の上で伸びをしている猫の姿を見ることができる。「猫の家」と呼ばれるこの家には大ギルドに加盟したいと思っている裕福なラトヴィア商人が住んでいたのだが、ドイツ人が支配的なギルドへの加入を拒否されてしまった。その腹いせに大ギルドの会館にケツを向けた猫を屋根に取り付けたのだが、その後大ギルドの会館がコンサートホールに変わると猫は音楽に誘われてその向きを変えやがったのだ。

9月10日(月)

朝食ビュッフェを提供するホテル・セントラの食堂に何故かシャンペンがスタンバイされていたのだが、それには手をつけずに朝食を済ますとバスターミナルの近くの中央市場で腹ごなしをすることにした。市場には巨大なドームが5つ並んでいるのだが、これらは20世紀初頭にラトヴィア領内にあったドイツのツェペリン型飛行船の格納庫で今ではおびただしい量の肉や魚や乳製品等が格納されているのだった。

市場の調査を終了し、緑多き大地で威厳を示している国立オペラ座を横目に自由記念碑に向かった。これは1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられた高さ51mの記念碑でソ連時代にも壊されることはなかったのだが、反体制の象徴として当時は近づくだけでシベリアへの片道切符がいただけると噂されていたそうだ。

リーガの新市街にドイツ語でアールヌーヴォを意味するユーゲントシュティール建築群が林立している通りがあるということだったのでその斬新性を確認するために足を伸ばすことにした。ユーゲントシュティールは19世紀後半にヨーロッパ各地を席巻した新芸術様式で、その特徴は過度に装飾的なデザインであり、デフォルメされた人体像なども使われている。

最も装飾的傾向が強い初期ユーゲントシュティールを代表する建築家はミハイル・エイゼンシュテインというユダヤ系ロシア人のおっさんで新市街のアルベルタ通り周辺に彼の手がけた建築が集中しており、人気の街歩きスポットとなっている。

1902年建立のラトヴィア国立劇場の前を通ってタウガヴァ川沿岸部まで辿り着き、あたりを散策しているとチャチな人間像に遭遇した。こいつは巨人クリストファーという川の渡し役で、ある夜彼が運んだ子供が翌朝黄金となっていて、そのお金でリーガが創設されたという伝説がある由緒正しい像である。尚、河岸にいるこの像はレプリカでオリジナルの木像は博物館で丁重に保管されているのだ。

タリンの旧市街では三人姉妹(スリーシスターズ)の幽霊話で肝を冷やしたのだが、リーガには三人兄弟という肩を寄せ合って建っている中世の住宅群がある。兄貴格の建物は15世紀に建てられたもので、一般住宅としてはリーガで最も古いのだが、「窓税」なるものの影響で貧相な窓しか付いていない。弟分達の建物は「窓税」がなくなったため建物の目鼻立ちは良くなったのだが、土地不足のため、末弟の建物は非常に細っそりとしているのである。

塔の高さ80mを誇る聖ヤコブ教会には「哀れな罪人の鐘」と呼ばれた鐘が吊り下がっている。市庁舎広場で罪人の処罰が行われる際にはこの鐘がそれを市民に知らせる役を担っていたからだが、違う言い伝えによると、この鐘は傍らを不貞な婦人が通ると自然に鳴り出しやがったので女性の敵となり、夫らに尻で圧力をかけてこの鐘をはずしたという恐るべきかかあ天下のエピソードも残されている。

リーガに唯一残るかつての城門はスウェーデン門で、この門にも悲しい伝説が残っている。かつてリーガの娘たちは外国人と会うことを禁じられていたのだが、ひとりの娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で逢い引きをするようになった。しかし、スウェーデン兵を待っていた娘は捕らえられ、罰として門の内側に塗り込められてしまったというではないか。それ以来、真夜中にここを通ると娘のすすり泣きが聞こえるようになったのだった。

現存するバルト三国最古の建築のひとつであるリーガ大聖堂(Ls2)は修復の途上にあったのだが、内部は公開されていたので入ってみることにした。この聖堂は1211年に僧正アルベルトが建設を始め、その後何度も増改築がなされて18世紀の後半に現在のような姿になった。そのため、ロマネスクからバロックにいたるさまざまなスタイルがこの教会には混在しているのだ。内部にはアルベルト僧正を映したステンドグラスや重厚なパイプオルガン等の見所がたくさんあるはずなのだが、修復中の影響でお目にかかることはかなわなかった。

腹も減ってきたので市庁舎広場にあるラトヴィア料理のレストランで夕飯をごちそうになることにした。昨日は旧市街にあるステーキハウスで300gの牛肉が縮んだ硬いステーキを食ったので今日はパンの器にオニオンスープを流し込んだものとムニエル系の平たい魚を発注した。バルト三国ではほとんどの商品に20数パーセントの付加価値税がかかるのだが、すべて内税でしかも物価が安いのでビールとこれだけの美味な料理をいただいても日本より安く上がるのだ。

9月11日(火)

これまでバルト三国の港町であるタリン、リーガの調査を行ってきたが、今日はリーガのバスターミナルから午前10時発のバスに乗ってリトアニアの首都で内陸部に開かれた町であるヴィリニュスに移動することにした。約5時間もの時間をかけてバスがヴィリニュスのバスターミナルに到着したのは午後3時くらいであった。早速手持ちのユーロをリトアニアの現地通貨であるリタスに両替して小銭を得ると、予約していた旧市街にほど近いホテル・コンティが提供する安い屋根裏部屋にチェックインして町に出てみることにした。

バルト三国に来て初めてTシャツで過ごせるほどの好天に恵まれたヴィリニュスは深い緑に囲まれており、ドイツ商人の影響を受けずに建設されたため、タリンやリーガと違って天を突くゴシック教会の塔は見当たらない。世界遺産に登録されているヴィリニュス歴史地区は東ヨーロッパで最も広い旧市街のひとつでもあり、バロックを中心とした様々な様式の建築が、迷路のような旧市街の全域に広がっているのである。

ヴィリニュスの中心に建ち、ヴィリニュスのシンボルともされる主教座教会は高い鐘楼を従えた巨大なギリシア神殿を思わせる大聖堂である。最大の見所はリトアニアの守護聖人となったカジミエラス王子が安置された17世紀バロック様式の聖カジミエルの礼拝所である。正面に置かれた聖カジミエルの聖画には手が3つあるが、3つめの手は画家が何度消しても再び現れてきたので根負けして残されたと伝えられている。

丘の上でリトアニアの国旗を誇らしげに掲げているのはケディミナス塔でかつての城壁の塔である。現在は展望台と丘の上の城博物館(Lt5)としてヴィリニュスの眺望と歴史の知識を提供している。博物館の展示品はケディミナス城の模型や武具、出土品が主な物であるが、私の最も興味を引いた内容はバルト三国独立に関するビデオや写真である。特に1989年に「人間の鎖」がバルト三国の首都を結び、連帯と独立への意思を示している写真には人心に訴えるものがあった。タリンからヴィリニュスまで600kmを200万人(民族人口の約半分)が手を結んで作った人間の鎖は腐りかけたソ連の支配からの解放を実現に導いたのである。

大聖堂の鐘楼近くに「Stebuklas(奇蹟)」と書かれた1枚の敷石があるのだが、ここが人間の鎖の起点となった場所で、この上で反時計回りに3回回りながら願い事をするとかなうと言われているので観光客がこぞってグルグルしていたのである。

ケディミナス塔の展望台からの眺めで一際私の目をひいたのは16世紀後半に建てられたゴシック様式の聖アンナ教会である。建設には33種類もの異なった形のレンガが使われており、当時の技術の粋を集めたものだったという。1812年ロシアへ攻め上がるナポレオンがヴィリニュスに入城した際、この教会を見て「我が手に収めてフランスに持ち帰りたい」とざれ言を言ったのは有名な話だそうだ。

旧市街の東にはヴィリニャ川が流れており、「川向こう」という意味を持つウジュピスというしなびた地域がある。流れる川の壁面に見つけると幸せになれるという人魚像がインストールされているのだが、周囲の落書きのせいか、妙に寂しげに見えたのだった。

ヴィリニュスには元来9つの城門があったのだが、現在唯一残っているのが、旧市街の南の入口となっている「夜明けの門」である。門の2階は小さな礼拝所になっており、お祈りをする信者が絶えないのであるが、ここにある聖母のイコンは、1363年にアルギルダス公がクリミア半島に遠征した際持ち帰ったものだといわれており、奇跡を起こす力があると今も信じられている。

居酒ファミリーレストラン風の純リトアニア料理を出す食堂が市庁舎広場沿いの通りで繁盛していたので晩飯はここで食うことにした。とりあえず500mlの地ビールとイワシの酢漬けとジャガイモやベーコンをつぼ焼きにしたものを食したのだが、値段が安いので非常にコストパフォーマンスの高いディナーとなった。

外はすでにとっぷりと日が暮れており、大聖堂等のメジャーな観光物件が見事にライトアップされている様子をアイスを舐めながらゆっくりと楽しむことができたのだった。

9月12日(水)

ヴィリニュスの中心にある大聖堂から徒歩15分程東に歩くと一見普通に見える教会が現れた。入口のおばちゃんに促された寄付金の小銭を払って中に入ると息を呑むような装飾に圧倒されてしまった。

聖ペテロ&パウロ教会はバロックの町ヴィリニュスを代表する記念碑的な建築である。建物そのものの建築は1668年から7年間しかかかってないのだが、凝った内装にはその後30年あまりの時間がかけられているという。ここにある2000以上の漆喰彫刻はひとつとして同じものがなく、聖人からはじまって天使や想像上の獣といった芸術品でマサに彫刻のデパートの様相を呈しているのだ。尚、この教会には団体観光客がひっきりなしに訪れるのだが、入口のおばちゃんは何故か中国人団体に寄付を要求するタイミングは逸していたのだ。

新市街のモダンな通りを歩いていると国立ドラマ劇場からは彫像トリオが今にも襲いかからんばかりの迫力で前のめりになっており、とある建物の屋根ではキューピー系の天使が微笑みかけていた。ルキシキュウ広場の花畑の向こうでは砂で固められたジョン・レノンが暇人の私にイマジンを歌いかけてくれるかのようにギターを携えていた。

ソ連時代の秘密警察KGBが1944年から1991年まで本部として使っていた建物がTHE MUSIUM OF GENOCIDE VICTIMS(Lt6)として開館していたので入ってみることにした。展示内容は過去の戦争における虐殺の歴史でビルの正面の壁にはおびただしい数の犠牲者の名前が刻まれている。来館観光客が特に注目しているのは地下にあるKGB関連の展示で冷たい時代に実際に行われたKGBの所業を当時のファシリティや記録フィルムで確認することができるのだ。とりわけ見学者の背筋を凍りつかせるものは血のついたクッションで防音された拷問部屋や1000人以上の銃殺が実行され、その様子がビデオで再現されている地下室であったろう。

ヴィリニュスの観光も一巡したところでバスで近郊の見所まで行動範囲を広げてみることにした。ミニバスに40分程揺られて着いた所はヴィリニュスに移る前にリトアニアの首都が置かれていたトゥラカイという風光明媚な観光地である。

観光の中心地は14世紀後半に建設され、その後廃墟となったが、1987年に復元されたトゥラカイ城(Lt12)である。湖上に浮いている様子は非常にメルヘンチックであるが、構造を見ると戦争のために築城されていることがわかり、興味をそそるものがある。

現在は城壁、本丸ともに博物館となっており、特に中世の生活様式を物語る展示品の中にはジュリ扇のようなセンスのない羽が生えた扇子やライオネル・リッチー系のリッチな貴族も一服したであろうパイプ等が目を引いた。

トゥラカイからヴィリニュスに戻ると不意に向学意欲が湧いてきたので16世紀に創設された由緒あるヴィリニュス大学に入学金Lt5を支払って入学させていただくことにした。大学に付属する聖ヨハネ教会に礼拝すると言語学部の建家の2階のホールに書かれている「四季」のフレスコ画を見ながら自然崇拝時代の生活について自習し、軽くキャンパス内を歩き回って退学となった。

大学裏手の大統領官邸では丁度国旗の降納の儀式がリトアニア兵により厳粛に執り行われていた。国旗も降ろされたところでヴィリニュス観光も潮時を迎えたことを悟った私は昨日と同じレストランでリトアニア料理を食って明日の朝に備えてホテルに退散することにした。

9月13日(木)

早朝4時にタクシーを発注してヴィリニュス空港に移動し、5:40発SU2109便に乗り込む際に機材の脇にロシア語の新聞・雑誌が置いてあったのだが、何故か巨匠ビートたけしの巨顔が目についたのでアウトレイジする代わりに手にとって座席に着くことにした。

定刻8:05にモスクワのシェレメチェヴォII国際空港に到着すると空港に乗り入れている便利な特急列車に乗って30分程でモスクワ中心部のベラルーシ駅までたどり着いた。成田行きの飛行機が夕方発だったのでそれまでの時間を有効に使うためにモスクワ観光のお約束の地である赤の広場を目指して歩き始めた。赤の広場は何らかのイベントの準備のためか設営関係の工事が行われていたのだが、相変わらず観光客で溢れかえっており、かぶりもの系のキャラクターも控えめながら観光客に愛想を振りまいていた。

聖ワシリー教会のネギ坊主の華やかさぶりは2006年の7月に来た時(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2006moscaw.html)と変わらなかったのだが、入場料は倍以上に値上げされていた。クレムリンの入場料も同様で内部のすべての見どころを網羅するためには日本円で\5000くらいの出費は覚悟しなければならないのだが、幸い木曜日はクレムリンの定休日だったので周囲を一周してその広さを実感するだけにとどめておいた。

赤の広場でロシアの民主化の進展ぶりを確認出来たので、徒歩でバヴェレツ駅まで移動し、特急列車でドモジェドボ空港へ40分程かけて移動した。今回のツアーでモスクワの空港間を移動する際に空港バスや特急列車を利用したのだが、コストの安いバスは渋滞に巻き込まれるおそれがあるが、バスの3倍以上のコストがかかる特急列車は時間も正確で便数も非常に多いので乗り継ぎの際には非常に信頼性が高いと思われた。

ロシア・ルーブルが余っていたので土産物のマトリョー猫を購入する代わりにドモジェドボ空港内の自動販売機でロシアのビールを買い込んで飛行機に搭乗した。

17:45発JL442便B787-8ドリームライナーは定刻通りに出発し、JTB旅物語のツーリストや多くのロシア人とともに機内で9時間もの時間を過ごすこととなった。

9月14日(金)

定刻の午前8時過ぎに成田空港に到着し、こざかしいコザックダンスをすることなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 JAL = ¥52,010(燃油代のみ)、アエロフロートロシア航空 = $316.2

総宿泊費 ¥32,549、EUR45

総モスクワバス代 RUB180 (RUB1 = ¥2.6)

総モスクワ地下鉄代 RUB28

総モスクワ鉄道代 RUB640

総ロシアトランジットビザ代 ¥5,600

総エストニアバス代 EUR18.4

総ラトヴィアバス代 Ls9 (Ls1 = ¥142)

総リトアニアバス代 Lt13.6 (Lt1 = ¥29)

総リトアニアタクシー代 Lt50

協力

JAL、アエロフロートロシア航空、hotels.com

FTBJ夏山登山シリーズ第?弾 南アルプス北岳

猛暑を避けるためにお盆の時期に大雪山、翌週に富士山と八ヶ岳で立て続けに山篭りをさせていただいたのだが、8月最終週になってもまだまだ秋の兆しが見えないため、更なる山岳トレーニングが必要とされる今日この頃である。既に日本最高峰の富士山は制覇してしまっているのであとは階段を下りるように2位、3位と踏破していかなければならなくなってしまっている。ということで、今回は日本で2番目の高さを誇る南アルプスの北岳で下り坂にある体力を鍛え直すこととなったのだ。

2012年8月30日(木)

北岳登頂ツアーの全行程を考慮すると登山決行日の前日に近辺まで移動しておく必要があったため、とりあえず午後から石和温泉駅までのこのこと出て行った。駅前公園の足湯が無料WIFIに対応しているので林家夫妻に気を遣いながらも必要な情報収集を怠らなかった。

