天国にいちばん近いニューカレドニアツアー

ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!

というわけで、マサが悪徳官僚に成り下がっているのであれば、将来地獄にいちばん近い島に流れることが約束されているはずであるが、ブレンディコーヒーを飲みながら時をかけてきた原田知世は天国にいちばん近い島を訪れて以来、今だにその若さと美貌を保っている。

今回はその舞台となったニューカレドニアの島々がどれほど天国に近いのかをこの身をもって確認するために赤道を超えてはるばる南太平洋までやって来たのだった。

2012年7月8日(日)

角川事務所が原田知世を擁して開拓したリゾート地であるニューカレドニアへの日本からの直行便のフライトは曜日により成田と関空から出発する便があるのだが、ニューカレドニアの国際航空会社であるエアーカランのWEBサイトを精査しているとソウルから飛んだ方が割安になることが判明したので10:55発NH907便でまずは成田からソウルの仁川に移動することにした。

午後1時過ぎにアジアのハブ空港としての勢力を拡大している仁川国際空港に到着すると空港バスで東大門に向かったニダ。東大門を横目にHotels.comに予約させておいたアパート風の宿であるウルジロコープレジデンスにチェックインすると久しぶりにソウルの街中を散策してみることにした。

東大門はアパレル系の卸売と小売で賑わう一大商業地区で巨大なデパートと商店街では日本よりも勢いを増しているソウルっ子と円高という追い風に乗って日本からやってきた観光客が仁義なき財布の紐の緩め合いに没頭していたのだニダ。

明洞まで移動して韓流系の美女がいないかニカと思って群衆に揉まれてみたのだが、大した成果が見られなかったのでホテルに戻ってテレビを見ることにした。K-Pop系の番組では日本でお馴染みのグループが日本語で歌っていないのに違和感を感じたのでそそくさとNHKにチャンネルを変えて平清盛を見ながら身を清めることにしたスミダ。

7月9日(月)

早朝地下鉄と空港鉄道を乗り継いで仁川空港まで移動するとニューカレドニアの首都であるヌメア行き10:30発SB701便に乗り込んだ。ニューカレドニアはフランス領であるために機内はパリからエールフランス機を乗り継いでやってきたムッシュー、マダム、マドモアゼルで溢れており、すでに高貴なフランスの雰囲気を漂わせていた。

約9時間の長時間フライトでヌメアのトントゥータ国際空港に到着したのは2時間時計の針の進んだ午後10時くらいであった。つつがなく入国審査をパスし、空港のATMで現地通貨であるフレンチ・パシフィック・フラン(CFP)を20,000ほど引き出すと空港送迎サービスのシャトルに3,000フランもの大金を払ってヌメアの中心部に向かった。

agodaに予約させておいたヌメアの中心街に位置するベスト・ウエスタン・ホテル・ル・パリにチェックインしたのは日付も変わろうかという時間帯であったので何はともあれベッドに横になって天国の夢でも見ることにした。

7月10日(火)

ニューカレドニアはシドニーの北東約1970km、南回帰線のやや北に位置している南の楽園であり、細長い本島であるグランドテール島は南太平洋でニューギニア、ニュージーランドに次いで3番目に大きい島である。ニューカレドニアの首都は本島のほぼ南端の小さな半島を覆うように広がるヌメアで地球の裏側にあるもうひとつのパリとも称されるほど洗練された雰囲気を持っている町である。

プチ・パリとも言われるヌメアの食生活を支えている朝市に朝一から繰り出してみると、そこには新鮮な魚やカラフルな果物や野菜が高値で取引されているのだが、物価レベルは本国のフランスや日本よりも若干高いのではないかと感じられた。

ヌメアのへそであり、人々の憩いの場所となっているココティエ広場を通り過ぎて自動車通り沿いを北東に向かって歩いていると海沿いにモクモクと煙を発している巨大な工場が現れた。これはニューカレドニアの経済を支えるニッケル工場で日本が輸出先の筆頭になっているという。おそらくマサが桜宮造幣局で500円硬貨を製造していた時の原料となっていたニッケル銅のニッケルはここで発掘されたものだと予想される。

坂道を数キロ駆け上がると標高167mのモンラベルの丘に到着した。ここからはヌメアの町並みだけでなく、ニューカレドニア南部を取り巻く環礁なども遠巻きに眺められ、ヌメア屈指の展望台として格好の労働者の休憩場所になっているのである。

動物園、植物園、自然公園を融合したニューカレドニアを代表する施設が森林公園(CFP400)として地元民と観光客の憩いの場所になっているので入ってみることにした。動物園エリアにはニューカレドニアの島々をはじめ、世界各国から取り寄せられたカラフルな鳩、インコ、オウム、コウモリ等がカゴの中で自由を奪われているのだが、孔雀だけは自由に園内を動き回る権利が与えられているようだった。

ここでの最大の見ものはニューカレドニアの国鳥カグーであるのだが、空を飛べない奴らは絶滅の危機に瀕しているため保護が必要で、犬猫のような獣系の鳴き声を発しながら家具のない飼育エリア内を元気に走り回りアイドル的な人気を誇っているのだ。

ヌメア中心部のベスト景観スポットとしてエフ・オー・エルの丘が小高く盛り上がっているので登ってみると丘の上のショッピングセンターは閉鎖されている様子で、ここも少なからずヨーロッパの不景気の影響を受けている現実が示されていた。しかし、丘の上からモーゼル湾を望んだ絶景は普遍の美しさでこの風景が観光パンフレットに使われているのもうなずけるのだった。

丘を降りて2本の尖塔が天を指すセント・ジョセフ教会を礼拝し、さらに下ってふと教会の方を見上げるとその背後のエフ・オー・エルの丘の上に立つ潰れたショッピングセンターが助けを求めているように感じられてならなかった。

ヌメアの市街地の先にアンスバタというビーチリゾート地があり、今日はそのエリアに宿泊する予定になっているのでリゾートホテルとショッピングセンターの立ち並ぶ楽園を目指して歩いていた。道行く途中でタバコを所望する原住民に断りを入れると奴は地団駄を踏んで悔しがるオーバーアクションを示したものの何とかagodaに予約させておいたホテル・ル・サーフにたどり着いた。

チェックインするとほどなくサンセットが迫ってきたのであわただしくビーチに飛び出し、太陽が水平線に沈むのを見守っていた。太陽が沈んだ瞬間に緑色の光を見ると幸せになれるという伝説があるため、まばたきもせずに西の空を見守っていたのだが、心なしか淡い緑が私のまぶたを横切った気がして仕方がなかったのだ。

7月11日(水)

早朝ホテル・ル・サーフをチェックアウトして目の前のバス停からバスに乗り、ヌメアの中心部に向かった。そこからバスを乗り換えて国内線専用のマジェンタ空港に向かう腹積もりだったのだが、バスがタイムリーに来なかったので3km程の道のりを歩いて8時前にマジェンタ空港に到着した。9:00発Air Caledonieが運行するTY307便に乗り込み、離陸すると眼下にヌメア周辺の環礁の絶景が広がった。

ヌメアの環礁を見た興奮も覚めやらぬ間に飛行機は高度を下げ、雲が切れるとそこには緑色のヤシの林と抜けるような青のグラデーションとどこまでも続く白い砂浜がまるで天国への扉が開かれたかのようにその全貌を露にした。時をかける少女の尾道とともに原田知世の聖地と称されるはずのウベア島こそマサに「天国にいちばん近い島」と定義されているのだが、この島はヌメアから北に40分程飛行して到着する半月形の陸地と世界遺産に登録された環礁が織り成す夢の世界である。

何もない典型的な離島の空港であるウベア空港に10時くらいに到着するとこの島での宿となっている民宿ココティエのバンに乗り込み、島の最南端に向かった。ひと口にウベア島といわれている所は、中央がくびれた細長いウベア島と南端のムリ島から成り立っているのだが、ココティエはムリ島に位置しているので橋を渡ってしばらくするとムリ湾に面する質素な宿に到着した。

ヌメアではたいていどこへ行っても英語が通じたのだが、ここではフランス語しか通じなかったため、宿に到着し、部屋があてがわれると後はひたすら放置プレイとなったのだった。とりあえず、宿の目の前のムリのビーチに出てみたのだが、そこには真っ白なパウダーサンドのビーチがはるか天国に向かって続いているかのようであった。

宿に向かう途中ですでに「天国にいちばん近い島」におけるウベアでのロケ場所の目星をつけておいたのでさわやかな風を受けながら徒歩でまっすぐ伸びる一本道を一時間程トボトボと歩いていた。観光地にありがちな商業主義的設備が一切ない素朴な島で貴重なカフェを見つけたので鳥肉とご飯の定食を食っているとそこで養われている白猫も海と同じ色の目を持っていることが確認されたので、これはマサに天国にいちばん近い猫に違いないと思われた。

ウベア島とムリ島を無理やりつないでいるムリ橋は1981年に架けられたものであるが、この橋のあたりから見るレキン湾や対岸のファヤワ島などがウベアで最も美しい所といわれている。

海の色は雲の流れとともに刻々と色を変え、そのまま紺碧の空まで繋がっており、今まで見たこともないような美しい青に包まれていると昇天しそうになったので意識をなくす前にココティエに引き上げることにした。

ココティエのすぐ先に映画にも登場したカラフルな教会が南洋杉の並木の向こうに静かに建っていた。さらに近辺を散策しているとすでに天国に召された方々はビーチ沿いのお墓に埋葬されている様子で、十字架がきれいな花々で彩られているところからこの場所と天国との距離がいかに近いかを実感させられるのだった。

7月12日(木)

昨日の放置プレーで宿主とほとんどコミュニケーションを取れなかったため、予約が必要な夕食を食い損ねたためビールで空腹をしのぎ、今朝は今朝でペプシの炭酸で胃の容積を満たすと颯爽と朝の散歩に繰り出すことにした。

ムリ島の最西端のムリ岬まで足を伸ばしてみたのだが、そこはムリ・ビーチで見た白い砂浜とは異なるゴツゴツした岩礁地帯で海の色がより透明に見えるため、心が洗濯板で洗われるような感覚に陥ってしまうのだ。

ムリ岬から戻る途中の民家に豚を囲っている柵があったのだが、そこで生を受けた子豚は小回りを利用して柵の間から自由に出入りを繰り返し、親豚をやきもきさせていた。豚を適当におだてた後、民宿に戻ると依然として放置プレイが継続されていたので天国のようなビーチを眺めながら空港への送迎の時間が来るまで十分に現実逃避させていただいた。

放置プレイの割には予約や客の管理がしっかりしているココティエのバンで空港まで送ってもらうと16:00発TY316便に乗り込み、名実ともに「天国にいちばん近い島」であることが実証された夢の世界を後にした。

5時前にヌメアのマジェンタ空港に戻り、引き続き17:50発TY417便に乗り込むとニューカレドニアで最も人気のある離島と言っても過言ではないイル・デ・パンに向かった。30分程度のフライトで全く何もなかったウベア島の空港よりもずいぶん商業化されているイル・デ・パンの空港に到着すると迎えに来ていたホテル・コジューのバンに乗り、そのわずか30分後にはすでにチェックインを果たしていた。英語が通じるホテルの受付嬢が気を利かせて時間外にも関わらず夕食の予約を勧めてくれたので今夜はホテルのレストランで割とまともな食事にありつけることが出来たのであった。

7月13日(金)

フランス語で松の島という意味を持つIle(島)Des(の)Pins(松)をヨーロッパ人として初めて訪れたのはキャプテン・クックと言われている。おっちょこちょいなキャプテンはこの島に群生している杉の木を松と勘違いしてイル・デ・パンと名付けたというスギちゃんもくっくっと笑いをかみころさなければならないほどのワイルドなエピソードが残っている。ところで、朝食でオーダーしておいたコンチネンタル・ブレックファストは特に「パンいるで!」とも頼んでないのにテーブルにはパンしか並んでなかったのだ。

今回宿泊させていただいた島の西部のワメオ湾のビーチ沿いに立つホテル・コジューで椅子の硬いマウンテンバイクをレンタルすると島を1周する全長40kmの舗装道路を通ってイル・デ・パンの見どころを一通りなぞってみることにした。この島の観光の中心は南部にあるクト湾とカヌメラ湾周辺で、このあたりにホテルや民宿が集まっている。クト湾にはヌメアからのフェリーが着岸する桟橋があり、それを取り巻く海は世界遺産の環礁にふさわしく、底抜けの透明度を誇っていた。

クト湾に隣接するカヌメラ湾はさらに景観が美しく、波に侵食されて空中に浮いているかのように見える小島まではパウダーサンドの細道が続いていた。南半球に位置するニューカレドニアの季節は冬で、この時期の最低気温は15°程度まで下がるために水温が低いので気軽にスノーケリングをする気分にはならないのだが、及び腰の日本人観光客を横目に若いヨーロッパ人はビキニで水面に浮いていたのだった。

岩場の近くは水生生物の格好の隠れ家と見え、カラフルな熱帯魚が元気に泳ぎ回っていた。また、自給自足で海から食材を得ているはずの原住民はルアーを海に放り投げてうまそうなイカを見事に引っ掛けやがったのだ。

クト地区から4km程東に進んだ島の南端にある集落はバオというイル・デ・バンの一番の中心となる村である。最南端のセント・モーリス湾のビーチには最初のカトリック教徒が上陸したという記念碑がうやうやしく建てられている。記念碑の周りをメラネシアの魔除けの木彫りが取り囲み、一種異様な風景に見えるのだが、木彫りの魔除けの表情はどれも個性的で微笑ましいものであった。

バオ村の中心には立派な教会や素朴な青少年を教育する学校もあり、ここで古来からのメラネシア文化とフランス文化が融合され、新たな歴史と伝統を作り上げているのであろう。

過酷なサイクリングによりダメージを受けている股間とケツに鞭打ってバオ村から一気に島の中央まで駆け上がり、そこから島の東部のオロ湾に向かった。島随一の☆☆☆☆☆ホテルであるル・メリディアン・イル・デ・バンを擁するオロ湾にはピッシンヌ・ナチュレルという天然のプールがあり、スノーケリングのメッカになっているのだが、ローシーズンのためか、ひとけがなかったのでそそくさと撤収することにした。

今でこそ「海の宝石」という異名で多くのリゾーターを集めているイル・デ・パンであるが、かつてフランス人たちはこの島を政治犯の流刑地として多くの囚人を集めていた。囚人は主にパリ・コミューン(パリの革命的自治政権)の政治犯で、当時のオルタンス女王の同意により、島の西部は流刑者が、原住民は東部に住むといった取り決めがなされていたのである。そのため、島の西側には流刑地の跡や共同墓地が数多く残っているのである。

夕暮れ時にホテル・コジューに帰還すると丁度サンセットが佳境を迎え、雲と水平線の隙間からわずかに太陽が沈んでゆく姿を拝むことが出来た。6時前に送迎のバンに乗り込むと空港まで移動し、18:50発TY418便を静かに待っていた。結局出発時間はこれといったアナウンスもなく1時間もの遅れを出したため、ヌメアに到着した時間は8時をかなり過ぎた頃であった。

マジェンタ空港から明朗会計で名高いタクシーに乗り、ベスト・ウエスタン・ホテル・ル・パリまで送ってもらうと隣のカフェで高値のサラダを食いながら時間潰しをすることとなった。9時過ぎにあらかじめ予約していたトントゥータ国際空港行きのシャトルバスに乗り込むと1時間弱で空港に到着し、いそいそとチェックインをした後、土産のコーヒーを買ってフライトの時間が来るのを待ちわびていた。

7月14日(土)

00:05発SB700便は定刻通りに出発すると行きの飛行機で会った時には私に韓国語で話かけていた韓流スチュワーデスが、飲み物サービスの時に一瞬躊躇したものの帰りの便ではすべて英語で話すという学習効果を発揮しながら9時間余りを機内で過ごしていた。

定刻の8時前に仁川国際空港に到着し、入国すると列車で金浦国際空港に移動した。12:40発NH1162便は定刻通りに出発し、3時前には羽田空港に到着となった。東京には夢の島があるが、天国とは程遠いと思いながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥10,230、Air Calin = W1,202,500 (W1 = ¥0.07)、Air Caledonie = CFP41,080 (CFP1 = ¥0.83)

総宿泊費 ¥19,025、CFP10,960

総ソウルバス代 W10,000

総ソウル地下鉄・鉄道代 W8,350

総ニューカレドニアバス代 CFP400

総ニューカレドニアタクシー代 CFP1,100

総空港送迎代 CFP9,800

総レンタサイクル代 CFP1,500

協力 ANA、Air Calin, Air Caledonie、Hotels.com、agoda、Caledonia Spirit (http://www.caledoniaspirit.com)

FTBEU経済危機のエーゲ海に捧ぐ魅せられてツアー

♪Wind is browing from the Aegean おんなはうみ~♪

(訳:マサよ、エーゲ海から女々しい不況の風が吹いて来るぜ!)

というわけで、私が中学生として活躍していた1979年にヒットした日伊合作映画「エーゲ海に捧ぐ」と連携キャンペーンを行ったワコールのCMソングとして作られ、ついでにレコード大賞も取ってしまった名曲が流れていた頃のギリシアはエーゲ海に世界中の欲望を集めてマサにキリギリスさながらの生活をエンジョイしていたのだが、その化けの皮もとっくに剥がれて公務員が賄賂を持って暗躍する借金大国と成り下がってしまった。

好きな男の腕の中でも違う男の夢を見ているかのように様々な経済援助を受けているにもかかわらず破綻の足音が大きくなっているギリシアから観光客の足が遠のき、飛行機代もホテル代もバーゲン状態になっているこの機を捉えて中学時代から憧れてやまなかったエーゲ海にジュディ・オングのような羽を広げてついに舞い降りることになったのだ。

2012年6月18日(月)

エーゲ海の風の数倍の威力を持つはずの台風4号の上陸に先立って22:30関空発TK47便に乗り込むと♪南に向いてる窓をあけ♪ることなくブラインドを閉めて♪私の中でお眠りなさい♪という文言を機内で唱えながら意識を失くすことに専念した。

6月19日(火)

11時間以上のフライトで夜もまだ明けぬ午前5時過ぎにイスタンブール国際空港に到着するとトルコ航空のラウンジに直行して日がな一日ここでタダ酒とタダ飯を貪りながらキリギリスのように過ごさせていただいた。トルコ航空運行のイスタンブール‐アテネ間の便は一日3便あるのだが、最終便である19:25発TK1843便に乗り込むと1時間ちょっとのフライトでアテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港に到着したのは午後9時前の時間帯であった。

到着口で空港から市内へのタクシー料金が一律の明朗会計になっているのを確認すると順番を待ってイエローキャブに乗り込み、整備された高速道路を経由してアテネ市内のノボテルホテルに辿り着いた。タクシー料金を払う際にアテネに来て料金があってね~といったトラブルに遭うこともなかったのでチップ込みで40ユーロを与えると運転手は満足した面持ちで引き上げていったのだった。

6月20日(水)

ホテルから徒歩5分のところにアテネの中央駅である鉄道ラリッサ駅が君臨し、それに付属するように存在する地下鉄ラリッサ駅で4ユーロを支払って24時間乗り物に乗り放題のチケットを購入すると車体を下手くそな落書きでコーティングされた地下鉄に乗り込み、アクロポリという駅で下車する運びとなった。この駅の構内には地下鉄工事の際に発掘された土器や墓などが展示されており地下鉄ミュージアムとして観光客の注目を集めていた。

ギリシア古代遺跡のハイライトともいうべきアクロポリス(世界遺産)は「高い丘の上の都市」という意味を体現するかのように自然の要塞とも言える岩山にそびえていた。早速チケット売り場で複数の遺跡に入場出来る共通チケット(12ユーロ)を購入すると炎天下で不貞寝を決め込んでいる猛犬を刺激しないように丘の上に続く階段を登って行った。

今も古典劇などが上演されるイロド・アティコス音楽堂を高みから見下ろすと不景気を物ともせずに多くの観光客で溢れているプロピレア(前門)を通ってアクロポリスの中心部に踏み込んでいった。

ギリシアの象徴と言っても過言ではないパルテノン神殿は紀元前432年に完成したもので、現役当時は神殿内部にアテネの守護神アテナの高さ12mにも及ぶ巨大な像が安置されていた。1687年のヴェネツィア軍の攻撃で大破してしまったのだが、修復作業を継続するために今なお多額の資金が投入されている様子が見て取れたのだった。

エーゲ海から吹く風で栄光のギリシア国旗をはためかせているパルテノン神殿奥の展望台からはアテネの街並みが一望出来、観光客は狭い展望台の中でベストな撮影スポットを確保しようとせめぎ合っているのであった。

紀元前408年に完成したエレクティオンは北側にイオニア式円柱、南側にはカリアティデスと呼ばれる6人の少女像を人柱的に配しているのだが、それらの人柱はすべて複製でオリジナルのうち5体は新アクロポリス博物館に収蔵され、残りの1体は大英博物館に略奪されているのである。

アクロポリスで古代ギリシア建築の真髄に触れると同時に栄枯盛衰のはかなさをかみしめた後、丘を降りてとあるカフェで昼食のパンを噛みしめて体力を回復させるとかつて賢人たちが議論を交わしたと言われている古代アゴラに向かった。

古代においては政治、宗教、文化的施設が集中している場所を意味するアゴラでは男たちが買い物をしたり、政治を論じたりしていたのだが、精神的中心であったアクロポリスに対して、当時の古代アゴラは生活の中心として重要な役目を果たしていた。

ヘファイストス神殿はギリシア国内で最も原形を留めている神殿で、建築時期はパルテノン神殿とほぼ同時期の紀元前450~440年頃のものと言われている。市場があったとされる中央柱廊は長さ約120m、幅約15mにもおよび、ここで物が売買されていたのであった。

巨人とトリトン(半人半魚)の像3体のみが残っているアグリッパの音楽堂を通り過ぎるとギリシア遺跡の中で唯一完全に復元された建造物であるアタロスの柱廊にたどり着いた。ここは古代アゴラ博物館になっており、古代ガッツポーズ像等の古代アゴラで発掘されたもののほとんどがここに収蔵されている。

古代アゴラの隣に広がるローマン・アゴラはローマ時代初期(紀元前1世紀~紀元前2世紀)のアゴラの跡で、かつては市場兼集会場として人があふれていたという。大理石でできた八角形の「風の神の塔」は日時計、水時計、風見の3役をこなしており、塔の8面はそれぞれ東西南北と、北東、南東、南西、北西の方向を指し、壁の上部にはそれぞれの方角の風の神が浮き彫りにされている。

30°をゆうに超える炎天下を長時間遺跡見物に勤しんでいると遺跡のように干からびてしまいそうな乾きを覚え、のぼせるといけないので早々とノボテルホテルに退散し、ギリシア料理をつまみに英気を養っておくことにした。

6月21日(木)

朝日が昇ってるのを横目にノボテルホテルをチェックアウトすると地下鉄を乗り継いでエーゲ海の島々への海の玄関口であるピレウスのフェリー乗り場に向かった。2500以上もの島々が点在するエーゲ海を運行する多くのフェリー会社から人気島への高速フェリーの便を持つHellenic SeawaysのチケットをあらかじめWEBで予約していたので窓口で搭乗券を受け取ると7:30発サントリーニ島行きの大型高速艇Highspeed6に乗り込んだ。

船内の売店で高値で売られているカフェとサンドイッチを召し上がっていると船はいつの間にか出航しており、すべるようにピレウス港内を後にした。広い船内では概ね快適なエーゲ海クルーズを楽しむことが出来たのだが、トイレの洗面所がゲロまみれになっていたり、流してはいけないトイレットペーパーを流してトイレが詰まっているような些細な不具合には目を瞑らざるを得なかった。船は途中イオス島に寄港して速やかに乗客の乗り降りを済ませると正午過ぎにはキクラデス諸島の中でも観光客に絶大な人気を誇るサントリーニ島のアティニオス港に到着した。

