FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 礼文島

♪僕の先生は~、フィ~バ~♪

というわけで、小学校学園物の先駆けとなった熱中時代の水谷豊扮する北野広大は礼文島出身であるという設定であったのだが、2年前はその礼文島の隣に浮かぶ利尻島へは何とか上陸を果たし(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2008rishiri.html)、しかも利尻富士の頂上まで制して来たにもかかわらず、礼文島に行く時間が取れなかったために北野広大への仁義を欠いてしまったことが大きな心残りとなってしまっていた。今回私の心の中の忘れ物を取りに行くために忙しいこの時期を選んでわざわざ礼文島を目指すこととなったのだ。

2010年7月3日(土)

将来はマサの財力を利用してANAの筆頭株主に成り上がるという野望を持っている私はANAの株主優待券を利用してマサであれば\43,000かかるところを¥21,550の支払いで羽田発稚内行きのチケットを入手し、しかもプレミアムクラスへのアップグレードまで果たし、B767機の1-Kという筆頭席に陣取り、意気揚揚と日本最北端を目指した。ANA573便は午後2時過ぎに稚内空港に到着すると早速空港バスでフェリーターミナルへ向かった。

北海道の離島航海を取り仕切るハートランドフェリーが運航する午後3時25分発礼文島行きのフェリーの2等席に乗り込むと甲板で潮風にあたりながら約2時間の航海がスタートした。あいにくの曇り空で利尻島にそびえる利尻富士の雄姿は拝めなったものの穏やかな海上の快適な航海で午後5時20分に香深港に着岸した。

「お帰りなさい礼文島へ」の看板に迎えられるとおびただしい数の老老男女で構成されるエースJTBの団体旅行客やFTB御一行様はついに海抜ゼロメートルから高山植物が咲き誇る花の島への上陸を果たしたのだった。多数の観光バスをチャーターしやがっているエースJTBを尻目にFTBは宗谷バスが運航する路線バスで島の北部の船泊に向かった。

楽天トラベルに予約させておいたホテル礼文荘が提供する「ドーンと大きなボタン海老 北春丸さんありがとう」プランにより早速宿に到着後に夕食の時間となった。北春丸が釣り上げてきたはずのボタン海老の優雅なフォルムに見とれてデジカメのボタンが押せなかったために豪華な夕食はマサの想像にまかせるしかないのだが、食卓はウニやホタテや毛ガニの半身等豪華な海の幸で彩られており、宿泊客は皆、毛ガニの毛が指先に刺さらないように注意しながら黙々と身をほじっていたのだった。

7月4日(日)

早朝より日本最北の湖である久種湖と久種湖畔キャンプ場を軽く散策しているとテントからアルファベットを喋っている声が聞こえてきた。なるほど日本のこんな僻地にも律儀にテントを担いでキャンプにいらっしゃるアメリカ人がいるのかと感心させられた。尚、アメリカ人がいるからといって13日の金曜日にジェイソンが斧を持って襲いに来るような雰囲気のあるキャンプ場ではないことは確かであった。

8時半過ぎの路線バスで利尻礼文サロベツ国立公園が誇る最北端のスコトン岬に向かった。最北限のトイレで用を足すこともなく、スコトン岬からストンと落ちている低地に佇んでいる民宿を尻目に最北端ではなく最北限の地点から目の前のトド島を見渡していた。

トド島はその名の通りトドがとどまることが出来る無人島でゴマフアザラシも見られることもあるそうだ。また、とどめを刺されたトドはトド肉の缶詰として昆布ソフトとともに最北限の土産物屋のエースとして君臨しているのだ。

約300種の高山植物が咲き乱れ、「花の浮島」の異名をとる礼文島には数多くのトレッキングコースが整備されている。ねづっちのなぞかけが整う前に私のフィジカルを整える必要があったので礼文島で最も過酷な8時間コースに参戦することにした。最北のスコトン岬をスタートし、猫が寝込んでいる様子を横目に西海岸に沿って南に向かって歩いていた。

整備されたトレッキング道ではエースJTBの観光客を乗せた観光バスと何度もすれ違い排気ガスを出さないエコなFTBとの格差の違いを見せつけてやったのだが、トド島展望台という高台に到着した時には、トド島は手のとどかない遠くに逃げてしまっていた。

トド島の景色に別れを告げるとトレッキング道はバスの通るアスファルト道から野山を切り開いた土道に変わっていた。険しい崖に囲まれたゴロタ岬から見下ろす海はこれがホッケの泳ぐ海とは思えないほど透明度が高く、サンゴ礁が生えていれば沖縄の海に匹敵するほど美しいものであると思われた。

澄海岬から透明度の高い海で漁をしている小舟を見下ろし、いくつかの明るい漁村を通り過ぎると道はいつしか林に変化していた。ホッケの海とホッケキョのさえずりが響く林のコントラストの中でホテル礼文荘で用意していただいたおにぎり昼飯を食いながら体力の回復に努めたのだが、携帯していた500mlの飲料水をすでに飲みきってしまっていた。

林の中から水の流れる音がしたので川の上面をすくって喉の渇きを抑えたものの過酷なトレッキングはさらに続き、岩場にロープ伝いで降りなければならない難所にも遭遇した。薄曇りの空はいつしか晴れ上がり容赦なくトレッカーの体力を奪っていった。山をついに降りきるとそこに待っていたのはゴツゴツとした岩が転がる沿岸部の難所であった。

すでに5時間以上歩いているにもかかわらず、抜群のボディバランスで岩場を切り抜けると宇遠内というコンパクトな漁村に到着し、日陰と水分を求めて休憩所に転がり込んだ。早速アクエリアスで喉を潤そうとしたのだが、1000円札しか持っていなかったので休憩所を取り仕切るおばちゃんがぎりぎりでお釣りを用意する状況になってしまった。すでにビールとおつまみでいい気分になっていた先客の夫婦が土産物として売られている干しワカメや昆布を買う際に1000円札を出したのだが、こいつに釣銭を払ったので小銭がなくなったぜとプレッシャーをかけられ、罪の意識に駆られた私は図らずも300円の干し海苔を買わずにはいられなくなってしまっていたのだ。

北の離島の僻地で商売の真髄を目の当たりにした休憩所を後にすると残っている力を振り絞って最後の峠に立ち向かっていった。通常8時間設定の場合のコースであれば5時間程度でゴール出来るはずであるのだが、このコースはマサに山あり、谷あり、海あり、岩あり、商売ありだったのでまるまる7時間程度もかかってしまった。東海岸の香深井からフェリー港のある香深までさらに1時間かけて歩き、命からがら5時40分のフェリーに乗り込むとエースJTB観光客と一緒に雲に隠れて見えない利尻島の幻影を眺めながら稚内に帰って行った。

マサよ、君は日本最北端の地で松坂大輔が町興しのために担がれている実態を垣間見たことがあるか!?

ということで、稚内市内では何故かわからないが、おびただしい数の露天が出店し、浴衣を着たギャル等が闊歩しており、お祭り気分満載の様子であった。さらにおじいちゃんが稚内に住んでいるという理由だけで松坂大輔が稚内のヒーローに祭り上げられ、松坂大輔スタジアムに貴重品を献上させられている様子が確認された。同じ敷地内に港のゆ(¥700)という天然温泉が開店していたので寒冷地のためお湯がなかなか沸っかないはずの稚内では貴重なファシリティだと思われたので入って見ることにした。泉質は単純ナトリウム泉ということだったが、何故か昆布ローションのようなとろみが加えられているので美肌効果も期待出来るはずである。

温泉でトレッキングの疲労を癒すことに成功したので稚内駅前バスターミナルから運行している札幌行き都市間バスに午後11時に乗り込むとリクライニングの倒しすぎで後部座席の乗客からクレームをつけられながら、札幌駅を目指していた。

7月5日(月)

午前5時半に札幌駅前に到着し、そのままバスを乗り換えて新千歳空港へと向かった。午前7時30分発ANA050便にてプレミアムクラスへのアップグレードを果たし、1-Aという筆頭席で快適に過ごさせていただいた。午前9時半に羽田に到着し、筋肉痛が運動の翌日に発生したことに感謝しながら裏の仕事へ・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ¥21,550

総バス代 ¥8,920

総フェリー代 ¥4,600

総宿泊費 ¥11,000

協力 

ANA、楽天トラベル、宗谷バス、ハートランドフェリー

FTBJ比叡山 with しがない滋賀ツアー

真言密教の総本山である高野山での修行を終え(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2010koyasan.html)人間として一回り大きくなった私であるが、メジャーな空海と比較して最澄が地味な印象しか与えないのは比叡山延暦寺のブランドを打ち消してしまうほどの滋賀県民のしがない県民性のせいだという疑念を拭いさることが出来なかった。今回そのしがなさを体感するためにあえて滋賀に足を踏み入れることにしたのだ。

6月12日(土)

裏の仕事の関係で大阪城公園に付属するホテルニューオータニ大阪に宿泊していたので早朝より大阪城を散策して覚醒することにした。姫路城、熊本城と共に日本三名城のひとつに数えられている大阪城で豊臣秀吉の魂を吸収していると大阪城ラジオ体操会のメンバーがすでに撤収し、スタンプも押してもらえないため、仕方なくひとりで♪うでを~前から上にあげて、お~きく背伸びのうんど~~♪から始めるしかなかったのだ。

素人ギャル系B級タレントを起用しているはずの「おけいはん」をメインキャラクターに据えている京阪電鉄で京都の三条に参上すると見せかけて一気に終点の出町柳まで来てしまった。出町柳で出待ちをしている人ごみを掻き分けながら叡山電鉄の改札をくぐり、ワンマンカーに乗り込むと14分で八瀬比叡山口に到着した。

京都市内から出町柳・八瀬経由で比叡山に行く場合には叡山ケーブル・叡山口ロープウエイが通例となっているのでまずはケーブルカーに乗車することにした。総延長1.3km、標高差は日本一の561mを誇る叡山ケーブルは大正14年創業で乗客が思わず「ひぇ~!」と叫んでしまうほどの急こう配を9分かけてロープウエイ乗り場まで引っ張り上げてくれるのだ。

ロープウエイ比叡駅には開運厄除の大義名分の下、観光客が待ち時間を利用して「かわらけ」という円盤を投げて運試しが出来るアクティビティが設定されており、油断なく観光客から金を巻き上げるシステムが確立されていた。叡山ロープウエイで3分間宙づりにされた後、標高840mの比叡山頂に到着し、眼下に広がる琵琶湖の遠景を眺めた後、ついに比叡山の散策が開始されることとなった。

世界文化遺産比叡山延暦寺(¥550)は東塔、西塔、横川から形成されており、それらの拠点を結ぶ比叡山内シャトルバス(¥800)が運行されているので、早速バスに乗り、東塔に向かった。そもそも1200年前に伝教大師最澄が日本の国の安泰と国民の幸せを祈って開いた比叡山の教えとは「個々が思いやりの心をもって一隅を照らす人になる」すなわち、一人ひとりが相手の立場に立って考え、自分の出来ることを精一杯行うことが、周りが良くなっていくことにつながるという、すべての財務官僚が肝に銘じておかなければならないありがたいものである。

この教えに触発されるかのように東塔の境内には錚々たる企業の後援による祖師御行績絵看板という絵物語が数多く立ち並んでいる。ところで比叡山は織田信長と対立し、1571年に焼討ちにあっているのだが、織田信長の末裔である織田信成と自称織田信長の末裔兼生臭坊主である織田無道(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%84%A1%E9%81%93)は生まれながらにして比叡山出入禁止という特権を持っているはずであろう。

信長の焼討ちから400年ぶりに再建され、塔の朱と自然の緑が溶け合っている法華総持院東塔の隣に1937年に比叡山開創1150年大法要を記念して建立された阿弥陀堂に阿弥陀如来がまつられているのでソチ・オリンピックでは織田信成の靴ひもを切らないように祈った後、立て続けに戒壇院と大講堂を見学させていただいた。

総合案内所兼無料休憩所となっている一隅を照らす会館に比叡山宗教サミットの案内が掲げられ、キリスト教、イスラム教等の宗派を超えた催し物が大々的に喧伝されているのだが、高校野球ファンにとってはアルプススタンドに陣取った僧侶の読経を起点に得点を重ねた実績を持つ比叡山高校とPL学園、天理高校等との甲子園での宗教対決の方がより興味をそそるのではないかと思われた。また、延暦寺会館で開店している喫茶「れいほう」では宗教法人に対する優遇税制が事業仕分けの対象にならないように日夜議論が交わされているはずである。

延暦寺の総本堂であり国宝に指定されている根本中堂は内部の写真撮影厳禁であるものの、御本尊秘仏薬師如来をまつる宝前に1200年間守り継がれた「不滅の法灯」が光り輝いており、圧倒的に荘厳な雰囲気が醸しだされていた。さらに比叡山にまつわる宝物を管理・保管するために開設された国宝殿(¥450)には焼討ちの難を逃れた薬師如来坐像や不動明王像等が織田信成の4回転ジャンプにプレッシャーを与えるかのように睨みを利かせていた。

延暦寺の諸堂は16:30に閉堂になるため、西塔と横川への参拝は断念するかわりにシャトルバス運賃の元を取るために比叡山ドライブウエイを横川まで往復してお茶を濁しておいた。延暦寺バスセンターから京都方面に京阪バスが運行されているので路線バスに乗り込むと三条で下車して祇園方面に向かって歩いていた。八坂神社をチラ見して祇園で舞妓さんを探していると迷子になりそうになったので観光は外人に任せておいて撤収することにした。

6月13日(日)

私の大阪地区での定宿になっているANAクラウンプラザ大阪の近くに学門をすすめるかのように福澤諭吉生誕地の碑が陸の王者のごとく存在感を示していたので日本銀行が発行した福澤諭吉の肖像画が私の財布に大量発生すると同時にもしマサがここにお参りに来なければマサに振り込まれるはずの1万円が私の口座に自動振替されるように祈っておいた。

ところでマサよ、私が京セラという会社を仕切ってブイブイ言わせていたときに京都の伏見区に住んでいたのだが、その地区の水道水は琵琶湖の疎水(http://agua.jpn.org/biwacanal/top.html)から取水されており、非常にまずかったことがトラウマになっている。そこで今回の滋賀ツアーの機会を利用してそのまずさの謎を解明するために再び滋賀に向かうことにした。

京都と大津を結ぶ京阪京津線で大津港の最寄駅となっている浜大津駅で下車し、レイクサイドアミューズメント浜大津アーカスに向かった。しがない滋賀を活性化するためか、ここではコスプレイヤーが大集合するという催し物が行われており、ギャルに扮装した中年おじさんや道頓堀川から復活したはずのカーネルサンダースが幅を利かせていやがった。

缶ジュースも仮面サイダーのコスプレを施している大津駅を後にしてJR琵琶湖線で温泉街ではない草津で下車した。草津駅西口から近江鉄道バスに乗車すると25分程で烏丸半島に張り出している滋賀県立琵琶湖博物館(¥750)に到着した。館内のレストランでは口蹄疫に感染していないはずの近江牛にちなんだメニューが目白押しだったのでとりあえず近江牛コロッケバーガーを食してみることにした。コロッケはその90数パーセントはじゃがいもやパン粉から形成されているのだが、わずか数パーセントの含有量で近江牛の価値を認識させるところが近江牛たる所以であることを思い知らされたのだった。

琵琶湖博物館の最大の見所は広大な琵琶湖に生息する数多くの魚を拉致して繁殖させた水族館であり、大阪天保山の海遊館、沖縄の美ら海水族館に勝るとも劣らない水族企画展示によりコンスタントな集客力を誇っているのだ。展示室に入るとまず上空を魚たちが飛び泳ぐトンネル水槽で琵琶湖内部を魚瞰的に眺めることが出来、さらにVIP水槽で飼育されている琵琶湖の主、ビワコオオナマズに挨拶をするという段取りになっている。

さらに本チャンの琵琶湖では外来魚であるブラックバスの餌になっているであろう浜崎系のアユやビワマスもここでは我が物顔で泳いでおり、水生昆虫の王者タガメや特別天然記念物のオオサンショウウオもそのユニークな風貌で存在感を示したいた。

湖の環境と人びとのくらしという展示室では昭和30年代から始まった水利用の変化、またそれにともなう人びとの暮らし方、生活感の変化により琵琶湖が汚染され、さらには生態系が変化していった様子を学習し、琵琶湖水系の水のまずさの原因を思い知らされた。さらに水道が生活の中に入ってくる以前の農村の暮らしが移築された伝統家屋により再現されており、水の有効利用や排泄物が肥えだめに直結する古代和式便所等の効率的なエコシステムの重要性を再認識させられた。尚、家屋内には星一徹の力で簡単にひっくり返すことが出来るちゃぶ台もセットアップされているのだが、飛雄馬が父ちゃんに口ごたえしないので伝家の宝刀が抜けないというジレンマに陥ってしまっているようだった。

マサよ、君は恐竜のウンチの化石が語るうんちくにより、琵琶湖の歴史とおいたちが如実に語られているという事実に愕然としたことがあるか!?

