FTB中欧復興世界遺産ツアー in ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、モンテネグロ

旧ユーゴスラビアから分離、独立した国々には美しい自然と歴史的建造物の景観が織り成す独特の風景が数多く存在するのだが、独立にまつわる紛争や自然災害により数多くの世界遺産が壊滅的な打撃を受けている。今回はそのような危機的状況から見事に復興を成し遂げた地域を歴訪し、二度と愚行を繰り返さないことを肝に銘じるべくツアーが敢行されることとなったのだ。

9月23日(火)
ヨーロッパとアジアの架け橋になっている地理的利点を活かし、中東や中欧地域に圧倒的なネットワークを持つトルコ航空が安値で欧州行きチケットを提供しているので、今回は関西空港発22:30発TK47便に乗って久しぶりに庄野真代よろしく飛んでイスタンブールまで行くこととなった。

9月24日(水)
午前6時前にイスタンブールのアタチュルク国際空港に到着すると、しばしスターアライアンスの大ラウンジで英気を養い、7:05発TK1021便で一路サラエボを目指した。飛行機がサラエボ上空に差し掛かると眼下にはこれまで見たこともないような雲海が広がり、分厚い雲を突き破って降下するとそこには素朴な町の光景と質素な空港が待ち構えていた。

早速空港で手持ちの米ドルを現地通貨であるマルカ(KM)に両替するとタクシーに乗車して今日の宿泊地であるHotel Colors Inn Sarajevoに向かった。ホテルでは早朝到着で部屋の準備にあと数10分を要するとのことだったのだが、美味な朝食を無料サービスしてくれるというホスピタリティを発揮してくれたのだった。空腹を満たすと首尾よく部屋にしけこむことが出来たので、荷物をおいて20年前には紛争地帯であったボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボの散策に繰り出すこととなった。

町の目抜き通りはスナイパー通りと呼ばれ、紛争時には、この通りで動くものは高層ビルに潜んだセルビア人狙撃兵の餌食となり、子供や老人、女性さえも狙い撃ちされたという暗い過去を引きずっている。また、通りのビルにはおびただしい数の弾痕が残っており、当時の銃撃戦の凄惨さを物語っている。尚、スナイパー通りに高級ホテルとして君臨するホリデー・インは紛争時にも営業を続けて利益を独占するという気概を見せ、当時は世界中のジャーナリストのたまり場と化していたそうだ。

サラエボの暗黒時代をさらに調査するためにトラムに乗って空港近くのイリジャという町で下車し、徒歩でトンネル博物館(KM100)に向かうことにした。目的地への道中では金を無心する青少年から尾行されるという一幕があったものの、少年の執拗なマークを振り切ると銃弾の痕が生々しいとある建物に到着した。

この博物館は1993年の紛争時に造られたトンネルの一部を公開しているもので、当時のサラエボは旧ユーゴスラビア連邦軍に包囲され、孤立していたが、このトンネルのおかげで他のボスニア軍占領地域と結ばれ、物資輸送を行うことが出来たのである。サラエボで冬季オリンピックが開催されたのは1984年であるが、そのわずか8年後の1992年からは敵陣に包囲された紛争地帯として輝かしいはずの歴史に暗い影を落とすことになるのである。

とんねるから脱出すると世界でもっとも有名な石橋のひとつを見るためにトラムで市の中心地に引き返すことにしたのだが、すれ違うトラム後部の連結器には青少年が危険を顧みずにしがみついて無賃乗車に精を出しており、この国の問題がまだ十分に解決されているわけではないことを思い知らされた。

有名な石橋であるが、何のきなしに歩いていると通り過ぎてしまうかも知れないが、1914年6月28日にボスニアを統治していたオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア青年に狙撃され、第一次世界大戦のきっかけとなったラテン橋なのだ。このようにサラエボは当時から狙撃には縁のある地域であるが、紛争後は国際開発協会の援護射撃的な援助により、今では見事に復興を果たしているのだ。

サラエボでもっとも観光客が集まる旧市街にバシチャルシアという職人街がある。中近東の雰囲気が漂うこの地域にはトルコ風の銀や銅製品の工房兼売り場が軒を連ね、あちこちで金属をとんかちで打ち付ける音が響いており、人々はやっとの思いで手に入れた平和を存分に謳歌しているようであった。

9月25日(木)
列車の運行が少ないサラエボ中央駅に隣接しているバスターミナルからバスに乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の観光地を目指すことにした。風光明媚な山道を3時間以上バスに揺られて到着した町はモスタルと呼ばれ、その旧市街は世界遺産となっているのである。

とりあえずagodaで予約しておいたHotel Old Townにしけこんだ後、早速周囲の散策に繰り出すことにした。石灰岩の山に囲まれた大地を切り裂くように流れているエメラルドグリーンのネトレヴァ川の両岸を美しいアーチを描いた橋がまたいでいる。スターリ・モストと名付けられた橋はこの地の象徴で、ボスニア語でモスタルとは「橋の守り人」を意味しているのである。

スターリ・モストの周辺がにわかに賑わってきたのでその喧騒に近づいてみると橋の欄干の上を集金しながら歩いている上半身裸のナイスバディ男の姿が目に飛び込んできた。橋の下の川べりでは何故かサムライもどきが決定的瞬間をとらえようとカメラの設定に余念がないようであった。ひととおりの集金活動が終了すると集金係ではない別のおじさんがしゃしゃり出て、高さ10m以上の橋の上からいきなり川に落下しやがったのだ。

7~8中世に建てられたいくつかのイスラム寺院を遠めに眺めた後、橋を構成する東岸の塔で開業しているスターリ・モスト博物館(EUR5)で橋の構造を学習させていただくことにした。スターリ・モストは1566年にオスマン朝支配下の時代に建てられたもので橋台を用いず、両岸からアーチ状に構成されており、当時の建築技術の高さを示している。塔の上からは違った角度のスターリ・モストが眺められ、橋を行きかう人を真上から見下すことが出来るのである。

旧市街は日中はクロアチアからの日帰りツアーで賑わっているのだが、夕方になると人も少なくなり、徐々に落ち着いた雰囲気を醸し出していった。さらに夜のライトアップの光景はこの地に宿泊したものが得られる特権となっているのであった。

9月26日(金)
モスタルはスターリ・モストを中心に発展してきた町であるが、この橋でさえも紛争中の1993年11月に破壊されてしまったという暗い過去を引きずっている。その出来事を決して忘れないようにと、旧市街では至る所で「Don’t Forget」を刻んだ看板が見られるのだが、橋の西岸の塔に紛争時の写真を集めた写真館(EUR3)が早朝より営業していたので入ってみることにした。

プロカメラマンにより激写された紛争時の状況を生々しく伝える写真の中には武器を携えた少年兵やスターリ・モスト倒壊後に架けられた仮のつり橋をわたる人々等の姿が映し出されており、復興成った今のモスタルの姿が奇跡としか思えないような感覚さえ沸いてくるのであった。

紛争から得られるものはむなしさ以外の何ものでもないことを思い知らされ、あらためて旧市街を歩いているとスターリ・モストより小ぶりな石橋が視界に入ってきた。Crooked Bridgeというこの橋は1558年に建造されたのだが、1999年の大晦日の洪水で破壊され、2002年に再建されたもので、戦火と災害をかいくぐってきたモスタル旧市街を裏で仕切っているような存在感さえ示していたのであった。

スターリ・モストが異民族や他宗教をつなぐ架け橋となることを祈りながらモスタルを後にすべくバスターミナルからバスに乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナから撤退すると3時間程時間をかけてクロアチア随一の観光地と言っても過言ではないドブロヴニクに移動する運びとなった。バスはいつしか光り輝くアドリア海沿岸を走りぬけ、吊り橋を渡ると高層マンションのような豪華客船が停泊するフェリーターミナルに隣接するバスターミナルにすべりこんだ。

ターミナルに程近いホテル・ぺトカという規模は大型だが、部屋は小型であることを思い知らされた観光ホテルにチェックインすると徒歩で2km程離れた旧市街に向かった。城壁に囲まれた旧市街の入口のひとつであるピレ門はあたかも中世への扉を開いているようで、足を踏み入れるとこの町に忠誠を尽くさなければならないかのように財布の紐を緩ませる土産物屋や飲食店が軒を連ねて待ち構えているのだ。

日も西に傾いてきたのでとりあえず一通り旧市街を回ってみていると波止場の人だかりが目に付いた。船上では何がしかのウエディング系のセレモニーが行われており、一流の観光地のサンセットに花を添えていたのだった。

9月27日(土)
マサよ、君はミキモトでも仕入れることが出来ないアドリア海の真珠と心中しそうになるほどの感動を覚えたことがあるか!?

というわけで、クロアチア最南端に位置するアドリア海沿岸の小さな町ドブロヴニクは「アドリア海の真珠」との異名を持つ風光明媚な観光地である。その旧市街はオレンジ色の瓦屋根を頂いた家屋がぎっしりと並び、8~16世紀に増改築を繰り返して建造された城壁で囲まれている。

旧市街を取り囲む城壁は1940mもの長さがあり、周囲をぐるりと歩いて回ることが出来るので早速Kn100を支払って城壁への急な階段を上ってみることにした。1438年に造られたオノリフの大噴水で汲んできた天然の湧き水を片手に一方通行の歩道を進んでいくとほどなくしてシーカヤックツアーの一団がアドリア海の景色の一部となっていた。

城壁から見下ろす旧市街の奥地は原住民の生活感が息づいており、多くの洗濯物がさわやかな風にたなびいている。一方、アドリア海を行き交うクルーズ船はさまざまなタイプがあり、太陽電池を使ったものやグラスボート、半潜水艦等、観光客の好みに応じて乗り分けることが出来るのである。

世界の一流観光地は名所・旧跡、博物館の入場料、飲食店の割引、乗り物代等がパッケージとなっているお得な期日限定のカードを発行している。観光立国としての道を歩んでいるクロアチアも例外ではなく、1日、3日、7日有効のドブロヴニクカードなるものを発行しており、すでにKn100を支払った城壁巡りも含まれているにもかかわらず、今後の観光プランを考慮してあえてKn150を支払って1日カードを購入することにした。

早速1516年に建立されたスポンザ宮殿への侵入を試みたのだが、カードでは入場出来ないとけんもほろろだったので気を取り直して総督邸に入ることにした。15~16世紀に栄えたラグーサ共和国の最高権力者である総督の住居兼共和国の行政機関であった総督邸は今では文化歴史博物館へと変貌を遂げており、武器、硬貨、絵画など当時の反映を偲ばせる代物が取り揃えられている。

聖イヴァン要塞を利用した海洋博物館でドブロヴニクの貿易都市としての実力を垣間見た後、1699年~1725年に建てられたバロック様式の聖イグナチオ教会でフレスコ画を見ながら聖母像に祈りを捧げさせていただいた。

夕暮れ時が迫ってきた頃合を見計らって旧市街の背後に控えるスルジ山に登頂して高みの見物を決め込むことにした。標高412mを誇るスルジ山へはKn100を支払ってロープウエイで上るのが一般的で、頂上からは堅固な城壁に囲まれたオレンジ色のパズルと紺碧の海、ロクルム島の緑のコントラストを楽しむことが出来る。

水平線に沈み行く夕陽を見送ると旧市街に灯がともり、マイルドな夜景が現出された。西の空は旧市街の屋根よりもオレンジ色に染まり、その残像はいつまでも消え去ることがないのではと思えるほど鮮やかであったのだ。

下界に戻ると旧市街のライトアップを眺めつつ、ディナーと洒落込むことにした。とある雰囲気のいいレストランでシーフードの盛り合わせを発注したのはよいが、ドブロヴニクにはどぶろくのような濁り地酒がなかったのでビールで肴を流し込むしかなかったのだった。

9月28日(日)
ドブロヴニク旧市街は1979年に世界遺産に登録されたのだが、1991年からのクロアチア独立戦争時には旧ユーゴスラビア連邦軍の攻撃により、かなりの被害を受け、一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に挙げられていたものの、終戦後に急ピッチで修復が進み、1994年に再度世界遺産にカムバックした不屈の闘志を誇っている。その復興成った雄姿を海上から眺めるために50分のクルーズ船(Kn75)に乗船してみることにした。

船長としての威厳を感じさせない船の運転手が携帯でしゃべり倒しているのが気にならないほど美しい光景が次から次に出現するアドリア海の色は海底の地形により猫の目のように色を変え、高級ホテルのプライベートビーチでは過ぎ行く夏を惜しむかのようにセレブ達が日光浴に勤しんでいた。

クルーズの余韻を崖っぷちカフェでのコールドドリンクで抑えると、旧市街の喧騒に戻ることにした。何故か大聖堂の周辺が立ち入り禁止エリアに成り上がっていたのだが、どうやら何かのロケをやっているらしく、中世の兵士の衣装に身を包んだ多くのエキストラがテーブルでくつろぎながら出番が来るのを今か今かと待ち構えていたのだった。

ドブロヴニクカード使用のパフォーマンスを上げるために今日も城壁巡りで足腰を鍛え、さらに民俗学博物館でシュールなおとぎ話に登場しそうな怪人物や民族衣装を見学させていただき、土産物屋の店番猫に別れを告げるとドブロヴニクを後にする時間となった。

バスに乗って国境を越え、モンテネグロに入るとアドリア海の入り江の奥に向かうくねくね道を進んでいった。イタリア語のヴェネツィア方言で「黒い山」を意味するモンテネグロはアドリア海沿いにそびえる山々に木が生い茂り、黒く見えたからだと言われているのだが、福島県と同じくらいの面積の国土の中に4つの国立公園を持つ風光明媚な国なのである。

複雑に入り組んだ入り江ポカ・コトルスカの最奥部に位置し、背後を山に囲まれた海洋都市コトルに到着したのは夕暮れ迫る時間であった。古い城壁の正門をくぐり、旧市街へ入ると、日本人団体旅行客をかわしてagodaに予約させておいたホテル・ランデブーにチェックインすると併設されているレストランで山盛りのシーフードをいただきながら、明日のランデブーアクティビティに備えることにした。

9月29日(月)
ホテルで食した豪華ブレックファストにフルーツが入ってなかったので旧市街の外ではあるが、城壁沿いに営業している市場で新鮮であるはずのぶどうとりんごを安値で仕入れることにした。気がつくと目の前の港には豪華客船が停泊しており、こんな湾の奥地にまでクルーズ船がよく入ってきたものだと感心させられた。

世界遺産に登録されているコトルの旧市街の最大の特徴は、背後の山に沿って築かれた城壁でかつては堅固な要塞都市として栄えていた。そこで、早速EUR3を支払って全長4.5kmにおよぶ城壁沿いの山道を練り歩いてみることにした。

急な石段を登り、高度が増すに連れ、オレンジ屋根が密集した旧市街と迫りくる黒い山、コトル湾の地形がその全貌を現しはじめた。山の中腹には15世紀に建てられた小さな救世聖女教会が急峻な山道の城壁巡りをする観光客を救済するかのようにつかの間の休憩場所の役割を果たしていた。

城壁には要所要所に要塞が造られており、複雑な地形を有効活用した防衛体制が構築されているようであった。しかし、今となっては最上部の要塞はここまで登りつめて来た観光客の達成感を満たすためのお山の大将的記念撮影エリアに成り下がっているのだが、ここからの絶景は何物にも代えがたいほどすばらしいものであることは確かである。

下山してあらためて旧市街を歩いていると、ここが1979年の地震によって多大な被害を受けたことがうそであるかのような重厚な建物群が目を楽しませてくれた。狭い石畳の路地が走る旧市街は、貿易でもたらされた富で築かれた豪華な館や美しい教会が建ち並んでいるのだが、そのうちのいくつかに入ってみることにした。

小ぶりな聖ルカ教会は1195年の創建で、内部に当時のフレスコ画をかろうじて残している。1160年に建てられた聖トリプン大聖堂(EUR2)はロマネスク様式の教会で塔以外の部分は創建当時の姿をととめているのだが、内部は1667年と1979年の地震の後に改修が施されているそうだ。

日が落ちると旧市街はライトアップされ、光を放つ城壁の要塞によりその輪郭があらわとなる。旧市街の喧騒は深夜になっても鳴り止まず、ホテル・ランデブー近辺では音楽と話し声がついに途切れることはなかったのであった。

9月30日(火)
アドリア海の奥座敷とも言えるコトルを後にするとバスでモンテネグロの首都であるポドゴリツァに向かった。山間部を走り抜けるバスの車窓からは緑の山とオレンジ屋根の町並み、紺碧のアドリア海のコントラストが美しく、小国であるが、マサに観光資源の充実したすばらしい国であることが実感できた。

ポドゴリツァのバスターミナルに到着した瞬間にタクシー運転手の客引攻勢にさらされた。気のよさそうなおじさんが10ユーロという破格の値段を提示してくれたので乗ることにした。同時にメーターも倒したのだが、なるほどメーターの示す金額は13ユーロであり、おじさんは元々空港での集客を狙っていたためにあえてディスカウントを提示したのではないかと思われた。

トルコ航空のはからいでビジネスクラスへのアップグレードを果たした14:25発TK1086便は定刻どおりに出発し、1時間の時差越えで午後5時過ぎにイスタンブールに到着した。成田行きのフライトまでかなり時間があったのでトルコに入国を果たし、♪夜だけぇ~のぉ~パラダイス♪になっているイスタンブールを軽く見学し、今回のツアーを締めることにした。

10月1日(水)
深夜1:00発TK52便に搭乗し、約12時間のフライトで午後7時前に成田に到着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥126,770
総宿泊費 \31,321、Kn1,933.24 (Kn1 = \18.5)、EUR100(全朝食付)
総タクシー代 KM30 (KM1 = \72)、EUR10
総バス代 KM50、Kn100、EUR7.5
総トラム代 KM3.6、TRY16

協力 トルコ航空、agoda

究極のリゾート「セイシェルの夕陽」ツアー

1983年6月にリリースされた松田聖子のアルバム「ユートピア」に収録されている「セイシェルの夕陽」を聴いて以来、いつかはこの地で夕陽を拝まなければならないと考え続けてきたのだが、30年以上の歳月を経てついに念願のセイシェルツアーが敢行されることになったのだ。

9月1日(月)
10:05成田発NH909便香港行きに乗り込み、4時間超のフライト中ほとんどの時間を機内プログラムで放映されている半沢直樹に見入りながら倍返しのノウハウを身に着けようとしているうちに猛暑の香港に到着した。香港市内で数時間をやり過ごした後、air seychellesが運行する19:10発HM87便に搭乗すると7時間以上のフライトで深夜でも酷暑のアブダビに着陸した。

9月2日(火)
アブダビ空港でしばし免税品店のウインドウショッピングを楽しんだ後、午前2時に同じ飛行機に乗り、さらに4時間以上のフライトでセイシェルのマヘ空港に到着したのは夜も明けた午前7時過ぎであったろう。空港で客待ちをしているタクシーと交渉してEUR45の支払いで車に乗り込むと迫りくる花崗岩を樹木でコーティングした山々と透き通る海のコントラストを横目に今回のツアーの最初の宿泊地であるHilton Seychelles Northholme Resort & Spaに向かった。

インド洋に110以上の島を散りばめたセイシェル諸島で最大のマヘ島の北部に造成されたヒルトンリゾートの客室はすべて木造のヴィラになっており、金持ち観光客が遠慮なく札ビラを切れるように多くの諸施設が充実しているのだ。

早朝の到着にもかかわらず、景観のすばらしいレストランで朝食をご馳走になった後、すぐ部屋に案内されるほどのホスピタリティを発揮したヒルトン従業員がオーシャンビューのヴィラのドアを開け放つとそこに広がっていたのはマサにユートピアと言っても過言ではないほどのすばらしい居住空間であった。とりあえず備え付けのジャグジーで身を清めると「ゆーとぴあ」直伝のゴムパッチンに興じる暇もなく、ヒルトンを飛び出して町に繰り出してみることにした。

マヘ島随一と言われる北岸のボー・バロン・ビーチの眩いほどの白砂で目慣らしをすると島内をくまなく運行する路線バス(SCR5)に乗車してセイシェルの首都であるビクトリアを目指した。インドの財閥タタ・モーターズの青バスであふれかえったバスターミナルで下車すると人口9万人を誇るインド洋の島国の中枢を垣間見ることにした。日本人旅行客は少ないセイシェルであるが、そこには松下幸之助の精神が今も息づく明るいナショナルの看板も掲げられており、首都といっても素朴な雰囲気に包まれていたのだ。

イギリスの統治時代の1903年にビッグ・ベンを模倣して造られた町のシンボルである時計塔で時間を確認すると庶民の食生活の鏡であるサー・セルウィン・クラーク・マーケットを覗いてみることにした。さすがに昼下がりの市場はすでに活気を失っており、売れ残った淋しい熱帯魚がウインクする代わりにむなしく口を開けて横たわっているだけであった。

ヒルトンに戻り、西向きの部屋のバルコニーから夕陽が沈むのを待ち構えていたのだが、昼過ぎから西の空は雲に覆われ、絶景を目にするのは翌日以降に持ち越しになってしまったのだ。

9月3日(水)
マサよ、君は真っ赤なインクを海に流しているような美しい夕焼けを目に焼き付けたことがあるか!?

