FTBアメリカ先住民の足跡を追うグランドサークルツアー in 2010

ちょっちゅね~ マサよ!

ということで、夏の高校野球の決勝戦を制したのは沖縄県勢では夏初優勝で、しかも具志堅用高をOBに要する興南高校であったのだが、その相手である東海大相模は巨人軍の原辰徳監督の影を色濃く残している。かつて東海大学という存在を知らなかった私は東海にある大魔神のような大相模高校のイメージしか持ち合わせていなかったのだが、その当時の純粋な心を取り戻すためにアメリカ大陸原住民が今も生き続けるグランドサークルを回らなければならなくなったのだ。尚、このツアーが開催されるきっかけは裏の仕事の日本代表として参加を要請されているミーティングに他ならないのだった。

2010年8月21日(土)

NH008便で恒例のビジネスクラスへのアップグレードを勝ち得ると快適な空の旅で午前10時過ぎにサンフランシスコに到着した。引き続きUA753便に乗り込み、午後4時過ぎにデンバーに到着するとそそくさとHilton Garden Inn Denver Airport Hotelに引き籠って時差ボケの解消に努めていた。

8月22日(日)

デンバー空港より午前8時11分発のUA6940便に乗り込み、約1時間程飛行してコロラド州の南西部であり、コロラド、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ各州の州境が一点に交わるフォー・コーナーズに程近いDurangoという町に降り立った。早速ハーツでフォルクスワーゲン・ジェッタをレンタルするとアメリカ先住民の足跡を追うツアーの幕があいた。

アメリカの国立公園の中にはいくつかユネスコの世界自然遺産に指定されているものもあるのだが、今回訪れるメサベルデは唯一の自然遺産以外の国立公園であり、1978年にすでに世界遺産に登録されている由緒正しい遺跡なのである。まずはゲートで入園料($15/car)を支払い、急な登り坂を上ると緑のテーブルと呼ばれる独特の地形を見渡せるビューポイントからロッキー山脈の一部を形成する広大な眺望を楽しませていただいた。

メサベルデの最大の見どころはアナサジと呼ばれるアメリカ先住民のコミュニティが形成されていた遺跡群であり、その中の代表的なものはガイドを伴ったツアーでしか行くことが出来ないので、公園の中心にあるFar Viewビジターセンターで最大の遺跡であるクリフ・パレス・ツアー($5)に参加することにした。

Far Viewビジターセンターから南に向かって20分程車を転がし、クリフ・パレス・ツアーでレンジャーと待ち合わせをすることになっているポイントに到着した。崖の上からはすでにクリフ・パレスの眺望が開けており、前の組のツアー客が車座になってレンジャーの話に耳を傾けている様子が確認された。

切り立った崖がオーバーハングしている窪地に217室の部屋、4階建てに相当する高い壁を擁しているクリフ・パレスは当時の豪華マンションといった風情がある遺跡であるが、キバ(Kiva)という儀式が行われていたはずの部屋の痕跡も数多く残されており、自然の脅威に対してなすすべのなかったアナサジはここで雨乞いや豊作の祈願をしていたものと考えられている。

クリフ・パレスから同じくレンジャーの引率でしか行くことの出来ないバルコニー・ハウスを過ぎ、メサベルデで発掘された数々の品が展示されている博物館に到着した。ここではアナサジの人々の生活、文化、習慣などを学習することが出来るジオラマが印象的でアナサジが穴をサジで掘っているかのような生活の様子が生き生きと伝わってくるのであった。

レンジャーの引率ではなく、Self Guided Tourと言って自分勝手に見て回ることの出来る見所の中ではスプルースツリー・ハウスがもっとも保存状態のよい遺跡であった。ここには8つのキバと114の部屋があり、西暦1200年の現役当時には100人以上の大所帯を誇っていたそうだ。

緑の生い茂るキャニオンの眺望と遺跡のコントラストを眺めながら、ゆっくりと車を転がしているとサンテンプルという台地の上に造られている大きめのファシリティに到着した。ここでは何がしかの儀式が行われていたことは間違いないのであろうが、対岸にはクリフ・パレスのすばらしい眺望が広がっているのだった。尚、高度な文明を持ち繁栄していたアナサジであったのだが、約700年後にはサジを投げるように忽然と姿を消してしまったそうだ。しかも白人がアメリカ大陸に到着するはるか以前の出来事であったという。

アナサジが活躍していた時代から大急ぎでページをめくるようにメサベルデを後にして、西に向かって3時間程車を転がすとペイジというレイク・パウエルのゲートシティに到着した。Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであれば$150くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Expressホテルにチェックインすると翌日のウォーターアクティビティに思いを巡らせながら長い夜を過ごしていた。

8月23日(月)

グランドキャニオンの上流に94もの峡谷が複雑に入り組んだ場所があり、そこはグレンキャニオン国立レクリエーションエリア($15)に指定されている。その乾いた風景の中でコロラド川をせき止めてダムが造られ、世界で2番目に大きな人造湖レイク・パウエルが誕生しているので見物をぶちかますことにした。

ペイジからUS89号線を進み、コロラド川をまたいでいるグレンキャニオンブリッジを渡ると右手にグレンキャニオン・ダムのビジターセンターであるCarl Hayden Visitor Centerが開業していたのでダム建造の背景を学習するために入ってみることにした。巨大なレイク・パウエルを出現させたダムは高さ216m、幅475mで1956~64年にかけて建設された。コロラド川の下流にあるフーバー・ダムより多少サイズは小さいもののグレンキャニオンという特異な景観に見事にマッチしており、レイク・パウエルを満水にするのに17年もの歳月をかけやがったそうだ。

ビジターセンターでは30分毎にダムの設備を見学するツアー($5)が催行されているので参加させていただくことにした。エレベーターでダムの内部に下りると摂氏15℃程度の冷たい空気が流れている。これはダムに満たされている水の表面温度は高いのだが、水深が深くなるほど水温が下がるため、自然のエアーコンディショナーが効いているためである。水力発電のファシリティは8基のGE製のジェネレーターが稼動しており、近隣の州に十分な電力を供給している実態を確認することが出来た。

レイク・パウエル観光の中心地ワーウィーブ・マリーナにLake Powel Resortが展開されており、そこでレインボー・ブリッジまで行って帰ってくるRainbow Bridge Cruise ($121.25)が開催されているので参加することにした。尚、レイク・パウエルはアメリカ西部におけるウォーターアクティビティのメッカであり、ここでの足は船しかないのでCruiseの価格は比較的高めに設定されやがっているのだ。

Cruiesは午後12時30分にスタートし、観光客はリゾート裏手のドックからCANYON ODYSSEYと名乗る船に乗り込むと「水をたたえたグランドキャニオン」との異名を取る迫力の景観が次々に出現し、皆思い思いにデジカメのシャッターを切りまくっていた。

レイク・パウエルの水位は全盛時よりも多少落ちている様子で満水時の水位は岩の変色部により容易に確認出来るようになっていた。尚、この湖の長さは約300km(東京-名古屋間に相当)もあり、その不思議な景観は「猿の惑星」等数々のSF映画の舞台となっているのだ。

マサよ、君は織田裕二率いる「踊る大捜査線」さえ封鎖することが出来ない巨大なレインボー・ブリッジがレイク・パウエルの奥地にひっそりと佇んでいる実態を確認したことがあるか!?

ということで、ユタ州にはアーチやブリッジと呼ばれる「穴のあいた巨岩」がたくさんあるのだが、レインボー・ブリッジはその完璧な形状や大きさからナンバーワンに位置づけされている。船はいつのまにか狭い入り江を縫うように航行しており、左右には巨大な岩が目前に迫ってきていた。

巨岩の間にレインボー・ブリッジと観光客との橋渡しの役目を担う桟橋が設置されているので船はそこに横付けされた。観光客は「事件は会議室で起こっているのではない!」という勢いで下船すると先を急ぐように現場へと向かっていった。ついに、「織田裕二が来た~~~!」という心の絶叫とともに山本高広の凋落とは対象的な巨大な虹が目の前に現れたのだ。

レインボー・ブリッジは世界最大のナチュラル・ブリッジでその高さは88m、差し渡し84mでお台場にかかっているまがい物と比べても決してひけをとることのない代物である。また、この地の先住民ナバホの言い伝えによると「虹が固まって石になってしまったものだ」と言われ、非常に神聖視されているので高い金を払ってここまで来た観光客でさえ、橋のたもとに近づくことは許されないのだ。

レインボー・ブリッジが湾岸署ではなく、ナバホに封鎖されている実態が確認出来たので船に戻り、いかりや長介の怒りはいかにと考えながらさらに2時間程の航海を経て午後6時頃に船はLake Powel Resortにいかりを降ろしたのであった。

レイク・パウエルのゲートシティであるペイジを後にしてナバホの居留地を疾走し、午後8時過ぎにKayentaの町に到着した。Priority Clubのポイントがまだ余っていたのでマサであれば$150くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Monument Valleyにチェックインするとナバホ居留地ではアルコールの販売が禁止されているという衝撃の事実に直面して不貞寝を決め込むことにした。

8月24日(火)

日の出前にホテルを抜け出し、月明かりの残る暗い道をひたすら疾走した。月が西に落ち、東の空が徐々に明るくなってくると遠くに幻想的なシルエットが浮かび上がってきた。車は「アメリカの原風景」とも言われる西部劇の舞台にいつの間にか吸い込まれて行ってしまっていた。

午前6時過ぎにモニュメントバレー($5)のゲートをくぐり、10年ぶり(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2000gc.html)にこの地を訪れたのだが、今ではリゾートホテルやビジターセンターが充実した一流観光地に成り上がっており、宿泊客が思い思いにサンライズの景色を楽しんでいた。

真夏の太陽が上り、幻想から現実に引き戻されたので一旦ホテルに戻り、チェックアウト後にナバホの歴史を思い知るためにNavajo National Monumentに向かった。ビジターセンターの内部では原住おばちゃんが手工芸品の機織にいそしんでいたのだが、写真を撮るためには$5払いやがれという看板があり、現実の厳しさを思い知らされたので裏手のキャニオンのトレイルにエスケープすることにした。0.62マイルのSandal Trailの終点はベタテキン(BETATAKIN)展望台となっており、そこからナバホが建築した岩棚の家を見下ろすことが出来たのだった。

再びモニュメントバレーに戻る道すがら、真直ぐな一本道の向こうに立ちはだかるビュート(残丘)やメサ(テーブル上台地)を目指しているとアリゾナ州とユタ州の州境に差し掛かった。モニュメントバレーはマサにユタとアリゾナをまたいでおり、ゆったりと時間が流れているユタと夏時間を採用していないアリゾナとは1時間の時差があるはずなのにアリゾナであってもナバホ居留地だけは夏時間を採用して帳尻を合わせているのだ。

午前11時前に再びモニュメントバレー、正式名称”Monument Valley Navajo Tribal Park”のゲートを通過し、園内に戻ってくると駐車場にはおびただしい数の車やバスが満ち溢れていた。またバレーツアーを催行するためのバンもたくさん待機しており、増加する観光客需要に十分応えているようであった。

バレーツアーは1.5時間ツアーと2.5時間ツアーの2種類があるのだが、今回は園内の奥地まで侵入する2.5時間のツアー($70.-)に参加させていただくことにした。ガイドのベニーが運転する4WDのバンはWest Mitten、East Mittenに見送られるように急な坂道のオフロードを転がるように荒野へと下り、ツアーの火蓋が切って落とされた。

「荒野の決闘」の第一弾は名匠ジョン・フォードがしばしばカメラをセットした彼のお気に入りの地点であるJohn Ford’s Pointであった。この場所にはジョン・ウェインに扮したえせカウボーイが常駐しており、観光客からチップを巻き上げながら自ら絶好の被写体となっていた。また、スリー・シスターズを見上げるこのポイントには数件の土産物屋が出店しており、手作りアクセサリーの販売によるナバホの貴重な収入源となっていた。

バレーは奥地に進むにつれて荒野から緑の台地に変貌を遂げ、ところどころには豪雨によるものであろう水溜りも形成されていた。陽気に手を振る乗馬ツアーの集団とすれ違ったかと思うと騎手のいない半野生化した馬の集団にも遭遇し、あたかも映画のワンシーンが提供されているかのようでもあったのだ。

厳しい自然環境の中で生き抜いてきたアナサジが描いた下手な絵をチラ見して長年の風雨によってくり抜かれたEAR-OF-THE-WINDで猛烈な暑さの中で風の音に耳を傾けた後、BIG HOGANに向かった。ホーガンはナバホの人々が居住する粘土で作ったお椀型の住居であるが、自然の産物であるBIG HOGANを下から見上げるとコンドルの横顔に見え、不思議な感覚を覚えるのだった。

バレーツアーもクライマックスを迎え、モニュメントバレーのシンボルとも言えるトーテムポールのビューポイントにたどり着き、中指を天に突き上げるように人間として一本筋を通していただいた。締めはThe Thumbを見上げながら親指でOKサインをいただくとモニュメントバレーに別れを告げ、コロラド州への帰路に着いたのだった。

8月25日(水)

久しぶりにお金を払って宿泊したHoliday Inn DurangoをチェックアウトするとUA6837便にてDenverに戻り、裏の仕事へ・・・

8月27日(金)

Hilton Fort Collinsホテルで実施された裏の仕事のミーティングもつつがなく終了し、今夜はコロラド・ロッキーズの試合を見に行くというイベントに参加することと相成った。通常であれば私の先導の下での野球観戦となるのだが、今回は会社が手配した観光バスに乗ってCoors Fieldへと向かった。Corporateや団体のPartyのために手配されるはずのSummit Party Suiteに陣取ったのだが、そこにはフルコース系のディナーが用意されており、ステーキの肉はホテルで供給されるものよりもさらに柔らかく高級感があったのだった。

8月28日(土)

ミーティングのオプションとしてTeam Buildingのアクティビティに参加しなければならなかったのでロッキー山脈の山麓に位置するSylvan Dale Ranchという牧場まで繰り出すこととなった。参加メンバーは乗馬とフライフィッシングの組に分かれることになるのだが、武豊なみの才能を持つはずの私であったが、今回はG1ではなかったのでフライフィッシングをやることにした。

釣り場は近くの川から水を引き込んだ狭い池で最初にインストラクターによるフライフィッシングのレクチャーが行われた。そのおかげで100回程シャドー・キャスティングをやる羽目になり、参加者は皆肩の痛みをこらえながら釣りを楽しむことと成った。しかし、あいにく水温が高すぎてコンディションが悪く、通常であれば松方弘樹のマグロなみの大物を釣り上げるところであったのだが、本日の釣果は中国人が引っ掛けた死亡したマス1尾のみであったのだった。

FTBサマリー

総飛行機代 $387.40

総宿泊費 $266.32

総レンタカー代 $128.11

総ガソリン代 $68.5

総Glen Canyon Damツアー代 $5.00

総Lake Powell Boat Tours代 $109.00

総Monument Valley 2.5時間ツアー代 $70.00

協力

ANA、United航空、ハーツレンタカー、Priority Club、HiltonHHonors

FTB発掘あるあるインカ帝国調査イインカイツアー(捏造なし!)

FTBではこれまでマヤ文明、アステカ文明、エジプト文明等数々の古代文明の謎を解明してきたが、今回はインカ帝国調査委員会を立ち上げ、捏造ではない本物の謎の究明に立ち向かうため、ペルーへと旅立つことにしたのである。

2007年8月11日(土)

盆、暮れの繁忙期にはエコノミークラスが満席となるため必ずビジネスクラスにアップグレードしていただけるNH8便サンフランシスコ行きに乗り込むと追い風にうまく乗り切れないため1時間の遅れを出しながら午前11時にやっとのことで地元サンフランシスコに到着した。早速BARTでバ~とダウンタウンに滑り込むとその足でサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であるAT&Tパークに向かった。

今回のMLB観戦のハイライトはスーパースター、バリー・ボンズの756号ホームランボールの争奪戦に勝利し、そのボールを福岡に持ち帰り王監督のサインをもらってe-Bayに出品し、高値で売り抜ける予定であったが、すでに兵どもが夢のあと状態だったため、何の変哲もない野球観戦に成り下がってしまっていた。桑田が桑わっ田ピッツバーグ・パイレーツとの試合は午後12時50分にプレーボールとなったのだが、私が見たかった出来事であるボンズのホームラン(758号)と桑田の登板はすでに昨日の出来事となってしまっており、今日はボンズは休養日で大量リードで勝利したパイレーツは桑田を出す機会がなく、唯一の見所は過去の遺物となった投手が捕手のサインを覗き込む時の「パイレーツだっちゅ~の」のポーズだけであった。

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野球観戦終了後、次のフライトまでの空き時間を潰すべく、$5に値上されているケーブルカーには乗らずにその横を歩きながらダウンタウンの観光を実行することにした。夏休みの観光スポットはどこも家族連れで賑わっており、ケーブルカー乗り場には長蛇の列が出来ており、観光客は箱乗り状態でアップ・ダウンを楽しんでいた。

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8月12日(日)

思わず相方のトシに「欧米か?」と突っ込まれそうになるタカ・ペルー航空が運航する午前1時20分発TA561便にチェックインする際に目的地は「南米か?」と聞かれたのでペルーのリマだと答えておいた。4時間以上のフライトで中米エル・サルバドルの首都サン・サルバドルに到着し、この空港で5時間近くを座り心地の悪い椅子の上で不貞寝をしてやり過ごし、さらに5時間以上のフライトでリマのホルへ・チャべス国際空港に到着したのは夕方の6時半過ぎであった。何故か手元にあったユーロを現地通貨であるソルに両替した後、本日の宿泊地であり、セントロに位置するシェラトンホテルまでの交通機関を探していると日本の三井物産が経営しているMITSU TAXIに捕まってしまったので仕方なく、相場より高いUS$27を支払って実車することにした。ホテルまでの道すがら、私を上客だと判定した運転手から巧みな営業を仕掛けられ、今後空港までの行き来に関してはすべてMITSU TAXIをチャーターすることになってしまった。

8月13日(月)

STAR WOODSのポイントが余っていたため、マサであればUS$100以上かかるところを私はただで宿泊することが出来たシェラトンホテルをチェックアウトすると、早朝7時に迎えに来たMITSU TAXIに乗り込み、昨日着いたばかりの空港に舞い戻った。リマ ⇔ クスコ間のフライトは多くの航空会社が参入し、競争が激しくなっているのだが、その中の代表的なエアーラインであるアエロ・コンドルを選択しようとしたところ「混ンドル!」と拒否されるのを恐れてWEBから容易に予約の出来たSTAR PERUの1117便に搭乗し、午前9時15分にリマをコンドルのように飛び立った。上空から下界を見下ろすと茶色い不毛の大地が果てしなく広がっており、起伏に富んだアンデスの遠景を鳥瞰することに成功した。

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午前11時前に標高3,399mのクスコ空港に着陸し、空港外でラジオタクシーを捕まえると翌日に控えたマチュピチュ行きの列車のチケットを現地手配すべく、ワンチャック駅へ向かった。南米独特のスローサービスにより、何人もの旅行者がチケット購入待ち状態になっていたのだが、皆文句も言わずに待合室でインカ帝国探訪に思いを馳せており、怒りの火花が導線に引火することもなかったのだ。

駅到着1時間後に何とかチケットの購入に成功すると念願の古都クスコ(世界文化遺産)の散策に乗り出すこととなった。クスコはかつて北はコロンビアから南はチリ北部まで、南北4,000kmもの地域を支配していた南米最大の王国、インカ帝国の首都であった。1534年にスペイン軍の侵攻を受けると町は崩壊したのだが、新たに精巧なインカの石組みを基盤としたスペイン風の街並みが建造されたのだ。その代表的な建造物としてサント・ドミンゴ教会(S/.6)がインカの石組みに支えられた状態で今なお堅牢さを誇っているので手始めに見学させていただくことにした。ここはインカ時代にはコリンカチャ=太陽の神殿として君臨し、内部は眩いばかりの金で装飾が施されていたのだが、黄金に目がくらんだスペイン人がすべて略奪し、延べ棒に変換して本国に送信してしまったのだ。しかし、黄金がなくなった今もその美しい石組みは健在でインカの建材加工の精密さを長きにわたって伝承しているのだ。

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200mも続く石組みが残るロレト通りを歩いていると高地での酸素不足からろれつが回ってないのを感じながらも何とかクスコの中心であるアルマス広場に到着した。スペイン式町造りは中心にアルマス広場をおくことから始まるのであるが、偶然にもインカ帝国の町造りも広場が中心だった。ここは広場を見下ろすカテドラルをはじめ、レストラン、旅行会社、土産物屋に囲まれた最大の観光拠点となっている。

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髭剃りメーカーのジレットがじれったく感じる「カミソリの刃1枚すら通さない」と言われるインカの石材建築を象徴する物件として宗教芸術博物館があり、その建物を支える礎石として12角の石が有名である。通常の石組みであれば4角形で十分なのだが、あえて難度が高い多角形に挑戦し、ピッタリと寸分の隙間もなく、しかも接合剤も使わずに組み上げ、数度の地震を乗り越えながら何百年もの間ビクともしていない様子は日本の城郭を支える石垣とは趣の異なる美意識を感じさせる代物である。尚、12角の石よりも小ぶりであるが、近辺に14角の石もひっそりと佇んでいるのだ。

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夕暮れ時にアルマス広場に立ちふさがるカテドラル(S/.16)に侵入した。この物件はインカ時代のピラコチャ神殿の跡に建造されたもので、1550年に建築が始まって完成したのは100年後と言われている。内部にはトポシの銀300トンを使ったメインの祭壇が鎮座しており、約400ある宗教画の中ではクスコ名物のクイ(テンジクネズミ)が盛られてある「最後の晩餐」が目を引いた。

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マサよ、君は空気が薄くて寝苦しい夜を過ごしたことがあるか!?