というわけで、琵琶湖のおいたちという展示室でおよそ2億5千万年前からの自然環境の変遷をマンモスの骨とともに学習することにした。鼻で吸引する動物が好きなはずの酒井法子であれば、思わず「マンモス うれピー!」と叫んでしまう程、古代象の化石コレクションが充実しているこのエリアで特筆すべきことはマンモスも滋賀県で発掘されるとシガゾウというしがない象に成り下がってしまう衝撃的な事実だったのだった!!

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥800

総ケーブルカー・ロープウエイ代 ¥840

総バス代 ¥2,200

総鉄道代 ¥3,320

協力 ANA、ANAホテルズ、京阪電鉄

FTBJ龍馬と行く脱藩ツアー in 高知

NHK大河ドラマ「龍馬伝」に便乗し、龍馬ゆかりの各地域では龍馬にちなんだ長期イベントが行われている。龍馬発祥の地高知県においても土佐・龍馬であい博が2010年1月16日から2011年1月10日まで開催されている。おびただしい数の観光客を集めたであろうゴールデン・ウィークも過ぎ、観光地が落ち着いた頃を見計らって脱藩のテクノロジーを伝授させていただくためにとっさに土佐を訪問しなければならなくなったのだ。

5月15日(土)

土佐藩主であるにもかかわらず、空港のネーミングライツを得られなかった山内容堂の動揺を反映させたかのようにANA1601便ボンバルディア機は激しく高知龍馬空港に午前8時前にタッチダウンした。早速ニッポンレンタカーでホンダのフィットをレンタルすると愛媛県との県境に近い山間部に向かってひた走った。

津野町の風車の駅で山頂に立ち並ぶ風車群にクリーンエネルギーの真髄を見た後、これぞ日本の典型的な田舎の風景を思わせる清らかな川と段々畑を見渡していくうちに段々と脱藩の機運が高まっていったぜよ。

龍馬脱藩ゆかりの地の津野山街道のとある道の駅で脱藩前の腹ごしらえをすることにしたのだが、食い物屋で一串百円の巨大こんにゃくを食っているとみょうがが入っちゅうスーパー味噌汁が無料で振る舞われたので何と気前がいいことかと思われたき。

近くに天狗のオブジェをあしらった巨大すべり台が設置されていたので大人気もなくすべることにしたのだが、摩擦係数ミューが高すぎたために私の下半身に風力発電に匹敵するはずの静電気を発生させてしまい、早くも脱藩の火花を散らすこととなってしまったぜよ。

5年前にシマンテックを脱藩した怨念のためか、最近期限切れ間近のノートン・インターネット・セキュリティを自動更新させ、更新料をクレジットカードから勝手に引き落とすぜ!という強迫メールを何度も受け取る羽目に陥ってしまっていた。その邪悪な怨念を清めるためにシマンテック発祥の地であってほしい四万十川の源流に行かなければならなくなっていた。

カリフォルニア州クパチーノを源とするSymantec Corporation本社を彷彿とさせる四万十川の源流までには山道に設置されているご丁寧な道案内の看板を辿って行けるのだが、源流点と定義されている地点のさらに上流からも水が昏々と流れ出ているため、ガンブラーさえ検出出来ない、いい加減な定義ではないかと懸念されもした。しかしながら、高知県知事であらせられた橋本大二郎氏により建立された四万十川源流の碑は改竄されることなく、その地に君臨していたのでとりあえず信じてやることにした。

いち早く土佐藩を抜け出し、坂本龍馬に脱藩を勧めた吉村虎太郎の銅像からどうぞ~脱藩して下さいとのインスピレーションを受けた後、土佐龍馬であい博のサテライト会場になっている梼原(ゆすはら)維新の道社中(¥200)に立ち寄ることにしたき。脱藩の道中では脱糞も付きものだと思われたのでまずは厠に行くことにした。腸内をすっきりさせた後、手抜うどんの看板に引き寄せらるようにうどんをすするとその勢いを駆って天守閣に攻め入ることにしたのだが、そこで待っていたものは維新の門であった。

津野山郷が輩出した六志士に龍馬、沢村惣之丞を加えた8人のダイナミックで躍動感あるれる銅像の製作費は8,500万と記されており、時代が時代であったなら、蓮舫による事業仕分けの餌食になっていたのではないかと懸念されもした。

いよいよ脱藩のクライマックスである土佐と伊予の国境に位置する韮ヶ峠に来てしまった。案内役の那須信吾はここで引き返したのだが、坂本龍馬と沢村惣之丞は「我ら再び生きて故国土洲の土を踏まず!!」という捨て台詞を吐いて土佐藩士から日本人へと変わっていったのだった。

脱藩のノウハウを身に付けることに成功したので山中から下界に降りて高知黒潮ホテルにチェックインし、地下1300mから汲み上げられている天然温泉龍馬の湯に浸かりながらちっくと販売本数ナンバー1のウイルスバスターに乗り換えられないかと画策していたのだった。

5月16日(日)

高知黒潮ホテルを出て、土佐湾沿岸を南東に走ると青い空と海に癒される室戸岬に到着した。ここに立ちはだかちゅうは龍馬と並ぶ幕末のヒーローで陸援隊隊長であらせられる中岡慎太郎像であった。慎太郎が見下ろす室戸岬は奇岩が立ち並ぶダイナミックな風景を展開しており、弘法大師が灌頂の会式をした浜で今なおその清さをたたえている灌頂ヶ浜にはタービダイト層によって形成された奇岩や珍しい地質の宝庫となっちゅうき。

あこうという木の根にからめとられそうな恐怖を覚えたので、高台にある四国霊場第24番札所である最御先寺をスルーして室戸岬灯台まで這い上がってきた。ここにおわす白亜の灯台は明治32年の建立以来、100年余り太平洋を航行する船の安全を見守り続けて来ちゅうろう。

室戸岬から土佐湾沿いの道を引き返し、阪神タイガースのキャンプ地としてテントを貸してやっているはずの安芸市に志を求めてやって来た。田舎道を車で転がしていると不意に「やったろう!」という気概に包まれた気がしたと思ったら三菱グループの創始者である岩崎弥太郎の生家に紛れ込んでいた。幼いころから志を胸に秘めていた弥太郎は庭石を日本列島の形に並べてその身分の低い劣等感を克服しようとしていた様子がこの実家には今もありありと残っているのだった。

土佐龍馬であい博のサテライト会場になっている安芸・岩崎弥太郎こころざし社中(¥200)を訪問し、私のメインバンクになっている三菱東京UFJ銀行の預金金利が上がることを祈念した後、とある公園に立ちふさがっている俳優香川照之にそっくりな大男の銅像に龍馬伝の視聴率の回復を約束し、川に向かって柏手を打っているとたむろしている鯉が勝手に集まってきたのでそそくさと退散することにした。

高知市内に戻り土佐龍馬であい博のメイン会場となっている高知・龍馬ろまん社中(¥500)に侵入した。これまで調査してきた各会場に展示されている龍馬伝出演者のサインの盗まれ状況から龍馬ブームの福山雅(マサ!)治に対する依存度を再確認し、雨上がり決死隊の宮迫が切腹して「アメトーーク」に専念しても視聴率には影響しないことを思い知らされたのだった。

マサよ、君は坂本龍馬生誕地が福山雅治の侵略を逃れている唯一の聖地になっている事実を知っているか!?

というわけで、これまで数多くの幕末および坂本龍馬ゆかりの地を見て回って来たわけであるが、どの観光地もNHKの受信料未払い分の損失を埋めるかのように龍馬伝の広報的な役割を果たすために福山雅治のポスターが起用されていた。今回のツアーのクライマックスに坂本龍馬誕生地に立ち寄り、ついに福山雅治の幻影を振り払うに至ったわけである。

龍馬生誕地のすぐ近くに高知市立龍馬の生まれたまち記念館が開館していた。チケット売り場にJAFのマークが見えたのでマサであれば¥300かかるところを私は¥270の支払で入館することに成功した。展示コーナーの入口で龍馬少年が「まっことよう来たねえ ゆっくり見とうせ」と迎えてくれたので龍馬を育んだ人と町、家族、坂本家の離れをイメージした空間等を心おきなくゆっくり見とうすことが出来、まっことここは癒し系の記念館である実態が確認されたので納得して帰路に着くことにしたぜよ。

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥7,000

総レンタカー代 ¥12,180

総ガソリン代 ¥3,044

協力 

ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、JAF

FTBサハラ入口ハラハラツアー in チュニジア

バンクーバーを根城とした真央の時代が終わりを告げると同時に上海では真夜の時代の幕開けとなった。♪涙の数だけ強くな♪ってきた岡本真夜は盗作されてしまった自らの楽曲を何の迷いもなく上海万博のテーマソングとして献上したという度量の広さを見せつけ、さらに一躍ダウンロード数を伸ばすという快挙さえ成し遂げている。FTBもそのままのFTBでいるべく♪も~と 自由に も~と素直♪なハングリー精神を取り戻すために乾いた大地を目指すことにしたのだ。

2010年4月29日(木)

ボンジュール マサよ!サバ(鯖)!!

というわけで、アイスランド火山の噴火の影響による欠航から見事な復活を果たしたNH205便で午後5時前に久しぶりのパリ・シャルルドゴール空港に到着すると引き続き午後9時5分発エアーフランスAF1784便にてバレーボールワールドカップ男子の1試合目で日本と対戦させられて弱い日本に勢いをつけさせるという重要な役目を担ってきたチュニジアに向かった。チュニス・カルタゴ国際空港に到着したのは午後11時前だったのでそそくさとタクシーに乗り込み、本日の宿泊先である中級ホテルDu Parcにしけ込んでダウンした。

4月30日(金)

立地条件のよくない町外れにあるホテルDu Parcから徒歩でチュニス中心部を目指した。長い間フランスの支配下におかれていた影響か、何となくヨーロッパを軽くとっちらかしたような印象を受けるチュニス市街にはメトロと呼ばれる路面電車が縦横無尽に走り、黄色いタクシーが♪ア~クセル 踏み込んで~ ろ~めんでんしゃ~ お~いこした~♪光景が展開され、また大聖堂から続く目抜き通りであるハビブ・ブルギバ通りにはおしゃれなカフェ等が軒を連ねていた。

TGMと呼ばれる郊外電車がハビブ・ブルギバ通りの東端のチュニス・マリン駅からカルタゴ方面に向かって走っているのでユネスコ世界文化遺産に指定されているカルタゴ遺跡を見学するために足を延ばすことにした。約30分程電車に揺られ、カルタゴ地区の中心駅であるカルタージュ・ハンニバル駅で下車するとビュルサの丘まで這い上がることにした。1890年にフランスによって建立された威圧感のあるサン・ルイ教会背後のチケット売り場でカルタゴ地区遺跡の共通券(TND8.000、撮影料=TND1.000)を購入すると古代カルタゴの中心だったビュルサの丘に侵入した。

ビュルサの丘はローマによって滅ぼされたフェニキア人によるカルタゴ市の中心があった丘であり、さらにその後のローマ人による支配下でも中心的な役割を果たした場所でもある。ちなみに「ビュルサ」という名の由来はフェニキアの王女エリッサが、この地に都市を建設しようとした際、底意地の悪い現地人が牛の皮(ビュルサ)1枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言いやがった。エリッサはそっちがその気なら、こっちにも考えがあるぜということで、その皮を切り裂き細長いひもを作り、そのひもで土地を囲い広い領土を獲得するという一休さんもたじたじのとんちを使って快挙を成し遂げたのだが、今となってはポエニ人住居の廃墟が痛々しく広がっているだけである。

ビュルサの丘の頂上に君臨するカルタゴ博物館にポエニ時代とローマ時代の出土品から当時の様子を偲ぶために入って見ることにした。ここには周辺地域から出土されたローマのモザイクや神々の像、ポエニ時代の地中海交易品、生活用品、墓の埋葬品等が展示されている。カルタゴは度重なるローマとの戦いでついには敗北し、陥落してしまうのだが、そのときのローマ軍による町の破壊ぶりは徹底したもので、廃墟に塩を撒いて人も住めず作物も出来ないようにしたというマサに傷口に塩を塗るような非人道的な仕打ちが行われたのだった。

ビュルサの丘を下り、15分ほど歩くとローマ時代の闘技場で当時は3万6000人もの観衆を収容出来たと言われている円形闘技場に到着した。かつては円柱で支えられたアーチの上にさらにアーチが重ねられ、様々な彫刻が施されていた素晴らしい円形闘技場であったそうだが、数世紀にわたって石材が持ち出された結果、今では円形脱毛症のような悲惨な姿をさらしているに過ぎないのだ。育毛剤の必要性を感じながら、円形闘技場を後にして辿り着いた場所はローマ劇場であった。最盛期には1万人を収容したというこの劇場は育毛が行き届いているかのようにしっかり修復され、毎年7~8月に開催されるカルタゴ国際フェスティバルの会場として演劇、映画やコンサートも行われているのだ。

ローマ時代当時の暮らしぶりが想像できるローマ人の住居に入居させていただいた。しっかりと区画整理がされた住宅地の一部は修復が行き届いており、「ヴォリエールの別荘」と呼ばれる屋敷の跡には列柱回廊と中庭、出土した彫刻、碁盤の目状に構成されている4世紀初頭の床モザイクが残っている。ダイワハウチュを仕切っている役所広司であれば、この場所に役所のように大きいダンスホールを建設し、バレリーナを引退した草刈民代と全裸でシャール ウィ ダンスを楽しんでいたことであったろう。

ローマ人の住居で全裸になった妄想に駆られた勢いでアントニヌスの共同浴場に入浴することとなってしまった。ここは海を背景に建てられた広大な公共浴場で、2世紀にローマ五賢帝のひとり、アントニヌス・ピウスにより建設された健康ランドである。当時、建物は2階建てで、更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、談話室、トイレ等、健康ランドに必要なファシリティは一通り揃っていたと言われている。さらに、壁にはフレスコ画、柱には彫刻、床には色鮮やかなモザイクが敷き詰められ、非常に贅沢な作りだった名残がかすかに残されているのだ。

灼熱の健康ランドでひと汗かいた後、火照った体を冷やすためにトフェというポエニ人の墓地にお参りした。当時カルタゴには幼児を殺害して神に捧げるといういけにえの習慣があったと伝えられており、敷地内には小さな墓が無造作に並び、実際にここからは炭化した幼児の骨が入った骨壺が発見されているのだ。

海洋博物館(TND2.000)という名のチープな水族館で狭い水槽でストレスのたまっているはずの魚に神経を逆なでされた感覚を癒すために今ではただの池のようにしか見えない古代カルタゴの港を遠巻きに眺めることにした。かつてここには古代カルタゴの繁栄を支えた商業港と軍港がインテグレーションされており、周囲には倉庫街と砂岩の岸壁が巡らされ、最先端のセキュリティ体制が取られていたそうである。

マサよ、君はチュニジアで最も美しいチュニジアンブルーと真っ白な壁が映える町を地中海からのさわやかな風を受けながら闊歩したことがあるか!?