夕飯時になったので甲州ほうとうのチェーン店である小作に入店し、地主に気を遣うことなく「おざら」という冷たいほうとうに舌鼓を打っていた。腹も膨れたところで今夜は山梨における登山のベース基地に認定された薬石の湯 瑰泉で体をほぐすことに余念がなかった。

8月31日(金)

雑魚寝客との仁義なき場所取り合戦を回避すべく、中庭のデッキチェアで不貞寝を決め込んだものの睡眠不足は否めなかったのだが、夜明けと同時に起床することが出来たので瑰泉を後にして南アルプス市に向かった。国立公園に指定されている南アルプス北部の峰々へはマイカー規制のため、芦安という町の市営駐車場に車を止めてバスで野呂川広河原という登山拠点まで移動しなければならないので6:30発の登山バスに乗り、山間を1時間程走って広河原インフォーメーションセンターに到着した。

標高1,529mの広河原を8時前に出発すると野呂川に架かる吊り橋を渡り、広河原山荘を横目にスズメバチの襲来に怯えながら北岳への登山をスタートさせた。緑豊かな林の中を歩いていると南アルプス天然水の原料となるはずの清流がマイナスイオンを放散しながら登山者に活力を与えていた。

南アルプスの山中は日本を代表する高山植物の宝庫となっており、色とりどりの可憐な花々とそれらに群がる蝶やミツバチがこの地域の生態系の豊かさの一端を示していた。尚、今回は姿を現すことはなかったのだが、ここには特別天然記念物のライチョウやニホンカモシカもどこかでひっそりと暮らしているのだ。

北岳山頂までの道のりはいくつかのルートがあり、分岐ポイントの立札の道しるべにより迷うことはないのだが、難易度や体力の消耗度はそれぞれ異なるという。標高2,209mの二俣という分岐点に差し掛かる頃には雪があたかも氷河であるかのように斜面を覆っている光景も見受けられ、下流では雪解け水が轟音を立てて石を運び、斜面を削ぐように流れていた。

大樺沢を覆っていた雪渓もいつしか消え、八本歯ノコルというポイントに向かって過酷な登り坂が延々と続くことになる。坂の傾斜が40度~45度になるころには木製の丸太の梯子が連続するコースに差し掛かり、ここが登山の最大の難所だと思われた。

標高2,870mの八本歯ノコルまで這い上がると眺望も開けるはずだったのだが、どこからか湧き出る雲の流れが速く、北岳や日本第四位の高峰間ノ岳の山頂が見えたり、隠れたりしていた。ここから北岳山頂までは約1時間20分ということなのでラストスパートで一気に頂上を目指したいところだが、朝飯も昼飯も食っていないため、そろそろ体力の限界が迫っていたのだった。

標高3,000m近くとなると通常は植生限界となるのだが、夏は雨が多く、冬は積雪が少ないという特徴を持つこの地域は森林限界も高く、山頂付近であっても高山植物のお花畑が広がっているのだった。

マサよ、君は南アルプスの人気ナンバー1の秀峰には来ただけだったものの、言いようもない達成感と湧き上がる雲に包まれて我を忘れたことがあるか!?

というわけで、5時間もの長時間をかけてついに日本第二位の標高3,193mを誇る北岳の頂上を制覇した。ここには富士山頂のようなお鉢巡りやお宮参りのアトラクションがないので、登山者は短時間の滞在で下山することが通例となっているようだ。頂上でたむろしている他の登山者は頂上付近の山小屋で酒盛りをすると息巻いているのだが、私は北岳には来ただけなのでかっぱえびせんを食ってすぐに下山する心づもりであった。

北岳登山の行程は通常一泊二日で日帰りを行う輩はめったにいないのだが、少数派である私は何とか最終バスに間に合うようにそそくさと下山を開始した。帰りは異なる景色を見るために行きとは違うルートを取っていたのだが、山頂から10数分歩くと青い屋根が眩しい標高3,000mの肩の小屋に到着した。小屋の周辺には雨水を貯めるためのドラム缶やプロパンガスの大きなボンベが置かれているのだが、これらの機材はどうやって運ばれたのだろうと訝りながらペースを早めていった。

立札が示す標準時間で下山していると到底バスの時間に間に合わないので転ばない程度に速度を上げて歩いていると持病?の左膝ではなく、右膝の方が痛み始め、休憩後の歩き始めには容易に力が入らない状態に陥っていた。アルピニストの野口健がマイバッグに入れて持ち歩いている世田谷自然食品のグルコサミンを服用すれば少しは症状も改善されるのではないかと考えたが、頭の中で回っていたのは♪グル グル グル グル グルコサミン♪というリズムだけであった。

グルグルリズムの効能により、標準下山時間で5時間くらいかかるところを3時間程度で駆け下りると午後4時半の終バスに何とか間に合わせることに成功した。右足を引きずるようにバスから降りて車に乗り換えると一目散にベース基地である瑰泉に帰還し、ひたすら温浴治療に勤しむこととなったのだった。

9月1日(土)

グルコサミンに頼らずに右膝の痛みを和らげることが出来たのでさらなるリハビリのために富士山麓を徘徊することにした。道の駅富士吉田で富士山伏流水の給水所が賑わっていたので富士吉田市出身の金メダリストに見守られながらバナジウムを含有する富士の天然水をいただいた。

あいにくの曇天のため、富士山の勇姿を拝むことが出来なかったので今回は水にまつわる名所を訪れることにした。河口湖方面から山中湖に向かう途中の忍野村に忍野八海という富士山の雪解け水が80年の歳月をかけ濾過し、湧水となって8か所の泉を作っている名所があるので寄ってみることにした。この湧水は国指定の天然記念物、名水百選に指定されているため、常に多くの観光客で賑わっている。

八海を全て見て回るのは面倒くさかったのでとりあえず見学は主な池にとどめることにした。菖蒲が生い茂っている菖蒲池をチラ見して、風のないときには富士山がはっきりと映る鏡池が雲しか写し取っていないのに憤りを覚えながら忍野八海の観光の中心部に向かって行った。

湧出量ならびに景観は八海中随一であり、直径約12m、潜水深度約5mを誇る涌池は透き通るような神秘性をたたえており、その隣の流水口からは富士山の雪解け水が懇々と湧き出ている。尚、この天然池は溶岩で形成され、一見すると地上の池からは見えにくいが横穴が沢山開いていると言われ、1987年にテレビ朝日の番組の水中カメラマンが潜水したのだが、帰路を見失い、酸素切れで帰らぬ人となったという忌まわしい過去まで持っているのだ。

濁池という清らかではない池の隣の建家では水車の動力を利用してソバを挽いており、名物のソバが近隣の食堂で安値で提供されている。名物吉田うどん屋も近くにあったので今日の昼飯は\500の肉玉うどんと\300のかけそばで手軽に済ませておいたのだった。

忍野八海の中心にあり、土産物屋から歩道が続いている中池は水深8mの透明な池でその水底には賽銭の小銭と一緒に観光客が奉納したはずのデジカメも沈んでいたのだった。さらに中池を取り囲むように作られた人口の池では黄金の鯉が悠々と泳いでおり、中にはイケメンの人面魚がいるとほのめかされていたのだが、私が目にしたのは通常の魚顔の鯉だけであった。

忍野八海の清流である涌池と中池では飲料も可能であるのだが、流れる水を持ち帰るためには\150を支払って500mlのペットボトルを買わされるシステムになっている。こうすることによって無秩序な取水に制限を加え、水汲み場に人々が殺到することのないように厳格な管理がなされているのである。

FTBサマリー

総宿泊費 ¥2,000

総バス代 ¥2,200

総ガソリン代 ¥4,440

協力

薬石の湯 瑰泉(かいせん)(http://www.yu-kaisen.jp/)、山梨交通、世田谷自然食品

富士山ご来光と八ヶ岳八つ当たりツアー

富士山の噴火の兆候が報告されてからもう何年も経つが、最近では富士山直下に活断層も発見され、地震の揺れで「山体崩壊」という大規模な山崩れの恐れまで出てくる始末である。火山噴火に関してはある程度の予知は可能なのだが、地震に関しては当局も自信を持った予知が出来ないため、本当にいつ山体崩壊が起こるのか分からないのが現状である。何はともあれ富士山が現形を保っている間に10年ぶりとなるご来光ツアーを敢行し、ついでに富士山ともゆかりのある八ヶ岳の最高峰まで制覇しておかなければならなくなったのだ。

2012年8月20日(月)

通常の富士山登山ツアーは日の高いうちに登山を開始し、途中の山小屋で仮眠を取った後、深夜から頂上アタックを開始するというパターンが一般的であるのだが、FTBでは最短時間での登山と下山を基本としているので午後7時に東京都日野市の自宅を出ると山梨県側の登山道を目指した。河口湖近くに差し掛かると暗闇の中を天空に向かって伸びる一筋の光が富士山登山の賑わいを指し示していた。富士急ハイランドの絶叫マシンが織り成す夜景を横目に有料道路である富士スバルラインを経由して午後10時過ぎに富士スバルライン五合目に到着した。

富士登山で最も多くの登山者を集める富士スバルライン五合目であるが、首尾よく駐車場に車を収めることが出来たので山頂までの距離6.9km、標準登山時間6時間半を念頭に置いて午後10時半より登山を開始することにした。暗闇の中を巨額の赤字にあえいでいるパナソニック製ヘッドライトの光を頼りに歩を進めていると眼下には太平洋沿岸部の夜景が広がり、頭上には都心では決して見ることの出来ない満点の星空が広がっていた。

8月21日(火)

いつしか日付も変わり、6合目、7合目をゆっくりとしたペースで登っていった。今登っている吉田ルートには数多くの山小屋があり、仮眠を終えた登山者がどんどん合流してくるため上に行けばいくほど登山道は渋滞してくるのだ。標高3,100mを超えると八合目に差し掛かり、八合目と名乗る山小屋の度重なる出現により、登れど登れど八合目が永遠に続くような感覚さえ覚えられた。途中の山小屋の休憩所では酸素缶を吸うシューシューいう音が響き渡り、一方で一服している煙草の煙が漂ってきやがるのだが、空気の薄い中で副流煙を吸わされるのはたまったものではないのでせめて登山道は禁煙にすべきだと思われた。

本八合目の胸突八丁にある山小屋トモエ館あたりから渋滞はいよいよ佳境をむかえ、周りの登山者が必然的にペースを作ってくれるので急な登り道を呼吸を整えながら無理なく進むことができる。糞尿を微生物の力で分解するバイオトイレから漂ってくる臭気を感じながら3,450mの八合五勺、3,580mの九号目を順調に通過すると午前4時15分過ぎについに山頂の鳥居をくぐることに成功した。

富士山頂の日の出時間は午前5時くらいなのでそれまでに山頂で適当なご来光スポットを物色しなければならないのだが、山頂が非常に混んでいることと最高峰の剣ヶ峰まで辿り着く頃には太陽が顔を出しきってしまっている懸念があるのでとりあえず人が集まっている場所に落ち着くことにした。すでに東の空はうっすらとオレンジがかり、夏の短い夜が終わりを告げようとしていた。徐々に光が大きくなり、まだ顔を出していない太陽が空を放射状に照らし始めるとあたりは幻想的な雰囲気に包まれていった。午前5時をちょっと回った時間についに太陽の上端が姿を現し、10年ぶり2回目の富士山頂でのご来光をこの目に焼き付ける運びとなった。

登りゆく太陽は富士山頂を赤く染め、寒さでガタガタ震えて待っていた登山者に生気を与えているかのようであった。太陽が登りきったところで山頂の火口を一周するお鉢巡りと洒落込むことにした。ところで富士山頂には午前6時から郵便局が開業しており、ATMでもあれば大金をおろして登山手形や土産物類を買い占めようかと思っていたのだが、民営化しているはずのゆうちょ銀行の努力がそこまでおよんでいないために断念するしかなかった。

日本最高峰、標高3,775.63mの剣ヶ峰にたどり着くためにはさらなる急坂を登らなければならないのだが、日本の頂点を目の前にして記念写真の順番待ちの長い列に並ばなければならなかった。お調子者の学生達は何を血迷ったのか、裸体で石碑を抱え込むというパフォーマンスを演じており、その段取りの悪さが疲れた順番待ちの登山者を苛立たせていた。

剣ヶ峰から少し下ると朝日を受けて富士山の美しい形がすそ野に影となって映る影富士が西の斜面の大沢崩れから樹海方面に見事な稜線のシルエットを写し出していた。遠く八ヶ岳を見渡した後、火口に目を転じると所々に雪も残っており、猛暑に苦しむ下界では想像できないような涼やかな景色を堪能することが出来たのだった。

お鉢巡りを終えて富士山頂上浅間大社奥宮に戻り、\300のチップを払ってトイレで用を足すと目の前の自動販売機で富士山天然水が\500で取引されている現状を目の当たりにした。下山の準備を始めている登山者は山中湖のはるか向こうの東京方面にスカイツリーの先端が見えるとはしゃいでおり、これはマサに10年前に富士山頂に来た時には見られなかった光景だと思われた。

おびただしい数の登山客の交通整理のために吉田ルートでは登山道と下山道が分かれており、下りは九十九折になった急なガレ地の坂道を灼熱の太陽にさらされながら延々と歩くことになる。草木も生えない荒涼とした大地を歩いているといつしかここが富士山腹であることを忘れ、遠目から眺める美しい富士山の姿とのギャップを最も感じながら戦うことになるのだ。

下り道は急で滑りやすく多くの登山者が尻で餅をついているのだが、整然たる地ならしが行われており、その上を物資を運んだりするキャタピラ車が行き来している。かつて物資の運搬は人をあやめることが出来る程の怪力を持つ「剛力」の独単場であったはずであるが、世界文化遺産への登録を目指す富士山ではこのような最新の技術が次々に導入されているのだ。

約3時間もの時間をかけてついに標高2,305mの五合目に生きながらえて戻ってきた。まだ午前中であったのだが、体力をすべて使い切っていたのですみやかに車に乗り、山梨の石和温泉郷にある薬石の湯 瑰泉(かいせん)にエスケープすることにした。早速薬石泉と高アルカリ単純硫黄泉のWパワーを体内に取り込み、さらに700℃効熱・火釜サウナで体内の毒素を輩出し、いち早く体力の回復に努めたのだった。

8月22日(水)

割引券を使うとわずか¥1,700で24時間滞在出来、食堂も雑魚寝スペースも完備している瑰泉で眠れない夜を過ごしたのだが、大事を取って一旦自宅に帰還することにした。帰りに昨日登頂を果たした富士山の勇姿を遠巻きに眺めるべく河口湖に立ち寄った。青空を背景にした富士山のシルエットはこの上なく美しく出来れば噴火も地震による山体崩壊も数百年後まで待って欲しいと祈りながら河口湖を後にした。

河口湖から八王子に帰る道すがら、山梨県大月市猿橋町の桂川にかかる「猿橋」に立ち寄ることにした。猿橋は日本三大奇橋の一つであり、昭和7年に名勝指定を受けている由緒正しい木の構造物である。尚、現在の橋は、昭和59年に総工費3億8千万円をかけて完成したもので、将来にわたるメンテナンスの必要性を鑑みて、H鋼を木材で囲った桔木が用いられているのである。

8月23日(木)

甲子園も決勝戦をむかえ、節電のために午前中に試合が組まれるほどの猛暑に耐え兼ねて家を飛び出し、涼しい場所を模索してさまようこととなった。富士山の観光にちなんで青木ヶ原樹海の東の入口に位置し、年間を通して観光客がたえない鳴沢氷結で火照った肉体を冷却することにした。午後5時頃天然記念物である鳴沢氷結の入口に到着し、割引券を使って\250で入場すると洞窟から吹き上がってくる冷気に誘われるように暗い世界に足を踏み入れていった。

途中屈んで前進しなければならないほど狭い通路を通るとその先には不気味な氷の世界が広がっていた。洞窟内部には竪穴があり、夏の風物詩であるサザンオールスターズを崇めている江ノ島に通じているという伝説がまことしやかに囁かれているという。内部の気温は涼しさを通り越してむしろ寒く、洞窟の脇に積んである氷は外部から取り入れて保管しているいわば八百長氷であるが、天然の氷柱は観光客の魔の手から金網でしっかりと保護されていたのだ。尚、江戸時代には鳴沢氷結から切り出された天然氷は馬で運ばれ、江戸の殿様に献上されたと言われているのだが、ご丁寧にも久米宏率いるニュースステーションで検証しやがり、見事にその伝説が達成されたという実績を誇っているのだ。

道の駅なるさわに富士山博物館が無料で開館しているので遅ればせながら入館させていただくことにした。首を回して威嚇する恐竜に出迎えられて地下の展示室に降りるとセクシー系のシースルー富士が富士山内部のマグマの様子や噴火のメカニズムをボタン一つの操作でわかりやすく解説してくれた。その他の展示品は主にアメジスト等の富士山周辺で採取された宝石類で、展示ルームを出て一階に上がるとそこはパワーストーン等の売店になっており、博物館で人集めをしておいて実際は高価な宝石の販売促進を図るという富士山ならではのマーケティング手法が見て取れた。

前回の入館時に瑰泉より夏休み特別企画の¥1,000で入場出来るお得な割引券をもらっていたので今夜も温泉と火釜サウナで体力増進に努めたのだが、夜は雑魚寝スペースのいびきのハーモニーにより一睡も出来ない状況に陥ってしまうので翌朝には疲れた体に逆戻りしてしまっていたのだった。

8月24日(金)

マサよ、君は八ヶ岳の由来となった富士山の嫉妬による八つ当たりで頂上が八つに割れてしまったという逸話を信じることが出来るか!?