楽天トラベルに予約させておいたSan Agustin Plazaホテルの予約が通っていないという危機に直面したため、系列のSan Agustin Internationalと交渉し、新たにディールを成立させて宿泊したその夜は高地に位置するクスコの空気が薄いため、呼吸困難を経て意識不明状態に陥り、見事睡眠状態を達成するという荒業が完成されたのだった。

8月14日(火)

午前5時前に何とか蘇生し、5時より供されている朝飯を食ってホテルをチェックアウトし、マチュピチュ行きの列車が発着するサン・ペドロ駅に向かった。クスコからマチュピチュへは鉄道でアクセスするのが一般的になっており、通常早朝に数本の列車が出るのみである。午前6時15分に発車したビスタドームと呼ばれるパノラマ列車内ではペルーの旅行会社であるミッキーツアーの日本語をしゃべるペルー人のツアーガイドに席が進行方向ではないと文句を言っている日本人観光客の愚痴と隙間風のように入り込んでくるディーゼルの排気ガス以外は快適な環境が提供されていた。4,000m超の山を越えるため、3回のスイッチバックを繰り返しながら列車はゆっくりとクスコの街並みを見下ろすように進み、その後車窓は次々にとうもろこし畑、アンデスの雪山、マチュピチュ近辺のジャングルといったものを映し出していった。

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わずか114kmの距離を4時間以上かけてマチュピチュ村にあるアグアス・カリエンテス駅に10時半頃到着し、観光案内所でマチュピチュの入場券(S/.120.50)を購入するとシャトルバス(US$6)に乗り込みつづら折の未舗装道路を30分くらいかけてマチュピチュの入り口に登りついた。インカ帝国を語る上で数々のテレビ番組で「空中都市」、あるいは「失われた都市」として取り上げられているマチュピチュ(世界文化自然複合遺産)は15世紀前半、スペイン軍によるインカの都市の破壊を免れるために標高2400mに造られており、無傷のままインカ帝国滅亡から400年近くを経過した1911年にハイラム・ビンガムに発見されたのだ。

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午前11時過ぎより早速マチュピチュの謎の解明に取り掛かることにしたのだが、手始めにマチュピチュの背後にそびえる峰であるワイナピチュに登頂することにした。ワイナピチュへの入山は一日400人に限定されており、何とか400番目の入山権利を首尾よく入手すると断崖絶壁で急勾配の道をピチュピチュと汗を滴らせながら進むトレッキングをスタートさせた。眩い太陽の下、過酷な坂道を40分ほど登ると、頭上にインカの遺跡が見えてきた。さらに岩の下に空いた洞窟を抜けると頂上に到達し、巨大な岩の上で多くの観光客がマチュピチュの遠景や周囲の山々を覆うジャングルの景色に見入っていた。頂上からマチュピチュを見下ろすと遺跡が尾根にあるのがよくわかり、そこに到達するためのシャトルバスの路線がつづら折状に山間に美しくつづられているかのようだった。

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ワイナピチュから滑落することなく来た道を逆方向にチュピチュピと下山することに成功したので遺跡の隅々を隈なく調査することにした。マチュピチュの食生活を支えるために重要な役割を果たしていた段々畑が大きなスケールで広がっており、遺跡の中心部には石を削って造られた水路が張り巡らされ、きれいな山水が流れていた。また、遺跡の中央には太陽の神殿が君臨しており、石で描かれた美しい曲線が目を引いた。神殿の下は陵墓になっており、ミイラの安置所だったと思われる。

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マチュピチュの最高点にインティワナと言われる高さ1.8mの日時計が時を刻んでいる。その眼下には糸のように細いウルバンバ川とめまいをおこしそうな絶壁が見下ろせる。高台に沿って神聖な広場と3つの窓の神殿を抜け、市街地を通り過ぎ、最も定番のマチュピチュの風景が撮影できるポイントである見張り小屋に登った。記念写真の順番待ちをする観光客の合間を縫って風景を撮影していると飼いならされているリャマの集団に遭遇し、砂浴びの砂嵐を見舞われてしまった。

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マチュピチュを発見したアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムの名を冠したバス道ではなく、下山道はジャングルを切り開いた階段道を選択し、1時間ほどで麓のマチュピチュ村に帰った来た。ミッキーツアーによる日本人観光客に占拠されているHOSTAL ELSANTURIOにチェックインした後、村の散策に乗り出すことにした。村長の多忙さを尊重して面会は申し込まなかったものの、村内にはインターネットカフェやトレッキングで疲れた肉体を癒すためのマッサージ屋、さらにはアンデアンスパという温泉まで沸いているのだ。

8月15日(水)

早朝よりバスに乗り、再びハイラムビンガムロードをくねくねとドライブし、マチュピチュの入り口に到着した。ここで直面した衝撃の事実は大金をはたいたにもかかわらず、入場チケットは有効期間は3日であるが、1回入場すると無効になるという事実が私の理解しないスペイン語で書かれているということであった! やむなく空中都市から地上に舞い戻ると列車の時間を変更してもらい、9時15分発のオリャンタイタンボ行きのバックパッカー列車に乗車した。

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6000m級の山々に囲まれたインカの聖なる谷のほぼ中心に位置するオリャンタイタンボ(S/.70=周遊チケット)はインカ帝国時代の宿とも要塞跡ともいわれており、300段の階段に沿ってタンボの代わりに段々畑が斜度45度の斜面に造られている。300段の階段を登りつめると広場に出た。広場の周辺には恒例のインカの石組みが続き、中央には6個の巨石を並べた不思議な建造物が残っている。一説によると太陽の神殿の作りかけではないかと言われているが、いずれにしてもこの急斜面をどうやって持ち上げたのか謎は残ったままである。

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オリャンタイタンボで乗り合いタクシーに乗りあって午後5時くらいにクスコに戻ってきた。街中では何らかのフェスティバル&カーニバル系の催し物に遭遇し、原住民ギャルが脚線美を見せ付けるように踊り狂っていた。夕暮れ時にクスコの市街を見下ろせる高台にあるサン・クリストバル教会に息を切らせて駆け上がり、たそがれる夕暮れの風景にインカ帝国への思いを馳せることにした。

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アルマス広場に戻り、民芸品を売りつけようとするアンデスの民の攻撃を避けながら、日本食堂であるKINTAROに非難し、マスの塩焼きを食っていると熊と相撲を取ったときのような振動を感じて思わず店員と顔を見合わせてしまった。これが何百人もの命を奪った大地震であることをその時点では知る由もなかったのだった。

8月16日(木)

早朝7時30分発のSTAR PERU航空でリマに戻り、待ち構えていたMITSU TAXIでダウンタウンに向かい、かつてフジモリが仕切っていたペルーの心臓部への侵入を果たした。1535年の建設以来、、南米におけるスペイン植民地の中心として栄えたリマは今では旧市街のセントロと新市街のミラフローレンス地区に分かれているのだが、まず手始めに世界文化遺産に登録されているセントロの中心であるアルマス広場を訪問した。

アルマス広場の正面に堂々とそびえているカテドラルはコンキスタドール(征服者)の総督フランシスコ・ピサロにより」礎石が置かれ、リマ建設と同時に建立されたものだ。その脇には1587年建造のペルー政庁が構えており、毎日正午を迎えると衛兵交代式が行われるので話の種に軽く見学させていただいた。

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旧市街で最も美しいと言われるサン・フランシスコ教会・修道院に宗教博物館(S/.5)が開館していたのでスペイン語のガイドツアーに便乗させていただくことにした。丁度現地在住であると思われる日本人のおじいちゃんを訪問した家族集団と一緒だったのでおじいちゃんの中途半端な解説を聞きながらのツアーとなった。ここでの最大の見所は地下にある墓地カタコンベである。天井の低い暗い地下室には長方形の囲いの中に人間の手足の骨が詰め込まれ、さらに奥にある大きな穴の中にはドクロが渦状にまるで芸術品のように並べられているのだ。

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セントロのアルマス広場とサン・マルティン広場を結ぶラ・ウニオン通りを通っているとどこぞの国のTV局の取材クルーが地震被害の取材を行っている様子でガラスが軽く割れているビルは立ち入り禁止の黄色いテープが施されていた。

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すでにリマでの定宿となった旧市街のはずれに位置するシェラトンホテルから新市街へのシャトルバンが出ているので便乗してミラフローレンス沿岸沿いにあるラルコ・マルというショッピングモール、ダイニング、エンタメ系の複合ファシリティにたどり着いた。ラルコ・マルの展望台からは太平洋が一望出来、そこから徒歩10分位のところに位置する恋人達の公園という海岸公園には日本柔道協会が公認しそうなケサ固めによる押さえ込みのモニュメントが置かれていた。

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8月17日(金)

早朝より再びアルマス広場を訪れ、2001年に破綻したフジモリ政権に別れを告げると、ホテルに迎えに来たMISTU TAXIに乗り込み、空港への帰途に着いた。尚、今回の地震で最大の被害を受けたイカ州はナスカの地上絵の観光拠点となっている場所で今回は予定していなかったのが幸いした。もしイカにいた時に地震に遭遇していたら崩壊したビルの下敷きとなり数日後にスルメの状態になって発見されていたかも知れない。

リマのホルへ・チャべス空港からTACA PERU航空に乗り、再びサン・サルバドルを経由してサン・フランシスコに帰る機内で黄色い液体であるインカコーラを痛飲しながら、ペルー人にイイン加減な奴だと思われることなく帰路に着いた。

8月18日(土)

サン・フランシスコよりNH7便に搭乗し、機上の人となる。正露丸を飲みながら乗務している気分の悪そうなスチュワーデスがいたが、救いの手を差し伸べることが出来なかった。

8月19日(日)

ペルーで地震が起こった時には無事帰国出来るかどうか自信がなかったが、何とか成田空港に到着し、そのまま流れ解散。しかし、むしろこの地震を理由に会社には帰国出来なくなった旨を伝え、ボランティア活動に移行すべきではなかったかとも思われた。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥207,290、TACA航空(UNITED) = ¥96,690、STAR PERU = US$209.44

総ペルー空港使用料 US$42.5

総宿泊費  S/.1,007.16、US$99.96、¥6,000

総BART代  US$10.3

総MITSU TAXI代  US$108

総ペルータクシー代  S/.20

総PERU RAIL代  US$96.5

総マチュピチュシャトルバス代  US$12

総サンフランシスコタクシー代 US$16

協力 ANA、TACA航空、STAR PERU航空、STAR WOODS、MITSU TAXI、PERU Rail

FTB GWスペシャル ゴジラ v.s. Havana Express

マサよ、君は表彰盾とともに自分の栄光の名前が掘り込まれた高級ボールペンを航空会社から受け取ったことがあるか!?

ということで、ANAマイレージクラブダイヤモンド会員を5年間防衛している私にその栄誉を讃えるため、記念の盾と贈答品が送られてきやがった。これもひとえに私の努力の賜物であるので遠慮せずに納めさせていただくことにするとともにGWの喧騒を引き裂くようにニューヨークに旅立つことにした。

2007年4月28日(土)

ANAのファーストラウンジにてヤンキースの強力打線に立ちふさがる松坂の勇姿を見物しながら時間をつぶし、午前11時発のANA10便に乗り込むと11時間程度のフライト時間で同日午前9時過ぎにニューヨークに到着した。早速エアートレインと地下鉄を乗り継いでマンハッタンに侵入し、その勢いで2年ぶりのヤンキーススタジアムに乗り込んだ。

MLB最大の伝統の一戦ヤンキースV.S.レッドソックスは午後3時55分にプレーボールとなった。ヤンキースの先発投手のカーステンスが投じた1球目を振り抜いた先頭打者フリオ・ルーゴの打球は弾丸ライナーで投手の膝下を直撃し、カーステンスはスッテンテンになったかのように転倒してしまった。何とか立ち上がって2番打者に立ち向かったもののヒットを打たれそのまま降板し、先発からリリーフに格下げになっていた井川が急遽マウンドに向かうこととなった。マサに胃が悪くなるほどの状況でマウンドに上がった井川であったが、次打者のレッドソックス最強打者であるデイビッド・オルティスを併殺に打ち取り、次のマニー・ラミレス四球後、J.D.ドリューも三振に斬って取り、見事にピンチを切り抜けるとそのまま6回0/3を無失点に押さえ、降板時には念願のスタンディングオベーション浴びることとなったのであった。

一方、ゴジラ松井であるが、2回に回ってきた第一打席で見事中前安打を放ち、電光掲示板に「HIT-DEKI」の文字を躍らせていた。試合の方は4回に四球で出塁した松井を1塁に置いて打席に立ったホルへ・ポサダがライトアッパーデッキに特大ホームランを打ち込み、打球を取ろうとしたファンのビールがアッパーデッキからロウアーデッキにしぶきとなって流れ落ちる状況の中で2点を先行したヤンキースが終始試合をリードし、3対1で逃げ切って連敗を7で止め、井川が見事に今季2勝目を手にしたのであった。

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4月29日(日)

マディソンスクエアガーデンの近くに位置するエレベーターの反応が遅いHampton Innをチェックアウトすると再びヤンキースタジアムの喧騒に身を委ねることにした。怪我から復帰したエース王建民を先発に立てたヤンキースであったが、初回いきなりレッドソックスの主砲ディビッド・オルティスに先制の2ランホームランを打ち込まれ、ヤンキースのミンケイビッチのつかの間の逆転3ランの後にレッドソックスの伏兵アレックス・コーラのスカッとさわやかな逆転ホームランでマサにシーソーゲームの様相を呈していた。

多くの日本人に見守られたこの試合の最大の見せ場は6回の裏のヤンキースのチャンスにリリーフに立ったレッドソックスの岡島v.s.松井という巨人の紅白戦を彷彿とさせるような対戦であった。すでに左打者二人を三振に切って取り、2アウト1,2塁という場面で松井と相対した岡島は速球と変化球を駆使し、見事松井を投ゴロに打ち取ったのであった。続く7回の裏も三者凡退でヤンキースの攻撃を退けた岡島の勢いを買ってレッドソックスはこの試合を7対4で物にし、アリーグ東地区首位の座を不動のものとしたのであった。

4月30日(月)

Newark Liberty空港からAirCanadaの便でトロントに飛び、そこからキューバまで足を伸ばすことになっていたのだが、これはあくまでも急場しのぎの予定ではない。なぜなら、キューバに入国するためにはキューバ大使館で事前にツーリストカードを入手しておく必要があったからだ。

ANAのマイレージが余っていたのでマサであればCA$1,100.-くらいかかるところを私は税金のみの支払いで搭乗することが出来るAC964便に乗り込むと午後1時過ぎにはキューバの首都ハバナに到着した。ここハバナは私の最も敬愛するサングラス俳優である寺尾聡が歌唱するHAVANA EXPRESS(http://www.youtube.com/watch?v=cPli_1AaLSs)を耳にして以来必ず来なければならないと思っていたのだった。

ハバナ空港にてUS$を現地通貨であるキューバペソに両替し、客待ちしているOKタクシー(CUC25.-)に乗り込むと30分程度で首都ハバナの旧市街であるラ・アバーナ・ピエハ地区に位置するあらかじめ予約しておいたホテルイングラテーラに到着した。このホテルは1896年に建てられた由緒あるスパニッシュコロニアル様式を誇っているが、客室は建築年数相当のしなびかたをしていた。とりあえず3時間程度ホテルでダウンさせていただいて、夕暮れ時にユネスコの世界遺産にも指定されているラ・アバーナ・ピエハ地区こと旧市街の散策に繰り出すことにした。

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旧市街には19世紀後半のキューバ黄金時代に財力をつぎこんで建てられた見事な建造物が多く残され、町中が見所になっており、コロニアルな街並みのなかを1950年~60年代の米式クラシックカーが我が物顔で疾走している。社会主義国であるキューバは一般的に治安のよい国として知られているのであるが、私にとっては150kmの速球を投げる人材がごろごろしているので決して侮れない国だと思われた。その証拠に町中のあらゆる広場や道路上で子供が草野球に興じており、ここでは王・長嶋全盛時代の古き良き日本の原風景を垣間見ることが出来るのだ。早速私も松坂直伝のジャイロボールを伝授してやろうとストレッチを始めたのだったが、肘が痛いのでやめておくことにした。

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ハバナ港へ通じる運河を守るために造られたプンタ要塞近辺におびただしい数の観光客と夕涼み系の原住民がたむろしているので私もその仲間に加わることにした。プンタ要塞からは対岸のモロ要塞がモロ見えになっており、港から流出する油により汚染された海では原住民が釣り糸だけを垂らすという一糸釣り状態で小魚を釣り上げていくうちに日も暮れていったのだった。

5月1日(火)

私の宿泊地であるホテルイングラテーラの隣はガルシア・ロルカ劇場という1838年に建立されたキューバ・クラシックバレエの本部であり、その隣はカピトリオという旧国会議事堂で1929年に建築されたアメリカのホワイトハウスがモデルになっている旧市街のランドマークである。今日はメーデーのために中に入れなったため、近隣の華人街の門を見上げたりしながら、旧市街を散策することにした。

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昔ながらの面影を残すオビスポ通りには昔ながらのレストランやかつてアーネスト・へミングウエイの常宿となっていたピンク色がまぶしいホテル・アンボス・ムンドスが君臨している。「老人と海」の著作で有名なへミングウエイはこのホテルの511号室に引きこもって執筆活動を行っていたそうだが、確かにこの雰囲気は私にとって財務省に巣食う怪老人とそれに取り入ろうとするマサとの友情を描いた「老人とマサ」を執筆するためのノウハウを身に着けるにはもってこいの土地柄だと思われた。

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キューバの特産物としてハバナ・シガーという葉巻とともにハバナ・クラブというラム酒が有名であるのだが、その製造工程を学習出来るハバナ・クラブ博物館(CUC5.-)に酔ってもない勢いで立ち寄って見ることにした。とりあえず気つけのためのラム酒カクテルを飲んだ後、英語のツアーに参加し、サトウキビから作られるラム酒の製造過程を見学させていただいた。このファシリティには1930年のラム工場を再現したミニチュアがあり、沖縄からも輸入したというサトウキビを運ぶ蒸気機関車も走っているのだ。ツアーの最後はお決まりのバーでのラムのテイスティングとなっており、酔った勢いで物品を買わせるためのショップも待ち構えているのだ。

マサよ、君はキューバに最初に上陸した日本人の像が仙台育英学園の寄贈により、ハバナにおっ建てられている事実を知っているか!?

ということで、独眼竜政(マサ!)宗の命により1613年に欧州へのパシリ出張に駆り出された支倉常長はメキシコよりキューバに立ち寄ったという縁で今では銅像になるほどの有名人になっているのだが、そのいでたちは羽織、袴に扇子を持っているというおよそキューバ人のセンスとはかけ離れたものだと思われた。それにひきかえ、1704年に建立されたキューバ風バロックスタイルのカテドラルはその風貌、趣により、最大の信仰を集めるにふさわしい重厚な雰囲気で観光客を圧倒していたのだった。

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運河を挟んで旧市街の対岸に二つの重要な要塞が君臨しているのでタクシーで海底トンネルをくぐって見物に行くことにした。ハバナ旧市街を見下ろすようにたっているモロ要塞はそのモロさによりかつてはイギリスに襲撃され、占領されてしまったのだが、フロリダとの引き換えにより再びスペイン領となった後、牢獄等その他モロモロの役割を経て今では灯台の役目まで果たしている。

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モロ要塞と並ぶように建てられている規模の大きなカバーニャ要塞(CUC6.-)に侵入を果たした。ここでの見所のひとつとしてキューバのカストロ議長と並び称される革命の英雄であるチェ・ゲバラの博物館があるのだが、メーデーのため休館となっており、「チェ!」という捨て台詞を吐いて撤退するしかなかったのである。カバーニャ要塞の人気は、毎晩21:00から150年間続けられている大砲の儀式である。日もとっぷり暮れた20時45分ごろからスペイン時代の制服を着た軍人たちが太鼓をたたきながら出現し、一連の能書き的な儀式の後で大砲に発火しやがった!一瞬鼓膜に突き刺さるような重低振動音をを発した大砲は暗闇を引き裂くような光を放ちながら空中に消え、意識を取り戻した観光客の喝采を浴びていたのであった。

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5月2日(水)

キューバ最大のビーチリゾートであるバラデロに移動するために新市街のバスターミナルに徒歩で移動し、スペイン語が分からない輩にはなってないと感じさせる運営により、乗るべきバスを探すのに苦労したのだが、何とか12時発のバラデロ行きのバスに乗り込み、途中休憩を挟み3時間くらいでハバナから140km離れた目的地に到着した。バラデロのバスターミナルにてホテルへの道筋を検討していたところ、原住民が白タクを買って出たので相場よりも高いはずのCUC10を支払って予約しているスーバー・クラブス・プンタレーナにたどり着いた。

マサよ、君はオールインクルーシブというリゾートにおける制度を熟知しているか!?