ということで、セイシェルの高級ホテルではその敷地内でリゾートを完結することができるので、今日はヒルトンでセレブ気分を擬似体験させていただくことにした。まずは日本円で5000円以上はするシャンペン付の高級朝食ビュッフェで養分を吸収したのだが、この料金の半分以上はレストランからの眺望代と言っても過言ではないほどのエメラルドグリーンの海とさわやかな風と鳥の声を聞きながら優雅な雰囲気を味わった。

食後にプライベートビーチに繰り出し、無料で貸し出しているスノーケリングセットで海中探索をした後、プールで体の表面の塩分を抜きながら午後からのセレブ体験に備えていた。尚、セイシェルは年間を通して気温が25℃くらいなので紫外線さえケアーすれば長時間外に滞在しても苦にならないのである。

パリス・ヒルトンのような高級セレブがリゾートに行くと必ず受けるはずのSPAのトリートメントをあらかじめ予約しておいたので昼下がりにDUNIYE SPAでヒーリング効果を高めることにした。肉体にどす緑色の海洋的泥物体をなすりつけられ、ビニールに出し巻き状にされると暖かさと清涼感が交互に現れるような不思議な感覚に包まれ、その後手のひらでプレッシャーをかけられると体の奥底に眠っていた精気がみるみるとよみがえってくる感覚を覚えたのだ。

昨日とは打って変わって雲の少ない西の空がみるみるうちにたそがれ色に染まっていった。松田聖子や作詞家の松本隆も見たことがあるはずの世界のどんな場所で見るよりも美しい夕焼けを実際に目の当たりにしながら30年来の郷愁を存分に味わうことに成功したのだった。

9月4日(木)
2泊の滞在で高級リゾートのお作法を身に着けるために散財したヒルトンをチェックアウトするとタクシーで空港に移動し、12:30発HM3124便でセイシェルで2番目に大きな島であるプララン島に向かった。リゾート観光客を乗せた19人乗りのプロペラ機がマヘ空港を飛び立つと15分ほどで美しいラグーンに面したのどかな空港に着陸した。空港でタクシー運転手に捕まったのでそのまま車に乗り込み、この島での宿泊地となっているVillage du Pecheurを目指した。

このホテルはヒルトンほどではないが、マヘ島よりものどかな雰囲気のプララン島にマッチしており、目の前のアンス・ヴォルベールのビーチは象牙色の砂とエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていたのであった。

プララン島もマヘ島と同様に路線バス網が発達しているので、坂道を登るパワー不足が露呈しているバスに乗ってあてもなく流れてみることにした。なぜか再び空港に戻ってきたので近辺のビーチと黒真珠を養殖しているファシリティを遠巻きに眺めた後、アンス・ヴォルベールのビーチに舞い戻ってきた。

近辺の砂地にはクリームコロッケの材料に最適なはずの赤蟹が無数の穴をこじ開けており、スーパーマーケットの前にはパンくず待ちのカラフルなすずめ系の鳥が餌の取り合いに勤しんでいたのだった。

9月5日(金)
早朝朝日を浴びながら、藁の屋根のバンガローを横目に長いビーチを裸足で走ってトレーニングをかました後、バスに乗って神秘的であやしいヤシの木が生い茂っている国立公園を訪問し、ジャングルに踏み込むことにした。

世界遺産に登録されているヴァレ・ド・メ国立公園(SCR360)は伝説の果実ココ・ド・メールで有名なヴァレ・ド・メの森で構成されている。ココ・ド・メールとは昔昔インド洋の国々に流れ着いていた双子ヤシの実のことである。ココ・ド・メールは殻が取れると女性の腰の形をした実が現れるのだが、この植物の木には雌株と雄株があり、臀部の形をした実がなっているほうが雌株で雄株の花房は細長い棒状になっている。そのため、昔から女性と男性のシンボルとしてさまざまな神話のネタになっていたのだが、なるほど臀部にはケツ毛までも生えているほどの念の入れようなのである。

国立公園内にはいくつかのトレイルが形成されており、一歩足を踏み入れると太古の昔にタイムスリップしたかのようにヤシの巨木と巨大な葉っぱに圧倒されるのだ。

ココ・ド・メールは成長過程が非常に遅く、発芽してから実をつけ始め、その実が大きくなるまでには15~40年かかり、寿命は200~400年程度と言われているが、長いものでは樹齢800年を越すものも確認されているのだ。

ココ・ド・メールがなる森に入り、ここでメールを打つことが難しいと考えたのでヴァレ・ド・メ国立公園から撤退してバスで島の北西に位置するアンス・ラジオという美しいビーチに向かった。浜辺でSeyBrewという地ビールを飲みながらクレオール料理に舌鼓を打っていたのだが、ラジオからのミュージックの変わりにハエが飛び交うブーン音が響いてきたので早めに食事を切り上げて周囲を散策しているとココ・ド・メールよりもふた周りほど大きい楕円形の物体が目に飛び込んできた。

近づいてよく見るとそれは浦島太郎を搬送できるほどの巨大なリクガメであり、やつらは自力で餌を食べることができるにもかかわらず、観光客が差し出す葉っぱをしきりに求めていたのであった。

9月6日(土)
リゾートホテルにもかかわらず午前10時にチェックアウトさせられたのでしばらくホテルやビーチ近辺を散策していると大型ホテルの広場で何がしかのフェスティバル系の催し物の準備が着々と進んでいるようだったので冷やかしに覗いてみることにした。会場には歌謡ショーが行われそうなステージやフラワーアレンジメント、ココナッツジュースのスタンド等があったのだが、とあるテントではココ・ド・メールの直売まで行われていたのだった。

プララン島を後にすべく空港からHM3131便で飛び立った。マヘ島の上空近辺ではエデン・アイランドと呼ばれる高級住宅島を埋め尽くす赤い屋根が見受けられ、ヨーロッパの金持ちがこぞってプライベートリゾートに訪れる様が目に浮かぶようだった。

マヘ空港に着くとタクシー往復よりも安上がりであるはずのSixTレンタカーでKIAの小型車をレンタルすると島の南部に位置する今日の宿泊地であるDoubleTree Resort & Spa by Hilton Hotel Seychelles – Allamandaに向かった。当ホテルはヒルトン本家ほどの規模感はないものの、ビーチに面した部屋のベランダにはお湯の出が良くないジャグジーが据え付けられており、階下のプールと相まって十分なリゾート気分を満喫するに足るファシリティを誇っているのである。

9月7日(日)
東向きの窓から差し込む朝日で目覚めると昨日よりも海の透明度が増していたので朝からビーチを散策することにした。

この近辺のビーチは砂地と岩礁がミックスされているので絶好のスノーケリングエリアになっており、原住民が魚を捕まえようと躍起になっている様子も見受けられるのだが、海底の石にはウニ系黒いとげ物体も付着
しているのだ。

セイシェルを出るまでにしばらく時間があったのでマヘ島の南部から西部を車で流してみることにした。マヘ島には900m以上の山もあり、高台からの眺望もすばらしく、さわやかに吹き抜ける風を利用した風力発電所やエデン・アイランドの様子も遠巻きに眺めることが出来るのだ。

6日間の滞在で十分にリゾートの極意を身につけることが出来たので、15:55発HM86便で行きと同じくアブダビ経由で香港への帰路へとつくことになった。

9月8日(月)
午前10時前に香港に到着すると香港観光にうつつを抜かす体力も残っていなかったので14:30発NH1172便にて羽田まで羽を伸ばし、半沢の倍返しが10倍返しにアップグレードされた回を見ながら流れ解散となった。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \80,850, air seychelles = EUR733.87
総宿泊費 SCR12,577.17 (SCR1 = \8.5), \51,796
総タクシー代 EUR45, SCR1,400
総バス代 SCR 45
総レンタカー代 EUR47.25
総ガソリン代 SCR441

協力 ANA, air seychelles, HiltonHhonors, agoda, SixT rent a car

宮崎駿引退記念 千と千尋と温泉ツアー in 台湾

豊臣秀吉に人生を翻弄された千利休に始まり、歌う不動産王と揶揄された千昌夫や神隠しにあった千と千尋のように千には波乱万丈のイメージがつきまとうのだが、高級烏龍茶と飲茶を求めて気軽に台湾を旅する日本人観光客は増加の一途をたどっている。今回は安倍首相の靖国参拝の喧騒をものともせず、宮崎アニメの影響により一躍一級観光地に成り上がったノスタルジックな町並みを脳裏に刻み込むために、一路沖縄県を飛び越えて台湾まで足を伸ばすことと相成ったのだ。

12月28日(土)
成田発と関空発のチケットで\10万以上の価格差が生じているのを目ざとく見つけることが出来たので関空までわざわざ足を運び、EVA航空が運行する午後5時35分発BR129便に乗り込むと約3時間のフライトで1時間の時差を超えて午後7時45分に台北の桃園国際空港に到着した。空港バスで1時間程の時間をかけて台北駅に移動するとさらにMRTに乗り換えて今日の宿泊地のあるとある駅に到着した。Hotels.comのWelcome Rewords無料宿泊特典を適用してマサであれば\13,000くらいかかるところを私はわずか¥1,326で泊まることが出来るパークシティホテルに投宿すると時差に体を慣らすために今夜はとっとと就寝することにしたのだ。

12月29日(日)
真冬の日本を離れ、温暖な環境を求めて南の島に逃避行したにもかかわらず、北から迫り来る寒気は遠く南の島にも及んでいた。小雨降りしきる寒空の下、気力を振り絞って台北の新興観光地まで足を運ぶことにした。台北世界貿易中心に竹のようにニョキニョキと天に向かって生えているビルが君臨している。高さ509.2mを誇る101階建ての超高層ビルは2004年に竣工した台北101でドバイのブルジュ・ハリファに抜かれるまでは世界一の高さを誇っていた。今日は天候が悪かったので91階の展望台に登ることは控えておいたのだが、地下5階から成るショッピングセンターで買う気もないのに高級ブランド品を物色することだけは忘れなかった。

MRTで忠孝復興駅まで移動し、1062番の路線バスに乗りこむと1時間程で九フンという町に到着した。バスを下りるとすぐに台湾のコンビニで圧倒的なシェアを誇っているセブンイレブンの隣に迷宮への入口が見受けられたので早速入って見ることにした。狭い通路の両脇にはびっしりと土産物屋が軒を連ね、台湾名物であるはずの駄菓子や惣菜の実演販売が行われていた。

想定外の寒さと人いきれで思いのほか体力を消耗してしまったので、とりあえず名物の芋園(芋ぜんざい)を召し上がって今日のところは九フンの下見だけにとどめておいてそそくさと退散することにした。

台北市内に戻ると日も暮れていい頃合になってきたので、台北二大夜市のひとつである士林夜市に繰り出すことにした。夜市の番を司っているかのようにとぐろを巻いているニシキヘビへの挨拶もそこそこに、大蛇の胴体ほどの太さのソーセージには目もくれずに臭豆腐臭に引き寄せられるように地下のB級食堂街になだれ込んだ。

さすがに島国だけあってB級シーフードのメニューは充実しており、台湾ビールの肴として蟹の揚げ物や小ぶりの牡蠣の茹でものなどを発注し、にんにくと生姜の効いた惣菜を食しながら冷えた体に活力を取り戻していたのだった。

12月30日(月)
今日もどんよりとした寒空の下、ホテルをチェックアウトするとMRTで台北駅に向かい、台湾高速鉄道に乗って一気に亜熱帯から熱帯地方に長距離移動することにした。日本企業が受注したはずの台湾新幹線はのぞみよりも望みが高い仕様で設計されているせいか騒音や振動もほとんどなく、快適な列車の旅を約束してくれる。台北駅から2時間で終点の左榮駅に到着するとそこからローカル線に乗り換えて台湾第二の都市である高雄駅に降り立つこととなった。高雄では期待通りの温暖な気候に恵まれていたので、早速agodaに予約させておいた福華大飯店にチェックインして荷物を置くと町の様子を見物しに出かけることにした。

高雄市内を流れ、高雄港に流入している愛河という川があるのだが、日本の統治時代に運河として開拓され、かつては「高雄運河」と呼ばれていたそうだ。橋から見下ろす愛河の景色はすばらしく、太陽電池で航行する遊覧船が観光客を満載して行き交っていたのであった。

埠頭から港を見渡すと対岸には高雄市のランドマークとなっている標高378mの東帝士85國際廣場大楼という高層ビルがそびえており、歴史的な風情と近代的な港町が絶妙にマッチした景観を醸し出していた。

12月31日(火)
高雄駅から列車で新左榮駅に移動し、しばらく歩いていると高雄の名物を販売しているはずの高雄物産館に行き当たった。これといって目ぼしい物産がなかったので目の前の風光明媚な池のほとりから線路を走行しない汽車に乗って左榮蓮池潭に向かった。

何がしかのパレードの様子を横目に伝統的なツインタワーの方向に目を移すとそこは阪神・中日戦の熱戦さながらに虎と龍が大きな口を開けていたのだった。

高橋ジョージよろしく♪何でもないよ~なことが幸せだったと思♪いながら龍の口から内部に侵入するとトンネル内部は仏教説話の壁画で埋め尽くされていたのだった。尚、台湾の人は十二支の中で「龍が最も良い動物で虎が最も悪い動物」と信じられているため、虎の口から入ってしまうと虎舞竜よろしくトラブルを引き起こす懸念があるので注意しなければならないのだ。

蓮池潭の周辺には龍虎塔の他にも龍鳳塔、春秋閣、孔子廟などの見所も多く、池周辺のロードは絶好の癒しの空間となっているのである。

蓮池潭で虎舞竜を充分堪能できたので、次は三船でも見物すべく高雄港まで戻ってきた。港には三船どころかおびただしい数の船が停泊していたので早速渡し舟に乗って対岸の旗津半島に上陸することにした。海岸公園のビーチに着くころには丁度サンセットが迫っていたのだが、ヤシの木の間に沈む太陽を眺めているとここがあたかも南国のビーチのような感覚さえ覚えてしまうのだった。

1月1日(水)
ハッピーニュー マサよ!

ということで、高雄で充分暖をとることができたので、新幹線に飛び乗って台北に戻り、暖から温に進化させるために台湾で最も有名な温泉地である新北投温泉まで北上することにした。MRTの新北投駅で下車すると頭でっかちの不思議なオブジェに出迎えられ、世界ふしぎ発見の期待が高まってくるのだが、実際に温泉地に踏み込んで見るとそこは日本の伝統的温泉リゾートのコピーでしかなかったのだ。

和服をお召になった従業員が立ち並び、おもてなしスタンスを貫いている日式の加賀屋を通り過ぎると、楽天トラベルに予約させておいた熱海大飯店になだれ込み、ババンババンバンバンもそこそこに周辺の見物をかましてみることにした。温泉の仕組みや歴史が一目でわかるはずの北投温泉博物館が閉まっていたので硫黄の臭気が立ち込める天然足湯川のほとりを上って源泉であるはずの地熱谷でもうもうとした気分を堪能して撤収することにした。

台湾の公共温泉は基本的に水着着用入浴が基本となるのだが、熱海大飯店のようなホテルの大浴場には治外法権がしかれている様子で、入浴者は皆フリチンで入ることが許されているのだった。

1月2日(木)
新北投温泉で日本の温泉地の実力を再認識することができたので、千と千尋が労働していた八百万の神々が集う湯屋・「油屋」の雰囲気を求めて再び九フンへと向かうことにした。前回の寒々とした訪問とは打って変わって今日は温暖な青空が九フンを包み込んでいたので緑と青のコントラストの絶景がひときわ輝いていたのだった。

猫街道を標榜する階段から九フンの中心部を目指して登っていると一際観光客が集まっているスポットで交通渋滞が発生しており、日本の一流番組で放送されたという看板の背後にある光景はマサに千と千尋が労働する建物の風景そのものだったのだ。

建物にはどことなくカオナシのような風情のお面も飾られているのだが、台湾ツアーとしてのメンツを保つために、千利休よろしく茶芸を堪能してみることにした。とある高級そうな茶屋に陣取り、高級であるはずの烏龍茶を高値で発注すると中国茶のバリスタであるはずの店員ギャルが茶器と茶葉を持ってきてお作法のデモをしていただける仕組みとなっている。お茶請けに黒ピーナツと抹茶チーズケーキをいただきながら本場の味を堪能するとどことなく、わびさびとは異なった中国5000年の伝統の雰囲気が漂ってくるのであった。

日が暮れると古き良き時代の建物に明かりが灯りはじめ、九フンの観光は佳境を迎えるのであるが、あまりの観光客の多さのために無事に台北まで帰れなくなることを懸念して早めに退散すべく、バス停で台北行きのバスを待っていた。バスは台北行きと近隣の町である基隆行きのものがあるのだが、長い行列を並んでやっと乗れると思った台北行きはすでに満席でその間に多くの基隆行きのバスが台湾人客を拾っていった。台北行きを待っているのはほとんど日本人観光客になり、彼らはすでに1時間以上もバス待ちをしているため、基隆行きのバスが来るたびにバスに向かって呪いの言葉を吐いていたのだった。

何とかその日のうちに台北に帰ってくることが出来たので、台北駅から新幹線で桃園に移動し、Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればNT$2,700くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Express Taoyuanに引きこもると宮崎駿が九フンに来ると気が変わって間違いなく現役復帰するのではないかと考えていた。

1月3日(金)
タクシーで桃園空港に移動すると、EVA航空のラウンジで飲茶を堪能し、午前11時30分発BR130で関西空港に帰って行った。九フンでの観光客の喧騒を考えると何人か神隠しに遭ってしまうのも無理はないと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 \66,610
総宿泊費 \43,184
総列車代 NT$3,478
総MRT台 NT$455
総バス代 NT$525
総渡し船代 NT$30
総タクシー代 NT$700

協力 EVA航空、hotels.com、agoda、楽天トラベル、Priority Club

FTBJ北の国から2013 ラベンダー

♪ア~ア~、ア ア ア ア ア~♪

じゅん、じゃなかったマサよ~ォ、君は白が溶けさった北の国が紫の芳香に包まれる季節にふらっと富良野にやってきたことがあるか!?