というわけで、大昔、大平原にひときわ高くそびえ立つ富士山と八ヶ岳という山があったそうだ。あるとき、富士山の女神の浅間(せんげん)様と、八ヶ岳の男神の権現(ごんげん)様が、「いったいどちらが高いのか」と、言いあらそいをはじめやがった。お互いに譲らなかったため、二つの山の神様は、木曽の御岳山の阿弥陀如来に背くらべのレフリーを依頼することにした。阿弥陀如来が考えついた科学的な比較方法は二つの山のてっぺんに長い「とい」をわたし、水を流すという画期的なもので水は高い方から低い方へ流れるという物理学を応用したものであった。

背くらべの日には富士山も八ヶ岳も自信を持ってのぞみ、阿弥陀如来は二つの山にといをわたし、さっそく水を流したという。水が無情にも自分の方へ流れた時点で負けを確信した富士の女神は自身を爆発させる代わりに八ヶ岳の頭をボコボコにした結果、八ヶ岳の頭は八つに割れ、今日の姿になったという。

八ヶ岳の頭が八つ裂きにされた悲劇を学んだところで午前6時過ぎに瑰泉を後にすると清里高原を抜けて八ヶ岳登山の拠点の一つである標高1,542mの美し森に向かった。ところで、八ヶ岳連邦は北八ヶ岳と南八ヶ岳を合わせて8つ以上の峰があり、「八」というのは漠然と多数を表すものとみられている。その中で日本百名山として定義されているのは最高峰の赤岳なので多くの登山者は赤岳によじ登ろうと躍起になっているのだ。

美し森の展望台から遠く八ヶ岳の仇であるはずの富士山に向かって登山の安全を祈願すると多数の登山ルートの中でも最も難易度の高い真教寺尾根ルートを攻めることにした。森の小道を抜け、標高1,610mの羽衣の池を過ぎると森林の密度が濃くなり、さらに数十分歩くと賽の河原という開けた場所に到着した。ここからは富士山のみならず赤岳山頂の眺望も開け、目的地がはるか彼方であることを思い知らされるので行くべきか戻るべきか思案のし所なのである。

足元にゴツゴツした石が多いものの標高2280mの牛首山までは順調な足取りだったと言える。看板によると牛首山から赤岳頂上までは3時間10分の道のりであるが、ここから数多くの難所に遭遇することとなる。深い緑に囲まれた八ヶ岳の山腹には色とりどりの高山植物が咲き乱れ、花粉目当てに飛んでくる蝶が過酷な登山の一服の清涼剤として登山者を癒していた。

7合目を過ぎたあたりから傾斜のきつい岩場が出現し、鎖につかまりながら岩をはい上り、滑落の恐怖と戦わなくてはならない。高所恐怖症の輩には決しておすすめすることが出来ない過酷な所業であったろう。いつ終わるとも知れない鎖場で体力を消耗し、体が十分な水分補給を要求しているのだが、持ってきた1.2リットルの麦茶の残量が心もとなかったため、脱水症状を起こさないギリギリの線で難所に立ち向かっていた。

九合目に到達し、真教寺尾根ルートと他のルートとの分岐に差し掛かると赤岳山頂まで残り15分となった。その後は比較的難易度の低い登りで10合目の看板に迎えられ、鉄製のハシゴを登ってもまだ頂上には距離があるように感じられた。

15分の看板を発見してから明らかに15分以上の時間を要してついに標高2,899mの赤岳山頂にたどり着いた。頂上には質素な祠と3,000m近くまではい登ってきた割には粗末な看板しかなかったのだが、何故か私の登頂を祝福するかのように留まっているアゲハ系の蝶が迎えてくれたのでかろうじて気分をアゲアゲに保つことが出来たのであった。

険しい登山ルートを登って到着する頂上でありながら、赤岳山頂には立派な山小屋も開業しており、登山者はここで冷たいジュースやビールが飲めるだけでなく、宿泊して英気を養い、さらなるルートに挑むことも可能なのだ。

赤岳頂上を制覇し、富士山にボコボコにされた八ヶ岳の頭の有様を目の当たりにすることが出来たので速やかに下山の途につくことにした。鎖場の難所を日頃から鍛えている上腕と絶妙な身のこなしで次々にクリアし、順調に下山して行ったのだが、進めど進めど道は長く、よくこんな道を登ってきたものだと我ながら感心しつつ汗にまみれていた。この界隈ではツキノワグマが出没するといった注意報は出ていなかったのだが、森の中に黒いボディと白い顔を持つ動物を遠目に発見したときにはさすがに戦慄を覚えてしまった。後でよくよく確認するとこの動物はクマではなく、人畜無害のニホンカモシカかも知れないのであった。

美し森に帰り着いたのは雷鳴が轟き始めた午後5時くらいの時間であった。麦茶をとっくに飲み干し、干上がった体を潤すために美し森ファームたかね荘が無料で提供している赤岳の水をいただくことにした。しかし、さらなる延命措置が必要だと思われたので八ヶ岳山麓の道の駅小淵沢で営業している延命の湯に浸かって汚れた体を薄汚れた状態まで復帰させ、速やかに撤収することとなったのだった。

FTBサマリー

総宿泊費 ¥2,700

総高速代 ¥3,250

総ガソリン代 ¥7,318

協力

薬石の湯 瑰泉(かいせん)(http://www.yu-kaisen.jp/)

FTBJ北の国から2012 大雪山

♪ア~ア~、ア ア ア ア ア~♪

じゅん、じゃなかったマサよ~ォ、君はロンドンオリンピックの熱戦を大々的に報じる各局をよそにある性格俳優の追悼番組がひっそりとちいさく放送されていた事実を知っているか!?

というわけで、北の国での好演により自身をスターダムに押し上げたタケオ仲間の俳優が田中邦衛や岩城滉一等の脇役を従えて躍動していた北の大地に追悼にやって来たわけで・・・

2012年8月12日(日)

お盆のハイシーズンを物ともせずにANAの株主優待券とeクーポンを利用してマサであれば\35,770かかるところを私はわずか\2,970の支払いで、16:00発ANA071便B747-400ポケモンジェットに乗り込むと約1時間半のフライトで新千歳空港に到着した。

空港から札幌市内行きのバスに乗り、7時過ぎに予約しておいた全日空ホテル札幌にチェックインするとすすきの葉が揺れるようにすすきのに繰り出すこともなく、ホテルのカフェで提供されるビュッフェの料理に舌鼓を打ちながら避暑地の夜を過ごさせていただいた。

8月13日(月)

ANAの「ダイヤモンドサービス」ホテル宿泊・お食事クーポンが余っていたのでほとんど無料で宿泊と食事を楽しむことが出来た全日空ホテル札幌をチェックアウトすると札幌駅前からバスに乗り北海道第二の都市旭川に向かった。約2時間のバスの旅で旭川バスターミナルに到着すると軽く旭川の市街地を散策することにした。JR旭川駅の構内には動物園をモチーフにした記念撮影用のオブジェが設えられており、この街へ来る観光客の大半が動物を見に来るであろうことを如実に物語っていた。

旭川くんだりまで来て旭山動物園に行かなければ旭川に来た意味が無くなったしまうことを西田敏行主演の「旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ」という映画で学んでいたので降りしきる雨をものともせずに動物園行きのバスに乗り込んだ。廃園寸前の状況から奇跡的な復活を果たしている旭山動物園の入場料は旭川市民は¥580に設定されているのだが、多額の交通費を使って市外からわざわざやって来る輩は¥800を支払わなければならないのだ。ちなみに中学生以下は無料となっているので子沢山の家族のレジャーには持ってこいのファシリティとも言えよう。

正門を通過してフラミンゴが赤く染まっている池を過ぎると早速旭山動物園の復活の代名詞ともなっているペンギン館に到着した。

ここには4種類のペンギンが飼育されており、南極ですでに一生分のペンギンを見納めている私にとってはさして珍しくはないものの、水中トンネル越しにペンギンが頭上を泳いでいる姿を見るとマサに空を飛んでいるかのような錯覚に落ちいるのだ。

ライオンや虎やヒョウを養っているもうじゅう館をチラ見してオオカミの森と呼ばれる展示スペースに踏み込んだ。ここはオオカミが走り回れる程の広さを誇っており、アクリル板で防御されたトンネルからはオオカミの餌食となるはずの動物目線の眺望が提供されているのだが、雨の日のオオカミは不貞寝を決め込んでいるのが関の山であった。

旭山動物園における動物の展示スタイルは「行動展示」と呼ばれ、動物本来の行動や能力を見せるものであるのだが、オラウータン館では高さ17mの位置に空中運動場を設置しており、一生の内の大半を樹上で過ごすオラウータンの本能に対する十分な配慮がなされていた。しかし雨の日のオラウータンは木陰で雨を凌ぐという特性を持っているせいか空中運動場には閑古鳥しか鳴いていなかったのだ。

悪天候をものともせずに元気に活動している動物を見学するために「もぐもぐタイム」で多くの観光客を引きつけているほっきょくぐま館の行列に並ぶことにした。野生の白クマは海に氷が張る冬季に主にアザラシを捕食して生計を立てているのだが、ここでは飼育員がイカをプールに投げ入れ、それを白クマがわざわざ泳いで取りに行くというパフォーマンスが繰り広げられていた。また、陸地の展示場には透明のカプセル越しにアザラシ目線で白クマを間近に見られるコーナーが活況を呈していた。

雨のために旭山動物園の行動展示のダイナミズムを十分に満喫できないまま撤収となったので冷えた体を温めるために名物の旭川ラーメンを流し込んで溜飲を下げておいた。

8月14日(火)

日本最大の国立公園として1934年に指定された大雪山国立公園が君臨している。大雪山連邦は北海道の最高峰「旭岳」を主峰としているのだが、旭川からその旭岳には日帰りでアクセス可能なので天空の世界まで足を伸ばしてみることにした。

旭川駅前から旭岳のロープウエイ乗り場まで一日3便のバスが出ているので9:25発の一便に乗るべくバス乗り場で待機していると地元のタクシーがやって来てバス料金と同等の相乗り料金を提示してきたので3人の相乗り仲間と共にタクシーに乗り込んだ。バスでは空港に寄ったりするために1時間半くらいかかるところをタクシーの機動力により1時間くらいでロープウエイ山麓駅に到着するとそそくさと大雪山旭岳ロープウエイの往復チケットを\2,800の高値で購入した。

標高1,100mの山麓駅からわずか10分程度で標高1,600mの姿見駅に到着し、ロープウエイを降りると乗客はガイドによるオリエンテーションを受けることになっている。ガイドは主に周辺の見所の説明をしてくれるのだが、ホワイトボードにはいくつかの注意事項も示されており、特にヒグマの目撃情報には注意を払わなければならないのだ。

ここ1年くらい左膝の鈍痛に悩まされ、そろそろグルコサミンやコンドロイチンが必要な肉体に衰えたのかどうかを診断するために姿見駅から3.3kmの行程の旭岳の山頂登山にチャレンジすることにした。姿見駅周辺は全長1.7kmの散策路があり、その折り返し地点には旭岳の勇姿を写し込む姿見の池が雪解け水をたたえている。旭岳の山頂に行くにはさらにその先の過酷な登山道を黙々と進むことになる。

標高がそれほど高くないとは言え、やはり北国ということもあり森林限界はすぐに訪れた。急斜面のガレ地は容赦なく登山客の体力を奪い、山ガールを装ったレポーターを擁する地元テレビ局の取材クルーも登山客にインタビューするという名目で適度な休憩を取っていた。山腹から見下ろす大雪山系の緑の大地はマサに神々の住む庭にふさわしく地元では神に例えられるヒグマも必ずやどこかに潜んでいるかのような神秘性を漂わせていた。

九号目を過ぎたあたりから風が強くなり、足場も安定しないために徐々に足の筋肉のダメージが大きくなっていった。さらにバックパックに忍ばせておいた携帯電話からはけたたましい緊急地震速報のアラームが鳴り響き、頂上到達への自信が徐々に削がれていくような不安に苛まれることとなった。最後の力を振り絞り、約1時間半ほどの山登りでついに標高2,291mの旭岳の山頂にたどり着いた。頂上からの絶景は苦難を乗り越えてたどり着いた者だけが見ることを許される天空の世界そのものであった。

山頂にてポカリスエットで乾杯し、発汗で失ったイオンを補給すると天空から緑眩しい下界を目指して一気に下山することにした。下りは上り以上に傾斜を感じるためか一歩進むごとに膝の笑い声が大きくなるような感覚を覚えていた。多くの下山者が滑って転んでいるのを横目に何とか姿見駅まで帰り着くとしばしの休憩時間を経て今度は散策路を歩き回って筋肉をクールダウンさせることにした。

「神々の遊ぶ庭」とも称されるその素晴らしい景色は色とりどりの高山植物や旭岳と流れる雲を写し取る鏡池、その伴侶を合わせて夫婦池と呼ばれるペアの池等、往復\2,800のロープウエイ代がお得に感じられるほどの絶景であった。

木の実かじりに余念のない散策路のマスコットであるエゾシマリスを刺激しないように遊歩道を歩いていると地獄谷と呼ばれるモクモクと噴煙を上げている噴気孔にたどり着いた。活火山である旭岳は約600年前の爆発で山頂部が崩落して現在の地形が形作られており、その噴火のエネルギーは今もなお地獄谷の地の底で日々蓄えられているかのようであった。

北海道最高峰を制した達成感を胸にロープウエイで姿見駅を後にすると17:30発のバスでサンセットを迎えた旭川駅に帰り、agodaに予約させておいた旭川ターミナルホテルにチェックインすると盛夏を彩るように打ち上げられている花火に見とれながら涼しげな夜を過ごしていた。

8月15日(水)

JR北海道が運行する観光列車「富良野・美瑛ノロッコ号」が旭川駅で待機していたのだが、それには乗らずに何の変哲もない富良野行きのワンマン鈍行列車に乗り込んだ。美馬牛駅というさびれた駅で下車すると約3kmの道のりを歩いて色鮮やかな絨毯の見学に繰り出すことにした。

展望花畑「四季彩の丘」にはケイトウやサルビア、マリーゴールドなどが咲きそろい、東京ドーム1.5個分の花畑は色鮮やかなストライプで覆われ、多くの団体中国人観光客で賑わっていた。広い敷地を楽して回るためにいくつかの乗り物も用意されており、トラクターで客車を引っ張るノロッコ号やカート、バギーなどが家族連れの人気を集めていた。