というわけで、TGMでさらに数駅北東に進出し、シディ・ブ・サイド駅で下車した。南地中海に面した岬の丘の上に敷かれた石畳の坂道を歩くと白い壁に青い窓枠や扉がインストールされた建物が次々と姿を現した。この色使いはシディ・ブ・サイドの基本カラーになっており、景観を損ねないように多くのペンキ職人により定期的なメンテナンスが行われている様子が見て取れた。

「街並み保存区域」に指定されているシディ・ブ・サイドの建物の窓際はジャスミンやハイビスカスの花で彩られ、多くの土産物屋やカフェに群がる観光客で大変な賑わいを見せていた。地中海を見下ろす高台を占拠するカフェ・レストランには青いパラソルが広がり、眼下のヨットハーバーやビーチが彩りを添えていた。

TGMでチュニス市街に戻り、ハビブ・ブルギバ通りのカフェでビールを流しこんだ後、チュニス鉄道駅から交通手段兼宿泊設備の列車の一等席に陣取り、指定席の番号が明確でないため、席の奪い合いに発展した車掌も解決することが出来ない立ち回りを見物しながら乾いた南部へと向かって行った。

5月1日(土)

列車はかつて「ローマン・アフリカの果て」と呼ばれていた、アルジェリアとの国境に近い大オアシスであるトズールに午前5時12分に到着する予定であった。時刻は5時半を回り、とある駅で大量の乗客が下車したので寝ぼけ眼で私も釣られるように列車を降りてしまった。駅のトイレに入っているタイミングで汽笛が鳴り、列車が走りすぎて行った後に駅名を確認するとそこにはMETLAOUI(メトラウイ)と書かれている驚愕の事実を目の当たりにし、一気に目が覚めてしまった。

メトラウイで朝日を浴び、ハラハラしながら道をさまよっているとさびれたバスターミナルに到着したのでそこで原住民の行動を観察していた。人はそこそこ集まっていたのだが、午前6時台にはバスはあまり来なかったので、乗合タクシー風のワゴン車であるルアージュの運転手にトズール行きかどうかを確認し、首尾よく乗車を果たすと1時間程度でチュニジア南部観光の玄関口であるトズールのバスステーションに到着することに成功した。

トズールで一番にぎわうエリアはハビブ・ブルギバ通りでそこには観光客目当ての土産物屋が軒を連ねているのだが、時間の経過とともに灼熱の太陽がその本領を発揮しはじめたので広大なナツメヤシのオアシスに身を隠すことにした。砂漠を目の前に控えた1000ヘクタールという広大なオアシスには20万本ものナツメヤシと果樹や野菜が植えられており、ナツメヤシの実であるデイツはトズールの特産品になっているのだ。

夏目漱石を思い出させるような「吾輩は猫である」ということをアピールする多数の野良猫が徘徊するナツメヤシのオアシスから「門」をくぐって脱出し、それからバスセンターに戻るとタメルザ行きのルアージュを探した。とある古びたバンの後部座席にイスラム服に身を包んだおばちゃんが佇んでおり、「ボンジュール」と挨拶を交してきたのでこの車はタメルザ行きか聞いたところ、そうだと答えたので乗り込んで出発を待つことにした。数十分経過後、ほどなく人が集まってきたので誰が運転するのだろうと様子を見ていたところ、いきなりそのおばちゃんが運転席を占拠しやがった。

保守的なイスラム世界では珍しくルアージュの女性ドライバーとして生計を立てているおばちゃんの運転するバンは荒涼とした景色が広がる山道を登り、途中どこかで道草を食いつつ、正午過ぎにはアルジェリアとの国境に近い山岳オアシスの村であるタメルザに到着した。北アフリカの先住民族であるベルベル人は紀元前から近世にいたるまで、海を渡ってくる侵略者から身を守るために地形の険しい内陸や南部などに住み着いてきたと言われている。タメルザ峡谷は、3つのベルベルの村がポイントとなっており、タメルザ村にはベルベル・テイストの最高級のホテルとして君臨するタメルザ・パラスが切り立つ山の上に建っているので宿泊する予定にしていたのだ。

タメルザのルアージュ乗り場からホテルまでの1kmを歩く道すがら、いくつかのベルベル系のオブジェを目にしながら酷暑の中、午後1時過ぎに命からがらタメルザパラスに辿り着いた。早速チェックインし、Standard roomが満室のため割高なContemporary Delux Double roomをTND495.000の大金で予約させられていた部屋にしけ込んだ。部屋のベランダからはごつごつの岩山とナツメヤシオアシスに囲まれたタメルザの旧村を見下ろすことが出来、またホテルの建物自体も周囲の景観に溶け込んだ作りと色合いになっているのだ。部屋のテーブルの上には「光の指」と呼ばれるナツメヤシの実であるデイツが皿に盛られていたので指を加えて見守る代わりに味見してみると甘い干し柿のようであった。

タメルザパラスの宿泊代に含まれるディナーはブッフェ方式で供され、宿泊客はそれぞれプール脇にセットされたテーブルでお腹に食い物をたらふくタメルゼという勢いで皆牛飲馬食に興じていたのだった。

5月2日(日)

軽く朝食を済ませた後、ホテルから続く階段を降りて旧ベルベル村の廃墟の探索と洒落込むことにした。すでに何人かの日本人ツアー客が入村し、写真を撮りまくっていたのだが、近くで見ると普通の荒れ果てたレンガの残骸地帯に過ぎないと思われたのも事実であった。

タメルザパラスをチェックアウトし、浮世離れした景観と豪華なホテルの内装に別れを告げ、タメルザの新村に向かって歩いていると羊飼いが多数の羊に急斜面を下らせながら放牧地帯に追いやろうとしている光景に遭遇し、山肌の茶色と白と黒の羊のボディのコントラストに思わず見入ってしまった。ルアージュ乗り場では昨日と同じおばちゃんドライバーが手ぐすねを引いているように待ち構えていた。おばちゃんは多くのベルベル友人たちと油を売りながら乗客が集まるのを待っていたのだが、一旦人数が揃い、出発するような素振りを見せたのはフェイントで近隣で荷物を下ろして元の場所に帰ってくるという小技を繰り広げながら時間だけが経過していった。何とかトズールへの帰路に就くことが出来たものの、おばちゃんの携帯電話は10分毎に呼び出し音を響かせていた。

トズールでは宿泊の手配をしていなかったため、ハラハラしながら高級ホテルの建ち並ぶツーリスティックゾーンを彷徨っていた。数あるホテルの中で一番高級そうな☆☆☆☆☆ホテルであるソフィテルパーム・ビーチ・トズールにアポなしで突入するとかろうじて空室があったので荷物を部屋に放り投げてトズールのメディナの散策に繰り出すことにした。

14世紀に造られたと言われているウルド・エル・ハデフ地区というメディナは砂と粘土を混ぜ合わせて造った日干しレンガの町なみが魅力的である。建物にはレンガを手前に引き出したり奥に引っ込めたりする伝統的な技術を使って、幾何学的な模様が壁に描かれているのが印象的で保守的な衣装を身にまとった原住民とすれ違うと数百年も昔にさかのぼったような不思議な感覚さえ覚えてしまうのだ。

炎天下のため、頭も適当にのぼせてきたのでカレーシュという馬車に乗ろうかとも考えたのだが、中年オヤジの加齢臭と馬の香りがマッチしないと思ったので、徒歩で撤収することにした。ホテルに帰る道すがらで数多くのツアー会社から夕暮れ四輪バギーツアーの勧誘を受けたのだが、トズールではフランス語でクアッドと呼ばれる四輪バギーで近隣の砂漠やオアシス、はたまた丸一日かけて、かのスターウォーズのロケ地を巡るツアーが人気を博しているのである。

5月3日(月)

早朝ホテルを出てツーリスティックゾーンからオアシスを抜け、ラクダ飼いがラクダに給水している様子を垣間見ながら15分程度歩くと巨大な南海キャンディーズのしずちゃんが腰掛けているシーンに遭遇した。近づいてよく見ると生身のしずちゃんが静かに佇んでいるのではなく、巨大な原住民女性のオブジェが睨みを利かせているだけであった。

ここはラス・エル・アイン展望公園で広場中央の小高い岩山に登ると緑豊かなオアシスや近隣のゴルフ場が一望出来ると同時に岩山自身にはトズール出身の偉大な詩人、アブール・カセム・シェビの顔が刻み込まれており、遠くから眺めるとまるでアメリカの歴代大統領の人面岩から構成されているマウント・ラシュモアと見紛えてしまうのだ。

砂漠ホスピタリティを提供するトズールの治安の良さを十分に堪能し、暑いのとハエがブンブンまとわり付いてくるのを我慢すればマサであっても十分暮らしていけることが確認出来、また、ナツメヤシのオアシスでも夏目雅子のような肌の露出は許されない事実を認識して納得したのでバスターミナルからトズールを後にした。

長距離バスで5時間程度走るとチュニスの南165km、周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部に位置する古都ケロアンに午後4時頃到着した。早速バスターミナルから南東に2km程歩くと高さ8m、厚さ2mを誇るメディナの城壁が姿を現した。グランド・モスクの尖塔をチラ見してメディナの周囲を一周しながら今日の寝床をハラハラしながら探していた。メディナから1km程離れた場所に☆☆☆であるオテル・コンチネンタルを発見し、何とか忍び込むことに成功したので荷物を置いて身軽になり、メディナに舞い戻ることにした。

ケロアンは7世紀にマグレブ征服(アラブ化)の目的でウマイア朝より派遣された、総督ウクバ・イブン・ナーフィにより建設された北アフリカにおけるイスラム発祥の地である。ここはイスラム世界ではメッカ、メディナ、エルサレムに次いで4番目に重要な聖都であり、ケロアンへの7回の巡礼は、メッカへの一度の巡礼に値するとまでいわれているのだ。

世界文化遺産に指定されているメディナの内部は白壁の家々が織り成す景観が美しく、人々の生活が息づいており、町を歩いているとジャパン、ジャポン、ジャパニ、がんばれニッポン、ジャッキー・シェン等、数多くの声援を浴びることになるのだが、ジャパネット高田は残念ながら浸透していない様子であった。メディナの家々には人間の手の形をした取っ手がインストールされており、その取っ手でドアをノック出来る仕組みになっているのだった。

5月4日(火)

フランス語でHを発音しないオテル・コンチネンタルをチェックアウトすると目の前にアグラブ朝の貯水池があったので軽く見学しておいた。中世世界で最高技術を用いて造られたこの貯水池は現在もケロアン市民の水源となっており、乾燥地帯の水不足解消に一役買っているのだ。

メディナに戻り、共通券(TND8.000、撮影料TND1.000)を購入し、いくつかの見所を回ってみることにした。640年、時の権力者ウクバ・イブン・ナーフィによって建立されたアフリカ最古のグランド・モスクは外観はいたってシンプルであるが、内部もそれなりにシンプルに見えた。しかし、中庭には大理石が敷き詰められており、ローマ・ビザンチンの遺跡から拝借した列柱が重々しい雰囲気で並び、中央には濾過設備を持つ雨水を貯めるための排水溝さえ装備しているのだ。

鳥を取り押さえていい気になっている猫にガンをつけて、ラクダが水をくみ上げる聖なる井戸であるビル・バルータに立ち寄った。ここはもともとは7世紀に掘られた井戸であるが、その周囲を囲むように、1676年にモハメッド・ベイが白いドーム状の屋根をもつ建物を建設した。一見モスクのような外観であるが、入り口から階段を上がった2階には、井戸と拉致されたラクダが待ち構えている。このラクダが井戸の周囲を歩くとロープで水がくみ上げられる仕組みになっているのだが、ラクダにとっては楽な仕事であるのではないかと思われた。

白黒縞模様が目に焼きついたガリアーニ霊廟をチラ見してメディナを後にすると市場をスルーして数多くの観光バスを集めているシディ・サハブ霊廟を見学することにした。ここはマグレブで最も美しい霊廟と言われ、壁、床、天井といたるところに見られる色鮮やかなアラベスク模様がそれを実感させてくれるのだ。

大規模なケロアンのルアージュステーションでチュニス行きのルアージュを捕まえて2時間程で首都チュニスに帰ってきた。チュニジアのルーブルとの異名をとるバルドー博物館は大規模な改修工事の真っ最中であったのだが、一部展示品を公開していたのでTND4.000を支払って突入した。ここでの見所は世界最大規模を誇るローマ時代のモザイクコレクションであるはずなのだが、あまりにも閉鎖中の展示室が多かったため、印象に残ったのはビートたけしが推奨するはずの「男には男の武器がある!」銅像のみであった。

世界文化遺産に指定されているチュニス旧市街はフランス門がメインゲートになっており、かつては門の両脇から城壁が延びてメディナを取り囲んでいたと言われている。門を通るとビクトワール広場に出てそこから先は夕方の買い物時の群集で押しくらまんじゅう状態になっているスークに繋がっている。スークは観光客用の土産物だけでなく、原住民が日用品を買うための重要な市場となっており、食肉や地中海で取れた新鮮な魚を売りつける生鮮食品屋も軒を連ねているのだ。

メディナの中央は巨大な広場となっており、チュニス最大で最高の聖地であるグランド・モスクや草サッカー少年を多数集めるほどの広大な敷地を持つ首相官邸等の箱物で占められている。午後5時前に何故かモスクからカラフルな鼓笛隊が出てきたと思ったら奴らは首相官邸の広場に掲げられている国旗を降納するためのセレモニーを行う要員であったのだ。

今夜はあらかじめ予約してあった街を見下ろす高台に位置するシェラトン・チュニスを予約していたのでハラハラすることなく過ごせると思ったのだが裏の仕事の電話会議に参加するためのブラックベリーが熟れすぎて腐ってしまい、電話が繋がらなかったのでもっとハラハラする羽目に陥ってしまった。

5月5日(水)

シェラトンからタクシーでチュニス・カルタゴ空港に移動し、午前11時30分発AF2185便の機上の人となった。エアーフランス機内で今風のマリー・アントワネット系のスチュワーデスに白ワインを注文したところ、赤ワインをいただいたのでそれを白ワインだと信じて飲み干したのだが、パリのシャルル・ドゴール空港のスター・アライアンスのラウンジで本物の白ワインを痛飲して溜飲を下げておいた。

午後8時発NH206便で成田に向かう機内ではサハラ砂漠に一人取り残され、真夜中に岡本真夜のAloneを熱唱するというアクティビティが出来なかったことを後悔し、真夜よろしく♪カードがぁ も~ないから~♪とうそついて電話会議への参加をキャンセルすべきではなかったかと悩んでいた。

5月6日(木)

NH206便は定刻通り午後2時40分に成田空港に到着。涙の数だけ強くなった自分を実感し、みずほ銀行の支援を受けているはずの井上真央の巻き返しに期待しながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥197,870

総宿泊費 TND1,235.000 (TND1.000 =¥67)

総鉄道代 TND25.450

総バス代 TND15.570

総タクシー代 TND10.000

総ルアージュ代 TND10.340

総TGM代 TND1.450

総メトロ代 TND0.800

協力

ANA、STARWOOD

FTBJ極楽浄土高野山ツアー

マサよ、君は空と海から聞こえてくるかのような「高野山に行こうや」という天の声に誘われて密教の聖地にお参りしなければならないという義務感を覚えたことがあるか!?