というわけで、富良野のラベンダー畑が紫色に染まるのはほんの7月の短い季節だけなので、この絶景を堪能するために日本だけでなく世界各国から観光客が押し寄せてくるわけで・・・

道央の気候は猛暑が続く本州とは違って過ごしやすく、さわやかな風が吹き抜けて、熱中症を患ってフラフラになることもないわけで・・・

2013年7月13日(土)

午前8時発ANA53便B747-400ポケモンジェットは少年少女の夢を乗せて大空へと翼を広げ、9時半過ぎには新千歳空港に到着した。早速トヨタレンタカーでパッソをレンタルすると2時間半もの時間をかけて道央の富良野にやってきた。マサに富良野地域に入ろうとするその直前にハイランドふらのというファシリティに遭遇し、ラベンダーのうみと名乗る花畑を垣間見たのだが、紫があざやかでなかったのでもしかしたらラベンダーの季節をはずしてしまったのではないかとの不安に苛まれてしまった。

旭川ラーメンをすすって気持ちを落ち着けると中富良野町にある町営ラベンダー園へと急いだ。冬はスキー場としてゲレンデが溶ける程の恋を集めるはずの斜面は色とりどりの花々で飾られており、¥300を支払ってリフトに乗ると眼下に紫色のラベンダー畑が広がったのだ。

色鮮やかなラベンダーは蝶やミツバチなどの格好の餌場となっており、快晴の空の青さや白い雲、十勝連峰のギザギザした稜線を背景にくっきりとその存在感を示していた。

熱き心を持つはずの小林旭が跨ると絵になるはずの♪燃えるおと~この赤いトラクタ~♪が待ち構えている「とみたメロンハウス」でメロンソフトを食った後、日本のラベンダーの歴史とともに歩んできた名門ファーム富田に足を踏み入れた。

ラベンダーの開花が最盛期を迎えたファーム富田にはラベンダー畑だけでなく紫式部のように艶やかに彩られた花畑もあり、観光客は思い思いの場所で記念写真を取りながらいい気になっていた。

一口でラベンダーと言っても様々な種類があり、富良野で見られるラベンダーはようてい、はなもいわ、濃紫、おかむらさきの4種類に渡っており、早咲きと遅咲きの品種があるので花見が出来る期間は数週間にもおよんでいるのである。

ファーム富田を語る上でその原点となった「トラディショナルラベンダー畑」の物語を欠かすことは出来ない。今でこそ紫の絨毯は多くの観光客で埋め尽くされているが、1975年には経営不振からラベンダー畑を潰す決心でトラクターを畑に乗り入れたのだが、小林旭のような熱き心の声が苦しみを乗り越えよと叫んだ時から躍進の芽が出始め、北の国からのブームの後押しもあり、今では紫皇帝のように道央の経済界を牛耳っているのである。

富良野はマサに北海道の中心に位置しているため、7月下旬に北海へそ祭りが開かれるのだが、そのポスターを見て「へ~そ~」と思いながら、富良野駅前の倉庫に押し込められている北の国から資料館(\500)に押し入ることにした。この資料館は日本を代表する農業俳優である田中邦衛の足跡を辿る貴重な資料で埋め尽くされているのだが、出演者一覧の写真集の中には黒い喪章で飾られた名優のかつての勇姿も見受けられたのだ。

田中邦衛の遺言を旨に富良野を後にすると美瑛町ののどかな丘の上に建つ白金温泉ホテルパークヒルズに駆け上がり、源泉かけ流しの温泉と地元産の食材を取り入れた和洋中バイキング料理で英気を養いながら涼をとった。

7月14日(日)

農業王国美瑛町の最大の見所として早朝から多くの観光バスを停泊させている四季彩の丘がこのベストシーズンにどのような彩られ方をしているのかが気になって仕方がなかったので立ち寄って見ることにした。

四季彩の丘のゆるキャラであるロール君とロールちゃんの周りは丁寧に植え付けられた花々で贅沢に彩られており、トラクター牽引トラムで花畑をめぐる老若観光客も満面の笑みをたたえながらトラクターが巻き上げるマイルドな砂埃を物ともせずに往年の熱き心を燃やしているようだった。

美瑛町から旭川を抜け、北見方面に車を走らせていると標高1050mの石北峠に差し掛かった。峠の土産物屋ではヒグマのファミリーが客引きをやっていたのでその熱意にほだされて思わず生乳製ではないソフトクリームを買ってしまった。

ほたるぅ、じゃなかったマサよ~ォ、君はヒグマには遭遇したくないがヒグマを見たい輩のために創作されたはずの海上アクティビティに参加してかろうじてその成果の報酬にありついたことがあるか!?

ということで、石北峠からさらに300km程度車を飛ばして知床半島の西岸のウトロに着いたころには目もウツロになってしまっていたわけで・・・

ウトロ名物ゴジラ岩の麓で店を開いているゴジラ岩観光は夏季限定で知床半島ウトロクルーズを催行している。トヨタレンタカーからるるぶの割引券をもらっていたのでマサであれば¥5,000かかるところを私¥4,600の支払いで15:30発のヒグマウォッチングクルーズに参加させていただくことにした。早速カムイワッカ88号と名乗る高級クルーザーに乗船すると世界自然遺産の知床半島の絶壁を右手に見ながら野生を求めての航海の幕が切って落とされた。

この時期の知床ではカラフトマスを漁獲するための定置網が至ることろに仕掛けられているので船が魚と一緒に網に掛かって釣り上げられるのを防ぐために要所要所で迂回をしなければならなかった。

絶壁には幾筋もの滝が流れており、クルーザーはその機動性を利用していくつかの滝に接近して観光客を喜ばせていた。厳冬期の流氷に削られた知床の壁は穴をこじ開けられたり、オーバーハングしたり、象の形に造形されたものまで鎮座していた。

クルーザーの名付け親である温泉滝、カムイワッカの滝を過ぎるとヒグマのメッカと言われるルシャ湾に差し掛かった。カラフトマスやサケが遡上する季節にはルシャ湾はヒグマ祭りの会場と化し、イクラがいくらでも食い放題の様相を呈するのだが、今日は気温が高くて暑いということでヒグマも散歩を控えているようだった。

例年ヒグマウォッチングツアーでは驚異の100%近いヒグマ目撃率を誇っているのだが、今年はすでに2回程外しているとのことで今回も空振りに終わるのかと思われた瞬間に船長の高性能双眼鏡がビーチを歩くヒグマのシルエットを捉えた!単身で歩いているヒグマは大型犬よりも多少大きいくらいのサイズであったが紛れもなく野生の猛獣でマサと相撲を取っても簡単に寄り切ってしまうほどの迫力をたたえていた。尚、ルシャ湾の先に14番番屋という漁師の小屋があり、ここにも容赦なくヒグマが姿を現すのだが、そこを取り仕切っているオヤジはヒグマを怒鳴りつけて退散させることで有名人となっているのだ。

約2時間のクルーズが終了し、辛くもヒグマに遭遇出来た実績によりゴジラ岩から「いいね!」をもらうと世界自然遺産の宿 しれとこ村つくだ荘の温泉で汗を流し、北海名物のご馳走に舌鼓を打ちながらサケが遡上する秋のリベンジツアーを見据えていた。

7月15日(月)

早朝つくだ荘を引き払うとほぼ満車状態の知床五湖駐車場に車を止め、ヒグマも恐れる高圧電流の流れる電線に守られた木道が整備されている一湖を見学させていただいた。尚、前回の知床ツアー(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2006shiretoko.html)では自由に行き来することが出来た二湖から五湖は認定ガイドと歩くネイチャーツアーに参加することが一般的となっており、ヒグマの生態を熟知してない輩は木道に留まることを余儀なくされるのだ。

知床峠の駐車場では何故か巨大な望遠レンズを三脚にセットしたにわか写真屋が数多くたむろしていた。カメラの向かう方向は鈴木宗男も喉からでが出るほど返して欲しい北方領土が鎮座しており、北方領土の人気をあらためて思い知らされるに至ったのである。

峠を下ると知床半島東岸の羅臼に到着した。海沿いの道を半島の奥地に向かって車を走らせているとついに日本最北東突端地で行き詰まってしまった。そこのラーメン屋に掲げられた看板には「馬鹿ラーメン」の文字が踊っており、ヒグマに遭遇するリスクまで犯して僻地くんだりまで来る輩はマサにバカに違いないと思われたわけで・・・

北海道には熊だけでなく馬も鹿も多いと納得しながら根室中標津空港まで車を走らせると14:25発ANA840便に搭乗し、猛暑の東京に帰って行った。羽田空港の遥か先には東京スカイツリーが尖っており、ここで馬鹿ラーメンを販売すると「おととい来やがれ!」と罵声を浴びて電波状況の悪さの憂さ晴らしをされることは間違いないわけで・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥25,700

総レンタカー代 ¥28,770

総ガソリン代 ¥

4,961

協力 ANA、楽天トラベル、トヨタレンタカー、ゴジラ岩観光(http://kamuiwakka.jp/)

ボケの聖地大歩危・小歩危と日本三大秘境紅葉ツアー

中学校の社会の授業で川崎先生から四国の徳島に大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)という景勝地があることを習った。それを知った同級生のワルが成績の芳しくない女生徒2人にそれぞれ大ボケ、小ボケと命名し、授業中の珍回答を揶揄していた。さらに大歩危・小歩危の背後に祖谷渓という日本三大秘境と言われる渓谷が小便をちびりそうになるような断崖の切れ込み方で観光客を集めているという。

季節は紅葉を迎え、景勝地のボケぶりもたけなわになった頃を見計らって秘境に足を踏み入れるツアーが開催されることとなったのだ。

2012年10月31日(水)

7:25発ANA651便B787-8ドリームライナーに乗り込むと約1時間20分のフライトで岡山空港に到着した。空港バスで岡山駅に移動し、マリンライナーという快速列車で瀬戸大橋を渡り、坂出駅でローカル列車に乗り換えてお昼前にしなびた港町の多度津駅に到着した。さらにワンマンのローカル列車で1時間以上の時間をかけて午後2時過ぎに阿波池田駅に到着した。駅を出てすぐの観光案内所の隣の広場ではおばちゃんが三味線ライブを行っており、数人の聴衆の前で見事であるはずのベンベラベンを披露していたのだ。

阿波池田駅で駅レンタカーを予約していたのでスズキのワゴンRに乗り込むと国道32号線を高知方面にひた走った。国道沿いにはJR土讃線の線路とともにエメラルドグリーンの水を湛えた吉野川が流れ、河岸には砂岩が変成してできた砂質片岩の分厚い地層がダイナミックに露出していた。

これといった見所のない小歩危峡を過ぎ、サンリバー大歩危と名乗る温泉施設を通り過ぎてラフティングショップやコンビニを融合したドライブイン的なファシリティで小休憩することにした。近くに三名含礫片岩に刻まれた後藤新平句碑があったので歩危の秋が堪能出来るように祈っておいた。尚、歩危(ほけ)とは、ほき、ほっけから転じた地名で崖地険しい所をいう。歩危の上に大や小などの文字が付くと「ぼけ」と濁って読むという。

大歩危峡での代表的なアクティビティは遊覧船に乗ってしばしボケ~と時間をやり過ごすことなので「大歩危遊覧船レストラン大歩危峡まんなか」で¥1,050の乗船料を支払って30分の船旅を楽しむことにした。救命胴衣を身につけて船に乗ると程なくしてボケクルーズの開始となった。乗客は船頭が説明の中でボケをかましたらすかさずツッコミを入れようと虎視眈々と狙っていたようであったが、まっとうな説明しかなかったので舌先で待機させていた「何でやねん!?」「お前何考えと~ねん!?」といった王道文句を飲み込まざるを得なかったのだ。

ボケとツッコミの掛け合いはともかくとして遊覧船から眺める渓谷美と両岸の奇岩怪石は非常に特徴的であった。遊覧船は1年中営業しているので四季折々の季節を楽しむことが出来るのだが、やはり数週間後に訪れるはずの紅葉の時期が最も素晴らしいのではないかと思われた。

遊覧船乗り場のすぐ先にラピス大歩危と名乗る道の駅大歩危が妖怪屋敷の看板を誇らしげに掲げていたので入ってみることにした。ここには通常の道の駅のファシリティだけでなく妖怪屋敷/石の博物館が開業しており、チケット売り場のおね~さんが挨拶の際に「何かよ~かい?」と小ボケをかましてきたら\500の入場料を支払って入ってみるつもりだったのだが、妖怪のような機転が利かなかったので貴重な入場料収入を逃してしまったのだ。

このあたりの地域は妖怪銀座になっているようで、今日宿泊するホテルである大歩危峡まんなかの近くには妖怪めぐりマップも掲げられているほどの念の入れようであった。ちなみにホテルは温泉ホテルで露天風呂から峡谷を見渡すことも出来、地元の食材を使った懐石料理は高級料亭なみの豪華なものだったのだ。

11月1日(木)

ホテルまんなかをチェックアウトすると日本三大秘境の一つに数えられる祖谷(いや)の奥地に足を踏み入れることにした。西祖谷地区の県道を過ぎて国道439号線に差し掛かると祖谷の中でも最強の秘境である東祖谷地区に入ってしまったことに気づかされた。ここから車が一台通れる程の奥の細道が延々と続くのだが、ここかしこで工事が行われているためダンプカーの通行が多く、弱小レンタカーは祖谷の細道でいやいやながらバックして道を譲らなければならないのだ。

大歩危・小歩危や祖谷を含めた一帯は剣山国定公園となっているのだが、奥祖谷の最深部、徳島と高知の県境に日本百名山の剣山がそびえているのでこの機を捉えて登頂しなければならなかった。剣山の登山拠点である見ノ越に到着するとリフト乗り場の駐車場は閑散としている様子であったが、それでも1台の観光バスが止まっていた。四国とはいえ、標高の高いこの地域はすでに冬支度を始めており、標高別拠点の気温を表示する掲示板には摂氏一桁が踊っていた。

通常の登山者はリフトで山の中腹まで輸送されるのだが、所要時間15分の足ブラブラリフトに往復\1,800を支払うのは忍びなかったので頂上への道のり4,000mを徒歩で制覇してやることにした。登山道に入るといきなり「クマに注意」の看板が現れ、思わずリフト乗り場に引き返そうと思ったのだが、四国にどんなクマがいるのか興味があったので気持ちを強く持って山道を進むことにした。

登山リフトの終点の西島駅には40分程で到着し、ここでクマの襲来を警戒した冷や汗が引くのを待って頂上を目指すことにした。剣山頂上への道のりはいくつかのルートがあるのだが、最短ルートを通ればわずか30分程で到達出来るので、クマさえ現れなければこの山へはハイキング程度の体力で登頂することが可能である。念の為に途中の大剣神社で登山の成功を祈願すると程なくして冬の装いになっている標高1,955mの剣山山頂に到着することに成功した。

山頂周辺には熊笹等の自然の植生を守るために遊歩道が設けられており、晴れていれば小豆島や瀬戸大橋、大鳴門大橋等の眺望が楽しめるのだが、視界が良くなかったために周辺の山々の頂の景色のみ頂いておいた。

吹き付ける風が容赦なく体温を奪いそうだったので剣山頂上のやどである頂上ヒュッテに陳列されている土産物等をチラ見してそそくさと下山することにしたのだった。

剣山を後にして国道439号線を東祖谷方面に引き返すことにした。奥祖谷に二重かずら橋という代表的な観光地があるので\500を支払って見学することにした。祖谷は平家の落人が住み着いた場所でかずら橋は平家一族が、平家の馬場に通うために設けたと言われる橋である。二重の名のとおり、男橋と女橋の2本があり、「夫婦橋」とも呼ばれている。

女橋のすぐ横にはロープをたぐりながら渓谷を渡る「野猿(やえん)」があり、美しい紅葉と透き通るような清流を見ながら優雅な神輿的空中散歩を楽しむことが出来るようになっている。

二重かずら橋を過ぎると遠目から見ると人間の寄り合いに見える人形の集団が農作業をしていたりバス停でバスを待っているふりをしている光景が目に飛び込んでくる。ここは天空の村・かかしの里という場所で、かかし工房ではかかしの生産のみならず置物や焼物等の無人販売も行われており、気に入った物があればかかしに金を支払って持ち帰ることが出来るシステムとなっている。

かかしを使って人間の数を水増ししようとしているのは一見卑怯とも思えたのだが、これが秘境の実態だと自分に言い聞かせて楽天トラベルに予約させておいた「いやしの温泉郷ホテル三峯」にチェックインして秘境温泉を堪能しながら静かな夜を過ごさせていただいた。

11月2日(金)

いやしの温泉郷の敷地内から奥祖谷観光周遊モノレール(¥1,500)が発着しているので話のタネに乗車してみることにした。カブトムシを車両のデザインに取り入れたこのモノレールは世界最長の4,600mの行程を誇り、590mの高低差も世界一となっている。最大傾斜角は40°で最高標高は1,380mとなっているのでこの時期には十分な防寒対策をして乗車しなければならない。

モノレール駅で待機している多くの2人乗りの車両の1つに乗り込むとシートベルトを締めて1時間ちょっとの自動運転によるのどかな森林浴がスタートした。車両は上りや下りを自動検知している様子でシートのリクライニングが傾斜角によって自動調節される仕組みになっているので後ろに倒れすぎたり前のめりになったりする心配もなく体力のない老人であっても快適に山間の遊覧を楽しむことが出来るのだ。

モノレールの線路のほとんどは林の中を通っているので単調な感じも否めないではないが、時々野生の鹿が現れて乗客の目を楽しませてくれる。標高が上がり、眺望が開けると周囲の山々が色づいていく様子を遠目に眺められるのだ。

秘境モノレールを堪能させていただいた「いやしの温泉郷」を出ると落合集落を一望出来る展望台にたどり着いた。国指定重要伝統的建造物保存地区に指定されている落合集落は江戸中期から昭和初期に建てられた民家や石垣と畑が急斜面に広がり、なつかしい山村の風景を今なお残しているのだ。

東祖谷地区の見どころを一通りおさえることが出来たので比較的秘境度がマイルドな西祖谷地区に戻ってきた。西祖谷地区の最大の見所は日本三奇橋のひとつとして君臨し、国・県指定重要有形民族文化財に指定されている祖谷のかずら橋である。かずら橋は平家一族が追っ手から逃れるために、いつでも切り離せるようにと、シラクチカズラという植物で造ったと言われている。今では3年に一度、安全のために架け替えられているが、渡る時には絶妙な揺れと橋げたの隙間から見える10数メートル下の渓流の景色により何とも言えないスリルを味わうことが出来るのだ。

尚、この一方通行のかずら橋を渡るためには¥500の入場料を支払う必要があり、私は既に奥祖谷の二重かずら橋でその醍醐味を味わっていたので同額の¥500で名物祖谷そばを食って腹の足しにすることにしたのだった。

かずら橋の出口の近くに平家の落人たちが琵琶を奏でてなぐさめあったと伝えられる高さ50mの琵琶の滝が流れていたのでここでマイナスイオンを吸収して祖谷渓に向かった。途中のホテルかずら橋の前に古いバスが停車していたのだが、このボンネット定期観光バスにより西祖谷の主な見所は網羅されている。

マサよ、君は日本一の渓谷で度胸の善し悪しが立ち小便の勢いによって試されていたという驚愕の事実を知って思わずちびりそうになったことがあるか!?