花畑には何故かアルパカ牧場も営業しており、多くのミラバケッソ系のアルパカが柵の中で養われているのだが、入場料\500分はソフトクリーム購入代に回すべきだと考えたので入場せずに高い塀の隙間から癒し系の草食獣をチラ見するにとどめておいた。

美馬牛から再び富良野線に乗り、中富良野駅に立ち寄った。北海道の真ん中にある中富良野は十勝連峰の勇姿を望み、ラベンダーをはじめとする美しい花々が人々を出迎えてくれる彩りの大地である。ところが、ラベンダーのシーズンは既に終わってしまっていたのでスキー場のリフトを運行させている町営ラベンダー園の斜面には夢の跡しか残っていなかったのだ。

町営ラベンダー園で購入したラベンダーソフトを舐めながら、ラベンダー園の名門であるファーム富田に向かった。ラベンダーのシーズンは過ぎ去り、ラベンダー畑には枯れそうな葉っぱしか残ってなかったのだが、辛くも温室に咲いているラベンダーを見て溜飲を下げることは出来たのであった。

園内には花畑だけでなく、工場や工房も公開されており、観光客は花精油抽出工程や石鹸や香水の製造方法を学ぶことが出来るのだ。さらに隣接するメロンハウスではメロンの直売のみならず、切り売りやメロンパンも販売されていたので早速果肉が封印されたメロンパンを買って昼食とした。しかし、量的な物足りなさは否めなかったため、こだわりメロンソフトを食って腹の足しにしておいた。

ラベンダーの残り香を引きずって中富良野を後にし、電車に乗って北の国からの聖地である富良野駅に降り立ったわけで・・・駅前に「北の国から」資料館が開館していたので名優地井武男の追悼コーナーがあれば入ろうと思っていたのだが、その様子は垣間見られなかったので入場は次回訪問時に持ち越しにすることにしたわけで・・・ 結局富良野にはふらっと立ち寄るだけにとどまってしまい、15:30発のバスで札幌に帰り、全日空ホテルで涼しさの余韻をかみしめていたわけで・・・

8月16日(木)

新千歳空港より9:30発ANA054便にて涼しい北の国を後にして猛暑が続く東京へと帰り、ちい散歩の最終回は賽の河原だったのだろうかと考えながら流れ解散となったわけで・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ¥20,940

総宿泊費 ¥8,735

総バス代 ¥6,320

総タクシー代 ¥1,400

総JR北海道代 ¥1,190

協力 ANA、楽天トラベル、agoda、IHG・ANAホテルズグループ

天国にいちばん近いニューカレドニアツアー

ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!

というわけで、マサが悪徳官僚に成り下がっているのであれば、将来地獄にいちばん近い島に流れることが約束されているはずであるが、ブレンディコーヒーを飲みながら時をかけてきた原田知世は天国にいちばん近い島を訪れて以来、今だにその若さと美貌を保っている。

今回はその舞台となったニューカレドニアの島々がどれほど天国に近いのかをこの身をもって確認するために赤道を超えてはるばる南太平洋までやって来たのだった。

2012年7月8日(日)

角川事務所が原田知世を擁して開拓したリゾート地であるニューカレドニアへの日本からの直行便のフライトは曜日により成田と関空から出発する便があるのだが、ニューカレドニアの国際航空会社であるエアーカランのWEBサイトを精査しているとソウルから飛んだ方が割安になることが判明したので10:55発NH907便でまずは成田からソウルの仁川に移動することにした。

午後1時過ぎにアジアのハブ空港としての勢力を拡大している仁川国際空港に到着すると空港バスで東大門に向かったニダ。東大門を横目にHotels.comに予約させておいたアパート風の宿であるウルジロコープレジデンスにチェックインすると久しぶりにソウルの街中を散策してみることにした。

東大門はアパレル系の卸売と小売で賑わう一大商業地区で巨大なデパートと商店街では日本よりも勢いを増しているソウルっ子と円高という追い風に乗って日本からやってきた観光客が仁義なき財布の紐の緩め合いに没頭していたのだニダ。

明洞まで移動して韓流系の美女がいないかニカと思って群衆に揉まれてみたのだが、大した成果が見られなかったのでホテルに戻ってテレビを見ることにした。K-Pop系の番組では日本でお馴染みのグループが日本語で歌っていないのに違和感を感じたのでそそくさとNHKにチャンネルを変えて平清盛を見ながら身を清めることにしたスミダ。

7月9日(月)

早朝地下鉄と空港鉄道を乗り継いで仁川空港まで移動するとニューカレドニアの首都であるヌメア行き10:30発SB701便に乗り込んだ。ニューカレドニアはフランス領であるために機内はパリからエールフランス機を乗り継いでやってきたムッシュー、マダム、マドモアゼルで溢れており、すでに高貴なフランスの雰囲気を漂わせていた。

約9時間の長時間フライトでヌメアのトントゥータ国際空港に到着したのは2時間時計の針の進んだ午後10時くらいであった。つつがなく入国審査をパスし、空港のATMで現地通貨であるフレンチ・パシフィック・フラン(CFP)を20,000ほど引き出すと空港送迎サービスのシャトルに3,000フランもの大金を払ってヌメアの中心部に向かった。

agodaに予約させておいたヌメアの中心街に位置するベスト・ウエスタン・ホテル・ル・パリにチェックインしたのは日付も変わろうかという時間帯であったので何はともあれベッドに横になって天国の夢でも見ることにした。

7月10日(火)

ニューカレドニアはシドニーの北東約1970km、南回帰線のやや北に位置している南の楽園であり、細長い本島であるグランドテール島は南太平洋でニューギニア、ニュージーランドに次いで3番目に大きい島である。ニューカレドニアの首都は本島のほぼ南端の小さな半島を覆うように広がるヌメアで地球の裏側にあるもうひとつのパリとも称されるほど洗練された雰囲気を持っている町である。

プチ・パリとも言われるヌメアの食生活を支えている朝市に朝一から繰り出してみると、そこには新鮮な魚やカラフルな果物や野菜が高値で取引されているのだが、物価レベルは本国のフランスや日本よりも若干高いのではないかと感じられた。

ヌメアのへそであり、人々の憩いの場所となっているココティエ広場を通り過ぎて自動車通り沿いを北東に向かって歩いていると海沿いにモクモクと煙を発している巨大な工場が現れた。これはニューカレドニアの経済を支えるニッケル工場で日本が輸出先の筆頭になっているという。おそらくマサが桜宮造幣局で500円硬貨を製造していた時の原料となっていたニッケル銅のニッケルはここで発掘されたものだと予想される。

坂道を数キロ駆け上がると標高167mのモンラベルの丘に到着した。ここからはヌメアの町並みだけでなく、ニューカレドニア南部を取り巻く環礁なども遠巻きに眺められ、ヌメア屈指の展望台として格好の労働者の休憩場所になっているのである。

動物園、植物園、自然公園を融合したニューカレドニアを代表する施設が森林公園(CFP400)として地元民と観光客の憩いの場所になっているので入ってみることにした。動物園エリアにはニューカレドニアの島々をはじめ、世界各国から取り寄せられたカラフルな鳩、インコ、オウム、コウモリ等がカゴの中で自由を奪われているのだが、孔雀だけは自由に園内を動き回る権利が与えられているようだった。

ここでの最大の見ものはニューカレドニアの国鳥カグーであるのだが、空を飛べない奴らは絶滅の危機に瀕しているため保護が必要で、犬猫のような獣系の鳴き声を発しながら家具のない飼育エリア内を元気に走り回りアイドル的な人気を誇っているのだ。

ヌメア中心部のベスト景観スポットとしてエフ・オー・エルの丘が小高く盛り上がっているので登ってみると丘の上のショッピングセンターは閉鎖されている様子で、ここも少なからずヨーロッパの不景気の影響を受けている現実が示されていた。しかし、丘の上からモーゼル湾を望んだ絶景は普遍の美しさでこの風景が観光パンフレットに使われているのもうなずけるのだった。

丘を降りて2本の尖塔が天を指すセント・ジョセフ教会を礼拝し、さらに下ってふと教会の方を見上げるとその背後のエフ・オー・エルの丘の上に立つ潰れたショッピングセンターが助けを求めているように感じられてならなかった。

ヌメアの市街地の先にアンスバタというビーチリゾート地があり、今日はそのエリアに宿泊する予定になっているのでリゾートホテルとショッピングセンターの立ち並ぶ楽園を目指して歩いていた。道行く途中でタバコを所望する原住民に断りを入れると奴は地団駄を踏んで悔しがるオーバーアクションを示したものの何とかagodaに予約させておいたホテル・ル・サーフにたどり着いた。

チェックインするとほどなくサンセットが迫ってきたのであわただしくビーチに飛び出し、太陽が水平線に沈むのを見守っていた。太陽が沈んだ瞬間に緑色の光を見ると幸せになれるという伝説があるため、まばたきもせずに西の空を見守っていたのだが、心なしか淡い緑が私のまぶたを横切った気がして仕方がなかったのだ。

7月11日(水)

早朝ホテル・ル・サーフをチェックアウトして目の前のバス停からバスに乗り、ヌメアの中心部に向かった。そこからバスを乗り換えて国内線専用のマジェンタ空港に向かう腹積もりだったのだが、バスがタイムリーに来なかったので3km程の道のりを歩いて8時前にマジェンタ空港に到着した。9:00発Air Caledonieが運行するTY307便に乗り込み、離陸すると眼下にヌメア周辺の環礁の絶景が広がった。

ヌメアの環礁を見た興奮も覚めやらぬ間に飛行機は高度を下げ、雲が切れるとそこには緑色のヤシの林と抜けるような青のグラデーションとどこまでも続く白い砂浜がまるで天国への扉が開かれたかのようにその全貌を露にした。時をかける少女の尾道とともに原田知世の聖地と称されるはずのウベア島こそマサに「天国にいちばん近い島」と定義されているのだが、この島はヌメアから北に40分程飛行して到着する半月形の陸地と世界遺産に登録された環礁が織り成す夢の世界である。

何もない典型的な離島の空港であるウベア空港に10時くらいに到着するとこの島での宿となっている民宿ココティエのバンに乗り込み、島の最南端に向かった。ひと口にウベア島といわれている所は、中央がくびれた細長いウベア島と南端のムリ島から成り立っているのだが、ココティエはムリ島に位置しているので橋を渡ってしばらくするとムリ湾に面する質素な宿に到着した。

ヌメアではたいていどこへ行っても英語が通じたのだが、ここではフランス語しか通じなかったため、宿に到着し、部屋があてがわれると後はひたすら放置プレイとなったのだった。とりあえず、宿の目の前のムリのビーチに出てみたのだが、そこには真っ白なパウダーサンドのビーチがはるか天国に向かって続いているかのようであった。

宿に向かう途中ですでに「天国にいちばん近い島」におけるウベアでのロケ場所の目星をつけておいたのでさわやかな風を受けながら徒歩でまっすぐ伸びる一本道を一時間程トボトボと歩いていた。観光地にありがちな商業主義的設備が一切ない素朴な島で貴重なカフェを見つけたので鳥肉とご飯の定食を食っているとそこで養われている白猫も海と同じ色の目を持っていることが確認されたので、これはマサに天国にいちばん近い猫に違いないと思われた。

ウベア島とムリ島を無理やりつないでいるムリ橋は1981年に架けられたものであるが、この橋のあたりから見るレキン湾や対岸のファヤワ島などがウベアで最も美しい所といわれている。

海の色は雲の流れとともに刻々と色を変え、そのまま紺碧の空まで繋がっており、今まで見たこともないような美しい青に包まれていると昇天しそうになったので意識をなくす前にココティエに引き上げることにした。

ココティエのすぐ先に映画にも登場したカラフルな教会が南洋杉の並木の向こうに静かに建っていた。さらに近辺を散策しているとすでに天国に召された方々はビーチ沿いのお墓に埋葬されている様子で、十字架がきれいな花々で彩られているところからこの場所と天国との距離がいかに近いかを実感させられるのだった。

7月12日(木)

昨日の放置プレーで宿主とほとんどコミュニケーションを取れなかったため、予約が必要な夕食を食い損ねたためビールで空腹をしのぎ、今朝は今朝でペプシの炭酸で胃の容積を満たすと颯爽と朝の散歩に繰り出すことにした。

ムリ島の最西端のムリ岬まで足を伸ばしてみたのだが、そこはムリ・ビーチで見た白い砂浜とは異なるゴツゴツした岩礁地帯で海の色がより透明に見えるため、心が洗濯板で洗われるような感覚に陥ってしまうのだ。

ムリ岬から戻る途中の民家に豚を囲っている柵があったのだが、そこで生を受けた子豚は小回りを利用して柵の間から自由に出入りを繰り返し、親豚をやきもきさせていた。豚を適当におだてた後、民宿に戻ると依然として放置プレイが継続されていたので天国のようなビーチを眺めながら空港への送迎の時間が来るまで十分に現実逃避させていただいた。

放置プレイの割には予約や客の管理がしっかりしているココティエのバンで空港まで送ってもらうと16:00発TY316便に乗り込み、名実ともに「天国にいちばん近い島」であることが実証された夢の世界を後にした。

5時前にヌメアのマジェンタ空港に戻り、引き続き17:50発TY417便に乗り込むとニューカレドニアで最も人気のある離島と言っても過言ではないイル・デ・パンに向かった。30分程度のフライトで全く何もなかったウベア島の空港よりもずいぶん商業化されているイル・デ・パンの空港に到着すると迎えに来ていたホテル・コジューのバンに乗り、そのわずか30分後にはすでにチェックインを果たしていた。英語が通じるホテルの受付嬢が気を利かせて時間外にも関わらず夕食の予約を勧めてくれたので今夜はホテルのレストランで割とまともな食事にありつけることが出来たのであった。

7月13日(金)

フランス語で松の島という意味を持つIle(島)Des(の)Pins(松)をヨーロッパ人として初めて訪れたのはキャプテン・クックと言われている。おっちょこちょいなキャプテンはこの島に群生している杉の木を松と勘違いしてイル・デ・パンと名付けたというスギちゃんもくっくっと笑いをかみころさなければならないほどのワイルドなエピソードが残っている。ところで、朝食でオーダーしておいたコンチネンタル・ブレックファストは特に「パンいるで!」とも頼んでないのにテーブルにはパンしか並んでなかったのだ。

今回宿泊させていただいた島の西部のワメオ湾のビーチ沿いに立つホテル・コジューで椅子の硬いマウンテンバイクをレンタルすると島を1周する全長40kmの舗装道路を通ってイル・デ・パンの見どころを一通りなぞってみることにした。この島の観光の中心は南部にあるクト湾とカヌメラ湾周辺で、このあたりにホテルや民宿が集まっている。クト湾にはヌメアからのフェリーが着岸する桟橋があり、それを取り巻く海は世界遺産の環礁にふさわしく、底抜けの透明度を誇っていた。

クト湾に隣接するカヌメラ湾はさらに景観が美しく、波に侵食されて空中に浮いているかのように見える小島まではパウダーサンドの細道が続いていた。南半球に位置するニューカレドニアの季節は冬で、この時期の最低気温は15°程度まで下がるために水温が低いので気軽にスノーケリングをする気分にはならないのだが、及び腰の日本人観光客を横目に若いヨーロッパ人はビキニで水面に浮いていたのだった。

岩場の近くは水生生物の格好の隠れ家と見え、カラフルな熱帯魚が元気に泳ぎ回っていた。また、自給自足で海から食材を得ているはずの原住民はルアーを海に放り投げてうまそうなイカを見事に引っ掛けやがったのだ。

クト地区から4km程東に進んだ島の南端にある集落はバオというイル・デ・バンの一番の中心となる村である。最南端のセント・モーリス湾のビーチには最初のカトリック教徒が上陸したという記念碑がうやうやしく建てられている。記念碑の周りをメラネシアの魔除けの木彫りが取り囲み、一種異様な風景に見えるのだが、木彫りの魔除けの表情はどれも個性的で微笑ましいものであった。