船を降りると目の前には断崖の壁が迫っており、その上には雪のように積もった真っ白な家々が町を形成している様子が遠目に見受けられた。港には観光客をサントリーニの中心の町であるフィラまで運ぶ公共のバスが待ち構えていたので早速乗り込むとつづら折りの坂道を駆け上がって20分ほどでバスステーションに到着した。引き続き、この島での宿を取っている北部の町イア行きのバスに乗り、眼下に広がる真っ青なエーゲ海を眺めていると青と白の対照がこの上なく美しいイアの町にたどり着いた。

観光案内所に荷物を預け、シエスタの時間でも営業しているレストランで昼食を済ませると軽くイアの町を歩いてみることにした。まるでメルヘンの世界のような通りにはおしゃれなカフェ、アートショップ、土産物店が所狭しと立ち並び、エーゲ海の絶景を価格に上乗せしているはずのコスメショップにはご当地名物のオリーブを原料にした石鹸が陳列棚を席巻するように配置されていた。

崖には白壁に青屋根の教会や民家が段々に建っており、他の島では見ることの出来ないサントリーニ島独特の景観を形作っている。不況の影響でバカンスシーズンの観光客の出足が悪いとは言え、ここはマサに不景気であることを忘れさせてくれるこの世の楽園だと思われた。

強烈な日差しからエスケープするためにイアのバスステーションでベンツタクシーを捕まえてビーチ沿いに位置するプール付きアパートメント系のエンプロホテルに移動し、チェックインの手続きを行った後、周囲を散策していると閑散とした黒砂のビーチに数人のリゾート客がくつろいでいる光景を目にした。

サントリーニ島のイアに来てかの有名な夕日を見なければサントリーニ島に来た意味がなくなってしまうので太陽が水平線に没する前に再びイアの断崖沿いの町並みに繰り出すことにした。周囲は充分明るいとはいえ、時刻は7時を回っていたのでとりあえず眺望のいいレストランでディナーと洒落込むことにした。シーフードのスパゲッティとイカの中にもち米をギュウギュウに梱包したイカ飯を肴にギリシア語で「伝説」を意味するMithos(ミソス)ビールを飲んでいたのだが、何となく物足りなさを感じていた。ところで、ヨーロッパで最初にワインが作られたのはギリシアであり、中でもサントリーニ島のワインは定評があるのでサントリーのウイスキーを発注する代わりに白ワインを軽飲して夕日見物の雰囲気を高めておいた。

のんきに飯を食っている間に夕日見物スポットはすでにおびただしい数の観光客で埋め尽くされており、ベスト撮影ポジションを確保するのは困難な状況であったのだが、何とか人ごみの中にカメラを潜り込ませると景気動向には左右されることのないすばらしいサンセットの光景を焼き付けることが出来たのであった。

6月22日(金)

エンプロホテルでさわやかなエーゲ海の風に吹かれながらゆったりとした午前の時間を過ごした後、タクシーでイアの町まで移動し、さらにバスに乗ってフィラまで繰り出すことにした。バスステーションから風光明媚な断崖に向かって歩いていると青い空を背景に輝く白亜の大聖堂が迎えてくれたので中でお祈りをすると観光客で賑わっている断崖沿いを散策することにした。

サントリーニ島はキクラデス諸島最南にある火山島で、現在のような三日月形の島になるまでには何回も火山の爆発があったそうだ。火山のクレーターは断崖の上から見下ろすことが出来る海上に浮かんでおり、そのネア・カメニ火山にはツアーボートかクルーズ船でアクセス可能になっている。また崖の上にはクレータービューを標榜するレストランが何軒も軒を連ねている。

崖の下にオールド・ポートという港があり、そこへアクセスする主な交通機関はゴンドラタイプのケーブルカーかロバの背中になっているのだが、なるほど、ケーブルカー乗り場近くのレストランで飯を食っているとロバの交通量の多さを実感することが出来るのだ。

崖の上には多くのブティックやショップも営業しているのだが、崖っぷちホテルはどれも例外なくプール付きとなっており、リゾート客がプールに入浴しながらビールやワイン片手に絶景を眺めるというこの上ない贅沢を味わっている様子が見て取れた。

フィラからバスに乗ってイアに帰り着くと丁度サンセットの光景がクライマックスを迎える頃であった。昨日とはポジショニングを少し変えて見たのだが、オレンジ色の空と崖に張り付くように建っている白い建物群とのコントラストは何度見ても感慨深いものがあった。

6月23日(土)

イア地区のエンプロホテルからタクシーを飛ばして一気にフェリー乗り場に移動した。港の旅行代理店でフェリーの搭乗券を入手し、冷房が完備した待合室でくつろいでいると何隻かの観光船の出航が見受けられた。Hellenic Seawaysが運行するFrying Cat4と命名された高速艇に乗り込み、定刻の正午に出航すると途中のパロス島に立ち寄った後、定刻14:35頃にはミコノス島のオールド・ポートに到着を果たした。港の入口にミコノス島での宿となっているサンアントニオ・サマーランド・ホテルのバンが止まっていたので速やかに乗車すると少し内陸の高台に位置するホテルにチェックインと相成った。

同ホテルでは2時間毎にオールド・ポートまでのバンによる送迎サービスを行っているので頃合を見計らって町に出てみることにした。オールド・ポートから町に向かっていると透明な海とビーチがいやがおおうでもリゾート気分を盛り上げてくれるのだが、不意に昼飯を食っていないことを思い出したので港に面したレストランに入ってシーフードの盛り合わせを発注した。しばらくすると港のレストラン通りで養われているはずの顔芸猫が絶妙な表情でおこぼれを要求してきたのだが、軽くそいつをいなしてエーゲ海の白い宝石との異名をとるミコノス・タウンの迷路に踏み入ることにした。

島のアイドルとしてレストランから鮮魚を分け与えられているペリカンを横目にミコノス・タウンの深部に向かって歩を進めていると土産物屋の前には同性愛者の多い島の雰囲気を表しているかのようなセクシー系の人物像が裸で立ちはだかっていた。

海からの強い風に抗うようにさらに進んでいると白いのっぺりとした建物に遭遇した。これが絵葉書の被写体としてよく使われるパラポルティアニ教会であることを確認すると強風を利用して動力を得ているエコなファシリティが立ち並んでいる広場に到着した。

リトルヴェニスと呼ばれるこの地域は夕日の名所でおしゃれなカフェやレストランが立ち並んでいるのだが、景色の主役である6つの風車は、かつて麦を挽くのに使われていたのだが、今ではミコノス島のシンボルとして静かに観光客を見守っているのだった。

鹿児島県の与論島と姉妹島の契を結んでいるミコノス島であるが、夜は大人の遊園地として不夜城と化すと言われている。ミコノス・タウンに宿を取ると喧騒で眠れないはずなので明るさがまだ残っているうちに高台のホテルに退散してテラスを流れる潮風にあたりながら選挙後のギリシアの離島の世論に考えを巡らせていた。

6月24日(日)

サンアントニオ・サマーランド・ホテルのテラスからニューポートに停泊している大型クルーズ船を見下ろしつつ、いつかはクルーズでやって来るぜ!という闘志を掻き立てながら朝食のコーヒーを掻き回していた。

送迎バンに乗り込むタイミングを逸してしまったので徒歩で港まで歩いて行くと野菜や魚を販売する朝市がほどよい賑わいを見せていた。港の端にある船着場からディロス島行きの船が出ているので往復チケットを購入すると11:00発のツアーボートに乗り込み、しばし洋上で風を受けることにした。

キクラデス諸島は「ディロス島を囲んでいる島々」を意味するように、諸島の中心にあるディロス島は、太陽の神アポロンとその双子で月の女神アルテミスの誕生の地として知られ、古代から信仰も盛んであった。面積にして約4km2の小島であるが、島全体が世界遺産に登録されているほど遺跡の宝庫となっているのだ。

約30分程の航海でディロス島(5ユーロ)に到着すると廃墟にしか見えない小島の中を徘徊することにした。まずはこの島の主であった太陽神アポロンを祀るアポロン神殿を見学させていただいた。ペルシア戦争で勝利を収めたアテネ率いる各ポリス(都市国家)は、戦後ペルシアの次なる攻撃に備えてアテネを中心としたディロス同盟を結成し、ディロス島に本部が置かれた。アポロン神殿は同盟結成とともに建築開始され、紀元前3世紀に完成を見たという。ディロス同盟の金庫もここに置かれ、経済的な潤いを見せていたのだが、この金庫がアテネに移されるとアポロン神殿の建設は一時中断されるという憂き目も経験しているのだ。尚、今残っているのは土台の一部のみとなっている。

ディロス島のシンボルと行っても過言ではないライオン像が海側から聖域を守るように7頭並んでいる。これらは紀元前7世紀のナクソス人からの奉納品であるが、ここで海風にさらされてアザラシ化しているのはレプリカで本物は現在保護のために博物館で余生を送っているのである。

モザイクの残る柱廊や古代体育館をチラ見して枯れた水場にたどり着いた。ここは有名なギリシア神話で女神レトがお産に使ったと言われる「聖なる湖」である。そのときオギャ~と生まれやがったのが、マサに太陽神アポロンと月と狩りの女神アルテミスの双子だったのだ。

炎天下を歩き回り、体力も尽きかけた頃合いを見計らって冷房完備の博物館に入ることにした。館内には当然のことながらディロス遺跡で発掘された数多くの遺品が収蔵されているのだが、展示されているオリジナルのライオン像のアザラシ化の具合は炎天下で頑張っているレプリカと大差はないように感じられた。

13:30発のボートに乗り込むと観光客は灼熱の太陽に生気を奪われたためか、皆ボ~として過ごしており、中には嘔吐をしている輩も見受けられた。確かに船はエーゲ海の強風のために微妙な揺れ方をして気分が悪くなることもないではないのだが、船上から見るミコノス・タウンの景色はマサに白い宝石そのものであった。

マサよ、君はタベルナと言いつつも伝統的なギリシア料理をふるまっているハングリーな食堂を知っているか!?

ということで、ミコノス・タウンに上陸するといい具合に腹も減っていたのでアントニーニというタベルナに入ってトマトをふんだんに使ったミコノス・サラダとオーブンで焼かれた白身魚を食しながらのんびりとシエスタ気分を味わうことにした。尚、TAVERNAとはお腹の空いている客に意地悪をするところではなく、魚介類を中心としたギリシア料理を出す、高級レストランよりも敷居の低い不況フレンドリーな大衆食堂なのである。

腹ごなしにミコノス・タウンの白い迷路をさまよっていると地元住民御用達の店ながら地球の歩き方を掲げて邦人をおびき寄せているオリーブ・オイルというヘルスケアの専門店に遭遇した。店に入ると店主のおばちゃんが先に来店していた中国人団体観光客を差し置いて丁寧な接客をしてくれていたのだが、中国人が起死回生のゴールドカードをちらつかせながら大人買いの装いを見せはじめると私に差し向けられていた試食品のキャンディがあえなく撤収されてしまったのだった。

オリーブ・オイルで適当に油を売った後、南のバスステーションからミコノス島を代表するパラダイス・ビーチに向かった。このビーチはヌーディスト・ビーチとして有名でゲイ・カップル等の同性愛者も御用達にしているという。トロピカーナ・クラブというゲートをくぐってビーチに出るとそこはマサに♪Wind is browing from the Aegean♪のイメージそのままの妖艶な世界が広がっていたのだ。

やさしいひとに抱かれながらも強いおとこにひかれてくような気分を引きずりながらパラダイス・ビーチを後にしてミコノス・タウンに戻ってくると風車と夕日のコラボレーションが一日の終わりを告げようとする一方で涼しくなったミコノス・タウンの賑わいが佳境を迎えようとしていた。多くのショップで目移りしながらウィンドウショッピングを楽しんでいたのだが、どの店もペリカン便で購入品を日本に送ることは出来ないと思ったのでホテルに帰って羽を休めることにした。

6月25日(月)

充分リゾート気分を満喫させていただいたサンアントニオ・サマーランド・ホテルをチェックアウトし、バンでオールドポートまで送っていただくとフェリー出航までのしばしの時間をミコノス・タウンに委ねることにした。ところで、夏はサマーランドの名の通りにリゾート客で賑わうミコノス島であるが、冬場のローシーズンになると店の半分以上が閉まって与論島のような静かないなかの小さな島に変貌するという。不況下で人生の何たるかを考え直したいという輩には絶好の環境を提供することであろう。

オールドポートから大型フェリーや大型クルーズ船が入港するニューポートまでバスで移動すると14:15発Blue Star Ferriesが運行する大型のNAXOS号に乗り込んだ。高速艇ではないのでフェリーの航行速度は遅く、さらにいくつかの島を経由するために5時間半もの時間をかけてピレウス港に到着したのは午後8時前であった。

ピレウスから地下鉄でオモニア広場に移動したのだが、さんざんこのあたりの治安の悪さを刷り込まれていたため、地下鉄駅から200m程度しか離れていないポリス・グランド・ホテルまで脇目も振らずに突進した。☆☆☆☆が光っているこのホテルの最上階のテラスはバー&レストランになっており、南にアクロポリス、東にリカヴィトスの丘の夜景を堪能しながらディナーを楽しむことが出来たのだった。

6月26日(火)

ホテル前の大通りを北に400m程進んだ場所に国立考古学博物館(7ユーロ)が開館していたので、ギリシア彫刻、美術の真髄に触れるために入ってみることにした。ギリシア神話で躍動するオリンポス12神の神々や英雄たちのことを事前に学習しておけばここで過ごす時間もこの上なく有意義なものとなったであろうが、最近の日本でホットな神はAKB48の神セブンなので不動のセンターとしてオリンポス神の最高神として君臨するゼウス(ジュピター)やエーゲ海に捧ぐ美と愛欲の女神であるアフロディテ(ヴィーナス)、油断するとデーモン小暮に見えてしまう戦いの神アテナに注目しながら見学を行った。

展示品は彫刻だけではなく、キュートな土器や黄金仮面、エレクトした銅像等多岐に渡っていたので閉館時間まで博物館に入り浸り、暑さを凌ぐと同時にギリシアの歴史への理解を深めるべく勤めさせていただいた。

ギリシアツアーの最後は神殿で締めたいと思っていたので地下鉄でアテネの心臓部であるシンタグマ広場に移動し、国会議事堂に向かってこれ以上借金を重ねないように睨みをきかせた後、15本の柱がそびえているゼウス神殿に向かった。アドリアノス門のすぐ南にあるゼウス神殿はかつて計104本ものコリント式の柱が並び、それは美しく、威厳ある姿であったという。財政難にあえぐギリシアもひたむきに観光業に励んで借金を返済し、過去の威厳を取り戻してくれるように祈りを捧げながら整備された地下鉄で空港に戻っていった。

泣き叫ぶ猫をバスケットに閉じ込めて空港内を闊歩しているギャルを横目にトルコ航空カウンターでチェックインを果たすと21:50発TK1844便に搭乗し、一旦イスタンブールまで飛んだ後、ほとんど乗り継ぎ時間もないままにTK46便関空行きに乗り換えると定刻00:50には恒例のJTB旅物語のツアー客に取り囲まれてのフライトとなっていた。

6月27日(水)

午後6時頃に関西空港に到着すると2004年のアテネオリンピックの栄光は身の丈にあってね~♪若さによく似た 真昼の蜃気楼♪だったのではないかと訝りながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥115,410

総宿泊費 ¥48,440

総フェリー代 EUR162.5

総地下鉄代 EUR13.8

総バス代 EUR13.4

総タクシー代 EUR93

協力 トルコ航空、Hotels.com、agoda、Hellenic Seaways、Bluestar Ferries

旧ソビエト連邦国モルドヴァとウクライナうかないなツアー

日食メガネがおつとめ品として割引販売されるのを期待してぎりぎりまで購入を控えていたのが裏目に出て金環日食は4重サングラスで観察する体たらくとなってしまった。ともかく世紀の天体ショーを無事見届けることが出来たのだが、前回のブルガリア・ルーマニアツアーのレポートを受けてマサが20世紀末にすでに東欧を訪れていたという事実の発覚は見過ごすことが出来ず、それ以上の実績を求めてさらに内陸のモルドヴァとウクライナに行かなければならなくなったのだ。

5月22日(火)

12:05発NH207便は定刻通りに出発し、午後5時過ぎにミュンヘン国際空港に到着した。空港からSバーンという近郊列車が出ているのでそれに乗ってミュンヘン郊外のMoosachという駅に降り立った。ハイシーズンのこの時期のミュンヘン近郊のホテルはどこも高値が付けられているのでその中でも比較的安めな(といっても\18,000程度)Hotel Meyerhofに投宿して英気を養うことにした。

5月23日(水)

MoosachからSバーンでミュンヘン国際空港に戻るとルーマニアの小さな航空会社であるCarpatairが運行する11:50発の V3 322便、Saab2000プロペラ機に乗り込むと、2時間程のフライトでルーマニア西部の地方都市であり、Carpatairのハブ空港になっているTimisoaraに到着した。引き続きV3 129便、Fokker100ジェット機に搭乗すると1時間程のフライトでモルドヴァの首都キシニヨウに午後5時前に到着した。

かつてソ連の一地域であったモルドヴァへの入国にはビザと「レギストラーツィア」と言われる滞在登録が必要だったのだが、近年西側自由諸国への歩み寄りを強めているせいか日本のパスポートに対してはビザなしで入国できるのだが、入国審査で観光のためにモルドヴァへ来たぜと言っても容易に理解してもらえず滞在先等を細かく訪ねられてしまった。無事に入国を果たし、両替所で手持ちの20ユーロを差し出すと300レイ(Lei)という現地通貨になって返ってきたので思わず一礼して両替所を後にした。

キシニヨウ空港には165番マルシルートカというミニバスが乗り入れていたのでLei3を支払って乗り込むと20分程で町の中心部に到着した。早速Hotels.comに予約させておいた☆☆☆ホテルであるBella Donnaにチェックインする際にどんな妖怪人間ベラが現れるのか戦々恐々としていたのだが、受付に出てきたのは普通のおしゃれなモルドヴァ・ギャルであった。

7時を過ぎてもあたりは暗くならないのでとりあえず軽く町中を散策してみることにした。町の雰囲気は旧ソ連の田舎町という感じであるが、メインストリートのシュテファン・チェル・マレ大通りには当時の威光を思わせる巨大な建造物群が立ち並び、元々寒いお国のせいか、道行くイケメン猫も高級そうな毛皮をまとっていたのであった。

5月24日(木)

九州より少し小さいサイズのモルドヴァは首都のキシニヨウといえども観光資源に乏しく、これといった見所もないのだが、とりあえず情報収集も兼ねて町に繰り出すことにした。列車の時刻を確認するために乗り込んだキシニヨウ駅の前では早朝から質素なフリーマーケットが展開されており、衣類や雑貨はまだしも誰が買うのだろうといぶかってしまうようなガラクタがシートの上に颯爽と広げられていた。青い蒸気機関車が展示されてあるキシニヨウ駅は駅舎正面の造りは重厚であるが、列車の本数が少ないために閑散としている様子であった。

駅を出て大通りを目指していく道すがらの中央市場で原住民が織り成す人間模様を垣間見た後、団地に取り囲まれているマザラキ教会の外観を窺がうことにした。1752年に建立されたこの教会は小さいながらも人々の信仰を集めており、多くの信者が出入りしていたので内部への侵入を憚られてしまった。

シュテファン・チェル・マレ大通りに戻り、マクドナルドで飯を食った際に店内のトイレを使用させていただくためにはレシートに記載されている4桁の暗証番号が必要であることを学び、今後の排便活動のためにはレシートをぞんざいに扱うことは出来ないと肝に銘じた後、大通り沿いの見物に精を出すことにした。ぱっとしない外観のオペラハウスと警備の手薄そうな大統領府の通りを挟んで反対側にシュテファン・チェル・マレ公園が人々の憩いの場所になっているようだったので憩いのおすそ分けにあずかることにした。尚、シュテファンはモルドヴァ建国の父であり、公園の入口には御仁の記念碑も建っているのだ。

キシニヨウ観光のハイライトは勝利の門の裏側の公園に鎮座するキシニヨウ大聖堂であろう。また、向かいの市庁舎にはためく国旗はルーマニアの旗にモルドヴァの国章を配したものでこの国はロシアよりもむしろルーマニアの影響を受けていることを容易に伺い知ることが出来るのだ。

5月25日(金)

早朝ホテルBella Donnaをチェックアウトすると修復が進んでいる聖ティロン大聖堂のネギ坊主を横目にキシニヨウ駅へと急いだ。7:22発ウクライナのオデッサ行き国際列車は古い車両に木造のシートが設えられており、5時間もの長時間にわたって硬い椅子とケツの筋肉の格闘が繰り返されることとなるのだった。

途中駅に到着した車内でモルドヴァの出国とウクライナへの入国がつつがなく果たされると列車は国際列車から国内列車に成り下がってしまった。ウクライナの入国の手続きをした駅ではどこで手に入れたのか大ジョッキのビールを手にした無頼の輩が乗り込んで来て私の前の席に腰掛けやがった。奴は最初は隣のおばちゃんにやたらと話しかけており、おばちゃんも体よくあしらっていたのだが、それでも飽き足らずついには私が読んでいた本にまで手を掛けてきた。本の内容が奴の興味に合致しないことを思い知ると程なくして黒海沿岸の港町オデッサに到着した。

1年を通して太陽に恵まれ温暖な気候で知られるオデッサであるが、この日は風も強く気温も低かったため、歯の根が合わないほど震えながら港を目指して歩いて行った。キシニヨウより数倍大きく洗練された感のあるオデッサの並木道の街路樹は異様な程高く大きく、巨大な柱や屋根となって道路を覆っているかのようだった。

港に近づくにつれて豪華な博物館の建物が増え始め、それらの前段を飾る彫刻の手足も複雑に絡み合っていた。町行く女性は例外なくウクライナ美人の遺伝子を受け継いでおり、1995年~1996年頃に富山県のパナソニック砺波の半導体工場で長時間ミーティングの憂き目に遭い、飛行機の最終便に乗れなかったときに入った高岡の飲み屋に出稼ぎに来ているウクライナギャルと比べても決して遜色のないものであった。当時はソ連崩壊後ウクライナが独立して間もない情勢が不安定な時期であったにもかかわらず、日本語をまったく理解しないウクライナホステスはその美貌だけで接客をやり遂げるという離れ業を演じていたのだった。

オデッサ最大の観光名所としてポチョムキンの階段が港へと続いている。この階段はソビエト映画史上最高と言われる、エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」(1925年)の舞台となった場所である。何でも1905年の第一次ロシア革命の最中に起こったポチョムキン号の水兵蜂起事件が映画化されたものであり、このオデッサの階段のシーンは目を覆うほど残酷極まりないものであるそうだ。

強風吹きすさぶオデッサ港のターミナルにはCOSTA MEDITERRANEAという豪華客船が停泊していたのだが、ここから黒海を縦断してイスタンブール、はたまたギリシャに抜ける国際フェリーも運航されているのだ。

ポチョムキンの階段の脇に電話ボックスを長くしたようなちゃちなケーブルカーが安値で運行されていたのだが、それに乗らずに階段を駆け上がってエカテリーナII世像が見下ろす広場に到着した。「黒海の真珠」との異名をとる港町オデッサであるが、現在の形に整えたのはエカテリーナII世で、彼女はサンクト・ペテルブルグを建設したピョートル大帝にならい、「黒海に向かって開かれたロシアの窓」として町を築いたのだ。