オールインクルーシブとは宿泊料金に食事、バー、マリンアクティビティ等すべての料金が含まれている体系のことで、チェックインの際にリストバンドを巻かれてホテルの宿泊客であるという認識のもとでサービスが提供されるシステムなのだ。早速マリンブルーが眩しいカリブ海のビーチに繰り出すことにした。通常の砂場色の砂が永遠に広がるビーチは結構波が高いものの遊泳には持って来いであったが海中には魚の姿を目にすることは出来なかった。その後プールサイドを散策してビールを飲みながらラテン系の貢物がもらえる催し物を見物した。尚、当然のことであるが、キューバくんだりまで来てスキューバダイビングを手がける輩のためにダイビングセンターも併設されているのである。

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5月3日(木)

バラデロからバスでハバナの旧市街に戻るとかつて大統領官邸として使われていた革命博物館(CUC5.-)に立ち寄ることにした。スペイン・コロニアル様式の博物館内には革命に関する資料や武器がところ狭しと展示されているのだが、最も人気のあるコーナーはベレー帽のカリスマ、チェ・ゲバラに関連する展示である。美人女優のチェ・ジウに匹敵する程の美男子であるチェ・ゲバラの生涯はゼンソク持ちにもかかわらず全速力で革命に明け暮れ、アルゼンチン人にもかかわらずカストロに次ぐキューバ革命政権の重鎮となり、キューバでは圧倒的な人気を誇っているのである。

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急場しのぎのツアーにもかかわらず社会主義とラテンイズムを堪能することに成功したキューバを後にすると夕刻には肌寒いトロントにいた。HiltonHhonorsのポイントが余っていたのでマサであればCA$200くらいかかるところを私はただで宿泊することが出来るヒルトントロントにチェックインすると窓越しに世界一の高さを誇るCNタワーを眺めながらとろんとした夜を過ごすこととなった。

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5月4日(金)

トロントからニューアーク空港に飛び、鉄道にてマンハッタンに帰ってきた。グランドゼロの状況が気になっていたので見に行くとワールドトレードセンターの跡地は相変わらず工事車両が行き来しながら新しいビルの基礎固めが入念に行われていた。

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ロウアーマンハッタンからブロードウエイを歩いていると溝を切った平べったい円筒形の物体に糸を巻きつけて中指からスナップを効かせて下に向かって投げたり、上に上がってくるような感覚を覚えたんで・す・YO♪ そしたら~、あ、そ~♪ ヒップホップ系の若者黒人たちが「ヨー、YO !」と言いながら闊歩していたぞ~!とりあえず、ぶつかりそうになったので「あ~い、とぅいまてぇ~~ん!!」http://www.youtube.com/watch?v=FEWI8WkqlQ8と言っておいた。

今回のツアーにてニューヨーク最後の夜を飾るにふさわしい一戦がヤンキースタジアムで繰り広げられるので地下鉄を転がして三たびヤンキースタジアムに出撃することにした。球場ではすでに試合前の打撃練習が行われていたのだが、外野守備に付いているシアトル・マリナーズのイチローは相変わらず背面キャッチ等のアクロバティックな動きを披露してヤンキースファンの喝采を浴びていた。また、球場の大スクリーンではヤンキースの栄光を語るビデオが毎試合繰り返されているのだが、ゴジラ松井も歯の浮くような台詞で栄光の賞賛に一役買っているのだ。

前回の好投により先発ローテーションの座を取り戻した井川の前に最初に立ちふさがったイチローであったが、簡単にレフトフライに斬って取られた。初回を0点に抑えた井川の勢いをかって1回の裏のヤンキースは一挙大量5点をもぎ取った。しかし、今日の井川は変化球のコントロールがなく、2回には城島との初対決で松井の頭上を超える本塁打を喫し、3回には一塁ゴロを放ったイチローとのベースカバー競争に負け、内野安打とした後、次打者ベルトレーに本塁打を打たれた。

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マサよ、君はゴジラのホームランにより、ヤンキースタジアムにゴジラの雄叫びがこだました瞬間を体験したことがあるか!?

ということで、5対3と追い上げられた3回の裏の先頭打者として登場したゴジラは右中間スタンドにライナーで叩き込み、1,999本目の日米通産安打は見事な井川への援護射撃となったのであった。しかし、今日の井川はそれでも調子が上がらず、4回の表にもタイムリー2塁打と本塁打でとうとう同点に追いつかれてしまった。4回の裏に再びリードしてもらった井川であったが、5回の表に2本のシングルヒットを浴びた後、胃が悪くなったヤンキースファンの雰囲気を感じ取ったトーレ監督は井川を諦め、ビーンにスイッチした。このミスター・ビーンもコメディのようにストライクが入らず、四球を連発するわ、城島にはタイムリーを打たれるわの火に油を注いだ状態でヤンキースファンの最大限のブーイングを浴びて早々とマウンドを後にした。結局15対11の乱戦を制したのはマリナーズでイチローと城島の健在振りを印象付けられた一戦であった。

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5月5日(土)

42nd Streetに位置するポートオーソリティバスターミナルから空港バス($15)に乗り、JFK国際空港からANA9便に搭乗すると待ち構えていたのはANAのパンフレットに登場しそうなほどの美人スチュワーデスであった。おかげで窓側に閉じ込められていた窮屈感も何とか我慢することが出来たのではないかと思われた。

5月6日(日)

機内でロッキー・ザ・ファイナルをはじめとする映画6本を鑑賞し、午後3時半頃に成田に到着、そのまんま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代  ANA ¥189,010, Air Canada CA$375.26 + ¥12,520(税金のみ)

総宿泊費  $563.19, EU143.-

総ニューヨーク地下鉄代  $20.-

総ニューヨークバス、鉄道代  $42.-

総キューバタクシー代 CUC63.-

総キューババス代 CUC20.-

総トロント空港バス代 CA$33.90

総ハバナ空港出国料 CUC25

総キューバツーリストカード取得料 ¥2,100

協力 ANA, Air Canada, HiltonHHonors, Starwoods、キューバ大使館

カリビアンを虜にするプエルトリコツアー

アメリカ合衆国50州を制覇してすでに4年の歳月が流れてしまった今日この頃であるが、世の中にはアメリカ合衆国領!というFTB未開拓の地が残っていると言われている。マサ率いる財務省が暗躍する日本も言ってみればアメリカの植民地に分類されるのであろうが、今回は日米野球界に数多くのカリブの怪人を輩出し、スカウトを虜にしているプエルトリコの実情の調査に向かうことにした。

2006年4月29日(土)

テロ、SARS禍、中国での反日デモといった例年のマイナス要因もなく、今年のゴールデンウイークは過去最大の高飛び野郎を輩出するというニュースに偽りなく、成田空港第二ターミナルは立錐の余地がないほどの人手でごった返していた。つい一週間前に裏の仕事のデンバー出張から帰って来たばかりの肉体に鞭打って午前11時10分発のNH2便ワシントンDC行きB777-200機(http://www.ana.co.jp/int/inflight/seatmap/b777_200/index.html)の33C席に陣取ると11時間ちょっとのフライトでワシントンダラス空港に到着した。そこからさらにUA8023便に乗り換えると午後2時過ぎにセントルイス・ランバート国際空港へ上陸することと相成った。

空港のハーツで名も知れぬ白いGM箱型車をレンタルすると早速ハイウエイに飛び乗ったのだが、驚いたことにそのハイウエイは赤ひげのホームラン王Marc McGwireの名前が冠されていたのであった!McGwireと言えば1998年に年間70本のホームランを放ち全米を興奮のルツボに陥れたことは記憶に新しいのだが、なるほどセントルイスを横断するI-70高速道路はマサにBig MACの名前にふさわしい太い道路であった。

ミズーリ州のI-70、通称Marc McGwire Highwayから州境のミシシッピー川を超えイリノイ州のI-55に乗り継ぎそのまま北に向かって70マイルほど走るとLincoln Home National Histric Siteという自然公園系のファシリティに到着した。着いた時間が遅かったためビジターセンターが閉まっていたので仕方なく周囲の散策を軽くこなした後セントルイスへの帰路に着いた。今日は初日ということで、Hilton HHonorsのポイントが余っていたのでマサであれば$90くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHampton Inn Florissantに引きこもり、巨人の星を見上げながら床に着くことにした。

4月30日(日)

セントルイスの郊外にアメリカの古い大統領であるUlysses Grantの住居がNational Histric Siteとして保存されているので見物に行ってきた。とりあえず数人の野次馬アメリカ人とパークレンジャーが案内するサイトツアーに参加したのだが、歴代の大統領を重んじるアメリカらしく古い屋敷を取り繕って観光客をおびき寄せている実態を垣間見た気がした。

セントルイスのシンボルと言えばミシシッピー河岸に仁王立ちし、その圧倒的な存在感で観光客の首をななめ上方45度に固定してしまうGateway Archである。この近辺はJefferson National Expansion Memorialとして国立公園に制定されており、西部開拓はこの地から始まったということを記念してGateway Archの地下のミュージアムにはインディアンや開拓者に扮した等身大しゃべる蝋人形君達が解説する開拓物語が観光客の注目を集めていた。

マサよ、君は田口壮という日本人プレイヤーがセントルイスくんだりでいぶし銀的輝きを放っている事実をしっているか!?

ということで、1999年8月以来(http://www.geocities.jp/takeofukuda/1999mlb.html)、約7年ぶりに野球の殿堂セントルイスのブッシュ・スタジアムを訪ずれなければならなかった。何故なら世界中の酔っ払いにバドワイザーを売りつけて暴利を貪っているアンハイザー・ブッシュがその財力を結集して新しいブッシュ・スタジアムをオープンさせやがったからだ。旧ブッシュ・スタジアムは円形闘技場を髣髴とさせるコロシアム風情の建築様式であったのだが、その廃墟の隣に築城された新ブッシュ・スタジアムはカージナルレッドを基調にした色使いは変わらないもののセンター後方にセントルイスのシンボルであるGateway Archの眺望を配した景観型スタジアムへと生まれ変わっていた。

カージナルスと言えばかつて星飛雄馬のライバルとして星一徹コーチの下で消える魔球に立ち向かったアームストロング・オズマを野球ロボットに仕立て上げた球団としてオールドファンの心の琴線を揺さぶった実績を持っている。しかし今やカージナルスの最大の目玉はオズマではなく、4月の月間本塁打記録を塗り替え、Big Macやバリー・ボンズを超える勢いの強打者であるアルベルト・プーホルズである。今日対戦したワシントン・ナショナルズの投手陣はいずれもプーホルズの強打に恐れをなし、敬遠を含む4四球でそのままホワイトハウスにお引取りを願いたいくらいなブーイングを浴びていた。

そ~そ~、田口壮の活躍も無視出来ないものであろう。今日はスタメンを外れていた田口は6回の裏3対2とカージナルスリードの2死2,3塁の場面で代打で登場し、見事センター前にクリーンヒットを放ち、2走者を迎え入れた。さらに次の打席でもライトに犠牲フライを打ち上げ、3打点を荒稼ぎし、見事にカージナルズの勝利に貢献したのであった。

オズマの聖地での日本人野手の活躍により溜飲を下げることが出来たので、その勢いでStarwoodのポイントが余っていたのでマサであれば$120くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るFour Points by Sheraton St. Louis Westに引きこもり、野球ロボットと野球人形のどちらになるべきかを考えながら感慨深い夜を過ごしていた。http://www.whv.jp/title/kyojin/about/story/index2.html

5月1日(月)

♪いますぐ~Kiss me, wow wow ゴ アゥェ~ I wish you、だ~い好きだ~よと笑ァ~てよ~♪

マサよ、君は日本を代表するロック・グループがリンドバーグにちなんでおり、Lindberghがセントルイスを根城にしていたことを知っているか!?(http://www.flight-lindberg.com/

ということで、セントルイス・ランバード空港のとあるゲートで目にした旧式飛行機のレプリカはかつてリンドバーグが大西洋無着陸単独飛行に成功した「Sprit of St. Louis」であることを確認し、♪ド~キィ、ド~キィすること、や~め~ら~れッ な~いィ~、オ~イェ~♪と操縦桿をマイク代わりに歌いながら大西洋上空を飛んでいたであろうリンドバーグを思い浮かべながらワシントンDCへの帰路に着いた。

午後を回ったころダラス国際空港に帰還出来たのでそのままシボレーキャバリエに飛び乗り、ワシントンのジョージタウンを散策した後、キャバ嬢を同伴した勢いでボルチモアまでひとっ走りした。私の推奨によりマサも行ったことがあるはずのオリオールパークアットカムデンヤードに午後6時半頃到着するとトロント・ブルージェイズに叩きのめされているオリオールズファンの断末魔の叫びを手土産にメリーランド州最西部のFrostburgのHampton Innに深夜チェックインし、メリージェーンを歌う暇もなく、ダウンさせられてしまった。

5月2日(火)

昨夜12時半過ぎのチェックインにもかかわらず、朝5時過ぎにHampton Innを引き払い、一路ワシントンダラス空港へと急いでいた。気が付くとボルチモアよりはるか140数マイル西方の山奥に引き篭もらされていたため、朝8時26分のフライトに間に合うかどうか微妙なタイミングであったのだ。案の定ワシントンに近づくにつれてラッシュアワーを迎えた高速道路は渋滞の様相を呈してきており、ダラス空港のUAのチェックインカウンターに到着したのは8時20分を回った時間であり、E-Ticketの自動チェックイン機の画面には無常にも飛行機は飛んじゃったよ~というアナウンスが表示されていた。仕方ないのでワシントンからプエルトリコへの直行フライトはあきらめて、UAの有人カウンターで他の便を探させることにした。結局午後2時50分発のシカゴ経由プエルトリコ行きのフライトを変更手数料$100の支払いで確保することが出来たのでラウンジで時間つぶしをしながらダラス空港でナマでダラダラ過ごすことと相成った。

ワシントンDCから元々行く気のなかったシカゴオヘア空港まで1時間45分、シカゴからプエルトリコの首都であるSan Juan(サンファン)まで4時間ちょっとのフライトでサンファンに到着したのは夜の11時前になっており、雨もしとしと降っていたのでとりあえずタクシーで予約しておいたハンプトン・イン&スイーツ・サンファンに引き上げ、Tシャツとパンツの洗濯をこなして寝ることにした。

5月3日(水)

プエルトリコは東西約180km、南北約60kmの島で北は大西洋に南はカリブ海に面している。つい100年前までは現代におけるヤンキースのように圧倒的な強さを誇っていたスペインの植民地だったため、アメリカの自治領にもかかわらず人々はスペイン語を話し、町の看板やサインもスペイン語が溢れているのだ。首都サンファンのメトロポリタン地区はアメリカのリゾート地らしく、近代的リゾートホテルが軒を連ね、高値で観光客をおびき寄せているのだが、オールドサンファンという地域に入るとアールデコ調のスペイン様式の建物が多く、16世紀に舞い戻ったような感覚を覚えさせられるのだ。

早朝ホテルをチェックアウトするとイスラベルデというメトロポリタン地区からバス($0.75)に乗り、オールドサンファンを目指した。サンファン市自体はプエルトリコ北部の大西洋に面した半島の一部に過ぎないのだが、オールドサンファンはさらにその先端の海に突き出した部分に過ぎずないにもかかわらず、この地は昔から海上防衛の要衝として君臨している。

サン・クリストバル要塞($3)という10万m2の敷地に建つ堅牢な砦が存在しているので見物させていただくことにした。ここは後述するエル・モロ要塞を強化するために1771年に建てられたもので観光客系のラテンギャルが林立する大砲群にまたがりながら記念写真用のポーズを決めている光景が印象的だった。

オールドサンファン観光の目玉として世界的にも貴重な遺跡でユネスコ世界遺産にも指定されているエル・モロ要塞($3)が半島の突端で尖っていたので訪問することにした。この要塞の建築が始まったのは1539年で、完成したのはなんと244年後の1783年である。カリブ海の要衝としてのプエルトリコは1493年にコロンブスが2回目の航海で到達して以来、カリブの海賊や他国軍の脅威にさらされていたため、この要塞は非常に重要な防衛拠点になっていたのだ。要塞内部は広大で古い石積みの跡や衣装、武器などが展示されている博物館やビデオの上映、さらに海上43mの高さから大西洋を見渡すことも出来るのだ。

エル・モロ要塞で海上防衛のもろもろのノウハウを習得することに成功したのでシェラトンオールドサンファンのハーツで車を調達することにした。時間にルーズなラテン系ギャルが運営しているハーツのカウンターで右頬の吹き出物から出ている血をティッシュでぬぐいながらも丁寧に道を教えてくれたギャルに感謝しながら、ぺ・ヨンジュ系の車であるヒュンダイ普通車のソナタをレンタルすると一路南部のカリブ海方面を目指した。

島中央に君臨する1000m級の山岳地帯をぶち抜く高速を抜け、2時間くらい走るとプエルトリコ第二の都市ポンセに到着した。スペインから総督として派遣され、本格的な植民を実施したポンセの子孫が建設した町のはずれにヒルトン・ポンセ・ゴルフ&カジノがポンセ最大のリゾートとして君臨しており、すでに大金をはたいて予約しておいたのでカリブ海ビーチのリクライニングチェアで潮風に吹かれながらギャルの吹き出物が早く直るように祈っておいた。

5月4日(木)

タイガーウッズの父の死を悼む必要があったので今回はあえてゴルフをせずにヒルトン・ポンセ・ゴルフ&カジノをチェックアウトするとポンセのダウンタウンの中を車で徘徊することにした。ダウンタウンにも多少スペイン風建造物の見所があると言われていたのだが、街中がかなりごちゃごちゃしており、道路の両サイドの駐車車両も多かったため、観光を断念し、コアモという温泉を持つ小さな町まで車を走らせることにした。しかし、ここでも複雑な街づくりかつ道路のでこぼこでヒュンダイ車のソナタがチェ・ジウのような涙を浮かべてしまうことを恐れて退散することにした。

ポンセとサンファンを結ぶ52号線の真中あたりにカグアスという何の変哲もない町があり、特に見所もなかったので予約しておいたFour Points by Sheraton Caguasに引きこもることにした。カジノ併設のために拡張工事を行っている騒々しいホテルの敷地内に潅木や芝生があり、何かの注意事項の看板が掲げられていた。そこに書かれていた内容はなんと「煙草の吸殻を地面に捨てるな!ヘビースモーカーのイグアナがのこのこやってきて一服しはじめると追っ払うのがやっかいなんや!」ということだった!!