というわけで、「晴れむ(806年)心の真言密教」というお経を唱えながら空海が中国から真言密教を伝えたと言われる年号を覚え、日本史の偏差値を常に80以上の高位置にキープしていた時から高野山に修行に来なければならないと考え続けてきた。今ではこの霊場は世界遺産に指定され、世界各国から仏教徒ではないはずの数多くの観光客で溢れかえっているのでその実態を清めるために参拝させていただくことになったのだ。

4月17日(土)

午前7時発ANA013便で8時過ぎに伊丹空港に到着し、空港バスでなんばに向かった。難波はかつて野村監督率いるホークスという球団を持っていた南海によって支配されているのだが、今では南海キャンディーズの傘下に成り下がっている。

早速南海高野線快急電車に乗り、1時間40分程度で極楽橋駅に到着した。しかし、極楽橋で極楽気分を味わう暇もなく、接続の高野山ケーブルカーに乗り込み下界から標高900mまで5分程度で昇天すると高野山駅に降り立った。高野山駅前は南海りんかんバスによって仕切られている様子で環境に配慮したプリウスタクシーもリコールを恐れず果敢に営業活動を行っていた。

とりあえず、どこへ向かえばいいのかわからなかったので、外人団体観光客が乗り込もうとしている奥之院行きのバスに乗り込んだ。バスは専用道路をゆっくりと走りぬけ、外人団体が下車した高野警察前で降りると出頭する代わりに桜咲く寺院の庭先に目を奪われながら高野山の入り口になっている女人堂まで引き返した。明治5年まで女人禁制であった高野山へは女性はここより山内に入ることが許されず、細く険しい女人道を通って大師御廟へお参りをしていたのだ。

徳川家霊台のチケット売り場で高野山参詣講待遇之証(奉納金1,500円)という主要なファシリティを参拝出来るお得なセットチケットを購入すると寛永20年(1643)に三代将軍家光が建立した徳川家霊台を見学させていただくことにした。ここは家康と秀忠の両霊屋で、白木造りの外観に金銀箔を押した極彩色の厨子は日光東照宮を彷彿とさせる豪華な造りであると見受けられた。

霊場高野山は弘法大師が嵯峨天皇の弘仁七年(816)真言密教の根本道場として定められ、国の平和を祈り国民に安らかな生活への道を伝え、併せて末徒の修禅観法のため、また自らの入定の地とする崇高な目的をもって開創せられたのだが、その総本山である金剛峯寺に謹んでお参り申し上げることにした。金剛峯寺の名称は元々高野山一山の総称として用いられていたのだが、この寺自身は文禄二年(1593)豊臣秀吉が亡母の菩提のために建立、更に文久三年(1863)再建されたのが現在の建物である。

金剛峯寺内部でまず私の目を引きつけたものは2015年の高野山開創1200年に向けて開発されたイメージキャラクター兼ゆるキャラの「こうやくん」であった。また、奥之院霊木の高野杉が輪切りにされてその長い樹齢を示す年輪をひけらかせていた。金剛峯寺内部の各間を彩っている襖絵は写真撮影および写生が禁止されているのだが、高野草創という題目の聖地高野を発見した際に先導していた白黒二匹の犬の絵は勝手に写ってしまっていた。

蟠龍庭という石庭としては我国最大の庭に目を奪われていると奥の新別殿でお茶のおもてなしがあるとのことだったのでお茶とお煎餅で軽くくつろがせていただいた。さらに寺内には修行僧の旺盛な食欲に対応するための台所も供えられており、一度に二千人分のご飯が炊ける「二石釜」が農林水産省のお墨付きでももらったかのように崇められているのだった。

弘法大師が受け継がれ展開された真言密教の思想を具現化した聖地である壇上伽藍に登壇させていただいた。ここには高野山のシンボルとして君臨している根本大塔を中心に金堂、東西の各塔、高野山に残る最古の建物である国宝不動堂が配置されており、一山の重要な法会のほとんどはここで行われることになっているのだ。

壇上伽藍を後にして東に向かって歩いていると西部警察でサングラスをかけた渡哲也がショットガンを撃ちまくっている感覚を覚えたのでふと上を見上げると高さ25.1mの大門がそびえていた。金剛力士像に守られた一山の総門である大門は威風堂々とした門構えで、現在のものは宝永二年(1705)に再建されたものである。

1200年の歴史を持つ高野山に残る国宝、重文、県文化財や貴重な資料を保管し、公開する霊宝館が高野の用心棒により警護されていない事実に衝撃を受けたので北条政子の発願により源頼朝菩提のために創建された金剛三昧院で野ざらしになっている国宝多宝塔を見て溜飲を下げておいた。

マサよ、君は高野山では寺が宿坊という宿泊施設になっており、坊主丸儲けの構図が延々と受け継がれていることを知っているか!?

ということで、本日の修行先である福智院に「たのも~」と言ってチェックインするとそこには高野山バス停で一緒になった外人達が集団で宿泊するというインターナショナルな事実に驚愕してしまった。福智院は高野山で唯一天然温泉を備えた宿坊で客室は美しい庭園を囲むように展開されており、内部には骨董鎧兜等がケースに入れられて展示されていた。

宿坊では通常写経体験や朝のお勤めの参加といった催し物が売りになっているのだが、写経体験はワープロがなかったので断念する代わりに部屋を訪れた坊主に朝6時からのお勤めには参加するとコミットさせられると同時に「身体健全」を祈願するお札を¥3,000で売りつけられた。何でも¥3,000分のお札の有効期限は1ヶ月とのことだったのだが、シマンテックのソフトのようにオンラインで更新出来るかどうかは別途サポートセンターに確認すべきだと考えた。

天然温泉露天風呂で体調を整えた後、空海の末弟子であるはずの見習い従業員が「飯でも食うかい」という面持ちで精進料理の膳を運んできた。何故か寺院内には禁酒令は敷かれていなかったのでビールを飲みながら身体健全になるはずの精進料理に舌鼓を打ちながら修行の夜は更けていった。

4月18日(日)

夜間の冷え込みと修行の緊張感で眠れない夜を過ごしたおかげで朝の5時半にはすでに覚醒状態を維持出来ていた。朝のお勤めでは座禅を組まされ、少しでも無駄な動きをすると「色即是空」と言われて板で殴られて痛い思いをするのかと恐れおののいていたのだが、意外にも本堂には椅子が用意され、ストーブには青白い炎が灯っていた。フランスから来ている外人団体客を含めて宿泊客が続々と本堂に集まってくると午前6時より読経が始まった。遅れてきた外人を地べたに座らせる一方で私は椅子に座って40分程度のお勤めを余裕でこなしていた。お勤め終了後に本堂の引き戸が明けられるとそこには福智院の本尊である愛染明王の名を冠した見事な愛染庭が姿を現したのだった。

福智院での修行を終え、無事に解脱を果たすと徒歩で奥之院を目指すことにした。道行く途中で摩尼塔というビルマで亡くなった戦没者のために建てられたお堂を見学することにした。そこでは水島上等兵も爪弾いたであろうビルマの竪琴や地獄図、極楽図といったものが私の目をひいた。

桜と盆栽のような松の木のコントラストが美しい寺院を通り過ぎると奥之院の入り口である一の橋に到着した。そこから先は見事な杉林の中に数多くの歴史上の人物の墓が次々に姿を現すこととなった。武田信玄、伊達政宗、明智光秀らの墓は例外なく苔むした年代物であるのだが、21世紀に建てられたであろうパナソニック墓所の墓石は輝きを放っていたのでとりあえずUSBメモリーを内蔵したお守りを早期にリリースするように祈っておいた。

弘法大師御入定の地奥之院は弘法大師信仰の中心聖地として、壇上伽藍に比す高野山のもう一つの聖域となっている。玉川の清流を背にした水向地蔵に水をかけ、奥之院御廟で線香を手向けながら空海が後悔することなくこの地に今でもおわしますような雰囲気を感じながら高野山から下山することとなったのだった。

このツアーで何回目かの南海急行電車で大阪市内に戻ると弘法大師よりも古い太子である聖徳太子が推古天皇元年(593)に建立した日本仏法最初の官寺である四天王寺に参拝することにした。四天王寺は度重なる災害のため、創建当初の姿はしのぶべきもないが、伽藍配置は飛鳥時代の姿を今に伝えているのだ。

中心伽藍のチケット売り場のおばちゃんが私の財布の中のJAFの会員証を目ざとく見つけたおかげでマサであれば¥300かかるところを私は¥200で拝観券を手に入れることに成功した。中心伽藍で一際目立つ五重宝塔は昭和34年8度目の再建であり、造りは鉄筋コンクリートであることが時代の流れを感じさせる。また、仁王門にはカラフルな金剛力士像が大きな目を見開いて睨みを利かせているのだった。

布袋寅泰よりも明らかに腹の出ている「福をよぶなで布袋尊」を撫で回した後、何故かここでも祀られている弘法大師修行像にお参りし、おびただしい数のそのミニチュアが一体3万円で奉納されるという実態に愕然としてしまった。

四天王寺ではるか昔の飛鳥時代への思いを馳せることが出来たので、寺を出て天王寺方面に向かっているといつの間にか時が経った様子で新世界に紛れ込んでいた。B級テレビ番組の取材を数多く受けていることを心の拠り所にしているたこ焼屋で8個入り¥300のたこ焼を食った勢いで激しい競争の中で一番すいている串揚げ屋に吸い込まれた。その串揚げ屋で「おまかせ10本セット」を¥1,250で発注したのだが、草食系を中心とした最初の5本が配送されてから30分以上経っても残りの5本が来なかったので時間がないから帰ると言ったところ、¥1,250がまるまる返金されることになり、結果的に草食系の5本がただになったのであった!

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥17,850(2食付)

総南海代 ¥3,020

総空港バス代 ¥1,110

総地下鉄代 ¥470

協力 ANA、楽天トラベル、南海電鉄、JAF

FTBソウルフル世界遺産ツアー

1987年7月、私の初めての海外旅行先はニューヨークだったのだが、大韓航空の格安チケットを購入していたため、ソウルにストップオーバーされる憂き目に遭ってしまい、韓国が私の世界進出の第一歩として刻まれてしまっていた。さらに1989年9月、当時面倒を見てやっていた大和証券青森支店の同期の山田君を従えて韓国に乗り込み、東京国際大学を優秀な成績で卒業したはずの奴の英語力を頼りにソウル市内を闊歩していた。

その後21年が過ぎ去った今、韓国は経済でもスポーツでも日本を凌駕する強国に成り上がって来たのでその実態を体感し、日本の未来に活力を取り戻すための魂を得るためにソウルに舞い戻ることに相成ったのだ。

4月3日(土)

午前8時20分発NH1291便は定刻どおり羽田空港を出発した。2時間程度を機上で過ごしながら、トリプルアクセルの基礎点を上げてもらえるようにスケート連盟に抗議したくなるような感覚が強くなってきた頃、キム・ヨナ中心に世の中が回り始めているソウルの上空に差し掛かった。するとほどなくしてハイジャックされたよど号もおどおどしながら着陸した実績のある金浦国際空港に午前11時前に到着したニダ。早速地下鉄に飛び乗り、1時間以上の時間をかけて美しい城郭が残る町である水原(スウォン)に向かった。水原駅前の観光案内所で地図を入手した後、世界遺産に登録されている華城に向かう途中で猪八戒よりも強そうな考える豚に睨まれてしまったニダ。

李朝22代国王の正祖が造営した城郭都市である華城(W1,000)は、正祖が政争の犠牲となって死んだ父の墓を水原に設営したついでに墓所の近くに都を移そうと血迷って建設された代物である。城は優美な姿に造られ、レンガの製法に西洋の手法を取り入れたりもしているのだが、結局遷都は中止されて城郭だけが残り、その後荒廃してしまった形で後輩に受け継がれているのだニダ。

出来上がった城郭は当時の漢城(ソウル)よりも立派で、外敵に対し効率的に攻撃出来る軍事施設を備えているのみならず各所に優雅な外観が取り入れられているニダ。華城は周囲5.7kmの城郭でぐるっと一周すると3時間程かかるのだが、都になり損ねた悲哀を魂に刻み付けるために最高地点の八達山(143m)から下界を見下ろしながらウォーキングをスタートさせた。

水原華城の見所は各所に設けられた門であり、華城四大門の北門で事実上華城の正門である長安門は朝鮮戦争時に門楼が焼失したが完全な形で復元されているニダ。門には鮮やかな装飾が施されており、ユニークな鬼たちが道行く観光客を見下すようにほくそ笑んでいるのだった。尚、歩くのがおっくうな輩のために華城内を周遊する乗り物が竜の先導で運行されているので後期高齢者であっても安心して観光に励むことが出来るのだニダ。

Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればW120,000くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Innホテルを探すために適当な駅で地下鉄を降りてソウル市内を彷徨っているといよいよ道がわからなくなってしまった。場所を特定するためにホテルに電話をかけたのだが今いる地点の場所を説明出来なかったので道行く人に電話を代われと言われてしまった。ということで、とあるローカルコンビニに飛び込み、休憩中のレジで麺をすすっているおばちゃんに麺をすするのを止めさせて電話で話セヨとお願いした。

何とかタクシーを捕まえ、さらにタクシーの運ちゃんにも電話対応セヨと脅迫する代わりにチップをはずんで遂にHoliday Inn Seongbukに辿り着く事に成功したのだが、道行く人のサポート体制がしっかりと整っているのが韓流であることを思い知らされたのだニダ。

4月4日(日)

Holiday Inn Seongbukが運行するシャトルバスで明洞に移動し、地下鉄で昔ながらのソウルの街並みが残る鐘路・仁寺洞(チョンノ・インサドン)に向かった。この地域はソウル中心部の北側に広がっているのだが、2つの世界遺産が君臨しているので満を持して見物させていただくことにした。

マサよ、君は吉本系のギャグを巧みに操る韓国人日本語ガイドの案内で「エンタの神様」が打ち切られた心のすきまを埋めたことがあるのは「私だけ」でしょうかニカ!?