エカテリーナII世像のふもとで予約しておいたOdessa Apartments On Ekateriniskaya Streetのスタッフを電話で呼びつけると車で迎えに来たので場所が分かりにくいアパートの小部屋に何とかしけこむことに成功した。今日は寒かったのでとあるステーキ屋で肉を食らってとっとと休ませていただくことにした。

5月26日(土)

今日は朝からオデッサ本来のこの時期の温暖な気候を取り戻していたので気持ち良く散策に繰り出すことにした。ウィーンの建築家によって設計され、1884年~1887年にかけて建てられたオペラ・バレエ劇場の周辺では何がしかの婚礼の儀式が行われており、豪華な建物の外観に彩りを添えていた。

博物館が林立する広場ではEURO2012のサッカー系のイベントが行われており、リフティング青少年集団やパッとしないゆるキャラが格好の被写体として広場の主役に躍り出ていた。

巨大なカテドラル前の公園では派手な色の鞍を付けられた馬がいたいけな少女の乗馬を心待ちにしているように辛抱強く待機しており、オデッサののどかな休日の一シーンとなっていた。

横浜と姉妹都市という契りを結んでいるオデッサには「横浜」や「神戸」といった日本食のレストランも数多いのだが、私という奇人を輩出した日本では番付の高い港町であるはずの「門司」という名を冠した店がないことに憤りを覚えながらもさらに港の風情を満喫していた。

鷹や孔雀を記念写真の道具として操っている商売人を横目にプリモールスキー並木道を歩いているとのど自慢系のアコーディオンを弾いているおっさんの伴奏に合わせて民謡を歌っている美人合唱団の歌声にしばし聞き惚れていた。

夕刻になると歩行者天国のデリバスィフスカ通りに面するゴールサト公園のステージで簡易オーケストラによるコンサートが開催され、衝動を押さえきれない老若男女はリズムに合わせてついついダンスに興じながらオデッサは夕闇に包まれていくのであった。

夕暮れ時にオデッサ駅に移動し、チケット売り場で移動手段兼宿泊施設であるキエフ行きの夜行列車のチケットを所望したのだが、何とすべて売り切れということで思わず「キエ~!」という奇声を発しそうになった。仕方なく駅に近いビジネスホテル風の☆☆☆☆ホテルであるBlack Sea Hotelに飛び込むと一番安い部屋で日本円で¥5000程度の505グリブナ(rpH)ということだったので迷わずチェックインすることにした。

気を取り直してオデッサ駅に舞い戻り、明日の8:40発のキエフ行きの列車のチケットを買おうとしたのだが、これもすべて売り切れということでキエ入りそうな声で「そ~ですか~」と言って退散するしかなかったのであった。

5月27日(日)

列車のチケットの購入に失敗し、バックアップとして夕方発のキエフ行きの飛行機を押さえていたのでウクライナに来て浮かないな~という重石を背負った雰囲気を引きずりながら時間潰し観光を余儀なくされた。

町中では何らかのビューティコンテストが行われており、リムジンで乗りつけたウエディング系の衣装を身にまとった美女達が次々にレッドカーペットを歩きながら自己満足に浸っていた。

オデッサには外壁を彫刻で飾ったアール・ヌーヴォー建築がたくさんあり、見る者を飽きさせない町造りがなされているのだが、一方で緑濃き公園内では少年の心身を鍛えるフィールドアスレチック系のファシリティも充実しており、子供達はレンジャーさながらのアクティビティに興じているのだった。

思いがけず長居してしまったオデッサを後にすべくバスで空港に移動し、18:20発ウクライナ国際航空とのコードシェア便であるAEPO CIBITが運行するVV18便に乗り込んだ。1時間程のフライトでウクライナの首都であるキエフのボリスビル空港に到着すると空港バスでキエフ駅に向かった。さらに地下鉄に乗り換えてドニエプル川の中州の島に位置するビドロパルク駅に到着したのは明るさがまだ残る午後9時過ぎくらいの時間であったろうか?

遊興地帯とお見受けするビドロパルク駅周辺は週末の喧騒さめやらず、ディスコティックなサウンドが高らかに鳴り響き、多くの人々が遅くまで飲み食いに興じていた。パルクというだけあり、島の大部分は緑溢れる公園で島の南部から宿泊予定のホテルのある対岸に渡ることが出来ると高をくくっていたのだが、鬱蒼とした森林地帯を犬に吼えられながら歩き回っても島と対岸を結ぶ橋を見つけることが出来ず、1時間程むなしく島内を彷徨って結局ビドロパルク駅に戻ってくる失態を演じてしまった。不本意ながら地下鉄で橋を渡り、駅に降りて30分程歩くとついに予約しておいた☆☆☆ホテル・スラヴィティッチに到着したのは午後11時近くになってしまい、浮かない気分を引きずったままチェックインとなったのだった。

5月28日(月)

早朝旧ソ連時代に建設されたはずの大型ホテルであるスラヴィティッチの8階の部屋から周囲を見渡すと対岸に立ちはだかる像や塔の様子が朝靄越しに見て取れた。ホテルを出て地下鉄駅に向かう道すがらのドニエプル川沿いを歩いていると静かな水面に美しい緑の景色が写し出されていた。

地下鉄1号線に乗ってキエフの市街地である対岸に渡り、アルセリナという駅で降りて南に向かって歩いていると戦没者慰霊碑の向こうに数多くの修道院系の金色の屋根が姿を見せ始めた。

ドニエブル川沿いの深い緑の中に広がる、東スラヴで最も長い歴史を持つ修道院はペチェールスカ大修道院(rpH50、写撮rpH100、世界遺産)でロシア正教文化の源泉であり、ロシア正教ウクライナ支部の総本山となっている聖地である。巨大な壁画を横目に入口の門をくぐったのだが、門の中には聖三位一体教会が内蔵されており、その先には工事中の大鐘楼と豪華絢爛なウスペンスキー大聖堂が光り輝いていた。

広い敷地内には通路も多く、修道院南側の地下洞窟にある地下墓地を目指したのだが、門が閉ざされていたので北側の教会や博物館が集まっているエリアを中心に散策することにした。19世紀後半に建てられた比較的新しい教会であるトラペスナ教会の内部では天井画の下の祭壇の前で信者が参集し、何らかの礼拝が行われていた。

展示場となっているいくつかの小部屋の中にはこの修道院にまつわるはずの金の装飾品や司祭グッズが写撮代を支払った者のみ撮影出来る特典つきで丁重に展示されているのであった。

大修道院内のほとんどの教会が18世紀にウクライナ・バロック様式で立て直されているのに対して、三位一体教会のみが12世紀の姿を留めているとのことなので内部にまで足を踏み入れてみることにした。内部の造りは狭いものの、壁を埋め尽くすフレスコ画と木製のイコノスタースは圧倒的な迫力を醸し出していた。

北側の門の中に造られた教会はウスィフスヴィヤツカ教会で、階段を上って中に入ると中央ドームからキリストに見下される内装が施されていた。

ペチェールスカ大修道院でキエフ住民のキリスト教への帰依具合の確認が取れたところでドニエプル川沿いの大通りを北に向かって歩いてみることにした。風光明媚な川には多くの橋が架かっており、船着場には大きな遊覧船が停泊している様子も見受けられた。

マサよ、君は原発事故後の放射能漏れ対策としてロシアの伝統民芸品のテクノロジーの応用を検討したことがあるか!?

というわけで、ソ連時代の1986年にレベル7の原発事故を起こしたチェルノブイリに乗り込むには特別なツアーの手配が必要であるのだが、キエフ市内にはチェルノブイリ博物館が開館し、原発事故の悲劇を後世に伝えようとしているので見学を試みることにした。しかし、この博物館は日曜日と毎月最終月曜が休館日ということだったので、事故後に石棺によって封じ込めた放射能が30年近くの時を経てコンクリートの経年劣化により漏れ出す恐れに対応すべく、新たな石棺をマトリョーシカ状に何層も覆いかぶせるアイディアを館長と議論するには至らなかったのだ。

低地の川沿いから山の手にあるウラジーミルの丘に手軽なケーブルカーで移動すると目の前に鮮やかな青で彩色された聖ミハイル修道院が姿を現した。1713年にウクライナ、バロック様式で建てられたこの聖堂は付属の鐘楼とともにソ連時代の1936年に破壊されてしまったのだが、1997年から1998年に修復されて今に至っているのである。

丘の上で瞑想をしながらも勧誘のチラシを配っているヨガ軍団をかわして、裏の方からは地味にしか見えないウラジーミル聖公像の背中で哀愁を感じることにした。ウラジーミル公は遊牧民との戦いに勝利し、対外的にも有力となったキエフ・ルーシの統制を強めるために988年にギリシア正教を国教に定めた偉人として崇められているのだ。

聖ミハイル修道院を背景に広場に立つポフダン・フメリニツキーというおっさん扮するコサックの英雄像を通り過ぎて、1037年に建てられた現存するキエフ最古の教会であるソフィア大聖堂(rpH50、世界遺産)までやってきた。現在の姿は17世紀後半にウクライナ・バロック様式で再建されたものだが、写真撮影禁止の内装は11世紀のものが残されている。壁面は豪華なフレスコ画とモザイクで埋め尽くされているのだが、とりわけ中央および祭壇上のドームを占めている巨大なモザイクのキリストと聖母マリアの迫力に圧倒されることになる。

エレガントな装飾が眩しいアンドレイ教会がキエフで一番チャーミングといわれているアンドレイ坂の頂上にそびえている。この教会はロシアの女帝エカテリーナII世のキエフ来訪を記念して1749年から建設が始められたもので、設計はエルミタージュ宮殿など多くのバロック建築を手がけたイタリア人ラストゥレリによるものである。そのためアンドレイ坂の周辺ではサンクトペテルブルグの雰囲気をそこはかとなく感じることが出来るのだ。

キエフの歴史が凝縮されたウラジーミル通りを下っていると村神と名乗る日本食系居酒屋チェーン店とその配達車に遭遇した。その先にはオペラ・バレエ劇場がウクライナの文化の中心であるかのように鎮座しており、往時のキエフの正面玄関であった黄金の門が彩を添えている。

聖人ウラジーミルにちなんだファシリティのハイライトであるかのように1882年に完成した比較的新しいウラジーミル聖堂が黄色光りしていたので中に入り、アール・ヌーヴォーのフレスコ画に見入っていたのだが、写真撮影にはrpH50もの大金の支払いを求められるので心のフィルムにその光景を刻み付けるに留めておいた。

1834年にウクライナで2番目に開校されたキエフ大学があたかも血塗られたかのような色で彩色されているのだが、これはロシアのニコライI世が徴兵拒否運動を起こした学生たちへの罰としてニコリともせずに建物を血の色で塗りつぶすよう命令した嫌がらせの名残となっているといわれている。

キエフで一番にぎやかなフレシチャーティク大通りは月曜日なのに歩行者天国になっており、何がしかのイベントの前触れであるかのように生ビールのサーバーが道路脇のテントに続々と運び込まれていた。多くの噴水を湛えたネザレージュノスティ(独立)広場にそびえ立つ長身のオブジェの麓ではイベントの設営が粛々と行われていたのだが、近々ウクライナとポーランドで開催されるEURO2012のサッカーイベントにまつわるものではないかと推測された。

5月29日(火)

早朝ホテル・スラヴィティッチをチェックアウトすると徒歩と地下鉄でキエフ駅に向かった。キエフ駅から空港バスでボリスビル空港に移動すると11:10発ウクライナ国際航空が運行するPS401便に搭乗し、午後1時頃にはフランクフルト国際空港に到着した。引き続き20:45発NH210に乗り換え、帰国の途についた。

5月30日(水)

定刻15:00に成田空港に到着し、最後のキエフで何とか浮かばれた実感を胸に流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥60,790、Carpatair = EUR214.48、ウクライナ航空 = $419.4

総宿泊費 Lei1,317、rpH1,080.17、¥26,357

総ドイツ鉄道代 EUR20

総モルドヴァバス代 Lei3 (Lei1 = ¥6.7)

総モルドヴァ鉄道代 Lei106

総ウクライナバス代 rpH52.5 (rpH1 = ¥10)

総キエフ地下鉄代 rpH10

総キエフケーブルカー代 rpH1.5

協力 ANA、Carpatair、ウクライナ航空、Hotels.com

バラ咲くブルガリアとルーマニアドラキュラツアー

前回のエチオピアツアーで患ったお腹のグルグル感が未だに解消されていないので腸内の調整が必要であると考えた時にふと善玉菌の存在が脳内をよぎってしまった。善玉菌は主に明治ブルガリアヨーグルトに含まれているそうなので世界に冠たるヨーグルト立国であるはずのブルガリア方面へのツアーが企画され、即座に実行に移されることになったのだ。

2012年5月2日(水)

東欧へのアクセスが便利なイスタンブールをハブ空港とするトルコ航空TK51便は到着機材の遅れのため1時間成田からの出発が遅れてしまったものの無事に20:00発TK1029便に乗り継ぐことが出来、ブルガリアの首都ソフィア・ヴラジデブナ国際空港に夜の10時頃到着した。空港バスに乗り込み、30分程走って到着した先はどうやらソフィア大学の近くだったのだが、この大学の日本名が上智大学であるのかどうかは知る由も無かった。

ともかく予約している宿を目指して歩き始めたのだが、暗闇からブルガリア出身力士の琴欧洲のような大関が現れていきなり寄り切られてはたまらないので周囲への警戒を怠らなかった。多少人通りのある町中にはアルファベットではなくロシア語のようなキリル文字が溢れていたので多少不安感を感じていたものの日付が変わる前に何とかagodaに予約させておいたMaxim Boutique Hotelにしけ込むことに成功した。

5月3日(木)

ブルガリアのホテルに居ながらにして朝食にヨーグルトが供されない状況に納得出来ないままソフィアの町中に出てみると道行く女性の何人かはソフィア・ローレンやソフィー・マルソーのようなソフィスティケートされたレディだったのでとりあえず腹の虫を抑えることは出来たのだ。

ソフィア市街の南西にあるオフチャ・クベル・バスターミナルまで辿り着くと10:20発のバスに乗って人里離れた深い山々に囲まれたブルガリア最大の見所に向かった。3時間もの時間をかけて到着した目的地はブルガリア正教の総本山ともいうべきリラの僧院(世界遺産)で壁の向こうにはこの世のものとは思えない別世界が広がっていた。

リラの僧院はもともと10世紀に建立されたのだが、現在の形になったのは14世紀でその後ブルガリアは約500年間にわたってオスマン朝の支配下に入ることになった。その間はキリスト教の信仰はもちろんのこと、ブルガリア語の書物を読むことも制限されていたのだが、この僧院だけはそれらが黙認されていたという。

僧院の中心には4階建ての外陣に囲まれて建っている聖母誕生教会が君臨している。白と黒の横縞模様が眩しいアーチをくぐると外壁の壁面と天井に隙間無く描かれたフレスコ画に圧倒されることになる。写真撮影厳禁の内部にはイコノタスという幅が10mもある立派な壁が立ちはだかり、その壁面には精緻な彫刻が施され、さらに金箔で彩られている豪華版であった。

リラの僧院は1833年の大火で古い建物はほとんど焼け、その後復旧された代物であるが、聖母誕生教会の横に寄り添っているフレリョの塔は消失を免れ、14世紀に建てられた当時のままの姿で残っている。尚、塔の1階の土産物屋は14世紀の竣工当時から商売を営んでいたのかどうかは定かではなかった。

リラの僧院を退院して、来た時と同じバスに乗り込み、ソフィア市街に帰り着いたのは午後6時くらいの時間帯であった。トランヴァイに乗って町の中心部に戻ると東西の文化が混在した独特な雰囲気の町並みを眺めながら歩いていた。

バルカン半島で最も美しいといわれる教会であるアレクサンダル・ネフスキー寺院が威厳のあるたたずまいで12の黄金のドームを光らせていたので収容人員5000人を誇る内部に入ってみることにした。この寺院はブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争(1877年~1878年)で戦死した約20万人のロシア人兵士を慰霊する目的で建てられたもので一番豪華な中央の祭壇はロシアに捧げられているのだ。

アレクサンダル・ネフシキー寺院とは対照的な質素な教会がひっそりと佇んでいる。ソフィアという町の名はブルガリアの栄枯盛衰を見守ってきたこの聖ソフィア教会に由来するもので、ソフィアはギリシア語で「知恵」を意味するという。尚、その中で最上級のものを自画自賛する上智がどういった位置づけにあるのかは四谷に行かないと分からないであろう。

5月4日(金)

早朝よりソフィア中心部の教会・遺跡巡りに精を出すことにした。ソフィアに現存する最古の教会は4世紀にローマ帝国によって建てられた聖ゲオルギ教会で高級ホテルのシェラトンや博物館の建物に守られるようにしてかろうじてその威厳を保っているようだった。

地下に目を移すと旧共産党本部での地下鉄工事の際に偶然発見された古代の城塞都市セルディカの遺跡がひっそりと眠っている。石造りのブルガリア正教の教会である聖ネデリャ教会は朝の出勤前の淑女がロウソクを捧げ、内部はおびただしい数の灯されたロウソクで壁に描かれたイコンを照らし出している。

1566年にオスマン朝最高の建築家といわれるミマール・スィナンによって設計されたイスラム寺院はバーニャ・バシ・ジャーミヤである。トルコ語で「風呂」を意味するバーニャの名の通り、このモスクの裏の公園には飲用の温泉が湧き出ており、ペットボトルで汲みに来ている善良な市民の姿も見受けられた。

ブルガリアくんだりまで来てヨーグルトに関する成果が上がっていないことを遺憾に思ったので、ヨーグルトほど知られていないが、実は世界市場の7割を占めるバラの香料の産地であるブルガリア中部のバラの谷へのツアーを強行することにした。ソフィア中央駅隣の中央バスターミナルから10:30発のバスに乗り、3時間以上かけてカザンラクというバラの谷の中心地までやって来た。

早速セヴトポリス広場の近くにあるインフォメーションで地図を入手すると町の中心から少し離れた場所に位置するバラ博物館を見学することにした。館内にはバラをばらばらにして絞る機械や香油のサンプルが展示されており、バラの香油が非常に貴重な産物であることが容易に理解出来る展示内容になっていた。

見学の途中からバラの香油にはリラックス効果はあるが痩身効果が無いことを体現しているおばちゃんガイドが登場し、英語での解説が加えられた。琴欧洲より横幅の広いおばちゃんの言うことにはバラの花が咲くのは5月中旬からで今はまだ時期尚早でやはり「バラ祭り」の開催される6月の最初の週がベストであるとのことであった。館内にはバラ祭りや歴代バラの女王の写真も展示されているのだが、バラの精油を1kg得るためには3000kgものバラを琴欧洲より強い握力で絞らなくてはならないので必然的に逞しくなるのはいたしかたないと思われた。

バラの満開の時期にはまだ早すぎたものの、バラ博物館を擁する研究所の敷地内のビニールハウスにて数種類のバラが試験栽培されていたので水やりをしているおっさんの許可を得て中に入ってみることにした。尚、先ほどのおばちゃんガイドの説明を思い返すとブルガリアで栽培される芳香用のバラは通常見かける観賞用のバラよりも小ぶりだが香りが強いということだったのだが、ハウスで咲いているバラエティに富んだ数種類のバラもそのような特性を持ったものであった。

結局カザンラクでの滞在は2時間程度だったのだが、バラの香水や石鹸等を入手して意気揚々と午後4時発のソフィア行きのバスに乗り込んだ。7時過ぎに若干治安の怪しそうな雰囲気を漂わせているソフィア駅で夜行列車の切符を購入すると移動手段兼宿泊施設となるモスクワ行きの寝台車に乗り込んだ。

ソフィアからブカレストまでの乗車券+寝台車の料金はわずか61レヴァ(日本円で¥3000程度)と大変お得でしかも空いていたので4つのベッドがあるコンパートメントを占拠してくつろいでいると隣のコンパートメントに居住しているおばちゃん車掌からシーツとタオルを差し入れていただいた。そそくさとベッドメーキングを済ませると列車は定刻午後8時半に出発となった。

5月5日(土)

早朝3時過ぎにルーマニアとの国境駅であるルセに到着し、車内でパスポートに出国のスタンプを押してもらうと次の駅であるCIURGIUでは乗り込んできた制服姿のおっさんにパスポートを預けてルーマニア入国の手続きをしていただいた。

列車は30分程遅れたが、午前7時前にはルーマニアの首都であるブカレストの北駅に到着した。車のキーを見せながら忍び寄る怪しい白タクの運転手の勧誘をかわして駅構内のマクドナルドで朝飯を食うことにした。すでに駅のATMでルーマニアの通貨であるレイ(RON)を引き出していたのでカウンターでエッグマックマフィンとコーヒーを発注したのだが、店員はハッシュポテト付きのお得なメニューであるセットがRON10なのにそれを薦めることなく、単品の合計でRON11.6を請求する気の利かなさを見せていた。

ブカレストの北約170kmの位置に中世の町並みを残した美しい古都が血の気の多い観光客を待ち構えているので8:25発のインターシティの列車に乗ってブラショフという町までやって来た。早速駅から数キロ離れた中心街まで進出するとカフェやレストランが立ち並ぶ歩行者天国には中世のいでたちをした警備兵が練り歩き、中央公園では新郎新婦系の男女がマサに写真に撮られようとしているところだった。

ブラショフの南西26kmの所にとあるオカルト系の城が不気味にそびえ建っているという話を聞いていたのでバスに乗って近寄ってみることにした。バスで40分程走ると田舎町の中ににわかに日本では水谷豊のデビュー作として知られるバンパイアやドラキュラの看板が目に付くようになってきた。

吸血鬼ドラキュラの居城のモデルとして知られるブラン城(RON25)は岩山の上にそびえる典型的な中世の城砦である。この城は1377年にドイツ商人がワラキア平原から入ってくるオスマン朝の兵士をいち早く発見するために築いたものであるが、14世紀末にはワラキア公ヴラドI世がここを居城とした。ヴラドI世の孫がドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュで、奴はオスマン朝軍の兵士を杭で串刺しにして並べた残虐さを持つことから串刺し公との異名をとっている。尚、ツェペシュはルーマニア語で串刺しを意味するという。

何はともあれ、にんにくや十字架等のアンチドラキュラグッズも持たずに入城させていただいたのだが、城内はいたって普通の中世の居住空間で最上階の展示室に取って付けたようなドラキュラに関する説明パネルが展示されていたのだった。

ブラン城の入口付近は一大土産物屋地帯となっており、長身のバンパイアが客寄せしている店先にはドラキュラ人面マグカップ等のミーハー土産だけでなく、本格的なチーズも展示販売されていた。

ドラキュラに遭遇したショックでぶらんと首をうなだれながらブラン城を後にしてブラショフの中心街に戻ってきた。スファトゥルイ広場は相変わらず多くの人々の憩いの場所になっており、広場を見下ろす高さ65mの黒の教会はトランシルヴァニア地方最大の後期ゴシック様式の教会である。14世紀後半から15世紀初頭まで、約80年の歳月をかけて建設されたこの教会の名前の由来は、1689年にハプスブルグ軍の攻撃に遭い外壁が黒こげになってしまったことからきているとのことであった。

5月6日(日)

早朝ブラショフを後にすると7:30発ブダペスト行きの列車に乗り、さらに128km走ってルーマニアの中心に位置する歴史都市シギショアラに到着した。一見するとしなびた雰囲気を湛えているシギショアラ駅を出て白壁にドーム状の正教会を見上げながら歴史地区を目指した。

14世紀に建てられた時計塔を中心とした旧市街は、中世の雰囲気を色濃く残しており、世界文化遺産にも登録されているのだが、旧市街は高台にあるため、階段を登っていくにつれてその時計塔の威容が徐々に迫ってくるのであった。

とりあえずATM番犬を刺激しないようにいくらかの現金を出金すると歴史地区を一回りしてみることにした。カラフルな建物が多い旧市街には新旧の教会が混在しており、建物の業態のほとんどはレストラン、土産物屋、宿泊施設といった観光系のファシリティに特化していた。また、旧市街の南側には古びた屋根付き木造階段が山上教会まで続いており、最上段には素朴なギター弾きがこれ見よがしの小銭入れと化したギターケースを空けて観光客を待ち受けていた。

マサよ、君はドラキュラは夜は生き血を吸っているが、昼間に吸っているものは何であるのか、その現場を押さえたことがあるか!?