バオ村の中心には立派な教会や素朴な青少年を教育する学校もあり、ここで古来からのメラネシア文化とフランス文化が融合され、新たな歴史と伝統を作り上げているのであろう。

過酷なサイクリングによりダメージを受けている股間とケツに鞭打ってバオ村から一気に島の中央まで駆け上がり、そこから島の東部のオロ湾に向かった。島随一の☆☆☆☆☆ホテルであるル・メリディアン・イル・デ・バンを擁するオロ湾にはピッシンヌ・ナチュレルという天然のプールがあり、スノーケリングのメッカになっているのだが、ローシーズンのためか、ひとけがなかったのでそそくさと撤収することにした。

今でこそ「海の宝石」という異名で多くのリゾーターを集めているイル・デ・パンであるが、かつてフランス人たちはこの島を政治犯の流刑地として多くの囚人を集めていた。囚人は主にパリ・コミューン(パリの革命的自治政権)の政治犯で、当時のオルタンス女王の同意により、島の西部は流刑者が、原住民は東部に住むといった取り決めがなされていたのである。そのため、島の西側には流刑地の跡や共同墓地が数多く残っているのである。

夕暮れ時にホテル・コジューに帰還すると丁度サンセットが佳境を迎え、雲と水平線の隙間からわずかに太陽が沈んでゆく姿を拝むことが出来た。6時前に送迎のバンに乗り込むと空港まで移動し、18:50発TY418便を静かに待っていた。結局出発時間はこれといったアナウンスもなく1時間もの遅れを出したため、ヌメアに到着した時間は8時をかなり過ぎた頃であった。

マジェンタ空港から明朗会計で名高いタクシーに乗り、ベスト・ウエスタン・ホテル・ル・パリまで送ってもらうと隣のカフェで高値のサラダを食いながら時間潰しをすることとなった。9時過ぎにあらかじめ予約していたトントゥータ国際空港行きのシャトルバスに乗り込むと1時間弱で空港に到着し、いそいそとチェックインをした後、土産のコーヒーを買ってフライトの時間が来るのを待ちわびていた。

7月14日(土)

00:05発SB700便は定刻通りに出発すると行きの飛行機で会った時には私に韓国語で話かけていた韓流スチュワーデスが、飲み物サービスの時に一瞬躊躇したものの帰りの便ではすべて英語で話すという学習効果を発揮しながら9時間余りを機内で過ごしていた。

定刻の8時前に仁川国際空港に到着し、入国すると列車で金浦国際空港に移動した。12:40発NH1162便は定刻通りに出発し、3時前には羽田空港に到着となった。東京には夢の島があるが、天国とは程遠いと思いながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥10,230、Air Calin = W1,202,500 (W1 = ¥0.07)、Air Caledonie = CFP41,080 (CFP1 = ¥0.83)

総宿泊費 ¥19,025、CFP10,960

総ソウルバス代 W10,000

総ソウル地下鉄・鉄道代 W8,350

総ニューカレドニアバス代 CFP400

総ニューカレドニアタクシー代 CFP1,100

総空港送迎代 CFP9,800

総レンタサイクル代 CFP1,500

協力 ANA、Air Calin, Air Caledonie、Hotels.com、agoda、Caledonia Spirit (http://www.caledoniaspirit.com)

FTBEU経済危機のエーゲ海に捧ぐ魅せられてツアー

♪Wind is browing from the Aegean おんなはうみ~♪

(訳:マサよ、エーゲ海から女々しい不況の風が吹いて来るぜ!)

というわけで、私が中学生として活躍していた1979年にヒットした日伊合作映画「エーゲ海に捧ぐ」と連携キャンペーンを行ったワコールのCMソングとして作られ、ついでにレコード大賞も取ってしまった名曲が流れていた頃のギリシアはエーゲ海に世界中の欲望を集めてマサにキリギリスさながらの生活をエンジョイしていたのだが、その化けの皮もとっくに剥がれて公務員が賄賂を持って暗躍する借金大国と成り下がってしまった。

好きな男の腕の中でも違う男の夢を見ているかのように様々な経済援助を受けているにもかかわらず破綻の足音が大きくなっているギリシアから観光客の足が遠のき、飛行機代もホテル代もバーゲン状態になっているこの機を捉えて中学時代から憧れてやまなかったエーゲ海にジュディ・オングのような羽を広げてついに舞い降りることになったのだ。

2012年6月18日(月)

エーゲ海の風の数倍の威力を持つはずの台風4号の上陸に先立って22:30関空発TK47便に乗り込むと♪南に向いてる窓をあけ♪ることなくブラインドを閉めて♪私の中でお眠りなさい♪という文言を機内で唱えながら意識を失くすことに専念した。

6月19日(火)

11時間以上のフライトで夜もまだ明けぬ午前5時過ぎにイスタンブール国際空港に到着するとトルコ航空のラウンジに直行して日がな一日ここでタダ酒とタダ飯を貪りながらキリギリスのように過ごさせていただいた。トルコ航空運行のイスタンブール‐アテネ間の便は一日3便あるのだが、最終便である19:25発TK1843便に乗り込むと1時間ちょっとのフライトでアテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港に到着したのは午後9時前の時間帯であった。

到着口で空港から市内へのタクシー料金が一律の明朗会計になっているのを確認すると順番を待ってイエローキャブに乗り込み、整備された高速道路を経由してアテネ市内のノボテルホテルに辿り着いた。タクシー料金を払う際にアテネに来て料金があってね~といったトラブルに遭うこともなかったのでチップ込みで40ユーロを与えると運転手は満足した面持ちで引き上げていったのだった。

6月20日(水)

ホテルから徒歩5分のところにアテネの中央駅である鉄道ラリッサ駅が君臨し、それに付属するように存在する地下鉄ラリッサ駅で4ユーロを支払って24時間乗り物に乗り放題のチケットを購入すると車体を下手くそな落書きでコーティングされた地下鉄に乗り込み、アクロポリという駅で下車する運びとなった。この駅の構内には地下鉄工事の際に発掘された土器や墓などが展示されており地下鉄ミュージアムとして観光客の注目を集めていた。

ギリシア古代遺跡のハイライトともいうべきアクロポリス(世界遺産)は「高い丘の上の都市」という意味を体現するかのように自然の要塞とも言える岩山にそびえていた。早速チケット売り場で複数の遺跡に入場出来る共通チケット(12ユーロ)を購入すると炎天下で不貞寝を決め込んでいる猛犬を刺激しないように丘の上に続く階段を登って行った。

今も古典劇などが上演されるイロド・アティコス音楽堂を高みから見下ろすと不景気を物ともせずに多くの観光客で溢れているプロピレア(前門)を通ってアクロポリスの中心部に踏み込んでいった。

ギリシアの象徴と言っても過言ではないパルテノン神殿は紀元前432年に完成したもので、現役当時は神殿内部にアテネの守護神アテナの高さ12mにも及ぶ巨大な像が安置されていた。1687年のヴェネツィア軍の攻撃で大破してしまったのだが、修復作業を継続するために今なお多額の資金が投入されている様子が見て取れたのだった。

エーゲ海から吹く風で栄光のギリシア国旗をはためかせているパルテノン神殿奥の展望台からはアテネの街並みが一望出来、観光客は狭い展望台の中でベストな撮影スポットを確保しようとせめぎ合っているのであった。

紀元前408年に完成したエレクティオンは北側にイオニア式円柱、南側にはカリアティデスと呼ばれる6人の少女像を人柱的に配しているのだが、それらの人柱はすべて複製でオリジナルのうち5体は新アクロポリス博物館に収蔵され、残りの1体は大英博物館に略奪されているのである。

アクロポリスで古代ギリシア建築の真髄に触れると同時に栄枯盛衰のはかなさをかみしめた後、丘を降りてとあるカフェで昼食のパンを噛みしめて体力を回復させるとかつて賢人たちが議論を交わしたと言われている古代アゴラに向かった。

古代においては政治、宗教、文化的施設が集中している場所を意味するアゴラでは男たちが買い物をしたり、政治を論じたりしていたのだが、精神的中心であったアクロポリスに対して、当時の古代アゴラは生活の中心として重要な役目を果たしていた。

ヘファイストス神殿はギリシア国内で最も原形を留めている神殿で、建築時期はパルテノン神殿とほぼ同時期の紀元前450~440年頃のものと言われている。市場があったとされる中央柱廊は長さ約120m、幅約15mにもおよび、ここで物が売買されていたのであった。

巨人とトリトン(半人半魚)の像3体のみが残っているアグリッパの音楽堂を通り過ぎるとギリシア遺跡の中で唯一完全に復元された建造物であるアタロスの柱廊にたどり着いた。ここは古代アゴラ博物館になっており、古代ガッツポーズ像等の古代アゴラで発掘されたもののほとんどがここに収蔵されている。

古代アゴラの隣に広がるローマン・アゴラはローマ時代初期(紀元前1世紀~紀元前2世紀)のアゴラの跡で、かつては市場兼集会場として人があふれていたという。大理石でできた八角形の「風の神の塔」は日時計、水時計、風見の3役をこなしており、塔の8面はそれぞれ東西南北と、北東、南東、南西、北西の方向を指し、壁の上部にはそれぞれの方角の風の神が浮き彫りにされている。

30°をゆうに超える炎天下を長時間遺跡見物に勤しんでいると遺跡のように干からびてしまいそうな乾きを覚え、のぼせるといけないので早々とノボテルホテルに退散し、ギリシア料理をつまみに英気を養っておくことにした。

6月21日(木)

朝日が昇ってるのを横目にノボテルホテルをチェックアウトすると地下鉄を乗り継いでエーゲ海の島々への海の玄関口であるピレウスのフェリー乗り場に向かった。2500以上もの島々が点在するエーゲ海を運行する多くのフェリー会社から人気島への高速フェリーの便を持つHellenic SeawaysのチケットをあらかじめWEBで予約していたので窓口で搭乗券を受け取ると7:30発サントリーニ島行きの大型高速艇Highspeed6に乗り込んだ。

船内の売店で高値で売られているカフェとサンドイッチを召し上がっていると船はいつの間にか出航しており、すべるようにピレウス港内を後にした。広い船内では概ね快適なエーゲ海クルーズを楽しむことが出来たのだが、トイレの洗面所がゲロまみれになっていたり、流してはいけないトイレットペーパーを流してトイレが詰まっているような些細な不具合には目を瞑らざるを得なかった。船は途中イオス島に寄港して速やかに乗客の乗り降りを済ませると正午過ぎにはキクラデス諸島の中でも観光客に絶大な人気を誇るサントリーニ島のアティニオス港に到着した。

船を降りると目の前には断崖の壁が迫っており、その上には雪のように積もった真っ白な家々が町を形成している様子が遠目に見受けられた。港には観光客をサントリーニの中心の町であるフィラまで運ぶ公共のバスが待ち構えていたので早速乗り込むとつづら折りの坂道を駆け上がって20分ほどでバスステーションに到着した。引き続き、この島での宿を取っている北部の町イア行きのバスに乗り、眼下に広がる真っ青なエーゲ海を眺めていると青と白の対照がこの上なく美しいイアの町にたどり着いた。

観光案内所に荷物を預け、シエスタの時間でも営業しているレストランで昼食を済ませると軽くイアの町を歩いてみることにした。まるでメルヘンの世界のような通りにはおしゃれなカフェ、アートショップ、土産物店が所狭しと立ち並び、エーゲ海の絶景を価格に上乗せしているはずのコスメショップにはご当地名物のオリーブを原料にした石鹸が陳列棚を席巻するように配置されていた。

崖には白壁に青屋根の教会や民家が段々に建っており、他の島では見ることの出来ないサントリーニ島独特の景観を形作っている。不況の影響でバカンスシーズンの観光客の出足が悪いとは言え、ここはマサに不景気であることを忘れさせてくれるこの世の楽園だと思われた。

強烈な日差しからエスケープするためにイアのバスステーションでベンツタクシーを捕まえてビーチ沿いに位置するプール付きアパートメント系のエンプロホテルに移動し、チェックインの手続きを行った後、周囲を散策していると閑散とした黒砂のビーチに数人のリゾート客がくつろいでいる光景を目にした。

サントリーニ島のイアに来てかの有名な夕日を見なければサントリーニ島に来た意味がなくなってしまうので太陽が水平線に没する前に再びイアの断崖沿いの町並みに繰り出すことにした。周囲は充分明るいとはいえ、時刻は7時を回っていたのでとりあえず眺望のいいレストランでディナーと洒落込むことにした。シーフードのスパゲッティとイカの中にもち米をギュウギュウに梱包したイカ飯を肴にギリシア語で「伝説」を意味するMithos(ミソス)ビールを飲んでいたのだが、何となく物足りなさを感じていた。ところで、ヨーロッパで最初にワインが作られたのはギリシアであり、中でもサントリーニ島のワインは定評があるのでサントリーのウイスキーを発注する代わりに白ワインを軽飲して夕日見物の雰囲気を高めておいた。

のんきに飯を食っている間に夕日見物スポットはすでにおびただしい数の観光客で埋め尽くされており、ベスト撮影ポジションを確保するのは困難な状況であったのだが、何とか人ごみの中にカメラを潜り込ませると景気動向には左右されることのないすばらしいサンセットの光景を焼き付けることが出来たのであった。

6月22日(金)

エンプロホテルでさわやかなエーゲ海の風に吹かれながらゆったりとした午前の時間を過ごした後、タクシーでイアの町まで移動し、さらにバスに乗ってフィラまで繰り出すことにした。バスステーションから風光明媚な断崖に向かって歩いていると青い空を背景に輝く白亜の大聖堂が迎えてくれたので中でお祈りをすると観光客で賑わっている断崖沿いを散策することにした。

サントリーニ島はキクラデス諸島最南にある火山島で、現在のような三日月形の島になるまでには何回も火山の爆発があったそうだ。火山のクレーターは断崖の上から見下ろすことが出来る海上に浮かんでおり、そのネア・カメニ火山にはツアーボートかクルーズ船でアクセス可能になっている。また崖の上にはクレータービューを標榜するレストランが何軒も軒を連ねている。

崖の下にオールド・ポートという港があり、そこへアクセスする主な交通機関はゴンドラタイプのケーブルカーかロバの背中になっているのだが、なるほど、ケーブルカー乗り場近くのレストランで飯を食っているとロバの交通量の多さを実感することが出来るのだ。

崖の上には多くのブティックやショップも営業しているのだが、崖っぷちホテルはどれも例外なくプール付きとなっており、リゾート客がプールに入浴しながらビールやワイン片手に絶景を眺めるというこの上ない贅沢を味わっている様子が見て取れた。

フィラからバスに乗ってイアに帰り着くと丁度サンセットの光景がクライマックスを迎える頃であった。昨日とはポジショニングを少し変えて見たのだが、オレンジ色の空と崖に張り付くように建っている白い建物群とのコントラストは何度見ても感慨深いものがあった。

6月23日(土)

イア地区のエンプロホテルからタクシーを飛ばして一気にフェリー乗り場に移動した。港の旅行代理店でフェリーの搭乗券を入手し、冷房が完備した待合室でくつろいでいると何隻かの観光船の出航が見受けられた。Hellenic Seawaysが運行するFrying Cat4と命名された高速艇に乗り込み、定刻の正午に出航すると途中のパロス島に立ち寄った後、定刻14:35頃にはミコノス島のオールド・ポートに到着を果たした。港の入口にミコノス島での宿となっているサンアントニオ・サマーランド・ホテルのバンが止まっていたので速やかに乗車すると少し内陸の高台に位置するホテルにチェックインと相成った。

同ホテルでは2時間毎にオールド・ポートまでのバンによる送迎サービスを行っているので頃合を見計らって町に出てみることにした。オールド・ポートから町に向かっていると透明な海とビーチがいやがおおうでもリゾート気分を盛り上げてくれるのだが、不意に昼飯を食っていないことを思い出したので港に面したレストランに入ってシーフードの盛り合わせを発注した。しばらくすると港のレストラン通りで養われているはずの顔芸猫が絶妙な表情でおこぼれを要求してきたのだが、軽くそいつをいなしてエーゲ海の白い宝石との異名をとるミコノス・タウンの迷路に踏み入ることにした。