5月5日(金)

結局ひと晩待ってもイグアナに出会うことが出来なかった傷心を引きずってホテルをチェックアウトすると島の東部のファハルドという港町に向かった。プエルトリコ東岸から約30km沖にアメリカのトラベル・チャンネルで世界のベストビーチに選ばれたクレブラ島があり、ファハルドから出航しているフェリーで到達出来るということだったのでフェリーに乗らずに乗船待ちのリゾート野朗どもの見物のみを行った。サンファン方面に戻り、大西洋沖の美しいビーチを遠巻きに眺めた後、ルイス・ムニョス・マリン国際空港でヨン様風の笑顔を浮かべてソナタに別れを告げ、UA1688便にてワシントンDCに帰っていった。

5月6日(土)~ 5月7日(日)

午後12時20分発NH1便B777-300機17K席(http://www.ana.co.jp/int/inflight/seatmap/b777_300er/index.html)に陣取り映画4本を立て続けに見ながら13時間のフライトを過ごし、翌日午後3時前に成田着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥167,900 + $632.10

総フライト変更手数料 $100.-

総宿泊費  $653.64

総レンタカー代 $209.01

総ガソリン代  $97.94

総タクシー代 $13.-

総バス代 $0.75

協力 ANA、ユナイテッド航空、HiltonHHonors、SPG、ハーツレンタカー

FTBGW大西洋スペシャル ゴジラv.s.アマデウス

ということで、今回のFTBGWスペシャルはこの時季恒例となったゴジラの近況調査に加えてはるか大西洋をまたぎ、音楽の都ウィーンとビールの都ミュンヘンまで足を伸ばし、最近生活コスト削減のために発泡酒より安いビールもどき雑酒飲料である大豆ペプチド発酵飲料を痛飲している現状のうさを晴らしに行くことにした。

2005年4月27日(水)

ANA002便ワシントンDC行きB777-200機は定刻出発、定刻到着を果たし予定通りこの日の午前中にアメリカの首都ワシントンDCに進出することに成功した。早速空港バス($8)で最寄のMetro Stationまで移動し、そこから地下鉄でスミソニアン地区に向かい、さわやかな快晴の空を天に向かってのびているワシントンモニュメントを横目に今回はメモリアルシリーズを挙行することにした。

まず、ポトマック川沿いにたたずんでいるThomas Jefferson MemorialとFranklin Delano Roosevelt Memorialの見学を立て続けにかました後、白亜のギリシャ建築の柱の奥に鎮座するリンカーンに会いにLincoln Memorialを訪れ、FTBのFTBによるFTBのためのツアーの成功を祈願させていただいた。そこからさらにツアー業界ではベテランとなったFTBはKorean War Veterans MemorialとVietnam Veterans Memorialまで足を伸ばしベテランを敬うことの重要さを肝に銘じることにした。

かつて大リーグ随一の集客能力の低さを誇るモントリオール・エキスポズという球団が存在した。モントリオール人のあまりの野球に対する無関心さに頭を痛めていたMLB機構はワシントンDCへの移転を画策し、今年34年ぶりにワシントンにMLB球団が戻ってくる運びとなったのだ。ワシントン・ナショナルズの本拠地であるRFKスタジアムはDCの中心から地下鉄でアクセス出来る便利な立地条件のために平日の4時35分からの試合開始にもかかわらず数多くの集客に成功していた。フィラデルフィア・フィリーズを迎え撃つナショナルズの打線はこの日は沈黙し、3対0でフィリーズリードの9回裏フィリーズの守護神である左の豪腕投手ビリー・ワーグナーが登場した。交響曲の作曲家を彷彿とさせるワーグナーは得意の100マイルの速球は出さなかったものの見事なタクトさばきでナショナルズ打線を簡単に封じ込めてしまったのであった。

本日の宿泊先であるDAYSINNにチェックインしようとしたところ脆弱なコンピューター予約システムが不具合を起こしてオーバーブッキングが多発したため、グレードの高いマリオットホテルにDAYSINNのコスト負担で移動させられ、ひょんなことから高級ホテルでの一夜を過ごさせていただくこととなってしまった。

4月28日(木)

米国内を網目のように張り巡らせているグレイハウンドのバス路線を使ってニューヨークに向かうためにユニオン駅の北にあるグレイハウンドバスディーポに向かった。あらかじめワシントン-ニューヨーク間($29)をウエブで予約しておいたのでWill Call用の券売機でチケットを引き出すと早速グレイハウンドの関連会社であるピーターパンが運行する午前9時発のバスに乗り込んだ。

ヤンキースの帽子を被った黒人肥満おやじの運転するバスは予定通り、午後1時20分頃に42nd Streetにある巨大なポートオーソリティバスターミナルにすべりこんだ。そこから徒歩でタイムズスクエアからブロードウエイを抜けてLowerManhattanに到着し、地下鉄でBrooklinまで抜け、今日の宿泊先であるDAYSINNにチェックインを果たすと再び地下鉄でBronxを目指した。

開幕からの低迷にもかかわらず51,000以上の観客で膨れ上がったヤンキースタジアムのネット裏の上段席に腰を落ち着けると不振にもかかわらず今日も4番に座っているゴジラの打球が右翼席に吸い込まれていく光景をイメージしながら試合開始時間を待ちわびていた。ロサンゼルス・エンジェルスのラッキー投手と相対したゴジラは1打席目にあわやホームランという大飛球を打ち上げたものの2打席目もチャンスに痛烈なファーストライナーで凡退してしまった。3打席目で待望のタイムリーツーベースを放ったものの結局この日もヤンキースは試合に敗れてしまったのだった。

4月29日(金)

マサよ、君はテディベアの正体とは何だったのか知っているか!?

ということで、今日も朝から地下鉄に乗りニューヨーク巡りに繰り出すことにした。Upper ManhattanにHamilton Grangeというニューヨークにゆかりのあるハミルトンという偉いアメリカ人の住居を見物した後、ハドソン川沿いに建つグラント将軍の墓兼記念碑を訪問した。ちなみにグラント将軍は南北戦争で名声を博した輩でアメリカではジョージ・ワシントンやアブラハム・リンカーンと並び賞されるほどの人気者となっており、わざわざニューヨークのど真ん中に巨大な墓が建造されるほどの英雄なのである。

パークアベニューの南にTheodore Rooseveltの生家($3)が摩天楼に囲まれながらも今でもRooseveltファンを集めているので見物に行ってきた。National ParkServiceが管理するこのファシリティはレンジャーによるツアーで家の内部が案内されることになる。ツアーの最後にかのレンジャーが展示されてある古いテディベアのルーツについて説明をかましてくれた。テディとはTheodoreのニックネームであり、テディベアはテディに敬意を表して日本で作られたという歴史的背景があるとのことだった。また、テディはポーツマス条約という形で日露戦争の仲介も果たした実績も持っており、日本の偉い人から毛筆で書かれた読めもしない感謝状さえも送られていたのだった。

テディべアの正体の解明に成功したのでかつてパンナムビルとしてアメリカ横断ウルトラクイズの決勝が行われていたMetLifeビルを眺めながらManhattanを北上し、ロックフェラーセンターで高いマンゴー生ジュースを飲んだ後、セントラルパークに向かう道すがら吉田兄弟のように3本の弦で全米を熱狂させるような野望を持った若者たちの集いを横目に再び地下鉄でJFK空港に向かいニューヨークを後にすることにした。

4月30日(土)

昨夜6時50分発のUA956便にて今朝7時前にロンドンヒースロー空港に到着していた。午前9時半発ルフトハンザLH4751便に乗り換えるとお昼過ぎにはミュンヘン国際空港に到着した。空港からミュンヘン中央駅に出るべく汽車の切符を買おうとしたが、買い方がわからなかったのでルフトハンザが運営する簡単な空港バス(EURO9.5)で駅に向かうことにした。

ミュンヘン中央駅でいかにしてオーストリアへの侵入を果たすべきか現地調査をした結果、結局正攻法であるドイツ国鉄が民営化されているドイチェ・バーンの鉄道を使って一路ウィーンを目指す事にした。午後2時半頃中央駅を出発した列車は新緑がまぶしい田園地帯を疾走し、気がつくといつのまにかオーストリアへの侵入を果たしており、約1時間半後にザルツブルグに到着した。ここで列車を乗り換えてさらに約3時間半の汽車の旅でついに音楽の都ウィーンへの到着を知らせる列車のドアがウィ~~ンと開いたのであった。

列車はウィーン西駅に到着していたのでそこから地下鉄(EURO1.5)に乗り換えて国立オペラ座が鎮座する町の中心部へ向かった。今回ウィーンではANAマイレージクラブダイヤモンド会員に提供されている全日空ホテルズの無料宿泊券を利用してマサであればEURO290/泊くらいかかるところを私はただで泊ることが出来るグランドホテルウィーンに乗り込むことになっていたので、古き良き時代の豪華さを残しているロビーでチェックインをさせていただくことにした。

夜8時を過ぎてもまだ明るさが残っていたのでウィーンの繁華街を軽く練り歩くことにした。さすがに音楽の都の土曜日だけあって街のいたるところに音楽用の簡易ステージが設置されており、おびただしいほどの人々がミュージックに酔いしれていた。世界遺産にも指定されているウィーンの旧市街をさまよっているといやがおうでもヨーロッパの伝統と格式を叩き込まれてしまっている自分に気付かされるのだった。

5月1日(日)

マサよ、君は天使の歌声を生で聴いて舞い上がったことがあるか!?

というわけで、早朝よりホテルを抜け出すとブルグ庭園にあるモーツアルト像を見上げ、頭の中でアイネ・クライネ・ナハトムジークのメロディーを奏でた後、ゴシック建築の荘厳な建造物である王宮に向かった。王宮の礼拝堂で日曜日のミサが行われることになっているのだが、そのミサにウィーン少年合唱団がレギュラー出演しているとの情報を入手していたので早速チケットの入手を試みることにした。チケット売り場と思われるところは多少の行列が出来ていたので周辺の様子をうかがっているとオーストリアレッドのジャケットを身にまとったツアーコンダクター系のおばちゃんが公認ダフ屋よろしく買い占めたチケットを道行く観光客に売りつけていた。入場券にはEURO14と記載されていたが、おばちゃんのコミッション込みの合計EURO19を支払ってチケットを入手することに成功した。

ミサ見物の座席は指定席になっており、係りの者に2階のレフト観覧席に案内された。ミサは定刻の9時15分からスタートし、神父のおことばとともに中年賛美歌隊の合唱が音響の良い礼拝堂に広がるとその後を追うように3階センターバックスクリーンの上部にミニオーケストラと中年コーラス隊を従えたウィーン少年合唱団の天使の歌声が参拝者を包み込み、神父と中年と少年の見事なコラボレーションが生み出されていた。約1時間のミサの終了間際に少年合唱団は1階の祭壇前にお目見えし、礼拝堂の中央に陣取っているミサのレギュラー参加者である地元クリスチャン達と2階と3階の観覧席に閉じ込められているひやかし観光客に向かって挨拶をすると大きなスタンディングオベーションが沸き起こったのであった。

天使の歌声により背中に翼が生えた感覚を覚えたのでその勢いでウィーン中心部をうろついているとふと運命的な出会いを感じた。するとそこには「エリーゼのために」や♪キッスは目にして♪http://homepage3.nifty.com/poptrip/single/ippatu/venus.htmlの作曲家として有名なベートーヴェンの銅像が睨みを利かせていた。その近くの緑多き市立公園にはシューベルト像やあの「トムとジェリー」にも採用されたことで有名なワルツの帝王ヨハン・シュトラウス像が黄金のヴィオラを弾きながらドナウ川へ誘ってくれたのでそのままドナウ運河に向かうことにした。かつて美しき青きドナウと呼ばれたドナウ川であるが、ウィーン市内を流れている運河の部分は屋形船が浮かんでいる♪春のうららの隅田川♪と何ら違いがなかったように思われた。

世界遺産であるウィーン市街はリンク(環状道路)の内部が主な観光エリアとなっているのだが、その中心にシュテファン寺院が高さ137mの尖塔をそびえたたたせている。13世紀の後半から300年の歳月をかけて建立されたこの寺院はオーストリア最大のゴシック教会である。寺院の塔では世界3位の高さを誇っている尖塔の73mの地点までEURO3の支払いで登れることになっていたので343段の狭い螺旋階段を駆け上がり73mの高みからウィーンの市街地を見下ろすことに成功した。

ウィーンを都とし、ヨーロッパに君臨、栄華を極めたハプスブルグ家ゆかりのシェ-ンブルン宮殿に地下鉄に乗ってやってきた。EURO8.9の支払いでインペリアルツアーに参加するとオーディオセットからドイツ語なまりの日本語が聞こえてきたのでおばちゃんの話に耳を傾けているとここは昔マリア・テレジアという田中真紀子の数百倍の権力を持つ女帝が仕切っており、かの有名なベル薔薇マリー・アントワネットは彼女の16番目の子供兼末娘で政略結婚のだしにされていたということであった。また、ここは6歳の鼻たれ小僧時のモーツアルトがマリア・テレジアやマリー・アントワネットの前で演奏し、拍手喝采を浴びた部屋を見物出来ることがひとつの目玉となっている。

ベートーヴェン、シューベルト、モーツアルトといったクラシックの巨匠が埋葬されている中央墓地がウィーン市のはずれで墓参り観光客を待ちわびているのでトラムという路面電車に揺られてやってきた。墓地は広大なため、ビジターセンターで巨匠の墓を確認しようと思っていたのだが、閉まっていたので墓地のレイアウトの把握が出来ず、仕方なく墓地のサイト内ではあるがリモートで巨匠達の墓参りを済ませておいた。

5月2日(月)

2日間無料宿泊させていただいたグランドホテルウィーンを後にするとウィーン西駅から列車に乗りザルツブルグを目指した。約3時間の汽車の旅で午前10時前にザルツブルグ中央駅に到着すると一目散に街の中心部を目指した。

アルプスの麓であり、音楽祭で有名なザルツブルグは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台として世界各国から数多くのミュージカルファンを集めている。私もふいにボイストレーニングをしなければならない衝動にかられたのでミラベル庭園で踊りながら♪ド~はド~ナツぅのド~♪から始まるドレミの歌のフルコーラスを熱唱し、その勢いでモーツアルトの住居(EURO6)に向かった。

17歳~24歳にかけての8年間を過ごした住居は第二次世界大戦で破壊され、その後日本企業の寄付により96年1月に再公開となっていた。おなじみのオーディオでの解説を聞きながらモーツアルト自筆の楽譜や書簡や貴重なお宝である楽器を見ているとさらにモーツアルト出生の秘密を解明する必要性にかられてしまったので川を越えて世界遺産に指定されている旧市街に突入し、モーツアルトがおぎゃ~と生まれた生家(EURO6)になだれこんだ。1756年1月27日にこの地を支配する大司教の宮廷音楽家レオポルト・モーツアルトの子として生まれたヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトはその類まれなる才能から神童と呼ばれていたことはあまりにも有名であるが、ここに来るとその神童ぶりがひしひしと感じられるのだった。

岩山に囲まれたザルツブルグ旧市街はモーツアルトの生家の他にも音楽祭の会場や教会、墓地、大聖堂など見るべきものがたくさんあるのだが、岩山の上にホーエンザルツブルグ城塞(EURO8.4)が下界を見下ろすいでたちで構えているので急な坂道を這い登って入城を果たすことにした。1077年に大司教ゲーブハルトによって建立された中世の城塞建築からはザルツブルグの市街が一望出来るほか、遠く雪を抱いたアルプスまで見渡すことが出来るのだ。

城塞を下ったところで「サウンド・オブ・ミュージック」ゆかりのノンベルク修道院を発見したのでジュリー・アンドリュース系のシスターをストーキングして私の最大の悩みである民営化後の郵政と郵貯に代わる財政投融資の財源についての物語を語り尽くそうと思ったのだが、修道院は男子禁制なので♪エーデルワイス♪を歌いながら引き下がり、そのまま列車に乗ってミュンヘンまでエスケープと相成ったのだ。http://cinemakun.com/soundmusic/

5月3日(火)

マサよ、君はディズニーのシンデレラ城が手本としたドイツの古城を目の当たりにしたことがあるか!?

ということで、ミュンヘンからまたまた列車に乗ってロマンティック街道の最南端であるフュッセンまで2時間もかけてやってきた。ドイツは数多くの古城を観光の目玉としているのだが、ここにはその頂点に君臨するすばらしい城郭が存在しているのだ。

フュッセン駅からバス(EURO1.55)で数分走ると古城のチケット売り場に到着した。ここではホーエンシュウヴァンガウ城とノイシュヴァンシュタイン城を見物出来るのでEURO17を支払ってコンボチケットを購入した。城内はお得意のオーディオガイド付きツアーで回ることになるので城には決められた時間に行かなければならない。まず最初に見物したホーエンシュウヴァンガウ城はライオンの噴水に守られた一見すると普通のライオンズマンションのような外観であるが、一歩中に足を踏み入れると手抜き工事の得意な日本の大手ディベローッパーでは施工することが出来ないような豪華な内装が施され、また日本のホームセンターでは決して購入する事が出来ない高価な家具・調度品が絶妙のバランスで配置されていた。

ノイシュヴァンシュタイン城は道を挟んだ反対のさらに高い場所に位置しており、足腰の弱い観光客は金の力に物を言わせて2馬力の乗り合い馬車で坂を登るのだが,私は恒例の徒歩で城を目指した。かつてのバイエルン国王ルートヴィッヒ2世が1869年から17年の歳月と巨額の費用をかけて建立したこの城はディズニーランドのシンデレラ城や「恋のから騒ぎ」城http://www.ntv.co.jp/koikara/のモデルになったと言われており、ヨーロッパの中世の古城の典型的な建築スタイルに祭り上げられているのだ。ただし、この城のすばらしいところはアルプスの麓に位置する風光明媚なロケーションであると思われ、都会の真中に存在してしまうと普通のラブホテルに成り下がってしまうのではないかと懸念された。

耽美的芸術を愛してやまなかったルートヴィッヒ2世はワーグナーに心酔し、ワーグナーを招待するためにこの城を建立したとも言われているのだが,薄情なワーグナーは一度もこの城を訪れることはなかったそうだ。ちなみにこの城の美しい全景を写真撮影出来るスポットとしてマリエン橋というつり橋が掛けられており、その上で数多くのGW日本人観光客のミーハーな嬌声がこだましていたのだ。ドイツ観光の目玉となっているロマンティック街道ははるかヴュルツブルグから始まっており、日本人観光客は長年の缶コーヒーの飲みすぎで太ってしまったCCBを見て♪む~ねが、む~ねが、くるしくなるゥ♪とさもロマンティックが止まらない勢いで南下してくるのだが、皮肉にもロマンティック街道はこの地で終焉を迎えるという事実に直面してしまうのだ。http://music.yahoo.co.jp/shop?d=c&cf=10&id=upch5297

列車の車窓から牧草地の緑とたんぽぽイエローの牧歌的な風景に酔いしれながら夕暮れ時にミュンヘンに帰ってきた。ミュンヘン中央駅から街の中心であるマリエン広場へと向かう道すがらバーの軒先で会社帰りの労働者が楽しそうにビールを飲んでいる光景を見ながら、これぞマサに念願であったどいつもこいつもドイツ人という好環境に身を置いていることを実感させられた。また、ミュンヘンではストリートライブもオーケストラ風のクラシックを演じており、道行く人はヨハン・シュトラウスのワルツに酔いしれながらビールで悪酔いしていくのであった。

5月4日(水)

午前11時55分の飛行機に乗るために午前中にミュンヘン中央駅に向かった。日本では高嶺の花となっているベンツがドイツやオーストリアではクリーム色のタクシーとして庶民の足となっており、BMWはパトカーとして犯罪者の送り迎えをしてくれるような駅前のロータリーからバスに乗りミュンヘン空港への帰路を急いだ。

ミュンヘンからUA903便、B777-200機でワシントンDCにひとっ飛びし、DCからJFKに到着した時間は午後7時近くになっていたので今日は空港近くのBestWesternに引き払って明日の長時間フライトに備えることにした。

5月5日(木)

午後12時15分発ANA009便に搭乗すべく、JFKのファーストクラスラウンジにて今回のツアーでは私がそ~と~自信を持って使えるドイツ語である「ハイル・ヒットラー!!」を使う機会がなかったことを深く反省し、ナチス党のマークに思いを馳せていると何故か日本のお寺のシンボルである卍が私の脳内を駆け巡る衝動を感じ、ふとラウンジのソファーの方向に目をやると卍固めをかけられたように体が硬直してしまった。そこにはまるで闘魂が燃え尽きてしまったかのような猪木が巨体をソファーに沈み込ませていたのだった。

5月6日(金)

飛行機は定刻どおり成田空港に到着し,そそくさと入国審査の方に歩を進めた。私の列の隣の列に並んでいた猪木の直前で入国審査を受けていた外国人は間違って日本人用の列に紛れ込んでしまったと見えて何かの書類を書かされていた。このもたつきに剛を煮やした猪木が後ろから怒りの延髄斬りをお見舞いする光景を期待していたのだが、闘魂の燃え尽きている猪木には「元気ですかぁ~!」と叫ぶ気力も残されていないようであった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥88,190(ANA) + $614.81(UA)

総宿泊費 $215.2  + Euro156

総ワシントンDCバス代 $8

総ワシントンDC地下鉄代 $8.2

総GREYHOUNDバス代 $29

総ニューヨーク地下鉄代 $10

総AirTrain代 $5

総ルフトハンザ空港バス代 EURO19

総ドイツ・オーストリア鉄道代 EURO184.7

総オーストリア地下鉄・トラム・バス代 EURO7.55

協力 ANA、ユナイテッド航空、ルフトハンザ航空、DAYSINN、全日空ホテルズ、STARWOODS HOTELS、BestWestern、

        ドイチェ・バーン、オーストリア連邦鉄道、猪木事務所http://www.inokiism.com/

FTB特別企画どん底からの炎の生還 in キャニオン

マサよ、君はどん底から見事に生還を果たすという離れ業をやってのけたことがあるか!?

私は・・・・・・這い上がって来たぜ!!!