というわけで、シギショアラの出身者で最もよく知られている人物はブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったヴラド・ツェペシュで彼の生家は今なおレストランとして繁盛しているのでここでブランチをすることにした。この店のプロモーション役として現役のドラキュラがテラス席で客寄せに励んでいるのだが、どうも思ったほどの集客の成果が上がっていないようであった。夜は処女の生き血を求めて彷徨うドラキュラであるが、手持ち無沙汰の昼間の時間はタバコを吸って気を紛らわせているというドラキュラファンを幻滅に導く愚行が多くの観光客の眼前で行われていたのだった。

シギショアラのシンボルである時計塔(RON10)は展望台兼歴史博物館になっているので登ってみることにした。博物館の展示品は中世の備品や医療機器等珍しい物もいくつか見られたのだが、時計を動かす仕掛けやそれにまつわる怪しい人形類がゆるキャラのような役割を演じているようだった。

塔の展望台から周囲を見渡すとこの町はヨーロッパでよく見られる茶色い屋根の建物で埋め尽くされており、それを取り囲むように広がる緑の大地と非常にマッチしていることがよくわかるのだ。

地上に降りて再び歴史地区の内外を散策してみたのだが、日曜日ということもあり、町の各所にあるバーはどこも盛況で皆中世の雰囲気に包まれながら酒を酌み交わして歓談していたのだった。

agodaに予約させておいた旧市街の中心の広場に面したカサ・ワグナーという19世紀に建てられた家を改装したアンティークなホテルにすでにチェックインしていたのだが、夕飯は義理でこのホテルのレストランでご馳走になることにした。ルーマニア料理として有名なチョルバ・デ・ブイというチキンスープとサルマーレというロールキャベツと付け合せにママリガというトウモロコシの粉を蒸したものをいただいたのだが、値段が安いので非常にコストパフォーマンスが高かったのだ。

日が暮れると旧市街に灯がともり、見事なライトアップの景観を現出させることになる。待ちに待ったドラキュラのゴールデンタイムが始まるのかと戦々恐々としていたのだが、ここのドラキュラは民間人と同じライフサイクルのためかすでに撤収されているご様子だったのだ。

5月7日(月)

9:09発の列車に乗って294kmもの距離を5時間程度の時間をかけて午後2時過ぎにブカレスト北駅に戻ってきた。駅構内のマクドナルドでビッグマックセットを食った後、独裁者チャウシェスクにより造られた近代的な町の散策に出ることにした。尚、世界史的な観点であればチャウシェスクがルーマニアを支配した独裁者になるのだが、日本人に取ってはビート・たけしをスターダムに押し上げた伝説のギャグである「コマネチ」が最も馴染み深いルーマニアの産物であると言っても過言ではないであろう。

ブカレストの大通り沿いでは旧共産党の遺物であるはずの巨大なビルが廃墟になりかけている光景を目にするのだが、全般的に巨大な建造物群が目に留まる。近代的な建築物を横目に歩いているともはや遺跡としか表現できない旧王宮跡が姿を現した。

応急処置によりかろうじて往時の面影を残している旧王宮跡(RON3)は吸血鬼ドラキュラのモデルのヴラド・ツェペシュ公が15世紀に築いた砦の跡である。内部はおよそ近代美術館への変貌を遂げようとしているかのように奇抜な絵画や彫刻が寄せ集められていた。

1989年12月の革命の舞台となった革命広場は共和国宮殿(国立美術館)アテネ音楽堂、旧共産党本部、クレツレスク教会等に取り囲まれており、その中心に血を流して自由を手に入れた犠牲者のために建てられた慰霊碑が天を指している。尚、1989年12月22日に故チャウシェスク大統領は共産党本部のテラスで大群衆を前に最後の演説をぶちかまし、その直後にヘリコプターでばっくれやがったのだ。

旧共産党員のアパートが立ち並ぶエリアにかろうじてナディア・コマネチの痕跡を見つけたのだが、それは診療所のようなファシリティとお見受けした。14歳で参加したモントリオール・オリンピックの体操で10点満点を連発した白い妖精コマネチであったが、その後は共産党独裁政権に翻弄され、チャウシェスクの次男の愛人になることを要請されたのだが、夜の床運動で金を取る自信まではなかったせいか、ついにはアメリカに亡命してしまったのだ。

故チャウシェスク大統領の野望の集大成とも言うべき未完の宮殿「国民の館」が夕日を背に巨大なシルエットを浮かび上がらせていたので遠巻きに眺めることにした。日本円にして1500億円を投じて造らせたというこの館は地上8階、地下5階、核シェルター内蔵の豪華版で、世界の官庁、宮殿などの建物の中では、米国防省のペンタゴンに次ぐ規模を誇っているのだ。マサにとてつもない財力が投入されていたわけであるが、その陰で善良な国民は飢餓を強いられていたのだった。

5月8日(火)

早朝6時過ぎにホテルをチェックアウトすると近くのバス停から空港行きの783番バスに乗り込み、1時間程でアンリ・コアンダ国際空港に到着した。10:15発TK1044便はやや遅れて出発したもののお昼過ぎにはイスタンブール国際空港に着陸した。引き続き16:55発TK50便に搭乗すると恒例のJTB旅物語トルコ8日間のツアー客に包囲されてのフライトとなった。

5月9日(水)

午前11時前に成田空港に到着し、こわばっていた体をほぐすために四肢で平行四辺形を型どる運動をしながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥116,890

総宿泊費 RON315.92、¥11,915 (RON1 = ¥24)

総ブルガリア鉄道代 Lv61 (Lv1 = ¥54)

総ブルガリアバス代 Lv55

総ブルガリアトランヴァイ代 Lv1

総ルーマニア鉄道代 RON150.7

総ルーマニアバス代 RON8.6

協力 トルコ航空、agoda

FTBスペシャル エチオピアの山間の片田舎に第2のエルサレムは実在した!!

4世紀から綿々と続くキリスト教の優等国エチオピアに第2のエルサレムが存在するという。貧困というイメージにとらわれがちなエチオピアは実は想像を超える精神世界に支えられており、その宗教的偉業をこの目で確かめるために今回は久しぶりに東アフリカの大地に戻ってくることとなったのだ。

2012年4月17日(火)

4月に更新されたアップグレードポイントを使ってビジネスクラスへの成り上がりを果たしたNH209便は定刻11:25に成田を出発し、約12時間のフライトで午後4時半過ぎにフランクフルト国際空港に到着した。そそくさとドイツへ入国したのも束の間でエチオピア航空が運航する22:05発ET707便に乗り込むと3列席に寝転がって機内で7時間の夜を過ごすこととなった。

4月18日(水)

ET707便は定刻通り午前6時過ぎにエチオピアの首都アディスアベバ国際空港に到着したのだが、すぐさまArrival ViSAを求める長い列に並ばなければならなかった。約1時間で無事に観光VISAを入手し、晴れてエチオピアへの入国を成し遂げると手持ちの50ユーロを現地通貨のブルに両替すべく両替所で手続きをすると1135ブルもの大金を渡されたため、思わずブルってしまった。

空港のビルを出て市街地への交通手段を物色していると黄色や青の車体のタクシーを尻目に安そうなミニバスが走り回っていたのでアディスアベバの銀座と言われるピアッサに行く便に乗り込みエチオピア人と一緒に空港を後にした。多少ボラれているのは確実であるが、ボラれるのが気にならないほど安いミニバスがピアッサに到着すると、そこには銀座と呼ぶには気が引けるほどの混沌の世界が広がっていた。

排気ガスと埃と小便臭が漂う目抜き通りには路上就寝者が散見され、主要産業であるはずの靴磨きや物乞いからひっきりなしに手が差し伸べられる状況にインドやバングラデシュに匹敵するカルチャーショックを覚えたのだが、2300mを超える高地ではまとわりつくような暑さを感じなかったため、気が付くとすんなり現地に溶け込んでしまっていた。

ピアッサの上空にそびえるメネリクII世像の背後に聖ギオルギス教会が鎮座していたので敷地を歩いていると原住民が近づいて来てチケット売り場のご案内等の話を始めたので用心のため、その場を退散することにした。

高台にある聖ギオルギス教会の敷地を出て道を下っているとスカッと爽やかとは思えない巨大なコカコーラの廃れたキオスクに遭遇した。建設中の中層ビルの足場は木材で組まれており、その下をロバ使いに忠誠を誓っているはずのロバの集団が整然と歩いていた。チャーチル通りという目抜き通りを下っていると何故か事故車の展示会場のような催し物が目に付いたのだが、これはとある保険会社の恐怖広告であることが確認された。

国立劇場そばの変な形のライオン像を一瞥し、さらに歩いているとバスターミナルを併設したラガール駅に到着した。駅構内は閑散としており、のどかな線路周辺の景色は滅多に列車がやってこない事実を如実に物語っていた。

格安ホテル予約agodaでエチオピアのホテルを物色した際にアディスアベバのヒル・シェラトンといった高級ホテルしかヒットしなかったので今回はANAのマイルキャンペーンもやっているHotels.comで☆☆☆のダム・ホテルを予約していたのだが、表示された地図が実際の場所とは異なっていたのでしばらく町中を彷徨う羽目に陥ってしまった。町中でヤギを放牧しているおじさんに聞くとタクシーで行けと言われたのだが、方向感覚がかなり醸成されてきたので引き続き歩を進めることにした。昼過ぎに何とかダム・ホテルを探し当てることが出来たので近くのスーパーマーケットで買ったビールを痛飲するとダムの底を目指すように一気に眠りに落ちてしまった。

4月19日(木)

目覚ましを早朝4時半にセットしていたにもかかわらず4時前に覚醒すると昨夜は姿を現さなかった無線LANのアンテナ表示がかろうじて1本立っていたのでネットで所用を済ませると5時前にフロントギャルをたたき起こしてチェックアウトの手続きをしていただいた。空港までタクシーの手配をしなければならないのだが、電話が繋がらないようで「何で昨日のうちに言ってくれないのよ」という不満を聞き流しているうちに門番のおじさんが首尾よくタクシーを調達してきた。

空港のセキュリティは厳重で搭乗者であろうとも検問で身分証明書と航空券の情報を提示しないと空港ビルにさえ入れない仕組みになっていた。ET124便は定刻7:00にアディスアベバ空港を離陸すると、バスでは約2日かかるところをわずか1時間のフライトでエチオピア第3の町であるゴンダールに到着した。空港からゴンダールの町まではそんなに距離はないだろうと高をくくって歩き始めたのは良いのだが、道行くタクシーからゴンダールまでは24kmあるぜ!と忠告を受けたため、近隣の町でミニバスを拾うことにした。

1636年にファシリデス王によってエチオピアの首都と定められてから1864年までの2世紀にわたって首都であったゴンダールに到着したのは10時を回った頃であったろうか?早速最大の見所であり世界文化遺産に登録されているゴンダール城(100B)の見学になだれこむこととなった。

ゴンダール城内には標高2300mのファシルケビの丘に建てられた6つの城と12ヶ所の城門が残されており、アフリカのような文明とは程遠い地域に中世ヨーロッパと紛う城塞があったため、後世になって「不思議の城」と呼ばれるようになったという。城はポルトガル・フランス様式を取り入れた建築で、はっきりとはしていないが、インドの建築家により建造されたとも言われている。

ゴンダール王朝を治めた王たちは開祖のファシリデス王を始め、ヨハンネスI世、イヤスI世、ダーウィットIII世等、何世代かに渡るのだが、それぞれの王は先代の宮殿を使用することはなく、自分の趣味に合わせた施設や宮殿を建設したためにこの地に多くの城が残されているのだ。

尚、1941年にゴンダール城を占拠していたイタリア軍を追い出すためにイギリス軍が爆弾を落としやがったためにほとんどの城は廃墟となったのだが、4つの丸い塔が印象的なファシリデス王の城だけは無傷で原型をとどめているのである。

正午を回ったところでゴンダール城の見学を切り上げるとHotels.comの検索にもヒットしなかったゴンダールのホテルを物色するために町中を練り歩くこととなった。この町にはミニバスの他に三輪車のトクトクも走り回っており、何となくアジアの風情も感じさせられるのだが、みすぼらし系の制服を着た小学生は皆元気な笑顔にあふれていた。

結局ゴンダール城の近くのLODGE DU CHATEAUが何となく雰囲気が良さげだったので$35を支払ってしけ込むことにした。当宿の中庭の木にはカラフルな鳥たちが代わる代わる姿を現し、そのさえずりに癒されながら午後のひと時を過ごさせていただいた。

体力も回復したところでゴンダールにある44の聖堂のうち、1800年代の南スーダンからのイスラム勢力との争いにも屈せず唯一残ったオリジナルの教会であるダブラ・ブラハン・セラシエ教会(50B)に礼拝に行くことにした。17世紀、イヤス王により建立されたエチオピアで最も有名なこの教会の外観は質素であるが、聖堂の上の十字架はゴンダールの十字架と呼ばれている由緒正しいものである。

教会内部全面を彩る壁画はオリジナルの色彩のまま残っており、天井に無数に描かれたエチオピアの天使は目が大きく顔の横に羽が生えている。体がない理由はこの天使が聖ヨハネの象徴であるからだ。イエスに洗礼を受けた聖ヨハネであったが、美しい娘サロメが養父ヘロデ王に踊りの報酬として聖ヨハネの首を願い、ヘロデ王はヨハネの首を切りやがったのだが、聖ヨハネは首を切られてもなお50日間の間、首だけで飛んで伝道活動をしたという逸話からエチオピアの天使は顔の横に羽を持っているのだ。

エチオピアの天使に見送られてダブラ・ブラハン・セラシエ教会を後にすると夕飯時が迫っていたので、ゴンダールでは高級の部類に入るはずのFour Sistersというレストランで空腹を満たすことにした。とりあえずビールとエチオピアの郷土料理を発注したのだが、付け合せのパンの色が使い古しの雑巾色であまりにも酸っぱかったので3ロールの内の1ロールしか食することが出来なかった。尚、酢のような酸味は意図的に付けられたものであり、ワッフルのようなパンの食感だけは悪くなかったと言えよう。さらにエチオピア特産のハチミツ酒がサービスで提供されたのだが、これもほろ甘い泡盛のような独特の味だったので完飲には至らなかったのだ。

4月20日(金)

夜も暗いうちからアザーンの轟音で叩き起こされると、目の前の教会からは永遠と続く祈りの声が響き始め、この国の信仰心は半端ではないことを思い知らされるに至ったのである。7時半に宿の2階のテラスでホットハチミツをなすりつけたパンケーキとエチオピアコーヒーの朝食をいただくと軽く朝の散歩と洒落込んだ。

町中は早朝礼拝の名残が残っているものの徐々に活気を見せ始め、牛やヤギも草を求めて路上を練り歩いていた。10時過ぎに宿所属の空港への送迎ワゴンに乗り込むと30分程度でゴンダール空港に到着し、予定の飛行機が早めに出発したために午後1時前には次の目的地に到着する運びとなった。

今回のツアーのハイライトであるラリベラは辺りを高山に囲まれた山村風情の田舎町であるのだが、エチオピアで最初に登録された世界文化遺産である岩窟教会群は4世紀から続くキリスト教国エチオピアのシンボルとして君臨しているのだ。

ラリベラ空港に到着すると、到着口には数々のホテルが長机の上に客引き看板を出しており、私の宿泊予定宿のLAL HotelもFree Shuttleの案内を出しながらも担当者不在の状況であった。そこで隣のホテルの兄ちゃんに問い合わせたところワゴン車に乗せられて無料でLAL Hotelまで送ってもらえるような雰囲気を漂わせながら空港を後にした。ワゴン車では観光客は私だけであとは空港に参集していた原住民が数人乗っていたのだが、兄ちゃんにLAL Hotelはツアー会社による予約なのか飛び込みなのかを聞かれたのですでに予約していると答えたところ、いきなりその車は送迎車からタクシーに変貌を遂げ70Bを払わなければならなくなってしまった。

何はともあれ30分程でホテルに到着すると受付の若者がすぐに「教会に行くのは今日かい?」と質問を投げかけ、さらにガイドを売り込もうとしたので教会巡りは明日の予定だと答えてはぐらかせておいた。とりあえず町の様子を確認するために外に出てみたのだが、町行く原住民から郷ひろみでもない私に対してひっきりなしに「ジャパン!」という声援が浴びせられるのもお約束の一つととらえていた。さらに、私の風貌にジャッキー・チェンの幻影を見出した輩は「俺と戦え!」と挑みかけてくる始末であったが、人々は総じてフレンドリーなのである。

町の頂上に唯一の銀行があったのでそこで手持ちのUS$をいくらかのエチオピアブルに両替してもらい、金銭面の不安を払拭することに成功した。また、エチオピアではエイズの感染者が多いためかHIVに対する注意を促す看板も見受けられた。青少年の娯楽は粗末なボールを使った草サッカーか路上卓球のようであるが、スマッシュを決めたときに発する「サ~!」という掛け声を教えるのは控えておいた。

岩窟教会は一枚岩を堀抜いて作られており、保護のためのブリキの屋根で覆われているため遠目からでも場所を確認することが出来るので、岩盤を登ってラリベラで一番大きい聖救世主教会を見下ろして明日の礼拝の予習とした。教会の傍では敬虔な信者が聖書を熟読しながらひっそりと佇んでいた。

原住民が住む家は教会周辺から郊外まで広く点在しているのだが、教会の頑強さとは裏腹に土レンガや泥壁で塗られたような極めて質素なものであった。また、ユーティリティも蝋燭や薪や雨水等の自然の恵みを存分に活用している様子であったのだった。

4月21日(土)

マサよ、君は巨大な岩さえもくり抜いて次々と教会を造ってしまうエチオピア正教の真髄に恐れ入ったことがあるか!?

ということで、早朝9時前にホテルを出て教会群見学のチケットオフィスで350Bを支払って4日間有効のチケットを入手すると、まずは質素なミュージアムで古い聖書と司祭の衣装、十字架等の展示品を見学させていただいた。ちなみにラリベラの由来であるが、12世紀初頭にアクスムという地からこの場所に遷都したラリベラ王が、当時聖地エルサレムへの道がイスラム教徒に占領されたことにより巡礼が困難になったため、この地に第2のエルサレムを造り上げ、その王の名を取ってラリベラと呼ばれるようになったのだ。

ラリベラの主要な岩窟教会群は第1、第2、第3グループから成るのだが、まずはチケットオフィスに一番近い第1グループの聖救世主教会から巡礼させていただくことにした。長さ33.7m、奥行き23.5m、高さ11.5mとラリベラで一番の大きさを誇る聖救世主教会は、窓に特徴があり、上部の窓はアクスム様式で下方がギリシア様式の十字架様になっている。

靴を脱いで内部に入ると絨毯越しに岩のゴツゴツ感が感じられ、暗い中で聖書を読み耽っている聖職者と中に飾られている宗教画を見ていると何人も犯すことが出来ない神聖な雰囲気がひしひしと伝わってくるのである。

狭い岩穴通路を抜けると町の信仰を集めている聖マリア教会が出現した。教会の脇には洗礼をするために使う水を貯める穴があり、片隅には観光巡礼者に十字架を売りつけようと隙を窺っている児童が目を光らせていた。

聖マリア教会を退出し、高台から観光巡礼者の集団を見送りながら第1グループ教会群の狭い通路を下っていった。数ある扉や岩窟の前では相変わらず聖職者がはべっており、彼らは観光客が通るのを気にする様子もなくお祈りや聖書の熟読に勤しんでいた。

今日は土曜日ということで、広場に町中の人が参集し、農産物や衣類、日用品等を取引するサタデー・マーケットが開催されていた。広場は大量の原住民が広げる産物でマサに足の踏み場を見つけるのも難しい程の盛況でエチオピア正教とは一味違うラリベラの一面を垣間見ることが出来た。

マーケットに程近い小道を下り、宗教画を展示販売している小屋を過ぎると崖っぷちに参集している人々の向こうに巨大な石の十字架が姿を現した。岩窟教会群第3グループ唯一の教会である聖ギオルギス教会にまつわる伝説は、ラリベラ教会群建設が終盤にさしかかっていた頃、白馬にまたがり戦いの鎧に身を包んだ聖ギオルギスがラリベラ王に望んで「私の教会はどこだろうか」と尋ねたところ、ラリベラ王は彼に最も美しい教会を建立することを約束したといわれている。

岩盤に掘られている狭い通路を通って高さ12m、奥行き12m、幅12mの正十字形の教会の入口に辿り着き、別名「ノアの方舟」と言われる聖ギオルギス教会の威厳ある外観を息を呑んで見上げていた。教会内部は柱がない彫り貫き状態となっており、常駐している司祭は手にしている十字架の角が教会のどの角に相当しているのかを説明し、積極的に写真撮影にも応じてくれたのだった。

残る第2グループの教会群を見学するために再び坂を登り、聖ガブリエル・聖ラファエル教会の入口に辿り着いたのだが、扉が閉ざされていたため、岩盤の上を歩き回って聖エマニュエル教会を見下ろす位置まで移動した。この教会は第2グループの中では最も美しいと言われており、上から見ると岩を掘り抜いて造られたのだということが良くわかるのだ。

正午になると教会群が一旦しまってしまうのだが、聖エマニュエル教会も団体巡礼者の記念写真の撮影を持って扉を閉ざしてしまった。ホテルに戻る道すがらではサタデーマーケットでの戦利品を携えた原住民が意気揚々と帰路に着いていた。

午後2時くらいまでホテルで休憩した後、再び第2グループに戻ると聖ガブリエル・聖ラファエル教会の扉が開いていたので遠慮なく入会し、中に飾られている宗教画をじっくり見学させていただいた。

長さ20mほどの長く暗いトンネルを懐中電灯の明かりを頼りに慎重に歩き、地上に這い出ると聖マルコリオス教会に到着した。内部をちら見して下に続く階段を下りると目の前に午前中に見下ろした聖エマニュエル教会が立ちはだかっていた。

靴を脱いで聖エマニュエル教会の中に入り、絨毯に巣食うダニやノミや南京虫に注意を払いながら、神に救いを求めた。尚、教会内部は太陽光がほとんど差し込まず、湿度が高いのでこれらの虫にとっても天国となっているものと思われた。

狭い通路を通って聖アバ・リバノス教会に辿り着いた頃に夕立が激しく降り始めたのでしばらく雨宿りをしなければならなかった。教会内部は大勢の観光客が占拠していたので中に入れなかったのだが、教会を保護するブリキの屋根のおかげで濡れ鼠になるのを免れた。なるほど、強い日差しや激しい雨から教会の侵食を防ぐためには景観を犠牲にしても屋根が不可欠であることは確かなようであった。

4月22日(日)

日曜日はミサが行われる日であるが、早朝から厳かな雰囲気をたたえた町に繰り出すとおびただしい数の礼拝服をまとったエチオピア正教の信者であふれかえっていた。

聖ギオルギス教会の十字架を取り巻く崖っぷちも白い模様で彩られているように見え、マサに世界的に類を見ない宗教シーンが目の前に広がっているのであった。

信者でない私ごときがミサを見させていただくわけにはいかないと思ったのだが、果敢にも下に下りて教会周辺を歩いていると「ジャパ~ン」という声援も心なしか控えめになっているように感じられた。