島のアイドルとしてレストランから鮮魚を分け与えられているペリカンを横目にミコノス・タウンの深部に向かって歩を進めていると土産物屋の前には同性愛者の多い島の雰囲気を表しているかのようなセクシー系の人物像が裸で立ちはだかっていた。

海からの強い風に抗うようにさらに進んでいると白いのっぺりとした建物に遭遇した。これが絵葉書の被写体としてよく使われるパラポルティアニ教会であることを確認すると強風を利用して動力を得ているエコなファシリティが立ち並んでいる広場に到着した。

リトルヴェニスと呼ばれるこの地域は夕日の名所でおしゃれなカフェやレストランが立ち並んでいるのだが、景色の主役である6つの風車は、かつて麦を挽くのに使われていたのだが、今ではミコノス島のシンボルとして静かに観光客を見守っているのだった。

鹿児島県の与論島と姉妹島の契を結んでいるミコノス島であるが、夜は大人の遊園地として不夜城と化すと言われている。ミコノス・タウンに宿を取ると喧騒で眠れないはずなので明るさがまだ残っているうちに高台のホテルに退散してテラスを流れる潮風にあたりながら選挙後のギリシアの離島の世論に考えを巡らせていた。

6月24日(日)

サンアントニオ・サマーランド・ホテルのテラスからニューポートに停泊している大型クルーズ船を見下ろしつつ、いつかはクルーズでやって来るぜ!という闘志を掻き立てながら朝食のコーヒーを掻き回していた。

送迎バンに乗り込むタイミングを逸してしまったので徒歩で港まで歩いて行くと野菜や魚を販売する朝市がほどよい賑わいを見せていた。港の端にある船着場からディロス島行きの船が出ているので往復チケットを購入すると11:00発のツアーボートに乗り込み、しばし洋上で風を受けることにした。

キクラデス諸島は「ディロス島を囲んでいる島々」を意味するように、諸島の中心にあるディロス島は、太陽の神アポロンとその双子で月の女神アルテミスの誕生の地として知られ、古代から信仰も盛んであった。面積にして約4km2の小島であるが、島全体が世界遺産に登録されているほど遺跡の宝庫となっているのだ。

約30分程の航海でディロス島(5ユーロ)に到着すると廃墟にしか見えない小島の中を徘徊することにした。まずはこの島の主であった太陽神アポロンを祀るアポロン神殿を見学させていただいた。ペルシア戦争で勝利を収めたアテネ率いる各ポリス(都市国家)は、戦後ペルシアの次なる攻撃に備えてアテネを中心としたディロス同盟を結成し、ディロス島に本部が置かれた。アポロン神殿は同盟結成とともに建築開始され、紀元前3世紀に完成を見たという。ディロス同盟の金庫もここに置かれ、経済的な潤いを見せていたのだが、この金庫がアテネに移されるとアポロン神殿の建設は一時中断されるという憂き目も経験しているのだ。尚、今残っているのは土台の一部のみとなっている。

ディロス島のシンボルと行っても過言ではないライオン像が海側から聖域を守るように7頭並んでいる。これらは紀元前7世紀のナクソス人からの奉納品であるが、ここで海風にさらされてアザラシ化しているのはレプリカで本物は現在保護のために博物館で余生を送っているのである。

モザイクの残る柱廊や古代体育館をチラ見して枯れた水場にたどり着いた。ここは有名なギリシア神話で女神レトがお産に使ったと言われる「聖なる湖」である。そのときオギャ~と生まれやがったのが、マサに太陽神アポロンと月と狩りの女神アルテミスの双子だったのだ。

炎天下を歩き回り、体力も尽きかけた頃合いを見計らって冷房完備の博物館に入ることにした。館内には当然のことながらディロス遺跡で発掘された数多くの遺品が収蔵されているのだが、展示されているオリジナルのライオン像のアザラシ化の具合は炎天下で頑張っているレプリカと大差はないように感じられた。

13:30発のボートに乗り込むと観光客は灼熱の太陽に生気を奪われたためか、皆ボ~として過ごしており、中には嘔吐をしている輩も見受けられた。確かに船はエーゲ海の強風のために微妙な揺れ方をして気分が悪くなることもないではないのだが、船上から見るミコノス・タウンの景色はマサに白い宝石そのものであった。

マサよ、君はタベルナと言いつつも伝統的なギリシア料理をふるまっているハングリーな食堂を知っているか!?

ということで、ミコノス・タウンに上陸するといい具合に腹も減っていたのでアントニーニというタベルナに入ってトマトをふんだんに使ったミコノス・サラダとオーブンで焼かれた白身魚を食しながらのんびりとシエスタ気分を味わうことにした。尚、TAVERNAとはお腹の空いている客に意地悪をするところではなく、魚介類を中心としたギリシア料理を出す、高級レストランよりも敷居の低い不況フレンドリーな大衆食堂なのである。

腹ごなしにミコノス・タウンの白い迷路をさまよっていると地元住民御用達の店ながら地球の歩き方を掲げて邦人をおびき寄せているオリーブ・オイルというヘルスケアの専門店に遭遇した。店に入ると店主のおばちゃんが先に来店していた中国人団体観光客を差し置いて丁寧な接客をしてくれていたのだが、中国人が起死回生のゴールドカードをちらつかせながら大人買いの装いを見せはじめると私に差し向けられていた試食品のキャンディがあえなく撤収されてしまったのだった。

オリーブ・オイルで適当に油を売った後、南のバスステーションからミコノス島を代表するパラダイス・ビーチに向かった。このビーチはヌーディスト・ビーチとして有名でゲイ・カップル等の同性愛者も御用達にしているという。トロピカーナ・クラブというゲートをくぐってビーチに出るとそこはマサに♪Wind is browing from the Aegean♪のイメージそのままの妖艶な世界が広がっていたのだ。

やさしいひとに抱かれながらも強いおとこにひかれてくような気分を引きずりながらパラダイス・ビーチを後にしてミコノス・タウンに戻ってくると風車と夕日のコラボレーションが一日の終わりを告げようとする一方で涼しくなったミコノス・タウンの賑わいが佳境を迎えようとしていた。多くのショップで目移りしながらウィンドウショッピングを楽しんでいたのだが、どの店もペリカン便で購入品を日本に送ることは出来ないと思ったのでホテルに帰って羽を休めることにした。

6月25日(月)

充分リゾート気分を満喫させていただいたサンアントニオ・サマーランド・ホテルをチェックアウトし、バンでオールドポートまで送っていただくとフェリー出航までのしばしの時間をミコノス・タウンに委ねることにした。ところで、夏はサマーランドの名の通りにリゾート客で賑わうミコノス島であるが、冬場のローシーズンになると店の半分以上が閉まって与論島のような静かないなかの小さな島に変貌するという。不況下で人生の何たるかを考え直したいという輩には絶好の環境を提供することであろう。

オールドポートから大型フェリーや大型クルーズ船が入港するニューポートまでバスで移動すると14:15発Blue Star Ferriesが運行する大型のNAXOS号に乗り込んだ。高速艇ではないのでフェリーの航行速度は遅く、さらにいくつかの島を経由するために5時間半もの時間をかけてピレウス港に到着したのは午後8時前であった。

ピレウスから地下鉄でオモニア広場に移動したのだが、さんざんこのあたりの治安の悪さを刷り込まれていたため、地下鉄駅から200m程度しか離れていないポリス・グランド・ホテルまで脇目も振らずに突進した。☆☆☆☆が光っているこのホテルの最上階のテラスはバー&レストランになっており、南にアクロポリス、東にリカヴィトスの丘の夜景を堪能しながらディナーを楽しむことが出来たのだった。

6月26日(火)

ホテル前の大通りを北に400m程進んだ場所に国立考古学博物館(7ユーロ)が開館していたので、ギリシア彫刻、美術の真髄に触れるために入ってみることにした。ギリシア神話で躍動するオリンポス12神の神々や英雄たちのことを事前に学習しておけばここで過ごす時間もこの上なく有意義なものとなったであろうが、最近の日本でホットな神はAKB48の神セブンなので不動のセンターとしてオリンポス神の最高神として君臨するゼウス(ジュピター)やエーゲ海に捧ぐ美と愛欲の女神であるアフロディテ(ヴィーナス)、油断するとデーモン小暮に見えてしまう戦いの神アテナに注目しながら見学を行った。

展示品は彫刻だけではなく、キュートな土器や黄金仮面、エレクトした銅像等多岐に渡っていたので閉館時間まで博物館に入り浸り、暑さを凌ぐと同時にギリシアの歴史への理解を深めるべく勤めさせていただいた。

ギリシアツアーの最後は神殿で締めたいと思っていたので地下鉄でアテネの心臓部であるシンタグマ広場に移動し、国会議事堂に向かってこれ以上借金を重ねないように睨みをきかせた後、15本の柱がそびえているゼウス神殿に向かった。アドリアノス門のすぐ南にあるゼウス神殿はかつて計104本ものコリント式の柱が並び、それは美しく、威厳ある姿であったという。財政難にあえぐギリシアもひたむきに観光業に励んで借金を返済し、過去の威厳を取り戻してくれるように祈りを捧げながら整備された地下鉄で空港に戻っていった。

泣き叫ぶ猫をバスケットに閉じ込めて空港内を闊歩しているギャルを横目にトルコ航空カウンターでチェックインを果たすと21:50発TK1844便に搭乗し、一旦イスタンブールまで飛んだ後、ほとんど乗り継ぎ時間もないままにTK46便関空行きに乗り換えると定刻00:50には恒例のJTB旅物語のツアー客に取り囲まれてのフライトとなっていた。

6月27日(水)

午後6時頃に関西空港に到着すると2004年のアテネオリンピックの栄光は身の丈にあってね~♪若さによく似た 真昼の蜃気楼♪だったのではないかと訝りながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥115,410

総宿泊費 ¥48,440

総フェリー代 EUR162.5

総地下鉄代 EUR13.8

総バス代 EUR13.4

総タクシー代 EUR93

協力 トルコ航空、Hotels.com、agoda、Hellenic Seaways、Bluestar Ferries

旧ソビエト連邦国モルドヴァとウクライナうかないなツアー

日食メガネがおつとめ品として割引販売されるのを期待してぎりぎりまで購入を控えていたのが裏目に出て金環日食は4重サングラスで観察する体たらくとなってしまった。ともかく世紀の天体ショーを無事見届けることが出来たのだが、前回のブルガリア・ルーマニアツアーのレポートを受けてマサが20世紀末にすでに東欧を訪れていたという事実の発覚は見過ごすことが出来ず、それ以上の実績を求めてさらに内陸のモルドヴァとウクライナに行かなければならなくなったのだ。

5月22日(火)

12:05発NH207便は定刻通りに出発し、午後5時過ぎにミュンヘン国際空港に到着した。空港からSバーンという近郊列車が出ているのでそれに乗ってミュンヘン郊外のMoosachという駅に降り立った。ハイシーズンのこの時期のミュンヘン近郊のホテルはどこも高値が付けられているのでその中でも比較的安めな(といっても\18,000程度)Hotel Meyerhofに投宿して英気を養うことにした。

5月23日(水)

MoosachからSバーンでミュンヘン国際空港に戻るとルーマニアの小さな航空会社であるCarpatairが運行する11:50発の V3 322便、Saab2000プロペラ機に乗り込むと、2時間程のフライトでルーマニア西部の地方都市であり、Carpatairのハブ空港になっているTimisoaraに到着した。引き続きV3 129便、Fokker100ジェット機に搭乗すると1時間程のフライトでモルドヴァの首都キシニヨウに午後5時前に到着した。

かつてソ連の一地域であったモルドヴァへの入国にはビザと「レギストラーツィア」と言われる滞在登録が必要だったのだが、近年西側自由諸国への歩み寄りを強めているせいか日本のパスポートに対してはビザなしで入国できるのだが、入国審査で観光のためにモルドヴァへ来たぜと言っても容易に理解してもらえず滞在先等を細かく訪ねられてしまった。無事に入国を果たし、両替所で手持ちの20ユーロを差し出すと300レイ(Lei)という現地通貨になって返ってきたので思わず一礼して両替所を後にした。

キシニヨウ空港には165番マルシルートカというミニバスが乗り入れていたのでLei3を支払って乗り込むと20分程で町の中心部に到着した。早速Hotels.comに予約させておいた☆☆☆ホテルであるBella Donnaにチェックインする際にどんな妖怪人間ベラが現れるのか戦々恐々としていたのだが、受付に出てきたのは普通のおしゃれなモルドヴァ・ギャルであった。

7時を過ぎてもあたりは暗くならないのでとりあえず軽く町中を散策してみることにした。町の雰囲気は旧ソ連の田舎町という感じであるが、メインストリートのシュテファン・チェル・マレ大通りには当時の威光を思わせる巨大な建造物群が立ち並び、元々寒いお国のせいか、道行くイケメン猫も高級そうな毛皮をまとっていたのであった。

5月24日(木)

九州より少し小さいサイズのモルドヴァは首都のキシニヨウといえども観光資源に乏しく、これといった見所もないのだが、とりあえず情報収集も兼ねて町に繰り出すことにした。列車の時刻を確認するために乗り込んだキシニヨウ駅の前では早朝から質素なフリーマーケットが展開されており、衣類や雑貨はまだしも誰が買うのだろうといぶかってしまうようなガラクタがシートの上に颯爽と広げられていた。青い蒸気機関車が展示されてあるキシニヨウ駅は駅舎正面の造りは重厚であるが、列車の本数が少ないために閑散としている様子であった。

駅を出て大通りを目指していく道すがらの中央市場で原住民が織り成す人間模様を垣間見た後、団地に取り囲まれているマザラキ教会の外観を窺がうことにした。1752年に建立されたこの教会は小さいながらも人々の信仰を集めており、多くの信者が出入りしていたので内部への侵入を憚られてしまった。

シュテファン・チェル・マレ大通りに戻り、マクドナルドで飯を食った際に店内のトイレを使用させていただくためにはレシートに記載されている4桁の暗証番号が必要であることを学び、今後の排便活動のためにはレシートをぞんざいに扱うことは出来ないと肝に銘じた後、大通り沿いの見物に精を出すことにした。ぱっとしない外観のオペラハウスと警備の手薄そうな大統領府の通りを挟んで反対側にシュテファン・チェル・マレ公園が人々の憩いの場所になっているようだったので憩いのおすそ分けにあずかることにした。尚、シュテファンはモルドヴァ建国の父であり、公園の入口には御仁の記念碑も建っているのだ。

キシニヨウ観光のハイライトは勝利の門の裏側の公園に鎮座するキシニヨウ大聖堂であろう。また、向かいの市庁舎にはためく国旗はルーマニアの旗にモルドヴァの国章を配したものでこの国はロシアよりもむしろルーマニアの影響を受けていることを容易に伺い知ることが出来るのだ。

5月25日(金)

早朝ホテルBella Donnaをチェックアウトすると修復が進んでいる聖ティロン大聖堂のネギ坊主を横目にキシニヨウ駅へと急いだ。7:22発ウクライナのオデッサ行き国際列車は古い車両に木造のシートが設えられており、5時間もの長時間にわたって硬い椅子とケツの筋肉の格闘が繰り返されることとなるのだった。

途中駅に到着した車内でモルドヴァの出国とウクライナへの入国がつつがなく果たされると列車は国際列車から国内列車に成り下がってしまった。ウクライナの入国の手続きをした駅ではどこで手に入れたのか大ジョッキのビールを手にした無頼の輩が乗り込んで来て私の前の席に腰掛けやがった。奴は最初は隣のおばちゃんにやたらと話しかけており、おばちゃんも体よくあしらっていたのだが、それでも飽き足らずついには私が読んでいた本にまで手を掛けてきた。本の内容が奴の興味に合致しないことを思い知ると程なくして黒海沿岸の港町オデッサに到着した。

1年を通して太陽に恵まれ温暖な気候で知られるオデッサであるが、この日は風も強く気温も低かったため、歯の根が合わないほど震えながら港を目指して歩いて行った。キシニヨウより数倍大きく洗練された感のあるオデッサの並木道の街路樹は異様な程高く大きく、巨大な柱や屋根となって道路を覆っているかのようだった。