私は・・・・・ない!!

というわけで、西祖谷の観光地を抜け、遠く眼下に流れる祖谷川を見ながら細い山道を駆け上がるといつしか数百mの断崖絶壁の続くV字型の深い谷である祖谷渓谷に入っていた。祖谷渓の中腹に日本秘湯を守る会の会員にもなっている祖谷温泉が一軒宿の看板を掲げていた。この旅館の温泉はケーブルカーに乗って渓谷を下って到着することが売り物らしいのだが、気軽に入れそうもなかったのでスルーしておいた。

祖谷温泉を少し通り過ぎたところでいきなり交通安全を祈願しているはずの小便小僧の看板が目に飛び込んできた。看板のすぐ先には美しい背骨のアーチを描いたブロンズ児童がイチモツの先に見える遠く崖下に流れる川に狙いを定めていた。この小便小僧の立つ岩は、谷底から200mの断崖に突き出しており、明治時代に周辺に道路をつくった際も崩落せずに残った岩で、度胸試しに立ち小便をする人が跡を絶たず、いつの間にか「小便岩」と呼ばれるようになったという。マイルドな尿意を抑えていた私も連れションの恩恵に預かろうと思ったのだが、小僧のチンチンが恐怖で縮こまっているように見えたので遠慮しておくことにした。

小便小僧が早く大人になることを祈りながら祖谷渓を後にすると再び大歩危・小歩危の景勝地帯を抜けて大歩危駅のありさまを見学しに行くことにした。普通の田舎駅の外観を持つ大歩危駅でありながら、駅長はこなきじじいが勤めているようで彼の仲間の妖怪がそれぞれのコインロッカーの管理を担当しているようだった。

大歩危峡を出るにあたり、この地方の実力者であるはずのこなきじじいへの挨拶は欠かせないと思ったので遊覧船乗り場からさほど離れていない藤川谷に鎮座する児啼爺像に参拝しておいた。尚、近くには小生意気なスタイルのエセこなきじじいも存在していたのだが、賽銭収入があるのは児啼爺像だけのようであった。

小歩危峡の近くで「ぼけ除け大地蔵」という非科学的な観点からアルツハイマーと果敢に戦おうとしている寺の看板を発見したのであわよくばその効能に与ろうと急坂を上ってお参りに行くことにした。残念ながら住職に会えなかったので「日本に何万人といるアルツハイマー患者を救うためにもっと認知度を上げるべきではないか」との助言を与えるにはいたらなかった。

夕暮れ時に阿波池田駅でレンタカーを返却し、駅周辺をぶらぶらしていたのだが、この町はかつての野球強豪校池田高校の城下町なのでここかしこで下校時の女子高生に遭遇した。高台にある高校まで足を運んでみるとグランドでは野球部やほかのクラブがひしめき合って練習に励んでおり、普通の公立高校の日常の放課後が展開されていた。甲子園を制覇したやまびこ打線というキャッチフレーズの名のとおり、高校は山に囲まれており、ここから阿波の金太郎という名選手が生まれたのも納得出来る気がした。金太郎はドラフト1位で巨人に入団し、寮生活をしていたのだが、おとなしい生活には飽き足らず夜な夜な非常階段を通って門限破りを繰り返し、酒池肉林を満喫していたとの報告を受けている。これに怒った寮長は非常階段に有刺鉄線を張り巡らせて門限破りを阻止しようと試みたのだが、火事が起こったときに焼け死にたくなかったはずの金太郎は後日消防署に通報して非常階段の機能を復活させ、見事肉林への扉を再開したのであった。

消防法に詳しい金太郎の頭脳的悪行を露にしたところで丁度帰りのワンマン電車が来たので電車を数本乗り継いで岡山駅に帰っていった。

11月3日(土)

ANA「ダイヤモンドサービス」ホテル宿泊・お食事クーポンを使ってただで泊まることが出来た岡山全日空ホテルをチェックアウトするとバスで岡山空港に移動し、9:35発ANA654便で「金太郎は剣山にいるはずのクマに勝てるだろうか」と考えながら東京への帰路に着いた。

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥26,000

総空港バス代 ¥1,480

総JR代 ¥3,700

総レンタカー代 ¥11,950

総ガソリン代 ¥1,450

協力 ANA、楽天トラベル、駅レンタカー、ANAホテルズグループジャパン、徳島県立池田高等学校

イチロ、ボルトを締め直してカリビアンツアー in NY、ジャマイカ、バハマ

グレたイチローがシアトルをバックれてヤンキーになった!?

衝撃のニュースが日米を駆け巡ったのは7月23日のことであった。思えばイチローが渡米し、全米にセンセーションを巻き起こした2001年からFTBのMLBツアーが加速し、同時多発テロを乗り越えてイチローは伝説の域に達してしまった。しかし、野球人生の集大成とも言うべきワールドチャンピオンのリングだけは強豪チームにいない限りは決して手にすることは出来ないのも事実である。

今回は大都市で覚醒したイチローのさらなる飛躍ぶりをこの目で確かめるためにニューヨークに飛び、さらに緩んだボルトを締めなおすためにジャマイカ、北ウイングの足跡を追ってナッソーを訪問するツアーが開催されることとなったのだ。

2012年10月2日(火)

ANAのプレミアムポイントが余っていたのでビジネスクラスにアップグレードして乗り込んだ11:00発NH010便は定刻通りに出発し、約12時間のフライトで午前10時過ぎに曇り空のニューヨークJFK国際空港に到着した。早速AirTrainと地下鉄を乗り継いでダウンタウンに向かったのだが、地下鉄を降りて外界に出ると今日の野球の試合の開催が危ぶまれるように雨がしとしと しとピッチャーだった。

再び1乗車に付き$2.25に値上げされている地下鉄に乗り、柄の悪いことで有名なブロンクスのW Farms Sq Tremont Avで下車するとhotels.comに予約させておいたHoward Johnson Bronxにチェックインしてしばし雨の行く末を見守っていた。夕方の5時近くになると霧雨を切り裂くように外に出て地下鉄を乗り継いでイチロ、ヤンキースタジアムに向かった。161 St Yankee Stadiumで下車すると2009年にオープンした新ヤンキースタジアムが目の前に迫っていた。尚、老朽化のために取り壊された旧ヤンキースタジアムは跡形も残っていなかったのだ。

スタジアムの回りを一周し、その建築様式を確認するとTicketmasterでオンライン高値購入しておいたチケットを入手するためにチケット売り場のWill Callの窓口に向かった。チケットを手にヤンキースタジアムへの入場を果たすと各土産物屋ではイチロー祭りが開催されているかのように多くのイチローグッズが並んでいた。さらに食い物屋に目を向けると伝統的なホットドッグやピザを横目に日本食屋の開店も見られたのだが、メニューの目玉はイチローを転がしたようなSUZUKI ROLLだったのだ。

試合開始まで時間があり、雨よけのシートのかかったグランドでは練習も行われていなかったので球場内を隈なく散策することにした。伝統あるヤンキースは永久欠番を量産しており、欠番に値する野球の神様達を奉るためにバックスクリーンの直下にMemorial Parkなるものを開設している。神様達は銅版のプレートとなってその活躍を讃えられているのだが、何故か前オーナーのジョージ・スタインブレナーIIIの巨大なプレートが神様達を束ねているかのように中央に飾られていやがった。

続いて球場内2階にあるヤンキース博物館にも足を運び、ワールドチャンピオン27回の栄光の歴史をまざまざと見せつけられたのだが、直近の世界一である2009年にワールドシリーズのMVPを獲得したマツイの痕跡がスタジアムのどこにも見られなかったのでそれはマヅイだろうと思いながら場内を彷徨っていた。

霧雨の降り続く中ではあるがヤンキースとレッドソックスの伝統の一戦は定刻7:05にプレーボールとなり、相手が左ピッチャーのために9番という下位打線に甘んじているイチローが私が座っているレフトスタンド前のフィールドに定着した。

この日のイチローは3打席目にSUZUKI ROLLを彷彿とさせるような球を3塁線に転がし、見事なバントヒットとしたのだが、見せ場はこの打席だけで結局5打数1安打とファンにとっては物足りない結果となってしまった。

試合の方は9回裏に2点をリードされたヤンキースが代打ラウル・イバネスの起死回生の同点2点ホームランにより延長戦に突入し、12回の裏のチャンスに再び打席が回ってきたイバネスのサヨナラヒットによってヤンキースが勝利し、フィールド内とスタンドは歓喜の渦が巻き起こり、締めの定番ソングであるフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪がかき消されそうな喧騒であった。

試合が終わったのが11時半頃で満員の地下鉄に乗り、深夜にブロンクスのホテルに帰り着いたのだが、ニューヨークでの入浴は翌朝に回して時差でボケている今夜はとっとと寝静まることにした。

10月3日(水)

今日の天気予報も雨であったのだが、何とか曇り空が涙を流さずに持ちこたえていたので午前中にロウアーマンハッタンに繰り出すことにした。地下鉄フルトン駅で下車して9.11 Memorial方面に向かうとグランドゼロにはワールドトレードセンターに変わる高層ビルが再び天空を目指すかのように建設中であった。

タイムズスクエアで大道芸人が芸のクライマックスを警察に制止されて見物人からブーイングをくらうNYPDを横目に街頭でOREOとHOLDSの新商品のサンプルを受け取ってミッドタウンをしばし徘徊した。

午後6時頃にヤンキースタジアムに入場すると今日は雨が降らなかったために通常通りの試合前の打撃練習が行われ、外野席ではグローブを手にしたファンがホームランボールを追って右往左往していた。今日はレギュラーシーズンの最終戦でヤンキースが勝つか2位のボルチモア・オリオールズが負けるとヤンキースのアメリカンリーグ東地区の優勝が決まるという大一番であり、場内は異様な熱気に包まれていた。

その熱気の主役となるのが、ヤンキースのエース黒田とレッドソックスの崖っぷちエース松坂の先発ピッチャーの投げ合いであり、マサに日本人のために用意された舞台が幕を開けようとしていたのだ。試合開始前30分頃からウォーミングアップを開始した両エースであったが、右肘の手術から復帰して今だに調子の出ない松坂は重そうな体を引きずりながらランニング、キャッチボール、ブルペンでのピッチングへと入っていった。ブルペンでの投球はあまり球が走っていないように見受けられ、捕手の構えたミットになかなかコントロールされていなかったのだ。

試合は定刻7:05に開始となり、1回の表に黒田はいきなり1点を先行された。その裏の松坂は2番のイチローをポップフライに打ち取り、三者凡退で順調なスタートを切ったかに見えたのだが、2回にスリーランホームラン、3回にツーランと2本のホームランで5点を失い、早々と交代を告げられて日本に強制送還されるかのようにマウンドを降りていった。

試合はヤンキースの一方的な展開で7回裏にはこれまで4打席ヒットがないにもかかわらず大歓声でファンに迎えられていたイチローに5打席目が回ってきた。千両役者のイチローは右中間に2塁打を放ち、2点を追加したのだが、その時追加点の場面とは関係のないところで大歓声が上がった。電光モニターには2位のオリオールズが敗れ、ヤンキースの優勝が決定したことを告げる表示が大きく示されると観客はスタンディングオベーションで優勝を祝い、セカンドベース上のイチローもようやくその事実を理解した様子であった。

黒田は7回を7安打2失点の好投でマウンドを降り、今季16勝目を上げてヤンキースの優勝に多大な貢献を果たしたのだった。ヤンキースは14対2で宿敵レッドソックスを打ち破るとロッカールームではお約束のシャンペンファイトが繰り広げられ、その様子は電光モニターに鮮やかに写し出されていた。

優勝の余韻に浸っているヤンキースファンとともにスタジアムを後にする際に1人のファンが着ているユニフォームの背中に背番号55とともにMATSUIの文字が浮かび上がっていた。チーム公認の球場内展示物には松井の痕跡はなかったのだが、ファンの心にはマツイの幻影がしっかりと刻み込まれているのであった。

10月4日(木)

ニューヨークでヤンキース優勝の瞬間を目に焼き付け、イチローがイチロー足りうる価値を維持していることが確認出来たので次の目的地に向かうべく地下鉄でJFK空港に向かった。カリビアン航空が運行する13:25発BW014便に乗り込むと約3時間50分のフライトでジャマイカの首都キングストンのノーマン・マンレイ国際空港に時計の針を1時間戻した午後4時15分頃到着した。

入国の際に審査官のおばちゃんからあれこれ質問されてあまり歓迎されていない印象を受けたものの何とか入国を果たすと両替所で手持ちのUS$60を差し出すとあまり良くないレートで両替していただき、4,549ものジャマイカドル(JMD)の大金を手にした。空港のArrivalの出口の近くにJUTAという会社のタクシーカウンターがあったのでそこで市内までの料金がUS$28であることを確認すると安心してタクシーを発注したのだが、何故か乗り込んだ車は誰も乗っていないマイクロバスであった。

何はともあれ、hotels.comに予約させておいた治安の良いニューキングストン地区にある高級ホテルWyndham Kingston Jamaicaに約30分で到着するとフロントでチェックインを行う運びとなった。フロントのおね~ちゃんに周辺の地図をくれないかと要求したのだが、無いとの返事だったのでキングストンは観光客向けの町ではないことを即座に認識することとなった。

日本の秋田県とほぼ同じ大きさを誇るジャマイカでは北部のモンテゴ・ベイというカリブ有数のビーチリゾートエリアがあり、観光客のほとんどはそこで休暇を楽しむのだが、海外から来るビジネス客の多くは首都キングストンに滞在し、ここでは国際的な会議もたびたび行われているという。この日のWyndhamホテルではイギリスからの独立50周年を祝うイベントが行われており、多くのパーティドレスで着飾った貴婦人が入口で記念写真を撮られながら会場に吸い込まれて行った。

パーティのためにホテル内の食事処が閉鎖されていたため、「ひとり歩きは絶対にやめよう」という物の本に書かれている警告にもかかわらず夜になって外に出てみることにした。なるほど、ホテル周辺にはホームレス系を中心とした怪しい輩がたむろしており、施しを受けるために宿泊客の出待ちを行っていた。ホテルの近辺にケンタッキーがあったのでそこに入ってチキンバーガーを発注している際にも怪しい野郎が店の中を覗き込んでおり、店員が追い払った隙に店を抜け出し、何とか無事にホテルに帰還出来たのだった。

10月5日(金)

キングストンの背景に高級コーヒー豆で有名な標高2000mのブルーマウンテンがそびえているのだが、ホテル内の喫茶店や土産物屋で売られているコーヒーもすべてブルーマウンテンである。朝食として香り高いコーヒーとマフィンをいただくと意を決してキングトンの観光に出ることにした。

キングストンはレゲエ・ミュージックのふるさととして有名でキング・オブ・レゲエとして君臨しているのが、かのボブ・マーリーである。キングストンの唯一の見所でここに来なければキングストンに来たことにはならないと言われているボブ・マーリー博物館(US$20)がニュー・キングストン地区で開館しているので見学に行くことにした。

多くの来館者はモンテゴベイから1日かけてツアーでやって来ており、博物館自体はガイドによる案内で館内は写真撮影禁止となっている。この建物はアイランド・レコード社の社長の家でボブが亡くなるまでの6年間を妻と子供たちと生活した場所であるので寝室、キッチン、狙撃されたときの銃弾の跡などボブの生活が染み付いているのである。

ところで、レゲエとは1960年代にジャマイカで誕生した新しいジャンルの音楽でもともとあったアメリカのリズム&ブルースにアフリカ的なリズムを加えたアップテンポの「スカ」からちょっとスローダウンした「ロック・ステディ」を経てキングストンのスラム街であるトレンチ・タウンのルードボーイ(不良少年)によって完成されたものである。ボブも父を亡くした12歳でトレンチ・タウンに移り住み、そこで彼の音楽的な基礎が作られたようである。

尚、1時間のガイドツアーの内の最後の20分は視聴覚室でボブのDVDをじっくりと見せてくれるので、気に入れば隣のショップでCDやDVDを買って帰ることも出来るのである。

ボブ・マーリー博物館でレゲエの真髄に触れることが出来たので炎天下の中をホテルに戻り、プールのある中庭でしばしくつろぐことにした。何でも昨今のジャマイカでは小島よしおのリズムがレゲエに取り入れられているという噂を耳にしており、危険なダウンタウンやトレンチタウンに行けばその真相を解明できる可能性があるのだが、そんなの関係ね~と思っていたので終始安全なホテルでくつろぐことにしたのだ。

10月6日(土)

ジャマイカはスペインに支配された周辺のカリブ海諸国と異なり、英国連邦に加盟しているので公用語は英語であり、車は日本やイギリスと同じ右ハンドル、左側通行なので道行く車の多くは日本車である。治安が良くギャングの抗争に伴う銃撃戦に遭うリスクが少なければダウンタウンのスラム街に侵入し、ミヤネ屋が伝える上半身裸率の高い庶民の生活も垣間見ることが出来るのだが、今回はアップタウン周辺の散策にとどめることにした。

ジャマイカの民族構成の内90%以上はアフリカ系であるのだが、彼らは英国の統治時代にアフリカから連れてこられた奴隷の子孫である。よってその類まれなる身体能力はオリンピック100m、200mの金メダリストのウサイン・ボルトを頂点としたアスリートに引き継がれているのだ。そのボルトがネジ業界ではナットに相当するはずの共同経営者と開店しているレストランがキングストンにあると伺っていたのでネットで場所を調べて突撃することにした。

ボルト・ポーズをデザインに取り入れたTRACKS & RECORDS(http://www.tracksandrecords.com/)というレストランは幸いホテルから2km程しか離れていなかったのだが、夕食の時間帯に移動するのはリスクを伴うのでランチの時間を狙って来店することにした。店に入るとすぐボルトの叩き出した世界新記録のタイムが誇らしげに掲げられており、店内はスポーツバー風の装いであった。

この店はジャマイカ料理のレストランなのでローカルな食物であるザリガニの出汁をベースにしたジャンガスープとタラをすり身にしたフリッターを発注させていただいた。出汁が利いているジャンガスープは非常に美味だったのだが、フリッターは味が薄くマヨネーズをなすり付けて食うよりも醤油の方が相性がいいはずだと思ったのだが、何とか完食してボルトに仁義を切っておいたのだった。

昼過ぎにホテルに戻った途端に雲行きが怪しくなり、激しい雷雨が降り始めた。何ボルトに相当するのか想像はつかないが高電圧の雷がそこら中に轟音を立てて落ちている様で必然的に午後からの活動は制限されることになってしまったのだ。

10月7日(日)

正午前にWyndhamホテルをチェックアウトしてホテルの敷地で待機しているJUTAタクシーに乗り、キングストン国際空港へとひた走っていた。空港で出国審査を受ける際の審査官は偶然にも入国の際に遭遇したおばちゃんで「楽しめたか?」と聞かれたので大して出歩くことは出来なかったものの「楽しんできたぜ!」と見栄だけは張っておいた。

朝飯を食って来なかったので空港のコーヒーショップでブルーマウンテンコーヒーを軽飲し、ついでに粗挽きされたコーヒー豆も買っておいた。免税品かつ原産国でありながら、ブルーマウンテンコーヒーの価格は高く、227g入りの真空パックでJMD1995(日本円で約\1700)もしやがった。尚、日本が誇るUCCコーヒーはブルーマウンテンに自前のコーヒー農園を持っており、以前はガイドツアーも行われていたそうだが、現在は高値でコーヒー豆を日本に輸出することに専念しているようであった。