ということで、地下鉄3号線安國駅3番出口から徒歩5分のところに世界遺産に登録されている華麗な離宮である昌徳宮(チャンドックン)がおびただしい数の観光バスを停車させているのでW3,000を支払って10:30からの日本語ガイドツアーに参加することにした。入り口付近にはHISの旗を目印に参集してきた格安であるはずのガイドツアー参加者を中心に数多くの日本人がひしめきあっていた。

すると軽めの防寒ルックに身を包んだ普通のおばさんがマイクを使ったアナウンスで昌徳宮に入場するにあたり、あらかじめチケットを切り離しておくようにと依頼すると同時に「日本ではあり得ないことだと思いますが・・・」とつぶやきやがった。この一言で日本人観光客がこのガイドはただ者ではないという雰囲気を感じ取った後、ついにガイドツアーの火蓋が切って落とされたニダ。

昌徳宮の正門である敦化門をくぐり、20年後のだいたひかるを彷彿とさせる笑いの暴走自転車系ガイドは参加者が集合してくる間に「皆さんが集まるまでイライラしないで待ってください。イライラしてもわたしほどではないでしょうから・・・」と淡々とした口調で冗談を言いやがった。

昌徳宮は李朝3代国王の太宗が1405年に建てた宮殿で始めは離宮として創建されたのだが、後に王たちが居住しながら実質的な法宮の役割を果たした由緒正しい場所である。さらに昌徳宮は人為的な構造に従わず、周辺の地形と調和を成すように建築され、最も韓国的な宮廷という評価を受けているニダ。

だいたひかるの説明によると王の執務室として使われた宣政殿の高級青瓦は韓国の大統領府である青瓦台と同じ瓦が使用されており、マサに見事な光沢を放っていたのだった。また王の日常生活の場であった熙政堂の屋根のオブジェは西遊記を表しており、夏目雅子風の三蔵法師に先導された孫悟空、沙悟浄、猪八戒等が膝まづいている様子が遠巻きに確認出来た。

昌徳宮の観光を終え、エンタの神様が終わってもだいたひかるの将来が安泰であると思われたので、別のテレビ局に移動する勢いでその隣の昌慶宮(チャンギョングン)になだれ込むことにした。道行く途中で冬のソナタの撮影地を示す看板があったのだが、だいたひかるが代打で出演しているわけでもなかったので無視することにした。

昌徳宮の東にある王宮である昌慶宮(W1,000)は李朝4代国王世宗が父親の太宗のために建てた寿慶宮が前身となっており、一時荒廃の憂き目にあったのだが、第9代国王成宗が当時の3人の皇后のために宮殿を建て、以来昌慶宮と呼ばれるようになったのだニダ。

昌慶宮の正門の弘化門は東に面しており、続く正殿の明政殿も正面が東に面しているのが特徴になっているとのことである。何故なら普通王宮の正殿は南を正面に造られているからだ。何はともあれ、広い敷地内には多くの樹木が生い茂り、かつ大温室もそなえているのでのんびりと散歩を決め込むには絶好の場所だと思われた。

昌慶宮をくまなく探索し、道路を跨いでいる橋を渡るといつのまにか宗廟(世界遺産)に紛れ込んでいた。李氏朝鮮歴代国王とその妃の位牌を祀っている宗廟は毎年5月に行われる宗廟祭が有名で王の末裔にあたる全州李氏一族が集まり、雅楽が響く中、厳かな儀式が執り行なわれることになっているニダ。

4月5日(月)

昨晩の宿泊地で白蓮山の麓にあり、豊かな緑に囲まれたリゾートタイプのホテルであるグランドヒルトンからホテルのシャトルバスに乗り、明洞近辺で下車すると都市の緑を保ってきた歴史と文化の香り漂う森である南山公園へ這い上がることにした。南山はソウル中心部に位置したソウルの象徴で、本来の名前は引慶山であったが朝鮮太宗李成桂が1394年に都を開城からソウルに移して来てから南にある山だと言って南山と呼ぶようになったのだ。南山公園内に千円札の帝王である伊藤博文を暗殺し、韓国で英雄扱いされている安重根義士祈念館がリニューアルのため閉館になっているという驚愕の事実に直面してしまったため、安重根の銅像にどうぞ~よろしくという感じで財布に控えていた野口英世の肖像画を見せつけて溜飲を下げることにした。

標高265mの南山の頂上に高さ約230mのソウルタワーが天を突き刺すようにそびえている。ソウルタワーにはケーブルカーと言う名のロープウエイで登ってくることが出来るのだが、私は恒例の徒歩ですでに辿り着いていた。タワー展望デッキの欄干に願い事を書き込んだ無数の南京錠がかけられているのを発見したのだが、私もついでに子供手当の財源を消費税の増税なしに確保セヨと願をかけておいた。

南山公園から下界に降り、しばらく歩いていると21年前に山田君と共に練り歩いた梨泰院(イテウォン)に舞い戻っていた。この場所は米軍基地に近いため、外国人が集まるインターナショナルな町として毒々しい雰囲気を醸しだしていたのだが、今ではすっかり毒抜きされたおとなしい町に成り下がっているようだったので近くの飯屋で海鮮粥とチヂミを朝鮮人参茶で流し込んでとっとと撤収することにした。

南大門市場(ナムデムンシジャン)に行けば何でも揃うと聞いていたので買う気もないのに立ち寄ってみることにしたのだが、あまりの人の多さに買う気がそがれてしまったため、2008年の火事で燃え尽きてしまった南大門に非難することにした。正式名称を崇礼門(スンネムン)という南大門は漢城四大門のひとつであり、ソウルに現存する最古の木造建築で、国宝第一号にも指定されている。しかし今では再建のための覆いで隠されており、その雄姿が回復するのは数年待たなければならないものと思われるニダ。

ソウルを代表する繁華街である明洞(ミョンドン)を歩きながら一向に回復しない日本の景気を嘆いていると何故かIKKOがほめる化粧品の看板に遭遇してしまったのでこいつのせいだと割り切ってソウルの魂に身を浸して見ることにした。歩行者天国になっている明洞エリアは月曜日にもかかわらず若い男女で溢れかえっており、各ショップからは韓国語だけでなく、日本語の呼び込みもこだましていたのだった。

明洞の喧騒を避けるように地下鉄で金浦国際空港に戻り、午後7時30分発NH1294便羽田行きの機上でキム・ヨナはソチオリンピックはそっちのけでプロに転向するはずなので次回のオリンピックでは浅田真央の金メダルは確実だと安心しながら帰路に着いた。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥27,140

総宿泊費 W224,153

総地下鉄代  W6,600

総タクシー代 W10,000

協力

ANA、Priority Club、HiltonHHonors

FTBJホエールウォッチング v.s. 津波警報ツアー in 沖縄

マサよ、君は楽しみにしていたホエールウォッチングツアーがクジラより大きい大地震と津波警報のために中止に追い込まれ、結果的に命拾いした経験があるか!?

2月27日(土)

というわけで、マサに沖縄に向けて出発しようとしていた矢先の午前5時30分頃、沖縄本島近海を震源とする震度5弱の地震が発生しやがり、今回のツアーは中止の憂き目に遭うのもやむを得ないのかと心配していたのだが、何とか那覇へのフライトは通常通りに運行されていたので午前6時40分発のANA993便に乗り込み9時半頃に沖縄への上陸を果たすことに成功した。

空港のニッポンレンタカーで予約していた軽自動車をピックアップしようと待機していた時に係りの若者から軽自動車の返却が遅れているという理由で本当は余っていたプリウスを借りてほしいとの申し出があったので思わずリコールしようとしたのだが、米議会公聴会に切腹する覚悟で望んだはずの豊田章男社長の武士道に敬意を表して借りてやることにした。プリウスはブレーキをかけると充電する仕組みになっているせいか多少ブレーキの反応感覚に違和感を覚えたものの3踏目でコツを会得することに成功し、快適なドライブが開始されることとなった。

前面パネルに表示される充電状況を示すインジケーターを見飽きた頃、海洋博公園にある沖縄美ら海水族館(¥1,800)に到着した。3月も間近となり、美しく咲き乱れ始めた花々を愛でるために花まつりも開催されているため、花マンタや花カメ等の海洋生物をモチーフにしたオブジェが水族館の周辺を彩っていた。

7年前に来た時には魚の数より来館した人間の数の方が多く感じられたために見学した気になれなかったのだが、今回は美ら海水族館の全容をじっくり解明させていただくことにした。まず手始めにタッチプールでナマコやヒトデに触り、藤田まことのご冥福を祈りながらも裏の仕事の人手不足を嘆いた後、サンゴの海、熱帯魚の海を立て続けに観察した。尚、美ら海水族館は世界で初めてマンタの繁殖に成功したことで名を馳せているのだが、親マンタの産後の日だちが悪くて殉職したかどうかは定かではなかった。

美ら海シアターのハイビジョン映像を見ながらうつらうちゅらしていると終了後にスクリーンが開いて目玉となっている「黒潮の海」と命名された巨大水槽が姿を現し、目の前を巨大なジンベエザメが悠然と横切って行きやがったのでギネス認定されているその水槽内をじっくりと観察するために階段を下りて世界最大の水族館観賞用窓の前に立ちはだかることにした。7500立方メートルの水量にもかかわらず20分ですべての海水が入れ替わるという水槽内には3匹のジンベエザメをはじめ多数のマンタや本当はえいひれの原料ではない普通のエイや松方弘樹が吊り上げた物よりもかなり小さいはずのマグロが互いにぶつからないように気を使いながら泳いでいた。

サメ博士の部屋(危険ザメの海)を見ながら青い海の夢から覚めかっていたときに館内放送が流れ、3時からジンベエザメの餌付けを始めるので巨大水槽の前までわざわざ見に来いと言われたので観光客がベストポジションを占拠するために続々と集まってきた。

マサよ、君は水槽前の総立ちの観光客の目の前で立ち泳ぎをしているジンベエザメの迫力に立ち向かったことがあるか!?

ということで、その巨体に似合わずプランクトンやオキアミを主食とするジンベエザメがその巨大な口を開けて海水ごと大量のオキアミを吸い込む姿は圧巻であった。尚、吸収された海水はエラから排水され、水槽内の水としてリサイクルされているので水位が下がってしまう心配はないのである。

美ら海水族館から軽くプリウスを走らせ全長762mの瀬底大橋を渡って周囲約8kmの小さくて美しい島である瀬底島に上陸した。島の西側に白い砂浜が広がる静かな瀬底ビーチがあり、何人かの観光客がきめ細かい砂を持つビーチで戯れていた。海の透明度はきわめて高いのだが、海水浴シーズンにはおびただしい数の観光客が展開するマリンスポーツで汚染されてしまうことが思わず懸念されてしまうのだ。

県庁前のニッポンレンタカーでプリウスをリコールし、本日の宿泊先であり、ANA「ダイヤモンドサービス」クーポン券が余っていたのでマサであれば¥10,000くらいかかるところを私はただで泊まることが出来る沖縄ハーバービューホテルクラウンプラザにチェックインすることにした。するとフロントの係りの者からいきなりファックスを渡され、そこには予約していたホエールウォッチングツアーの中止証明書の文字が躍っており非常にちゅらい思いをさせられることになってしまったのだ!

2月28日(日)

余震に警戒が必要なため、ホエールウォッチングツアーが中止になり、クジラを生け捕りして沖縄海洋博公園に高値で売りつけようとして「イルカがいるのでクジラなんかいるか!」と拒否されるという野望が打ち砕かれてしまったため、仕方なくホテルでフィギュアスケートのエキジビジョンを見ていた。

安藤美姫や浅田真央といった♪みつめあ~うと すな~おに おしゃ~べり でき~な~い♪ような美女が次々と登場する画面に釘付けになっているといきなりチリ地震の影響で日本列島に津波警報が発令されるという衝撃の事実に直面し、浅田真央が大舞台で仮面舞踏会を踊り切ったのは少年隊以来の快挙であったことがすっかり脳裏から消え失せてしまった。

津波警報のおかげで沿岸部に避難勧告が発令されてしまったので仕方なくFTB社訓その1のFlexibilityにより内陸部の観光に戦略を切り替えることにした。ゆいレールに乗り首里駅で下車し、首里城公園を目指して15分程歩き、円覚寺を抜けるとおなじみの首里城の代表的記念写真スポットである守礼門に到着した。首里城周辺には多くの記念写真スポットがあるのだが、至る所で「ハイ シーサー!」、「ハイ ちゅらサン」等の掛け声が飛び交っていた。

首里城正殿に辿り着くまでには歓会門、瑞泉門、広福門、奉神門といったそれぞれ特徴のある数多くの門をくぐらなければならないのだが、ドラえもんのような四次元ポケットがインストールされた門がなかったことが衰退への原因ではなかったのではないかと思われた。

琉球王国の栄華を物語る世界遺産である首里城正殿(¥800)に10年ぶりにお邪魔することと相成った。しかし、沖縄の強い日差しにさらされた外装は定期的なメンテが必要な様子で現在漆の塗り直しが行われていた。正殿内部は相変わらず見事な朱色で彩られており、一部オリジナルの石積みの遺構も確認することが出来るのだ。

首里城北殿は展示、映像、売店、休憩コーナーから形成されているのだが、ここは2000年に開催された沖縄サミットの首脳晩餐会で当時の森喜朗総理がホストを務めたことで有名である。しかしながら、当時沖縄サミットのテーマ曲である「ネバーエンド」をプロデュースした小室哲也も近い将来自分がエンドになるとは思わなかったであろうし、安室奈美恵もTRFのサムとの結婚生活がエンドになるとは思っても見なかったことであろう。

首里城の見学をエンドにして世界遺産、国指定重要文化財である玉陵(たまうどぅん)を¥200の支払いで観覧させていただくことにした。ここは1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改装するために築かれ、第二尚氏王統の陵墓となった歴史的価値の高い場所である。