港に近づくにつれて豪華な博物館の建物が増え始め、それらの前段を飾る彫刻の手足も複雑に絡み合っていた。町行く女性は例外なくウクライナ美人の遺伝子を受け継いでおり、1995年~1996年頃に富山県のパナソニック砺波の半導体工場で長時間ミーティングの憂き目に遭い、飛行機の最終便に乗れなかったときに入った高岡の飲み屋に出稼ぎに来ているウクライナギャルと比べても決して遜色のないものであった。当時はソ連崩壊後ウクライナが独立して間もない情勢が不安定な時期であったにもかかわらず、日本語をまったく理解しないウクライナホステスはその美貌だけで接客をやり遂げるという離れ業を演じていたのだった。

オデッサ最大の観光名所としてポチョムキンの階段が港へと続いている。この階段はソビエト映画史上最高と言われる、エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」(1925年)の舞台となった場所である。何でも1905年の第一次ロシア革命の最中に起こったポチョムキン号の水兵蜂起事件が映画化されたものであり、このオデッサの階段のシーンは目を覆うほど残酷極まりないものであるそうだ。

強風吹きすさぶオデッサ港のターミナルにはCOSTA MEDITERRANEAという豪華客船が停泊していたのだが、ここから黒海を縦断してイスタンブール、はたまたギリシャに抜ける国際フェリーも運航されているのだ。

ポチョムキンの階段の脇に電話ボックスを長くしたようなちゃちなケーブルカーが安値で運行されていたのだが、それに乗らずに階段を駆け上がってエカテリーナII世像が見下ろす広場に到着した。「黒海の真珠」との異名をとる港町オデッサであるが、現在の形に整えたのはエカテリーナII世で、彼女はサンクト・ペテルブルグを建設したピョートル大帝にならい、「黒海に向かって開かれたロシアの窓」として町を築いたのだ。

エカテリーナII世像のふもとで予約しておいたOdessa Apartments On Ekateriniskaya Streetのスタッフを電話で呼びつけると車で迎えに来たので場所が分かりにくいアパートの小部屋に何とかしけこむことに成功した。今日は寒かったのでとあるステーキ屋で肉を食らってとっとと休ませていただくことにした。

5月26日(土)

今日は朝からオデッサ本来のこの時期の温暖な気候を取り戻していたので気持ち良く散策に繰り出すことにした。ウィーンの建築家によって設計され、1884年~1887年にかけて建てられたオペラ・バレエ劇場の周辺では何がしかの婚礼の儀式が行われており、豪華な建物の外観に彩りを添えていた。

博物館が林立する広場ではEURO2012のサッカー系のイベントが行われており、リフティング青少年集団やパッとしないゆるキャラが格好の被写体として広場の主役に躍り出ていた。

巨大なカテドラル前の公園では派手な色の鞍を付けられた馬がいたいけな少女の乗馬を心待ちにしているように辛抱強く待機しており、オデッサののどかな休日の一シーンとなっていた。

横浜と姉妹都市という契りを結んでいるオデッサには「横浜」や「神戸」といった日本食のレストランも数多いのだが、私という奇人を輩出した日本では番付の高い港町であるはずの「門司」という名を冠した店がないことに憤りを覚えながらもさらに港の風情を満喫していた。

鷹や孔雀を記念写真の道具として操っている商売人を横目にプリモールスキー並木道を歩いているとのど自慢系のアコーディオンを弾いているおっさんの伴奏に合わせて民謡を歌っている美人合唱団の歌声にしばし聞き惚れていた。

夕刻になると歩行者天国のデリバスィフスカ通りに面するゴールサト公園のステージで簡易オーケストラによるコンサートが開催され、衝動を押さえきれない老若男女はリズムに合わせてついついダンスに興じながらオデッサは夕闇に包まれていくのであった。

夕暮れ時にオデッサ駅に移動し、チケット売り場で移動手段兼宿泊施設であるキエフ行きの夜行列車のチケットを所望したのだが、何とすべて売り切れということで思わず「キエ~!」という奇声を発しそうになった。仕方なく駅に近いビジネスホテル風の☆☆☆☆ホテルであるBlack Sea Hotelに飛び込むと一番安い部屋で日本円で¥5000程度の505グリブナ(rpH)ということだったので迷わずチェックインすることにした。

気を取り直してオデッサ駅に舞い戻り、明日の8:40発のキエフ行きの列車のチケットを買おうとしたのだが、これもすべて売り切れということでキエ入りそうな声で「そ~ですか~」と言って退散するしかなかったのであった。

5月27日(日)

列車のチケットの購入に失敗し、バックアップとして夕方発のキエフ行きの飛行機を押さえていたのでウクライナに来て浮かないな~という重石を背負った雰囲気を引きずりながら時間潰し観光を余儀なくされた。

町中では何らかのビューティコンテストが行われており、リムジンで乗りつけたウエディング系の衣装を身にまとった美女達が次々にレッドカーペットを歩きながら自己満足に浸っていた。

オデッサには外壁を彫刻で飾ったアール・ヌーヴォー建築がたくさんあり、見る者を飽きさせない町造りがなされているのだが、一方で緑濃き公園内では少年の心身を鍛えるフィールドアスレチック系のファシリティも充実しており、子供達はレンジャーさながらのアクティビティに興じているのだった。

思いがけず長居してしまったオデッサを後にすべくバスで空港に移動し、18:20発ウクライナ国際航空とのコードシェア便であるAEPO CIBITが運行するVV18便に乗り込んだ。1時間程のフライトでウクライナの首都であるキエフのボリスビル空港に到着すると空港バスでキエフ駅に向かった。さらに地下鉄に乗り換えてドニエプル川の中州の島に位置するビドロパルク駅に到着したのは明るさがまだ残る午後9時過ぎくらいの時間であったろうか?

遊興地帯とお見受けするビドロパルク駅周辺は週末の喧騒さめやらず、ディスコティックなサウンドが高らかに鳴り響き、多くの人々が遅くまで飲み食いに興じていた。パルクというだけあり、島の大部分は緑溢れる公園で島の南部から宿泊予定のホテルのある対岸に渡ることが出来ると高をくくっていたのだが、鬱蒼とした森林地帯を犬に吼えられながら歩き回っても島と対岸を結ぶ橋を見つけることが出来ず、1時間程むなしく島内を彷徨って結局ビドロパルク駅に戻ってくる失態を演じてしまった。不本意ながら地下鉄で橋を渡り、駅に降りて30分程歩くとついに予約しておいた☆☆☆ホテル・スラヴィティッチに到着したのは午後11時近くになってしまい、浮かない気分を引きずったままチェックインとなったのだった。

5月28日(月)

早朝旧ソ連時代に建設されたはずの大型ホテルであるスラヴィティッチの8階の部屋から周囲を見渡すと対岸に立ちはだかる像や塔の様子が朝靄越しに見て取れた。ホテルを出て地下鉄駅に向かう道すがらのドニエプル川沿いを歩いていると静かな水面に美しい緑の景色が写し出されていた。

地下鉄1号線に乗ってキエフの市街地である対岸に渡り、アルセリナという駅で降りて南に向かって歩いていると戦没者慰霊碑の向こうに数多くの修道院系の金色の屋根が姿を見せ始めた。

ドニエブル川沿いの深い緑の中に広がる、東スラヴで最も長い歴史を持つ修道院はペチェールスカ大修道院(rpH50、写撮rpH100、世界遺産)でロシア正教文化の源泉であり、ロシア正教ウクライナ支部の総本山となっている聖地である。巨大な壁画を横目に入口の門をくぐったのだが、門の中には聖三位一体教会が内蔵されており、その先には工事中の大鐘楼と豪華絢爛なウスペンスキー大聖堂が光り輝いていた。

広い敷地内には通路も多く、修道院南側の地下洞窟にある地下墓地を目指したのだが、門が閉ざされていたので北側の教会や博物館が集まっているエリアを中心に散策することにした。19世紀後半に建てられた比較的新しい教会であるトラペスナ教会の内部では天井画の下の祭壇の前で信者が参集し、何らかの礼拝が行われていた。

展示場となっているいくつかの小部屋の中にはこの修道院にまつわるはずの金の装飾品や司祭グッズが写撮代を支払った者のみ撮影出来る特典つきで丁重に展示されているのであった。

大修道院内のほとんどの教会が18世紀にウクライナ・バロック様式で立て直されているのに対して、三位一体教会のみが12世紀の姿を留めているとのことなので内部にまで足を踏み入れてみることにした。内部の造りは狭いものの、壁を埋め尽くすフレスコ画と木製のイコノスタースは圧倒的な迫力を醸し出していた。

北側の門の中に造られた教会はウスィフスヴィヤツカ教会で、階段を上って中に入ると中央ドームからキリストに見下される内装が施されていた。

ペチェールスカ大修道院でキエフ住民のキリスト教への帰依具合の確認が取れたところでドニエプル川沿いの大通りを北に向かって歩いてみることにした。風光明媚な川には多くの橋が架かっており、船着場には大きな遊覧船が停泊している様子も見受けられた。

マサよ、君は原発事故後の放射能漏れ対策としてロシアの伝統民芸品のテクノロジーの応用を検討したことがあるか!?

というわけで、ソ連時代の1986年にレベル7の原発事故を起こしたチェルノブイリに乗り込むには特別なツアーの手配が必要であるのだが、キエフ市内にはチェルノブイリ博物館が開館し、原発事故の悲劇を後世に伝えようとしているので見学を試みることにした。しかし、この博物館は日曜日と毎月最終月曜が休館日ということだったので、事故後に石棺によって封じ込めた放射能が30年近くの時を経てコンクリートの経年劣化により漏れ出す恐れに対応すべく、新たな石棺をマトリョーシカ状に何層も覆いかぶせるアイディアを館長と議論するには至らなかったのだ。

低地の川沿いから山の手にあるウラジーミルの丘に手軽なケーブルカーで移動すると目の前に鮮やかな青で彩色された聖ミハイル修道院が姿を現した。1713年にウクライナ、バロック様式で建てられたこの聖堂は付属の鐘楼とともにソ連時代の1936年に破壊されてしまったのだが、1997年から1998年に修復されて今に至っているのである。

丘の上で瞑想をしながらも勧誘のチラシを配っているヨガ軍団をかわして、裏の方からは地味にしか見えないウラジーミル聖公像の背中で哀愁を感じることにした。ウラジーミル公は遊牧民との戦いに勝利し、対外的にも有力となったキエフ・ルーシの統制を強めるために988年にギリシア正教を国教に定めた偉人として崇められているのだ。

聖ミハイル修道院を背景に広場に立つポフダン・フメリニツキーというおっさん扮するコサックの英雄像を通り過ぎて、1037年に建てられた現存するキエフ最古の教会であるソフィア大聖堂(rpH50、世界遺産)までやってきた。現在の姿は17世紀後半にウクライナ・バロック様式で再建されたものだが、写真撮影禁止の内装は11世紀のものが残されている。壁面は豪華なフレスコ画とモザイクで埋め尽くされているのだが、とりわけ中央および祭壇上のドームを占めている巨大なモザイクのキリストと聖母マリアの迫力に圧倒されることになる。

エレガントな装飾が眩しいアンドレイ教会がキエフで一番チャーミングといわれているアンドレイ坂の頂上にそびえている。この教会はロシアの女帝エカテリーナII世のキエフ来訪を記念して1749年から建設が始められたもので、設計はエルミタージュ宮殿など多くのバロック建築を手がけたイタリア人ラストゥレリによるものである。そのためアンドレイ坂の周辺ではサンクトペテルブルグの雰囲気をそこはかとなく感じることが出来るのだ。

キエフの歴史が凝縮されたウラジーミル通りを下っていると村神と名乗る日本食系居酒屋チェーン店とその配達車に遭遇した。その先にはオペラ・バレエ劇場がウクライナの文化の中心であるかのように鎮座しており、往時のキエフの正面玄関であった黄金の門が彩を添えている。

聖人ウラジーミルにちなんだファシリティのハイライトであるかのように1882年に完成した比較的新しいウラジーミル聖堂が黄色光りしていたので中に入り、アール・ヌーヴォーのフレスコ画に見入っていたのだが、写真撮影にはrpH50もの大金の支払いを求められるので心のフィルムにその光景を刻み付けるに留めておいた。

1834年にウクライナで2番目に開校されたキエフ大学があたかも血塗られたかのような色で彩色されているのだが、これはロシアのニコライI世が徴兵拒否運動を起こした学生たちへの罰としてニコリともせずに建物を血の色で塗りつぶすよう命令した嫌がらせの名残となっているといわれている。

キエフで一番にぎやかなフレシチャーティク大通りは月曜日なのに歩行者天国になっており、何がしかのイベントの前触れであるかのように生ビールのサーバーが道路脇のテントに続々と運び込まれていた。多くの噴水を湛えたネザレージュノスティ(独立)広場にそびえ立つ長身のオブジェの麓ではイベントの設営が粛々と行われていたのだが、近々ウクライナとポーランドで開催されるEURO2012のサッカーイベントにまつわるものではないかと推測された。

5月29日(火)

早朝ホテル・スラヴィティッチをチェックアウトすると徒歩と地下鉄でキエフ駅に向かった。キエフ駅から空港バスでボリスビル空港に移動すると11:10発ウクライナ国際航空が運行するPS401便に搭乗し、午後1時頃にはフランクフルト国際空港に到着した。引き続き20:45発NH210に乗り換え、帰国の途についた。

5月30日(水)

定刻15:00に成田空港に到着し、最後のキエフで何とか浮かばれた実感を胸に流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥60,790、Carpatair = EUR214.48、ウクライナ航空 = $419.4

総宿泊費 Lei1,317、rpH1,080.17、¥26,357

総ドイツ鉄道代 EUR20

総モルドヴァバス代 Lei3 (Lei1 = ¥6.7)

総モルドヴァ鉄道代 Lei106

総ウクライナバス代 rpH52.5 (rpH1 = ¥10)

総キエフ地下鉄代 rpH10

総キエフケーブルカー代 rpH1.5

協力 ANA、Carpatair、ウクライナ航空、Hotels.com

バラ咲くブルガリアとルーマニアドラキュラツアー

前回のエチオピアツアーで患ったお腹のグルグル感が未だに解消されていないので腸内の調整が必要であると考えた時にふと善玉菌の存在が脳内をよぎってしまった。善玉菌は主に明治ブルガリアヨーグルトに含まれているそうなので世界に冠たるヨーグルト立国であるはずのブルガリア方面へのツアーが企画され、即座に実行に移されることになったのだ。

2012年5月2日(水)

東欧へのアクセスが便利なイスタンブールをハブ空港とするトルコ航空TK51便は到着機材の遅れのため1時間成田からの出発が遅れてしまったものの無事に20:00発TK1029便に乗り継ぐことが出来、ブルガリアの首都ソフィア・ヴラジデブナ国際空港に夜の10時頃到着した。空港バスに乗り込み、30分程走って到着した先はどうやらソフィア大学の近くだったのだが、この大学の日本名が上智大学であるのかどうかは知る由も無かった。

ともかく予約している宿を目指して歩き始めたのだが、暗闇からブルガリア出身力士の琴欧洲のような大関が現れていきなり寄り切られてはたまらないので周囲への警戒を怠らなかった。多少人通りのある町中にはアルファベットではなくロシア語のようなキリル文字が溢れていたので多少不安感を感じていたものの日付が変わる前に何とかagodaに予約させておいたMaxim Boutique Hotelにしけ込むことに成功した。

5月3日(木)

ブルガリアのホテルに居ながらにして朝食にヨーグルトが供されない状況に納得出来ないままソフィアの町中に出てみると道行く女性の何人かはソフィア・ローレンやソフィー・マルソーのようなソフィスティケートされたレディだったのでとりあえず腹の虫を抑えることは出来たのだ。

