FTBスペシャル マヤの聖地にマサの正体を見た!!!

コモエスタ マサよ!!

ということで、長年にわたり私の裏の仕事であったシマンテックからFA宣言して1ヶ月あまりの歳月が流れてしまった。その間、リクルート業界の目玉を獲得するために様々な業界各社の間で壮絶な争奪戦が繰り広げられてきたのだが、FTBの次の活動資金源となる移籍先との交渉が佳境を迎えてきたため、移籍を完了させる前に古代の遺跡を巡って身を清めておく必要があると考えたので遺跡巡りに最適な環境が提供されているユカタン半島まで羽を伸ばすことにした。

2005年2月23日(水)

今月2回目の搭乗となるANA006便ロサンゼルス行きは機材到着の遅れにより、定刻より1時間半ほど遅れて離陸となったため、現地に到着したのは正午に近い時間帯であった。早速ハーツでヒュンダイ小型車をレンタルして太平洋湾岸通り1号線を北に向かって走っていたのだが、サンタモニカ近辺で崖崩れ系か何かのインシデントにより道が通行止めになっていたため、迂回してUS101号線を北上することにした。

サンタ・バーバラ沖合に野生動物の宝庫となっている4つの美しい島々が浮かんでおり、Channel Islands National Parkとして君臨している。そのビジターセンターが101号線沿いのVentura Harborに付属しているので見物してみることにした。おびただしい数のヨットが停泊している港の脇の建物の中にはChannel Islandsの各島の説明資料や動物達の剥製やレプリカが展示されていた。ビーチからはChannel Islandsの姿が遠巻きに写し出され、寒風の中をBodyボードに精を出している若者の姿も見受けられた。尚、Channel Islandsへは近隣の港から定期船が出ているのだが、今回はスケジュールの都合で訪問を見送らせていただいた。

夕飯時になったのでサンタモニカに戻り、今、日本の貧乏人に対して最も貴重なご馳走を提供する食い物屋であるYoshinoyaで牛丼を食うことにした。ここでは吉牛は供されているものの生卵と味噌汁やおしんこのオプションがなかったので仕方なく、クラムチャウダーとぺプシと一緒に米国産ばら肉を賞味した。日本の国民食である吉牛を久々に食った感激を胸に車に乗り込むとその勢いを買ってブレーキとアクセルを踏み間違えて店に突っ込むパフォーマンスをやろうかと思ったが、何故かそのままロサンゼルス空港近くのMotel6に引きこもり、玉葱の甘さをかみしめて夜を更かすことにした。

2月24日(木)

早朝6時発のUA1296便にてデンバーに飛び、そこからUA968便に乗り換えてメキシコ最強のリゾート地として多くの行楽客をかき集めているカンクンへ向かった。午後3時半頃カンクン国際空港に到着したのだが、入国エリアには見たこともないような人数のリゾート待ちの観光客でごった返していた。軽く1時間以上の時間をかけて何とか入国を果たし、US150$を1,500メキシコペソ(N$)に両替すると空港の出口近くに停泊していたセントロまでのシャトルバス(N$15)に乗り込み、カンクンのバスターミナルに向かった。

バスターミナルでユカタン州の州都であるメリダ行きの1等バス(N$191)のチケットを購入して待合スペースでADO社のバスを待っているとむさくるし系の日本人男子が「Where are you from ?」と英語で話し掛けてきやがった。私が日本人であることを把握すると奴はなつかしそうに中南米を長らく旅してきたが、初めて日本人に会ったぜと言いやがったのだが、私にして見ればいきなり会った奴が日本人であるという非常に不本意な状況が提供されてしまったわけであったのだ。

6時半にカンクンを後にしたバスはハイウエイをひた走り4時間の時間をかけて夜10時半頃にメリダのバスターミナルに到着した。着いた時間が遅かったため、町は闇夜に包まれているのではないかと懸念されたが、テキーラを要する酒飲み大国メキシコの都市は宵っ張りでソカロを中心とした町のいたるところで人々が溢れかえっていた。とりあえず、ソカロの北300mに位置するコロニアル風の中庭がきれいだが、部屋がしょぼいことが発覚したHotel Montejo(N$325/night、エアコン付き部屋)に引き払い、出来るだけ早く意識を失うように苦心することした。

2月25日(金)

碁盤の目のような完全な条里制が敷かれているメリダの町を練り歩き、町の南部の2等バスターミナルに向かった。「マヤ」というキーワードで街づくりがなされているユカタン半島の代表的な遺跡であるウシュマル行きのOriente社の2等バス(N$32)は9時半に出発すると途中のバス停で原住民を乗り降りさせながら、11時ごろに遺跡のゲート前に到着した。メインゲートのチケット売り場で入場料N$88を支払うとマヤ・プウク様式の代表的な遺跡であるウシュマル(世界文化遺産)の散策に乗り出すことにした。

鬱蒼とした森の中に忽然と出現するウシュマルは7世紀初頭のマヤ古典期に栄えた遺跡であり、プウク様式と呼ばれるマヤ色の濃い建造物で有名である。まず最初に目の前に現れた巨大な建造物は高さ38mを誇る魔法使いのピラミッドである。小人が一夜のうちに造りあげたという伝説を持つこの建造物には様々な彫刻が施されており、頂上は神殿になっているのだが、残念ながら、観光客は神殿に登ることは許可されていなかった。しかし、遺跡内を我が物顔で徘徊するイグアナは自由に行き来することが許されているようだったのでどうしても登頂しなければならない輩はイグアナの着ぐるみが必要ではないかと思われた。遺跡内を巡回していると建造物の壁面のいたるところに彫られている像がある。これは雨神チャック像と言って河川がなく、生活用水を雨水に頼っていたマヤ人に非常に崇拝されていた雨乞いの神様で決して「世界まるごとハウマッチ」に出演していたクラークハッチ体育研究所のウイルソン系のチャックではなかったのだ。

大ピラミッドという高さ32mの大神殿には何とか登頂することが出来たので国指定爬虫類のような面持ちで勝ち誇ったように首を上にもたげているイグアナと一緒に遺跡の全景を見下ろしているとマヤ建築で最も調和の取れた建造物である総督の宮殿や今では壁だけしか残っていない鳩の家や尼僧院、球戯場等のファシリティがすばらしいコントラストで配置されているのが確認出来たのであった。

ウシュマルからATS社のバス(N$35)を拾ってメリダまで戻ってきた。メリダは黄熱病の研究で有名な野口英世が足跡を残した地でその研究を行っていたオーラン病院には野口博士の銅像が建っているそうである。1万円の神様である諭吉の足跡であれば草の根分けても探し出すのだが、所詮千円の価値しかない英世の銅像は差し置いてダウンタウン北部のユカタン人類博物館(N$33)に入館することにした。ユカタンのマヤ文明を学習するのに最適な場所である博物館内にはマヤ人の奇習として知られている変形させて平べったくした頭蓋骨の実物とその作成方法や遺跡から出土した古代地図や彫刻の数々が展示されていた。

夕暮れ時にソカロの広場を歩いている観光客や原住民がベンチに腰掛けながら夕涼みにいそしんでいる姿を目撃することが出来る。ホテルに戻り、付属のレストランで丸刈りになった巨人の清原の頭を思い起こしながらマルガリータを飲み、ユカタン料理のスペシャルを発注すると清原の好きな鳥のささみをほぐして煮込んだものとあずきをすりつぶしたような豆料理とともにメキシコの主食であるトルティーヤが出てきた。この日はのちにトルティーヤの正体を知りマサに愕然とした状況になることも知らずに相変わらずメキシカンはまずいな~と思いながらディナータイムを過ごしていたのであった。

2月26日(土)

2日間お世話になったHotel Montejoを早々に引き払うと、今日も朝から2等バスターミナルを目指してメリダの町を練り歩いていた。チケット売り場でN$51を支払い、8:30発カンクン方面行きのOriente社のバスでチチェン・イツァーまでの2時間半の旅が始まった。メキシコ・マヤ文明が残した最高傑作と言われるチチェン・イツァー(世界文化遺産)の遺跡は昨日訪問したウシュマルよりも規模が大きく、鈴なりに連なった観光バスで訪れているおびただしい数の観光客で賑わっていた。チケット売り場でN$88を支払い、壮大な遺跡群の調査をスタートさせた。

遺跡は大きく新チチェン(10世紀以降)と旧チチェン(6世紀頃)のエリアに分かれていたのでまずはファシリティの整っている新チチェンの探索に向かった。メインゲートから遺跡エリアに出てまず最初にエルカスティージョ(ククルカン宮殿)の壮大さに圧倒されてしまった。9世紀初頭に完成したといわれるこの神殿は高さ25m、9層の基壇を持つ建造物である。傾斜角45度、91段の階段を這うように上がると先客のイグアナが高みの見物をしていたので邪魔しないように遺跡全体のパノラマと地平線まで広がる密林の景色を堪能した。また、神殿のふもとの入口から神殿内部も公開されており、蒸し暑い中、薄暗い階段を登りつめるとそこにはヒスイの目を持つ赤いジャガー像と生贄の心臓を置いたチャック・モール像が鋭い目でこちらをにらみながら鎮座されていた。

敷地内にユカタン半島最大の規模と神話を誇る聖なる泉セノテがたたずんでいる。日照りの時期になるとここに若い処女が人身御供として投下されたり、生贄や貢物が捧げられたそうである。とりあえず私も緑の水面に向かってマサが不正の口封じのための生贄にならないように祈願しておいた。

球戯場という全長150mあるファシリティが開けており、かつてここで豊穣の神に祈りを捧げる宗教儀式として何がしかの球技が行われていた。何でも勝ったチームのキャプテンが栄光をにない、生贄として捧げられたそうで、その様子が首を斬られ、その血が7条の蛇となってほとばしるレリーフとして残されている。日本でいうと北朝鮮を破ったジーコジャパンのキャプテン宮本がいちいち斬首されなければならないことになるだろう。ちなみにこの場所はマヤが誇る石組みテクノロジーにより、ニッポン、チャチャチャ!等をやると反響するように設計されており、外人ミーハー客を連れたツアーガイド達がそのパフォーマンスにいそしんでいた。

その他の見どころとして戦士の神殿やおびただしいほどの柱が立つ千本柱の間、旧チチェン側にはカラコルという天文台も残されている。また、ウシュマルもチチェン・イツァーも夜の時間帯に遺跡を幻想的にライトアップする神秘的な光と音のショーも毎晩行われているそうで昼だけでなく、夜も別途観光客から金を巻き上げるための効率的な遺跡の使い方がなされていた。

Oriente社の2等バス(N$85)で4時間半かけてカンクンバスターミナルに戻ってきた頃には日もとっぷりと暮れていた。カンクンはセントロというダウンタウンとホテルゾーンといわれるカリブ海とラグーンに挟まれた20kmにも渡る洲がかなり離れているものの市バス(N$6.5)が連なるように巡回しているのでバスに乗って今日の宿泊先であるヒルトン・カンクンに向かった。さすがに国際的なリゾート地の高級ホテルだけあり、カリブ海の白砂のビーチの美しさと巨大なプール群が群を抜いており、ビーチ脇のレストランで波の音を聞きながらシーフードのシチュー系のディナーを堪能させていただいた。

2月27日(日)

次の目的地を目指すために早い時間にヒルトンをチェックアウトしなければならなかったので早朝よりビーチの散策に励むことにした。世界で一番青く美しいといわれるカリブ海はその名に違わず非常に美しく、波打ち際では魚を捕まえようとしている首長系の水鳥がしきりに海中に向かってダイブを繰り返していた。

カンクンバスターミナルからMAYAB社のバス(N$48)でトゥルム遺跡に向かった。カンクンから130kmほど南、カリブ海を望む断崖にたたずむ遺跡トゥルム(N$38)は規模は小さいが、3方を城壁に囲まれた城塞都市としての面影を残しており、密林の王者と言われずっとジャングルで発展したマヤ文明が最後にたどり着いた地である。この遺跡内には真っ青なカリブ海を見下ろす切り立つ断崖の上に建っている神殿エルカスティージョやフレスコ画の神殿等、イグアナと一緒に見学出来る数多くの見どころもあるのだが、カリブ海の白砂のビーチに降りて海水浴も楽しめるため、多くの家族連れで賑わっていた。

ADO社の1等バス(N$61)でカンクンへの帰路についた。バスは途中でプラヤ・デル・カルメンという都市に到着したのだが、ここからフェリーに乗って世界で一番透明度の高い海を持つコスメルという島に渡ることも可能である。尚、コスメルへの進出はスケジュールの都合で成らなかったのでまた来なければならないと思われた。

日没前に今日の宿泊先であるシェラトン・カンクンに到着した。早速チェックインカウンターに行くとまるで私がライバルヒルトングループのゴールドメンバーであることを察知しているかのようにプロモーション的に部屋がスイートにアップグレードされていた。5階角部屋の541号室はぶち抜きで543号室と繋がっており、巨大なテラスから見下ろすカンクンの美しいビーチの光景はまるでこの世の天国のようであったのだ。

ホテルの目の前にカンクンで最も新しいライラス・ショッピング・ビレッジが財布の紐のゆるくなった観光客を待ち受けていたので買う気もないのに軽く散策することにした。ビレッジのあちこちには橋が架けられており、まるでディズニーランドのような雰囲気さえ醸し出していた。不夜城となっているカンクンホテルゾーン内にはこのようなショッピングセンターが数多くあり、商業主義的リゾート地の側面を強く演出しているのである。

2月28日(月)

午後12時35分発のUA969便に間に合わせるために早朝より速攻で海水浴とプールをこなしてそそくさとスイートルームを後にした。セントロのカンクンバスターミナルからシャトルバス(N$15)で空港へ向かう道すがら物の本を読んでいると衝撃的な事実に直面してしまった!マサよ、その衝撃度に関しては以下のトレビアのFTBを参昭して見てくれよ!!

カンクン国際空港出発エリアは予想通りおびただしい数のリゾート済み元観光客でごった返しており、彼らは例外なく、引越し並の荷物を引きずっていた。デンバーで再び米国入国を果たし午後6時半頃に無事ロサンゼルスに戻ってくることが出来た。Motel6の中でも最高級の部類($57.44/night)に属するLAX International Airportはシャトルバスも運行させており、5分程で到着すると早速高層階の8階にチェックインした。部屋からはLAの夜景とともにひっきりなしに着陸滑走路にファイナルアプローチする航空機のライトが光り輝いていた。

3月1日(火)~3月2日(水)

ANA005便にて帰国、そのまま流れ解散~

マサお待ちかねの「トレビアのFTB」を食らえ!