聖救世主教会に続く広場ではマイクを使った神父による大々的な説教も行われており、信者の間を縫うようにして聖マリア教会に達するとそこでは何がしかの婚礼の儀が行われているようで独特の盛り上がりを見せていた。

早朝礼拝を終えると午前10時にLAL Hotelを出発する送迎マイクロバスに乗り込み、無償でラリベラ空港まで送っていただいた。正午過ぎに飛び立ったET123便は1時間程度のフライトで大都会アディスアベバに舞い降りた。徒歩およびミニバスでピアッサまで移動し、人ごみの中を歩いているとここでの私に対する声援は「チャイナ!」というものが支配的になっていた。

高台の大通り沿いにあるソランバ・ホテルという多少高級感のあるビジネスホテルにチェックインするとエチオピアに来て初のバスタブに身を沈める欲求を抑えて町に出ることにした。アディスアベバから90km程離れた村にTiyaという一枚岩の墓石群を擁する世界遺産があり、バスで到達可能だということだったので長距離バスターミナルにバスを物色しに行ったのだが、行き先の看板は英語表記ではなく、すべてエチオピアの公用語であるアムハラ語であったのでバスでの小旅行は断念せざるを得なかった。

バスターミナルの向かいにマルカートという東アフリカで最大の規模を誇る大市場が迷宮への入口を開いていたのだが、外国人観光客がガイドなしに紛れ込んだら出て来れないと物の本に書かれてあったので深く侵入することは控えていたのだが、アディスアベバの秋葉原に相当する道端では電子機器を解体して得られた電子部品が青空の下に広げられていたのだった。

エチオピアの宗教はエチオピア正教に代表されるキリスト教だけでなく、イスラム教も大勢力を誇っているのだが、それを証明するかのように巨大なモスクもここかしこでミナレットを天に差し向けていた。

4月23日(月)

エチオピアのホテルでの伝家の宝刀である停電に何度か遭遇したものの、部屋の前の大通りを通る車の毒々しいクラクション音もなかったのでこの国には混沌とした中にも秩序があると思いながら一夜を過ごした。

今日は早朝より国立博物館(10B)に入館してエチオピアの歴史について学習させていただこうと考えていたのだが、2階の美術品と3階の民俗学のコーナーが閉鎖されていたので考古学の分野を中心とした調査に絞らざるを得なかった。ところで、人類発祥の地はアフリカであり、アフリカ人からすると他の民族はすべて子孫であるという位置づけになるのだが、その事実を誇示するかのように人類学のコーナーの展示は充実している。

中でも1974年にエチオピア北部の村で発掘されたアウストラロピテクスのルーシーは320万年前の二足歩行の原人の化石人骨として独立したコーナーで多くの考古学ファンを引き付けていた。

国立博物館ではエチオピア民族の解明には至らなかったので近くにあるアディスアベバ大学メインキャンパスに侵入して内部の民俗学博物館(50B)でリベンジする運びとなった。建物はかつてハイレ・セラシエ皇帝の宮殿であったので皇帝の寝台やトイレ等の生活感も残っている。

展示品はエチオピア各民族の民具や衣装、楽器等多岐に渡っているのだが、コーヒーのルーツであるエチオピアのコーヒーセレモニーという客をもてなすときの代表的な習慣に使われる道具が非常に興味深かった。

宗教画のコーナーではキリストにまつわる様々な出来事が漫画チックに描かれており、ヨーロッパの教会等で見られるフレスコ画の厳かな絵とは一味違った宗教の世界を垣間見せてくれるのだ。

アディスアベバ大学を出学してエチオピアで最も大きい三位一体教会(30B)に参拝することにした。この教会は先のハイレ・セラシエ皇帝により、第2次世界大戦直前の対イタリア戦勝利を記念して1941年に建立された比較的新しいものである。尚、近くに政府の建物があり、そちらの方にカメラを向けるとカメラを没収されるので心技体を集中して余計な物が写りこまないように注意しなければならないのだ。

ソランバ・ホテルに戻り、何気なくベッド横の引き出しを開けるとエイズ対策に力を入れているお国柄のためか、コンドームが2箱入っていた。しかもそのフレーバーはコーヒー味であったので、コーヒー発祥の地としてのプライドがこんなところにも込められている現実にかすかな興奮を覚えてしまった。

4月24日(火)

早朝朝飯も食わずにソランバ・ホテルをチェックアウトし、長い下り坂を下り終えたところでミニバスに乗り込んで空港を目指した。アディスアベバ空港の免税品店で500gのエチオピアコーヒーを$6で購入すると10:00発ET706便に乗り、7時間半もの長時間を機内で過ごしていた。

フランクフルト国際空港に着いたのは午後5時前だったので空港に乗り入れている近距離鉄道に乗り込み、フランクフルト中央駅へ向かった。駅前にあるダ・ヴィンチをモチーフにしたホテル・レオナルドにチェックインすると近くの台湾料理屋でドイツ・ビールと日本食も含むビュッフェで満腹感を味わった後、早めに就寝させていただいた。

4月25日(水)

11:55発NH209便の機材はANAとボーイングが共同開発し、通常ではありえない3年遅れで納品となったB787-8機であった。B767の後継機となるはずの中型機である同機のエコノミークラスのシートアレンジは2列、4列、2列であり、中央4列席の通路側の33D席に陣取った私には特に狭さを感じることなく快適なフライトとなった。

4月26日(木)

午前6時過ぎに羽田空港に着陸した際に窓際の33A席の頭上の通気孔から水滴が漏れ、客がCAに文句を言っていたのだが、東レのカーボンを機体に採用し、錆びに強いために機内湿度を高めに設定出来るメリットを享受出来るために多少の水滴くらいは我慢しやがれ!と思いながら水滴が流れるように流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥51,030 、エチオピア航空 EUR806.33

総宿泊費 ¥39,266、$35

総エチオピアビザ代 $20

総タクシー代 420B(1B = ¥4.6)

総ミニバス代 19.1B

総フランクフルト鉄道代 EUR8.2

協力 ANA、エチオピア航空、Hotels.com、agoda

中南米の架け橋コロンビアと世界の十字路ツアー

1998年夏、某米系一流企業の日本法人よりUC Berkley Extentionという学校にトレーニングに出され、そこで大蔵省(当時)から税金を使って来やがっていたマサを拉致した私であったが、同学校の同じ英語のクラスにリカルドというコロンビアから来ていた好青年と巡り会った。同学校ではルシアナ、アドリアーナ、カトリーナ、マリナ等、口から先に生まれてきたかのようなブラジル人ギャルが幅を利かせていたのだが、その中にあってコロンビアは麻薬大国ではなく、本当はいい国だと主張するリカルドの爽やかさは群を抜いていたのが印象的だった。

リカルドの言葉を信じていつかコロンビアを訪れなければならないと思いつつ、ついつい足が遠のいてしまっていたのだが、この度ついにコロンビアの首都ボゴタに足を踏み入れる勇断が下されたのだ。

2012年3月20日(火)

17:05発NH6便は定刻通りに成田空港を出発すると同日の午前11時前には予定通りにロサンゼルス国際空港に到着した。引き続き、17:15発UA1673便に乗り換え、しばし先般逝去されたホイットニーの冥福を祈っていると夜10時過ぎにヒューストンに到着した。さらに23:59発UA1009便に搭乗すると5時間余りの時間を狭い機内でやり過ごしながら、ヒューストン空港の名称は現在のジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル・ヒューストン空港ではなく、ホイットニー・ボディガード・ヒューストン空港であるべきだと考えていた。

3月21日(水)

コロンビアの首都ボゴタのエル・ドラード国際空港に午前5時前に到着すると愛想のいい入国審査官に笑顔で迎えられたのでリカルドの言うようにボディガードを雇うまでも無く安心して観光できることが確信出来たのだった。

空港内で手持ちのUSドルをコロンビア・ペソ(略号は$)に両替し、コロンビア・コーヒーを飲みながら時間つぶしをしていると頃合も良くなってきたのでバスでボゴタのセントロを目指すことにした。Carrera 10という大通りでバスを降り、標高2600mの高地に順応すべく町を練り歩いていると石造りの要塞のような堅牢な外観を持つ国立博物館の前で入場待ちの人々が短い列を作っていたのでそれに加わることにした。

チケット売り場で何故か無料チケットを入手することが出来たので、かつて刑務所として使用されていた名残のある館内をくまなく見て回ることにした。国立博物館の展示品は先住民族の文化や遺物、コロンビア独立の歴史、近代から現代までの美術品と多岐に渡っているのだが、私の心を引きつけてやまなかったものは様々な種類のプレインカ時代のユニークな人物像達であった。

また、特設展としてコロンビアのナショナルサッカーチームにまつわる展示があったのだが、1994年のアメリカワールドカップでオウンゴールを決めて敗退し、帰国後にファンに射殺された選手の不幸には一切触れられていなかったのだ。

お昼過ぎにagodaに予約させておいたサンフランシスコホテルボゴタに早々とチェックインしてしばし英気を養うとボゴタのセントロでにぎやかな地域に足を踏み入れることにした。ところで、コロンビアの歴史を語る上で最も重要なものは黄金郷(エル・ドラード)伝説であるのだが、それをダイジェストで理解するのに最適なファシリティとして黄金博物館($3000)が開館していたので黄金に目を眩ませてみることにした。

ヨーロッパ人が現在のコロンビアに初めて来やがったのは1500年頃で、当時この地のインディヘナの中で最大勢力を誇っていたのがチブチャ族であった。彼らはインカやマヤ文明に匹敵する高度な文明を持っていたとされ、特に金の細工技術に長じていたという。黄金博物館には彼らの技術によって製作された工芸品がギンギラギンにさりげなく展示され、♪そいつがお~れのやり方♪と言わんばかりの特殊な技法の解説まで加えられているのだ。

黄金博物館で錬金術を習得出来たので旧市街の中心であるボリーバル広場まで出ることにした。広大な石畳の広場はカテドラル、国会議事堂、大統領官邸等に囲まれていつもは賑わいを見せているのだが、今日は小雨模様だったため、中央のシモン・ボリーバル像がポツンとさびしく立っているだけであった。

ボゴタくんだりまでやって来てもオセロの中島を食い物にした霊能者や稀代の婚活詐欺師である木嶋佳苗被告の裁判の動向が気になっていたためか、気が付くとボテロ博物館の入口まで引き寄せられていた。フェルナンド・ボテロはコロンビア出身の世界的に有名なデブ専画家でボテッとした人物画を描くことを生業としている。

館内に一歩足を踏み入れると練炭によって引き起こされる一酸化炭素中毒のような息苦しさを覚えるのかと思っていたが、柳原可奈子風のモナリザ等の名画の数々を見ていると柔肉が醸し出す安心感により思わず大金を貢いでしまいそうな衝動に駆られてしまうのであった。尚、ボテロは自らの作品やコレクションを国家に寄贈し、この博物館でさえ入場無料で運営しているほどの貢ぎ人の頂点として君臨している篤志家なのであった。

ボテロ博物館を出る頃には日もとっぷり暮れており、カテドラルも妖艶にライトアップされていた。ボゴタの繁華街では雨にもかかわらずビニールシートを着て寝込んでいるホームレスも多く見受けられるのだが、一方で長尺の銃を携えた警官が至る所に配備されているので人通りの多いところであれば安心して歩けることが確認された。

3月22日(木)

雨季のせいであろうか、今日も朝から雨が降っていたので外出するのがおっくうだったのだが、意を決して再びボゴタのセントロを散策してみることにした。

ボリーバル広場の一角に17世紀前半に建てられたサンタ・クララ教会が博物館($2000)として観光客の入場を待ち構えていたので入ってみることにした。歴史を感じさせる教会の外観もさることながら、小ぶりな建物の内部にはきらびやかな内装とともに数多くの宗教画が展示されており、博物館としての価値を十分感じさせるものであった。

ボリーバル広場を通り過ぎて山のほうへ登っていくと色白の胸像の奥に門構えのしっかりした屋敷を発見した。これは1820年、グラン・コロンビア共和国独立の功績に対し、「解放者」シモン・ボリーバルに贈られたボリーバル邸($3000)である。広々とした敷地内には傾斜を利用した美しい庭園も広がっており、戦いに明け暮れた英雄が束の間の休息を取るためには最適の地であったと思われた。

ボリーバル邸の背後に鬱蒼とした緑を湛えた山が迫っており、近代技術を駆使して頂上までアクセス出来ることが遠巻きに眺められたので早速登ってみることにした。市内との標高500m差を誇るモンセラーテの丘に這い上がるためには徒歩以外にケーブルカーとロープウエイという手段があるのだが、ケーブルカーは運休となっていたので往復$14400の高値を支払ってロープウエイに搭乗させていただくことにした。

ロープウエイが高度を上げるにつれ、眼下にボゴタの町の眺望が広がり、南米5大都市のひとつであることを象徴する新市街の摩天楼群や旧市街地の茶色い屋根瓦を見比べることが出来た。

標高3000mを超える丘の頂上には白亜のカトリック教会やレストラン、土産物屋街もあり、単なる観光地としてではなく、ひとつの町としての機能も見て取れたのだった。

高台から標高2600mの平地に降りて呼吸を整えながら、今しがた鳥瞰した旧市街の中を歩いていると縞模様が鮮やかな教会や眩しい黄色に彩られた教会が散見された。コロンビアではかつてカトリックが国教であったこともあり、信仰の自由が認められた現在でも国民の95%がカトリックを信仰しているため、歴史的な古い教会とカラフルな教会が絶妙のバランスで町中に配置されているのだ。

3月23日(金)

今回のコロンビアへの歴訪によりリカルドに仁義を切ることが出来たので今日は隣国のパナマ共和国へとエスケープする予定になっている。コロンビアとパナマとは陸続きになっているので通常であれば安価な陸路での移動を検討すべきであるが、ドロンズが南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイクを敢行した際にギブアップの危機に瀕した程、コロンビア・パナマの国境地帯は治安が悪いのだ。

ドロンズは幸いにも船をヒッチハイクしてパナマに渡ることが出来たのだが、私は割高の飛行機で移動することとなった。空港のコーヒー専門店でコロンビア・コーヒーを試飲して500gのコーヒー豆をスターバックスの約半値で購入すると、パナマシティをハブ空港として中南米に多くの路線を持つコパ航空が運航する12:26発CM196便に乗り込んだ。

湾岸沿いに並び立つ高層ビルを横目に飛行機はパナマの首都パナマ・シティのトクメン国際空港に午後2時過ぎに到着した。入国後に空港外のバス停まで移動し、METRO BUSという最新型のバスに乗り込もうとしたところ、ICチップを内蔵したMETRO BUSカードがないと乗れないということが判明したため、1台目のバスに乗ることが出来なかった。次に来たバスの運転手は機転を利かせて最前列に座っていた原住乗客にカードを貸してやれと指示してくれたおかげで何とかバスに乗ることが出来た次第であった。

新市街の適当な所でMETRO BUSを下車すると高層ビルや教会が立ち並ぶ町並みを見上げながらagodaに予約させておいたグランホテルソロイ&カジノに辿り着いた。すでに午後4時を回っていたのだが、パナマ・シティの治安状況を早めに体感するために旧市街方面に向かって歩いてみることにした。

物の本によると治安が不安視されるパナマ・シティにあってもセントラル大通り沿いを歩いていれば問題ないと書かれていたのでガンジー像に見守られながら、途中から歩行者天国に変貌した大通りを南下して行った。

歴史的地区であるカスコ・ビエコ(世界遺産)に差し掛かると町の雰囲気がコロニアル調になり、観光警察も監視の目を光らせていたので獰猛な動物の脅威を物ともせずに周囲を散策することにした。

夕暮れ時に差し掛かり、観光客も少なくなっていたので独立広場で土産物を売っているクナ族も撤収の準備に余念がなかったのだが、この地域では今にも崩れ落ちそうな古い建物やゴミ収集ドラム缶に描かれたアートが異彩を放っていた。

パナマ・シティの旧市街では午後6時半を過ぎるとほとんどの店が閉まり治安が怪しくなるそうなのでそそくさと退散することにしたのだが、大通りでは大道芸人が芸の披露に励んでおり、原住民はこれぞパナマを思わせるボンネットバスに乗り込んで帰路についていた。

3月24日(土)

マサよ、君は南北アメリカ大陸を分断し、大西洋と太平洋を繋ぐ世界の十字路での船舶航行のダイナミズムを見届けたことがあるか!?

私は・・・見届けてしまった!!!

というわけで、近年治安を改善し、観光業に力を入れているパナマ最大の見所であるパナマ運河を目指すべく暗いカジノには見向きもせずに炎天下に飛び出すことにした。新市街からパナマ運河へのアクセスは通常であればタクシーやバスなのだが、距離がわずか6kmということなので私は徒歩で向かうことにした。スラムの香りがする怪しい地区を抜けると国内線の飛行機が飛来するアルブロック空港のはずれのバルボア駅舎跡に到着した。

現在はマクドナルドに支配されているバルボア駅舎であるが、かつてはパナマ運河に沿って運行されていた鉄道の駅舎であり、その名残として蒸気式の大型クレーン車が雑然と展示されている。駅舎跡の高台には運河を管理するために米国によって建てられたパナマ運河管理局の施設が鎮座し、その前には平凡な形のメモリアルが控えめにそびえていた。

バルボア駅舎はもはや機能していないのだが、Panama Canal Railway Companyは今なお現役で貨物の輸送のみならず、一部は旅客列車として営業しており、パナマ・シティとコロン間を往復する便は展望車として大変な人気を博しているようだった。

道に迷った時間も含めて3時間程歩いたであろうか?ついに線路の向こうに何がしかのファシリティがぼんやりと姿を見せ始めた。さらにパナマ運河のミラフローレス水門へ案内する看板が増え始め、汗を噴出しながらその案内を粛々と辿って行った。

パナマ運河の敷地に入ると熱帯地方パナマの豊富な生態系を誇示するかのように在来クロコダイルの看板がそこかしこに掲げられており、観光客が食われないように注意を促していた。橋の上から見たダムに続く川は干上がっており、白い水鳥がよちよちと歩いていた。

正午過ぎについにパナマ運河のミラフローレス水門($8)に到着した。尚、全長80kmのパナマ運河にはパナマシティに近いミラフローレス水門、ペドロ・ミゲル水門、大西洋側のコロンに近いガトゥン水門がある。その中でもミラフローレスは最も見学しやすい水門として常に多くの観光客で賑わっているのだ。

午後の船が水門を通過するのが2時間後くらいということで、その間にビジターセンター内でスライドを見たり博物館を見学したりして時間をやり過ごしていた。関連資料によると人類最大の土木工事と言われるパナマ運河建設には1億5290立方メートル以上の土石が採掘され、もしもその土石を貨物列車に積み込めば、列車の長さが地球を4周するほどのとてつもないものであったそうだ。運河は1914年に開通したのだが、運河建設条約により長い間米国の支配下におかれ、1999年になってやっとパナマに返還されたのである。

博物館の2階ではパナマの生態系が展示されており、熱帯地方特有の巨大な昆虫類の標本や水槽に拉致された生きた川魚をむなしく泳がせながら、スループット改善のために運河拡張を目論むパナマが自然環境にも配慮していることをしきりにアピールしていた。

午後2時を過ぎるとようやく船の通過が始まり、観光客が続々と水門を見下ろすスタンド席に押し寄せてきた。船舶が運河を通過する仕組みであるが、パナマ地峡にはガトゥン湖という海抜26mの湖があり、その湖が運河の大半を成しているため船を海抜0mから26mまで段階的に上げたり下げたりして航行させる必要がある。そこで登場するのが閘門(こうもん)システムという水門の開閉により水位を調節する水のエレベーターである。ミラフローレス水門では閘門システムにより巨大な船が上下する様子をマサに目の前で見ることが出来るのだ。

最初に入ってきた船は毎週土曜日に観光客向けに高値で運行されるパナマ運河クルーズの遊覧船であった。パナマ運河では現在の仕様で最大長さ294.1m、幅32.3mの船を通すことが出来るのだが、小さい船は数隻まとめてバッチ処理されるため、遊覧船は次の小船が入ってくるまでプールでの待機を余儀なくされていたのだ。一方、となりのレーンでは香港籍の大型貨物船が異様な迫力で静かに水門に近づいていた。

船が閘門に入ってくると1隻ごとにこれまでの長い航海をねぎらい、これからの長旅の安全を祈願するかのようにMCによる船の紹介がなされていた。スペイン語と英語で忙しく喋るMCによるとパナマ政府が運河の通行料によりせしめる金額は毎日6~8百万ドルにものぼっているとのことでパナマ・シティの高層ビルは明らかにここでの水揚げにより建てられたものであろう。

おびただしい数のコンテナを満載した大型貨物船が水門を通る際の左右のマージンはわずか数10cmなので通行には細心の注意を要する訳だが、三菱・川崎に2百万ドル払って手配したというElectric Locomotiveが数台がかりで巨大船を牽引するという重要な役目を担っている。特に船体の中盤と後方を担当するLocomotiveは左右の張力を慎重に調整して船が側壁に接触しないように微妙なバランスを保っていたのだった。

パナマ運河は照明設備の普及により24時間体制で運営されているのだが、ミラフローレス水門のビジターセンターは午後5時で営業終了となるため、MCは終了時間が近づくとしきりに「No bed, No breakfast」をアピールして早めの観光客の撤収を促していやがった。世界の十字路の醍醐味を十分に堪能し、帰途に着くとクロコダイルを養っている川には轟々と水が流れており、運河の運営には大量の水を必要とすることをあらためて思い知らされたのだった。

パナマ運河の敷地から幹線道路に出るとバス停があったのでそこからバスに乗り市街地を目指した。バスはショッピングセンターも併設する巨大な国営バスターミナルに到着したのでここで念願のMETRO BUSカードを入手して意気揚々と新市街に帰って行った。

3月25日(日)

パナマ地峡は南北アメリカ大陸をつなぐ陸地が最も狭まった所であり、太平洋側のパナマ・シティから大西洋側にも短時間で出ることが出来るので、今日は国営バスターミナルからバスに乗って対岸を目指すことにした。

パナマ運河のカリブ海(大西洋)側の玄関でパナマ第二の都市として君臨しているコロンという街がある。パナマ・シティのバスターミナルから急行バスに乗ると1時間半程でコロンのバスターミナルに到着したのだが、中米で最も治安の悪い街として悪名高いコロンは重苦しい雰囲気を漂わせているように感じたのでバスを乗り継いでポルトベーロという町にエスケープすることにした。

パナマ・シティから約100km北東にある大西洋岸の小さな港町であるポルトベーロ(世界遺産)はイタリア語で美しい港という意味で、コロンブスが第4回目の航海の途中でここに停泊した際に命名されたという。地理的にも恵まれたポルトベーロはスペイン人がペルー等で略奪しやがった金や財宝がパナマ・シティを経由してこの地に集められ、ここからガレオン船に積み替えられて大西洋を横断してスペイン本国に送られていったのだ。

16世紀末にはこれらの財宝を狙ったカリブの海賊の攻撃に備えて強固な要塞と財宝を一時保管するための倉庫と税関が築かれたのだが、その遺構が今なお残されているのだ。サン・ヘロニモ砦の中には城壁と湾を守る18門の大砲が残っており、カリブ海に向けて錆びた銃口を向けていた。

税関博物館($5)の中には当時の繁栄を示す各種資料や武器等が展示されており、近くには古びているが威厳のある教会が静かに佇んでいた。湾内には多くのヨットも繋留されており、リゾート地の側面をアピールするかのようにカリブ海の美しい景色を彩っていた。

サン・ヘロニモ砦から少し離れたところにサンティアゴ砦が廃れていたので軽く見学していたのだが、目の前の海岸では原住民がピクニックにいそしんでおり、常夏の海で海水に浸かって世間話に花を咲かせているおばちゃんの姿も見受けられた。

大都会パナマ・シティの喧騒とは趣を異にするのんびりしたポルトベーロを後にすべくローカルバスに乗り込んだのはいいのだが、重低音の効いた南国音楽を大音響で流して騒いでいる連中が後方座席を占拠していたため、一種興ざめしながら帰路につくこととなった。コロンの手前のバス停でローカルバスを降り、満席の急行バスに乗り換えて立ったままパナマ・シティに向かった。バスターミナルには夕食の頃合に到着したので隣のアルブロック・ショッピングセンターの巨大なフードコートに陣取り、中華とアイスクリームを食って空腹を満たしておいた。

3月26日(月)

パナマ初日に訪れた歴史的地区カスコ・ビエコをくまなく見届けるために早朝より散歩に出ることにした。対岸にそびえる高層ビル群と国立劇場、サンフランシスコ教会等のコロニアルな造りの建造物の景色の中でパナマ帽を売る土産物屋は開店の準備に余念がないようであった。

旧市街には不思議なアートを感じさせるビルの落書きがあるかと思うと落書きを寄せ付けない古い遺跡もあり、カスコ・ビエホは非常にバラエティに富んだ見所に溢れている。

カスコ・ビエホの南東にフランス広場という記念広場がある。パナマ運河は元々はフランスによって手がけられたのだが、黄熱病やマラリア等の疫病の蔓延によりフランスがばっくれたためにアメリカの手に落ちたわけであるが、ここには運河ゆかりの胸像や記念碑が建てられており、未だにフランスの威光が残っているのだ。

フランス広場から遠く海を見渡すと運河の通過待ちの船舶も見受けられ、クナ族のおばちゃんはカラフルなモラという布を整然と陳列して観光客が販促の網に掛かるのを虎視眈々と待ち構えていた。

地味な外見とは対照的に黄金の祭壇が輝いているサン・ホセ教会は、カスコ・ビエホが海賊の被害を受けて金銀財宝が持ち去られてしまった時にあって漆喰を塗って祭壇を隠しておいたために、今なおそのきらびやかな装いを目の当たりにすることが出来る貴重な遺産である。

カスコ・ビエホの見所を一通り押さえることが出来た満足感を胸にグランホテルソロイ&カジノをチェックアウトすると得意満面でトクメン国際空港に帰り、13:50発UA1033便でヒューストン行きの機上の人となった。さらに21:10発UA1687便に乗り継ぐと午後11時過ぎにロサンゼルスに到着し、そそくさとTravelodge at LAXに引き篭もって念願の就寝時間となった。

3月27日(火)

チェックイン時にアップグレードしていただいた12:35発NH5便は定刻通り出発し、新型B777-300ER機ビジネスクラスの全席通路側アクセスと完全フルフラットへと変貌する座席の快適さを堪能し、さらに機内軽食メニューのロブスター・カレーを貪り食いながら機上でダラダラ過ごしていた。

3月28日(水)

定刻より早めの午後3時半に成田空港に到着し、運河でせき止めた水が堰を切るように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥68,590、ユナイテッド航空 = ¥71,950、コパ航空 = $349

総宿泊費 $573.16

総コロンビアバス代 $4,650($1 = ¥0.0463)

総パナマバス代 $14

総パナマ空港税 $1.25

協力 ANA、ユナイテッド航空、コパ航空、agoda

FTBJ北の国から2012 流氷 with 丹頂

♪ア~ア~、ア ア ア ア ア~♪

じゅん、じゃなかったマサよ~ォ、君は気まぐれな流氷に振り回された挙句にお蔵入りになった過去のFTBツアーの無念を晴らすべく、懲りずに道東に舞い戻ったことがあるか!?