ということで、高級財務官僚という定温のぬるま湯にどっぷりと浸かっているマサが忘れかけているであろう自ら試練に立ち向かうという姿勢を実践するためにかねてから達成しなければならないと考えていたどん底の様子を垣間見て、そこから這い上がってくるという計画をとうとう実行に移す機会がやってきた。

2月4日(金)

機材到着の遅れにより、1時間程の出発の遅延を余儀なくされたANA006便ロサンゼルス行きB747-400機は、米国での乗り継ぎ便に間に合わないとスチュワーデスにいちゃもんをつけている1人の乗客の意向に関係なく午前10時半ごろに着陸した。ロサンゼルスからUA6522便に乗り換えると1時間程度のフライトでフェニックス、スカイ・ハーバー空港に3時半に到着することに成功した。

早速ハーツで洗車の行き届いていないシボレー・キャバリエをレンタルするとI-17を北に進路をとり、本日の宿泊先であり、グランド・キャニオンのゲートシティとなっているフラッグスタッフを目指した。バックミラー越しに見るアリゾナの大地に沈む夕日のダイナミズムを感じながら、軽く150マイル程度のドライブで午後7時ごろ予約しておいたHampton Innに到着した。今日は時間も時間なので近隣のデニーズで軽くステーキと小エビのフライを肴に飯を食い、来るべく試練に対応すべく体力を温存するためにとっとと寝ることにした。

2月5日(土)

数多くの大リーグ球団のスプリングキャンプ地にもなっており、サボテンで有名なアリゾナ州というと温暖な気候がイメージされるが、アリゾナ北部は標高が高いために降雪もある。明け方には氷点下に冷え込むため、朝起きるとお約束どおり車はカチンコチンに凍っていたのであった。何とか電子レンジを使うことなくキャバリエを解凍出来たので、フロントガラスの運転席側の氷が溶けるとFTB史上5度目となるグランド・キャニオンを目指すことにした。

US89号線の道路が凍結してしまっているかも知れないので用心しながら北に向かって車を走らせ、AZ-64号線を西に向かうとグランド・キャニオン国立公園($20.-/car)サウスリムの東口ゲートに到着した。そこからさらに30マイルくらい進むとついにグランド・キャニオンビレッジに侵入することが出来た。ブライトエンジェルロッジという宿泊施設にツアーのカウンターがあり、そこで谷底の宿泊施設の電話による予約再確認を怠ったにもかかわらず、キャンセルにならずに泊めていただける交渉に成功するとビレッジ内のMartに食料品や物品の買出しに向かった。

チョコレートパックや2L入りのゲーターレードや軍手、さらには靴に装着するClamponとうスパイク($11.97)を購入すると園内のシャトルバスを乗り継いでSouth Kaibab Trailに向かった。マイルドな時差ぼけ気分を引きずりながら、標高差1,433m、距離にして11.1kmのトレイルを下りはじめたのは午前11時過ぎの時間であったろう。ハイカーに踏みしめられた雪は危険なアイスバーンに変化を遂げており、氷にClamponの刃を突き立てながら慎重にスタートしたのだが、いつしか外れやすいClamponは役に立たないと気が付き始めたころ、雪はすっかり消えてなくなっていた。

トレイルを写真を撮りながらもどんどん下っていくと今まで遠巻きにしか見ることの出来なかったかすみのかかったあの赤茶けた岩肌群がはっきりと目の前に現れて来て、マサにグランド・キャニオンに来て峡谷内に入らないとグランド・キャニオンに来た意味がないと言われている所以が明らかになってくるのであった。標高が下がるに連れて気温が上がり、峡谷内には緑が多くなると同時に地層の違いによる岩肌の色の変化により鮮やかな色彩が目立ってきた。時には10数億年前に出来たであろう石につまづきながらも歩を進めていくとついにこの広大なキャニオンの彫刻家として名高いコロラド川のせせらぎが聞こえ、そのウーロン茶ミルクコーヒー色の濁流が姿を現した。一見すると普通の多摩川程度にしか見えない川であるのだが、この川が何十億年の歳月をかけて大地を削り取っていったのかと思うと体中の身の毛がよだたずにはいられなかった。

トレイルのクライマックスであるコロラド川にかかる鉄橋を渡り、キャニオンの北壁側の川沿いをしばし歩くとついに本日の目的地であるPhantom Ranchに2時半頃到着することに成功した。オフィスでPhantom Ranch                                                   (http://www.phantomranch.com/index.html)での私のActivityである男子寮($28.76)への宿泊、ステーキディナー($31.24)と翌朝の朝飯($17.47)を食うことを確認すると12番寮に荷物を置きに行った。上階の安定性が乏しい2階建てのベッドが5つある10人部屋はすでに先客群が取り仕切っていたので仕方なく2階のベッドを支配することにしたのだが、そこはキャニオンの崖から落ちるよりも落下のリスクが高いのではないかと思われるほど狭かったのだ。

気を取り直して念願であったグランド・キャニオンの谷底の散策を開始することにした。どん底ということで賽の河原のような暗い雰囲気を漂わせているのかと思っていたが、谷底は意外にも春の陽気であった。マサを平手打ちするのに最適なサボテンと緑の草木や花が生い茂るコロラド河岸はキャニオンの巨大な岩山に囲まれており、はるか上空の崖の上から多くの観光客に見下ろされている実感も特になかった。

5時から夕食の時間が始まった。夕食はステーキ組とシチュー組に分かれており、先攻のステーキ組がまず食堂の前に召集された。食堂に入る前に飯係りのYoung Manが何か面白い話はないかと聞いたところ、誰かが、コロラド川に流れ込む小川の3~4マイル上流でビーバーがエアコンではなくダムを作っていやがったと言った。するとYoung Manはそいつは13年まえから冬になるとそこにやってくる常連ビーバーなので見逃してやってくれとのたまった。半セルフサービス式ステーキディナーは人里離れた谷底で供される割には非常に美味であり、皆大満足の様相で語り合っていた。尚、谷底には他の日本人は誰もいなかったので久しぶりに日本人を見ずに平和なひと時を過ごすことが出来た。

夜になると深い谷底に静寂が訪れる・・・はずであった。

これ以上落ちることのない谷底から上を見ると澄んだ冬空には満天の希望の星が輝いていた。夜になるとすることが何もなくなり、しかも皆疲れているはずなのでとっとと寝るものと思われたのだが、眠れない見知らぬ男女が寮の外で夜通し私語に耽っていたので、うるさくてほとんど眠ることなく朝を迎えてしまい、マサにこれが人生のドン底と思い知らされた。

2月6日(日)

夜明け前の早朝5時に飯係りのYoung Manが5時半に朝飯を食わなければならない輩のためにわざわざ起こしにやって来た。眠れなかったおかげで2階のベッドから転げ落ちずに済んだのだが、毛布は半分ずり落ちていた。山登りの貴重なエネルギー源となるはずのアメリカンブレックファストを詰め込んだ後、懐中電灯を持ってこなかったので星の明かりを頼りにトレイルをゆっくりと歩き始めたのは6時10分頃であった。

帰りは距離は長いが、傾斜の緩やかなBright Angel Trailを登ることにした。コロラド川の鉄橋を手探りで越えてしばらく川沿いの下りの道を進み、幾多の雪解け水の小川を越えているうちに夜が明けてきた。道はいつしか登りのみとなったものの順調なペースで進むことが出来、8時過ぎには中腹のインディアン・ガーデンというレンジャー詰め所兼キャンプ場付きファシリティに到着した。思えば丁度5年前の冬にインディアン・ガーデンまでの往復ハイキングを敢行し、その過酷さのためにマサに命からがらで戻ってきたことが思い起こされるのであるが、それから毎日会社に行く前に5kmの3%の登り坂ランニングマシン等で肉体を鍛え直し、リベンジに備えていたのだが、その成果を発揮して目的を達成する瞬間が数時間後に迫っているのであった。

なかなか減らない2L入りゲーターレードを少し飲んで体にイオンを行き渡らせると再び歩き始めることにした。このあたりから復路の恐怖を知らない日帰りハイカーとの遭遇が増えてくると同時に登り坂の傾斜がきつくなってきた。ミュールツアーの忘れ形見であるラバの緑色のウンコは相変わらずその辺に転がっているので下を見ながら注意して慎重に歩を進めた。標高が上がるにつれて道は凍りつき、ついには再びClamponを取り出さなければならないほど雪に覆われてきた。しかし、寝不足、時差ぼけにもかかわらず、意外にも体力の消耗は少なく一般人であれば6~10時間かかる道のりを私はわずか4時間半程度で登り切ってしまい、老淑女ハイカーの賞賛さえも浴びることが出来たのであった。こうして標高差1,311m、15.1kmにもおよぶBright Angel Trailを制覇した満足感に包まれてYavapai Pointの展望台からはるか眼下の豆粒のようなPhantom Ranchを見下ろすとどのようなどん底からであっても自力で這い上がってくることが出来る自信を得たような気がしたのであった。

午後7時のフライトに間に合わせるためにグランドキャニオンを後にしてフェニックスに向かっていた。フェニックス近郊にて車内で破裂音が聞こえ、一瞬動揺してしまった。助手席を見ると2時間前に無理やり空にして蓋をした2L入りゲーターレードのペットボトルが圧力差で凹んでおり、無事に平地に戻って来れたのだと実感させられた。

2月7日(月)

ANA005便にてロサンゼルス発、翌日午後成田着。3泊5日という強行日程でグランドキャニオンの底に沈んで這い上がってくるという新たな金字塔がFTBに加えられることと相成った。

FTBサマリー

総飛行機代  \8,160(ご利用件\60,000分使用したのでただ同然)+ $172.41

総宿泊費 $210.97

総レンタカー代  $124.43

総ガソリン代  $33.11

総走行距離 552マイル

協力 ANA、ハーツレンタカー、HiltonHHonors

FTB2週間世界一周

裏の仕事の都合でアメリカとアイルランドの出張に赴くことになってしまったのだが、この機会を的確に捉えてFTBは短期間での世界一周を計画し、実行に移すことにした。

6月4日(金)

ANA006便にてロサンジェルスに到着し、そこからUA便に乗り換えて午後3時過ぎにフェニックスに到着した。空港から外に出るといきなり40℃以上の熱波に襲われてしまったのですかさずタクシーを捕まえて今日の宿泊先であるヒルトンフェニックスエアポートに向かった。ホテルでしばしくつろいだ後、路線バス($1.25)で適当に市内を彷徨い、ついにアリゾナ・ダイヤモンドバックスの本拠地であるバンクワン・ボールパークに到着した。

午後7時過ぎにプレーボールになっているはずのアリゾナ・ダイヤモンドバックス v.s. ロサンジェルス・ドジャースの試合に到着したのは2回の表にドジャーズが逆転をした時間帯であったのだが、2回以降の石井のピッチングをしかとこの目に焼き付けることに成功した。相変わらず制球の定まらない石井であったものの勝ち投手の権利を取得する5回までを3点に抑えることに成功し、そのまま打撃好調のドジャーズの追加点により期せずして石井は今季7勝目を手にすることが出来た。

6月5日(土)

マサよ、君は世界最大のサボテンを見たことがあるか!?

ということで全米第6位の都市かつアリゾナ州の州都であるフェニックスを後にしたFTBはアリゾナ州の旧都であるツーソンにある砂漠博物館($9)に向かった。アリゾナ州からメキシコ北部に広がるソノラ砂漠の特徴やしくみを学習することが出来る砂漠博物館はおびただしいほどのサボテンと砂漠に居住する動植物を拉致して見世物にして暴利をむさぼっているファシリティである。ここでは高温乾燥地で元気に生活している毒蜘蛛、毒さそり、毒ガラガラヘビや毒のないマウンテンライオン、プレイリードッグ、ブラックベア等が夏バテして動けなくなっている状況を垣間見ることが出来る。

アリゾナというと即サボテンというイメージを思い起こさせてしまうのだが、実際にはアリゾナ州北部は高地なのでサボテンが密集している地域はアリゾナ州南部になる。ツーソン近郊にサワロ国立公園という世界最大の巨大サボテンがにょきにょき生えている地域がある。最大4~5mの高さにも達するサワロは生後70年になると腕が生え、いかにもガッツポーズをしているようないでたちでサワロに触ろうとする観光客を威嚇しているように公園のあちこちに群生している。また、1回の雨で一年分の水分を蓄えることが出来るサワロはキツツキ系の鳥に穴をこじ開けられ、その穴は最終的にはフクロウの快適な居住空間になったりしているのだ。

アリゾナ州中部にCasa Grande Ruins($5)という昔昔アメリカ原住民が暮らしていた遺跡があるので立ち寄って見ることにした。砂漠の中に忽然と出現する土を固めて建設された建物を中心にした遺跡は数百年もの間、アリゾナの過酷な気候に耐えてきた威厳を漂わせており、冷房の効いたビジターセンターの中では当時のアメリカ原住民の暮らしぶりが詳細に解説されているのだ。

6月6日(日)

フラッグスタッフというグランドキャニオンのゲートシティになっている都市のMotel6をチェックアウトすると2000年1月以来、約4年ぶりにグランドキャニオン国立公園($20.-/car)に立ち向かうことにした。

マサよ、君は数あるグランドキャニオンの展望ポイントの中で一番すばらしいポイントはどこか知っているか!?

ということで、南ゲートから侵入してしばらく山道を走るとマーサーポイントという誰もが初めてグランドキャニオンの圧倒される景色に遭遇し、人生観を変えられてしまうポイントに到着した。人々からよくグランドキャニオンで一番すばらしい景色はいつどこで見れるのかという質問を耳にするが、それは初めてグランドキャニオンを見た瞬間に他ならないのである。マーサーポイントの近くに4年前には存在しなかったインテリジェントなビジターセンターとブックショップが開業されており、ここでグランドキャニオンのすべての情報を一手に入手することが出来るようになっている。

グランドキャニオンビレッジに車を停めて園内のシャトルバスで公園の西側のビューポイントを巡りながら、終点のハーミッツ・レストに向かった。このルートにあるビューポイントからはコロラド川の眺望が堪能出来るのだが、前回見たウーロン茶色ではなく、今回は蛇行して流れる深いブルーのコロラド川をいろいろな角度から眺めることが出来た。グランドキャニオンサウスリムの東側の終点にデザートビューが君臨している。古いインディアンの壁画をあしらったウォッチタワーから東側に目を向けるとマサに砂漠のかなたの山々とキャニオンの起点を思わせるコロラド川の源流を見ることが出来るのだ。

夕暮れ時にマサとは比べ物にならないマーサーポイントに戻りサンセットを待っていた。西日がどんどん傾いていくに従ってキャニオンのグラデーションが深くなり、段々と鮮やかに赤みを増していく様子はこの世のものとは思えないほどすばらしい眺望であったため、世界中から参集した観光客たちはみんなため息まじりにシャッターを切りまくっていたのだった。

6月7日(月)

昨夜グランドキャニオンでサンセットを堪能した後、そそくさと車を飛ばして一路灼熱のラスベガスに到着したのは深夜になってしまっていたため、おとなしくMotel6に引き払い、今日はラスベガスからシカゴ経由ボストン行きの機中の人として一日を過ごすこととなった。

6月8日(火)~6月10日(木)

ボストン近郊のオフィスにて裏の仕事に精を出す毎日を送っていた。

6月11日(金)

マサよ、君はJFKの生家にお邪魔したことがあるか!?

ということで、地元のハーバード大学を優秀な成績で卒業した実績を持つJFKの生家($3)がNational Park Serviceの管理下でボストン近郊のBrooklineに一般家庭的ないでたちで保護されていたので見物に行ってきた。地上2階、地下1階建ての住宅はパークレンジャーのツアーでのみ案内されることになっており、この家で行われたJFKに対する英才教育の様子が垣間見れるようなダイニングルームや書斎、ベッドルーム、客室を巡りながら、観光客はJFKの生い立ちの秘密を暴くことが出来るようになっている。

ボストンダウンタウンのノースエンドからチャールズ川対岸のNavy Yardにかけての地域はBoston National HistricParkに指定されている歴史的地区でありBoston’s Freedom Trailという京都の哲学の道に匹敵する散歩道が展開されているのでぶらぶらしてみることにした。ここでの見所としてボストンの歴史を知る上での重要な資料が展示されているOld State House($5)や日本におけるキリンビールの祖として有名な樹木希林!?に匹敵するサミュエル・アダムス像が見守るQuincy Market等がある。

ボストン・レッドソックスの本拠地であるフェンウエイパークに野茂、石井率いるロサンジェルス・ドジャースがやって来たので$70の大枚をはたいていい席を確保することにした。午後7時過ぎに始まったゲームは投手戦の様相を呈し、淡々としたペースで進み、ボストンリードの1対0で迎えた9回の表のドジャーズの攻撃も2アウトランナー2塁と追い込まれていた。次打者の打球は高いレフトフライで試合終了かと思われた瞬間、マニー・ラミレス左翼手の落球により試合は1対1のタイスコアになってしまった。この落球のおかげで9回裏を迎えたボストンの執拗な攻撃により、レッドソックスは見事サヨナラ勝ちを収め、球場は歓喜の渦に包まれていた。

6月12日(土)

午前中にボストンからニューヨークに飛び、ラガーディア空港で真紅のマスタングをレンタルすると早速ロウアーマンハッタンに向かった。自由の女神行きのフェリーが就航しているバッテリーパークの中にキャッスル・クリントンという砦があるので軽く見学し、ウォールストリートを歩いて金儲けを誓った後、恒例のヤンキー・スタジアムに向かうことにした。午後4時という中途半端な時間にプレーボールとなったヤンキースとサンディエゴ・パドレス戦はゴジラの強打が爆発することもない平凡な試合で結局3対2でヤンキースがパドレスを下してしまったのだった。

昨日訪問したはずのJFKの生家から今日は気がつくとJFK空港でロンドン行きの飛行機を待っていた。JFK空港はいつのまにかモノレールシステムが発達しており、各ターミナル間を無人のモノレールが我が物顔で走り回っていた。午後9時35分発ロンドン行きのUA便は定刻どおりに出発し、一週間で横断してしまった北アメリカ大陸を後にしてついにヨーロッパに乗り出すこととなったのであった。

6月13日(日)

日付が変わって日曜日の午前中にロンドンヒースロー空港に到着した。ここからターミナル間を移動してブリティッシュミッドランド航空に乗り換えてアイルランドの首都ダブリンに向かった。午後2時半ごろダブリンに到着するとそのままタクシーで市の中心部であるCity Centerで最も格調高いウエスティンホテルにチェックインし、この日はダブリンの中心部であるテンプルバーを散策したりしてのんびりとしたひと時を過ごしていた。

6月16日(水)

月曜、火曜と適当に裏の仕事をこなした後、今日は午前中の内にダブリンを後にしてロンドンに向かった。ヒースロー空港から地下鉄でBritish Railwayのウォータールー駅を経由してグリニッジに向かった。

マサよ、君は世界標準時を刻む時計の目の前で西半球と東半球を跨いだことがあるか!?

ということでロンドンダウンタウン西わずか10kmほどのテムズ川沿岸のグリニッジパーク(世界遺産)はロンドンを代表する観光地の様相を呈しており、ここにはウイスキー系の船であるカティ・サークが陸揚げ状態で展示されていたり、National Maritime Musiumには7つの海を制覇した大英帝国の栄華をダイジェストで学習出来る数多くの展示品やネルソン提督にまつわるコーナーや♪ようこそここへ♪というようないでたちのキャプテン・クックのコーナー等が充実しているのだ。

ミュージアムからきれいに整備された芝生で覆われた公園の坂道を駆け上がるとRoyal Observatory Greenwichに到達する。そ~、ここがいわずと知れた世界標準時のお膝元であるグリニッジ展望台である。ここには東半球と西半球を分ける子午線がきっちりと引かれており、観光客はそのモニュメントの前で記念写真を撮りながら皆悦に入ることとなる。また、現在は使用されていない展望台は博物館になっており、正確に時を刻んでくれそうな数多くの振り子時計や各種測定器、高級望遠鏡等が所狭しと展示されている。

ANA202便にてロンドンより帰国

協力 Star Alliance, Motel6, ハーツレンタカー、Symantec Corporation

FTB第6次MLB、リトル、ゴジ打てなくても許しテキーラツアー

去る3月30日と31日にニューヨーク・ヤンキースとタンパベイ・デビルレイズを東京ドームに迎えてMLB開幕戦が挙行され、ゴジラ松井が大活躍したのは記憶に新しいところである。日本有数のMLB評論家として名高い私は巧みなYahooオークションさばきで入手したチケットを手に当然のことながら2試合とも観戦することに成功した。ところで今年フィラデルフィアとサンディエゴに新しい野球場がオープンしてしまったので、先週挙行された裏の仕事の海外出張を利用してフィラデルフィアのCitizens Bank Ball Parkを訪問し、さらにリトル松井率いるニューヨーク・メッツの本拠地であるシェイ・スタジアムにて早くもリトル松井の活躍ぶりを確認するに至ったのだが、サンディエゴまでは足を伸ばすことは出来なかったので今回のFTBツアーにてカバーしなければならなくなってしまったのだ!