沖縄の強い日差しの下での観光で喉が渇いたので泡盛の香りに引き寄せられるように瑞泉酒造を訪問することにした。泡盛は、沖縄が東南アジア各国と貿易が盛んだった15世紀頃にタイ・中国福建から入って来たと言われている。泡盛造りはインディカ米(タイ産)を原料にした全麹仕込みで、その際用いる沖縄独特の黒麹で発酵させ蒸留した酒である。瑞泉酒造には居酒屋「ワタミ」を立ち上げた渡邉美樹氏の色紙をはじめ、各界著名人のサインが所狭しと飾られているのだが、試飲に供された古酒がすずめの涙ほどだったので3本入りのミニチュアボトル(¥1,055)を購入してお茶を濁しておいた。

ゆいレールで那覇空港に戻り、無料シャトルバスで沖縄アウトレットモールあしびなーに向かった。自分自身がブランドであるため、滅多にブランド品を買わない私であるが、今回はピンポイントで必要な物品があったのでとあるお店で買い物をしたのだが、そこでは一品購入してさらに二品目を購入すると一品目も二品目も20%OFFになるという荒業が展開されていた。つまり一品目に数万円の高価な物を購入し、二品目に数百円の安価な物を購入するとコストメリットは計り知れないものとなるのである。あしびなーでは買い物疲れの観光客を癒すために地元バンドによる生ライブやフードコートも展開されているのだが、今日は津波警報の影響により通常の22:00より3時間半も早い18:30に閉店となってしまったのだ。

その後のニュースにより沖縄沿岸に到着した大津波は数cmから20cmであったことが確認され、気象庁の警戒に感謝することとなったのだった。

FTBサマリー

総飛行機代 \8,200

総レンタカー代 \5,145

総高速代 \1,000

総ガソリン代 \870

総宿泊費 ただ

総ゆいレール代 ¥490

協力

ANA、ニッポンレンタカー、気象庁

デヴィ夫人推薦東南アジア最大都市ジャカルタツアー

今から20年前の1990年にすでに海外進出を目論んでいた私であったが、その一歩を踏み出すべく当時の勤務先であった大和証券の6ヶ月海外インターン制度に応募したものの営業成績優秀な社員を流出させるわけにはいかないということで、その選に漏れてしまった。その代わりに同期の大和証券甲府支店の深田君が選出され、晴れてジャカルタに流されることになったのだった。それ以来ジャカルタに行かなければならないという観念に捕らわれてしまっていたのだが、ついに深田君の無念を晴らすべく立ち上がる時が訪れたのだった。

2010年2月11日(木)

午後5時25分発NH901便は定刻通りに出発し、深夜12時過ぎにシンガポール・チャンギ国際空港に到着した。空港での定宿となっているアンバサダー・トランジットホテルにチェックインすると5時間程度の束の間の仮眠を取るべき意識を失うこととなった。

2月12日(金)

早朝トランジットホテルをチェックアウトするとシンガポール航空のラウンジにしけこみ、朝食としてゆで卵等を食した後、午前7時50分発シンガポール航空SQ952便ジャカルタ行きに搭乗すると1時間の時差を越えて8時30分に曽我ひとみさんとジェンキンズさんが感動の再開を果たしたスカルノ・ハッタ国際空港に到着した。インドネシアへの入国をつつがなく果たした頃、ゆで卵の効力が効いてきた様子で板東英二の幻影に支配されることになり、ジャカルタ都心部へ侵入する代わりに空港から直接バンドンを目指すことになってしまったのだ。

9時半過ぎに10人乗りのバンに乗り込むと首都ジャカルタから東南に約200km離れたスンダ地方の中心であり、人口200万人を誇る大都市バンドンに正午前に到着した。バンから降りた地点が郊外だったらしく、市の中心部にたどり着くまでに思わず世界ふしぎ発見の気分を味わうことになってしまった。降りしきる雨の中、何とか今日の宿泊地であるHilton Bandungまで辿りつくと早速街の喧騒に繰り出すことにした。

歩行者用信号の機能していないバンドンの市街地は人と車と原チャリでごった返しており、道路を横断するのも車とバイクの流れを遮る勇気とタイミングが重要であることを思い知らされた。バンドンは1955年に第一回アジア・アフリカ会議が行われた場所として世界史の教科書にその功績が記されているのだが、その会議場が博物館として公開されている。今回は館内を見物することが出来なかったのだが、このAA会議には主催国のスカルノをはじめ、周恩来、ホー・チ・ミン、ナゼルなど29ヶ国の代表が勢ぞろいし、その後の反植民地主義運動に大きな影響を与えたと言われている。しかし当時は徳島商業に入学する前であったはずの板東英二は残念ながらこの会議への参加は許されなかったので、今では世界ふしぎ発見の回答者として溜飲を下げているのである。

雨季のジャワ島は毎日のようにスコールが激しく降りしきっている様子で、雨宿りしたショッピングセンターで開催されていた少女伝統舞踊コンテストを彷彿とさせる催し物を見ながら時間を潰していた。しかし雨脚が一向に弱まる気配がないので落雷の恐怖におびえながらも混雑する道をホテルに引き返すことを余儀なくされたのだった。

2月13日(土)

眼下に広がる巨大プールとバンドンの街並みを見渡す高級ホテルHiltonをチェックアウトすると街の中心として栄えている広場であるアルンアルンに向かった。この広場には何があるんだろうと思ってあたりを見渡すとモスクの巨大尖塔が天に向かってそびえており、下界では原住民に安価であるはずの飲食物を提供する出店が数多く展開され、皆思い思いにのどかな休日を過ごしているようであった。

アルンアルン広場から東に400mの地点にサボイ・ホマンという古き格調ある歴史的ホテルが存在している。1888年オープンのこのホテルには第一回アジア・アフリカ会議の際に各国首脳が宿泊したことで知られているのだが、板東英二の定宿にはなっていないようだった。反植民地化の勢いを駆ってゆで卵顔女性の胸像に圧倒される独立公園に侵入したのだが、そこでは何故か女子学生が行進の練習をしている光景が目に焼きついてしまった。

結局バンドンと板東英二との関連の解明には至らなかったため、Hoka Hoka Bentoの出店が見られるバンドン駅から列車パラヒャガン号のエクセクティフクラスに乗り、インドネシアの首都ジャカルタに戻ることにした。列車が線路脇に密集するスラム系の住宅街を抜けると車窓からはジャワ島のジャングルを開墾して形成した美しい棚田が次々と流れていった。

あたりの景色が深い緑からスラム系瓦茶色に変化し、ついには摩天楼が姿を現した頃、かつてスカルノ大統領の愛人から第三夫人に成り上がったデヴィ夫人が幅を効かせていたはずのジャカルタに足を踏み入れることとなってしまった。パラヒャガン号がジャカルタの中心部に位置するガンビル駅に到着した時間は夕刻4時近くでしかも小雨が降っていたため、とりあえずホテルに向かうためにちょっとした街歩きをかますことにした。

人口1100万人を誇り、東南アジア最大の都市であるジャカルタにヤシの木のように生えている摩天楼を見上げながら歩いていると意外ににデブ夫人のような恰幅系の女性には遭遇しなかった。これもひとえに赤道直下の熱帯気候により活発になった新陳代謝の賜物であると思われた。それと同時にJAL破綻の遠因となっているはずの放漫ホテル経営を象徴する巨大な箱物NIKKO JAKARTAもリストラの対象にならなければならないはずである。

STARWOODSのポイントが余っていたのでマサであればUS$50くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るル・メリディアン ジャカルタホテルにチェックインし、夕食のビュッフェレストランでデヴィ夫人がデブ夫人に成長しないように厳密にカロリー計算されたメニューに舌鼓を打ちながらジャカルタの夜は更けていった。

2月14日(日)

ジャカルタでの安全確保のためにスリの出没の多い市内バスは避け、比較的安全なトランス・ジャカルタという専用道路を走るバスに乗車した。日曜日の今日は何がしかの祭りが行われているような雰囲気でパレードの列が歩行者天国となっている幹線道路を練り歩いていた。

国立中央博物館前で下車し、その足で博物館に向かったのだが、何故か休館だったため、若い頃に東洋の真珠と評された美貌を誇るデヴィ夫人のようなインドネシア通に成り上がるという野望は断念せざるを得なかった。ところで美川憲一グループ所属のデヴィ夫人の本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノと言うのだが、旧名(日本名)は根本七保子だと言う事実は美川憲一や神田うのであっても知らないのではないかと思われた。尚、奴は軍事クーデターによりスカルノ大統領が失脚するとフランスへとっとと亡命しやがったのであった。

ジャカルタ中心地のシンボルとして独立記念塔(モナス)がそびえているので広大なムルデカ広場となっているその敷地内に足を踏み入れようとしたのだが、柵で囲まれたその広場は容易に市民の侵入を許さない構造になっており、入り口にたどり着くまでに数百mもの距離を汗だくになって歩かなければならなかった。

ここムルデカ広場でも何らかの催し物が行われている様子でチープな仮装パレード等で大変な賑わいを見せていた。独立記念塔はエスニックなレリーフが施された壁で囲まれており、Rp2000を支払って中に入ると台座部分が博物館になっており、インドネシアの歴史を48のジオラマで学習することが出来るようになっている。しかし、展望台へのエレベーターに乗るためにはインドネシア人と一緒に長蛇の列に並ぶ必要があったので慎んで辞退させていただいた。

マサよ、君はかつてのオランダ東インド会社の拠点バタビアに足を踏み入れ、おびただしい数の停泊船を見ながらそれらがはるばる長崎まで来やがっていた鎖国時代の光景に思いを馳せたことがあるか!?

ということで、トランス・ジャカルタでジャカルタ湾に面した北部のコタ地区まで足をのばすことにした。オランダ植民地時代にはジャカルタはバタビアと呼ばれ、港町として栄えていた。その政治の中心地だっだのが旧市街のコタであるのだが、今ではすっかりさびれてしまっている。スンダ・クラバ港が当時の港町の繁栄を思い起こさせるかのように数多くの観光バスを集めているのだが、そこにはおびただしい数のピニシと呼ばれる古い木造帆船が停泊し、忙しく荷揚作業を行っている様子を垣間見ることが出来る。また、ジャワ海を航海する原住船員が観光客を船内に招きいれ、船の模型等の土産物を売りつけようと躍起になっていた。

海洋博物館(Rp2000)の見張り塔に登り、さわやかな風を受けながら港の遠景を見ていると西洋人をガイドしているツアーガイドのおっさんがここは天然のクーラーだと自慢すると同時に日本人の連中はこのような光景にはあまり興味を示さず、とっとと有名スポットに流れていってしまうぜと皮肉交じりに話していた。

さびれているとはいえ、当時のバタビアの繁栄をかすかに残すコタ地区にオランダ統治の面影である跳ね橋がドブ川系の川に架かっている。しかし1980年代前半に改修されたこの跳ね橋は通路面をアスファルト舗装で固定してしまったため、もはや跳ねることが出来ない代物と化してしまっているのだ。

コタ駅の北側にあるファタヒラ広場には現在博物館になっているコロニアルな建物がいくつかあるのだが、この広場も何らかの祭りの会場となっているようであった。1627年に市庁舎として建立されたジャカルタ歴史博物館(Rp2000)に入場したのだが、館内は不法地帯の様相を呈しており、オランダ総督が使った家具や陶磁器などの触ってはいけないはずのコレクションに対して原住民達は代わる代わる手に取りながら写真撮影を凶行していやがった。

バタビアから船を漕いで長崎まで来ていたオランダ人の拠点の謎を解明することに成功した勢いを駆ってトランス・ジャカルタで一気にブロックMまで南下することにした。大都市ジャカルタを代表するショッピングエリアであるブロックMに深田君も休日の暇つぶしに来ていたはずの巨大デパート「バサラヤ」が君臨していたので買う気もないのに見物することにした。さすがにイスラム教勢力の強い国のデパートだけあり、館内にはイスラムファッション専用のフロアもあり、雑貨用品を売りさばいているフロアでは仏教やヒンズー教関連の民芸品も数多く取り揃えられていた。

ジャカルタの喧騒の中で深田君の深いため息が聞こえてきたような錯覚を覚えたのでガンビル駅前の空港バス乗場からバスに乗り、スカルノ・ハッタ国際空港に帰って行った。尚、国際ターミナルの外見はチープに見えるのだが、内部は数多くの免税品店で溢れかえっており、デヴィ夫人がまとめて土産物を買う時に困らないような配慮がなされているかのようであった。

午後7時5分発のSQ963で午後9時半頃にはシンガポールに戻ったものの、成田へ帰国するANA便が1時間半程遅れるという衝撃の事実に直面してしまったのでシンガポール空港のファーストクラスラウンジで不貞寝を決めこむしかなかった。

2月15日(月)

日付の変わった午前1時前に出発となってしまったNH902便に乗り込み、午前9時過ぎに成田に到着。流れ解散後、午後から裏の仕事へ・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥15,370, シンガポール航空 = S$506.-

総宿泊費 S$68.27, Rp1,687,950 (Rp1 = ¥0.0127)

総空港バス代 Rp110,000

総鉄道代 Rp50,000

総Trans Jakarta代 Rp14,000

総インドネシアビザ代 US$25

総空港使用料 Rp150,000

協力 ANA,シンガポール航空, HILTONHHONORS, STARWOODS HOTELS

FTBJ長崎龍馬の道ツアー

♪ポルトガル人がっ、ながさきへ~~~ カステラ (カステラ) カステラ (カステラ) めいげつど~の カステラ~~♪

ちゅ~こって、福岡県の植民地になっとるごとある山口県下関市彦島出身のロンドンブーツ1号2号の淳も子供ん頃、耳にしよったごとある明月堂のカステラソングば聞きよってポルトガル人がうまかもんば伝えるためにはるばる船ば漕いで来よったことが今でも印象に残っとるけん、その苦労に報いるために長崎まで足ば運ばんといかんと思いよったちゃ。今回たまたまNHKが仕組んだごとある陰謀のために龍馬の足跡ばたどらんといけんごとなってしもたけん飛行機ば飛ばして来ることにしたっちゃ。

2010年1月9日(土)

午前8時20分発ANA660便で約2時間ば機上で過ごしとって10時半頃長崎空港に着いたっちゃ。空港バスで長崎市街に着きよった頃に丁度腹が減ったけ、昼飯にしようと思いよった。横浜と神戸と並んで日本三大中華街と言われとる新地中華街ば彷徨いよったら、宝来軒ちゅう老舗の中華料理店があったけん、とりあえず入って見ることにしたんよ。長崎に来てちゃんぽんば食わんかったら長崎に来たことにはならんけん、1600円もはたいて特製ちゃんぽんば注文しちゃった。マサであればちゃんぽんと言うとビール、日本酒、焼酎、ウイスキー等を一気飲みせんといけんと思いよろうが、宝来軒の特製ちゃんぽんはエビ、イカ、しいたけなど料理人が吟味ばしよった贅沢な具をふんだんにつこうとる絶品やったとよ。