ということで、FTBJでは過去2002年(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2002ryuhyo.html)と2003年(http://www.geocities.jp/takeofukuda/ryuhyo2.html)に流氷ツアーを遂行したことがあるのだが、流氷がなかったり、流氷が厚すぎて船が航行出来なかったりと満足のいくツアーが催行出来なかったわけで・・・

その後リベンジのために何度か道東を訪れたのだが、流氷がなく、いずれのツアーも不発に終わり、FTBレポートもお蔵入りを余儀なくされたわけで・・・

今回は勤め人という現世を離れた自由人として日々更新される海氷速報をチェックしながら確実に流氷を捕らえることが出来る予定を組み、流氷がない場合は流氷待ちによる延長も辞さないという覚悟で望むこととなったわけで・・・

2012年3月4日(日)

ANAの株主優待割引券が余っていたのでマサであれば¥44,770かかるところを私は半額で購入でき、しかもANAご利用券(eクーポン)を充当したためにただで搭乗したANA845便は定刻通り11:20に羽田空港を離陸した。飛行機は津波の被害から1年経つ東北地方沿岸部を眼下に北上し、北海道に入ると雪を被った大雪山を視界におさめながらオホーツク海を目指した。

オホーツクに近づくと飛行機は降下を開始し、機長のアナウンスにより左手に流氷が見え始めた。機内の右手窓際に座っていた私には機上から流氷は拝めないのかとあきらめかけた瞬間に機長の貴重な計らいにより当機はUターンして右手の乗客にも無事に流氷の鳥瞰をお届けすることが出来たのだった。

流氷の町として名高いオホーツク紋別空港に午後1時過ぎに無事着陸すると空港の外にさらされている流氷のサンプル等を一瞥して-4℃の冷気の中をバスで紋別市街地に向かった。

バスがオホーツク海洋交流館(ガリンコ号ステーション)に到着すると期待に胸を膨らませて颯爽とチケット売り場に向かったのだが、そこで目にしたご案内は「sorry, no ice today」という鈍氷で後頭部を殴られたようなショッキングなものであった。それでもツアーで来ているお客様は表情に無念を滲ませて青海航海へと乗り出して行ったのだが、いくら割引になっているとはいえ、¥2,500もの大金を出して寒風に吹かれるのは忍びなかったのでガリンコ号でガチンコ勝負することは断念した。

ガリンコ号で流氷体験が出来なかった時の負けパターンは付属のファシリティである氷海展望台オホーツクタワーでクリオネに敗戦の弁を語ることであるのだが、今回は味噌ラーメンで体温を維持してむなしく撤収することにした。

今日宿泊する紋別セントラルホテルは光明石温泉を沸かしていたので、疲れてもいないのに温泉で傷ついた心を癒し、旬であるはずのホタテづくし定食を食って早々と不貞寝を決め込むことにした。

3月5日(月)

早朝ホテルをチェックアウトすると足早にガリンコ号ステーションに向かって行った。ホテルの部屋から見下ろすオホーツク海の状況を見て期待していなかったものの、今日も白海航海は望むべくもなく、閑散としたチケット売り場には昨日と同じ案内がむなしく掲げられていたのだった。

ここで紋別にしばらく滞在して流氷待ちをするか流氷を求めて他の場所へと流れるべきかを決めなければならなかったのだが、今年の海氷データを検証し、紋別への流氷着岸状況が芳しくなかったので紋別に別れを告げることにした。オホーツク沿岸部は交通の便がよろしいわけではなかったのだが、バスで少し内陸に入った遠軽町まで移動し、そこからJR北海道が運行する特急列車オホーツク号に乗って網走を目指すことにした。

午後1時前には網走駅に到着出来たので駅から市バスに乗り換えて道の駅「流氷街道網走」へと急いだ。この道の駅は網走流氷観光砕氷船おーろらの発着ターミナルになっており、しかも「おーろら」と「おーろら2」という定員400名の大型砕氷船を2隻要する一大流氷クルーズ拠点になっている。とりあえずフードコート「キネマ館」で高倉健に見守られながらわずか¥500という安値で供されるカニ丼で腹ごしらえをして午後2時出航の4便に乗り込むこととなった。尚、おーろらの料金は沖合航路(流氷あり)の場合は¥3,300、能取岬航路(流氷なし)の場合は¥2,500という高値に設定されている。

好天に恵まれ、寒さをさほど感じないおーろら2の屋外展望デッキは団体ツアーを含む多くの乗客でごったがえしており、船は汽笛を鳴らすことなく、帽子岩に見守られながら静かに出港した。港内にわずかに残されている流氷のかけらの上ではカモメが羽を休め、船上のお天気カメラはNHKに油断無くお天気情報を送るために静かに海上を見据えていた。

船が外洋に出ると雪を被った知床連山の絶景が姿を現した。さらに目の前に止まって動こうとしないカモメが見守るはるか前方に白い水平線のような流氷帯が浮かんでいた。

おーろら2は大きな揺れを起こすことも無く流氷帯に突入すると乗客はデッキの手すりを乗り越えんばかりに眼下の流氷に見入っていた。流氷上では様々な野生動物が姿を現すのだが、今日は天然記念物のオオワシがその鋭く黄色い口ばしを尖らせており、船上のカモメとの格の違いを見せ付けていた。

¥3,300の料金がお得だと感じられる航海が終了するとその余韻を楽しむためにキネマ館で流氷水で作った発泡酒「流氷ドラフト」を鯨飲して祝杯をあげるのを忘れなかった。

3月6日(火)

早朝agodaのポイントを使って安く泊まった網走グリーンホテルをチェックアウトすると目の前の網走駅から釧網本線の快速列車に乗り、オホーツク海沿岸部に沿って東に向かっていた。今日も網走沿岸部には流氷は着岸していなかったので流氷ノロッコ号というトロッコ列車(臨時列車)に乗車するまでもなく、速やかに知床斜里駅まで移動すると知床半島の付け根の町である斜里をシャリシャリと雪を踏みしめながら見物することにした。

道の駅「しゃり」にもお約束の知床で水揚げされた流氷が積まれており、中ではクリオネが氷水槽の中でつばさをはためかせながらやるせない上下運動を繰り返していた。

駅前のバスターミナルから斜里バスに乗り、車窓を流れる流氷を横目に1時間かけて知床観光の拠点の町であるウトロに到着した。丁度昼飯時を迎えていたので道の駅「うとろ・シリエトク」で鹿肉バーガーを消費して知床におけるエゾシカ被害の削減に一役買っておいた。しかも意外と美味であったのだ。

吹きすさぶ吹雪の中をウトロ漁港に向かう道すがら、ゴジラの手湯でかじかんだ手を解凍するとゴジラ岩を見上げながらゴジラ松井にいち早く獲得球団が現れることを祈っておいた。尚、このゴジラ岩は崩落の危機にあるのだが、補強するとメカゴジラになってしまうので何とか現状維持で今の状態を保っているのだ。

押し寄せる流氷で結氷したウトロ漁港の奥には知床旅情の碑が寒風に耐えるように建っており、その姿を見て寒さに完封されそうになったので漁港を後にしてゴジラ岩観光でウトロ名物のとあるアクティビティの予約を入れることにした。今日は吹雪のためにそのアクティビティは催行されていなかったので楽天トラベルに予約させておいた世界自然遺産の宿しれとこ村つくだ荘に早々とエスケープすることとなった。

つくだ荘のウトロ温泉で肉体を常温に戻し、夕食に供された毛がにのトゲで怪我しないように注意しながら海の幸を十分に堪能させていただいた。

3月7日(水)

ほたるぅ、じゃなかった マサよ~ォ、君はしっかりとした防寒対策を施して流氷と触れ合った経験を持っているか!?

というわけで、私が昨日予約しておいたアクティビティとはドライスーツを着用して流氷の上を歩いたり、氷の海に落ちたりする流氷と遊ぶをコンセプトにした知床・流氷遊ウォーク(\5,000)であったわけで・・・

ゴジラ岩観光の事務所に午前10時前に集合すると参加者は防寒・防水性能に優れたドライスーツを私服の上に着込んで流氷に対峙する準備を着々と整えていた。マイクロバスに乗り込み2分程で流氷ウォークポイントに到着すると堤防を乗り越えて氷と雪で埋め尽くされた氷原の海へと果敢に突き進んでいった。

このアクティビティには知床の海を熟知したガイドが2名同行し、最初に薄い氷の上でジャンプして氷海へ正しく落ちる方法を伝授してくれた。ドライスーツに浮力があるとはいえ、変な落ち方をすると頭まで水に浸かってしまい、しかも首元や袖から冷たい水が入り込んで凍るような思いをする危険性もはらんでいるのだ。

流氷遊ウォーク参加者はそれぞれ流氷の山に上がったり、氷の海に浮いたりしながらガイドに記念写真を撮ってもらっていた。流氷の海にはクリオネも生息しているということだったのでしばしクリオネ探しに興じていたのだが、発見出来なかったので1時間程度のウォークで流氷地帯から撤収することとなった。グループで参加している若者は互いに雪玉をぶつけたり海の中で暴れたりと戯れが過ぎていたので冷水を浴びる等の罰が当たることをひそかに期待していたのだが、足元の氷が崩壊して頭まで氷海に没してしまう不運に見舞われたのは体重が3桁に達する巨漢のガイドであったのだった。

流氷を制覇した満足感を胸にゴジラ岩観光オフィスから退出し、オロンコ岩に見守られながらウトロを後にした。酋長の家に隣接するRESTAURANT&CAFEを守っている番犬コロにも別れを告げると午後2時10分発のバスで斜里に戻ることにした。

JR北海道にはいろいろなイベント列車があるらしく、摩周&川湯温泉足湯めぐり号という1両列車がたまたまやってきたので、それに乗りこんで釧路を目指すことにした。残念ながら列車内には足湯はなかったのだが、途中の川湯温泉駅で14分、摩周駅で21分の停車時間が取られており、乗客はあわただしく足湯を楽しむことが出来るように配慮されているのだ。

3月8日(木)

agodaのポイントを使って安く泊まることが出来たルートイン釧路駅前をチェックアウトすると駅前バスターミナルから阿寒バスに乗り込み単調な道東の旅のフィナーレを飾るにふさわしい地に向かっていた。

釧路湿原国立公園は丹頂鶴の営巣地になっており、タンチョウの里鶴居村では官民あげてのタンチョウの保護活動が行われ着実に生息数を増やしている。多くの観光客が集まる鶴見台は食べ物が少なくなる冬場に餌付けをしているために格好のタンチョウ観察スポットになっているのだ。

中国人を含む多くの観光客が観光バスやレンタカーで鶴見台に乗りつけ、短時間で去っていくのを横目に私は西田敏行扮する池中玄太より学んだ鶴の生態を元に2時間程タンチョウの観察に勤しんだ。タンチョウは2羽~4羽のグループで鶴見台に飛来し、たまにけたたましい泣き声をあげたり羽を広げて優雅なダンスを踊って絶好のシャッターチャンスを提供していたのだった。

鶴見台を後にすべく阿寒バスに乗り込み、特に悪寒を感じることもなかったので適当なバス停で下車して12kmの道のりを徒歩で釧路空港を目指した。冬毛のポニーに見送られてタンチョウで町興しをやっているたんちょう釧路空港に辿り着くと17:10発ANA744便で春まだ遠い東京へ帰って行ったわけで・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥15,033

総JR北海道代 ¥7,710

総バス代 ¥6,500

協力 ANA、楽天トラベル、agoda、道東観光開発株式会社、ゴジラ岩観光、第一管区海上保安本部海氷情報センター

アンデスの魔鏡ウユニ塩湖ツアー in ボリビア

ボリビアの南部、アンデス山脈の中腹に世界最大の塩湖が存在し、雨季になるとうっすらと湛えた水が魔鏡のように周囲の景色を映し出し、あたかも天地が逆転したかのような幻想に陥ってしまうという。最近メディアの露出も多くなってきたウユニ塩湖であるが、今回はその光景を実際に目に焼き付けるためにボリビアくんだりまでやって来なければならなかったのだ。

2012年2月18日(土)

17:05発NH6便は成田空港を予定通りに出発し、同日の午前9時半過ぎにロサンゼルス国際空港に到着した。早速Holiday Inn LAX Airportまでの送迎を担当するシャトルバスに乗り込むと、Holiday Innには投宿せずにあらかじめ予約しておいた近くのMotel 6にしけこんで、今日は時差調整のつもりでゆっくりさせていただいた。

2月19日(日)

11:00発American Airline AA1520便に乗り込むと3時間の時差をこえて午後7時前に中南米とのゲートシティになっているマイアミ国際空港に到着した。巨大な空港内で時間をやり過ごした後、乗り継ぎ便の22:30発AA922便に搭乗すると機内で中途半端な長さの時間を過ごすこととなった。

2月20日(月)

AA922便は6時間半程度のフライト時間でボリビアの首都ラ・パスのエル・アルト空港に午前6時過ぎに到着した。尚、ボリビアの憲法上の首都はスクレとされているのだが、実際上の首都はラ・パスになっている。さらにラ・パスは南北アメリカ大陸横断ヒッチハイクの旅でスペイン語を習得したドロンズ石本が別の番組でラ・パス市内に焼き鳥屋を開業し、商売が軌道に乗り始めたときにボリビアの情勢変化のためにやむなくドロンしたことでも有名である。

とりあえず、つつがなく入国審査を通過し、小雨そぼ降る中を空港の到着口で待機しているワンボックスのミニバスに乗り込むと標高4082mの世界一高い国際空港を後にした。ミニバスはエル・アルト地区という貧しい人々が住む地区を抜けて長い下り坂に差し掛かると30分程で標高3650mで世界一高い首都であるラ・パスの中心部に到着した。私が下りた所は旧市街にあたる場所で周囲にはコロニアル調の古い建造物が多く、中でも1549年に建てられたバロック様式のサン・フランシスコ寺院が一際存在感を際立たせていた。

サン・フランシスコ寺院の北東にはラ・パスの中心となるムリリョ広場が広がっており、その中央にはボリビア独立戦争で活躍したムリリョの像が周囲の大統領官邸、カテドラル、国会議事堂を見下ろしていた。

この美しいムリリョ広場は庶民の憩いの場所にもなっており、あちこちで鳩用の餌の売り子が闊歩し、豆鉄砲を食らう危険がない鳩はすべて手乗り鳩と化して人類に襲い掛かってくるのであった。

午後近くになると町の様相に変化が見え始め、メイン通りの交通規制とともに何らかのフェスティバル&カーニバル系の催し物の準備があわただしく行われていた。通りには派手な衣装に身を包んだダンサーと鼓笛隊が参集し、物々しい雰囲気を醸し出し始めたのでとりあえず近くのバスターミナルにエスケープさせていただいた。

ボリビア交通の大動脈となっている巨大なバスターミナルは屋根付きであるが周囲が吹き抜けになっており、皆白い息を吐きながらおとなしくベンチに腰掛けていた。早速今晩のウユニ行きバスのチケットを物色したのだが、あいにくすべて満席となっていたので、仕方なくポトシという町へ行くチケットを購入せざるを得なかった。

あいかわらず外は雨模様だったため、長時間バスターミナルで待機を余儀なくさせられたのだが、カルナバルを祝う無数の爆竹と鼓笛隊が奏でるリズムに引き寄せられるようにいつしかメインストリートまで出て来てしまっていた。カルナバルは水かけ祭りとも言われているようで巨大な水鉄砲を手にした青少年少女が路上でコンバットを展開し、ダンサーには容赦なく水の入った風船が投げつけられていた。

日本で言えば富士山に匹敵する標高の町で踊り狂うダンサーを横目に坂道で息を切らしてしまった私は何とかバスターミナルまで帰り着くと夕飯も食わずに21:30発のポトシ行きSemi CAMAバスに乗り込んだ。尚、長距離バスはNormal、Semi CAMA、CAMAと3種類あるようでCAMAとはスペイン語でベッドを表す言葉なのでそれなりに快適なバスの旅が期待されたのであった。

2月21日(火)

VOLVO製の巨大な2階建てSemi CAMAバスはリクライニングの快適性はまずまずだったものの車内はエアコンがつけられていないせいか凍えるような寒さであった。手馴れた原住民はMY毛布を持参して乗車しているため、寝つきが良かったようであるが、寝具のない私は冷気に肉体をさらしながら、眠い、寒い、高い(標高が・・・)の三重苦と10数時間格闘しなければならなかったのだ。

さらにボリビアのバスは事故や故障で悪名高いのだが、私が乗っていた車両も例外なく夜が明けた6時半頃におもむろに路肩に停車してしまった。1階最後部のエンジン近くの私の席にはもやもやした煙と共に異臭が漂い始め、このバスはもはや自走出来ないことを覚悟させられることとなった。それでも運転手は1時間程、自力で修理を試みたのだが、幸いポトシ近くまで来ていたため代車を手配して何とか8時過ぎにはポトシに到着する運びとなった。

バスを降りると丁度ウユニ行きのバスのチケットの販売が行われていたので早速購入させていただいた。出発時間が12時30分ということなのでそれまで世界遺産であり、標高4070mで世界最高所にある町ポトシを最後の力を振り絞って見学することにした。バスを降りた場所からポトシの町の中心部まで急な坂を登っていくと町の背後にそびえる赤茶けたポトシ山の雄姿が目に飛び込んできた。この山はかつて「富の山」と呼ばれ、南米最大の銀山として町に繁栄をもたらしたシンボルである。

南米の中で、植民地時代の面影を最も色濃く残す町のひとつであるポトシは石畳の狭い通りやコロニアルな建物が印象的であるのだが、カルナバルの影響で主な見所である旧国立造幣局やカテドラル、教会・修道院等はすべて閉鎖となっていた。仕方なくポトポトと雨の降るポトシの町並みを眺めながらあてどもなく彷徨っていた。

不意に昨日の昼から何も食べていないことを思い出したので、町中で唯一営業していたネットカフェに入り、コンチネンタル・ブレックファストを食していると、関西系の日本人のおばちゃんが相席を求めてきた。気の毒なおばちゃんは町はずれの展望台近くで野良犬に噛まれ、ポトシの病院で何度か注射を受けるはめになり、1週間程ここで足止めを食らうのだと元気にのたまっていた。

おばちゃんを置き去りにしてネットカフェから撤収し、バス乗り場に戻るとそこにはウユニ行きを所望する多くの人々で溢れかえっていた。乗客を満載したバスはほぼ定刻通りに出発し、風光明媚な山岳風景や放牧されているリャマを横目に順調に運行して行った。途中の悪路も難なくクリアして5時半には念願のウユニの町に到着する運びとなった。

ウユニ到着後の最重要アクションは宿を取ることであったのだが、幸い駅前のHOTEL AVENIDAに空きがあり、しかも宿泊費が1泊Bs30(日本円で\360)ということだったので取りも直さずチェックインさせていただくことにした。共同シャワーで長旅の汚れを落とした後、おびただしい数の日本人観光客を横目にHOTEL AVENIDAの隣で営業しているツアー会社であるBrisa Toursに飛び込んだ。

当初の目論見では今朝早くウユニに到着し、その場で2泊3日のツアーに参加するつもりであったのだが、ウユニのツアーは2泊3日どころか1泊2日のツアーもすべて満席だということで、あらためて当地の人気の高さを思い知らされた。他のツアー会社を巡って問い合わせをしても同様であり、ツアーの空きは宿泊設備のキャパの制限によるものなのでどうしようもなかったのだ。

カルナバルの喧騒が残る町中を歩きながら思いを巡らし、結局日本人御用達のBrisa Toursの隣のTunupa Toursで明日の1 DAY TOUR(Bs180)を申し込み、屋台でチープなバーガー系のパンを食って夕食とすると早々ときしむベッドに横たわり、英気を養うことにした。

2月22日(水)

ウユニ塩湖へのツアーはどのタイプであろうと午前10時半にツアー会社の前に集合し、11時頃に出発することになっているのでTunupa Toursのオフィスの前で乗るべき4WD車が到着するのを今か今かと待ち構えていた。

11時過ぎにLEXUSというブランド名のランドクルーザーに乗り込むとウユニの町を後にしてツアーの最初の目的地であるTrain Cemetaryに向かって行った。列車の墓場にはマサにJR東日本の職員であれば目を覆いたくなるほどの多くの機関車が無造作に放置され、観光客は屋根まで這い登ったり、ぶら下がったりとやりたい放題に退役した汽車をもてあそんでいた。

列車の墓場への参拝を終了させるとコルチャニ・タウンという製塩所に立ち寄ることとなった。ここにはミュージアムと土産物屋が併設されており、塩のブロックで建造されたミュージアムの中には不細工なリャマをかたちどった塩のオブジェ等がしおらしく展示されていた。また、土産物の多くも塩で作られたものでお手頃な小物入れや灰皿等が観光客の人気を博していた。

マサよ、君は標高3760mに広がる塩水の平原で天と地が釣り合った光景を見て言葉を失ったことがあるか!?