♪Love is the My~stery~ 私をよ~ぶのぉ~ 愛はミ~ステリ~ 不思議なち~からでぇ~~~~~~~~~~~~~~♪

ということで、14:30発BW063便は定刻通りに出発し、途中モンテゴベイを経由して3時間弱のフライトで1時間時計の進んだ午後6時過ぎにバハマ連邦の首都ナッソーに到着した。

ところで何故ナッソーくんだりまで来なければならなかった理由であるが、1984年5月1日にリリースされた名曲「北ウイング」を収録した中森明菜の6枚目のアルバムのタイトルが「ANNIVERSARY FROM NEW YORK AND NASSAU AKINA NAKAMORI 6TH ALBUM」となっており、ニューヨークはわかるが、当時の私にとってナッソーは謎であり、将来ナッソーに行くのはめっそ~もないと思っていたのだが、北ウイングを飛び立った中森明菜がやって来たのはニューヨークを経由してナッソーだったという定説が強まったため、私もナッソーに来なければならなくなったのだ。

何はともあれ、フロリダ半島の東数百km沖にあるバハマ諸島の中心ニュープロビデンス島のナッソー国際空港に降り立つとナッソーダウンタウンまで9kmと距離も手頃だったので徒歩で予約しておいたホテルに向かうことにした。歩いてみると思ったより距離感が感じられ、2時間経ってもダウンタウンにたどり着かず、挙げ句の果てに雷雨に見舞われ濡れ鼠になりながらagodaに予約させておいたNassau Junkanoo Resortにチェックインを果たしたのは午後10時近くになってしまったのだ。

10月8日(月)

早朝差し込んでくる光で目を覚まし、最上階である6階の部屋の窓越しから巨大なクルーズ船がゆっくりと入港する光景が目に入った。ナッソーはカリブ海クルーズの寄港地になっており、前夜マイアミを出た船が翌朝ナッソーに着くことになっているので毎日何らかの豪華客船の入港、出航の様子が見られるのだ。

ダウンタウンの目の前に広がるJunkanooビーチは白砂のビーチにエメラルドブルーの海の景色が美しく波も穏やかなので早朝から夕暮れ時まで海水浴を楽しむことが出来るカリブ海の天国と言えよう。

ダウンタウンのちょっとした高台を目指していると階段脇を流れる水が涼しげでコケに覆われたクイーンズ・ステアケイスに遭遇した。階段を上りきったところはフィンキャッスル砦($2)になっており、船の舳先のような形が印象的であった。この砦は1793年に造られたもので3つの大砲が海の彼方を狙ったまま残されている。

砦のとなりには水道塔がそびえており、以前はエレベーターで塔の頂上まで上がり、ナッソーの街全体を見渡すことが出来たのだが、残念ながら今は立ち入り禁止となっていた。

ナッソーの北にパラダイス・アイランドという細長い島が浮いており、リゾートの架け橋を渡って到達することができるので、その楽園ぶりがいかほどのものかこの目で確かめに行くことにした。

ナッソーのダウンタウンには大型のホテルが少ないこともあり、観光客のリゾートの拠点は主にパラダイス・アイランドか西に4km程離れたケーブル・ビーチとなっている。パラダイス・アイランドに立ち並ぶホテルは皆リッチでゴージャスなのだが、その最高峰に君臨するのがアトランティスというテーマパーク型リゾートホテルである。

アトランティスホテルの中庭にあるプールや魅惑のアトラクションは主に宿泊客専用となっているのだが、観光客から金を巻き上げるカジノはアクセスフリーになっているのでリゾート客の散財ぶりを冷やかしにカジノを通過してみたのだが、昼の時間帯だったためディーラーも暇を持て余していた。

さらにアトランティスの目の前には豪華クルーザーが停泊するハーバーがあり、その周辺はショッピングセンターになっていたのでこのホテルに宿泊していなくても充分リゾートのおこぼれに預かることが出来るのだ。

10月9日(火)

早朝目を覚ますと港にはすでに昨日とは違うクジラの尻尾が突き刺さったようなクルーズ船が停泊していた。クルーズ船の乗客は下船するとローソン・スクエアというコンビニはない小さな広場を通過しておのおの街に繰り出す日常となっている。

ローソン・スクエアの近くにストロー・マーケットという土産物屋のたまり場があり、観光客はここでストロー(やしの木の葉を裂いてよったもの)製品や木彫りの置物を物色したり、バハマ・ママたちと仁義なき値段交渉をして交渉力を鍛えようとしていた。

政府庁舎を有するパーリアメント・スクエアにはコロニアル風のピンクの建物が立ち並んでいるのだが、バハマにピンク色の建物が多いのはフラミンゴを国鳥とし、シンボルカラーとしてフラミンゴ色を採用しているからだ。

ダウンタウンの路地には個性的な土産物屋や飲食店も多く、海賊をモチーフにした人形がそこかしこで観光客の目を楽しませてくれるのだ。

カリブ海というと海賊を連想してしまうのだが、カリブ海に海賊がいたのは実話で1700年代前半にはナッソーに2000~3000人もの海賊が住んでいたという。海賊に関する知識についてはパイレーツ・オブ・ナッソーという博物館($12)で学習することが出来るので早速入場してみたのだが、館内には臨場感たっぷりの人形や模型がマサにディズニーランドのカリブの海賊のように配置されているのだ。

途中で地元の小学生ツアーに合流し、彼らは海賊に扮した荒くれ男の説明を要所要所の生返事を加えながら律儀に聞き入っていた。一通り説明が終わって中庭に出ると記念写真撮影タイムとなり、青少年少女たちは代わる代わる海賊のオブジェを背にしてポーズを取っていた。

フラミンゴ色の建造物はすでに充分堪能したので今度は本物のフラミンゴを見るためにオーダストラ・ガーデン&動物園($16)に入園することにした。園内はそんなに広くはないのだが、飼育されている動物は鳥類、爬虫類、哺乳類と非常にバラエティに富んでおり、観光客は手を消毒してインコに餌をあげることも出来るのだ。

ネコ科の動物もSERVAL、OCELOT、JAGUARと取り揃えられており、それらが狭い檻の中をアクティブにのし歩く様子も間近にすることが出来たのだった。

ここでの最大のイベントは1日3回行われるフラミンゴのショーでフラミンゴ・アリーナに訓練されたカリビアン・フラミンゴを寄せ集め、アリーナ内を行進させるのと観光客に一本足のポーズを取らせてフラミンゴと記念写真を撮ることであった。

午後4時過ぎから海に入って波に揺られていたのだが、常夏と思われるバハマ諸島でも12月~3月の冬季には気温が下がるため、ビーチでくつろげるのは11月くらいまでかも知れないのだ。

10月10日(水)

Energy Surchargeと称してagodaに事前に支払っている宿泊料とは別に3泊分で$46.5を払わされたNassau Junkanoo Resortをチェックアウトすると沿岸部を走るバスに乗って空港まで2km程の距離のオレンジヒルビーチに移動し、そこから徒歩で空港まで向かった。歩いている途中で何故中森明菜がアルバムのレコーディングの地としてナッソーを選んだのか考えていたのだが、それは単に来たかっただけだろうという結論に至った。

ナッソー国際空港の米国行きのターミナルは他の国行きとは離れており、アメリカへの入国手続きもナッソー国際空港で行われるという離れ業が演じられていた。バハマ連邦はジャマイカと同じく英連邦加盟の国であるのだが、これではまるでアメリカの植民地ではないかと思われたのだった。何はともあれ12:40発のUA1462便に乗り込むと約3時間でニューアーク・リバティ空港に到着した。空港から列車と地下鉄を乗り継いでニューヨークでの定宿となってしまったHoward Johnson Bronxの最寄駅まで移動し、チェックイン後すぐにヤンキースタジアムに向かった。

マサよ、君はMLBのポストシーズンの試合を現場で見てサヨナラ勝ちの瞬間に見知らぬヤンキースファンとハイタッチを交わしたことがあるか!?

というわけで、アメリカン・リーグのディビジョン・シリーズであるボルチモア・オリオールズとニューヨーク・ヤンキースの戦いはすでにオリオールズの本拠地で1勝1敗となっており、第3戦はヤンキー・スタジアムでの初戦であったので試合前に選手紹介等のセレモニーが賑々しく行われていた。

試合はエース黒田の好投にもかかわらず、2対1とヤンキースがリードされて9回の裏を迎えた。4打席目のイチローがレフトライナーに倒れた後、度重なるチャンスに凡退を繰り返し、ヤンキースファンから辛辣なブーイングを浴びていた3番アレックス・ロドリゲスについに代打が出され、「Rauuuuu~L」の声援とともに勝負強いラウル・イバネスが打席に立った。イバネスが振り抜いた打球はライナーとなって右中間スタンドに突き刺さり、ついにヤンキースはスコアを振り出しに戻したのだった。

試合の方は延長戦に突入し、大歓声とともに12回の裏に先頭打者として打席に立ったイバネスが振り切った打球は大きな弧を描いてライトスタンドに舞い降りた。その瞬間にヤンキースタジアム全体に驚喜の嵐が吹き荒れ、観客は誰彼構わず隣近所同士でハイタッチを繰り返し、勝利の喜びを分かち合っていた。

10月11日(木)

昨日のヤンキースタジアムでの喧騒をひきずりながら入浴して身を清め、Howard Johnson Bronxをチェックアウトすると地下鉄でのんびりとJFK国際空港に向かっていた。12:30発NH009便は20分程の遅れを出したものの、眠れない機内で映画を3本ほど鑑賞しながら14時間近くのフライト時間をやり過ごしていた。

10月12日(金)

午後3時過ぎに成田空港に到着すると、実は間違って翌日の試合のチケットも購入していたため、ヤンキースタジアムに魂は残してきたと思いながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \127,140、Caribbean Airlines = $370.91、ユナイテッド航空 = \15,870

総宿泊費 \75,500

総ナッソーホテルEnergy Surcharge $46.5

総ニューヨークAirTrain、地下鉄代 $55

総ジャマイカタクシー代 $56

総ナッソーバス代 $1.5

協力

ANA、Caribbean Airlines、ユナイテッド航空、hotels.com、agoda、Ticketmaster.com

FTBもっと北の国からバルト三国世界遺産首都ツアー

あ”~あ”~あ”あ”あ”あ”あ”~

マサよ、君は北の海に面する小国群がソ連崩壊のきっかけを作ったという歴史的事実におののいたことがあるか!?

ということで、世間一般の夏休みも終わり、海外旅行の旺盛な需要が沈静化した時期を見計らって北欧とは明らかに一線を画しているバルト三国でもっと北の国のアンチソ連三国志を学習するツアーが催行されることとなったのだ。

2012年9月6日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば\12万くらいかかるところを私はただで搭乗出来ると思いきや、燃油代として\5万円超を支払わされた10:45発JL441便はボーイングの最新鋭低燃費機であるB787-8ドリームライナーでの就航であったのでそんなに燃料代はかからないだろうと思いながら新しい機内に足を踏み入れた。

先だって六本木のロシア大使館まで申請と受け取りのため2回も足を運び入手したトランジットビザを携えてJALが月曜日と木曜日の週2回のみ運行しているモスクワ行きの直行便に乗り、乗客の少なさにJALの再上場後の株価の行く末を案じながら過ごしていると10時間程度のフライトでモスクワ最大の空港であるドモジェドボ空港に到着した。

民主化の進んでいるロシアでは入国書類もすでになくなっており、ビザがあればすんなり入国出来たのだが、乗り換えの便がモスクワ北東35kmに位置するシェレメチェヴォII国際空港だったのでモスクワの南東のはずれのドモジェドボ空港から大移動をかまさなければならなかった。とりあえず空港バスで渋滞に巻き込まれながら最寄りの地下鉄のドモジェードフスカヤ駅に移動し、そこから地下鉄で1時間以上かけてモスクワ市内を縦断し、レチノイ・ヴァグザール駅に到着するとさらにミニバスであるマルシルートカに乗って合計3時間程度の時間をかけてシェレメチェヴォII国際空港に到着した。

モスクワの町の雰囲気と交通機関を充分堪能させていただいたので22:15発アエロフロートロシア航空とエストニア航空のコードシェア便であるSU3706便に乗り込むと1時間40分程度のフライトでエストニアの首都タリン空港に1時間の時差を超えて夜11時頃到着した。EUに加盟し、さらにEUROも導入しているエストニアへの入国を果たして外に出るといきなり外気温10°C以下の冷気にさらされ、もっと北の国からの洗礼を受けることとなった。市バスでタリン市の中心部に移動し、hotels.comに予約させておいたホテルメトロポールにチェックインすると早速ベッドに入って体を温めながら休ませていただくこととなったのだ。

9月7日(金)

中世の空気を今持って漂わせているタリンはバルト海のフィンランド湾に望む港町で、かつてはソ連の一地方都市として不遇な時代を過ごしていたのだが、現在は多くの観光客が行き交う「バルトの窓」として開かれている。まずはその開かれ具合を垣間見るために曇寒空の下、タリン港周辺の散策を行うことにした。

タリンと北欧フィンランドの首都ヘルシンキの間にはLinda Line Expressの高速艇が行き交っており、その船着場はタリン港から少し離れた市民ホール港となっている。物価が異常に高い北欧都市からバルト三国くんだりに渡ってくる主な理由は船代として片道EURO50を払っても物価の安いバルト三国で買い物をすれば充分元が取れるからに他ならない。確かに船着場周辺は出航待ちの乗客で賑わっているのだが、市民ホール自体は何故か閉鎖されており、薄暗い廃墟感の中を好奇心の強そうな観光客が徘徊していたのだった。

タリンの旧市街は北ヨーロッパで最もよく保存されている旧市街のひとつで世界遺産にも登録されている貴重な観光資源である。旧市街はぐるりと城壁に取り囲まれているのだが、とりあえず北口であるはずのスール・ランナ門を通って足を踏み入れてみることにした。スール・ランナ門はかつて町の最も重要な出入口だったようで、そこを守るために1529年に建てられた砲塔がどっしりと構えている。そのかつての砲塔は「ふとっちょマルガレータ」と呼ばれているのだが、ここが監獄として使われていた頃、囚人の食事を切り盛りする太ったおかみさんがいてそのおばさんの名前に由来するという放蕩生活の帰結のような命名であったという。

ダイエットの必要性を感じながら、旧市街の石畳の上を練り歩いていると城壁のここかしこに塔が散見され、おしゃれなプチホテルや飲食店、ギャラリー等が古い町並みの中でモダンなアクセントとなっていた。

タリンの旧市街は大きく分けて山の手と下町に分かれているのだが、山の手から高みの見物を決め込んでいる団体観光客に引き寄せられるように階段を登って高さ24mのトームペアと呼ばれる丘に登って行った。身分の高い者はお決まりのように高い場所に住んでいたためか、トームペアはは常に権力の居城として市議会が支配する下町とは一線を画していた。その最大の名残は13世紀前半に建てられた騎士団の城であるトームペア城であろう。トームペア城が現在の姿になったのは18世紀後半のことで当時の権力者エカテリーナII世により改築を命じられたもので一見すると城というよりは宮殿風の建造物である。この城に寄り添っている高さ50.2mの塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれている代物で頂上にエストニアの三色旗を掲げ、今では国を象徴する存在に成り上がっている。

1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設されたエストニア本土における最古の教会である聖母マリアの大聖堂と対極を成すように1901年に当時の支配者の帝政ロシアによって建てられたロシア正教会であるアレクサンドル・ネフスキー聖堂が立ちはだかっている。エストニアが最初に独立を果たした時代にはタリンの町並みとは調和しないこのロシア正教会を移転する計画まであったそうだが、結局実現されないまま世界遺産となったのだった。

屋台で中世のアーモンド菓子を売っているエストニア美女に目を奪われながらいくつかの展望台をはしごすることにした。トームペアの展望台からは城壁と塔が立ち並ぶタリンならではの景色を堪能出来るので多くの団体観光客が列を成して記念写真の撮影に興じているのだった。

エストニアの神話によるとトームペアは古代の王カレフが眠る墓陵であるとされているのだが、彼を埋葬したのち巨大な石を集め、墓陵を造ろうとしていたのは彼の妻リンダである。リンダが墓陵が完成する最後の石をエプロンに包み丘を登っていたそのとき、エプロンの紐が切れ石が転げ落ちてしまった。疲れ果て、♪リンダ リンダ♪を歌う気力さえ残っていなかった彼女はその石に腰を下ろし、悲しみの涙にくれていたという。その時の様子は今もトームペア城南側下の広場に鎮座するリンダ像により伺い知ることが出来るのだ。

マサよ、君は猫の手も借りたいほど忙しい寿司屋が秋葉原ではなくヨーロッパの北の僻地でご主人様を待っている現実に直面したことがあるか!?