腹も丁度いい具合に膨れよったけ、デザートにカステラでも食おうと思いよって明月堂ば探したんやけど、見つからんかったけ、文明堂総本店ばちら見してお茶ば濁さんといけんかった。その近くに鎖国時代に西洋に開かれとった唯一の窓口として日本の近代化に大きな役割ば果たした出島(¥500)が復元されよるごとあったけん見物ばかますことにした。

出島では史跡西側を復元ゾーンにしとって、復元建造物10棟において、「日蘭貿易」と「出島での生活」ばメインテーマにしとる当時の代表的な輸出入品の紹介や商館員の暮らしぶりば再現されとったんやけど、オランダ商館長(カピタン)の事務所や住居として使用されとったカピタン部屋の豪華さとかミニ出島といわれとる15分の1の模型とかが印象に残ったっちゃ。

出島で江戸時代のオランダ人が感じた閉塞感に耐え切れんごとなったけん、オランダ坂で大声でおらんだ後、孔子廟・中国歴代博物館(¥600)で目先ば変えてみることにしたと。孔子廟は孔子を祭っとることには間違いないんやけど、ここのすごかところはなしかわからんが北京故宮博物館と提携しとるところらしいとや。

今夜泊まることになっちょる長崎全日空ホテル・グラバーヒルにチェックインばかました後、その近くに君臨しとる大浦天主堂(¥300)にお参りすることにしたんよ。1864年に建立ばされた日本最古の木造ゴシック造りの大浦天主堂は国宝にも指定ばされとる由緒但しい教会ばい。ちなみに教会内部は撮影禁止になっとるんやけど、一枚くらいいいやろうと思いよった観光客が写真ば撮ろうとするとクラされるかも知れんけ、注意せないけんとよ。

また、かくれキリシタンとして長い間迫害ばされよった信者が1865年3月17日にフランス寺こと大浦天主堂に来やがってマリア様の前で信仰ば告白しよったそうや。この出来事は信徒発見と呼ばれとって250年間にわたって一人の司祭もなく信仰を守り通しよったことは、全世界に大きな話題ば呼びよったそうなんや。さらにローマ法王であらせられるヨハネ・パウロ二世もここに来た時に「ほ~お~ これはすごい」と言ったかどうかは定かやなかったんよ。

天主堂に付属しとるごとあるちょっとした展示家屋で踏絵のレプリカを見てフルヌードば披露することば決意した細川ふみえのようには決して踏みきれんたいと思った後、コルベ神父ば奉っちょる展示コーナーにしばし釘付けになってしもたとや。ポーランド出身のコルベ神父は1930年に長崎に到着し、そのまま真直ぐに大浦天主堂を訪ねたんや。1936年にポーランドへ帰国したコルベ神父は1939年9月にポーランドに侵攻したナチス軍に捕らえられ、多くの囚人たちと苦しみを共にすることになりよったと。ほんでついに1941年8月14日にひとりの若い軍人の身代わりになってアウシュビッツ強制収容所の地下の飢餓室に監禁され2週間生き延びたものの最後には注射ば打たれて殺害されたんやって。去年のゴールデンウイークにアウシュビッツば訪問しとったんやけど、これでコルベ神父の悲しいストーリーと話ば繋がったような気がして感慨深いもんがあったちゃ。

大浦天主堂の裏手の山の手にグラバー園(¥600)が長崎を代表する観光名所として君臨しとるごとあるけん、足ば踏み入れてみることにした。スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーは1859年に長崎に来日し、グラバー商会ば設立して暴利ば貪ると同時に幕末の志士を陰で支えた日本の夜明けの立役者の1人なんよ。そのグラバーが南山手の丘に住まいを建設したんは1863年のことやけど、今ではいくつかの洋館もこの地に移築され国の重要文化財として手厚く保護ばされちょるごとある。

グラバー園にインストールばされとるエスカレーターでまずは展望台まで這い上がり、港と海辺ば支配しちょる三菱重工長崎造船所等の遠景ば満喫した後、各見所の見物ばかますことにした。まず目についたのは口から水を吐くごとなっとる明治時代の人面水道栓やったんやけど、寒くなったけ旧オルト住宅に避難ばすることにした。茶の貿易で日本の緑茶を世界に宣伝しよったウィリアム・オルトは長崎三大女傑の一人として有名な大浦のお慶と手を組んで事業ば展開しよったごとあった。お慶は幕末の志士達ば積極的に支援しよって、龍馬が借金ば申し込んでも即座にオッケイしよったごとあった。オルトん家は長崎に残る石造りの洋館の中でいっちゃん大きく部屋がたくさんあるけ、お慶が訪ねて来た時に「オルトはどこにおると?」と探し回っとる光景が目に浮かんできたっちゃ。

一方、1863年に建立された旧グラバー住宅は日本最古の木造西洋風建築なんやけど、見取り図には書かれとらんはずの窓のない隠し部屋もあったっちゃ。グラバー住宅には薩摩や長州の幕末の志士達がようけ出入りしとったごとあるけん、たまにはやつらを匿わんといけん時もあったんやろう。また、グラバーはキリンビールの前身となっちょるジャパン・ブルワリ・カンパニーも発足させとったんやけど、今のキリンのラベルの元になったこま犬の彫刻も一番絞りの新鮮さを失わんごと大事に保管ばされとるごとあった。

なしかわからんが、ハート型の石がライトアップされとったけ、そいつに投げキッスば決めた後、グラバー園の土産物屋で目に入ったカステラグッズに圧倒され、さらにホテルに戻る道すがらにカステラ神社まで発見してそのご利益がどげんなものかわからんので見て見ぬふりばするしかなかったんよ。

1月10日(日)

平成22年1月2日から期間限定でオープンしちょる長崎まちなか龍馬館(¥300)ば軽く見学して長崎における龍馬の足跡をダイジェストで学習しよったときになしか首なし龍馬の人形が展示されとったんを見つけたんやけどこいつはにわか龍馬かぶれの観光客が顔を出して写真を撮るための人寄せ龍馬人形やったんよ。

長崎まちなか龍馬館に展示されとるちっこい文字の説明ば読みすぎて目がかすんできた感じがしたけ、視力ば取り戻すために眼鏡橋に行くことにした。この橋は日本最初の2連アーチ式石橋なんやけど、昭和57年の長崎大水害で半壊した後に復元されとって、鏡のような水面に写っとる様子ば見るとほんまもんのメガネんごとやった。

マサよ、君は日本初のカンパニー(貿易商社)が長崎の坂道にひっそり佇んどったんやけど、最近の観光ブームで人が入り切れんごとなりよる様子ば見たことがあるとか!?

ちゅうわけで、坂とは傾斜5%以上の道のことを言うんやけど、長崎は80%以上が坂で形成されとるごとある。どおりでチャリンコの姿をあんまり見かけんと思いよった。眼鏡橋の東は急な坂道が続く丘陵地帯になっとるごとあって、わずかに猫の排泄物の香りが漂っちょる坂道ば登っとると亀山社中資料展示場に到着した。亀山社中は、慶応元年(1865年)薩摩藩などの援助により、坂本龍馬が、長崎・伊良林に同士と組織しよった日本最初のカンパニーと言われとる結社たい。現在は地元の有志による「亀山社中ば活かす会」によって活かされとるごとあるんやが、展示場内は福山雅治と坂本龍馬の写真に挟まれて記念写真ば撮ることがブームになっとるごとあった。

かつて坂本龍馬をはじめ長崎に来往ばする志士等がぎょうさん参拝し、日本の夜明けがはよ来るように祈願ばしとったという若宮(勤皇)稲荷神社に龍馬の銅像が仁王立ちばしとる姿を見に行ったと。ここでなしかわからんが龍馬御守ば買わないけんごと思いよったけん、¥500の大金ばはたいて購入しとったちゃ。

若宮稲荷神社の龍馬像をモデルにしてさらに巨大な坂本龍馬の銅像が坂道を登りつめた風頭公園に立ちふさがっとるごとあるけん、すでに疲れちょる足腰に鞭打って行ってみることにしたんよ。龍馬の銅像への道のりは亀山社中の社員により丁寧に案内されとるけ、道に迷うことはないんよ。長崎の港ば見下ろすようにして立っとる龍馬の銅像は左足が台座からはみ出しとるんやけど、これは龍馬が型にはまらんスケールのでかい人間やということを示しちょるちゅうこっちゃ。

風頭公園から龍馬通りば駆け下りて亀山社中記念館(¥300)になだれ込んだ。ここが正真正銘の亀山社中の跡でこの記念館は、亀山社中の遺構として今に伝わる建物ば、所有者の厚意により、2009年8月1日から長崎市が整備・公開しちょるもんたい。亀山社中前ポケットパークに「龍馬のぶーつ」が無造作に置かれとったけん、靴磨きでもしたろうかと思っとたんやけど、人が多すぎてにわか写真家がいい写真が取れんと芸能記者に追われちょるロンドンブーツの淳んごと「ぶつぶ~つ」言いながら腹かいとるごとあったけん足早に退散せんといけんかった。

亀山社中はのちに土佐藩の後援ば得て海援隊になりよったんやけど町なかで海援隊発祥の地の石碑が説明文付きで建っちょたけ一応見てやることにした。ここは土佐商会の跡にもなっとるごとあるんやけど坂本龍馬が暗殺された後の海援隊は三菱の創始者の岩崎弥太郎の「わしがやったろう!」の一言で引き継がれよったらしいとや。その後の海援隊は♪くで だずぶ ばちの ひかりと かげの~なか♪で武田鉄矢が持っていきやがったんはマサでも知っちょろ~が。

長崎の町中をさるく(歩く)こと2日間、町の至る所で福山雅治のポスターば目にせんといけんかったんやけど、今年は残念ながらマサの年になるんは避けられんごとある。福山本人は「実におもしろい!」と思っとろうが、ガリレオとの区別がつかんごとなってしもたけん長崎市をあとにしてハウステンボスに逃げ込むことにしたんよ。

長崎駅前バスセンターから高速バスに乗って、1時間程走りよったら佐世保市ハウステンボス町1-1にあるハウステンボスに着いたっちゃ。今回のツアーではハウステンボスくんだりまで来よってハウステンボスに入らん予定の代わりに巨大なお城んごとある存在感が眩しかハウステンボスジェイアール全日空ホテルに泊まることにしとった。そやけどせっかく来たんやけホテル側からハウステンボスをちら見しよったんやけど、会社更生法から少しでも早く再建ばするためにはミッキーマウスをヘッドハントするかトータステンボスを社長にして吉本興業の支援ば受けんといけんやろうと思ったちゃ。

ホテルの天然温泉ば入ってゆっくりくつろぎよった後、テレビでNHKを付けると夜8時に忘れかけちょった福山雅治が出てきよったんでもう逃げられんと観念せんといけんかった。

1月11日(月)

ハウステンボス駅からJR佐世保ライナーで佐世保駅に着いたんやけどいきなり佐世保バーガーの横断幕とオブジェで出迎えられてしもうた。とりあえず観光案内所でガイドブックば入手して観光地を確認したんやけどあんまりぱっとせんかったけ、今年阪神に入りよる城島健司ベースボール記念館(¥400)にキャッチャーの矢野から頼まれとらんのに勝手に偵察に行くことにした。

この記念館は城島の出身地である佐世保市相浦町にあって野球選手のよか副業んごと適当に客も入ってきよるごとあった。展示品はお約束の幼少時代からの写真やユニフォーム、野球グッズなんやけどアテネオリンピックの銅メダルやWBC金メダル、イチローのサイン入りバット等、貴重品もようけあるけんあなどったらいけんとよ。高校でゴジラ松井を凌ぐ70本のホームランを打ちよった城島は大分別府大学付属高校の入学式の翌日に4番キッチャーで試合に出ていきなりサヨナラホームランを放ったとか怪物話がようけあるけん、阪神のキャッチャーがここに来よったら自信ばなくしよるけん、絶対来んほうがいいと思ったっちゃ。

今回佐世保に来たいっちゃん大きい理由は佐世保バーガーをご馳走になることやったけ、佐世保バーガーマップを手に店ば物色することにしたんよ。佐世保はハンバーガー伝来の地と言われちょるごとあり、昭和25年頃、佐世保に駐留しとった米海軍が地元の田舎もんにレシピば伝えよったんが始まりと言われとる。尚、佐世保バーガーは認定制度ば取っちょるようで徹底的に手作りで、地元食材を使うた各店を認定店としよるわけで認定店にはアンパンマンの兄弟と言われとる佐世保バーガーボーイというキャラクターが目印とされとるわけや。しかもこいつのガールフレンドの「させぼのボコちゃん」もヤンキーにボコボコにされんごと幅を利かせとる。確かに佐世保にもマックやロッテリアはあるんやけど、勝手に佐世保バーガーを名乗ったらぶちクラされるけ注意せんといけん。

佐世保バーガーマップを見るとハンバーガー専門店もあるんやけど、普通の食堂や喫茶店、ホテルのレストランも認定されとるごとあったけん、まずはホテルリソルのレストランに乱入して佐世保に伝来した当時の味ば再現しとる「復刻バーガー」を¥680も払って味見してみることにしたんよ。値段の割りには普通のハンバーガーやったけ、これはハシゴして食べ比べんといけんごとなって手作りハンバーガーショップLUCKY’Sにも寄ってみることにしたっちゃ。もうでかいハンバーガーは食えんけ、小さいサイズのやつを発注してとりあえず味比べだけは出来たんので納得して撤収することにした。

役に立つワンポイント九州語講座

・クラす

九州最強の脅し文句として君臨し、これを聞くと誰もが恐怖で震え上がる「クラす」とは殴るとか泣かすという意味で♪ちっちゃなころから♪ちっちゃかった福岡県久留米市出身のチェッカーズの藤井フミヤも好んで使うとったごとある。尚、能動態で使わんといけん場面であっても何故か「クラされるぞ!」という具合に受動態で使うことも多いんよ。さらに語気を強めるために「ぶちクラすぞ!」というフレーズも気軽に使われ、通常の「クラす」の2倍くらいの威力ば感じることがあった。九州で育ちよった青少年はひとつ屋根の下で暮らす父親から少なからずかけられた言葉でもある。財務官僚が使わないけんケースとしては事業仕分けの達人である必殺仕分人の蓮舫が横着な事を言いやがったら「テメぇ~ クラっそ! この クラリオンガールが、」くらいは言い返さんといけんやろ。

マサよ、必ず普及させとけよ。普及させんとクラされっど。

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ただ

総バス代 ¥4,120

総JR代 ¥270

総市電代 ¥120

協力 ANA、IHG ANAホテルズグループ、長崎県営バス、西肥バス

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 青い楽園フィジー

マサよ、君は南太平洋に浮かぶ楽園のゆったりとした時の流れに身をまかせ、非日常的感覚から社会復帰出来なくなりそうな脅威を覚えたことがあるか!