というわけで、製塩所での滞在が潮時を迎えた頃に再びLEXUSに乗り込み、今回のツアーのハイライト且つ、ここに来なければボリビアくんだりまで来た意味が全くなくなってしまうウユニ塩湖まで疾走することとなった。車が雨季のために冠水した塩湖に差し掛かると時速を10km程度まで減速し、おだやかな水しぶきを上げながら塩湖の中心に位置する目的地をゆっくりと目指していた。

世界一大きな塩の湖ウユニ塩湖の鏡面は非常になめらかで風もなく好天に恵まれた雲や遠くに見える島の形をはっきりと映し出し、マサに天地を錯覚させるかのような幻想にしばし浸ることとなった。

1 DAY TOURの最終目的地である塩のホテル、プラヤ・ブランカにはすでに多くのツアー客が到着し、そこはあたかもランド・クルーザーのモーターショーの様相を呈していたので豊田章男社長もここに来れば別の意味で満足することが約束されていると思われた。

プラヤ・ブランカの隣の塩の小島には各国の国旗がつき立てられており、皆それぞれの国旗を抜き取って記念写真のおかずに出来る体制が整っていた。また、お調子者の日本人観光客はすでににわかパフォーマンスに興じており、盛塩の上で何の変哲もないポーズを決めて悦に入っていた。

日本人の宿泊客が圧倒的に多いプラヤ・ブランカの内部にはミュージアムもあるのだが、「展示物を見たいビジターは何か買いやがれ!」との注意書きを無視して中に入ってみることにした。飾ってある代物は塩で出来ている以外は特筆すべきことがない物ばかりであるのだが、むしろTOTO社員が体験すると腰を抜かすほどの強烈な塩ホテルの便所が気になってしようがなかったのだ。

ツアーではランドクルーザーのテールゲートを簡易テーブルとしてランチが提供されることが定番となっているのでパサパサの米とゆで、生野菜、巨大な鶏肉の塊をいただくことにした。当然のことながら、足りない塩っ気は地面から無限に供給されるのだが、全面鏡張りの中で食べる食物はこの上なく美味なものであったのだった。

1泊2日のツアーでプラヤ・ブランカに宿泊する観光客はこのまま明日のランチの時間まではここで放置プレーとなる一方で、1 DAY TOURの参加者は午後3時~4時くらいにこの場所から撤収することになっている。帰りも来た道と同じルートを通ったのだが、塩湖の入口の塩山ポイントでは原住民家族がのんきにビーチ遊びに興じていた。

午後4時過ぎにウユニの町に帰り着くと、交通事情等を考慮して早めにウユニを脱出すべくバスターミナルでポトシやスクレ行きの深夜バスを物色したのだが、いずれも満席ということだったので、とりあえず翌日のラパス行きの深夜バスのチケットを確保しておいた。引き続き今夜の宿を確保すべくHOTEL AVENIDAに問い合わせをしたのだが、すでに満室になってしまっていた。隣のホテルも満室の札がかかっていたのだが、3件目のPALACE HOTELに空きがあったのでBs35を支払って何とかしけこむことに成功した次第であった。

2月23日(木)

押し寄せる観光客の数に対してホテルの部屋数が不足しているためか、バックパッカーの中にはウユニ駅の敷地や寒空の下で野宿を楽しんでいる輩も見受けられた。いずれにせよ、ウユニ塩湖の絶景はそのような苦労をしてまで見る価値があることは疑いようの無い事実であった。

早朝ウユニの町を散策していると駅からはずれた場所にTrain Cemetaryにうち捨てられる難を免れた機関車が展示保存されている光景を目にした。ウユニではチリとの貿易を担う鉄道員も数多く働いているようでその繁栄の様子を示す壁画も目に留まった。

結局この日もウユニに滞在しているという最大限のアドバンテージを活かすために塩湖への1 DAY TOURに参加することにした。今日利用したツアー会社はバスターミナルの前にオフィスを構えているSANDRA TRAVELSであったが、どこの会社もツアー内容も価格も同じらしく、最初の訪問地はTrain Cemetaryであった。JR西日本の職員であれば思わず手をあわせてしまいそうな光景を再び目にしたのだが、列車の墓場という割には煙突に線香さえ手向けられていなかった。

コルチャニ・タウンの土産物屋で一番小さい塩製の小物入れを購入して売り上げに貢献すると塩湖の入口でランドクルーザーの屋根に登り、今日は車窓からでなく屋根の上から高みの見物をさせていただくことにした。

塩湖に突入して塩を満載したトラックとすれ違ったのだが、この約120km x 約100kmにも渡る広大な塩の大地には約20億トンという東京ドーム何杯分という単位では計ることも出来ない量の塩が眠っているのだ。

2日続けて好天に恵まれたおかげで強い日差しの照り返しにより顔の下半分がこんがりと焼けてしまっていた。しかし、曇っていたり、雨が降っていたりすると天空の鏡もその威力を存分に発揮出来ないので絶景を見れるかどうかはマサに運次第という側面が強いと思われた。

雨季の塩湖は足首くらいまで水が張っているので皆長靴、ビーチサンダル、裸足といった足回りでそれぞれの活動に興じている。日が照っていると水温が上がるのでビーサンで歩き回っている分には快適であるのだが、乾くとスネ毛にまで大量の塩がまとわり付いてしまうのだ。

今回は1 DAY TOURしか取れなかったため、2泊3日ツアーの参加者のみ訪れることが出来る赤い色をした湖ラグーナ・コロラダを目にすることは出来ないのだが、そこを居住地にしているはずのチリフラミンゴがいくつかの群れを形成してはるか湖の彼方を飛んでいるのをかすかに眺めることに成功した。

2日に渡るウユニ塩湖のツアーが終了し、夕方ウユニの町に戻ると大通りにインディヘナ(先住民)の市が立っていた。とりあえずその辺のベンチで塩にまみれた足を清掃してボディに十分な防寒対策を施すと午後7時に出発予定のラ・パス行きの夜行バスに乗り込んだ。今回もSemi CAMAのバスであったのだが、運行会社の違いのせいか、各シートには毛布があり、ラ・パスに戻る道中もそんなに冷えなかったので割と快適な移動手段兼宿泊所と成り得たのであった。

2月24日(金)

バスが順調にラ・パスのバスターミナルに到着したのは午前8時前であったろうか?とりあえずターミナル内の日本語が読めるインターネット屋で時間を潰すとラ・パス市の中心部に向かって歩を進めることにした。

今週月曜日にラ・パスに来た時には冷たい雨に悩まされたのだが、今日は天気も良かったのでラ・パス市街を一望出来るライ・カコタの丘(Bs3.5)に登ってみることにした。丘の上の公園は高層ビルが並び立つ市の中心や低級住宅がへばりつくように建っているすり鉢を見渡すのに絶好のポイントで、眼下にはバラック風の屋根が並び立つカマチョ市場の様子も見受けられた。

昼過ぎに目抜き通りに面したビジネスホテル風のエル・ドラードに飛び込みでチェックインを果たすとラ・パス市内を効率良く回ることが出来る市内観光バス(Bs50)に乗ってみることにした。この観光バスによるヘッドホン解説は日本語にも対応しているのだが、日本語の「語」のへんとつくりがそれぞれ別の字であるかのような印象を受けてしまった。

バスが市内の見所を回る際にボリビアという国に関する様々な解説がなされたのだが、平均寿命は男60歳、女65歳とマサにボリビアのおばちゃんの体型のように太く短い人生にもかかわらず、定年が65歳になっているので日本のように年金財源が底を付くというような懸念は一切無いことが確認出来た。また、総人口に占めるインディヘナ(先住民)の比率が50%を超えており、南米の中で最もインディヘナ人口の多い国となっているため、多くの観光客がボリビアに引き付けられるのだと思われた。

市内観光バスは急な坂を登り、町の北にあるミラドール・キリキリという展望台のような高台に到着した。ここから見える景色は、思わず「おさむちゃん で~す!!」と勢いをつけて叫んでしまいそうな見事な「ザ・ぼんち」の眺望であり、すり鉢の底には5万人もの観客を収容出来るスタジアムも横たわっていた。とりあえず、市内観光バスの案内でラ・パス市内の全貌を理解出来たので、A地点からB地点に向かう途中のC地点でたばこを買ったりするような動きをする場合は急な坂を上り下りする覚悟が必要だとの認識をあらたにした。

サンフランシスコ寺院の裏の坂を登っていくとメルカド・ネグロという市場に辿り着いた。ここには地元の人向けの食料や日用品が取り揃えられており、アンデス山中にもかかわらず新鮮な魚さえ取引されていたのだった。

2月25日(土)

早朝ホテル・エル・ドラードの前からミニバスに乗り、セメンテリオという墓地で下車すると近くにティワナク行きのミニバス乗り場があったので約2時間かけてラ・パスから72km西のティワナク遺跡(世界遺産)を目指すことにした。遺跡に到着すると入場料Bs80を支払い、まずはMUSEO CERAMICOという遺跡から発掘された土器等を展示している博物館をチラ見しながら遺跡に対面する心の準備をさせていただいた。

ティワナク遺跡に入場すると高さ15m、底辺210m四方の赤茶けたアカパナのピラミッド跡に遭遇した。その隣には遺跡の中心だったと思われるカラササーヤという長方形の巨石と角石を組み合わせた壁に囲まれた神殿があり、そのモザイクを思わせる石組みは、インカ末期の石組み技術と比べてもひけをとらない見事さであった。

カラササーヤにはモノリートと呼ばれる一枚岩から切り出された石像が2体立っているのだが、高さ7m30cmの「ベネット」という固体は風雨による傷みが進行するのをおそれてすでに屋内博物館に移設されているのだ。また、カラササーヤの隅には高さ3m、幅3.75mを誇る太陽の門という巨石で作られた門が立ちふさがっている。門の上部にはビラコチャの神と神を囲んで飛ぶ48人の鳥人が刻まれている。

カラササーヤの背後にある半地下神殿の中央にはコンティキの神の立像が君臨し、周囲の壁には180個もの石の顔が訪問者に睨みを利かせている。

ティワナク遺跡は4km四方にも及ぶ広大なものなので、その発掘が進んでいるのは30%に過ぎないと言われている。また、スペインからの征服者がティワナクに町を造ろうとしたときに教会に最適な石を探したのだが、ティワナク遺跡の石も数多く教会や家々の土台として流用された形跡が残っている。

ティワナク遺跡の神殿から500mほど離れた場所にプーマプンクの宮殿跡がある。ここはかつて巨石の宮殿だったらしく、足元には最大で縦8m、幅4.2m、厚さ2m、重さ10トン超のとてつもなく大きな石が転がっている。また、巨石と巨石は銅をかすがいにしてつながれたらしくその痕跡の溝も生々しく残されているのだ。

ティワナク遺跡でプレインカ文明の技術の高さに圧倒されたのでミニバスでラ・パスに戻り、市の南地区にある月の谷(Bs15)を見物することにした。人口170万人を誇る大都市ラ・パスにあって月の谷を要するマリャサ地区には四輪バギーも乗り回せる自然の大地が残っており、奇岩が広がるその景観はまるで月面のようであった。

月の谷にはアンデスでは滅多に見られない猫が見守る遊歩道も整備されており、脆い砂岩に刻まれた岩の芸術を間近に見ることが出来るのだ。

「パタゴニアの蒼き河と天空の鏡ウユニ塩湖」ツアーを催行する西遊旅行の一行と入れ替わるように月の谷を後にするとミクロというボンネットタイプの古バスでセントロに戻り、魔女通りとの異名を取るリナレス通りを散策することにした。魔女通りの所以は呪術に使われる小道具がおみやげに混ざって展示販売されているからなのであるが、どの店先もキュートなリャマの胎児のミイラがこれ見よがしに供えられていた。

大都会のラ・パスに帰還後、何とか食生活を改善することが出来、昨日はCorea Townという韓国レストランで韓国料理を召し上がった。今日はボリビアの最後を飾る晩餐なのでわがままを聞いてもらうべく「Wagamama」という日本食屋の暖簾をくぐることにした。食費の安いボリビアでは高値であるはずのBs8.3で供されるWagamama Teishokuはティティカカ湖で採れるはずのトゥルチャ(マス)の刺身をはじめ、日本食通のわがままを十分に聞き入れた結果を反映したメニューであると思われた。また、高地では沸点が低くなるため、米を炊くのが難しいはずであるが、Wagamamaが供するご飯は日本食堂に匹敵するほどの出来であったのだ。

2月26日(日)

早朝4時半にホテル・エル・ドラードをチェックアウトするとホテルの人にラジオ・タクシーを捕まえてもらって一路エル・アルト空港に登っていった。

7:15発AA922便は定刻通りに出発し、ボリビア第2の都市サンタ・クルスを経由して午後4時前にはマイアミ国際空港に到着した。マイアミからAA231便に乗り換え、ロサンゼルスに着いたのは午後9時前であった。

2月27日(月)

0:10発NH1005便, B777-200機に搭乗する直前にビジネスクラスへのアップグレードを果たし、機内エンターテイメントプログラムによる「ステキな金縛り」に遭いながらも邦画を3本見ることに成功した。

2月28日(火)

定刻5:15前に羽田空港に到着し、ヘモグロビンの血中濃度が高くなっていることを実感しながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥47,530、AA = ¥80,120

総宿泊費 $75.26 、Bs577 (Bs1 = ¥12)

総バス、ミニバス、ミクロ代 Bs260.5

総タクシー代 Bs60

総ウユニ塩湖ツアー代 Bs360

総空港使用料 $25

協力 ANA、アメリカン航空、Motel6

アラビアのFTB in クウェート、オマーン

マサよ、君は日本のバブル崩壊の直接の引き金が何であるか覚えているか!?

ということで、私が大和証券北九州支店の優秀な営業マンとして肩で風を切りながらブイブイ言わせていたバブルもたけなわの1990年8月2日にイラクのサダム・フセインがクウェートに侵攻しやがり、その後多国籍軍も参戦する湾岸戦争へとなだれ込んでいった。その影響で石油価格は暴騰し、日本はアメリカに戦費をむしり取られた挙句に金だけ出しやがって人は出さないと非難を浴びながら坂道を転げ落ちるように凋落して行った。

今回はそのいまわしいクウェートの地が湾岸戦争後にどのように復興成ったのかを実地検分すると同時にアラビア半島にありながら戦争とは無関係の優等国オマーンの実態を調査するために寒波が襲来する日本を離れて中東に舞い戻ってくることになったのだ。

2012年1月29日(日)

トルコ航空を利用したハイペースでの中東ツアーの影響で♪飛んでイスタンブール♪を基調とした庄野真代ネタも尽きた今日この頃であるが、昨今では「しょうの」と言えば高島彩をゆずに譲ってめざましテレビのメインに成り上がって覚醒した生野アナウンサーの台頭が著しくなっている。

すっかりおなじみとなった14:40発TK51便、B777-300ER機に乗り込むとつつがなくイスタンブールに到着し、引き続き21:55発TK772便に乗り継いでイラクとサウジアラビアに挟まれたクウェートを目指した。

1月30日(月)

飛行機は定刻2:15頃クウェート国際空港に到着し、先般訪れたドーハやバーレーンの空港よりも規模が大きく居心地がよかったので空港内のゲート近くのベンチで夜を明かすことにした。適当に時間潰しも出来たところで手持ちのエジプトポンドをクウェートディナールに両替してビザ代の3ディナールを支払い、午前7時前にクウェートへの入国を果たした。

空港の出口の目の前のバス停で客待ちしているバスに乗り込むと仕事に向かう労働者を横目に一路クウェートシティを目指した。適当な所で下車して青空が眩しいクウェート湾岸沿いを歩いていると干潮の浜辺が緑の海草で覆われている光景が目に飛び込んできた。

湾岸沿いにサドゥ・ハウスというベドゥインの織物が展示されているファシリティに無料で入場することが出来たので織物や手工芸品、はた織り機等を見学させていただいた。尚、この建物はオイル時代に入る以前に建てられた貴重なもので湾岸戦争で被った被害もすっかり修復されているのだった。

サドゥ・ハウスの隣の広い敷地にはクウェート国立博物館がリニューアル中の様相でいくつか公開されている展示コーナーもあったので入って見ることにした。展示品はヘレニズム、イスラム時代の出土品や人形をあしらった現代のクウェート人の部屋などを再現したものがメインであったのだが、巨大なプラネタリウムもあり、その中では星の見物ではなく宇宙にまつわるアニメ系のショーが展開されていた。

湾岸から高層ビルの並び立つ市街地に切り込むと湾岸戦争で受けたダメージのかけらも見られないほどの発展ぶりを目の当たりにして依然としてバブル崩壊の後遺症から抜け出せていない日本との違いを痛感させられた。

クウェートシティのランドマークとしてそびえている通信塔を横目にクウェートシティを駆け抜けると今日の宿泊地であるIbis Sharq Hotelにチェックインし、再び市街地を探索することにした。

クウェートのシンボルと言えばスウェーデンの建築会社により設計され1979年に完成したクウェート・タワーであり、湾岸に唯一無二の存在感を示しているのでスカイツリー程の期待感を抱かずに見に行くことにした。タワーは3つから成り、最大のものは高さ187mを誇り、回転展望台やレストランを内蔵しているのだが、2つ目のタワーと併せて主目的はウォータータンクとなっている。尚、3つ目のタワーは他のタワーを照らす照明塔で単なる脇役でしかないのである。いずれにしてもこれら3つのタワーの高さを足してもスカイツリーには及ばないのでバブルの後遺症に悩む日本人観光客もここで溜飲を下げることが出来るのではないかと思われる。

クウェート・タワーの周辺は市民に憩いの場を提供する公園になっており、野良猫を養うシーフードレストランや遊園地は程々の人々で賑わっていた。照明塔である3つめのタワーがその威力を発揮するのは日没後であり、暗闇に浮かび上がるシルエットは一種幻想的な惑星の雰囲気を醸し出していた。

1月31日(火)

湾岸戦争の爪跡を博物館として保存しているファシリティがクウェートシティ市街の南に位置するフィンタスという町にあると聞いていたので市バスで行ってみることにした。湾岸沿いの町であるフィンタスは新興住宅地といった風情を漂わせており、道行く人に湾岸戦争を伝えるアル・クレイン・ハウスの場所を聞いて回ったのだが、意外な事に誰も知らないとのことだったのであえなく撤収することとなった。

クウェートシティに戻った頃には雨が降り出していたので、雨宿りも兼ねてヘリテージ・スークを散策することにした。昼飯時を迎えたスークの食堂では原住民がカレー系の料理と生野菜を大量に発注しており、テーブルの脇を山盛りのパンを皿にのせた従業員が忙しく歩き回っていた。

スークの醍醐味は生鮮食品なので巨大な魚が横たわる鮮魚コーナーを抜けて精肉売り場に突入することにした。各肉屋の戸口にはあらゆる部位の肉のブロックが吊るされており、明らかに買う気のない私に対しても積極的に販売促進を仕掛けてくるのだった。

スークを出ると近くにある電波塔のビルで雨宿りさせていただくことにした。尚、電波塔には展望台らしきものがあり、エレベーターも設置されているのだが、営業していない様子だったのでクウェートシティの高みの見物は断念し、バスでクウェート空港に退散することにした。

クウェートからオマーンの首都マスカットまではオマーン航空を利用する手はずとなっている。尚、中東では多くの路線を持つオマーン航空であるが、日本へは放送禁止用語になるのを恐れてか、未だに乗り入れてないのが現実である。21:15発WY648便は搭乗に際して1時間以上の遅れを出したにもかかわらず大変長らくおま~んたせしましたといったお詫びの言葉もなく離陸となったのだった。

2月1日(水)

マスカットのシーブ国際空港に着いたのは1時間時計の進んだ深夜1時半過ぎであった。入国の際にビザ代として20オマーンリヤル(US$55)を支払わされたもののスムーズな手続きで入国を果たすと空港のArrivalは多くの出迎え人でごったがえしており中東はどこの国でも宵っ張りであることを思い知らされた。とりあえずエアポートタクシーのカウンターで車を手配すると予約しておいたTiger Home Hotel Appartmentsに速やかに移動して意識を失うことに専念した。

シーブ国際空港からマスカットの市街地までは40km程離れており、その間は幹線道路が通っている。ホテルをチェックアウトしてしばらく高速で車が行き来する幹線道路沿いを歩いているとルートタクシーと呼ばれるワゴン車の乗り合いタクシーが止まったので乗せてもらうことにした。ルートタクシーはマスカットのルイという繁華街地区に到着したので、エアポートタクシーとは比べ物にならないくらいの安い運賃を支払って下車すると近隣を散策することにした。

一見住居にしか見えないが、内部にはオマーン各時代の工芸品やベドウィンの銀製アクセサリー、王家の使っていた家具等が展示してある国立博物館(RO0.5)を軽く見学させたいただき、テレコムタワーを見上げながら次の観光ポイントを物色することにした。

生野アナウンサーもめざましテレビでコメントするのを躊躇するはずの名前を持つオマーン国軍博物館(RO1)がオマーン国軍によって厳重に管理されながらも軍事オタク垂涎の展示物を誇っているので「ココ調」してみることにした。オマーン国軍の敷地の入口には銃を持った警備員が目を光らせているのだが、博物館を見に来た来意を告げると彼は車を呼んでくれて、敷地の奥の博物館の建屋まで無償で私を配送してくれたのだった。

この博物館では何かと紛争の多い中東の中でアラブの監視役の地位を確立しているオマーンの戦力を誇示するかのようにオマーン国軍の発展の歴史や武器等が整然と展示されているのだ。

オマーンの戦力分析を終えると商業地区にそびえているクロック・タワーで時間を確認し、マスカット証券市場の回転株価ボードをちら見して今日からお世話になるルイ・ホテルに向かった。マスカット市内では立地条件の良いこのホテルは☆☆☆ながらウエルカム・フルーツのサービスがあったのだが、皿に盛られたブドウの種類はマスカットではなかったのだ。

ホテルの目の前のルートタクシー乗り場からバンに乗って海岸沿いのマトラという地区に向かった。コルニーシュという海岸道路は眺めの良い遊歩道を併設しており、カブース港にはダウ船や豪華客船が停泊している光景が見受けられた。

険しい崖山の上に築かれたマトラ・フォートを横目に海岸沿いをさらに進んで行くと丘の上に白いランプのような建物が見えてきた。これは香炉を模した展望台ということなのだが、中には入れないのでこの場所からマトラの町並みを見下ろすことはかなわないのである。

この地区には砦を作る以外に取り柄がないのかと思われるくらいに多くの砦があるのだが、高台からの眺望を得るためにアクセス可能な名も無き砦に登ってみることにした。今にも崩落しそうな階段を登って砦に辿り着いたのだが、内部はさらなる崩壊が進んでおり、崩れた床下からは真っ青な海が顔を覗かせていた。

オマーンのみならず中東を代表するスークとしてマトラ・スークがある。スーク自体の床面積は広くないのだが、内部は迷路状に小道が入り組んでおり、ふらふら歩いていると様々な店から声をかけられる。今日はとりあえず物品の下見のみさせていただいてルートタクシーでホテルに戻り、プールサイドでビールとビュッフェを堪能しながらしばし中東にいることさえ忘れていた。