というわけで、タリンには来たものの、何かが足りんという感覚を引きずりながら観光に勤しんでいたのだが、その何かとは通常観光地で養われている生猫であるということに気がつき始めた時にふと鮨猫という看板が目に飛び込んできた。バルト海から水揚げされる魚で潤っているタリンで日本食屋が幅を利かせるであろうことは理解出来るのだが、日本のコスプレ文化がもっと北の国までに及んでいるとは想像だにしていなかった。尚、このスシ・キャットは非常に繁盛している様子だったので残念ながら入店するには至らなかったのだ。

スシ・キャットで喰らった猫パンチのショックを一掃するために旧市街の下町の中心部に移動すると14世紀の半ばに建立された庶民的な聖霊教会(EUR1)に入って15世紀の木製祭壇や質素な内部装飾を見て心を落ち着けなければならなかった。

聖霊が宿ったところを見計らって教会の向かいに君臨する大ギルドの会館に入館させていただいた。この会館は1410年に建てられ、大ギルドの集会やパーティー、結婚式などに使われていた建物であるが、1920年にギルドは解散し、現在はエストニア歴史博物館(EUR5)として有効利用されている。3本のアーチ柱で支えられている大ホールがメインの展示室になっているのだが、時代を感じさせる地下室も公開されており、さらに館内のここかしこに大ギルドの紋章でもあった赤地に白十字のタリンの小紋章が残されている。

9月8日(土)

早朝より昨日の曇天とはうって変わった青空が広がっていたので人出もまばらな旧市街の下町を巡ってみることにした。下町の中心はデンマーク人に占領される以前から市場として存在していたラエコヤ広場であるが、そこで際立った存在感を示しているのが14世紀半ばに建てられた北ヨーロッパに唯一残るゴシック様式の市庁舎である。広場の中に方位が描かれた円い石が鎮座しているのだが、この上に立ってあたりを見回すと、タリンの最も有名な5つの尖塔(旧市庁舎、聖霊教会、大聖堂、聖ニコラス教会、聖オレフ教会)のすべてが見えるのだ。

中世の雰囲気のみならず何となく不気味な雰囲気を湛えているタリンの旧市街には幽霊の話も多く、実際にヴァイム通り、日本語で幽霊通りも存在しているのだ。その由来はこの通りのある家でオランダ商人が妻を惨殺し、その幽霊が出るようになったからで17世紀以来、通りは公式に幽霊通りとなったのである。さらにとある建物の上から目を光らせているスケベオヤジがいるのだが、奴は「のぞき見トム」と呼ばれる実在の人物で隣の娘たちの動向にいつも目を光らせていた芸能レポーターのような役割を担っていたのだ。

旧市街で最も有名な中世の住宅であるスリーシスターズを改装した☆☆☆☆☆ホテルの大きな自慢のひとつは雨が降ると窓を閉めに来るという女性の幽霊の存在であるが、ホテル関係者に言わせるとフレンドリーなので心配ないとのことである。おそらく冥土に行き損ねたメイドの魂が森三中のようにホテル内を彷徨っており、今持って忠実に職務を遂行しているものと思われる。

幽霊話も一巡したところで、公園で演奏している鼓笛隊に身を清めてもらうと旧市街を抜け出して近郊の見所を探ってみることにした。

タリン駅前のバスターミナルから市バスに乗り、沿岸部を30分程度西に向かうとエストニア野外博物館(EUR6)に到着した。ここは17世紀~20世紀初頭にかけてのエストニア各地の木造建築が当時のままの姿で移築されている民俗博物館である。

バルト三国は伝統文化の保存に熱心なところであるが、ソ連時代の農業集団化政策によって伝統的な農村は破壊されてしまい、ほとんど残っていない。従って、彼らの文化の根底にある農村生活はこのような博物館まで足を運ばないと垣間見ることが出来なくなっているのである。農村の建物の大きな特徴は白川郷を彷彿とさせる茅葺き屋根と寒風が入ってくるのを最小限に抑えるためにコンパクトに作られた建物や部屋の出入り口である。もっと北の国ではマサにエコで低燃費な生活が送られていたのであろう。

市バスで旧市街に戻ると中世から伝わる国宝級の芸術品が収められている聖ニコラス教会(EUR3.5)を見学することにした。ここでの最大の見物は15世紀後半の作品で法王、皇帝、皇女、枢機卿、国王が浮かない顔で死を暗示する骸骨とダンスを踊っている「死のダンス」である。戦乱と疫病の時代であった中世にはこのような「死のダンス」のモチーフが普及したのだが、現存するものが少ないため、この絵は非常に貴重な逸品となっているのである。

タリンには生猫が足りんということは前述したが、「つるべ井戸」の通りに「猫の井戸」と呼ばれる枯れ井戸がある。かつてここには魔物が住み、住民は生贄としてよく猫を投げ込みやがったという。その酸っぱい思い出が鮨猫となって今も住民の心と舌に残っていることは疑いようもない事実であろう。

旧市街で最高の高さを誇る塔を持つ聖オレフ教会には建設にかかわったオレフという名の巨人の伝説が残されている。彼は莫大な報酬を要求して仕事を引き受けたのだが、もし教会が竣工する前に彼の名前がわかったら報酬は1ペニーでいいという条件だった。市民たちは手を尽くして彼の名前を探り当て、教会がほぼ完成に達したときに塔の上の十字架を取り付けているオレフに向かって「オレフよ、十字架が傾いているぜ!」と叫んだという。動揺したオレフは塔の上でよろめき、足場を失って下に落ちてしまった。オレフの体が地面に打ち付けられると1匹のヒキガエルと1匹の蛇が彼の口から飛び出し、彼の体は石になってしまったという。教会の外壁にはキリスト受難の物語のレリーフの下にオレフの石像が横たわっているのだ。

高さ123.7mを誇る聖オレフ教会の60mの高さのところに展望台(EUR2)が設置されているので258段の階段を登って高みの見物を決め込むことにした。急な階段を息を切らせながら登っていると狭いらせん状の階段室が前を行く飲酒若者達の吐く酒息で充満されたため、苦しさが2倍になって跳ね返ってきたのだが、無事に頂上にたどり着いた。空気のいい展望台で深呼吸をしながら酒を抜き、最後のタリン旧市街の眺望を十分に堪能させていただいた。

旧市街を後にして街の中心から1.5km程離れたバスターミナルまで徒歩で移動すると長距離バスに乗り込み、2時間程の時間をかけてパルヌというリゾートタウンに向かった。リゾートタウンといえども町は晩秋の装いで一向にリゾート気分の盛り上がりが見られなかったのでビーチにほど近いホテル・アストラに引き上げると晩飯も食わずにいち早く不貞寝体制に入ることにしたのだった。

9月9日(日)

歴史と海と太陽の町パルヌはエストニアの「夏の首都」と言われ、泥治療で有名なリゾートタウンである。早朝人影のないビーチに出てみるとなるほどリゾートの面影が残っているが、季節は過ぎ、つわものどもの夢の跡の様相を呈していた。パルヌの泥治療は180年以上の歴史を持つこの町の名物であり、そのファシリティであるネオ・クラシック様式の建物は今もパルヌのシンボル的存在として君臨しているのだが、設備の老朽化ですでに営業を停止しており、裏に回り込むとマサに廃墟そのものであった。

ホテル・アストラをチェックアウトしていくつかある町のサナトリウムを横目に旧市街に向かって歩いて行った。歴史的建造物である赤い塔が目立つバロック様式のエリザベート教会や17世紀の城門の一つであるタリン門等を見やりながらバスターミナルまで移動し、午前11時25分発のバスに乗って次の目的地を目指すことにした。

バスはいつしか国境を超えてラトヴィアに入っており、午後2時過ぎにはラトヴィアの首都リーガのバスターミナルに到着した。早速手持ちのユーロをラトヴィアの現地通貨であるラッツに両替するとホテルを目指して旧市街方面に歩いて行った。歌舞伎という名を冠したスシバーを見ながら市川染五郎の早期回復を祈り、石畳の道を歩いているとタリンでは足りんかった生猫が早くも姿を現しやがった。

旧市街に立地するホテル・セントラにチェックインすると目の前には大きな教会が迫っていたのでその威風堂々とした姿に引き寄せられるように町に繰り出すことにした。約70万人の人口を抱えるリーガはバルト三国では抜きん出た大都市でタリンの古風な雰囲気とは打って変わった都会的な空気が漂っている。ハンザ同盟の町並みが残る美しい通りにある姉妹都市のブレーメンから贈られたブレーメンの音楽隊像に挨拶をして市庁舎広場まで出てみるとそこには目を見張るほどの立派な建物が立ちはだかっていた。

リーガの守護神聖ローランド像の背後に建っている壮麗な建物はリーガを代表する建築として名高いブラックヘッドの会館である。この建物は基礎が発掘された後、リーガの創設800年を記念して再建されたものであるが、その個性的な姿がほぼ完全に再現されているという。彫金細工と彫刻で飾られた外観で目立つのが、月、日、時間と月齢を刻む大時計で、その時計を造った職人は二度と同じものが造れないように目をくり抜かれてしまったほどの秀作である。

旧市街の南側にあるのは13世紀に創立され、その後16世紀に再建されたゴシック様式の美しい聖ヨハネ教会である。通りに面した外壁上部には口を開いたふたつの修道士の顔が見えるのだが、これはこの教会に伝わる中世のエピソードによるものである。当時は生きた人間を壁に塗り込めれば災いから建物を守ることができるという信仰があり、ふたりの修道士が志願して壁の中に入ることになった。壁には外から穴が開けられて、通りかかる人から施しを受けられるようになっていたが、彼らはほどなく亡くなってしまった。その後穴は塞がれ、彼らの行いは人々の記憶から消え去ったのだが、19世紀半ばの教会修理の際に彼らの屍が実際に発見されたことから彼らを記念してこのような人面像が造られたそうだ。

聖ヨハネ教会に隣接するように建っている高い塔をもつ教会は聖ペテロ教会(Ls4)である。最初の教会は13世紀に建てられ、18世紀にはほぼ現在の姿に改築されたのだが、塔自体は第二次世界大戦後に改修されたもので、高さは123.25mを誇っている。72mの地点までエレベーターで昇ってリーガの町並みを一望できるということなので早速楽して高みを極めてみることにした。塔の上からはタウガヴァ川とかつての堀に囲まれた世界遺産であるリーガ歴史地区を鳥瞰するとともに旧市街の主要な観光ポイントの大まかな位置関係をいち早くつかむことができたのだった。

旧市街には飲食店で太らされているはずの生猫も多く生息しているのだが、リーブ広場の北側では屋根の上で伸びをしている猫の姿を見ることができる。「猫の家」と呼ばれるこの家には大ギルドに加盟したいと思っている裕福なラトヴィア商人が住んでいたのだが、ドイツ人が支配的なギルドへの加入を拒否されてしまった。その腹いせに大ギルドの会館にケツを向けた猫を屋根に取り付けたのだが、その後大ギルドの会館がコンサートホールに変わると猫は音楽に誘われてその向きを変えやがったのだ。

9月10日(月)

朝食ビュッフェを提供するホテル・セントラの食堂に何故かシャンペンがスタンバイされていたのだが、それには手をつけずに朝食を済ますとバスターミナルの近くの中央市場で腹ごなしをすることにした。市場には巨大なドームが5つ並んでいるのだが、これらは20世紀初頭にラトヴィア領内にあったドイツのツェペリン型飛行船の格納庫で今ではおびただしい量の肉や魚や乳製品等が格納されているのだった。

市場の調査を終了し、緑多き大地で威厳を示している国立オペラ座を横目に自由記念碑に向かった。これは1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられた高さ51mの記念碑でソ連時代にも壊されることはなかったのだが、反体制の象徴として当時は近づくだけでシベリアへの片道切符がいただけると噂されていたそうだ。

リーガの新市街にドイツ語でアールヌーヴォを意味するユーゲントシュティール建築群が林立している通りがあるということだったのでその斬新性を確認するために足を伸ばすことにした。ユーゲントシュティールは19世紀後半にヨーロッパ各地を席巻した新芸術様式で、その特徴は過度に装飾的なデザインであり、デフォルメされた人体像なども使われている。

最も装飾的傾向が強い初期ユーゲントシュティールを代表する建築家はミハイル・エイゼンシュテインというユダヤ系ロシア人のおっさんで新市街のアルベルタ通り周辺に彼の手がけた建築が集中しており、人気の街歩きスポットとなっている。

1902年建立のラトヴィア国立劇場の前を通ってタウガヴァ川沿岸部まで辿り着き、あたりを散策しているとチャチな人間像に遭遇した。こいつは巨人クリストファーという川の渡し役で、ある夜彼が運んだ子供が翌朝黄金となっていて、そのお金でリーガが創設されたという伝説がある由緒正しい像である。尚、河岸にいるこの像はレプリカでオリジナルの木像は博物館で丁重に保管されているのだ。

タリンの旧市街では三人姉妹(スリーシスターズ)の幽霊話で肝を冷やしたのだが、リーガには三人兄弟という肩を寄せ合って建っている中世の住宅群がある。兄貴格の建物は15世紀に建てられたもので、一般住宅としてはリーガで最も古いのだが、「窓税」なるものの影響で貧相な窓しか付いていない。弟分達の建物は「窓税」がなくなったため建物の目鼻立ちは良くなったのだが、土地不足のため、末弟の建物は非常に細っそりとしているのである。

塔の高さ80mを誇る聖ヤコブ教会には「哀れな罪人の鐘」と呼ばれた鐘が吊り下がっている。市庁舎広場で罪人の処罰が行われる際にはこの鐘がそれを市民に知らせる役を担っていたからだが、違う言い伝えによると、この鐘は傍らを不貞な婦人が通ると自然に鳴り出しやがったので女性の敵となり、夫らに尻で圧力をかけてこの鐘をはずしたという恐るべきかかあ天下のエピソードも残されている。

リーガに唯一残るかつての城門はスウェーデン門で、この門にも悲しい伝説が残っている。かつてリーガの娘たちは外国人と会うことを禁じられていたのだが、ひとりの娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で逢い引きをするようになった。しかし、スウェーデン兵を待っていた娘は捕らえられ、罰として門の内側に塗り込められてしまったというではないか。それ以来、真夜中にここを通ると娘のすすり泣きが聞こえるようになったのだった。

現存するバルト三国最古の建築のひとつであるリーガ大聖堂(Ls2)は修復の途上にあったのだが、内部は公開されていたので入ってみることにした。この聖堂は1211年に僧正アルベルトが建設を始め、その後何度も増改築がなされて18世紀の後半に現在のような姿になった。そのため、ロマネスクからバロックにいたるさまざまなスタイルがこの教会には混在しているのだ。内部にはアルベルト僧正を映したステンドグラスや重厚なパイプオルガン等の見所がたくさんあるはずなのだが、修復中の影響でお目にかかることはかなわなかった。

腹も減ってきたので市庁舎広場にあるラトヴィア料理のレストランで夕飯をごちそうになることにした。昨日は旧市街にあるステーキハウスで300gの牛肉が縮んだ硬いステーキを食ったので今日はパンの器にオニオンスープを流し込んだものとムニエル系の平たい魚を発注した。バルト三国ではほとんどの商品に20数パーセントの付加価値税がかかるのだが、すべて内税でしかも物価が安いのでビールとこれだけの美味な料理をいただいても日本より安く上がるのだ。

9月11日(火)

これまでバルト三国の港町であるタリン、リーガの調査を行ってきたが、今日はリーガのバスターミナルから午前10時発のバスに乗ってリトアニアの首都で内陸部に開かれた町であるヴィリニュスに移動することにした。約5時間もの時間をかけてバスがヴィリニュスのバスターミナルに到着したのは午後3時くらいであった。早速手持ちのユーロをリトアニアの現地通貨であるリタスに両替して小銭を得ると、予約していた旧市街にほど近いホテル・コンティが提供する安い屋根裏部屋にチェックインして町に出てみることにした。

バルト三国に来て初めてTシャツで過ごせるほどの好天に恵まれたヴィリニュスは深い緑に囲まれており、ドイツ商人の影響を受けずに建設されたため、タリンやリーガと違って天を突くゴシック教会の塔は見当たらない。世界遺産に登録されているヴィリニュス歴史地区は東ヨーロッパで最も広い旧市街のひとつでもあり、バロックを中心とした様々な様式の建築が、迷路のような旧市街の全域に広がっているのである。

ヴィリニュスの中心に建ち、ヴィリニュスのシンボルともされる主教座教会は高い鐘楼を従えた巨大なギリシア神殿を思わせる大聖堂である。最大の見所はリトアニアの守護聖人となったカジミエラス王子が安置された17世紀バロック様式の聖カジミエルの礼拝所である。正面に置かれた聖カジミエルの聖画には手が3つあるが、3つめの手は画家が何度消しても再び現れてきたので根負けして残されたと伝えられている。

丘の上でリトアニアの国旗を誇らしげに掲げているのはケディミナス塔でかつての城壁の塔である。現在は展望台と丘の上の城博物館(Lt5)としてヴィリニュスの眺望と歴史の知識を提供している。博物館の展示品はケディミナス城の模型や武具、出土品が主な物であるが、私の最も興味を引いた内容はバルト三国独立に関するビデオや写真である。特に1989年に「人間の鎖」がバルト三国の首都を結び、連帯と独立への意思を示している写真には人心に訴えるものがあった。タリンからヴィリニュスまで600kmを200万人(民族人口の約半分)が手を結んで作った人間の鎖は腐りかけたソ連の支配からの解放を実現に導いたのである。

大聖堂の鐘楼近くに「Stebuklas(奇蹟)」と書かれた1枚の敷石があるのだが、ここが人間の鎖の起点となった場所で、この上で反時計回りに3回回りながら願い事をするとかなうと言われているので観光客がこぞってグルグルしていたのである。

ケディミナス塔の展望台からの眺めで一際私の目をひいたのは16世紀後半に建てられたゴシック様式の聖アンナ教会である。建設には33種類もの異なった形のレンガが使われており、当時の技術の粋を集めたものだったという。1812年ロシアへ攻め上がるナポレオンがヴィリニュスに入城した際、この教会を見て「我が手に収めてフランスに持ち帰りたい」とざれ言を言ったのは有名な話だそうだ。

旧市街の東にはヴィリニャ川が流れており、「川向こう」という意味を持つウジュピスというしなびた地域がある。流れる川の壁面に見つけると幸せになれるという人魚像がインストールされているのだが、周囲の落書きのせいか、妙に寂しげに見えたのだった。

ヴィリニュスには元来9つの城門があったのだが、現在唯一残っているのが、旧市街の南の入口となっている「夜明けの門」である。門の2階は小さな礼拝所になっており、お祈りをする信者が絶えないのであるが、ここにある聖母のイコンは、1363年にアルギルダス公がクリミア半島に遠征した際持ち帰ったものだといわれており、奇跡を起こす力があると今も信じられている。

居酒ファミリーレストラン風の純リトアニア料理を出す食堂が市庁舎広場沿いの通りで繁盛していたので晩飯はここで食うことにした。とりあえず500mlの地ビールとイワシの酢漬けとジャガイモやベーコンをつぼ焼きにしたものを食したのだが、値段が安いので非常にコストパフォーマンスの高いディナーとなった。

外はすでにとっぷりと日が暮れており、大聖堂等のメジャーな観光物件が見事にライトアップされている様子をアイスを舐めながらゆっくりと楽しむことができたのだった。

9月12日(水)

ヴィリニュスの中心にある大聖堂から徒歩15分程東に歩くと一見普通に見える教会が現れた。入口のおばちゃんに促された寄付金の小銭を払って中に入ると息を呑むような装飾に圧倒されてしまった。

聖ペテロ&パウロ教会はバロックの町ヴィリニュスを代表する記念碑的な建築である。建物そのものの建築は1668年から7年間しかかかってないのだが、凝った内装にはその後30年あまりの時間がかけられているという。ここにある2000以上の漆喰彫刻はひとつとして同じものがなく、聖人からはじまって天使や想像上の獣といった芸術品でマサに彫刻のデパートの様相を呈しているのだ。尚、この教会には団体観光客がひっきりなしに訪れるのだが、入口のおばちゃんは何故か中国人団体に寄付を要求するタイミングは逸していたのだ。

新市街のモダンな通りを歩いていると国立ドラマ劇場からは彫像トリオが今にも襲いかからんばかりの迫力で前のめりになっており、とある建物の屋根ではキューピー系の天使が微笑みかけていた。ルキシキュウ広場の花畑の向こうでは砂で固められたジョン・レノンが暇人の私にイマジンを歌いかけてくれるかのようにギターを携えていた。

ソ連時代の秘密警察KGBが1944年から1991年まで本部として使っていた建物がTHE MUSIUM OF GENOCIDE VICTIMS(Lt6)として開館していたので入ってみることにした。展示内容は過去の戦争における虐殺の歴史でビルの正面の壁にはおびただしい数の犠牲者の名前が刻まれている。来館観光客が特に注目しているのは地下にあるKGB関連の展示で冷たい時代に実際に行われたKGBの所業を当時のファシリティや記録フィルムで確認することができるのだ。とりわけ見学者の背筋を凍りつかせるものは血のついたクッションで防音された拷問部屋や1000人以上の銃殺が実行され、その様子がビデオで再現されている地下室であったろう。

ヴィリニュスの観光も一巡したところでバスで近郊の見所まで行動範囲を広げてみることにした。ミニバスに40分程揺られて着いた所はヴィリニュスに移る前にリトアニアの首都が置かれていたトゥラカイという風光明媚な観光地である。

観光の中心地は14世紀後半に建設され、その後廃墟となったが、1987年に復元されたトゥラカイ城(Lt12)である。湖上に浮いている様子は非常にメルヘンチックであるが、構造を見ると戦争のために築城されていることがわかり、興味をそそるものがある。

現在は城壁、本丸ともに博物館となっており、特に中世の生活様式を物語る展示品の中にはジュリ扇のようなセンスのない羽が生えた扇子やライオネル・リッチー系のリッチな貴族も一服したであろうパイプ等が目を引いた。