というわけで、昨年の年末年始はキリマンジャロ登山サバイバルツアーを敢行し、空気の薄い環境の中で天国という楽園との境界を彷徨ったわけであるが、今回は文字通りの楽園というものがいかなるものかを体験するために赤道を越えて南太平洋の十字路に繰り出すこととなった。

12月28日(月)

コンチネンタル航空がスターアライアンスの会員になったおかげで出発までのひと時をおなじみのANAのFIRST LOUNGEで快適に過ごすことに成功すると午後5時15分発のCO07便グアム行き、B737-800機に乗り込み、約3時間半のフライトで太平洋のハブ空港となっているグアム国際空港に1時間の時差を越えて午後10時頃到着した。乗り継ぎのためグアムには上陸しないことになっているのだが、入国審査を受けさせられて無理やり入国の憂き目に遭った腹いせに普天間基地の全面移転を鳩山総理に成り代わって話しをつけようと思ったのだが、元自民党総裁と同じ名前を持つ私の出る幕ではないと考え、差し控えることにした。

2009年12月18日に開設したばかりのグアムとフィジーのナンディ国際空港を結ぶ新路線をひょんなことから発見していたので午後10時55分発CO948便、B737-800機に搭乗するとガラすきの3列席を占拠しながら快適な空へと旅立ったのだ。

12月29日(火)

離陸後約6時間のフライトでフィジー沖に差し掛かり、窓のシェードを開けると眼下には青い楽園にふさわしい珊瑚礁の海が朝日に照らされていた。

午前8時30分にフィジーだけでなく、南太平洋のハブ空港として君臨しているナンディ国際空港に到着し、軽い入国審査を経て到着ターミナルへ入場するといきなり生バンドのトリオの南国演奏で歓迎され、いやがおうでもリゾート気分が高まってくるのであった。

空港を出た大通りにバス停があったのでローカルバスに乗り込みフィジアンスマイルを湛えた原住民と共にナンディのダウンタウンに向かった。尚、フィジー諸島共和国は330もの島々から成り、陸地面積は四国とほぼ同じ小さな国である。今回はその島々の中から最大のビチレブ島に的を絞り調査を決行することになったのだが、町を歩いているとあちこちで「ブラ!」という声を浴びせかけられ、思わずワコール、トリンプはたまたピーチジョンの世界に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えさせられた。

フィジーはかつて英国領であったため、英語が公用語のひとつになっているのだが、「BULA !」という挨拶は現地語として使い続けられており、町をブラブラ歩いているとひっきりなしに「BULA」のシャワーを浴びることになり、その度に脇や背中の肉が胸に集められ、ワイヤーで寄せて上げられるような脅迫感に苛まれてしまうのだ。

ビチレブ島西部のナンディは文字通りフィジーの玄関口になっているのだが、ダウンタウン自体は以外に小さく約1kmのメインストリートに各ショップがひしめき合っているのだ。とはいうもののフィジーの国花であるタンギモウジアは至る所で真っ赤に咲き乱れ、市民の台所となっているマーケットでは収穫されたばかりの野菜やイモ類が山積みになっている有様はマサに南国模様そのものである。

手作り民芸品を売っているハンディクラフトマーケットに軽く足を踏み入れたのだが、ブラと言わせたからには手ブラで帰すわけにはいかねえぜといった燃える商魂が漂っている気配もなく、観光客は落ち着いて物品の物色が出来る体制になっていることが確認出来た。

フィジーくんだりまで来てセレブなリゾートホテルに宿泊しなければフィジーに来た意味が無いと言われているので世界的にも有数の大規模リゾート開発地区であり、ビチレブ島西側ナンディタウン郊外に位置するデナラウ・アイランドに徒歩で上陸することにした。デナラウは小さな島で本島とは狭い水路で隔てられているだけで通常は車に乗ったまま橋を渡って行き来することが出来るのだが、島の入り口には24時間警備員が守るゲートがあり、完全に外界とは隔離された桃源郷となっている。

デナラウ地区にはビーチ沿いに7つのホテルが仲良く軒を連ねており、初日はその中でも最高峰であるはずのフィジー・ビーチ・リゾート&スパ・マネージド・バイ・ヒルトンに意気揚々と乗り込んだ。チェックインするには少し時間が早く、日本人スタッフのYukoも中々捕まらなかったのでとりあえずホテルの散策を先にこなすことにした。青く輝くプール脇のビーチに面して建つ「ヌク・レストラン」でフィジーの地ビールである「Fiji Gold」とシーザーサラダを飲み食いしてさわやかな海風にあたり、胃腸の調子を整えていた。

ビーチのパラソルの下のクッションで寝不足を補った後、Yukoの案内でビーチフロントの部屋へと向かった。パティオから太陽の光が燦燦と差し込む広々とした部屋は吹き抜けのバスルームからベッド越しに海を眺められる構造になっていると同時に外を歩いている人からもバスルームを覗かれるスリルも提供されているのだ。

夕暮れ時に意識を取り戻すとビーチ沿いの散歩と洒落込んだ。いつの間にか隣のソフィテルの縄張りを通り越してウエスティンのビーチに迷い込んでいる内にサンセットを迎えてしまった。オレンジ色に染まる西の空とぽっかり浮かぶ船、そよ風に揺れるヤシの木のコントラストはマサにこの世の楽園にふさわしい幻想的な風景であった。

12月30日(水)

早朝より日課となっているビーチの散策がスタートした。そもそもデナラウはマングローブが生い茂る湿地帯を埋め立てて形成され、またナンディ川が土砂を運ぶ河口に位置するため海の透明度はそんなに高くないのだが、砂浜はよく手入れが行き届いており、またビーチでスパのトリートメントを受けるためのファシリティもセットされている。海に入って静かに打ち寄せる波と戯れていると足の裏に執拗に攻撃を仕掛けてくる未確認生物のハサミのような感触を覚えたのだが、海水が濁っているのでその実態を解明するには至らなかった。

ヒルトンをチェックアウトするとデナラウ地区を巡回するデナラウ・シャトルで天井に草が生えている通称ブラバス(F$6/day)に乗り込み数多くのリゾート・フェリーが発着するポートデナラウに向かった。マリーナには数多くのクルーザーが停泊しており、ここから珊瑚礁に囲まれた白砂の離島に行って満足して帰ってくることが出来る体制が整っているのだ。

ブラバスでデナラウの中心部を形成するデナラウ・ゴルフ&ラケットクラブをスルーして、今日の宿泊先であるザ・ウエスティン・デナラウアイランド・リゾート&スパ、フィジーにしけ込んだ。このリゾートは全体的にフィジーの伝統建築の流れを組み込み、重厚かつ南国ムードあふれる雰囲気を醸しだしている。

さらにスターウッド・ホテル&リゾーツというグループを形成する他の2つのシェラトン系のホテルとは隣接する立地条件になっており、シェラトン所有の無料のブラバスで各ホテルの玄関も結ばれ、いちどの滞在で3倍のリゾートを体験出来るマサにリゾートのコンビナート状態が提供されているのだ。

夕飯時に再びポートデナラウに繰り出すことにした。ここはマリーナだけでなく、いくつかのショップやハードロック・カフェをはじめとするレストランの出店も見られ、リゾートホテルのレストランよりもお得な価格帯で食事を楽しむことが出来るために連泊のリゾーターは少なくとも1回はここで飯を食っているのではないかと思われた。

日没後のシェラトンのショッピングアーケードは相変わらず多くの人出で賑わっており、予約が必須なはずの高級レストランfeastは赤を基調とした異様なまでの存在感で観光客の散財スピリットに火を付けているかのようであった。

12月31日(木)

ビチレブ島の中でも隔離された感のあるデナラウ地区を後にすると本場のフィジーを求めて炎天下の中、徒歩で1時間かけてナンディバスターミナルまでやってきた。正午発のバスに乗ると幹線道路であるクイーンズロードを南下して行った。ビチレブ島の南の海岸線はコーラル・コーストと呼ばれ、文字通り珊瑚の海が広がっており、フィジーでも早い時期からリゾート開発が行われてきた地域である。

コーラル・コーストを代表し、フィジーらしさを全面に打ち出したアウトリガー・オン・ザ・ラグーン・フィジーは高台のロビーからリゾートの全景と透明な海を見下ろすことが出来る構造になっており、緑豊かなガーデンの中にはフィジーの伝統的家屋を模したブレが点在し、しかも各ブレには2種類のハンモックがインストールされている実態が確認された。

ビーチ沿いを歩いているとリゾートの敷地外に出てしまったのだが、馬がうまそうに草を食っていたのでそのまましばらくあたりをさまようことにした。リゾートに戻ると原住従業員が伝統的打楽器とホラ貝でゆく年くる年の雰囲気を高めようと躍起になっていた。

すっかりおなじみとなったフィジーの息を呑むほど美しい黄昏の光景をバックに戯れていた少女AとBが♪じれぇた~い じれったい♪と言わんばかりに新しい年を待ちわびているかのようであった。またプール脇ではフィジーの伝統的儀式であるカバの儀式がおごそかに執り行なわれていた。カバとは南太平洋一帯に生える胡椒化の木のことで、カバの儀式ではこの木の根を乾燥させ、パウダーになるまで付き砕き、それを水で濡らして絞り出した汁を回し飲みして親交を図ることが目的であるのだが、同じブラ繋がりであってもタニマチとして押尾被告にドラッグ部屋を貸し与えていたピーチジョンの野口美佳社長のような胡散臭さのない神聖な儀式であることは疑いようもなかった。

午後11時45分にプールサイドの芝生の近くに人だかりが出来ると「BULA!」の掛け声も高らかに片側に火の付いたバトンを手にしたポリネシアン・ダンサー群がガソリンの残り香とともに登場した。彼らは驚いたことに素手で炎に触り、バトンの片側にも点火するとお約束の火の玉バトントワリングの開始となった。ダンサーはものすごいスピードでバトンを回したり、バトンを回転させながら高く放り上げてキャッチに成功したり、失敗したりしながら観光客に「BULA!」の声援を強要させていた。

ポリネシアンダンシングの興奮も覚めやらぬまま、観光客は芝生広場に参集し、ついにカウントダウンを迎える時間の到来となった。

1月1日(金)

ハッピー ニュー マサよ! ブラ!!

ということで、間延びするほど長かった1分前からのカウントダウンもついに5秒前になり、ついに2010年の新年が時と告げると「BULA」の新年ボードに明かりが灯され、皆一様にブラと叫びながら、あたりに散らばらせた風船を踏み割って破裂音を発生させていた。30分ほどの新年を祝う喧騒を経た後、会場スタッフが機材の撤収作業を始めやがったので新年の饗宴は流れ解散的にお開きとなったのだ。

昨年はキリマンジャロ山頂で初日の出を拝み、それはむこう30年くらいの効力があると信じて疑っていないので今年は太陽の昇りきった時間に余裕をこいて起きだすことにした。アウトリガーの近辺にもいくつかのリゾート施設が展開されているので海岸沿いをブラブラしながらそれらを遠巻きに眺めていた。昨日出会った馬は今朝は鞍を付けられて乗馬観光客を迎えるべく待機させられていた。

記念すべき2010年のスタートを切ったアウトリガーをチェックアウトするとローカルバスに乗り込みビチレブ島南岸を東に向かってひた走った。3時間以上かけてバスはついにフィジーの首都であるスバのバスターミナルに滑り込んだ。

スバは南太平洋随一の大都市と呼ばれるフィジーの首都でリゾーターはほとんどこの町を訪れることはないのだが、フィジーの実態を知る上でFTBの旅程に組み込んでおいたのだ。町の雰囲気は南の島にしては大都市の様相で多くの船が停泊している埠頭や近代的な行政府のビル、カトリック・カテドラル、ショッピング・センターのビル群等が林立しているのだ。

このような都会的光景を目にするとスバはスバらしい所だと思えるかも知れないが実態は外務省も「十分注意して下さい」の警告を出しているほど強盗等の犯罪が多発している地域だそうだ。スバではブラという挨拶の割合が少なくなったものの、町をブラブラ歩いていると、とある煙草を1本手にした謎の男が近藤真彦でもない私に対して「マッチ、マッチ」と近寄って来た。♪そいつが お~れの やりかた♪である♪ギンギラギンにさりげなくぅ♪やり過ごすとそいつは♪愚か者♪に変貌することなく私の前を過ぎさって行ったのだった。

1月2日(土)

熱帯地方特有の降水量の多さで部屋にカビのフレグランスが漂っているHoliday Inn SUVAをチェックアウトするとフィジーの歴史を学習するために熱帯地方の植物が生い茂るサーストン・ガーデンを抜けフィジー博物館(F$7)を訪問させていただくことにした。

館内には各種古典ボート類やフィジアンの文化・習慣などを伝える生活用品や武器等が展示されているのだが、中でも私の関心を引いたのはフィジー人とインド人の関係の歴史であった。フィジーの民族構成はフィジー系が57%、インド系が38%となっている通り、この国にはおびただしい数のインド人が暮らしている。フィジーに最初にインド人が来島したのは1879年で当時はフィジーもインドもイギリスの植民地下にあった。イギリスはフィジーにサトウキビプランテーションを開き、その労働力として勤勉なインド人を移住させたのだが、その後移住者は増え、プランテーションの契約が切れた後もフィジーの環境を気に入ったインド人が居座り続け、今日に至っているのだ。のんびり屋でマイペースなフィジー人とは水と油のような関係であったインド人に引導を渡そうとした時期もあったそうだが、独立後インド人による産業基盤の確立が大きな役割を果たしたという実績から今ではすっかり市民権を得たインド人もフィジーに根付いてしまっているのだ。

フィジー博物館を後にし、日本から払い下げられているタクシーを横目に埠頭沖の鮮魚マーケットにおびき寄せられた。そこには水揚げされたばかりの大小さまざまなカラフルな魚やマングローブを棲家とする蟹が拉致されており、一山いくらの感覚で原住民同士の取引が展開されていた。

大都市スバの胃袋となっているマーケットは2階建てになっており、生鮮食品売り場の1階と比較して2階ではカバの儀式に使う植物の根やインド人のために色とりどりのスパイスが袋詰めで販売されていた。マーケットの外で鼓笛隊の演奏サウンドが響いていたので様子を見にいってみると何らかの新年系のパレードが展開されており、スバの年始の光景を彩っていた。また埠頭沿いではピクニックをしている家族連れも多く、何故かスカートを穿いている男性を数多く目にしたのだった。

思いがけずスバのすばらしさを実感することが出来たのでローカルバスでナンディに帰る道すがら、途中立ち寄るバスターミナルでトレイに盛り付けられラップにくるまれた軽食を購入し、車内で食った後にそのパックを窓から投げ捨てているフィジー原住民のファジーな感覚に慣れてきた頃、空港に到着した。

今日で最後となるフィジーの夕焼けを空港で眺めながら、社会復帰にいったいどれくらいの月日が必要となるのか不安に駆られながら次は離島に行かなければならないという決意を固めていた。

1月3日(日)

深夜1時40分発CO949便にてグアムに戻ってきた。早朝のグアム国際空港は年末年始をお手軽な海外で過ごしてきたエコノミー観光客で大変混雑していたのでその間隙を縫うようにしてCO961便に乗り込み午前10時前には成田空港に到着し、そのまま流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー

総飛行機代 \142,710

総宿泊費 F$1,560.46 (F$1 = \50)

総バス代 F$41.10

協力

コンチネンタル航空、HILTONHHONORS、STARWOOD、INTERCONTINENTAL HOTELS GROUP