ソフィア市街の南西にあるオフチャ・クベル・バスターミナルまで辿り着くと10:20発のバスに乗って人里離れた深い山々に囲まれたブルガリア最大の見所に向かった。3時間もの時間をかけて到着した目的地はブルガリア正教の総本山ともいうべきリラの僧院(世界遺産)で壁の向こうにはこの世のものとは思えない別世界が広がっていた。

リラの僧院はもともと10世紀に建立されたのだが、現在の形になったのは14世紀でその後ブルガリアは約500年間にわたってオスマン朝の支配下に入ることになった。その間はキリスト教の信仰はもちろんのこと、ブルガリア語の書物を読むことも制限されていたのだが、この僧院だけはそれらが黙認されていたという。

僧院の中心には4階建ての外陣に囲まれて建っている聖母誕生教会が君臨している。白と黒の横縞模様が眩しいアーチをくぐると外壁の壁面と天井に隙間無く描かれたフレスコ画に圧倒されることになる。写真撮影厳禁の内部にはイコノタスという幅が10mもある立派な壁が立ちはだかり、その壁面には精緻な彫刻が施され、さらに金箔で彩られている豪華版であった。

リラの僧院は1833年の大火で古い建物はほとんど焼け、その後復旧された代物であるが、聖母誕生教会の横に寄り添っているフレリョの塔は消失を免れ、14世紀に建てられた当時のままの姿で残っている。尚、塔の1階の土産物屋は14世紀の竣工当時から商売を営んでいたのかどうかは定かではなかった。

リラの僧院を退院して、来た時と同じバスに乗り込み、ソフィア市街に帰り着いたのは午後6時くらいの時間帯であった。トランヴァイに乗って町の中心部に戻ると東西の文化が混在した独特な雰囲気の町並みを眺めながら歩いていた。

バルカン半島で最も美しいといわれる教会であるアレクサンダル・ネフスキー寺院が威厳のあるたたずまいで12の黄金のドームを光らせていたので収容人員5000人を誇る内部に入ってみることにした。この寺院はブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争(1877年~1878年)で戦死した約20万人のロシア人兵士を慰霊する目的で建てられたもので一番豪華な中央の祭壇はロシアに捧げられているのだ。

アレクサンダル・ネフシキー寺院とは対照的な質素な教会がひっそりと佇んでいる。ソフィアという町の名はブルガリアの栄枯盛衰を見守ってきたこの聖ソフィア教会に由来するもので、ソフィアはギリシア語で「知恵」を意味するという。尚、その中で最上級のものを自画自賛する上智がどういった位置づけにあるのかは四谷に行かないと分からないであろう。

5月4日(金)

早朝よりソフィア中心部の教会・遺跡巡りに精を出すことにした。ソフィアに現存する最古の教会は4世紀にローマ帝国によって建てられた聖ゲオルギ教会で高級ホテルのシェラトンや博物館の建物に守られるようにしてかろうじてその威厳を保っているようだった。

地下に目を移すと旧共産党本部での地下鉄工事の際に偶然発見された古代の城塞都市セルディカの遺跡がひっそりと眠っている。石造りのブルガリア正教の教会である聖ネデリャ教会は朝の出勤前の淑女がロウソクを捧げ、内部はおびただしい数の灯されたロウソクで壁に描かれたイコンを照らし出している。

1566年にオスマン朝最高の建築家といわれるミマール・スィナンによって設計されたイスラム寺院はバーニャ・バシ・ジャーミヤである。トルコ語で「風呂」を意味するバーニャの名の通り、このモスクの裏の公園には飲用の温泉が湧き出ており、ペットボトルで汲みに来ている善良な市民の姿も見受けられた。

ブルガリアくんだりまで来てヨーグルトに関する成果が上がっていないことを遺憾に思ったので、ヨーグルトほど知られていないが、実は世界市場の7割を占めるバラの香料の産地であるブルガリア中部のバラの谷へのツアーを強行することにした。ソフィア中央駅隣の中央バスターミナルから10:30発のバスに乗り、3時間以上かけてカザンラクというバラの谷の中心地までやって来た。

早速セヴトポリス広場の近くにあるインフォメーションで地図を入手すると町の中心から少し離れた場所に位置するバラ博物館を見学することにした。館内にはバラをばらばらにして絞る機械や香油のサンプルが展示されており、バラの香油が非常に貴重な産物であることが容易に理解出来る展示内容になっていた。

見学の途中からバラの香油にはリラックス効果はあるが痩身効果が無いことを体現しているおばちゃんガイドが登場し、英語での解説が加えられた。琴欧洲より横幅の広いおばちゃんの言うことにはバラの花が咲くのは5月中旬からで今はまだ時期尚早でやはり「バラ祭り」の開催される6月の最初の週がベストであるとのことであった。館内にはバラ祭りや歴代バラの女王の写真も展示されているのだが、バラの精油を1kg得るためには3000kgものバラを琴欧洲より強い握力で絞らなくてはならないので必然的に逞しくなるのはいたしかたないと思われた。

バラの満開の時期にはまだ早すぎたものの、バラ博物館を擁する研究所の敷地内のビニールハウスにて数種類のバラが試験栽培されていたので水やりをしているおっさんの許可を得て中に入ってみることにした。尚、先ほどのおばちゃんガイドの説明を思い返すとブルガリアで栽培される芳香用のバラは通常見かける観賞用のバラよりも小ぶりだが香りが強いということだったのだが、ハウスで咲いているバラエティに富んだ数種類のバラもそのような特性を持ったものであった。

結局カザンラクでの滞在は2時間程度だったのだが、バラの香水や石鹸等を入手して意気揚々と午後4時発のソフィア行きのバスに乗り込んだ。7時過ぎに若干治安の怪しそうな雰囲気を漂わせているソフィア駅で夜行列車の切符を購入すると移動手段兼宿泊施設となるモスクワ行きの寝台車に乗り込んだ。

ソフィアからブカレストまでの乗車券+寝台車の料金はわずか61レヴァ(日本円で¥3000程度)と大変お得でしかも空いていたので4つのベッドがあるコンパートメントを占拠してくつろいでいると隣のコンパートメントに居住しているおばちゃん車掌からシーツとタオルを差し入れていただいた。そそくさとベッドメーキングを済ませると列車は定刻午後8時半に出発となった。

5月5日(土)

早朝3時過ぎにルーマニアとの国境駅であるルセに到着し、車内でパスポートに出国のスタンプを押してもらうと次の駅であるCIURGIUでは乗り込んできた制服姿のおっさんにパスポートを預けてルーマニア入国の手続きをしていただいた。

列車は30分程遅れたが、午前7時前にはルーマニアの首都であるブカレストの北駅に到着した。車のキーを見せながら忍び寄る怪しい白タクの運転手の勧誘をかわして駅構内のマクドナルドで朝飯を食うことにした。すでに駅のATMでルーマニアの通貨であるレイ(RON)を引き出していたのでカウンターでエッグマックマフィンとコーヒーを発注したのだが、店員はハッシュポテト付きのお得なメニューであるセットがRON10なのにそれを薦めることなく、単品の合計でRON11.6を請求する気の利かなさを見せていた。

ブカレストの北約170kmの位置に中世の町並みを残した美しい古都が血の気の多い観光客を待ち構えているので8:25発のインターシティの列車に乗ってブラショフという町までやって来た。早速駅から数キロ離れた中心街まで進出するとカフェやレストランが立ち並ぶ歩行者天国には中世のいでたちをした警備兵が練り歩き、中央公園では新郎新婦系の男女がマサに写真に撮られようとしているところだった。

ブラショフの南西26kmの所にとあるオカルト系の城が不気味にそびえ建っているという話を聞いていたのでバスに乗って近寄ってみることにした。バスで40分程走ると田舎町の中ににわかに日本では水谷豊のデビュー作として知られるバンパイアやドラキュラの看板が目に付くようになってきた。

吸血鬼ドラキュラの居城のモデルとして知られるブラン城(RON25)は岩山の上にそびえる典型的な中世の城砦である。この城は1377年にドイツ商人がワラキア平原から入ってくるオスマン朝の兵士をいち早く発見するために築いたものであるが、14世紀末にはワラキア公ヴラドI世がここを居城とした。ヴラドI世の孫がドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュで、奴はオスマン朝軍の兵士を杭で串刺しにして並べた残虐さを持つことから串刺し公との異名をとっている。尚、ツェペシュはルーマニア語で串刺しを意味するという。

何はともあれ、にんにくや十字架等のアンチドラキュラグッズも持たずに入城させていただいたのだが、城内はいたって普通の中世の居住空間で最上階の展示室に取って付けたようなドラキュラに関する説明パネルが展示されていたのだった。

ブラン城の入口付近は一大土産物屋地帯となっており、長身のバンパイアが客寄せしている店先にはドラキュラ人面マグカップ等のミーハー土産だけでなく、本格的なチーズも展示販売されていた。

ドラキュラに遭遇したショックでぶらんと首をうなだれながらブラン城を後にしてブラショフの中心街に戻ってきた。スファトゥルイ広場は相変わらず多くの人々の憩いの場所になっており、広場を見下ろす高さ65mの黒の教会はトランシルヴァニア地方最大の後期ゴシック様式の教会である。14世紀後半から15世紀初頭まで、約80年の歳月をかけて建設されたこの教会の名前の由来は、1689年にハプスブルグ軍の攻撃に遭い外壁が黒こげになってしまったことからきているとのことであった。

5月6日(日)

早朝ブラショフを後にすると7:30発ブダペスト行きの列車に乗り、さらに128km走ってルーマニアの中心に位置する歴史都市シギショアラに到着した。一見するとしなびた雰囲気を湛えているシギショアラ駅を出て白壁にドーム状の正教会を見上げながら歴史地区を目指した。

14世紀に建てられた時計塔を中心とした旧市街は、中世の雰囲気を色濃く残しており、世界文化遺産にも登録されているのだが、旧市街は高台にあるため、階段を登っていくにつれてその時計塔の威容が徐々に迫ってくるのであった。

とりあえずATM番犬を刺激しないようにいくらかの現金を出金すると歴史地区を一回りしてみることにした。カラフルな建物が多い旧市街には新旧の教会が混在しており、建物の業態のほとんどはレストラン、土産物屋、宿泊施設といった観光系のファシリティに特化していた。また、旧市街の南側には古びた屋根付き木造階段が山上教会まで続いており、最上段には素朴なギター弾きがこれ見よがしの小銭入れと化したギターケースを空けて観光客を待ち受けていた。

マサよ、君はドラキュラは夜は生き血を吸っているが、昼間に吸っているものは何であるのか、その現場を押さえたことがあるか!?

というわけで、シギショアラの出身者で最もよく知られている人物はブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったヴラド・ツェペシュで彼の生家は今なおレストランとして繁盛しているのでここでブランチをすることにした。この店のプロモーション役として現役のドラキュラがテラス席で客寄せに励んでいるのだが、どうも思ったほどの集客の成果が上がっていないようであった。夜は処女の生き血を求めて彷徨うドラキュラであるが、手持ち無沙汰の昼間の時間はタバコを吸って気を紛らわせているというドラキュラファンを幻滅に導く愚行が多くの観光客の眼前で行われていたのだった。

シギショアラのシンボルである時計塔(RON10)は展望台兼歴史博物館になっているので登ってみることにした。博物館の展示品は中世の備品や医療機器等珍しい物もいくつか見られたのだが、時計を動かす仕掛けやそれにまつわる怪しい人形類がゆるキャラのような役割を演じているようだった。

塔の展望台から周囲を見渡すとこの町はヨーロッパでよく見られる茶色い屋根の建物で埋め尽くされており、それを取り囲むように広がる緑の大地と非常にマッチしていることがよくわかるのだ。

地上に降りて再び歴史地区の内外を散策してみたのだが、日曜日ということもあり、町の各所にあるバーはどこも盛況で皆中世の雰囲気に包まれながら酒を酌み交わして歓談していたのだった。

agodaに予約させておいた旧市街の中心の広場に面したカサ・ワグナーという19世紀に建てられた家を改装したアンティークなホテルにすでにチェックインしていたのだが、夕飯は義理でこのホテルのレストランでご馳走になることにした。ルーマニア料理として有名なチョルバ・デ・ブイというチキンスープとサルマーレというロールキャベツと付け合せにママリガというトウモロコシの粉を蒸したものをいただいたのだが、値段が安いので非常にコストパフォーマンスが高かったのだ。

日が暮れると旧市街に灯がともり、見事なライトアップの景観を現出させることになる。待ちに待ったドラキュラのゴールデンタイムが始まるのかと戦々恐々としていたのだが、ここのドラキュラは民間人と同じライフサイクルのためかすでに撤収されているご様子だったのだ。

5月7日(月)

9:09発の列車に乗って294kmもの距離を5時間程度の時間をかけて午後2時過ぎにブカレスト北駅に戻ってきた。駅構内のマクドナルドでビッグマックセットを食った後、独裁者チャウシェスクにより造られた近代的な町の散策に出ることにした。尚、世界史的な観点であればチャウシェスクがルーマニアを支配した独裁者になるのだが、日本人に取ってはビート・たけしをスターダムに押し上げた伝説のギャグである「コマネチ」が最も馴染み深いルーマニアの産物であると言っても過言ではないであろう。

ブカレストの大通り沿いでは旧共産党の遺物であるはずの巨大なビルが廃墟になりかけている光景を目にするのだが、全般的に巨大な建造物群が目に留まる。近代的な建築物を横目に歩いているともはや遺跡としか表現できない旧王宮跡が姿を現した。

応急処置によりかろうじて往時の面影を残している旧王宮跡(RON3)は吸血鬼ドラキュラのモデルのヴラド・ツェペシュ公が15世紀に築いた砦の跡である。内部はおよそ近代美術館への変貌を遂げようとしているかのように奇抜な絵画や彫刻が寄せ集められていた。

1989年12月の革命の舞台となった革命広場は共和国宮殿(国立美術館)アテネ音楽堂、旧共産党本部、クレツレスク教会等に取り囲まれており、その中心に血を流して自由を手に入れた犠牲者のために建てられた慰霊碑が天を指している。尚、1989年12月22日に故チャウシェスク大統領は共産党本部のテラスで大群衆を前に最後の演説をぶちかまし、その直後にヘリコプターでばっくれやがったのだ。

旧共産党員のアパートが立ち並ぶエリアにかろうじてナディア・コマネチの痕跡を見つけたのだが、それは診療所のようなファシリティとお見受けした。14歳で参加したモントリオール・オリンピックの体操で10点満点を連発した白い妖精コマネチであったが、その後は共産党独裁政権に翻弄され、チャウシェスクの次男の愛人になることを要請されたのだが、夜の床運動で金を取る自信まではなかったせいか、ついにはアメリカに亡命してしまったのだ。

故チャウシェスク大統領の野望の集大成とも言うべき未完の宮殿「国民の館」が夕日を背に巨大なシルエットを浮かび上がらせていたので遠巻きに眺めることにした。日本円にして1500億円を投じて造らせたというこの館は地上8階、地下5階、核シェルター内蔵の豪華版で、世界の官庁、宮殿などの建物の中では、米国防省のペンタゴンに次ぐ規模を誇っているのだ。マサにとてつもない財力が投入されていたわけであるが、その陰で善良な国民は飢餓を強いられていたのだった。

5月8日(火)

早朝6時過ぎにホテルをチェックアウトすると近くのバス停から空港行きの783番バスに乗り込み、1時間程でアンリ・コアンダ国際空港に到着した。10:15発TK1044便はやや遅れて出発したもののお昼過ぎにはイスタンブール国際空港に着陸した。引き続き16:55発TK50便に搭乗すると恒例のJTB旅物語トルコ8日間のツアー客に包囲されてのフライトとなった。

5月9日(水)

午前11時前に成田空港に到着し、こわばっていた体をほぐすために四肢で平行四辺形を型どる運動をしながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥116,890

総宿泊費 RON315.92、¥11,915 (RON1 = ¥24)

総ブルガリア鉄道代 Lv61 (Lv1 = ¥54)

総ブルガリアバス代 Lv55

総ブルガリアトランヴァイ代 Lv1

総ルーマニア鉄道代 RON150.7

総ルーマニアバス代 RON8.6

協力 トルコ航空、agoda