トゥラカイからヴィリニュスに戻ると不意に向学意欲が湧いてきたので16世紀に創設された由緒あるヴィリニュス大学に入学金Lt5を支払って入学させていただくことにした。大学に付属する聖ヨハネ教会に礼拝すると言語学部の建家の2階のホールに書かれている「四季」のフレスコ画を見ながら自然崇拝時代の生活について自習し、軽くキャンパス内を歩き回って退学となった。

大学裏手の大統領官邸では丁度国旗の降納の儀式がリトアニア兵により厳粛に執り行われていた。国旗も降ろされたところでヴィリニュス観光も潮時を迎えたことを悟った私は昨日と同じレストランでリトアニア料理を食って明日の朝に備えてホテルに退散することにした。

9月13日(木)

早朝4時にタクシーを発注してヴィリニュス空港に移動し、5:40発SU2109便に乗り込む際に機材の脇にロシア語の新聞・雑誌が置いてあったのだが、何故か巨匠ビートたけしの巨顔が目についたのでアウトレイジする代わりに手にとって座席に着くことにした。

定刻8:05にモスクワのシェレメチェヴォII国際空港に到着すると空港に乗り入れている便利な特急列車に乗って30分程でモスクワ中心部のベラルーシ駅までたどり着いた。成田行きの飛行機が夕方発だったのでそれまでの時間を有効に使うためにモスクワ観光のお約束の地である赤の広場を目指して歩き始めた。赤の広場は何らかのイベントの準備のためか設営関係の工事が行われていたのだが、相変わらず観光客で溢れかえっており、かぶりもの系のキャラクターも控えめながら観光客に愛想を振りまいていた。

聖ワシリー教会のネギ坊主の華やかさぶりは2006年の7月に来た時(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2006moscaw.html)と変わらなかったのだが、入場料は倍以上に値上げされていた。クレムリンの入場料も同様で内部のすべての見どころを網羅するためには日本円で\5000くらいの出費は覚悟しなければならないのだが、幸い木曜日はクレムリンの定休日だったので周囲を一周してその広さを実感するだけにとどめておいた。

赤の広場でロシアの民主化の進展ぶりを確認出来たので、徒歩でバヴェレツ駅まで移動し、特急列車でドモジェドボ空港へ40分程かけて移動した。今回のツアーでモスクワの空港間を移動する際に空港バスや特急列車を利用したのだが、コストの安いバスは渋滞に巻き込まれるおそれがあるが、バスの3倍以上のコストがかかる特急列車は時間も正確で便数も非常に多いので乗り継ぎの際には非常に信頼性が高いと思われた。

ロシア・ルーブルが余っていたので土産物のマトリョー猫を購入する代わりにドモジェドボ空港内の自動販売機でロシアのビールを買い込んで飛行機に搭乗した。

17:45発JL442便B787-8ドリームライナーは定刻通りに出発し、JTB旅物語のツーリストや多くのロシア人とともに機内で9時間もの時間を過ごすこととなった。

9月14日(金)

定刻の午前8時過ぎに成田空港に到着し、こざかしいコザックダンスをすることなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 JAL = ¥52,010(燃油代のみ)、アエロフロートロシア航空 = $316.2

総宿泊費 ¥32,549、EUR45

総モスクワバス代 RUB180 (RUB1 = ¥2.6)

総モスクワ地下鉄代 RUB28

総モスクワ鉄道代 RUB640

総ロシアトランジットビザ代 ¥5,600

総エストニアバス代 EUR18.4

総ラトヴィアバス代 Ls9 (Ls1 = ¥142)

総リトアニアバス代 Lt13.6 (Lt1 = ¥29)

総リトアニアタクシー代 Lt50

協力

JAL、アエロフロートロシア航空、hotels.com

FTBJ夏山登山シリーズ第?弾 南アルプス北岳

猛暑を避けるためにお盆の時期に大雪山、翌週に富士山と八ヶ岳で立て続けに山篭りをさせていただいたのだが、8月最終週になってもまだまだ秋の兆しが見えないため、更なる山岳トレーニングが必要とされる今日この頃である。既に日本最高峰の富士山は制覇してしまっているのであとは階段を下りるように2位、3位と踏破していかなければならなくなってしまっている。ということで、今回は日本で2番目の高さを誇る南アルプスの北岳で下り坂にある体力を鍛え直すこととなったのだ。

2012年8月30日(木)

北岳登頂ツアーの全行程を考慮すると登山決行日の前日に近辺まで移動しておく必要があったため、とりあえず午後から石和温泉駅までのこのこと出て行った。駅前公園の足湯が無料WIFIに対応しているので林家夫妻に気を遣いながらも必要な情報収集を怠らなかった。

夕飯時になったので甲州ほうとうのチェーン店である小作に入店し、地主に気を遣うことなく「おざら」という冷たいほうとうに舌鼓を打っていた。腹も膨れたところで今夜は山梨における登山のベース基地に認定された薬石の湯 瑰泉で体をほぐすことに余念がなかった。

8月31日(金)

雑魚寝客との仁義なき場所取り合戦を回避すべく、中庭のデッキチェアで不貞寝を決め込んだものの睡眠不足は否めなかったのだが、夜明けと同時に起床することが出来たので瑰泉を後にして南アルプス市に向かった。国立公園に指定されている南アルプス北部の峰々へはマイカー規制のため、芦安という町の市営駐車場に車を止めてバスで野呂川広河原という登山拠点まで移動しなければならないので6:30発の登山バスに乗り、山間を1時間程走って広河原インフォーメーションセンターに到着した。

標高1,529mの広河原を8時前に出発すると野呂川に架かる吊り橋を渡り、広河原山荘を横目にスズメバチの襲来に怯えながら北岳への登山をスタートさせた。緑豊かな林の中を歩いていると南アルプス天然水の原料となるはずの清流がマイナスイオンを放散しながら登山者に活力を与えていた。

南アルプスの山中は日本を代表する高山植物の宝庫となっており、色とりどりの可憐な花々とそれらに群がる蝶やミツバチがこの地域の生態系の豊かさの一端を示していた。尚、今回は姿を現すことはなかったのだが、ここには特別天然記念物のライチョウやニホンカモシカもどこかでひっそりと暮らしているのだ。

北岳山頂までの道のりはいくつかのルートがあり、分岐ポイントの立札の道しるべにより迷うことはないのだが、難易度や体力の消耗度はそれぞれ異なるという。標高2,209mの二俣という分岐点に差し掛かる頃には雪があたかも氷河であるかのように斜面を覆っている光景も見受けられ、下流では雪解け水が轟音を立てて石を運び、斜面を削ぐように流れていた。

大樺沢を覆っていた雪渓もいつしか消え、八本歯ノコルというポイントに向かって過酷な登り坂が延々と続くことになる。坂の傾斜が40度~45度になるころには木製の丸太の梯子が連続するコースに差し掛かり、ここが登山の最大の難所だと思われた。

標高2,870mの八本歯ノコルまで這い上がると眺望も開けるはずだったのだが、どこからか湧き出る雲の流れが速く、北岳や日本第四位の高峰間ノ岳の山頂が見えたり、隠れたりしていた。ここから北岳山頂までは約1時間20分ということなのでラストスパートで一気に頂上を目指したいところだが、朝飯も昼飯も食っていないため、そろそろ体力の限界が迫っていたのだった。

標高3,000m近くとなると通常は植生限界となるのだが、夏は雨が多く、冬は積雪が少ないという特徴を持つこの地域は森林限界も高く、山頂付近であっても高山植物のお花畑が広がっているのだった。

マサよ、君は南アルプスの人気ナンバー1の秀峰には来ただけだったものの、言いようもない達成感と湧き上がる雲に包まれて我を忘れたことがあるか!?

というわけで、5時間もの長時間をかけてついに日本第二位の標高3,193mを誇る北岳の頂上を制覇した。ここには富士山頂のようなお鉢巡りやお宮参りのアトラクションがないので、登山者は短時間の滞在で下山することが通例となっているようだ。頂上でたむろしている他の登山者は頂上付近の山小屋で酒盛りをすると息巻いているのだが、私は北岳には来ただけなのでかっぱえびせんを食ってすぐに下山する心づもりであった。

北岳登山の行程は通常一泊二日で日帰りを行う輩はめったにいないのだが、少数派である私は何とか最終バスに間に合うようにそそくさと下山を開始した。帰りは異なる景色を見るために行きとは違うルートを取っていたのだが、山頂から10数分歩くと青い屋根が眩しい標高3,000mの肩の小屋に到着した。小屋の周辺には雨水を貯めるためのドラム缶やプロパンガスの大きなボンベが置かれているのだが、これらの機材はどうやって運ばれたのだろうと訝りながらペースを早めていった。

立札が示す標準時間で下山していると到底バスの時間に間に合わないので転ばない程度に速度を上げて歩いていると持病?の左膝ではなく、右膝の方が痛み始め、休憩後の歩き始めには容易に力が入らない状態に陥っていた。アルピニストの野口健がマイバッグに入れて持ち歩いている世田谷自然食品のグルコサミンを服用すれば少しは症状も改善されるのではないかと考えたが、頭の中で回っていたのは♪グル グル グル グル グルコサミン♪というリズムだけであった。

グルグルリズムの効能により、標準下山時間で5時間くらいかかるところを3時間程度で駆け下りると午後4時半の終バスに何とか間に合わせることに成功した。右足を引きずるようにバスから降りて車に乗り換えると一目散にベース基地である瑰泉に帰還し、ひたすら温浴治療に勤しむこととなったのだった。

9月1日(土)

グルコサミンに頼らずに右膝の痛みを和らげることが出来たのでさらなるリハビリのために富士山麓を徘徊することにした。道の駅富士吉田で富士山伏流水の給水所が賑わっていたので富士吉田市出身の金メダリストに見守られながらバナジウムを含有する富士の天然水をいただいた。

あいにくの曇天のため、富士山の勇姿を拝むことが出来なかったので今回は水にまつわる名所を訪れることにした。河口湖方面から山中湖に向かう途中の忍野村に忍野八海という富士山の雪解け水が80年の歳月をかけ濾過し、湧水となって8か所の泉を作っている名所があるので寄ってみることにした。この湧水は国指定の天然記念物、名水百選に指定されているため、常に多くの観光客で賑わっている。

八海を全て見て回るのは面倒くさかったのでとりあえず見学は主な池にとどめることにした。菖蒲が生い茂っている菖蒲池をチラ見して、風のないときには富士山がはっきりと映る鏡池が雲しか写し取っていないのに憤りを覚えながら忍野八海の観光の中心部に向かって行った。

湧出量ならびに景観は八海中随一であり、直径約12m、潜水深度約5mを誇る涌池は透き通るような神秘性をたたえており、その隣の流水口からは富士山の雪解け水が懇々と湧き出ている。尚、この天然池は溶岩で形成され、一見すると地上の池からは見えにくいが横穴が沢山開いていると言われ、1987年にテレビ朝日の番組の水中カメラマンが潜水したのだが、帰路を見失い、酸素切れで帰らぬ人となったという忌まわしい過去まで持っているのだ。

濁池という清らかではない池の隣の建家では水車の動力を利用してソバを挽いており、名物のソバが近隣の食堂で安値で提供されている。名物吉田うどん屋も近くにあったので今日の昼飯は\500の肉玉うどんと\300のかけそばで手軽に済ませておいたのだった。

忍野八海の中心にあり、土産物屋から歩道が続いている中池は水深8mの透明な池でその水底には賽銭の小銭と一緒に観光客が奉納したはずのデジカメも沈んでいたのだった。さらに中池を取り囲むように作られた人口の池では黄金の鯉が悠々と泳いでおり、中にはイケメンの人面魚がいるとほのめかされていたのだが、私が目にしたのは通常の魚顔の鯉だけであった。

忍野八海の清流である涌池と中池では飲料も可能であるのだが、流れる水を持ち帰るためには\150を支払って500mlのペットボトルを買わされるシステムになっている。こうすることによって無秩序な取水に制限を加え、水汲み場に人々が殺到することのないように厳格な管理がなされているのである。

FTBサマリー

総宿泊費 ¥2,000

総バス代 ¥2,200

総ガソリン代 ¥4,440

協力

薬石の湯 瑰泉(かいせん)(http://www.yu-kaisen.jp/)、山梨交通、世田谷自然食品

富士山ご来光と八ヶ岳八つ当たりツアー

富士山の噴火の兆候が報告されてからもう何年も経つが、最近では富士山直下に活断層も発見され、地震の揺れで「山体崩壊」という大規模な山崩れの恐れまで出てくる始末である。火山噴火に関してはある程度の予知は可能なのだが、地震に関しては当局も自信を持った予知が出来ないため、本当にいつ山体崩壊が起こるのか分からないのが現状である。何はともあれ富士山が現形を保っている間に10年ぶりとなるご来光ツアーを敢行し、ついでに富士山ともゆかりのある八ヶ岳の最高峰まで制覇しておかなければならなくなったのだ。

2012年8月20日(月)

通常の富士山登山ツアーは日の高いうちに登山を開始し、途中の山小屋で仮眠を取った後、深夜から頂上アタックを開始するというパターンが一般的であるのだが、FTBでは最短時間での登山と下山を基本としているので午後7時に東京都日野市の自宅を出ると山梨県側の登山道を目指した。河口湖近くに差し掛かると暗闇の中を天空に向かって伸びる一筋の光が富士山登山の賑わいを指し示していた。富士急ハイランドの絶叫マシンが織り成す夜景を横目に有料道路である富士スバルラインを経由して午後10時過ぎに富士スバルライン五合目に到着した。

富士登山で最も多くの登山者を集める富士スバルライン五合目であるが、首尾よく駐車場に車を収めることが出来たので山頂までの距離6.9km、標準登山時間6時間半を念頭に置いて午後10時半より登山を開始することにした。暗闇の中を巨額の赤字にあえいでいるパナソニック製ヘッドライトの光を頼りに歩を進めていると眼下には太平洋沿岸部の夜景が広がり、頭上には都心では決して見ることの出来ない満点の星空が広がっていた。

8月21日(火)

いつしか日付も変わり、6合目、7合目をゆっくりとしたペースで登っていった。今登っている吉田ルートには数多くの山小屋があり、仮眠を終えた登山者がどんどん合流してくるため上に行けばいくほど登山道は渋滞してくるのだ。標高3,100mを超えると八合目に差し掛かり、八合目と名乗る山小屋の度重なる出現により、登れど登れど八合目が永遠に続くような感覚さえ覚えられた。途中の山小屋の休憩所では酸素缶を吸うシューシューいう音が響き渡り、一方で一服している煙草の煙が漂ってきやがるのだが、空気の薄い中で副流煙を吸わされるのはたまったものではないのでせめて登山道は禁煙にすべきだと思われた。

本八合目の胸突八丁にある山小屋トモエ館あたりから渋滞はいよいよ佳境をむかえ、周りの登山者が必然的にペースを作ってくれるので急な登り道を呼吸を整えながら無理なく進むことができる。糞尿を微生物の力で分解するバイオトイレから漂ってくる臭気を感じながら3,450mの八合五勺、3,580mの九号目を順調に通過すると午前4時15分過ぎについに山頂の鳥居をくぐることに成功した。

富士山頂の日の出時間は午前5時くらいなのでそれまでに山頂で適当なご来光スポットを物色しなければならないのだが、山頂が非常に混んでいることと最高峰の剣ヶ峰まで辿り着く頃には太陽が顔を出しきってしまっている懸念があるのでとりあえず人が集まっている場所に落ち着くことにした。すでに東の空はうっすらとオレンジがかり、夏の短い夜が終わりを告げようとしていた。徐々に光が大きくなり、まだ顔を出していない太陽が空を放射状に照らし始めるとあたりは幻想的な雰囲気に包まれていった。午前5時をちょっと回った時間についに太陽の上端が姿を現し、10年ぶり2回目の富士山頂でのご来光をこの目に焼き付ける運びとなった。

登りゆく太陽は富士山頂を赤く染め、寒さでガタガタ震えて待っていた登山者に生気を与えているかのようであった。太陽が登りきったところで山頂の火口を一周するお鉢巡りと洒落込むことにした。ところで富士山頂には午前6時から郵便局が開業しており、ATMでもあれば大金をおろして登山手形や土産物類を買い占めようかと思っていたのだが、民営化しているはずのゆうちょ銀行の努力がそこまでおよんでいないために断念するしかなかった。

日本最高峰、標高3,775.63mの剣ヶ峰にたどり着くためにはさらなる急坂を登らなければならないのだが、日本の頂点を目の前にして記念写真の順番待ちの長い列に並ばなければならなかった。お調子者の学生達は何を血迷ったのか、裸体で石碑を抱え込むというパフォーマンスを演じており、その段取りの悪さが疲れた順番待ちの登山者を苛立たせていた。

剣ヶ峰から少し下ると朝日を受けて富士山の美しい形がすそ野に影となって映る影富士が西の斜面の大沢崩れから樹海方面に見事な稜線のシルエットを写し出していた。遠く八ヶ岳を見渡した後、火口に目を転じると所々に雪も残っており、猛暑に苦しむ下界では想像できないような涼やかな景色を堪能することが出来たのだった。

お鉢巡りを終えて富士山頂上浅間大社奥宮に戻り、\300のチップを払ってトイレで用を足すと目の前の自動販売機で富士山天然水が\500で取引されている現状を目の当たりにした。下山の準備を始めている登山者は山中湖のはるか向こうの東京方面にスカイツリーの先端が見えるとはしゃいでおり、これはマサに10年前に富士山頂に来た時には見られなかった光景だと思われた。

おびただしい数の登山客の交通整理のために吉田ルートでは登山道と下山道が分かれており、下りは九十九折になった急なガレ地の坂道を灼熱の太陽にさらされながら延々と歩くことになる。草木も生えない荒涼とした大地を歩いているといつしかここが富士山腹であることを忘れ、遠目から眺める美しい富士山の姿とのギャップを最も感じながら戦うことになるのだ。

下り道は急で滑りやすく多くの登山者が尻で餅をついているのだが、整然たる地ならしが行われており、その上を物資を運んだりするキャタピラ車が行き来している。かつて物資の運搬は人をあやめることが出来る程の怪力を持つ「剛力」の独単場であったはずであるが、世界文化遺産への登録を目指す富士山ではこのような最新の技術が次々に導入されているのだ。

約3時間もの時間をかけてついに標高2,305mの五合目に生きながらえて戻ってきた。まだ午前中であったのだが、体力をすべて使い切っていたのですみやかに車に乗り、山梨の石和温泉郷にある薬石の湯 瑰泉(かいせん)にエスケープすることにした。早速薬石泉と高アルカリ単純硫黄泉のWパワーを体内に取り込み、さらに700℃効熱・火釜サウナで体内の毒素を輩出し、いち早く体力の回復に努めたのだった。

8月22日(水)

割引券を使うとわずか¥1,700で24時間滞在出来、食堂も雑魚寝スペースも完備している瑰泉で眠れない夜を過ごしたのだが、大事を取って一旦自宅に帰還することにした。帰りに昨日登頂を果たした富士山の勇姿を遠巻きに眺めるべく河口湖に立ち寄った。青空を背景にした富士山のシルエットはこの上なく美しく出来れば噴火も地震による山体崩壊も数百年後まで待って欲しいと祈りながら河口湖を後にした。

河口湖から八王子に帰る道すがら、山梨県大月市猿橋町の桂川にかかる「猿橋」に立ち寄ることにした。猿橋は日本三大奇橋の一つであり、昭和7年に名勝指定を受けている由緒正しい木の構造物である。尚、現在の橋は、昭和59年に総工費3億8千万円をかけて完成したもので、将来にわたるメンテナンスの必要性を鑑みて、H鋼を木材で囲った桔木が用いられているのである。

8月23日(木)

甲子園も決勝戦をむかえ、節電のために午前中に試合が組まれるほどの猛暑に耐え兼ねて家を飛び出し、涼しい場所を模索してさまようこととなった。富士山の観光にちなんで青木ヶ原樹海の東の入口に位置し、年間を通して観光客がたえない鳴沢氷結で火照った肉体を冷却することにした。午後5時頃天然記念物である鳴沢氷結の入口に到着し、割引券を使って\250で入場すると洞窟から吹き上がってくる冷気に誘われるように暗い世界に足を踏み入れていった。

途中屈んで前進しなければならないほど狭い通路を通るとその先には不気味な氷の世界が広がっていた。洞窟内部には竪穴があり、夏の風物詩であるサザンオールスターズを崇めている江ノ島に通じているという伝説がまことしやかに囁かれているという。内部の気温は涼しさを通り越してむしろ寒く、洞窟の脇に積んである氷は外部から取り入れて保管しているいわば八百長氷であるが、天然の氷柱は観光客の魔の手から金網でしっかりと保護されていたのだ。尚、江戸時代には鳴沢氷結から切り出された天然氷は馬で運ばれ、江戸の殿様に献上されたと言われているのだが、ご丁寧にも久米宏率いるニュースステーションで検証しやがり、見事にその伝説が達成されたという実績を誇っているのだ。

道の駅なるさわに富士山博物館が無料で開館しているので遅ればせながら入館させていただくことにした。首を回して威嚇する恐竜に出迎えられて地下の展示室に降りるとセクシー系のシースルー富士が富士山内部のマグマの様子や噴火のメカニズムをボタン一つの操作でわかりやすく解説してくれた。その他の展示品は主にアメジスト等の富士山周辺で採取された宝石類で、展示ルームを出て一階に上がるとそこはパワーストーン等の売店になっており、博物館で人集めをしておいて実際は高価な宝石の販売促進を図るという富士山ならではのマーケティング手法が見て取れた。

前回の入館時に瑰泉より夏休み特別企画の¥1,000で入場出来るお得な割引券をもらっていたので今夜も温泉と火釜サウナで体力増進に努めたのだが、夜は雑魚寝スペースのいびきのハーモニーにより一睡も出来ない状況に陥ってしまうので翌朝には疲れた体に逆戻りしてしまっていたのだった。

8月24日(金)

マサよ、君は八ヶ岳の由来となった富士山の嫉妬による八つ当たりで頂上が八つに割れてしまったという逸話を信じることが出来るか!?