ということで、今回のトレビアのFTBであるが、実は財務省の高級官僚兼FTBの斬られキャラとして活躍しているマサの正体がついに白日の下にさらされることになった。メキシコで最もポピュラーな料理であるタコスは主食であるトルティーヤが重要な役割を果たしている。実はこのトルティーヤは水でふやかしたとうもろこしを練り込んだ生地「マサ」!!を薄く円形状に延ばして焼いたものだったのだ!!!

http://www.e-food.jp/country/mexico/1/mexico.masa.htm
http://www.worldtradingk.com/new_page_4.htm

マサよ~ 財務官僚として北の新地でブイブイいわせているであろう君もメキシコでは単なるとうもろこし野郎にすぎなかったのだ~~ この事実を知ってショックを受けたマサが今後大阪のTACOBELLでやけ酒を食らい、泥酔して警察のお世話になり、「許しテキ~ラ!」と言い訳している姿が見受けられるかどうか要注目である。

http://www.tacobell.com/

FTBサマリー

総飛行機代 ¥33,210(ご利用券\40,000分使用)+ $641.81

総レンタカー代 $98.01(ガソリン代込み)

総宿泊費 $114.88 + N$49,15.59

総バス代 N$559

Presented by FTB Co. LTD

代表 Masa

取締役運転手 Masa, acting

シニアインターン Kazu

調達実施本部長 Masa, acting

総統 Takeo(FTBJ代表兼務、ソートーすごいらしい)

スポンサー 旧大蔵省

協力 ANA、ユナイテッド航空、HiltonHHnors、シェラトン・カンクン、ADO社、Oriente社、ATS社、MAYAB社

   Riviera社、Motel6

FTB特別企画どん底からの炎の生還 in キャニオン

マサよ、君はどん底から見事に生還を果たすという離れ業をやってのけたことがあるか!?

私は・・・・・・這い上がって来たぜ!!!

ということで、高級財務官僚という定温のぬるま湯にどっぷりと浸かっているマサが忘れかけているであろう自ら試練に立ち向かうという姿勢を実践するためにかねてから達成しなければならないと考えていたどん底の様子を垣間見て、そこから這い上がってくるという計画をとうとう実行に移す機会がやってきた。

2月4日(金)

機材到着の遅れにより、1時間程の出発の遅延を余儀なくされたANA006便ロサンゼルス行きB747-400機は、米国での乗り継ぎ便に間に合わないとスチュワーデスにいちゃもんをつけている1人の乗客の意向に関係なく午前10時半ごろに着陸した。ロサンゼルスからUA6522便に乗り換えると1時間程度のフライトでフェニックス、スカイ・ハーバー空港に3時半に到着することに成功した。

早速ハーツで洗車の行き届いていないシボレー・キャバリエをレンタルするとI-17を北に進路をとり、本日の宿泊先であり、グランド・キャニオンのゲートシティとなっているフラッグスタッフを目指した。バックミラー越しに見るアリゾナの大地に沈む夕日のダイナミズムを感じながら、軽く150マイル程度のドライブで午後7時ごろ予約しておいたHampton Innに到着した。今日は時間も時間なので近隣のデニーズで軽くステーキと小エビのフライを肴に飯を食い、来るべく試練に対応すべく体力を温存するためにとっとと寝ることにした。

2月5日(土)

数多くの大リーグ球団のスプリングキャンプ地にもなっており、サボテンで有名なアリゾナ州というと温暖な気候がイメージされるが、アリゾナ北部は標高が高いために降雪もある。明け方には氷点下に冷え込むため、朝起きるとお約束どおり車はカチンコチンに凍っていたのであった。何とか電子レンジを使うことなくキャバリエを解凍出来たので、フロントガラスの運転席側の氷が溶けるとFTB史上5度目となるグランド・キャニオンを目指すことにした。

US89号線の道路が凍結してしまっているかも知れないので用心しながら北に向かって車を走らせ、AZ-64号線を西に向かうとグランド・キャニオン国立公園($20.-/car)サウスリムの東口ゲートに到着した。そこからさらに30マイルくらい進むとついにグランド・キャニオンビレッジに侵入することが出来た。ブライトエンジェルロッジという宿泊施設にツアーのカウンターがあり、そこで谷底の宿泊施設の電話による予約再確認を怠ったにもかかわらず、キャンセルにならずに泊めていただける交渉に成功するとビレッジ内のMartに食料品や物品の買出しに向かった。

チョコレートパックや2L入りのゲーターレードや軍手、さらには靴に装着するClamponとうスパイク($11.97)を購入すると園内のシャトルバスを乗り継いでSouth Kaibab Trailに向かった。マイルドな時差ぼけ気分を引きずりながら、標高差1,433m、距離にして11.1kmのトレイルを下りはじめたのは午前11時過ぎの時間であったろう。ハイカーに踏みしめられた雪は危険なアイスバーンに変化を遂げており、氷にClamponの刃を突き立てながら慎重にスタートしたのだが、いつしか外れやすいClamponは役に立たないと気が付き始めたころ、雪はすっかり消えてなくなっていた。

トレイルを写真を撮りながらもどんどん下っていくと今まで遠巻きにしか見ることの出来なかったかすみのかかったあの赤茶けた岩肌群がはっきりと目の前に現れて来て、マサにグランド・キャニオンに来て峡谷内に入らないとグランド・キャニオンに来た意味がないと言われている所以が明らかになってくるのであった。標高が下がるに連れて気温が上がり、峡谷内には緑が多くなると同時に地層の違いによる岩肌の色の変化により鮮やかな色彩が目立ってきた。時には10数億年前に出来たであろう石につまづきながらも歩を進めていくとついにこの広大なキャニオンの彫刻家として名高いコロラド川のせせらぎが聞こえ、そのウーロン茶ミルクコーヒー色の濁流が姿を現した。一見すると普通の多摩川程度にしか見えない川であるのだが、この川が何十億年の歳月をかけて大地を削り取っていったのかと思うと体中の身の毛がよだたずにはいられなかった。

トレイルのクライマックスであるコロラド川にかかる鉄橋を渡り、キャニオンの北壁側の川沿いをしばし歩くとついに本日の目的地であるPhantom Ranchに2時半頃到着することに成功した。オフィスでPhantom Ranch                                                   (http://www.phantomranch.com/index.html)での私のActivityである男子寮($28.76)への宿泊、ステーキディナー($31.24)と翌朝の朝飯($17.47)を食うことを確認すると12番寮に荷物を置きに行った。上階の安定性が乏しい2階建てのベッドが5つある10人部屋はすでに先客群が取り仕切っていたので仕方なく2階のベッドを支配することにしたのだが、そこはキャニオンの崖から落ちるよりも落下のリスクが高いのではないかと思われるほど狭かったのだ。

気を取り直して念願であったグランド・キャニオンの谷底の散策を開始することにした。どん底ということで賽の河原のような暗い雰囲気を漂わせているのかと思っていたが、谷底は意外にも春の陽気であった。マサを平手打ちするのに最適なサボテンと緑の草木や花が生い茂るコロラド河岸はキャニオンの巨大な岩山に囲まれており、はるか上空の崖の上から多くの観光客に見下ろされている実感も特になかった。

5時から夕食の時間が始まった。夕食はステーキ組とシチュー組に分かれており、先攻のステーキ組がまず食堂の前に召集された。食堂に入る前に飯係りのYoung Manが何か面白い話はないかと聞いたところ、誰かが、コロラド川に流れ込む小川の3~4マイル上流でビーバーがエアコンではなくダムを作っていやがったと言った。するとYoung Manはそいつは13年まえから冬になるとそこにやってくる常連ビーバーなので見逃してやってくれとのたまった。半セルフサービス式ステーキディナーは人里離れた谷底で供される割には非常に美味であり、皆大満足の様相で語り合っていた。尚、谷底には他の日本人は誰もいなかったので久しぶりに日本人を見ずに平和なひと時を過ごすことが出来た。

夜になると深い谷底に静寂が訪れる・・・はずであった。

これ以上落ちることのない谷底から上を見ると澄んだ冬空には満天の希望の星が輝いていた。夜になるとすることが何もなくなり、しかも皆疲れているはずなのでとっとと寝るものと思われたのだが、眠れない見知らぬ男女が寮の外で夜通し私語に耽っていたので、うるさくてほとんど眠ることなく朝を迎えてしまい、マサにこれが人生のドン底と思い知らされた。

2月6日(日)

夜明け前の早朝5時に飯係りのYoung Manが5時半に朝飯を食わなければならない輩のためにわざわざ起こしにやって来た。眠れなかったおかげで2階のベッドから転げ落ちずに済んだのだが、毛布は半分ずり落ちていた。山登りの貴重なエネルギー源となるはずのアメリカンブレックファストを詰め込んだ後、懐中電灯を持ってこなかったので星の明かりを頼りにトレイルをゆっくりと歩き始めたのは6時10分頃であった。

帰りは距離は長いが、傾斜の緩やかなBright Angel Trailを登ることにした。コロラド川の鉄橋を手探りで越えてしばらく川沿いの下りの道を進み、幾多の雪解け水の小川を越えているうちに夜が明けてきた。道はいつしか登りのみとなったものの順調なペースで進むことが出来、8時過ぎには中腹のインディアン・ガーデンというレンジャー詰め所兼キャンプ場付きファシリティに到着した。思えば丁度5年前の冬にインディアン・ガーデンまでの往復ハイキングを敢行し、その過酷さのためにマサに命からがらで戻ってきたことが思い起こされるのであるが、それから毎日会社に行く前に5kmの3%の登り坂ランニングマシン等で肉体を鍛え直し、リベンジに備えていたのだが、その成果を発揮して目的を達成する瞬間が数時間後に迫っているのであった。

なかなか減らない2L入りゲーターレードを少し飲んで体にイオンを行き渡らせると再び歩き始めることにした。このあたりから復路の恐怖を知らない日帰りハイカーとの遭遇が増えてくると同時に登り坂の傾斜がきつくなってきた。ミュールツアーの忘れ形見であるラバの緑色のウンコは相変わらずその辺に転がっているので下を見ながら注意して慎重に歩を進めた。標高が上がるにつれて道は凍りつき、ついには再びClamponを取り出さなければならないほど雪に覆われてきた。しかし、寝不足、時差ぼけにもかかわらず、意外にも体力の消耗は少なく一般人であれば6~10時間かかる道のりを私はわずか4時間半程度で登り切ってしまい、老淑女ハイカーの賞賛さえも浴びることが出来たのであった。こうして標高差1,311m、15.1kmにもおよぶBright Angel Trailを制覇した満足感に包まれてYavapai Pointの展望台からはるか眼下の豆粒のようなPhantom Ranchを見下ろすとどのようなどん底からであっても自力で這い上がってくることが出来る自信を得たような気がしたのであった。

午後7時のフライトに間に合わせるためにグランドキャニオンを後にしてフェニックスに向かっていた。フェニックス近郊にて車内で破裂音が聞こえ、一瞬動揺してしまった。助手席を見ると2時間前に無理やり空にして蓋をした2L入りゲーターレードのペットボトルが圧力差で凹んでおり、無事に平地に戻って来れたのだと実感させられた。

2月7日(月)

ANA005便にてロサンゼルス発、翌日午後成田着。3泊5日という強行日程でグランドキャニオンの底に沈んで這い上がってくるという新たな金字塔がFTBに加えられることと相成った。

FTBサマリー

総飛行機代  \8,160(ご利用件\60,000分使用したのでただ同然)+ $172.41

総宿泊費 $210.97

総レンタカー代  $124.43

総ガソリン代  $33.11

総走行距離 552マイル

協力 ANA、ハーツレンタカー、HiltonHHonors

FTB炎の離島デスマッチ第?弾バリ

♪見つめあ~うと すな~おに おしゃ~べり できな~い♪ (Song by S. All stars)

ということで、昨年末のスマトラ島沖大地震によるTsunamiの被害によりインドネシアをはじめとする東南アジアの各国は莫大な経済的損失を被ってしまった。金銭的や人的な援助もさることながらいち早くリゾート地として観光客を取り戻して欲しいと考えたFTBはみずからバリ島まで足を運び観光大使としてインドネシアの復興支援に尽力することを決意して日本を後にしたのであった。

1月28日(金)

日本航空の誇りとする憧れのハワイ航路に使用される機体としてお馴染のリゾッチャ紋様をあしらったB747-SR機はデンパサール行きJL729便にもお目見えした様子で現役ギャルや元ギャルが圧倒的に多い乗客は皆リゾート気分を満喫する気満々で定刻午後4時の離陸を今か今かと待っている様子であった。しかし、無常にも機内を流れるアナウンスは1人の乗客をお待ちするために出発が遅れるというものであった。この発表により機内は騒然となるかと思われたのだが、以外にも皆「スクールウォーズ」が推薦するOne for All, Allfor Oneの精神で乗り遅れたマヌケ野郎を咎める者は誰一人としていなかったのだ。

そのマヌケ野郎のおかげでバリ島、デンパサールのグラライ空港に着いたのは定刻より多少遅れた夜11時過ぎの時間帯であった。空港でインドネシア入国ビザをUS$25で売りつけられた後すんなり入国を果たすと早速日本円を現地通貨であるインドネシアルピアに両替するためにいちばん手招きの振り幅の大きい両替所に向かい、軽く\10,000を提出すると大枚860,000ルピアになって返ってきた。

料金前払いの明朗会計空港タクシー(60,000ルピア)で今回のツアーの宿泊先であるヒルトングループが誇る最高級ホテルであるConrad Hotel & Spaに到着したのは深夜12時半くらいであったのでチェックイン後、Tsunamiも届きそうもない最上階の4階の部屋に引きこもり,リゾート気分を引きずったまま休ませていただくことにした。

1月29日(土)