2004年4月30日(金)

GW2日目とはいえ、平日とあって成田空港第二ターミナルは予想したほどの混雑状況は呈していなかった。ANA006便ロサンゼルス行きは定刻どおりの午後5時10分に出発し、当日午前11時前にはロサンゼルス国際空港に到着した。ハーツで真紅のGM小型車をレンタルすると早速I-405San Diego Highwayを南下して一路サン・ディエゴを目指した。風光明媚な港町として有名なサンディエゴの湾岸沿いの小さな半島にカブリヨ・ナショナル・モニュメント($5)という米国National Park Serviceが管理している国定公園が存在しているので早速訪問してみることにした。このポイントはコロンブスが新世界に上陸してから50年後にホアン・ロドリゲス・カブリヨというおっさんがスペイン王およびメキシコ副王の名の下に、この地を占領するに至った歴史を記念して制定された公園である。ここからは太平洋の雄大なパノラマとサンディエゴ港の全景を見渡すことが出来る。

HiltonHHnorsのポイントが余っていたのでマサであれば$150くらいかかるところを私はただで宿泊することが出来るHampton Inn Del Marにチェックインした後、Interstate Highway 5 (I-5)を南下してサン・ディエゴのDowntownにあるPETCO Parkを目指した。今年からサン・ディエゴ・パドレスの本拠地としてグランドオープンされたPETCOParkはDowntownはずれのConvention Centerの向かいに位置しており、Trollyと呼ばれる路面電車の停車駅から徒歩で簡単にアクセス出来るため、今後毎試合多くの観客を集客出来ることは間違いないと思われた。

リトル松井率いるニューヨーク・メッツとの対戦となったこの試合は午後7時過ぎにプレーボールとなり、先攻のメッツはリードオフマンのリトル松井を打席に送り込んだ。松井はパドレスのエースピッチャーのローレンスからいきなり三遊間を破るヒットを放ち、1回表に5点を奪ったメッツの猛攻の足がかりを作り、サンディエゴ市民の度肝を抜いたのであった。試合はその後、パドレスが徐々に追い上げていく格好で4回裏には2死満塁から松井の今季5個目の痛恨のエラーにより、その後パドレスに逆転を許す結果となってしまった。松井のその後の打席は2三振を喫するなどパッとしない内容で結果的には5打数1安打に終わってしまった。

マサよ、君はサンディエゴ・パドレスに所属する日本人投手の存在を知っているか!?

私の隣の席で観戦していた小太りのおやじはシーズンチケットを友人とシェアする形で持っており、パドレスの試合を数多く見ているのだが、彼の一番の推薦は今年セットアッパーとしてパドレスに入団した大塚である。この日のパドレスは連投のクローザー、トレバー・ホフマンを休養させるために1点リードで迎えた9回の表のメッツの攻撃に対して新人の大塚をマウンドに送り込んだ。心臓に毛が生えていると思われる大塚はメッツの誇るクリーンアップの攻撃を3人で退け、見事に今季初セーブを飾り、地元パドレスファンを歓喜の渦に巻きこんだのであった。

5月1日(土)

1998年の夏場に初めてサンディエゴを訪れた時に、ハイウエイに「CAUTION」という親子3人連れの夜逃げバージョンの看板を数多く見かけた。ハイウエイの路肩に違法駐車してマサとともに看板を背景に大蔵省(当時)の省内報に載せるための写真撮影を行ったのが、昨日のことのように思える今日この頃であるが、なんとこの看板がハイウエイで激減しているという非情な現実を突きつけられてしまった。何とかI-5上のメキシコとの国境の近くで看板のデジタル撮影に成功したので、その後安心してLA空港まで戻り、満を持してメキシコの心臓部であるメキシコシティを目指すことにした。

UA1003便は定刻通り午前11時30分に出発し、2時間の時差を越えて午後5時過ぎにメキシコ・シティのベニト・ファレス国際空港に到着した。入国審査と税関を経て自動扉が開くとそこには異様な光景が広がっていた。いきなりオリコンチャート1位に登場したNew CD「強い絆」を引っさげて衝撃的な芸能界復帰を果たした鈴木亜美系のおびただしい数のアミーゴ達がサインを求めるようないでたちで彼らの友人であるはずのホセやサンチアゴ等を迎える様はこれぞマサにラテンの雰囲気そのものであったのだ!

メキシコ・シティ滞在中の宿泊先として空港の国際線カウンターの4階に内蔵されているヒルトンホテルを3日間宿泊すれば日曜はただというスペシャルプランで予約しておいたので早速チェックインし、その足で空港内と空港周辺の散策に乗り出すことにした。まずは空港内でUS$をメキシコペソ(N$)に両替し、故障したコカコーラの自動販売機にN$10を飲み込まれてしまった後、空港の外に出るとそこには緑色の旧式ビートル型フォルクスワーゲンのタクシーが2ドアーにもかかわらず、アグレッシブに客待ちしている状況が散見されたのであった。

5月2日(日)

早朝目を覚ますと言いようもない眠気とけだるさに包まれ、何度も生あくびを繰り返してしまった。それそのはず、ここは標高2,240mの高地で空気が薄いのと昨日からの時差ぼけがいい具合にブレンドされて私の強靭な肉体から一晩にして生気を奪い去ってしまっていたのだった。

何とか気を取り直して空港から徒歩でメキシコ・シティの中心部を目指すことにした。メキシコではほとんど英語が通じず、皆スペイン語を話しているため、ありがたいときには「グラシャス」、むちゃくちゃありがたいときには「むっちゃ、グラシャス」の2語を引っさげて意気揚々とダウンタウンに乗り込んだ。人口2,000万人を誇る、世界最大の都市であるメキシコ・シティの中心はソカロという広場(世界遺産)である。ここは1,500年代まで栄えていたアステカ帝国の中心地をスペイン占領軍が支配し、アステカ帝国の神殿や宮殿を壊し、その石材でスペイン風の市街地を築き、湖を埋め立てて完成した町である。ソカロ横の巨大な教会はメトロポリタン・カテドラルといい、メキシコにあるすべての教会を統括する大教会で、ラテン・アメリカ最大級の教会建築物である。今日はたまたま日曜日だったので中では荘厳なミサが執り行われており、賛美歌と神父が降り掛けて回っている聖水であふれかえっていた。

カテドラルのすぐ隣にテンプロ・マヨール(N$38)というアステカ遺跡の寺院が古びたいでたちで観光客を集めていた。1450~1500年ごろのものと推定されるこの遺跡は1913年にビルの工事中に偶然に発見されたもので1984年の発掘終了後、一般公開されるようになったという。遺跡横にはテンプロ・マヨール博物館があり、発掘された貴重な遺品が数多く展示されている。カテドラルとテンプロ・マヨールの間のちょっとした広場におびただしい数の食い物屋や土産物屋、日用雑貨屋の露天が店を広げており、観光客と原住民で大変な賑わいをみせている。食い物は衛生状態に難がありそうな5枚でN$10のタコスや3個でN$10のホットドッグやわけのわからん乾き物系の巨大せんべいがメインであった。

メキシコ・シティは東京メトロや都営線と同等の地下鉄網を誇っており、一回改札をくぐってしまえばいくら遠くへ行っても乗り換えても一律N$2で済んでしまうため、地下鉄車内では日本では考えられないような人間模様が繰り広げられている。車内では非公認と思われるポマード売りや電池、CD等を携えた現地人が独特の口上で無視を決め込む乗客に何とか物品を売りつけようと歩き回っている。また、ギターと民族楽器を抱えた素人系ミュージシャンの下手な歌を無理やり聴かされ、なおかつ小銭を巻き上げられそうになるリスクにも対応しなければならないのだ。

というわけで地下鉄に乗って向かった先は国立人類博物館(N$38)というここにこなければメキシコ・シティに来た意味がないと言われている世界でも有数の規模と内容を誇る大博物館である。この博物館ではこの地に栄えたテオティワカン、マヤ、アステカなどの各遺跡から、永遠に保存すべき重要物を選りすぐったものが展示されており、日本から来た団体観光客も来たるべきマヤ遺跡訪問前の事前レビューのために真剣にガイドの話に耳を傾けていたのであった。

5月3日(月)

地下鉄でメキシコ・シティ北方面バスターミナルに行き、そこからバス(N$25)に乗り込みメキシコ最大の都市遺跡であるテオティワカン(N$38、世界遺産)に向かった。独自に高度な文明を生み出していたテオティワカンは、メキシコ盆地を中心として350年から650年の間に繁栄の頂点に達しており、20万人以上の人口を擁していたと推定される大都市である。ここには高さ65m、底辺の1辺が225mの世界で3番目の大きさを誇る太陽のピラミッドと高さ42m、底辺150m x 130mで多少小さめではあるが、宗教儀礼上もっとも重要である月のピラミッドがそびえている。メキシコ・シティで最も有名な観光地だけに中に入るとたくさんのストリート土産物売りたちが観光客を待ち構えていた。ある者は布から取り出した置物をこれ見よがしに提示し、ある者は「コンドルは飛んでいく」系の笛の音色を響かせていたり、またある者はきらびやかな敷物を広げて観光客を待ち伏せしたりしているのだが、中には日本語を操る上級者も存在し、奴は「タッタのヒャクエン!」と言って日本人をおびき寄せ、そっけない素振りを見せると「ビンボー!?」という捨て台詞を吐きやがったので思わずその辺に生えているサボテンを引っこ抜いてぶん殴ってやろうかという衝動に駆られてしまったのだ。また、中には「ホトンド、タダ」という私の心の琴線に触れるようなセリフを吐く売り子もいたのだが、観光地でほとんど土産を買うことがないと恐れられている私の財布の紐はついに開くことはなかった。

ちなみにテオティワカンの2つのピラミッドは観光客が自由に登頂可能になっており、遺跡の中央を貫く死者の道のエンドに位置している月のピラミッドからはテオティワカンの伽藍配置が一望出来るすばらしい景色を眺めることが出来るのだ。ここ数日ろくな物を食っていなかったので久々に日本食でも食おうと思い、私にふさわしい名前を持つJapaneseレストランである「ミカド」でミカド定食(N$195)を発注すると刺身、てんぷら、とんかつ等が次々に運ばれて来て存分にみかど気分を味わうことが出来た。

5月4日(火)

メキシコ・シティ最終日の今日はまず地下鉄で北部にあるグアルターべ寺院に向かった。グアルターべはメキシコ人の母なる寺院と言われているのだが、熱心な信者が膝行参拝といって、石畳の境内をずっと堂内の祭壇まで膝立ちで進み特別な願をかける様子を常に垣間見ることが出来る場所である。ここには1709年に建立され、今は地盤沈下のために傾いてしまっている旧聖堂と1976年に建設され、現代的な機能美を持っている円形の新聖堂が軒を並べている。2万人の信者を収容出来る新聖堂は、メキシコ・カトリックの象徴的主座であり、ローマ法王もここを訪れミサを行った実績も持っているそうだ。

電車でゴーの練習が足りない未熟な運転手が操る地下鉄で再びソカロ地区に帰り、アステカ時代にモクテスマ2世が居城としていた国立宮殿にパスポートを提示することにより侵入に成功した。この宮殿の最大の見所はメキシコを代表する壁画氏であるディエゴ・リベラの会心作であり、最大の壁画である「メキシコの歴史」である。広大な宮殿の2階の約半分はリベラの壁画で埋め尽くされており、アステカ時代から現代メキシコまでを巨大なパノラマで鳥瞰する雄大な抒情詩をこの場で十分満喫することが出来るようになっている。

ソカロから西に5分ほど歩いたところにメキシコ・シティのランドマークとなっている44階建てのラテンアメリカタワー(N$40)がそびえているので展望台まで昇り、そこからメキシコ・シティがソカロ中心に発展した町であることを確信した後、ドアを閉めるときに平気で人を挟んでしまう地下鉄でソナ・ロッサという地区に向かった。この地区は首都の繁華街であり、ブランド物屋やブティック、高級レストラン等が軒を連ねている。この地区で幅を利かせているJapaneseレストランである「ミカド」で中華やきそば(やわらかいやつ)を食った後、プラットホームの正しい停止位置に停止するために何度も切り返しを行う地下鉄に乗り、空港まで帰っていった。

5月5日(水)

昨夜UA1008便でメキシコ・シティからLAに戻ると早速レンタカーをピックアップして111マイルほど北のBakersfieldという町のMotel6で夜を明かした。観光地のメキシコで土産を買わなかったので原住民からセコいと思われているのをよいことに今日はセコイア&キングスキャ二オン国立公園($10/car)を目指すことにした。アラスカを除く北米大陸で最も高いシエラネバダ山脈の山中に隣接するこの2つの国立公園には樹齢2,000年を超える巨木の森が存在しているので、メキシコ・シティでの人いきれにうんざりした私の心と体を癒すのにはもってこいの環境が整っているのだった。

マサよ、君は現存する地球最大の生物を知っているか!?

高さ83.8m、根元の直径11m、根元の周囲31.3m、幹の体積にして約1,487㎥を誇るシャーマン将軍の木の樹齢は推定2,300年~2,700年と言われているのだが、この木は1879年にJ・ウォルバートンが発見し、彼が南北戦争中に中尉として仕えた将軍に敬意を表して命名したものである。このようなジャイアントセコイアの巨木がニョキニョキと生えているのがセコイア国立公園のジャイアントフォレストである。ジャイアント・フォレストの奥にクレセント・ミドウという美しい草原があり、そこへ行く道すがらに数多くの見所となる木がある。オート・ログは倒木の上を車が乗れるようにしてあるファシリティであり、倒木をくり抜いてトンネルを作り、車が通過出来るようになっているトンネル・ログやモロ・ロックといってこの一枚岩の頂上から美しいシエラネバダの大パノラマを一望出来る展望台もある。

クレセント・ミドウの周りを一周するトレイルを軽快に歩いていると、とある外国人カップルからトレイル沿いに熊を発見したので警戒して歩くように警告が発令された。あたりをぐるぐる見回しながら慎重に進んでいると花咲きそうな森の道で案の定熊さんに出会ったしまったのだ!気がつくと冬眠から覚めて若芽をあさっている茶色の毛に覆われたブラックベアの射程距離内に入ってしまっていたため、死んだふりをしてやり過ごすか、それとも勇敢に戦うかの選択を迫られるような状況になってしまったと感じたのだが、私の全身から発散される格闘家系の気迫に気圧されて熊が顔をそむけてしまったので今回は見逃してやることにしたのだった。

ということで戦わずして熊に判定勝ちした後、山道を縫うようにして車を北に走らせるとキングスキャニオン国立公園のグラントグローブに到着した。ここには1926年にアメリカのクリスマスツリーとして認定された高さ81mのグラント将軍の木をはじめ、倒れて中を人が通れるようになった木や火災で焼けかけた木を見物出来るトレイルが張り巡らされているのだが、ところどころに点在する茶色の切り株がどうしても熊に見えてしまうというトラウマを最後まで振り払うことが出来なかったのだ!

5月6日(木)

FresnoのMotel6からCalifornia41号線、Yosemite Highwayに乗り1時間ほど車を走らせるとヨセミテ国立公園($20/car、世界遺産)の南ゲートに到着した。昨日のセコイアの大木の幻影に引きずられるようにマリポサグローブというヨセミテ国立公園内のセコイア原生林にふらふらと迷い込んでしまった。ここでもGrizzly Giantという園内最大のセコイアの木と遭遇し、忘れかけていた熊の幻影が昨日のことのように思い出されてしまったのだった。

ヨセミテ最南部のマリポサグローブから約1時間ほどのドライブでヨセミテの中心であるヨセミテバレーに1998年10月以来、約5年半振りに登場することと相成った。5月上旬とは言え、ここはまだやっと冬が終わったような状況で残念ながらヨセミテ一の眺望を提供するグレイシャーポイントへのドライブ道は封鎖されてしまっていたのでバレーの底からヨセミテのシンボルであるハーフドームやエルキャピタンを見上げるしかなかったのだ。

かつてある女性が、ベテランレンジャーに「ヨセミテで費やせる時間が1日だけあったら何をするか?」と問いかけたところ、レンジャーは「マーセド川の川辺に腰掛けて泣きますよ」と答えたというほど1日、2日ではとても見て回ることが出来ないほどすばらい景観とアクティビティを提供するヨセミテであるが、いつまでもメソメソしているわけには行かない私はヨセミテの散策を午後2時前には切り上げてオークランドへ急ぐことにした。

FTBのホームグラウンドであるオークランドのネットワークアソシエイツコロシアムの駐車場代は前回来たときの$8から$13に値上げされていた。ゴジラ松井率いるニューヨーク・ヤンキースを迎え撃つオークランド・アスレチックスはここ数年アメリカン・リーグ西地区で優勝するほどの強豪チームに成り上がってしまったことがインフレ傾向に拍車をかけていたのだ。午後7時5分にプレーボールとなった試合は2回表にいきなり4点を専攻したヤンキースの有利な展開で進むものと思われた。しかしながら、ヤンキースの先発ピッチャーであるバスケスがガス欠を起こした6回の表にはアスレチックスに7対4と逆転を許し、そのままゴジラの逆襲を見るまでもなく試合は終了してしまった。MLBで最も柄の悪い38,000人余りの観客のそれでも半分近くはヤンキースファンであったのだが、試合終盤間際には「レッツゴー・オークランド!」という大歓声で埋め尽くされていた。

5月7日(金)

San Joseよりやや北のFremontのMotel6で夜を明かし、早朝5時半から車を飛ばして午前11時前にはロサンジェルス国際空港に到着した。ANA005便でラストサムライをはじめ4本の映画を見ながら、渡辺謙もこの程度の演技ではハリウッドで通用しないなと思いながら帰路につく。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥136,060 + $400.44

総レンタカー代 $176.40

総ガソリン代 $105.81

総走行距離  1,445マイル

総宿泊費 N$3,687.08 (N$1 = ¥12程度) + $104.09

協力 ANA, HiltonHHnors, ハーツレンタカー, Motel6(http://www.motel6.com/

FTBロッキー4ゴジラの逆襲

ロッキー 2000年4月フィラデルフィア美術館の階段を登りエィドリア~~ンと叫びながらガッツポーズを達成

ロッキー2 2000年10月コロラド州デンバーからロッキー山脈国立公園を制覇

ロッキー3 2003年5月フィラデルフィア美術館内部に侵入し、美術品を鑑賞しながらアメリカンドリームを実感

ロッキー4 2003年8月??????

例年より13日も遅い梅雨明けを迎え、日本列島に猛暑の季節が訪れる。ところで今まで公にはしてこなかったが、FTBは水面下でロッキープロジェクトを進行させており、今回その総決算と避暑を兼ねてロッキーの総本山と言われるカナディアンロッキーで山ごもりと修行を行い、調子の上がってこないゴジラが逆襲するように願をかけるという壮大なプロジェクトを遂行されることになったのだ!

8月2日(土)

NH006便、B777-300機は十分な追い風を受けることが出来ず通常よりも長い10時間もの時間をかけてロサンゼルス国際空港に午前11時25分に到着した。エアーカナダが運行するAC744便は午後2時45分に出発し、2時間50分程度のフライトで午後7時前にカナダのカルガリー空港に到着した。空港でフォードのトーラスをレンタルすると通常であればカーステレオから畑中葉子と平尾マサ!晃の歌が♪ラブレタ~フロ~ム、カナァ~ダ~♪と「後ろから前から」聞こえて来るはずであったが、この歌はカナダのどの場所かが特定されていない大雑把でいい加減な歌なので地元では相手にされていない様子であった。http://www.ne.jp/asahi/sgmori/mitarashiya/hirahata.htm

今日は到着した時間が遅かったのでHiltonHhonorsのポイントを使ってただで宿泊することの出来るHampton Inns & Suitesに引き払い、近くのベトナム料理屋で生春巻きと麺類を食って時差調整を行うべくテレビを見ながら夜更かしすることにした。

8月3日(日)

ユネスコの世界自然遺産に指定されているロッキー山脈国立公園を形成する公園群はバンフ、ジャスパー、クートネイ、ヨーホーの4つの国立公園とマウント・ロブソンやアシニボイン山などを加えた山岳エリアから成っており、これらを総称してカナディアン・ロッキーとして世界中からおびただしい数の観光客をおびき寄せている。

カルガリーの西128kmにバンフという町があり、ここがカナディアンロッキーの表玄関になっており、今回のFTBはここを拠点にして活動することになっている。カナダ国道1号線を西に走っていると道の両端からゴツゴツした岩山が迫ってくる。この岩山がマサにロッキーと言われるゆえんであり、その後しばらく道なりに進むとバンフ国立公園のゲートに差し掛かるのでここでCA$7/人を支払うと念願のカナディアン・ロッキーに晴れて侵入することになる。

ロッキーには氷河の溶水によって形成された無数の湖があるが、その中でも誰もが代表としてあげるのがレイク・ルイ-ズである。ビクトリア女王の娘ルイ-ズ王女にちなんで名付けられたこの湖はバンフの北西約55kmの場所に位置しているのだが、さすがにカナディアン・ロッキー観光のハイライトとして君臨しているため、駐車場には止めきれないほどの車があふれ返っていた。何とかイリーガルなポジションに車を押し込むことに成功し、生い茂っている針葉樹の林を抜けるとそこにはこの世のものとは思えないほどの幻想的な風景が目の前に広がっていた。氷河によって削られた細かい泥により、エメラルドグリーンに色付けされた湖の背後に標高3,464mのビクトリア山が立ちふさがり、その山肌には真っ白なビクトリア氷河が覆い被さっている。運が良ければ光と水面の微妙なあんばいにより、湖面に氷河が写りこむ様子を垣間見ることも出来るのだが、今日は残念ながらそのような光景を見ることが出来なかった。しかし、ここを訪れる観光客のすべてがこの景色に感嘆と驚愕の声を上げていた。

レイク・ルイ-ズの近くにモレイン・レイクという風光明媚な湖があり、ここの景色はカナダの20ドル紙幣の図案として採用されているという話を聞きつけたのでついでに見物に行って来た。テン・ピークスと呼ばれる山々に囲まれたこの場所は青空と白い雪と湖の緑のコントラストが非常に美しく、多くの観光客がカヌー遊びに興じていた。

夕暮れ時にバンフに戻り、予約しておいた★★★★ホテルのバンフパークロッジにチェックインすると近辺の探索に乗り出すことにした。バンフのダウンタウンから南に2kmほど外れた位置にバンフ名物のひとつであるバンフスプリングスホテルが中世の古城のいでたちで君臨しているので予約もしてないのに見物させていただくことにした。フェアモントホテルグループが総力を結集して建設したこのホテルはロッキーから切り出したと思われる石垣のようなレンガをふんだんに使用しており、内部にはアンティークな家具が絶妙に配置され、数多くの高級ショップが軒を連ねていた。

マサよ、君はバンフの目抜き通りであるBanff Avenueに君臨しているOKギフトショップの経営者を知っているか??