というわけで、大昔、大平原にひときわ高くそびえ立つ富士山と八ヶ岳という山があったそうだ。あるとき、富士山の女神の浅間(せんげん)様と、八ヶ岳の男神の権現(ごんげん)様が、「いったいどちらが高いのか」と、言いあらそいをはじめやがった。お互いに譲らなかったため、二つの山の神様は、木曽の御岳山の阿弥陀如来に背くらべのレフリーを依頼することにした。阿弥陀如来が考えついた科学的な比較方法は二つの山のてっぺんに長い「とい」をわたし、水を流すという画期的なもので水は高い方から低い方へ流れるという物理学を応用したものであった。

背くらべの日には富士山も八ヶ岳も自信を持ってのぞみ、阿弥陀如来は二つの山にといをわたし、さっそく水を流したという。水が無情にも自分の方へ流れた時点で負けを確信した富士の女神は自身を爆発させる代わりに八ヶ岳の頭をボコボコにした結果、八ヶ岳の頭は八つに割れ、今日の姿になったという。

八ヶ岳の頭が八つ裂きにされた悲劇を学んだところで午前6時過ぎに瑰泉を後にすると清里高原を抜けて八ヶ岳登山の拠点の一つである標高1,542mの美し森に向かった。ところで、八ヶ岳連邦は北八ヶ岳と南八ヶ岳を合わせて8つ以上の峰があり、「八」というのは漠然と多数を表すものとみられている。その中で日本百名山として定義されているのは最高峰の赤岳なので多くの登山者は赤岳によじ登ろうと躍起になっているのだ。

美し森の展望台から遠く八ヶ岳の仇であるはずの富士山に向かって登山の安全を祈願すると多数の登山ルートの中でも最も難易度の高い真教寺尾根ルートを攻めることにした。森の小道を抜け、標高1,610mの羽衣の池を過ぎると森林の密度が濃くなり、さらに数十分歩くと賽の河原という開けた場所に到着した。ここからは富士山のみならず赤岳山頂の眺望も開け、目的地がはるか彼方であることを思い知らされるので行くべきか戻るべきか思案のし所なのである。

足元にゴツゴツした石が多いものの標高2280mの牛首山までは順調な足取りだったと言える。看板によると牛首山から赤岳頂上までは3時間10分の道のりであるが、ここから数多くの難所に遭遇することとなる。深い緑に囲まれた八ヶ岳の山腹には色とりどりの高山植物が咲き乱れ、花粉目当てに飛んでくる蝶が過酷な登山の一服の清涼剤として登山者を癒していた。

7合目を過ぎたあたりから傾斜のきつい岩場が出現し、鎖につかまりながら岩をはい上り、滑落の恐怖と戦わなくてはならない。高所恐怖症の輩には決しておすすめすることが出来ない過酷な所業であったろう。いつ終わるとも知れない鎖場で体力を消耗し、体が十分な水分補給を要求しているのだが、持ってきた1.2リットルの麦茶の残量が心もとなかったため、脱水症状を起こさないギリギリの線で難所に立ち向かっていた。

九合目に到達し、真教寺尾根ルートと他のルートとの分岐に差し掛かると赤岳山頂まで残り15分となった。その後は比較的難易度の低い登りで10合目の看板に迎えられ、鉄製のハシゴを登ってもまだ頂上には距離があるように感じられた。

15分の看板を発見してから明らかに15分以上の時間を要してついに標高2,899mの赤岳山頂にたどり着いた。頂上には質素な祠と3,000m近くまではい登ってきた割には粗末な看板しかなかったのだが、何故か私の登頂を祝福するかのように留まっているアゲハ系の蝶が迎えてくれたのでかろうじて気分をアゲアゲに保つことが出来たのであった。

険しい登山ルートを登って到着する頂上でありながら、赤岳山頂には立派な山小屋も開業しており、登山者はここで冷たいジュースやビールが飲めるだけでなく、宿泊して英気を養い、さらなるルートに挑むことも可能なのだ。

赤岳頂上を制覇し、富士山にボコボコにされた八ヶ岳の頭の有様を目の当たりにすることが出来たので速やかに下山の途につくことにした。鎖場の難所を日頃から鍛えている上腕と絶妙な身のこなしで次々にクリアし、順調に下山して行ったのだが、進めど進めど道は長く、よくこんな道を登ってきたものだと我ながら感心しつつ汗にまみれていた。この界隈ではツキノワグマが出没するといった注意報は出ていなかったのだが、森の中に黒いボディと白い顔を持つ動物を遠目に発見したときにはさすがに戦慄を覚えてしまった。後でよくよく確認するとこの動物はクマではなく、人畜無害のニホンカモシカかも知れないのであった。

美し森に帰り着いたのは雷鳴が轟き始めた午後5時くらいの時間であった。麦茶をとっくに飲み干し、干上がった体を潤すために美し森ファームたかね荘が無料で提供している赤岳の水をいただくことにした。しかし、さらなる延命措置が必要だと思われたので八ヶ岳山麓の道の駅小淵沢で営業している延命の湯に浸かって汚れた体を薄汚れた状態まで復帰させ、速やかに撤収することとなったのだった。

FTBサマリー

総宿泊費 ¥2,700

総高速代 ¥3,250

総ガソリン代 ¥7,318

協力

薬石の湯 瑰泉(かいせん)(http://www.yu-kaisen.jp/)

FTBJ北の国から2012 大雪山

♪ア~ア~、ア ア ア ア ア~♪

じゅん、じゃなかったマサよ~ォ、君はロンドンオリンピックの熱戦を大々的に報じる各局をよそにある性格俳優の追悼番組がひっそりとちいさく放送されていた事実を知っているか!?

というわけで、北の国での好演により自身をスターダムに押し上げたタケオ仲間の俳優が田中邦衛や岩城滉一等の脇役を従えて躍動していた北の大地に追悼にやって来たわけで・・・

2012年8月12日(日)

お盆のハイシーズンを物ともせずにANAの株主優待券とeクーポンを利用してマサであれば\35,770かかるところを私はわずか\2,970の支払いで、16:00発ANA071便B747-400ポケモンジェットに乗り込むと約1時間半のフライトで新千歳空港に到着した。

空港から札幌市内行きのバスに乗り、7時過ぎに予約しておいた全日空ホテル札幌にチェックインするとすすきの葉が揺れるようにすすきのに繰り出すこともなく、ホテルのカフェで提供されるビュッフェの料理に舌鼓を打ちながら避暑地の夜を過ごさせていただいた。

8月13日(月)

ANAの「ダイヤモンドサービス」ホテル宿泊・お食事クーポンが余っていたのでほとんど無料で宿泊と食事を楽しむことが出来た全日空ホテル札幌をチェックアウトすると札幌駅前からバスに乗り北海道第二の都市旭川に向かった。約2時間のバスの旅で旭川バスターミナルに到着すると軽く旭川の市街地を散策することにした。JR旭川駅の構内には動物園をモチーフにした記念撮影用のオブジェが設えられており、この街へ来る観光客の大半が動物を見に来るであろうことを如実に物語っていた。

旭川くんだりまで来て旭山動物園に行かなければ旭川に来た意味が無くなったしまうことを西田敏行主演の「旭山動物園物語 ペンギンが空を飛ぶ」という映画で学んでいたので降りしきる雨をものともせずに動物園行きのバスに乗り込んだ。廃園寸前の状況から奇跡的な復活を果たしている旭山動物園の入場料は旭川市民は¥580に設定されているのだが、多額の交通費を使って市外からわざわざやって来る輩は¥800を支払わなければならないのだ。ちなみに中学生以下は無料となっているので子沢山の家族のレジャーには持ってこいのファシリティとも言えよう。

正門を通過してフラミンゴが赤く染まっている池を過ぎると早速旭山動物園の復活の代名詞ともなっているペンギン館に到着した。

ここには4種類のペンギンが飼育されており、南極ですでに一生分のペンギンを見納めている私にとってはさして珍しくはないものの、水中トンネル越しにペンギンが頭上を泳いでいる姿を見るとマサに空を飛んでいるかのような錯覚に落ちいるのだ。

ライオンや虎やヒョウを養っているもうじゅう館をチラ見してオオカミの森と呼ばれる展示スペースに踏み込んだ。ここはオオカミが走り回れる程の広さを誇っており、アクリル板で防御されたトンネルからはオオカミの餌食となるはずの動物目線の眺望が提供されているのだが、雨の日のオオカミは不貞寝を決め込んでいるのが関の山であった。

旭山動物園における動物の展示スタイルは「行動展示」と呼ばれ、動物本来の行動や能力を見せるものであるのだが、オラウータン館では高さ17mの位置に空中運動場を設置しており、一生の内の大半を樹上で過ごすオラウータンの本能に対する十分な配慮がなされていた。しかし雨の日のオラウータンは木陰で雨を凌ぐという特性を持っているせいか空中運動場には閑古鳥しか鳴いていなかったのだ。

悪天候をものともせずに元気に活動している動物を見学するために「もぐもぐタイム」で多くの観光客を引きつけているほっきょくぐま館の行列に並ぶことにした。野生の白クマは海に氷が張る冬季に主にアザラシを捕食して生計を立てているのだが、ここでは飼育員がイカをプールに投げ入れ、それを白クマがわざわざ泳いで取りに行くというパフォーマンスが繰り広げられていた。また、陸地の展示場には透明のカプセル越しにアザラシ目線で白クマを間近に見られるコーナーが活況を呈していた。

雨のために旭山動物園の行動展示のダイナミズムを十分に満喫できないまま撤収となったので冷えた体を温めるために名物の旭川ラーメンを流し込んで溜飲を下げておいた。

8月14日(火)

日本最大の国立公園として1934年に指定された大雪山国立公園が君臨している。大雪山連邦は北海道の最高峰「旭岳」を主峰としているのだが、旭川からその旭岳には日帰りでアクセス可能なので天空の世界まで足を伸ばしてみることにした。

旭川駅前から旭岳のロープウエイ乗り場まで一日3便のバスが出ているので9:25発の一便に乗るべくバス乗り場で待機していると地元のタクシーがやって来てバス料金と同等の相乗り料金を提示してきたので3人の相乗り仲間と共にタクシーに乗り込んだ。バスでは空港に寄ったりするために1時間半くらいかかるところをタクシーの機動力により1時間くらいでロープウエイ山麓駅に到着するとそそくさと大雪山旭岳ロープウエイの往復チケットを\2,800の高値で購入した。

標高1,100mの山麓駅からわずか10分程度で標高1,600mの姿見駅に到着し、ロープウエイを降りると乗客はガイドによるオリエンテーションを受けることになっている。ガイドは主に周辺の見所の説明をしてくれるのだが、ホワイトボードにはいくつかの注意事項も示されており、特にヒグマの目撃情報には注意を払わなければならないのだ。

ここ1年くらい左膝の鈍痛に悩まされ、そろそろグルコサミンやコンドロイチンが必要な肉体に衰えたのかどうかを診断するために姿見駅から3.3kmの行程の旭岳の山頂登山にチャレンジすることにした。姿見駅周辺は全長1.7kmの散策路があり、その折り返し地点には旭岳の勇姿を写し込む姿見の池が雪解け水をたたえている。旭岳の山頂に行くにはさらにその先の過酷な登山道を黙々と進むことになる。

標高がそれほど高くないとは言え、やはり北国ということもあり森林限界はすぐに訪れた。急斜面のガレ地は容赦なく登山客の体力を奪い、山ガールを装ったレポーターを擁する地元テレビ局の取材クルーも登山客にインタビューするという名目で適度な休憩を取っていた。山腹から見下ろす大雪山系の緑の大地はマサに神々の住む庭にふさわしく地元では神に例えられるヒグマも必ずやどこかに潜んでいるかのような神秘性を漂わせていた。

九号目を過ぎたあたりから風が強くなり、足場も安定しないために徐々に足の筋肉のダメージが大きくなっていった。さらにバックパックに忍ばせておいた携帯電話からはけたたましい緊急地震速報のアラームが鳴り響き、頂上到達への自信が徐々に削がれていくような不安に苛まれることとなった。最後の力を振り絞り、約1時間半ほどの山登りでついに標高2,291mの旭岳の山頂にたどり着いた。頂上からの絶景は苦難を乗り越えてたどり着いた者だけが見ることを許される天空の世界そのものであった。

山頂にてポカリスエットで乾杯し、発汗で失ったイオンを補給すると天空から緑眩しい下界を目指して一気に下山することにした。下りは上り以上に傾斜を感じるためか一歩進むごとに膝の笑い声が大きくなるような感覚を覚えていた。多くの下山者が滑って転んでいるのを横目に何とか姿見駅まで帰り着くとしばしの休憩時間を経て今度は散策路を歩き回って筋肉をクールダウンさせることにした。

「神々の遊ぶ庭」とも称されるその素晴らしい景色は色とりどりの高山植物や旭岳と流れる雲を写し取る鏡池、その伴侶を合わせて夫婦池と呼ばれるペアの池等、往復\2,800のロープウエイ代がお得に感じられるほどの絶景であった。

木の実かじりに余念のない散策路のマスコットであるエゾシマリスを刺激しないように遊歩道を歩いていると地獄谷と呼ばれるモクモクと噴煙を上げている噴気孔にたどり着いた。活火山である旭岳は約600年前の爆発で山頂部が崩落して現在の地形が形作られており、その噴火のエネルギーは今もなお地獄谷の地の底で日々蓄えられているかのようであった。

北海道最高峰を制した達成感を胸にロープウエイで姿見駅を後にすると17:30発のバスでサンセットを迎えた旭川駅に帰り、agodaに予約させておいた旭川ターミナルホテルにチェックインすると盛夏を彩るように打ち上げられている花火に見とれながら涼しげな夜を過ごしていた。

8月15日(水)

JR北海道が運行する観光列車「富良野・美瑛ノロッコ号」が旭川駅で待機していたのだが、それには乗らずに何の変哲もない富良野行きのワンマン鈍行列車に乗り込んだ。美馬牛駅というさびれた駅で下車すると約3kmの道のりを歩いて色鮮やかな絨毯の見学に繰り出すことにした。

展望花畑「四季彩の丘」にはケイトウやサルビア、マリーゴールドなどが咲きそろい、東京ドーム1.5個分の花畑は色鮮やかなストライプで覆われ、多くの団体中国人観光客で賑わっていた。広い敷地を楽して回るためにいくつかの乗り物も用意されており、トラクターで客車を引っ張るノロッコ号やカート、バギーなどが家族連れの人気を集めていた。

花畑には何故かアルパカ牧場も営業しており、多くのミラバケッソ系のアルパカが柵の中で養われているのだが、入場料\500分はソフトクリーム購入代に回すべきだと考えたので入場せずに高い塀の隙間から癒し系の草食獣をチラ見するにとどめておいた。

美馬牛から再び富良野線に乗り、中富良野駅に立ち寄った。北海道の真ん中にある中富良野は十勝連峰の勇姿を望み、ラベンダーをはじめとする美しい花々が人々を出迎えてくれる彩りの大地である。ところが、ラベンダーのシーズンは既に終わってしまっていたのでスキー場のリフトを運行させている町営ラベンダー園の斜面には夢の跡しか残っていなかったのだ。

町営ラベンダー園で購入したラベンダーソフトを舐めながら、ラベンダー園の名門であるファーム富田に向かった。ラベンダーのシーズンは過ぎ去り、ラベンダー畑には枯れそうな葉っぱしか残ってなかったのだが、辛くも温室に咲いているラベンダーを見て溜飲を下げることは出来たのであった。

園内には花畑だけでなく、工場や工房も公開されており、観光客は花精油抽出工程や石鹸や香水の製造方法を学ぶことが出来るのだ。さらに隣接するメロンハウスではメロンの直売のみならず、切り売りやメロンパンも販売されていたので早速果肉が封印されたメロンパンを買って昼食とした。しかし、量的な物足りなさは否めなかったため、こだわりメロンソフトを食って腹の足しにしておいた。

ラベンダーの残り香を引きずって中富良野を後にし、電車に乗って北の国からの聖地である富良野駅に降り立ったわけで・・・駅前に「北の国から」資料館が開館していたので名優地井武男の追悼コーナーがあれば入ろうと思っていたのだが、その様子は垣間見られなかったので入場は次回訪問時に持ち越しにすることにしたわけで・・・ 結局富良野にはふらっと立ち寄るだけにとどまってしまい、15:30発のバスで札幌に帰り、全日空ホテルで涼しさの余韻をかみしめていたわけで・・・

8月16日(木)

新千歳空港より9:30発ANA054便にて涼しい北の国を後にして猛暑が続く東京へと帰り、ちい散歩の最終回は賽の河原だったのだろうかと考えながら流れ解散となったわけで・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ¥20,940

総宿泊費 ¥8,735

総バス代 ¥6,320

総タクシー代 ¥1,400

総JR北海道代 ¥1,190

協力 ANA、楽天トラベル、agoda、IHG・ANAホテルズグループ