2月2日(木)

アラビア半島の南東部を占めるオマーンの国土面積は日本の4分の3にも及ぶ広さを誇り、地方都市へ行く観光客の足としてはバスがメインになっている。今日はどこぞの地方都市まで足を伸ばしたいと思い、かつては海のシルクロードの中継地として栄え、シンドバッドの船出の場所として知られているソハールも検討したのだが、現在では当時の面影を伝えるものはないとのことで、さらに渚のシンドバッドがサーフィンボードを小脇に抱えて唇盗む早技を磨いている姿を見ると幻滅するかも知れないと考えたので断念した。

ソハール行きの代替プランとして、ONTC (Oman National Transport Co.)のメインバスターミナルから午前8時発のバスに乗り、マスカットから208km離れたバハラァという町に向かうことにした。バスがマスカットの都市部を離れて南西の内陸部に入ると車窓の景色は山岳部の砂漠地帯に一変した。途中ニズワという大きめの都市を経由して砂漠の中のオアシス村であるバハラァに到着したのは午前11時を過ぎた時間であった。

バハラァで最大唯一の見所は1987年に世界遺産に登録されているバハラァ・フォートでこれを見学しないことにはバハラァくんだりまで来た意味がなくなってしまうのだが、この遺産は1988年には危機遺産に陥ってしまったためか今もって長い修復の途上で中に入ることは出来ないという非情な現実を突きつけられてしまった。

オマーンはかつて東アフリカからインド亜大陸までを席巻する貿易王国であったのだが、その当時の威光を今に伝えているのがバハラァ・フォートである。今回はむなしくバハラァ・フォートの回りを一周し、その修復の過程を垣間見ながらこの歴史的遺産の詳細が少しでも早く砦フェチの好奇心を満たす日が来ることを祈っておいた。

マスカットへの帰りのバスが来るのが午後5時過ぎの予定なので6時間あまりの時間をバハラァで過ごさなければならなかった。バハラァのスークにはこれといって見る物がなく、住民は昼過ぎから家に篭ってしまうので人間模様の観察も出来ずにむなしく住宅街を彷徨っていた。バハラァは陶器の産地としても知られており、住宅街の中にも工房らしきものがあったのだが、門が閉ざされていたので中を覗くことも出来ず、何の戦利品も得ないままにバスでマスカットに帰って行った。

2月3日(金)

午前中の程よい時間にルイ・ホテルをチェックアウトするとルートタクシーでマトラに移動し、フィッシュ・マーケットの見学と洒落こんだ。多くの原住買い物客で賑わうマーケットには労働者による魚の解体もライブで行われており、血の滴る切り身は大いに食欲をそそるものがあった。

マーケットの裏手はしなびた漁港になっており、マーケットで魚を購入する代わりにパンを撒き餌に自力で生きた魚を釣り上げようとしている輩やおこぼれに預かっているカラスが共存共栄している様子が見て取れた。

マトラから海岸通りを2kmほど東に進み重厚なマスカット・ゲートをくぐるとオールド・マスカットというこじゃれた官庁街に到着した。オールド・マスカットの港の真ん中にそびえている砦はミラニ・フォートで1500年代に造られ、破壊と再生を繰り返してきた代物であるが、現在も軍や警察の施設として使われているので観光客が侵入することは出来なくなっている。

ミラニ・フォートの麓にはアラム・パレスという豪華な宮殿があり、白を基調とした城壁内部は緑の芝生ときれいな花々で彩られていた。今日はイスラム休日の金曜日ということもあり、官庁街は閑散として人も車も少ないのだが、ルートタクシーがたまたま流れてきたのでそれに乗り込んでマトラへと戻ることにした。

通常は多くの人で賑わうマトラ・スークも正午から午後4時くらいまでの昼休みの間はきっちり店を閉めており、人通りよりも猫通りの方が多いゴーストタウンと化してしまっているのだ。

リゾートホテルが立ち並ぶオマーン湾岸地域はコーロム地区と呼ばれており、マトラから西に10km以上離れているのでルートタクシーで乗り付けてみることにした。コーロム・ネイチャー・リザーブというクラウンプラザ・ホテルが見下ろすビーチの上には数多くのナツメヤシの枯葉を屋根にしたパラソルが突き刺さっており、アラブ服を着た原住民が様々なアクティビティに興じていた。

アクティビティはサッカーやクリケットのようなお手軽なスポーツから水上バイクやカヤックなど様々であったのだが、上半身裸の男子によるセミ格闘系のゲームには多くの観客が集まり、声援が飛び交っていた。

ビーチ沿いの道路にはおしゃれなカフェやスターバックス、シーフードレストランも営業しており、ビーチで砂まみれにならずとも存分にリゾート気分を味わうことが出来るような設備が整っていた。また、シーフードビュッフェを提供するレストランの横のマングローブでは屈強なおやじが投げ網で食材を確保しようと躍起になっていた。

インターコンチネンタル・ホテルの中庭を無断で抜けてルートタクシーを捕まえるべく幹線道路を目指しているとオープン間近と思われるRoyal Opera House Muscatが西日に照らされて豪華に白光りしていた。

マサよ、君はオマーンの特産香料でわらしべ長者になるという野望がよぎったことがあるか!?

というわけで、オマーンは古代エジプトやローマで儀式用香料として盛んに使用された乳香の産地として知られている。当時の乳香は非常に貴重な物で金と同等の価値があったと言われているのだが、長年財務官僚としての地位に安住し、錬金術さえ身に着けてきたはずのマサであれば私が持ち帰る乳香を同重量の金と交換してくれるはずなので再びマトラ・スークに戻り、乳香のサンプルを物色することにした。

マトラ・スークには金本位制を取っているゴールド・スークだけでなく乳本位制を匂わせている香水や香料を売る店が数多くあり、店頭では香炉の上でミルキーな乳香がジリジリと焚かれている。大抵の売り物には値札など付いてなく、商いはすべて交渉制によるものらしいのだが、財務省と違って明朗会計を身上とする私は値札の付いている店でおそらく相場より高い値段で乳香のサンプルを購入させていただいた。

シーブ国際空港に戻り、家に香炉の在庫がないことに気付いたので陶器製の一番安いやつを購入して手持ちのオマーンリヤルをすべて使い切ってしまった。

2月4日(土)

4:15発TK859便は定刻通りに出発し、5時間半程度のフライトでイスタンブールに帰ってきたのは2時間の時差を引いて午前8時前であった。今ではすっかりトルコ航空のラウンジの住人としての生活に慣れてしまった反面、トルコ風の食事のメニューにも飽きてしまったので栄養補給も程ほどにして血中のアルコール濃度を上げることに専念した。

18:40発TK50便はいつもほど団体観光客が多くなかったおかげで横3列席をすべて占領し、不貞寝しながら成田に向かって行った。

2月5日(日)

定刻13:10より早く成田空港に到着し、前回、今回と2回に渡ってペルシア湾岸を調査したにもかかわらず1匹たりともペルシア猫を発見出来なかったのはイスラムの宗主国であるサウジアラビアが囲っているのではないかといぶかりながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 トルコ航空 = ¥100,080、オマーン航空 = KD56.9 (KD1 = ¥276)

総宿泊費 $267.08、RO25 (RO1 = ¥199)

総クウェートバス代 KD1

総オマーンタクシー代 RO7

総オマーンルートタクシー代 RO2.1

総オマーンバス代 RO4.8

総クウェートビザ代 KD3

総オマーンビザ代 RO20

協力 トルコ航空、オマーン航空、agoda

アラビアの石油成金小国ツアー in カタール、バーレーン

マサよ、君は1993年10月28日にドーハで起こった悲劇を覚えているか!?

というわけで、カズ、ラモス、都並、柱谷等が寸でのところでワールドカップ初出場の切符を掴みそこなったあのいまわしいドーハを首都とするカタールがその時の状況をどう語~るのか現地に行けばわかるのではないかとの期待を抱いてアラビア半島では小国ながらプレゼンスの高い国々へのツアーが急遽催行される運びとなったのだ。

2012年1月15日(日)

イスタンブールを日本国内に知らしめるのに多大な貢献を果たした庄野真代ではなく、トルコ航空がスポンサーになっているマンチェスター・ユナイテッドの主力選手の肖像が機体にプリントされた14:40発TK51便、B777-300ER機に乗り込むと選手の面々も出演を果たしている機内のセキュリティビデオを見ながら成田空港を後にした。

同日の20:00頃に♪夜だけ~のぉ~ パラダイ~スぅ♪に到着し、引き続き21:30発TK774便バーレーン行きに乗り換えると機上で眠れぬ夜を過ごすこととなった。

2012年1月16日(月)

TK774便がバーレーン国際空港に到着したのは丑三つ時あたりであったのだが、空港内のファシリティは免税品店も含めて24時間アクティブな様子で、Transferデスクでカタール航空の搭乗券を入手すると5:15発QR151便ドーハ行きに乗り込んだ。飛行機が離陸して30分程すると後半ロスタイムにショートコーナーからカズを交わしてセンタリングを上げられ、頭で合わせたボールがなすすべも無いキーパー松永をあざ笑うかのようにゴール隅に吸い込まれるような感覚を覚えると悲劇の舞台となったドーハ上空に差し掛かっていることに気付かされた。

ドーハ国際空港では入国審査と同時にビザが取得出来るので、ビザカードでQR100を支払い、カタールへの入国を果たすとようやく東の空から太陽が昇ってきた。ドーハ中心部は空港からそんなに離れていないので青空に突き抜けているモスクの尖塔を見上げながら徒歩でカタール国立博物館を目指したのだが、改修中で閉館しているご様子だったので近代化された街中をあてどもなく彷徨ってみることにした。

「世界で最も退屈な町」と言われていること自体がドーハの悲劇であると思い知った街並みはオイルマネーの投入による建築ラッシュで近代的なビルがニョキニョキと建っているのだが、どうもアラビアの情緒は欠けてしまっているようだ。

古き良きアラビアのかけらを求めて歩いていると春を思わせる陽光の下で不貞寝を決め込んでいるラクダの楽園の向こうに白光りする伝統的な建造物を発見した。ドーハで最も古い建物のひとつであるドーハ・フォートはイギリス軍の侵略を防ぐ目的で建てられたものだそうだが、結局カタールは大英帝国の手中に落ちて手篭めにされてしまったという悲劇を味わっているのだ。ドーハ・フォートの外壁は白く塗りなおされているのだが、中にはこれといって何も無く手持ち無沙汰のまま外壁沿いの展望スペースを一周して撤収することとなった。

ドーハ・フォートから北に向かい、かすかに見える海を目指して歩いていると管理された芝生と花々に彩られたグランド・モスクが姿をあらわした。その傍らにピンク色が鮮やかなクロック・タワーが建っていたので近寄ろうとしたところ、警備員の手が手招きとは逆の方向に振られていたのでこのあたりはイスラム教徒以外の観光客は入ってはいけないところだと思い知らされた。

グランド・モスクに隣接する豪勢な首長の館の向こうには真っ青なアラビア湾(ペルシア湾)が輝いていたのだが、車社会のカタールでは歩行者が大きな道路を横切るためには大幅な迂回を強いられるため、今日は早々とグランド・カタール・パレス・ホテルに引き篭り、インド料理のブッフェを詰め込んだもののヤケ酒も食らえずに退屈な夜を過ごさざるを得なかったのだ。

1月17日(火)

秋田県程度の大きさの国土に180万人の人口を抱えているカタールであるが、その大半は首都ドーハに集中している。経済は主に石油と天然ガスに多くを依存してきたのだが、近年は観光事業にも力を入れ「世界で最も退屈な町」からの脱却を図っている。今朝はその変貌の過程を見届けるために高層ビルが並び立つ沿岸部まで足をのばしてみることにした。

沿岸部に行く途中で昨日から気になっていたとぐろを巻いている高いビルに接近したところ、Qatar Isramic Cultural Centerという看板が掲げられていたので試しに入ってみることにした。広々とした内部にはイスラムの歴史に関する説明資料が展示されており、多くの欧米人観光客が興味津々の面持ちでイスラムに対する理解を深めようとしていた。

ドーハの沿岸部は大きな弧を描いており、停泊しているレトロな木造のダウ船や林立する摩天楼と青い海が絶妙のコントラストを醸し出している。きれいに整備された遊歩道を歩いているとかつてここが真珠の産地であった名残を残すミキモト垂涎の真珠貝のオブジェがぱっくりと口を開けてカメラを持つ観光客を待ち受けていた。

カタールを語る上で重要な出来事は2006年12月にドーハで行われたアラブ諸国初のアジア大会であるが、その当時のマスコットらしき野郎も現役のオブジェとして湾岸の風景に溶け込んでいた。

遊歩道を3km以上歩いたところで遠巻きに眺めていた摩天楼が間近に迫ってきたのだが、よく見るとほとんどのビルが建設中でビル群の中には作業員以外の人の流れがなく近代化したゴーストタウンの様相を呈していた。

ヒルトン、シェラトン、フォーシーズンズ、インターコンチネンタル等の高級ホテルが並び立つ湾岸エリアに程近い場所に中近東最大級の規模を誇るシティ・センターという大型ショッピングモールが退屈な町での行き場のない金を集めているようだったので見物しに行くことにした。吹き抜けのシティ・センター中央の基盤は浅田真央であれば退屈することのないスケートリンクになっており、映画館、ブランドショップ、レストランの数も豊富で40℃を越す夏場には絶好のインドア避暑地として賑わうことが約束されているのだ。

シティ・センターで程よく時間潰しが出来たので4kmにも渡る沿岸の遊歩道をドーハの中心部に向かって引き返すことにした。夕暮れ時になると人々は遊歩道に設置されたベンチに集い、忍び寄る猫をマークしながら各自持参した食い物を広げて一日の終わりをのんびりと過ごしていた。

日が落ちるとライトアップされたオブジェや摩天楼が輝き始め、酒が飲めないという悲劇を除いて人々はすっかりアラビアにいることを忘れてしまっているかのようであった。

1月18日(水)

ドーハ市内でアラビアの雰囲気を味わうことが困難だと感じたので2007年に沿岸部にオープンしたイスラム・アート美術館(QR25)に展示されている財宝を見て溜飲を下げることにした。

博多名物にわかせんぺいを連想させるような外観を持つ美術館内に展示されている代物はにわかイスラム研究者もおもわずうなるほどの貴重品ばかりであったのだが、古いコーランに書かれているアラビア文字よりも皿や陶器に描かれているへたくそな絵のほうが当時の生活模様を如実に表しているように感じられた。

美術館の裏手には臨海公園が整備されつつあり、安楽椅子に座って対岸の摩天楼を眺めながら至福の時を過ごすことが出来るように配慮されている。尚、イラクに同点ゴールを決められた瞬間にベンチから転げ落ちたゴン中山のような悲劇を起こさないために椅子にはしっかりとした手すりが取り付けられていたのだった。

退屈とリフレッシュが表裏一体となっているドーハを後にすべく、17:05発QR160便に乗り込むと50分程度のフライトでバーレーン国際空港に帰ってきた。ここでもBHD5の支払いで入国審査時にビザを入手すると時速300kmでサーキットを疾走するような刺激を求めてバーレーンに入国した。

アラビア湾に浮かぶバーレーンは奄美大島とほぼ同じ面積を持つ小島国でありながら、110万人もの人口がひしめきあっている。アラブで初めて石油を採掘した実績を誇るバーレーンだが、その石油もあと20年しかもたないので近年は観光にも力を入れているという。その成果としてF1の誘致にも成功し、2004年に中東で初めてのF1が開催されて以来、毎年春先のバーレーン・グランプリの時期には音速の貴公子たちがおびただしい観光客を伴ってこの地にやって来ているのだ。

バーレーン国際空港から首都マナーマの市街地へはタクシーで行くのが一般的なので早速タクシー乗り場で順番待ちをしていた1台に乗り込み、運転手が時々メーターをたたいているのが気になったものの、相場のBHD5でConcord International Hotelに到着した。インド人が経営する同ホテルは設備は古いが部屋は広々としており、24時間営業のレストランやバーも併設されている。バーレーンはイスラム国家でありながら戒律が緩やかなために飲酒が認められており、そのせいか深夜過ぎまでディスコティックな喧騒が絶えず、善良な宿泊客の安眠の妨げとなっていた。

1月19日(木)

マナーマ市街地の中心部にあるホテルを出て市民の生活ぶりや人間模様を観察するために周囲を歩くことにした。たまたま行き当たった巨大なマーケット群は野菜、果物、魚系に建屋が分かれており、この国の多様な食文化が所狭しと並べられた新鮮な食料品の供給により支えられていることが実感出来るのだ。

南アジアからの出稼ぎ労働者の足となっているものの富裕層が乗らないために運営状態が良くないバスターミナルから適当なバスに乗り、勘をたよりに適当な所で下車して歩いていると何故か地元のアラビア人に呼び止められたので、これ幸いとバーレーン・フォートへの道筋を尋ねたところ身振り手振りを駆使したアラビア語で教えてくれたので何とか方向性だけは理解することが出来た。

マナーマ中心部から西に5km程離れた沿岸部に静かに佇むカラート・アル・バーレーンは通称バーレーン・フォートと呼ばれ、アラビア半島の数少ない世界遺産のひとつとして君臨している。

かつてメソポタミアとインダスをつなぐ中継貿易の拠点として栄えていたこの地は、その後もいくつもの都市が積み重なるようにして造り上げられ、現在残っている遺構は1512~1622年にわたりバーレーンを支配したポルトガルが残した城砦跡である。

バーレーンを代表する観光地としての整備が急がれるバーレーン・フォートの傍らにはカラート・アル・バーレーン美術館(BHD0.5)も開館しており、悠久の時を経て受け継がれた発掘品の数々がセミ貸切状態の観光客の興味を引いていた。

バーレーン・フォートからマナーマに戻る幹線道路の周辺はマサに大型ショッピングセンターの見本市と化し、地元のバーレーン人やキング・ファハド・コーズウエイという総延長25kmの橋を車で渡ってやってくる隣国のサウジアラビア人の旺盛な購買需要を満たそうという努力の結果が見て取れた。

数あるショッピングセンターの中で最大最新のものは2008年にオープンしたシティ・センターで巨大な駐車場には自家用車が列を成し、正面入口前には多くのタクシーが整然と並んでいた。ドーハのシティ・センターの目玉はアイススケートリンクであったのだが、ここには高波が起きるプールがあるらしく、緑のムーミンもどきが客の気を引こうと躍起になっていた。

マナーマ北部の沿岸に商業、居住区、娯楽などの施設が集まったファイナンシャル・ハーバーが建設中で、あたかもドーハと競っているかのようにユニークな形をしたビル群の建設ラッシュとなっていた。中でもワールド・トレード・センターはすでに完成しており、ツインタワーの間を取り持つ渡り廊下には何故か風車のようなものが取り付けられていたのだった。

1月20日(金)

昨日は洗練された近代ショッピングセンターの中で商いの様子を見ていると飽きないと思ったので今朝はバブ・アル・バーレーン(バーレーン門)の南に広がる伝統的なスークに巣食っている商人を見学することにした。

スークではカラフルな布地やドレスを売る店が多かったのだが、辺りには特徴的なモスクもいくつかあり、印象的な絵が描かれた垂れ幕のようなものが特に目を引いた。

ドーハを「世界で最も退屈な町」とするとバーレーンは世界で2番目に退屈な所ではないかとの疑念が沸いてきたので、バス・ターミナルに行ってバーレーン中部にあるインターナショナル・サーキットや1931年にアラビアで最初に発見された第1号油井の隣の石油博物館へのアクセスを模索したが、埒があかなかったのでマナーマの10km程南にあるイーサ・タウンまでバスで往復してお茶を濁しておいた。やはり車社会のバーレーンを縦横無尽に移動するにはレンタカーを借りるかタクシーをチャーターするしかないと思い知らされたのだった。

発展著しいバーレーンの道路は工事中や交通規制で至る所で通行が制限されており、パトカーや白バイもけたたましいサイレンを鳴らして猛スピードで走り回っていた。歩行者保護の意識の乏しい車が走り抜ける幹線道路の脇を心細く歩いて行くと何とかバーレーン国立博物館(BHD0.5)に辿り着くことが出来た。

広大な敷地の中にある広い館内にはポップな現代アートや自然史展示室、バーレーンの歴史を紹介した展示室等があり、太古の石器時代からティルムン文明、イスラムにいたる歴史の変遷を学習するのに最適なファシリティとなっている。

この博物館で特筆すべき代物はバーレーン全土に8万5000以上あるといわれる古墳の重要なものをそのまま持ってきて展示しているコーナーである。尚、古墳は断面が分かるように切断されており、暴かれた墓や副葬品も豪華絢爛さは見られないが、非常に興味をそそるものである。

また、石油発見前のバーレーンは遠浅の海で採れる真珠も主要産物のひとつであり、当時の採集の様子や真珠貝、銀座のミキモトでは高値がつかないはずの粒の大きさと形がまちまちな真珠が展示されていた。

バーレーン博物館から南へ向かう幹線道路沿いの海岸は公園等の整備が進んでおり、マリーナ脇の広場は地元住民の憩いの場になっていた。さらに南下するとグランド・モスクの通称で通っているアハマド・アル・ファテフ・モスクの尖塔が天空に向かってそびえていた。今日は金曜日なのでイスラム教徒以外は入場できないのだが、それ以外はモスク内への侵入どころか写真撮影も許可されているとのことだ。

バーレーンでのバーゲンを期待したわけでないが、世界で2番目に退屈な町ではショッピングモールが最適な暇つぶしスポットであるはずなので夕暮れ時に再びシティ・センターに突入することにした。イスラムの休日ということもあり、フォルクスワーゲンの新モデルの実車展示等に群がる富裕層で溢れ変えるシティ・センター内には安価なファストフードを提供するフードコートから高級感のあるエスニックレストランまで多くの食欲スポットがあるのだが、とりあえずアラビア湾で採れた魚を様々な国の料理方法で提供するシーフードレストランで骨抜きはしてあるが、小骨には手が回っていない白身大魚のアラビア風ソテーを召し上がって夕食とした。

ウインドショッピングも一巡したところでタクシーに乗り、手持ちのキャッシュが底をついたところで降りるつもりが、ぎりぎりでバーレーン空港まで辿り着けた幸運に感謝しながらも空港の両替屋で手持ちの米ドルをバーレーン・ディナールに両替し、買い食いでもしながらさらなる時間潰しをしなければならなかった。

1月21日(土)

今回のツアーで持参したダヴィンチ・コードの文庫本、上・中・下巻を完読した頃、ついに搭乗の時間となったので3:10発TK775便に乗り込み、4時間程のフライトで早朝イスタンブールに帰ってきた。成田行きのフライト時間まで半日程あったのでイスタンブールで入国してトルコ風呂にでも行こうと思っていたのだが、外は冷たい雨がしんしんと降っていたのでラウンジに留まり、数日振りのアルコールを朝から浴びながら怠惰な時間を過ごさせていただいた。

18:40発TK50便成田行きはマンチェスター・ユナイテッド機ではなかったものの日本人ツアー客を満載して離陸し、完全日本語対応された機内エンターテイメントプログラムを楽しみながら11時間もの長時間フライトを快適に過ごさせていただいた。 

1月22日(日)

13時過ぎに成田空港に到着し、成金になったとはいえアラビアの伝統とは異なるものを急激に取り入れると退屈地獄に陥ることがあると肝に銘じながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 トルコ航空 = ¥99,880 カタール航空 = BHD72.8 (BHD1 = 約¥204)

総宿泊費 $300.36

総バーレーンタクシー代  BHD11.5

総バーレーンバス代  BHD0.6

総カタールビザ代 QR100(QR1 = 約¥21)

総バーレーンビザ代 BHD5

協力 トルコ航空、カタール航空、agoda