朝起きて総大理石張り床の部屋からテラスに置いてあるデッキチェアで南国気分を味わい、Hilton HHonorsのゴールドメンバーのみが招待されているクラブラウンジで朝飯を食らった後、ビーチに出てみることにした。インド洋の青い海が広がる白砂のビーチにはデッキチェアとヤシの実の繊維で作られた屋根を持つ巨大な日よけ傘がたくさん据え付けられており、ひときわ大きな屋根つきのファシリティでリッチに読書をしながら午前中の時間を過ごすことにした。

バリ島は東京都の2.6倍の面積を誇る巨大な島でリゾートエリアは特に南部に集中している。今回FTBが宿泊地として選定した地区はブノアという昔漁村であったが今は新興高級リゾート地区として君臨している現世の喧騒とはかけ離れたような静けさを持った場所である。ビーチには当然高級リゾートホテルが林立しているのでそれらを物色するために軽く散歩に出ることにした。長さ5kmほどの小さなブノア半島を先端部の北に向かって歩いていると数多くのレストランやHotel & Spaが姿を現した。グランド・ミラージュ・バリというホテルに併設されているSpaでタラソ・バリというバリ島で最も人気のあるエステがある。ここでは日本のB級タレントが日夜取材に訪れ、緑色の海草系のペーストを全身になすりつけられて悶絶している様子が視聴率の悪い時間帯に放映されるための段取りが組まれているものと思われた。

ブノア半島の最北端はいまだに漁村の雰囲気を残しており、漁の終わった原住民がだらけた午後のひと時を過ごしていた。今度はビーチ沿いを南下してみると次第にマリンスポーツの種目が増えてきて観光客はジェットスキーやパラセイリングやバナナボート等の遊興に耽っていたのであった。ブノアに隣接するリゾート地として名高いヌサ・ドゥアという地区まで足を伸ばすとそこではひとつの町のように巨大なグランドハイアットのファシリティ群やバリ・ヒルトン・インターナショナル等の老舗リゾートがシーズンオフの観光客の少なさのために有り余る設備を持て余している様子が稼働率の低い客室とともに確認されたのだった。

1月30日(日)

バリのリゾート開発の先駆けとなったビーチとしてクタという地区が君臨しているとのことだったのでトレーニングも兼ねて軽くブノアから徒歩でやって来ることにした。南緯8度の熱帯性気候が醸し出す炎天下の中を10kmほど歩くと目の前を飛行機が着陸していく様子が確認出来たので空港をスルーしてさらに2~3km北に向かって歩を進めると何とかクタに到着することが出来たのだが、そのころにはマサにクタクタの状態になっていた。クタのビーチにはインド洋の豪快な波を求めてやって来やがったサーファーで溢れかえっており、その辺の砂地にはおびただしいほどのサーフボードが突き刺さっていた。

ところでこのあたりにはジゴロというギャルを食い物にして金を巻き上げて生計を立てている職業の方が数多くいらっしゃり、日本の負け犬ギャルたちも彼らの上客となっているという話を聞いていた。勝ち馬として欲望の食物連鎖の頂点に君臨するためにこの地にマーケティング活動にやって来たFTBは♪ひろしです♪って言うじゃな~い、ど~こ見てんのよ~、残念!!等の現代日本ナンパ用語の基礎知識を彼らに講義して負け犬から巻き上げた金を日本に還元するビジネスモデルの検討を始めたのであった。

日も暮れかけたのでクタでクタびれた肉体に鞭打って再び徒歩で12~3kmの道のりをConrad Hotelを目指して帰っていった。タクシーで20分もかかるところを私はわずか2時間で帰ってこれたので部屋で軽く汗を流した後、近所のエスニック食い物屋に繰り出すことにした。ホテルの目の前にLoco Cafe(http://www.lococafe.com/)というレストランがあり、付属のダンサーが決して自分の業務ではないはずの客引きをしているけなげな姿に打たれて思わず入ってみることにした。チャウダー系のシーフードスープとエビ・カニ・ロブスターが大皿を飾るシーフードスペシャル(180,000ルピア)を貪り食っていると運転手つきの4WD車で登場したこの店のオーナーがジョインしてきたので相手をしてやることにした。日本で修行?した経験も長いBudiというオーナーはシーズンオフの客の少ない時期に来てくれたということでバリの酒やフルーツやアイスクリームを無償で提供してくれた気前のいい実業家であったのだ。

1月31日(月)

マサに夢の世界を提供してくれたConrad Hotelをあとにするとタクシーでクタまで移動し、そこから本数は少ないが、外人観光客の貴重な交通手段となっているプラマ社のシャトルバスでバリ島中部にある芸能・芸術の中心地ウブドに向かった。

クタから大都会デンパサールを抜け、サヌールというリゾート地を経由してバスはバリ島中心部を目指して走っていたのだが、道幅が段々心細くなってきてついには中央の車線のない田舎道に入ってしまった。決して観光客が安心してレンタカーで走ることの出来ないような迷路を1時間程走るとバスはいつのまにかウブドのバスターミナルに到着していた。バリ・ヒンドゥー教が醸し出すバリ島本来の雰囲気を色濃く残しているウブドの町並みであるが、いたるところにJALパックとJTBのシャトルバスのバス停が設置されており、ここでも日本人観光客に侵略されている様子がありありと窺がえた。

バリ絵画の美術館であるプリ・ルキサン美術館(20,000ルピア)を訪問させていただいた。ウブドのメインストリートから橋を渡るとそこには緑の庭園に囲まれた芸術の世界が存在していた。ここにはバリ芸術の粋を集めた絵画や彫刻が展示されており、その歴史的重要性は計り知れないものであると言われているのである。

ウブドの中心の一角にモンキーフォレスト(10,000ルピア)という野生の猿が群生するこじんまりとした森があったのでひやかしに行くことにした。チケット売り場の脇で観光客に猿の餌として供給されるべきバナナを売りつけようとする原住民を軽くいなし、森の内部深くに分け入るとそこにはニホンザルより多少小柄の猿がその運動能力をいかんなく発揮しながら元気に暮らしていた。折からの小雨が強くなってきたので屋根のある休憩所で人類に興味のありそうな猿達を従えて♪おも~いでは いつも日も~あめ!♪と歌っていると乗り乗りになってきた小猿が次々と私の背中や頭に乗って来やがり、多少えらい目にあってしまったのだ。

午後7時過ぎにクタに帰って来て繁華街を歩いているとハロー、タクシー!?といういかにも有名人である私の名前がタクシーであるかのような声援が次々にあびせられた。中には”マヤク?、オンナ?”という修行をしていない若者であれば80%はひっかかるような甘言も飛び交っており、クタの風紀の乱れとアンダーグラウンドマーケットの大きさを実感させられた訳であるが、これではマサにテロリストの格好の餌食なっても仕方がないと思われた。

というわけで、今回はバリ島の下見を行ったわけであるが、ここでは各人の好みにより様々なスタイルのエンターテイメントが提供されている。但し公共交通機関は無いに等しく、レンタカーを転ばす場合には道が狭くてわかりにくいのでタクシーをチャーターしたりする必要があろう。ところでバリ島の北部の山岳火山地帯でキンタマーニという景勝地があるという情報を聞きつけ、思わず股間にボールが当ったような衝撃を受けてしまったので次は必ず乗り込まねばならないと思われた。

FTBサマリー

総飛行機代 \62,720

総宿泊費 3,481,806ルピア

総タクシー代 93,600ルピア

総バス代 40,000ルピア

総インドネシアビザ代 $25

総グラライ空港使用料 100,000ルピア

次回はどん底からの生還の予定

協力 日本航空、プラマ社、HiltonHHonors

FTBボンバイエ祭り 祝!地球の裏側進出ツアー

マサの愛人へナータと大鶴義丹をギタンギタンにしたマルシアをはじめとするブラジル人ギャルは何故かアドリアーナ、カロリーナ、パトリシア、マリナ、リアナ、ルシアナ等、末尾にア行の文字がつく奴が圧倒的に多いのだが、これはいったいどういうことなのか!?

ということで悶々とした疑問をいただきながら、いつかはブラジルツアーに参戦しなければならないと考えていたFTBであるが、このたびついに地球の裏側に足を踏み入れる機会が訪れることと相成った。ところでブラジルというと中森明菜も推薦する♪ミ・アモーレ♪の都リオデジャネイロや最近ドットコム系で本の売れ行きも好調なアマゾンが思い浮かぶのだが、アマゾンへ行くと瀬戸内海を見て「日本にも大きな河があるじゃないか!」という突っ込みを入れてくるエセ親日家に必ず遭遇することを恐れたため、今回FTBが厳選した訪問先はアルゼンチン、パラグアイと国境を接する世界最大級の滝イグアスとなったのであった。

1月11日(火)

ブラジルとの戦いは飛行機に乗る前から始まっている。ブラジルに入国するためにはビザの取得が必要であり、JTB等の大手旅行会社であっても通常10営業日くらいかかるところを実力派ツーリストのFTBはわずか4営業日で取得出来る交渉に成功していた。今日朝一でブラジル総領事館に乗り込んで査証つきパスポートを受取ることになっていたのだが、何と外交官のサインが間に合わず午後2時に再訪するように指示されてしまったものの何とか短期間でのブラジルビザの取得に成功したFTBであった。

1月12日(水)

ANA010便ニューヨーク行きは定刻午前11時に出発し、同日午前9時過ぎには厚い冬雲に覆われたJFK空港に到着した。空港からAirTrain($5)と地下鉄($2)を乗り継いでマンハッタンに進出し、工事が進んでいるグランド・ゼロをちらっと見た後、バッテリーパークからCircle Ferry($10)に乗りこんだ。ブラジル行きの飛行機が出るのは夕方の時間帯だったのでとりあえずつかの間の自由を満喫出来る現状に感謝を込めて自由の女神にお礼参りと洒落こむことにしたのであった。9.11テロの傷も癒えたと見えて前回来た時には公開されていなかった自由の女神内部のファシリティに入ることが出来たのだが、相変わらずセキュリティのチェックは厳しく荷物をぶち込むためのロッカーの鍵は指紋認証というハイテクノロジーが使用されていた。

自由の女神が送り主であるフランスに向かってにらみを利かせるLiberty islandを出航したCircle Ferryは次の寄港地であるエリス島に着岸した。アメリカの移民局がそのまま博物館に成り上がったメインビルディングの内部には1800年代の後半にヨーロッパから大挙して押しかけてきた移民の持ち物や写真等がところ狭しと並んでおり、否が応でも開拓者魂をかきたてさせられる場所であることが確認されたのであった。

1月13日(木)

昨夕6時45分に出発したヴァリグブラジル航空RG8865便、MD11型機は定刻午前7時過ぎに3時間の時差を越えてサンパウロのグアルーリョス国際空港に到着した。長い行列の出来た入国審査を何とかクリアして念願のブラジルに入国を果たすと早速空港の両替所でUS$をブラジルの現地通過であるレアル(R$)に恐らく良くないレートで両替していただいた。今回のツアーの最終目的地であるフォス・ド・イグアス行きのRG2251便の出発は午後12時50分となっているため、適当に時間潰しをしなければならなかったのであるが、無常にもサンパウロの空港内は特に見るべきものはなかったのだった。

30分ほど遅れて出発したRG2251便に搭乗して1時間半ほどすると眼下に思わず「うっそ~」と叫んでしまうほどのうっそうとしたジャングルが広がっていた。飛行機の機長のアナウンスが左手にイグアスの滝(世界遺産)の存在を告げるとまもなく緑色の森林を切り裂くように落ち込んでいる大量の水の流れが目に飛び込んできたのであった。飛行機はまるで遊覧飛行をしているように滝の周辺をゆっくりと旋回した後、ついにフォス・ド・イグアス空港に着陸した。

空港からタクシー(R$12)で予約しておいたリゾートホテルであるHotel San Martinに入り、今日は30時間以上にもおよび移動の疲労を軽減するために部屋でゆっくり休ませていただくことにした。

1月14日(金)

宿泊していたホテルがイグアス国立公園のゲートのすぐ近くだったので徒歩10分程で公園のターミナルに到着することが出来た。チケット売り場で入園料(R$19.35)を支払うと園内で観光客を運ぶバスに乗り込み、ついに念願のイグアスの滝ツアーがスタートした。

国立公園内にある唯一の高級リゾートホテルであるトロピカル・ダス・カタラタス前に遊歩道口があるのでそこでバスを下車すると全長1.2kmにわたる遊歩道の散策を開始したのだが、ほどなくすると眼前にこの世のものとは思えない一連の水のカーテンが広がっていた。イグアス川べりの高台に沿って造られている遊歩道からは全長4kmにわたり大小約300の滝が段を成して連なっているイグアスの滝の大部分が観察出来るのであるが、これらの滝のいたるところに虹がかかっており、インドの山奥で修行をしなくても誰でもレインボーマン(http://www.urban.ne.jp/home/ak1go/tvhero10.html)になれる環境が提供されていることが確認された。

終始下り気味の道が続く遊歩道のハイライトは最奥の滝の中段にせり出した桟橋で「悪魔ののどぶえ」といわれるイグアス最大の瀑布の絶景が目の前に迫っている展望台であり、ここで絶え間ない水しぶきの洗礼を受けることになる。また、落差約80mを流れ落ちる莫大な水量が醸し出す轟音は郷ひろみ少年が♪きみたち女の子♪と言っても♪ぼくたち男の子♪と言ってもゴ~ゴ~という返事しか返すことが出来ないでいるのである。

桟橋を戻ると土産物屋の近くにエレベーターがあり、レストハウスまで上がれることが出来た。イグアスの滝を取り囲むジャングルには豹柄の毛皮を身にまとったジャガー系の猛獣等の野生動物の宝庫となっているのだが、人馴れしているアナグマは人間が食っている食い物を求めてアナアナグマグマと集団で進出してくる。園内のそこらじゅうに野生動物に餌をやるなとの看板が出ているのだが、アナグマの連中は字が読めないのでおかまいなく観光客の食い物を奪っていたのだ。

結局園内には朝の9時頃から夕方まで滞在していたのだが、その間おびただしいほどの観光バスと色とりどりのサッカー系のユニフォームを着た多数のラテン系青少年少女の観光客と遭遇してしまった。いずれにしても、クリントン元大統領をはじめとするアメリカ人にして「Poor ナイアガラ!」といわしめるほどの迫力を誇るイグアスの滝には日本の滝百選の要素もすべて含まれるほどの多様性にも満ちていることを思い知らされてしまい、石川さゆりも♪じょうれんのたぁきぃ♪とのん気に歌っている場合ではないと思われたのだ。

1月15日(土)

早朝より、国立公園前のバス停から市バス(R$1.65)に乗りこみ、フォス・ド・イグアスのダウンタウンに向かうと30分程度で中心部の近距離バスターミナルに到着した。そこからさらにバスを乗り換えてフォス・ド・イグアスの町から20km離れたブラジルとパラグアイの国境に位置するイタイプー・ダムを目指した。

マサよ、君は世界最大の出力を誇る水力発電所がこんな南半球の僻地に存在していることを知っていたか!?