11PM、クイズダービー、世界まるごとHow Much、こんなものいらない等のテレビ番組を仕切り倒し、暴利をむさぼった大橋巨泉が業界をセミリタイアしてからすでに何年も経っているのだが、儲けた金で土産物屋を開業し、さらなる暴利を貪りつづけている。しかもOKとは大橋巨泉のイニシャルであるが、実はテレビに出ていたころおびただしい数のNGを出していたため、その腹いせにOKにしたのではないかと言われている。ところで財務省のマサが天下りをせずにセミリタイアを試みてもセミのように早死にするのは確実視されていることは火を見るより明らかであろう。

8月4日(月)

マサよ、君は太陽にほえろの殉職シーンのロケで誰が一番金を使っていたか知っているか!?

神奈川県警のような通常の日本の警察であれば犯人を追って海外に出ることはまずないが、石原プロがバックについている七曲署であればロッキー刑事を殉職させるためだけの目的でロッキー山中でロケを行った実績を持っているのだ。繁華街のため、ロッキー刑事にしっかりと守られたバンフをカナディアン・ロッキーの表玄関とするとジャスパーという町が裏玄関になる。バンフ~ジャスパーを結ぶ300kmのハイウエイのうち、レイク・ルイ-ズからジャスパーまでの93号線230kmは通称アイスフィールド・パークウエイと呼ばれており、このルート沿いにはロッキーを代表する山々と氷河、湖が次々と姿を現すのだ。

今回のツアーは日程的に余裕があるのでじゃ~スパっとジャスパーまで行って帰って来ようと思ったので車を飛ばしてロッキー最北部を目指すことにした。アイスフィールド・パークウエイのすばらしい景観に包まれながら3時間ちょっとのドライブで午後12時過ぎにジャスパーに到着した。ジャスパーのダウンタウンはバンフと比べて小じんまりとまとまっているもののその分静かな佇まいで自然環境と町並みが一体となっている様子であった。

ジャスパーのダウンタウンの南西7kmの地点に標高2,464mのウイスラー山が控えている。この山の頂上近くにある展望台へは30人乗りのロープウエイ(CA$20)を使って約7分でアクセス出来るので早速登頂してみることにした。地上の乗り場の標高は1,304mで標高差973mをロープウエイで登りきると2,277mの地点に達するのだが、気温も8℃ほど下がるので観光客は上着を羽織らないとこの場所では凍えてしまうのだ。展望台から頂上へはなだらかなトレイルが形成されており、老いも若きも澄み切った空気の中で元気にトレッキングに興じていた。ここからはジャスパーのダウンタウンが一望出来るのはもちろんのことカナディアン・ロッキーの最高峰であるロブソン山(3,954m)のピラミッド状の独立峰も目にすることが出来る。

バンフに帰る途中でアイスフィールド・パークウエイの名前の由来となっているコロンビア大氷原のビジターセンターに立ち寄り、数日後に行われるであろう本格的な探索を前にした下見と情報収集を実施し、その後夕暮れで観光客の数も少なくなっているレイク・ルイ-ズを一目見て撤収することにした。

8月5日(火)

バンフから国道一号線を西に向かって進むとアルバータ州からブリティッシュ・コロンビア州の州境に差し掛かる。ヨーホー国立公園はそのBC州側に位置する小じんまりとした国立公園である。ナチュラル・ブリッジという長年に渡って川床のライムストーンを削り続けたキッキング・ホース川が作り上げた自然のアーチがある。また、そのさらに奥の方へ車を走らせるとエメラルド・レイクというその名の通りのエメラルドを彷彿とさせる美しい湖がある。エメラルド・レイクの周辺にはトレイルが形成されており、1時間半ほどかけて一周して見たのだが、湖のエメラルド色の美しさはもちろんのこと、湖面に映し出された周囲の山々の風景により、湖はクリスタル状に輝いている感じがした。

ヨーホー川を源流とするタカカウ滝が400m近い落差で豪快に落ちているので武者修行にと思ったが、あまりにも水量が多く、水しぶきがかかってしまうトレイルまでの接近にとどめておいたのだが、マサを筆頭とする財務官僚は税金を使い込みたいという煩悩を排除するために是非ここで滝に打たれるべきだと思われた。

ヨーホー国立公園からバンフに帰る際に高速からバイパスに入り、自然の景色に見入っていると巨大な鹿であるエルクが道端で草を食っており、時おり顔を上げてこちらの様子をうかがっていた。さらに進むと薄汚い羊のビッグホーンが若芽をあさっている光景を目撃した。さすがに夏場のロッキーだけあり、動物たちも活発に活動している様子であった。

バンフの町外れのサルファー山の麓にアッパー・ホットスプリングスという温泉(CA$7.5)が開業しているのでバンフで是非ババンバ・バン・バン・バン・アビバ・ノンノンをやりたかったので入湯することにした。しかしながら、ここはサルファー山原産の硫黄を含んだ温泉であったもののそれ以上に塩素を添加しており、しかもここでは入湯者は水着着用、監視員付きの39℃の温水プールに成り下がっていたので「たまにはババンと」と思って大金を払ってここまでやって来た日本人観光客の満足のいくものとは思えなかった。

地球の北部に位置するカナダだけあり、さすがに夜9時半頃まで明るいので観光客はバンフの繁華街でぶらぶらしながらコーヒーやアイスを買い食いしていた。しかも標高1,380mに位置しているため、気温は涼しく景色や町並みが美しいので歩いているだけで楽しいのだ。とあるボウ川沿いの公園では正装した若者がソフトウエアの欠陥のような名前の楽器であるバグパイプを吹きながら小金を稼ぎ、バンフの夕べを彩っていた。

8月6日(水)

ここ3日間のロッキー山中での滞在により、ほぼカナディアン・ロッキーの全容が解明されつつあるので今日はツアーのハイライトに乗り出すべく再びアイスフィールド・パークウエイを北上することにした。空が真っ青に晴れ上がっているせいもあったのかも知れないが、2日前にジャスパーまで行ったときの状況とは打って変わってこの日のアイスフィールド・パークウエイから見上げる山々や氷河は光り輝いていた。とはいうもののツアーの資金が底をついてきたのでそろそろどこかで金を仕入れなければならない。ロッキーには無数の湖があるのだが、ほのぼのレイクといった消費者金融は存在しないので金はバンフの銀行のATMでおろしておく必要があるのだ。

高利貸しはしてくれない代わりに旅行者に深い印象を刻み付ける美しい湖が存在しているので立ち寄ることにした。巨大な鳥の足のような氷河であるクロウフット氷河の解けた水が流れ込んで出来た湖であるボウ・レイクは午前中の静かな時間帯であれば湖面が氷河や山々や青い空、雲を映し出し、人々をボウ然とさせるほどの異様を誇っており、金には換算出来ないほどの景色を提供してくれるのだ。

今回のツアーのハイライトであるコロンビア大氷原へのツアーの拠点となっているアイスフィールド・センターに昼過ぎに到着した。日本でコロンビアというと売れないレコード会社やお笑い芸人が参議院議員に転進した走りであるコロンビア・トップといった冴えない印象をぬぐい切れないが、北米大陸では発見者のコロンブスに敬意を表してコロンビアという敬称はアメリカの首都やスペースシャトルや雄大な自然にしか使われていないのである。

1892年からカナディアン・ロッキーのツアーを事実上支配しているブリュ-スター社が催行するコロンビア・アイスフィールド・スノーコーチツアー(CA$29.95)に参加させていただいた。アイスフィールド・センターのターミナルから大型バスに乗り込むと小太りのデイビッドの運転兼ガイドでスノーコーチと呼ばれる雪上車が停泊しているポイントまで連れて行かれ、そこからのガイドは中年女性のスノーコーチのドライバーであるタニヤに引き継がれた。タニヤに言わせるとブリュ-スター社は世界中にあるスノーコーチ23台のうち22台を保有しており、彼女は行く手にいきなり立ちふさがった32%の下り坂をスーパーローギアを使って安定した走行で巨大なスノーコーチを自在に操っていた。

コロンビア大氷原は325k㎡に及ぶ、北極圏以外では北半球最大の氷原であり、ここから流れ出す川は北極海、太平洋、大西洋に注ぐ、マサに大陸大分水嶺である。ブリュ-スター社のツアーで接近出来るのは大氷原から流れ出すいくつもの氷河の一つである、全長6kmのアサバスカ氷河の標高2210m地点である。ツアーの参加者はスノーコーチから降りて20分ほど氷河の上で過ごすことが出来、タニヤはマイペットボトルの水を携帯しており、いきなり氷河から流れ出している水を汲んで飲んでいやがった。ちなみに8月いっぱいであればツアーの参加者は無料でタニヤのサインがもらえるとのたまっていた。

コロンビア大氷原を十分に堪能した後、アイスフィールド・パークウエイを南下してボウ峠に到着した。アイスフィールド・パークウエイの最高地点(2,070m)であるボウ峠からはペイト・レイクを見下ろすことが出来、展望台では多くの中国人団体旅行客と一般白人旅行客が記念撮影のベストポジションをめぐって仁義なき戦いを繰り広げていた。

午前中に遭遇したボウ湖の美しさが忘れなれなかったので夕方再び立ち寄って見たのだが、湖面に立っているさざ波と光の影響のために景色の反写が見られず、全く異なる湖と化していた。

今日はバンフでのラストナイトとなるため、11PMでお世話になった若者(私はトゥナイト派だったのだが・・・)を代表して大橋に義理立てするためにOKギフトショップでメープルシロップとメープルシロップで作った砂糖を買ってやることにした。しかも合計金額はトゥナイトが始まる時間と同じ11.25ドルもしやがった。

8月7日(木)

ビクトリア氷河を映し出すレイク・ルイ-ズの姿を見ないとロッキーに来てもラッキーではないと言われているので早朝より、三たびレイク・ルイ-ズへと向かった。早朝の冷気を残している湖面は予想通り波立つこともなく静かな雰囲気をたたえており、そこにはくっきりとビクトリア氷河の姿が写し出されていた。尚、ボート乗り場が開業してしまう午前10時にはこの景色は消されてしまうのでボ~としているとロッキーのハイライトを見逃すことになるので時間選定には最新の注意を払うべきであろう。

バンフの近郊にも数多くの見所があり、今日は城のような形の山であるキャッスル・マウンテンやジョンストン川が大地を削り取って形成したジョンストン渓谷や冬季には人気スキー場と化すマウント・ノーケイからバンフの町を一望したりもした。さらに侵食によって形造られた不思議な土柱フードゥーやボウ滝、サプライズポイントから見下ろすバンフ・スプリングス・ホテルが森林と一体化している姿も堪能することが出来た。

バンフの市街にいくつかの博物館があり、数多くの化石等を展示している自然史博物館で未確認生物であるビッグ・フットに遭遇し、カナダ最古の木造建築で1903年に建立されたバンフ公園博物館(CA$4.-)ではグリズリ-等野生動物の剥製を目の当たりにすることが出来た。

ということで、将来マサの退職金を横領する私がセミリタイアして避暑地として生活することになるであろうカナディアン・ロッキーの下見が無事終了したのでカルガリーに帰る道すがら、1988年に冬季オリンピックが開かれたカナダ・オリンピック・パークをチラッと見てなぜスピードスケートの清水宏保がワールドカップの500mで世界新を出すことが出来たのかを解明するまでもなくカナダを後にすることになったのだ。

8月8日(金)

マサよ、君はゴジラの逆襲を生で見たことがあるか?

私は・・・見た!!しかもぎりぎりのところだった!!!

朝8時15分のUA便でカルガリーを後にしてシカゴ経由、合計5時間以上のフライトではるばるニューヨークのラガーディア空港に午後5時半頃到着してすぐにレンタカーをピックアップし、ヤンキースタジアムを目指した。

今日は知っての通り、日本人の日本人による日本人のための頂上決戦の第3ラウンドがここニューヨークを舞台にして繰り広げられるので急がなければならなかったのだが空港からスタジアムまでのルート選択を誤ったため、渋滞にはまっていたヤンキースタジアムを目の前にして無常にもラジオからプレーボールの声が聞こえてしまった。しかも1回の表にヤンキースが最大のピンチを迎えるイチローとの対決も初球を打ってあえなく凡退してしまった様子であった。

あらかじめ予約していたライトスタンドの後方にたどり着いたのは2回の表の攻撃でマリナーズが1点を先行したところであった。2回の裏ヤンキースの攻撃は5番ゴジラからの打順であった。初対決となるフランクリン投手の初球ストレートを叩いたゴジラの打球はラインドライブの低い弾道でライトポール際に向かって一直線に飛んでいった。あまりの打球の速さに俊足のイチローでも追いつくことが出来ず、打球はそのままライトスタンド最前列のぎりぎりのところに飛び込む第14号のホームランとなったのだ。しかし、昼飯を食ってないせいでスタジアム周辺のホットドッグ売り場で立ち止まり、あと数分スタジアム入りするのが遅れていたらこの逆襲の場面を見落とすことになり、今回のツアーの意味がなくなってしまうところであったのだった。

ところで試合の方はゴジラの逆襲ホームランで同点に追いついたヤンキースが6回にニック・ジョンソンの満塁ホームラン等で大量5点を奪い、接戦にもつれながらも9回に守護神のマリアーノ・リベラがマリナーズの反撃を退け9対7でヤンキースに貴重な勝利をもたらしたのであった。今日の客の入りはチケットは完売状態だと思われるが、ダフ屋の営業努力が足りなかったためかところどころに空席が目立ち、入場者数は5万2千人程度であった。

試合終了後駐車場から車を出すために1時間ほど待たされた後、夜11時過ぎにヤンキースタジアムのあるガラの悪いブロンクスからマンハッタンを抜けてニュージャージー州ラガーディア空港のヒルトンホテルを目指して車を走らせていた。ヤンキースタジアムでは観客席のブルーが目に焼き付いていたのだが、ブロンクスからアッパーマンハッタンは黒の世界だった。時おり車のヘッドライトさえも映し出すことが出来ない黒い人影が、車の前や脇をすばやくすり抜けていく気配を感じるのだが、彼らはインラインスケートを履いた黒人青少年たちであった。さらにマンハッタンを南下するときらびやかなネオンが目に飛び込み、人と車で渋滞状況に陥ってしまう場所がある。ここはいわずと知れたブロードウエイのタイムズスクエア近辺である。このあたりから回りを走っている車はすべてイエローキャブになり、割り込みや急な車線変更に対応出来なければ生きていけない世界に迷い込むことになる。さらにこのまま朝を迎えてしまうと町は八神純子の歌うパープルタウンと化していくのであろうと思われた。

8月9日(土)

アメリカの国立公園管理局の配下にあるエジソンのラボラトリーがニュージャージーにあるので見物に行って来たのだが、長期メンテナンスの最中で残念ながら発明のノウハウを取得することが出来なかった。出来れば東京特許許可局に発明内容を登録してロイヤリティーで収入を確保してセミリタイアを実現したいと思っていたのだが・・・

今日の頂上決戦第2戦は午後1時25分にプレーボールとなった。試合が始まる直前に赤いヤンキースの帽子にJTBのマークを付けたツアーコンダクターの男女に引率された松井・イチロー対決見物ツアーの一団が大挙してFTBである私の周辺を取り囲み、あたりは東京ドームのライトスタンドかと見まがえるような状態に陥ってしまったので彼らのペースに巻き込まれないように細心の注意を払って試合を見なければならなかった。

ところで試合開始前にゴジラのバッティング練習を目撃することが出来た。5月に見たときと打って変わって明らかにオーバーフェンスの数が増えていた。3球に1球くらいの割合でスタンドインする打球はたまにアッパーデッキまで達していたのだが、同じ組で打っているジェイソン・ジオンビーの打球はほとんどがアッパーデッキを直撃していた。これもひとえに食い物の差ということだろうか?

日本人のために行われた今日の試合の主役はイチローであった。ヤンキースはマリナーズの若手スターターのギル・メッシュに完璧に押さえ込まれ、ニック・ジョンソンのホームランによる1点しか取れず、ゴジラもチームヒット数3本のうちの1本を打ったにとどまっていた。一方のイチローはヤンキースの左腕アンディ・ペティットに苦戦して1,2打席とも凡打に終わっていたのだが、3打席目に待望のライト線ツーベースを放ち、次打者のバントとブレット・ブーンの犠牲フライにより、勝ち越しのホームを踏んだ。4打席目のイチローはゴジラの守るレフト前にしぶとく落とすポテンヒットで打率を稼いだのだが、レフトスタンドのヤンキースファンは「Matsui, you are a bad man!」とイチローの打球を取れなかったゴジラを痛烈に批判おり、ニューヨークのファンの厳しさを目の当たりにしてしまったのだ。

大魔人佐々木の負傷によりマリナーズの守護神として君臨している長谷川滋利が1点差を守るべく、9回のマウンドに立った。5万4千人の大観衆が発する「Let’s go Yankees!チャ、チャ、チャチャチャ」に動揺してヒットを1本打たれたものの落ち着いたマウンドさばきで後続を討ち取り、今日はマリナーズが見事に雪辱を晴らしたのであった。

8月10日(日)

ニューアーク空港から早朝便でワシントンDCに飛び、飛行機の予約の都合でDCからANA001便で成田に帰国し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \230,220

総レンタカー代 CA$534.23 + US$195.44

総ガソリン代 CA$117.05 + US$12.00

総宿泊費 CA$116.48 + US$160.46 +

総国立公園入場料 CA$21.00

(CA$1 = \94.71)

FTBレンタカートラブル情報その2

1998年8月にマサ等を率いてヨセミテツアーを敢行した際にフォードトーラスのタイヤがパンクしてしまったのをトラブルその1とする。当時代表であった私の冷静な判断により、JAFの救助員顔負けの修理能力でタイヤ交換を行い、無事サンフランシスコに帰還することに成功した。今回はカルガリーでレンタルしたフォードトーラスでアイスフィールド・パークウエイを疾走していた時に対向車が跳ね上げた小石がフロントガラスを直撃し、クラックが入ってしまった。これは人並みはずれた動体視力と反射神経をあわせ持つ私であっても避けられない出来事であった。正直者の私は返却の際にハーツの従業員にこのトラブルを報告したのだが、彼は状況を見るなり、「Who cares ?」と言って見逃してくれたのだが、後で請求書が回ってきたりしないだろうか??