私は・・・今日知ってしまった!!!

ということで、Ticket窓口で首尾よく9時半からスタートするツアーの無償チケットを入手すると指定された番号の大型観光バスに乗り込み、イタイプー・ダムへのツアーがスタートした。ブラジルとパラグアイの国境を流れるパラナ川に建造されたイタイプー発電所は両国の共同事業として1975年に着工し、1984年に送電を開始している。パラナ川を堰き止めた貯水池面積は琵琶湖の2倍にものぼり、水の毎秒排出量はイグアスの滝の30倍にも及んでいるそうだ。最初に訪れた見学場所はすさまじい量の水が流れている様子が確認出来るファシリティであったが、フーバーダムや黒部ダムのようなアーチ式ではないので迫り来る壁のような迫力は感じられなかったものの、バスがダムの上に作られている道路を走りながら景色を眺めていると総計8kmにもおよぶ長さのダムのスケールの大きさをいやがおうでも感じさせられてしまうだ。

その後、博物館に戻り、Auditoriumにて記録映画を鑑賞させていただいたのだが、そこには石原プロモーションが総力をあげて製作した「黒部の太陽」http://www.ishihara-pro.co.jp/ac/ishihara/i_movie/mo_83.htmに匹敵するダム建設に命をかけた男たちのドラマが繰り広げられていたのであった。

1月16日(日)

ブラジルとアルゼンチンの国境を流れるイグアス川を越えてアルゼンチンに渡るためにはまずフォス・ド・イグアスのダウンタウンに出てそこからアルゼンチン側の観光拠点であるプエルト・イグアス行きのバス(R$3)に乗らなければならないので多くの観光客で混雑したメルセデスベンツのエンブレムを冠してあるものの高級そうには見えないバスに乗り込むことにした。ブラジルの国境をスルーしてアルゼンチン側の国境で入国スタンプをもらうと黄金の左足を持つ薬漬けのマラドーナが仕切っている水色の国アルゼンチンへの入国を果たした。

町全体が土色をしているプエルト・イグアスのバスターミナルのKIOSCOで安いコーラの購入と引き換えに首尾よくブラジルレアルをアルゼンチンペソに両替していただくと早速イグアスの滝国立公園行きのバス(P$2.8)に乗り込んだ。森林畑系地帯を疾走するバスは30分程度で公園ゲートに到着し、P$30の入園料を支払うと公園内を移動する交通手段となっている鉄道を走る電気機関車に乗り込んだ。

最初の駅で下車して向かった先はまずイグアスの滝を上から見下ろすことが出来る展望トレイルである。イグアスの滝の大部分はアルゼンチン側から流れ落ちているのでアルゼンチンサイドでは一本道トレイルのブラジルよりもより多様な滝の側面を間近で観察することが出来る。また、イグアス川に下っていく遊歩道もあり、川岸から川の真中に浮かぶSan Martin島行きの無料の渡し舟に乗ると数分で砂のきれいなビーチに到着することが出来た。そこから登り階段のトレイルが続いているのだが、島の頂上に到着すると目の前に自然の織り成すこの上なくすばらしい水の芸術作品を目の当たりにすることになり、思わず感動で打ち震えてしまうのであった。尚、ブラジル側にもアルゼンチン側にも滝に接近するボートツアーが高値で営業されているのだが、そのような商業的エンターテイメントに頼らなくても十分に滝のすばらしさは満喫出来るのである。

イグアスの最大の見所といわれている「悪魔ののどぶえ」は、鉄道の終点で降り、そこから1.2kmある脆弱そうな橋を渡って到着するのだが、途中洪水で破壊された橋の残骸を見ながら進むことになる。やがてかつての郷ひろみ追っかけギャルの掛け声のようにゴ~ゴ~という轟音とともに「悪魔ののどぶえ」が姿を現すのだが、目の前を落下する滝のすさまじさは思わず観光客を引き込んでしまいそうな迫力があり、横溝正史原作「悪魔が来たりて笛を吹く」と同等の不気味ささえも醸し出していた。

つつがなくブラジル行きのバスに乗り、フォス・ド・イグアスまで帰ってくることに成功すると腹が減っていることに気づいたので適当に飯屋を探すことにした。丁度Hokkai Sushiという日本食屋があったのでそこでたこポンと牛丼を発注すると吉野家でいうところの牛焼肉丼のような牛丼が出てきやがり、しかも味は悪くなかったのだった。

1月17日(月)

イグアス国立公園ゲートの手前にバードパーク(R$25)があり、入り口近くで飼われているダチョウに誘われるように思わず入園してしまった。ここにはブラジルで見られる鳥を中心に世界中から珍しい鳥が集められており、天然の亜熱帯林の中の全長1kmにも渡る散策道を歩きながらバードウォッチングが出来る環境が提供されている。最近玉の輿に乗って毒が消えかかっている杉田かおるの「鳥の詩」をサンバ調で歌いながら歩いているとペリカン系のくちばしを持った鳥達が「チーボー!」というような鳴き声とともに観光客に近づいてくるのであった。

午後一の便でフォス・ド・イグアスを後にすると3時ごろにサン・パウロ空港に到着し、深夜までニューヨーク行きのフライト待ちをしなければならなかったので市バス(R$3)でサン・パウロの中心に乗り込むことにした。赤字国債を乱発して日本に財政破綻を招きかけている財務省と同じくらいいいかげんな外務省より「十分注意」の危険情報が発出されている大サン・パウロ圏のとあるTatuapeというバスターミナルで下車すると地下鉄(R$2.1)で市の中心部であるセントロのセー広場に向かった。カテドラル・メトロポリターナという大聖堂が君臨するこの広場の周辺には道行く一般市民と共にたくさんのホームレスが暮らしており、多少怪しい雰囲気を醸し出していたのでそこから歩いて5分ほどの東洋人街にエスケープすることにした。地球の裏側に存在する日本のどこかの駅前商店街の様相を呈しているこの町は赤い鳥居と多数のノボリやYakisoba屋台等を有しており、これぞマサに大阪との姉妹都市サン・パウロを代表する光景ではないかと思われた。

日中合作ホテルの雰囲気を漂わせた万里ホテルで和中折衷のレストランが客を集めていたのでそこでお得そうなFestival de Sushi(R$23)というセットメニューを発注した。するといきなり、ネギトロの手巻きが出現し、引き続きサーモン、マグロ、カツオ系の魚の刺身と寿司が山盛りされた舟盛り器が登場した。舟盛りを何とか撃沈して一息ついたところに揚げ餃子や野菜の天ぷらが出され、しかも寿司のお代わりの希望を聞くという暴挙にあったため、マサにサン・パウロは「十分注意」に値する地域であることを思い知らされた気がした。

1月18日(火)

昨夜の23時59分発のフライトで早朝6時過ぎにニューヨークに到着した。そそくさと米国入国、ANA便のチェックインを済ますとラウンジに駆け込んで静かな時間を過ごさせていただこうと思っていた。窓から飛行機を眺めているとふいに延髄を斬られるような衝撃を覚えたのでふとラウンジの入り口方面に目を向けると何とそこにはブラジルで少年時代を過ごしたアントニオ猪木が豪快にリンゴをかじっている姿があったのだった。

格闘技人気という追い風にもかかわらずK1やプライドに押されて大晦日に「猪木祭り」を開催出来なかった猪木はワインを注ぎにいったもののボンバイエ http://www.inokiism.com/(注:ボンバイエの音楽が流れるので家で聞けよ!)のリズムに乗りきれずにワインをこぼしてけなげにテーブルや椅子を拭いていたのであったがファンの皆様としては係りの女子を呼びつけて「なんだこの野郎!」といちゃもんをつけている姿が見たかったであろう。その後猪木は腹いせに免税店で大量の物品を買いこんだ後、”闘魂”という刺繍のないジャケットを身にまとってとっととファーストクラスに逃げ込んでいったのだった。

1月19日(水)

午後3時ごろ成田着、無事にツアーが終了したので猪木とともに「いち・に・さん・ダァー」で決めようと思ったが、ファーストクラスの上客は逃げ足が速いのでそのまま流解散となった。今回のツアーの目的は20~30時間の移動が人体にどのような影響をおよぼすのか評価することであったが以外に楽であることが実証された。

FTBサマリー

総飛行機代 \200,110

総宿泊費  R$525.28(朝食付き)、(US$1 = R$2.65)

総Air Train代  US$10

総ニューヨーク地下鉄代  US$4

総アルゼンチンバス代  P$8.6 (P$1 = R$0.9くらいか?)

総ブラジルバス代

総ブラジルメトロ代 R$4.2

総ブラジルビザ代 ¥3,000

今回歴訪した国 アメリカ合衆国、ブラジル、アルゼンチ

次回もバリバリ行くぜ!

協力 ANA、ヴァリグブラジル航空、猪木事務所

芳村真理垂涎ドゥオ~モFTBEUイタリア~ノ

ドゥオ~モ~!マサよ!!

ということで、立てた人差し指に後光がさすほどの日本一の「ど~も~」使いである芳村真理が夜のヒットスタジオの終了以来テレビ画面から姿を消してしまって久しい今日この頃である。ところで、FTBがオ~ドリ~の足跡をこお~どり~しながらローマくんだりまで追いかけてきたのは実に4年近くも前の出来事であった。今回はイタリア各地に点在するドゥオ~モをめぐりつつ、ルネッサンスに代表される中世イタリアの栄華の歴史をこの目で確認し、きたる2005年に自分自身に起こりうるルネッサンスの前途を祝し、イタリア三都を巡るツアーを開催することにした。

12月25日(土)

クリスマスのわりには閑散としている成田空港第二ターミナルから午前11時50分発NH205便にてパリを目指すと行きつけのシャルル・ド・ゴール空港に定刻4時半頃到着した。そこからエールフランスが誇るCity Airという小型ジェット機に乗り換えてイタリアの夜空を飛んでいると徐々にフィレンツェの夜景が浮かび上がるように迫ってきた。小規模なフィレンツェ空港に到着するとそこから空港バス(4ユーロ)に乗り、一路フィレンツェの中央駅であるサンタ・マリア・ノヴェッラ駅を目指した。バスが駅に近づくとJALPACK etravelに予約させておいた☆☆☆☆ホテルであるグランドマジェスティックが近くに存在していることが確認できたのでそのままチェックインして今晩はふて寝を決め込むことにした。

12月26日(日)

午前7時の教会の鐘の音で目を覚まされてしまったもののあたりはまだ暗がりだったため、とりあえず、風呂と朝飯を済ませると丁度観光に適した時間になったのでフィレンツェ歴史的地区(世界遺産)の散策に乗り出すことにした。ホテルから小雨に濡れた石畳の上を町の中心方向に歩いていくと段々とルネッサンスの栄光をたたえた雰囲気が強くなってきた。ふと頭上を見上げるとそこにはフィレンツェの象徴である花の聖母教会・ドゥオーモの巨大なクーポラが目の前に迫っていた。

ど~も天候がすぐれなかったため、とりあえず屋根のあるファシリティをということでウッフィツィ美術館(9.5ユーロ)の入館を待つ行列に並ぶことにしたのはいいが、ルネッサンス時代の珠玉のコレクションを誇るこの美術館への入館のチケットを手にするまでにはその後1時間半もの時間の経過を待たなければならなかった。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエッロ等のルネッサンスの巨匠の作品がこれでもかというほど展示された館内は当時の栄華に包まれた雰囲気で中でも世界史の教科書にも必ず登場するボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」は官能的なタッチで画かれていたので多くのシニョーレの目を引いていた。

美術館を出るころには雨も上がっていたので本格的に町をさまよいながらも再びドゥオーモ周辺に舞い戻って来た。ドゥオーモの真横にジョットの鐘楼(6ユーロ)がそびえていたので414段もの階段を登って上部テラスに出てみることにした。高さ82mを誇るジョットが設計した鐘楼はデザインと色彩に優れた芸術性を持っており、ここからはフィレンツェの町並みが一望出来るのであるが、ドゥオーモのクーポラはさらに高みに位置しているため、ドゥオーモの方向を見るとつい「ど~も、すみません」と林家三平師匠のせりふが口をついて出てきてしまうのであった。

夕暮れ時にサンタ・クローチェ教会というミケランジェロやマキャべり等の有名人の墓が276も収められた教会を見物しに行って来た。フィレンツェ1古い広場に面したこの教会の内部は140mx40mという広さを誇る一大墓地の様相を呈しているのだが、内部は様々な芸術家たちの作品できらびやかに飾られているのであった。

12月27日(月)

♪森と~泉にぃか~こまれて~静かに、眠るぅ♪のはブルーシャトーであるが、かの有名なピサの斜塔がフィレンツェ近郊に君臨しているという情報を入手していたので足を伸ばして見ることにした。フィレンツェ中央駅の自動販売機で5ユーロを支払いイタリア国鉄(TRENITALIA)のローカル線に飛び乗り、車窓を流れる風景を眺めていると車掌が颯爽と切符チェックにやって来た。ここで発覚した事態は何と乗車駅で自動タイムスタンプ機に切符を通さなかったため、追加で5ユーロの罰金を徴収されるはめになり、マサであれば5ユーロしかかからないところを私は10ユーロも支払わなければならないことだったのだ!罰金を授業料だと割り切ることの出来る懐の深さを見せた私を乗せた列車は1時間4分でピサ中央駅に到着した。駅から北に向かい、アルノ川にかかる橋を越えて30分ほど歩くと行く手に財務省の財政基盤のように今にも倒れそうな巨大な塔が姿をあらわしたのであった!

かつて地中海の大海運国として君臨していたピサの威光は700年以上の時を越えた今でもドゥオーモ広場(世界遺産)に集約された形で残されている。とりあえず、広場にあるチケットセンターで斜塔登頂ツアー(15ユーロ)と各ファシリティの共通入場券(8.5ユーロ)を購入すると早速11時発のツアーで斜塔に登ることにした。1173年に着工された斜塔は約55mの高さを誇り293段にわたる手すりなし螺旋階段で頂上まで続いているのだが、2,000万人あまりの総入場者数が踏みしめた大理石の階段は中央がかなり擦り減っており、否が応でも時代の流れを感じさせてくれるのであった。ここではガリレオ・ガリレイが「落下の法則」の実験をしたことで有名であるが、頂上から下を見るとこれこそマサに気合の入っていないマサをバンジージャンプさせるのに最適なファシリティであると思われた。

現代のピサではジャッキー吉川とブルーコメッツにおけるジャッキー吉川のように斜塔がひとり立ちしたような存在感があるのだが、実は宗教的ドゥオーモ一連のファシリティの伽藍配置の中では単なる鐘塔として建築されたに過ぎないことが現場に来て初めて確認できた。広場の中央にはピサ様式のロマネスク建築、ドゥオーモが鎮座しており、その前には宝石箱のような洗礼堂が建ち、その横にはカンポサントと言われる大理石の高い壁で囲まれた納骨堂があり、4つあわせて世界遺産としての価値を生み出しているのであった。

ピサ中央駅でピザを食った後、汽車でフィレンツェに戻ると小雨が降っていたので雨宿りも兼ねてドゥオーモ前の八角形の建築物である洗礼堂(3ユーロ)に入って見ることにした。ドゥオーモ同様の色大理石で建築されている洗礼堂内部の天井や壁面は洗練された絵画で覆われており、観光客はむち打ちになるリスクも省みず、皆一様に上を見上げていた。

フィレンツェを流れるアルノ川にかかる最古の橋としてヴェッキオ橋がかかっており、おびただしい数の観光客たちが行き来している。この橋にはきらびやかな彫刻細工店や宝石店が軒を連ねているのだが、店に入ると吉野家に入ったときのいつもの習慣でつい「この店で一番高いものをくれ!」と言ってしまう私にとって大きなリスクとなる店々であると思われた。

12月28日(火)

イタリアルネッサンスの栄光は若手芸術家の大パトロンとして暗躍したメディチ家の後ろ盾なしではあり得なかったということは歴史上の周知の事実である。そのメディチ家ゆかりの人々を祀るメディチ家礼拝堂(4ユーロ)に侵入し、ミケランジェロが設計した新聖具室にある像の美しさを見ていると、マサであれば財務省の全財産を持参金として持ち込んでも養子縁組でメディチ家にもぐりこむことを画策したであろうと思われた。

毎朝7時に鐘を鳴らして目覚ましをしてくれた寄木細工のような美しいファサードを持ったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(2ユーロ)に軽くフィレンツェ滞在中のお礼参りをした後、ミケランジェロの美術館として名高いアカデミア美術館(8ユーロ)に向かった。ここでも約1時間の入館待ちの行列に並んでいる時にアメリカ人観光客の「これがイタリアンサービスか!?」という愚痴を聞きながらも何とか入館を果たすとミケランジェロの未完成の彫刻やフィレンツェ派絵画との対面に成功した。ミケランジェロと言えばダヴィデという彫刻で有名であり、世界のあちこちでそのコピーが出回っているのだが、そのオリジナルがこの美術館内に立ち尽くしている。体高5mはあろうかと思われる巨大な像の周りには観光客がたかっており、股間に生えている寒さで縮こまった”いちもつ”を見て、皆一様に「パンツくらいはかせんかい!」と思っていたことであろう。

1417年に建築家ブルネッレスキによって着工され、今ではフィレンツェの象徴として町を見守っているドゥオーモのクーポラ(6ユーロ)についに登頂することになった。東京ドームを施工した竹中工務店が存在しなかった中世の時代に出現したこの巨大な赤い丸屋根は建築学上の奇跡とされており、464段の階段で登頂するその頂上からは赤レンガ色をしたフィレンツェの美しい町並みが一望出来るとともにクーポラ内部に描かれた「最後の審判」というフレスコ画も決して見逃すことが出来ない芸術作品である。

かつての行政の中心であり、フィレンツェの歴史を刻むシニョリーア広場を抜け、ヴェッキオ橋を渡り、ピッティ宮殿に向かった。壮大なルネッサンスの典型的宮殿の2階はパラティーナ美術館(8.5ユーロ)になっており、ラファエッロを中心とした数多くの絵画が展示されている。

フィレンツェ滞在の締めとして小高い丘からフィレンツェの町並みを一望出来るミケランジェロ広場まで足を運んだ。緑色の緑青を身にまとったダヴィデの銅像(コピー)が身構えている広場の駐車場には数多くの観光バスやキャンピングカーや普通自動車であふれかえっていた。夕暮れ時になったので高台から望むフィレンツェのの町並みの中でも異様な存在感を示している建造物に「ドゥオ~も、ありがとう!」とつぶやいて花の都を後にすることにした。

ユーロスターという新幹線系の乗り物がヨーロッパを走り回っており、フィレンツェ中央駅からミラノまで316kmの道のりを2時間46分で結んでいる列車が1時間に一本の割合で運行されていたので乗車(41.83ユーロ / 1st class)させていただくことにした。2列シートの向かい席でイタリア人に囲まれていると飲み物を乗せたワゴンが乗員によって転がされてきた。当然金を払って何かを買うものと思っていたのだが、イタリア人達の挙動を見ると何と水やカッフェは無償であることが確認され、飲み逃してしまったエスプレッソよりも苦い経験をさせられてしまったような気分を引きずってミラノへ向かって行くことになってしまった。

12月29日(水)

ミラノ中央駅に程近いビジネスホテル風情の☆☆☆ホテルであるイビス・セントロホテルをチェックアウトすると再びムッソリーニ時代の代表的な建築物である巨大なミラノ中央駅に戻り、2階端の手荷物預所(3.5ユーロ/ 5時間)でバッグを預けると早速イタリア最大の経済都市ミラノの回遊に出ることにした。

オレンジ色の路面電車が走る大通りを30分ほど歩くとミラノの心臓部であるドゥオーモ広場に到着した。大都会ミラノの中にあって別世界を演出する荘厳なるバロック建築の傑作品であるドゥオーモの内部に入って軽く「ど~も~」と挨拶した後、ガッレリアの巨大アーケードを抜けてスカラ座広場に向かった。レオナルド・ダ・ヴィンチ像に向かって軽く会釈をし、振り返るとオペラの殿堂スカラ座が目に飛び込んできた。日本でスカラ座というと安っぽい映画館というように相場が決まっているのであるが、ここミラノの世界1有名な劇場であるスカラ座は1778年に建立された松竹、日活、東映、東宝など入りこむ余地のないほど格調高い代物なのである。

1446年に完成し、ミラノ公国の歴史を伝える要塞として君臨するスフォルツェスコ城の中の市立博物館(3ユーロ)でエジプトミイラ等の考古学展示品やミケランジェロが死の数日前まで製作していたという未完の彫刻である「ロンダーニのピエタ」等の貴重な美術作品を堪能した後、科学者ダ・ヴィンチの偉業を展示しているレオナルド・ダ・ヴィンチ記念国立科学技術博物館(7ユーロ)に向かった。ここには天才ダ・ヴィンチが考案した様々なデバイスの復元作品やスケッチ等の展示だけでなく、ダ・ヴィンチ以後に発達した近代工業品を生み出すための施設や仕組み、SLや電気機関車、戦闘機や船舶の実物やアルファロメオやモトグッチのバイク等も広大な敷地内に展示されており、マサにダ・ヴィンチの名に恥じないスケールのでかい博物館であった。

ダ・ヴィンチ博物館から直線距離にしてわずか200mのところにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(世界遺産)が「最後の晩餐」の聖地として君臨している。この絵は石膏が乾く前に絵の具を染み込ませて描かれているフレスコ画と異なり、ギターペイントのような油絵の具を使った油絵のため損傷が激しく油の乗りが悪い部分は何度も修復が繰り返されているそうだ。この絵には「汝らのひとり、我を売らん」というイエスのことばが発せられた瞬間の人間模様が描かれているのだが、イエスを裏切るユダのキャラとしてはマサを起用するのが最適ではないかと思われた。しかしながら、今回のツアーの最大の誤算としてこの絵を拝見させていただくためには電話予約が必要であり、予約をしていなかったFTBとしては結局「最後の晩餐」にありつくことが出来なかったのだ。

ということで、空腹感を満たさなければならないはめになった私は再びドゥオーモ広場に舞い戻り、階段でドゥオーモの屋上(3.5ユーロ)に登って余計体力を使うことにした。屋上では天に突き刺すようにのびている幾百もの尖塔が間近に見られるだけでなく、遠く雪を被ったアルプスの山々まで見晴らすことが出来たのであった。ドゥオーモから下界に下り、ミラノブランドショッピングの殿堂であるヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを歩いているとミラノコレクションのモデルとしてスカウトされ、プレタポルテに出されてしまうかも知れないという恐怖感を感じたのでとっととミラノ中央駅からヴェネツィアに向かう快速系の汽車に乗って退散することにした。

12月30日(木)

マサよ、君はアドリア海に浮かぶ宝石、夢の浮き島で浮ついた気分になったことがあるか!?

というわけで、昨夜チェックインさせていただいたヴェネツィア、サンタ・ルチア駅に程近い☆☆☆☆ホテルであるアマデウスを午前9時前に出発すると早速世界中の人々の憧れであり、世界を代表する水上都市ヴェネツィアとラグーン(世界遺産)の散策に漕ぎ出すことにした。アドリア海にぽっかりと浮かぶ水の都ヴェネツィア本島内部には数え切れないほどの運河が刻まれており、自動車が走ることが出来ないので交通手段は必然的にボートか徒歩になる。とりあえず、最初は石畳の路地を「Per San Marco」という表示を頼りにヴェネツィア観光のハイライトであるサン・マルコ広場に向って歩き出すことにした。

いくつもの路地を曲がり、運河にかかる橋を乗り越えて40分くらいかけて何とかサン・マルコ広場に到着したのだが、宵っ張りだと思われる観光客の出足は遅いらしくまだ広場はひっそりとしていたのでここをスルーして沿岸沿いに島の奥地に向かった。島の東部の方は原住民の居住地域と見えて数多くのアパートの間に通された紐にかけられた洗濯物が風になびいていた。また、東の最奥部のサンテレナ島にはセリエAのヴェネツィアが本拠地とするサッカー場もあり、サポーターが乗り合いボートで駆けつけられるような体制が整っていた。

中世のヴェネツィアは海洋王国として君臨し、遠くコンスタンチノープルまで占領した実績があるのだが、その栄光の歴史を偲ばせる海洋史博物館(1.55ユーロ)が営業していたので見物してやることにした。ここには中世から近代までの数々の船の模型や儀礼用のゴンドラや有人潜水魚雷のようなものまで展示されており、アドリア海の今昔物語のダイジェスト版の様相を呈していた。

抜けるような青空の下、賑わいを取り戻してきたサン・マルコ広場に戻ると鐘楼(6ユーロ)の屋上に登頂するエレベーターの行列に並ぶことにした。高さ96.8mを誇る鐘楼の展望台からはラグーンと町が一望出来るのであるが、遠くに見える雪を被ったアルプスから吹き付けるアルプスおろしの寒風に耐え切れず皆短時間でいそいそと下界に下りていったのであった。

島の南部にあるジューデッカ運河のほとりでヴェネツィアのサンセットと夕焼けを堪能し、明日も快晴であることを確信するとヴェネツィア派絵画の傑作を集結したアカデミア美術館(9ユーロ)に入館することにした。ここには14~18世紀にかけてのヴェネツィア派や、トスカーナ派の作品が収められているのだが、どの絵も立体的で登場人物がキャンバスから飛び出してきそうなほどの迫力を醸し出しており、非常に印象の深いものであった。

12月31日(金)

旅行者の数も減り、普通の町の顔を多少取り戻す冬のヴェネツィアであるのだが、年末年始にはバケーションをエンジョイしようとイタ公の伊太郎たちが橋幸男よろしく目を細めながら大挙してやってきてしまうのでホテルのレートも上がってしまう今日この時期である。ところで、水の王者ヴェネツィア近郊にはたくさんの離島があり、フランスのリビエラ、アメリカのマイアミ、ハワイのワイキキと並ぶ国際的なリゾートを持つリド島が映画「ベニスに死す」の舞台として高いステータスを誇っているらしいのでヴァポレットという水上乗り合いボートを泳がせて訪問してみることにしたのが、冬はただの寒い島に成り下がっていることが確認された。尚、長さ12kmの細長いこの島にはバスも車も走っていたのであった。

リド島でTourist用のヴァポレットの24時間有効チケットを10.5ユーロで購入するとそのままヴェネツィア本島に戻り、さらに本島を真っ二つに二分してS字型に蛇行する全長4kmあまりの大運河Canal Grandeのクルーズと洒落込んだ。ヴァポレットの各駅停車1号線はCanal Grandeをゆっくり進み、客待ちの水上タクシーや沿岸のRistranteや古い教会を通り過ぎ、成金野郎どもが乗ったゴンドラをかわしながらリアルト橋に向かった。常に人々で溢れんばかりのリアルト橋の上にはお洒落なショップが並んでおり、その近くにはアドリア海で釣れた魚介類を売りさばく魚市場が賑わいを見せていた。

サンタ・ルチア駅構内のビュッフェでマカロニポモドーロ系のパスタを食った後、再びヴァポレットに乗り込みサン・マルコ広場に戻ることにした。サン・マルコ寺院のとなりに栄えあるヴェネツィア総督の政庁として9世紀に建立されたドゥカーレ宮殿(11ユーロ)が美術・博物館づらで観光客を引き寄せていたので私もつい吸い寄せられるように入ってしまった。巨大な宮殿の中にはいくつもの評議員の部屋や大会議室があるのだが、それらの壁には例外なくすばらしい絵画が描かれており、特に2階大評議員会議室にあるティントレット作「天国」は7mx22mの大きさを誇っており、世界最大の油絵として圧倒的なスケールを誇っていた。

ドゥカーレ宮殿は小さな運河をまたぐ小さな橋により地下牢獄を持つ建物につながっている。この牢獄は満水時には水牢になったといわれ、この橋を渡ると2度とこの世に戻って来れないので橋の小窓からこの世に別れを惜しみため息をついたといわれる。通称”ため息の橋”との異名を取るこの橋を渡る観光客は皆「ああ、寒ぃ~」と愚痴交じりのため息をつきながら次々に渡って行った。

1月1日(土)

ハッピー ニュー マサよ!!