今後の予定:秋は旅行のシーズンということで「なるほど・ザ・FTB秋の祭典」が再開されるかも知れません。

FTB第5次(ゴジ)MLBツアー

皆様ご承知の通り、FTBの主要業務の一つとしてMLBツアーの開催がある。もうすでにMLB30球団の球場をすべて制覇してしまっているので今さらやることはないだろうと思われるかも知れない。ところが今年ゴジラ松井が鳴り物入りでニューヨークヤンキースに入団してしまった。日本では先輩チームメートからゴジという愛称で恐れられていたのだが、長きに渡って開催されたFTBのMLBツアーも回を重ねて5次ということになるので今回は何としてもアメリカに進出したゴジの動向を追跡すべく立ち上がる必要があったのだ。

5月3日(土)

ゴールデンウイーク後半戦3連休の初日にもかかわらず、成田空港第2ターミナルは閑散とした様相を呈していた。しかも依然として下火にならないSARSの影響か、数多くの旅行客はマスクをして飛散したウイルスが体内に入り込まないように無駄な努力をしているようだった。

日本最強レベルの観光大使に成り上がっているゴジラのおかげなのかANA010便ニューヨーク行き、B747-400テクノジャンボはほぼ満席状態で出発し、定刻どおり午前10時半前にはニューヨークJFK空港に着陸した。ここから流れるような作業で入国審査、カスタム、ハーツレンタカーでの日産車の入手を行い、正午前には約1年ぶりとなるヤンキースタジアムに到着することが出来た。あらかじめwww.ticketmaster.comでオンラインでチケットを購入していたため、Willcallという窓口でスムーズにチケットを受け取るとゴジのホームランが飛んで来るであろう右中間スタンドで試合開始を今か今かと待ちかまえていた。

松井率いるニューヨーク・ヤンキース対オークランド・アスレチックスは午後1時10分にプレーボールとなった。2回の裏に先頭打者として回って来た松井は好投手ティム・ハドソンからいきなりライト前にヒットを放った。しかし、打席での今日のゴジラの見せ場はこれだけで結局4打数1安打に終わってしまった。試合の方も9回裏にジェイソン・ジオンビが同点2ランを放ち一瞬ニューヨーカーを興奮のルツボに陥れたものの、結局延長10回を戦い5対3で敗れてしまった。

試合終了後、ヤンキースタジアムから5th Avenueをマンハッタンに向かって南下することにした。車を走らせているとここ10数年来ニューヨーク市内の治安が著しく改善されている様子を実感することが出来る。ジュリアーニ前ニューヨーク市長が実施したブロークン・ウインドウ効果(割れた窓ガラスを放置しておくとそこから犯罪の輪が広がってしまう現象)の低減により、街中の落書き等は消されており、柄の悪いブロンクスやアッパーマンハッタンのハーレムであっても安心して車を転がすことが出来るのである。しかしながら、セントラルパーク以南の繁華街では相変わらずおびただしい数のイエローキャブが幅を利かせており、巨乳系タレントを数多く抱える芸能事務所であるイエロー・キャブのギャルに取り囲まれるのと同等の緊張感で運転することを余儀なくされるのだ。

今日の宿泊地はニューアーク空港近くのDaysinnを予約していたので午後7時ごろ早めにチェックインして休むことにした。今回は首尾よく会社をサボることに成功し、ニューヨークで羽を伸ばすことが出来るため、フッフッという含み笑いを浮かべて風呂に入りながら八神純子のヒット曲を♪パープルタウン、パープルタウン、つばさ広げて、フッ、フッ、フッ、ワッ!ニュ~ヨ~ク(入浴)♪と上機嫌で歌っていたのだが、何となく違和感を感じていたのは♪なんでだろ~♪と思った瞬間にテツアンドトモが購入した新しいジャージのことが頭をよぎり、ここはニュージャージー州であることに気づかされたのだった!

5月4日(日)

今回はMLBツアーということであるが、今日は午前中の時間を持て余すことになっていたのでついでに観光もしておくことにした。ハドソン川を挟んでニューヨークの対岸に位置する場所にLiberty State Park New Jerseyという公園がある。ここからCircle Lineというフェリーが1時間おきに出ており、エリス島と自由の女神の遊覧船($10)として営業しているので乗船を試みることにした。

埠頭から川越しに見るロウアーマンハッタンはマサに八神純子が歌ったように♪むらさきに煙る夜明け♪の様相を呈しているのだが、以前その地に君臨していたワールドトレードセンターの勇士はなくなっていた。フェリーは出航後わずか10分ほどでエリス島に到着した。エリス島は昔U.S.移民局があったところであるが、今回は時間の関係上この島への上陸はスキップすることにし、次の目的地であるLiberty Islandに向かった。フェリーは自由の女神の正面に回りこむ感じで航行し、わずか10分程度で船着場に到着した。Liberty Islandのビジターセンターで自由の女神にまつわるフィルムが上映されていた。その中で化学者の私の心に残った内容は銅像である自由の女神は建立された当時の色はブロンズだったそうだが、徐々に酸化が進み、ついには現在のような緑青を身にまとった姿になったということであった。

ニュージャージーからニューヨークに車で侵入するためにはホーランドトンネルかリンカーントンネル、またはワシントンブリッジを通過しなければならないのだが、いずれも$6をぼったくられてしまうのだ。何はともあれ今日も昨日と同じデーゲームなので正午前にはヤンキースタジアムに帰って来た。今日の試合はオーストラリアの首相がわざわざ観戦に来ていたのでアメリカ国歌を斉唱する前にオーストラリアの国歌が高らかに演奏されていた。

ところで試合の方であるが、ヤンキースの先発は通算300勝まであと3勝に迫った豪腕投手であるロジャー・クレメンスを立て、一方アスレチックスは昨年のサイヤング賞(投手のMVP)投手である左腕のバリー・ジトという豪華な先発陣で始まった。初回クレメンスはいきなりホームランを食らいながらも7回まで何とか2失点でしのいでいたのだが、ジトの方は何度かむかえたピンチもジット我慢して8回まで豪打のヤンキース打線を0点に抑えて9回を抑え投手に託すことになった。今日のゴジラは5回の裏の1死2,3塁の絶好機に強いあたりのピッチャーゴロに倒れ、ヤンキースファンのブーイングを浴びていた。しかし3打席目には三遊間をしぶとく抜けるヒットを放ち連続試合安打を6試合に伸ばしていた。

9回裏の攻撃は4番のバーニー・ウイリアムズが死球で1塁に歩き、ここで5番の松井を迎えることになった。アウトコースの速球で2ストライクと追い込こまれた松井はチェンジアップ系のボール球を2球見逃した後、5球目の甘い速球を強振したのだが、無常にも平凡なライトフライに終わってしまった。後続も凡打に倒れ、結局ヤンキースはアスレチックスに対して2連敗を喫し、ヤンキースタジアムにはおなじみの♪ニューヨーク、ニューヨーク♪が無常に響き渡っていた。

あくまでも現場主義を貫くFTBの取材により、テレビ画面では判断することの出来ないニューヨークにおけるゴジラの状況を垣間見ることが出来た。まずゴジラはヤンキースというチームに完全に同化しており、心配されていたチームメートとのコミュニケーションの問題も全くないように見受けられた。ただ、まだまだ相手投手のボールとのコミュニケーションが不足しており、なかなかバットがボールにコンタクトしない状態であるが、これを解決するのも時間の問題と思われ、今年は50本以上のホームランは約束されたも同然である。また、広報的な要素ではビニール製のゴジラ人形が出回っており、餓鬼どもが人形欲しさにダダをこねている状況をあちこちのみやげ物スタンドで見ることが出来るのだ。

5月5日(月)

昨夜の内にニューヨークを抜け出し、メリーランド州のElktonのMotel6に宿泊していた。そこを拠点にして今日はボルチモアとワシントンDCの探索を行うことにした。ボルチモアのウォーターフロント地区にFort McHenryという昔戦争で使用していた砦が歴史的景勝地として君臨しているので見物に行ってきた。ここは1814年のイギリスとの戦争の際や1861年の南北戦争のときに重要な役割を果たした要塞である。砦の形状は函館の五稜郭を彷彿とさせる星型の5角を持ち、中には弾薬庫やタコ部屋のような兵隊の宿泊所も完備されており、海に面した方角には多くの大砲も据え付けられていた。どんよりとした悪天候にもかかわらずここは「ご老体むち打ちツアー」というキャッチフレーズが似合いそうな老人の団体客でごった返していた。彼らは棺おけに片足を突っ込んでいるにもかかわらず、冥土の土産にと言わんばかりにパークレンジャーが行っている説明に熱心に耳を傾けていた。

FTBがワシントンDCに帰って来たのは約2年ぶり、同時多発テロ後ははじめての訪問となった。今回わざわざここにやってきた目的はほかでもなく、戦争を起こした国のお膝元で反戦運動を展開することであり、プロレス界におけるハンセン運動の第一人者であるスタン・ハンセン直伝のウエスタンラリアートをブッシュ大統領の首筋にお見舞いしてその証を立てることであった。

ジョージ・ブッシュ大統領の居所を探るためにDC観光の拠点となるホワイトハウスビジターセンターで情報収集を試みたのだが、単なるビジターセンターにもかかわらず警備体制が強化され、エックス線と金属探知の検査をされてしまった。結局ここではDCの観光地図を入手しただけで何も成果をあげることが出来なかった。ジョージつながりということで繁華街のジョージタウンにも繰り出してみたのだが、小雨の月曜日の昼間ということもあり、山本譲二の歌が似合いそうなみちのくの雰囲気を醸し出していたに過ぎなかった。しかたがなかったので今日のところはFords Theater National Historic Siteで演劇と劇場の学習をしてお茶を濁しておいた。

5月6日(火)

ベンジャミン伊東と言えば電線音頭を立ち上げた伊東四郎のことであるが、ベンジャミン・フランクリンとはアメリカの独立に多大なる貢献をもたらせた偉人であり、その功績は彼が$100札の肖像画になっていることからも明らかである。一昨日ヤンキースタジアムで$20札を拾ってそのお金でIchiro v.s.MatsuiのTシャツを買うことが出来たので今日そのお礼にわざわざフィラデルフィアまでやってきた。

フィラデルフィアで必ず見物しなければならないスポットは他でもないIndependence Mallという1776年前後の独立宣言に関連したファシリティが集中しているエリアである。ここはアメリカの国立公園の管理化におかれているのだが、3年前に訪問した当時よりもかなり様子が変わっていた。まず、当時は建設中だった最新鋭のVisitor Centerが完成しており、こういった歴史地区には必ず団体で姿を現すガキどもやジジ、ババ等が気軽にモニターやコンピュータでアメリカ建国史を学習出来る仕組みが整備されていた。また、テロリストの攻撃を警戒してLiberty BellやIndependence Hallといった人気ファシリティは厳重なアクセス制限がしかれ、おなじみの金属探知機とX線による検査が施されるようになっている。

というわけでアメリカの建国はここから始まったのであるが、アメリカンドリームもフィラデルフィアから始まったという紛れもない事実がある。Philadelphia Museum of Art(フィラデルフィア美術館、)が町の中心部にそびえており、3年前の訪問の際には階段を駆け上がってガッツポーズをしながら「エイドリア~~ン」と叫ぶことしか出来なかったのだが、今日は入場料($10.‐)を払って中に入ることが出来た。ここにはアメリカの美術品だけでなく、中世ヨーロッパや東南アジア、中国、韓国、日本等の貴重な美術品がところ狭しと展示されている。また、絵画のコーナーに入ると一瞬スターバックスのような新種のカフェに押されぎみの東京都内に点在するクラシックな喫茶店に入り込んだような感覚を覚えるのだが、やはりここには多くのルノアールの力作が展示されていた。またゴッホのひまわりのようなオークションにかければ数千万から数億で落札されること間違いなしの貴重な絵画の宝庫にもなっている。ということでシルベスター・スタローン原作のロッキー発祥の地であるこの美術館はロッキーシリーズの興業収入でも買収出来ないほどの価値ある秀作の宝庫となっていることが確認された。

マサよ!君はニューヨークで暮らしているもう一人の日本人大リーガーがマスコミからも見放され、不遇な生活を送っている事実を知っているか!?

ヤンキースの松井を巨人に例えるとすると、新庄のいるニューヨーク・メッツは例年の阪神のような状況で今年就任した名将ハウ監督の采配にもかかわらずナショナル・リーグ東地区最下位と地をハウような成績に低迷している。メッツは今日からロサンゼルス・ドジャーズを本拠地シェイ・スタジアムに迎えて3連戦を行うことになっているので新庄の見舞いがてら見物することにした。スタジアムに到着してメッツのスターティングメンバーを見ると驚いたことに新庄が7番センターでラインアップに名を連ねていた。試合は午後7時10分に開始され、新庄は2回の裏に回ってきた1打席目でいきなりライト線に2ベースを放ち、次打者の3塁打で先制のホームを踏んだ。

1対1のタイスコアで迎えた4回裏のメッツの攻撃は大学時代にバスケットをやっていた2mの長身を誇る5番のトニー・クラークから始まった。ナイターに強いと噂されるクラークはまだ明るさの残っている1打席目は凡退したものの、日もとっぷり暮れてくら~くなったこの打席でセンターオーバーのホームランを放ち、その勢いを買って次打者の連続ホームランも誘発し、続く7番の新庄を向かえた。目立ちたがり屋の新庄は豪快なスイングで3打者連続ホームランを狙ったものの、結局2ストライクと追い込まれた後にセンター前にヒットを放った。この日の新庄は3打席目も鋭いライナーのセンター前ヒットを放ち4打数3安打で打率を2割5分に上げてメッツの勝利に貢献したのであった。

5月7日(水)

ニューヨークのラガーディア空港からシカゴを経由して約2年ぶりにオハイオ州シンシナチくんだりまでやってきた。Cincinnati Northern KY Int’l Airportはフライドチキンの殿堂ケンタッキー州の最北部に位置し、オハイオ川を挟んで北側にはオハイオ州シンシナチという大都市が控えている。シンシナチは石炭産業の町として有名であり、また世界初の紙おむつパンパースを生んだP&Gの本社もここにあるので赤ちゃんを持つ親も安心して子育てに専念出来るのである。

シンシナチの東約80マイルの所にHopewell Culture National Histric Parkという古代Native Americanが暮らしていた遺跡が保存されているので見学に行ってきた。ここでは白人が入植するはるか以前のアメリカインディアンの暮らしぶりを出土された道具やパネル、ビデオ等で学習することが出来る。

MLB最古のチームであるシンシナチ・レッズの本拠地は昨年までダウンタウンを背景にしたオハイオ川のリバーフロント地区に位置するシナジー・フィールドであった。しかしながらシナジー・フィールドはすでに解体され、その隣に今年からレッズの本拠地としてオープンしたグレートアメリカンボールパークが君臨している。MLB30球団のすべての球場を制覇したことを誇りとする私に許可なく勝手に新しい野球場が開業されてしまったのでわざわざ飛行機を飛ばしてこの地にやってくることに相成ったわけである。

グレートアメリカンボールパークはレッズの本拠地にふさわしくスタンドの座席はすべて赤一色に染められている。外野席の後ろにはオハイオ川が雄大に流れており、遊覧船がサンセットクルーズしている様子をネット裏の高台の座席から見晴らすことも出来るのだ。セントルイス・カージナルスを本拠地に迎えたレッズはアーロン・ブーンのホームラン等で終始リードを保ち、4対2で勝利をものにした。この球場ではレッズの選手がホームランを打つと右中間スタンド後方に設置してある船の煙突をかたどったオブジェから花火が打ち上げられる仕組みになっている。

5月8日(木)

早朝Cincinnati Northern KY Int’l空港を出発し、再びシカゴ空港を経由して3時間の時差を超えてはるばる西海岸のシアトルに午前10時半頃到着した。シアトル・タコマ空港から車を飛ばしてワシントン州の北部にあるノースカスケード国立公園にやってきた。ここでは何万年も降り積もった雪から形成される氷河によって削られた山々がおりなす景観と深い森から自然の生気を吸収することに成功した。

自然界で魂の洗濯を行った後、イチロシアトルのセーフィコ・フィールドを目指して来た道を引き返した。イチローv.s.ゴジラの頂上決戦2ラウンドのマリナーズ対ヤンキース戦は午後7時5分プレーボールとなった。イチローの見せ場は1回の裏にいきなりやってきた。ヤンキースのエースであるデイビッド・ウエルズの速球を捕らえたイチローの打球は平凡な一塁ゴロとなってニック・ジョンソン一塁手の前に転がっていった。ニック・ジョンソンが一瞬自分でベースに入るべきかカバーに入ろうとしている投手にトスするべきか迷ったそのわずかな隙をぬって猛然と加速してきたイチローの動きに動揺し、ベースタッチが一瞬遅れイチローと同時になってしまった。判定としてはアウトになってもセーフになってもおかしくないタイミングであったが、一塁塁審もイチローのスピードに押され、思わず両手を広げてしまった。マリナーズファンの歓喜も覚めやらぬうちに4番のエドガー・マルチネスの2ランホーマーによりマリナーズが2点を先行した。イチローは2打席目も1,2塁間にゴロを転がし、アルフォンゾ・ソリアーノ2塁手の悪送球による内野安打でヤンキース内野陣を恐怖のどん底に陥れていた。

しかしながら結局イチローが活躍したのはこの2打席だけで大差をつけられた7回には早々と控え選手と交代してしまった。一方ゴジラの方は満塁で回ってきた3回表の2打席目にセンター前に同点タイムリーヒットを放ち、昨日のホームランと合わせて見事にゴジラの逆襲を果たすことに成功していた。また、5打席目にも右中間に2塁打を放ち16点目のホームを踏んだ。9回の表には腰痛から復活を期している大魔人佐々木が調整登板し、88マイルしかスピードが出なかったもののすでに打ち疲れていたヤンキースの攻撃を3人で締めていた。結局試合の方は16対5でヤンキースが勝利するという大味な展開になり、超満員の46,000人が陣取っていた観客席も試合後半には空席が目立つようになっていた。

5月9日(金)

午前8時発の飛行機で地元のサンフランシスコに戻ってきた。ゴールデンゲートブリッジを超え、US101からカリフォルニア1号線に入り、1時間ほど車を転がすとPoint Reyes National Seashoreという太平洋にに突き出した風光明媚な海岸地区に到着した。ここはホエールウォッチングが出来る美しい海と鹿、狸、狐、ウサギ等が生息している深い森と1869年からおびただしい数の牛を放牧しているHistoricな牧場からなっている。レンタカーのレンタル規約により、本当は運転することの出来なかったマサに無理やり車を運転させて実施したFTBツアーの起源であると言われているマウント・タマルパスをはじめこの辺の地域は山や谷による複雑な地形と深い森やきれいな海により米国有数のレクリエーションエリアを提供しているのだ。

今回の第5次MLBツアーの最終戦となるオークランド・アスレチックス対ニューヨーク・ヤンキースの試合は全米一ガラの悪いオークランドのネットワークアソシエイツコロシアムで午後7時5分より開始となる。この球場へは1年ぶりくらいに足を運ぶことになったわけであるが、何と駐車場代が$15に値上げされていた。ちなみに私が本拠地にしていた1998年当時はわずか$5だったのだ。当時のアスレチックスは弱小球団であり、観客も毎試合1万人そこそこしか入らなかったのであるが、ここ数年はマリナーズと首位を争うほどの強豪球団に変貌を遂げ、今日はヤンキース戦ということでガラの悪い輩が4万人以上詰め掛け、ここかしこで「Yankees Suck!」コールがこだましていた。また、1998年8月3日にマサとヤスを従えてNHK衛星第一放送に出演した実績のあるライトの外野席は今日も激戦区の様相を呈しており、不幸なヤンキースファンがオークランドファンの執拗ないじめにあい、早々と球場を後にする姿も目撃された。

ニューヨーク・ヤンキースにジェイソン・ジオンビーという2年前はオークランドのスーパースターでありながら金に目がくらんでニューヨークに移籍してしまった強打者がいる。当然のようにジオンビーが打席に立つたびに球場内はわれんばかりのブーイングで盛り上がっていた。ジオンビーはこのブーイングを自分に対する応援だと勘違いしたのか4回の表にレフトスタンドに同点2ランを叩き込みやがった。今日の松井は昨日イチローが放った2本の内野安打を手本として三遊間とサード前に2本の内野安打を放ち連続試合安打を10試合と伸ばしたものの豪快な1発を見ることは出来なかった。試合の方は7対2でアスレチックスが勝利を収めたのでオークランド紛争は何とか収拾の方向に向かっているようだった。

5月10日(土)

Hilton HHornorsのポイントが余っていたのでマサであれば$200くらいかかるところを私はただで泊まっていたHampton Inn Oakland Airportをチェックアウトすると帰りの飛行機が出発するまでの時間を利用してサンフランシスコベイエリア一帯を車で流すことにした。オークランドからI‐880を北に進路をとりバークレイ、リッチモンドを抜けて橋を渡りUS101を南下してゴールデンゲートブリッジで通行料金を払おうとすると驚いたことにToll Chargeが$5に値上げされていた。

サンフランシスコ国際空港は長年のうっとぉしい工事が終了し、空港エリア一帯を循環するモノレールが完成し、世界でも有数のインテリジェントな空港として生まれ変わっていた。

ANA007便にてサンフランシスコより帰国・・・

FTBサマリー

総飛行機代  \152,200

総宿泊費  $305.37

総レンタカー代  $537.11

総ガソリン代  $77.86

総走行距離  1567マイル

総Toll代  $39.8

総目撃したゴジラのヒット数  6

総20マイル制限のスクール区間を35マイルで走って警察からあやうくチケットを切られそうになった回数  1

今回訪問した州、および地域 ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルバニア、デラウエア、

              メリーランド、ワシントンDC、イリノイ、、ケンタッキー、オハイオ、

              ワシントン、カリフォルニア

今後の活動予定 鋭意検討中!

協力 ANA、Hilton HHonors、Days Inn、Motel6