ということで、2005年の幕開けがここヴェネツィアでどのように祝われているかを体感するために紅白歌合戦も放映されないホテルの部屋で待機していると夜中の12時10分過ぎにいきなり花火と爆竹が鳴り響く騒音が聞こえてきた。取るものも取りあえずあわてて表に飛び出し、見通しのいい駅前のスカルツィ橋の上に立つと「た~まや~~」とは決して叫ぶことが出来ないみすぼらしげな打ち上げ花火が次々と夜空を裂き、橋の上にワインボトルを持ち込んだ伊太公たちは路上酒盛りの真っ最中であったのだ。しかし残念なことに運河を道頓堀川に見立てて次々に飛び込む日本人阪神ファンの姿を発見することは出来なかった。

昨夜の喧騒もまるでうそのようにひっそりと静まり返ったサンタ・ルチア駅前からヴァポレットに乗り、30分ほどで石畳に花火の黒こげの跡を残すサン・マルコ広場に到着した。町の守護聖人であり、9世紀にエジプトから運ばれた聖マルコの遺体をおさめるために建立されたサン・マルコ寺院(3ユーロ)の上階は宝物館となっており、そこにはヴェネツィアの十字軍が遠征のどさくさにまぎれてコンスタンチノープルよりかっぱらってきた紀元前400~200年ごろの作品といわれる4頭の青銅馬像や美しいモザイク画が輝いていた。

午後2時44分発のルフトハンザ航空フランクフルト行きに間に合わせるために空港バス(3ユーロ)でマルコ・ポーロ空港に向かった。そう、かの有名なマルコ・ポーロもヴェネツィア人であり、壮大なFTBレポートの原型であると伝えられる東方見聞録を地元のマサに相当する誰かに送るために日夜ペンを走らせていたことであったろう。

というわけで、今回のツアーにおいて数々の教会や寺院で懺悔を繰り返してきたわけだが、ひょうきん懺悔室のように上から水をかけられることはなかった。したがって、これからも満を持して悪事に励むことが出来るという自信を土産にイタリアの地を後にした。

ドゥオ~モ~!イタリア情報ですよぉ!!

*日本人観光ツアーサバイバル

 イタリアの観光地はどこも添乗員に誘導された日本人観光ツアーで大変な賑わいを見せているのだが、フィレンツェのホテルでは朝7時の朝食時間に日本人が大挙して食堂に降りて来てテーブルを占拠し、彼らがひいたあとのビュッフェはつわものどもが夢のあとの様相を呈しているのだ!

*イタリアトイレ情報

 イタリア観光地のトイレはどこも有料となっており、0.3~0.6ユーロの小銭をむしりとられながら用を足すことになる。マサに小銭がないと安心してクソもタれることが出来ない状況であるのだが、犬は自由に糞便することが許されているのでそこかしこに犬のクソが転がっており、人間は決して油断して観光することは許されないのだ。

*イタリア広場情報

 フィレンツェ、ピサ、ミラノ、ヴェネツィアの広場には例外なくハトの餌売りの輩が出現し、観光客は餌に釣られて手乗りバトと化した鳥を腕や頭に乗せて無邪気に記念写真を撮ってやがる。もし、私がイタリア語が堪能であったなら鳥インフルエンザの人間への感染の可能性についてうんちくを垂れてやるのだが・・・

*愛欲の国イタリア

 ミケランジェロの聖地フィレンツェではダヴィデの”いちもつ”を接写した絵葉書が売られており、ミケランジェロ広場ではダヴィデの胸から下半身にかけての肖像を写し取ったエプロンがチン品として売られている。マサに愛欲の国イタリアの面目躍如といったところか!?

FTBサマリー

総飛行機代 \202,080        

総宿泊代(朝食付き) \105,000  

総国鉄代 68.99ユーロ   

総空港バス代 7ユーロ        

総ヴァポレット代 14ユーロ     

総国鉄罰金代 5ユーロ      

総訪問したドゥオーモ数 3           

総遭遇したスーパーカー 0

次回はFTB念願の地球の裏側までもぐりこむ予定です。

協力 ANA、エアーフランス、ルフトハンザ航空、TRENITALIA(http://www.trenitalia.com/home/en/index.html)、etravel

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in サイパン

ハファダイ マサよ!

ということで、2月のサイパンの風物詩となった大阪近鉄バッファーローズが誇るいてまえ打線の打撃音は合併球団オリックス・バッファローズの誕生によりもう響かなくなってしまう。猛牛中村紀洋は遠く大リーグに渡ることになり、大阪芸人のタフィー・ローズはすでにジャイアンツの軍門に下ってしまい、いてまえ打線もどっかにいってまえと在阪野球ファンの断末魔の叫びが聞こえてきそうな今日この頃である。このような状況を鑑みて日本からわずか3時間のフライトで常夏気分を満喫することが出来るサイパンの実力を再確認し、楽天野球団のキャンプ地として売り込むためにわざわざ調査に乗り出すことにした。

12月9日(木)

ノースウエストのマイレージが余っていたのでマサであっても3~4万くらいしかかからないところを私はただで入手していたサイパン行き往復E-Ticketを手に成田空港第一ターミナルに乗り込んだ。ANAやスターアライアンスの便であれば三顧の礼のVIP待遇で迎えられる私もノースウエストでは凡人に成り下がっている手前、通常のエコノミーカウンターで軽くチェックインすると早速午前10時35分発のNW76便、B747-200機に登場し、機内でスパイダーマン2を見ながら、一路サイパン国際空港を目指していた。

午後3時前にサイパン国際空港に到着し、入国、通関を済ませて外に出ると12月の東京とは打って変わっていきなり28℃の熱気に包まれてしまった。北マリアナ諸島特有の熱帯性熱帯気候に体をなじませるためにタクシーで$30くらいかかるホテルまでの道のりを徒歩で向かうことにした。島の南部に位置する空港からサンホセという海辺の町に出るとそこから海岸沿いに美しいビーチロードの遊歩道が続いていた。ここから見るサイパンの海は遠浅のエメラルドグリーンでそのむこうにある深い海には大型の船舶が何隻か停泊しているのが確認された。

わずか12~13kmの距離を2時間ほど歩いて午後5時過ぎにはガラパンというサイパン最大の繁華街に足を踏み入れることになり、思わず自分のパンツのガラを確認しないではいられなくなってしまいながらも何とか予約しておいたハファダイビーチホテルにしけこむことに成功した。現地語で「こんにちわ」を意味する「ハファダイ」という言葉をホテルの冠名にしているこのホテルはサイパン最大の規模を誇り、白砂のマイクロビーチのオンザビーチにありながら、玄関前にはDFSギャラリアが構えているという絶好のロケーションを持つ総合レジャーリゾートである。部屋はすべてビーチに面していたので、今夕は7階の部屋から水平線に沈む太陽を眺めながら郷愁に浸らせていただくことにした。

12月10日(金)

早朝よりホテルの前に広がる白砂のマイクロビーチを散歩していると原住民系のビーチレジャー客引きが「今日は何するの?」と次々に声をかけてくる。軽く彼らをかわしながら同じビーチサイドに建つ第一ホテル、ハイアット・リージェンシーホテルのプライベートビーチを抜けてアメリカ記念公園に紛れ込んだ。この公園には第二次世界大戦における、アメリカ軍の犠牲者の慰霊碑のモニュメントが建立されており、緑豊かなビーチ沿いでは散歩やバーベキュー等を楽しむことが出来るようになっている。

ガラパンのダウンタウンのはずれに北マリアナ諸島歴史・文化博物館($3)がかつての日本病院跡の立地にひっそりとオープンしていたのでサイパンの秘められた歴史を解明するために入場してみることにした。ここには約400年にわたって北マリアナ諸島で生活する人々の遺物が数多くの展示品として公開されていた。特に1638年に沈没したスペインのガレオン船コンセプシオン号から引き揚げられた、金、陶器、貴金属装飾品は高い評価を受けている収蔵品である。また、第一次世界大戦後、日本の統治時代が長いこともあり、砂糖王として原住民から尊敬されている松江春次に関する資料やビデオも放映されているのであった。

その砂糖王を記念する公園が博物館の向かいにその名もSugar King Parkとして君臨していたので見物させていただくことにした。南洋興発(株)を率いてサトウキビ栽培と精糖を北マリアナ諸島の一大産業に育て上げた松江春次の銅像は太平洋戦争時にこの地に上陸したジェネラル・マッカーサーにして「松江の銅像は倒すな!」と命令されたほど威厳の高いものであったそうだ。

砂糖王が醸し出した甘い余韻に浸りながら午後のひとときを海をボ~と眺めながら過ごした後、ホテルのビーチ沿いで煙を出している鉄板焼きレストランパラパラでステーキ&ロブスタースペシャル($35)を夕食の肴として心地よい南国の夜をふかしていった。

12月11日(土)

韓国人系で日本語を話すレンタバイク屋で250ccのスクーターをレンタルすると景勝地の多い島の北部へ乗り出すことにした。緑豊かなマッピ山の崖下にバナデロという戦跡地が通称「ラスト・コマンド・ポスト」という名称で多くの観光バスを集めていたので立ち寄って見た。ここにある洞窟状のくぼみをコンクリートで補強したトーチカは日本軍最後の司令部であり、生々しい砲台の跡や破壊された戦車等が残っており、それらの遺品は当時の戦況の激しさを静かに物語っていた。

サイパンのワン・オブ・ザ・ベストの景勝地としてイスレタ・マイゴ・ファハンと呼ばれるバードアイランドの展望所がある。海鳥たちのサンクチュアリとなっているバードアイランドの周辺の海の色はサファイアブルー、ネイヴィーブルーがブレンドされた美しいハーモニーを醸し出しており、中国人団体観光客の一大記念撮影スポットとなっていた。

標高249mのマッピ山の北側は切り立った断崖となっており、通称スーサイド・クリフと呼ばれている。現在平和を祈る観音様を祭ってあるこの地は戦争当時はアメリカ兵の投降の呼びかけに応じることを潔しとしない多くの日本人が身を投げた悲しい場所なのであった。

美しい海に囲まれたサイパンには多くのダイビングスポットがあるのだが、その中でも人気ナンバーワンスポットとしてグロットが君臨している。リアス式海岸状に削られた島北部のマドック岬の崖下の駐車場にバイクを止め、さらに急斜面の階段を100段ほど下るとアーチ状の天井を持つ洞窟に到着する。ここは天然のプールになっており、水中では3ヶ所の横穴で外洋とつながっている。外洋から横穴に差し込む光が水面に反射し、洞窟の奥には神秘的なブルーの空間が広がっている。ここには重たいボンベを抱えたダイバー達が次々と降りてきて海の中に消えていったのであるが、アワビやウニやサザエを取るときしか潜らないことにしている私はなすすべもなく見守るしかなかったのであった。

12月12日(日)

マサよ、君はバンザイ・クリフという断崖から「天皇陛下バンザイ」と叫びながら身を投げた婦女子や老人たちに思いを馳せてむせび泣いたことがあるか!?

ということで、サイパン北部でくしくも日本に一番近いサパネタ岬とラグア・カタン岬の間の断崖は通称バンザイ・クリフと呼ばれており、1944年7月7日に決行された日本軍最後の玉砕突撃の翌日に追い詰められた弱者が米兵の制止の声を振り切って次々と80m下の太平洋の荒波に身を投げた場所である。この場所には戦没者の霊を慰める白亜の太平洋の塔と観音像がひっそりと建っており、おもわず手を合わせずにはいられない観光スポットとなっているのだ。

午後4時55分発NW75便にて帰国、定刻より早い午後7時前に成田に到着し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \2,310(税金のみ)

総レンタスクーター代 $25

総タクシー代 $30

総宿泊費 \23,700

*サイパンだ!観光情報

  サイとパンダをかけあわせたサイパンダという動物がサイパンで幅を利かせていやがっている。観光バスにさえ、フロントに角を生やしたサイパンダバスが多くの無邪気な観光客を観光スポットに送り込んでいる様が目撃された。当然DFSギャラリアにもサイパンダコーナーが一席設けられており、ぬいぐるみ等のグッズが高値で取引されていた。

次回はドゥオ~モFTBEUイタリア~ノが発生する予定です。

協力: ノースウエスト航空、サイパンのレンタバイク屋

なるほど・ザ・FTB秋の温泉2004第3弾♪天城越え♪

♪山がぁ燃えるぅぅぅ~♪ song by S. Ishikawa

http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/amagigoe.htm (音が出るぜ!)

マサよ、君はこの歌が決して山火事の歌ではないことに気づいているか!?

ということで、1854年に日米和親条約が締結されて南伊豆の下田と北海道の箱館が開港され、実質上日本の鎖国政策が終焉をむかえてしまったのであるが、今年は開国150年という非常にめでたい年にあたる。この記念すべき年が現地でどのように祝われているのかという検証も含めて今回は天城を越えて南伊豆の温泉地を探索することとなった。

11月27日(土)

雪に覆われた富士山頂を眺めながら、厚木インターで東名を下り、小田原厚木道路を経由して伊豆半島の東部を海岸線に沿って南下していくと熱川温泉が近づいてきた。この界隈に昭和33年の開園以来伊豆の伝統的な観光地としての地位をゆるぎないものにしている熱川バナナワニ園(\1,000)が君臨しているので入園させていただくことにした。バナナワニ園という名前にもかかわらず、ここにはバナナワニという黄色い皮をかぶった種のワニがいるわけではないという認識を前提に園内の探索を開始することにした。1万坪を誇る園内は本園・ワニ園、本園・植物園、分園に分かれていたのでまずは本園・ワニ園からスタートすることにした。

本園・ワニ園は狭い池系の柵に囲まれた地域の中にクロコダイルやアリゲーター等世界中から拉致されてきたワニが飼育されているのだが、最近柵のペンキを塗り替えたと見えて柵に接触するすべてのワニの鼻頭が青色のペンキに覆われていて気の毒な気がしたのも事実である。ところでビートたけしが漫才ネタに使っていた「このワニはこんなに小さいときから育ててきたのに成長した今となってはスキがあればこ~んな大きな口をあけて私を食べようとするんですよぉ」と嘆いていたワニの飼育係はついに発見出来なかった。

本園・植物園の方には美しい花木・原種ラン・熱帯性スイレン等が展示栽培されており、温泉の熱を利用して育てられた草花を見ながら熱帯の雰囲気を味わうことが出来るようになっていた。本園から無料のマイクロバスに乗って到着する分園の方はさらに大きな規模を誇っており、バナナ、パパイア、グアバ等の熱帯果樹だけでなく、大規模なワニ池やレッサーパンダの飼育場や巨大ゾウガメが元気に歩行している砂場池等のファシリティが充実していて非常に見ごたえのあるものとなっていた。

熱川温泉をさらに南下して下田温泉に向かう途中の飛び込みで入ったラーメン屋になぜか開国150周年を記念して矢沢永吉のコンサートが11月22日に下田市で開催される旨を告知したポスターが貼られていたので永ちゃんの偉大さが再認識された次第であった。下田温泉に到着すると早速楽天トラベルに予約させておいた下田温泉なぎさホテルにチェックインさせていただき、弱アルカリ性、単純泉にしばし浸かった後、軽く町並みの散歩をこなして小腹を空かし、魚系中心の豪華旅館メニューに舌鼓を打ちながら外圧に負けて開国を余技なくされた幕府の情けなさをしみじみと嘆いて夜を過ごすことにした。

11月28日(日)

下田温泉なぎさホテルをチェックアウトすると早速「しもだまちあるきMAP」を参考にしながら下田の名所を散策することにした。

マサよ、君は初代アメリカ総領事館でちょんまげ野郎どもに囲まれ、孤独に耐えながらも黙々と業務をこなし、1858年の不平等条約である日米修好通商条約の締結にこぎつけた毛頭を知っているか!?

ということで、初代米国総領事であるタウンゼント・ハリスが根城にしていた初代アメリカ総領事館であった玉泉寺を訪問させていただいた。寺の境内にはハリス記念館(¥300)も併設されており、その中には当時をしのばせる貴重な資料や物品が展示されていた。また、昭和54年6月27日には第39代アメリカ大統領ジミー・カーターとその一味が玉泉寺を訪問しており、下田の町は上へ下への大騒ぎになった様子が記録されていたのであった。尚、寺院の裏には黒船(ペリー艦隊)乗員の墓やロシア艦ディアナ号乗員の墓もあり、日本最初の外人墓地の様相も呈していた。

湾の入り口に位置する下田市全体を見渡す高台は下田公園になっており、開国記念碑やあじさい園、椿園など歴史と自然と美しい景色が融合した絶好の散歩道が提供されていた。開国の歴史をダイジェストで学習するのに最適な下田開国博物館(¥1,000)で黒船来航の状況を確認するために入ってみることにした。ここは大きくペリーのコーナーとハリスのコーナーと都合のいい便乗条約である日露和親条約締結の中心人物であったプチャーチンを中心とするロシアとの友好のコーナーに分かれれている。ここで目を引く展示物は当時実際にハリスが食した膳のメニューやハリスの妾として不遇な人生を送り、唐人とののしられた唐人お吉に関する展示物であったろう。また、当時の資料を拝見していると1853年にペリーが浦賀に来たときにQuick Decisionが出来ずに1年後に再度下田くんだりまで来させたという日本伝統の返事引きのばし作戦の歴史が見て取れたのも事実であった。日米和親条約が締結された舞台となった了仙寺から下田公園入り口まではペリーロードとなっており、ペリーが下田に上陸した記念の場所にはペリーの大顔を形どったペリー艦隊上陸の碑が建立されていたのだった。

開国の港下田を後にすると伊豆半島の中心部に位置する天城峠を目指すことにした。天城山、天城高原を有する伊豆の中心部は険しい山道になっており、九十九折を髣髴とさせる7回転ループ自動車道を越えると天城峠に向かう脇道が登場する。その脇道は舗装されていない狭い道路でドライバーは皆♪戻れなくても も~ い~の♪という決意を持って車を転がしているように思われた。2kmほど走ると天城隊道に到着した。ここでは伊豆の踊り子の衣装を身にまとったギャルとその取り巻きが待ち構えており、「天城越え」という文字の入った白提灯を有償で観光客に貸し付けて暗い天城隊道を徒歩で歩かせるような催し物が行われていた。

道の駅天城越えで名物わさびソフト(¥300)を食った後、天城最強の名所であり、日本の滝百選のひとつである♪じょうれんのたぁきぃ♪(浄蓮の滝)に向かった。浄蓮の滝を見上げる展望所には滝の景色の美しさもさることながら紅白の常連となっている石川さゆりのレリーフとともに名曲♪天城ぃ越ぉえ~♪の歌詞を掘り込んだ石碑が女の情念とともに刻まれており、おばちゃん観光客の絶好の記念写真スポットになっていることが確認されたのであった。

天城峠を下ると伊豆天城湯ヶ島温泉市営湯の国会館(¥800)の露天風呂でナトリウム、硫酸塩温泉に浸かりながら旅の疲れとともに情念を振り払い、今年の紅白では必ず石川さゆりが赤組のとりをつとめることを祈念して伊豆を後にすることにした。

FTBサマリー

総宿泊費  \13,275(2食付)

総高速代  \7,250

総ガソリン代  \5,742

次回はFTB炎の離島デスマッチ第?弾 サイパンをお送りします。

FTB遣唐使2004 in 長安

こち(東風)吹かば にほひ(匂い)おこせよ むめ(梅)の花 あるじなしとて 春な忘れそ by 道真

(訳:マサよ、こっちに来ることがあったらうめ~貢物を主である総統に必ず持ってきてくれ、でないと左遷されるぜ!)

というわけで、901年に京の都から大宰府に左遷された菅原道真は上のような捨て台詞を吐いて飛ばされていったのであるが、その後太宰府天満宮を立ち上げて学問の神様として君臨し、歴史に名を残しやがった。しかし忘れてはならないのは道真の独断と偏見により894年に遣唐使が廃止され、白紙(894)に戻されてしまったことだ。それにより私のような優秀な人材が遣唐使として活躍するチャンスが失われてしまったのであるが、今回はFTB独自のルートにより、1,110年ぶりに遣唐使を再開するプロジェクトを実行に移すことにした。

11月11日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば14~15万くらいかかるところを私はただで入手していた西安行きのチケットを手に午前9時50分発のJL609便に乗り込み、5時間弱のフライトで現地時間午後2時前に西安国際空港に到着した。空港からバス(25元)で西安市の中心部である鐘楼に向かっていたのだが、古都長安城の石垣を基礎にして建造された周囲14kmにもわたる明代城壁の北門が目の前に迫ってくるといやがおうでも遣唐使としての責任感によるプレッシャーで胸が詰まる思いであった。

奈良の平城京がパクった条里制は中心の鐘楼という鐘を打ち鳴らすためのタワーから東西南北に大通りが伸びている。とりあえず、鐘楼の近くでバスを降りるとその足で城壁の南門近くに君臨している西安碑林博物館(30元)を訪れることにした。碑林には書道好きにはたまらない難しい漢字で文章を彫った古い石碑が林立しており、拓本と言って石碑に紙を貼り付けてその上からタンポで墨を塗り付け、文字や絵の部分を白抜きにして複写する技術をライブで行っており、また、由緒正しそうな拓本自体も観光客相手に高値で販売されていた。この博物館には石碑だけでなく、石刻芸術や陶器、青銅器、鉄器、玉器、絵画等も展示されており、非常に見ごたえのある観光スポットであることが確認出来た。

今日の宿泊先である鐘楼に程近い東大街の☆☆☆☆ホテルである西安皇城ホテルにチェックインすると日も暮れた時間に街を散策することにした。鐘楼、鼓楼といったランドマークになる建造物は夜はきれいにライトアップされ、古都西安の夜景を彩っており、はるか昔の遣唐使の健闘を讃えているかのようであった。

11月12日(金)

あいにく朝から小雨がそぼ降っているため、とりあえず屋根のついている陝西歴史博物館(35元)の見物から今日の遣唐使の業務を開始することにした。伝統的宮殿様式の概観を持つこの博物館には先史時代から秦代、漢代、魏晋南北朝時代、隋唐代、宋、明、清代の貴重な逸品が数多く展示されている。古代中国は文明の発達した巨大国家だったため、日本のような周辺弱小国がわざわざ船を漕いで長安くんだりまで貢物を持参して先進文化を吸収していたのだが、その名残や足跡もここには残されていたのであった。

昔昔、長安はシルクロードの起点となっていたのは有名な話であるが、玄奘三蔵もこの地を発って天竺まで経典を取りに行ったという話が西遊記といういい加減な話として受け継がれている。三蔵法師ゆかりの寺として648年に建立された慈恩寺(25元)があり、その中に大雁塔(20元)が64mの高さを誇っていたので登頂したのだが、あいにくの雨模様の空のため、西安の区画整理された町並みがぼんやりと眺められた程度にとどめられてしまった。寺の中に玄奘三蔵院という建物があり、その中に玄奘がたどった天竺までの道のりやそれにまつわる資料が展示されていた。しかし、ここには坊主頭の夏目雅子風の三蔵はいてもギャラの高そうな「あるある大王堺正章風孫悟空」や「釣りバカ西田敏行系猪八戒」、「破産の帝王ルックルック岸辺シロー式沙悟浄」、「白馬おひょ~え藤村俊二」等のとりまきに対する資料はみじんも残されておらず、これではゴダイゴがいくらガンダーラをヒットさせても決して浮かばれないのではないかと思われた。http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2781/data/tv/tv-ntv.html

ANAマイレージクラブダイヤモンド会員のみが手にすることが出来る全日空ホテルズ無料宿泊券が2枚余っていたのでマサであれば合計$200以上かかるところを私はただで泊まることが出来る☆☆☆☆☆ホテルであるANA GRAND CASTLE HOTEL XIANに早々とチェックインして高級中華ディナーを楽しみながら西安の長い夜は更けていった。

11月13日(土)

ホテル近くのバス停からバス(1元)に乗って西安駅で下車し、駅前の人間模様を軽く見渡した後、今回の遣唐使としての最大の任務である秦俑博物館(90元)に向かうべく、走っているバスの窓からおばちゃん車掌が手招きをしながら乗客の客引きをしている兵馬俑行きミニバス(4元)に飛び乗って世界遺産に指定されている現地に向かった。西安最大の見所として君臨する通称兵馬俑は1974年にたまたま井戸を掘っていた農民により偶然発見されたものである。兵馬俑はあの世に行ってしまった秦の始皇帝を守るべく、紀元前220年ごろから製作され始めた大地下帝国的兵士騎馬集団であり、兵士の身長は平均178cmで顔立ちはそれぞれ異なっているのだ。

博物館は一号坑、二号坑、三号坑、秦銅車馬展覧館などで構成されており、7000もの兵士俑や100あまりの戦車、400あまりの陶馬などから構成されているのだが、発掘されているのはまだほんの半分以下であり、坑内にて生々しい発掘の現場を目の当たりにすることが出来る。尚、原型を保っている兵士俑のポーズは直立のものだけではなく、ブルースリーが「アチョ~!」と叫んでいるような格闘系のものやホストが片膝をついて「いらっしゃいまほ~♪」と言っている様なものまで確認された。ところでマサよ、現在上野の森美術館で大兵馬俑展http://www.heibayo.com/が開催されており、雰囲気のかけらだけでも体験することが出来るので大阪から新幹線を転がして必ず見に来るようにしてくれないか!?

兵馬俑からわずか1.5kmほどの場所に同じく世界文化遺産に登録されている秦始皇陵(25元)が国家AAAA景区として観光客の客引きに成功しているので見物することにした。ここはいわずと知れた中国最初の皇帝である始皇帝の陵墓であり、その存在感は心霊現象が多発する青山墓地や多摩川霊園が束になってかかってきても敵わないほどである。始皇陵の頂上まではザクロを栽培している段々畑を横目に階段を登っていくのだが、当然階段の途中で収穫したザクロを観光客に売りつけようとしている農民も待ち構えているのであった。尚、ふもとの広場では秦代の兵士の服装を身にまとった人民が鐘や太鼓を打ち鳴らしながらのパフォーマンスが定期的に行われていた。

マサよ、君は中国にも古くから温泉保養地が人民を癒していた事実を知っているか!?ということで、秦始皇陵から西安市街に戻る道すがらでバスを降り、華清池(35元)という温泉と風景の美しさで有名な観光スポットに立ち寄ることにした。この温泉は2700年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽などが造られたその遺跡が残っているのだが、特に有名なのは世界3大美女の1人である楊貴妃専用の浴槽や当時の唐の皇帝であった玄宗のプールのような巨大浴槽が博物館として残されているところである。また、蒋介石もここで静養した実績があり、1936年の西安事変における弾痕がガラスを突き破った跡も生々しく残されているのであった。

11月14日(日)

2日間お世話になったANAホテルをチェックアウトするとその足で小雁塔(18元)に向かった。707年に建立された小雁塔はもともと15層の塔であったのだが、地震により上部2層が崩壊して現在は13層43mの塔として君臨しており、狭い階段を登って到達する頂上からは西安市の街並みが一望出来るのだ。

最近真言密教の研究を開始した私は空海にゆかりのある青龍寺(8元)を訪問することにした。この寺は582年に霊感寺として創建され、711年に青龍寺に改名された由緒正しい寺であり、804年、当時日本から入唐した多くの僧のひとりだった空海は、この寺の恵果和尚に弟子入りし、密教の教義を習得したのである。唐末の戦乱で廃寺となっていたのだが、1973年に塔の土台と殿堂の発掘により再建され、その後、空海紀念碑や恵果や空海の像が安置されている恵果空海紀念堂などが建造され、ひっそりとしたたたずまいながらもマニアの日本人観光客を集めているのである。長崎県の五島列島を出航した空海が長旅を経て到着した目的地をとうとう見つけ出すことに成功したFTBは遣唐使としての役割を何とか果たすことが出来たのであった。

空港行きバスが出るまでの時間を利用して鐘楼(15元)の内部を見物することにした。鐘楼はもともと鐘を鳴らして時間の告知をしたり、戦時に物見台や司令部としての役割を果たしていたファシリティであったそうだ。建物内部の歴史的な資料もさることながら正午から鐘の楽器を使った民俗音楽つき美女式舞踊等のパフォーマンスがおっぱじまってしまったので美女の動きに思わず目が釘づけになり、思いもよらず楽しいひとときを過ごさせていただけたのであった。

15時30分発JAL660便にて帰国、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \3,960 (税金のみ)

総宿泊費  \8,500

総バス代  60元(1元 = \13くらい)

今後の予定: ドォ~モ~FTBEUイタリア~ノ

協力 日本航空、全日空ホテルズ

なるほど・ザ・FTB秋の温泉2004第2弾ゲロ

♪木曽のぉ~おんたけさんは~♪http://www.shinmai.co.jp/kanko/yama/00022.html

ということで、秋の行楽シーズンもたけわなの今日この頃であるが、先月訪れた奥飛騨温泉郷から高山に向かう道すがらでふいに胸の奥底からこみ上げてくるすっぱい物を感じる交差点があり、その行き先を口に出してしまうと思わずリバースしてしまいそうな感覚に襲われてしまった。今回はその原因の究明のために再び飛騨の里を乗り超えて木曽の奥地まで足を延ばすことにした。

11月6日(土)

ドリカムのメロディーに乗り、ニューヨークのダウンタウンを走ると必ず美女の目を引くネクストプロポーションオデッセイも1,000km点検を終えて、そろそろ走りに油が乗ってきたと見えて中央高速を油断しながら飛ばしていると「車両のふらつきが大きくなりましたぁ~」というカーナビからの警告ボイスを余計なお世話だと思いながらも長野自動車道の松本インターで高速を降りると国道158号線をひたすら西に向かって走っていた。

奥飛騨温泉郷、さらに飛騨高山を抜け、国道41号線から岐阜方面に向かって南下すると午後5時前には今日の宿泊地になっている楽天トラベルに予約させておいた下島温泉のひなびた朝六荘に到着した。旅館のおやじに案内された部屋は2階からイワナの泳ぐ川と渓谷を見下ろすことが出来る景色のいいところであったのだが、何とこの旅館は個室に鍵がついてないほどオープンな環境になっており、下島温泉の誇る単純炭酸泉、またの名をサイダー泉の温泉設備もその辺の銭湯よりもかなり劣ったものであった。

気の抜けたサイダー泉のなかで日本を代表する清涼飲料は三ツ矢サイダーであり、果汁入り飲料の王道はプラッシーであることはまちがいない!などと考えながら時間をやりすごしていると夕飯時になったので膳の準備が整った1階の部屋に移動した。下呂温泉から15kmほど離れた温泉地なので食事の方ももんじゃ焼き、お粥、雑炊等の流動食系のものしか出ないだろうと高をくくっていたのだが、何と食卓にはイワナづくしの超豪華な料理が並んでおり、思わず緊張して度肝を抜かれてしまった。イワナの刺身、天ぷら、焼き物、味噌汁、鍋とおびただしいほどの山菜を前にするとこの旅館の実力はファシリティではなく、豪華絢爛な料理であることが肝に銘じられたのであった。

11月7日(日)

朝六荘が誇る鮎の甘露煮をメインとした朝飯を詰め込んだ後、おやじのお奨めのスポットである巌立峡に向かった。南飛騨国際健康保養地としてパンフレットまで出している巌立は御嶽山の大噴火によって出来た高さ72m、幅120mの柱状節理の大岩壁で県指定の天然記念物である。あたりには遊歩道も整備されており、三ツ滝等の轟々と流れる滝も容易に見物することが出来るようになっていた。

マサよ、君は日本三大名泉を知っているか!?

草津温泉、有馬温泉と並んで日本三大名泉と称される下呂温泉がついに私のカーナビの目的地としてセットされた。下島温泉から国道41号線を15km程岐阜方面に向かって車を走らせるとだんだんと内臓の奥底から胃酸を含んだ酸っぱいものがこみ上げてくる感覚を覚える。これはもしかして「ゲロ!?」と思ってふと脇道に目をやるとそこには「歓迎下呂温泉」の横断幕が朝日を浴びて輝いていたのであった!

ということで、木曽の山々に囲まれた飛騨川河岸の風光明媚な場所に開けた下呂温泉街にとうとう足を踏み入れることと相成った。その飛騨川の河川敷、下痢の患者によく似合いそうな下呂温泉病院を少し下ったところに無償露天風呂が開けており、貧乏そうなライダー達がバイクを止めて入浴に精を出していたのだが、その露天風呂は橋の上から丸見えになっているのが難点だと思われた。そこで多少小銭を持っている私はクアガーデン露天風呂というファシリティで温泉博物館+クアガーデン+白鷺の湯がセットになっているチケットを¥1,000で購入することにした。クアガーデンは総合的な健康づくりを目的とした多目的露天温泉保養館として君臨しており、大小露天風呂や打たせ湯、箱蒸し等の設備が充実していたのだ。

今年の4月にオープンしたばかりの下呂発温泉博物館を訪問した。ここでは温泉が湧き出す仕組みや無理やり温泉を掘り当てるボーリングの技術や日本各地の温泉の成分や特徴に関する展示や資料やパンフレットがもりだくさんであった。さらに、クアガーデンでふやけた体に鞭打ってなおも白鷺の湯に入湯することにした。ところで下呂温泉のルーツであるが、昔、一羽の白鷺が傷を癒そうと飛騨川の河原に舞い降り、湯のありかを告げたそうなのであるが、げろといい、さぎといい非常に怪しい温泉であることは間違いないところであろう。

マ、マサよ、き、きみは放浪の天才画家といわれている山下清をし、知っているか!?

ぼ、ぼくは、し、知っているんだなぁ~!!!

というわけで、下呂温泉の熱気もさめやらぬうちに将来放浪の天才文人として名を残す予定の私は高山本町美術館で開催されている山下清原画展(\600)を見にいくことにした。芦屋雁之助系の風貌を呈した裸の大将が残した作品は日本のピカソにふさわしく来場者の心に響く清くてすばらしいものばかりであった。大将は昭和15年から31年までのルンペンとしての放浪生活の中で一宿一飯の恩義に預かった人々にお礼として絵を描いており、その作品が日本各地に数多く残されているのだ。特に花火が大好きとあって鮮やかな色彩を使った花火見物の絵は大将の代表作のひとつになっているのだ。また、放浪のノウハウとして夏の暑い時期は北国、冬場は鹿児島に出没し、移動は効率的に線路の汽車道を歩いて夜は駅で野宿をして暮らしていたそうだ。

木曽、信濃路ツアーからの帰路の恒例となりつつある白骨温泉に今回も入浴剤状況の抜き打ち調査のために立ち寄ることにした。中部山岳国立公園、国民保養温泉地、天下の名湯白骨温泉に泡の湯旅館という高級旅館があり、そこの外風呂に¥800を支払って侵入することに成功した。台風の影響で紅葉しきれなかった晩秋の景色を見ながら源泉かけながしの39.3℃に設定してある野天風呂に浸かりながら津村順天堂がスポンサーをしていたかっくらきん大放送の野口五郎の全盛期に思いを馳せながら、「マサよ~、もうバスクリンはいらないぜ~」とつぶやいていた。

p.s.  ♪かいさぁ~つぐぅちで君のことぉ~♪

   ということで信州には「野口五郎岳」http://www.shinmai.co.jp/kanko/yama/00007.htmlもあるぜ!

   マサよ、ゴロンボ刑事にもよろしく伝えておいてくれたまえ(カマキリ男)

総高速代  \12,330

総ガソリン代  \6,618

総走行距離  847km

総宿泊費 \9,495

次回はFTB遣唐使をお送りすることを検討しております。健闘をご期待下さい!!

協力 楽天トラベル、高山本町美術館、花王名人劇場「裸の大将放浪記」

竜鉄也推薦FTBJ奥飛騨慕情 + 世界遺産

♪あ~あ~おくひだぁにあめぇ~がふる~♪

http://www.biwa.ne.jp/~kebuta/MIDI/MIDI-htm/OkuhidaBojo.htm (注意:音が出るよ♪)

ということで今年のマサの財務省での忘年会ソングの推薦というわけでもないのだが、今回たまたま車が新しくなってしまったのでその慣らしも兼ねて奥飛騨路まで車を転がすことになった。

10月10日(日)

9月中間決算期のノルマの厳しい時期を見計らうという頭脳プレーを駆使したため、マサであれば10万くらいしか値引きしてもらえないところを私は30数万の値引きを得て購入したネクストプロポーションオデッセイは自宅近くの市川インターから京葉道路、首都高速を抜け、荒井由美の推薦する中央フリーウエイに入ると2.4リッター、iVTEC, DOHCのエンジンがフル回転して競馬場や飛行場を見下ろしながら疾走するはずであったのだが、台風明けで残りの連休を有効活用しなければならないあせった行楽野郎の車で相模湖まで10数キロの渋滞に巻き込まれてしまった。

談合坂サービスエリアで軽く買い食いをするついでにオプション購入したインテリジェントなホンダ純正ナビゲーションシステムで奥飛騨温泉郷に目的地をセットするとグレイッシュムーブメタリックの新車は再び中央道へと戻り、田中康夫率いる長野県の松本インターを目指して疾走した。松本インターから奥飛騨までは中部山岳国立公園と言われる一帯でクネクネ山道プラストンネルが続く狭くて険しい国道158号線を走らなければならない。まだ紅葉には早いもののこの地域は上高地や穂高連峰、乗鞍高原に囲まれており、眺望のすばらしい山岳風景を提供する非常に美しい場所であることが確認出来た。

気がつくとホンダ純正ナビゲーションは長野県を越えて岐阜県に入ったことを示していた。平湯温泉、栃尾温泉、福地温泉、新平湯温泉、新穂高温泉から形成される奥飛騨温泉郷に入ったのは午後4時を過ぎた時間帯であった。ところで今年は折からの台風の影響でツキノワグマが活気づいているのだが、何故かこの地域にも熊牧場があり、数万頭の拉致されたツキノワグマで賑わっていると大々的に宣伝されていたのであった。

連休中の奥飛騨温泉郷は大変な賑わいを見せており、なるほどここが日本でナンバー1の人気を誇る温泉地帯であることを実感させるようにどの温泉宿も満室を誇っていた。新平湯温泉にある老舗風の旅館である田島館に何とかもぐりこむことに成功すると早速、単純ナトリウム泉の温泉でドライブの疲れを取ることにした。山に囲まれた露天風呂は否が応でも飛騨で唯一の有名人である仮面の忍者赤影http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/2049/akakage.htmlが参上しそうな雰囲気を漂わせており、翌朝の朝風呂も含めて3回も温泉に入ってしまったのだ。

10月11日(月)

飛騨といえば高山であるということなので高校の修学旅行で訪問した実績のある高山まで足を伸ばしてみることにした。時は高山祭りの最中ということだったのだが、台風の影響で観光客が激減してしまったという嘆きのニュースがテレビから虚しく流れていたのだが、屋台会館のある桜山八幡宮は静かな面持ちで観光客を迎えていた。宮川の川沿いにかの有名な朝市が立っていたのでぶらぶら歩いてみることにした。ここではお約束の赤カブの漬物やりんごや駄菓子や民芸品が売られており、駄菓子屋のおばさんは町行く観光客にしきりに試食を薦めており、他の店との違いを認識させることに躍起になっていた。

マサよ、君は合掌造りの集落を見て、思わず手と手を合わせて「南ぁ~無ぅ~」と言ったことがあるか!?

というわけで、気がつくと合掌造りで有名な世界文化遺産に認定されている白川郷が80km先に迫っている事実をつきとめてしまったため、軽く下見をするために白川郷まで車を飛ばすことにした。連休のディズニーランドの賑わいは誰でも予想出来るのだが、ここ白川郷も負けず劣らず日本伝統家屋の価値のわかりそうもない素人観光客で大変な盛況を見せていた。世界遺産に認定されている地域は荻町合掌造り集落というのだが、ここにはおびただしい数の急角度茅葺屋根の住宅が軒を連ねていた。しかしながら、それらの住宅の内、純粋な民家はごくわずかでほとんどが土産物屋や食堂、民宿として観光客を待ち構えている燃える商魂系屋敷であったのだ。

和田家という国指定重要文化財合掌造り民家にわずか¥300の支払いでおじゃまさせていただくことが出来るということだったので民家の内部がどうなっているのか探索してみることにした。1573年以来、長きにわたって風雪に耐えてきた家の内部は渋く黒光りしており、特に屋根裏に近づくほどにその伝統の重さがひしひしと伝わってくるような感じがした。尚、内部にはお約束の囲炉裏や床の間、はたまた江戸時代の什器等がうやうやしく展示されておりました。ところで合掌造りのシンボルとなっている茅葺屋根は消耗品となっているため、定期的な葺き替えが必要となる。ここで登場するのが「結」という互助システムであり、個人宅の屋根の葺き替えであっても村人が総出で行うことになる。それも無償援助というではないか!?当然このしきたりを破った輩は晴れて村八分の道を突き進むことになるのである。

最近入浴剤に興味を持ち始めたわけでもないのだが、帰路の途中に白骨温泉があったので立ち寄って見ることにした。長野県南安曇郡安曇村という名前を聞いただけで秘境であることが認識出来る白骨温泉はマサに四方を山に囲まれた渓谷に忽然と出現する秘湯の様相を呈していた。あたりの温泉宿に「ツムラ!」と書いた営業車が止まっていたら狼狽してしまうのは間違いないと思っていたのだが、私の心配をよそに飛び込みで入った野天風呂はバスクリン色ではなく、単純硫化水素泉が醸し出すきれいな乳白色であった。あまりにも白いお湯だったため、川口浩探検隊が洞窟で発見する白骨をピカピカに磨き上げる美術さんもここのお湯を使っているのではないかと想像されたほどであった。尚、今回の入浴剤事件で白骨温泉の知名度は格段に上がっており、おびただしいほどの癒されたい観光客を集めていたのであった。

総宿泊費  \12,000

総高速代  \14,100

総ガソリン代  \6,094

協力 ホンダベルノ京葉